『ここに神は見当たらない』
孤独。最初に孤独を感じた。冥い世界に放り出された瞬間、私を包み込んだのは果てない深淵だった。砂漠に撒かれた一握の砂、或いは一滴の水を幻視した。足場の無い、不安定で、心を酷く掻き乱す空間。自分が……いや、人類が如何に小さな存在であるかを実感させられた。奇妙なことに、世界を遠く離れれば離れるほど、故郷の思い出ばかりが私の思考を支配するのだ。クルシノの、あの懐かしい風景がありありと思い浮かぶ。懐かしき我が家に、懐かしき我が家族。インテリを気取っていた大工の父と厳しくも優しき母。いつのまにか視界には涙でできた球体がプカリと浮かんでいた。不意に、誰かに呼ばれたような気がして辺りを見回した。どんなに目を凝らしても、水玉の浮かぶ視界には瞬く星たちばかり。静寂だけが世界を包む全て。
目の前の蒼き花嫁は、何も言わなかった。
神よ。貴方は幻想となってしまったのか――。
◆ ◆ ◆
「やーけた焼けたっ。た、け、や、ぶ、やけたっ!」
夕焼けは遥かな山の稜線に隠れ、影と影とが手を引き、長く、永く。黄昏。世界を包むのは唯一色。燻れる黄金色の世界。少女の影一つ。輝夜は永遠亭の前で童のように飛び跳ね、物騒な歌詞を口ずさんでいた。跳ねるたびに、絹糸のような艶やかな髪がくたびれた陽光に解けて黒を落とす。
「まだかなまだかな~。人里の、もこたんまだかなっ!」
殺し合いをする程度の絆。殺し殺される仲。2人を呼びあらわすのはそんな言葉だった。しかし今、輝夜は頬を紅に染め、殺し焦れる相手を待つ。まるで想い人を待つかのような輝夜の様子に、竹と竹の隙間から盗み見をしていた2匹の兎は思わず目を疑ったと言う。
宵闇が黄昏を喰み、夜の帳が静かに降りてくる頃。遠くに人影を見つけ、輝夜は大きく手をふった。
「おおい。こっちよぉ!」
2つの人影は肩を大きく揺らしながらゆっくりと輝夜の前までやってきた。
「急かさなくても良いだろ? そんな莫迦みたいに手を振らなくてもわかるよ」
「だって……迷ったらヤじゃない?」
口先を尖らせ、人差し指と人差し指とをツンツンとつつきながら、上目遣いに輝夜は言った。妹紅はくしゃりと輝夜の頭に手を置き、恥ずかしげに視線を逸らしながら言う。
「何千、何万と通いなれた道だよ。……迷うものか」
「もこー!」
「うわっ。こ、コラッ! ひっぱるなって」
輝夜は目を輝かせ、頭に置かれた妹紅の手を掴むと、そのまま腕を引っ張りながら嬉しそうに駆け出す。勢いよく駆け出し、案の定バランスを崩し、2人で倒れこみそうになるのを慧音が支えた。流石は人里の保護者代表である。
「ご、ごめんなさい」
「ありがとな、けーね」
「いや、なに、構うことは無いよ。そんなことより、こんばんわ、蓬莱山輝夜。本日はお招きいただき――」
「そんなかたっくるしい挨拶なんていいのよ! もこもけーねもあがってあがって!」
笑いながら2人を招き入れる輝夜。太陽は既に完全に没し、満月がゆるりと輝きだしていた。紫雲にかかる月夜。永遠亭の日は暮れる。
◇ ◇ ◇
他愛も無い話で盛り上がり、廊下をぎぃぎぃと響かせて3人は歩く。あまりにも良く響くものだから、慧音は今度来るときは腕利きの大工でも紹介してやろうと心密かに誓った。角を曲がったところで奥から割烹着姿の女性が顔を覗かせる。こんな格好をする人物なんて、永遠亭には一人しか居ない。永遠の付き人、八意永琳である。
「あら、ようやく来たわね。2人とも」
「こんばんわ、八意永琳。今日は……。む、堅苦しい挨拶は抜きだったな。よいしょっと」
慧音はいつものように挨拶をしかけ、輝夜のジトリとした視線を感じると軽く肩を竦め、代わりに大きな瓶を取り出して永琳に渡した。
「保健の永琳先生に、人里の名蔵からだ。おかげさまで娘は元気になりましたってな。こんな上等な酒、滅多に呑めないぞ」
「あらまぁ。ありがとう。早速今夜使わせていただきましょうか」
永琳は両手で瓶を抱えて微笑みながら言った。笑顔と酒瓶に割烹着が映えている。
「妹紅、言われたとおりに仕込みはしておいたわよ」
「さんきゅう、永琳。どれ、行きますかね。輝夜、またあとでなー」
「ばーい。けーね、行きましょうか」
「ん、ああ」
永琳に連れられて姿を消す妹紅。別段気にも留めず、輝夜は手を振って見送る。
「けーね。私ね、英語上手くなったわよ」
「ふむ、だったら今度は輝夜に授業を頼もうか。流暢な英語をよろしくお願いします、プリンセス」
「あいきゃんのっとすぴーくいんぐりっしゅ!」
「……」
「どう? どう!?」
「のーこめんと」
「ちぇー」
きゃいきゃいと次から次へ話題を変える輝夜。月の姫も今や自分の大切な教え子。教え子の成長に、思わず慧音の頬が緩む。
◇ ◇ ◇
「うにゃっ。な、ま、また負けたー。私のチャイコフスキー」
「けーね弱いー」
「お前が強すぎるんだろっ! 英語は苦手なのに、こういうのは大得意なんだよなぁ……」
「そりゃそうよ。一日40時間以上鍛錬を積んでるんだから」
「は、反則だっ……!」
2人は炬燵に浸かり、ゲームに興じていた。様々な音楽家たちが大乱闘な戦いを繰り広げるゲームだ。人里で人気を誇り、一時期は品薄で手に入らなかったこのゲームも、兎達の地道な努力のおかげで発売日に永遠亭にやってきたのだ。どちらかといえばパワー型で一撃必殺を好む慧音の愛機はチャイコフスキー。範囲攻撃のくるみ割りドールに、当たれば大きいピョートル砲。威力と同等に大きい隙が生まれてしまうのが欠点である。対して輝夜の愛機はテクニカルな攻撃を得意とするベルリオーズ。地面設置型の幻想交響曲や、自機突撃タイプの必殺技、フランスディスフランを巧みに使い分け、慧音を圧倒した。
「く、くそっ! もう一戦!」
「あらあら、言葉に品がありませんわよ、けーねセンセ?」
「う、うるさいっ!」
「五重奏で返り討ちにしてあげるわっ!」
アーティスト・ファイトの掛け声が上がり、戦いの火蓋は切って落とされた。開始からチャイコフスキーは体育座りになり、口を大きく開けた。ピョートル砲の溜めポーズだ。ふよんふよんという効果音と共に、チャイコフスキーの口元に光が収束する。
「だから隙だらけなのよっ!」
普通は地面に設置して相手が踏むのを待つ技である幻想交響曲。しかし、輝夜の操るベルリオーズは二段ジャンプでチャイコフスキーの真上まで跳ぶと、あろうことか幻想交響曲を投下した。奇策中の奇策である。当然、溜め中のチャイコフスキーは避けられるはずも無く、豪快な不協和音と共に一撃で画面外まで吹き飛んだ。戦闘開始から僅か20秒。文字通り、秒殺である。
「ぷしゅー。まーけーたー」
「まだやる? なんなら私の難題賭けても良いわよ」
輝夜がそういうのは自信の表れである。慧音では輝夜の相手にもならない。そういうことだ。
「もう結構。何度やってもお前には勝てそうも無いよ。私の仇はきっともこがとってくれるハズだ!」
慧音はコントローラーを投げ出し、んっ、と大きく伸びをして両腕を炬燵に突っ込んだ。勝つか負けるかの勝負は2人を満足させた。胸を高鳴らせてくれるものならば十分に弾幕ごっこの代わりとなりうるのだ。輝夜と慧音の勝負も、スペルカードルールという遊戯の延長でしかなかった。いささか力の差がありすぎではあったが。
「しかし、何もしなくて良いって、良いなぁ……」
テーブルの端に顎を乗せながらしみじみと呟く。
「でしょでしょ?」
「たまには、な。輝夜みたいにいつも何もしないと、きっと私は気が狂うよ」
「酷い言い草ね。これでも色々忙しいのよ。今日のご飯はなんだろなぁ、とか。けーねが腕を炬燵に入れるから隙間が空いて寒いなぁ、とか」
「しれっといやらしいな、お前。いてててっ、コラ! 足の指で抓るな」
◇ ◇ ◇
「おまっとうさん~」
「お待たせしました」
2人の声と共に障子がガラリと開く。大きな鍋つかみを装着し、用途に見合った鍋を掴んで立っている妹紅と御櫃を抱えた永琳。妹紅は髪を束ねてポニーテールにしている。鍋に髪が浸からないようにという配慮なのだろう。2人とも割烹着姿が様になっていた。輝夜と慧音は拍手で迎える。
「きゃー。待ってました~!」
「お、できたか」
蓋と鍋の隙間から蒸気が昇り、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。途端、ぐぅと誰かの腹の音が鳴った。4人はお互い見つめあう。暫くの沈黙の後、恐る恐る慧音が手を挙げた。
「……あの」
気まずい雰囲気が小さな部屋を包み込んだ。
「その……」
「……くくっ、あはははっ! やっぱり最初はけーねだったわ! ホラ見なさい永琳。私はそんなにがっついてないわよ!」
自慢げに勝ち誇る輝夜。よほど嬉しかったのだろう。小さな胸を大きく張る。と、きゅるきゅる可愛らしい音が部屋に響き渡った。
「……輝夜」
慧音が手を挙げたときよりも数倍気まずい空気が流れる。世界が凍りつくこの一瞬は永遠にも等しい。
「こほん……いいから準備。もこも鍋持ったまま突っ立ってないでさっさと置きなさい」
「あ、ああ」
再び時は動き出した。輝夜の指示で永琳は御櫃をテーブルの脇に置き、椀と箸を棚から取り出した。輝夜はその間に慧音から受け取った布巾でテーブルを拭き、真ん中に鍋敷きを置く。囲炉裏にかけなくても妹紅の火がある。つくづく鍋向きの能力だなと慧音は思った。
「今日は鶏のもつ鍋、それに大根、白滝、竹輪に巾着。おでんの具材を一緒に煮込みました、もこアレンジ~」
「鶏のもこ鍋ね!」
「もこ鍋か。アレンジするところを間違えると猟奇的だな」
妹紅のもつ鍋という不気味なフレーズが一瞬頭を過ぎる。妹紅は嫌な妄想を払うように頭をブンブンふった。纏めていた髪がペシペシと自分の顔に当たる。
「けーね! 縁起でもないこと言わない」
輝夜が慧音を叱った。珍しく正論を吐いて怒る輝夜に慧音は唖然としてしまった。しかし、そのすぐ後に妹紅を美味しくいただくのは私なんだからとのたまったので軽く頭突きしてやった。頭突きは永琳にも認められている蓬莱山輝夜に対する懲罰の一つである。
「うゅ。……いたい」
「当然だ」
「さあさ、2人とも、バカなことしてないでいただきましょうか」
「そうだな」
4人はそれぞれテーブルに座り、大きくいただきますの声を上げた。
◇ ◇ ◇
出汁のよく染みた大根を輝夜が齧る。大きく口をあけてみたものの、姫様育ちの舌は鍋の熱さに耐え切れないようで、フーフー、ハフハフと一生懸命に息を吹きかけて冷まそうとしていた。
「お前なぁ」
隣で自分の分を取り分けていた妹紅が呆れて輝夜に言った。
「そんなにいっぺんにほお張ろうとするからいけないんだよ」
「だって、美味しそうじゃない!」
「熱くて食べられない、そんな時はな……」
妹紅は自分の椀に取り分けていた大根を箸で小さく切り、輝夜の口元に運ぶ。
「むぐむぐ」
「こうやってちょっとずつ口に運ぶんだ。……どうかしら?」
「美味しいわ。とっても」
にへら、と表情が崩れ、無防備な笑顔を見せる輝夜。妹紅は思わず照れ隠しに箸を齧り、それがさっきまで輝夜が咥えていたものだと気がつき、更に頬を紅に染める。その様子を見た輝夜がもこはきっと良いお嫁さんになるわねぇ、なんて言うものだから妹紅の紅に更に磨きがかかる。妹紅の能力で温めている鍋はグツグツと嫌な音を立て始めていた。
「あちちっ。妹紅、ちょっと火力弱めろ!」
「あ、ああ。ゴメンゴメン」
そうして鍋を囲み、和気藹々と時は流れる。
◇ ◇ ◇
「なぁ、けーね。美味しい?」
妹紅はソワソワしながら慧音に聞いた。鍋を囲む4人の中では一番味にうるさいと評判の慧音だ。以前、妹紅と2人で入った茶店で塩味のバニラアイスが出てきたことがあった。慧音は額に青筋を浮かべ、迷うことなく女将を呼びつけたのだった。以来、妹紅は慧音に敬意をはらっている。邪道を一切認めない性格は、評価する者としては最高の適正だった。少しばかり頭が固すぎるのはご愛嬌だ。おかげさまで頭突きも痛い。慧音は鶏のモツを静かに咀嚼する。
「やっぱり、妹紅の作る料理は美味しいな。どうしても料理の腕だけはお前に勝てそうも無いよ。……どした? やけににやついて」
「へへっ。私さ。……私はさ、ずっと1人で生きてきたから。こうして誰かに私の作ったものを食べてもらうってことが無かったから……」
だから嬉しいんだっ、と笑った。感情が料理に彩りを加えるというのならば、妹紅の笑顔こそが究極の調味料なのではないかと慧音は思うのだった。
「もこー……。だったら、これからもよろしく、な」
慧音はポリポリと頬をかきながら妹紅に言う。
「けーね。……ああ、お前のためなら何だって作ってやるさ!」
2人を取り巻く空気は、鍋より熱い。そのやりとりを眺めていた輝夜が永琳に話しかける。
「ねぇ、永琳。私もお料理、やってみたいな。自分の作ったもので人を笑顔にするって、どんなに素敵なことかしら」
「なら、まずはコントローラーよりも重いものを持つところから始めましょうか。大丈夫です、貴女は才能があるから。20000年ほど修行を積めばそこそこの腕前になるはずですよ」
「くぅっ……。既に5桁。道のりは遥か遠く……」
「私が教えてやろっか?」
煮玉子をほお張った妹紅が輝夜に提案した。
「もこが?」
「そうだな。うん、まずは野兎の捌き方から教えてやるよ」
「そうねぇ。幸いにして練習台は沢山ありそうだし」
そのセリフに部屋の外がざわついた。永琳は腕まくりをして乗り気な輝夜を諌めた。こんな所で永遠亭の兎を絶滅させるわけにはいかなかった。何よりも、自分の実験台が減ってしまう。慌てて話題の変更を試みる。
「そそ、そんなことより! このお鍋、美味しいですね、輝夜?」
「ええ、美味しいわね」
2人でニコリと微笑む。能面のように張り付いた笑顔がいかにもわざとらしい。
「ああ、そうそう。思い出した。料理の隠し味は愛情って言うじゃない?」
「はて、そうでしたかね」
永琳はひとまず輝夜の興味が移ったことにほっと胸を撫で下ろした。
「言うのよ。こんなに美味しいお鍋だもの。きっとこのお鍋にはもこの愛情が沢山詰まってるんだわ!」
一際大きな声を張り上げた輝夜のセリフで妹紅が赤くなる。
「な……わ、私はただ! 私の作ったもので喜んでくれる人が居るからっ……!」
「もこたんかわいー」
突然、ゴォッと凄まじい音がして鍋から炎が吹きだした。炎の両翼が備わり、今にも羽ばたきそうである。
「鍋が火達磨に!? おい、もこー! やめるんだ!!」
◇ ◇ ◇
「御馳走様ー。美味しかったわぁ、もこー」
「はいよ、お粗末様。残りは雑炊にしますかね」
よいしょっと鍋を持ち上げ、妹紅は襖の奥に声をかける。
「おい、お前らも隠れてないで出てきなよ。一緒に食べよ」
妹紅の声に襖がガラリと開いた。ボロボロのブレザーを纏った兎と無傷の白兎の二羽が現れる。
「あら、生きてたの?」
「え、えへへへへへ。ひ、酷いですよ師匠。トラップしかけまくりのモンスターハウスじゃないですか!」
「律儀に全部ひっかかったのには困ったけどねぇ」
「てゐは何で一個も引っかからないの!?」
「なんでウサかねぇ?」
「なんでウサかしらねぇ?」
てゐはわざとらしく応え、ニヒヒと笑い、輝夜の横にもぐりこむ。輝夜はてゐの頭をわしわしと撫でながらウサウサ言う。妹紅はその様子を横目に鍋を台所へ持っていくのだった。
「それじゃあ、お雑炊待ってる間、ゲームしてましょう」
「姫だからって、手加減はしないよ?」
因幡てゐは、蓬莱山輝夜にとって、アーティスト・ファイトでの好敵手だった。輝夜以上にテクニカルな技を得意とするてゐの愛機はドヴォルザークだ。時限式の誘導必殺技、「新世界より」には流石の輝夜も手を焼く。蒼の炎がもたらす障害物破壊は対処がめんどうだ。それに、僅かなアメリカ風が実に厄介である。
「上等よ! 愛玩動物にだって全力を尽くすのが姫としての礼儀だもの」
「私は別の意味で哀願、ですが……ししょー、赤チンください。赤チン」
「痛いの痛いのとんでけぇ」
永琳は冷たい笑いを浮かべながら鈴仙を処置する。
「あれ……。なんかボタンガチャガチャしてたら変なキャラが。これってZU――」
「それは反則! もこー! はやくきてぇー!!」
少し前まで静寂に包まれ時の止まっていた永遠亭。いつしか時間は動き出し、止まっていた時を取り戻すかのように、ぽっかりと抜け落ちてしまった日々を取り戻すかのように。……しかし、ゆるやかに時は流れる。満月は、静かに天幕の真上に昇っていた。
◇ ◇ ◇
戻ってきた妹紅と輝夜のコンビネーションプレイにより、てゐとついでに鈴仙は倒された。流石は私達っ、と腕を交差して勝利のポーズをとり、大きく胸を張る2人だったが、飢えた兎たちにより雑炊はいつの間にかペロリと食べられていた。その怒りを鈴仙にぶつける2人だった。とばっちりを喰らうのは決まって鈴仙である。そうしてやいのやいのと騒がしい夜はそれでも時間を止めることなく、やがて静謐がやってくる。
生まれながらの姉妹のように手を握り合って眠る輝夜と妹紅。慧音はタオルケットを2人にかけ、音を出さないように静かに障子を閉める。月光が抜き出す半人半獣の姿は、幸せに満ちていた。床板を軋ませないように忍び足で歩き、角を曲がると一息ついて腰を下ろす。脚を縁側で投げ出すと、沈みかかった満月を眺める。
「ふぅ……」
「あら、こんなところに居たの?」
「ええ」
「どうだった?」
「久々にはしゃぎ過ぎて、少々疲れました」
「ふふ、そうね。あんな喋り方する貴女なんて久しぶりだものね」
永琳には見抜かれていた。慧音がわざと2人の前では昔の口調で話している理由。ただ単に、取り残される自分を感じたくないから、少しでも昔のままの上白沢慧音で居たかったから。1人の女の、なんてことはない我儘。永琳は咎めることも無く、無理なんてしなくて良いのに、と徳利を取り出した。
「いつも頑張ってるけーね先生に、保健の八意先生からよ。何でも人里の名蔵のお酒でね……」
ええ、知ってますよと笑った。2人で盃を交わし、のんびりと月を見上げる。見上げるにはやや沈みかけた真円。
「そういえば、貴女。満月なのに――」
慧音は永琳に顔を向け、寂しそうな微笑を返して言う。
「あの頃のような力は。……実はもう殆ど残っていないのですよ」
「そっか。残念。……貴女のあの髪の色、好きだったのになぁ」
「僅かに翠色に染まっているでしょう? 角だってホラ。こんなにちょびっとになってしまいました」
手で梳いた髪はふぁさりと月光に解ける。蒼に混じる僅かな翠。永琳はそんな彼女の仕草を肴に酒を呷る。
「綺麗ね」
「そうでしょうか?」
「ええ。昔の貴女も綺麗だったけれど、今の貴女も美しいわ」
「……照れます」
「うふふ。やっぱり、歳を重ねるって素晴らしいことだと思うの。自分の、生きた証をしっかりと姿に刻む。だからきっと、貴女の死に顔は、貴女の人生の中で一番美しい」
「思いっきりひいても良いですか? うわ、気持ちわるって」
「いけず」
「……ま、まぁ。褒め言葉として受け取っておきますね」
クスリと笑い、一口。永琳の白い喉がコク、と鳴った。
「そうだ、昼間の子。永琳センセー、赤ちゃんってドコから来るんですか? なんて質問した子が居てね」
「ぶっ。ま、まぁ。保健の先生で美人ですから、悪戯盛りの子供ならしようが無いかもしれませんが……どうしたんです?」
「教えてあげたわ。手取り足取り、図解入りで懇切丁寧に」
「ぶほっ。ちょ、ちょっと! 貴女まさか喰っちゃいないでしょうね!?」
「まさか」
「青田買いはいけませンよ。うん」
「くす、声が裏返ってるわよ。けーねセンセ」
◇ ◇ ◇
「莫迦」
閉められた障子に思わず呟く。寝床が変わっただけでしょう。だから何も変わらない。笑って声をかけてあげようと思っていたのに。どうしても言えなかった。私の手を握り、小さな寝息を立てている片割れ。この手を振り解いてまで、追いかけることはできなかった。
「莫迦。私の……莫迦」
私の感情を悟ったかのように、握られた小さな手にきゅっと力が入る。わかってる。私はこの子を置いてどこにも行かない。生まれたての雛のように、存在自体がどうしようもなく不安で、けどせめて、寂しさを紛らわそうとして。貴女の存在は確かなものだと信じるように。私たちの存在は確かなものだと祈るように。私は手をぎゅっと握り返した。
「莫迦……行きなさいよ。須臾を見過ごすつもり?」
月の姫は笑う。
◇ ◇ ◇
「貴女……縁談は?」
保健の話で思い出したのだろう。永琳が慧音に聞いた。慧音はコクリと喉を鳴らして酒を押し込むときっぱりと言い放つ。
「断りましたよ、全て」
「まだ子供を生めなくなる歳でも無いでしょうに」
空の盃をくるくると回し、地面に視線を落としながら慧音は言った。視線の先には、月の光に伸びた竹の影。
「人間と結ばれて、白澤としての血は薄まり、いつしか月や星を眺める程度にしか力を残せなくても。それでも良いかなと思ったことはあります。末代まであの子を見守りたいと思ったこともあります。けれど……そうすると妹紅は、私と、私の子たちと何度も何度も別れを経験しなければならなくなる。悲しすぎるじゃないですか。誰が慰めてやると言うんです」
「私たちが居るわ」
永琳は月の光を湛えた瞳を、慧音に向けた。
「生きる私たちと生きた貴女たち。貴女には。……上白沢慧音には、人として生を謳歌してほしいのよ。これは私の願いだし、輝夜の願いでもあるわ。多分、妹紅も同じ。だから、女であることの悦びも覚えなさいな」
「まぁ」
盃に口をつけ、空だということに気がつく。慧音は静かに瞳を閉じて言った。
「考えておきます。はい」
◇ ◇ ◇
「地球は蒼いヴェールをまとった花嫁のようだった」
「また結婚話を……って、1961年、ガガーリンの有人宇宙飛行ですね」
「そう」
「初めて宇宙に踏み出した彼は、どんな気持ちだったのでしょうね」
「不安と孤独、それに恐怖」
それは、計らずも永遠の生命を得てしまった蓬莱人と通じるものが在るのではないか。人類の偉大なる第一歩を踏み出したガガーリンの心情を、永琳は自分たちに重ね合わせて吐露しているのではないか、と慧音は思った。果てる恐怖と果てない恐怖。どちらが重いかは明らかである。
「あの時、彼に後ろを振り向く勇気があったなら。きっと彼は神を……幻想を信じたはずだわ。紅き夜には紅い月。春の遅い夜には紫の月。華咲き乱れる夜には黄金色の月。くるくる、くるくると表情を変える月が、初めて自分の世界を共有できる仲間ができたと、嬉しそうに彼の背中をみつめていたのだから」
外の世界のことを、まるで見てきたかのように懐かしげに語る永琳。慧音は不思議なことだとも思わなかった。2人でぼんやりと月を眺める。欠けることの無い月は銀色。
「月が暮れるわね」
慧音は盃を傾け、怪訝な表情で永琳を見つめた。永琳は朝焼けに少しずつ力を失っていく月をじっと見つめていた。やがて、慧音の意を汲み取ったかのように、ポツリと呟いた。
「良いのよ。暮れる……で。故郷は遥か遠く。こんな夜だもの。想いを馳せても、罰は当たらないわ」
「そう……暮れるんですね。満月の夜は」
朝焼けに包まれて、優しき月が暮れる。
数十日後の再会を約束して、懐かしき月が暮れる。
永遠の月人と永遠の地上人の、ささやかな夜は幕を閉じた。
◆ ◆ ◆
私は1人、永遠亭を後にする。明けの明星がチラチラリと朝焼けに輝く。来たときとは違う、1人分の肌寒さが堪える道のり。今日から妹紅は永遠亭で暮らす。輝夜と永琳と、兎達に囲まれて。私に残された時間はもう、残り少ないから。その時が来ても、妹紅が寂しくないように。
ありがとう。家族になってくれて。
ありがとう。だから妹紅をお願いします。
あの子を幸せにできるのは、私じゃないと思うから。
けれどもせめて、ほんの僅かな時間を一緒に居られたことを。
幻想の郷で、貴女に出会えたことを感謝します。
◆ ◆ ◆
視界は涙でぼやけ、朝焼けが照らす道をぐにゃりと歪める。軽いはずの足取りは鉛のよう。やがて一歩も踏み出せなくなってしまい、童のようにわんわんと泣き喚く。
だって、そんなの悲しすぎるから。永遠の別れは近いのだから。距離を置いたのも、来るべき別れの予行に過ぎないのだから。なのに何故、涙で彩られた視界にあの子がいるのだろう。慧音と力強く叫んでいるのだろう。私に抱きついてくる温もりは確かに本物で。トクン、トクン、と脈打つ命は確かに本物で。私と同じように泣きながら、バカバカと叫んでいる。私は、彼女の背中にそっと手を回し、優しく抱きとめた。永琳も、輝夜もこうなることを知っていたのだろう。1人で思い悩んで、思いつめて。導き出した答えは間違っていた。私は莫迦だ、教師失格だ。
愚かな願いだとはわかっている。だけど、もう少し。もう少しだけは、貴女を照らす月であり続けたい。貴女の帰りを待ち続ける母でありたい。突然、永遠の生命という果て無き深淵に放り出された貴女を。孤独な宇宙飛行士をこの腕に抱いていたい。
こんな我侭、許されますか?
『嗚呼、神さま』
私は思わず呟きかけた言葉を飲み込んだ。
沈黙だけが世界を包む答え。
こんな素敵な幸せ、永遠に続けば良いのに――。
お見事です。
つかの間幸せを、彼女たちに。
氏のお話を読んでまず言葉に詰まりました。
前半の、家族みたいに暖かい永遠亭の空気にほのぼの。
なんだかよくわからないゲームに興じる姫さまや慧音が魅力的でした。
姫さまの足指抓りが一番可愛かったです。
後半、慧音と永琳が二人で語りだしてからは空気は一変。
永遠と、永遠でない人間の会話が素晴らしかったです。
ここでの会話がさよならリバーサイダーの慧音に
ちゃんと引き継がれているのがまたなんとも言えない。
慧音が最後に望んだ言葉が切なく、胸を打ちました。
素晴らしい物語の紡ぎ手に感謝を。
彼女たちには幸せな物語を。
…で、何故か「もこもけーねも」を「もこもこけーね」と読んでしまった。
眼科行ってくる。
以来。ものすごくもったいない誤字だと思います。
……ごめん、誤字指摘した分何か感想書きたいんだけど、何も書けません。
ありがとうございました。
ご指摘有難うございます。
早速もったいないお化けに叱られてきますね。
他の皆様方も感想ありがとうございます。
幸せって良いですよね。幸せ。
何が彼女にとって幸せなのでしょうか。
もう少し闇雲に探してみようと思います。
言える事はこれだけ。
もこ鍋と聞いてもこーが鍋の中に収まって寝ている様子を想像。
素敵なお話でした。
彗音の切ない決心。それを支えてみせる永琳と輝夜。
でも本当はどうあるべきか、どうなるかをちゃんと心得ていて‥。
永遠の中では刹那に過ぎないとしても、妹紅と彗音が今ひと時の幸せを満喫できますように。
素晴らしいお話を読ませて頂いた事に心からの感謝を。
で、一つだけ疑問が‥、
> 様々な音楽家たちが大乱闘な戦いを繰り広げるゲーム
これ本当にあるのですか? ぜひやってみたいのですが。
自機はぜひラヴェルかボロディンで♪
やっぱりこのめんばーがすきだ。
けいねがせつないです。
ただそれだけしかいえない。
ええい、この涙、くれてやるわ。
立て続けに慧音で感動モノ二作は反則だと思う。
素敵でした。
この2人のは特に重い…。
だからこそ、こうも感動するのか。
>一日40時間以上
ちょ、姫様、何という能力の無駄使いww