覚悟なんてありはしなかった。薄ぼんやりとした雲の上を叩いて進むように、ふわふわと自分は生きていくのだろうと、よくわからない理解はあった。雲の隙間から望む太陽の光、自分の影しかない境内の真ん中、ふと振り返ると、影はいつの間にか二つになっていた。
やんわりと日差しを受ける日傘と、ふわりと広がった気品のあるドレス。長い髪から香ってきたのは薔薇か何かの香りだろうか。
「あなたが」と屈みながら彼女は言った。「新しい、博麗の巫女かしら」
「博麗霊夢よ」
言葉は言わず、それで、と相手の反応を待つ。あらあらと、驚いたようにも戯けたようにも取れる素振りをしてから、恭しく彼女は名を述べた。
「私は紫。八雲紫というわ」
「あら、貴方がそうなの」
知っているの? と紫は尋ね、もちろん、と霊夢は頷いた。
○
目覚めはいつもはっきりとしない。夢の残骸がまだ身にまとわりついているような気がして、追いかければ掴めてしまうようにも思える。けれど、ぼんやりとした頭がいきなりに疾走してくれるわけもなく、いつの間にやら夢は雲散霧消と成り果ててしまう。絶対に追いつくことのない朝の追いかけっこ。
上半身をゆっくりと起こして、勢いのままに腕を伸ばす。
「おはよう」とスキマからひょっこり顔を出して、紫は言った。
「おはよ。寝起きを襲撃するなんて趣味が悪いわよ」
「美しい花を眺めたくなるのと同じように、霊夢の可愛らしい寝顔を見たくなっただけよ」
花はそこまで率先して見たいとも思わないけれど。そんなことを呟きながら、スキマから姿を現す。いろいろと返す言葉を思いつきそうになっても、寝起きの頭ではあまりよい形になってくれない。
「着替えるから、お茶でも入れておいてくれると嬉しいんだけれど」
「妖怪使いが荒いわね」
「まさか、ただで寝顔を拝めるとでも?」
ようやく回ってきた頭から言葉を捻り出し、微笑と共に紫に投げかける。紫は二、三回やれやれといった風情に頭を横に振ってから、部屋から出て行った。音もなく戸が閉まり、朝の静寂が今更ながらに訪れる。あくびが出ても、もう眠気は残っていなかった。
いつもの巫女装束を身に纏って居間に足を向けると、紫は縁側に腰を掛けてぼんやりとしていた。お盆に載せられた二つの湯飲みから、ふわふわと白い湯気が昇っている。
お盆を挟んで隣に座ると、無言のままにお茶が差し出されてきた。
「これ、私が一人で食べるつもりだったんだけれど」
お茶請けに用意されたらしい洋菓子を指さしながら、霊夢は言った。
「まさか、ただでお茶が出るとでも?」
「よく言うわ」
意味のない戯れ言をひとしきり楽しんで、湯気の立ち上るお茶に口をつける。自分が入れた時よりも美味しいわけでも、美味しくないわけでもないが、何処か味が違う気がするのは気のせいなのだろうか。
「それで、どうしたの?」
紫は真っ直ぐに前を見たまま、霊夢にそう問うた。置かれた湯飲みがことりと音を立てて忍ぶように消えていった。
「何のこと?」
「あなた、ここのところ宴会に来なかったでしょう。霊界やら吸血鬼の館で最近あったじゃない」
「面倒だっただけよ。数回来なかっただけで騒がれるのも心外だわ」
「何だかんだで宴会になればいつでも来ているもの。それに、あなたは中心だからかしらね」
思わず、霊夢の口から溜め息がこぼれる。自分のことが一番とする連中ばかりの中での『中心』に何の意味があるだろう。あっちこっちから引っ張られて、へし折れてしまうのが目に見えている。
「宴会によく顔を出している、っていうのは否定しないけどね。厄介ごとになったら面倒だから、顔を出さざるを得ないのよ」
「でも、ここのところは来なかったのね」
「だから、面倒だっただけよ。何もかもする気が起きなかっただけ。今だってこの紅白を脱ぎ捨てて、布団の中に戻ってしまいたいわ」
「それなら」と紫は笑った。「やめてしまえばいいわ」
微笑みを引き金に、霊夢の足下から床の感覚が消えてなくなり、空に浮くような一瞬の浮遊感が全身を包む。考える暇などなく、瞬き一つの間にスキマをくぐり抜け、畳の上に正座で着地する。
ぐるりと辺りを見回して、再びの溜め息。スキマから出る一瞬、別の影がスキマに落ちていくのが見えたが、たぶん従者の二人だろう。自分と同じように前触れも何もなかっただろうから、気の毒というほかない。
「溜め息をつくと、その分だけ幸せが逃げていくらしいけど」
「あのね」
誰のせいだと思っているのか。
「あんたの家に来てどうするのよ」
「何も。何もしなければいいのよ」
それが望みでしょう、と紫は笑い、霊夢はまたしても溜め息をついた。
○
「藍さまー」
「ここだよ、橙」
衣類をぱたぱたと機械的にたたみながら、わさわさと九本の尾を振って呼びかけに答える。軽い足音と、尻尾に優しく掴まってくる温かい感触。
「どうしたんだい?」
「あ、えと、お掃除終わったので、藍様のお仕事を手伝いに来ました」
「ありがとう。橙はいい子だ」
そう言って前に顔を出してきた橙の頭を、藍が撫でてやろうとした時だった。訪れるはずの感触はなく、自分の手は宙を空振りしていた。慌てた時には已に遅く、二人揃って主人の展開したスキマの中に飲まれていた。
「らんさまー!」
「ちぇーん!」
○
八雲邸に着いてからは、霊夢は本当に何もしなかった。
紫とひたすらにお茶を飲みながらぼんやりとして、時たまにぽつぽつと話をする。じゃんけんで負けてお茶のおかわりを淹れにいったり、食事の支度を行う以外には、文字通りの何もしない生活。神社の生活もそれほど忙しいものではないが、ここまで呆けっとしてはいられない。紫の操った境界があるのか、分別を知らない低級妖怪が襲ってくる心配すらない。
冬が来たら、一緒に冬眠してしまう? なんていう紫の巫山戯た言葉さえ、不思議と魅力的に感じた。
「ねえ、霊夢」
数日前と同じように、煎餅を口にくわえてぽかんとしている霊夢に向けて、紫は問うた。
「それで、あなたどうしたの?」
いろいろと言葉の足りない、だからこそ意味のある問い。ぱりぱりと煎餅を咀嚼して、霊夢は首を横に振った。
「本当に、何もかも面倒になっただけよ。神社でぼんやり巫女さんやってるのも疲れるわ」
「妖怪の前でそんなこと言っていいのかしら」
「あんたなら別に構わないわ」
「それは光栄ね」
「光栄に思ってちょうだいな」
本当に、ただ、ぼんやりと。そんな生活は、自分が博麗の巫女である限りはありはしない。今更に覆しようのない歴史の積み重ねであることぐらい、十分に理解している。日がな神社でお茶を飲んでいるのだって、先代からずっと続いてきたことなのだろう。巫女が博麗神社から離れるのは、阿呆な妖怪が異変を起こしたときだけ。大結界の要たる巫女が、うろちょろとしていても危なっかしいだけだ。
「そういえば、紫って今までの博麗の巫女とも会ったことあるのよね」
「何人かはね。そこまで交流があったわけではないわ」
「今みたいに神社にちょくちょく顔を出していたのかと思ったけれど、違うのね」
「あなたのような博麗の巫女は、私の知っている限りでは一人もいないわよ」
「それ、どういう意味かしら」
返答次第では――と、紫の分のお茶請けも食べてしまおうと手を伸ばしたが、スキマに飲まれて手の届かない位置に移動させられてしまった。卑怯。
「あんなに頻繁に妖怪がいる神社なんて、そうあるわけないでしょう」
「私のせいじゃないでしょ、勝手に集まるんだから」
紫はどこからともなく取り出した扇を広げたり閉じたりしながら、くつくつと笑った。仕切るようにぱちんと扇で音を立てて、「間違いなく、霊夢のせいよ」と言葉を紡ぐ。
「あなたが、人にも妖怪にも、随分と好かれているから」
「私が博麗の巫女じゃなかったら、こんなことにはなってないわよ」
「それはそうかもしれないけれどね。あなたは実際に博麗なのだから、そんなことは言っても栓のないことだわ。ああ、こういうことでも、今ままでの博麗と霊夢は違うわね」
「紫、もういいわ。変なこと聞いた私が悪かったわよ」
お茶に手を伸ばそうとすると、またしてもスキマに飲み込まれ手の届かない場所に運ばれる。顔を向けると、紫と真っ直ぐに視線が重なる。
「この私が、誰でもこの家に連れてくると思う?」
「あんたの事情なんて私が知るわけないでしょう。お茶返してよ」
「人であることが煩わしい――境界を操ってでも一生を側にいてほしい、なんて阿呆なことを思ったのは、後にも先にも霊夢だけよ」
真顔で言い切られ、思わず視線を外してしまった霊夢の前髪を、吹き込んできた風がすくいながら通り抜ける。ここぞとばかりのタイミングで元の位置に戻されたお茶が香って、恨みがましく見つめる。
「……あんた、それキャラ違うわ」
「可愛い狼狽が見れたから、何とでも言ってもらって構わないわ」
「勝手に境界いじるのだけは禁止」
「いじらないわよ。それでは、霊夢が霊夢でなくなってしまうもの」
「まったく」
その後の言葉は思いつかなくて、紫の手に軽くデコピンをする。「痛いわ」などと笑いながら言ってくるから、しばらくしつこく繰り返してやる。
「それにしても、霊夢、覚えていないの?」
「なんのことよ?」
「あの日、あなたが私に何を言ったか」
「あの日っていつよ?」
「あの日はあの日」
はあ? と呟きながら霊夢は小首を傾げる。
「あの日は、そうね、私があなたに惚れた日かもしれないわ」
「知らないわよ、そんな日のこと」
「私は知ってるわ、そんな日のこと」
突然、よく聞き慣れた音が響き渡り、空気が振動して家にも揺れが伝わる。紫と顔を見合わせてからふよふよと空に浮かぶと、弾幕を展開している藍と橙の姿が見えた。煙が立っているせいで、相手の姿は判然としない。
紫がスキマを広げ、藍と橙を呼び寄せる。
きょろきょろと把握できない現状を飲み込み、澄まし顔をしている主を見つけると、仇敵を見つけたかのように藍は口火を切った。
「紫様! どうして私達が家に戻ろうとする度に、スキマに落として遠くに追いやったのですか!」
「久しぶりね、藍。あなた、主が睦言を囁き合ってるときに家にいてどうするの?」
「ちょっと、紫っ」
「藍様、睦言って何でしょうか?」
「そ、それはね、橙、えーっとだね」
「そんなことよりも、藍。これはどういうことなの?」
前方を扇で指しながら、紫が言う。
「あ、そ、そうでした。何処の天狗が『博麗の巫女、スキマ妖怪にとらわれる。今までにない形での大異変か?』と、阿呆な見出しで新聞をばらまいたところ、お祭り好きな奴らが霊夢奪回作戦なるものを決行しまして」
「それで、あの状況になっているわけ」
紫の見据える先には、魔法使いや巫女、吸血鬼、鬼に天狗、妖精など、挙げればきりのない数の妖怪と人間の集団がこちらに向けて飛んできていた。
「ねえ、霊夢」
「言っておくけど、私のせいじゃないわ」
「あなた、ちょっとじゃすまないくらい、罪深いわね」
大騒ぎしながらやってくる集団を見ながら、盛大に溜め息を一つ。溜め息をつくと幸せが逃げるなんて嘘に違いなかった。
「でも、どうする霊夢? あなたが本当に博麗も何もかも嫌だというなら、八雲の名をあげて我が家に迎え入れてもいいけれど?」
慌てる藍を無視しながら、からかうように紫は尋ねた。意味はなくて、必要なだけの質問。
「遠慮、しておくわ」
「それは残念」
「一宿一飯なんてものではないけれど、あのお馬鹿たちを鎮めて帰るわ」
「またいらっしゃい」
「どうせスキマで突然連れてくるんでしょうが」
そう言って、霊夢は真っ直ぐに集団に向けて飛んでいく。聞こえるか聞こえないかの刹那に、紫は笑いながらぽつりと呟いた。
「私たちは博麗ではなく、霊夢が好きなのよ」
○
「知っているの?」
「もちろん」
それは光栄だわ、と紫は微笑んで、霊夢もそれに笑って返す。
「あなた、聞いていたよりもずっと綺麗なのね」
「私は妖怪ですから」
霊夢は不思議そうに首を傾げ、そのまま紫に取って返す。
「妖怪も人間も、そんなこと関係ないわ」
「まさか」驚いたように、紫は言った。「博麗の神社でそんな言葉を聞けるとは思わなかったわ」
よくわからないといった具合の霊夢の頭を、屈んで紫は撫でつける。人気のない神社の真ん中、二人の影が一つに重なって伸びていた。
本音も愚痴も睦言も全部受け止めてもらいなさい
霊夢でも鬱になることとかあるんですねぇ
しかしなんだな、俺も最近なにもかもが面倒になってるんだが
スキマ妖怪はなんで来ないんだ
最高!!!
それが最高ゆかれいむ
やっぱり大好きゆかれいむ
おかわりを切に所望するッ!
和む。
続きが欲しくなるいいゆかれいでした
あと一応誤字報告
いじらなわいわよ×
いじらないわよ〇
ですかね?
みんな大好き霊夢、私も好きです。
ゆかれいむ。
なんか、涙が出そう……。