「眠いわ」
「眠れないわ」
相反する二つの言葉が、最近のパチュリーの口癖だった。
思い当たる節は確かにある。読書による夜更かしのし過ぎ、全てはこれに尽きるだろう。だがパチュリーは本を読まなければ生きていけない病気だからこればかりは致し方ない。存分に本を読まなければ彼女の精神衛生上よろしくないばかりか、八つ当たりで小悪魔や紅魔館そのものがとばっちりを受けてしまう事も十分起こりうる。本はパチュリーの知識と魔術を補助すると同時に安全装置でもあるというわけだ。
ならば、夜眠れないのなら昼間たっぷり眠ればとりあえず愚痴は出てこない筈なのだが、肝心の昼間はまどろみこそすれ睡眠には至らず、半端な意識の中でも本のページをめくっている始末。これでは内容の一割も頭に入っていないだろうが、それでも瞼にかかる重力と必死に戦い続けている。
そして夜になれば静かになって読書に向くという理由でやはりページをめくり、熟睡するために必要な時間がまた削られていく。そんな事を何度も繰り返し、パチュリーお得意のジト目はその重苦しさにさらに磨きをかけていた。
もちろん、パチュリーとて何の対策も講じていないわけではない。
直接眠りをもたらす薬には頼りたくなかった。そのような力任せで得られる仮初の安息では根本的な解決にはなりえないと考えていたからだ。だからもう少しソフトな方法を……睡眠を促す香を焚いてみたり、その手の薬草を煎じて飲んでみたり、昼間はできる限り読書に集中して脳を使ってみたり。無理せずできる事だけなら色々やってきた。
だがそれでも症状は一向に改善されず、不機嫌そうな顔つきの日々は続いている。睡眠不足の解消に役立つ本はどこかにあるかしら……と本棚の海原で旅立ち、そのまま本棚のどこかに寄りかかっている事もしばしば。程なくして意識を取り戻した時には目的を忘れ、思い出そうとしてまた意識が朦朧とする。分かってはいるのだがどう足掻いても読書がやめられないパチュリーなのであった。
「簡単じゃないか。体を動かせばいいんだよ」
いつものように図書館を訪れた魔理沙はそう簡単に言ってのけ、今までなぜそんな簡単な事に気付かなかったのか、誰もそういう助言をしなかったのかと言わんばかりの目をパチュリーに差し向けた。眠気覚ましの為に用意したのであろう、出されたコーヒーを口にするが、砂糖が入っていない事を感じるやすぐさま眉をしかめて砂糖を継ぎ足す。
魔理沙と同じ真っ黒な液体を淡々と啜るパチュリーはその滑稽な光景にも眉ひとつ動かさず、眠そうというより今にも眠りそうな目で魔理沙を見る。重そうな瞼のせいでその視線は睨んでいるように見え、普段から彼女が湛えている陰鬱な雰囲気に一層の重みを加えていた。
「面倒よ」
「面倒かい」
「ええ、面倒」
そういえばそうだった。
彼女は紅魔館における我儘の象徴・レミリアとベクトルこそ違え我儘の素質を秘めているのだ。己の要求を押し通すレミリアに対し、他者の要求を撥ね退けるパチュリー。唯我独尊という点ではどちらも変わらない。
もっとも、パチュリーの場合はその性情が明確な言動として表に出る事は少ないが、図書館に引きこもりっぱなしという日常がそれを代弁していた。友人の、メイド長の、使い魔の。彼女たちの助言をパチュリーは真摯に受け止めていないのかも知れないし彼女たちもパチュリーとはそういう者だと半ば呆れている所があるのかも知れない。今やパチュリーに最も深入りしているのはこの他所者、魔理沙というわけだ。
「何も咲夜の仕事を代わりにやってみろとかそこまで無茶な事は言わないさ。でも少しずつでも体を動かして疲れさせれば、ダラダラ夜更かしする気なんてなくなるぜ」
「口で言うのは簡単よね」
「実際に簡単なのさ。どんなに抵抗しても体は正直、って奴だな」
「……じゃあどんな事をすればいいのかしら。私にもできる範囲で」
パチュリーに最も深入りしているのが外部の者である魔理沙であるなら、パチュリーも魔理沙の言動には少なからず興味を抱いていた。
日々顔を合わせている紅魔館の住人たちにはない知識と感性。魔理沙に対するパチュリーの興味は今のところ知的好奇心の域を出ていないし対応を急激に変えるような事もしないのだが、それでもパチュリーは魔理沙の言葉に必ず聞き耳を立てていた。
「無理さえしなけりゃ何だっていいんだよ。最初は軽く散歩してみるとかな。慣れてきたら本の片付けを自分でも少しずつやるようにするとか、それを発展させて身の回りの事は自分でとか……って、おーい聞いてるかー?」
「はっ!?」
肩を揺さぶられてパチュリーは我に還った。
目をしきりに瞬きさせ、口からは悪びれず大欠伸が出る。悪びれないあたりは完全に常習か、あるいは寝惚けているのだろう。
「……私が言った事、覚えてるか?」
「聴覚補助の魔法を展開させておいたわ。私が眠っている間も周囲の音を拾い、いつでも聴く事が出来る」
「そういう所はご丁寧な事で……まあとにかくそういう事だ。気長にな」
砂糖の足し過ぎですっかり甘ったるくなったコーヒーを一気に流し込み、魔理沙は本棚の方へ歩いて行く。
その様子を見送ったパチュリーは自分なりの睡眠不足対策を頭の中で練り始め。
「……zzz」
最初の一捏ねで意識が寸断されてしまっていた。
* * * * *
「おーすパチュリー。調子はどうだ?」
「良くも悪くもないわね。あなたが来たせいで埃が舞い上がったけど」
数日ぶりに訪れた紅魔館で、パチュリーはいつも通りに眠そうにしていた。
魔理沙はパチュリーに急激な変化を求めていない。時間をかけて少しずつ体調を改善させていけばいい。だから、相変わらずのパチュリーを見ても魔理沙は少しも慌てる事はなかった。先日言い聞かせた事をパチュリー自身が理解してくれれば、全てはそこから始まるのだから。
姑みたいな事を言うなよ、などと切り返している間にコーヒーが運ばれてきた。恐らくはパチュリーに合わせて砂糖抜きであろう。明らかに嵩が増えて見えるほど角砂糖を足し、ゆっくりかき混ぜながら魔理沙は甘ったるい一口を啜った。
「どうだ? 私が言った事、実践してるか?」
「この本」
そう言ってパチュリーが差し出したのは、黒のハードカバーを纏った重厚な造りの本。表紙には何も書かれておらず、人を殴り倒せそうなほどの厚みの中身に何が書いてあるのかは全く予測できない。だが図書館の主であるパチュリーが目の肥えた魔理沙に紹介するのだから、並の本でない事は確かだ。
「ほぉ、睡眠不足解消の極意か?」
「読めば……いえ、手に取っただけで分かるわ」
「有難いものだな。そんな本ばかりだったら蒐集品の消化も捗るんだが」
「特別なのはこの本だけよ」
うやうやしく両手で魔理沙に本を手渡す。
そして本が魔理沙の手に渡った瞬間、言いようのない重力が彼女を襲った。
「おぉぅ!?」
本に腕を丸ごと持って行かれそうな勢いで肩が沈む。咄嗟に反応し前腕に力を込め、足も力の限り踏ん張り、体が前に大きく傾く直前で魔理沙はどうにか踏み止まった。
重い。とにかく重い。
理屈は分からないが、ハードカバーだとか厚みがあるとか、これはそんなチャチな重さでは断じてないのだ。魔理沙の反応がもう少し遅かったら、この異常に重い本に手を潰されていたかも知れない。最悪の展開を脱し、魔理沙の頬に汗が伝う。五体満足でいる事に密かに感謝しつつ、深呼吸を一つ置いて魔理沙はゆっくり言葉をつなげた。
「な、何だこの本……鉄か鉛でも入ってるのか?」
「解答としては12点。それは紛れもなくただの紙の塊よ」
パチュリーの手が再度本に伸び、魔理沙との共同作業で本をそっと机の上に置く。そして薄板を引っぺがすような緩慢な動きで、パチュリーは本のカバーをめくった。
「術で紙の重さを鉄と同等にしているの。ページをめくるのがちょっと面倒だけど……ね。慣れれば気にならなくなるはずなのよ」
指先に力を込めて一枚ずつゆっくりページをめくるパチュリー。鉄と同等の重みのせいで、紙と紙とが貼り付いたようになっているらしい。この状態でページをめくるのは同極の磁石を引き剥がすようなものか、あるいは恐る恐る傷口のかさぶたをめくってみるようなものか。逆に言えば一ページを嫌でもじっくり読めるという事なので見ようによっては利点と言えるのかも知れないが、ページをめくるのに夢中になって本の内容を理解できるかどうかは怪しい所だ。
「なるほどパチュリー、考えたな。確かにこれならお前の読書欲を満たしつつ体に負荷を与える事ができるってわけだ。実に合理的かつ画期的な考え……なワケあるかぁぁぁぁ!」
ノリ突っ込みの雄叫びと共に鉄のような重さの本は魔理沙の手によって引き裂かれた。
どれだけ重くしても所詮紙は紙、強度までは変わらないらしい。
「ああっ、私の実験作が……」
「実験終了! こんなみみっちい事で快眠を得られるとでも思ったか!」
「思ったわ。要は疲れればいいんでしょう? 気長に頑張れとも言ってたわ」
「合ってるけど違う! 私がイメージしてたのはもっと、こう……ああもうじれったい、私が直々に快眠というものを教えてやる、とりあえず服を脱げ!」
「はい?」
魔理沙の理解不能発言にパチュリーは目を丸くした。
「眠る事と服を脱ぐ事に何の関係があるの?」
「あるんだよ。それは後で教えてやる……それともアレか? 私に一枚ずつ脱がせてほしいってか?」
「意味が分からないわ。ちゃんと説明を……」
「だから実践で、な! ほれほれ良いではないか良いではないかー」
「ちょっ、何――やめっ」
魔理沙とパチュリーが力比べをしたら勝敗は誰の目にも明らかだ。
手を引かれ、成す術なくパチュリーは図書館の奥へと引き込まれていってしまった。
* * * * *
ヴワル魔法図書館は古今東西のあらゆる本で満たされている。
そして図書館から直通している部屋――パチュリーの寝室兼書斎もまた同じだった。
本来はそれなり以上に広い部屋なのだろう。睡眠にも文机に向かっての読み書きにも困らず、テーブルを挟んでのちょっとしたお茶会もできそうである。部屋本来の広さは、わずかに見える壁面が断片的に教えてくれている。
だが、現状は部屋というより通路だった。ドアからベッドまで続く一本道だった。
壁を覆い尽くすように積み上げられた無数の本の山が新たな壁となり、床から天井に届きそうな勢いで秩序ある混沌を築いている。これではいつ崩れてくるか分かったものではない。流石にベッド上までは本の侵食は及んでいないようであるが、これも本の雪崩などあったら悪くすれば自室内で生き埋めになってしまうかも知れない。
この通路のような部屋には魔理沙も数度足を踏み入れているが、来るたびにその混沌具合には舌を巻いていた。
「安心しな、痛くはしない……お前次第だが」
「無責任な話ね」
「まあそう言うなって。結局はお前自身にかかってるんだからさ」
部屋や図書館の混沌から切り離されたかのような柔らかいベッドの上に二人はいた――ただし魔理沙は服を脱いで下着姿に、パチュリーは魔理沙に服を脱がされ同じく下着姿である。
ベッドに着くや否や、魔理沙が獣のようにパチュリーの服に手をかけたのだ。パチュリーが抵抗する間もなく、電光石火の早業で柔肌には傷一つ付ける事なく服をむしり取ってしまった。長きに渡る蒐集生活で身につけたのではないだろうが、ここまで来ると最早ある種の職人芸である。パチュリーをひん剥いた後で悠々とエプロンドレスを脱ぎ始める魔理沙の姿の何と余裕に満ちた事か、エプロンドレスの下から露わになった魔理沙の肢体は発育途上の丸みを帯びつつも所々はスマートで、健康的と言う他ない。パチュリーのみならず誰が見ても同じ事を思うだろう。
「じゃあ始めるか。脚を広げな」
「……他の選択肢はないわけね」
「あっても目指す所は変わらないぜ?」
パチュリーの視線はあくまでもジットリとしている。恥じらいと牽制に若干の羨望を込めて魔理沙を睨み続けているが、その視線に気づいているのかいないのか魔理沙の調子はいつも通りだった。
……ああ、従わなければその時はきっと力ずくなんだ。
魔理沙が相手じゃ私なんかどうせねじ伏せられるんだ。
容易に想像できる近い未来を幻視し、パチュリーは渋々魔理沙に従った。
両脚を開くとドロワーズの中心部を晒す事になる。厚い布地で覆われていても恥ずかしい事に変わりはなく、しかし手で隠す事さえ魔理沙に止められる。
「いくぞ……体の力を抜けよ」
「ん……」
ギチッ
「! 痛ッ……」
全身を引き裂かれるような感覚が全身に走る。
魔理沙は手加減してくれているであろうと信じつつも、決して命に関わるような物ではないと知りつつも、体の内側から来るこの痛みはちょっと耐え難い。思わず声が出て魔理沙の手からも解放されるが、その後にはほのかに心地よい脱力感と解放感がパチュリーを包み込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ。ほんのちょっと力を込めただけだぜ」
「大丈夫……今度はもっと我慢するわ」
「無理だけはするなよ……じゃあもう一度な」
「んっ……あ、んくっ、ん~~~~~」
呻きをこらえ、魔理沙に身を委ねる。
大丈夫、さっきより長く耐えている。
しかし痛みもより激しくなっている。
一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……
「……っ! 駄目ッ! 無理無理無理!」
「っとぉ」
「むきゅー」
再び、全身を脱力感と解放感が支配する。
痛みを伴うがこの感覚は意外と病みつきになるかも知れない……その場で背を軽く反らし、パチュリーはふぅと大きく息を吐いた。
「しっかし固いなあ、お前の体。肌はこんなにもぷにぷに柔らかいのに」
「慣れてないのよ、柔軟運動なんて」
「慣れとか言う前に動かないからだよ。小悪魔にでも手伝ってもらって毎日柔軟した方がいいぜ」
「前向きに善処してみるわ」
「体の疲れが抜けてスカッと爽やか、読書の能率アップ! ……と言ってもか?」
「一日三回、日課に取り入れましょう」
「賢明だ、そして懸命だな。おまけに解りやすい」
パチュリーの小さな体には勿体なさすぎるほどの大きなダブルベッドは、少女二人が柔軟運動をするのにも十分な程の大きさだった。
一人で使うのに何故これほどまで大きな物が設えてあるのか、魔理沙は知らない。小悪魔が寝つきの悪いパチュリーに添い寝をしてやるのではとも考えたが、想像した絵があまりにも滑稽だったのでそれはないだろうと頭の中で即座に否定した。
そしてそろそろ、下着姿を晒す事にパチュリーも恥じらいを感じなくなってきたらしい。脚を広げ、上体を前に……だが、これがなかなか倒れてくれないのだ。丸まった背は今にも悲鳴を上げそうで、伸ばした腕は辛うじて掌がベッドに触れる程度である。そこへ魔理沙が背を押してくれば、背筋ではなくパチュリーそのものが悲鳴を上げてしまう。これではまるで老婆、百歳の老婆である。パチュリーが実際に百年を経ているとしても、だ。
だが久しぶりに……実に久しぶりに、パチュリーは本を持たず他人と接していた。背筋から脚にかけて走る痛みに顔を歪めつつもどこか心地良さそうで、手持ち無沙汰も感じていない。
「なあパチュリー、揉んでやろうか?」
「え、えぇっ!?」
「大丈夫だって、これも痛くしないよ」
「う、うん……じゃあお願い……するわ」
パチュリーが顔から火を吹いた。この身を再び魔理沙に、より深く委ねる時が来たのだ。
胸の高鳴りや浅く速い息遣いを悟られてはならない。努めて呼吸を整え、背筋を正し目を閉じる。
「パチュリー、できれば後ろ向いてほしいんだが」
「え? う、後ろから……そう、魔理沙は後ろからの方が好きなのね……」
「いや、面と向かい合ってだとやりにくいんだよ。それに何か気まずいだろ?」
「後ろからの方が背徳感もあるものね……やっぱり魔理沙は只者じゃないわ」
「あー? 肩を揉むのに背徳感も何もないだろうに」
「あら?」
「ん?」
「……ああ、肩ね」
「お前、何を揉むと……ああもういい、聞かなかった事にしといてやる」
「眠くて思考力が鈍っているだけよ」
日頃、自分が知らない所で彼女がどんな本を読んで過ごしているのかという疑問が立つが、ともあれ慌てて後ろを向くパチュリーの姿は掛け値なしに可愛らしかった。
「肩の方もすごい凝り方だな、こりゃ」
「そうなの?」
「少なくとも私やアリスはこんなんじゃないぜ。これじゃ体も重いだろうに」
「むー……いつもこんな感じだから、肩が凝っていない状態なんて分からないわ」
「そうかい。じゃあ、いい機会だからきっちり解してやる」
「あん、魔理沙、強っ……」
「ほれ、ここなんか特に」
「うくっ! ま、魔理沙ぁ……もっと優しく……」
「何言ってんだ、これでもずいぶん優しくしてるんだぞ」
「で、でも……あ、ひぁぁっ! 駄目だってばぁ!」
「……分かったよ。今日はこれくらいで勘弁してやる」
懇願されてやむなく手に込めた力を和らげる。
指に少々力を加えるたびに嬌声が上がるのではたまったものではない。紅魔館のメイド達にこの様子を盗み聞きでもされていたら、お互い明日から館内でどんな扱いを受けるのか…
「肩が疲れたら小悪魔に頼んでやってもらうといい。他の奴に触られるのが嫌なら自分で揉んでもいいしな」
「ん」
これらの習慣をパチュリーは本当に日常に採り入れてくれるだろうか。
魔理沙にとってちょっとした不安材料であったが、その憂患はすぐに払拭された。固い体を捻って自分の肩に手をやるパチュリーの姿を見たのだ。まだその手つきはたどたどしいが、いざとなれば小悪魔を呼ぶだろう。そしてそのうち肩が軽くなれば、自らの手で疲労感の処理を行うようになるだろう。ベッドの上にちょこんと正座し四苦八苦するパチュリーの姿は、普段の姿とのギャップのせいもあるのだろうか、可愛らしいというよりむしろ愛らしかった。
「ねえ」
「んー?」
「あなたさ、どうして私にそんな構うの?」
「そりゃ、お前に何かあったら困るからさ」
「主に本の事で?」
「なんだ、思考力が鈍ってるって割に冴えてらっしゃるじゃないか」
「詮索する時は別腹よ」
大きなベッドに二人は体を預けていた。
反発の少ないマットレスは体を程よく沈め、まるで深海か大空に似た浮遊感を与えてくれる。魔理沙の家のベッドとは何から何まで違い、もはや未知との遭遇と言って差し支えのないレベルだ。
こんないい物を持っていながら睡眠不足とは贅沢者め、と愚痴の一つでもこぼしたくなったが、この心地よい空間から追い落とされるのも嫌なので魔理沙は口をつぐみ、大の字になって自宅では味わえない快感に酔いしれていた。
「もしお前が倒れたりなんかしたら、お前の後を継いでここを管理するのはどうせ咲夜だろ? あの小悪魔にはまだ荷が重そうだしなあ」
「あら、魔理沙は咲夜がお嫌い?」
「嫌いじゃあないよ。むしろあいつはいい奴だと思ってる……でもどこか苦手なんだよなあ」
「やっぱり咲夜は優秀なネズミ取りなのね。ここの専属護衛にでもしようかしら」
「勘弁してくれ、ていうかレミリアが黙ってないぜ」
「黙らせちゃえばいいのよ。どうという事はないわね」
「おおぅ、魔女様は怖いねえ」
よもやパチュリーが友人のレミリアを差し置いて暴挙に出る事はあるまい。
悪戯っぽく微笑み、パチュリーは眠たげに体を丸める。
「……ああそうだ、あとはアレだ」
「何が?」
「お前に構う理由。やっぱり同士が身近にいると嬉しいんだよなあ」
首を傾け、パチュリーと目が合う。
パチュリーは咄嗟にジト目を逸らしてしまうが、魔理沙はお構いなしにニッコリ微笑んだ。
「ここには私が知らない本が山ほどある。お前は私が思いつきもしない事をいつも考えてる。逆もまた然りさ、きっとな。興味を持つ理由なんてそれだけあれば十分じゃないか?」
「身勝手な話ね」
「何とでも言ってくれ。だけど、ここと、お前に対する興味は尽きない」
「……どうも」
「お前も一度は私の家に来いよ。その時は歓迎……ふぁぁ」
魔理沙の言葉は気の抜けた欠伸によって遮られた。
「いかん、誰かさんの睡魔が……感染ったかな……」
「ちょ、あなたこんな所でこんな恰好で寝るつもり?」
「お構いなく。どうせ誰も来やしないって」
「構うわよ。ここは私のベッド……ふぁぅ」
今度は魔理沙の欠伸がパチュリーに感染ってしまった。半ば夢心地の魔理沙を睨む目も重力に逆らえず、さっきまであれほど速くなっていた呼吸もどんどん深く遅くなっていくのが何となく分かる。
その感覚もだんだん淡くなっていき、感じるのは心地よさばかり。
ほんの少しでも睡魔を遠ざける手段――本は、手元にない。
「あー……眠」
「逆らうなって。そのまま眠っちまえ……じゃ、お先に」
「ちょっと、魔理沙……んもう、あなたってば……本当に――」
身勝手なのよ……
言葉の最後は夢心地の中で。
大の字を描いたまま眠りに落ちた魔理沙の隣で、パチュリーも体を丸め静かに目を閉じた。
* * * * *
「御機嫌よう魔理沙。早速だけど私とお話でもいかが?」
「ご丁寧に玄関でお出迎えとは殊勝だな……ああくそっ、人の事をダーツの的のように見てやがるんだな」
「ふむ、口を聞く分には問題なさそうね」
数日後、紅魔館に『正面から正々堂々と』侵入した魔理沙は玄関でいきなり咲夜と出くわした。
何となく苦手だとパチュリーにこぼしていた咲夜に、ドアを開けたらいきなりである。
驚く間すらありはしなかった。出会い頭に一秒ほど時を止められただろうか、気付いた時には銀の刃が視界を埋め尽くし、魔理沙の服の端を首筋から足元までまんべんなく壁に縫い付けてしまった。おまけに魔理沙の体からは一滴の血も流れ出ない職人技である。
かくして身動きが取れなくなった魔理沙に咲夜が近づく。その顔は表向きにこやかな笑顔だが、般若の顔に笑顔を描いて取り繕っているような感じであった。
「こんな状態でお話とは恐れ入る。こういうのは尋問か拷問って言うんだぜ」
「次はブルズ・アイでも狙ってみましょうか」
「……何でも聞いてくれ」
「ではでは♪」
咲夜に苦手意識を持つ理由が、魔理沙には理解できたような気がした。
「あなた、何日か前にも来てたわよね? そして何の迷いもなくパチュリー様の所へ……」
「日課だ。気にするな」
「その時、パチュリー様に何か吹きこんだでしょう?」
「別に変な事はしてないぜ。ただあいつが眠たそうにしてたから……」
「薬を盛って眠らせ、パチュリー様と図書館を我が物にしようとした?」
「盛るかい! ……アドバイスしてやっただけだよ。体を動かせばいい、って」
「それだけ? 他には何も?」
「これだけだ。お前のナイフに誓ってな」
下手な事を言ったり無言を貫けば新たなナイフでグレイズさせられる事は必至である。咲夜の事だから投げ損じは万に一つ程度であろうが、投げ損じがなくても怖い事は怖い。それに、既に魔理沙の一張羅は壁に縫い付けられてズタズタである。乙女として、これ以上の傷は避けねばなるまい。
「……パチュリーに何かあったのか?」
「ここ数日、図書館に籠りっぱなしなのよ。小悪魔の姿も見ていないわ」
「なんだ、いつも通りじゃないか」
「それだけなら慌てないのだけど」
いや少しは慌てろよ、と魔理沙が言おうとするのに先んじて咲夜が言葉を続ける。
「確かあなたが最後に来た翌日からだったと思うわ。図書館からは昼も夜も怪しげな呪文のような声が……」
「それもいつも通りじゃないか?」
「でも、その呪文らしき声って男の声なのよ」
「何か悪魔でも召喚したんじゃ……って、それに私が関わってるとでも?」
「タイミングがタイミングだからねぇ。悪いけどあなたは第一容疑者よ」
「こんなに善良な私が悪魔崇拝なんかすると思うのかね」
「善良なら図書館の蔵書は減らないと思いますわ」
「いやまあ」
微笑む咲夜。
焦る魔理沙。
見えぬ真相。
ただし、徒に時間を食い潰すわけにもいかない。
「まあ、あまり不気味なものだから調査の為に何度かメイドを派遣したのよ」
「しかし帰還した者は一人もいない――か?」
無言で小さく咲夜が頷く。
「そしてちょうどいい所で第四次調査隊が編成されましたわ」
「おいおい、何があるか分からん所に放り込む気か?」
「所詮はパチュリー様の図書館、中の配置やら何やらはそこらのメイドより詳しいでしょう? それに、霧雨魔法店は何でも屋を営んでいると聞くけど」
「都合のいいお客様もいたもんだ……それにしても私一人で隊なのか?」
「私は私でお仕事があるし、足手纏いの妖精メイドなんていない方が身軽でしょう?」
「そうは言うがな咲夜、何かの時の身代りには……」
「ウチのメイドは質より量がモットーなの。無闇に数を減らせないのよ」
「ゴタイソウな理由だ」
「どうあれ、あなたが最適任である事に変わりはない。魔法に疎い霊夢よりはね」
咲夜が指を弾くと、魔理沙を戒めていたナイフが一斉に消えた。
時を止めての手品気取りなのだが、ともかく戒めを解かれた魔理沙は肩や首を回して呟く。
「……でもただ働きは御免だぜ。ケーキと紅茶を出して待ってろよ」
「仰せのままに」
口約束だが、確かに契約は交わされた。
* * * * *
魔法図書館入口の大扉は、意外な事に鍵も結界魔法もかかっていなかった。
ならば中に入ればトラップの嵐かと思ったが、魔方陣の一つも浮かんではいなかった。
まるで獲物を待つ化け物の口へ自ら飛び込んだようで、静寂が逆に恐ろしい。
「いつも通り……だな」
図書館の中はいつにも増して薄暗く、灯火を掲げてやっと足元が分かると言った程度である。
そんな中を魔理沙は慎重に、どんな小さな異変も見逃すまいと一歩一歩を噛み締めるようにゆっくり進んでいた。
見た感じ、大きな異変があるようには思えなかった。整然と並んだ本棚にぎっしり詰め込まれた本。本棚に入りきらず床に積み上げられた本。想像もつかないほどの年月を刻んできた事を思わせる埃っぽい空気。暗さが増している事を除けば、全ていつも通りの魔法図書館である。息をするが如く自然に手近な本に手が伸びてしまうが、魔理沙なりの御愛嬌である。
行方不明になったという先発の調査隊メイドの姿が見当たらないが、未踏査の区域にいるのだろう。だが奥に踏み込めば、その分危険度は増すはずだ。
「パチュリーは見つかりませんでした、じゃ咲夜はケーキ出してくれないよなあ……ん?」
未踏査区域と言っても今の所は広大な図書館の大部分がそれに当たるのだが、そのあまりの広さにげんなりした魔理沙の耳に静寂を破る音が聞こえてきた。
せっ…… せっ…… せっ……
「何だ……咲夜の言ってた呪文って奴か?」
パチュリーの喘息とは様子が違う。
彼女のか細い喘ぎと比べると野太く力強く、なるほど咲夜が言っていた男の声のようにも聞こえてくる。それが、途切れる事なく一定のリズムで聞こえてくるのだ。
もあ、せっ…… もあ、せっ……
近づくごとに呪文らしき物はより明瞭になってきた。全く同じ抑揚、全く同じリズムで男の声が延々と繰り返されているのだ。これでは呪文とすら言えなさそうだが、ならば進んだ先で何が起こっているのか尚更分からなくなってくる。
謎の声が聞こえてくる事以外に魔理沙はまだ異変を感じていないが、何か言いようのない不安がずっと腹の底にわだかまっている。真相を知る為に魔理沙は先に進まなければならないし彼女が本来持つ好奇心が余計に背中を押すのだが、同時に不安が足を押さえる。魔理沙がもう少し気弱な少女だったなら、アンビバレントな感情の狭間でたちまち腹痛に苛まれている事だろう。
かといって退けば待っているのはケーキではなく咲夜のナイフ、というわけだ。ここは戦略的撤退という言葉は捨てねばならない。
「パチュリー、いるんだろ!」
だから、思わず声が出た。
だが闇に向かって声を張り上げた瞬間、珍しく魔理沙の胸が高鳴り始めていた。無論、これまでにない不安の為だ。
パチュリーが素直に応じて出てきてくれればそれでいい。それで魔理沙の不安はたちまち解消され、恐らくは行方不明のメイド達も見つかり、咲夜のケーキを美味しくいただけるという寸法だ。
だがそうでなかったら……反応がないか、別の何者かが応答してきたら……
「咲夜から聞いたぞ! 怪しげな呪文とか何とか……私に黙ってるなんて水臭いじゃないか!」
不安を払拭するように魔理沙は言葉を続けた。
例え虚勢でも張った者勝ちだ。
せっ……
「……む」
魔理沙の声に呼応したように呪文らしき声が途切れた。
静寂が辺りを支配すると空気が一段重くなったような感じがする。水をかき分けて進むような、総身に絡みつく重さだ。拭い去れない不安も手伝っているのかも知れない。一瞬でも油断した隙に死角から何か得体の知れないモノが襲いかかってくるのではないか――今日の図書館の雰囲気ならそれもアリ、だ。警戒をいくらしてもし過ぎる事はなく、声が聞こえていた方向を注視しつつ魔理沙はそろりそろりと歩みを進める。
『魔理沙?』
「ッ!?」
突如聞こえた声に魔理沙は一瞬怯み、しかしすぐに胸を撫で下ろした。
くぐもった感じではあるが、抑揚に乏しい口調に心当たりがありすぎたのだ。
「パチュリー、いるんだな。まったく心配かけてくれるぜ」
『そんなに心配する事なかったのに……私はあなたに言われた事をやっていただけよ』
「私に?」
『あなたが来たあの日……私は久しぶりに心の底から気持ちよく眠れたわ。あんな簡単な事でぐっすり眠れるなんて、本当に盲点という奴だった。この世にはまだまだ私の知らない知識が存在するのね』
「そうかい、そいつは何よりだ」
『だから私はあなたに言われた事を守ったわ。確かに体を動かす事で快眠を得る事ができるけど……魔理沙、私はあなたが語らなかった事に気づいてしまった』
一瞬の間を置き、姿を見せぬまま声の主……パチュリーはくぐもった声を紡ぎ続ける。
『体を動かす事そのものが既に快感であると気づいたのよ!』
「……いや、それって割と普通だぜ? むしろよくぞ今まで気付かなかったものだと」
『そして私の目的は一つ増えた……ただ体を動かすだけでなく、鍛える事も考えないと』
「あー……まあ貧相に見えるよりはいいのかもな」
『どうせやるなら極限を突き詰めて』
「前言撤回。普通だがお前は普通じゃなかった」
『かといって館の皆を無闇に巻き込むわけにはいかないから、こうやって図書館に籠っていたのよ』
「さらに撤回。お前は普通なのかそうでないのかよく分からん」
パチュリーの声を聞きながら魔理沙は黙考していた。
こう言うとパチュリーには失礼にあたるのだが、独り静かに唯我独尊を貫く彼女にしては一日坊主で終わらなかったのが意外である。パチュリーをパチュリーたらしめる読書欲より、最も基本的な生理的欲求の方がこの場合は勝ったのだろう。
しかしこの状況を果たして喜んでいいものか、困った挙句に魔理沙は無表情を取る事にした。
『体を鍛える為に効率のいい体の動かし方を調べる所から始めたわ。あなたが言ってた呪文というのは、体を鍛える為の儀式みたいな物よ。つい最近まで外の世界で流行ってたみたい』
「はあ、熱心な事で」
『そして消耗した体を支ると共に鍛錬の効率を上げる為に薬を調合し……』
「は?」
『薬の効果は効果は抜群だったわ。みるみるうちに自分が変わっていくという事が実感できたの』
「ちょっと待てーい! 快眠はどこへ行った!?」
『薬草や魔法生物、他にも数え切れないほどの食材や薬物を……』
「そこまで聞いてないって!」
『後で魔理沙にも作り方を教えてあげるわ』
「いいからとにかく姿を見せてくれ! 近くにいるんだろ?」
返事はない。
沈黙もまた回答という事か、あるいは図書館の深部へと魔理沙を誘っているのか。
『……そう言えば魔理沙、さっきそこの本を盗っていったでしょう?』
「いっ!? ななな何の事だぜ?」
『あそこにあったのは魔法陣の基礎的な解説書ね。あなたには物足りないと思うけど?』
懐にしまい込んだ本にこっそり視線を落とす。
なるほど確かにそれらしい扉絵やタイトルが見て取れ、魔理沙は感心すると同時に薄ら寒い物を感じ慌てて本を隠した。たった今も、パチュリーはそう遠くない所でこちらの様子をうかがっているに違いないのだ。
『窃盗の現行犯よ、魔理沙。盗った物を置いて行きなさい』
「……そうしたくなるようにさせてみな」
『仕方ないわね』
図書館中に魔法の光が灯り、魔理沙の姿を明るく照らした。
視界が開けてもパチュリーの姿は見えず、失踪しているメイド達も見当たらない。
しかし魔理沙は図書館に入ってからまっすぐ歩いてきたので、全速で退けば誰にも追い付かれる事なく図書館を出る事ができるだろう。いくらパチュリーの様子が普通ではないと言っても、彼女を相手に事を荒立てるほどの気は魔理沙にはない。咲夜はあまりいい顔をしないかも知れないが、とりあえずパチュリーの安否確認という最低限の仕事はこなしたのだからナイフは飛んで来ない筈だ。
機を見て逃げ出そうと構える魔理沙に、パチュリーのため息混じりの言葉が降り注ぐ。
『こないだも私を探しにメイドが何人か来てたけど、みんな私の薬の良さを理解してくれたわ』
「理解、って……全員無事なのか!?」
『今では私の大事な鍛錬仲間。彼女たちも私と同じように変わったのよ』
「……小悪魔も、か?」
またしても返事はないが、魔理沙は無言を肯定と解釈した。
咲夜の話を聞いていた時にある程度予想はしていたが、魔法図書館の良心がパチュリーの側に取り込まれてしまったとすればなるほど中の情報が今まで漏れてこなかったわけである。小悪魔の事だからもう既にパチュリーの援護に回り何らかの動きを起こしているかも知れない。魔理沙に気づかれぬよう図書館入口のドアを封じておくだけでも大金星だ。
自分がアウェーの地で完全に孤立した事を悟り、魔理沙は小さく舌打ちした。
『まさか……こんな形で鍛錬の成果をお披露目する事になるなんてね」
くぐもっていた声がだんだん鮮明になり、ついにはパチュリーの肉声そのものになった。
こうなったからには黒幕は優雅に姿を現すのがお約束という奴であるが、案の定ゆったりとした靴音が聞こえてきた。音の響きからすれば居場所はせいぜい二、三ブロック先、確かに魔理沙の目と鼻の先だ。
「でも、この体の実戦テストにはちょうどいいわ。魔理沙もきっと驚くでしょうし」
「お前の何に驚くって言うんだよ。せいぜい顔色が良くなった程度だろ?」
「驚くわよ。絶対」
コツリと靴音が途絶えた瞬間、魔理沙は言葉を詰まらせた。
本棚の角から現れたのはパチュリーだった……いや、パチュリーの姿をしていた。
紫色の髪、白いローブ、手にした魔法書は確かにパチュリーを示す記号である。先ほどまで聞いていた抑揚に乏しくゆったりとした口調も確かにパチュリーのそれだ。だが、それ以外の要素が魔理沙の知っているパチュリーとは致命的なまでに違っていた。
「なあ……あ、あ……」
「ほら、やっぱり驚いた」
「お、おま……パチュリー……さんでいらっしゃいますか?」
「どうしたの? 敬語を使うなんてあなたらしくもない」
魔理沙が驚くのも無理はない。むしろ一目見て失神しなかった分よく耐えたと褒めてやるべきだろう。
彼女の目に飛び込んで来たのは、過剰なまでにビルドアップされた『パチュリーの顔をした誰か』だったのだ。
「この数日間で私は変わったの」
「そんな、変わりすぎだ……背まで伸びて……」
「もう喘息でスペルが唱えられないなんて事はないし、力仕事を小悪魔に押し付ける事もない。この雑然とした図書館もあっという間に片づけられる事でしょう」
パチュリーの言葉には、普段彼女が語る魔法理論に匹敵しうるであろう確かな説得力があった。
何をどうやったらそうなるのか体躯は魔理沙が見上げるほどにまで伸長し、その腕、胴回り、脚の筋肉の逞しさといったらモヤシどころか大木であり、小脇に抱えた魔法書もこの時ばかりは小さなメモ帳に見えてくる。ゆったり着こなしていたローブは内から千切れそうなほど張り詰めており、頭をすっぽり覆っていた帽子は頭頂部の一角に引っかかっているような印象である。それでいて見慣れた顔と幼さの残る声はそのままなのだから違和感があるにも程がある。それこそ、もしかしたらパチュリーなのではなくバチュリーとかパチョリーとかそういう名の別人ではないかと思う程に。
華奢なパチュリーをたった数日でここまで変えてしまった薬とやらに魔理沙はほんの一瞬だけ興味を示したが、あまりにも危険であると本能が即座に否定した。パチュリーでさえここまで化けたのだから、対峙する者にとって肉体的にも精神的にも致命的な物である事には間違いない。
(落ち着け私、落ち着け私。ただデカいだけのパチュリーだ……パチュリーに違いない……パチュリーであって下さい)
「もちろん私だけじゃあないわよ」
「うぅっ!?」
パチュリーの言葉と共に天井から降ってきた影を見て魔理沙は再び言葉を失った。
降り立った影は四つ、それらの服装全てに見覚えがある。白と濃紺を基調としたメイド服は紅魔館のメイドの物で、白と黒を基調としたシックな制服は図書館の小悪魔が着ている物と全く同じ。失踪していたメイド妖精と小悪魔本人に間違いないだろう。
ただ一つ、魔理沙が記憶している姿との違いを挙げるなら四人ともパチュリーと同じ体躯を得て、しかもそれを誇らしげに披露しているという事だ。
「でっ、でででで……」
「さあ魔理沙、私たちの追撃から逃れられるかしら」
目の前には筋骨隆々とした……もはや筋肉の塊が五つ。
「出たああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
魔理沙の声は、図書館の外には届かない――
(終)
「眠れないわ」
相反する二つの言葉が、最近のパチュリーの口癖だった。
思い当たる節は確かにある。読書による夜更かしのし過ぎ、全てはこれに尽きるだろう。だがパチュリーは本を読まなければ生きていけない病気だからこればかりは致し方ない。存分に本を読まなければ彼女の精神衛生上よろしくないばかりか、八つ当たりで小悪魔や紅魔館そのものがとばっちりを受けてしまう事も十分起こりうる。本はパチュリーの知識と魔術を補助すると同時に安全装置でもあるというわけだ。
ならば、夜眠れないのなら昼間たっぷり眠ればとりあえず愚痴は出てこない筈なのだが、肝心の昼間はまどろみこそすれ睡眠には至らず、半端な意識の中でも本のページをめくっている始末。これでは内容の一割も頭に入っていないだろうが、それでも瞼にかかる重力と必死に戦い続けている。
そして夜になれば静かになって読書に向くという理由でやはりページをめくり、熟睡するために必要な時間がまた削られていく。そんな事を何度も繰り返し、パチュリーお得意のジト目はその重苦しさにさらに磨きをかけていた。
もちろん、パチュリーとて何の対策も講じていないわけではない。
直接眠りをもたらす薬には頼りたくなかった。そのような力任せで得られる仮初の安息では根本的な解決にはなりえないと考えていたからだ。だからもう少しソフトな方法を……睡眠を促す香を焚いてみたり、その手の薬草を煎じて飲んでみたり、昼間はできる限り読書に集中して脳を使ってみたり。無理せずできる事だけなら色々やってきた。
だがそれでも症状は一向に改善されず、不機嫌そうな顔つきの日々は続いている。睡眠不足の解消に役立つ本はどこかにあるかしら……と本棚の海原で旅立ち、そのまま本棚のどこかに寄りかかっている事もしばしば。程なくして意識を取り戻した時には目的を忘れ、思い出そうとしてまた意識が朦朧とする。分かってはいるのだがどう足掻いても読書がやめられないパチュリーなのであった。
「簡単じゃないか。体を動かせばいいんだよ」
いつものように図書館を訪れた魔理沙はそう簡単に言ってのけ、今までなぜそんな簡単な事に気付かなかったのか、誰もそういう助言をしなかったのかと言わんばかりの目をパチュリーに差し向けた。眠気覚ましの為に用意したのであろう、出されたコーヒーを口にするが、砂糖が入っていない事を感じるやすぐさま眉をしかめて砂糖を継ぎ足す。
魔理沙と同じ真っ黒な液体を淡々と啜るパチュリーはその滑稽な光景にも眉ひとつ動かさず、眠そうというより今にも眠りそうな目で魔理沙を見る。重そうな瞼のせいでその視線は睨んでいるように見え、普段から彼女が湛えている陰鬱な雰囲気に一層の重みを加えていた。
「面倒よ」
「面倒かい」
「ええ、面倒」
そういえばそうだった。
彼女は紅魔館における我儘の象徴・レミリアとベクトルこそ違え我儘の素質を秘めているのだ。己の要求を押し通すレミリアに対し、他者の要求を撥ね退けるパチュリー。唯我独尊という点ではどちらも変わらない。
もっとも、パチュリーの場合はその性情が明確な言動として表に出る事は少ないが、図書館に引きこもりっぱなしという日常がそれを代弁していた。友人の、メイド長の、使い魔の。彼女たちの助言をパチュリーは真摯に受け止めていないのかも知れないし彼女たちもパチュリーとはそういう者だと半ば呆れている所があるのかも知れない。今やパチュリーに最も深入りしているのはこの他所者、魔理沙というわけだ。
「何も咲夜の仕事を代わりにやってみろとかそこまで無茶な事は言わないさ。でも少しずつでも体を動かして疲れさせれば、ダラダラ夜更かしする気なんてなくなるぜ」
「口で言うのは簡単よね」
「実際に簡単なのさ。どんなに抵抗しても体は正直、って奴だな」
「……じゃあどんな事をすればいいのかしら。私にもできる範囲で」
パチュリーに最も深入りしているのが外部の者である魔理沙であるなら、パチュリーも魔理沙の言動には少なからず興味を抱いていた。
日々顔を合わせている紅魔館の住人たちにはない知識と感性。魔理沙に対するパチュリーの興味は今のところ知的好奇心の域を出ていないし対応を急激に変えるような事もしないのだが、それでもパチュリーは魔理沙の言葉に必ず聞き耳を立てていた。
「無理さえしなけりゃ何だっていいんだよ。最初は軽く散歩してみるとかな。慣れてきたら本の片付けを自分でも少しずつやるようにするとか、それを発展させて身の回りの事は自分でとか……って、おーい聞いてるかー?」
「はっ!?」
肩を揺さぶられてパチュリーは我に還った。
目をしきりに瞬きさせ、口からは悪びれず大欠伸が出る。悪びれないあたりは完全に常習か、あるいは寝惚けているのだろう。
「……私が言った事、覚えてるか?」
「聴覚補助の魔法を展開させておいたわ。私が眠っている間も周囲の音を拾い、いつでも聴く事が出来る」
「そういう所はご丁寧な事で……まあとにかくそういう事だ。気長にな」
砂糖の足し過ぎですっかり甘ったるくなったコーヒーを一気に流し込み、魔理沙は本棚の方へ歩いて行く。
その様子を見送ったパチュリーは自分なりの睡眠不足対策を頭の中で練り始め。
「……zzz」
最初の一捏ねで意識が寸断されてしまっていた。
* * * * *
「おーすパチュリー。調子はどうだ?」
「良くも悪くもないわね。あなたが来たせいで埃が舞い上がったけど」
数日ぶりに訪れた紅魔館で、パチュリーはいつも通りに眠そうにしていた。
魔理沙はパチュリーに急激な変化を求めていない。時間をかけて少しずつ体調を改善させていけばいい。だから、相変わらずのパチュリーを見ても魔理沙は少しも慌てる事はなかった。先日言い聞かせた事をパチュリー自身が理解してくれれば、全てはそこから始まるのだから。
姑みたいな事を言うなよ、などと切り返している間にコーヒーが運ばれてきた。恐らくはパチュリーに合わせて砂糖抜きであろう。明らかに嵩が増えて見えるほど角砂糖を足し、ゆっくりかき混ぜながら魔理沙は甘ったるい一口を啜った。
「どうだ? 私が言った事、実践してるか?」
「この本」
そう言ってパチュリーが差し出したのは、黒のハードカバーを纏った重厚な造りの本。表紙には何も書かれておらず、人を殴り倒せそうなほどの厚みの中身に何が書いてあるのかは全く予測できない。だが図書館の主であるパチュリーが目の肥えた魔理沙に紹介するのだから、並の本でない事は確かだ。
「ほぉ、睡眠不足解消の極意か?」
「読めば……いえ、手に取っただけで分かるわ」
「有難いものだな。そんな本ばかりだったら蒐集品の消化も捗るんだが」
「特別なのはこの本だけよ」
うやうやしく両手で魔理沙に本を手渡す。
そして本が魔理沙の手に渡った瞬間、言いようのない重力が彼女を襲った。
「おぉぅ!?」
本に腕を丸ごと持って行かれそうな勢いで肩が沈む。咄嗟に反応し前腕に力を込め、足も力の限り踏ん張り、体が前に大きく傾く直前で魔理沙はどうにか踏み止まった。
重い。とにかく重い。
理屈は分からないが、ハードカバーだとか厚みがあるとか、これはそんなチャチな重さでは断じてないのだ。魔理沙の反応がもう少し遅かったら、この異常に重い本に手を潰されていたかも知れない。最悪の展開を脱し、魔理沙の頬に汗が伝う。五体満足でいる事に密かに感謝しつつ、深呼吸を一つ置いて魔理沙はゆっくり言葉をつなげた。
「な、何だこの本……鉄か鉛でも入ってるのか?」
「解答としては12点。それは紛れもなくただの紙の塊よ」
パチュリーの手が再度本に伸び、魔理沙との共同作業で本をそっと机の上に置く。そして薄板を引っぺがすような緩慢な動きで、パチュリーは本のカバーをめくった。
「術で紙の重さを鉄と同等にしているの。ページをめくるのがちょっと面倒だけど……ね。慣れれば気にならなくなるはずなのよ」
指先に力を込めて一枚ずつゆっくりページをめくるパチュリー。鉄と同等の重みのせいで、紙と紙とが貼り付いたようになっているらしい。この状態でページをめくるのは同極の磁石を引き剥がすようなものか、あるいは恐る恐る傷口のかさぶたをめくってみるようなものか。逆に言えば一ページを嫌でもじっくり読めるという事なので見ようによっては利点と言えるのかも知れないが、ページをめくるのに夢中になって本の内容を理解できるかどうかは怪しい所だ。
「なるほどパチュリー、考えたな。確かにこれならお前の読書欲を満たしつつ体に負荷を与える事ができるってわけだ。実に合理的かつ画期的な考え……なワケあるかぁぁぁぁ!」
ノリ突っ込みの雄叫びと共に鉄のような重さの本は魔理沙の手によって引き裂かれた。
どれだけ重くしても所詮紙は紙、強度までは変わらないらしい。
「ああっ、私の実験作が……」
「実験終了! こんなみみっちい事で快眠を得られるとでも思ったか!」
「思ったわ。要は疲れればいいんでしょう? 気長に頑張れとも言ってたわ」
「合ってるけど違う! 私がイメージしてたのはもっと、こう……ああもうじれったい、私が直々に快眠というものを教えてやる、とりあえず服を脱げ!」
「はい?」
魔理沙の理解不能発言にパチュリーは目を丸くした。
「眠る事と服を脱ぐ事に何の関係があるの?」
「あるんだよ。それは後で教えてやる……それともアレか? 私に一枚ずつ脱がせてほしいってか?」
「意味が分からないわ。ちゃんと説明を……」
「だから実践で、な! ほれほれ良いではないか良いではないかー」
「ちょっ、何――やめっ」
魔理沙とパチュリーが力比べをしたら勝敗は誰の目にも明らかだ。
手を引かれ、成す術なくパチュリーは図書館の奥へと引き込まれていってしまった。
* * * * *
ヴワル魔法図書館は古今東西のあらゆる本で満たされている。
そして図書館から直通している部屋――パチュリーの寝室兼書斎もまた同じだった。
本来はそれなり以上に広い部屋なのだろう。睡眠にも文机に向かっての読み書きにも困らず、テーブルを挟んでのちょっとしたお茶会もできそうである。部屋本来の広さは、わずかに見える壁面が断片的に教えてくれている。
だが、現状は部屋というより通路だった。ドアからベッドまで続く一本道だった。
壁を覆い尽くすように積み上げられた無数の本の山が新たな壁となり、床から天井に届きそうな勢いで秩序ある混沌を築いている。これではいつ崩れてくるか分かったものではない。流石にベッド上までは本の侵食は及んでいないようであるが、これも本の雪崩などあったら悪くすれば自室内で生き埋めになってしまうかも知れない。
この通路のような部屋には魔理沙も数度足を踏み入れているが、来るたびにその混沌具合には舌を巻いていた。
「安心しな、痛くはしない……お前次第だが」
「無責任な話ね」
「まあそう言うなって。結局はお前自身にかかってるんだからさ」
部屋や図書館の混沌から切り離されたかのような柔らかいベッドの上に二人はいた――ただし魔理沙は服を脱いで下着姿に、パチュリーは魔理沙に服を脱がされ同じく下着姿である。
ベッドに着くや否や、魔理沙が獣のようにパチュリーの服に手をかけたのだ。パチュリーが抵抗する間もなく、電光石火の早業で柔肌には傷一つ付ける事なく服をむしり取ってしまった。長きに渡る蒐集生活で身につけたのではないだろうが、ここまで来ると最早ある種の職人芸である。パチュリーをひん剥いた後で悠々とエプロンドレスを脱ぎ始める魔理沙の姿の何と余裕に満ちた事か、エプロンドレスの下から露わになった魔理沙の肢体は発育途上の丸みを帯びつつも所々はスマートで、健康的と言う他ない。パチュリーのみならず誰が見ても同じ事を思うだろう。
「じゃあ始めるか。脚を広げな」
「……他の選択肢はないわけね」
「あっても目指す所は変わらないぜ?」
パチュリーの視線はあくまでもジットリとしている。恥じらいと牽制に若干の羨望を込めて魔理沙を睨み続けているが、その視線に気づいているのかいないのか魔理沙の調子はいつも通りだった。
……ああ、従わなければその時はきっと力ずくなんだ。
魔理沙が相手じゃ私なんかどうせねじ伏せられるんだ。
容易に想像できる近い未来を幻視し、パチュリーは渋々魔理沙に従った。
両脚を開くとドロワーズの中心部を晒す事になる。厚い布地で覆われていても恥ずかしい事に変わりはなく、しかし手で隠す事さえ魔理沙に止められる。
「いくぞ……体の力を抜けよ」
「ん……」
ギチッ
「! 痛ッ……」
全身を引き裂かれるような感覚が全身に走る。
魔理沙は手加減してくれているであろうと信じつつも、決して命に関わるような物ではないと知りつつも、体の内側から来るこの痛みはちょっと耐え難い。思わず声が出て魔理沙の手からも解放されるが、その後にはほのかに心地よい脱力感と解放感がパチュリーを包み込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ。ほんのちょっと力を込めただけだぜ」
「大丈夫……今度はもっと我慢するわ」
「無理だけはするなよ……じゃあもう一度な」
「んっ……あ、んくっ、ん~~~~~」
呻きをこらえ、魔理沙に身を委ねる。
大丈夫、さっきより長く耐えている。
しかし痛みもより激しくなっている。
一秒、二秒、三秒、四秒、五秒……
「……っ! 駄目ッ! 無理無理無理!」
「っとぉ」
「むきゅー」
再び、全身を脱力感と解放感が支配する。
痛みを伴うがこの感覚は意外と病みつきになるかも知れない……その場で背を軽く反らし、パチュリーはふぅと大きく息を吐いた。
「しっかし固いなあ、お前の体。肌はこんなにもぷにぷに柔らかいのに」
「慣れてないのよ、柔軟運動なんて」
「慣れとか言う前に動かないからだよ。小悪魔にでも手伝ってもらって毎日柔軟した方がいいぜ」
「前向きに善処してみるわ」
「体の疲れが抜けてスカッと爽やか、読書の能率アップ! ……と言ってもか?」
「一日三回、日課に取り入れましょう」
「賢明だ、そして懸命だな。おまけに解りやすい」
パチュリーの小さな体には勿体なさすぎるほどの大きなダブルベッドは、少女二人が柔軟運動をするのにも十分な程の大きさだった。
一人で使うのに何故これほどまで大きな物が設えてあるのか、魔理沙は知らない。小悪魔が寝つきの悪いパチュリーに添い寝をしてやるのではとも考えたが、想像した絵があまりにも滑稽だったのでそれはないだろうと頭の中で即座に否定した。
そしてそろそろ、下着姿を晒す事にパチュリーも恥じらいを感じなくなってきたらしい。脚を広げ、上体を前に……だが、これがなかなか倒れてくれないのだ。丸まった背は今にも悲鳴を上げそうで、伸ばした腕は辛うじて掌がベッドに触れる程度である。そこへ魔理沙が背を押してくれば、背筋ではなくパチュリーそのものが悲鳴を上げてしまう。これではまるで老婆、百歳の老婆である。パチュリーが実際に百年を経ているとしても、だ。
だが久しぶりに……実に久しぶりに、パチュリーは本を持たず他人と接していた。背筋から脚にかけて走る痛みに顔を歪めつつもどこか心地良さそうで、手持ち無沙汰も感じていない。
「なあパチュリー、揉んでやろうか?」
「え、えぇっ!?」
「大丈夫だって、これも痛くしないよ」
「う、うん……じゃあお願い……するわ」
パチュリーが顔から火を吹いた。この身を再び魔理沙に、より深く委ねる時が来たのだ。
胸の高鳴りや浅く速い息遣いを悟られてはならない。努めて呼吸を整え、背筋を正し目を閉じる。
「パチュリー、できれば後ろ向いてほしいんだが」
「え? う、後ろから……そう、魔理沙は後ろからの方が好きなのね……」
「いや、面と向かい合ってだとやりにくいんだよ。それに何か気まずいだろ?」
「後ろからの方が背徳感もあるものね……やっぱり魔理沙は只者じゃないわ」
「あー? 肩を揉むのに背徳感も何もないだろうに」
「あら?」
「ん?」
「……ああ、肩ね」
「お前、何を揉むと……ああもういい、聞かなかった事にしといてやる」
「眠くて思考力が鈍っているだけよ」
日頃、自分が知らない所で彼女がどんな本を読んで過ごしているのかという疑問が立つが、ともあれ慌てて後ろを向くパチュリーの姿は掛け値なしに可愛らしかった。
「肩の方もすごい凝り方だな、こりゃ」
「そうなの?」
「少なくとも私やアリスはこんなんじゃないぜ。これじゃ体も重いだろうに」
「むー……いつもこんな感じだから、肩が凝っていない状態なんて分からないわ」
「そうかい。じゃあ、いい機会だからきっちり解してやる」
「あん、魔理沙、強っ……」
「ほれ、ここなんか特に」
「うくっ! ま、魔理沙ぁ……もっと優しく……」
「何言ってんだ、これでもずいぶん優しくしてるんだぞ」
「で、でも……あ、ひぁぁっ! 駄目だってばぁ!」
「……分かったよ。今日はこれくらいで勘弁してやる」
懇願されてやむなく手に込めた力を和らげる。
指に少々力を加えるたびに嬌声が上がるのではたまったものではない。紅魔館のメイド達にこの様子を盗み聞きでもされていたら、お互い明日から館内でどんな扱いを受けるのか…
「肩が疲れたら小悪魔に頼んでやってもらうといい。他の奴に触られるのが嫌なら自分で揉んでもいいしな」
「ん」
これらの習慣をパチュリーは本当に日常に採り入れてくれるだろうか。
魔理沙にとってちょっとした不安材料であったが、その憂患はすぐに払拭された。固い体を捻って自分の肩に手をやるパチュリーの姿を見たのだ。まだその手つきはたどたどしいが、いざとなれば小悪魔を呼ぶだろう。そしてそのうち肩が軽くなれば、自らの手で疲労感の処理を行うようになるだろう。ベッドの上にちょこんと正座し四苦八苦するパチュリーの姿は、普段の姿とのギャップのせいもあるのだろうか、可愛らしいというよりむしろ愛らしかった。
「ねえ」
「んー?」
「あなたさ、どうして私にそんな構うの?」
「そりゃ、お前に何かあったら困るからさ」
「主に本の事で?」
「なんだ、思考力が鈍ってるって割に冴えてらっしゃるじゃないか」
「詮索する時は別腹よ」
大きなベッドに二人は体を預けていた。
反発の少ないマットレスは体を程よく沈め、まるで深海か大空に似た浮遊感を与えてくれる。魔理沙の家のベッドとは何から何まで違い、もはや未知との遭遇と言って差し支えのないレベルだ。
こんないい物を持っていながら睡眠不足とは贅沢者め、と愚痴の一つでもこぼしたくなったが、この心地よい空間から追い落とされるのも嫌なので魔理沙は口をつぐみ、大の字になって自宅では味わえない快感に酔いしれていた。
「もしお前が倒れたりなんかしたら、お前の後を継いでここを管理するのはどうせ咲夜だろ? あの小悪魔にはまだ荷が重そうだしなあ」
「あら、魔理沙は咲夜がお嫌い?」
「嫌いじゃあないよ。むしろあいつはいい奴だと思ってる……でもどこか苦手なんだよなあ」
「やっぱり咲夜は優秀なネズミ取りなのね。ここの専属護衛にでもしようかしら」
「勘弁してくれ、ていうかレミリアが黙ってないぜ」
「黙らせちゃえばいいのよ。どうという事はないわね」
「おおぅ、魔女様は怖いねえ」
よもやパチュリーが友人のレミリアを差し置いて暴挙に出る事はあるまい。
悪戯っぽく微笑み、パチュリーは眠たげに体を丸める。
「……ああそうだ、あとはアレだ」
「何が?」
「お前に構う理由。やっぱり同士が身近にいると嬉しいんだよなあ」
首を傾け、パチュリーと目が合う。
パチュリーは咄嗟にジト目を逸らしてしまうが、魔理沙はお構いなしにニッコリ微笑んだ。
「ここには私が知らない本が山ほどある。お前は私が思いつきもしない事をいつも考えてる。逆もまた然りさ、きっとな。興味を持つ理由なんてそれだけあれば十分じゃないか?」
「身勝手な話ね」
「何とでも言ってくれ。だけど、ここと、お前に対する興味は尽きない」
「……どうも」
「お前も一度は私の家に来いよ。その時は歓迎……ふぁぁ」
魔理沙の言葉は気の抜けた欠伸によって遮られた。
「いかん、誰かさんの睡魔が……感染ったかな……」
「ちょ、あなたこんな所でこんな恰好で寝るつもり?」
「お構いなく。どうせ誰も来やしないって」
「構うわよ。ここは私のベッド……ふぁぅ」
今度は魔理沙の欠伸がパチュリーに感染ってしまった。半ば夢心地の魔理沙を睨む目も重力に逆らえず、さっきまであれほど速くなっていた呼吸もどんどん深く遅くなっていくのが何となく分かる。
その感覚もだんだん淡くなっていき、感じるのは心地よさばかり。
ほんの少しでも睡魔を遠ざける手段――本は、手元にない。
「あー……眠」
「逆らうなって。そのまま眠っちまえ……じゃ、お先に」
「ちょっと、魔理沙……んもう、あなたってば……本当に――」
身勝手なのよ……
言葉の最後は夢心地の中で。
大の字を描いたまま眠りに落ちた魔理沙の隣で、パチュリーも体を丸め静かに目を閉じた。
* * * * *
「御機嫌よう魔理沙。早速だけど私とお話でもいかが?」
「ご丁寧に玄関でお出迎えとは殊勝だな……ああくそっ、人の事をダーツの的のように見てやがるんだな」
「ふむ、口を聞く分には問題なさそうね」
数日後、紅魔館に『正面から正々堂々と』侵入した魔理沙は玄関でいきなり咲夜と出くわした。
何となく苦手だとパチュリーにこぼしていた咲夜に、ドアを開けたらいきなりである。
驚く間すらありはしなかった。出会い頭に一秒ほど時を止められただろうか、気付いた時には銀の刃が視界を埋め尽くし、魔理沙の服の端を首筋から足元までまんべんなく壁に縫い付けてしまった。おまけに魔理沙の体からは一滴の血も流れ出ない職人技である。
かくして身動きが取れなくなった魔理沙に咲夜が近づく。その顔は表向きにこやかな笑顔だが、般若の顔に笑顔を描いて取り繕っているような感じであった。
「こんな状態でお話とは恐れ入る。こういうのは尋問か拷問って言うんだぜ」
「次はブルズ・アイでも狙ってみましょうか」
「……何でも聞いてくれ」
「ではでは♪」
咲夜に苦手意識を持つ理由が、魔理沙には理解できたような気がした。
「あなた、何日か前にも来てたわよね? そして何の迷いもなくパチュリー様の所へ……」
「日課だ。気にするな」
「その時、パチュリー様に何か吹きこんだでしょう?」
「別に変な事はしてないぜ。ただあいつが眠たそうにしてたから……」
「薬を盛って眠らせ、パチュリー様と図書館を我が物にしようとした?」
「盛るかい! ……アドバイスしてやっただけだよ。体を動かせばいい、って」
「それだけ? 他には何も?」
「これだけだ。お前のナイフに誓ってな」
下手な事を言ったり無言を貫けば新たなナイフでグレイズさせられる事は必至である。咲夜の事だから投げ損じは万に一つ程度であろうが、投げ損じがなくても怖い事は怖い。それに、既に魔理沙の一張羅は壁に縫い付けられてズタズタである。乙女として、これ以上の傷は避けねばなるまい。
「……パチュリーに何かあったのか?」
「ここ数日、図書館に籠りっぱなしなのよ。小悪魔の姿も見ていないわ」
「なんだ、いつも通りじゃないか」
「それだけなら慌てないのだけど」
いや少しは慌てろよ、と魔理沙が言おうとするのに先んじて咲夜が言葉を続ける。
「確かあなたが最後に来た翌日からだったと思うわ。図書館からは昼も夜も怪しげな呪文のような声が……」
「それもいつも通りじゃないか?」
「でも、その呪文らしき声って男の声なのよ」
「何か悪魔でも召喚したんじゃ……って、それに私が関わってるとでも?」
「タイミングがタイミングだからねぇ。悪いけどあなたは第一容疑者よ」
「こんなに善良な私が悪魔崇拝なんかすると思うのかね」
「善良なら図書館の蔵書は減らないと思いますわ」
「いやまあ」
微笑む咲夜。
焦る魔理沙。
見えぬ真相。
ただし、徒に時間を食い潰すわけにもいかない。
「まあ、あまり不気味なものだから調査の為に何度かメイドを派遣したのよ」
「しかし帰還した者は一人もいない――か?」
無言で小さく咲夜が頷く。
「そしてちょうどいい所で第四次調査隊が編成されましたわ」
「おいおい、何があるか分からん所に放り込む気か?」
「所詮はパチュリー様の図書館、中の配置やら何やらはそこらのメイドより詳しいでしょう? それに、霧雨魔法店は何でも屋を営んでいると聞くけど」
「都合のいいお客様もいたもんだ……それにしても私一人で隊なのか?」
「私は私でお仕事があるし、足手纏いの妖精メイドなんていない方が身軽でしょう?」
「そうは言うがな咲夜、何かの時の身代りには……」
「ウチのメイドは質より量がモットーなの。無闇に数を減らせないのよ」
「ゴタイソウな理由だ」
「どうあれ、あなたが最適任である事に変わりはない。魔法に疎い霊夢よりはね」
咲夜が指を弾くと、魔理沙を戒めていたナイフが一斉に消えた。
時を止めての手品気取りなのだが、ともかく戒めを解かれた魔理沙は肩や首を回して呟く。
「……でもただ働きは御免だぜ。ケーキと紅茶を出して待ってろよ」
「仰せのままに」
口約束だが、確かに契約は交わされた。
* * * * *
魔法図書館入口の大扉は、意外な事に鍵も結界魔法もかかっていなかった。
ならば中に入ればトラップの嵐かと思ったが、魔方陣の一つも浮かんではいなかった。
まるで獲物を待つ化け物の口へ自ら飛び込んだようで、静寂が逆に恐ろしい。
「いつも通り……だな」
図書館の中はいつにも増して薄暗く、灯火を掲げてやっと足元が分かると言った程度である。
そんな中を魔理沙は慎重に、どんな小さな異変も見逃すまいと一歩一歩を噛み締めるようにゆっくり進んでいた。
見た感じ、大きな異変があるようには思えなかった。整然と並んだ本棚にぎっしり詰め込まれた本。本棚に入りきらず床に積み上げられた本。想像もつかないほどの年月を刻んできた事を思わせる埃っぽい空気。暗さが増している事を除けば、全ていつも通りの魔法図書館である。息をするが如く自然に手近な本に手が伸びてしまうが、魔理沙なりの御愛嬌である。
行方不明になったという先発の調査隊メイドの姿が見当たらないが、未踏査の区域にいるのだろう。だが奥に踏み込めば、その分危険度は増すはずだ。
「パチュリーは見つかりませんでした、じゃ咲夜はケーキ出してくれないよなあ……ん?」
未踏査区域と言っても今の所は広大な図書館の大部分がそれに当たるのだが、そのあまりの広さにげんなりした魔理沙の耳に静寂を破る音が聞こえてきた。
せっ…… せっ…… せっ……
「何だ……咲夜の言ってた呪文って奴か?」
パチュリーの喘息とは様子が違う。
彼女のか細い喘ぎと比べると野太く力強く、なるほど咲夜が言っていた男の声のようにも聞こえてくる。それが、途切れる事なく一定のリズムで聞こえてくるのだ。
もあ、せっ…… もあ、せっ……
近づくごとに呪文らしき物はより明瞭になってきた。全く同じ抑揚、全く同じリズムで男の声が延々と繰り返されているのだ。これでは呪文とすら言えなさそうだが、ならば進んだ先で何が起こっているのか尚更分からなくなってくる。
謎の声が聞こえてくる事以外に魔理沙はまだ異変を感じていないが、何か言いようのない不安がずっと腹の底にわだかまっている。真相を知る為に魔理沙は先に進まなければならないし彼女が本来持つ好奇心が余計に背中を押すのだが、同時に不安が足を押さえる。魔理沙がもう少し気弱な少女だったなら、アンビバレントな感情の狭間でたちまち腹痛に苛まれている事だろう。
かといって退けば待っているのはケーキではなく咲夜のナイフ、というわけだ。ここは戦略的撤退という言葉は捨てねばならない。
「パチュリー、いるんだろ!」
だから、思わず声が出た。
だが闇に向かって声を張り上げた瞬間、珍しく魔理沙の胸が高鳴り始めていた。無論、これまでにない不安の為だ。
パチュリーが素直に応じて出てきてくれればそれでいい。それで魔理沙の不安はたちまち解消され、恐らくは行方不明のメイド達も見つかり、咲夜のケーキを美味しくいただけるという寸法だ。
だがそうでなかったら……反応がないか、別の何者かが応答してきたら……
「咲夜から聞いたぞ! 怪しげな呪文とか何とか……私に黙ってるなんて水臭いじゃないか!」
不安を払拭するように魔理沙は言葉を続けた。
例え虚勢でも張った者勝ちだ。
せっ……
「……む」
魔理沙の声に呼応したように呪文らしき声が途切れた。
静寂が辺りを支配すると空気が一段重くなったような感じがする。水をかき分けて進むような、総身に絡みつく重さだ。拭い去れない不安も手伝っているのかも知れない。一瞬でも油断した隙に死角から何か得体の知れないモノが襲いかかってくるのではないか――今日の図書館の雰囲気ならそれもアリ、だ。警戒をいくらしてもし過ぎる事はなく、声が聞こえていた方向を注視しつつ魔理沙はそろりそろりと歩みを進める。
『魔理沙?』
「ッ!?」
突如聞こえた声に魔理沙は一瞬怯み、しかしすぐに胸を撫で下ろした。
くぐもった感じではあるが、抑揚に乏しい口調に心当たりがありすぎたのだ。
「パチュリー、いるんだな。まったく心配かけてくれるぜ」
『そんなに心配する事なかったのに……私はあなたに言われた事をやっていただけよ』
「私に?」
『あなたが来たあの日……私は久しぶりに心の底から気持ちよく眠れたわ。あんな簡単な事でぐっすり眠れるなんて、本当に盲点という奴だった。この世にはまだまだ私の知らない知識が存在するのね』
「そうかい、そいつは何よりだ」
『だから私はあなたに言われた事を守ったわ。確かに体を動かす事で快眠を得る事ができるけど……魔理沙、私はあなたが語らなかった事に気づいてしまった』
一瞬の間を置き、姿を見せぬまま声の主……パチュリーはくぐもった声を紡ぎ続ける。
『体を動かす事そのものが既に快感であると気づいたのよ!』
「……いや、それって割と普通だぜ? むしろよくぞ今まで気付かなかったものだと」
『そして私の目的は一つ増えた……ただ体を動かすだけでなく、鍛える事も考えないと』
「あー……まあ貧相に見えるよりはいいのかもな」
『どうせやるなら極限を突き詰めて』
「前言撤回。普通だがお前は普通じゃなかった」
『かといって館の皆を無闇に巻き込むわけにはいかないから、こうやって図書館に籠っていたのよ』
「さらに撤回。お前は普通なのかそうでないのかよく分からん」
パチュリーの声を聞きながら魔理沙は黙考していた。
こう言うとパチュリーには失礼にあたるのだが、独り静かに唯我独尊を貫く彼女にしては一日坊主で終わらなかったのが意外である。パチュリーをパチュリーたらしめる読書欲より、最も基本的な生理的欲求の方がこの場合は勝ったのだろう。
しかしこの状況を果たして喜んでいいものか、困った挙句に魔理沙は無表情を取る事にした。
『体を鍛える為に効率のいい体の動かし方を調べる所から始めたわ。あなたが言ってた呪文というのは、体を鍛える為の儀式みたいな物よ。つい最近まで外の世界で流行ってたみたい』
「はあ、熱心な事で」
『そして消耗した体を支ると共に鍛錬の効率を上げる為に薬を調合し……』
「は?」
『薬の効果は効果は抜群だったわ。みるみるうちに自分が変わっていくという事が実感できたの』
「ちょっと待てーい! 快眠はどこへ行った!?」
『薬草や魔法生物、他にも数え切れないほどの食材や薬物を……』
「そこまで聞いてないって!」
『後で魔理沙にも作り方を教えてあげるわ』
「いいからとにかく姿を見せてくれ! 近くにいるんだろ?」
返事はない。
沈黙もまた回答という事か、あるいは図書館の深部へと魔理沙を誘っているのか。
『……そう言えば魔理沙、さっきそこの本を盗っていったでしょう?』
「いっ!? ななな何の事だぜ?」
『あそこにあったのは魔法陣の基礎的な解説書ね。あなたには物足りないと思うけど?』
懐にしまい込んだ本にこっそり視線を落とす。
なるほど確かにそれらしい扉絵やタイトルが見て取れ、魔理沙は感心すると同時に薄ら寒い物を感じ慌てて本を隠した。たった今も、パチュリーはそう遠くない所でこちらの様子をうかがっているに違いないのだ。
『窃盗の現行犯よ、魔理沙。盗った物を置いて行きなさい』
「……そうしたくなるようにさせてみな」
『仕方ないわね』
図書館中に魔法の光が灯り、魔理沙の姿を明るく照らした。
視界が開けてもパチュリーの姿は見えず、失踪しているメイド達も見当たらない。
しかし魔理沙は図書館に入ってからまっすぐ歩いてきたので、全速で退けば誰にも追い付かれる事なく図書館を出る事ができるだろう。いくらパチュリーの様子が普通ではないと言っても、彼女を相手に事を荒立てるほどの気は魔理沙にはない。咲夜はあまりいい顔をしないかも知れないが、とりあえずパチュリーの安否確認という最低限の仕事はこなしたのだからナイフは飛んで来ない筈だ。
機を見て逃げ出そうと構える魔理沙に、パチュリーのため息混じりの言葉が降り注ぐ。
『こないだも私を探しにメイドが何人か来てたけど、みんな私の薬の良さを理解してくれたわ』
「理解、って……全員無事なのか!?」
『今では私の大事な鍛錬仲間。彼女たちも私と同じように変わったのよ』
「……小悪魔も、か?」
またしても返事はないが、魔理沙は無言を肯定と解釈した。
咲夜の話を聞いていた時にある程度予想はしていたが、魔法図書館の良心がパチュリーの側に取り込まれてしまったとすればなるほど中の情報が今まで漏れてこなかったわけである。小悪魔の事だからもう既にパチュリーの援護に回り何らかの動きを起こしているかも知れない。魔理沙に気づかれぬよう図書館入口のドアを封じておくだけでも大金星だ。
自分がアウェーの地で完全に孤立した事を悟り、魔理沙は小さく舌打ちした。
『まさか……こんな形で鍛錬の成果をお披露目する事になるなんてね」
くぐもっていた声がだんだん鮮明になり、ついにはパチュリーの肉声そのものになった。
こうなったからには黒幕は優雅に姿を現すのがお約束という奴であるが、案の定ゆったりとした靴音が聞こえてきた。音の響きからすれば居場所はせいぜい二、三ブロック先、確かに魔理沙の目と鼻の先だ。
「でも、この体の実戦テストにはちょうどいいわ。魔理沙もきっと驚くでしょうし」
「お前の何に驚くって言うんだよ。せいぜい顔色が良くなった程度だろ?」
「驚くわよ。絶対」
コツリと靴音が途絶えた瞬間、魔理沙は言葉を詰まらせた。
本棚の角から現れたのはパチュリーだった……いや、パチュリーの姿をしていた。
紫色の髪、白いローブ、手にした魔法書は確かにパチュリーを示す記号である。先ほどまで聞いていた抑揚に乏しくゆったりとした口調も確かにパチュリーのそれだ。だが、それ以外の要素が魔理沙の知っているパチュリーとは致命的なまでに違っていた。
「なあ……あ、あ……」
「ほら、やっぱり驚いた」
「お、おま……パチュリー……さんでいらっしゃいますか?」
「どうしたの? 敬語を使うなんてあなたらしくもない」
魔理沙が驚くのも無理はない。むしろ一目見て失神しなかった分よく耐えたと褒めてやるべきだろう。
彼女の目に飛び込んで来たのは、過剰なまでにビルドアップされた『パチュリーの顔をした誰か』だったのだ。
「この数日間で私は変わったの」
「そんな、変わりすぎだ……背まで伸びて……」
「もう喘息でスペルが唱えられないなんて事はないし、力仕事を小悪魔に押し付ける事もない。この雑然とした図書館もあっという間に片づけられる事でしょう」
パチュリーの言葉には、普段彼女が語る魔法理論に匹敵しうるであろう確かな説得力があった。
何をどうやったらそうなるのか体躯は魔理沙が見上げるほどにまで伸長し、その腕、胴回り、脚の筋肉の逞しさといったらモヤシどころか大木であり、小脇に抱えた魔法書もこの時ばかりは小さなメモ帳に見えてくる。ゆったり着こなしていたローブは内から千切れそうなほど張り詰めており、頭をすっぽり覆っていた帽子は頭頂部の一角に引っかかっているような印象である。それでいて見慣れた顔と幼さの残る声はそのままなのだから違和感があるにも程がある。それこそ、もしかしたらパチュリーなのではなくバチュリーとかパチョリーとかそういう名の別人ではないかと思う程に。
華奢なパチュリーをたった数日でここまで変えてしまった薬とやらに魔理沙はほんの一瞬だけ興味を示したが、あまりにも危険であると本能が即座に否定した。パチュリーでさえここまで化けたのだから、対峙する者にとって肉体的にも精神的にも致命的な物である事には間違いない。
(落ち着け私、落ち着け私。ただデカいだけのパチュリーだ……パチュリーに違いない……パチュリーであって下さい)
「もちろん私だけじゃあないわよ」
「うぅっ!?」
パチュリーの言葉と共に天井から降ってきた影を見て魔理沙は再び言葉を失った。
降り立った影は四つ、それらの服装全てに見覚えがある。白と濃紺を基調としたメイド服は紅魔館のメイドの物で、白と黒を基調としたシックな制服は図書館の小悪魔が着ている物と全く同じ。失踪していたメイド妖精と小悪魔本人に間違いないだろう。
ただ一つ、魔理沙が記憶している姿との違いを挙げるなら四人ともパチュリーと同じ体躯を得て、しかもそれを誇らしげに披露しているという事だ。
「でっ、でででで……」
「さあ魔理沙、私たちの追撃から逃れられるかしら」
目の前には筋骨隆々とした……もはや筋肉の塊が五つ。
「出たああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
魔理沙の声は、図書館の外には届かない――
(終)
タグにまんまと釣られてしまいましたWW
なんだかこのパッチェさんいいなWW
途中がエロイだけにオチがw
間にやられたww
しかも幼さの残る声…だと……?