暦の上では春も中頃。しかしこの幻想郷は標高の高い山岳部にあるため、体感的な春の訪れはまだ少しばかり先になる。
背丈ほどの高さまで降り積もっていた雪も、このところの天気ですっかり溶けきった。
だが、桜の花が美しく咲き始めるまでは、まだ幾ばくかの日数が必要とされるであろう、そんな春のある日の夕方遅く。時刻としては、ほとんど夜になりかけていた頃であろうか。
正午過ぎに突然やって来て以降、ずっと居座り続けている魔理沙に続き、実に厄介な奴が博麗神社を訪れた。
それも、いきなり霊夢と魔理沙が居る部屋に、文字通り突如として出現したのだ。
来襲した二人組は、訝しむ霊夢たちを尻目に電光石火の電撃戦で炬燵へと侵攻、がら空きとなっていた左右領土を占領してしまった。
現在、炬燵の四方はそれぞれに分割統治されている。今は平静を保っているが、この絶対防衛圏を侵犯してくる不届き者がいれば、直ちに報復措置が取られるだろう。
もし足を投げ出して寝転がってしまえば、即開戦である。
この博麗神社の一角は、まだ肌寒い外気と同様、冷戦状態になりかけていたのである。
そう大きくはない炬燵は、四人が使用すれば満杯状態である。その少ない占有面積の中で効率よく暖を取るべく、魔理沙は炬燵にこれでもかと密着していた。正面から見れば、まるで頭部だけが台の上に置かれているようで、なんとも滑稽な姿である。
「珍しいな、あんたが冬に起きているなんて」
魔理沙は、視線だけをそちらに向けて喋る。
すでに行われた侵略行為に対しては何も言わない。そんな事を言っても何にもならないと判っているからだ。
もちろん、正面に座る霊夢にしても同じ。こいつに限って言えば、文句は社交辞令と同じようなものである。
「そうかしら? 暦の上では春真っ只中ですわ」
魔理沙の右、霊夢側からしてみれは左に座っていた紫がそう答える。その口調は掴み所がなく、ここに居る事がさも当然だと言わんばかりである。
「そうかもしれないけど、リリーホワイトだってまだ活動していないわよ。
それに、確かにこの時期にあんたが起きているのは珍しい事じゃない?」
霊夢は、魔理沙の言葉を強調して同意する。それは言外に、迷惑だという意味合いも多分に含めていた。
「失礼です! 紫様だって、寝てばかりではないのです!」
その声は、紫の正面……魔理沙からしてみれば左側、霊夢からしてみれば右側から聞こえてきた。しかし、声だけで霊夢や魔理沙の視線からは誰も座っては居ないように見える。
その声の主は、橙。彼女は炬燵の中にすっぽりと入ってしまっていたので、他の者達からは姿が見えなかったのである。
だが待って欲しい。炬燵の占有面積は四分割され、極めて限定されている。しかも残りの三人は霊夢・魔理沙・紫という幻想郷トップクラスの猛者達。その中で、橙だけが無謀にも炬燵の中に潜り込めるのだろうか?
出来る、出来るのだ。橙は猫の妖怪に式神を憑けたもの。猫本来の特性を十二分に発揮し、限られた占有面積の中でくるりと丸まっているのである。
むろん、彼女の身の小ささがそれを助けているのは言うまでもない。
「何かを喋る時は、せめて顔ぐらいは出しなさいよ。
まったく、ちょっと躾がなっていないんじゃない?」
見えない姿の代わりに、ほっこりと盛り上がった炬燵の掛け布団。繭のようなそれを眺めながら霊夢が言うと、紫も少し困ったような表情で呟いた。
「そうね……甘やかしすぎたという訳じゃないけど、少し厳しさを欠いたかもしれないわね。これからは、もう少し厳しくいこうかしら?」
「そ、そんな。申し訳ありませんでした紫様!」
冗談とも本気とも判らないその紫の言葉に、橙は炬燵から素早く飛び出し、紫と正対するように炬燵へと再進入する。
しかし寒いのか猫だからか、魔理沙と同じく猫背状態で炬燵と密着。顔だけ妖怪が二匹に増えた。
「もう、出たり入ったりするから、炬燵の中に冷たい空気が入っちゃたじゃない」
霊夢は寒さに震えながら、少し捲れた炬燵の掛け布団を直す。
その時、それまでの確執を超えて、霊夢を除く全員が『だったら、そんな腋が開いた服なんて着なければいいのに』という思考で統一された。
「それにしても、紫が橙を躾けていたなんて驚きだな。
私はてっきりそういうのは全部、藍に任せっきりだと思っていたぜ」
「「――――――」」
魔理沙の言葉に、紫と橙の雰囲気が一瞬変化したように見えた。
少しくらいは皮肉の意味も入っていたかもしれないが、魔理沙としても特に悪意を込めた言葉ではなかった為、その意味を計り知れないでいた。
幻想郷では、このぐらいの皮肉や挑発など日常茶飯事なのだ。弾幕ごっこの前口上など、さらにその悪態っぷりに拍車がかかる。
「ん? どうしたんだ?」
「……なんでもないわ。それより、そんな風に見られていたなんて心外だわ。橙の事を大切に思っているのは、藍だけの専売特許ではないのよ?
私だって口出しぐらいするわ」
「あー、まあ考えてみれば、それもそうだったな」
すぐにいつもの調子に戻り、落ち着いてはいるが自信に満ちあふれた口調で話す紫の言葉に、魔理沙も納得する。
紫の言葉自体が何処まで信頼できるかは未知数だが、少なくとも橙と一緒の時ぐらいは、口出しぐらいはする筈だからだ。
いくら紫といえども、そこまでは放任主義ではないだろう。
「皆さん、紫様を誤解しすぎです。本当はもっと凄い方なんですから!」
橙はそう言って胸を反らす。
寒かったらしく、すぐに炬燵へと密着し直したが、その二つの瞳は眩しく輝いたままだ。
橙の疑う事を知らない真っ直ぐな視線を浴びながら、「これが『まいんどこんとろーる』というやつか」と、霊夢と魔理沙の二人は式神という存在を哀れんだ。
「そうかしら……普段の言動を見ていたら、とてもそうは思えないけど」
「そんな……悲しいわ。悲しくて涙が出ちゃう」
紫は出てもいない涙を、ハンカチで拭う仕草をしてみせる。その演技は、いかにもわざとらしいまでに三文芝居だった。
「なあ、橙。これでも凄いのか?」
魔理沙は、顎と視線の動きだけで紫を指し示し、橙に訊いてみた。もっとも、式神である以上は答えは最初から決まっているようなものだったが。
「す、凄いんだと思います?」
「質問を質問で返すな。それから目を見て話せ」
――よかった。まだ救いの余地はある。『まいんどこんとろーる』とやらも、そう完璧ではないようだ。
「それで? 何であんた達がここに居るの? 春はまだ先よ」
「霊夢。会話がループしてるわよ」
無限ループって怖くないかしら? などと、意味不明な事を口走る紫の言葉を、霊夢は持ち前の当たり判定の少なさで華麗にグレイズした。
「それはあんた達がここに居る限り、よ」
「まあ酷い。私たちに出て行けというの? この寒空の下で凍えてしまうわ!」
「隙間で帰ればいいでしょ? やって来た時みたいに」
「うわーん、魔理えもーん! 霊夢がいじめるぅー!」
感情のまるで籠もっていない、霊夢からの突き放しを受けた紫は、今度は魔理沙へとその矛先を変えたようだ。
「だれが魔理えもんだ! そして魔理えもんってなんだ!?」
幻想郷中にその悪名を響かせている魔理沙も、流石にこれには引いたようで、炬燵から半身ほど抜け出して紫から距離を取った。
「この危機を救ってくれる不思議キャラクターの事よ」
「だったら、少なくともこの部屋には居ないわね」
「ガーン!」
霊夢の突っ込みによって、救済のすべてを否定された紫は、わざとらしく大きく仰け反って見せた。
誰が不思議キャラクターだ、という突っ込みを返せなかった魔理沙は、それらのやり取りを横目で見ながら、ぽつりと「……お前ら、仲良いな」と皮肉げに呟いた。
「どこがよ!! その目は節穴じゃない!?」などと、霊夢が声高く反論するが、紫だけは照れた仕草で「あら、やっぱり解っちゃうかしら?」などと戯けてみせる。
その瞬間、本気で霊夢の顔が引きつっていた。
「……で、本当に何しに来たんだ?
また無駄に会話を繰り返す訳にはいかないから、本当の事を喋った方がいいぜ」
「……本当の事?」
わからない、という意味なのだろう。首を傾ける紫の仕草は、少なくとも霊夢や魔理沙にとって、可愛らしさとは縁遠く見えた。
「そうよ、また何か企んでいるんじゃないの!?」
「なんて辛辣な人達なのかしら。もう少し、歯に衣を着せる話し方を心掛けた方が良いわよ」
魔理沙と霊夢の追求も、紫にとっては意味のない言葉遊び。のらりくらりとかわされてしまう。
「あんた相手に腹芸なんて時間の無駄よ。
で、本当に何しに来たのよ。この時期のあんたはまだ眠っているはずよ。わざわざ起きているという事は、何か良からぬ考えがあっての事でしょうが!」
「――はあ。なんて悲しい人達……。橙、こういう妖怪に育っては駄目よ?」
いきり立つ霊夢を尻目に、紫は正面の橙を見据えてそう訓示する。
「はい!」
霊夢の追求が悪い見本とされてまう。そしてそれに対する橙のなんて良い返事。
嗚呼、こうして式は『まいんどこんとろーる』されていくのね?
「私らを反面教師にするな! ってゆーか、今のは私達が悪い訳!? あとついでに言っておくけど、私たちは人間なんだけど!?」
あらあら、今の態度は悪い見本と言えなくなくて? などと戯けている紫の側で、今度は魔理沙が反論の口火を切る。
「以前の異変の時、この時期はまだお前は寝てたからな。
……でだ。あの異変の後、ちょっとした用で藍に会う機会があってな、その時に聞いた話なんだが、寝ている主人を起こすのは大変だって凄くぼやいてたぞ。
特に、冬眠中のあんたを起こす時は命がけだってな」
「まあ、藍ったら!」
口調こそは怒ってはいるが、その怒りは表情には反映されない。怒りを内心に収めているのか、それともそういった素振りを見せているだけなのか。
「ゆ、紫さま……」
ただ橙だけは心配そうに紫を見つめている。霊夢達よりは圧倒的に長時間、接して来た橙にしても、紫の態度は判別に苦しむものなのだろう。
「だから言っているでしょ?
一度冬眠したら梃子(てこ)でも動かないあんたが、普段なら寝ているこの時期に起きて活動している事自体、ちょっとした異変なのよ」
「わかったわ……そこまで言われたのなら仕方がない。
私の本当の目的を話すわ……」
急に真面目な顔つきになり、姿勢までもピシリと正す。
その雰囲気の変わりように、霊夢と魔理沙も釣られて背筋を伸ばしてしまう。
「紫様……」
「橙、あなたは黙っていて頂戴」
何かを言いたげな橙の言葉をも、紫は押し黙らせる。
「やっぱり何か裏があったのね」
「なんだ? 異変か? 異常気象か? それともまさか……」
「それはね……」
「「それは……?」」
射抜かれるような紫の視線。霊夢と魔理沙は丹田に力を入れ、ごくりと唾を飲み込む。
「霊夢に会いに来たのよ!」
「「はぁ!?」」
ごん、と霊夢と魔理沙の両名は実にタイミングよく、炬燵の台に頭をぶつけた。
あまりにもお約束すぎる、超ベタな典型的オチに、二人とも糸の切られた人形のように頭から崩れ落ちてしまったのだ。主に精神的な意味で。
「実はね、たまたまこの時期に目覚めちゃったのよ。
また寝直そうと思ったんだけど、その前に霊夢の顔でも見ておこうと思ったの」
「な、なによそれ。そんな理由でここに来たの!?」
炬燵の台を両手でバン、と叩く霊夢。霊夢と魔理沙の前に置かれている湯飲みが、少しぐらつく。
なお、紫と橙の前にはまだ置かれていない。
「そうよ? それ以外に何もないわ」
くすくすとも、にやにやともとれる微笑は、実に腹の立つ事この上ない。
「あ~、何か気を張って損した。
それならそうと最初から言いなさいよ!」
「言っていたじゃない。わざわざ冤罪を作り上げていたのはあなた達よ」
「……ふん。普段が普段だからよ。もう少し普段を省みてくれれば、私たちも少しはあんたを信じてあげても良いわ」
「こんなにも、清く正しく生きているのに?」
「まるでどこかの鴉天狗の謳い文句だな。逆に胡散臭いぜ」
ようやく頭を起こした魔理沙が、ふん、と鼻を鳴らす。
「それで、いつまで居るの? ここは神社で、あんた達は妖怪。特に用もなければ居る必要はない場所よ?」
「だから霊夢の顔を見に来たんだってば」
「もう十分見たでしょ?」
「もっとよ。冬眠中は見られなかったんだもん。霊夢分を補給しなきゃ」
「人の名前で変な造語を作るな!」
露骨に嫌な表情を隠そうともしない霊夢だったが、紫は何故か自信満々に不敵な笑みをこぼしている。どうやら、何か秘策があるらしい。
「それに、ちゃんと手土産は持ってきているわよ?
何処かの魔法使いと違ってね」
「失礼な。手土産ならキノコが沢山あるぜ」
「あんたの持ってきたキノコ、半分は毒キノコだったじゃない」
「――手土産には変わりないぜ。ただ、食べられないってだけだ」
「それで、手土産って何よ」
「……無視は辛いぜ」
霊夢は、紫の『手土産』という単語に興味を示した。食いついた、とばかりに紫はにやりと口元を釣り上げる。
魔理沙は、またいつものパターンか、と思って眺めていた。紫が物や食べ物で霊夢の関心を引こうとするのは、そう珍しい事ではなかったのである。
「ふふ。土産と言えば、定番はこれでしょ?」
紫が指を空間につ……と沿わすと、何もない場所から隙間が開き、中から一本の瓶が取り出された。
外界の代物らしかったが、それが何であるかはすぐに理解できた。
「酒か!」
「焦らないで、まだあるわよ?」
舌なめずりする魔理沙に勿体ぶる素振りを見せながら、さらに紫は隙間へと手を差し込んでいく。
「凄いな。白菜に椎茸、長ネギに豆腐、油揚げに牛・豚・鳥の肉。しかも、こんなに沢山――」
そこから取り出されたのは何本もの酒瓶に加えて、沢山の野菜や肉類。しかもその鮮度や質の良さは、宴会でもそうそう見られないほど上質なものであった。
「どう? これでもまだ帰れと言うのかしら?」
「……ま、まあこの食材を食べ終わるぐらいまでなら、居てもいいわよ」
「巫女の癖に物欲で釣られたか」
「違いますよ。今流行の『つんでれ』というやつですよ、きっと」
急に態度を軟化させた霊夢の露骨な変化に、魔理沙と橙がヒソヒソ声で何かの会話をしている。
「ちょっと、内緒話なら聞こえないようにするものよ?」
まったく、と呆れる素振りを見せながらも、霊夢の目は食材に釘付けである。
「まあなんだ、霊夢の事だからてっきり食材だけ貰って追い返すのかと思ったぜ」
「わたしゃ追い剥ぎかい!」
「それとも、『自分が食べ終わるまで』という意味だったりしてな」
くしししし、と笑う魔理沙の前で、霊夢はすっくと立ち上がる。
「……神霊『夢そ――――』」
スペルを取り出した霊夢の周囲に霊力の気流が集まりだし、七色に輝く光が渦となって発行し始める。
「わっ、冗談! 冗談だよ!」
魔理沙が慌てて両手を振り、言葉の撤回を訴えると、霊夢も溜息の一つと共にスペルの発動を中止させた。
「わかってるわよ。
こんな所でスペカなんて使ったら、せっかくの食材が駄目になっちゃうじゃない。散らかった部屋は萃香にでも直させればいいけど」
「私と食材とどっちが大切なんだ!?」
「聞きたければ言うけど?」
「いや、いい……」
「あなた達、漫才している暇があるのだったら、鍋の用意くらいしてくれないかしら?」
パンパンと手を打って、二人の間に割り込んでくるのは、流石に大妖怪の貫禄か。
ともかく、それで霊夢と魔理沙の一悶着は集結したが、実際には最初からそんなものなんてなかったのである。
幻想郷では、酒と弾幕ごっこは日常の一部であり、切っても切り離せない物なのだ。宴会の席では必ず最低一回は、弾幕ごっこが発生する。
「はいはい、今準備してくるから、座ってなさいな」
霊夢は両袖の紐を解き、取り外した袖を二つに折り畳むと、自分が座っていた場所にそっと置く。
その後、台所へ行こうとした霊夢に、後ろから紫が声をかけた。
「ちょっと待って」
霊夢が振り返ってみれば紫も立ち上がり、袖をまくっている。
「ん? なによ。言われたとおりに鍋を取ってくるんだから、邪魔しないでよ」
「私も手伝うわ」
「「――――――」」
瞬間、硬直する霊夢と魔理沙。パーフェクトフリーズでもここまでの惨状を引き起こさないだろう。
「どうしたのよ?」
石化している人間が二人。紫と橙だけが、時間が停止したこの空間の埒外にいるようである。
「なあ紫、お前本当におかしいぞ。熱でもあるんじゃないのか?」
「そうよ。もしかしてやっぱり何か企んでいるのかしら?」
「ひ、酷い……人を信じられないって、こんなに辛く、そして悲しい事だったのね……!」
紫はよよよ、と崩れ落ちると着物の袖で泣き真似をしている。……が、その姿は同情を引くどころか、嫌悪感を増大させる効果しかないようだ。
「いや、あんた妖怪だし……」
「その前に、泣き真似ならせめて涙の一滴でも見せたらどうだ?」
「二人とも酷いです! せっかくの紫様の善意を……!」
冷たく言い放つ二人に対し、立ち上がって憤慨する橙。やはり『まいんどこんとろーる』は完璧であったか……。
「善意……ねえ?」
顔を見合わせる霊夢と魔理沙。この妖怪に善意、という言葉ほど似合わないものはないだろう。
「私は、ただ霊夢と少しでも長く側に居たかっただけ……」
「ええい、気色悪い。それが本音か!
言っておくけど、鍋の準備なんてたいして時間のかかるものでもないから、私だけで十分よ」
「でも、これだけの食材を運ぶのは一人では無理でしょ?」
「そりゃあ、まあ確かにそうだけど……」
炬燵の上の食材と、涙で目を涸らしている(ように見える)紫の顔を交互に見比べながら、霊夢は苛立ちげに頭をボリボリと掻く。
「はあ……手伝いたかったら手伝ってもいいけど、絶対に邪魔しないでよね」
「よーし、張り切っちゃうわよー」
いけしゃあしゃあとは正にこの事か。それまでの(出てもいない)涙など何処吹く風、紫は満面の笑みで勢いよく立ち上がる。
「……なあ、橙」
「なんですか?」
「今の紫の姿、お前の目から見てどう思う? 仮にもご主人様のご主人様だぞ」
「紫様はああ見えて、とても料理がお上手なんですよ。ですから霊夢さんの邪魔になるような事は決してありません!」
「ふーん。まあお前の口から否定的な事言えないよな。あんなのでも、ご主人様のご主人様なんだし」
「そんなつもりではありません! 私は思った事をそのまま話しているだけです!」
「じゃあ、なんで私の顔を見ない?」
「……リリーホワイトって、なんで弾幕でしか春を表現できないのでしょうか?」
「話をそらすな。そして私の顔を見て話せ」
霊夢と紫の二人が出て行った事で、炬燵にはその分スペースに余裕が出来ている。
今だとばかりに、早速足を投げ出して座っていた魔理沙と橙の耳に、台所から霊夢の怒鳴り声と共に、何か暴れているような物音が聞こえてくる。
『こらっ、紫! 変なとこ触るな!!』
『あ~ん。霊夢の愛が痛いっ☆』
『やっぱり出て行けーっ!』
「なあ、橙。今の――――」
「あ、蜜柑食べます?」
「これから鍋だってのに、そんなの食うか!」
食材の調理と言っても、鍋に使用する程度の物ならば、せいぜいが野菜や肉などを適度な大きさに切り分ける程度である。
よって、霊夢と紫の二人が台所に消えてから、ごく僅かな時間で下準備を終えた二人が魔理沙達の待つ居間へと戻ってきた。
大きな土鍋を抱え、台所から戻ってきた霊夢はぷりぷり怒っていた。それを見た魔理沙は、ぷっくりとしたほっぺたが、ちょっと可愛らしいなと密かに思ったという。
「まったく、いきなり変な所触らないでよね!」
「誤解よ、霊夢~。すれ違おうとしたら、偶然触れちゃっただけなのよぉ」
「偶然で、脇の下に手が触れるか!」
「あー、何というかその光景がありありと目に浮かぶぜ」
「浮かばすな、そんなの!」
霊夢は、頭から湯気が立ち上るぐらいご立腹のようだ。しかし、それでもてきぱきと鍋の用意をする所は流石である。
色気より食い気という言葉があるが、今の場合は怒りより食い気、なのであろう。
「それにしても酒と食い物があったら、呼んでもいないのに出てきそうな奴らが何人もいるのに、今日は姿が見えないな。
具体的に言えば亡霊とか、鬼とか。あと天狗と神様」
特に酒絡みの時の鬼出現率と、料理絡みの時の亡霊出現率は群を抜いている。しかもその鬼も亡霊も、紫と同じくらい図々しいから始末におえない。
「来なくて良いわよ、そんなの」
「ふふ……そうよ。せっかく私たちだけで楽しんでいるんですもの。たまにはこんな日があっても良くはなくて?」
「まあ、それもそうか」
「そうですよ。それより、早く食べちゃいましょうよ! 私、おなかペコペコなんです!」
「そうだな。変なお邪魔虫がやって来る前に、料理を平らげとこうぜ」
「――邪魔なんて入らないけれど、ね」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ何も。さあ、鍋をこの台に乗せて頂戴」
紫が隙間から取り出したものは、金属製の長方形型の箱だった。大きさとしては、アリスやパチュリーが持っているグリモアと大体同じぐらいだったが、変なツマミみたいなのがくっついている事から、何らかの装置であるとは推測できる。
「この台は何だ?」
蒐集家でもある魔理沙が、それを興味深そうにそれを見つめる。その視線は、隙あらば掠め取ろうと言わんばかりだ。
「外の世界で使われてる、卓上の焜炉よ」
「ふーん。……そう言えば、香霖堂で似たような物を見たような気もするな。せっかく、この魔理沙様の八卦炉の出番だと思ったのに」
「あんた、鍋に八卦炉を使うつもりだったの!? 跡形もなく吹き飛んじゃうわよ」
「その辺はちゃんと調整するぜ。
まあ、微調整がちょいと難しくてな。間違えて鍋が溶ける事もあるかもしれんが」
「そんな物騒な物より、こっちの方がいいわよ。
で、紫。早く火を付けてよ。この焜炉の操作の仕方はあんたしか出来ないんだし」
ぶー、とわざとらしい声で不満を現す魔理沙を蚊帳の外に置き、霊夢が紫をせっつかせる。
「はいはい、そう焦らない焦らない」
紫が機械のツマミを回すと、ボッという音とともに火が発生する。おおー、とそれを見ていた霊夢と魔理沙の二人が声を揃える。
「さ、この上に鍋を置いて頂戴」
「よしきた」
「肉はこっちに置いておきますね」
「こら、そっちに置くと私が取れないでしょ」
「ほらほら喧嘩しない。沢山あるんだから分割すればいいでしょ?」
何も言われなくても、こういう時だけは皆率先して行動は早い。しかしそれには理由があるのだ。
鍋や焼き肉と言った、多人数で一つの鍋や鉄板などの限定された調理場所を共有する食事の場合、具材の確保の段階からすでに勝負は始まっているのである。
何の勝負かって? 食という生存競争に決まっているではないか。
紫が持ち込んだ焜炉は、その大きさの割りに強い火力で鍋を熱し続ける。これほどの小ささでこれほどの火力を発揮するとは、実に大したものだ。もしこれを量産出来たら、幻想郷の台所事情は大きく変革するであろう。
鍋はいよいよ、ぐつぐつと小気味よい音を出し始めてきた。その音と同調して、中の具材がぷるぷると小さく身を踊らせる。
食欲を増進させる匂いが部屋中に充満し、誰かは知らないが、ゴクリと唾を飲み込む音が一つ、聞こえた。
「……もうそろそろ、いいんじゃないか?」
「そうね、頂きましょう」
「よーし、じゃあ早速……痛っ!」
魔理沙は先ほどから握りしめていた箸を持ち直すと、せっかくだから私はこの牛肉を選ぶぜ、とばかりに鍋へと箸を突貫させた。
それは、まさに剣豪の一振りともいえる食への執念が籠もった速度であったが、それを紫は扇で打ち止める。
獲物は箸と扇であったが、第三者にはそれが真剣同士の鍔迫り合いであるかのように、飛び散る火花までを錯覚したであろう。
「こらっ、その前にする事があるでしょ?」
「……ちぇっ、わかってるよ」
「霊夢も橙も、一度箸を置く」
紫に注意され、霊夢と橙も己が獲物を一旦、箸置きへと戻す。
紫の隙間は射程無限。そこから繰り出される扇の一撃を回避するのは、事実上不可能なのである。
「わかったわよ」
「はいなのです」
「それじゃあ今度こそ」
「「「「頂きます」」」」
全員が手を合わせ、食への感謝の言葉を口にする。あまりにも当たり前になりすぎて、誰もが忘れかけているが、この行為に込められた意味までも忘れてはいけないのだ。
――挨拶が済み、今度こそ四人の少女達は対等な戦場に立った。
再び握りしめた獲物は二本の棒。だが、このたった二本の棒こそが、過酷な戦いで信頼できるたった一つの武器であり、頼れる相棒となる。
残念ながら、今この場においてはたとえ親兄弟といえども敵。情けをかければ即退場。非情に徹しなければ、この戦場で生き抜く事は出来ない。
鍋は一つきり。
食欲を満たすのなら、汝。
自らの力を以って、食材を確保せよ。
「その牛肉、貰い受けるぜ!」
一番槍……ならぬ、一番箸はやはり魔理沙だった。
魔理沙は、誰もが目を付けていた一番大きな牛肉を素早く掴み上げると、勝ち名乗りすら上げずに口へと運ぶ。
「はふはふ」と可愛らしく頬張るその姿はしかし、他の者の憎しみと敵愾心を煽るばかりだった。
「美味い美味い!」
嫌みったらしく、最上の獲物に舌鼓を打つ魔理沙。だが、これでしばらくは魔理沙は動けない筈だ。
そう考えた三人は、魔理沙が戦線復帰するまでの時間を最大限に利用し、鍋の中身を選別する。しかし……!
「それ、頂き!」
なんと、動けない筈の魔理沙が動いたのだ。その箸は、あと僅かで肉に触れようとしていた橙の箸先を掠め、横から奪い去っていく。
「あ~! そ、それは私が狙っていたのです!」
「肉を口に入れながら次の肉を取るなんて……魔理沙、そこまで堕ちていたとは情けないわよ!」
魔理沙は、橙や霊夢の抗議などまったく聞く耳持たない。それどころか「へへっ、鍋っていうのは早い者勝ちなんだぜ?」と、開き直る始末。
瞬間、霊夢と橙の瞳に殺気が宿る。
「よろしい」
「ならば」
「「――戦争だ――」」
霊夢と橙の言葉が完全に同調し、宣戦となって布告される。だがしかし、魔理沙は「私は鍋でも幻想郷最速だぜ?」と挑発仕返す大胆不敵さ。
霊夢達の視線が鍋の上で交錯する事により、この一瞬の間だけ箸が止まる……が、すぐに均衡は破られる。
今のは前哨戦にして小手調べ。ここで流れを引き寄せるのも有効な戦術だが、だからといってそれが終盤まで保たれるという保証はない。
まだいくらでも巻き返しが可能であり、要するにここからが本当の戦いなのだ。
四方向から差し込まれる箸、箸、箸。
角度、深さ、速度、そのどれもが千差万別であるが、その意思と目的は統一され、勝利を目指しそして確信している。自分こそが肉を手にするのだ、と。
しかし現実は非情である。差し込まれた箸の中で、当初の目的を達成できない箸も必ず存在してしまうのだ。
目的を達成できなかった箸が次に起こす行動は、3つのパターンに集約出来る。
それすなわち、
(1)惨めに手近な野菜を掴む。
(2)肉を探し鍋を掻き回す。
そして、最悪にして禁忌、
(3)他人の箸から奪う
というものであり、食材を掴まないという選択肢などない。箸を差し入れたら最後、撤退の二文字など存在しないのだ。
「うむ、美味い!」
魔理沙は趣向を変えたのか、椎茸を取った。なんという馬鹿な奴。肉という最高の獲物の中で、あえて椎茸を選ぶとは……生粋の茸マニアだな。
肉を連続して取った事で調子に乗っているのか、それとも油断しているのか? しかしこれは最大のチャンスでもある。
魔理沙が気付かないうちに、先ほど巧妙に隠していた取って置きの肉を貰う! そう霊夢が舌なめずりした時だった。
「それじゃあ、この肉は私が貰うのです!」
「あっ、あっー!? せっかく野菜の下に隠していたのに!」
何と言う事だ! 温存していた肉が、突如横から出てきた箸によって、ひょいと目の前で横取りされたのである。
しまった……魔理沙や紫ばかりに気を取られていて、橙という存在を疎かにしていた。何という伏兵……というかお前は味方じゃなかったのか!?
くそう、敵の敵は味方ではなかったのか。今この場では、敵の敵でもやはり敵は敵だったのだ、という事をあらためて再認識させられた霊夢は、仕方なく手近にあった肉――おそらくは豚――を箸で掴んだ。
口に含んでみれば、実に柔らかく、そして煮汁が染み込んでいて美味い。だが、この肉の大きさは、先ほど魔理沙が取った肉の半分程度の大きさ。
つまり食べた分の総量では、魔理沙の1/4程度なのだ。これでは負けてしまう!
……何に負けるのか、なんて突っ込んではいけない。負けてはいけないから、負ける訳にはいかないのだ!
そこで霊夢は、質を量で補う作戦に出た。鍋の中で、あまり狙われにくそうな小さめの肉を中心に掬いまくる。
魔理沙と橙は、相変わらず大きめの肉を狙って牽制を続けている。それを横目で見ながら、霊夢は「戦いは数なのよ」と内心ほくそ笑む。
「ちょっとあなた達、少しは肉以外も食べなさいよ」
「こういう時じゃないと沢山食べられないじゃない!」
「そうだぜ、宴会じゃ他人の分まで取っていく奴がいるからな」
三つ巴の激戦を眺めながら、呆れた口調で紫が注意する。だが、霊夢と魔理沙は意に介さない。
当の紫は傍観に徹しているのか、それほど多く箸を動かしていない。それに気付いた橙は、紫へと催促する。
「それより、紫様ももっと食べてください!」
「うふふ。私は霊夢がお・か・ず☆」
「ごほっごほっ!」
腰をくねらし、キラッ☆と右目をウインクして見せた紫の突然の奇襲攻撃に、霊夢は為す術もなく盛大に咳き込む。
「あらら、大丈夫?」
「急に変な事言わないでよ!」
咽せながら湯飲みに手を伸ばす霊夢。
お茶だろうが酒だろうが関係なく、その中身を飲み干した霊夢は、激しく紫を睨みつけた。
「照れちゃって、可愛い」
「照れてない!」
「お前ら、熱いのは鍋だけにしといてくれよ?」
「ちょっと、あんたねぇ……」
ははは、と笑いながら茶化す魔理沙に、頬を引きつらせながら霊夢が身を乗り出した時、「今だ!」とばかりに、魔理沙は鍋の中に残った最後の肉を引っ掴んだ。
「それっ、肉貰い!」
しまった、と霊夢は後悔した。紫の巫山戯と魔理沙の挑発にまんま引っかかって、自らチャンスを逃してしまうなんて!
「ぐうっ! 卑怯よ、油断した隙を付くなんて!
嗚呼……私のお肉ちゃん……」
霊夢はがっくりと肩を落とす。それもそのはず、鍋の中にはあれほどまで沢山詰まっていた食材が、ほとんどなくなっていたからだ。
「橙、具材が減ってきたわね。新しいのを足して貰えるかしら?」
「はい! お任せ下さい!」
橙は、手近にあった皿を手に取った。その皿には、新しい希望がわんさかと乗っている。
それを見た霊夢に再びコスモのオーラが燃え上がる。紫が持ち込んだ食材は存分に有り余っており、希望はまだまだ残されているのだ。
「よし、今度こそお肉は絶対死守よ!」
「ふふん、そうはいくかな?」
「というか、何でお二人とも相手のを奪い合う事を前提にしているんですか?」
霊夢と魔理沙の間には、敵意剥き出しの視線がぶつかり合って火花が散っており、それを紫は愉快そうに眺めている。その目は、まだ何か悪戯でも思いついたかのような得も言われぬ光を宿らせている。
橙はとばっちりがこなければいいなぁ、と思いながら食材を(気付かれない範囲で)自分の方に多めに寄せて投入した。
「ふー、食った食った」
あれほどあった食材はほぼ全てがその姿を消し、今では鍋の中に多少の野菜が空しく残るのみである。
鍋と同時に酒も良い感じで進み、全員が足を投げ出したり炬燵に寄りかかったりと、少女としては褒められた姿ではなかった。
「これだけ肉類を食べたのは本当に久しぶりよ。これであと博麗は、半年は戦える!」
「……なに、見えない敵と戦っているのよ」
酔っているせいもあるが、今夜はもう面倒くさいので、霊夢は鍋を台所に持って行くと水に漬けただけで戻ってきた。
鍋や食器を洗うのは明日の自分に丸投げだ。頑張れ、明日の自分。
「……で、あんたたちはいつまで居るの?」
炬燵に入り直した霊夢は、片肘をついて座っている紫にその事を訊いた。
「まあ、食べ終わったと同時に、もう用済みだなんて……。悲しくて涙が出ちゃう!」
「そうじゃないわよ。あと少ししたら帰るのか、それとも今日は泊まって行くのか聞いてるのよ。
魔理沙、あんたにもね」
「ちょ、私もかよ!?」
「当然でしょ。あなたが一番、今日の鍋に貢献していなんだし」
「そりゃ誤解だ。私は十分に貢献しようとした。だが、お前らに断られた。
自分達で断っておいて、それは冷たすぎるぜ」
「あんたは、怪しいキノコを混ぜようとしただけでしょうが」
「なあ、外は暗いぜ?」
「ふーん」
「外は寒いぜ?」
「ふーん」
「うわーん、紫えもん助けてー!」
霊夢のそっけない態度に心を挫かれた魔理沙が、今度は紫へと救済の手を求める。
「誰が紫えもんなのよ?」
「今、私に降りかかる不幸を助けてくれる人だぜ!」
「じゃあ、この中には居ないんじゃないかしら?
……というか、人のネタまでパクらないでよ」
「ああ、この世に神は居ないのか……」
まるで宗教者か預言者のように両手を広げ、天を仰ぐような仕草で魔理沙は嘆く。
「魔理沙。あんたこの前、山の上の神様吹っ飛ばしてたじゃない。マスパで。
きっとバチが当たったのね」
「うわー。絶望した私は炬燵の中で眠りにつくのであった……」
魔理沙は、両手を広げたまま崩れ落ちるようにゆっくりと仰向けになると、そのまま炬燵へと潜り込んだ。
見方を変えれば、炬燵が魔理沙を飲み込んだように見えなくもない。
「ふにゃー! 私の所有地が割り込まれたのです!」
「ちょっと! そんな所で寝るな!」
「そうよ、そんな所で寝たら風邪を引くわよ」
「駄目だぜー。
帰っても風邪、ここで寝ても風邪。なら、私はここで風邪を引く方を選ぶぜ。
万が一、風邪をこじらせて死んだら、祟り神となって博麗神社に居座ってやるのだ」
「あんた、いつから二代目祟り神を襲名する気になったのよ」
頭を抱えた霊夢は、大きな溜息を一つ吐き出す。
「……はあ、わかったわ。今日は泊まって行きなさいよ」
「それでこそ霊夢だぜ。女に二言はないよな」
霊夢の言葉を聞いた途端、がばりと魔理沙が起き上がる。それを見た霊夢からは、二度目の溜息が漏れる。
「――で? 紫、あんたの方はどうなの?」
「あら、私たちも泊めてくれるの?」
「どうせ、最初から泊まっていくつもりなんでしょ?」
「そうねえ……」
指を口元に当て何やら思案した後、紫はゆっくりと顔を横に振った。
「いえ、今日はもう少ししたら帰るわ」
「珍しいな。てっきり、『霊夢と一緒の布団で寝る!』とか言い出すかと思ったぜ」
「それも凄く魅力的なんだけどね、実はあまり長居も出来そうにないのよ」
「これでも忙しい身分でね」と続ける紫。
更に「どこがよ」と続ける霊夢。
「でも、霊夢分を補給できたし、私は満足よ」
「こら。気色悪い造語を定着させようとするな」
「まあまあ。お酒もあと少し残っていることだし、これを飲みながら後しばらくはのんびりとしましょう」
紫は、残された酒瓶を目の前に持ち上げて見せた。瓶の中にはまだ半分ほど残った液体が、たぷたぷと揺れている。
紫が持ち込んだ酒瓶は五本ほどあったが、そのうち三本は飲み尽くされていたが、まだ全く手を付けていない瓶も一本残されている。
今回は鍋が主役となった為、いつもより酒の進みが遅かったのだろう。もしここに鬼が居たのならば、五本程度の酒瓶はとっくに空になってしまっていたに違いない。
「その意見には賛成だぜ」
「あんた、さっきはもう寝るとか言ってたのに……」
「はい。湯飲みですよ」
「おっ、気が利くな」
「……あら、ありがと」
鍋を片付ける際に邪魔になったので、それまで各人で使っていた湯飲みは端に寄せてあったのだ。それを橙が再度、各自に分配していく。
特に何の変哲もないような行動だったが、霊夢だけはその様子をじっと見つめていた。
「ねえ、橙。あなた、ちょっと変わった?」
「――はい?」
ピクリ。橙の耳が一瞬震えるように動いたような気がした。
「なんて言うか……結構前から気にはなっていたんだけど、いつもと少し雰囲気が変わっているような気がするのよね」
「そうか? ……うーん、まあ、確かに言われてみれば、いつもより大人びているような……?」
「あ、……えーと、じ、実は紫様の目の前なので、緊張しているのですよー!」
「ああ、いつもは親馬鹿な狐がいろいろ庇ってくれるもんな~。流石に、紫が直接相手だと勝手が違ってくる訳か」
「そ、そうなのです」
紫、藍、橙。この三人は妖怪であり、それぞれが式と式神という上下関係である。その関係を、人間の価値観で判断する事など出来はしない。
それに、紫が何かを企んでいようがそうでなかろうが、魔理沙にとってみれば現時点では関心の対象外だった。
だが、霊夢だけは「ふ~ん」と頷きながらも、透き通っているようでいて、掴みようのない瞳で橙を見つめている。
そんな霊夢に対し、紫が口を開く。何ら変わらない、いつも通りの尊大な態度で。
それは紫がごく普通に会話に加わってきたように見えるが、捉え方次第では橙に助け船を出したようにも見える。
「貴女達、邪推のしすぎよ。
まさか橙一人だけを置いて、ここへ来る訳にはいかないでしょ? そんな私の優しさを褒めて欲しいわね」
「それだったら、なんで藍だけを酷使するんだよ。
今日の鍋だって、どうして藍を同席させてやらないんだ?」
「食材が四人分しかなかったのよ」
さらりと言う紫の態度に、特に藍に同情した訳でもないが、流石の魔理沙も「ひでぇ!」と声を上げた。
「ふふ、冗談よ。本当は、結界の見回り中の筈よ」
「そっちの方がひでぇよ。自分達だけ鍋と酒を堪能している間、藍はずっとこの寒空の下で一人きりかよ?」
「藍は私の直接の式。式神というものはそういう存在でしょ?」
「藍は橙を酷使してはいないぞ?」
「藍は外面が良いだけよ。それに橙はまだ四分の一人前だから、まだまだお勉強の途中なのよ」
「四分の一人前?」
「半人前の半人前って事よ」
「ふにゃ~……」
情けない声と共に、橙は炬燵に突っ伏してしまった。紫の口から、正面切って戦力外通告を出されたのだから無理もない。
「それにね。式神でもない癖に、主人に妄信的なまでの絶対忠誠を誓っている、人間とか月人とかいるけど?」
「あいつらは例外中の例外だよ」
「そうね。確かに、その人間や月人が何を考えているのかなんて私には解らないし、彼女たちが忠誠を誓う主人が、どんな考えでその者達と接しているかなんて事も解らない。
――でもね。ただ一つ言える事は、私が想定しうる全てに置いて、私は藍を信頼している。だからこそ、どんな事でも任せられるのよ」
紫は、式神を道具だと揺るぎない確信を持って断言する。しかし、同時に式神である藍に絶対の信頼を置いているのである。
それは、式神という道具の性能を信頼しているのだろうか? それとも藍という式神だからこそ信頼を置いているのであろうか?
藍は、式神でありながら己自身も式神を持つ。本来なら許されないその行為を、紫が許容しうる理由は、前者かもしれないし後者かもしれない。
紫は表面上の喜怒哀楽の激しさが目立ち、第三者はついついそれに目を奪われてしまう。
だが、その道化師のような表情の下には、鉄の仮面が隠されている。その仮面をかいくぐって内心や本心までを見透かす事など、どんな妖怪であろうとも不可能だろう。
「はあ……。お前の信頼ってやつに応える藍も大変そうだな」
「何なら、私の式になってみる?
三食おやつ付きで、今なら特典として寿命と魔力が五十倍になる大サービス中よ」
「どうしてそういう話になるんだよ。
というか、寿命が何十倍にもなってみろ。その年月分、お前の手下となって藍みたいにこき使われるんだぞ? 到底、願い下げだね」
「言ってみただけよ。
こちらこそ、手癖の悪い蒐集家を式なんかにしたら、八雲の品格が疑われてしまうわ」
「……だったら、最初から言うなよ」
「でも、人間を辞めたくなったら相談ぐらいには乗ってあげてもいいわ。
人間の身体と寿命で魔法を極めようなんて、無謀も無謀。図書館の魔女や、人形使いの1%分の領域にだって踏み込めない。
まさか一生、弾幕ごっこだけして暮らす訳じゃないでしょ?」
その紫の言葉に、魔理沙は一瞬言葉を詰まらせる。
自分自身、薄々勘付いていた……というより、意図的に思考から排除するようにしていた考えだったからだ。
しかし、魔理沙はまだ十と余年の短い人生である。これから先の在り方を決定するには、まだ幾分か早すぎると言えた。
「……………………。
随分サービスがいいな。一体、どういう了見だ?」
「ほんの気紛れよ。気に障るなら忘れて頂戴」
「紫。今日のあなた、本当にどうかしているわ。何かを企んでいるのじゃないとしたら、最近、豆腐の角ででも頭を打ちつけなかった?」
いつの間にか、霊夢の目つきは異変解決時の時のような、鋭いものに変わっている。内面までを勘ぐろうとする霊夢の視線を、紫の鉄の仮面が弾き返す。
「あら酷い……人が珍しく良心を見せてみれば、なんて酷い言われよう」
「あんた、さっき気紛れだって言ったじゃないの」
「そうだったかしら?」
紫は、小さく舌を出して戯けて見せた。
その様子を見ていた魔理沙は、「なんだ、結局はいつもの気紛れか」とばかりに興味を失ったようだ。
「霊夢。心配するだけ損だぜ。こいつはいつもこんな調子なんだからな」
「お二人とも、それよりお酒が進んでいませんよ?」
橙が残っていた最後の酒瓶を開けると、シュポン、と実に良い音がして今までの重い空気を吹き飛ばした。
「おっと、そうだった。酔いも醒めちまったからな。また飲み直しといくか」
「――――――」
「どうした霊夢。まだ何か気になっているのか?」
「ううん、何でもないわ。それじゃあ、私にも一杯」
「ささ、どうぞなのです」
「ありがとう、橙」
橙はそれぞれの湯飲みへと酒を注ぎ足していく。もちろん、自分自身は一番最後である。
その様子を静かに見守っていた霊夢は、じっと湯飲みを見つめながら口を開いた。
「――――ねえ、紫」
「…………何かしら、霊夢」
答える紫も、先ほどまでと何ら変わらない筈の口調ではあるのに、その言葉はとても重かった。
「また来たくなったら、来てもいいから……ね」
「――――――――そうね。
ありがとう、霊夢」
紫も自分の湯飲みを眺めている。その中で揺れる液体は無色透明で、鉄の仮面の内側にある、弱い本当の自分のようだった。
「……本当に、勘の鋭い子ね」
一人呟くその声は、霊夢に聞こえただろうか?
外の世界ならばごくありふれた酒。外の世界でも、この幻想の地でもこれ以上の名酒など星の数ほど存在する。
しかし紫が口に含んだその酒は、これまでの生涯でも片手で足りる程に美味だった。
「ふふ、可愛い寝顔しちゃって……」
酔いつぶれた、というよりは騒ぎ疲れたという感じで、霊夢と魔理沙は眠りについた。
寝室で二つ布団を並べて寝息を立てる二人の少女は、弾幕ごっこや異変解決に興じる普段の姿とは違い、年相応の少女そのものだった。
「ふう。……久々に霊夢分をた~~っぷり補給できたし、これで八雲家はあと百年は戦えるわ!」
「…………。紫様、お楽しみの所申し訳ございませんが、そろそろお時間かと……」
満面の笑みで背伸びをしている紫に対し、しきりに時間を気にしているような素振りで、橙が具申した。
今の橙の姿は、つい先ほどまでの赤いワンピースを着た少女とはまるで違う風体であり、一見すると同一人物であるとは判別が付かない。
服装は紫のような導師服に近い物に変わっており、背丈も紫とほぼ同じか、僅かに橙の方が高い。
「はあ……楽しい時は、こんなにあっけなく時間が過ぎていくものなのね。
まるで人間の一生のような、儚すぎる時間……二度とは戻らない泡沫の夢のよう」
「……紫様。夢は覚める故に夢なのです。
私も、霊夢さんや魔理沙さんに会えて嬉しかったですし、あんなに楽しくお酒を飲めたのは久しぶりです。
ですが、もう私達は目覚める時間のようです」
そう真面目な顔で断言する橙を見て、紫はくすりと失笑を漏らした。
「ふふっ、『青は之を藍より取りて、藍よりも青し』……橙に教えを請うとは、私も引退時かしら? それとも、過去の妄執に囚われすぎて目が曇っていたのかしら?」
「そ、そんな……私はそんな意味でいったのでは……」
寂しそうに呟く紫の言葉に、慌てて橙が否定する。その大きく立派な体躯をおろおろと右往左往させる様は、何処かの九尾の狐に瓜二つであった。
「わかっているわ。冗談よ、橙。
それに、仮にも八雲の名を冠する者が、そんなにおろおろとしないの。橙、貴女は半人前の半人前なんかではない、立派な八雲の式神なのだから」
「は、はい。ありがとうございます」
「それにしても、さっきの姿も素敵だったわよ、橙」
何処からか扇子を取り出し、口元へ当てる紫。口元が見えなくても、わざわざ扇子を出すというそのジェスチャーだけで、紫が笑みを表現しているのは理解出来る。
その紫の前で、橙は気恥ずかしそうに頬をかいた。
「あまりからかわないでください、紫様。
……でも確かに紫様の目の前で、あのように力を抜いてくつろげる事なんて滅多にない事ですから、私としましても満更ではありませんでしたけど、ね」
「橙も言うようになったわね。今の姿を、藍が見たらどう言うかしらね?」
「その事は二人だけの秘密という事で、お願いいたします」
「ふふ。あの姿のままで固定しておいた方が良かったかしら?」
それだけはご勘弁、と苦笑する橙を横目で優しく微笑みかけながら、紫は魔理沙の布団を直し、霊夢の頭を軽く撫でる。
「さあ、紫様お早く。『この時代』の私達に勘付かれると、面倒な事になります故」
「はいはい」
紫は橙を傍らへと招き寄せると、ここへ来た時と同じように大きな隙間を一つ出現させる。
橙も身を預けるようにして、紫にそっと寄りかかった。
「――それじゃあね。楽しかったわよ、この時代のお二人さん。……貴女達なら、どんな運命でも乗り越えていけるわ」
無音で出現した空間の裂け目は、紫と橙が入り込むとすぐに修復され、後には何の痕跡も残されてはいない。
静寂に満ちた博麗神社と、かすかな寝息。朝が訪れるまでは、この一時の平静が破られる事はない。
終
背丈ほどの高さまで降り積もっていた雪も、このところの天気ですっかり溶けきった。
だが、桜の花が美しく咲き始めるまでは、まだ幾ばくかの日数が必要とされるであろう、そんな春のある日の夕方遅く。時刻としては、ほとんど夜になりかけていた頃であろうか。
正午過ぎに突然やって来て以降、ずっと居座り続けている魔理沙に続き、実に厄介な奴が博麗神社を訪れた。
それも、いきなり霊夢と魔理沙が居る部屋に、文字通り突如として出現したのだ。
来襲した二人組は、訝しむ霊夢たちを尻目に電光石火の電撃戦で炬燵へと侵攻、がら空きとなっていた左右領土を占領してしまった。
現在、炬燵の四方はそれぞれに分割統治されている。今は平静を保っているが、この絶対防衛圏を侵犯してくる不届き者がいれば、直ちに報復措置が取られるだろう。
もし足を投げ出して寝転がってしまえば、即開戦である。
この博麗神社の一角は、まだ肌寒い外気と同様、冷戦状態になりかけていたのである。
そう大きくはない炬燵は、四人が使用すれば満杯状態である。その少ない占有面積の中で効率よく暖を取るべく、魔理沙は炬燵にこれでもかと密着していた。正面から見れば、まるで頭部だけが台の上に置かれているようで、なんとも滑稽な姿である。
「珍しいな、あんたが冬に起きているなんて」
魔理沙は、視線だけをそちらに向けて喋る。
すでに行われた侵略行為に対しては何も言わない。そんな事を言っても何にもならないと判っているからだ。
もちろん、正面に座る霊夢にしても同じ。こいつに限って言えば、文句は社交辞令と同じようなものである。
「そうかしら? 暦の上では春真っ只中ですわ」
魔理沙の右、霊夢側からしてみれは左に座っていた紫がそう答える。その口調は掴み所がなく、ここに居る事がさも当然だと言わんばかりである。
「そうかもしれないけど、リリーホワイトだってまだ活動していないわよ。
それに、確かにこの時期にあんたが起きているのは珍しい事じゃない?」
霊夢は、魔理沙の言葉を強調して同意する。それは言外に、迷惑だという意味合いも多分に含めていた。
「失礼です! 紫様だって、寝てばかりではないのです!」
その声は、紫の正面……魔理沙からしてみれば左側、霊夢からしてみれば右側から聞こえてきた。しかし、声だけで霊夢や魔理沙の視線からは誰も座っては居ないように見える。
その声の主は、橙。彼女は炬燵の中にすっぽりと入ってしまっていたので、他の者達からは姿が見えなかったのである。
だが待って欲しい。炬燵の占有面積は四分割され、極めて限定されている。しかも残りの三人は霊夢・魔理沙・紫という幻想郷トップクラスの猛者達。その中で、橙だけが無謀にも炬燵の中に潜り込めるのだろうか?
出来る、出来るのだ。橙は猫の妖怪に式神を憑けたもの。猫本来の特性を十二分に発揮し、限られた占有面積の中でくるりと丸まっているのである。
むろん、彼女の身の小ささがそれを助けているのは言うまでもない。
「何かを喋る時は、せめて顔ぐらいは出しなさいよ。
まったく、ちょっと躾がなっていないんじゃない?」
見えない姿の代わりに、ほっこりと盛り上がった炬燵の掛け布団。繭のようなそれを眺めながら霊夢が言うと、紫も少し困ったような表情で呟いた。
「そうね……甘やかしすぎたという訳じゃないけど、少し厳しさを欠いたかもしれないわね。これからは、もう少し厳しくいこうかしら?」
「そ、そんな。申し訳ありませんでした紫様!」
冗談とも本気とも判らないその紫の言葉に、橙は炬燵から素早く飛び出し、紫と正対するように炬燵へと再進入する。
しかし寒いのか猫だからか、魔理沙と同じく猫背状態で炬燵と密着。顔だけ妖怪が二匹に増えた。
「もう、出たり入ったりするから、炬燵の中に冷たい空気が入っちゃたじゃない」
霊夢は寒さに震えながら、少し捲れた炬燵の掛け布団を直す。
その時、それまでの確執を超えて、霊夢を除く全員が『だったら、そんな腋が開いた服なんて着なければいいのに』という思考で統一された。
「それにしても、紫が橙を躾けていたなんて驚きだな。
私はてっきりそういうのは全部、藍に任せっきりだと思っていたぜ」
「「――――――」」
魔理沙の言葉に、紫と橙の雰囲気が一瞬変化したように見えた。
少しくらいは皮肉の意味も入っていたかもしれないが、魔理沙としても特に悪意を込めた言葉ではなかった為、その意味を計り知れないでいた。
幻想郷では、このぐらいの皮肉や挑発など日常茶飯事なのだ。弾幕ごっこの前口上など、さらにその悪態っぷりに拍車がかかる。
「ん? どうしたんだ?」
「……なんでもないわ。それより、そんな風に見られていたなんて心外だわ。橙の事を大切に思っているのは、藍だけの専売特許ではないのよ?
私だって口出しぐらいするわ」
「あー、まあ考えてみれば、それもそうだったな」
すぐにいつもの調子に戻り、落ち着いてはいるが自信に満ちあふれた口調で話す紫の言葉に、魔理沙も納得する。
紫の言葉自体が何処まで信頼できるかは未知数だが、少なくとも橙と一緒の時ぐらいは、口出しぐらいはする筈だからだ。
いくら紫といえども、そこまでは放任主義ではないだろう。
「皆さん、紫様を誤解しすぎです。本当はもっと凄い方なんですから!」
橙はそう言って胸を反らす。
寒かったらしく、すぐに炬燵へと密着し直したが、その二つの瞳は眩しく輝いたままだ。
橙の疑う事を知らない真っ直ぐな視線を浴びながら、「これが『まいんどこんとろーる』というやつか」と、霊夢と魔理沙の二人は式神という存在を哀れんだ。
「そうかしら……普段の言動を見ていたら、とてもそうは思えないけど」
「そんな……悲しいわ。悲しくて涙が出ちゃう」
紫は出てもいない涙を、ハンカチで拭う仕草をしてみせる。その演技は、いかにもわざとらしいまでに三文芝居だった。
「なあ、橙。これでも凄いのか?」
魔理沙は、顎と視線の動きだけで紫を指し示し、橙に訊いてみた。もっとも、式神である以上は答えは最初から決まっているようなものだったが。
「す、凄いんだと思います?」
「質問を質問で返すな。それから目を見て話せ」
――よかった。まだ救いの余地はある。『まいんどこんとろーる』とやらも、そう完璧ではないようだ。
「それで? 何であんた達がここに居るの? 春はまだ先よ」
「霊夢。会話がループしてるわよ」
無限ループって怖くないかしら? などと、意味不明な事を口走る紫の言葉を、霊夢は持ち前の当たり判定の少なさで華麗にグレイズした。
「それはあんた達がここに居る限り、よ」
「まあ酷い。私たちに出て行けというの? この寒空の下で凍えてしまうわ!」
「隙間で帰ればいいでしょ? やって来た時みたいに」
「うわーん、魔理えもーん! 霊夢がいじめるぅー!」
感情のまるで籠もっていない、霊夢からの突き放しを受けた紫は、今度は魔理沙へとその矛先を変えたようだ。
「だれが魔理えもんだ! そして魔理えもんってなんだ!?」
幻想郷中にその悪名を響かせている魔理沙も、流石にこれには引いたようで、炬燵から半身ほど抜け出して紫から距離を取った。
「この危機を救ってくれる不思議キャラクターの事よ」
「だったら、少なくともこの部屋には居ないわね」
「ガーン!」
霊夢の突っ込みによって、救済のすべてを否定された紫は、わざとらしく大きく仰け反って見せた。
誰が不思議キャラクターだ、という突っ込みを返せなかった魔理沙は、それらのやり取りを横目で見ながら、ぽつりと「……お前ら、仲良いな」と皮肉げに呟いた。
「どこがよ!! その目は節穴じゃない!?」などと、霊夢が声高く反論するが、紫だけは照れた仕草で「あら、やっぱり解っちゃうかしら?」などと戯けてみせる。
その瞬間、本気で霊夢の顔が引きつっていた。
「……で、本当に何しに来たんだ?
また無駄に会話を繰り返す訳にはいかないから、本当の事を喋った方がいいぜ」
「……本当の事?」
わからない、という意味なのだろう。首を傾ける紫の仕草は、少なくとも霊夢や魔理沙にとって、可愛らしさとは縁遠く見えた。
「そうよ、また何か企んでいるんじゃないの!?」
「なんて辛辣な人達なのかしら。もう少し、歯に衣を着せる話し方を心掛けた方が良いわよ」
魔理沙と霊夢の追求も、紫にとっては意味のない言葉遊び。のらりくらりとかわされてしまう。
「あんた相手に腹芸なんて時間の無駄よ。
で、本当に何しに来たのよ。この時期のあんたはまだ眠っているはずよ。わざわざ起きているという事は、何か良からぬ考えがあっての事でしょうが!」
「――はあ。なんて悲しい人達……。橙、こういう妖怪に育っては駄目よ?」
いきり立つ霊夢を尻目に、紫は正面の橙を見据えてそう訓示する。
「はい!」
霊夢の追求が悪い見本とされてまう。そしてそれに対する橙のなんて良い返事。
嗚呼、こうして式は『まいんどこんとろーる』されていくのね?
「私らを反面教師にするな! ってゆーか、今のは私達が悪い訳!? あとついでに言っておくけど、私たちは人間なんだけど!?」
あらあら、今の態度は悪い見本と言えなくなくて? などと戯けている紫の側で、今度は魔理沙が反論の口火を切る。
「以前の異変の時、この時期はまだお前は寝てたからな。
……でだ。あの異変の後、ちょっとした用で藍に会う機会があってな、その時に聞いた話なんだが、寝ている主人を起こすのは大変だって凄くぼやいてたぞ。
特に、冬眠中のあんたを起こす時は命がけだってな」
「まあ、藍ったら!」
口調こそは怒ってはいるが、その怒りは表情には反映されない。怒りを内心に収めているのか、それともそういった素振りを見せているだけなのか。
「ゆ、紫さま……」
ただ橙だけは心配そうに紫を見つめている。霊夢達よりは圧倒的に長時間、接して来た橙にしても、紫の態度は判別に苦しむものなのだろう。
「だから言っているでしょ?
一度冬眠したら梃子(てこ)でも動かないあんたが、普段なら寝ているこの時期に起きて活動している事自体、ちょっとした異変なのよ」
「わかったわ……そこまで言われたのなら仕方がない。
私の本当の目的を話すわ……」
急に真面目な顔つきになり、姿勢までもピシリと正す。
その雰囲気の変わりように、霊夢と魔理沙も釣られて背筋を伸ばしてしまう。
「紫様……」
「橙、あなたは黙っていて頂戴」
何かを言いたげな橙の言葉をも、紫は押し黙らせる。
「やっぱり何か裏があったのね」
「なんだ? 異変か? 異常気象か? それともまさか……」
「それはね……」
「「それは……?」」
射抜かれるような紫の視線。霊夢と魔理沙は丹田に力を入れ、ごくりと唾を飲み込む。
「霊夢に会いに来たのよ!」
「「はぁ!?」」
ごん、と霊夢と魔理沙の両名は実にタイミングよく、炬燵の台に頭をぶつけた。
あまりにもお約束すぎる、超ベタな典型的オチに、二人とも糸の切られた人形のように頭から崩れ落ちてしまったのだ。主に精神的な意味で。
「実はね、たまたまこの時期に目覚めちゃったのよ。
また寝直そうと思ったんだけど、その前に霊夢の顔でも見ておこうと思ったの」
「な、なによそれ。そんな理由でここに来たの!?」
炬燵の台を両手でバン、と叩く霊夢。霊夢と魔理沙の前に置かれている湯飲みが、少しぐらつく。
なお、紫と橙の前にはまだ置かれていない。
「そうよ? それ以外に何もないわ」
くすくすとも、にやにやともとれる微笑は、実に腹の立つ事この上ない。
「あ~、何か気を張って損した。
それならそうと最初から言いなさいよ!」
「言っていたじゃない。わざわざ冤罪を作り上げていたのはあなた達よ」
「……ふん。普段が普段だからよ。もう少し普段を省みてくれれば、私たちも少しはあんたを信じてあげても良いわ」
「こんなにも、清く正しく生きているのに?」
「まるでどこかの鴉天狗の謳い文句だな。逆に胡散臭いぜ」
ようやく頭を起こした魔理沙が、ふん、と鼻を鳴らす。
「それで、いつまで居るの? ここは神社で、あんた達は妖怪。特に用もなければ居る必要はない場所よ?」
「だから霊夢の顔を見に来たんだってば」
「もう十分見たでしょ?」
「もっとよ。冬眠中は見られなかったんだもん。霊夢分を補給しなきゃ」
「人の名前で変な造語を作るな!」
露骨に嫌な表情を隠そうともしない霊夢だったが、紫は何故か自信満々に不敵な笑みをこぼしている。どうやら、何か秘策があるらしい。
「それに、ちゃんと手土産は持ってきているわよ?
何処かの魔法使いと違ってね」
「失礼な。手土産ならキノコが沢山あるぜ」
「あんたの持ってきたキノコ、半分は毒キノコだったじゃない」
「――手土産には変わりないぜ。ただ、食べられないってだけだ」
「それで、手土産って何よ」
「……無視は辛いぜ」
霊夢は、紫の『手土産』という単語に興味を示した。食いついた、とばかりに紫はにやりと口元を釣り上げる。
魔理沙は、またいつものパターンか、と思って眺めていた。紫が物や食べ物で霊夢の関心を引こうとするのは、そう珍しい事ではなかったのである。
「ふふ。土産と言えば、定番はこれでしょ?」
紫が指を空間につ……と沿わすと、何もない場所から隙間が開き、中から一本の瓶が取り出された。
外界の代物らしかったが、それが何であるかはすぐに理解できた。
「酒か!」
「焦らないで、まだあるわよ?」
舌なめずりする魔理沙に勿体ぶる素振りを見せながら、さらに紫は隙間へと手を差し込んでいく。
「凄いな。白菜に椎茸、長ネギに豆腐、油揚げに牛・豚・鳥の肉。しかも、こんなに沢山――」
そこから取り出されたのは何本もの酒瓶に加えて、沢山の野菜や肉類。しかもその鮮度や質の良さは、宴会でもそうそう見られないほど上質なものであった。
「どう? これでもまだ帰れと言うのかしら?」
「……ま、まあこの食材を食べ終わるぐらいまでなら、居てもいいわよ」
「巫女の癖に物欲で釣られたか」
「違いますよ。今流行の『つんでれ』というやつですよ、きっと」
急に態度を軟化させた霊夢の露骨な変化に、魔理沙と橙がヒソヒソ声で何かの会話をしている。
「ちょっと、内緒話なら聞こえないようにするものよ?」
まったく、と呆れる素振りを見せながらも、霊夢の目は食材に釘付けである。
「まあなんだ、霊夢の事だからてっきり食材だけ貰って追い返すのかと思ったぜ」
「わたしゃ追い剥ぎかい!」
「それとも、『自分が食べ終わるまで』という意味だったりしてな」
くしししし、と笑う魔理沙の前で、霊夢はすっくと立ち上がる。
「……神霊『夢そ――――』」
スペルを取り出した霊夢の周囲に霊力の気流が集まりだし、七色に輝く光が渦となって発行し始める。
「わっ、冗談! 冗談だよ!」
魔理沙が慌てて両手を振り、言葉の撤回を訴えると、霊夢も溜息の一つと共にスペルの発動を中止させた。
「わかってるわよ。
こんな所でスペカなんて使ったら、せっかくの食材が駄目になっちゃうじゃない。散らかった部屋は萃香にでも直させればいいけど」
「私と食材とどっちが大切なんだ!?」
「聞きたければ言うけど?」
「いや、いい……」
「あなた達、漫才している暇があるのだったら、鍋の用意くらいしてくれないかしら?」
パンパンと手を打って、二人の間に割り込んでくるのは、流石に大妖怪の貫禄か。
ともかく、それで霊夢と魔理沙の一悶着は集結したが、実際には最初からそんなものなんてなかったのである。
幻想郷では、酒と弾幕ごっこは日常の一部であり、切っても切り離せない物なのだ。宴会の席では必ず最低一回は、弾幕ごっこが発生する。
「はいはい、今準備してくるから、座ってなさいな」
霊夢は両袖の紐を解き、取り外した袖を二つに折り畳むと、自分が座っていた場所にそっと置く。
その後、台所へ行こうとした霊夢に、後ろから紫が声をかけた。
「ちょっと待って」
霊夢が振り返ってみれば紫も立ち上がり、袖をまくっている。
「ん? なによ。言われたとおりに鍋を取ってくるんだから、邪魔しないでよ」
「私も手伝うわ」
「「――――――」」
瞬間、硬直する霊夢と魔理沙。パーフェクトフリーズでもここまでの惨状を引き起こさないだろう。
「どうしたのよ?」
石化している人間が二人。紫と橙だけが、時間が停止したこの空間の埒外にいるようである。
「なあ紫、お前本当におかしいぞ。熱でもあるんじゃないのか?」
「そうよ。もしかしてやっぱり何か企んでいるのかしら?」
「ひ、酷い……人を信じられないって、こんなに辛く、そして悲しい事だったのね……!」
紫はよよよ、と崩れ落ちると着物の袖で泣き真似をしている。……が、その姿は同情を引くどころか、嫌悪感を増大させる効果しかないようだ。
「いや、あんた妖怪だし……」
「その前に、泣き真似ならせめて涙の一滴でも見せたらどうだ?」
「二人とも酷いです! せっかくの紫様の善意を……!」
冷たく言い放つ二人に対し、立ち上がって憤慨する橙。やはり『まいんどこんとろーる』は完璧であったか……。
「善意……ねえ?」
顔を見合わせる霊夢と魔理沙。この妖怪に善意、という言葉ほど似合わないものはないだろう。
「私は、ただ霊夢と少しでも長く側に居たかっただけ……」
「ええい、気色悪い。それが本音か!
言っておくけど、鍋の準備なんてたいして時間のかかるものでもないから、私だけで十分よ」
「でも、これだけの食材を運ぶのは一人では無理でしょ?」
「そりゃあ、まあ確かにそうだけど……」
炬燵の上の食材と、涙で目を涸らしている(ように見える)紫の顔を交互に見比べながら、霊夢は苛立ちげに頭をボリボリと掻く。
「はあ……手伝いたかったら手伝ってもいいけど、絶対に邪魔しないでよね」
「よーし、張り切っちゃうわよー」
いけしゃあしゃあとは正にこの事か。それまでの(出てもいない)涙など何処吹く風、紫は満面の笑みで勢いよく立ち上がる。
「……なあ、橙」
「なんですか?」
「今の紫の姿、お前の目から見てどう思う? 仮にもご主人様のご主人様だぞ」
「紫様はああ見えて、とても料理がお上手なんですよ。ですから霊夢さんの邪魔になるような事は決してありません!」
「ふーん。まあお前の口から否定的な事言えないよな。あんなのでも、ご主人様のご主人様なんだし」
「そんなつもりではありません! 私は思った事をそのまま話しているだけです!」
「じゃあ、なんで私の顔を見ない?」
「……リリーホワイトって、なんで弾幕でしか春を表現できないのでしょうか?」
「話をそらすな。そして私の顔を見て話せ」
霊夢と紫の二人が出て行った事で、炬燵にはその分スペースに余裕が出来ている。
今だとばかりに、早速足を投げ出して座っていた魔理沙と橙の耳に、台所から霊夢の怒鳴り声と共に、何か暴れているような物音が聞こえてくる。
『こらっ、紫! 変なとこ触るな!!』
『あ~ん。霊夢の愛が痛いっ☆』
『やっぱり出て行けーっ!』
「なあ、橙。今の――――」
「あ、蜜柑食べます?」
「これから鍋だってのに、そんなの食うか!」
食材の調理と言っても、鍋に使用する程度の物ならば、せいぜいが野菜や肉などを適度な大きさに切り分ける程度である。
よって、霊夢と紫の二人が台所に消えてから、ごく僅かな時間で下準備を終えた二人が魔理沙達の待つ居間へと戻ってきた。
大きな土鍋を抱え、台所から戻ってきた霊夢はぷりぷり怒っていた。それを見た魔理沙は、ぷっくりとしたほっぺたが、ちょっと可愛らしいなと密かに思ったという。
「まったく、いきなり変な所触らないでよね!」
「誤解よ、霊夢~。すれ違おうとしたら、偶然触れちゃっただけなのよぉ」
「偶然で、脇の下に手が触れるか!」
「あー、何というかその光景がありありと目に浮かぶぜ」
「浮かばすな、そんなの!」
霊夢は、頭から湯気が立ち上るぐらいご立腹のようだ。しかし、それでもてきぱきと鍋の用意をする所は流石である。
色気より食い気という言葉があるが、今の場合は怒りより食い気、なのであろう。
「それにしても酒と食い物があったら、呼んでもいないのに出てきそうな奴らが何人もいるのに、今日は姿が見えないな。
具体的に言えば亡霊とか、鬼とか。あと天狗と神様」
特に酒絡みの時の鬼出現率と、料理絡みの時の亡霊出現率は群を抜いている。しかもその鬼も亡霊も、紫と同じくらい図々しいから始末におえない。
「来なくて良いわよ、そんなの」
「ふふ……そうよ。せっかく私たちだけで楽しんでいるんですもの。たまにはこんな日があっても良くはなくて?」
「まあ、それもそうか」
「そうですよ。それより、早く食べちゃいましょうよ! 私、おなかペコペコなんです!」
「そうだな。変なお邪魔虫がやって来る前に、料理を平らげとこうぜ」
「――邪魔なんて入らないけれど、ね」
「ん? 何か言ったか?」
「いえ何も。さあ、鍋をこの台に乗せて頂戴」
紫が隙間から取り出したものは、金属製の長方形型の箱だった。大きさとしては、アリスやパチュリーが持っているグリモアと大体同じぐらいだったが、変なツマミみたいなのがくっついている事から、何らかの装置であるとは推測できる。
「この台は何だ?」
蒐集家でもある魔理沙が、それを興味深そうにそれを見つめる。その視線は、隙あらば掠め取ろうと言わんばかりだ。
「外の世界で使われてる、卓上の焜炉よ」
「ふーん。……そう言えば、香霖堂で似たような物を見たような気もするな。せっかく、この魔理沙様の八卦炉の出番だと思ったのに」
「あんた、鍋に八卦炉を使うつもりだったの!? 跡形もなく吹き飛んじゃうわよ」
「その辺はちゃんと調整するぜ。
まあ、微調整がちょいと難しくてな。間違えて鍋が溶ける事もあるかもしれんが」
「そんな物騒な物より、こっちの方がいいわよ。
で、紫。早く火を付けてよ。この焜炉の操作の仕方はあんたしか出来ないんだし」
ぶー、とわざとらしい声で不満を現す魔理沙を蚊帳の外に置き、霊夢が紫をせっつかせる。
「はいはい、そう焦らない焦らない」
紫が機械のツマミを回すと、ボッという音とともに火が発生する。おおー、とそれを見ていた霊夢と魔理沙の二人が声を揃える。
「さ、この上に鍋を置いて頂戴」
「よしきた」
「肉はこっちに置いておきますね」
「こら、そっちに置くと私が取れないでしょ」
「ほらほら喧嘩しない。沢山あるんだから分割すればいいでしょ?」
何も言われなくても、こういう時だけは皆率先して行動は早い。しかしそれには理由があるのだ。
鍋や焼き肉と言った、多人数で一つの鍋や鉄板などの限定された調理場所を共有する食事の場合、具材の確保の段階からすでに勝負は始まっているのである。
何の勝負かって? 食という生存競争に決まっているではないか。
紫が持ち込んだ焜炉は、その大きさの割りに強い火力で鍋を熱し続ける。これほどの小ささでこれほどの火力を発揮するとは、実に大したものだ。もしこれを量産出来たら、幻想郷の台所事情は大きく変革するであろう。
鍋はいよいよ、ぐつぐつと小気味よい音を出し始めてきた。その音と同調して、中の具材がぷるぷると小さく身を踊らせる。
食欲を増進させる匂いが部屋中に充満し、誰かは知らないが、ゴクリと唾を飲み込む音が一つ、聞こえた。
「……もうそろそろ、いいんじゃないか?」
「そうね、頂きましょう」
「よーし、じゃあ早速……痛っ!」
魔理沙は先ほどから握りしめていた箸を持ち直すと、せっかくだから私はこの牛肉を選ぶぜ、とばかりに鍋へと箸を突貫させた。
それは、まさに剣豪の一振りともいえる食への執念が籠もった速度であったが、それを紫は扇で打ち止める。
獲物は箸と扇であったが、第三者にはそれが真剣同士の鍔迫り合いであるかのように、飛び散る火花までを錯覚したであろう。
「こらっ、その前にする事があるでしょ?」
「……ちぇっ、わかってるよ」
「霊夢も橙も、一度箸を置く」
紫に注意され、霊夢と橙も己が獲物を一旦、箸置きへと戻す。
紫の隙間は射程無限。そこから繰り出される扇の一撃を回避するのは、事実上不可能なのである。
「わかったわよ」
「はいなのです」
「それじゃあ今度こそ」
「「「「頂きます」」」」
全員が手を合わせ、食への感謝の言葉を口にする。あまりにも当たり前になりすぎて、誰もが忘れかけているが、この行為に込められた意味までも忘れてはいけないのだ。
――挨拶が済み、今度こそ四人の少女達は対等な戦場に立った。
再び握りしめた獲物は二本の棒。だが、このたった二本の棒こそが、過酷な戦いで信頼できるたった一つの武器であり、頼れる相棒となる。
残念ながら、今この場においてはたとえ親兄弟といえども敵。情けをかければ即退場。非情に徹しなければ、この戦場で生き抜く事は出来ない。
鍋は一つきり。
食欲を満たすのなら、汝。
自らの力を以って、食材を確保せよ。
「その牛肉、貰い受けるぜ!」
一番槍……ならぬ、一番箸はやはり魔理沙だった。
魔理沙は、誰もが目を付けていた一番大きな牛肉を素早く掴み上げると、勝ち名乗りすら上げずに口へと運ぶ。
「はふはふ」と可愛らしく頬張るその姿はしかし、他の者の憎しみと敵愾心を煽るばかりだった。
「美味い美味い!」
嫌みったらしく、最上の獲物に舌鼓を打つ魔理沙。だが、これでしばらくは魔理沙は動けない筈だ。
そう考えた三人は、魔理沙が戦線復帰するまでの時間を最大限に利用し、鍋の中身を選別する。しかし……!
「それ、頂き!」
なんと、動けない筈の魔理沙が動いたのだ。その箸は、あと僅かで肉に触れようとしていた橙の箸先を掠め、横から奪い去っていく。
「あ~! そ、それは私が狙っていたのです!」
「肉を口に入れながら次の肉を取るなんて……魔理沙、そこまで堕ちていたとは情けないわよ!」
魔理沙は、橙や霊夢の抗議などまったく聞く耳持たない。それどころか「へへっ、鍋っていうのは早い者勝ちなんだぜ?」と、開き直る始末。
瞬間、霊夢と橙の瞳に殺気が宿る。
「よろしい」
「ならば」
「「――戦争だ――」」
霊夢と橙の言葉が完全に同調し、宣戦となって布告される。だがしかし、魔理沙は「私は鍋でも幻想郷最速だぜ?」と挑発仕返す大胆不敵さ。
霊夢達の視線が鍋の上で交錯する事により、この一瞬の間だけ箸が止まる……が、すぐに均衡は破られる。
今のは前哨戦にして小手調べ。ここで流れを引き寄せるのも有効な戦術だが、だからといってそれが終盤まで保たれるという保証はない。
まだいくらでも巻き返しが可能であり、要するにここからが本当の戦いなのだ。
四方向から差し込まれる箸、箸、箸。
角度、深さ、速度、そのどれもが千差万別であるが、その意思と目的は統一され、勝利を目指しそして確信している。自分こそが肉を手にするのだ、と。
しかし現実は非情である。差し込まれた箸の中で、当初の目的を達成できない箸も必ず存在してしまうのだ。
目的を達成できなかった箸が次に起こす行動は、3つのパターンに集約出来る。
それすなわち、
(1)惨めに手近な野菜を掴む。
(2)肉を探し鍋を掻き回す。
そして、最悪にして禁忌、
(3)他人の箸から奪う
というものであり、食材を掴まないという選択肢などない。箸を差し入れたら最後、撤退の二文字など存在しないのだ。
「うむ、美味い!」
魔理沙は趣向を変えたのか、椎茸を取った。なんという馬鹿な奴。肉という最高の獲物の中で、あえて椎茸を選ぶとは……生粋の茸マニアだな。
肉を連続して取った事で調子に乗っているのか、それとも油断しているのか? しかしこれは最大のチャンスでもある。
魔理沙が気付かないうちに、先ほど巧妙に隠していた取って置きの肉を貰う! そう霊夢が舌なめずりした時だった。
「それじゃあ、この肉は私が貰うのです!」
「あっ、あっー!? せっかく野菜の下に隠していたのに!」
何と言う事だ! 温存していた肉が、突如横から出てきた箸によって、ひょいと目の前で横取りされたのである。
しまった……魔理沙や紫ばかりに気を取られていて、橙という存在を疎かにしていた。何という伏兵……というかお前は味方じゃなかったのか!?
くそう、敵の敵は味方ではなかったのか。今この場では、敵の敵でもやはり敵は敵だったのだ、という事をあらためて再認識させられた霊夢は、仕方なく手近にあった肉――おそらくは豚――を箸で掴んだ。
口に含んでみれば、実に柔らかく、そして煮汁が染み込んでいて美味い。だが、この肉の大きさは、先ほど魔理沙が取った肉の半分程度の大きさ。
つまり食べた分の総量では、魔理沙の1/4程度なのだ。これでは負けてしまう!
……何に負けるのか、なんて突っ込んではいけない。負けてはいけないから、負ける訳にはいかないのだ!
そこで霊夢は、質を量で補う作戦に出た。鍋の中で、あまり狙われにくそうな小さめの肉を中心に掬いまくる。
魔理沙と橙は、相変わらず大きめの肉を狙って牽制を続けている。それを横目で見ながら、霊夢は「戦いは数なのよ」と内心ほくそ笑む。
「ちょっとあなた達、少しは肉以外も食べなさいよ」
「こういう時じゃないと沢山食べられないじゃない!」
「そうだぜ、宴会じゃ他人の分まで取っていく奴がいるからな」
三つ巴の激戦を眺めながら、呆れた口調で紫が注意する。だが、霊夢と魔理沙は意に介さない。
当の紫は傍観に徹しているのか、それほど多く箸を動かしていない。それに気付いた橙は、紫へと催促する。
「それより、紫様ももっと食べてください!」
「うふふ。私は霊夢がお・か・ず☆」
「ごほっごほっ!」
腰をくねらし、キラッ☆と右目をウインクして見せた紫の突然の奇襲攻撃に、霊夢は為す術もなく盛大に咳き込む。
「あらら、大丈夫?」
「急に変な事言わないでよ!」
咽せながら湯飲みに手を伸ばす霊夢。
お茶だろうが酒だろうが関係なく、その中身を飲み干した霊夢は、激しく紫を睨みつけた。
「照れちゃって、可愛い」
「照れてない!」
「お前ら、熱いのは鍋だけにしといてくれよ?」
「ちょっと、あんたねぇ……」
ははは、と笑いながら茶化す魔理沙に、頬を引きつらせながら霊夢が身を乗り出した時、「今だ!」とばかりに、魔理沙は鍋の中に残った最後の肉を引っ掴んだ。
「それっ、肉貰い!」
しまった、と霊夢は後悔した。紫の巫山戯と魔理沙の挑発にまんま引っかかって、自らチャンスを逃してしまうなんて!
「ぐうっ! 卑怯よ、油断した隙を付くなんて!
嗚呼……私のお肉ちゃん……」
霊夢はがっくりと肩を落とす。それもそのはず、鍋の中にはあれほどまで沢山詰まっていた食材が、ほとんどなくなっていたからだ。
「橙、具材が減ってきたわね。新しいのを足して貰えるかしら?」
「はい! お任せ下さい!」
橙は、手近にあった皿を手に取った。その皿には、新しい希望がわんさかと乗っている。
それを見た霊夢に再びコスモのオーラが燃え上がる。紫が持ち込んだ食材は存分に有り余っており、希望はまだまだ残されているのだ。
「よし、今度こそお肉は絶対死守よ!」
「ふふん、そうはいくかな?」
「というか、何でお二人とも相手のを奪い合う事を前提にしているんですか?」
霊夢と魔理沙の間には、敵意剥き出しの視線がぶつかり合って火花が散っており、それを紫は愉快そうに眺めている。その目は、まだ何か悪戯でも思いついたかのような得も言われぬ光を宿らせている。
橙はとばっちりがこなければいいなぁ、と思いながら食材を(気付かれない範囲で)自分の方に多めに寄せて投入した。
「ふー、食った食った」
あれほどあった食材はほぼ全てがその姿を消し、今では鍋の中に多少の野菜が空しく残るのみである。
鍋と同時に酒も良い感じで進み、全員が足を投げ出したり炬燵に寄りかかったりと、少女としては褒められた姿ではなかった。
「これだけ肉類を食べたのは本当に久しぶりよ。これであと博麗は、半年は戦える!」
「……なに、見えない敵と戦っているのよ」
酔っているせいもあるが、今夜はもう面倒くさいので、霊夢は鍋を台所に持って行くと水に漬けただけで戻ってきた。
鍋や食器を洗うのは明日の自分に丸投げだ。頑張れ、明日の自分。
「……で、あんたたちはいつまで居るの?」
炬燵に入り直した霊夢は、片肘をついて座っている紫にその事を訊いた。
「まあ、食べ終わったと同時に、もう用済みだなんて……。悲しくて涙が出ちゃう!」
「そうじゃないわよ。あと少ししたら帰るのか、それとも今日は泊まって行くのか聞いてるのよ。
魔理沙、あんたにもね」
「ちょ、私もかよ!?」
「当然でしょ。あなたが一番、今日の鍋に貢献していなんだし」
「そりゃ誤解だ。私は十分に貢献しようとした。だが、お前らに断られた。
自分達で断っておいて、それは冷たすぎるぜ」
「あんたは、怪しいキノコを混ぜようとしただけでしょうが」
「なあ、外は暗いぜ?」
「ふーん」
「外は寒いぜ?」
「ふーん」
「うわーん、紫えもん助けてー!」
霊夢のそっけない態度に心を挫かれた魔理沙が、今度は紫へと救済の手を求める。
「誰が紫えもんなのよ?」
「今、私に降りかかる不幸を助けてくれる人だぜ!」
「じゃあ、この中には居ないんじゃないかしら?
……というか、人のネタまでパクらないでよ」
「ああ、この世に神は居ないのか……」
まるで宗教者か預言者のように両手を広げ、天を仰ぐような仕草で魔理沙は嘆く。
「魔理沙。あんたこの前、山の上の神様吹っ飛ばしてたじゃない。マスパで。
きっとバチが当たったのね」
「うわー。絶望した私は炬燵の中で眠りにつくのであった……」
魔理沙は、両手を広げたまま崩れ落ちるようにゆっくりと仰向けになると、そのまま炬燵へと潜り込んだ。
見方を変えれば、炬燵が魔理沙を飲み込んだように見えなくもない。
「ふにゃー! 私の所有地が割り込まれたのです!」
「ちょっと! そんな所で寝るな!」
「そうよ、そんな所で寝たら風邪を引くわよ」
「駄目だぜー。
帰っても風邪、ここで寝ても風邪。なら、私はここで風邪を引く方を選ぶぜ。
万が一、風邪をこじらせて死んだら、祟り神となって博麗神社に居座ってやるのだ」
「あんた、いつから二代目祟り神を襲名する気になったのよ」
頭を抱えた霊夢は、大きな溜息を一つ吐き出す。
「……はあ、わかったわ。今日は泊まって行きなさいよ」
「それでこそ霊夢だぜ。女に二言はないよな」
霊夢の言葉を聞いた途端、がばりと魔理沙が起き上がる。それを見た霊夢からは、二度目の溜息が漏れる。
「――で? 紫、あんたの方はどうなの?」
「あら、私たちも泊めてくれるの?」
「どうせ、最初から泊まっていくつもりなんでしょ?」
「そうねえ……」
指を口元に当て何やら思案した後、紫はゆっくりと顔を横に振った。
「いえ、今日はもう少ししたら帰るわ」
「珍しいな。てっきり、『霊夢と一緒の布団で寝る!』とか言い出すかと思ったぜ」
「それも凄く魅力的なんだけどね、実はあまり長居も出来そうにないのよ」
「これでも忙しい身分でね」と続ける紫。
更に「どこがよ」と続ける霊夢。
「でも、霊夢分を補給できたし、私は満足よ」
「こら。気色悪い造語を定着させようとするな」
「まあまあ。お酒もあと少し残っていることだし、これを飲みながら後しばらくはのんびりとしましょう」
紫は、残された酒瓶を目の前に持ち上げて見せた。瓶の中にはまだ半分ほど残った液体が、たぷたぷと揺れている。
紫が持ち込んだ酒瓶は五本ほどあったが、そのうち三本は飲み尽くされていたが、まだ全く手を付けていない瓶も一本残されている。
今回は鍋が主役となった為、いつもより酒の進みが遅かったのだろう。もしここに鬼が居たのならば、五本程度の酒瓶はとっくに空になってしまっていたに違いない。
「その意見には賛成だぜ」
「あんた、さっきはもう寝るとか言ってたのに……」
「はい。湯飲みですよ」
「おっ、気が利くな」
「……あら、ありがと」
鍋を片付ける際に邪魔になったので、それまで各人で使っていた湯飲みは端に寄せてあったのだ。それを橙が再度、各自に分配していく。
特に何の変哲もないような行動だったが、霊夢だけはその様子をじっと見つめていた。
「ねえ、橙。あなた、ちょっと変わった?」
「――はい?」
ピクリ。橙の耳が一瞬震えるように動いたような気がした。
「なんて言うか……結構前から気にはなっていたんだけど、いつもと少し雰囲気が変わっているような気がするのよね」
「そうか? ……うーん、まあ、確かに言われてみれば、いつもより大人びているような……?」
「あ、……えーと、じ、実は紫様の目の前なので、緊張しているのですよー!」
「ああ、いつもは親馬鹿な狐がいろいろ庇ってくれるもんな~。流石に、紫が直接相手だと勝手が違ってくる訳か」
「そ、そうなのです」
紫、藍、橙。この三人は妖怪であり、それぞれが式と式神という上下関係である。その関係を、人間の価値観で判断する事など出来はしない。
それに、紫が何かを企んでいようがそうでなかろうが、魔理沙にとってみれば現時点では関心の対象外だった。
だが、霊夢だけは「ふ~ん」と頷きながらも、透き通っているようでいて、掴みようのない瞳で橙を見つめている。
そんな霊夢に対し、紫が口を開く。何ら変わらない、いつも通りの尊大な態度で。
それは紫がごく普通に会話に加わってきたように見えるが、捉え方次第では橙に助け船を出したようにも見える。
「貴女達、邪推のしすぎよ。
まさか橙一人だけを置いて、ここへ来る訳にはいかないでしょ? そんな私の優しさを褒めて欲しいわね」
「それだったら、なんで藍だけを酷使するんだよ。
今日の鍋だって、どうして藍を同席させてやらないんだ?」
「食材が四人分しかなかったのよ」
さらりと言う紫の態度に、特に藍に同情した訳でもないが、流石の魔理沙も「ひでぇ!」と声を上げた。
「ふふ、冗談よ。本当は、結界の見回り中の筈よ」
「そっちの方がひでぇよ。自分達だけ鍋と酒を堪能している間、藍はずっとこの寒空の下で一人きりかよ?」
「藍は私の直接の式。式神というものはそういう存在でしょ?」
「藍は橙を酷使してはいないぞ?」
「藍は外面が良いだけよ。それに橙はまだ四分の一人前だから、まだまだお勉強の途中なのよ」
「四分の一人前?」
「半人前の半人前って事よ」
「ふにゃ~……」
情けない声と共に、橙は炬燵に突っ伏してしまった。紫の口から、正面切って戦力外通告を出されたのだから無理もない。
「それにね。式神でもない癖に、主人に妄信的なまでの絶対忠誠を誓っている、人間とか月人とかいるけど?」
「あいつらは例外中の例外だよ」
「そうね。確かに、その人間や月人が何を考えているのかなんて私には解らないし、彼女たちが忠誠を誓う主人が、どんな考えでその者達と接しているかなんて事も解らない。
――でもね。ただ一つ言える事は、私が想定しうる全てに置いて、私は藍を信頼している。だからこそ、どんな事でも任せられるのよ」
紫は、式神を道具だと揺るぎない確信を持って断言する。しかし、同時に式神である藍に絶対の信頼を置いているのである。
それは、式神という道具の性能を信頼しているのだろうか? それとも藍という式神だからこそ信頼を置いているのであろうか?
藍は、式神でありながら己自身も式神を持つ。本来なら許されないその行為を、紫が許容しうる理由は、前者かもしれないし後者かもしれない。
紫は表面上の喜怒哀楽の激しさが目立ち、第三者はついついそれに目を奪われてしまう。
だが、その道化師のような表情の下には、鉄の仮面が隠されている。その仮面をかいくぐって内心や本心までを見透かす事など、どんな妖怪であろうとも不可能だろう。
「はあ……。お前の信頼ってやつに応える藍も大変そうだな」
「何なら、私の式になってみる?
三食おやつ付きで、今なら特典として寿命と魔力が五十倍になる大サービス中よ」
「どうしてそういう話になるんだよ。
というか、寿命が何十倍にもなってみろ。その年月分、お前の手下となって藍みたいにこき使われるんだぞ? 到底、願い下げだね」
「言ってみただけよ。
こちらこそ、手癖の悪い蒐集家を式なんかにしたら、八雲の品格が疑われてしまうわ」
「……だったら、最初から言うなよ」
「でも、人間を辞めたくなったら相談ぐらいには乗ってあげてもいいわ。
人間の身体と寿命で魔法を極めようなんて、無謀も無謀。図書館の魔女や、人形使いの1%分の領域にだって踏み込めない。
まさか一生、弾幕ごっこだけして暮らす訳じゃないでしょ?」
その紫の言葉に、魔理沙は一瞬言葉を詰まらせる。
自分自身、薄々勘付いていた……というより、意図的に思考から排除するようにしていた考えだったからだ。
しかし、魔理沙はまだ十と余年の短い人生である。これから先の在り方を決定するには、まだ幾分か早すぎると言えた。
「……………………。
随分サービスがいいな。一体、どういう了見だ?」
「ほんの気紛れよ。気に障るなら忘れて頂戴」
「紫。今日のあなた、本当にどうかしているわ。何かを企んでいるのじゃないとしたら、最近、豆腐の角ででも頭を打ちつけなかった?」
いつの間にか、霊夢の目つきは異変解決時の時のような、鋭いものに変わっている。内面までを勘ぐろうとする霊夢の視線を、紫の鉄の仮面が弾き返す。
「あら酷い……人が珍しく良心を見せてみれば、なんて酷い言われよう」
「あんた、さっき気紛れだって言ったじゃないの」
「そうだったかしら?」
紫は、小さく舌を出して戯けて見せた。
その様子を見ていた魔理沙は、「なんだ、結局はいつもの気紛れか」とばかりに興味を失ったようだ。
「霊夢。心配するだけ損だぜ。こいつはいつもこんな調子なんだからな」
「お二人とも、それよりお酒が進んでいませんよ?」
橙が残っていた最後の酒瓶を開けると、シュポン、と実に良い音がして今までの重い空気を吹き飛ばした。
「おっと、そうだった。酔いも醒めちまったからな。また飲み直しといくか」
「――――――」
「どうした霊夢。まだ何か気になっているのか?」
「ううん、何でもないわ。それじゃあ、私にも一杯」
「ささ、どうぞなのです」
「ありがとう、橙」
橙はそれぞれの湯飲みへと酒を注ぎ足していく。もちろん、自分自身は一番最後である。
その様子を静かに見守っていた霊夢は、じっと湯飲みを見つめながら口を開いた。
「――――ねえ、紫」
「…………何かしら、霊夢」
答える紫も、先ほどまでと何ら変わらない筈の口調ではあるのに、その言葉はとても重かった。
「また来たくなったら、来てもいいから……ね」
「――――――――そうね。
ありがとう、霊夢」
紫も自分の湯飲みを眺めている。その中で揺れる液体は無色透明で、鉄の仮面の内側にある、弱い本当の自分のようだった。
「……本当に、勘の鋭い子ね」
一人呟くその声は、霊夢に聞こえただろうか?
外の世界ならばごくありふれた酒。外の世界でも、この幻想の地でもこれ以上の名酒など星の数ほど存在する。
しかし紫が口に含んだその酒は、これまでの生涯でも片手で足りる程に美味だった。
「ふふ、可愛い寝顔しちゃって……」
酔いつぶれた、というよりは騒ぎ疲れたという感じで、霊夢と魔理沙は眠りについた。
寝室で二つ布団を並べて寝息を立てる二人の少女は、弾幕ごっこや異変解決に興じる普段の姿とは違い、年相応の少女そのものだった。
「ふう。……久々に霊夢分をた~~っぷり補給できたし、これで八雲家はあと百年は戦えるわ!」
「…………。紫様、お楽しみの所申し訳ございませんが、そろそろお時間かと……」
満面の笑みで背伸びをしている紫に対し、しきりに時間を気にしているような素振りで、橙が具申した。
今の橙の姿は、つい先ほどまでの赤いワンピースを着た少女とはまるで違う風体であり、一見すると同一人物であるとは判別が付かない。
服装は紫のような導師服に近い物に変わっており、背丈も紫とほぼ同じか、僅かに橙の方が高い。
「はあ……楽しい時は、こんなにあっけなく時間が過ぎていくものなのね。
まるで人間の一生のような、儚すぎる時間……二度とは戻らない泡沫の夢のよう」
「……紫様。夢は覚める故に夢なのです。
私も、霊夢さんや魔理沙さんに会えて嬉しかったですし、あんなに楽しくお酒を飲めたのは久しぶりです。
ですが、もう私達は目覚める時間のようです」
そう真面目な顔で断言する橙を見て、紫はくすりと失笑を漏らした。
「ふふっ、『青は之を藍より取りて、藍よりも青し』……橙に教えを請うとは、私も引退時かしら? それとも、過去の妄執に囚われすぎて目が曇っていたのかしら?」
「そ、そんな……私はそんな意味でいったのでは……」
寂しそうに呟く紫の言葉に、慌てて橙が否定する。その大きく立派な体躯をおろおろと右往左往させる様は、何処かの九尾の狐に瓜二つであった。
「わかっているわ。冗談よ、橙。
それに、仮にも八雲の名を冠する者が、そんなにおろおろとしないの。橙、貴女は半人前の半人前なんかではない、立派な八雲の式神なのだから」
「は、はい。ありがとうございます」
「それにしても、さっきの姿も素敵だったわよ、橙」
何処からか扇子を取り出し、口元へ当てる紫。口元が見えなくても、わざわざ扇子を出すというそのジェスチャーだけで、紫が笑みを表現しているのは理解出来る。
その紫の前で、橙は気恥ずかしそうに頬をかいた。
「あまりからかわないでください、紫様。
……でも確かに紫様の目の前で、あのように力を抜いてくつろげる事なんて滅多にない事ですから、私としましても満更ではありませんでしたけど、ね」
「橙も言うようになったわね。今の姿を、藍が見たらどう言うかしらね?」
「その事は二人だけの秘密という事で、お願いいたします」
「ふふ。あの姿のままで固定しておいた方が良かったかしら?」
それだけはご勘弁、と苦笑する橙を横目で優しく微笑みかけながら、紫は魔理沙の布団を直し、霊夢の頭を軽く撫でる。
「さあ、紫様お早く。『この時代』の私達に勘付かれると、面倒な事になります故」
「はいはい」
紫は橙を傍らへと招き寄せると、ここへ来た時と同じように大きな隙間を一つ出現させる。
橙も身を預けるようにして、紫にそっと寄りかかった。
「――それじゃあね。楽しかったわよ、この時代のお二人さん。……貴女達なら、どんな運命でも乗り越えていけるわ」
無音で出現した空間の裂け目は、紫と橙が入り込むとすぐに修復され、後には何の痕跡も残されてはいない。
静寂に満ちた博麗神社と、かすかな寝息。朝が訪れるまでは、この一時の平静が破られる事はない。
終
気のおけない仲間と鍋を囲む時の賑やかさがよく表現されてたと思います。
ただ、何故未来(?)の紫と橙が現代(?)の霊夢と魔理沙に会いに来たのか。
その辺の説明的なものも入ってると自分的に満点でした。
そのあたりを想像して楽しむのもアリだと思いますが・・・
それはともかく想像が膨らむ面白い話でした。
紫様にとってこの時代は特別だったのでしょうね。
段々年を取るにつけ、過去の思い出はだんだんと魂の根幹に近づいてゆくように思います。
ぼんやりとしていて、でも涙が出るほど懐かしい。
ひと時、良い夢を見させてもらいました。
それでも素敵なタイトルだと思って思わず開いてしまいました。
作品を読み終わった今では、殊更このタイトルが似合っていると感じます。
内容に関しても、最初にはオチ予想できるとは書きましたが最後まで楽しんで読めました。
藍が来ていないこともなんだか不自然ですし。
ってこんな邪推はいらないですね。
良かったですよ。全体的に楽しそうな雰囲気で話が進行していって最後はなんとなく切なさのようなものを感じさせる作品でした。
記憶違いでなければこの作品昔どこかで見たことあるような……
文字通り記憶違いだったらすまんね