――私はあの時よりも年をとったし、賢くなった。変わらないのは外見と、あの時の恐怖心。
――私はあの時よりも年をとったし、賢くなった。私はもう、引き返せない場所にいる。
『一つの手紙は、臆病な私とあの日の"魔理沙"を繋ぎとめる。辛うじて、ほんの僅かに繋ぎとめる』
~心繋ぎはかの手紙~
本当にこんな日が来るなんて。
目の前に高々と積まれた本、本、本。幾人かのメイドを伴って小悪魔が私の目の前に積み上げていく。
「よいしょ、これで全てですね。如何しましょう、パチュリー様」
眼鏡の位置を直しながら、小悪魔が言う。仄暗い部屋の中、僅かな灯りがふっと宙を舞った埃を照らしだす。
ともすれば幻想的にすら見えるそれにも、私は自分を庇う様に顔をしかめるだけだった。
「ん、コホッコホッ…………凄い埃ね」
「あ、あぁ、すみません! パチュリー様! これでもそーっと、そーっと、運んではいたのですが……」
「いいわよ、この程度。別に私は死にはしないもの」
小悪魔があたふたとする度に、その尻尾と翼はデスクの埃を巻き上げていた。本当……仕様がない娘。今に始まった事ではないけれど。
呆れるでもなく何となく小悪魔を見やってから、存在すら忘れかけていた天窓の事が、ふと脳裏を過る。
思いっきり仰ぐ様にしてようやく視界に入る、あの天窓。そこから幽かに入り込む月明かりは決してここまでは届かない。
けれど、眩しすぎる太陽なんかよりも、これが私には丁度いいのだろう。この埃っぽい図書館という地下室からは、太陽はあまりにも遠すぎた。
それなのに、晴れの日には私を冷やかす様に照らすのだ。もちろん、その光だって遠すぎた。
けれどいつからか、それが我慢ならなくなって、天窓には板が釘で、打ちつけられていた。
物理的な効果なんて殆どない。隙間だらけだったから。でも、それは私からの拒絶の意思を表すのには十分で、そして幽かな月明かりを招き入れるのにも問題なかった。
「それにしてもこの量も量ですが、驚くほどに状態がいいですね。彼女がこんな丁寧に物を扱っていただなんて、少しびっくりです」
「……防護魔法か何かね」
これだけの本に、それもこれだけの期間、防護を施しておくのは容易ではないだろう。
あるいは彼女は、捨虫の術も扱える域にいたかもしれない。そうだったかもしれないけれど、今となってはどうでもいい事だ。
けれどもしそうだったなら、実に彼女らしい。……いや、実に人間らしい。
小悪魔が手近な本を整理している様子をぼんやり眺めるのにも飽きて、とある一冊の本に視線を落とす。
この本だけは、もう何十年と持ち歩いていた。その時に読んでいる魔導書が変わっても、この本はいつも私の手の中に置いておいた。
それに、この本だけは、今目の前に積まれている本達とは異なって、驚くほど"状態が悪い"。……実に彼女らしい。
もう、ここにしかあの時の彼女はいないのかも知れない。だから私は一冊の本に、しがみついている。
「パチュリーさまぁ、もうそろそろ、お休みしませんか……? お昼に一式の荷物が届いて、ここまで運んで、大別するだけでもうこんな時間ですし」
「何言ってるのよ、と思ったけれど……しょうがないわね。今日はもういいわ」
カビ臭い空気を一通り掻き回すだけ掻き回しても、作業は大してはかどらなかった。
けれど、私はそれを手伝う事が、とてもじゃないけれど出来なかったから……この娘に文句は言えないだろう。
「よかったぁ。もう、クタクタですよ。……先にお部屋でお待ちしてますね。ふふふ」
小悪魔が耳打ちする様にして囁く。私はそれを耳にすると何故だか一層、不機嫌さが募っていくのが分かった。
それがとても失礼な感情である事も分かっていたけれど、今日ばかりは考えてもどうにもならない。
「あぁ……今日は、ちょっと一人にさせて頂戴」
本をパタンと閉じると、カビ臭い匂いがふっ、とこちらへ流れてきた。
「えぇー…………でも、わかりました。――それでは、お休みなさい。パチュリー様」
「お休み。小悪魔」
小悪魔は名残惜しそうにこちらを見やってから、メイド達と連れ立って部屋を後にしていった。
ドン、と図書館の大きなドアの閉まる音を耳にすると一際大きなため息が口から漏れ出た。
静かな静かな空間に、その溜息が沁み渡って行くように部屋自体がどんよりとしていく気がする。
もう一度、本の山に目をやる。――全く、本当に気が滅入る。
でも、久し振りに感じるこの感覚は、私の表情を幽かに緩ませている事だろう。
私は一際"状態の悪い"あの本を無意識のうちに開いていた。本自身が、ここだ、と示す様にしてとあるページが開かれる。
そこには受け取った時よりもはるかに黄ばみの増した封筒が挟まれている。その封は、今だに開かれていない。
あぁ、彼女と疎遠になったのはいつからだっただろうか。
人間はいずれは大人になる。そうすれば、当然興味を示すものも変わるだろう。
それもそうだ。
いつまで経っても乙女の弾幕ごっこを卒業できない手癖の悪い女性など、誰が欲しがるだろうか。
…………。
そうして、仲を違えるでもなく、互いの距離は次第に開いていった。
奇しくも、私の記憶の中の彼女はあの時の彼女であって、所帯じみた俗っぽい普通の人間ではない。
最後まで、彼女が私の元を訪れる時には、あの時の彼女でいてくれたから。
そんなある日、彼女が一冊の本を返しに来てくれる。
「ちょっと借りて行くぜ。私が死ぬまでな」
口癖の様にそう言う彼女が? 何があったのか。その時の私は何も知らなかった。
唖然として、その本を見ることすら出来なかった。その本に、可愛らしく封のされた封筒が挟まれている事を知るのは大分後の事になる。
しかし、それを見つけても何故か私はすぐにそれを見てみよう、という気を起こさなかった。
それこそ、いくらか読んでみた外の世界の恋愛小説か何かの様なものか。秘密の何かを受け取った事実に満足して頬を紅に染め、開くのすら勿体ないと、そうとでも思ったのだろうか。
愚かしい。
そうして、私は風の噂に聞くのだ。魔法の森の誰も訪れない魔法店。そこが空き家になっているという事を。
その噂を聞いてしまうと、いよいよ本当に封筒を開くことなど出来なくなってしまう。その手紙の中身が如何なものか、想像するだけでスーっと血の気が引いた。
頭の中は真っ白になって、今までの愚かな思考を恥じた。
事実、私が最後に彼女の顔を見たのは、この本を返してもらった、その時だ。
それに気が付くと封筒はたちまちに色あせたものに見えて、その中身への羨望と期待は何処かへ行ってしまった。
怖い。
この封筒が。
しかし、気になる。
私がこの本を、封筒を片時離さず持ち歩いていたのは、いつかふとした瞬間にこの恐怖心が緩まるのではないかと、封筒の中の彼女への恐れが消えるのではないかと、そう思っていたからでもある。
が、その結果がこれだ。今も私の手には未開封の手紙が握られている。
なろうと思えばいくらでも賢くなれた。賢くなれる。けれど、今は叡智よりも勇気が欲しい。
私の知る彼女の様に、少しくらい荒唐無稽でいい。
開きたい開きたい開きたい。
けれど、
開けない開けない開けない。
あぁ、遠いあの天窓から、仄かに白んだ空が幽かに見え隠れする。
――願わくばあの日々の太陽の様な貴女よ――
けれども、それはもう叶わない。
私も部屋へ戻ろう。また太陽にからかわれる前に。そう思って私は本を片手に席を立つ。
と、ゴンッ、と派手に机に足をぶつけてしまう。積み上げられた本が騒々しい音を立てて散らばる。
「いたた……もう、もっとちゃんと整理なさいよ……」
考え込むと、周りが見えなくなる。いつもの悪い癖だった。
「……ん……これは……?」
いくつもの散らかった本。そのうち一つがそれ見よがしにページを開いていた。
そしてやはりこれ見よがしに、それがある。それが挟まれている。
真新しい封筒は、私に宛てられた物で間違いなかった。
・
目覚めは最悪だった。
胸を締め付けらる様な、不快な感覚だけが残っている。
嫌な夢を見たくせに、すっかり忘れた。
残っている自責の念だけかき集めても、苦しみや悪夢から逃げだせる訳ではない。
いくら頑丈に部屋に鍵をかけても、悪夢にうなされる回数は決して減らなかった。
そんな事はしょっちゅうで、もう慣れてしまったけれど、今日は少し違った。
悩みの種が、一つ増えた。
「……馬鹿を言わないでよ……あなた、死んだんでしょう」
差出人の名を見てどうしてだか腹が立った。私がもっと、もっと素直だったならば喜べたのだろう。
遺書か、それとも悪戯か、どっちでもいい。どちらにせよ、今の私には悪い冗談にしか見えない。
見えないのだが……。
「けれど、そうよね。中身くらい見てやっても」
二度も同じ過ちは繰り返したくはない。それに何故だか無性に腹が立っていた事が私を積極的にしたのだろう。
ベッド脇のデスクから木製のレターナイフを取り出す。柄に施されたアラベスクの文様は本当に幾度となく目にしたけれど、実際に使うのはこれが僅か数度目だ。
ひと思いにザッと差し込み、乱暴に開く。開いた封筒はベッドに投げ置き、昂った気持のままデスクの上のあの本の、あの封筒を手にしようとしたけれど、
「――ウッ…………」
レターナイフを手にしたまま、口元を押さえる。寝起きから感情が振り切れてしまったからか、私の意思は途方もない吐き気に抑えつけられる。
じわりとこみあげてくる酸味に嘔吐く。いよいよどうにもという所で、私は背後から誰かに優しく抱きかかえられた。
途端に吐き気は霧散していき、また私の意識も虚ろになっていった。
ゆっくりと落ちてゆく。体が支えられているにも関わらず、中身は際限なく沈んでいく様だった。
――いや、虚ろというとそれは語弊があった。
むしろ逆だ。現に私はこうしてはっきりと意識を持っている。
目の前に広がる情景に、現実と少しばかりの差異を感じる程度の違和感。
あぁ、これが所謂明晰夢というものか。いつか彼女にやり方を調べてくれと言われた記憶がある。
恐らく、ここまで意識のはっきりした夢を見られるとあれば、皆々喜々として何かをするだろう。
人間も、妖怪も、道行く人を襲ったって何も文句は言われない。人間も、妖怪も、人の物を奪っても何も文句は言われない。
普段ならしない様な事を、不可能な事だっていくらでも出来る。――私から彼女の『居る』家に行く事も、私から彼女を押し倒す事も――
しかし、どうにも気だるい私は何をしようという気も起きなかった。
そして私の夢の世界は、この私を置いてでも機能する様に出来ているらしい。私の無気力さに呆れたか、そう組み上げられたらしい。
時間の流れがさらさらと流れる川であると例えられるのなら、私は川に浮かぶ木の葉だろうか。
生きた魚の様に流れに逆らう事や、生きた人間の様に川から上がる事もしない。
さておき、私はさながらスクリーンに写された映画を嫌々見させられている風な気分になりつつ、そこにいた。
仕様がないので映画に傾注するとしよう。
俯瞰したその風景は新鮮であったが、実に見慣れた物だった。
・
そこには二人の少女がいる。
片方は足まで届こうかという髪の毛を持ち、その背中は不健康そのものに見える。日陰の少女、そんな名前がぴったりだと思った。
本に落とされた表情までは分からないが、恐らく不機嫌ではないのだろう。
雰囲気は決して険悪では無かった。
もう片方はウェーブがかったブロンドを持ち、その佇まいはその場に少し不釣り合いに見えた。あぁ、それなら彼女は日向の娘だ。
病的なその部屋にあって、なお生気を感じるのは彼女の周りだけであったから。
幽かに話し声が聞こえる。
「……また来たの?」
早口で何を言っているか、夢のセルフシアターでなければとてもじゃないが聞き取れない。
たった一言にも関わらず、そう感じた。
「あぁ。ここには色んな本があるからな。いくらだって来れる。さっくり貰っていく、って言っただろ?」
「それはあれだけ派手にやらかした人間の言う事ではないわ」
内装が幾らか傷ついて見えたのは気のせいでは無かった様だ。
「ここの主も、使用人も、質が悪かったからな。そいつは仕様がない。他と比べればここはまだ被害は小さいはずだし」
「返事になっていない」
「要するにお前だけ、質が悪くなかったって話だ」
少女の本を掴む手がぴくり、と動いた気がしたのは見間違えではない。
一方、日向の娘はそんな事はお構いなしで、持ち寄った本を片手に日陰の少女の対面の席に腰掛けた。
「この部屋、暗くないか?」
「さぁ……暗いかもしれないけれど、暗くはないわ」
「目、悪くならないか?」
「悪くなるかも知れないけれど、大きなお世話よ」
「そいつは残念だな」
日陰の少女がチラリと本から視線を上げたのを見計らって、日向の娘が笑みを投げかけた。
無関心そうな様子を演じながら、日陰の少女は再び本に視線を落とす。
そして、何か手近な話題を、といった風に当たり障りのない話を切り出した。
「――それに、二度目だわ」
「おう、覚えてたか。確か、最初の最初に、そんな話をした記憶がある」
「なんでまた同じ事を?」
「あの時と違う返事をすると思ったからな」
始めは読書を邪魔されるのが嫌そうだった彼女だが、日向の娘にその本と同じくらいの興味を示した様で、その視線は日向の娘と本の間を行ったり来たりしている。
「変わってるわね」
「変わっている事はいい事だ。…………人の真似に、努力しなくて済むからな」
「……?」
「なんでもないぜ。パチュリー」
教えた筈のない名前を呼ばれるとは思ってもみなかった様で、少女は大袈裟に驚くような恰好をした。恐らく、演技では無しに。
しかし、少女も自ら返す。まだ教えてもらってはいない、その名前を口に。
「…………でしょうね。霧雨魔理沙」
そして暗転。
再び映る舞台は変わらず。相変わらず、俯瞰した風景は見慣れた場所だった。
けれどもそこにいるのは一人だけ。前より少しだけ健康そうに見える、あの病的な長髪少女。日陰の少女。
彼女がこちらを見上げているものだから、私は思わず目を逸らす。
「パチュリーさま、どうしましたか? 天窓なんて見上げて。換気でもしますか?」
「しなくていいわよ。あんなの小さくて、光だって碌々通さない天窓だもの」
彼女が誰かに声をかけられたのを計って、私は再び下の様子を窺う。
見ると、赤い髪で黒っぽい服を少女が日陰の少女に話掛けていた。
「……今日は、ちょっと遅いわね……」
本当に幽かに、そう聞こえた気がする。
証拠に、赤い髪の少女が僅かに反応したのが見えた。
「……彼女も、毎日登る太陽の様に、毎日来るとは限りませんよ」
「それじゃ、毎日ここで本を読んでいる私は月とでも言うのかしら?」
「いえいえ、違います。毎日ここで司書をやらせて頂いている私が月ですよ。パチュリーさまは月じゃありません」
「……もう、どちらでもいいわ。そういえば、レミィに呼ばれていたんだった」
長髪の彼女は付け足す様に、ありもしない予定を口にしてそそくさと部屋を後にした。
残された赤い髪の彼女が、こちらを見上げて口を開いた。
「……どちらでも良くはないでしょう。――だって、彼女が太陽だって言うのなら……」
私は思わず、耳を塞ごうとしてしまう。塞いだつもりなのに、上手くいかない。そうだ。忘れていた、ここは夢の世界だ。
「月は一生かかったって、太陽に追い付けないじゃないですか」
プツッ、と暗転。
もういい加減に飽きてきた。……訂正。もういい加減、怖くなってきた。早いところ目を覚ましてしまいたい。
きっと今の私は、酷くうんざりとした表情をしていることだろう。
「よう。久しぶりだな」
「……そうね」
「数か月ぶりだな」
「百十と三日ぶりね」
そんな事、事細かに覚えているなんて、少し気味が悪い。
けれども、日向の娘はそんな事は全く思った様子はなく、一番最初にここから見下ろして見た彼女と変わりない。
「――久し振りついでに今日はちょっと渡したい物が、いや、返したい、か」
そういいながら、彼女は一冊の本を手にする。恐らく、ずっと前にそこから持ち出した本のうちの一つなのだろう。
そんな気まぐれがついで、でない事など、聞くまでもない。
それは御世辞にも綺麗な本ではない。長い事借りていたのだろうか、表紙や背表紙は傷んでいたし、どこか生活感が滲み出ている。
「……珍しい事もあるのね」
「まぁ、そんなこと言わないでくれ。……なぁ、パチュリー。お前から見て私って、どんな奴だった?」
妙に真剣な眼差しを湛えて、日向の娘が言う。
その様があまりにも似合わないので思わず吹き出してしまった、のは私。
視線の先の日陰の少女は唖然とした表情をしている。
「"だった"ってなによ。……そうね、気丈な人間だわ。強い人、閉じこもってばかりの私と違って、強い人」
彼女は言葉を選んで、選んで、慎重に返答を返す。
「……そう、か。さて、今日はもう帰るかな。それじゃあな」
ここで私は気が付いてしまう。日陰の彼女が慎重に、慎重に選んだ言葉は、日向の少女を傷つけていたのではないか。
そう。最初に出会った時からそうだった。彼女は、本当は弱い人間。だけれど、誰かの前では虚勢を張って、けれども影では努力を惜しまない。そんな人間。
いや、きっと日陰の彼女も気が付いていた。けれども、受け入れがたい現実よりも、甘い甘い理想。日陰の彼女は理想を、日向の少女に押しつける。
まるで陽の恵みが妬ましいとばかりに。無論、そんなつもりは一切ないだろう。けれど……。
画面が滲みぼやける。
そのまま、場面が切り替わった。
視界が何かに邪魔されている。しかし、光景は問題なく見渡せた。
「おはようございます。パチュリーさま」
「ん、おはよう。小悪魔」
そこにはもう日向のあの少女は、いない。
「今日も、いい天気みたいですよ」
「そう。それは迷惑ね。髪の毛は傷むし、本も痛むし」
「……あの風聞。確かめさせてきました」
長髪の少女がビクリ、とする。椅子に掛けて、右手には一冊の本を抱き、左手だけで不自由そうに分厚い本をめくっていた。
その手が止まる。
沈黙を破る物はそこにはなかった。宙を舞う埃は余りにも静かすぎたし、予想外の来訪者も有り得ない。
長い事、時間が止まっていた。私は、胸が締め付けられる。それは私にとってあまりにも悲しいだろう瞬間だ。
このまま、何もかも止まったままでいいとさえ思った。
知らぬ内に滲んだ視界。私の目の淵から幽かに涙が零れるのを感じる。その一粒は、僅かな太陽の光を反射しながら落下していく。
私はボーっとそれを追いかける。気が付くと、"私"がそこにいた。
「――そう」
漸く口を開いたのは、病的に見えるあの日陰の少女ではなくて、私。
「え、えぇ。やっぱり、本当でした。もう、既に空き家。生活感のかけらもないそうです。……里で聞き込みをさせた所、嫁いだという事で間違いないそうです。話だと孕んだ身だったという様にも、」
「もういい!!」
小悪魔が身を竦めて驚く。
何故、私はまたもこんな思いをしているのか? 嫌で嫌で、鍵をかけた記憶に、どうして身を投げ込んでいる?
そうだ、この右手に握られた本に挟まれている、この手紙は別れの手紙。そうに決まっている。二度と、私達と弾幕ごっこなんてしないって、そういう事を伝えたかっただけの手紙。
すると、どうにも涙は止まらなくなる。気分は最悪だ。
箱の中の猫は、手紙の中の猫はきっと死んでいるのだ。少なくとも私にはその猫が生きている様子を想像なんて出来ないし、開くまでは両方の可能性が混在しているだなんて思い込めない。
どうして? そんなの分かり切っているでしょう。私は、私が手紙の中の猫は死んでいると思い込んでいるから!
涙を流すその姿が、余りにもみすぼらしかったからか、小悪魔が私をあやす様に抱きとめてくれた。
この感覚は、そうだ。ついさっき、眠りに落ちる寸前と同じ物だった。
――この時から私は身も、心も、何処か小悪魔に依存して生きていく様になった、はずだった。
私は今、月と寄り沿い合っている。そしてあの日の太陽は、他の誰かを暖めているのだろう。
太陽が眩しすぎると知ったにも関わらず、彼女の事を知る様になったのが、良かったのかは分からない。
薄れゆく情景の中、私は右手の本を開き、手紙を取り出した。
夢の中の封筒は、頑丈な封を装いながらも、触るだけで容易に開いてしまった。現実世界で戸惑いに躊躇を重ねた作業が、瞬く間に済んでしまう。
つくづく、現実の私の弱さを知り、しかし知らぬ内に夢の中で身を動かしている自分に気が付いた。
どうやら流れに逆らう事も、川から上がる事も出来はしなかった木の葉が、強かな風に煽られて水面から僅かに飛翔した様だ。
私が死んでいると決めつけていた猫が、もしも生きていたら、もし、その手紙が愛に満ちていたのならば、私はどうすればいいのだろうか。
その手紙の中身を、私は知らない。
けれども、そこに――。
『chere amie 親愛なるパチュリーへ』
・
目覚めは最悪だった。
胸を締め付けらる様な、不快な感覚だけが残っている。
嫌な夢を見たくせに、すっかり忘れた。
残っている自責の念だけかき集めても、苦しみや悪夢から逃げだせる訳ではない。
いくら頑丈に部屋に鍵をかけても、悪夢にうなされる回数は決して減らなかった。
そんな事はしょっちゅうで、もう慣れてしまったけれど、今は少し違った。
目を開くとそこには小悪魔の姿があった。もう、無性に腹が立ったりもしない。
そうだ、と脇のデスクに目をやるとそこには真新しい封の開けられた手紙と、古ぼけた未だ封のされている手紙があった。
「あ、パチュリーさま! 大丈夫ですか? いつもより起床が遅いので様子を見に来たら、急にフラリとされてしまって……」
「えぇ……ごめんなさい。――本当に、ごめんなさい。心配させたわね」
「いえいえ。……お食事、お持ちしますか?」
小悪魔は心配そうながらもホッとしたのか、いつもより数段も緩んだ表情をしていた。
優しく微笑みかけるその笑顔は、大よそ"悪魔"の持つべき表情ではない。私にとっては、天使でもあった。
「そうね。お願いするわ。…………今日は少し出かけるから、栄養のあるものを」
「はーい! ……って、えぇ?! お出かけですって!?」
大袈裟に言う小悪魔に非難がましい視線を送ってから、封の開いた手紙を見やる。
小悪魔だって見ている筈だ。その手紙の中身を。
「魔法の森、霧雨魔法店で待つ」
その一文ぽっちの手紙の内容を。
小悪魔の甲斐甲斐しい給仕を伴った朝食を済ませてから、私は外出の準備をしていた。
といっても、別段、用意する物などはなかった。日傘と、二つの手紙。これでで十分だろう。
日光に曝されるとたちまちに本が傷んでしまうと思い込んでいる私は、こんな気まぐれの外出に魔導書は必要ないだろうと考える。
外に出るまでにレミィや咲夜に遭遇しなかったのは好都合だった。
最近の彼女達はどうしてだか私に気を使いたがる。私を気遣ってくれている事が分かるから、だからこそ、少しだけ嫌だった。
中庭の花畑は春の陽気にゆらゆらと揺れている。名前は知らない花ばかりだが、今度いくらかの薬草を煎じてみようか。
丁度、化けキノコから地道に己が魔法を作り出していた彼女の様に。
「あいや、パチュリー様。お出かけですか?」
日傘の死角になっていた所に美鈴がいた。
「えぇ。ふふっ……美鈴、貴方こそ、そんな如雨露片手にどうしたのかしら?」
手にした如雨露が、よりにもよって象の形をした物だったので思わず笑ってしまう。
「ははは。このぞうさんはお気に入りです。最近は、門に突っ立っていたって何にも来やしませんから、こうやってゆっくり水やりしてるんです。季節も季節ですからね」
確かに、麗らかなと形容されるだろうこの日差しは私には強すぎるかもしれない。
「そうだ! パチュリー様も今度一緒に水やりしましょう。もう一つ、ぞうさんがありますから」
「ぞうさんって……ふふふ、それはこだわりなのかしら?」
「そんなところです。それにしても、パチュリー様の笑顔、久し振りに見ました。今日は何かいい事がありそうです」
美鈴が晴れ晴れとした笑顔で言う。少し見上げると、青空も負けじと晴れ渡っていた。
「――いい事ついでにパチュリー様、少しここでお待ちください」
そう言うと美鈴は如雨露片手に庭の隅の方へと駆けて行ってしまった。
私と違って体力に満ち満ちた彼女は随分と遠くへと駆けて行ったけれども、すぐに私の元へ戻って来てくれた。
そうして、なにやら手にしている。
「はい。この花を、どうぞ。私からのプレゼントです。何はなくとも、受け取って下さい」
「そ、そう。突然ね。これは……?」
「ウッドソレル・レグネリ、コミヤマカタバミとも」
真っ白な花は決して華やかでは無いけれど、何故だかとても綺麗に見えた。
「日陰に寄り添って咲いているんです。地味な子ですけれど、可愛いんですよ」
日陰に……。少し、自分の姿がそこに重なる気がした。
「あ、サラダにして食べる事もできますよ。私も時々使います」
「ぷっ……」
「え? 何かおかしかったですか?」
何てタイミングで……。生の葉を食べる振りをする美鈴にまたも吹き出してしまう。
けれど、心の中で強張っていた何かが、少しずつほぐれていく様に思えた。
昨日よりも、さっきよりも、遥かに心が軽い。
「――でも、久し振りにこうやってパチュリー様とお話出来る、今の私の気持ちがその花です」
「……? 随分と地味で日陰なのね。私への当てつけか何かかしら?」
こんな冗談を言う余裕だってある。美鈴は私を満足そうに見ると、もう一度微笑みを湛えて口を開く。
「ははは、そんな事はありませんよ。ただその笑顔が見られて嬉しい、ってだけです。ささ、パチュリー様。早くしないともっと暑くなってしまいますよ?」
はぐらかす様にしてそう言うけれど、美鈴は私の心まで見透かしていたかもしれない。
美鈴のその"歓喜"の表情がとても眩しいと思う。そして私は眩しさというものが、とても暖かくて優しいという事を知る。
世界には、まだまだ知らない事がある。
私は何時まで未熟でいるのだろうか。――なんて事を考えるのはもう止めにする。
暖かい眩しさを目の前に、こんな湿った気持ちは乾いていく。
「……そうね。ありがとう。美鈴」
「えぇ、お気を付けて」
門にいない門番は、空いている手をブンブンと振って見送ってくれた。
美鈴との何気ないやり取りで気が付いた。
レミィや咲夜達の事を思い浮かべると、申し訳なくなると同時に日陰に生きる私にも掛け替えのない友人がいると、そう気が付かされた。
そして小悪魔。紅魔館ではいつも傍にいてくれた。日陰の私の、傍に。当たり前になりつつあるその存在が、とても嬉しい。そう気が付いた。
・
森の中は想像以上に暗く、そして涼しかった。久しぶりに訪れるここは、いつかと大差ないように思える。
宙を舞う何かの胞子に顔をしかめながら、うろ覚えの道を行く。喘息の事を考えたら感心出来る事ではないが、何とかなるだろうと、今の私はそんな風に思っていた。
確かに、全く生気の感じられない森の中で、それでも私の行く道には幽かに何かの息吹を感ぜられた。
ひらひらと舞い踊る、毒々しい容姿をした蝶々を追いかけていくと、知らぬ間に私はそこまで来ていた。
そこだけふわりと光に照らし出されている一軒の家は、お伽噺にでも出てきそうですらある。
私は静まり返った水面が如く落ち着いた心地でいた。今朝過ごした夢の世界に、恐れや慄きを置いてきてしまった様だ。
ゆっくりと辺りを見回す。朽ちかけのその家は、自然の一部になっていた。壁には蔦が、屋根には鳥の巣が、雨樋には蜘蛛の網が。
しかし、朽ちたといえども衰退の朽骨を表すというよりも、自然の神秘を体現している様である。
よく見れば、扉の辺りはやけに綺麗。
まさか、誰かが住んでいる訳でもないでしょうに――
そう思った所で後ろに気配を感じた。けれど、身の危険を感じなかった私は、振り向かずにその声に耳を傾ける事にする。
「住んでいなくても、住んじゃいけない、って訳ではないよ」
それは凄く違和感のある声だった。聞き覚えのある声が、まるで違う口から出ている様だった。
いや、まさしくそうなのだろう。
「まるで"魔理沙"ね」
「そう。私はマリサ」
振り返ると、確かに"魔理沙"によく似た少女がいた。それと同時に、"魔理沙"この言葉を偉く久しぶりに口にした事に気が付く。
マリサのその髪は重力に従ってさらりと伸びていたし、白と黒の胡散臭い格好もしていなかった。
……むしろ、白いワンピースに包まれた色白の、細い体躯とその日陰っぽさは、魔理沙よりも私に似ているかも知れない。
「手紙、貴方が書いたのかしら?」
「えぇ。御祖母様がいつも話していた七曜の魔法使い、いつかその人に魔法を教わるんだって、ずっと決めてた」
魔理沙が私の事を、この娘に、マリサに話していた……。
私はずっと怯えていたのに。魔理沙は、私たちの相手がうんざりして、嫁いでいったとばかり思っていたのに。
あぁ、見ての通り、目の前に子猫は生きていた。けれども私の思い込みは閉じられた封によって揺らがぬ物になっていた。
もう、今さら、その封を開けようとは思わない。夢の世界で開けられた封は、今こうして現実世界で空ける必要もなくなった。
「――貴女がパチュリー・ノーレッジさんね」
「……パチュリーでいいわ、マリサ。その方がしっくりくる」
「ありがとう。パチュリー。ここは私の隠れ家なの。お母さんもお父さんも、魔法なんて信じないって人だから、愛想を尽かしたわ。だからあの真っ赤な館に本を送ったのも私。私以外、誰も魔法に関わる物に触ろうともしなかったから」
「……まぁ、あの本以外、御祖母様が残してくれたものと言えば本当に空っぽの、この空き家だけよ」
一気に言ってからマリサは肩を竦めてそう付け足す。捲し立てる様に話すのが癖の様だ。
――あるいは、家では"御祖母様"の事を全く話せないから、ここぞと私に滾る熱意をぶつけているのかもしれないが――
しかしこれを聞き、私は魔理沙が望んで嫁入りしたのではないと知る。その証拠に紅魔館に返却された本だ。あれには強固な魔法が施されていた。
魔法を忌み嫌う人間に囲まれても、彼女はなおも魔法を使い続けていたのだろうか。
そしてマリサ。この娘もこの娘だ。あんな膨大な本の一冊に、まるで博打を打つかの様に手紙を忍び込ませるだなんて。
「そう……。貴方は、魔法に興味があるの?」
「当り前よ。御祖母様があれだけ楽しそうに話していたんだもの。それに貴女、手紙を読んだでしょう? あの手紙、私一つしか書いてないわ。私には素質があるのよ。もちろん、弾幕ごっこだって……ってどうしたのよ? 涙なんて流して」
「――あら、気が、付かなかった、わ」
溢れ出る涙の理由がはっきりとしない。けれども、分かっているのは魔理沙への想いだった。
「……マリサ、これは、あなたにあげる、いえ。返すわ」
いつか私が掛けられた様な言葉を口にして、未だ封の開けられない封筒を取り出す。
「手紙……? 御祖母様の?」
この手紙はこの家、旧霧雨魔法店以外に魔理沙とマリサを繋ぎとめる物。
マリサもそう感じてくれた様で、驚いた眼に溢れる喜びが見える。
けれども、それは、
「そうよ。――その手紙を、私と貴方の契りにしましょう。貴方が"普通の魔法使い"になるために」
私と"マリサ"も、繋ぎとめるの。
風が吹いて、傘の様に覆いかぶさっている木々が揺れる。その隙間からは目映い日差しが顔を覗かせる。
暖かくて、優しく眩しい木漏れ日が、私と貴女を、包み込む。
『そうして、臆病な私ともう一人の"魔理沙"を繋ぎましょう。その繋ぎ目は、臆病な私の強固な意志』
――私はあの時よりも年をとったし、賢くなった。月と寄り沿った私の、これから歩む断罪の道。傍らには貴方の孫が。
――私はあの時よりも年をとったし、賢くなった。それでも、変わらないのは、貴女への……。
-fin-
あと、しかしがしあkしになっちゃってる場所がありました。
話自体は好きです。マリサとパチュリーのこれからを見てみたい
い>御祖母様がいつも話していた七色の魔法使い、いつかその人に魔法を教わるんだって、ずっと決めてた
てっきりアリスに魔法を教わって、パチュリーに会いに行ったものだと思ったのですが…
人間の魔理沙と魔法使いのパチュリー、そして普通の魔法使い『見習い』のマリサ。
ちょっと未来の話は色々な方が書かれてますが、雰囲気は好きです。
内容的にじめじめしたところでの美鈴とのやりとりが良かったです。
…でも、だいぶジメジメですよね。ちょっと苦手な所もありました。
その子孫が登場して,新しいストーリーに結びつくような話は初めてでした。
なんか物凄くワクワク感の残るお話でした。
情景が浮かぶような描写も素敵です。
あと魔理沙が太陽、小悪魔が月
というパチュリーを軸にした対比がツボです。