このお話は創想話作品集71の『この“好き”の名前』『好きだから』の続きになります。
単品で読めないこともないですが、先にそちらを読んで頂くと解り易いと思います。
今回も相変わらず「なにこの溢れ出る少女漫画臭?」な感じです。
乙女チック全開で瀟洒ブレイクしている咲夜さんでも大丈夫という方はどうぞお進み下さい。
お読みの際は、どうぞ桃屋の塩辛や濃厚なブラックコーヒーのご用意を。
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自分がどうしたいのか。
それがわかっただけだけど、何故だか心の中は明るい気がする。
でも、多分それは「じゃあそうしよう」と、単純に思えているからで。
『そばにいて……』
『いいですよ』
あの人はそう優しく頷いてくれたから。
でも、素直になるのがあんなに大変だったなんて、思いもしなかった。
だからせめて、美味しいものでも作って逢いに行こう。
この紅茶が、このお菓子が、少しでも心を届けてくれたらいいと思う。
【 行き場探す“好き” 】
咲夜はナイフを構えていた。
投擲用のナイフではなく、キッチンナイフだが。
咲夜は数種類のナイフを持っている。
一つはいつも投げている投擲用のナイフ。
当たった際に折れぬよう一般のものよりも柔らかく作ってある為、切れ味はほぼないに等しい。
小柄で刀身が円筒型になっていて形自体はダガータイプのものだが、咲夜のナイフは先端が尖って全体的にスマートな、いうならば秋刀魚や飛び魚などに少し似た形状をしている。
もう一つは、肉弾戦用のファイティングナイフ。
咲夜の華奢な手には似合わない少し大きめな無骨なシースナイフで、館に来る前からずっと持っているもの。
自身の手で直接、そして確実に獲物を狩る時は、このナイフを使用する。
常時持ち歩いているのは主にこの二つだが、咲夜が厨房に立つ際には愛用のキッチンナイフを使用する。
今使用しているのは、刃は薄刃で野菜も肉も一通り切れるようになっていて、切っ先は細く根元は広く丈夫な作りをしているもの。ステンレス鋼製で軽量な、いわゆる文化包丁というやつだ。
この包丁は刃の終わりは直角になっていてジャガイモの芽を取る等の細かい作業に向き、握りが他のナイフと比べて太く握り易い形状になっているので、濡れた手で扱っても滑りにくい構造になっている。
勿論、このキッチンナイフ達にも幾つか種類がある。
特に生の肉類を切り分けやすく作られているナイフは、フィレナイフ。
パンの柔らかい部分が側面に張り付かないように細く、また固い外側やハムなどを切るために鋸状の刃になっているものは、ブレッドナイフやパンスライサーと呼ばれる。
非常に小さな包丁で刀身が三日月のような形をしており、特にレモンなど厚めの皮の表面を剥いたり、他には小細工や飾り切りを専門に行うシャットナイフ。
「骨スキ」という物は、肉を骨から剥がすのに使用される特殊な包丁で、中でも和包丁の技術が活かされた片刃の包丁の物をこういう。これは片刃になっているため魚の調理などにも使用できて、使い勝手も良くて気に入っている。
それから、形状は牛刀を小さくしたような形で、皮むきや果物のカッティング、場合によっては牛刀と同じ扱いをする使用頻度が割りと高い小型包丁のぺティナイフ。
様々な調理に使用できる両刃のものはシェフナイフに、比較的大きな肉を部位ごとに分けるためのカービングナイフ……などなど、咲夜は一通りのキッチンナイフを持っている。
咲夜の部屋に行けば、メイド長就任の折にレミリアから賜った、冗談みたく紅い刀身に金の装飾が施されたアートナイフ。パチュリーが気まぐれで作った属性魔法の篭った七曜のナイフ(切断した対象が燃えたり、凍ったり、感電したりしてなかなか面白いが、その属性をランダムで出現し、自由に操れないという欠陥品)などがあったりする。
このキッチンナイフのセットも、メイド長就任時に門番隊隊長と副長、それから厨房長から贈られたものだ。
その時、後で美鈴が「私個人からです」と、ちょっと小洒落たティーセットをこっそりくれたのだが、勿体無くてあまり使えずに飾ってある。
でも、飾ってあるというのも勿体無いから、今度二人でお茶を飲む機会を設けてみようか。
大事にしているんだと伝えられれば、それでいい。
そうしたら、あの人はきっと穏やかに微笑んでくれる。
そんなこととちょっと考えて、頬が緩みそうになった。
咲夜はそんなほっぺを叱咤して、包丁を扱う。
メイド長が、というか、メイドが厨房に立つということはそんなに無い。門番隊の全員があんまりにも過酷な任務を遂行し、激しい空腹で暴れない限りは厨房担当の使用人、俗にコックと呼ばれる者達が紅魔館全部の胃袋を守っている。
勿論、主の口に入るものは咲夜が料理したり、美鈴が毒見したりするが、基本的に食事はコック達が用意している。
じゃあ何故咲夜がここに立っているのか。
そんなの、理由は一つしかない。
キッチンナイフが舞う。
それに少し遅れて、微塵切りとなったニンニクが華麗に宙を舞った。
ニンニクはそのまま油を引かれたフライパンへ滑り込み、香ばしい香りを漂わせる。
鮮やかな包丁捌きに、「おぉー」と厨房内のあちらこちらから感嘆の声が上がった。
ニンニクを焦がさぬように注意しながら炒め、火が通ったところで味噌を加えて更に少し炒める。
そこへ砂糖を入れて味付けをしたら、解き卵を加えて火が通ったら完成。
火を通しているのでニンニクの匂いも和らいでおり、砂糖と卵も加えることで子供でも食べやすいにんにく味噌のできあがり。
別に子供が食べるわけではないのだが、卵は栄養価が高いし、糖分も疲れている時には効く。ニンニクもスタミナ食材だ。
簡単に作れるが、ご飯との相性も抜群。
咲夜は出来栄えを見て満足そうに微笑みながら、小皿に丁寧に盛り付けた。
「おっ。こりゃウマそうだなぁ~」
「!」
横からつまみ食いしようと伸びてくる手。
咲夜は慌てて皿を持ち上げ、回避する。
「意地汚い真似はやめて。仮にも厨房長でしょ」
目の前にあるのは小山みたいな体躯に、黒い肌。全身はふっさふっさでじゃもじゃの毛に覆われ、頭には丸い耳。口にはびっしりと牙が生えた、いかにも屈強そうな妖怪に向かって咲夜は眉根を寄せる。
厨房長と呼ばれたつまみ食い犯は「ちょっとくらいいいじゃんか」と口を尖らせた。
頑強そうな体躯に、鋭い眼光。一見熊(いや、実際熊の妖怪なのだが)みたいに獰猛に見えるが、笑うと愛嬌たっぷり。という厨房長だが、そんな彼が口を尖らせてぶーたれても全然可愛くなかった。
(……美鈴も、たまにこういう顔するけど………)
美鈴の場合は文句を言う時よりも、「副長が大事に取っておいた大福を食べちゃったんですよ~」とか、ちょっと拗ねてる時とかによく見かける気がする。
うん。可愛い。
明日はお菓子を作って持って行ってあげよう。
咲夜はそう決めて、全然可愛くない厨房長の仕草から逃避するように明日のスケジュールを頭の中で組み直した。
「じゃあ、厨房長だからこそってことの味見で」
「ダメ」
再び伸びてくる手を、今度は軽くは叩いて撃退する。
厨房長は大袈裟に痛がった。
「咲夜ちゃんは相変わらず手厳しいこった」
「……ちゃん付けで呼ばないでよ」
ちゃん付けで呼ばれて、むくれる咲夜。
咲夜はこの厨房長にも色々と世話になっている。
料理の基本も美鈴から教わったが、美鈴は門番の仕事があって割りと忙しかったので、本格的な料理のいろはは厨房長から指導を受けたのだ。
基本的に咲夜を「ちゃん」付けで呼ぶツワモノは、咲夜の子供の頃を知っている輩ばかり。
メイドの中にも、副長的な立場にいる古参のメイドは、オフの時やプライベートでは咲夜の事を「咲夜ちゃん」と呼ぶ。
その者達は嫌いじゃないが、なまじ昔の事を知っているから嫌なのだ。
だってそれは咲夜の失敗や失態や、笑ってしまうようなエピソードを多く知っているということ。
イコール、完全でもなければ瀟洒でもなんでもない咲夜を知っているということだから、本気で嫌なのだ。
むくれる咲夜を、厨房長は豪快に笑う。
「がっはっはっはっ」という擬音がメチャクチャ合いそうな、逞しい笑顔だ。
「そう怖い顔しなさんな。可愛い顔が台無しってもんだ」
「台無しでいいわよ。どうせ大して可愛くもないもん」
ふん。と咲夜はそっぽを向く。
ぶっちゃけ相当可愛い。
厨房長は内心で「もうちっと素直にならんもんかねぇ~」と苦笑した。
「まぁ、つまみ食いさせろっていうのは冗談さ。味見させろってのは本気だったけど」
「厨房長はそういっていっぱい食べちゃうからダメよ」
咲夜は皿をますます遠ざける。
きっかり一人前しか作っていないのだから、作ることも食べる事も大好きで、んでもって口も大きいこの厨房長に渡したらペロッと一舐めでなくなってしまう。
厨房長はまた豪快に笑った。
それなりの付き合いになる筈だが、この妖怪のツボは未だに分からない。
「まぁ、その分なら味の心配はなさそうだけどな」
「なんでよ?」
「だって隠し味がたっぷり入ってんでしょう?」
「?」
まるで意味が分かっていない咲夜は、小首を傾げる。
厨房長はニヤニヤと笑っているだけで答えなかった。
「さぁ~て。そろそろ腹をすかせた門番隊の連中が殺到してくる頃合いだなぁ~」
厨房長はくるりを背を向け、厨房内勤務の使用人達に激を飛ばし始める。
もう直ぐ食堂はコックと空腹門番隊によって戦場になる。
朝もそれなりに戦場だが、夕食はそれはもう大変なことになるのだ。
咲夜は邪魔にならぬようにそろそろと厨房を出て、いつも美鈴が座る席に持っていた小皿を置いた。
本当はもっと凝ったものを作りたいが、あまり露骨過ぎるのはダメかなと思う。
他の者に贔屓だのなんだのと文句を言われるかもしれないし、冷やかされるかもしれない。
だから、咲夜は美鈴の為にちょっとした一品を作る。
美鈴には気まぐれだとか、材料が余っていて勿体無かったからとか、試作品だとか言い訳をして。
自分のできることなんて、このくらいしかない。
だから、その“できること”で、あの人の笑った顔が見たい。
別に誰の料理でもいいけど、やっぱり自分の作ったもので「おいしい」と笑って欲しいなと思う。
食堂から良い匂いが漂い始める。
その匂いはパン焼き釜や、換気をする為の小窓、煙突から外へと出て行く。
咲夜も自身の空腹を感じていると、食堂の両開きの扉が勢い良く開いた。
「お腹すきましたー!」
一番乗りしてきたのは、やはりというかなんというか。
楽そうなジャージにタンクトップというラフ極まりない格好の門番隊の隊長は、大きな声で叫んで現れた。
風呂上りなのか頭にはタオルを被っている。
「はしたないわよ」
おかなすいたー! と言って食堂に入ってくる姿は本当に子供のようで可愛らしい。
でもメイド長という肩書き上、咲夜はそう思っていても心を鬼にして注意する。
近寄ると、その綺麗な紅い髪がまだ濡れたままだということに気づいた。
「髪もまだ濡れたままじゃない」
咲夜は美鈴が被ってきたタオルを取って、髪の毛を拭いてやる。
美鈴の方が頭一個分ほど身長が高いので、立ったままだと思いの他やりづらかった。
「だってお腹すきましたし」
くしゃくしゃと頭を撫でるようにタオルの上から手を動かすと、美鈴は「えへへ」と嬉しそうにしながらそう言った。
なんだか本当に犬みたいだ。
そう思う反面、濡れた紅い髪は艶々と綺麗に光り輝いて。それから三つ網をしていないから、なんだかいつもの違って新鮮で。
顔も近いからドキドキしてしまう。
誤魔化すようにちょっと乱暴に手を動かすけど、それでも美鈴は嬉しそうにニコニコしている。
「それに咲夜さんが厨房に行ったって聞いて。急げば会えるかなって思って」
タオルの影で、やっぱり美鈴は嬉しそうに笑っている。
咲夜は前の方の髪を拭くフリをして、美鈴の視界から自分をタオルで隠す。
(そんなこと言わないでよ、バカ……)
無闇に喜ばせないでよ。
こんなにも嬉しくさせて、どうするのよ。
咲夜は熱っぽく感じる頬を隠したくて、くしゃくしゃと髪を拭く。
髪が長いからこんな風にしたら絡まって大変なことになりそうだが、そうしたら後で丁寧に梳いてあげよう。
咲夜はそんなことを思いながら、「風邪ひいたらどうするの」と小さく呟いた。
美鈴は相変わらず「えへへ」と笑ってばかりだった。
「いやぁ~。仲いいっすねぇ~」
そんな傍から見たらラブラブ? な二人に野次が一つ。
声がした方を向けば、三本の角を持った褐色の肌の妖怪がいた。
下はスパッツで、上はタンクトップという、美鈴と同じくラフな格好で。
「ふ、ふく……!!」
内心の動揺から、咲夜はどもってしまう。
門番隊副長はニヤニヤと笑っていた。
「もぉ~。本当に仲いいっすね~」
「はい。仲良いですよ~」
副長の言葉に、美鈴は「仲良しです♪」とご機嫌に咲夜を抱き締めてみせた。
「!!!」
咲夜は口の中に声にならない声を谺(こだま)させる。
濡れた髪や、乾ききっていない湿った肌、石鹸の匂い、お風呂上りのほかほかの体。
美鈴の匂い、体温、質感。
それら全ての感触が、咲夜の脳に多大なる衝撃を与える。
少なくとも、このまま気絶してしまうんじゃないかと一瞬思えたくらいには強いものだった。
「うわっ。もぉ、見せ付けてくれちゃって。妬いちゃうっすよ?」
「きゃっ!?」
軽くパニクっている咲夜に、副長が背後から抱き付く。
「咲夜ちゃん大きくなったねぇ~」なんて、何処を触っていっているんだろうか。
「みんな仲良しさんですね~」
「め、めめ、美鈴!!?」
分かっているのかいないのか。それとも分かった上で知らないフリをしているのか。
美鈴は更にぎゅっと咲夜を抱き締める。
美鈴の存在がより一層近くなって、咲夜は心臓が口から飛び出したらどうしようかと思った。
「じゃあオレっちも~♪」
と思ったら、熊みたいな、とうかまんま熊が両手を広げてノリノリで近寄ってくる。
そんな厨房長に副長は「ナチュラルにセクハラしようとしてんじゃねーよこのエロ熊男!」と、とても気持ちの良い踵落としを繰り出した。
「ってぇ! 何しやがんだこの暴力女!」
「セクハラ妖怪は黙ってろっ!」
厨房長が涙目で喚く。
すると副長も声を張り上げる。
二人はギャーギャーと騒ぎ始めた。
「ふふ。あの二人はいつも仲が良いですね~」
「……仲良いの?」
美鈴に抱きしめられたまま、咲夜は呆然と呟く。
口喧嘩から取っ組み合いになって、とうとう殴り合いになっているのに、美鈴はにこにこと笑ってばかりで止めに入ろうとする気配は微塵もない。
確かにいつもの光景といえばそうなのだが。
ふとそこで、咲夜はまだ美鈴の腕の中にいるということに気付いた。
かぁっと顔が熱くなる。
思わず手に持ったタオルを落としそうになるが、美鈴の腹から「くぅ~」と頼りない音がしてきた。
「……お腹へったぁ」
腹の虫は限界のようだ。
宥めるように、美鈴は自身のお腹を撫でる。
美鈴がそうやってタンクトップの薄い布を撫で回す度に、割れた腹筋の形が少しだけ浮き上がる。
そんな美鈴の様子に気が抜けて、咲夜は思わず笑みを零した。
門番隊員は口に入れられればそれでいいという輩ばかりだが、メイドの方は見た目に何かと五月蝿い。しかも今はメイド長自身がいるから、盛り付けには普段の五倍以上の気を遣ってやっているらしい。
勿論、サラダや副菜、スープなどは出来ているが、そんな理由があるのでメインディッシュが出来るまではもうちょっと時間が必要かもしれない。
空腹で「ぅ~……」と唸る美鈴。
ちょっと泣きそうな顔が面白い。可愛い。
でも、やっぱりちょっと可哀想かな。
咲夜は「くすり」と小さく笑うと、美鈴に席に座っているように促す。
美鈴の席には先ほど咲夜が作った味噌にんにくがちょこんとある。
今にも手を付けそうな美鈴を制して、昼食時に余ったご飯を、小鍋くらいはあるんじゃないかと思うくらいに大きなどんぶりにたっぷりと盛って美鈴の前に置いた。
「これ咲夜さんが?」
席に座った美鈴は、傍らに立つ咲夜を見上げて問うと、咲夜は、
「まぁね。にんにくが余ってたから……」
と、予(あらかじ)め用意しておいた言い訳をした。
ここで素直になれば、後の会話がちょっとは変わるかもしれないのに。
素直になるというのは本当に難しい。
内心で苦笑を漏らす。
美鈴は「そうなんですか~」と頷いて、視線で「いい?食べていい?」と聞いてくる。
ご飯が山盛りのどんぶりを持って、箸だってしっかり持って、まさに食べる体勢で「よし」と言われるのを待っている。
本当に犬みたいだ。
犬みたいで、本当に可愛い。
咲夜は笑いを堪えながら「どうぞ」と、よしの合図を出す。
美鈴はその瞬間満面の笑みを浮かべて「いっただきまぁ~すっ!」と大きな声で言い、味噌にんにくをパクッと口に運んだ。
「ん~! おいしい~!!」
そうして、バクバクとご飯を掻き込む。
この料理は、昼食を食いっぱぐれた時、夕食後小腹がすいた時などに、ご飯のおかずにと美鈴がよく作って食べていたものだ。
ちょっとアレンジはしているが、口に合ったようで何よりだ。
咲夜はほっと胸を撫で下ろして、美鈴の向かい側の席に腰を下ろした。
美鈴はニコニコ笑って箸を進める。いや、ガッツいている。
無邪気で、本当においしそうに食べるから、こっちまで嬉しくなってくる。
そんな咲夜の顔が、少しだけ曇った。
忙しなく食べているから肘と肩がよく動き、その動きに合わせてタンクトップの肩口が微妙にズレる。
その度に、僅かに見え隠れする。
咲夜の視界に映っていたのは、傷跡だった。
幼い頃、初めて一緒の風呂に入った時はビックリした。
左肩から右腹部にかけて、美鈴の体を斜めに横断する大きな傷跡。
刃物に斬られたというには醜く、とかいって鋸のようなもので裂かれたというには鋭く。
まるで獣の爪。いや、そんな生半可なものではない。鬼か、もっと恐ろしい何かの爪や牙……そんな鋭利で猛々しい何かで斬り裂かれたかのような、痛々しい傷。
それは体の表側だけでなく、裏側にも同じように広がっている。
下手をすれば体を斜めに真っ二つにされていたかもしれない。
いや、実際真っ二つになったのかもしれない。
美鈴はいつも丈夫なだけが取り柄だと笑う。
フランドールと殺り合っても死なないし、腹に風穴が空いても、二、三日すれば塞がる。
吸血鬼には劣るものの、回復能力は並みの妖怪の比でない。
それなのに、そこには消えない傷跡がある。
咲夜は胸の奥が苦しくなった気がした。
ぎゅぅっと締め付けらるような、そんな痛みを感じて。
「咲夜さん、おかわりっ!」
咲夜の思考を美鈴の元気な声が遮る。
ばっと上げられたどんぶりは綺麗に空っぽ。小皿の方も空っぽ。
口元にご飯粒を付けて、無邪気に笑っていた。
「もう無いわよ。あとは夕食が出来るを待ってなさい」
「えー」
あれだけ食べても、足しにも繋ぎにもならないらしい。
美鈴は「ぁぅ~」と箸を銜えてしゅんとした。
さっきはあんなに笑顔だったのに、本当に感情が豊かだ。
咲夜は口の端を緩めると、「ご飯粒付いてる」と自分の頬を指して教えた。
「えっ、何処ですか?」
「ここ」
「ここ?」
「違う、もっとコッチ」
「こっちですか?」
「行き過ぎ。もっとコッチだってば」
「ん~?」
美鈴の指は微妙に違う所を彷徨って、ご飯粒に行き当たらない。
まんま子供な様子に、さっきから咲夜の頬は緩みっぱなしだ。
もうしょうがないから取ってあげよう。
そう、手を伸ばそうとした瞬間、
「ここに付いてるっすよ」
と、副長の口が美鈴のほっぺにくっ付いてご飯粒を攫って行った。
(……へ?)
しかも『ちゅっ』という音付きで美鈴の頬から離れていくので、咲夜の思考は完全に停止。
今起こったことを理解しようとするが、停止した脳みそでは到底無理だった。
「隊長ずるいっすよ。咲夜ちゃんの料理独り占めして」
厨房長を完全にのしてやってきたらしい副長は、頬を膨らませてぶーぶーと文句を垂れる。
そんな副長に「えへへ。美味しかったですよ~♪」と、にかっと良い笑顔を浮かべる美鈴。
副長はあからさまに悔しがって「よこせ~!」と美鈴に飛び掛かり、美鈴はその勢いで椅子から床に落ちた。
「もう食べちゃいましたもん。ほら、それにご飯粒一つあげたじゃないですか」
「そんなんで足りるわけないっしょ! しょうがないから口移しで我慢してあげるっす!!」
床でじゃれ合う二人。いや、妖怪二匹。
格好が格好だし、どっちもかなりスタイルが良いので、なんとなく……うん。なんとなくというか、かなり、アレだ。
副長の唇から巧みに逃げる美鈴。逃げる美鈴をまた副長が追う。と、楽しそうにじゃれ合っているが、見ている方は堪ったもんじゃない。
ほら、厨房の方から食器が割れる音が派手に響いてくる。
(……さっきの『ちゅっ』ってなに? というか、口移しって………)
ほっぺに唇がちゅっ。
で、口移しがどうのこう。
咲夜は一人置いてけぼりで、今の状況を必死に理解しようとしていた。
「口移しというのは、飲食物などを自分の口に含んでから相手の口に直接移し入れること。または口頭で言い伝えること。口伝え。口授(くじゅ)という意味よ」
「まぁ、今の状況はどう考えても前者だよね」
「はぁ、そうですね……って、え!?」
咲夜は声が聞こえてきた方、自分の横を見る。
そこにはレミリアが頬杖をついており、その隣にはパチュリーが相変わらず本を持って座っていた。
「お嬢様っ! そ、それにパチュリー様まで……!?」
「なんか面白そう、じゃなくて、美味しそうな匂いがしたから」
驚く咲夜に、ニヤニヤと笑うレミリア。
動揺する咲夜にパチュリーは「でも咲夜、いいの?」と、目の前の事象を指して問うた。
「はい?」
「口移しっていうのは今説明した通りよ。でも、美鈴も副長も口の中には何も入っていない。つまりただのマウストゥマウスになるのよ」
「……ネズミとネズミ?」
咲夜がベタベタなボケを繰り出すと、パチュリーはため息をついた。しかも盛大に。
レミリアは楽しそうに声を立てて笑って、それから「だからキスのことだってば」と教えてあげた。
「あぁ、なるほど」
漸く理解したのか、咲夜はぽんと手を打った。
(キスね。キス……つまり口付けとか、接吻とかいうやつよね。うん。そっか、キスか……)
ってことは、美鈴と副長がキス……?
「って、ダメよ!!!」
咲夜はガタンっと乱暴に立ち上がる。
後ろで椅子が倒れた音がしたが気にしない。というかそんなことに気をやってる余裕なんてない。
自分で言っといて何がダメなんだか分からないが、とにかくダメだ。
ダメなものはダメだ。
ホントにダメだ。
……っていうか、嫌だ?
咲夜は二人の間に慌てて割って入ろうとする。
じゃれ合う中で美鈴のタンクトップがめくれてしまっていて、そこから逞しくも綺麗に六つに割れた形の良い腹筋が見えてドキッとした。
(って、ドキッとしてる場合じゃないってば!)
自分で自分にツッコミを入れる咲夜。
どうやら相当動揺しているらしい。
キスしちゃヤだ。
あとあと、そんなに美鈴とくっ付いちゃヤだ。
ダメ。
そんなのヤダっ。
「美鈴にキスしちゃダメっ!」
気付けばそう叫んでいた。
普段滅多に声を荒げないメイド長が叫んだのだから、辺りは静まり返ってその場にいる全員の視線が咲夜に集まる。
いつの間にか集まり始めていたメイドや門番隊の者達もいて、その視線の数はとっても多かった。
「っ!!」
咲夜は我に返って口を覆う。
顔はおろか、首も耳も真っ赤だ。
レミリアは流石にこんな展開は予想してなかったのか、ぽかーんと呆けている。
しかし、その隣のパチュリーは背を丸めて肩を震わせていた。きっとその内喘息の発作が起こるだろう。
美鈴も副長もぽかーんとしていたが、副長はその内にんまりとした笑顔を浮かべて、
「あ~、咲夜ちゃんってばヤキモチ妬いちゃったんすか? 大丈夫っす。あたしは咲夜ちゃん一筋なんで」
「なっ!?」
「えっ、そうだったんですか!?」
「そうっすよ。隊長は鈍いっすね~」
いきなりの爆弾発言に、今度は食堂内がどよめく。
美鈴と楽しそうにじゃれ合ってたクセに、いきなり何を言い出すんだコイツ!?
という感じだが、恋愛初心者マーク、もとい「恋愛教習所に入ったばかりで免許を取れるのはまだまだ先です」という咲夜に、副長の発言は些か衝撃的だった。
「ふぅ~ん。良い度胸じゃない」
テンパり始める咲夜を、レミリアがパタパタと飛んでその首に腕を回し、後ろから抱きつく。
レミリアの血のような瞳は、副長をギロリと睨んでいた。
「私の可愛い可愛い咲夜に手を出そうというの?」
増す威圧感。
突拍子もない無茶を言い出したり、気まぐれでとんでもないことをやらかす主だか、普段は穏やかで家族想いで。
だからたまに忘れそうになる。
彼女が吸血鬼ということを。
まるで重力が増したかのように、大気が全身に圧し掛かってくる。
嫌でも思い知らされる。
我らの主は食物連鎖の頂点に君臨する、悪魔なのだと。
そこにいる者全員が居住まいを正し、片膝を付いた。
副長もその例に漏れない。
ただ美鈴だけはその場に胡坐を掻いて、頭をぽりぽりと掻いていた。まるでどうしようかと思案しているように。
「滅相もございません、お嬢様」
「なら軽々しい言葉は慎め。次は首を刎ね飛ばす」
「はっ。申し訳ありません……ですが」
副長はにこりと笑う。
不気味だった。
「想うだけなら、許して下さいますか?」
副長の瞳は、随分と不透明だった。
考えは読み取れない。
レミリアは詰まらなそうに「ふん」と鼻を鳴らすと、咲夜から離れて食堂を出て行く。
勿論、パチュリーの腕を引いて。
「ぁっ、お嬢様……!」
この場にそのまま居続けるのは、少し居た堪れない。
咲夜は慌ててレミリアの背を追った。
いつもなら活気溢れる食堂は、今は微妙な空気が流れる。
副長は「ふぅ~」と息を吐き出して、その場に尻餅をついた。
「はぁ。怖かった」
「お疲れ様です」
副長を労って、美鈴が言葉を発する。
その顔は苦笑しているようにも見えた。
「……ありがとうございます」
「さて、なんのことっすかね」
美鈴はそんな顔のまま、礼を言う。
副長は美鈴よりもずっと苦そうな顔をしていた。
* * * * *
門番隊の副長がメイド長の事を好いている。
そんな噂は館内中に瞬く間に広まった。
おしゃべり好きのメイド達の話題はそれ一色で、楽しそうにきゃーきゃー騒いでいる。
しかし、門番隊の方では少し微妙な空気が流れていた。
主が大切に大切にしている娘のことを好いているなど、主を敵に回すということ以外の何者でもない。
仲間の心配をしないやつは、門番隊の中にはいない。
いつも陽気で快活で、朗らかで、バカみたいに賑やかなのが門番隊だが、昨夜から門番隊員たちの纏う空気は若干重たかった。
それでも明るく振る舞おうとするから、余計にぎこちない。
「そこ、よそ見しない! あとで腕立て千回やらせるっすよ!」
「す、すみませんっ!!」
「コラ! 隊長もさくやとばっか遊んでないで、隊員の訓練見て下さいよ!」
「だってだって、さくやってば可愛いんですよ?」
「はいはい、可愛い可愛い。それは分かりましたから、さっさと真面目にやって下さい」
「可愛いですね~。もぉ~、さくやはどうしてこんなに可愛いんですかね~」
「っっ……いい加減にしろっ、こんのアホ隊長っ!!」
「ほぎゃー!」
なのに、隊長と副長だけはいつもどおりだった。
(……美鈴ってば、また猫のことばっかり構ってるし………)
そんな門番隊の様子を影から見守る、メイド長が一人。
咲夜は片手にバスケットを持って、こっそりと門番隊のことを見守っていた。
副長にどつかれながら、漸く真面目に取り組み始める美鈴。
なんでこんなのが隊長なんだろうかと思うが、美鈴は一旦スイッチが切り替わるとちゃんと隊長の顔をする。
的確な指示を出し、ちょっと厳しいことも言ったりするが、その後は笑顔で励ます。
仕事をしている時の美鈴の顔は、とても凛々しかったりするから困る。
咲夜の前ではいつも惚けた顔をしているし、そうでなくともにこにこと笑ってばかりだから、こんな顔を見るとちょっと得した気分になったりする。
一通りの基本訓練が終わり、休憩に入る。
この寒空の下、汗だくになった隊員達が地面に大の字で寝転がって、ひぃひぃと息を切らしている。
美鈴も副長も汗だくではあったが、息は切らしていなかった。
隊員達はそんな二人を化け物だと思いながら見ている。自分たちだって立派な化け物だろうに。
美鈴は上着を脱いでその場に放る。ついでに帽子も一緒に。
額の汗を手の甲でぐいっと拭い、前髪を掻き上げる。
汗でキラキラしてる。
咲夜の目には、そう映った。
恋する乙女フィルターは物凄い。
美鈴が服を摘んでパタパタとしていると、さくやが近寄ってきて「にゃぁ~」と鳴いた。
最近のさくやは猫のクセに、美鈴の仕事を邪魔するような真似はしなくなっている。
猫にもそんな学習能力があるのか謎だし、門番の仕事中はベッタリしているけど。
「すみません。今ちょっと汗だくなんで、もうちょっと待ってて下さい」
猫相手なのに、美鈴は丁寧に返してさくやの頭を撫でた。
さくやはお構いなしに甘えようとする。
それを見て「猫っていいなぁ~」とか、「あんなの汗掻いて……ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃう……」とかと思ってる場合じゃないと気付く。
足を動かそうとしたら、
「ふくちょ~」
美鈴は皆の輪からちょっと離れた所で休んでいる副長を見つけて、手招きをした。
副長が「なんすか~?」と汗を拭いながら美鈴の所へ来ると、美鈴は副長を連れて何処かへ行ってしまった。
(どこにいくのかしら?)
追わなきゃ。
動かそうとした足を方向転換に使う。
だが、息を切らして寝転んだままの隊員達がボソボソと何かを話し始めたので、思わず足を止めてしまった。
「副長大丈夫かな」
「大丈夫だとは思うけど……」
「隊長だって付いてるし、まぁ……」
二人がいなくなったので、隊員達だけで色々話をしているらしい。
その声音から副長のことを本当に心配しているんだと分かった。
仲間想いなところは、メイド達にも見習わせたい。
「でも、度胸あるよなぁ~」
「オレもメイド長のこと狙ってたんだけどなぁ」
「マジで!?」
「意外に勇者なのな」
と、折角感心していたのに、なんだか不謹慎な会話も聞こえてきた。
「だって可愛いじゃん。おっかないけど」
「あ~、うん。ナイフ飛んでくるしな。容赦ないしな」
「隊長とか超刺されてんじゃん。俺は無理だなぁ~」
(……最近は刺してないもん)
咲夜は物陰でむくれる。
最近は本当に刺してない。
だって、もう刺せるわけがない。
いや、もしかしたら照れ隠しとかで刺してしまう事があるかもしれないけど。
「どっちかってーと、僕は隊長派ぁ~」
「あ、おれもおれも。隊長ってすげぇー良いよなぁ。やっぱりあの胸が……」
「おっぱいで選んでんのかよお前!」
「ち、ちげぇーよ! ほ、ほら、良いカラダしてるっていうかさ!!」
「やっぱりカラダ目的じゃねーか!」
「ち、ちげーって! そういう意味じゃなくて!! 隊長の体ってすげぇーバランス良く鍛えられてて綺麗じゃん? 僧帽筋とか、広背筋とか……あと、大殿筋とか堪んねぇーっていうか」
「つまりは筋肉フェチと見せかけた、ただの胸と尻好きだろ」
「て、てめぇ!!」
「あ~、オイラは副長派かな。もっと叱られたい。ピンヒールで踏んで欲しい」
「……お前ってそういう趣味あったんだ」
「じゃあオラはお嬢様派で」
「ロリコン!?」
あぁ、感心して損した。
後で全員刺してやろう。全力で刺してやろう。
咲夜は決意を固め、二人を追った。
* * * * *
美鈴と副長は湖の滸(ほとり)近くで何かを話していた。
咲夜は少し離れた場所から、気配を殺して様子を見やる。
呼吸音さえ消すように気配を殺し、聴覚へ神経を集中する。
「すみません。汚れ役をさせてしまって」
「別になんてことないっすよ」
申し訳なさそうにいう美鈴に、副長は軽く笑う。
汚れ役とは何のことなんだろうか?
「というか、本当の意味で助けてくれたのはお嬢様じゃないっすか」
「いえ、あれはどっちかというと条件反射というか、寧ろ当然の反応というか……」
助けた?
何を?
「でも、わたしは嘘は言ってないっすよ?」
「嘘、ですか……」
おどけてみせる副長に、美鈴は困ったような顔をした。
その表情がどんな意味を持っているのだろうか。
複雑すぎて、読み取れない。
「悔しいんすか?」
「……なにがです?」
副長は、挑発するような口調で言う。
その顔には意地の悪い笑みが浮かんでいた。
「咲夜ちゃんの全ては、貴女が守るんでしょう?」
美鈴はその笑みを、一瞬だけ無表情で見つめる。
でも、そんなのは幻だったのかもしれない。
次の瞬間にはいつもの穏やかな笑みが上っていた。
「まさか……私は咲夜さんが笑ってくれるのなら、それでいいんです」
それってどういう意味なの?
何を話してるの?
ねぇ、私のこと、どう思ってるの?
もどかしい想いが胸の中に蟠(わだかま)る。
今すぐに問い質したい。
昨日、副長がした行動の意味を。
今、美鈴が言った言葉の意味を。
「……嘘つきですね」
「えー」
揶揄するように放たれた言葉を、美鈴は惚けた調子で躱す。
副長は苦々しい顔をして、溜息でも吐きたいのか口を薄く開いた。
「嘘つきは、貴女でしょう?」
しかし、美鈴が呟くように言った言葉のせいか。
副長の口からは溜息は漏れず、代わりにその口は笑みの形を刻んでいた。
苦い苦い、どこまでも苦しそうな笑みを。
「貴女のそういうトコが大嫌いっす……!!」
副長は怒りの篭った、強くて熱い眼差しで美鈴を射抜く。
美鈴はただ困ったように苦笑していた。
穏やか過ぎる苦笑は、どこか諦めているようにも見えた。
(副長が美鈴のことを大嫌いって言うなんて……)
咲夜は、ショックだった。
幼い頃から知っている二人は、いつもじゃれ合って仲が良くて。
時折二人してバカをして、二人でクセも灰汁も強い門番隊を纏めて。
二人の間にある絆は、間違いなく「信頼」という名前だと思っていたのに。
あんな風に感情を剥き出しにしている副長は見たことがない。
そして、あんな風に笑う美鈴も見たことがない。
副長は暫く美鈴を睨み続ける。
そしてふと視線を剥がすと、今度こそ深い溜息を吐いた。
「先に戻るっす」
「……はい」
それから視線は合わせず、副長は隊員の所へ戻っていった。
美鈴はその背が見えなくなっても、少しの間何もない空間を見つめていた。
「……咲夜さん」
「!」
唐突に呼ばれて、咲夜は肩を跳ねさせる。
美鈴は確かにコッチを向いて苦笑していた。
「もうかくれんぼはお終いにして、出てきてはどうですか?」
(また子ども扱いして……)
咲夜はむっとしながら茂みから姿を現す。
美鈴は不機嫌そうな咲夜の顔を見て、苦笑を濃くした。
「いつから気付いてたの?」
完璧に気配は断っていた筈なのに、どうして見つかってしまったのだろうか。
咲夜は拗ねるように口を尖らせながら問う。
その問いに美鈴は「ん~と……」と言葉を濁らせた。
「……最初からなのね」
美鈴の様子から、そう正しく感じ取った咲夜は片手で顔を覆った。
なんだか自分が物凄くカッコ悪く思えた。
「なんでよ……」
「いえ、その……完璧でしたよ?」
美鈴はちょっと落ち込む咲夜に近寄る。
咲夜はそんな慰めなんていらないと、ふいっと顔を背けた。
「ただ、完璧過ぎるゆえに……ですね」
「?」
意味が分からず、顔を元の位置に戻して小首を傾げる。
美鈴は穏やかに笑っていた。
「咲夜さんは完璧に気配を殺しすぎなんです。あ、こういうとなんか語弊がありますけど……えとですね、気配を断つっていうのは“自分”という個の存在感を断つことで、自分自身の存在を消すことじゃないんですよ」
「どういうこと?」
「木を隠すのなら森の中という言葉があるじゃないですか。それと同じように、気を隠すなら気の中です。森の中にいるのなら、そこに在る樹木や草花、小動物の気に合わせるんです。自然に紛れるという感じですかね?」
美鈴は咲夜の髪の毛についた葉っぱを取って、ちょっと曲がってしまったヘッドドレスを直してやる。
ついでに首元のリボンも直していった。
(完全に子供扱い……)
子供扱いされていることにちょっと腹が立つが、美鈴の手は心地良くて。その心地よさに咲夜は口を開けない。
美鈴の講義はもうちょっと続いた。
「咲夜さんは己の存在を断つ、いえ、実際には極限まで小さくしただけなんですが……そうしてたんです。でもそうすると、そこには何か在る筈なのに何もない。そこで空気の流れは止まるのに、そこからは何の気配もない……っていう違和感が生まれるんですよ」
だから分かっちゃうんです。
美鈴は茶目っ気交じりに笑う。
悔しいが、気を扱う美鈴がいうのだからそうなのだろう。
まぁ、例え完璧に周りの気に紛れていても、美鈴になら分かってしまうだろうけど。
「でも、関係ないですかね~」
美鈴はぐっと背伸びをして、その場に座った。
足を投げ出し、両手を後ろに付く。
このままじゃ寝ちゃうなと思って、自分もその場に腰を下ろして視線の高さを合わせた。
「関係ないって?」
「だって、咲夜さんのコトなら何処にいようが分かりますもん」
――――ずっと見てきましたからね。
美鈴は穏やかに、微笑む。
頬が熱くなって、心が落ち着かない。
ねぇ、それってどういう意味?
「あと、そんな良い匂いさせてちゃ見つけたくなくても見つけちゃいますって」
「え?」
美鈴は目を輝かせて、咲夜が抱えているバスケットを指差した。
そんなキラキラの視線で、「ねね、咲夜さん。さっきから美味しそうな匂いがするんですけど……」と、期待に満ちた瞳を向けてくる美鈴。
差し入れの存在なんかすっかり忘れていた。
というか、もしかして今上手くはぐらかされたのだろうか?
咲夜はバスケットを下ろして、中身を出す。
三種類のドーナッツが顔を出した。
「差し入れに持ってきたの、すっかり忘れてたわ」
「うわぁーい!」
早速ドーナッツに手を伸ばす美鈴。
美鈴がまず口に運んでいったのは、オーソドックスなプレーンドーナッツ。
今日はちょっと手元が狂って(別に昨日のことを気にしてたとか、美鈴の笑った顔を想像して気が緩んだとか、そんなわけじゃない。断じて違う。たぶん違う……と思いたい)、グラニュー糖とシナモンパウダーが多めに掛かってしまったが、美鈴は「おいしい~」と言って頬張っている。
味に問題はなさそうだが、口の周りが白い粉がいっぱい付いてしまっている。
(……かわい)
口の周りが髭でも作ったかのように真っ白だ。
可愛い。
頭をくしゃくちゃに撫でてあげたくなる。
ぎゅってしてあげたい。
一つ目を二口で口に入れ終えてしまった美鈴は、今度はココア色のドーナッツに手を伸ばした。
甘さ控えめのココアドーナッツも「おいしいですね~」と頬張りしながら、やっぱり二口ほどで口に入れ終えてしまう。
そんな食べ方をして、本当に味を分かっていっているんだろうか?
なんて思うが、美鈴の笑顔を見てるとそんなことはどうでもよく思えてしまうから困ったものだ。
「あっ、これも美味しいですね~♪」
美鈴の口にパクッと入っていったのは、一口タイプのごまボールドーナッツ。
胡麻を加えて香ばしく仕上げてみたものだが、それも気に入ったらしい。
ぽいぽいっと何個も口の中に入れて、幸せそうに咀嚼している。
休憩の合間に簡単に摘めるものを。と思ってドーナッツをチョイスしたが、美鈴はもうサボる気満々らしい。
本当なら注意しなければならないが、さっきのやり取りを見てしまった手前、戻れとはいいづらい。
こんなことなら、もうちょっと凝ったものを作っても良かったかもしれない。
明日はタルトでも作ってみようか。パイ菓子もいい。でもパイはアツアツの焼きたてが一番美味しいから、やめておこうか。
別に冷めていても美味しい自信あるが、やっぱり一番美味しいものを食べてもらいたいから。
あ、たまにはケーキでも作ろう。生クリームを絞る時とか楽しいし、デコレーションをするのも楽しくて好きだし。
美鈴はほっぺや口の端にクリームを付けて、「おいしい」と無邪気に笑うんだろう。
その顔も絶対に可愛い。
でも、やっぱり摘めるものがいいのかな。
だったらクッキーでも作ろうか。色々な味のクッキーをたくさん作って、ジャムも色々用意して。
「やっぱり咲夜さんの作るお菓子はおいしいです」
両手にドーナッツを持って、モグモグと食べる。
本当に子供みたいだ。
無邪気で可愛い。
だから、さっきのことが余計気になる。
「ねぇ……」
「はい?」
美鈴は口の周りについた砂糖やら胡麻やらドーナッツの欠片やらを指で拭い、その指を舐めながら咲夜に返事をする。
行儀が悪いことこの上ないし、野性味溢れ過ぎだけど……まぁ、仕草が犬みたいで可愛いから許す。
(って、じゃなくて……あぁ~、もぉっ……)
脱線ばかりしている自分の思考に、自分でも呆れてしまいそうになる。
そんな脳みそを『瀟洒』という言葉で戒めながら、思慮を元に戻す。
声をかけてみたものの、なんて聞けばいいんだろうか。
美鈴はそのまま咲夜の言葉を大人しく待っている。
もうストレートに聞いてしまおう。
どうせ聞くことは同じなのだから、それがいい。
咲夜は結局そんな結論に至った。
「副長と何話してたの?」
「聞いてたんじゃないんですか?」
聞かれると思っていたのだろう。
美鈴は苦笑する。
その言葉に「聞いてたけど意味が分からなかったの」と返すと、更に苦笑した。
「大したことは話してませんよ」
「……本当に?」
「はい」
美鈴はゴロっとその場に寝転がってしまう。
上着を脱いだままで寒くないのかと思ったが、本人は至って気にしていない。
枯れ葉が美鈴の背中に潰されてさくさくと鳴った。
「でも副長……美鈴のこと……」
「だいじょーぶです。あんなのいつもの事ですから」
「そうなの?」
「そうですよ? 私……いつも副長のこと怒らせちゃうんです」
――――でも、どうにもならないことってありますよね。
美鈴は自分の胸、丁度心臓の真上辺りに手を置いた。
まるで、そこにある何かの感触を確かめるように。
そう呟いた美鈴の声はとても静かで、あっという間に冬の大気に紛れて消えてしまった。
「それより、咲夜さんはどうするんですか?」
紛れて消えていく声を追おうとしたら、美鈴が別の話題を振ってきた。
いきなり何をどうすると聞かれても、思い当たる節なんてない。
咲夜は「何が?」という風に小首を傾げた。
「ですから副長のことですよ。お返事はしたんですか?」
「……返事?」
はて、何のことだろうか。
咲夜は腕組みをして考えることきっかり三十秒。
またしても思い当たる節はなく、再び小首を傾げた。
「なんのこと?」
「だからですね、昨日副長は咲夜さんに告白したじゃないですか。それでもう返事はしたのかなって」
告白?
副長が?
「誰に……?」
もう一度首を傾げてると、美鈴の指先はとあるところを示す。
その指先を追っていくと、たどり着くのは自分なわけで。
「……っ!!」
咲夜は今更ながら事実と事態を改めて理解したのか、顔を真っ赤に染め上げた。
いくら疎いといっても、これはないだろう。
咲夜の様子に、美鈴はまた苦笑した。
美鈴はさっきから苦笑してばかりだ。
「返事をする為にここへ来たのなら、副長には訓練を抜けてもらいますから」
上体を起こしながら、美鈴が咲夜にそんな提案をした。
「えっ!? あ、ち、違うの! そのっ……!!」
返事って、返事ってなんだろう?
副長が好きって、そんなの、おかしい。
きっと何かの間違いだ。
だって、こんなの、おかしいもの。
それに、それに……こんなの困る。
だって、私は。
「あ、あのね、美鈴……!!」
咲夜の手が美鈴の袖をきゅっと掴む。
弱い力で。
情けないくらいに弱い力で。
その指先は、少しだけ震えていて。
だからもっと情けないように思えた。
「あ、あの、その……」
心臓が熱くなる。
口の中がカラカラになる。
飲み込んだ唾が喉に痛い。
その痛みで、自分がとてもつもない緊張を感じているんだと気付いた。
「っ、美鈴……」
何を言おうとしてるんだろう。
どうしようとしてるんだろう。
「わ、わたし……私………」
顔をなんとか上げて、美鈴を見る。
目許が熱い。
なんだか泣きそうだ。
言葉が喉に詰まる。
「美鈴の、コト……」
あとちょっとだけ。
ちょっとだけ。
ちょっとだけなのに、上手く出てこない。
音に、ならない。
もどかしい。
苦しい。
「私……美鈴の、こと……」
声はどんどん小さくなって。
反比例して、心臓の音ばかりが大きくなる。
いっそ、この心臓を見せた方が早い気がする。
そうしたら、貴女のことをどう思ってるのか。
どのくらい想ってるのかって、見せてあげられるのに。
「美鈴の、こと……」
美鈴の服の、その袖口を握る指に少しだけ力を込める。
見つめた先の美鈴は、言葉の先を待っているような、でも何処か悲しそうな。
複雑すぎて、深くて、分からない。
そんな顔をして、咲夜を見ていた。
――――にゃぁ。
二人の間に届く声。
枯れ草を音が鳴らないように器用に踏んで歩いてくる、小さな影一つ。
白い毛並みの猫は美鈴を見つけると、嬉しそうに駆け出して、その腕の中に飛び込んでいった。
「ぁ……」
声になろうとしていた言葉は。
音になろうとしてた気持ちは。
咲夜の口の中で、ただ行き場を失くした。
「どうしたんですか? 探しに来てくれたんですか?」
美鈴の腕の中で、さくやがゴロゴロと喉を鳴らす。
咲夜は掴んでいた美鈴の袖を、力なく放した。
「咲夜さん?」
「……ううん。なんでもない」
心配かけまいと無理矢理作った笑みは、どうやら泣きそうな顔になっていたらしい。
美鈴が手を伸ばしてくる。
それをそっと避けて、立ち上がる。
「あの……」
「もう行くわ。仕事があるから……」
背を向けて、これ以上顔を見せないようにする。
美鈴が追いつけないように、ちゃんと時を止めて誰もいない所へと走った。
なんでこんなにも切ない気持ちになっているのか分からない。
なんでこんなにももどかしいのか、分からない。
ただ、苦しい。
出口を見つけたのに。
寸前で失ってしまった。
行き場を失った気持ちが、痛い。
(なんで……なんで、こんなに……苦し……っっ………)
音に、言葉に。
形にならなかった“想い”が、咲夜を苛む。
蟠って、心の底に沈殿する。
なんでか涙が溢れて来て。
止まる頃に漸く、「あぁ、届かなかったからだ」と気付いた。
「……好き……」
一人だと、その想いはすんなりと言葉になった。
【行き場探す“好き”】 END
50では足りないから米して点いれるZE
凄く気になりますが……。
美鈴は咲夜さんのことをどう思っているのでしょうね?
今のところ咲夜さんはその想いを篭めて行動しているのに、彼女はそれを
解っていて知らないフリをしている感じですね……。
次回などで美鈴の気持ちとかがわかるのでしょうか?
続きを楽しみにしています。
誤字・脱字などの報告
>切っ先は細く根元は広く丈夫な作りしているもの。
『丈夫な作りをしているもの。』ではないでしょうか?
>メイド長が、とうか、
『というか』ですね。「い」が抜けてます。
>バカみたいに賑やかななのが門番隊だが
これって『な』を一字消すのとそのままなのどっちが良いんでしょ?
どっちでも読めますけども……。
最初はオリキャラ(聞こえわるくてもうしわけない)がうーん、という感じでしたが
読んでみるとよかったですw
そしたらニヤニヤしてしまったじゃないですか!!
美鈴視点の物語は美鈴の失うことへの恐れが鍵になるのかな??
美鈴の弱さを咲夜さんがどううけとめるのか期待しています!!
さく→めーってすごくときめく。
さっきゅんかわゆす。
悶えるっ!悶え死ぬっ!
全身の血液が沸騰するっ!! こいつはヤバイ・・・ぜ・・・!!
副長のウソとはなんだろう?続き期待っ!
あの頃の雰囲気は今よりも好きだったなと、くだらないことを思ったり。
次回作に期待しています。貴方の作品がもっと読みたいです。
いいなぁこの二人。この後どんな風に話が進むのか気になってしょうがないよ!!
次回作楽しみにしてるから!
あと本編の内容とは関係無い場所で恐縮なのですが
鉄は基本的に焼き入れをすると硬くなります
焼き入れ後焼き鈍しすると粘りが出ますが元の硬さより軟らかくはなりません
用途の違うナイフ造る場合は焼き入れの度合いよりも
違う硬度の材料を使い分けるほうが一般的かと思います
重箱の隅のような事を長々と申し訳ありませんでした
そんな俺が100点以外あり得ると?
当分にやけ顔がなおりそうにありません
でもってこんなこと口走ってる俺キモイよぅっ!!
咲夜さんが可愛すぎます
よし、次だ
結構本気っぽいけども。
いろんな”好き”が乱れ飛ぶお話、そして”好き”はどこに行き着くのか。
大好物ですよ。ハイ。