※てゐの能力に関する自己解釈が含まれます。ご注意ください。
永く生きる秘訣とはなにかと訊かれたら、幻想郷でもまずもって長寿と嘘つきで知られる妖怪兎の因幡てゐなら、親指を立てて片目をつむり、唇の片端をにやりと上げた爽快な笑みでこう答えるだろう。
「逆らわないことさ」
大胆に省略されているのでどのような意味かわからないと思うが、これは「欲望に逆らうな」ということである。もちろん、健康を損なわない範囲でのことではあるけれど。
食欲も排泄欲も、もしかしたら性欲も、我慢するのは肉体を動かすなんらかの理に反していると思う。思うじゃなくて、はっきり反しているといえる。もちろん禁欲に禁欲を重ねていけば精神の方で新たなる変革があるのかもしれないが、そこはそれ、普通の人間や妖怪のみんなが修行僧になる必要はないのである。我慢に我慢を重ねればつもりつもった欲望はいつしか溢れ出し、生活に破綻を生じさせる結果になりかねない。
そこまで考えて、食欲性欲排泄欲という語を三つとも同じ文章の中で使うのはいかんだろと思いなおし、まあどうでもいいや、起きようと決意して、てゐはよっこらせと身を起こした。
いつも通りの朝。障子を透して射す柔らかな太陽の光が畳の一部分を影から切り取ってぽっかぽかに温めている。
てゐは布団から出て、そこまでノソノソと這っていき、ぺたりと頬を付けた。
うん気持ちいい。黒髪と白耳を暖める、陽光こそが至高の救済。
「よきかなよきかな」
目をつむったままてゐは年寄り臭く呟いてみる。このままもうひと眠りしたいところだけれど、あまり寝ていると鈴仙に布団ごと丸められて押入れに片づけられてしまう。それはつい昨日のことであり、それ以前から、
「あんまり寝てるとだんごむしみたいにするわよ」
と常々可愛らしく警告されていたことではあったけれど、まさか本当にやるとは思わなかった。朝起きたら真っ暗闇で息がまともに出来なかったとか、どんだけ怖い経験だか知っているのだろうかあの月兎は。いつか仕返ししてやろうと思う。
そのちょっとの怒りが完全に目を覚ます引き金となった。
まあいい、仕返しは今度にして、まずは今日一日で満たす欲望を考えよう。
なにをしようか。てゐは畳の目をぼんやりと見ながら考える。
「よきかなと書いて」
善哉。
「善哉食べよう」
よろしい、ならばうさみみだ。ぐきゅるると鳴った、腹の虫が欲望の肯定者である。てゐはもたりと垂れたお餅みたいな耳をピンと立たせた。それが行動を開始する合図なのだ。
「うさうさ」
こうして新たな一日が始まる。そして、それがどんなものであるにしろ、積極的に楽しもうという意気込みさえあれば、わりとなにもかもうまくいってしまうのだ。それをてゐは経験から知っていた。否、確信していた。
台所に行くと、てゐよりもさらにへにゃへにゃした耳の月兎が、ブレザー+割烹着姿でもうもうと湯気の立つ鍋の前にておさんどんに励んでいた。
薄紫色の長い髪は頭の上で優雅にまとめられている。
肩のあたりで菜箸の上端がぴょこぴょこ動いているのが見える。
輝夜と永琳はすでに朝食を済ませているはずなので、これは朝の家庭菜園・農園での労働を終えた妖怪兎たちのための料理だろう。
てゐは弾んだ声で言った。
「そういうわけで、ちょっと善哉食べに行ってくるわ」
「どういうわけよ。え、なに? 善哉?」
鈴仙はこちらを振り向いた。きょとんとした顔。
「そう。人間の里にあるでしょ。甘味処」
「ああ、あそこね。じゃあ朝ごはんいらないの?」
「うん」
「そっか、人間の里かあ。ちょうど欲しいものがあるんだけど……」
鈴仙はちょっと考えてから溜息をついた。
「まあ、いいや」
「あれ、なんでいいの? 買ってきてあげるよ」てゐは愛想良くいった。
「いや、貴方に頼むと、変なもの買ってきそうだし」
「さすがわかってらっしゃる」
しれっとてゐは頷いた。
「それに、わたしもお昼ごろ里に行く予定だしね」
「ん、なんで?」
「薬を届けるの。ちょっと珍しい病気の人が一人いてね、里のお医者さんじゃどうにもならないから、お師匠様が製薬を依頼されてたのよ」
「へー」
「ところで、お金あるの?」
「それをたかりにきたのよ」
「はあ。ちょっと待ってなさい。お鍋見張ってて」
鈴仙が菜箸をてゐにあずけていそいそと台所を出て行った。永遠亭の財布を握っているのは、事実上財務担当の彼女だといっていい。てゐはといえば、賢い者はお金を持ち歩かないものだとうそぶいていて、ことあるごとに鈴仙にたかっているのである。
それにしても、てゐとの会話で鈴仙が2回も溜息をついたのがちょっと引っかかった。溜息をつくと、その分だけ幸せが逃げていくとあれほど。やれやれ、なんとかしてやろうか。
鍋の中身はぐつぐつ煮立った味噌汁だった。にんじんがやたら多いのは兎たちの好みを考えてのことだろう。他にも何個もある釜の中にはほかほかのご飯が大量に炊きあがっていて、空きっ腹をこれでもかというくらいに刺激してきた。
しかし、そんなのに心がなびくほど、軟弱なてゐではない。彼女は今、欲望のために生きる硬派な妖怪兎なのだ。欲望のさらなる増幅のために一時的に己を律することなど、現在進行形で文字通り朝飯前なのである。
今この時点における最優先事項はなにか?
それは、未来に食べる善哉のために、最大限お腹を空かせておくことだ。
だから、ここでご飯に手を出して少しでも腹を満たすことなど論外なのである。
てゐはしたり顔でうんうんとうなずき、しゃもじでご飯を一口分すくって食べた。
うめえ。
なだらかなご飯の平原にぽっかり空いたアリ地獄の巣穴をしゃもじで均して証拠隠滅したちょうどその時、鈴仙が戻ってきた。
「ご飯つまみ食いしたでしょ」
「イイエ。メッソウモゴザイマセンコトヨ」
「文法と発音に問題が見られるわね。それと、ほっぺにご飯粒ついてるわ」
「え、うそ」
頬に手をやる。
「………………」
「………………」
どうやらまだ頭が働かないようだ。なんたる不覚。てゐは唇を噛んで鈴仙を上目遣いに睨んだ。むくつけきへにゃ耳兎は片目をつむってにやにや笑っている。
「謀ったね」
「貴方が寝ぼけてるのよ」
「だんだんお師匠様に似てきてるよ。気付いてる?」
「それは褒めてるわけ?」
「馬鹿だな。けなしてんのよ」
「まあいいわ。はいこれ」
そういって鈴仙は深緑色の巾着袋を差し出した。わりと大きめで、中央の丸で囲われた「永」の白文字が、口が閉じられているせいでしわくちゃになっている。
「わあい、ありがと」てゐはコロリと表情を変える。
「あ、それと、獣対策は出来たの? ゴミ捨て場荒らしの」
「あれね。昨日トラップいくつか仕掛けといたから、そのうち引っ掛かるよ」
「そう、それならいいけど」
永遠亭から出るゴミは、すべて裏の少しひらけた空地に埋め立てることにしている。そのまま放置では竹林自体に悪影響を与えかねないので、永琳発明の薬(名称は知らない)をゴミに散布することで対処していた。それを使えば、有機物ならどんなものでも自然に土へ溶けていくという優れ物である(本当に夢のような発明だ)。
しかし最近、というかここ2、3日、埋め立てたゴミをわざわざ掘り返して貪る輩が出てきたのだ。生ゴミだから匂いがひどいし、なにより(いくら環境に害はないとはいえ)薬が散布されたゴミを食べた動物の体にその成分がどんどん蓄積されていって、将来的に竹林の生態系になんらかの異常を及ぼすかもしれない、と愛すべきお師匠様はお考えだ。
そこで、嘘と同じくトラップにも定評のあるてゐが対策を命じられたわけだ。
荒らしはたいてい夕飯で出た残飯を狙ってやってくるので、今日の夜にはなにがしか引っかかっているかもしれない。早くその姿を拝みたいものだ。
「じゃあ、いってらっしゃい。ついでに兎たち呼んできてくれる?」
「ほいほい」
菜箸を受け取って、鈴仙は鼻歌交じりに料理に戻った。てゐは鈴仙の背中をぺちぺち叩いてもう一度「ありがと」というと、巾着袋をポケットにいれ、駆け足で玄関に向かった。
「あれ、しゃもじどこ行った?」という鈴仙の呟きは無視して。
永遠亭の中に出入りする妖怪兎たちには、外出の際に靴の着用が義務づけられている(農作業の時は長靴だ)。妖怪兎の足の裏の皮膚は頑丈なので特にはく必要はないのだけれど、そうしないと亭内の床が大変なことになるのだ。やれやれ面倒だなと、毎度のことだがてゐは思う。
白の靴下と茶色い靴をはいて表へ出ると、澄んだ空気が顔にあたって気持ちがよかった。冬のパリっとした緊張感はない、どこか弛緩したような暖かな雰囲気で満ちていて、そういえばもうそろそろ春が近づいてるんだなあと感じさせる。太陽の光も柔らかい。
「あ、てゐ様だー」
「わー」
出口から門までの砂利敷きの道の左右には畑があって、農具を手にしたピンクのワンピースの妖怪兎たちがきゃいきゃいと騒がしく作業をしていた。てゐの姿を見ると、彼女たちはポイっと農具を放り出してわらわらと集まってきた。ここの兎たちはたいてい人なつっこくて陽気だ。そしてなにより、悪戯が大好き。
てゐもにこにこ顔で答える。
「や、おはよ」
「おはようございまぁす」兎たちの一斉唱和。みんな元気いっぱいだ。
「鈴仙がね、そろそろご飯出来るから集まれって」
「わーい」
「うさー」
「てゐ様はぁ? 一緒に食べないんですか?」
「わたしゃちょっと善いことをね、しにいくのさ」
「おぉ、さすがてゐ様」
「さすがですー」
「じゃあ、早く行きな。あ、そうそう。鈴仙に一つ伝えておいて」
「なんですか?」
「しゃもじはね、あんたのブレザーの背中にひっついてるよって」
兎たちはまたきゃいきゃい笑いながら玄関へ向かった。
日常で観察するところ、かなり昔に月の民から授かった知性を妖怪兎たちが有効活用しているとは思えなかった。彼女たちはおおむね、うさうさと面白オカシク時を過ごすことに腐心していて、勉学に励んだり、己を鍛練したり、はたまた未来のためになにか建設的なことをしようという気概は感じられない。
しかし、てゐはそれでいいと思う。知性とはなによりもまず、自由であるために使われるべきものだと思うから。ならばてゐなどがいちいち指図するのは彼女たちを拘束することに他ならないし、本末転倒、余計なことだ。
まあ、みんなで一丸となって悪戯する時は別だけれど。なにせてゐの命令に従えば、より大きな楽しみが得られるのだから。
鈴仙の悲鳴が遠くに聞こえた。たぶんお腹を空かせた妖怪兎たちが鈴仙をうつ伏せに組み倒して、背中についたご飯粒としゃもじをペロペロなめているのだろう。想像するにその光景はそこはかとなく……
てゐは手をかざして太陽を透かし見る。今日も善き日でありますように。
吹き抜ける風とさわさわ揺れる葉のたてる音を、はためくワンピースの裾と一緒に小気味よくさばきながら、てゐは迷いの竹林をずんずんと進んでいく。地に太陽はあまり届かないけれど、その代わりすべての生き物を包み隠すような心地よい薄暗さがある。
たまにてゐは見回りじみたこともする。この竹林が「高草郡」と呼ばれていた頃から住んでいるので、もうここはてゐの庭のようなものだ。そこらにいる野生の兎たちの健康状態を見てやったり、動物同士が喧嘩なんかしたらその仲を取り持ったりと、支配しているわけではないが、いつまでも平穏に続いていくようにできる限りの手を加えることが、この数百年彼女が自分自身に与えている課題だ。
最近では永琳に命じられ、てゐを探しに来た鈴仙をからかって遊ぶことがひそかな楽しみであったりもする。
人間の里まで続く曲がりくねった道(これが出来たのは先の永夜異変の後だ。竹林も徐々に変わってきている)をてくてく歩いていると、道端の藪のあたりで野生の兎たちが5、6羽集まっているのが目に入った。
「どうしたん?」
てゐはそちらに近寄っていく。兎たちはいっせいにこちらを見た。彼らは言語を持たないが、そのかわり目で多くをうったえてくる。その目を見れば、てゐは彼らの感情を読みとることができる。
今はっきりと読みとれる感情は、恐怖、そして不安だった。
「よしよし。なにが怖いのか、姉さんにいってみ」
てゐは兎たちの会合に参加するように、その場にぺたりとお尻をつけて座った。小さな兎が一羽左肩によじのぼってきたので、そいつを右手でなでながら眼をのぞきこむ。
浮かび上がるのはいくつもの雑多なイメージだ。薄暗い竹林、その少し開けた場所。崩れそうな一軒の小屋。そこに住む銀髪の少女。藤原妹紅が、しゃがみこんで膝に頬杖をつきながらこの兎に餌をあげたようだ。しかし、それは不安の根源、恐怖の感情を伴っているわけではない。むしろ暖かい、不器用な優しさのようなものがにじんでくる光景だ。関係ない。もっと別の……。
これだ。黒っぽい猫、尻尾の先が二股に分かれている。その周りを飛び交う一羽の鴉。片方が確実に妖怪であることをのぞけば、一見普通の猫と鴉に見える。猫又なんてこの竹林にもよくいるし、なぜこれが恐怖(あるいは畏怖?)の対象となっているのかはわからない。
「わからないな」
てゐは声に出していう。
「いったいどうし」
ふっ、と辺りが暗くなった気がした。
いや、ここはもともと暗い。光度の問題じゃない。空気が少し湿り気を帯びて、冷たくなったというべきか。
道の反対側、背後の草むらで、なにかが飛び出してくるような音。
ガサリ。
てゐはゆっくりと仔兎を地面に下ろして、立ち上がる。兎たちは怯えて、てゐをすがるように見つめている。
振り向くと、尻尾の先が二股に分かれた猫が、不気味に光る緋色の目でこちらを見ていた。
探すまでもなく、どうやら元凶が現れてくれたようだ。
「行きな」
てゐが再び足元に視線を下ろしてそういうと、兎たちは戸惑いながらもぴょんぴょんと竹林の道なき場所へと戻っていった。
お尻のあたりに両手をあてて、かかとだけ使ってきゅいっと体をひるがえして猫と相対する。いつの間にか、竹林はしんと静まり返っている。
きりりと細められた緋色の瞳。少し赤みがかった黒の毛並。催眠術でもかけるようにゆらゆらと揺れるかと思えば、時々思い出したようにピンッと張り詰める二本の尻尾。その猫の周囲には、なにか言い表しようのない不可解な冷気が漂っている。
てゐはそれを見てこう呟いた。
「おお、かっけえ」
妙なものが大好きである。なんといってもてゐは自他ともに認めるひねくれ者、あまのじゃくの名を欲しいままにしており、人が目も向けないような物体を持ち帰っては部屋でひそひそと愛でたり、頭のイカれた薬師やどこか掴み所のない月の姫、年中頭がアレな妖怪兎たちなど遠い過去に道を盛大に踏み外した輩とも付き合うことをいとわない(むしろ好んで関わったりする)。そういうのと常時触れ合いながら、
「まったく度し難いな」
などと独りごちてにやにやするのがてゐの歪んだ楽しみ方なのである。
この独特の感性については一度鈴仙に自慢げに話したことがあるのだが、「一番度し難いのは、あんたよ」の一言で切って捨てられた。これだから物の価値を知らない月兎は……
そんなこんなで、なにやらタダ者ではないオーラをびんびんに放ちまくっている猫に、てゐは物凄く魅かれたのだ。無理もないね。
「あんた、なかなかいいね」
てゐが軽い調子で声をかけると、猫は
「にゃーん」
と鳴いた。その途端、猫の周囲を覆っていた薄気味悪い雰囲気が消え去った。と同時に、なにかに怯えるようにひっそり黙り込んでいた竹林は、じわじわと元のざわめきを取り戻し始めた。不思議。
「あれ、やめちゃうの? せっかくかっこよかったのに」
そういうと、猫はもう一回にゃーんと鳴いて、しっぽをふりふりしながらてゐの足元にまとわりついてきた。てゐがしゃがんで緋色の眼をのぞきこむと、猫は眠そうにあくびをして、それから人懐っこい柔らかな表情をした。その瞬間、てゐはその猫を「ぬこ」と呼びたい衝動に卒然と駆られたが、なんでなのかはちょっと説明できない。猫かわいいよ猫。兎には劣るけど。
しばらくぼーっとしていると、猫はさっきの兎のようにひょいっと肩をよじのぼってきた。それほど重くは感じない。
「あんた、お腹空いてるの?」
「にゃにゃ。にゃーん」
ふむ、とてゐは思った。予定とはちょっとずれるけれど、こんな奇妙な道連れと一緒に、甘い善哉で朝昼ごはんと洒落こむのも悪くないかもしれない。
日常においては、「良いとはいちがいにはいえないまでも、悪くはない」ことがなによりも肝要になってくる。誰も至高の生活が欲しいなどという高望みはしないが、せめて不幸ではないことを一番に望むのだ。
よし、誇り高き四つ足同士、ここで会ったのもなにかの縁だ。縁はこの世に無数にあれど、どれが幸福と結びついているかはなかなか見極められるものではない。ならば闇雲に縁を結んでみるのもまた、ひとつの手段。
「善哉食べにいくか」
猫はまたにゃんにゃん鳴いた。肯定したように見えた。だから、そのようになった。
猫って善哉食べるのかしら、などという疑問はひとまずおいといて。
竹林を抜けるとそこは雪国だった、というわけもなく、春になりかけの穏やかな自然がわくわくと続いているだけだ(先の異変の時はまじで雪国だったのだが。春なのに)。ここから人間の里まではもうすぐ。善哉への道のりは澄み渡って視界良好。
猫はてゐの二本の耳の間に自分の位置を定めたようで、目の前にはぷにぷにしたいという悪魔的な欲望を駆り立てる罪深い肉球が、所在なげにぶらぶらしてるのが見える。
それにしてもこの猫の出自が気になった。
「ねえ、あんたどっから来たのさ」
「にゃにゃーにゃん」
んー、なるほど。
さっぱりわからない。
だが思い当たる節がないこともない。てゐはどこかの書物か新聞で、似たような二股の黒猫の写真が掲載されているのを見たことがある。そう、こいつはあの稗田阿求と一緒に写っていた黒猫かもしれない。
よし決めた。善哉を食べ終わった後で、猫の処置に困ったら阿求のところへ行こう。それで阿求のところの猫ではなくても、そのまま押しつけて帰ってしまえばいい。もし断固として拒否されたら、まあ、永遠亭に連れ帰ったところで支障があるわけでもないし、いざとなったら橙に紹介するとか、いくらでも手は考えられる。
とりあえず、今は善哉だ。
里に着くと、入ってすぐの広場の中央に人だかりが出来ていた。なにか面白いものでもあるのだろうか。てゐと猫はぴょこぴょことそちらへ向かう。
人だかりの扇形の中心にいるのは金髪青眼の魔法使い、アリス・マーガトロイドだった。人形劇を上演中のようだ。いかにも優しいお姉さんといった感じの笑みを浮かべたまま、指をクイクイと動かして糸を繰り、数体の女の子の人形を動かしている。
群衆の内わけは子供が半分、大人が半分といった感じで、大人も子供も一様に目を輝かせながら劇に見入っている。娯楽がなかなかない里においては、こういったものも充分な時間潰しになるのだろう。
時々子供たちから「頑張れシャンハーイ!!」「負けないでホーライ!!」といった声援が送られた。ちょこまかと人々の間を歩き回りながら、ざっとてゐの見たところでは、語るも涙、王道中の王道の冒険ファンタジーのようで、戦士や魔法使いなど様々ないでたちをした人形たちが、時々本物のレーザーや弾幕を発しつつ広場を縦横無尽に飛び回るアクションはなかなかのものだった。ただどんな場面になってもアリスはひたすら同じ微笑みを浮かべ続けるだけだったので、そこらへんはちょっと不気味だったが、人形劇の主役はあくまで人形たちなので、操り手に特に演技力は必要とされないのかも。
劇は大歓声のうちに終わった。子供たちがいっせいに前に出て小さな人形たちに握手を求めると、人形たちもにこにこしながらその手を握り返した。よく出来てるなあ、ほんとに。
子供たちは大興奮でたった今の大冒険活劇について話し合いながら、大人たちはしきりに感心したようにうなずきながらそれぞれの家へ帰っていくと、その場には後片付けをするアリスだけが取り残された。てゐは魔法使いの元へ軽くスキップしながら近づく。
「こんちはー」
「妖怪兎がなんの用かしら」
アリスは小道具や衣装をいっぱいに詰めた深緑色の大きなトランクをガサゴソ漁りながら、顔を上げもせずにそっけなくいった。
「いやあ、なかなかよく出来た劇だったね。感心したよ」
「そ。ありがと。それで?」
「つれないなあ。せっかくわたしが善哉をおごってあげようとしてるのに」
「善哉?」
「そう、善哉。よきかなと書いて」
「それはわかってるわよ。なんでわたしがあなたと一緒に善哉を食べなきゃいけないわけ?」
アリスが初めてトランクから顔を上げ、目を細めて睨んできた。見透かそうとしているかのよう。
「今日のわたしはね、慈善の精神に満ち溢れてるのよ」
てゐはポンとない胸を叩いて(ないから叩いても問題ないのだ)、その後大きく仁王立ち。どっからどう見ても豪快で気前のよいお姉さんだ。猫が頭の上でにゃあと鳴く。おお猫よ、あんたもそう思うかね。
「慈善の精神、ねえ」アリスが鼻をならして笑った。「あんたの慈善の精神は、他人のやる劇で勝手にお金を観客から集めて初めて湧きあがってくるわけね」
ありゃりゃ、バレてたか。
てゐのポケットの中で、明らかに永遠亭を出た時より重さを増した巾着袋が、ぐちゃりと鳴った。
「お断りよ。なんでわたしが善哉なんか」
「えー」
「えー、じゃなくて……」
そこでアリスが言葉を切った。てゐの頭の猫を不審げに見つめている。
どうしたのだろう。
「変わったヘルメットね。その黒猫……」アリスがゆっくりという。
「あ、こいつ? なかなか可愛いでしょ、にゃんこ」
「…………」
「どしたの?」
「いや……」
てゐは思いついて頭の上の猫に両手を伸ばし、つかんでひょいと目の前に差し出した。
「こいつもあんたと善哉食べたいってさ」
「にゃーん」猫が朗らかに鳴いた。
アリスは黙ってトランクに人形たちをかたすと、上海人形と蓬莱人形を自分の両側に浮き上がらせた。
どうやら気が変わったらしい。理由はよくわからないけれど。
「お、おごられる気になったかい?」
「もともとはわたしのおかげで稼いだお金でしょう。まったく、次やったら叩きのめすわよ」アリスはそういうと、溜息をついて処置なしといったように肩をすくめた。
「はいはい。じゃ、甘味処に行こうかね。あ、それともう一つ良いことを教えようか」
「なによ」
「溜息をつくと、幸せが逃げていくよ」
さて、ようやく善哉にたどり着いた。長かったような、短かったような。微妙に色々なことがあってちょっと新鮮だった。しかし、日常を退屈にしないためには、なによりも物事の新鮮味が大事になってくる。だから次から次へと起こるハプニングというものは、てゐの考えによればむしろ歓迎されるべきものだ。
もちろん、滅多に起きないことは何もしなければ滅多に起きるわけがないので、自分から起こすこともいとわない。だからてゐは嘘をつくし悪戯もする。そうして起きるハプニングを積極的に楽しもうとする。彼女にとってそれらの行為は、長く生きるために必要な手段なのだ。
甘味処は「一善」という名前で、入口の看板に仰々しい筆致でそう書いてあった。ぽかぽかといい具合に射す日光の下、一人と一羽と一匹と二体は入口のそばに設けてある緋毛氈を敷いた床几に腰かけて、道を行き交う人々を眺めながらいただきますをすることと相成った。
注文してお金を払い、しばらく待つと着物姿の若い女性がにこにこしながらやってきて、熱々の善哉を乗せたお盆を二人の間に置いた。それから百貫文級の笑みを残して店の中に戻っていった。
「くしし、追い詰めたぞ、善哉!」
てゐは両手の指をわきわき蠢かせながら、紅い漆器の中でゆらゆらと湯気を立てる黒い液体を見つめた。てゐの めが あやしく ひかった!
「くだらないことやってないでさっさと食べなさい。冷めちゃうから」
アリスがさっさとお箸とお椀を取り上げてにべもなくいった。冷たい物言いなのに、最後にきっちりと「冷めちゃうから」と忠告しているあたり、なんともアレである。
「いっただっきまーす」
てゐは箸をとってお椀を持ち、勿体をつけるようにゆっくりと口に近づける。
とろり。
口の中に、幸せをぎゅっと凝縮してことこと煮込んだような味が広がる。
同時に鼻腔を満たすのは、遥かなる極楽の風景を眼前に幻視させるようなたおやかな匂い。
ああ、餡子の香ばしさ。そしてひかえ目ながらもまろやかに自己主張する最高の甘味。少しねばっけがあって、しばらく放っておいても口の中に美味しさの余韻が残っているほどだ。
いいね。実によろしい。
「こういうの、お汁粉っていうんだと思ってたわ」
隣でアリスがいった。
「どっちでもいいんじゃない。で、味はどうよ」
「…………悪くないわね」
少し溜めたあと、アリスは冷静にそういった。しかしてゐは、彼女の口元に一瞬だけ笑みがこぼれるのを見逃さなかった。まったく素直じゃないんだから。
でも、素直じゃないというのは嫌いじゃない。それは一筋縄ではいかないということだから。てゐはむしろ性格に難ありという人物を好ましいと思うのである。
ただし、素直だからといって、一筋縄でいくとは限らない。鈴仙を見ているとそう思う。
猫は一度だけぴちゃりと汁をなめると、満足したのかてゐの腿の上にころんと丸まり、くはあと欠伸をしてすっかり眠る体勢に入った。上海人形と蓬莱人形がふよふよと近寄ってきて、おずおずと猫に手を伸ばして撫で始めた。平和な光景だ。猫の二本の尻尾が上下に気持ち良さげにたゆたって、見てるとなんだか眠くなってくる。
てゐはしばらく善哉をはふはふと堪能した。浮かんでいる粒々を歯で優しく甘噛みし、香ばしく焼きあがった餅を舌でこねくり回す。その下に隠れていた鮮やかな黄色の栗が、ちょこんと顔をのぞかせた時などは、とても可愛らしくて、微笑ましく感じた。
大して寒かったわけでもないのに、骨の髄まで暖められるような充足感がある。「よきかな」とはよくいったものだ。だってそう呟きたくなるもんね。これ食べてると。
アリスのほうが早く食べ終わった。彼女はお椀とお箸を置いて脚を組むと、膝の上に頬杖をついて段々騒がしくなっていく通りの様子をぼんやりと眺めていた。時々ちらりと猫を横目で見る。丸まっている猫の脇腹では、上海と蓬莱が仲良く寄り添ってお昼寝(のまねごと?)をしていた。
「そんなに気になる? この猫」てゐも食べ終えると、お尻の両脇に両手をついて体を前に傾かせながら、少し上目遣いにアリスに問いかけた。
アリスが答えなかったので、てゐはそのまま体を後ろにそらせ、お店の中に向かって「おねえさーん、お茶二杯ちょうだーい」といった。
さっきと同じお姉さんが持ってきたお茶をズズズとすすっていると、アリスはようやく溜息をついて身を起こし、てゐのほうに顔を近づけた。唇が奪える距離だ。しないけど。
アリスの白くて細い指が、猫の耳の後ろをカリカリとかいた。
「…………お燐さん、ですよね?」
猫の耳がピクリと反応した。アリスはそのまま頭をなで続けている。
「お燐?」てゐは首を傾げた。「知ってるの? この猫のこと」
「ええ、たぶん」アリスはなでるのをやめて姿勢を戻すと、湯呑を取って音を立てずお茶を飲んだ。
「なにものなの?」
「火車よ」
「かしゃ? 荷物を運ぶやつ?」
「違う。火の車と書いて火車」
「ああ、そっちの。それって、死体を地獄までもってっちゃうやつだっけ」
「そうね。地獄の死体運搬人よ」
「ふうん。で、そいつがなんでここに? ていうか、なんで知ってるのさ」
「ちょっと前に間欠泉から怨霊が湧き出てくる異変があったのよ。それは知ってる?」
「噂だけ」
その異変には、永遠亭のメンバーは一切関与していない。温泉か、あったかそうだなあとぼんやり思ったくらいである。
「その怨霊噴出を止めるために魔理沙を地底に潜らせたの。わたしは地上でサポート役。その時に、地霊殿っていう妖怪の住み家を通ってね、そこの主のペットが、火焔猫燐。つまり、この猫だったわけ」
「へえ、地霊殿ねえ。で、そんな地底の妖怪がひょこひょこ地上に出てきていいわけ? なんか差し障りがあるんじゃないのー? あのスキマ妖怪あたりが怒るとか」
「さあ、今のところ、地上と地下との交流は普通に行われてるわ。だから彼女がここにいても特に問題はない。まあ、なんでここにいるのか、その理由はわからないけど」
「迷いの竹林をうろうろしてたんだよ」
「じゃあ、迷ってたのかもね」
「ふうーん。火車かあ……」
てゐはじっと猫を見た。お燐は自分が会話の俎上にあることなど意にも介さず、そばに女の子の人形をはべらせてウハウハな昼寝を楽しんでいる。とてもそんな強そうな妖怪には見えない。
まあいい。こいつが火車だろうとなんだろうと、面白いことに変わりはない。
それどころか、ますます面白くなってきたじゃないか。
「あんた、やっぱりなかなか良いみたいだね」
てゐがそういって頭をなでてやると、猫は顔をあげてにゃーんと鳴いた。
アリスと別れて、てゐはしばらくお燐と一緒に里をうろうろすることに決めた。
「さあて、どうしようかねえ」
てゐは腕組みをしながら呟く。再びてゐの頭の上に居を構えたお燐は、二本の尻尾でぱたぱたと背中を叩いてきた。
この猫の出自が判明した以上、もう阿求のところへ行く必要もなくなった。結局はまったく別の猫だと判明したのだから。でも特にやることはないので、あとで稗田家を訪ねて阿求の邪魔をするのもいいかもしれない。
「お、駄菓子屋だ」
商店の建ち並ぶ通りを歩いていると、古びて暗そうな雰囲気の駄菓子屋を発見した。おやつの時間には遥か遠いせいか、まだ子供の影はなく、気の良さそうな親父が暇そうに店番をしている。
せっかくだから、鈴仙になにかお菓子でも買っていってやろう。朝のことを怒られたら、それを差し出せばいい。まあ、機嫌が直ることはないだろうが、なにもないよりはちょっぴりましなはず。
「ああ、兎さんいらっしゃい」
店に入ると、主人がほっとしたように声をかけてきた。暇だったのだろう。
「こんちわ。なんかいいものない?」
「はあ、いいものですか。例えばどんなものがお好みで?」
「うーん、そうねえ……」
てゐはちょっと考える。先ほど食べた善哉のイメージがわきあがってくる。
「なんでもいいけど、そうだな、とろりとしてて、甘い物がいいかもー」
「ああ、それならいいものがありますよ。人気だから、もう少しで売り切れになるところだったんだけど、兎さん運がいいね」
そういって、主人は店の奥まったところにある古びた机の上で、どっしりと存在感を主張している大きな瓶のところまで行った。
「なにそれ?」
てゐもそちらに近付く。
「水飴だよ」
「みずあめ……」
ハチミツにも似た琥珀色の液体が、鈍い光を放ちながらどろどろと鎮座ましましている。
「美味しいの?」
「ふふ、じゃちょっと味見してごらんなさい」
そういって主人は瓶の蓋をとると、琥珀色の液体を傍においてあった割り箸ですくい、てゐに差し出した。
箸を受け取って、てゐはちょっとなめてみる。
なにこれ。
うめえ。
舌がとろけそう。
「どうです?」主人がにやりと笑った。
「わ、悪くないね」てゐはとっさに先ほどのアリスの真似をした。我ながら全然説得力はない。思わず舌鼓を打ってしまうほどに甘かった。
「もうちょっとなめてみないと確かなことはわからないなー、なあんて」
「駄目だよ兎さん。こっから先は買ってからのお楽しみってことで、どうだい?」
「むむう……」
やれやれ、なんだかとろりとしてて甘い物に縁があるようだ。
今日は闇雲に縁を結んでみようと決めた手前、買わないわけにはいくまい。
「これで足りるかな?」
てゐは巾着袋を開いて中身を主人に見せた。人形劇で(アリスが)稼いだお金は甘味処でちょうど使い切ったので、朝鈴仙にもらった分がきっかり残っているはず。
「まいどー」
にこにこ顔で、主人は半透明な茶色の瓶に水飴をうつしてくれた。外から見ると、まるでなにかの薬品のようである。永琳の研究室に並んでいても違和感なさそうだ。
「ほれ、おなめ」
駄菓子屋の外に出ると、てゐはお燐を地面に下ろして水飴をやった。
小さな赤い舌で、ぴちゃぴちゃと割り箸の先をなめている。気に入ったようだ。にわかには妖怪とは信じがたいけれど、可愛いからいいか。
それにしても甘い。舌にまだ、天使のように優しい味がとろりと残っているみたいだ。鈴仙にあげるのが惜しくなってきたな。
さて、また行先に困ったぞっと。てゐは茶色の小瓶をポケットにしまいこんで立ちあがった。
「どうしたもんかなー……」
「にゃーん……」
再び里の中をぶらぶらと練り歩く。お燐は頭の上に登らずに、てゐの横を尻尾をふりふりついてくる。道行く人々は、妖怪兎と妖怪猫という珍妙な組み合わせを気にも止めずに通り過ぎていく。この程度の非日常など慣れっこなのだろう。
空を見上げると、少しくすんだ色合いの青がところどころにわた飴のような白い雲を浮かばせながら広がっている。わた飴か。最近食べてないな、などと思う。今日は甘いもののことしか思いつかないみたいだ。
「お昼寝でもしよっかなー」
「にゃーん!」
お燐はノリノリな返事をする。さっき寝てたのにまだ寝足りないのか。しかし、欲望に正直なあたりは気が合うかもしれない。
その時、里の一角がなんだか騒がしくなっていることに気づいた。
通りの隅っこにある民家、その玄関のあたりに人だかりが出来ている。
お、なんだかハプニングの匂いがするぞ。
「行ってみよう」
「…………」
お燐はなぜか、この時まったく返事をしなかった。
人だかりの方に行くと、緊迫した雰囲気が伝わってきた。
「どうした?」てゐの後ろからやってきた男性が、集まった人々に向かってそう尋ねた。
「一善のシズさんのお父さんが倒れたんだ!」一人がこちらを向いていった。ひどく焦っている様子。
「発作か!」男性は顔を強張らせた。「まだ薬は届いてないのか」
「今日の昼に兎さんが届けてくれるはずなんだけど」
「それじゃ間に合わない! 里の先生は?」
「駄目だよ。もともとセンセじゃ手に負えなくて永遠亭の薬師さんにお願いしたんだから!」
てゐは今朝のことを思い出した。そういえば鈴仙が、里に珍しい病気の人が一人いて、その薬を今日の昼に届けるつもりだといっていた。これがその人か。
蒼白な顔をした着物姿の娘が、子供に連れられて走ってきた。「一善」というのはさっき善哉を食べた甘味処の名前で、この娘はそこの店員だ。彼女はてゐとアリスに給仕した。倒れたのはその父親。
なんという縁だ。こんな繋がりを望んだわけじゃないのに。
昼になるまでにはあと一時間は待たなければならない。
どうしようか考えあぐねていると、不意に下の方で声がした。
「これは、あたいの出番かねえ」
そちらを向く。
そこに、黒猫はいなかった。
代わりに、小柄な黒衣の女性が立っている。
きりりと猫のように細められた緋色の瞳。
白く小作りな顔だち。
血のように赤い癖っ毛とおさげ。
ぴょこんと突き出た二つの耳。
身にまとう黒い衣装からは、今日初めて会った時に感じた不気味さがにじみでている。
……火車。
死体を運ぶ地底の妖怪。
てゐは舌打ちした。
まずい時にまずい者を連れてきてしまったようだ。つくづく縁とは奇なるもの。もしこの男性が死んだら、彼女は嬉々として遺体を運ぶのだろう。
「あ、兎さん!」
呼ばれて、てゐはハッしてそちらを向く。
「薬は!?」
ない。それは鈴仙が持ってくる予定なのだ。てゐが薬や病気についての知識は一応持っているとはいえ、どんな病気かもよくわからないのに、治せるわけがないのである。
でも、鈴仙が薬を持ってくるのを待っていたんじゃ、確実に手遅れになる。
……しかたない、なんとかしよう。お燐には残念だろうが、死体運びは諦めてもらうしかない。
不幸な縁に出会ってしまったけれど、それを幸福な縁に変えるための糸もすでに握っている。
「……安心しな。ちゃんと持ってきたよ」
お燐の怪訝そうな視線を尻目に、てゐは自信満々にそういい放つと、人だかりをかき分けて家の中へ入った。
座敷の上に壮年の男性が一人横たわっている。息遣いが荒く苦しそうだが、意識はあるようだ。その横には着物の娘。甘味処で見せた百貫文級の笑みはあとかたもない。
「いいかい? よーく聴きなよ!」
てゐはみんなに聴こえるように大きな声で呼びかけた。
男性は額に玉の汗を浮かばせながらも、薄く目を開けてこちらを見る。よしよし。意識はなんとか保ってもらわなければ困る。
ポケットから茶色の小瓶を取り出した。
「これ、なんだかわかるかな?」てゐは小瓶を男の前にかざした。
「この中に入ってるのはね、妖怪の山の頂上にある神社でもらってきたお水だよ。それもただの水じゃない。水舎の屋根から一日に三滴垂れ落ちるという神の水、お天水の奇跡だ。これはそこの巫女が毎日毎日懸命に溜めておいたのを、故あってわたしが特別にもらいうけたもの。ほんの少し飲めば、どんな病気でも神様の力でたちどころに治ってしまう。どうだい、凄いと思わないかな?」
てゐは息をつめてじっと男を見た。
男は、薄れそうな意識の中で、懸命に茶色の小瓶を見つめていた。やがてその目に、光のようなものが射すのをてゐは見た。
男がうなずく。
てゐは少しほっとして、小瓶の蓋を開き、指を中に突っ込んで、とろりとした液体をたっぷりすくいだした。
「口、開けて」
震えながらもゆっくり開いた男の口に、液体をたらしこむ。
ごくりと、飲みこむ音がする。
それはその男のものだけではなく、周りの人間も緊張して唾を飲み込んだ音であるようだった。
視線が男の顔に集まる。
苦しそうだった顔が、徐々に落ち付きを取り戻していった。目は閉じられ、穏やかな眠りに落ちる。大きく上下していた胸はもう元通り、正常な鼓動を繰り返している。
周囲の人々が一斉に安堵の息を吐きだした。
「あ……」甘味処の娘を見ると、彼女は蒼白な顔を一気に歪めて、父の胸の上につっぷした。安心して、脱力してしまったようだ。
「さて、じゃ、わたしはこれで」てゐは思い切りよく立ちあがって、小瓶をポケットにしまった。「あ、そうそうお姉さん、もう一つ」
娘が涙で汚れた顔を上げて、こちらを向く。
「お昼くらいにわたしよりしょぼい耳の兎が訪ねてくると思うから、そいつが持ってきた薬もちゃんと飲ませてね。さっきので充分なんだけど、念のため。それと、わたしのことはそいつに漏らさないでくれると嬉しいな」
なんだかよくわかっていないようだったけれど、娘はようやくうなずいて、かすれた声で「ありがとうございます」といった。
「じゃ、さよならー」
てゐは人ごみをかき分けて進む。途中で何人かから肩をポンポンと叩かれた。ねぎらいの意味を込めているようだ。家を出ると、この騒ぎの中で一人だけ不満そうな顔をした奴が待っていた。
さあて、あとはこいつをどうするかだ。
「惜しかったねえ」お燐は本当に残念そうな声でいった。「もう少しで死体を運べると思ったのにさ」
「そいつは残念だったね」てゐはにやりと笑った。お燐はてゐより身長が高いので、少し見上げるような感じになる。「よかったら、この後ちょっと話さない?」
「で、お姐さん、種明かしといこうよ」
「種明かしって?」
「さっきのやつ。あれはただの水飴だったでしょ? なのに、なんであの男の人は助かったのかなー、って話」
てゐとお燐は竹林をぐるりと回りこんだところにある草原の丘のてっぺんに腰かけていた。爽やかな風が緑色の絨毯を駆け上がり、青いくすんだ空へと旅立っていく。なごやかな日差しを一身に浴びながら、一羽と一匹はのんびりと話すことにした。
後ろには焼け焦げた樹が一本、ポツンと寂しそうに立っていて、それだけがこののどかな、生気に満ち溢れた光景からは浮き出ている。てゐがここを気に入っているのはやはり、まわりと比べてこの丘の頂上が異質だからだ。
「それね」
てゐは両手を頭の後ろで組んで、芝生の上に寝っ転がった。
「別に種も仕掛けもないよ。あんたのいう通り、あれは何の変哲もない水飴だった」
「じゃあ当然、お天水がなんたらっていうのは口からでまかせだったわけだね?」
「そ。嘘はわたしの十八番だからね。あの場では、ただあの人が騙されてくれればよかったんだ」
「よくわからないね。お姐さんの嘘に騙されたから、あの男の人は助かったってわけかい?」
「よくわかってるじゃん。その通り」
「そういえば、竹林にいた時、耳に挟んだんだけど」
「ん?」
「あの竹林の奥にあるお屋敷の中には、妖怪兎たちを束ねる兎の親玉がいて、そいつは人を幸せにする能力がある、とかなんとか」
「誰からきいたのよ。みんなあんたのこと気味悪がって近寄らなかったんでしょ」
「いや、あたいもほら、妖怪だからさ。そんくらいのことを動物たちから訊き出すのはちょろいもんさ。他には、そいつはとんでもない嘘つき野郎だ、とも」
「野郎とは失礼な。こんなに可愛い兎をつかまえておいてそりゃないよねえ」
「で、本当なの?」
「え?」
「人を幸せにすることができるってのは」
「さあねー」
てゐは目を閉じて、にやりと笑った。青い空が消えて、暗闇が降りてくる。
「よかったら、あんたも幸せにしてあげようか」
「んー、それはもう手遅れだねえ」
お燐の苦笑する気配。
「あたいにとっては死体を運ぶのが幸せだからね。さっきお姐さんにそれを邪魔されたから、いってみればお姐さんはあたいの幸せを邪魔したことになるよ」
「おおっと、そいつは失敗失敗。今度から気をつけるよ」
「じゃあつまりこういうことかな」
隣でドサリとお燐が寝っ転がる音。
「あの人は、お姐さんの嘘に騙されたからこそ、あの水飴をお天水の奇跡だと信じ込んだからこそ、助かった。つまり、幸せになったわけだね。そこにはお姐さんの能力が働いていた、と」
「そうそう。騙された人が根こそぎ幸せになる。それがまあ、なんというか、わたしが嘘をつくとよく起こるみたい。うまくいかない時ももちろんある。ていうか、そっちのほうが多いけどね」
「うーん、凄いなあ。感心したよ」
「おおありがとうありがとう。こういうことで褒められたのは久しぶりだなあ。うちの連中はさ、今日みたいなことがあったってきいたら、どう答えると思う?」
「ううん。なんて答えるんだい?」
「『それは偽薬効果だ』っていうに違いないよ。まったく、ロマンの欠片もないよねえ」
「ロマン、ねえ」お燐はからからと気持ちよく笑った。
てゐはそこらへんにある草を一本、ぶちりとむしり取って顔の前に持ってきた。四つ葉のクローバーだった。
「これ、あげるよ」てゐはそれをお燐のほうへ差し出した。
「どもども」お燐は受け取って、幸せの四枚葉をしげしげと眺めた。
「そういえば、なんで竹林をうろついてたのさ」
「いや、それが、なんとなく面白そうだなと思って入ったら、いくら歩きまわっても抜け出せなくなってねえ」
「ああ、まあ、迷いの竹林だからね、別名。入る時は、必ず永遠亭に縁のものか、そこらへんをうろついてる熱っ苦しい自警隊に頼まないと」
「入る前にきいときたかったよ。まったく、連れとは喧嘩しちまうし、家には帰れないし、散々だったなー」
「連れ」てゐは思い出す。「そういえば、兎にあんたたちのことをきいた時、あんたの周りを鴉みたいなのが飛びまわってたっけ」
「ああ、そいつね、お空っていうの」
「おくう。そいつもやっぱり、ただの鴉じゃないんでしょ?」
「ご明察。あいつは妖怪鴉さ。前の騒ぎの時なんか、神様を呑み込んだってんでもう大変だった。力は凄い強いけど、いかんせん馬鹿なもんだから」
「なんだか凄そうだね。で、喧嘩別れしたわけ?」
「そう。あいつが入ろうっていいだしたのに、抜け出せなくて文句ばかり垂れてるから、こっちも頭に血が上ってたもんでね、ついつい」
「ほうほう」てゐはまた、ぼんやりと空を見た。「仲直りしたい?」
「うーん、まあ、一応は相棒みたいなもんだからねえ」お燐は溜息をついた。「あんな馬鹿でもさ」
「おお、いい響きだね、相棒って。やっぱりあんた、なかなかいい奴だ。それに関してなら、わたしはあんたを幸せにできるかもよ」
「へえ、どういうこと?」
「まあ、今日の夜をお楽しみに」てゐはよっこいしょっと起き上がって、大きく伸びをした。「ねえ、それまでうろつこうよ。よければ案内する。地上はまだ歩きなれてないんでしょ?」
「いいねえ」お燐はにやりと笑った。「じゃ、行きましょ。いい忘れてたけど、お姐さんもなかなかいい奴だね」
「ふふん。わたしは心の底からひっきりなしに慈愛があふれ出てくるような、聖母みたいに優しい兎なんだ。思う存分尊敬するがいいよ」
「そんな嘘をついたって、あたいを幸せにはできないよ。死体を運ばせてもらえなかったしー」
「勘違いしてるみたいね。幸せになるにしても、どのような幸せかを選ぶ権利は、そいつには全くないんだ。それを決めるのはわたしの仕事。騙された奴には、問答無用でわたしの考えた幸せを押し付けてやる。それが、わたしの幸せかな」
「色々と矛盾してる気がするよ、お姐さん」
その後てゐは、お燐を連れて色々なところを歩きまわった。
マヨイガあたりまで出向いてお燐に猫の姿をとらせ、そこに住みつく猫たちを統率する権利を橙から奪い取ろうとしたり(あまりにもすんなり上手く行ったもんだから、さすがに橙が可哀そうになってきてやめたけど)。
人間に悪戯しようとして隠れていた光の三妖精を、逆に後ろからお燐の強そうな妖気を発して震え上がらせてやったり(いつか竹林で兎狩りとかいうつまらない遊びをしていた仕返しだ)。ちなみにその時、髪が黒くて長い妖精はてゐとお燐の存在にとっくに気づいていて、彼女は怯えているふりをしながらも他の二匹が震えている様を見て楽しんでいるようだった。そいつとチラリと目が合った時、てゐはなんだか自分と似たようなものを感じた。
家に帰ってのほほんとティータイムを楽しんでいたアリスのところに押しかけて、おやつをちゃっかりいただいたり(その時アリスは、てゐに鈴仙の姿をした人形を見せてくれた。残念ながら非売品だという。お燐は、紫色の髪をした少女の人形を見せられて興奮していた。誰だったのだろう)。
紅魔館の図書館に忍び込んでパチュリーに火車についての長々しい講釈をきいたり、途中で乱入してきた魔理沙と意気投合して騒いだあげく、殺意の波動に目覚めた小悪魔に「図書館では静かにしなさいと、教わりませんでしたか? なんなら教えてあげますよ、い ま こ こ で」と凄惨な笑顔でいわれてすごすごと退散したり。
そうこうしているうちに、日はとっぷりと暮れた。
竹林へ向かう途中の草原で、てゐとお燐は少し疲れたゆっくり歩調で今日の出来事について話し合った。幻想郷が藍色に沈んでいくのを眺めながら、新しくできた友達と眠そうに語り合うのは、けっこう素敵なことだった。
「いやあ、楽しかったよ、お姐さん」お燐は半目になって、あくびをした。「でもそろそろ、地霊殿に帰らないとねえ。もう五日くらい帰ってないから、さとり様が心配しちゃうよ」
「その前に、あんたの相棒を見つけないといけないでしょ」
「あ、そうそう。昼にお姐さん、それについては今日の夜をお楽しみにっていってたけど、心当たりあるのかい?」
「うん、まあ、心当たりっていうか、予感というかね」てゐは腕組みをした。「これさえ当たれば、今日わたしが仕掛けたトリックは完璧になる。そこまでうまくいくかどうかは、運次第かな」
「それなら、確実じゃない」お燐は満足そうに笑った。「運気を上げるのは姐さんの十八番さね」
「褒めても運は上がらないよ。まあ、祈って待つことだね」
闇に沈んだ竹林を抜け、永遠亭へと向かう。
「永遠亭に逃げ込もうとは思わなかったの? 竹林をさまよってた時に」てゐは気になってきいてみた。
「そうしてもよかったんだけどね、ただ、あそこはちょっと苦手だって感じたから」
「どうして?」
「あそこには、不死の人がいるんでしょ」
「ああ」
てゐはなるほど、と思った。
「死なない人間は、死体を運べないから苦手かい?」
「まあ、ねえ。別に、大嫌いってわけでもないけど、ちょっと不気味に感じちゃうかなー。死なないなんてさ」
「そうだね、死んでも再生する。リザレクションってやつ。わたしも実をいえば、あいつらのことは苦手かな。特に姫のほう。一応ペットってことにはなってるけど」
「ペットなんだ。つくづく、あたいと姐さんは共通点が多いねえ。でもどうして苦手なんだい? 永く一緒に暮らしてるんじゃないの?」
「まあ、あれだ、生の価値に関する見解の相違ってやつかな」てゐは竹に狭まれた空を見上げた。「姫の死に対する考え方はね、なんというか特殊なんだよ。なんせ死なないからね。詳しくはめんどいからいわないけど、それがわたしの気にくわなかった」
「生の価値、かあ。なんだか難しそうな話だね」
「そうでもないよ」
「なんとなくだけど、それのとらえ方が違うと、幸せの価値も変わるのかな?」
「よくわかったね。そう、わたしはあの姫を幸せにしようとしたんだけど、うまくいかなくてね、わたしの考えた幸せじゃなくて、姫が考えた幸せのほうを実現しちゃったんだ。まったく不覚だったよ」
「ふーん、よくわからないけど、色々あるみたいだねえ」お燐はきりりと眼を細めててゐを見つめた。「でも、いつかは幸せにしてやろうと思ってるんだね?」
てゐはお燐を見返して、笑ってやった。
「そう、いつかね。不幸そうにしてる奴を見てると腹が立ってくる。あの姫も鈴仙も、例外なく幸せにしてやるつもり。どんなに本人たちにとって不本意でも、あいつらの幸せはわたしが決めるのさ」
「いやあ、ますます姐さんに惚れたよ。面白そうだと思ってついていった甲斐があったってもんさね。もしあたいの力が必要だったら、いつでも協力するよ。人を幸せにする計画なんて、新鮮でぞくぞくするね」
「いいね、部下一号だ。あ、永遠亭が見えたよ」
竹林が途切れて、永遠亭の門が見えた。そこをくぐると、興奮した妖怪兎たちがわらわらと集まってきた。
「てゐ様! てゐ様!」
「凄いのがひっかかりましたよ!」
「鴉だと思ったら、鴉じゃなかったんです!」
「妖怪だったんですよ!」
「うさー!」
「よかった。ちゃんとかかってたみたいだよ」てゐはお燐の肩を叩いた。
「どういうこと?」
「最近永遠亭のゴミ捨て場を漁る獣がいてね。わたしはそいつをとっつかまえるために罠を仕掛けたんだ。結果を見に行こ」
永遠亭裏の開けた土地に行くと、網の中に人間大のなにかがひっかかっていた。ボリュームのある黒の癖っ毛で、右手にはなんだか妙な棒みたいなものがついている。顔を歪めて、苦しそうにウンウン唸っていた。
「お空……あんた、ゴミを漁ってたのかい」
お燐が心底呆れたように呟いた。
兎たちが網を取る。
「うにゅう~……お、お燐んん」
「はあ。まったく、あんたにはもっとこう、妖怪としてのプライドはないの?」
「だっておいしそうだったんだもん……お腹すいてたし」
「まあ、捨てたばかりなら生ゴミでも新鮮だし、散布した永琳の薬は一応体に無害だからね。でも今日は逃げられないように、鈴蘭の毒をちょっぴり混ぜさせてもらったよ」
この毒の効果は、なによりもてゐが一番よく知っていた。一度彼女もそれで死にそうな思いをしたことがあるのだ。
お燐は大きく溜息をついた。
「ほらお空。もう帰るよ。さとり様が心配してる」
「うにゅ……ごめんねえ、おりん……私が死んだら骨はあげる……」
「わーかったから。ったく、しょうがないねえ、あんたは」
「あんまり辛いんなら医者を呼ぶけど。すぐそこにいるよ」
「いや、妖怪なんだからこれくらい大丈夫さ。ほっときゃ治るでしょ」
お燐はお空に肩を貸して立たせた。
「じゃあね、お姐さん。また遊ぼうね」
「わたしも楽しかったよ。帰りは兎に送らせる。あ、そうそう、最後にもう一つ、いいことを教えてあげよう」
「なんだい?」
「溜息をつくと、幸せが逃げていくんだ」
お燐は猫のような笑いを見せた。
「肝に銘じておくよ」
「あ、それと」
「ん?」
「今日は死体を運べなかった以外に、なにか不幸なことはあったの? 今後あんたとつきあっていくための参考までにきいておきたいんだけど」
お燐は少し考えているようだった。
「そうだねえ……ああ、あったあった、今日最大の不幸なできごと」
「なに?」
お燐は舌を出して片目をつむった。
「あっつあつの、善哉をなめたことかな」
てゐは永遠亭の玄関に入って靴を脱ぐと、すぐにポケットから茶色の小瓶を取り出して蓋をあけ、割り箸で水飴をすくいだしてペロンと舐めた。甘い汁を舌の上で転がして味わいながら、タラッタラッタとステップを踏んで大広間へ向かう。
今日の出来事を少しだけ思い返した。鈴仙、アリス、そしてお燐。なんでわたしの周りには、こうも溜息をつきたがる奴が多いんだろうと、てゐは溜息を吐きそうになるけれど、ちょっとのところで思いとどまった。いいだしっぺが守らなくてどうする。
大広間では、鈴仙がテーブルの間を忙しく立ち回って食器の片付けをしていた。もう夕食は終わっていて、満腹になった妖怪兎たちがそこらへんでうさうさと寝ころんでいる。
「あ、てゐ! あんたまた里でなんかやらかしたでしょ!」てゐの姿を見ると、鈴仙は目をつりあげてこっちに向かってきた。
「わわっ、ごめんっ! これで勘弁っ」
てゐは目を瞑って、茶色の小瓶を鈴仙の前にかざした。
…………駄目かな、やっぱり。
しばらくなんの反応もなかったので、てゐはおそるおそる目を開ける。
鈴仙は驚いたような顔をしていた。
「それ……水飴?」
「そ、そう。里の駄菓子屋さんの」
鈴仙が小瓶を受け取ってしげしげと眺める。
「よくわかったね」
「ん? なにが?」
「今日これを買おうと思ってたのよ。薬を届けたあとで」
今朝のことを思い出した。確かに鈴仙は、てゐが出かける前に「ちょっと欲しいものがあるんだけど……」と呟いていた。
「わたしが行った時には、もう売り切れちゃってたみたいだけど」
「わあ、それは」
なんというご都合主義。ここまで完璧だと笑えてくる。
「なんで水飴が欲しかったわけ?」
「最近お師匠様がまた変な薬の噂を耳にしたらしくってね。万病にきく幻の漢方薬。名前はよく覚えてないけど、それは水飴に似たような感じで、あまりの美味しさにみんな薬であることを忘れてペロペロなめて鼻血出したんだって。それを作るのに、とりあえずは里で売ってる水飴を買って参考にしよう、ってお師匠様がいってたの」
それはまた、胡散臭そうな薬だ。でも薬が甘くて美味しいって凄い。
「じゃあ、今日のことはそれで不問ってことで……」
「なーにいってんのよ。あとでみっちり問いただしてあげるからね。楽しみにしてなさい。それと明日はわたしとお師匠様の手伝い! やることはたくさんあるんだから」
ひぎぃ。
しょぼんとなったてゐの頭の上に、ポンと暖かい手が置かれる。
「お腹空いたでしょ。夕飯ちょっと残してあるから、食べる?」
鈴仙が一瞬で表情を切り替えて、無邪気な笑いを見せる。その笑みこそが、彼女の最大の価値。
「わあい、食べる食べる」
鈴仙が大広間を出て行って、あとにはテーブルの前であぐらをかいたてゐと、そこらへんに転がってぐーすか眠っている妖怪兎たちが残された。
てゐは上の歯の後ろ側をれろれろと舐めた。まだまだ甘さの余韻は残っている。まったく今日は、善哉と水飴の日だったなあ、と、ほうと溜息をついて、「この溜息は特別なのよ」と誰にともなく独りごちた。あとはもう、善哉の最後の一滴のように、甘さのギュッと詰まった、それでいて飲みこむのがいささか惜しい眠りをむさぼるだけだ。
欲望に逆らわなかった結果、こんな楽しい一日を送ることができた。自分の考えは、それほど間違っちゃいなかったんだと思う。
テーブルの上にポツンと残っていた湯呑のお茶をズズズと音を立ててすすりながら、アリスや、輝夜や、永琳や、お燐は別にいいけれど、鈴仙だけは敵に回したくないな、と、特に理由もなく、ぼんやり思ったてゐである。
(A Perfect Day for Happy Rabbit.)
原作どおり偏屈だけど、これほどカワイイてゐのお話は久しぶりです。
願うことならみずあめさんと一緒に偽電気ブランでも飲みたいです。
つ100点
こういう、こだわった描写がいいですねー。
アリスにお燐、お空、鈴仙。なによりてゐのキャラが立っていて、噛みあった話だと感じました。
なによりてゐ達の様子が手に取るようにわかる文章がGoodです
久し振りにあなた様の作品を読めて良かったです。とてもほんわか面白い作品でした。
甘くて美味しいお話です。
お燐との掛け合いもいい味出してて美味でした。
小気味の良い話をありがとう。
子供心を忘れない年長者とでもいうのか、そんなてゐが実に魅力的に映りました。
読むと幸せになる作品
なんていうか、てゐにはカリスマ的なものがあるような気がする。
キャラが皆活き活きしてましたわー。面白いもの読ませて頂いて感謝。なむなむ。
ところで英語題からサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」を思い出したり。
お見事です。
てゐとお燐の組み合わせもよかったです!
というかどのキャラもすばらしい!終始にやけっぱなしでした。
「タラッタラッタ」で作者さんの東方愛が伝わってきた気がする
どうしてくれる
仕返しに100点くれてやる
この一言に尽きます。素晴らしい作品でした。
語呂が良くてすごく読みやすい。キャラクタ間の会話やちょっとしたしぐさがすごくかわいらしい。
そしてそれらが合わさって、すごく優しくて暖かくてほんわかした気分になれます。
所々のちょっとした会話や一文に氏のセンスを感じました。
文句無しです。ごちそうさまでした。
こういう、仰々しいドラマじゃないのに幸せの詰まったお話は最高に素敵だと思います。
自分のイメージするてゐ・お燐の雰囲気にぴったりマッチしていてとても嬉しくなりました。
善哉、善哉。