『小野塚 小町』は生を尊ぶ、死神であるが故に。
おかしな話と思われる人もいるかもしれないが、死に様は逆説的に考えれば生き様
そのものである。そして小町は善にしろ悪にしろ、生を全うした魂がことのほか好きで
ある。渡しの仕事をするときに魂に触れて話をするのが彼女の趣味の一つであり、
仕事嫌いな彼女がそれでも三途の川の渡し守を続ける理由とすら言ってもいいだろう。
生を悉く全うして三途の川に着き、その様をたっぷりと語らいながら向こう岸まで。
そんな楽しい旅をさせたいが故に、全力で生きた者を尊ぶ。小町はそういう死神である。
『火焔猫 燐』は死を美と捉える、火車であるが故に。
しかして真っ当な話だと頷く人が多かろう、火車と死者とは切っても切り離せない
存在だからだ。そしてお燐は善にしろ悪にしろ、壮絶な死を迎えた死体がことのほか
好きである。真っ当に死に逝くはずのものを真横から掻っ攫い魂の恨み言を聞くのが
彼女の趣味の一つであり、彼女が火車として存在しうる限り変わらないものの一つなのだ。
葬られるべくを葬らせずに、その恨み辛みをたっぷりと聞きながら猫車で旧地獄へ。
そんな楽しい思いをしたいが為に、死者の身体と魂を弄ぶ。お燐はまさしく火車である。
今、一人の男が残り僅かな命の火を灯しつつ床に伏せっていた。年の頃なら四十半ば。
布団の下で痩せこけた身体の胸の辺りが静かに上下している。彼の全盛期を知るもの
ならそれだけで涙を誘う光景といえようか。
男は剣士であった。幼い時に刀を握ってからめきめきと頭角を現し、十五になる
頃には大の大人も敵わぬ腕前となっていた。里を守る任に就いてからも熱心に修行を
重ね、いずれは歴史に名を残す大剣豪となると噂されたもの。礼に厚く義を重んじ、
人柄も好かれる彼に、器量のよい娘が妻となったのも頷けるところ。子を為し、
幸せな家庭を築き、それでも研鑽をたゆまぬ彼を里の人々も敬い愛し、親しんでいた。
ところが、宿命とはなんとも残酷なもの。脂の乗り切ったと思われるその時期に彼は
病に倒れたのである。そういえば彼は刀を振るのと同じくらい酒を嗜むのが好きで
あった。長年欠かすことなく続けていた飲酒は彼の肝の臓を酷く痛めつけた。それを
知らぬそのままに、病となっても酒は続いて、ある日とうとう限界を超えてしまう。
知ったときには最早手遅れ。余命幾許もない彼はそのまま床に伏せる日々を過ごす
こととなった。
街の医者に見せても匙を投げるばかり。最近迷いの竹林の中にできたという薬師に
診せても首を横に振られた。せめてもと、痛みを和らげる薬を貰ったところで男の
命の灯が消えることには変わりなかった。
そして親族はやがて訪れる臨終の時を覚悟して、男を囲んでいつでも見送れる準備を
しているのであった。
(これは余談にしかならないがあえて詳細を話すと、もちろんありとあらゆる薬を
作れる天才『八意 永琳』ならば男が患った肝臓ガンを根治せしめる薬を作ることは
容易かったろう。しかしそれは幻想郷のルールを逸脱した所業。バランスを崩せば
『八雲 紫』が血相を変えて乗り込んでくる。それどころか定命を弄れば閻魔にすら
誅される。それを永琳は承知しているがため、男の命を救うことをやめたのである。)
「送り火や 千々に消え往く 黒けむり 里に風吹き 私は渡し……のはず
なんだけどねぇ」
枯れ草に覆われた滑らかな斜面、そこの倒木に腰掛けてぼんやり顔の小町。
眼下には件の剣士の男の家が見える。そう、小町はあくまで三途の川の渡し守に
過ぎない。逝きゆく者の魂を刈るのはお迎え死神の仕事だ。ではなぜこんなところに
いるのか? 彼女は幻想郷のサボマイスタであるからいつものようなサボリと、
普通に考えればそうなる。だがしかし今の小町は間違いなく仕事中であった。
小町の性格は人当たりがいいの一言。明るくあけっぴろげで、わかりやすくいうと
”良い奴”の彼女には友人は多い。そのほとんどは死神であり、その役職如何に
関わらず良い付き合いをしている。その中の一人、お迎え死神の友人がどうしても
外せない用事があるとのことで小町に相談してきた。まぁつまり役を代わってくれ
ってわけで、しかし小町も少しばかり難色を示す。どうすればいいかは知っているが
何より役職は違うし、またぞろサボっていたいなぁという心待ちのせい。しかし、
友人にとんでもない味方がついて旗色が大きく変わる。
『四季 映姫』、楽園の最高裁判長。小町の上司にしてありとあらゆる事象に
白黒をつける閻魔さま。
「立ち聞きは失礼とは思いましたが話は全て聞かせてもらいました。そうですね、
小町。渡し守の仕事は退屈ですか退屈でしょう退屈ですからサボるんですよね!?
ですからたまには違った職に就かせて気分転換をはからせるのも上司の勤めと思います。
ぜひ、その話請けて上げなさい」
「は、はぁ」
ほとんど一方的に仕事を押し付けられた小町。ひゃっほうと喜ぶ友人を半眼で
見据えながら、四季様のお言葉を覆すわけにも行かず、渋々お迎え死神代行として
一人の男の元へと向かうことになったわけである。肩を落としてとぼとぼと去る
小町の背を見ながら、映姫はこう呟いた。
「あなたの真の実力は、既にどのような死神を任せてもまかり通るものなのです。
あのサボリ癖さえなければ……。それでも、あなたは友情には厚い。職務遂行を
期待してますよ」
もちろんその言葉が小町の耳に届くことはなかったのだが。
「ふわぁ~……ぁぁ……ふぅ~」
この日何十度目かの欠伸をした小町。まぁぼちぼち行くかなぁ、そう考え始めた
矢先であった。背筋を酷い悪寒が走る。風邪でもひいたかと思ったがそうではない
らしい。何気なくふと見た里の通りからドス黒い瘴気のようなものを感じる。普通の
人間達には、多少陰鬱な気持ちにはなるかも知れないが、しかと感じ取れるものでは
ないだろう。
常に死の側にいる死神だからこそ感じとれる、狂気じみた意思。それは傍目には
少々風変わりな猫の姿をして通りを闊歩していた。
「……冗談じゃないよ。なんだってあんなもんがお天道様の下をのうのうと歩いて
やがるんだ」
火車、全ての骸の冒涜者にして怨霊と戯れる悪意の塊。お迎え死神の天敵である。
それを遠目に小町、ここは流石といったところか。見なかったことにしてサボっちゃおう
かなぁ、との思いがよぎる。それに被さるように、手を合わせて頼み込む友人の姿と、
口うるさいが優しい上司の姿とが浮かぶ。
「……ったく、あたいのお人よしめ。くそっ」
小町を知るものなら驚くような真剣な表情、そして悪態。陽だまりの斜面から
小町の姿が一瞬で掻き消えた。
陽は明るくうらうらとして、小春日和の人の里。人の姿をしているのなら鼻歌
ひとつでも吟じていよう。お燐は酷く上機嫌であった。友人の暴走が引き金となり、
自らが巻き起こした異変によって地底世界と地上との行き来は随分楽になった。今は
人目を憚ることなく博麗神社憑きのペットとして地上の生を謳歌している。事実、
大人しくしていれば賢くて尻尾が二本あるだけで何の変哲もない猫と扱われるお燐では
あるが……。
しかし、それでもお燐の本性は人々に忌み嫌われる死体を弄ぶ化け物である。その
本能を抑えることもまた、妖怪にはどだい無理な相談。人里の一角から感じた濃厚な
死の香りにいてもたってもいられず神社を抜け出してきた。可愛らしい猫の姿を、
しかし人は無意識に避けて通る。全身から発する死臭混じりの妖気は抑えていても
人を寄せ付けないほど。そんなことはお燐にはどうでもよい。久々の、それも特上の
死体が手に入る予感に、
「な゛ぁ゛お゛~ぅ」
と思わず鳴き声すらでた。可愛く鳴いたつもりだが、地獄の底から響く怨嗟の声に
でも聞こえたのか、少女が走って逃げていった。
「おやおや、いたいけな子どもを怖がらすとはいけない小猫ちゃんだねぇ」
いつの間にかお燐の目の前に人影。気配すらなく現れたその相手とその声に驚き、
たぁんと後ろに跳ねるお燐。獣の化生である彼女ならば、近寄る相手を察することなど
わけもないはすだが。ぐるぐると目まぐるしく思考が渦巻く。まずは観察だ。視線を
上げれば白い襦袢と青い着物、なにより桃色がかった髪を二つに結ったなるほど美人と
いえる女性の姿。しかし、その手に握るのは、禍々しく波打った大鎌。それでお燐も
ははぁと気付く。なるほどこいつは死神だ、と。もちろんその死神こそ小野塚小町
本人に他ならない。
「なぁぉ」
ひとまず可愛らしく鳴いてみた。やっこさんにどういう意図があるかわからない以上、
下手に動くよりは媚でも売っとこうか、などと思ったのだろうか。それに対して
にこりと微笑む小町。しかし、その微笑には、色、というのが感じられなかった。
薄っぺらなテクスチャー。
「はは、可愛らしく鳴くもんだねぇ……。……でも、いいかげん正体見せたら
どうだい、お前さん」
その眼は欠片ほども笑ってはいない。敵意を微塵も隠さずに小さな猫に視線を
ぶつける。応えてお燐はもう一度、
「なぁぉ」
と媚びてみた。媚びて刹那、鋭く横に跳ね飛ぶお燐。地面に深々と一文銭が突き刺さって
いた。ぼさっとしていたらその一撃で頭蓋を叩き割られていたかもしれない。
「……初対面の挨拶にしちゃぁ、ずいぶん酷いもんだね、死神のお姉さん」
「……初対面の挨拶に気前よく一文銭放ってやったのに、酷いとはあんまりだねぇ、妖怪娘」
跳ね飛びざまに人の形を取ったお燐。いつしか手元には猫車も現れている。剣呑な
雰囲気を察したのか、彼女達の周りからは人影は消えていた。
「お前さんが最近博麗の神社に居つくようになった火車だね?」
先に口を開いたのは小町。いつもののんびりとした口調に見えて、端々の言は
刺々しい。特に火車、と名指ししたあたりは。お燐はその声ににこりと、これも
明らかに貼り付けただけの笑みで応える。
「そうだよ。あたいの名は火焔猫燐……ってんだけど長ったらしくてちょっと覚え
にくいでしょ? 呼ぶならお燐って呼んでよ、死神のお姉さん」
「あぁ、そう。火車の名前なんぞどうでもいいんだが、名乗られたからにゃあ相手が
いくら下衆な妖怪でも返すのが作法だろうねぇ。あたいは小野塚小町。何の因果か
渡し守のはずが、今日だけお迎え代行のしがない死神さぁ」
「……小町! お姉さんがあの有名な!」
「ほう、そんなに名が知れ渡ってるかい」
ぽん、と楽しげに一つ手を打ってにこやかにお燐は言う。
「幻想郷一のサボタージュの泰斗! いやぁ会えて光栄だよお姉さん」
「おいコラ」
一瞬だけ今から漫才でも始めるのかの如く空気が緩む。しかしお燐が続けざまに
放った言葉は毒に塗れたものだった。
「じゃあお迎えの仕事もサボっちゃいましたって閻魔にでも言ってきなよ。どーせ
期待なんてされてないんでしょ? お姉さんにしちゃいつものことだから、別に……」
「下衆な妖怪の癖に口だけは一丁前だねぇ、お前さん。悪いが今日だけサボタージュの
泰斗は閉店だよ。それが分ったんならお前さんこそとっとと神社へ帰りな……痛い目見る
前にさ」
お互い偽りの笑顔の下から、辛辣過ぎる言葉と射殺す視線の応酬。先に笑いの
仮面を脱ぎ捨てたのはお燐の方であった。
「……三文死神風情が、下手に出てりゃあつけあがりやがって。痛い目見る前に帰れ?
はッ、そりゃこっちのセリフだよお姉さん。何ならあたいの猫車に目指す死体の他もう
一体、乳だけでかい死神の死体を載せたって構やしないんだよ? 死神の死体を飾る
なんて、ククッ、なかなか笑えるオブジェになると思わない?」
「流石に考えることがクソにまみれた蛆虫よりも吐き気をもよおす最低の存在だねぇ
火車って奴ァ。あいにく渡しが乗るのはオンボロ船だけさ。ついでに言うとその船には
火車の魂なんぞ載せるスペースはないからね。安心しな、此岸でお前さんの魂見つけたら
有無を言わさず三途の川の一番深いところに沈めてやるからさ」
小町もすっぱりと仮面を捨てて言い放つ。もう一度、無言で視殺戦。それでもやはり
お燐はまだるっこしいのは嫌いなようだ。
「どうあっても退くつもりはないんだね、お姉さん」
「交渉決裂ってとこかねぇ」
「はァ!? 死神の世界じゃあれを交渉って言うんだ!?」
「悪い、火車なんぞに交渉なんて高尚な言葉を使うべきじゃなかったね。すまんすまん」
「……焼くぞ、無能な死神」
「……沈めるぞ、クソ妖怪」
腰を沈め、真っ赤な爪を伸ばすお燐。目の前の小癪な死神の喉元掻き切ってやろうと
構える。だが、
「はやるのは構わんがまぁ待ちなぃ」
片手で制しつつ小町の言葉。
「今更臆病風に……」
「ンなわけないだろ? 殺りあうのは構わんが、ここでやってみなよ」
警戒しつつも辺りを見回すお燐。立ち並ぶ家々、軒先に品を並べる大店小店。
路地の影から子どもらがおっかなびっくり覗いている。理解したかと小町。
「一目散に巫女なり里の守護者なりが駆けつけてくるだろうさ。その時退治されるのは
悪いがお前さんのほうだ。あたいにしちゃそれでも構わないんだけどさ。無駄な
人死にでも出しちまったら法度に触れて、首が飛ぶのはこっちも同じさ」
「……で?」
「ここからちょいと離れた場所に、人も寄り付かない休耕田がある。ドンパチ弾ぁ
撃ちまくるのには気兼ねがないくらいの広さもあるさね。そこでならお互い全力で
……あたいの上司じゃないけれど、白黒つけれると思うんだが、どうだい? それとも
今言ったことがわからんくらいお前さんはオツムが足りないのかい?」
顎で行き先指し示しつつ、茶化しながらも提案の声。むぅと一声、思案するお燐。
博麗の巫女は人に害なす妖怪に容赦しないのは知っている。なにしろ邪魔が入るのは
いただけない。死神をどうこうするより何より、死体が手に入らなくなってしまう。
それは不味いと構えを解くお燐。
「本気で巫山戯た死神だね。けれどまぁ、乗ってあげる。生きたままお姉さんの
ハラワタ引きずり出して細切れにする光景は、ちょいと里のお子様達には刺激的過ぎる
だろうからね」
言葉に一切の嘘はなく、殺意に染まった禍々しい笑みを添えた。
人が捨てた荒れ放題の田の跡に、切れるような日差しはいつしか灰色の雲に覆われ
ようとしていた。服をはためかせて美しい少女二人。五間ほどの間合いを取って睨みあう。
ふん、と鼻息一つして、小町が胸元に手を入れた。
「さぁて、ほんじゃまぁやるとしますか。で、スペルカードは何枚……」
言いながら相手を見てぎょっとする小町。既にお燐は邪悪な色の霊力を掌に
溜め込んでいるところ。鮫のように笑って言い放つ。
「はン! スペルカードルールだなんてお笑い種だね!! あわよくば時間切れを
続かせて、あの男が逝っちまうのまで待とうって腹だろ!!」
「チッ、ばれちゃしょうがないねぇ」
明らかに殺意の篭った弾幕が小町を襲う。目論み外れた小町、愛用の鎌に霊力を込め、
回転させて盾としやり過ごす。それで一息つけるわけもない。大きくなる眼下の影を
知ってはっと上を見ればなんということ、飛び上がったお燐は猫車をまるで大槌の如く
振りかざし、今まさに脳天に叩きつけようとしている。
「少ない脳味噌ブチ撒けなぁーッ!!」
「のわっ!?」
飛びのく小町。一拍置いて元居た場所が猫車の打撃で大きく抉られた。飛び散る
土くれの向こうで、火車の娘が不敵に笑う。華奢に見える四肢だが、むしろ妖怪の
膂力を隠す見事な擬態といえるか。
「もう一丁!!」
お燐の手から放たれた針の様な弾幕が、次々と小町の周りの地面を抉る。弾着で
巻き起こる土煙の中、また飛翔する影を感知する小町。同じ手をよくも二度と、と
後ろに跳ねる。そんな小町の目の前に、とん、と軽く猫車が設置された。
「え?」
「しャァッッ!!」
その猫車を踏み台にして飛翔前方回転踵落とし! 額を硬いブーツでカチ割られる
寸前に鎌の柄で何とかガードする小町だが、
「甘いよッ!!」
さすが獣の反射神経。ひらりと後方回転しつつ素早く小町の懐に入る。
「剥いだらァーっ!!」
ずらりと伸ばした爪をアゴに向かって突き上げる。大げさに仰け反ってかわさねば、
小町の顔は言葉どおりに剥ぎ取られていたに違いない。頬を掠めた傷の痛みも何のその、
鎌を無理やり横薙ぎにする。それをいとも容易く、お燐の身体はふうわりと後ろに
跳んで避ける。ただ、小町にとってありがたいことに距離はできた。
「調子に乗んな! サンピン火車めっ!」
豊かな懐を探って一閃、小町の投げ銭弾幕が連射される。かなりの弾速のそれらを
身を捻ってかわせば、お燐の身体の代わりか、後ろにあった立ち枯れの木の幹が粉々に
砕け散った。
「ヒュウ! お姉さんなかなかやる……」
「余裕ブッこいてたら死ぬハメになるよぉ!!」
おどけるお燐にひょうふつと、空を切り裂き襲い来るのは鎌から放たれた衝撃波。
おお、と驚く……フリだけ見せて余裕綽々、回転する衝撃の下をくぐり抜けた。その
眼前にいつの間にか小町の下半身。間合いを測り損ねたかと驚くお燐が視線を上に
すれば大上段に鎌を振りかざした死神の姿。逆光で見えない顔は、おそらく笑みで、
「いわゆる”じ・えんど”ってヤツだね」
轟ッ、と右袈裟に、断命の鎌が振り下ろされた。
鈍い衝撃が手に伝わり、それでも小町は驚愕の表情。妖怪の力を以ってしても、
今の一撃は避けきれるものではなかった。そう、お燐も避けることは諦めたのだ。
諦めて、えげつない方法で死の一撃に対応した。今、刃とお燐の右肩の間には数体の
怨霊が無残な形で挟まっている。操った怨霊を衝撃緩衝材として、死の刃から我が
身を守ったのである。
「テメェ……」
ぎりりと奥歯を噛み締めて、激しい怒りの視線を投げつける小町。それから逃れる
かのごとく、お燐はその身翻して間合いを設けた。斬り裂かれた怨霊が苦しそうな
呻きか、はたまた怨嗟の声かを上げて冬の空気の中に薄れ散る。あまりにも哀れな
最期を、死神である小町がトドメとして与えてしまった。胸の奥にも胃の腑にも、
気持ちの悪い熱が広がっていく。バカにするようにお燐が哄笑した。
「アハハハハハ!! なぁに怖い顔してんのさお姉さん! あたいが集めた怨霊だもの、
あたいがどう使おうが勝手でしょうが! あは、アハハ……、あ……え?」
だが、気触れじみた笑いは途中で寸断されることになる。指をさして笑おうとして、
その右腕に力が入らない。拙いと思えども既に不調を小町は察知していた。
「ほほう? 折れたか、外れたか。痺れてるだけかもしれないけど、このまま
行かしてもらおうかッ!!」
もはや癖になったせいか、一枚のスペルカードを放り投げる小町。”死歌
「八重霧の渡し」”、鎌を頭上でぶんぶんと振り回せば、刃と化した霊力が回転
ノコギリのように小町を取り巻く。周囲に竜巻の如く、銭弾がばら撒かれた。
「ちぃぃっ」
目的に当らずじまいの銭弾は、周囲の草木を景気よくなぎ倒していく。それらと
同じ目には遭いたくないと、右肩を押さえつつかろうじて見える弾幕の隙間に身を
躍らせるお燐。それをもちろん読んでいる小町は、刃の霊力で切り裂いてやると
にじり寄る。そうはさせじと逃げ回るお燐だが、打ち破る方法はまだ思いつかない。
何しろこちらから弾を叩き込もうとしても、銭弾に弾き返されるのは目に見えている。
小町本体に上手く撃つ機会があっても、それは周囲の霊力に斬り弾かれるオチとなろう。
避けることだけに専念すれば何とかなるかも、と考えて、それでは結局当初の小町の
狙いにはまるだけだ。
「どうしたいどうしたい! 減らず口叩くわりに逃げ回ってばっかりじゃないかい!」
小町の挑発に、一瞬血がたぎるお燐。しかし銭弾が頬をかすめ、開いた傷の痛みで
逆に冷静さを失わずにすむ。このままでは埒が開かない、考えろ、考えろ。自分に
できることを思い出せ……。ぺろりと自らの血を、舐めた。
かすかに開いた弾幕の切れ目に沿って、小町の背中側へと駆けるお燐。そうやって
逃げ回っていればいい、と小町は思う。このままじわじわと時間を潰しきれば、寿命が
きた男の魂は彼岸へと向かうだろう。その骸も家族が丁重に葬る時間もできると
いうもの。お迎え死神の仕事としてはちょっとだけ手抜きくさいが、こんな
状況じゃ仕方あるまいよ、と己を納得させた。
そこまで考えて小町はとあることに気付く。弾幕の道沿いに逃げているはずの
お燐の姿がないことに。
「……え?」
後ろを振り返ってもそこに猫耳を生やした娘の姿はない。まさか逃げたかと
思って、気が抜けたその瞬間。
「にゃーん」
小町の足元で、二股尻尾の黒猫が鳴いた。鳴いてその場を飛び退れば炸裂する
花火のような弾幕、”猫符「怨霊猫乱歩」”。
「くはっ!?」
あまりの至近距離、そして不意打ちに近い弾幕を総身で受ける小町。数発貰いつつも
なんとか体勢を立て直し、鎌で弾き飛ばす。急所狙いではないせいかたいした傷では
ないのが幸いしたが、お燐がにゃんにゃんと鳴き跳ねるたびに幾つもの弾幕の花が
咲く、小町はそれを防ぐだけで精一杯だ。そのまま霊力が尽きるまで、小町に弾幕を
浴びせかけても良かったのだろう。しかしお燐はそれをしなかった。彼女が望むのは
短期決戦。猫に化けたのも弾幕のためでなく、小町の弾幕から逃れつつ無理やりに
でも攻撃権を奪うための策でしかない。
ぽうんと跳ねれば一瞬で、お燐は人型に戻る。二三度、右腕をぐるぐるさせる。
少しだけ痺れは残っているがたいしたことはなさそう。小町に邪悪な笑みを向けた。
「さぁてお姉さん、今度はあたいの番かな! でもそれで終わらしてやりたいねぇ」
「……できるもんならやってみな」
掲げた鎌の向こうで、燃える小町の視線が射殺すように叩きつけられる。憎悪、殺意、
数多怨霊の持つ感情を、自らの敵から一身に受けるお燐。背筋を走る甘ったるい
感覚を何とかセーブして、目の前の相手を叩きのめすことに集中する。
「もう、やってるさ」
既に、その算段は整っている。それに気付いてない小町がおかしいのかにこりと
笑って猫車を構えた。眉をひそめる小町、いきなり冷たい感覚が、小町の両の腕に
押し付けられた。
「ん? え。やばっ」
両腕をがっちりホールドする死霊妖精。目線があえばにっこりと微笑まれた。
しかしその瞳の奥には生者に対する強い怨念。振り払おうとして気付く。足も
地面から伸びた蒼白い手に掴まれてることを。
「この、離せよッ!!」
「諦めなぁーっ!!」
もがく小町は格好の的。猫車に霊力込めて、殺人的な加速のお燐。やばいなんて
思う間もなく、一瞬で小町の腹部に突き刺さる。くの字になって吹き飛ぶ小町、
5,6間ほどで派手に地面と接触し、そこから面白いようにバウンドしながらも
すっ転んでいく。最後はうつ伏せになってようやく動きを止めた。
それでも小町は荒い息を上げながら何とか起き上がろうとする。ズタズタになった
左手をつき、数度右手は宙を掻く、だが
「……げえうっ」
血反吐を吐いて崩れ落ちた。
無論お燐の突進がすさまじかったせいもある。暴れ牛に吹き飛ばされたような
ものだ。それとともに、小町の四肢を拘束していた死霊妖精たちは自爆を敢行し、
小町に零距離で弾幕を浴びせかけた。跳ね飛ばされながら弾幕の雨に叩きつけられ、
小町の身体はズタボロである。
「ざまぁないねぇ。……はて軽口も聞こえやしない。死っんだっかなっ? 死っんだっかなっ?
アハハハハハハ!!」
狂喜にじんだ笑いを上げながら、つかつかと小町に歩み寄るお燐。足元に
倒れ伏す小町の身体は痙攣しながらも、何とか起き上がろうとしている。その背に
ブーツを思いっきり叩き落した。それも、続けざまに三回。最後の一撃で背を踏み
にじり、動きの止まった小町に話しかける。
「諦めなよお姉さん。ここでやめてくれるならさぁ、お姉さんは殺さないでおいて
あげるよ。久しくこんな楽しい戦いはしてなかったもんでさぁ。またお姉さんと
やりたいって思っちゃった。だからあの男の魂を諦めてくれるんなら、お姉さんは
殺さないでいてあげるよ! どう?」
背から足をどけて、優しく提案の言葉をかける。かすかに息をする小町の身体、
大儀そうに右手が動く。そして、しなやかで白い中指がすらりと天を指した。なんと
わかりやすく、クソッくらえと拒絶のボディランゲージ。
「そう……」
猫の目がすぅ、と細められる。笑顔のまま、みなぎる殺気。
「ならくたばりなぁ!」
傍らの猫車に手をかけ、頭上に思いっきり掲げる。霊力を込めて叩き込めば、頑丈な
小町でも命を落とすだろう。死出への無慈悲な一撃は、しかし、
「!?」
振り下ろされることはなかった。野生の勘か、危険を感じ飛び退けば、目の前に
突き刺さる大鎌の刃。それを確認してさらに後ろへとジャンプする。はぁはぁと
息を荒げるお燐と対照的に、ゆっくりと起き上がる小町。血と土に塗れた美貌を、
同じく血泥のついた左手でぬぐう。
「へへ……惜しいね」
「適当言うない。運がいいねぇお姉さんも」
先の立ち回りのとき、猫車に撥ねられた瞬間。そういえば手から鎌を大きく空へと
飛ばしていたか。それがどこをどうしてか、タイミングよくお燐を襲った。運の良い
死神だと、お燐は真剣に思う。しかし、どうにかこうにか鎌を引き抜き、その柄を
杖代わりに何とか立っている死神を見て余裕の笑みが戻る。ちょっとしたトラブルは
あったが多少あいつの死期が延びただけじゃないかと。だが、見据える死神の顔に
笑み。それをはったりと決め付けるお燐だが、胸元から引き抜かれたカードを見て
気を引き締める。
「とても火車の命に価値があるたぁ思えないけどさ……はぁぁッ!!」
小さく呟くや否や、放つスペルは”死価「プライス・オブ・ライフ」”。二条の
銭弾の帯が、一瞬にしてお燐を取り囲んだ。軽く舌打ちをしつつ当らぬように、
細かく動くお燐。霊力を弾に変えて銭束に当てるが一瞬にして穴は塞がり、お燐の
動きを阻害し続ける。こうして動きを制限したところに、攻撃を加えるのがこの
スペル。普段ならちまちまと幾らかの銭弾を投げつけるのだが。
「また時間稼ぎ?! せこい死神めっ!!」
お燐は小町の技をそう取った。確かにこのまま時間を過ごせば、小町の思う壺には
なるだろう。お燐の罵倒を受けて、小町はにこりと微笑む。
「いやいや、お前さんもさっき言ってたろう? 楽しい戦いって。それにはあたいも
同感だ。ついであたいをここまで痛めつけてくれた借りを返さにゃならん。そのまま
動きなさんな、とっておきを見せたげる」
言うが早いかもう一枚、スペルカードを抜いて、お燐のほうへと駆ける小町。
それは、”死符「死者選別の鎌」”。先だってのスペルはまだ解除しない。ギリギリまで
粘らないと、すばしこい相手には逃げられるだろう。粘りすぎて、次のスペルの隙に
襲われるか逃げられてもダメだ。タイミング、タイミングか肝要。それは分の悪い
賭けかもしれないが、それくらいでないと博打ってのは面白くない。江戸っ子
気質な死神娘はしっかりと楽しんでいた。
お燐はどうだろうか。余裕は朝日の前の露の如く霧散し、真剣な目つきで機を
逸すまいと身構える。いまだにゆるゆるとホーミングする銭弾に気を払いながらなので、
小町の隙を推し量るには難儀仕方なしだがそれでもやらなくてはいけない。厳しい
賭けだが、それを乗り切ってこその博打である。知らずに片頬が、うっすらと笑みの
弧を描いた。
二人の思いが交錯し、小町は大きく鎌を振り上げた! 銭の弾を避ける動きを
そのままに、左に跳ねようとするお燐。その足が重く土を掻く。突如出現した
薄桃色の力場が、お燐の動きを完全に阻害している。あっ、と思う間もなかったろう。
続けざまに天上から飛来した莫大な霊力に飲み込まれた。気が遠くなるほど思いっきり
地面に叩きつけられ、はらわたを吐き出しそうなほどに強く押し潰される。緋色に
輝く霊力が消えた後には、無惨に横たわるボロボロのお燐の姿だけ残された。
「……さてもさても。自分でやっといてなんだが大丈夫かい? 死んでないかい?」
鎌の石突を使って、うつぶせのお燐を器用にひっくり返す小町。端整な造りの
美貌は歪み、頬や額に土、口元には血の色。苦悶にきつく閉じられた瞳、切なげな
吐息、丸められてひくひくと痙攣する細い体。相手が火車でなければ……いや、
死神には度し難い妖怪であろうとも、凄惨な有様に、己の仕業とはいえ渋い顔の小町。
げほ、げほと血混じりの咳をして、うっすらと瞳を開ける。涙が滲んでいた。その
首元に、大鎌の刃が当てられる。お燐の視線が一度そちらをちらりと見て、それから
小町の瞳へと向けられた。
「強いね、お姉さん」
けほんともう一つ咳をして、力なく笑うお燐。
「あぁそうさ。こうみえてあたいは結構強い。だからもうやめにしないかね。色々
罵詈雑言をお前さんに投げたが、殺すにゃちょいと惜しいと思っちまってね。
退いてくれると、ホント助かる」
真剣な目で語りかける小町。しばし、見つめあうふたり。膠着を先に崩したのは、
やはりお燐であった。ふううと長い溜息をつき、何かが吹っ切れた柔らかい表情。
「そうだねぇ……」
穏やかな口調につられて小町の鎌を握る手の力がほんの少し緩められた。が、次に
かっと見開いたお燐の瞳は、闘志に満ちた熱いもの。途端にお燐の掌の側から
怨霊が小町に襲いかかる。その様はまるで熱気帯びた間欠泉のよう。
「悪い! お姉さん。やっぱりもう少しだけつきあってもらうよ!! せっかく、
せっかくとっておきを出してもらったんだ! あたいも見せてあげないとバチが
当るってものさ!」
不意を打たれて大きくよろめく小町から、飛び跳ねて距離をとるお燐。初めて
お燐がカードを一枚取り出した。自信満々に目の前に掲げたスペルカードが、何故だか
一瞬で真っ白な灰と化し、お燐の掌に小さな山を作る。全身から放出した
ありったけの霊力と共に、それを周囲にぶちまけた。
「ここに死灰を以って呼び掛けんっ! 小悪霊どもよ、悔恨と怨嗟の声上げて、
今一度復活せしませいッッッ!!」
その声に応えて、灰の舞い落ちた地面から次々と現れる怨霊たち。気付けば
決して狭くない空き地に数十の鬼火と死霊妖精が現れている。その中心に小町。
焦って見渡しても状況は最悪から何一つ変わらない。
「冗談じゃないよ……」
「うん、冗談でもなんでもないよお姉さん。今からこの子たちを一斉に襲い
かからせる。死にたくないなら頑張って戦ってね? ……かかれェェェ!!」
号令一発、あるものは小町めがけて飛びかかり、あるものは大弾といわず
小弾といわず発射してきた。
「うわあああ!? ド畜生ッ、巫ッ山戯ンなあああああ!!」
怒号を上げて大鎌を払う。それで小町の前面に居た数体の怨霊が消し飛ぶが、
背中からの弾をまともに受けて小町も吹っ飛ぶ。地面に倒れ伏せばその上に冷たい
屍が山のように乗っかって……、
「だりゃあ!」
己を中心にした衝撃波でそれらを跳ね除ける小町。それでまた消え失せるものも
いるが、その倍を軽く越える怨霊が雲霞の如く押し寄せる。
「くっそォォォ、上等だテメェらァァァッッッ!! ブッ潰されてェヤツから
かかってきやがれぇっ!!」
吼える小町。応えるかの如く全方位から怨霊が、弾が、殺到した。
「これで……終わりだぁッ!!」
ドッ、と鎌の石突が、最後の怨霊を地に縫い付ける。びちびちと、陸に上げられた
魚のようにのたうつ怨霊めがけてありったけの霊力がブチ込まれる。緋色の光と
共に弾け飛ぶ青い怨霊。銭弾も撃ち尽くした、指に力が入らないほど鎌も振り抜いた。
”「小悪霊復活せし」”、そう呼ばれるお燐の特殊な弾幕を死力を尽くして攻略した小町。
とはいえ、ぜえぜえと肩で息をするその姿は酷いものだ。死神衣装がボロボロ
なのは言うまでもなく、露出した肌のあちこちには痣だらけ、出血も酷く、割られた
額からの血は顔半分を朱に染めている。立っているのがやっとといったところか。
野に冬の風が吹きすさぶ。そこに小町のほかに誰もいない、。……そう、誰の姿も!?
それに気づいた死神娘は痛む身体をさて置いてぶんぶんと視線を巡らせ、気配を
探る。それでも在るのは己の身体唯一つのみ。先ほどまで対峙していた火車は、
いつの間にやら姿を消していた。
「……うそだろォ? ……や……やられ、た……ッ!」
枯野を疾走する影一つ。高らかに笑えるならば笑っていたろうが、猫の姿では
無理である。だから駆ける足の驚くべき速さで喜びを表す。最後に打った
スペルカードは小町を葬るためのものではなかった。視界いっぱいに怨霊とそれらが
放つ弾で埋め尽くし、それに紛れて逃走するためのもの。目論見どおりにいって
自分を誉めたい気分であろうか。
そもそもお燐の望みは剣士の男の身体と魂だ。楽しい殺し合いも嫌いでは
ないどころか大好きだが、いいかげん火車の本分を果たさねばならない。小町が
もし死体になっていたら、帰りに拾って帰れば済むだけ。生きてればそれはそれで
また何時か楽しく殺りあえるだろう。それゆえに後回し、後回し。
駆ける、駆ける。死体を連れ去る妖怪は、男の家向き矢のように。石垣
飛び越え畦を横切り、どんどんと男の家が近づいてくる。舌なめずりする黒い死の影。
あと十間。砂埃立つ通りを一瞬で駆け抜ける。
あと五間。悲しみの波動と死に近しいものの香り。
あと二間半。目の前の生垣を飛び越えれば、そこに望むものがある!
「にゃあああんっ!!」
歓喜の声と共に、高らかに宙へと舞った。
「はい、ご苦労さん」
「にゃ?」
垣根の向こう、今逝こうとする男の側に降り立ったはず。しかし、目的の
場所は遥か眼下に遠く、なぜだか耳元にはつい先ほどまで聞き慣れた声。ぎゅい、
と首根っこを掴まれた。そこを持たれては猫の姿ではいかんともしがたく、
にゃあにゃあとお燐は抗議の声を上げるのみ。声の主、小町は笑ってこう言った。
「お前さんのとっておきしかと堪能させてもらったよ。いやはやまったく、渡しの
あたいが渡るはめになっちまうかと思っちまったが、まぁ、ここにいるってことは
そういうことさね。そして……」
お燐の猫の身体が、ぽうんと宙に放り投げられる。
「本当の切り札、ってヤツぁ、最後の最後までとっとくもんだよ」
どこか自慢げな声を聞きながら、身をよじるお燐が見たもの。人差し指で額を
弾くような仕草と死神娘の満面の笑み。
それが、一瞬で遥か彼方にすっ飛んでいく。……いや、違う。吹き飛んでいるのは
自分だと気付いてもがくお燐。しかし飛ぶことも何もできず、これこそが小町の
切り札と知る。知りながら悔しげに、
「にゃあああぁぁぁ~~~~~~」
とドップラー効果もしっかりと、冬の空の彼方に、黒い点として消えた。
「さらばだ、火車のお嬢ちゃん。妖怪の山辺りまで送っといたから、簡単には
戻ってこれはせんだろうよ。まったく、やれやれだ」
小町の切り札、それはもちろん”距離を操る程度の能力”。お燐との最初の
邂逅にも、攻防の一瞬の切り替えにも、落ちてくる鎌の微調整にもそれとなく
使ってきた彼女特有の力。うまいことお燐に隠し通せたその切り札で戦場から
一瞬にして男の家が見渡せる場所に戻り、その家からお燐を思いっきり引き離した。
これにて決着、である。
「……よっしゃー! 終わったー!! ……終わってねぇー!!」
思いっきり伸び上がって喜ぶ間もなく、本来の目的を思い出した小町。全てを
忘れてサボりたいと心底思いつつ、ゆるゆると男の家に向かって歩き始めた。
「~~~~~~ぁぁぁあああん!? ぎゃう!! みぎゃん!?」
妖怪の山、高さで言えば三合目といったところ。木々生い茂るその中に、黒猫
一匹えらい速度で突っ込んだ。落ち葉の絨毯が敷き詰められた地面を数度バウンドし、
太い杉の樹にぶつかってようやく動きを止める。ぶつかった拍子に人型に変化する
お燐。不思議なことに猫車も傍らに出現した。
「ううう……にゃあぁ……」
くらくらする頭を数度ふり、ぼんやりとした視界ながらも周囲を確認するお燐。
しばし惚けた表情をしていたが、急に跳ね起きて宙に舞う。視界一杯に広がる森。
人里は影も形も見えない。振り返ったそこには聳え立つ高き霊峰。
「ここ……。……よ、妖怪の山ぁ!?」
頓狂な声を上げてみるも、答えるのは冷たい風の音のみ。どうにかして人里まで
戻ろうと考えて、どうあがいても小町に仕事を取られるのが早いと答えが出てしまう。
飛ぶ速度にはあまり自信はないし、地を駆けるにも遠すぎるのだ。がっくりと肩を
落とし、へろへろと猫車のある場所に戻る。
負けたショックか、いつもの猫車も重く感じる。ぼんやりとした顔で、ゴロゴロと
猫車を押し始めてようやく、背後に妙な気配を感じた。
「グルル……、美味そうな娘の匂いがするぜぇ。俺の縄張りに入ったのを
恨みなよぉ猫のお嬢ちゃん」
下卑た声で、半ば獣の唸り声混じりの言葉は羆の妖怪。つややかで黒い体毛は
そこそこに美しくもあるのだが、だらりと口から伸びた舌と、獣性抑えきれぬ熊面が
野蛮さをアピールしすぎるほどにしている。その体躯はお燐の背の倍はあろうか。
言葉通りの都合で出てきたのだろうが、お燐には風の音よりどうでもいい
雑音にしか聞こえない。至極うっとうしそうに、
「あいにくあたいは機嫌が悪いんだ。あんたこそブチ殺されたくなきゃぁ去ぬがいいさぁ」
溜息交じりに言い捨てた。それが癪に障ったのだろう、羆妖怪は咆哮を上げて
お燐に襲いかかる。いや、襲いかかろうとした。その刹那、お燐の手の爪は
鋭く伸び、ぶうんと右腕一振りすればあっさりと羆妖怪の喉笛がごっそりと
抉り取られる。寸断された動脈から噴水のように鮮血が溢れ出た。
悲鳴はごぼごぼと沸き立つ血の音と代わり、倒れ伏す羆妖怪。しかしさすが
生命力に溢れる妖怪だからか、傷がじわじわと塞がりかけていく。喉を押さえて
しばし悶絶した熊の妖怪は、息ができることを知るや目の前の雌猫を挽肉にしてやろうと
起き上がろうとした。そこに、恐ろしく正確な一撃。塞がったはずの喉笛がまた綺麗に
ブチ抉られた。鮮血の花がまた大輪を咲かす。
目を白黒して転げまわる大柄な妖怪を見下し、お燐に笑顔が戻っていた。それは
幼子が虫の羽や脚をもいで喜んでいるかのようなもの。二度目の再生を見るや否や、
もう一度ふき飛ぶ血肉。再生するたびに、もう一度。血と酸素を失えばいかなる
妖怪であろうとも再生能力の限界となる。
白目を向いて今まさに死に逝こうとする妖怪に、嬉しそうに声をかけるお燐。
「あんたみたいなクズ妖怪が力量も省みずにあたいを餌にしようとするなんてねぇ」
血塗れの妖怪を覗き込む、その凄惨な場に似つかわしくない心底の笑み。教師が
幼子に言って聞かせるよう、優しく語り掛ける。
「どうだい? 痛いかい? 苦しいかい? あたいが憎いかい? 憎いだろう憎いだろう。
ほうら、見えてきたよあんたの魂」
魂が肉体から剥離していく。それを死、という。しかし羆妖怪の魂は、輪廻の輪に
乗ることは出来そうもない。代わりにその巨体が、片手で軽々と猫車に載せられた。
「あんたの体にゃ興味はないが、その毛皮はいいもんだねぇ。安心しな、綺麗に綺麗に
剥いで飾ってあげるから……あぁ、それか、あたいのご主人様にガウンでも作って
あげるのもいいかもしれないねぇ」
くつくつとお燐は楽しそうに笑う。目当ての死体は死神に持ってかれようが、
今しがた手に入れたコレも悪くない。羆妖怪の魂が、かすかに何かを呟いている。
嫌だ、行きたくない、死にたくない。そういった類だろう、お燐には聞きなれた声。
その魂に向かってか、ひときわ元気溢れる声で、お燐は出発の声を上げる。
「さぁさ!! 旧地獄行き猫車、出発進行の時間と相成りました! 暗黒の地底を
越えて、突き抜けるは旧地獄街道! ノンストップで地霊殿を過ぎれば灼熱地獄の
ド真ん中ァ!! お連れするのはこのあたい、火焔猫 燐。気軽にお燐と呼んどくれ。
恨みも聞こうさ、怨嗟も聞こうさ。楽しい楽しいっ、死体旅行のはじまり
はじまりィィィッッッ!!」
ガオンと開いた地底への穴。目がけて駆け出すお燐はどこまでも、楽しく死体を
運ぶ火車であった。
「お控ぇなすって」
しまった、これじゃ侠客じゃないかと思わず心で呟く小町。しかし、向けられた
幾十もの視線に、今更やり直せないなと気持ちを切り替える。
「あたいの名は小野塚小町。此度、彼岸へ渡る旅人に御供させて頂くお迎えにて
御座います。二度はまみえたくない顔なれば、仮面の下より失礼仕ります」
ぺこりと一礼する小町、その姿は黒装束に白い仮面。友人が無理やりに持たせた
ものだが、今は感謝の言葉は尽くせない。お燐との戦いで渡しの死神衣装はボロボロに、
手近な井戸で土や血を洗い流しても痣まで取れはせず、そんな姿で軒に出よう
ものなら死神どころか怨霊と間違われかねない。
男の血縁や、友人達からの目は、様々な感情が読み取れる。その多くが決して
自分を喜んでいるものではないとは知っても、死神としてやり通さなければいけない。
「縁者の方々、旅の餞に今一度、名を呼んで、別れ際に一言ありましたらそれも。
名残は尽きせぬものなれど、今生の別れと致しましょう」
細まった男の身体を抱いて泣きつく子ども達。妻は気丈に涙一つ見せず、手を取って
男の名を呼ぶ。永久の別れの場を、小町はまんじりともせず見つめていた。渡す
仕事とはまた違う、神聖な空気。ひとしきりそれを感じるままに、時が過ぎる。
区切りの気配。また、視線が己に集まっていることを感じる小町。軽く息を吐く。
「さぁ、行きましょうか」
呟く言葉に、小町にしか見えないのだが、男の魂が立ち上がる。立ち上がって
しばし、名残惜しげに縁者達を、特に我が子と妻に目をやるその姿を真っ直ぐ
見据える小町。一つ頷き、男の霊は小町に向かって歩みだした。
「……ご臨終です。今、故人の魂は旅立ちます」
きっぱりと、死の宣言を小町は告げる。すすり泣く声、故人の妻の瞳からも
ぽろりと涙が落ちたのを小町は見た。傍らに立つ男の霊は、今度は小町に向かって
頷いた。流石は覚悟のできた男ではある。未練を断ち切り、彼岸へと。
「いざ、さらば!」
歩みだす小町の背が、見えないが確かにそこにある男の背が、影と消えるまで
縁者たちは見送り続けた。
「……っと、さて、改めて自己紹介を。あたいは小野塚小町、ホントなら三途の
渡しの死神なんですけれど、ちょいとワケありで今回お迎えもやらせてもらってます。
あぁでも、きちんと仕事はしますんで、ご心配なく」
「あぁ、よろしく、小町さん」
それが死者の魂と死神でないのなら、なんとものどかな徒歩の旅と見えるふたり。
数年来の友人であるかのごとく、笑いながら逝けるのは小町の人柄ゆえか。男も
楽しそうに、最期の旅を謳歌している様子。
「それにしても、その仮面とっちゃどうかね。可愛らしい声は聞こえるけども、
それはいただけないなぁ」
「あーうー。これっすか?」
どこぞの神のようにしばし逡巡するも、いいかげん息苦しいなとか感じていた
小町はままよと外す。冬の鮮烈な空気が肺に充満して、心地よい気分になった。
改めて深呼吸すれば、酷く打たれた頬がちりりと痛む。
「……ほう、なるほど」
「あーなんか、えーっと。すいませんねぇ、酷い顔してるでしょあたい」
たはは、と頭をかいて申し訳なさそうな小町。井戸の手桶の水鏡で、自分の
酷い有様はよくわかっている。そんな小町にかけられた声は、
「いやはや、ちゃぁんと神や仏に願掛けする意味ってのはあったんだなぁ」
と不思議なもの。
その意味を聞くや聞かざるや、小町の性格なら当然のように聞きの一手のみ。
「そいつぁどういうことです?」
「あぁ。自分の最期は、別嬪さんに送ってもらいたいってずっと願ってたのさ。
叶うもんだねぇ」
「あはははは! おだてたって何も出やしませんよー」
「いやいやそれは心外な。嫁の見てないところだから言うが、小町さんに先に
出会ってたら娶ってたかどうかわからなかったねぇ」
にかりと笑う剣士の男。どうやらただの堅物でもなく、センスも艶もある男らしい。
こいつぁいいふたり旅になりそうだと、小町は確信した。確信するからこそ、満面の
笑みが浮かぶ。
「おやおや、あたいに先に出会ってたら今頃こんな話はできてませんやぁ。……さて、
ちょいとだけ行く先の話を。このまま里を出ますれば、向かうはお山の方角へ。その頂を
右手に眺め行き至るのは中有の道。立ち並ぶ店に足を止めてもよろしいが、時が進めば
あなたの魂もゆるりゆるりと自我も消えましょう。そうして着くのは三途の川、あたいの
オンボロ船に乗り込めば、あとはゆっくり彼岸まで。そこで閻魔様のお裁きを待つ
こととなりましょう。……けれど此度は積もる話を共として、ゆるりと楽しむ旅と
しましょうや!」
冬風澄み渡る人里の小径。霊魂をエスコートする小町はどこまでも、楽しく歩み行く
死神であった。
後日談。
「……なんて静かなところだろ」
お燐はひとり、無縁塚と呼ばれる場所にいた。地上に出てしばし経つも始めて
訪れた場所。秋に彼岸花咲く野の先にそこはある。木々に囲まれたそこは、紫の
桜があるという。もうしばしすればきっと見れるに違いない。春近いそんな日に、
なぜ彼女はこんなところにいるのだろうか。辺りを見回していたその視線が、
ひとところに留まる。
どこまでも気の抜けた笑顔で、ひらひらと手を振る知った顔。桃色で二つ結いの
髪。青い着物。何より目を引く大きな鎌。一度は命のやりとりをした相手が、
徳利片手に呼んでいる。それを見て、難しい顔をしたまま、お燐は猫車を押しつつ
近づいていった。
「よっ」
蕾しかない桜の下、古木を尻に敷いて死神娘、小町がいる。暢気な声がかけられた。
「よっ……て。お姉さん」
「なんだい」
酔いに頬染めた笑顔で小町は笑う。あぁ、あの時は怒ってばかりだったけど、
笑えば相当に美人なんだねぇ、などと思ってお燐。そうじゃないだろと頭を振る。
「巫女のお姉さんから聞いたんだけどさ。ここで飲んでるから会えるなら
会いたいって。……なんでさ」
当然の疑問をぶつける。お燐にしてみたらそんな言葉が出るとは俄かに信じ難い。
火車と死神、商売敵もいいところの間柄。そして目の前の死神とは互いがズタボロに
なるまで、それこそ殺してもいいつもりで戦いあったものである。会いたいという
理由も何らかの罠に思えて、お燐は今も警戒の色を隠そうともしていない。その
様子が納得できないのか、ふうむと小町の顔も少しだけ曇る。
「なんでさ、と来たか。うーん、うーん、一緒に飲みたいと思っちまったから、
じゃ理由にならないかい?」
そう言ってお猪口の中の透明な酒をあおる。警戒心の欠片も見当たらない。
今殺そうと思ったら簡単に殺せそうだなぁ、とお燐は思うが、もちろんそんな
つもりはない。少なくともそれは楽しくなさそうだ。
「あのねぇお姉さん。あたいは火車、お姉さんは死神ってのを忘れてないかい?
火車と死神は不倶戴天の敵、こうして普通に喋ってるってだけでもありえない話って
言われちゃうんだよ?」
正論だ。
「うん、確かにそうかもしれないなぁ。けれど、さ。小野塚小町としてはかえんびょ
……いや、お燐、お前さん本人に興味を持っちまったんだから仕方ないよねぇ。
なぁ、お燐。あんな殺し合いやってる最中なのにさ、楽しいってお互い思っちまったろ?」
確かに、あんな血沸き肉踊る戦いを忘れることは出来そうもない。殺しあう者
同士の邂逅は、得てして恋しあうものの如く。弱点を知って落とすという意味では、
同じなのかもしれない。行き着く先が新たな生か生の終焉かの違いだけで。
「それでさ、あたいは思っちまったんだ。お燐、お前さんとは杯酌み交わしても
楽しいんじゃないか、ってさ。理由ってんなら、そんなもんかな」
「む、むうう」
それでもお燐は今ひとつ煮え切らない表情。どちらかというと常識人であるお燐の、
その”火車と死神は敵同士”という常識がいまだ小さなしこりになってしまっているのだ。
ところがそのしこりを消す妙薬が、猪口に乗って差し出される。小町が持っている
白いものとは真逆の黒い艶ある逸品。その中にはなみなみと透明な液体。
「まま、考えるのは後にしなよ。とりあえず駆けつけ三杯だ。せっかく閻魔様
秘蔵の生一本をちょろまかしてきたんだしさ、旨いぞぉ」
なんてことしてんだこの死神、それが妙におかしくて、お燐の顔にも笑みが戻る。
小町の隣に座してはわざと恭しく猪口を受け取り、顔へと近づける。南洋の果物を
思わせる甘い香りが鼻腔を刺激し、それだけで本当にいい酒だと気付かされる。
「……毒なんて入ってないだろうね?」
最後の抵抗として、軽く冗談を飛ばしておく。小町はにっかりと、太陽のように
笑った。
「酒は皆総じて毒さ。心の全てを綺麗さっぱり溶かす、最高の毒だと思わんかね」
「違いないね。じゃあ、いただきます」
わざわざお燐のために用意したであろう、黒い猪口に桜の唇がつけられ、透明な
毒をくぴりと喉に流し込む。
「あ、美味し」
思わず口を突いて出た言葉は真のもの。鮮烈な芳香と爽やかな甘さが舌で踊り、
喉にすうっと淡雪の如く消える。なんとも旨い酒であった。
「だろうだろうそうだろう。こんな旨い酒一人で飲むにぁ罪深すぎる。ささ、もう一杯
もう一杯」
「急かさないでよお姉さん。うんでもこれ、ホントに美味しい酒だ」
猪口に並々と新たに酒が注がれる。よくよく見れば魚の乾物やらナッツやら
つまみもあるではないか。サボマイスタのサボマイスタである所以を感じながら
また酒を味わう。
「ねえ、お姉さん」
「ん?なんだい?」
「まだよくわからないけど、多分あたいお姉さんのこと嫌いじゃないと思う」
酒で滑らかになった舌がそう言わせたのか。それとも小町の持つ和らげな
雰囲気のせいか。ついぞ戦いの場では見せなかった明るい笑み。それに応える
小町もまた、笑顔。
「あたいもお前さんの事好きだよ。……さ、飲みねぇ」
三杯目の酒を注ごうとする小町との距離を自分からちょっと詰めて、新たな友人が
死神という奇縁に乾杯をするお燐なのであった。
個人として見たら意外と気が合ったりするのかもしれませんね。
バトルもですけど楽しく読めてよかったです。
面白いお話でした。
粋も毒も、洒脱も熱気も全て内包し、最初から最後まで魅せてくれるこの作品。
文句なしの100点だ、受け取ってくれい!
この二人確かに、凄い仲良くなるか最悪かの気がします。
にゃあい!
GJ!
ところで、
>黒装束に白い仮面
――死神違いですk(ピチューン
このふたりは口調も似てますし、良いコンビですねー
何気に前半の酒云々のエピソードが重い……
いつもこんなならサボさんなんて言われないのに。
しかし小町対お燐の構図上どうしても「にゃあい!」を思い出してしまい、びくびくしながら読んでたら・・・
いや・・・本当に平和な?落ちでよかった。
そういやあ、あのゲームのヒロインも胸がでか(ry
にしてもお燐こええ!すげえ邪悪だw