※ このSSは、ダブルスポイラー以前に書いたものです。つまり、椛はスペルカードをもっていません。
体が重くて、動けない。というより、動きたくない。
手足の感覚がぼんやりとしていて、小鳥のさえずりだけが頭に流れ込んでいた。
起きなくちゃ。起きなくちゃ、いけない。
滝の見回り、さぼったら大変だもの。
だけど今日は、それよりずっと大切な事があるんだ。
「うう……。御返事、来てるかな……」
全身もそうだけど、目蓋も重かった。
昨晩、泣いたまま寝付いちゃったからなあ。涙が固まってて、目を開けるだけでも一苦労だった。
開けたら開けたで、目が腫れているらしい、視界が少し狭い。
ああ、一日を始めるのが怖い。
どうしてあんな手紙、書いちゃったんだろう。
最近、文様は取材取材と言っては、山になかなか帰ってこなかった。
取材と言っても、「守矢の神様と呑んできます」とか「天界で宴会があるので」とか「踏んできます」とかばかりだったけど。
それで、文様と疎遠になるかもと思っていら、何だか不安になってしまったのだ。
いいもん、一匹狼になんてなれないやい。天狗は集団でなんぼの組織だもん。
仕事のときも、気づけば能力を使って文様探しに走ってしまっている。
それじゃあいけないだろう、犬走椛。しっかりしなくちゃ、ちゃんと見張りができないじゃないか。
だから、文様宛に手紙を書いたのだ。こうでもしないと、仕事に支障が出るからだ。
最初は、「取材が多くて皆が心配してますよ」とか、「たまには帰って、羽休みしませんか」とか、ごく普通の内容だった。
なのにどうしてだろう。いつの間にか、文様がいないと、何だか苦しくて寂しいってことばかり書いていた。
一度勢いづいたら、止まらない。後は「ずっと文様の下で過ごしたい」だの「憧れてるんです」だのと、つらつらと。
最後には、「今度、二人で会いたいです。御返事、聞かせてください」と、変に綺麗な文字で締めてしまった。
「これじゃあやっぱり……ラブレター、みたい……」
だけどやっぱり、好きという言葉は書けなかった。
手紙を見直して、赤面した。そのまま刀で切ってしまいたかった。
書き直そうかとも思ったけれど、できなかった。何かに、嘘をついているみたいで。
それで結局、恥ずかしい文のまま、文様用の連絡烏に手紙を託してしまった。
「……どうしよう、これ……」
その結果、何やら白の綺麗な封筒が届いているではありませんか。
御返事、もうちょっと遅れてきても良かったのに。
隠すように抱えながら、机の前まで小走りで向かった。が、開けるのに躊躇してしまう。
深呼吸を三回。よし、ここは勇気を出すべきところだ!
鋏で、封筒の端を沿っていくようにして、少しずつ少しずつ切っていく。
すると、一枚の小さい紙が顔をのぞかせた。
この紙に、文様の気持ちが詰まっているんだ。
よし、いっちょ覚悟を決めるところだ椛!
「お母様、お父様、行って参ります!」
居合い斬りの形で、素早く便箋を取り出す。そのまま一気に内容を確認。
あれ、真っ白!? どうして!?
違う、きっと裏表が逆だ!
ああ、裏返すのが怖いよう!
「えいっ!」
目をぎゅっと閉じて、手首を捻った。
もう一度だけ、深呼吸。
少しずつ目を開けると、見えてきた。
それは、たった一文である。
『スペルカードが使えるようになったら、会いましょう』
室内の温度が急激に低下し、私は凍り付いてしまった。
最近のもてる女性は三高と言われている。
高身長、高収入、高難度スペル。
ひょっとして、文様はそれを気にして……。
それに私、身長も収入も大して無くって。
あ、頭がくらくら。そのまま床へダイビング。
スペル使用への修行は、想像を絶した。
日の出ないうちに、滝で身を清めるのは言うまでもない。
食事は、一日に玄米四合と味噌と少しの野菜だった。
過酷なトレーニングを重ねて、自らの心身を磨き上げた。
正確に敵機を狙うための、コントロール練習は当然行った。
壁に反射弾を飛ばして、帰ってきた弾を取る。日が暮れるまで、ずうっとやっていた。
戦略的頭脳を育てるために、にとりと将棋に明け暮れたりもした。楽しかった。
スペルのネーミングセンスをよくするため、紅魔館にも通った。
仮に文様と結ばれた時のために、料理洗濯家事掃除の練習だってやった。
しかし何よりきつかったのは、基本中の基本である、素振りである。
スペルを懐から取り出し、宣言を噛まないための発生練習を延々とした。
「あ! え! い! う! え! お! あっおーん!」と、何千回夕日に向かって叫んだことか。
本当にきつかった。主に羞恥心に耐えることで精一杯だった。
そして一ヶ月が経ったころ、一連の練習の甲斐あって、自身の能力が覚醒した。
夜空を見上げて、その果てしなく続く深い闇に飲み込まれて、言葉が漏れた。
「あれが、木星の表面……。ああ、ニュートリノ!」
こうして私は、宇宙の真理を知った。
視界の片隅に、分数なんかも見えるようになった。
これなら、スペルカードを使いこなせることができるだろう。
「とうとう姿を現したね! 八雲紫! スペルの申請をさせてもらう!」
ここまで来るのに、更に長い月日を要した。
その旅は、博麗神社から始まった。
スペルカードの申請について尋ねたら、八雲のトップの下へ行けと言われたのだ。
「紫? ああ、冥界にでも行ったら会えるんじゃない?」
博麗の巫女にとっては、鼻息まじりで行ける場所らしい。
だが私の場合、そうはいかない。長旅を覚悟した。有給休暇もとった。
道行く度に、何度も妖精に絡まれた。
パターンが思い出せなかった。ノーボム突破はきつかった。
そして、多くの仲間との出会いと、別れがあった。おそらく。
だけどこの旅も、ここ大階段でゴールを迎えようとしている。
「あなたを倒せば、全てが終わるんだ!」
見ていて、にとり。あなたの犠牲は、決して忘れないよ。
「いや、スペルの申請なら、私を倒す必要なんてどこにもないのだけれど」
「……あれ?」
初めてのスキマ体験を経て、紫さんの根城にやってきた。
「どうぞ、お入りになったら?」
客間らしいところに招かれて、何だか緊張してきてしまった。
強大な力の下だからだろうか、どうにも落ち着かず、そわそわしてしまう。
何だか見慣れない物があちこちに置いてあるなあ……。
きょろきょろしていたら、座るように言われてしまった。
剣と盾を足元に置いて、一礼。そして着席。
あ、この椅子、ふかふかしてて気持ちいい。
「……それで、どんなスペルを考えてるの?」
「あ、えと、あの! 私、千里眼を持ってまして。それで、千里先まで届く敵狙いレーザーで焼き払うような!」
この日のために、ずっと考えていたんだ。
せっかくの機会なのだから、強くて格好良いものにしたい。
パターンの掴めない高難度の気合系スペル! 一発逆転を秘める高コストスペル!
ああ、夢と浪漫に溢れているではないか!
「切り返すためのスペルも良いですね! 宣言した直後、『の』の字が私を囲んで、守ってくれる!」
「ああ、うん。そうね」
「あと、文様のような風を使うのも欲しいです! 風でこう、弾がばら、け……」
気がつけば、まくし立てるように熱く希望を語る自分がいた。
途端、沈黙してしまう。ちょっと恥ずかしい。
目を合わせられず、私はうつむいてしまった。
「あ……。そんな、感じです、はい……」
「なるほどねえ。うーん、残念。あなたはまだ、スペルカードって物をよく知らないんじゃないかしら」
その言葉に、反射的に顔を上げた。
まさか、申請を拒否されるというのだろうか。
ここで私の修行の日々を否定されては、困る!
「え……。そんな! これでも私、ずっと今日のためにがんばってきたつもりで!」
「スペルカード、それ自体が一体何なのか、あなたはちゃんと考えてきたのかしら?」
「スペルカード自体……。ええっと、決闘のルールで使って……。弾幕に意味をもたせて……」
いざとなると、どう表現したらいいか、分からなかった。うまい言葉が出てこない。
スペルカードって何なんだろう。文様は、どうしてそれを私に身につけさせようとしたのだろう。
途端に分からないことが増えてきたぞ。分数とか何なんだ一体。
「ああ、ううん。分かるような、分からないような。すみません……」
「そう、ならば百聞は一見に如かず。私がスペルカードを見せてあげる」
「え、いや、ちょっと! 紫さん、それはさすがに!」
何をどうすれば弾幕で勝てるというのだ。
求聞史紀で読んだぞ。紫さん、ストレートとカーブのコンビネーションが絶妙だと。
最近はナックルまで習得したとか。打ち返せる気がしない。
「うふふ、安心しなさい。ちょっと、かくれんぼをするだけだから」
か、かくれんぼ?
お尻を出した子一等賞?
突然何を言い出しているんだろう。夕焼け小焼けでまた明日して頭を整理したい。
混乱しているうちに、紫さんが空間の裂け目へ消えていた。
「もーう、いーいよ」
スキマから伸びる手が、おいでおいでと私を招いていた。
全く、どういうことだか分からない。彼女の目的が分からない。
恐る恐る近づいて、手を差し伸べる。
不意に、手首に冷たい感触がはしった。
重心が崩れ、体が宙に浮く。
「わ、私の準備はまーだだよー!?」
有無を言わさず、スキマの中に引きずり込まれる。
ああ、文様。私はここでやられてしまうかもしれません。
だけど、椛がんばる。文様の為なら例え火の中スキマの中。
目が覚めると、私は草原の海の真ん中で横たわっていた。
時折吹く風が頬をなでて、清清しい。
そしてその風が地を滑って行き、楽しそうに草木が揺れた。
「な、何なんだろう、ここ……」
確かに、あまりに突然の出来事で、少し気味悪い。
それでもどうしてか、悪い気分はしなかった。どこか懐かしい心地なのだ。
一枚の葉っぱが私の額に、ゆっくりと着地した。
手にとってみると、それはスペルカードだった。
「あれ? 葉っぱ? それとも、スペルカード?」
うつぶせになって、青々とした若草を一枚、引き抜いてみた。やはり、スペルカードであった。
眺めるほどに、スペルカードである。長方形の紙に、弾幕の姿が描かれている。
事細かな情報がちまちまと書かれているが、肝心の名前の欄だけは空白だった。
「へえ。これ、ランダム系かー」
風に吹かれて過ごしていたものね、と一人納得した。
紫さんの言っていた、百聞は一見に如かずということが段々分かってきた。
そうだ、紫さんを探さなくちゃ。
立ち上がって、辺りを見渡してみる。
自分と同じくらいの、背の低い樹が一本立っている。
その幹も、その葉っぱの一枚一枚も、そして熟れた果実も、スペルカードの集合体であった。
スペルの果物を手にとり、半分にちぎる。試しに、一口。
「あ、蜜柑だこれ」
若木であるためか、ちょっとすっぱいけれど、中々いける。
二枚、三枚と摘んでおいてから、先を目指すことにした。
といっても、ここからどこに行けばいいのだろう。
もっと遠くに視野をやっても、ほのぼのとした光景が広がるばかりである。
ただ、何か涼しい音が聞こえていた。
道なりに歩いていたところ、一筋の川が行方を阻んだ。
せらせらと静かに流れて、日の光を穏やかに反射していた。
上流と下流を見通してみたものの、橋が見当たらない。
しゃがんで、川に手を浸してみる。
「あう! つめた……。でも、これもやっぱり……」
スペルカードであった。幾千ものスペルが流れて、川を形作っていた。
これならきっと、溺れる危険もないだろう。
下駄を手に持ち、スカートの赤い裾をまくって、準備万端。
つま先から足を入れてみる。
「うあ、やっぱり冷たい……」
スペルカードとはいえ、やはり川の性質はそのままであるらしい。
しゃぱしゃぱと飛沫を散らしながら、足早で渡りきってしまった。
ただ、足は濡れずに、ちっちゃなスペルカードがくっついているだけであった。
何度か宙を蹴って、それを振り払った。細かくなったスペルが、土の中に溶け込んでいった。
「あんな多いのに、一瞬で……」
あっけなく、大量のスペルが地に消えた。
十年ほど昔の新聞記事を思い出してしまった。
スペルカードの、乱獲事件。いや、異変といってもいいかもしれない。
当時、激しい争いがあったとか無かったとかで、スペルカードが戦力として、瞬く間に消費されていった。
スペルカードが、決闘ルールとして用いられるようになったのも、この時期だったっけ。
新規にスペルを使用したい者に申請が要るだのとややこしくなってしまったのは、この辺からだ。
といっても、事実、申請しに行った者は守矢の方と私ぐらいなものらしいけれど。
蜜柑のカードをもう一枚、口の中に入れる。
ちょっと水っぽくなってしまったかな。
足の裏の土を払って、下駄を履く。再出発準備、完了。
「でも、紫さん、どこに居るんだろう……」
あんまり手がかりがないものだから、ぽつんとつぶやいてしまった。
考えあぐねていると、先に見える上り坂から、ごうと風が吹き寄せてきた。
それに乗って、一陣のタンポポの綿毛が漂ってきた。
皆、ホーミング性質を持つスペルカードである。
「ホーミング、ねえ……」
何だか怪しい。私を誘っているように見える。
招かれるように、ふらふらとタンポポの発生源へ向かうことにした。
芝生で出来た小さな丘、そこから風が吹き降りてきたはず。
その若々とした黄緑の上には、透き通った青空が広がっていた。
気持ちよさげに飛び回る妖精も、どうやらスペルカードである。
白い帽子も、薄い羽も、どこからどうみてもメイドオブペーパーである。
「みなさーん、スペルカードですよー!」
とうとう、しゃべりおったぞ。いやいや、スペルカードだもの。そりゃあ仕方ない。
更にずっと上を眺めていると、膨大な数字が並んでいることに気づいた。
訳の分からないものは、あまり直視したくない。
雑念を振り払うように、頭を振りふり。
よし。きっと、あともう少しだ。
なんとも、不思議なところである。
蝶々は、4枚の長方形である。それが、意思をもって飛び回る。
遠くから聞こえる牛の鳴き声は、新聞を開く音を大きくしたような音だった。
流れ行く白雲なんか、一枚の大きな紙そのものである。それが、ふわふわと浮いている。
バックにある空もお日様も、よく見ればスペルカードだった。
「……ふう。よおし、登りきったぞう」
丘の頂上では、花が群れていた。
これといった種類が決まっているわけでもなく、まさに咲き乱れといった様子である。
一時、そんな春もあったっけなあ。季節感があるのか、無いのか。
足元をよく見ると、その柔らかな土壌さえも細かいスペルカードであるのに気づく。
花を踏まないよう、柔らかなカードを踏みしめて、その中央へと足を運んでいく。
目の前には、紅色のサルビアが立ち並び、少し先には、橙色の鬼百合が咲き誇っている。
皆、その花弁の一枚一枚が、見事にスペルカードで出来ていたのは言うまでも無い。
タンポポ、そしてエネコログサ。
花畑の奥に向かって、花達は鮮やかなグラデーションを描いている。
強烈な青に染まったキキョウ。濃厚な藍色が映えるパンジー。そしてその先に、あった。
「あれ、これは……」
花畑の中心には、紫色のつぼみが佇んでいた。ただし、スイカ丸々ひとつを凌ぐほど大きいが。
あからさまに怪しいぞ、これ。
のんびりと風に揺られて、大きくメトロノームのように頭を揺らした。
ちょんちょんと、指でつついてみる。
すると、その花びらがゆっくりと開いていって……。
「あら、見つかっちゃった」
小さな紫さんが、スミレの中からご誕生。
「やっぱりここ、懐かしいわね。今の幻想郷じゃ見られない光景」
すっかり膨らんだ紫さんと、花畑の中で優雅に会談。
段々この世界にも、紫さんにも慣れてきた。
思ったより、穏やかな方なのかなー。
あれ? でも今紫さん、何て言った? 今の、幻想郷?
「と、言いますと。ひょっとして昔は……?」
「あなたはその時も、生きていたはず。でもやっぱり、昔のことは覚えていない?」
「あれ? う、うーん? そうですね。忘れてるみたいで。ただ一応、新聞でちらっと見たことはあるくらいです」
千余年前から、私はずっと生きている。だから、スペルカードだらけな世界にも見覚えがあるはずだ。
だけど、どうしても実感がわかない。
何でだろう。私も年取っちゃったかな。物忘れ激しいのかなあ。
「虫取り網を振り回して、その辺で取ったスペルで弾幕ごっこ。今じゃできないわねえ」
くすくすと、悪戯を思いついた子どものように微笑んだ。
無邪気なのか、はたまた邪気に溢れているのか。
考えの読めない人だ。
その、少し歪んだ口元から、言葉が続く。
「まあ、もしものことがあったらいけないものねえ」
「それってやっぱり……」
「昔ながらのスペル達は、皆ここで管理されている。そのことも、あなたは覚えているはず、よね?」
「うう、何だか意地悪な。でも、なんとなく分かってましたよ?」
決闘方法が定まったことを境に、そこらじゅうからスペルカードがいなくなった。
事が事だっただけに、野生のスペルを野放しにできなかったんだろうなあ。
うん? いや、待てよ。野生の、というより。この世界はあらゆるものがスペルカードだったぞ。
しかも、昔は本当にそうだった……。全てといっていいほど、スペルカードで出来ていた。
何だか、急に不安になってしまった。
視界の片隅では、例の膨大な数が勢い良く減り始めている。
一つ、おかしな憶測が脳裏に浮かんだ。
心臓が跳ねた。そんなこと、あっていいのだろうか。
紫さんの言葉が耳に飛び込んで、思考が中断された。
「少しは、スペルのこと、思い出せたかしら?」
「あ、はい! きっと、おそらく、ぼんやりと」
「それはよかった。多分、ひょっとしたら良いスペル使いになれるのではなくて?」
「きっちり思い出しました!」
「そう。では、お疲れ様。ここにあるスペル、何でもいいから持っていくといいわ。私からのご褒美」
「え、あ、いいんですか!?」
「もちろん。少しくらい取っていっても、彼らは簡単に繁殖してくれるわ」
「あ、えっと……。ありがとうございます!」
「ふふ。初めてのスペル、大切にしてあげなさいね」
まずは、文様にとびっきりのスペルを見せてやらないといけない。
『スペルカードが使えるようになったら、会いましょう』
……スペルが使えたら、きっと私を受け入れてくれるはずだ。
あくまで好意的に解釈すれば、だけれど。
今は文様を信じて、スペルを選びぬくだけだ。
太陽が、もう西の空に傾きはじめている。
その暖かい黄金色の光で、山の滝は一層輝きを増していた。
滝の頂上では、ススキに囲まれたカエデの木が一本立っていた。
その葉が血のように赤くて、何だか恐くなってしまった。
夕日のオレンジと、カエデのオレンジ。不気味なほどに暖かい光景だった。
その、カエデの木の下で、彼女のシャツもまた、紅葉しているように見えた。
ああ、思ったより、時間がかかってしまった。
せっかくの約束なのに。
「もう! 遅いじゃないですか椛!」
「すみません文様! ちょっと、準備に時間がかかってしまって……」
ゆっくりと、衝撃を与えないように、文様の待つ地に降りた。
ああ、そのまま駆け寄ってにゃんにゃん、いや、わんわんしたい。
久々に会えて、そして文様が元気にそこにいると思うだけで、安堵の涙が出てきそう。
文様はというと、木陰になっているせいか、その表情がよく見えなかった。
だけど、その声は少し、不機嫌そうだった。
「私、今日の此の時、これでも楽しみにしていたのですよ?」
「あう。す、すみません……」
私だって、ずっと楽しみにしていた。だけどそれと同じくらい、怖くて仕方が無かった。
今日で、全てが決まってしまうのだもの。
でも、文様も楽しみにしてくれていたんだ。
手に持つタッパーを、ぎゅっと抱きしめる。その温もりが胸に伝わってきて、心地がよい。
文様の、「ふう」と吐く息の音が聞こえた。
「お久しぶり、ですかね。椛」
「あ、こちらこそ! こちらこそ、お久しぶりです、文様。その、お会いできて、光栄です!」
「ちょっとちょっと、そんなに畏まってどうしたんです? あの頃のフレンドリーワンちゃんこと椛はどこへやら……」
「すみません。どうしても、その、緊張してしましまいまして……」
文様、よよよ、と泣きまねをされてしまった。あまりお変わりない様子で、良かった。
ほんの少しだけ、いつもより声に元気がないような気もするけれど。
「でも、ありがとうございますよ。私のわがままにつきあってくれて」
「あ、いえ! こちらこそ! でも、私もそろそろ、スペルが欲しいなって思っていたので……」
「それで椛は、ちゃーんと使えるようになったのですかー?」
「もちろんです! 文様、驚かないでくださいよ?」
「おお、椛が自信満々とは。これは期待できますねー」
この日のために、ずっとがんばってきたんだ。
あの不思議な世界で手に入れたスペルカード。これならきっと満足させられるはず。
「会って早々で悪いですが、椛。早速お手並み拝見と行きますか」
「ああ、やっぱり!? 私が、文様とスペル勝負だなんて!」
「……嫌、ですか?」
「逆です。私も、その時を夢見てたんです!」
「ほう……。椛。手加減無し、で行きますよ?」
「私も手抜きせず、一生懸命作ってきました!」
文様が後ろへ跳ねて、距離をとった。
真っ赤な光を浴びて、何だか燃えているみたい。
滝へ流れ込む川の音が、一層激しく鳴り響いた。
すう、と息を吸い込む。
「風は剣です! 暴れ狂う剣の舞に酔いしれるがいい、犬走椛!」
「スペルは自然、スペルは全て! その調和であなたをうならせます! 射命丸文! ……様!」
文様の右腕が高く掲げられるのが見えた。
ずっとお預けされていた、この宣言の瞬間。とうとう、迎えることができた。
「行きます! 風神。風神木の葉隠れ!」
「喰らえ! 味符。オークと男爵のナイトダンス!」
言って、タッパーの蓋を手早く開ける。
緑に染まった葉が渦巻き、一瞬、文様を見失いそうになる。
けれど、この弾の性質は、よく知っている。
一拍待って……。そう、今!
ライン状に並んだ弾の群れを抜けて、射程距離に踏み切る。
文様の目が、開いた。
「も、椛……。まさか、そのスペル!?」
「どうぞ、召し上がってください!」
文様の眼前にそれを突き出す。
唖然とする文様。
目をぱちくりさせて、スペルを掲げるその手を降ろして、ようやく受け取ってくれた。
「えっと……。これ、肉じゃが……ですか?」
「はい! 肉じゃがです! 一晩寝かせた肉じゃがです!」
「いや、でもさすがに、ですよ。あの、椛?」
肩を震わせて、私と肉じゃがへ視線が行っては帰り、行っては帰り。
そしてとうとう、言い放った。
「どうして肉じゃががスペルカードなんですか!?」
「スペルカードだからです!」
「いや、意味が分からないですよ! 材料全部、どこからどうみても紙っきれ! これを食べろと!?」
「材料だけじゃないです! 砂糖から醤油まで、調味料も全部スペルです!」
「う、うわあ……確かに煮汁がとろけた紙になってる……」
「おいしいですよ?」
「いや、でも椛? じゃがいもって紙でしたっけ? 紙って食べ物でしたっけ?」
「ちゃんと畑から引っこ抜いてきたんですよ? 食べ物に決まってます!食物繊維たっぷりです!」
「いや、おかしいですよね? なんでただの紙が地面からにょきにょきと生えてくるんですか!」
「昔はそれが普通だった、らしいですよ?」
「いや、でも! ああ、もういいです。百歩譲って野菜はいいとしましょう。だとしたらこの肉は何ですか!?」
「豚肉です! スペル名は虚人ブー君にしました!」
「嫌です……。想像したくないです……。紙がぶーぶー言いながらそこら中を駆け回る光景……」
「牛と鶏もいましたよ」
「すみません、椛。私が無茶な要求をしたがために、頭がおかしく……」
「むー。文様、ちょっと失礼ですよ? これでも私、一生懸命作ったのに……」
知らない。こうなったら、強行手段に出るしかない。
割り箸を懐から取り出して、ほくほくのじゃがいもを摘む。
「ほら、文様。あーんしてください! あーん!」
「ちょ、椛!? 駄目です! アイムノットヤギ! アイムカラス! アイム……。あむ……」
「ど、どうです?」
自分で食べさせておいて何だが、ちょっと不安になってしまう。
どう転んでも、紙は紙だものなあ。
でも、これでも真心込めて、昨日の晩から作り始めた自信作なんだ。
ああ、文様。おっかなびっくり咀嚼してしまってるなあ。目なんかつぶっちゃって。
けれど、いつの間にか表情が緩んでる。
ごくりと飲み込む音と共に、ゆっくりと私に顔を向けた。
「うん。うん。おいしい、ですよ? おいしいです。出汁が滲みてて……。紙だから、よく吸うのでしょうか……」
「あ、ありがとうございます! うん、よかったー。お口に合わなかったらどうしようかと思ってましたもん」
「だけど……」
木枯らしが横切った。
カエデの葉が耐え切れずに、ばらばらと流れていく。
紅いノイズに遮られて、文様が一瞬、見えなくなった。
「ちょっとだけ、寂しい味、ですね」
赤と紅の隙間から、どこか苦しげな表情がちらと見えた。
ここからだ。ここから、尋ねなくっちゃあ、いけない。
私に、ずっと隠していたことを。
カエデが皆、宙から川へ泳いでいった。
そのころには、文様は何だか笑顔にもどっていた。
「あ、いえ、気にしないでください。ね? 今日はありがとうですよ、椛。肉じゃが、ほどよく甘辛くて……」
「私たちも、寂しい妖怪、ですかね」
「……椛?」
見上げると、空の中心はすっかり紺色だ。
その朱色の光は、もはや視界の片隅に映る程度だけだった。
そして、もう一方の片隅を見るよう、神経を集中させる。
「私、ずっと不思議に思っていたんです。種族としては強い妖怪なのに、天狗って、美しくまとまっているじゃないですか」
これといった返事がない。少しうつむいたものの、文様は無表情だった。
腕組みをしたまま、カエデの幹に寄りかかって行った。
私はそのまま、続ける。
「上下関係がきっちりしてますし、何より、千年も崩壊しないままってすごいと思います。不思議なくらい、すごい」
追って、私も木陰の中へ入っていく。
「それで最近、その謎が解けてきたんです。一つ、仮説が浮かんだんです」
「うん。続けて、椛」
私を見る文様の目は、黒く澄んでいた。
どこか、口元が和らいでいる気がする。
「はい。実は私、スペルのトレーニングをしてる最中に、視界の右隅に変なものが見えるようになったんです」
「右隅に。椛、そんなものまで……」
「今も減り続ける、大きな数字。その隣の、00/1105という分数。そして、一番右上に、99と書かれてて……」
肩も、声も震えだした。
ぎゅっと手を握って、こらえる。
「これ、何だろうって思ってて。それで、スペル申請のときに、気づいてしまって……」
「さっきの、肉じゃがの材料のあるところ」
「そうです。そこでは、どんなものもスペルカードなんです。本当に、全部がスペルカードで、成り立っている世界なんです」
「椛、大丈夫ですか。顔色が悪くなってきてます。無理しなくて、いいですよ」
「いや、ここは最後まで。あの。それで、思ったんですよ。ひょっとしたらって」
「うん」
「ひょっとしたら、私、いや、私たち……」
足の先から肩まで、びりびりと痺れる。
むかむかした感触が、胸の奥に溜まっていく。
文様の手が、ぽんと私の肩に乗せられた。心が、わずかに軽くなった。
一度深呼吸して、伝える。
「私たち、スペルカードなんじゃないかって!」
「……椛」
「もし! もし、そうだったら。この数字がゼロになった時、どうなるか……。考えたくなくって、怖くて!」
どんなスペルだって、有効時間がある。
泣き出したかった。反射的に、顔を手で覆った。
目をぎゅっとつぶると、目じりから涙が、少しだけ溢れた。
文様の片手が、私の肩から離れる。
そして、しなやかな指の感触が、頭のてっぺんに移った。
「さすがは椛です。よく気づいてくれました」
「じゃあ、じゃあ! そんな風に言うってことは、仮説は本当で……」
「ほんのちょっとだけ違いますけどね。正確にいえば、私たちはスペルカードの弾、ということになります」
スペル使用者、おそらく天魔様のもと、まとまった集団として維持するための方法が、スペルカードだった。
しかし、期限が切れた場合、弾は消える運命になる。
「じゃあ、文様! 結局、私たち、数字が切れたら消えてしまって!」
「安心しなさい、椛。スペルの有効期間、一年が経過したら、すぐにまた同じスペルが宣言されます」
顔をあげる。それなら、よかった。まだ生き続けることが、できる。
いや、待てよ。どちらにせよ、一回消えるような……。
「それに伴って、私たちも生まれ変わります。ただし……」
「た、ただし?」
今度は、文様のほうが深呼吸。「いい、椛」と枕詞を置いて、言った。
「必要最低限の知識を除いて、記憶が初期化されます」
「初期化……皆、消えちゃうってこと!?」
「ええ。そうしないと、肉体的にも精神的にも、若いまま未来に持ち越すことが、できない」
と、いう事はである。
仮に、どんなに天狗同士の仲がうまくいったところで、一年経てば全て終わりである。
文様のために、ここまでやってきたが、全て水の泡だ。
「どうして……。どうしてわざわざ、スペルを使えって……」
「椛に、気づいてほしかったんです。あなたの気持ちを聞いて、私も嬉しかったのですよ。だけど、状況が状況でした」
「今、文様、嬉しいって……」
「だけどそれは、種族的に叶わぬ夢。すぐに二人は、ただの上司と部下に戻ってしまう」
眩暈がした。文様のちょっとした好意だって、今となっては残酷だ。
今の自分が消えて、文様も消えてしまったら、別人が別人として未来を送ってしまう。
それはもう、私なのかそうでないのか、分からない。
未来で、仮にまた文様とうまくいったとしても、結局また、引き裂かれる。
「文、様……」
瞬間だった。
視界の最端の99が、初めて動いた。
「あ! あ、文様! 99が動いて! あ、あ、今、96に! どど、ど、どうしま、文様!」
「とうとう、その時が来るみたいですね」
「その時って文様、まさか!?」
「そうです。スペルの更新日は、他ならぬ今日です」
「よりによって! どうして、どうして文様、今日を待ち合わせに!」
そもそも最近、文様の行動はおかしかったではないか。
連日連夜のように知り合いに会いに行き、しょちゅう飲んで帰ってきて。
私に会うときに限って、消えてしまう日。そんなに辛い目にあわせたいのか。
不満が爆発しそうになった瞬間、消え入るような声が耳に飛び込んだ。
「えっとー……。あの、私。最後は、椛と一緒が良かった、ので」
「最後は、私、を……。私、と。……あ。そうなんですか! 文様、文様!」
たまらず、文様めがけて飛び込んだ。
視界がぐらりと揺れたかと思うと、文様の胸元でしっかりと止まった。
背中に、腕がまわった。
「あやや、椛ったら。甘えん坊さんですねえ」
「いいじゃないですか、最後なんですし。……あれ、文様、さっき何か落としました?」
地に、白い紙切れが落ちていた。先ほどの衝撃で、文様の懐からこぼれたものだろう。
「うん? ああ、椛の手紙ですね」
「ずっと持っててくださったんですね! 嬉しいです! 文様、それじゃあ……」
「あ、私もその、受け取って。椛の気持ちが手紙に残ってて、嬉しくて」
「それじゃあ文様は、私のこと……。あれ。えっと、文様、今なんと?」
「どうしました? えっと、手紙を読んで、椛の気持ちが手紙に残って」
顔を見合わせて、同時に息を吸った。
そうだ。自分たちの記憶が消えたとしても。
「気持ちを遺せばいいじゃないですか!」
「椛! 残りの数字はあとどれくらいです?」
「20です! 急ぎましょう!」
だけど、この山中において、すぐに書き遺せるようなものなんて、無い。
時間が、刻々と迫っている。日が、すっかり姿を隠そうとしている。
「ありました、これです! これに書きましょう椛!」
「それって……。文花帖とペン! さすがです!」
文様がすらすらと走り書きする。
ものの数秒で、書き終わった。
「椛も! 椛もです!」
千切ったその貢とペンを、渡される。
「今度こそ、ちゃんと書くんだ」
手紙では書けなかった、「好き」の文字を、そこに刻んでゆく。
これで、未来の私たちも、きっと。
「できた、書けました!」
時間がない。本能が、足を動かした。
どちらからともなく、歩み寄って、文様との距離が近くなっていく。
もう一度だけ、抱擁。
「椛、明日になっても、一緒ですからね?」
「はい。はい! あの、文様。文様は、私のこと」
そこから先は、舌が動かなかった。
何もかも、黒くて、静かで、味気ない。
体の内側から、大気へ溶けていく。
最後に見たものは、暗闇に浮かぶ「B」の文字だった。
「やっほー椛。遊びに来たよー」
その声に、目が覚めた。
誰だ、私の寝床に無許可で入り込むやつは。
「ふえ……? あ、あれ、どちら様?」
「あら、また出ちゃったよ、椛の記憶喪失。それとも、寝ぼけてる?」
「寝ぼけてなんか……。うーん? 天狗の仲間じゃないみたいだし……」
「ほら、にとりだよ。河城にとり! やっぱり、思い出せない?」
「あ、えと、ごめんなさい……」
「やれやれ、またかー。ちょっと待っててね」
言うだけ言っておいて、ぱたぱたと部屋を出て行った。
何なんだろう彼女。変に馴れ馴れしいぞ。まあ、悪い妖怪じゃなさそうだから、いっか。
布団をたたんで、寝巻きから着替え終わったところで、彼女が戻ってきた。
「ほら、これ。この新聞見て」
「ええっと? 『にとり氏、お手製のボムで自爆。友の役に立ちたかった……』」
「ね、思い出してきた? 思い出してきた?」
「あー、うん。あったと思う」
実際は全く、身に覚えが無い。
でも、新聞に書いてあるんだ。きっと事実だろう。
「それにしても、新聞記者がそこそこの地位にいるって、天狗ってのは変な社会を作るもんだねえ」
「まあねえー。多分天魔様が、すっごい新聞好きなんじゃないかな」
「ふーん、なるほどねえ」
言われてみれば、不思議だ。新聞、なんで作ってるんだろう。大した収入源にもならないのに。
友人らしいにとりさんが、スカートのポケットをごそごそとし始めた。
「さて、本日の本題です」
「あ、何か用があったの?」
「えっと……昨晩、山を歩いてたら、こんなのが落ちていたんだけど、見る?」
「ん? 何、手紙?」
一枚、端の破れた紙を手渡される。
やっぱり見覚えは、無い。
「えっと、文さんとうまくやりなよ? 応援、してるから」
「へ? 一体どういう……」
ひとまず、紙の内容を見ることにした。うわ、汚い字。読めるかなあ。
「あや、は、もみじ、と、こいび……。え? ええ!?」
仮にも、上司。その上、女性同士。いつの間にそんな積極的になったんだ私!?
「……で、椛さんはー。どこまで行ったの?」
「ちょっと待って、知らないって! 本気で知らない!」
「シラを切るつもりなんだねえ、椛さーん」
「違う、本当なの! じゃあ、分かった。いいよ。文様に確認しにいく!」
「愛の確認ですかー。いい響き。おあついねえ、おあついねえ」
「変なこと言わない!」
ああ。どうなっているんだろう、この世の中。
誰だよ。運命の神様の頭の中に、ピンクのペンキを流し込んだ奴。
知らないうちに上司と恋仲になっているなんて。
「でも……」
そんなことも、たまにあって良いんじゃないかな。ふと、そう思ったのだった。
私の心を見透かしたように、にとりさんのスペルカードが、高らかに笑った。
単なる妄想ではなく、原作への愛と敬意がこもっているこの作品に、
最大限の賛嘆と敬意を込めて。
‥で、『一日に玄米四合と味噌と少しの野菜』って、宮沢賢治ですかっ(爆笑)
ふわふわ具合が絶妙。他の話も読んでみたくなった。
しかし発想がすごい…こんな話普通思い付きませんよ。
考えようによっちゃ悲しいお話の筈なのにとっても温かいこの雰囲気が素敵です。
それにしても、前半部で語られるスペルカードルールが妙に野球チックだw
おなじみのあやもみじな話がたどり着く、幻想郷の理ですか。
こういうSFの最後にでてきそうな不思議世界も好きなので、楽しめました。
こんな幻想郷は初めて見た。
あの焦燥感を煽るカウント音が、今はちょっとだけ切なく聞こえる。
文句なしの百点です。
・・・・さ、最後ちょっと眼が熱くなったとか、ないんだからなっ!
まじめに作者さんの頭のなかを見てみたい感じです。
そして今では珍しくなってしまったあやさまーの椛ですね。
DS以降すっかり関係が変わった両者ですが、このようなSSも良いよなぁと思いながら。