※「別つ目・上」からの続きとなっております。
先にそちらに目を通していただけるよう、お願いいたします!じゅわっち!
「咲夜。」
この呼びかけは、もう何度目になるだろうか。
太陽は先ほどから大あくびをして、今にも地平線という布団の中に、頭の先まで隠れてしまいそうだ。
空はもう、赤というには濃すぎる色をしている。
せっかちな月が黒衣のマントを翻し、陽と陰の境目をかき混ぜているせい。
普段ならそろそろ風呂に入る時間なのだが、今は風呂場に咲夜が立て篭もっていて、湯を沸かすことができない。
今夜は長期戦になりそうだな、と一人考えながら、美鈴は風呂場の戸を叩き続けるのだ。
咲夜、咲夜。
何度呼びかけても返事は無く、代わりにすすり泣くような声が、時々聞こえた。
必死に押し殺した嗚咽が、美鈴の耳に届く。
それがたまらなく切なくて、だからこそ美鈴はこの扉の前を離れないのだ。
「咲夜。」
今はきっと、何を言っても言い訳にしかならない。
それでも、どうしても言っておきたい言葉があった。
目を見て、しっかりと。
その体を抱きしめて、伝えておきたいことがあった。
「咲夜。」
出てきて、とは言えない。
ごめんね、とは・・・言わない。
謝って終わりにはしたくない。
自分が何を思って、どんな決意でいたのか。
そしてこれからどんな想いで咲夜を送り出すのか。
それを伝えぬまま、謝って終わりにしたくはなかった。
「咲夜。」
呼びかけるばかりで能がない。
けれど、今の自分にできるのはこればかり。
目を見て伝えたいと我侭を通し、謝って終わりたくないと頑なにいる。
かといって出てきてくれとは、言えない。
臆病で自分勝手な自分が唯一できる事、それは、ただその名前を呼ぶことだけだ。
彼女が来た日に、初めて自分から望んでくれた。
咲夜と呼ぶことを、願ってくれた。
だからこそせめて、想いをこめながら、その名を呼び続けよう。
たとえばそれが夜通しであっても、たくさんの日をまたぎ、驚くほどの時間が経ってしまったとしても。
咲夜があきらめて出てきてくれるまで、呼び続けよう。
仕方ないなぁと、やけに大人びた顔で笑ってくれるまで。
それからでも遅くはない。
そう思う。
「咲夜。」
何度目かの囁きは、もう吐息に近かった。
この想いが届けばいい。
願いながら、目を閉じる。
冷たい扉の前に跪き、祈るように額を押し当てた。
無機質なそれに触れても、咲夜の温もりを感じられるわけではなかったが。
それでも、この板一枚挟んだ向こう側に彼女がいるのだと思うと、なんだか無性に愛おしかった。
「寒くないですか。」
その愛おしさを抱きながら口を開いたら、不思議と、今までとは違う言葉が漏れる。
これだけ冷たい扉の向こう。
こちらの部屋とは違って暖かくないそこにいて、体が冷えてしまわないかと。
そう思っては、言えなかった「出てきて」を、言えるような気になった。
「・・・。」
扉の向こう側からの応答はなし。
苦笑して、美鈴はもう一度口を開く。
「寒かったらタオルケット、まいててくださいね。」
言ってから、我ながら気の利かない言葉だと思った。
言えるかと思った「出てきて」は、結局思うばかりで形にはならなくて。
それに少しだけ悲しくなったら、扉の向こうの気配が動く。
「・・・寒い。」
それは、小さな小さな呟きだった。
けれどまるで、美鈴には、その言葉が自分の背中を押してくれているような気がしたのだ。
「・・・じゃあ、出てきませんか?冷えますよ。」
我ながら滑稽なほど、声が震える。
跪いていた膝を立ち上げて、一歩下がった。
「咲夜。」
そうして促すように呼びかけると、目の前の扉がゆっくりと開く。
その影から、泣き腫らした顔の咲夜が出てきて、美鈴は胸が苦しくなった。
巨像に踏まれたとて、これほどに苦しいことなど無いだろう。
そう思う。
咲夜は俯き顔を上げなかったが、逃げようともしなかった。
だから美鈴はその肩にそっと手を置いて、いつかのように言ったのだ。
「お茶を淹れましょうね。コーヒーやココアもありますよ。」
言ってから、あぁ、気の利かない台詞だなぁと、苦く・・・笑った。
■ ■ ■ ■
「咲夜。」
呼びかけは一度きり。
後につづく言葉は無かった。
暖かいミルクティーを飲んだ咲夜は、まだ目が赤く充血していたけれど、それでも泣いて美鈴を拒絶する事はしない。
むしろその瞳は穏やかで、湖面のような静けさに、思わず美鈴が息を呑んだくらいだ。
「私は・・・。」
何を、何から。
どう話せばいいのか迷う美鈴を見つめながら、咲夜が先に口を開く。
「私は、美鈴と一緒にいたい。」
そしてぽろりとそんなことを言うから、鼻の奥がつんと痛んだ。
なんて、素直な一言だろう。
目を細める美鈴から、咲夜はゆっくりと視線を外す。
空になったカップを手で玩びながら、ぽつりぽつりと、小さな声で話し続けた。
「美鈴と一緒に門番をやって、美鈴と一緒に寝て、美鈴と一緒に食事をして。」
指折り数えるように。
まるで歌うように、咲夜は言う。
「そんな風に、すごしていたい。」
「咲夜・・・。」
「でもね。」
何かいいかけた美鈴を遮って、咲夜は口元だけで微笑んだ。
少し伸びた前髪が少女の顔を隠し、その全貌は窺えない。
「でもね。美鈴が嫌になったって言うなら、仕方ないなって。」
呟く言葉は、所々かすれて、震えていた。
「この半年間、ずっと一緒にいてくれたものね。私につきっきりで・・・、疲れたよね。」
泣いているのだろうか。
カップを掴む手が白くなって、時々ひくりと、小さな肩が揺れる。
何か言わなければ。
そう思うのに、喉が熱くて、美鈴は言葉を搾り出すことができなかった。
重い沈黙が、部屋に響く。
何かを言おうと苦しみながら、それでも美鈴は何も言えない。
思い浮かぶのは陳腐な言葉ばかりで、これでは咲夜の不安や悲しみを煽るだけだ。
それでも何か、何か一言言わなければ。
生まれてからこれまで、誰かのためにこれほど苦しんだことがあっただろうか。
場違いな感慨を抱きながら、咲夜の肩に手を伸ばす。
触れても、いいのだろうか。
この瞬間に。
ためらう自分の手のひらが、その細くて小さな肩に触れる直前。
空っぽのティーカップに、透明な雫がぽたりと落ちた。
ぽつぽつと、いくつも落ちては、はじけていく雫。
透明なそれが涙だと気付くまでに、少しかかった。
「ごめ・・・っ!」
慌てたように、咲夜が口元を覆う。
尻切れトンボな謝罪が、思いのほか大きく部屋に響いた。
「ごめ、ごめんなさい・・・っ。ごめん・・・っ!」
何度も謝罪を繰り返しながら、乱暴にティーカップを置いて立ち上がる。
がたりと大きな音がして、椅子が倒れた。
「咲夜!!」
「離して!!」
走り去ろうとする背中を、寸でのところで捕まえる。
それに彼女は抵抗したが、美鈴はそれを、ただ抱きしめることで押さえ込んだ。
「離してよ・・・!!」
「嫌です。」
「はなして・・・っ。」
「・・・いやだ。」
小さな体は、力を入れすぎたら折れてしまいそうで。
壊してしまったらどうしようと震えながら、美鈴は咲夜を抱きしめる腕に力をこめる。
「優しくしないで・・・。」
「咲夜・・・。」
「邪魔になったんでしょ?!だったら優しくしないでよ・・・っ!!」
もがく体が腕の中で軋むが、それでも美鈴は、腕の力を緩める事はしなかった。
離して、と。
咲夜が懇願する。
どうして離せるというのだろう。
自分を好きだといってくれる少女を。
離れることを悲しんでくれる、この子を。
「・・・離しません。」
ねぇ。
ゆっくりと、自分自身に問いかける。
私は、この子が邪魔だった?
答えはすぐさま返ってくる。
そんなことは無い。そんなことありえない。
傍にいてくれるだけで暖かくて、微笑んでくれれば嬉しくなる。
彼女の一喜一憂がそのまま自分自身の一喜一憂だったというのに、邪魔になんて思うものか。
いつもこの子を知ろうと心がけて、笑顔になってくれる方法を模索していた。
それは確かに疲労を伴う時期もあったけれど、決して嫌などではなかった。
思い返せば暖かくて、まだほんの半年間のことなのに、まるで宝石のようだ。
長い長い自分の一生のうち、瞬きにも満たない期間だというのに。
これほど大切に抱いて、微笑んでいる。
その想いをくれたのは咲夜なのに、そんな少女を邪魔に思うはずも無かった。
「・・・邪魔なんかじゃない。」
「うそ。」
「邪魔なんかじゃないんです。違う。」
「・・・うそ。」
抱きしめた少女の髪に、頬を寄せる。
全身で包み込むように抱きしめながら、美鈴はもう一度、違うと言った。
「邪魔になったわけでも、疲れたわけでもありません。」
「・・・・・。」
「あぁ、こんなことになるなら、もっと早くから話をしておけばよかった。」
腕の中の咲夜は、もう抵抗はしない。
ただ体を固くしていて、その様子がまるでこの邸に初めて来たときのようで、少しだけ悲しかった。
「私はね、咲夜。貴女をだましたつもりも、体よく追い出そうとしたつもりもありません。」
言葉を選びながら、ゆっくりと話していく。
息を吸い込んだら、子供特有の甘い匂いがした。
「貴女は磨けば光る、まだまだ、無限の世界が広がっています。だからこそ、私は選ばなければならなかった。」
半年。
お遊びは、そこまでが限度だったのだ。
咲夜に、紅魔館で生きていく術を掴ませるには、行動を始めなければならなかった。
「咲夜、貴女は、空を直視できませんね。」
「・・・っ!」
次いで美鈴が言った言葉に、咲夜はびくりと肩を揺らす。
体は口よりも饒舌に、その言葉を肯定した。
「以前から、貴女を見ているときに感じる違和感が何なのか、考えていました。」
それは、外に出るときほど顕著で、懸念は推測に変わり、その推測が確証に変わるまで、大した時間はかからなかった。
「人は外に出たとき、無意識に空を扇ぐ。隣にいる連れがそうしたなら、なおさらです。」
けれど咲夜は、美鈴が空を見上げても、つられて顔を上げる事はしない。
はじめは興味が無いのかと思ったが、それは彼女が寝込んだ時に否定された。
むしろ興味はあり気なのに、それでも見ないのは、何故か。
「強すぎる光を、直視できないんですね。」
咲夜は夜目が利く。
夜の闇の中でも、正確に相手の位置を把握し、迷い無く足を踏み出せた。
人間としてはあり得ないほど、夜に慣れているのだ。
けれど、鍛えられた目は、同時に弱点にもなっていて。
常に開いている瞳孔は、過多に光を吸収し、眩暈にも似た感覚を、咲夜に与え続けていた。
「妖怪と対峙する様子を見ていて思ったんです。相手が大きければ大きいほど、攻撃の回数が増えていると。」
いくら体躯が大きかろうと、急所を心得ている咲夜ならば一撃で倒すことなど造作も無い。
だというのに、相手の上背があればあるほど、立ち止まり悩む場面が多かった。
「空を背にされると、光が溢れて前が見えなくなるのでしょう。」
それはこの間の戦いで、改めて確信へと変わった。
反射神経が鋭すぎて、ゆっくりな動きに対応できないのかとも考えたが、流水の動きにはきっちりと常人並みの反応を示した。
動体視力には、ずば抜けたものは見られなくて。
ならばと空を背につけ攻撃したら、まさしく予想通りの反応。
あぁ、この子は空を直視できないんだ。
すばやく急所をとりに行きながら、そう思ったのだ。
「ねぇ咲夜。人には、分相応、というものがあります。」
抱きしめる小さな体は、もう抵抗はしない。
今では、体に入っていた力も抜け、その体重は美鈴の腕に預けられていた。
「門番を続ける限り、空には向き合い続けなければいけません。」
もしかしたらその能力のせいで、不覚を取る事だってあるかもしれないのだ。
そうなってしまう前に、手を打っておきたかった。
どうしても。
「私は貴女を追い出したかったわけじゃないんです。ただ、その力を存分に発揮できる場所を作ってもらいたかった。それだけなんです。」
抱きしめる腕を、ようやく解いた。
振り向いた咲夜は、精一杯腕を伸ばして、中腰の美鈴の首に腕を回す。
「どうしてそういうことを、今になって言うの・・・っ!」
「すみません。」
門番としての生活習慣が完全についてしまったら、屋敷内メイドとして働き出すのは難しくなる。
だからと急いた結果がこれでは、目も当てられなかった。
「咲夜、私はね、思うんです。」
「うん。」
「貴女がここに来たのは、運命だったんじゃないかなって。」
それがたとえば、元来あったものか、能力者によって手繰り寄せられたものか。
そんなの、この際どちらでもかまわない。
「私は敵を切り裂く一振りの剣であり、貴女は身を守る懐刀であった。そう思ったら、綺麗に当てはまって、なんだか嬉しいでしょう?」
膝をついて、同じ高さで咲夜を抱きしめたら、美鈴の言葉に頷くように、先ほどよりも強く、その腕が首に絡んだ。
あぁ、愛おしい。
「お互いに在るべき場所があって、それを全うすることで一緒にいられるなら、それに勝る幸いもありません。」
頬を摺り寄せると、さらさらとした銀灰の髪があたってくすぐったかった。
泣いているのだろうか。
時々震える背中を撫でさすって、美鈴は目を閉じる。
事前にこのことを言わなかったのは、咲夜本人からこの事実を聞きたくなかったからかもしれない。
できれば、自分の見間違いでありますように、と。
そう知らず知らず願っていたのかもしれなかった。
あぁ、一緒にいたかったんだ。
今更再認識しながら、美鈴は咲夜の背に回す腕の力を強くする。
その力に押されるように吐き出された息が、ただ熱く美鈴の首元を撫でていった。
「すき、めいりん。」
囁きは、ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さくて。
けれども、しっかりとそれを聞き取った美鈴は、嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑む。
抱きしめた体は相変わらず軽く、小さくて。
あぁ、どうか、と。
この体温と共に在れる未来を、強く願った。
「私も好きですよ、咲夜。」
返す囁きもまた、部屋に溶けていく。
今日で二人の道は別れるけれど、これは悲しいものではない。
お互いが笑い続け、未来で共に在る為の、大切な布石なのだ。
それをしっかりと理解しながらも、この温もりを離すことが名残惜しくて。
今生の別れというわけでもないのに、この日二人は、いつまでもお互いの心を抱きしめていた。
先にそちらに目を通していただけるよう、お願いいたします!じゅわっち!
「咲夜。」
この呼びかけは、もう何度目になるだろうか。
太陽は先ほどから大あくびをして、今にも地平線という布団の中に、頭の先まで隠れてしまいそうだ。
空はもう、赤というには濃すぎる色をしている。
せっかちな月が黒衣のマントを翻し、陽と陰の境目をかき混ぜているせい。
普段ならそろそろ風呂に入る時間なのだが、今は風呂場に咲夜が立て篭もっていて、湯を沸かすことができない。
今夜は長期戦になりそうだな、と一人考えながら、美鈴は風呂場の戸を叩き続けるのだ。
咲夜、咲夜。
何度呼びかけても返事は無く、代わりにすすり泣くような声が、時々聞こえた。
必死に押し殺した嗚咽が、美鈴の耳に届く。
それがたまらなく切なくて、だからこそ美鈴はこの扉の前を離れないのだ。
「咲夜。」
今はきっと、何を言っても言い訳にしかならない。
それでも、どうしても言っておきたい言葉があった。
目を見て、しっかりと。
その体を抱きしめて、伝えておきたいことがあった。
「咲夜。」
出てきて、とは言えない。
ごめんね、とは・・・言わない。
謝って終わりにはしたくない。
自分が何を思って、どんな決意でいたのか。
そしてこれからどんな想いで咲夜を送り出すのか。
それを伝えぬまま、謝って終わりにしたくはなかった。
「咲夜。」
呼びかけるばかりで能がない。
けれど、今の自分にできるのはこればかり。
目を見て伝えたいと我侭を通し、謝って終わりたくないと頑なにいる。
かといって出てきてくれとは、言えない。
臆病で自分勝手な自分が唯一できる事、それは、ただその名前を呼ぶことだけだ。
彼女が来た日に、初めて自分から望んでくれた。
咲夜と呼ぶことを、願ってくれた。
だからこそせめて、想いをこめながら、その名を呼び続けよう。
たとえばそれが夜通しであっても、たくさんの日をまたぎ、驚くほどの時間が経ってしまったとしても。
咲夜があきらめて出てきてくれるまで、呼び続けよう。
仕方ないなぁと、やけに大人びた顔で笑ってくれるまで。
それからでも遅くはない。
そう思う。
「咲夜。」
何度目かの囁きは、もう吐息に近かった。
この想いが届けばいい。
願いながら、目を閉じる。
冷たい扉の前に跪き、祈るように額を押し当てた。
無機質なそれに触れても、咲夜の温もりを感じられるわけではなかったが。
それでも、この板一枚挟んだ向こう側に彼女がいるのだと思うと、なんだか無性に愛おしかった。
「寒くないですか。」
その愛おしさを抱きながら口を開いたら、不思議と、今までとは違う言葉が漏れる。
これだけ冷たい扉の向こう。
こちらの部屋とは違って暖かくないそこにいて、体が冷えてしまわないかと。
そう思っては、言えなかった「出てきて」を、言えるような気になった。
「・・・。」
扉の向こう側からの応答はなし。
苦笑して、美鈴はもう一度口を開く。
「寒かったらタオルケット、まいててくださいね。」
言ってから、我ながら気の利かない言葉だと思った。
言えるかと思った「出てきて」は、結局思うばかりで形にはならなくて。
それに少しだけ悲しくなったら、扉の向こうの気配が動く。
「・・・寒い。」
それは、小さな小さな呟きだった。
けれどまるで、美鈴には、その言葉が自分の背中を押してくれているような気がしたのだ。
「・・・じゃあ、出てきませんか?冷えますよ。」
我ながら滑稽なほど、声が震える。
跪いていた膝を立ち上げて、一歩下がった。
「咲夜。」
そうして促すように呼びかけると、目の前の扉がゆっくりと開く。
その影から、泣き腫らした顔の咲夜が出てきて、美鈴は胸が苦しくなった。
巨像に踏まれたとて、これほどに苦しいことなど無いだろう。
そう思う。
咲夜は俯き顔を上げなかったが、逃げようともしなかった。
だから美鈴はその肩にそっと手を置いて、いつかのように言ったのだ。
「お茶を淹れましょうね。コーヒーやココアもありますよ。」
言ってから、あぁ、気の利かない台詞だなぁと、苦く・・・笑った。
■ ■ ■ ■
「咲夜。」
呼びかけは一度きり。
後につづく言葉は無かった。
暖かいミルクティーを飲んだ咲夜は、まだ目が赤く充血していたけれど、それでも泣いて美鈴を拒絶する事はしない。
むしろその瞳は穏やかで、湖面のような静けさに、思わず美鈴が息を呑んだくらいだ。
「私は・・・。」
何を、何から。
どう話せばいいのか迷う美鈴を見つめながら、咲夜が先に口を開く。
「私は、美鈴と一緒にいたい。」
そしてぽろりとそんなことを言うから、鼻の奥がつんと痛んだ。
なんて、素直な一言だろう。
目を細める美鈴から、咲夜はゆっくりと視線を外す。
空になったカップを手で玩びながら、ぽつりぽつりと、小さな声で話し続けた。
「美鈴と一緒に門番をやって、美鈴と一緒に寝て、美鈴と一緒に食事をして。」
指折り数えるように。
まるで歌うように、咲夜は言う。
「そんな風に、すごしていたい。」
「咲夜・・・。」
「でもね。」
何かいいかけた美鈴を遮って、咲夜は口元だけで微笑んだ。
少し伸びた前髪が少女の顔を隠し、その全貌は窺えない。
「でもね。美鈴が嫌になったって言うなら、仕方ないなって。」
呟く言葉は、所々かすれて、震えていた。
「この半年間、ずっと一緒にいてくれたものね。私につきっきりで・・・、疲れたよね。」
泣いているのだろうか。
カップを掴む手が白くなって、時々ひくりと、小さな肩が揺れる。
何か言わなければ。
そう思うのに、喉が熱くて、美鈴は言葉を搾り出すことができなかった。
重い沈黙が、部屋に響く。
何かを言おうと苦しみながら、それでも美鈴は何も言えない。
思い浮かぶのは陳腐な言葉ばかりで、これでは咲夜の不安や悲しみを煽るだけだ。
それでも何か、何か一言言わなければ。
生まれてからこれまで、誰かのためにこれほど苦しんだことがあっただろうか。
場違いな感慨を抱きながら、咲夜の肩に手を伸ばす。
触れても、いいのだろうか。
この瞬間に。
ためらう自分の手のひらが、その細くて小さな肩に触れる直前。
空っぽのティーカップに、透明な雫がぽたりと落ちた。
ぽつぽつと、いくつも落ちては、はじけていく雫。
透明なそれが涙だと気付くまでに、少しかかった。
「ごめ・・・っ!」
慌てたように、咲夜が口元を覆う。
尻切れトンボな謝罪が、思いのほか大きく部屋に響いた。
「ごめ、ごめんなさい・・・っ。ごめん・・・っ!」
何度も謝罪を繰り返しながら、乱暴にティーカップを置いて立ち上がる。
がたりと大きな音がして、椅子が倒れた。
「咲夜!!」
「離して!!」
走り去ろうとする背中を、寸でのところで捕まえる。
それに彼女は抵抗したが、美鈴はそれを、ただ抱きしめることで押さえ込んだ。
「離してよ・・・!!」
「嫌です。」
「はなして・・・っ。」
「・・・いやだ。」
小さな体は、力を入れすぎたら折れてしまいそうで。
壊してしまったらどうしようと震えながら、美鈴は咲夜を抱きしめる腕に力をこめる。
「優しくしないで・・・。」
「咲夜・・・。」
「邪魔になったんでしょ?!だったら優しくしないでよ・・・っ!!」
もがく体が腕の中で軋むが、それでも美鈴は、腕の力を緩める事はしなかった。
離して、と。
咲夜が懇願する。
どうして離せるというのだろう。
自分を好きだといってくれる少女を。
離れることを悲しんでくれる、この子を。
「・・・離しません。」
ねぇ。
ゆっくりと、自分自身に問いかける。
私は、この子が邪魔だった?
答えはすぐさま返ってくる。
そんなことは無い。そんなことありえない。
傍にいてくれるだけで暖かくて、微笑んでくれれば嬉しくなる。
彼女の一喜一憂がそのまま自分自身の一喜一憂だったというのに、邪魔になんて思うものか。
いつもこの子を知ろうと心がけて、笑顔になってくれる方法を模索していた。
それは確かに疲労を伴う時期もあったけれど、決して嫌などではなかった。
思い返せば暖かくて、まだほんの半年間のことなのに、まるで宝石のようだ。
長い長い自分の一生のうち、瞬きにも満たない期間だというのに。
これほど大切に抱いて、微笑んでいる。
その想いをくれたのは咲夜なのに、そんな少女を邪魔に思うはずも無かった。
「・・・邪魔なんかじゃない。」
「うそ。」
「邪魔なんかじゃないんです。違う。」
「・・・うそ。」
抱きしめた少女の髪に、頬を寄せる。
全身で包み込むように抱きしめながら、美鈴はもう一度、違うと言った。
「邪魔になったわけでも、疲れたわけでもありません。」
「・・・・・。」
「あぁ、こんなことになるなら、もっと早くから話をしておけばよかった。」
腕の中の咲夜は、もう抵抗はしない。
ただ体を固くしていて、その様子がまるでこの邸に初めて来たときのようで、少しだけ悲しかった。
「私はね、咲夜。貴女をだましたつもりも、体よく追い出そうとしたつもりもありません。」
言葉を選びながら、ゆっくりと話していく。
息を吸い込んだら、子供特有の甘い匂いがした。
「貴女は磨けば光る、まだまだ、無限の世界が広がっています。だからこそ、私は選ばなければならなかった。」
半年。
お遊びは、そこまでが限度だったのだ。
咲夜に、紅魔館で生きていく術を掴ませるには、行動を始めなければならなかった。
「咲夜、貴女は、空を直視できませんね。」
「・・・っ!」
次いで美鈴が言った言葉に、咲夜はびくりと肩を揺らす。
体は口よりも饒舌に、その言葉を肯定した。
「以前から、貴女を見ているときに感じる違和感が何なのか、考えていました。」
それは、外に出るときほど顕著で、懸念は推測に変わり、その推測が確証に変わるまで、大した時間はかからなかった。
「人は外に出たとき、無意識に空を扇ぐ。隣にいる連れがそうしたなら、なおさらです。」
けれど咲夜は、美鈴が空を見上げても、つられて顔を上げる事はしない。
はじめは興味が無いのかと思ったが、それは彼女が寝込んだ時に否定された。
むしろ興味はあり気なのに、それでも見ないのは、何故か。
「強すぎる光を、直視できないんですね。」
咲夜は夜目が利く。
夜の闇の中でも、正確に相手の位置を把握し、迷い無く足を踏み出せた。
人間としてはあり得ないほど、夜に慣れているのだ。
けれど、鍛えられた目は、同時に弱点にもなっていて。
常に開いている瞳孔は、過多に光を吸収し、眩暈にも似た感覚を、咲夜に与え続けていた。
「妖怪と対峙する様子を見ていて思ったんです。相手が大きければ大きいほど、攻撃の回数が増えていると。」
いくら体躯が大きかろうと、急所を心得ている咲夜ならば一撃で倒すことなど造作も無い。
だというのに、相手の上背があればあるほど、立ち止まり悩む場面が多かった。
「空を背にされると、光が溢れて前が見えなくなるのでしょう。」
それはこの間の戦いで、改めて確信へと変わった。
反射神経が鋭すぎて、ゆっくりな動きに対応できないのかとも考えたが、流水の動きにはきっちりと常人並みの反応を示した。
動体視力には、ずば抜けたものは見られなくて。
ならばと空を背につけ攻撃したら、まさしく予想通りの反応。
あぁ、この子は空を直視できないんだ。
すばやく急所をとりに行きながら、そう思ったのだ。
「ねぇ咲夜。人には、分相応、というものがあります。」
抱きしめる小さな体は、もう抵抗はしない。
今では、体に入っていた力も抜け、その体重は美鈴の腕に預けられていた。
「門番を続ける限り、空には向き合い続けなければいけません。」
もしかしたらその能力のせいで、不覚を取る事だってあるかもしれないのだ。
そうなってしまう前に、手を打っておきたかった。
どうしても。
「私は貴女を追い出したかったわけじゃないんです。ただ、その力を存分に発揮できる場所を作ってもらいたかった。それだけなんです。」
抱きしめる腕を、ようやく解いた。
振り向いた咲夜は、精一杯腕を伸ばして、中腰の美鈴の首に腕を回す。
「どうしてそういうことを、今になって言うの・・・っ!」
「すみません。」
門番としての生活習慣が完全についてしまったら、屋敷内メイドとして働き出すのは難しくなる。
だからと急いた結果がこれでは、目も当てられなかった。
「咲夜、私はね、思うんです。」
「うん。」
「貴女がここに来たのは、運命だったんじゃないかなって。」
それがたとえば、元来あったものか、能力者によって手繰り寄せられたものか。
そんなの、この際どちらでもかまわない。
「私は敵を切り裂く一振りの剣であり、貴女は身を守る懐刀であった。そう思ったら、綺麗に当てはまって、なんだか嬉しいでしょう?」
膝をついて、同じ高さで咲夜を抱きしめたら、美鈴の言葉に頷くように、先ほどよりも強く、その腕が首に絡んだ。
あぁ、愛おしい。
「お互いに在るべき場所があって、それを全うすることで一緒にいられるなら、それに勝る幸いもありません。」
頬を摺り寄せると、さらさらとした銀灰の髪があたってくすぐったかった。
泣いているのだろうか。
時々震える背中を撫でさすって、美鈴は目を閉じる。
事前にこのことを言わなかったのは、咲夜本人からこの事実を聞きたくなかったからかもしれない。
できれば、自分の見間違いでありますように、と。
そう知らず知らず願っていたのかもしれなかった。
あぁ、一緒にいたかったんだ。
今更再認識しながら、美鈴は咲夜の背に回す腕の力を強くする。
その力に押されるように吐き出された息が、ただ熱く美鈴の首元を撫でていった。
「すき、めいりん。」
囁きは、ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さくて。
けれども、しっかりとそれを聞き取った美鈴は、嬉しそうに、本当に嬉しそうに微笑む。
抱きしめた体は相変わらず軽く、小さくて。
あぁ、どうか、と。
この体温と共に在れる未来を、強く願った。
「私も好きですよ、咲夜。」
返す囁きもまた、部屋に溶けていく。
今日で二人の道は別れるけれど、これは悲しいものではない。
お互いが笑い続け、未来で共に在る為の、大切な布石なのだ。
それをしっかりと理解しながらも、この温もりを離すことが名残惜しくて。
今生の別れというわけでもないのに、この日二人は、いつまでもお互いの心を抱きしめていた。
これから館の内部で咲夜は活躍していくのでしょうか。
次回がどうなるのか、とても楽しみですね。
期待してます。
道を指し示す美鈴の優しさ。感涙ものです。
咲夜が最初からメイド長候補として育てられるというSSが多いなか、
今回のような話はすごく新鮮でした!次回を楽しみにしています!
もうなんか泣けてきた…
素晴らしいめーさくをありがとう・・・・・!!!
空が見れないという設定も中々いいですね。
次回作楽しみにしてます!
そして心が温まる…感動を有難う!
素晴らしい
めーさく最高っ