縁側には三人で座りましょう 後編 (前編は作品集70にあります)
「ねえ、紫」
とある時間のとある博麗神社の縁側。
霊夢は隣に座る紫に問いかけた。
「もしも世界が消えてしまったとしたらどうする?」
紫は心底訳が分からないといった具合で首をかしげる。
「今こうして世界はあるじゃないの」
「……それが嘘だとしたら?」
「嘘?」
「本当の世界はもう消えてなくなってしまったとか」
「あら、大胆な説ね」
「この世界は偽りの世界なのかもしれないって、そう思ったことはない?」
「……そうねえ」
桜の木の下でしゃがみ込んでせっせと花びらを拾っている女の子を、紫は愛おしそうに目を細めて見やっていた。
「何が本物か分からなくて怖いのかしら?」
霊夢は難しい顔をしたままその問いに答えなかったので、紫は困ったように視点を上に泳がせ、小さく溜息をついて微笑む。
「どうしても分からないなら、分からなくていいんじゃないかしら」
「……え?」
「だって考えても仕方ないんでしょ?」
「それは……」
紫は微笑んだまま霊夢の答えをじっと待っていた。
「でも……偽りはいずれ終わるわ」
「あら現実もいずれ終わるわ」
「――!」
「現実でも偽りでも、精一杯生きればいいじゃない」
「…………」
うな垂れたままじっと考え込んでしまった霊夢を見て、紫は不思議そうにふうっと息を吐くのだった。
◇◇◇
とろんとしたまどろみの中に霊夢はとっぷりと浸かっていた。
浮力の高い体で全身の力を抜き、一定の間隔で揺らめく水面にふわふわ浮いているような心地良さ。
この感覚を知っていた。
朝目覚める前、半分意識が戻っている状態。
いつまでもこうしていたいと思いつつ、もうじき目覚めてしまうと分かっている期限付き故の楽しみ。
――もう少し寝かせて。何だかとても疲れたの。
何かとても苦しくて嫌な事があったような気がするが、今のうまく働かない頭ではその事について詳しく思い出すことも出来ない。
そして辛い出来事を全て忘れていられるなら、もうずっとこの状態でもいい。
しかしやがて霊夢の願いとは裏腹に、
海と空の境界から、
無意識と意識の境界から、
眠りと目覚めの境界から、
無情にも思考は上へ上へと舞い上がっていく。
――ああ、覚めてしまうんだ。
呆然とした心持ちに落胆が引っ掛かって釣り下がる。
そして誰もが間違いなくそこは空だと言える所まで達した時――
博麗霊夢は目を覚ました。
「…………」
最初に目に飛び込んできたのは見慣れた茶色い板張りの天井だった。所々傷んでひびが入っており、機会があったら修理でもしてやろうと思っていたのだ。
どうやらいつもの博麗神社の和室に布団を敷き、枕の上に頭を置いて布団をかぶって仰向けでいる、という状態らしい。なんてことない、いつもの目覚めと同じだ。
枕に乗せた頭をおもむろに左右に巡らせる。
床の間の壁には昔からある掛け軸が掛かっていて、二羽の鶴が何も無い中心を取り囲むようにして白と黒の羽を優雅に広げている様子が描かれていた。
再び顔を天井に向け、
「……あ」
何となく声を出してみる。ちゃんと口は動くのか、音は出るのか確認したかった。
小さく空気を震わせた声が耳に届くと、どうやら自分の体は正常に機能しているのだと理解する。
「う……」
思い切って半身を起こした。布団がめくれて普段の寝巻き姿があらわになる。
「…………」
次第に寝ぼけた頭がはっきりしてきて、やがて意識の縁に混乱の波がじわりと打ち寄せる。
夢?
何が?
どこまでが?
あの異変。異変と呼べるのかも分からない異常事態。
全てが厚みを失っていって平坦になり、線となって点となって消滅してしまう異変。
あれは夢?
そうなのだろう。
そうなのだ。
あんなこと起きるはずが無い。
変な夢を見てしまっただけなのだ。
「なあんだ……」
拍子抜けしてしまい、霊夢は溜息をついてかくんと肩を落とした。
最後に飛び出してきた八雲紫。
まるで自分を心配するかのようなかつての紫。
あんなこともあり得ない。あの紫が自分を助けに来るはずが無い。あいつは敵なのだ。子を殺した妖怪だ。だから紫にやられ、気を失って起きてからの事が夢だったのだ。
おそらく治療を終えてこの博麗神社に永琳か魔理沙あたりが運んできたのだろう。
「…………」
霊夢は自分のお腹に手を当てた。
今では懐かしいとも思える何も無いぺったんこのお腹。
かつて命があった場所。
「ごめん、ね……」
おそらく声と一緒に枯れ果ててしまったのだろう、涙が出る事はなかった。
体の随所にあったはずの痛みは消えている。あれから何日が経過したのだろうか。
いやそれより、子の遺体はどこにあるのだろう。永遠亭だろうか。ならば引き取りに行かなければいけない。
そうと決まればいても立ってもいられず、霊夢は布団をはねのけて立ち上がった。
いつもの巫女装束に着替えるが、どうやら上着は要らないようだ。何だか今日はやけに暖かい。寝ている間に冬が終わってしまったのだろうか?
外の様子を見ようと、細かな光が洩れ出る襖を開け放った。
縁側に八雲紫が座っていた。
「――なっ!」
まだ少し寝ぼけてぼやっとしていた気持ちが冷水を浴びた時のように一気に吹き飛んだ。
紫はこちらに背を向け、境内をぼんやりと眺めながら暢気に縁側に腰掛けている。脇には盆が置かれ、その上には茶菓子が少々と湯飲みが三つ、僅かに湯気を立ち昇らせて乗っかっていた。
妖怪、八雲紫。
境界を操る程度の能力者にして、霊夢の子を殺した憎むべき敵。
それが今、ぬけぬけと博麗神社にやって来て当然のように縁側に座っている。
――なぜここに?
からかいに来たのだろうか。
ならば、迎え撃つ。
険しい表情でさっと懐に手を入れ、
「――!」
お札を持っていないことに気付いた。
失念していた。お札はいつもの棚の中に――
とそこで、霊夢に気付いた紫がふいっと振り向いてきた。
武器を取りに行っている暇は無い。
ならばお札が無くとも――
霊夢がぎゅっと握り拳を作って睨む中、紫は霊夢の顔を見て――
ふやっとした笑顔を浮かべた。
「――!」
霊夢は思わずぎょっとして顔を強張らせる。
今紫が見せた笑顔はあの時上空で霊夢に向けた誰かを見下したような物でもなく、いつもの穏やかな微笑みだった。
もう見れないと思っていた笑顔。
もう見る必要も無いと思っていた微笑み。
それがなんの躊躇も無く差し向けられ、一瞬怯んだ霊夢はしかし、そんなことで気が緩まないようにぎゅっと気を引き締めた。
紫は至って自然な調子で朗々と言ってのける。
「おはよう、霊夢。お寝坊さんね」
「! なにを――」
何をぬけぬけと。
そう言おうとした霊夢はしかし、動きを止めた。
眉を潜め、体ごとこちらに向き直った紫をじっと見やる。
正確には見ていたのは紫ではなく、その膝の上にちょこんと座る女の子だ。
歳は五歳くらいだろうか、黒髪でおかっぱ頭がよく似合う、利発そうで可愛らしい童女だ。
何故か霊夢が昔着ていた子供用の巫女装束で身を包み、それが何やらとても似合っている。
――誰?
なぜうちの巫女服を着ているの?
それにこの顔立ちをどこかで見たことがある気がする。
口を止めて訝しむ霊夢を見て、女の子は見た者まで幸せにするような屈託の無い無邪気な笑顔を浮かべた。
そしてその小さな口を大きく開けて放った言葉で、霊夢は混乱の海原へと全力で飛び込むことになる。
「あ、ママ! おはよー!」
ただ呆然と、霊夢は立ち尽くしてしまった。
愕然とした顔は固く硬直し、目は見開かれ、半開きにした口の中ではどんな言葉を紡げばいいのかと戸惑う舌がぶるぶる震えて歯ぐきをくすぐる。
――今この子は、この子供は私に向かってなんと言った?
この子は今、私のことを誰だと言った?
ぐるぐると思考が掻き混ぜられ、しかし何かにぶつかることもなく延々と回り続ける。
「ママ、どうしたの?」
女の子が首をかしげて心配そうに霊夢を覗き込む。
それがいよいよ霊夢の意識を理解の領域からどんと突き落とす。
膝が力を失い、へなへなとへたり込んでしまった。
それを見た二人がはっとした様子で駆け寄ってくる。
「霊夢、一体どうしたの?」
「ママどこか痛いの?」
訳が分からない。
この子は誰?
なぜ紫は何事も無かったかのように親しげなの?
自分はまだ夢を見ているのだろうか?
ああそうだ、これは夢の続きなんだ。
だから気を失うまいと必死に抵抗する頭の働きに休みを与えてもいいんだ。
霊夢は糸が切れたようにふっと意識を失った。
◇◇◇
夢ならいいのに。
戦争のことも、
結界の歪みも、
お腹の中の子供に危機が訪れたのも、
紫の手で子供が殺されたことも、
紫が……あんな酷い事を言った事も、
世界が終わってしまった事も、
全部夢ならいいのに。
何事も無く子供を生んで、皆と一緒に子供を育てて。
だったらどんなに良かっただろう。
どこからおかしくなってしまったんだろう。
どこから未来は変わってしまったんだろう。
戦争が起きたから?
紫が子を殺したから?
世界が消えたから?
分からないよ。
ねえ、一体誰に聞けば教えてくれるの?
◇◇◇
一枚の桜の花びらがひらひらと宙を舞っていた。
穏やかな春風に導かれ、縁側で横になる霊夢の頬にそっと着地する。
僅かなくすぐったさが、眠りの縁でぼうっと佇んでいた霊夢の意識を覚醒へとそっと後押しする。
「ん……」
霊夢はそっと目を開けた。
途端、満開の桜が視界を一斉に埋め尽くす。
穏やかな春の日差しを受けた幾本もの桜の木はきらきらと光り輝くようで、もっさりと花びらを付けたその隙間からは空を覗くこともできない。
忘れもしない、毎年見ている博麗神社の桜たちだ。
自分はどうやら何かに頭を乗っけて縁側で横になっているらしい。と回らない頭でぼんやりと思考を巡らせる。
「目を覚ました?」
聞き慣れた声が頭上から投げかけられた。
しかし今はこの声を聞いて穏やかな気持ちになる霊夢はいない。
「――っ!」
霊夢は勢いよく飛び退き身を起こした。
八雲紫が縁側に座って微笑みかけていた。
自分の位置関係を見るに、どうやら膝枕をされていたらしい。
――何をふざけたことを!
そう言おうとした霊夢はしかし、またしても遮られた。
「ママ大丈夫? 疲れたの?」
背後から声を掛けられて全身の毛がぞわりと逆立つ感覚を覚え、慌てて振り向くとそこには心配そうに霊夢を見上げる先程の女の子がいた。
夢ではなかった。
「あ……え……」
声にならない声を上げる霊夢に限界まで目を見開いて見つめられ、女の子は少々怯えたように体を縮め込ませた。
「ママ……? どうしたの?」
ママ。
この少女は自分のことをそう呼ぶ。
ようやくと言うのか、霊夢は震える口から至極まっとうな疑問を紡ぎ出す事に成功した。
「……誰?」
そのままじっと女の子を見つめる。
背後では紫が首をかしげ、女の子も同様に小首を傾ける。
まさか自分に言ったのではないのだろうと思ったのか、女の子はふいっと後ろを確認してみた。誰もいない。
「……霊夢?」
見かねた紫が口を挟む。
「あなた、どうしたの?」
霊夢は紫に向き直ってその顔をまじまじと見つめる。
敵意の欠片もない、いつもの飄々として掴み所の無い八雲紫の顔。
あの幻想郷の上空で殺し合いをした紫とは全くの別人のようだ。
いや、同じなのだ。
あんな衝突が起こる以前の、一緒に縁側に座っていた頃の紫と同じ。
どうなっているのか分からない、しかし聞ける者はこのスキマ妖怪しかいないので仕方ない。
怒りや憎しみといった霊夢の中でごろごろ転がりまわる感情にひとまず止まってもらい、女の子を示して今度は断固とした口調で述べた。
「紫、この子は誰なの」
霊夢の指は明らかに隣に座る、示されたのでぎょっとして身をすくめる女の子を指していた。
それを確認した紫はうんうんと頷き、どうやら霊夢の様子がおかしい事を承知する。
「霊夢」
なだめる様に話しかける。
「あなたの子よ?」
あっさりと、そんな事を言ってのけた。
「博麗の次の巫女。自分で生んでおいて忘れた訳じゃないでしょう?」
「は……」
呆気にとられた霊夢を見て、紫はますます顔を曇らせる。
――このスキマ妖怪は何を言っているのだろうか?
「だ、だって!」
霊夢は頭を整理しようとして、それがとても困難な事に気付いた。
パズルを適当にぶちまけられたようで、まずは裏返ったピースを一つ一つひっくり返す事から始めないといけない。
取りあえず縁側に腰掛け、重い頭を手で支えて考え込む。
どのような質問をすべきか。
ぐるぐると掻き混ぜられた思考の渦に手を突っ込み、何とか今の自分の心境に合致した言葉をすくおうと試みる。
「ママ……」
不安そうにする女の子を紫は呼び寄せ、膝の上に座らせて小さな頭をくしゃくしゃと撫で付けた。
「大丈夫。霊夢はちょっと寝ぼけてるみたい」
安心させるために笑いかけると、女の子は少し不安そうにしながらも「うん……」と小さく頷いた。
霊夢は思考を巡らせる。まさかまた気絶するわけにも行かない。
あの世界が平坦になって消えてしまったのは夢ではなかったのかもしれない。
しかしそれにしてもこの状況は一体何なのか。
どうしてこんな事になったのか。
「……紫」
質問を練り出すのに思ったより時間が掛かった。
一方の紫は待ち構えていたかのように大仰に応じる。
「はい何かしら」
「……確認したいんだけど」
物事には順序というものが大切だ。ご飯を食べるのに下ごしらえは必要だし、その前には買い物に行かなくてはいけない。だから最初の、基本的なことをきちんと確認していかないとならない。
「あんた、私の子を殺したわよね?」
これはとても重要なことだ。
これのせいで霊夢は紫を憎み、戦い、また幻想郷は終わりの宿命を負った。
今の霊夢を構成する上でもとても大切なこと。
これを否定されるわけにはいかない。
「え?」
しかしあろうことか、即座に紫は力強く首を横に振ったのだ。
「何言ってるの。なぜ私がそんな事するの? そんな訳ないじゃない」
「は……」
あっさりしっかり否定された。
「無事この子を産んだでしょ?」
そう言って膝の上に座る女の子を安心させるように撫で回してみせるが、女の子は霊夢を不安そうな面持ちで見つめている。
突然自分の母親が、私の子を殺したのね? などと言い出せば戸惑うのも無理ないというものだ。
「…………」
霊夢は生まれて初めて、夢かどうかを確かめるために自分の頬を抓ってみた。
痛いだけだった。
産んだ。
この子を?
私が?
そんなはずはない。確かに紫が私の子を殺して、遺体は隣の部屋に安置されていた。掻き抱いた赤子の感触が今でもこの腕の中に残っている。
しかし――
「ママ……」
眉を寄せて瞳を潤ませ、自分のことをじっと見つめる女の子につと目を向ける。
自分によく似ている。
一緒にそこらを歩いていたらまず姉妹か何かに間違われそうだ。
霊夢は紫に視線を戻す。
彼女は敵意の欠片も無く不思議そうに首をかしげて霊夢を見やっている。
何か違う。
ここはおかしい。
この紫は紫ではない。
「うう……」
混乱する思考を何とか横に置こうと試みる。
「紫。世界は……一体どうなったの」
「え?」
「だから、平坦になって消え去ったじゃない!」
「…………」
紫がどこか痛ましいものを見るかのような目つきをするので、何か誤解を受けている事を察知した霊夢は慌てて言い足した。
「だから、その……そう、歪みは! 結界の歪みはどうなったのよ!」
「結界の歪み?」
「そうよ! 戦争が原因で結界が壊れかけてたでしょ?」
「ああ」
紫はちょっと忘れ物をしたのを思い出したかのように、明後日の方向を向いて軽く手をぽんと打った。
「戦争ならすぐに収まって、結界も元通りになったじゃない」
「は……」
そんなはずはない。
一度結界は崩壊しかけるまでに至ったはずだ。
そして自分は健康状態が悪化し、子が死ぬか自分が死ぬかの瀬戸際に立たされたのだ。
それがどうやら無かったと言う。
どう考えてもおかしい。この紫は、この状況は、この子供は。
何がどうなっている?
「霊夢」
「……何よ」
「あなたもしかして――」
いい加減霊夢の異変を察知した紫が問いかける。
「記憶が無いの?」
記憶が無い。
そんな事はないはずなのだ。むしろおかしいのは紫の方のはずなのだ。
しかし紫の膝の上にちょこんと乗っかっている女の子を目に入れる。
ではこの子は一体?
本当のところ、戦争はすぐに終わって自分は無事にこの子を産んで今まで育ててきた。
だったらいいのにな、と思った事はある。
幻想郷が危うくなればなる程そんな生活を強く願ったものだ。
しかしそれは現実ではないはずだ。
「紫」
「なあに?」
「他の人に聞けば分かるわよ。魔理沙や永琳、藍を呼びなさいよ」
そこで紫はきょとんとして首をかしげた。
「……誰?」
紫が何を言ったのか分からず、思わず霊夢は「はい?」と聞き返してしまう。
「だから……まりさ? えいりん、らんって、誰かしら?」
「…………」
今度こそ霊夢は唖然として口を半開きにした。
とぼけている?
いや理由も動機も分からないし、そんな意味はないはず。
「ちょっと! 本当に知らないの?」
「ええ、そんな人知らないけど」
「じゃあ橙は!? レミリアや萃香、あんたの友達の幽々子は!? 知らないっていうの!?」
「え、と……ええ、聞いた事ない、けど」
「…………」
確かに違う。
この紫は紫ではない。
普段は全てを承知しているような余裕の表情を絶やさない紫だったが、この紫は本当に何も分かっていない。
「――っ! もういいわよ!」
焦れったさに突き動かされた霊夢が突然縁側から飛び上がったので、紫は慌てた様子で呼びかけた。
「ちょっと霊夢!?」
「あんたが知らないって言うなら、私が会ってくるわよ!」
「ママどこか行くの? 私もいくよー」
「む……」
とてとて追いすがる女の子を何とか捨て置き、霊夢は空へと飛び立っていった。
「ママ……」
行ってしまった母を女の子は涙目で見つめていた。
「大丈夫よ」
そっと頭を撫でられ、女の子は「うん……」と力無く頷いた。
「どうなってるのよもう!」
霊夢は一人で悪態をつきながら博麗神社上空にて幻想郷をぐるりと見渡していた。
先程の自分を見上げる女の子の姿が、なぜかちくちくと霊夢の罪悪感をくすぐってやまない。
地上はすっかり春の装いに包まれていた。
桜が無計画に随所で咲き乱れ、妖怪の山の斜面では桜色と緑色によってでたらめな自然の絵が縦横無尽に描かれている。
空は雲一つ無い晴天で結界の歪みの一つも見当たらなく、突き抜けるような青空がどこまでも広がっていた。
「……?」
毎年目にする春の幻想郷の風景。しかしそれにどこか違和感を覚えたが、霊夢はぶるぶると頭を振って今は魔法の森へと飛んでいった。
まずは魔理沙に会って話を聞こう。
そして――
「あだっ!」
すぐに何かにぶつかった。
「いたた……」
顔から突撃してしまったので結構痛い。
赤くなった鼻をさすりながら前方を見やると――
「……?」
しかし何も無い。
首をかしげてふいと手を突き出してみると、ぼうっという鈍い音と共に、何か透明で硬いものが指先に触れた。
「え……」
力を込めて両手でばんと叩いてみると、その部分の空間が一瞬波立った。
「これは……!」
どうやら透明の結界のようなものが張られているらしい。
結界のような、というのは、結界の専門家である霊夢も見た事が無い物だからだ。
「どうなってんのよ……」
これがどうやらずっと続いて円柱形を形成し、この博麗神社の周辺をすっぽりと取り巻いているらしい。
一体誰がこんなことを?
八雲紫。
できるとしたら彼女だろうか。
しかしその理由は? どうにも腑に落ちない。
それに、さっきから違和感を覚えていた。
霊夢は幻想郷の風景をじっと目を凝らして見つめる。
誰もいないのだ。
しょっちゅう空を飛びまわっている天狗もいなく、人間の里も閑散としていて人っ子一人出歩いてはいない。それどころか鳥一羽飛んでおらず他にも生き物の活動が全く感じられなく、よく見ると木々が風に揺れる様子も無い。
まるで幻想郷の描かれた絵がべたりと一面に貼り付けられているようだ。
「一体、どういうこと……?」
その時、下から誰かの声が聞こえてきた。
「……?」
見ると、なんとあの女の子がよろよろした様子で一人飛んできていた。
霊夢を見て嬉しそうに微笑む。
「ママー!」
「あ……」
この歳で飛べるのだろうか。いや自分も小さい頃から飛ぶ訓練を受けてきて、昔はこんな風によろよろとした飛び方だったものだ。
唖然として硬直する霊夢にあと少しで辿り着く。
「――あ」
そこで気を抜いてしまったのか、間の抜けた声を置き去りにして女の子はするりと落下していった。
「なっ!」
飛び方が頭から抜け落ちたのか、それとも単に力尽きてしまったのか、女の子は再び飛び上がる様子も無く慌てた様子でばたばた手足を振りながら落下していく。
「――っ!」
霊夢は慌てて急降下し、博麗神社上空で何とか女の子を抱きとめた。
「危ないじゃないの! 何してるの!」
自分が子供の頃もこんな無茶はしなかった。
思わず強く叱り付けたが、女の子は構わず霊夢にぎゅっと抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと……?」
「ママ……」
決して離すまいとばかりに首に手を回して抱きついてくる女の子に、霊夢は今になってぐらりと視界が回る様な衝撃を受けた。
この子を抱える感触がかつて赤子の亡骸を抱いた記憶と重なり、霊夢の感情に小刻みな震動を巻き起こす。
――私の子?
五歳くらいだろうか。今が可愛い盛りだ。
小さな手で必死になって自分にしがみついてくるこの子。
状況が状況だったのでそんな暇は無かったが、こうして見ると可愛らしいと思わないはずがない。
いきなり自分の子と言われて普通は戸惑う他無いのだが、今はなぜだか霊夢の頭の中の我が子の席にこの女の子がすぽりと納まってしまい、それが混乱に一層拍車をかけていた。
霊夢のどこか本能の部分がこの子をあっさり受け入れようとしており、どうした再会を喜べと全身を奮い立たせる。
まさかこの子が本当に自分の子だと言うのだろうか。
一体どうしたものかと困り果てた霊夢はやがて溜息をつき、その小さな背中をぽんぽん叩いてやった。
なんにせよ、自分はこの子を不安にしてしまったようなのだ。
だからここまで無理をして飛んできたのだろう。
「ごめんね……」
呟くように言うと、女の子はふるふると首を横に振った。
そのままぎゅっと抱きしめてみると、子供特有の体温の高さを感じられる。
「…………」
なぜこんな幸せな気持ちがこんこんと湧き出てくるのだろう。
この子は本当の本当に自分の子供だというのだろうか。
霊夢は混乱する頭を振り払うように強くかぶりを振り、子を抱いたまま博麗神社へと降り立っていった。
「あら二人共一緒だったの?」
花柄が散りばめられたピンクのエプロンを身に着け、長い金髪をゴムで後ろに適当に纏め上げた紫が台所で昼食を作っており、やって来た二人に垢抜けた笑顔を振る舞った。
「…………」
ポニーテールでエプロン姿の紫という世にも珍しい物を見せ付けられ、霊夢は少々呆気にとられてしまう。
「うん、一緒だったの!」
いまだに霊夢に抱きついたままの女の子が嬉しそうに頷く。この子はあれから霊夢のことを離そうとしないので、仕方なく抱えたままで歩いていた。
「……紫」
「なあに?」
紫は腰を屈めて鍋の様子を見ながら応じた。
「駄目じゃないの、この子から目を離して」
「え?」
くるりと振り向いた紫に、霊夢は腰に手を当て憮然とした面持ちで頬を膨らませた。
「この子、私を追って空まで飛んで来たのよ? もう少しで落ちるところだったんだから」
「…………」
「ちょっと聞いてるの?」
呆然とした様子で黙っていた紫は、やがて可笑しそうにくすりと笑みを零した。
なんだかんだ言ってちゃんと子供の事を心配している霊夢に安心したのだ。
「な、何よ?」
からかうような笑みを浮かべられ、何だか落ち着かなくなった霊夢は怪訝な表情を崩せない。
「何でもないわ」
「…………」
こんなやり取りはかつて平和だった頃に多く繰り広げられてきた事だ。
もう無いと思っていた暢気な掛け合い。
霊夢の瞳に戸惑いや悲哀が揺らめき、それを見逃さなかった紫は、本当にどうしたのかしら様子がおかしいわ、と困った顔を浮かべる。
それはおいおい考える事にして、今は気を取り直し一言。
「さ、お昼の準備を手伝って頂戴」
「うん!」
霊夢の腕の中から女の子がひょいと飛び降りてとてとて紫の方に寄っていった。
すっとすり抜けていった子の感触に思わず「あ……」と呟きを洩らし、腕に残った体温を胸元でぎゅっと抱きしめてみた。
「疲れてるみたいね。霊夢は休んでなさい」
「…………」
いまだ気持ちの整理が付かず、紫と一緒になって料理をするのも億劫であった霊夢はおずおずと机の前に座り込んだ。
「あのね、ママが助けてくれたの」
「あら当然でしょ? 霊夢はあなたのママなんだから」
「うん!」
「お鍋は煮えた?」
「うーん……もう少しかも」
「じゃがいも入れるわね」
「うん」
霊夢は台所に立つ二人の事をぼんやりと眺めていた。
女の子は手伝いをするのが嬉しいのか、紫とお揃いのエプロンを身に付け、そこまで広くない台所をあちこち走り回って精一杯役に立とうと張り切っていた。
そこには確かにかつて自分が願っていた光景がある。
「…………」
霊夢は顔を落としてかぶりを振った。
子を失ったという明度の低い記憶が色鮮やかな目の前の光景に嫉妬し、容易に受け入れるなと釘を刺してくる。
やがて料理は机の上に並べられ、三人で正座をして向かい合った。
「いただきます」
「いただきまーす!」
「…………」
霊夢はぼんやりと目の前に出された料理を眺めていた。
ご飯に味噌汁に肉じゃが。至って家庭的なメニューだ。
ごろごろとした少々粗い切り方のじゃがいもを見るに、紫はあまり料理に慣れていないようだ。
確かに博麗神社にやって来た紫に料理を振舞う時も、手伝うよう言えばそれに従ってはくれるが手料理を率先して作ることは無かったと記憶している。普段から式に任せているのだろう。
それはともかく、この料理を紫が作った。
妖怪、八雲紫が。
霊夢は正面に座るスキマ妖怪を見やった。
なんの疑問も抱かない様子で暢気に料理を口に入れている紫。
「味付けはどうかしら。やっぱり霊夢が手伝ってくれないと何か物足りないかしらね」
「…………」
霊夢の脳裏に自分の子を殺したあの紫の姿がのたりと這い出てくる。
不気味な笑みを浮かべて見下ろす紫。
子供をつい殺してしまったと言った紫。
迷い無く弾幕を撃った紫。
平静を乱さずにはいられない記憶の数々が、埃のように霊夢の心の上にうず高く降り積もっていた。
――許せるわけがない。
この紫はあの紫とは違うのかもしれないけれど、だからといって紫には違いないわけで。彼女が作った物を食べろと言われても手が石のように固まって箸を持つことも出来ない。
空腹を訴えつつ受け入れを拒否するという矛盾を抱えたままお腹が引き篭もりを始めてしまう。
そんな時だった。
「ママ、食べないの?」
霊夢の隣に座る女の子がくりくりした無邪気な瞳で不思議そうに霊夢を見つめてきた。
「え、いや……」
子供特有の濁りの無い目で見られ、霊夢は思わずしどろもどろになってしまった。
自身の陰鬱とした汚い面を見透かされてしまう気がして、咄嗟に女の子から目を逸らしてしまう。
「おいしーよ」
霊夢の心の内などまるで気付く様子も無く、女の子はぱくぱく肉じゃがを口に入れる。
「…………」
霊夢の子供、と主張する存在。
自分自身非常に驚いている事であるが、心の奥底がしきりにこの子を受け入れたがっている。
それは子を亡くした慰め故だろうか?
しかしそれとはどうにも違うような気もする。
この目の前の存在が自分の子だと言われて非常にしっくりくる。
満天の星空の中で必死に星座を探していて、横からそれはあそこだと示された時のようなぴたりとした爽快感。
それが理由か何なのか、自分の心に積もった負の感情のいくらかが適当にふうっと吹き飛ばされてしまうのを感じた。
両手が極上のマッサージをされた様にやんわりと軽くなり、受け入れを拒否していた腹がおずおずと門戸を開け放つ。
「…………」
霊夢はおもむろに手を伸ばし、箸を取ることに成功した。
そしてじゃがいもに突き刺すと、よく煮えているのか刺した周囲にさくりとひびが入り、そこから一際大きな白い湯気がゆるりと溢れ出た。
ひょいと持ち上げたそれは案外すんなり口に入り、普段自分が作る肉じゃがとは違う新鮮な味がじんわり染み込む様に舌の上に広がった。
「おいしい?」
女の子が今にもきらきら輝き出しそうな期待の篭った瞳を霊夢に向けてくる。
こんな目で見つめられていいえと答えられる者はそういないだろう。
「……うん」
霊夢が頷くと、女の子は見ている者も思わず笑顔にしてしまうような満点の微笑みを咲かせた。
「ゆかり! ママが美味しいって!」
「そうね。あなたも手伝ったものね」
「うん!」
それから他愛ない会話が子供と紫との間で交わされ、話を振られた霊夢は多少うろたえながら相槌を打つ。
そして少しして、霊夢は本題を忘れそうになっていた事に気付いた。
「そうよ、紫!」
「あらどうしたの?」
「どうしたのじゃないわよ! 結界よ!」
「結界?」
どうにも要領を得ない紫に苛立った霊夢は声を荒げる。
「張られてるでしょう! この博麗神社の周りに!」
「え?」
――何のこと?
本当に何も心当たりが無いかのように紫はきょとんとしているが、霊夢は根気よく説明を続けていった。
「だって、神社の周りに結界が張られてて、妖怪の山とか魔法の森とか幻想郷の別の場所に行けないじゃないの!」
「…………」
紫はあからさまに呆然とした面持ちを隠さずに霊夢を見やっていた。
「ええと……」
人差し指で頬をぽりぽり掻きながら言葉を返す。
「妖怪の山って、一体何?」
「は……」
何を言われたのか分からなかった。
「しら、ない……?」
「ええ、魔法の森とかいうのも知らないけど」
「い、いや、だって同じ幻想郷にある場所よ?」
「……霊夢、あなた何言ってるの?」
「へ?」
「だって――」
紫はあっさりと言ってのけた。
「幻想郷って言ったら、この博麗神社だけじゃない」
開いた口が塞がらないとはこの事だろう。
机に押し付けた手がわなわなと震え出し、湯のみに注がれたほうじ茶が細かな波紋を広げる。
そして思い至る。
先ほど紫は、魔理沙や永琳、幽々子や藍のことも知らないと言った。
この世界は自分の知っている世界とは違うのだ。
あの博麗神社の周りを取り囲む壁は結界ではなく、あれより先は存在していないという事なのか。
この世界の幻想郷には博麗神社しか存在しない?
この世界には自分と紫とこの子しか存在しない?
では元の世界の幻想郷の皆は一体どこに?
まさかあの平坦になって線になって点になって消失する異変で皆も消えてしまった?
いやそれにしてもおかしい。
なぜ自分だけ存在しているのか。
そもそも何故このような状況が発生したのか。
様々な憶測が霊夢の中でぐらぐらと掻き混ぜられ、何か掴もうとしてもするりと抜け出てしまう。
結局答えの出ないまま食事の時間は終わりとなり、片付けの途中で紫は穏やかな陽射しが降り注ぐ境内を眺め、しみじみと「いい天気ねえ」と呟いた。
ぱちんと手を打つ。
「午後はお花見をしましょう」
その提案について霊夢が何か口を挟む前に、
「うん! やる!」
間髪入れずに子がぴんと片手を天井に向かって伸ばしきって賛成し、それで花見をすることが決定した。
縁側に茶菓子とほうじ茶、それと唐草色の座布団がぽんぽんぽんと三つ並んで添えられた。
花見と言っても木の下から仰ぎ見るのではなく、縁側から眺める方が楽だという事らしい。
それを花見と言えるのか疑問であったが、確かに楽だし桜がよく見えるので少し感心し、霊夢は何か文句を言う事もなかった。
「用意できたわよ」
女の子はごしごし目を擦りながらふらふら揺れる頭で頷いた。
「うん……」
「あら眠いの?」
こくりと頷く女の子に、紫は肩をすくめて可笑しそうに笑いかけた。
「寝てもいいわよ、ほら」
そう言って膝の上を示すと、女の子は素直にその上にちょこんと座り込み、紫の胸にぼすっともたれかかって瞳を閉じてしまった。
まだ子供なので昼寝の習慣が抜け切っていないのか、すぐに規則的な寝息を立て始める。
「霊夢? 座らないの?」
背後でぼんやりと立っていた霊夢に呼びかけると、彼女ははっとした様子で一歩踏み出した。
そして紫の隣に置かれた座布団をじっと見やる。
「霊夢?」
「……分かったわよ」
この紫はあの紫とは違うかもしれないけれど、聞きたい事はいくらでもある。
世界が消えたその後の世界、
霊夢はやがて――
とある時間のとある博麗神社の縁側に腰掛けた。
博麗神社の桜といえば妖怪達の間では中々に有名である。
流石にかの妖怪桜ほど巨大な物は無いが、境内を取り囲むように植えられているのはほとんどが桜の木である。境内の外も含めた博麗神社の敷地内には無数の桜が植えられており、あまりの多さにその数を数えた事も無い。
霊夢にはこの世界の今が春のどの時期か判別は付かないが、桜の木の背後にもう一本桜の木が植えられ、そのまた後ろにも桜の木が配置されといった具合で、花びらと花びらの隙間から桜色と枝の茶色以外を覗くことはできない程満開の様相を呈していた。
――ねえ、紫。平和って、なんなのかしら。
――ねえ、あんたって、幻想郷の守護者なのよね?
――自分の命と幻想郷なら、どっちを取る?
――私の命と幻想郷のどっちかしか助けられない、って言ったら、あんたはどっちを取る?
そんな華やかな光景を眺めながら二人の会話は続く。
霊夢の質問は途切れる事も無く流れ出し、おかしな質問を投げかけてくる彼女を紫は不思議に思いながらもちゃんと答えていった。
「人の願いで世界は作られているのだから」
質問の途中、紫はそんな事を言った。
それを聞いて霊夢は考えを巡らせる。
世界が願いによって作られている。
もしもそうなのだとしたら――
「それは……この世界も?」
霊夢がこのひどく狭くなったこの幻想郷を眺めながら問いかけると、紫は当然だというように頷いた。
「ええ」
「…………」
おかしいとは思っていた。
世界が消えてしまってこの博麗神社だけが存在している。
偶然や奇跡とは考えにくく、人の意思によるもの、すなわち何かしら黒幕のような存在がいると考えるのもあながち的外れではないと思われる。
しかしだとしたら、自分をこんな状況に置いて一体何がしたい?
またある時、霊夢はこんな質問を投げかけた。
「私とこの子とだったら、あんたはどっちを選ぶ?」
紫はまじまじと霊夢の事を見つめた。
この子は一体何を言い出すのだろうか? といった具合だ。霊夢は至って真面目な表情である。
そこで紫ははっとした様子をし、合点したようにうんうん頷く。
眉をひそめる霊夢に対して紫が零れるような笑みを向けてきた。
――なぜ笑うの?
そして紫は微笑んだまま口を開き、突拍子も無い事を言ってのけた。
「霊夢。私、あなたのことが大好きよ」
鉄の塊に棒を括り付けてハンマーにし、思い切り振りかぶって叩き付けられたような感覚を霊夢は覚えた。
何を?
このスキマ妖怪はいきなり何を言い出すのだろう?
霊夢にしたら未だに紫への気持ちの整理が手抜きのまま放置されている状態である。この紫は別の紫かもしれないと言っても、そうすんなりと納得する事もできない。
そんな子供の仇であるはずの彼女から好きだと言われ、何かまともな言葉を返せるはずもなかった。
限界まで顔をひきつらせる霊夢を見て、あら微妙な反応ね、と紫はかくりと首をかしげる。
「あら、愛を確かめたかったとか、そういう事じゃないの?」
「な! あ――!」
一体このスキマ妖怪は自分のことをどう思っているのか。
いやこの紫は紫とは違うからこんな事を言うだけであって。
しかし紫とほとんどが同じだとしたら紫の心の内も似通っていて……?
複雑に絡み合った思考を紐解くこともできずにただ呆然とする霊夢を見ていた紫はやがて、笑い声を吹き出し始めた。
「――!」
もしかして、からかわれたのだろうか。
霊夢は苦々しい表情を浮かべてぶるぶると打ち震えた。
「そういう事じゃなくて! 真面目に聞いてるのよ!」
ひとしきり笑い声を零していた紫は、真剣な表情で睨むように見つめてくる霊夢にそっと向き直った。
どうやらこの質問にも真面目に答えないといけないらしい。
「私かこの子、どちらかが死ぬって言ったら、どっちを生かす?」
紫は境内の桜を見やった。
緩やかな風でさわさわと揺れる桜たちは強情にもその身を抱きしめて離さず、本格的に舞い散る花びらを楽しむのはまだ先の事になりそうだ。
しばし考えていた紫は諦めたように溜息をつき、そっと風に呟くように穏やかに述べた。
「その時は……悩むでしょうね」
「……なんでよ」
「え?」
「だって! この子がいなかったら幻想郷が終わるのよ? だったら私じゃなくてこの子を選ぶに決まってるでしょ!?」
疑問が関を切ったようにごうごうと止まる事も無く流れ出る。
あの時、歪み乱れる上空で紫は言った。
――私は何も完璧な存在じゃないわ。私だってミスくらいするわよ
「それとも何? あんたは完全な存在じゃないから、判断ミスで私を生かして……私の子を殺してしまう事もあるっていうの!?」
「…………」
必死な形相をする霊夢の事を黙ってじっと見つめていた紫はやがて、「確かに私は完全なんかじゃないわね」と頷いた。
そして次にひどく穏やかな笑みを向けてきたので、霊夢は思わず怯んで目を見開いてしまう。
「だって」
そっと目を閉じ、紫は言ってのけた。
「あなたの事が、とても大切なんだもの」
「は……」
またも霊夢は訝しむ。どうやら今回は紫にからかっている様子は無く、それが霊夢の更なる狼狽を描き立てる。
「理屈じゃどうしようもない事ってあるわよ。あなたの事が大切で大切でしょうがないから、だから失うなんて絶対に嫌。そうよ、あなたに言われて気付いたわ。もしもそれで幻想郷が滅んでしまうとしても――」
霊夢の戸惑いで揺れ動く瞳を、紫は真正面から真剣さの篭った揺るがない目つきでじっと見つめるので、霊夢は目を逸らしそうになる自分を必死に押し止めなければいけなかった。
「私は、あなたを選ぶわ」
霊夢は縁側から投げ出した膝が笑い出すのを止められなかった。
真正面から純白の真鍮のような告白を投げつけられ、そんな事を予想してもいなかった霊夢はまともにぶつけられてしまって衝撃で目を回しそうになる頭を必死に揺り動かした。
何を、このスキマ妖怪は一体何を言っているのだろう。
私のことが大切だから?
だから幻想郷が滅ぶ事になっても私を選ぶ?
それじゃあ、
それじゃああの上空で言ってのけた冷徹な言動の数々は一体なんだっていうの?
いや、この紫はあの紫とは違うからそんな、私のことが大切だとか言うのかもしれない。いやそうに違いない。
何かを確かめたいという焦燥が霊夢の口を無理矢理こじ開ける。
「もしも、もしもの話よ」
「ええ」
「あんたがそうやって私を生かして、子供を殺して、それで私から、なんでそんな選択をしたのか、って問い詰められたらあんたはどう答えるの?」
ごめんなさいと言う、などと答えればこの紫はまた別物なのだと分かる。そしてそう答えてほしいと必死に願う自分から霊夢は無理やり顔を背けていた。
今のこの霊夢には真面目に答えてやるのが良いと承知したのか、紫は茶化すことも無く真剣な面持ちで考え始めた。
「そうねえ……」
紫はそこで、ぴんと人差し指を立ててイタズラっぽい笑みを浮かべた。
「もしかしたら私、あなたにわざと酷いことを言うかもしれないわね」
霊夢は開いた口が塞がらなかった。
隠れんぼをしていて通り過ぎようか探してみようか鬼が悩んでいたけれど、結局自分の隠れている場所を開けてしまった時のような全身の毛が逆立つ恐怖感。
今はそれよりもっとひどい感情が津波のように押し寄せて霊夢を攫おうと手をこまねく。
ひたすら顔を強張らせる彼女を見て、紫はあれ? と首をかしげる。
もっと別の反応が、「ちょっとそれってどういう事よ!」などと返ってくるかと思っていたのにアテが外れてしまった。
霊夢がそのまま説明を待っているようなので、紫は慣れていないのか気恥ずかしいのか、どこか困ったように話し出した。
「だって、苦しいじゃないの」
「くる、しい……?」
「そうよ。万が一あなたが子供の後を追って死んでしまうような事があったら、私は絶対に嫌だもの。だからわざと憎まれるような事を言ってあなたに生きる力を与えようとするかも」
あっさりと、余りにも呆気なく、紫はその心の内を言ってのけた。
元の世界では間違っても言うはずの無い事を、教えるわけの無い本心を、世界が消えたその先の世界で朗々と話してしまう。
「それに、私も苦しいわね。もしもあなたが生きるとしても、一緒になって傷を抱えて生きて行くのはとても辛い事だもの。だからいっその事嫌われた方が気が楽、なんてね。ごめんなさい、なんて情けない事言うのかしら…………霊夢? どうしたの?」
恐ろしいものでも見るかのように愕然と打ち震える霊夢を、紫は不審な目で見やっていた。
悲しげな事を言ったので霊夢が怖がってしまったのだろうか、と早合点した紫は安心させる様に宥めすかす。
「あくまで仮定の話でしょ? 実際にそんなこと起きないわよ。ううん、私が起こさせないから」
実際にそんな事が起きた世界を知る霊夢からしたら紫の心配は的外れに他ならなかった。
霊夢の中であの上空での衝突の記憶が泡のようにぼこぼこと湧き出ては弾けて消える。
――ついやっちゃったのよ。
――失敗したわ。あなたを殺しておくべきだったのに。
――だってあなた、命拾いしたじゃない。
あれが、あの憎まれ口が全て嘘?
嘘だとしたら?
今紫が言ったように?
「そんな……」
あの言動が、行動が自分のために発せられた事だとしたら?
だとしたら……
「――違う!」
気付けば霊夢は叫んでいた。
「あんたは違うから! だからそんな事が言えるのよ!」
紫はどこかぎょっとした様子で突然声を荒げた霊夢をまじまじと見やっていた。
霊夢はどうしても紫への憎しみを消したくなかった。それがとても恐ろしいことだと感じられたから。
だから、もう分からないという事にしてしまう。
それ以上考えるなと心をテープできつく縛り上げてしまう。
霊夢の中に息づく紫への憎しみが、判別の付かない色によって適当に誤魔化すように塗りつぶされていく。
考えれば考えるほど迷路の中に迷い込んでいくようで、出口を見つけるのが困難と判断した霊夢は早々に探索を切り上げ、背の低い壁に囲まれた道の途中で立ち尽くしてしまった。
「ん……」
紫の膝の上で女の子が目覚め、そのまま腕を振り上げて精一杯大きく伸びをする。
うーん、と頭上に伸ばされた子供の小さな拳をひょいと避けて紫はくすくすと笑いかけた。
「そろそろ戻りましょうか」
「うん!」
「…………」
いつしか陽は傾き、視界を埋め尽くす桜色に橙色が混じり始めていた。
霊夢は呼びかけられてもじっと俯いたまま返事もせず、心配する女の子に紫は「霊夢はちょっと考え事があるみたい」と背をぽんぽん押して中へと促した。
それから陽が落ちるまでの間、霊夢はずっと縁側に腰掛けていた。
何か考えていた訳では無い。今は全てについて深く考える事が恐ろしく、ただ呆然として無駄な時間を過ごしていただけであった。
「ママー、ご飯できたよー」
子に呼ばれ、霊夢は人形のようにがくんと力無く立ち上がって食卓についた。
晩御飯はカレーだった。
普通神社で食べる事は無いが、紫が一緒に暮らしていればこういった食事も出るようになるのだろう。
「おいしい?」
愛嬌の溢れる笑顔を向けられ、霊夢はこくりと頷いた。
「……うん」
「わたしが人参切ったんだよ!」
「そう…………頑張ったのね」
「うん!」
実に嬉しそうに紫と顔を見合わせる子を見て、霊夢は無理やり笑みを滲ませた。
考えなくていいのかもしれない。
妖怪を否定する気持ちとか、紫への憎しみとか、この世界がなんなのかとか、元の世界がどうなったのかとか、
全てを思考のる堝の奥底に飲み込んでしまえばいい。
ただこの安寧とした世界で漠然と暮らせばいいのかもしれない。
「ママ! ご飯食べたら一緒にお風呂入ろうね!」
霊夢は実に穏やかな微笑みを浮かべて答えた。
「ええ」
その翌日のことだった。
「ん……」
娘に添い寝をしていつもより随分早くに寝てしまったせいか、霊夢はまだ空が薄っすらと白み始める時分に目を覚ました。
娘は霊夢に寄り添うようにして眠りこけており、規則的な寝息が物音一つしない和室にすうすうと響いていた。
その向こう側に目を向けると、紫が布団を敷いて仰向けになって寝ている。丁度三人で川の字を作る形だ。
「…………」
じっと娘を見つめていた霊夢はぴんと人差し指を立て、おもむろに娘の投げ出された小さな手の平の上に置いてみた。
「ん……」
微かな寝息を立て、反射的に霊夢の人差し指をゆるい力で握ってくる。
「…………」
笑い声が零れるのを必死に押さえ、霊夢はしばらくの間、娘の寝顔をそっと見守っていた。
「…………」
霊夢は身じろぎし、仰向けになって天井を見つめた。
どうにも寝付けない。突然環境が変わったせいなのかもしれない。
音を出さないように体を起こし、娘にちゃんと布団をかけてあげてからそっと立ち上がった。
「…………」
まだ深い眠りにつく様子の二人を見やり、霊夢は寝巻き姿のまま草鞋を引っ掛け外へと歩み出て行った。
なんとなく散歩がしたかった。歩けば何かと気持ちの整理がつくかもしれないとも期待していた。
今日は随分と暖かいのかそれともここは毎日そうなのか、早朝だというのに寝巻き姿でも寒いとは感じなかった。
裏手の雑木林に分け入ると、植えられたのか勝手に生えているのか、桜の木々がちらほらと緑に混じって雑多な空間を色取り豊かに染め上げていた。
普段はこんな所に来る人はいなく、ここは霊夢のちょっとした秘密の場所だった。霊夢の他に知っているのは魔理沙くらいか。何か考え事がしたい時にはいつもここに入り込んでいる。
そうやってしばらく歩いていた時、
「んっ」
やはりと言うべきか、目の前に透明の壁が現れた。警戒していたので今度は顔からぶつかる事もなかったが。
「うーん……」
ぺたぺたと触ってみるが、やはり見た事も聞いた事も無い種類の結界だ。下手にいじるとどうなるかも分からない。だから、これをどうにかする事はできない。
「ふう……」
別にどうにもしなくて良いのかもしれない。
ずっとここで暮らすのも良いかもしれない、そう思ったではないか。
「…………」
しかし一日置いて冷静になってみると、そう簡単に気持ちの整理がつくわけでもない。
じっと俯いたまま歩いていた霊夢は「はあ……」と深く溜息をついてからおもむろに顔を持ち上げた。
そして全身の動きをぴたりと止める。
「え……」
それから視界が揺れ出し、唇が震え、それは肩に伝播し、ついには膝ががくがくと笑い出して立っているのが困難になる。
しかし必死に足に力を入れて真正面を愕然とした面持ちで見つめると、
「な……あ……」
言葉にならない声がぽろぽろと零れ落ち、響く事も無く風でかさかさと揺れる雑木林に飲み込まれていった。
霊夢が見つめるその先。
雑木林の中にある一本の桜の木の下。
自然が織り成す色彩に紛れ込んだ異質な黒い影。
それを彼女は知っていた。忘れるはずも無い見慣れた姿。
「ま……」
霧雨魔理沙が立ち尽くしていた。
◇◇◇
「魔理沙!」
ようやくその名を呼ぶ事ができた。
腕を振り上げて駆け出し、うねるように地面からせり上がっている太い木の根に足を取られそうになりながらも必死に彼女に近寄っていく。
――なんでここに?
――今まで何をしていたの?
――この状況について何か知っている?
疑問はいくらでも沸いて来たが、今は長年の友人に会えた喜びが早く走れと霊夢の体に鞭を入れる。
「魔理沙! あんた今まで何やってたのよ!」
魔理沙は霊夢に対して横を向く形でじっと俯いている。
再開への喜びが先導する今の霊夢は呼びかけに応じない魔理沙に不審なものも覚えず、やっとのことでその前に辿り着いた。
「魔理沙……」
零れるような笑顔と共にその肩を掴もうとして――
手が魔理沙の肩にするりと飲み込まれた。
「――!」
声にならない声を上げ、霊夢は一歩後ずさった。
さっきまでの笑顔がどこへやら、霊夢は慎重な顔つきでまじまじと魔理沙の全身を嘗め回す様に見やった。
まるで幽霊か何かのように触れることが出来ずにすり抜けたのだ。
「まり、さ……?」
実体の無いかのような体と、それ以外の様子もよく見ると何やらおかしい。
霊夢の声が聞こえないし姿も見えていないかのように魔理沙は全くの無表情で身じろぎもせずに顔を俯かせ、その瞳は遥か彼方で焦点を合わせているようである。
「ちょっと……」
少し離れた所から呼びかけるが、魔理沙が返事をする事はなかった。
一体魔理沙はどうなってしまったのか。
かさかさした憶測が霊夢の足元に打ち寄せるが、拾い上げても処理ができないので途方に暮れるしかない。
とそこで――
「魔理沙……?」
見ると、魔理沙が僅かに口をぱくぱくと閉じたり開いたりさせている。
――何かを言おうとしている?
霊夢は恐る恐る彼女に近づいていった。
すると、
「れい、む……」
接するくらい耳を近づけないとその声を拾うことは出来ず、自分の名前を呼んでいると気付いた霊夢ははっとした様子でまじまじと彼女を見やった。相変わらず魔理沙の焦点は近くにやって来ない。
そのまま口の動きが変わったのを見て、霊夢は慌てて再び耳をひっつけた。
「願い、なんだ、霊夢……」
「魔理沙……?」
口しか動かさない、いや動かせないのかもしれない、彼女は何かを伝えようとしているのだろうか。
魔理沙は途切れ途切れに今にも消え入りそうな掠れた声をほろほろと零していった。
「私、が、ここにいる、のは……多少なりとも、願われた、から……」
「何?……分からない。なんなの? あんたはこの状況について何か知ってるの?」
霊夢の声が聞こえていないようなのか、魔理沙は質問に応じることもなく呟き続ける。
「私、は……欠片に、すぎない。いくらかしか、願われ、なかった、から。だから、こんな、不完全、で……」
途端、
「――!」
魔理沙の体がすうっと薄れていった。
「ちょ、ちょっと! 魔理沙!」
消え行く彼女に手を伸ばしたがやはり触れる事もできず、霊夢は友人に向かって必死に呼びかけることしか出来なかった。
「願い、を……」
それでも魔理沙は言葉を紡ぐ。
「叶えて、やってくれ……」
とそこで、魔理沙は初めて霊夢に焦点を合わせ、すっと微笑んだ。
「霊夢……」
「え……?」
「また……一緒に宴会、したいな……」
「魔理沙!」
咄嗟に抱きしめようとしたがどうにもならず、とうとう魔理沙は消え失せてしまった。
後には呆然と立ち尽くす霊夢の姿が、雑木林の中にある一本の桜の木の下で、待ちぼうけをくらった様にぽつんとあるだけである。
「魔理沙……」
欠片?
不完全?
願いを叶える?
そして最後に見せた悲痛な面持ちの微笑み。
さっきまでの出来事が霊夢の頭の片隅にがちりと嵌って回りだす。
一体何を言いたかったのか、何を伝えたかったのか。
詳しい事は分からない。
しかし霊夢はここに来てようやく、帰りたいという気持ちがぱっと光を取り戻したのだ。
しかし、
――帰ると言っても。
いくらか陽が差してきた雑木林の中、博麗神社への帰りの道をとぼとぼ歩きながら、霊夢は顎を手で掴むようにして考えを巡らせる。
そもそも本当に以前の幻想郷は存在しているのかも分からない。
消えてしまっているとしたら? あの魔理沙が霊夢以外での本当に最後の生き残りだったとしたら?
それに、本当に自分は帰りたいのか、という疑問も残る。
あの上空で紫と戦った記憶は霊夢のトラウマとなって心の奥底に眠っている。
それが自らを目立たせるようにじわじわと点滅して訴えるのだ。
――八雲紫は敵だ。
――妖怪達は敵だ。
果たして、人妖入り乱れる以前の幻想郷に本当に自分は戻りたいのだろうか。
答えが出る事も無く、霊夢は博麗神社に辿り着いた。
「ママー!」
母親がいない事に慌てたのか、娘が境内に出て必死に母を呼んでいた。
どうやら心配させてしまったらしい。
霊夢は困ったような笑みを浮かべ、こちらには背を向けて叫び続ける娘の名を呼ぼうとして――
「――あれ?」
その名を知らないことに気付いた。
「ママー!」
霊夢はがくがくと震え出してしまった。
意気揚々と渡り始めた橋が泥で出来ていると知った時のような絶望と羞恥の入り混じった恐怖感。
娘の名前も知らなかった自分が情けない。
娘の名前も呼べない自分がとてつもなく悔しい。
結局名を呼ぶ事もできず、霊夢は「ここよ……」と言うしかなかった。
「あ、ママ! もー、どこ行ってたの?」
ぷうっと可愛らしく頬を膨らませる娘を見て、しかし霊夢は微笑んでやる事ができなかった。
怖かった。
今にも、わたしの名前は? と聞かれたらと思うと恐ろしくて仕方がない。
「朝ご飯ゆかりが作ってるよ? 行こ?」
「う……うん」
朝食を食べている最中も霊夢は完全に上の空で、どこかびくびくした様子の彼女に紫は首をかしげるのだった。
食後のこと。
娘がトイレに行った隙を突いて、霊夢は紫に声を潜めた。
「紫、あの子の名前は何?」
自分の子の名前を誰かに聞くという悔しい他無い行為だが、今はそんな事より名前を知っていなければという焦燥が勝った。
紫はぱちくりと目をしばたたかせる。
「あの子、って?」
「私の……娘よ」
「ああ」
紫はうんうん頷いて答えてみせた。
「名前、無いじゃないの」
何を言われたのかとんと理解が及ばなかった。
「名前が、無い?」
恐る恐る確かめると、紫は事も無げに「ええ」と言ってのけた。
確かに言われてみれば、紫も娘の名前を呼んではいなかった。
「で、でも!」
霊夢は必死に食い下がる。
「名前が無いっておかしいと思わないの!?」
「え? まあ、付けてあげた方が良いわよね」
「は……」
何とも無しに言う紫。
「親が付けるものでしょ? あなたが考えてあげなさいよ」
「私、が……?」
名前を付ける。
かつて霊夢は我が子の名前を付けてもらうよう紫に頼んだのだ。
しかし紫はその子を殺し、霊夢は自分で名前を付けることに決めた。
「そう、ね……」
そうだ、名前を付けよう。無いなら付けてあげれば良いのだ。
「私が、名前を付けるわ……」
「お願いね」
霊夢は早速我が子にどんな名前を付けようかと思いを巡らせ――
天地が逆さまになった。
「あれ?」
自分が倒れたのだと、慌てた紫に抱きかかえられた状態でぼんやりと理解できた。
「霊夢! あなたどうしたの!」
トイレから帰ってきた娘がぎょっとした様子で駆け寄ってくる。
「ママ? ママ! 大丈夫!?」
「あ……」
自分を覗き込んでくる娘を目に収め、霊夢はそのまま意識を落としていった。
◇◇◇
泣き声が聞こえる。
思わず駆け寄っていって世話を焼かずにはいられない、必死に助けを求めるような、もしくは駄々をこねるような赤子の叫び。
どこかで聞き覚えがあった。
世界が折りたたまれて消えて行く最後の瞬間、この声が耳の奥底に響いていた気がする。
あなたは誰?
その問いにしかし、嫌だ嫌だと必死に駄々をこねる声しか返ってはこなかった。
◇◇◇
いつもの縁側で霊夢は目覚めた。
「あら起きたの?」
自分がまた紫に膝枕をされているのを確認し、よろりと力無く体を起こす。
「ママ、大丈夫?」
隣に座る娘が心配そうな面持ちで覗き込んでくるので、「大丈夫よ」と笑顔を作って答えてやった。
そのまま三人で境内の桜を眺める形になる。
霊夢はちらりと娘を盗み見た。
なぜ気を失ってしまったのかは分からないが、名前は考えないといけない。
そうしてどんな名前にしようかと思考を巡らせて――
巡るだけでどこへも行きつけない事に気付いた。
――あれ?
何度考えようとしても全くもってさっぱり一欠片も子の名前を思い付かず、思考の迷路に入る事もできずに入り口を探してうろうろと彷徨う。
――どうして?
必死に開けようとしている箱の中身がどう見ても空でしかないような虚脱感。
子の名前を考える事ができない。
「霊夢、どうしたの?」
うな垂れた霊夢を心配そうに紫が見つめてくる。
「…………」
八雲紫。
かつて自分はこの妖怪に子の名前を付けるよう頼んだ。
自分で考えられないなら、また頼めば――
霊夢はふるふるとかぶりを振った。
自分で名前を付けると、そう決めたのだ。
その時、
「んしょ」
娘がひょいと縁側から飛び出した。そのまま桜の木の方へ「花びら取って来るー」ととてとて走っていく。
紫が微笑みながらひらひらと手を振るのを見て霊夢もそれに倣った。
それから縁側に座りながら考えていたが、どうやっても娘の名前を思いつくことは無かった。
「どうしたの?」
あちこちにしゃがみ込んでは桜の花びらを拾い集める娘をすっと目を細めて眺めながら紫が言った。
「え?」
「あなた、昨日から様子がおかしいじゃないの」
「…………」
「言ってくれないと寂しいわよ」
「…………」
『言ってくれなきゃ、寂しいじゃないの』
それはかつて霊夢が紫に言った言葉。辛い外の世界の現実を隠していた紫を叱るように言ってやったのだ。
「…………」
子を殺した紫。
子を殺した妖怪。
憎しみは特にどうともされずに霊夢の奥底に仕舞い込まれており、トラウマとなって彼女の行動を厳しく規定する。
今更霊夢が何を考えようと、紫がどう取り繕おうと確かな心の真を述べようと、暗い負の感情は決して消えることは無く霊夢の中で息を吐き続ける。
そんな時だった。
「花びら一杯集まったー!」
満足できる量を拾ったのか、娘が喜び勇んで跳ねるように駆け寄ってきた。
「はい、ママ」
「え……」
求められるままに手を差し出すと、握られてくしゃくしゃになった桜の花びらがばらりとふり掛けられた。
「元気出た?」
どこか期待の篭った瞳で見つめられ、霊夢は怯まずにはいられなかった。
名前を付けてあげられてない事に激烈な罪悪感を覚える。
他でもない霊夢自身が自分に向かって、なぜ名前を付けないんだと野次を飛ばす。
――分からない……だって考え付かないから。
――だったらほら、隣の紫に付けてもらえばいいじゃないの。元々そういう事だったんでしょ?
――嫌! この子の名前は私が付ける!
――我侭ね。自分が妖怪のことが嫌いだからって。勝手が過ぎるとは思わないの?
――勝手なんかじゃない! だって、この子だって!
「霊夢のこと大好きなのね」
紫が可笑しそうに笑い掛けると、娘は即座に万遍の笑みを浮かべて頷いた。
「うん! ママのこと大好き!」
「…………」
霊夢が泣きそうなくらい悲痛な笑顔を浮かべていると、娘はそこではっとした様子で紫を見た。
そして紫の膝元に駆け寄ってもう片方の握り締められた手を差し出すと、紫が伸ばした手の平にはらはらと桜の花びらを振り落とした。
「ゆかりの分!」
「ありがとう」
「わたしね!」
とそこで、娘は少し照れたような笑顔を浮かべて紫を見やった。
そして元気よくきっぱりと言ってのける。
「ゆかりのことも大好きだよ!」
「そう。私もあなたのこと大好きよ」
「えへへ」
照れくさそうに頭を掻く娘。
何気ない言葉だったのかもしれない。
微笑ましい会話だったのかもしれない。
だが霊夢は目を限界まで見開いて震えていた。
今、
今この子は、博麗霊夢の娘は一体なんと言った?
好きだと。
妖怪、八雲紫の事が好きだと言った。
単純な言葉だったのだろう。
率直な感情だったに違いない。
ただ好きかと聞かれてそうだと答えた。ただそれだけの事に過ぎない。
しかし霊夢は、
母親としての霊夢には世界がひっくり返る程の衝撃を与えていた。
かつて自分は妖怪と人はその本質が同じだと思った。
妖怪だろうと人だろうと分け隔てなく接することが肝要だと実感したのだ。
しかし妖怪は自分の子を殺した。
大した理由も無く殺してのけた。
それで自分は考えを改めたのだ。
妖怪と人は違う。一緒には生きられない存在なのだと。
しかし今――
霊夢は隣に座る紫と、その膝に嬉しそうによじ登っていく娘を、震えが止まらない体で呆然と見やる。
好きだと。
殺されたはずの当の本人が、殺した当の本人である妖怪八雲紫のことを好きだと言った。
自分はなんのために妖怪を憎んだ?
何が原因で異形を恨んだ?
紛れもない、我が子のためだ。
殺された子は生きたかったと、自分を殺した妖怪のことを恨んでいると思ったから。
それなのに――
その自分の子だと言う少女が今、自身を殺したはずの妖怪の膝の上で幸せそうににっこりと微笑んでいる。
霊夢は天地がひっくり返る感覚を覚えて思わず前につんのめりそうになり、縁側から投げ出した足で地面をぐっと蹴り返してやらなければならなかった。
持ったばかりの価値観が、
決して誰にも、紫にも、自分自身によってでさえも壊されるはずの無かった妖怪を憎むという価値観が、
この世で唯一それに触れることのできる存在であった娘によって呆気なく打ち壊されていく。
――違う! 私の子は死んでいる! だからこの子は私の本当の子ではない!
しかしこの娘をどうしようもなく受け入れようとする本能が霊夢の中でどんと構えていて、駄々をこねるような悲痛な訴えに力は無く、しっしと門前払いをくらって消え失せてしまう。
だから本来なら決して考えるはずの無かった事を、このおかしな世界において考えさせられてしまったのだ。
――もしかして私の子は、自分を殺した妖怪のことを恨んでないのではないか。
そう思ってしまってからは早かった。
妖怪を憎むという感情の歪なオブジェが基盤から崩れ出し、どうしたのかと窺い見るとそもそも基盤そのものが存在していなかった。
関を切ったたように無理矢理押し込めていたものが溢れ出し、霊夢の頭の中をぐるぐる渦巻いて暗い負の感情を手当たり次第に暴いていく。
霊夢の心にべったりと張り付いていた、自分でも嫌っていた薄汚れたメッキが強引に引っぺがされていった。
それは紅い館に住む悪魔であったり、
冥界に住む亡霊であったり、
酒に目がない二本角の鬼であったり、
どこに住んでいるかも知れない怪しいスキマ妖怪であったり、
数々のこれまで知り合った妖怪達の記憶が自己主張するかのように霊夢の心を痛いくらいどつきまわす。
それは心の底の隅々まで入り込み、隠されていた感情を根こそぎ陽の下に引っ張り出してしまった。
分かりきっていた事ではあったが、引きずり出されたそれらを見て、ああなんてくだらないんだろう、とさっと蹴飛ばしてしまう。
今まで出会った妖怪達。
彼女達と一緒に花見をした。
彼女達と一緒に宴会を催した。
彼女達は自分が身ごもった事を心から祝ってくれた。
もう嘘が言えない。
私は嘘を言っていた。
嫌いだと、憎いんだと嘘を吐いていた。
それを気付かされてしまった。
ああそうだ。
人と妖怪は同じだとか、
人と妖怪は違うのだとか、
そんな事じゃなかったのだ。
人と妖怪は違う。
人と人は違いあっているように、妖怪と妖怪も違いあっている。すなわち人と妖怪も違いあっているのは当然の事なのだ。
皆が皆違う存在だ。
霧雨魔理沙という存在がいて、
レミリア・スカーレットという存在がいて、
十六夜咲夜という存在がいて、
西行寺幽々子という存在がいて、
藤原妹紅という存在がいて、
蓬莱山輝夜という存在がいて、
八雲紫という存在がいて。
誰も人間や妖怪という名前の存在はいない。
そうだった。
私、博麗霊夢は人とか妖怪とか関係なく、彼女達という存在一人一人のことが大好きだったんだ。
そして紫。
私の子を殺した八雲紫。
分かっていたのだ。
『あなたにわざと酷いことを言うかもしれないわね』
昨日紫が述べたこと。霊夢が必死に否定しようとした紫の真の心の内。
つい子を殺してしまった、というあれは嘘ではないかと、最初の内から本当は心の壁一枚隔てた所では了解していたのだ。
紫がそんな事を言うはずは無い。
それでも信じてしまった。
そうすることが楽だったから。
紫と同じだ。子を失った苦しみから逃げていた。
胸を抉られるような喪失感を憎しみの感情で誤魔化そうとしていた。
紫は自分が弱いと言う。弱かったのは私の方なのに。
「霊夢……?」
紫は驚いた様子で霊夢の顔を覗きこんだ。娘はいつしか紫の膝の上で満足そうに眠り始めている。
霊夢の瞳からはぼろぼろと涙が止まる様子も無く零れ落ちていた。
「う……う、ぐ……」
顔を覆うことも出来ずに俯いて、ぎゅっと握り締めているので皺の寄っている服の膝を大粒の雫で濡らしていた。
苦しかった。
無理やり妖怪達を憎むたびに、自分の心が茨の棘できりきりと締め上げられていた。
もう、いいよね?
もう憎まなくていいよね。
好きだって言ってもいいよね?
霊夢の心に絡まった鋭い棘を持った茨が、すっと入り込んできた他でもない自分の娘の手によって完全に取り払われた。
「何か、悩んでいたのね」
穏やかな微笑みを浮かべる紫に、霊夢は声を出す事もできずに頷いた。
「今からでも私に手伝える事はある?」
「…………」
霊夢は涙をごしごしと拭い、きっと紫の目を見つめた。
その霊夢の瞳は以前のどの彼女のものとも違ってぐらぐら揺れる事も無く、どこまでも突き抜けるような、見ている方が爽快感を味わう小気味良い煌きをたたえていた。
「紫」
「なに?」
思わず霊夢の瞳に見とれていた紫に向け、もう躊躇する事もなく言ってのけた。
「この子の名前、あなたが付けてほしいの」
紫は実に嬉しそうに微笑んだ。
名付けの親になってほしいと言われた事が嬉しかったのか、それともいつの間にか成長していた霊夢を喜んだのか。
迷うことなく答えてみせた。
「ええ、喜んで」
それからしばらくの間の三人で縁側に座っての花見は、これまでここで過ごしたどの時間よりも楽しいものであったという。
それはそれとして。
「霊夢、お鍋が沸いてるわ」
「え、ああ、うん」
慌てて火を消して鍋の蓋を持ち上げると、味噌汁のいい匂いが台所にもわっと充満した。
揃ってエプロンを着て髪を後ろで纏め上げ、霊夢と紫は昼食を作りにかかっていた。
おたまで味噌汁を掻き混ぜながら霊夢は考えを巡らせる。
元の幻想郷は一体どうなってしまったのか。
本当に消え去ってしまったのだろうか。
あの魔理沙の姿が頭に浮かぶ。
彼女は一体どうなった?
あのまま放っておく訳にもいかない。
更には今まで出あった人妖の数々。
帰れるものなら帰りたい。
いや帰れないにしても幻想郷がどうなったのかくらい確かめておきたい。
それに外の戦争がどうなったのかも。
「お皿並べたよー」
「はいはい」
フライパンで作っていた肉の炒め物を紫は机へと運んでいった。
子の名前についてはじっくり考えておくとのこと。
焦らず待つことにして、今は幻想郷の問題を考える事にした。
「ごちそーさまー」
結局何か良い手を見つける事もできず、
「今日もいい天気ねえ」
それが合図となっているのか、娘がはっとして笑顔を振り向けた。
「お花見!?」
「ふふ。そうね、そうしましょう」
縁側に三人で座り、お茶を飲むとほっと溜息が洩れる。
「ここはいいわねえ……」
紫がしみじみと洩らした台詞をかつて聞いた事があったので、霊夢は思わず小さく笑い声を零してしまった。
「あら、どうしたの?」
「ママ?」
「う、ううん。何でもない」
それから少しして、座っているのが堪えきれなくなったのか、娘がばっと立ち上がって花びら集めに奔走し出した。
「…………」
そんな少女を見つめながら、霊夢は隣に座る紫に問いかける。
――ねえ、紫。もしも世界が消えてしまったとしたらどうする?
現実でも偽りでも、精一杯生きればいいじゃない。
そう言われ、しかし霊夢は納得する事もできなかった。
幻想郷で出会った沢山の大切な人達や妖怪達。
忘れろと言われ、はい分かりましたと応じられる訳も無い。
そうしてしばらく二人で縁側に座り、あちこちしゃがんでは地面に落ちた花びらを集めるて回る娘を眺めていた。
そんな時の事だった。
「うん、そうね。それがいいわ」
紫が一人でうんうん頷き始めた。
「紫……?」
霊夢が怪訝な顔で見やる中、紫はとびきりの笑顔を向けてきた。
「考えたのよ、あの子の名前」
「本当?」
「ええ」
思ったより早くに決まった。これだ、という名前があったのかもしれない。
色々とごちゃごちゃした考えを脇に置いておき、霊夢は居住まいを正して紫の言葉を待つことにした。
色々と浮き足立ちそうになる心身を抑え、言葉を紡ぎ出す紫の唇をぐっと注視する。
そして紫は緊張したのか何なのか大きく深呼吸をし、焦らさない程度にいくらか溜めてからその名を発表した。
「藍夢、ってどうかしら」
「あいむ?」
最初に感じたのは、名前の響きがいいなあ、というものである。
「ええ。藍色の藍に夢。藍夢。藍色って見ていて何だか落ち着く色じゃない? 私、昔からこの色が好きなのよ」
「あい……」
藍色。
藍と言えば、
八雲藍。
あの式を藍と名付けたのもそういう事なのだろう。この紫は自分の式の藍の事を知らない紫だから迷い無く藍の文字を使ったのかもしれない。
「それに、あい、って巡り逢いの『あい』でもあるじゃない。出会えた喜びに感謝して、って意味もあるのよ」
「…………」
黙っている霊夢を見て、どこか不安になった紫が首をかしげてきた。
「……駄目?」
「…………」
まじまじと紫のことを見つめていた霊夢はやがて――
ふっと笑みを浮かべた。
「良い名前じゃない」
紫はほっとしたように笑顔から吐息を吐く。
「そう、良かった」
「藍夢……」
藍夢。博麗藍夢。
これからはそう呼べる。
「ちょっと行って来るわね」
「ええ、行ってらっしゃい」
いても立ってもいられず、霊夢は縁側から立ち上がった。
娘はこの博麗神社で最も大きな桜の木の下で花びら集めに励んでいた。
桜はひらひらと昨日よりは振り落とす花びらを増し、娘の頭にも数枚が引っ掛かっていて彼女が動くたびに揺ら揺らと踊るように翻っていた。
霊夢がやって来ると娘は立ち止まり、きょとんとした様子でじっと母のことを見つめた。
ちょうど背景の中央に一本の桜の木を据える形になり、巫女装束を着た二人の色彩が一枚の絵画のように空間を引き立てていた。
そんな娘に向け、霊夢は深呼吸一つ、意を決して呼びかけた。
「藍夢」
さあ、っと桜の木が揺れた。
藍夢の手から花びらがするするとすり抜けていき、春風に乗って空の彼方へと舞い上がっていった。
どこか呆然とした面持ちで藍夢は呟く。
「……あい、む?」
「ええ。あなたの名前は藍夢よ。藍色の藍に夢。藍夢。ごめんなさい、今まで名前が無く
て」
「…………」
「紫が付けてくれたのよ」
「…………」
目をまん丸に見開いていた藍夢はやがて、すっと微笑みを浮かべた。
「そっか。藍夢。それがわたしの名前……」
「ええ」
「嬉しい……」
藍夢は胸のところできゅっと両手を合わせて零れるような笑みを浮かべ、祈るようにして目を瞑った。その手に残った花びらが風に攫われ、霊夢の横を軽やかに通り過ぎていく。
嬉しそうな娘を見て、霊夢も満足げに微笑みながら頷いた。
とある博麗神社の桜の木の下、たおやかに吹く風に揺らめく木々のざわめきが耳をくすぐる中、二人の博麗の巫女が巡り逢えた喜びに笑顔を交わす。
縁側では紫がお茶を飲みながらのんびりとその様子を眺めていた。
やがて藍夢は顔を上げて穏やかな笑顔のまま霊夢を見つめる。
「ありがとう、ママ。わたし、ずっと名前がほしかったの」
「……そう、ごめんなさい」
「ううん」
藍夢はぶんぶんと首を横に振る。
「とってもいい名前」
「そう……紫に感謝しないとね」
「うん!」
その瞬間だった。
ぐにゃりと、
あまりにも唐突に、世界が歪み出した。
境内の桜の木も、整然と並べられた石畳も、所々錆び付いている赤い鳥居も、博麗神社の本殿も、麗らかな春の日差しすらも、
全てが厚みを失っていき、凹凸をなくして平坦に平坦にと姿を変えていく。
「――なっ!」
かつて見た光景。異常事態。
この後幻想郷は消え失せたのだ。
霊夢は慌てて藍夢に駆け寄ろうとする。
しかし、
「っ! どうして!」
一歩も足が動かない。
「藍夢!」
悲痛な面持ちで娘を見やると――
「え?」
藍夢は微笑んでいた。
にこりと穏やかに、誰かを安心させようかのようにこの異常事態においても変わらず笑顔を向けている。
「あい、む……?」
一体どうしたの?
早く逃げなさいと霊夢が呼びかける前に、藍夢はどこか困ったような笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい、ママ」
「え……?」
「我侭を言ってごめんなさい。わたし、ゆかりが名前を付けてくれるって聞いて、とっても嬉しくて」
「何、を……?」
「ゆかりが付けてくれないと嫌だって、我侭言って、ごめんなさい」
「え……」
そこで思い至る。
なぜ自分がこの子の名前を考えることができなかったのか。
いやそもそも――
以前のこの平坦になって消えてしまう異常事態は、一体何をきっかけに一気に広がった?
『この子の名前は、私が付ける』
我が子の亡骸を腕に抱き、震える霊夢がそう決意してからこの異常は一気に進行した。まるでその決定を拒否するかのように。
全てこの子が願ったものだとしたら?
名前は紫に付けてほしいと、そんな小さな願いがあの異常事態を呼んで新たな幻想郷までも生み出し、自身は話ができる程度に姿を変え、霊夢をここへ導いたとしたら?
全ては名前がほしかったからだと言うのか。
「もう、我侭は終わりにするから」
「ま、待って!」
終わる。この世界が。
魔理沙が言っていたことを思い出す。
――願いを叶えてやってくれ。
願いとはすなわちこの子の名前のことだったのだ。
「もうわたしは十分だから」
「待って藍夢! 私はここでいいって、ここでずっと暮らしていてもいいって、そう思ったのよ!」
とても狭いけれど暖かなこの幻想郷。娘と一緒にいられるなら何時までもここにいても良いと思っていた。
しかし藍夢は静かに首を横に振る。
「わたしのお願いは、もう終わりだから」
「え……」
紫が言っていた事を思い出す。
『世界は願いでできているのよ』
幾千もの願いによって世界は作られている。
もしも全ての願いを叶えた時にその役目を終えるのだとしたら。
そんな事は普通であれば有り得ないが、願いが絶える事など起こり得ないが、ほんのささやかな願いによって作られたこの世界であれば、或いは――
「でも……でも! この世界が崩れたらあなたは――!」
脳裏にはベッドに横たわる子の亡骸が浮かんでいた。
しかし藍夢は笑顔を崩さなかった。
「いいの」
「そんな――!」
「ママ」
そこで藍夢は、これまでで一番のとびきりの笑顔を浮かべた。
「ゆかりと仲良くね」
「え……」
――あいむー。
縁側から立ち上がった紫が呼んでいる。
「もう行かないと」
「ま、待って」
「さようなら、ママ。少しの間だったけど、楽しかった」
「藍夢!」
足がどうにも動かない霊夢をよそに、藍夢はとてとてと紫の方へと走っていった。
そっと抱き上げられ、二人で微笑み霊夢を見やる。
「待って!」
今日泣いたばかりだというのに、霊夢の瞳からはぼろぼろと途切れる事なく涙が溢れ出ていた。
何を言えばいいのか、頭が真っ白になって相応しい言葉が思いつかない。
そして咄嗟に飛び出たのは謝罪だった。
「ごめんなさい!」
すると、
「――!」
藍夢が困ったような表情を浮かべたので、慌てた霊夢の口は自然と別の言葉を導き出した。
「藍夢……」
この後の娘の表情を見て、霊夢はようやく微笑みを交わす事ができた。
「ありがとう」
――巡り逢えたことに、そして自分の目を覚まさせてくれたことに。
藍夢が微笑み、その瞳から涙がぽろりと流れ出す。
一滴の涙は地面に落ち、落ちた所の空間が波紋となって波立ちうねりが周囲に伝わり始める。
ぐんぐん同心円上に広がっていったそれがこの狭い世界の端まで伝わりきった瞬間、とうとう全ては厚みを失ってしまった。
以前と比べると随分と小さい一枚の絵に変わり果てた幻想郷はぐるぐると回転しながらその幅を狭めていき、一本の線へと成り果てる。
更に変化は続き、線の両端がぐんぐん縮んでいくと線はやがて点になり、そして――
ひどく小さく暖かかった幻想郷は、この世から消失した。
少女の手の平から、砂粒のように小さい一粒の点がそっと地面に置かれた。
「ごめんね」
小さな手が優しく撫でると、点はそれに答えるようにぶるぶると震え出す。
すぐに変化が起き、その身を両端からぐんぐんと伸ばしていくと、やがて先が見えないほど長い一本の線へと姿を変える。
変化はそれだけではなかった。
巻物を広げるように線が一斉に引き伸ばされて面積を生み出し、色とりどりの人や妖怪や山や川や神社などの建物が描かれた絵が姿を現す。
一枚の絵であったそれはぽこぽこと厚みを取り戻していき、
停止していた人が、妖怪が、友を待ち望む普通の魔法使いが、吹き抜ける風が、大地の脈動が、麗らかな陽射しが、
全てが動きを取り戻した。
◇◇◇
白以外のあらゆる色を洗い落としてしまったような空白の世界に霊夢は立っていた。
何の凹凸も無い白の地面はどこまでも続き、地平線が見えないので途方もなく広い平面の空間である事が窺える。
空からは白い光の粒がはらはらと途切れ途切れに降り積もり、地面に吸い込まれては消えて行く。
この場所を知っていた。
とても懐かしい空間。霊夢がかつていた場所。
博麗大結界。その中枢である。
一本の木が立っていた。
博麗大結界の中枢の更に中枢。力の源として作り出された聖樹。
それは最早力の源としての機能を果たしていなかった。
根から枝の先に至るまであらゆる箇所が鈍い茶色に変色し、枯れ果てたその身はあちこちがぼろぼろと剥がれて落ちてしまっている。
かつて放っていた淡く白い光はどこにも見受けられず、ただ木の屑をその身から撒き散らすのみである。
もしもこの空間に風が吹いていたのなら、一刻と持たずに吹き倒されてしまうだろう。
変わり果てた聖樹を感慨深げにじっと眺めていた霊夢は、やがてその脇へと視線を移した。
八雲紫が立っていた。
霊夢に背を向け、聖樹の隣の地面をうな垂れるように見つめている。
溜息一つ、霊夢は歩き出した。
すると紫はすっと振り向く。その顔に何か表情が表れてはいなかったが、どこか悲しそうだと霊夢は感じた。
紫が一歩横に動いた。
彼女がじっと見つめていた場所には一つの墓が立っていた。
小さな、しかしちゃんとした墓石が積まれている。そこには誰の名前も彫られていなかった。
紫から二、三歩離れた位置で霊夢は立ち止まり、その小さな墓を見やった。
「そのお墓……」
紫は目を伏せ、顔を落としていたまま黙っている。
「私の子が眠ってるのね」
「……ええ」
――ここに埋めるのがいいと思ったから。
暗い紫の表情を見て、ああ、あの紫とは違うんだ、と霊夢は頷いた。
あの狭い、しかし暖かかった幻想郷は、願いによって作られていた。
詳しい事は紫にも分からないだろうが、おそらく結界に関する強い力によるものなのだろう。この聖樹が最後の力を振り絞って死に行く博麗の子の願いを聞き届け、力を貸したのかもしれない。
しかしそれは藍夢の願いだけではなかった。
藍夢と紫と霊夢、三人の願いがあの空間を、あの生活を生み出していた。
霊夢辺りの願いには魔理沙の存在も含まれていたのだろう。しかし藍夢が望んだのは自らの名前を付けてくれる紫と母親の霊夢だけだった。
だから不完全な願われ方となった魔理沙は欠片だけがあそこに辿り着いたのだろう。
そして紫。
霊夢はただ紫だけを願う事はなかった。憎むべき敵である紫ではなく、かつて一緒に縁側でのんびり過ごしていた紫を願った。
そして紫自身、そんな自分を願っていた。
だから別の紫があそこには現れたのだろう。
「その子の名前、決まったのよ」
名無しの墓を見つめて霊夢は呟いた。
紫はどこか悲痛な面持ちで「そう……」と息を吐く。
殺しておいて名付けの親になどなれるはずがない。霊夢が自分で名前を付けたのだろう、とあの世界の事について詳しくは知らない紫はそっと目を伏せた。
「…………」
そこで霊夢は紫を見つめ、にこりと微笑むと朗々とした調子でその名を述べた。
「藍夢」
紫がはっとした様子で顔を上げ、目を見開いて霊夢を見やる。
「藍色の藍に夢で藍夢。博麗藍夢がその子の名前よ」
紫は信じられない、といった面持ちで穏やかに笑いかけてくる霊夢を見つめていた。
もう見れないと思っていた、自然とこちらも笑みを作ってしまう霊夢のたおやかな笑顔。
「あい、む……?」
「そうよ」
霊夢は可笑しそうに笑いながら頷いた。
藍夢。
紫が子の名前を考えた時に真っ先に考え付いたし良い名前だと感じたは良いものの、式の藍と被っているのでまた同じ字を使うのも文句を言われるかと思っていた名前である。
それを霊夢が言ってみせたので、一体どうして――
「どうして、って?」
「――!」
心の内を見透かされ、紫は顔を強張らせた。
「分かるわよ」
やれやれといった具合で溜息をつきながら、霊夢は愕然とする紫に向けて歩き出した。
「あんたの考える事なんてお見通しなのよ。どうしてその子じゃなくて私を生かしたのか、どうしてあんな憎まれ口を叩いたのか、全部分かってるから」
あと半歩で紫に接するくらいの距離で霊夢は立ち止まった。
「紫、あんたに言わないといけない事があるわ」
「…………」
最早どうなるのか予想がつかないのか、紫はいつもの余裕の表情も、無理やり作っていた憎たらしい笑みを浮かべる事もできずにただ呆然とした様子で霊夢の言葉を待っていた。
「…………」
霊夢は一つ深呼吸をしてからきっちり笑顔を浮かべ、はっきりと言ってのけた。
「紫、ありがとう」
――私を生かしてくれてありがとう。
紫は声を出す事ができなかった。
何か判別がつかない呻き声を洩らしながら、震える体を抱きしめる事もせず、握り拳に力を込める事もできない。
「許すから。その子を殺したこと、その子自身が許してたから、だから私も許すわ」
「あ……あ……」
「紫……」
かつて紫が自分にそうしたように、霊夢は紫をそっと抱き寄せた。
「戻ろう。一緒に、またあの縁側に座ってお茶を飲みましょう」
「れいむ……」
最初は弱々しく、しかし次第にきついくらい力強く霊夢を掻き抱き、その体の震えが霊夢にも伝わってきた。
「霊夢……ごめん、なさい……」
搾り出すように言われ、霊夢は「いいから……」とその背を優しくぽんぽんと叩いてやった。
霊夢にはなんとなく分かっていた。
藍夢の願ったこと。
本当は名前がほしかっただけではなく、それよりもっと強く願っていたのは――
『ママ、ゆかりと仲良くね』
きっと、霊夢と紫に仲直りをしてほしかったのだろう。
それからしばらくの間、紫の洩らす嗚咽に霊夢は目を閉じ耳を傾けていた。
そんな時のことだった。
ぎしぎしと悲鳴のような音を立て、茶色く濁った聖樹が軋み始めた。
霊夢と紫ははっとした様子で顔を上げ、並んでその様子を呆然とした面持ちで見やる。
ぼとぼとと枝や葉が落ち、落ちた衝撃だけでぼろぼろと脆く崩れて茶色い屑となる。
とうとう幹に亀裂が入り、聖樹は木片を大量に撒き散らしながら豪快に横倒しになってしまった。
「…………」
二人はどこか途方に暮れた様子でその光景を見やっていた。
博麗大結界の終わりである。
「……ふう」
紫は特にショックを受けた風もなく、いつもの飄々とした余裕の表情が戻っていた。
「これから忙しくなるわね」
博麗大結界が消えれば外との境界が緩くなり、戦争の惨禍が幻想郷にも流入してくるかもしれない。
いや、もしかしたら幻想郷の存続自体が危うくなる可能性も十分ある。
それでも――
二人はどちらともなく見つめ合い笑顔を交わした。
もう辛い事から逃げたりはしない。
「行きましょう、霊夢」
「ええ」
二人は聖樹に、今はその名を彫られた藍夢の墓に背を向け歩き出した。
前方に一筋の線が現れる。
両端に冗談のようなリボンが付いたお馴染みの空間のスキマである。
がぱりと開くとぎょろぎょろした瞳があちこちをしきりに見渡し始め、その多くは二人の後ろの空間へと焦点を合わせていた。
――戻ろう、みんなが待ってる幻想郷へ。
それに入る直前であった。
「……?」
霊夢がぴたりと足を止めた。
「霊夢?」
怪訝な顔つきで紫が見つめる中、ふと霊夢は振り返った。
相変わらず白の世界に淡い光が降り続け、茶色い聖樹の破片が小さな墓の隣に散乱している。
そう、光が降り続いているのだ。聖樹が倒れたというのに。
霊夢自身、何か妙だと思っていた。
何か喪失感を覚えたわけでもなく、体調が悪くなりもしない、いつもと変わらない感覚。博麗大結界の聖樹が倒れたというのに、どうしてか何も変化を感じないのだ。
結界が壊れるなど初めての経験なのだが、こんなものなのだろうか?
何か引かれるものを感じて立ち止まっている、
その時だった。
ボウッ、
と聖樹が倒れて木片がうず高く積まれた中から幾筋もの光が漏れ出した。
「――! 紫」
「え、ええ」
途端に二人はスキマに背を向け早足になり、地面に撒き散らされた木片へと歩み寄った。
そして若干焦りながらも丁寧に木屑を脇へ寄せ、湧き出る光の前へと歩み寄る。
恐る恐る、そっと積もった木屑をどかしてみると――
「あっ!」
「これは……」
出てきたのは一本の苗木だった。
膝くらいの丈しかない小さな樹である。
それでも枯れた場所などどこにも見受けられず、小指より細い枝の先に至るまで白く澄み渡り、その身は落ち着いた淡い光をぼうっと湛えている。
その枝には小さな芽や葉がいくつも生え出ており、これからの成長を存分に窺わせていた。
「紫……」
「……これは」
霊夢が目を見開いて笑みを浮かべる中、紫がまさか、といった面持ちで恐る恐る呟く。
「聖樹の、苗木……? そんな、こんな事聞いたことも無いわ……」
「…………」
とそこで、霊夢が微笑んだまま何かに感じ入るように穏やかに目を閉じた。
「……紫、私分かるの」
「霊夢?」
「これが新しい聖樹だって。そう感じられるの」
「新しい、聖樹……」
博麗の巫女である霊夢がそう言うのだからおそらく間違いはないのだろう。
「……まさか」
紫はそこではっとした様子で立ち上がり、隣にスキマを作り出すと、それに外の世界のあちこちを映し出していった。
どこも瓦礫か焦土ばかりであったが、戦闘は行われていないようである。
「これは……」
そしてある場所で光景の切り替えを静止させた。
そこでは瓦礫の中から人々が復興活動に乗り出している所であった。
テントを張り、瓦礫から材木を拾い集めて簡単な家や日用品を作り出していく。機材もいくらか生きていて復興活動をぐんと後押ししているようであった。
「戦争が、終わってる……」
結界の歪み綻びが世界の荒廃を反映しているのだとしたら、新たな聖樹の誕生は復興を反映しての物なのだろうか。
それとも――
聖樹のすぐ隣に立つ小さな墓が紫の目についた。
これもこの子の願ったものだとしたら?
まさか、である。
しかし願いによって世界が変わったのだとしたら、或いは――
「紫……」
「……ええ」
考えても分かりはしないだろう。
紫はどこか安心した様子で息を吐く。
何はともあれ、どうやら博麗大結界は、幻想郷はすぐには終わらないようである。
博麗の巫女一人につき子は一人しか与えられないので霊夢はもう子を宿す事が無く、いずれ終わってしまう宿命ではあるのだが、それでも当分の間は幻想郷に住む事ができるようである。
少なくとも、また二人で縁側に座る事くらいはできそうだ。
「ありがとう……」
霊夢はそっと小さな聖樹の細い幹を優しく撫で下ろした。
すると、風も吹いていないのに聖樹がくすぐったそうにすすっと揺れ動く。
聖樹自身が望んだのかもしれない。
まだ幻想郷を終わらせたくないと。
ずっと霊夢たち幻想郷に住む者全員を見守ってきたのだから。
霊夢が聖樹を撫でていた手を止め立ち上がろうとする。
その時だった。
「え……?」
新たな聖樹が一際強く光りだし、その樹を取り巻く淡い光が大きさを増していく。
溢れた無数の光の粒が遊ぶように弾けては宙を飛び回り、やがて白い空の彼方へと立ち昇って光の柱を作り出す。
「なに……?」
何かを訴えようとしているのだろうか。
聖樹に手を添える姿勢で呆然と見つめていた霊夢。
そんな時、
ポウッ、
と触れていた光が、手の先からすっと彼女に吸い込まれていった。
「――!」
次々に淡い光が聖樹から伝わり、やがて霊夢の全身をぼうっと薄く取り巻いていく。
「霊夢!?」
「これ……」
この感覚を知っていた。とても落ち着く心持ち。
かつてここにやって来た時、霊夢はこの光に包まれて――
「あ……」
全身を包み込んでいた白く淡い光が、渦巻くようにして霊夢の体の中心に集まってきた。
それは次々とお腹の内側に向けて収束していき、二人は唖然としたままその様子を見守るしかない。
光はやがて消え、霊夢は呆然とした面持ちでじっとお腹を押さえ込む。
「霊夢……?」
そんなまさかと、紫が恐る恐る呼びかけると、霊夢は目を見開いたままぽつりと呟いた。
「感じる……」
自分の体の中にどくんどくんと息づくもう一つの命。新たな後継者。
博麗の巫女一人につき子はただ一人。それが聖樹により与えられる宿命である。
しかし別の聖樹であるならば、或いはもう一人――
「紫……」
霊夢は瞳に涙を湛え、震える唇で言葉を絞り出した。
「私、また母親になって、いいみたい……」
白が眠り光が踊る静寂の世界、撒き散らされた聖樹の残骸は優しく包み込まれるように地面へと消え去り、今や白だけが広がるその空間に、二人の織り成す艶やかな色彩が重なり合うようにして佇んでいた。
新たな博麗の巫女。それももしかしてとある少女が願ったものだとしたら。
まさか、と紫は首を振る。だがそうであったなら何て素敵なんだろうと、思うくらいは許されるだろう。
小さな聖樹と今は名の彫られた墓をしばらくの間見やっていた二人はやがて歩き出す。
白い空から降る淡い光の粒は以前の勢いを取り戻し、聖樹が湛える純白の光は二人を見送るように強く輝いていた。
「ねえ、紫」
「なあに?」
霊夢は隣を歩く紫に話しかけた。
「もしもこの子が生まれたら、その時は、あの縁側に三人で座りましょう」
紫は優しく、しかし即座にきっぱりと頷いた。
「ええ、喜んで」
やがて二人は帰るべき場所へと帰っていく。
一転二転三転した未来。一度は消えてしまいそうになったその世界。
しかしどうやらどうにか――
幻想郷という存在は、続いていくようである。
了
やはりどんな理由があっても、ハッピーエンドは良い物です。
でもハッピーエンドはやはり良い。お話自体も所々つっかかる箇所はありましたが、面白かったです。
長編お疲れ様でした。
とても良かったです>ω<
その上をいく優しい話になって本当によかった……
ただ惜しむべくは前編の流れで話の大筋が見えてしまったこと。そこだけが残念でした。
その戦火が幻想郷にも燃え移らんとする着眼点は、なかなか面白い発想でした。
幻想郷の平和はとても危い針状の平和だということを、改めて痛感させられました。
が、しかし博霊大結界の聖樹やら博霊の巫女の継承やらと、
いささか設定に、飛躍があり過ぎた感が否めません。
例えるならフランスパンを丸呑みさせられているような…もう少し緻密な描写を期待しております。
ハッピーエンドで良かった。
どんなに予定調和と言われても葛藤や愛憎の果てに掴んだハッピーエンドなら言う事なし
ですわねw
笑顔で締めてくれたので100点を。
痛みをになうことになっても今霊夢とともにあることを選んだ紫の嘘
その真実を子供をとおして見ることで受け止める霊夢の流れは素敵です
ハッピーエンド 三人いや大勢縁側でのんびりする日常があることに
ご都合主義だの無理やりのラストだのどうだっていい。みんなが笑っていられればそれが最高だと思います。
新しい子の名前も、紫につけて欲しいです。
後半で話が一気に加速した感じがしますが、それでもこういう形で
終わって良かったと感じます。
またいつか縁側に三人で座る光景が実現するのでしょうねぇ。
面白いお話でした。
こう、あったかくなれる気になるお話でした。
いい話をありがとう。
本当は、私は80点を付けようと思いました。前編で話を二転三転させ、やりすぎなくらい物語をこじらせたのだから、結びはそれ以上に緻密に展開をさせるかしてほしいと思ったからです。そしてこの話は(前の続きとしては)少しあっさりとしていて、設定、前で出て後で出なかったキャラに対して語りが足りないとも思いました。しかし、前後一つの話として見れば十分に読みごたえあり、文章もよく、総合的にはよかったのと、次への期待と話の量に対してあと20点つけました。
お疲れさま。ありがとう。
今度こそ霊夢と藍夢と紫様とで、縁側に三人で座れる未来が迎えられますように…
藍夢の名づけのシーンがありありと脳内に映し出されました。
最後が若干駆け足だったり、もっと他のキャラの出番がほしいなぁと思ったりしましたけど、まあ個人的なことですね。
よい、ハッピーエンドでした。
個人的には、事態収束後に魔理沙や永琳、藍といった前半登場した人物を絡めた描写があれば
もっと「日常」を取り戻した感があってハッピーエンド満開!大好物!だった。かな。
でも、とてもいい話でした。面白かったです。
紫様が前編で最高すぎるのになんか最後はあっさりし過ぎて不完全燃焼感が…!!
なので前編100点、後編70点で四捨五入してこの点とさせて下さい
また素晴らしいお話の投稿を楽しみにしております
貴方の描いた素敵な幻想郷に感謝です
前半の作りこみに比べて後半の流れは描写や展開が足りないのでしょうか、うすっぺらく感じてしまいました。
最初から作り上げた話の結末としてはもったいないと思いましたね。
綺麗にまとまっていて納得のいくラストでした。
他の話も含めてあなたの描く幻想郷が好きです。
が、ちょっと後半がやはりハリウッド的で自分の好みには合いませんでした
判りあってくれてよかったよぅ
よかったよー
そうすることで未来に再び霊夢が子をさずかるという可能性を考えさせることができるので。
しかし、タイトルにあるとおりの最後を描きたかったというのはわかりました、よかったです。
心理変化は見ていて面白く思いましたが、もう少し紫にも欲しいと思いました。
願いによって構成される世界であるため、願いとういう単語が出てくるのはわかりますが、あまり乱用すると都合のいいものとしてとらえられてしまうので、もう少し削ってもいいと思います。
面白かったです。
といった感じではありましたが、それでもそう無理な展開だったりするわけでもないし、とっても面白かったです。
前編の終わり方なんかも、話の区切りとしては王道であっても
区切り方というか描写というかが、嗚呼区切られる!といった感じでとても心地よかったです。
ただ惜しむらくは、世界が戻るまでと戻ってからの心理描写の密度に差がありすぎることでしょうか。
確かに世界が戻った後のパートでは内面の話がほとんど解決しているので少ないのは仕方ないのですが
それまでのパートでグッグッと押し込められていたものをポッと手放された開放感の様な
何とも物足りない感覚を持ってしまいました。
えらく抽象的な感想になってしまいました。解りづらくて申し訳ないです。
しかし、多少無理があってもこれは……。
霊夢と紫と生まれてくる子供と、三人幸せになってほしいものです。
ただ、物語の流れはすごく好き。霊夢と紫と、霊夢と藍夢と、藍夢と紫と。
縁側で、三人で笑いあえる未来が、来る事を願っています。
泣きました。
ただもう感情にまかせて。
まさか人生初の感涙を創想話で流すことになるとは思いませんでした。
本当に、ありがとう!
すいません、空気読めてないですね。
ただ何となく寂しくてやりきれない気持ちなんです。
とても感慨深い作品でした。
最後、もうすこし設定をまとめた方がと思いましたが十分100点です
でも、200点でも300点でも点数付けたいぜ!という作品がある中での100点です
そこまでの描写と比べると物足りなかったかな……と。
しかし久しぶりに良作を読みました。
ところで、アニメ化は何時でしょう?←
とても面白かったです
前編も合わせて難なく読めました。
やっぱこういう感動モノは心にぐっと来ますね。ゆかれいむで泣いたのはこの作品が初めてです。
特に最後の藍夢との別れとかもう感動の嵐でしたよ。
これで泣かない奴は心が無いぞ!と言いたい程です。
願いによって世界は創られる、とても素晴らしい理論だと思います。
そして最後に感謝を込めて、この場から失礼しようと思います。
素晴らしい作品をありがとうございました!