古明地こいしが地底トンネルを抜けると、美しき花嫁がいた。
地肌が冬化粧されている光景に思わず立ち止まった。
白さ雲からほろほろこぼれるおしろいを見て「この季節への嫁入りなのね」と少女は頬を緩めた。
その降り注がれる様子に、感嘆混じり白い息。
地底の旧都にも雪は降る。今や、若き太陽すらも地底にある。
しかし、この空の高さはない。見渡す限りに広がり続ける風景もない。
彼女は地上に居るという事をそれらによって強く体感する。
「風が強いわね」
山颪に帽子を飛ばされぬよう気をつけていると、風音に混じる生き物の声を耳が捕らえた。
遠くを見れば名も知らぬ鳥が二羽、旋回しながら夕餉を探していた。
この気温では湖は凍ってしまっているだろう。食事をするにはまだ凍りついていない場所を探さねばならない。
鳥達は途方に暮れながら、ここまで響く声量で嘆いていたが、やがて、山へ飛び込むように羽ばたいていった。
「川はまだ凍っていないのかな。……おっと、そろそろ行かなくちゃ」
こいしは「寒いだろうから」と姉から手渡されたマフラーを少しだけきつく締め直し、今日会う相手から渡されたメモを取り出した。
何度も読み返したそれを、それまでと同じように丁寧に四つ折りから二つ折りにし、一枚の紙へ直す。
白雪見紛う一面には「香霖堂にて待つ」という文字と場所への案内図が墨の轍にて記されていた。
少女はそれらをしばらく眺めたのち、一つから二つ、そして四つに折り閉じて懐に仕舞った。
そして、待ち人を意識してから、その場所へ向かって飛び始めた。
夕暮れ間際の天の海はまるで流氷で満たされたようであった。加えて、舞う風花がそれに拍車をかけた。
夜が近い故に山嶺から野辺に向かって波が流れており、時に怒濤も押し寄せる。
その都度、体温が削り取られていく。
堪らず、こいしは吐息で両手に熱を分け与えて頬をさすった。
「自然のスペルカードは耐久ばかりを要求して困るわ」
帽子と肩に積もった雪を手で軽く掃い「しかも時間制限が長いと来ているんだもん」溜息一つ。
「どんなにルナティックでも、さすがに終了予定が三時間とか半日とか一季節ではねぇ。無理無理~」
呟いている中、また波がうねり、身体を包んだ。
「ああ、寒い寒い。早く安全地帯に逃げ込みたいわ。出来れば暖炉付きの、ね」
夕間暮れから宵へ移った頃、風景の変化は唐突に少女の目に映った。
延々と続くかと思われた木々達の暮らしがそこだけぽっかりと立ち退かされた空間があった。
造られた平地の上には瓦屋根達がおしくら饅頭をするように詰まり、街と呼ばれる一群と成っている。
その周りに輪を描くような格好で、妙にお行儀良く木々が畏まっていた。
街はそこここに灯りを灯し、揺れる裸火がじりじりと夜の膜を焼き始めていた。
中央の通りには着込んだ人々が、こいしと同じように寒さに悪態を白々と吐いて往来している。
「あ。安全地帯ー。ちょっと熱いお茶でも飲んでいこうかしら……」
しかし少女は言葉とは裏腹に、速度を緩める事なく村の上空を通り過ぎた。
「人を待たせるのは良くないし、あんなに人の多いところに行くのはちょっと怖いな」
右手で第三の瞼に触れながら、少女は独りごちた。
閉ざす要因の一つを思い出してしまった。
開かれている時に、大勢の生き物がいる場所へ行って頭が割れるような思いをした過去を。
口からの喧噪、心からの喧噪、建前と本音のサラウンドは彼女にとってただ苦しいものだった。
そして結局、ひんやりとした辛さと苦しみが積もり積もって、第三の眼を閉じた。
姉のさとりは何も言わなかった。その心中は、もうこいしには読めなかった。
今なら、街に下りてもそんな思いをする事はないだろう。だが、まだ過去の体験から抜け出せていない。
また開ける日は来るのだろうかと考えた瞬間、なぜか唐突に魔理沙の顔が浮かんだ。
閉ざして以来、初めて後悔した出来事だった。目の前の全てを知りたい――それは懐かしい心想だった。
地図に従っていると、森の入り口に立つ香霖堂が見えてきた。
ゆるやかに高度を下げ、店の前に着地する。
「変わったものが店先に置かれているし、建物自体も変わっているわ」
だったら店主もきっと変わり者ね、とこいしは考えた。
扉を開くとカランカランと鈴がなり、店内から世界が変わったような温かみが溢れた。
むしろ暑いくらいだった。しかし、海から上がったばかりの凍えた身体にはそれぐらいがちょうど良かった。
「やっと安全地帯に着いたわー」
「いらっしゃいませ。寒いから、出来れば早く閉めてもらえると助かります」
「あ、すいません」
奥の方から発せられた頼みに、こいしは慌てながらも後ろ手で応えた。背後からはパタンという答えが返ってきた。
商品に気をつけながら進むと、白光炎を灯す円柱があり、その前に眼鏡を掛けた男性が読書をしていた。
「珍しい物で暖を取っているんですね」
店主は視線を本から円柱に一度合わせ、それからこいしに定めた。
「これですか、これは外の世界のストーブです。スイッチ一つで部屋の隅々まであっという間に暖まる――実に使い難い代物なんですよ」
「あのー、それって、便利って言うんじゃ……あっという間に暖まっちゃうんですよね?」
「何を言うんですか。冬という季節感は味わえなくなるし、薪を割る必要もないお手軽さで運動不足にもなります。厄介でしょう?」
特に表情を変えることもなく、店主はそう言い放った。
少女は店主に対する自分の予想が当たったと確信した。
同時に、それが良いことなのかを計りかねた。
「ところで……君はどういう用向きでこの店に? ちなみに、このストーブは残念ながら売り物ではないのですが」
「あ、ええと、人と待ち合わせを。どうもまだ来ていないみたいですが」
「待ち合わせ? ここで? ……そんな事を考える奴と言えば」
「霧雨魔理沙という名前なんですが」
名前を聞くやいなや、店主は苦笑した。
「なるほど。思った通りの名前だ」
「どうやらちょっと早くついてしまったみたいですねぇ」
その様子をあえて気にせずに、こいしは視線をまた店の品物達に傾けた。
「その間、品物でも眺めてみてください。だいたいの物は売り物ですから」
「はい、じゃあそうさせてもらいま……」
話の途中にカランカランと聞き覚えのある鈴の音が割り込んだ。
「よう、悪い悪い。ちょっと遅れてしまった」
こいしが扉の方へ振り返ると、そこには待ち人が立っていた。
元地が黒のところに砂糖が塗れ、白黒まだらとなった帽子。
羽織ったコートも本来黒である部分のいくつかが白混じりとなっていた。
「信じられるぐらい寒いぜ。厳冬だとな」と呟く唇、頬の横には雪溶けほのかに濡れた金の髪が、ふわりと波打っていた。
「うん、今年の冬は寒いよ…」
「ああ、寒い寒い。寒くて寒くて死んじまうぜ」
「あ、さっき来たばかりだから、待たせたとかはあまり気にしないで」
「うん? そうか。なら良いんだがな」
「早く閉めてくれ」
会話する二人を尻目に、店主はやかんを円柱の上に置き、お茶の準備をする。
「飲むだろ。それなら湯飲みは自分で取ってきてくれ魔理沙。ついでにその子のも」
扉はまたもや後ろ手で閉じられた。こいしの時と同じような調子の返事だった。
そうしてから魔理沙は「しかたないな」と笑って、店の奥へ消えた。
湯飲み二つを持って戻ってくる頃には、金の禿頭がゆったりと湯気を吐き始めようとしていた。
「お茶、ごちそうさまでした」
「じゃあな、香霖」
お茶を飲み干したと同時に、別れの言葉が投げかけられた。
受け取り手の店主は特に気にする事無く「これで読書を再開出来るな」と安堵し、ほっぽり出していた本を手に取った。
だが、その作業に戻る前に彼は「最後に」と疑問を聞くことにした。
「そういえば、こんな寒い日にどこへ行くんだ君達」
「あー? こんな寒い日だぞ香霖」
何を当たり前な事を、と前置きして魔女は答えた。
店主に対しての二度目の微笑みとともに添えられたのは
「家に決まっているじゃないか」
という言葉だった。
先を飛ぶ箒乗りの魔女が右へ行けば右へ、左へ行けば左へ。
風切る速度は穏やかに、森の中の暗幕と同化するようなダークフライト。
時期が時期故に、生き物の声もまばらであった。時折、狼らしき遠吠えが耳に忍び込む程度。
葉のざわめき、かすか。この森は平原よりも静寂に近い。凍りつく間際なのかもしれない。
先導のルートから外れぬように飛びながら、こいしはそんな事を思っていた。
「……あ、凄い。よくよく考えてみれば、人のお家にお呼ばれされるのって久しぶりだわ」
「別に凄くはないぜ? ああ、生憎だがペットはいないな」
「それは残念。せっかくだからペット飼ってみたら?」
「ペットねぇ……良いこととかあるのかねぇ」
「抱くと暖かいよー。あとね、可愛いの」
「ふうん。じゃ、兎で良いか」
「兎? 確かに可愛いけど……魔理沙、なんか他にも含みがある感じがするよ?」
「そんな事ないぜ。兎は暖かくなる。何も間違っていないだろ?」
「うー、なんか納得いかないなあ……」
「そうでもないぜ。こんなに寒い今夜は美味い兎鍋に限る」
木々の中に埋もれているような建物があった。
暗闇に目を凝らして見れば、木々だけでなく、ガラクタも十重二十重に積まれている。
「さっきのお店と同じような……」
「ああ、香霖は私の兄弟子だからな」
それで似ているんだ、と納得しかけて、こいしは気づいた。
あれ? じゃあ、さっきの人と魔理沙の師匠が一番変わり者ということ? と。
もちろん、口には出さなかった。
「ほら、あがれよ」
「それでは、お邪魔しまーす」
意気揚々と室内に踏みいった瞬間、こいしは小首を傾げた。
「……シーフでも入ったの?」
目に映る限り、そこは混沌という表現が似つかわしい部屋だった。
どこで拾ったのか解らぬ使途不明の品物が部屋の隅などにコロニーを作っていた。
床に乱雑に積み上がった怪しげな書物達はさながら塔の様相を呈していた。
それら全てに埃がうっすらと被さり、お世辞にも美しいとは言い難い光景であった。
他の部屋に移動する為の導線を除き、足の踏み場がない。
その道筋がなければ、誰しもが自分と同じような感想を持つはずだ。
こいしは頬をかきながら、そんな気持ちを巡らせた。
「いんや、至って普通の私の部屋だぜ?」
「……ああ、魔理沙がシーフだもんね。納得した」
かつて、姉が言った言葉を思い出す。
『まるで宙を舞う紙くずのようにひらりひらりと弾幕をかわして』
『背中を這う蚕のように生理的に気持ち悪い動きをしたわ』
空の身に起こった異変について話している時、シーフの事も話題にあがった。
興味をそそられる内容だった。同時に、どうして自分はその時、その場所に居なかったのか悔やんだ。
見ていない以上、姿形は人の意識を通した上での想像しか出来ない。
金髪だった。傍らに人形をつれていた。箒に乗っていた。
そう聞いて、それを想像して、実際に見たいと願って。
――自分のペットも強くさせてもらえないかと考えて地上に出た際、図らずも想いは叶った。
はっきりとした白と黒だった。少女を表現するのなら、そちらの方が相応しかった。
第三の瞼を思わず撫でた。当然ながら、反応は返ってこない。
人の心を、自分にとって未知なるものとしてから、初めてその事を後悔した。
知りたい、と口からこぼれるのを押しとどめるのに苦労した。
「それは酷いぜ。借りているだけの人間を悪く言うもんじゃない」
話を聞いて以来、遠くに置き忘れていた何かを思い出させ。
出会って以来、無意識のままでいられないでいる――盗まれている。
「魔理沙は本当に面白いね……」
心の底から沸き上がった憧憬をこいしは口にした。
向かう先の魔理沙はきょとんするばかりだった。
「なんでもないよ。さ、ごはんにしよ?」
食事を挟みながら、二人きりの宴は和やかに進む。
ゆるやか、流れ夜、越え越え、語り尽く、しんと、静寂、彼方が明けゆく。
「そろそろか? んじゃ、先出ておいてくれ。こっち片付けたら、見送るぜ」
「うん。それじゃ、お先」
暖気こもった室内より抜け出すと、懐かしい冷気がこいしを出迎えた。
雪はすっかり降り止み、堂々と我が物顔で地面に住み着いていた。
厚かった雲がまるでそのまま落ちて白絨毯になってしまったようだ、とこいしは思った。
ざくざくと踏みしめる度に抗議の声を訴えられるが、気にせずに空を見上げた。
地表へ降りた雲の代わりに、冬天には金平糖が散らばり、中心には檸檬が添えられていた。
はあっと白く息をこぼしながら、地底にまずないそれらを見上げる。
「綺麗、これも地上ならではねー」
「へえ、この時期にしては珍しく、星も月も夜にいるじゃないか」
「わ、わわ!」
不意に右肩を掴まれる感覚に加え、自分の耳元で声がしたので、こいしは驚いた。
慌てて振り返ると、コートの前を左手で留めながら空を見上げる魔理沙が映った。
やがて、視線はゆっくりと自分に向き、図らずも二人は見つめ合う形になった。
「なんだ? ……どうかしたか?」
その笑みは、寒さを忘れさせた。
「え、な、なんでもないよ!」
思考の熱を断ち切るように、こいしはかぶりを振った。
「ふーん? まあ、それならいいんだが」
それで会話は切れ、二人は揃ってただじっと空を見上げる。
月明かりふんわり落ちてくる夜だった。
「今夜は月が綺麗ですね」
ぽつりと、こいしが口にした。
「ああ、死んでもいい、ぐらいにな」
寸秒なく、魔理沙はそう返した。
互い、無意識に紡いだ言葉に微笑み、ほんの一瞬だけ互いの手を触れあわせ、そして息呑む無言を重ねた。
厳冬が傍ら寄り添う冷えた夜だというのに、夏時の日差しが突き刺さったような熱さをお互いが感じた。
周りより聞こえるものといえば、時折吹き抜ける北打ちの音だけのはずだった。
けれど、介在する一切を通して伝わる鼓動の響きは、まるでそこかしこが鳴り響いているような錯覚すら与えた。
一定のリズムで刻まれる心音は、これ以上ないほどはっきりと、身体を通って共鳴させていく。
とくん、とくん、とくん。
音、意識していく。音、意識していく。音、意識していく。
ハート、ビート、コネクション。
そのまま、音を重ね、交じらせていく。
「今度さ、また私の家に来てよ」
「ん、いいぜ。暖かいしな」
「うん。暖かいよ」
「うむ、暖かい。いや、熱いぐらいか」
「あはは、熱いのは苦手?」
「いや、熱くて熱くて死ぬぐらい好きだぜ」
「それはよかった……私も好きだよ」
不意に静寂、訪れて。
一拍、のち、どちらとなく離れ、手を振りあった。
体温の残滓はそれだけで大気に奪われ、代わりに離れる痛みだけを与えてくれた。
こいしはぴりぴりと痺れる感覚を握りしめて確かめ、帽子を目深に被り直す。
「またね、魔理沙」
「またな、こいし」
そしてこいしは森の闇へ静かに溶けていった。
その後ろ姿をしばらく眺めた魔理沙も、やがて背を向け家へと戻っていった。
森を抜けたこいしはふわふらふわふらと飛びながら、長く閉じていた第三の瞼を撫でた。
夏の日はあまりにも眩しくて、予想していたよりも熱く感じた。
「もし……」
口から無意識に漏れ出た言葉にはっと気づき、二の句は意識して留めた。
「まだ、目覚めは早いから」と繕うように口に出して、こいしは両目を閉じた。
きつく、首元のマフラーを握りながら。
寒明けは遠い。春の限りはそれにもまして遠い。
考える時間はまだまだたっぷりとある。
そう思ったところで、こいしは再び両目を開いた。
そうして、地上をゆっくり見納めながら、地底へと帰りゆく。
今はまだ、二つの目だけを開かせて。
残る一つは閉じたままに。
恋し、埋火、戻りゆく。
地底より吹く風、地上に吹く風、二つによっての乱れ髪をそのままに。
尽きることなき意識が花開く夏の日まで――眠りゆく。
冒頭の苗字が間違っています。
×古明治 ○古明地