ぱっと開かれた掌の上に形成された一塊の気弾。蒼さをぎゅっと丸く凝縮させたかの様な色彩のそれはグルグルとおぞましく渦巻き、周囲の空気を歪ませている。
振りかぶられる右腕。昂揚する精神に呼応するように、純白の翼が溌剌とはためいた。
羽ばたきに煽られ頭に乗っかった赤のリボンが揺れる。肩で切り揃えた髪も同じように靡く。
その金の前髪から覗く瞳はやはり黄金色で、湛えられるのは凄烈な好奇心であった。
彼女の口元が期待に緩む。
ぎゅっと気弾が握られた。視線は真っ直ぐ標的を刺す。力強く大地を踏みしめる左足。腰が勢いよく捻られる。
「晩御飯は君に決めた!」
大仰なまでのモーションを描き、振り抜かれた右腕。
音速を遥かに凌駕する初速を以って、握られていた気弾が投擲された。
さて、雉も鳴かずば撃たれまいと言うが、このケースにおいては、鳴こうが鳴くまいが迫り来る運命を回避する事なんて出来やしなかったのだろう。
投げ放った気弾がもたらすであろう収穫にワクワクする彼女の瞳は、その実空翔ける猛禽よりも広く世界を見渡し、その耳は湖の対岸で鉤爪が小枝を踏み折った僅かな破砕音ですら聞き漏らさない。
彼女は生まれついて、体の作りが他と根本の部分で異なっているのだ。
気弾は一切の放物線を描くことなく直進し続ける。
超音速ゆえの衝撃波が霧の湖、その水面を激しく抉り水しぶきを撒き散らせていた。
とにかく速い弾である。湖の対岸に到達するまでコンマ1秒を要しないだろう。
飛び散る羽毛と、湖面をさざめかせた衝撃音。
かくして、不幸な標的は、突然身に降りかかった災難の正体を確かめる暇もなく、気弾に身を裂かれあえなく絶命する。
彼女は満足そうに唇を歪めると、狩りの成果を収めるべく、翼を広げた。
空を舞う姿は間違いなく優雅である。が、しかし、酷く不気味にも見える。
例えば、悪意だけで血と肉が形作られているというのに、その事になんの疑問も抱いていないのなら。それは周りからすれば、たまらなく不安に思える違いない。
悪魔。彼女の出生はそれであるが、約束事に五月蠅い紳士淑女な種族にあって彼女は色々と例外であった。
翼は天使の如き純白。それが余りにも彼女の本質に似つかわしくない。心根は真っ黒なのだ。それこそ同族ですら嫌悪を躊躇わないほどに。
極端な自分本位。愉快犯にして嗜みの概念がいくつも欠落している。
殆ど狂っていると言えるまでに、彼女の神経は色々普通でない。一世界の主だなんて大層な肩書きにも、きっと何の重みも感じていないのだろう。
幻月。
夢幻世界よりちょっとした気紛れで幻想郷に舞い降りた彼女の名前である。
さて、平素より喧騒から程遠いのが霧の湖であるが、それでも今の静寂っぷりはあまりに不自然であった。
そよ風。ただそれだけである。
鳥の囀りも、夏の虫の音も、妖精達の笑い声も聞こえない。
誰も彼もが恐怖していた。突如湖上に吹き荒れた、規格外の破壊力に。
湖の住人たちは息を潜め、じっと時が過ぎるのを待っている。
目立ってはならない。そうすれば、次に矛先が向かうのが己であるのかもしれないのだから。
所在をさとられるだけで命の危機を感じないといけないとは、何とも理不尽な話である。
しかし湖の住人たちの生存本能は訴えるのだ、今も暢気に湖上を浮遊する彼女の笑顔は、その実悪気の塊であると。
だから屍になりきり気配を殺す。彼らの選択は正しい。
何しろ彼女は突飛な悪魔である。理性のブレーキなんて遠の昔に磨耗仕切っているのだ。
その上、強大でもある。内面の残虐さに見合う実力を備えていた。
重苦しい沈黙が支配する湖。
ただ、そんな中にも例外は存在したらしい。
湖畔の一角の藪より、きらきら輝く双眸が、空を飛ぶ幻月を食い入るように見つめていた。
「すげー。すげーや……」
幼い顔が仄かに赤らんでいる。ぴょこぴょこと翼が跳ねていた。声色がそうであるように、体も興奮しているのだ。
見てしまったからである。
彼女は幻月の放った気弾の異常な弾速に衝撃を受け、すっかり心奪われていた。
他の妖精たちの怯える姿なんか目に入らない。
少々短絡的な思考回路と、ひたすら純粋で疑うことを知らない心根が、幻月の孕むどす黒さを彼女に悟らせなかった。
ひたすら愚直に夢中である。
そんな彼女の視線のずっと先で、幻月はすっと岸に降り立つ。
彼女はそれを見て、固まっていた体を思い出したようにようやく動かし始めた。翼をパタパタを羽ばたかせ宙に浮く。
「みつけた、きっとあれがししょーってやつだ!」
瞳はますます眩しく輝いていた。
そうかと思うと次の瞬間には、彼女は幻月目掛け一直線に湖上を翔け始めている。
待ちきれない思いが素晴らしいスピ-ドを生み、その風圧が湖をざわめかせていた。
さいきょうの、おししょーさま ~最凶な悪魔さんと最強な妖精さんが出会ってしまったお話~
「いいねぇいいねぇ。脂が乗って美味しそう。
夢月に頼んでハーブ焼きにして貰おうかな。んー、お刺身でもいいかも」
にこやかに今晩の献立をあれこれ想像する幻月の右手には、丸々肥えた雄雉が握られている。
幻月の放った弾幕に脳幹を吹き飛ばされ、ほぼ即死であったらしい。掴まれた頸部にだらりと体が垂れ下がっていた。
若干赤みの増した湖畔の一角。住人の妖精たちは遠巻きにそこを窺っている。
冷や汗を浮かべ、顔を見合わせ、幻月のちょっとした挙動にびくりと頭を引っ込めながら。恐る恐る。
彼女たちの視線に気が付かない幻月ではないのだが、今の彼女というのは狩りの収穫に十分満足していて、その残虐性を無闇に暴走させる気はないようだ。
無邪気な笑みに、珍しく悪意が薄い。
赤く染まった手の平をペロリと舐め上げる、瑞々しい血液の濃厚さに目を細める。
上機嫌であった。
さして理由もなくここら一帯をぶらぶらしていた幻月である。
夜の楽しみもできたし、これ以上滞在する理由もないかと、そんな事を思い始めていた。
ふわりと飛び立ち、妹達の待つ住居への帰途に着こうする。
彼女の行動に湖の住人たちは安堵の溜め息をついた。
しかし、そんな幻月を引き止め、住人たちの表情を凍りつかせたのは、能天気に、或いは不躾に湖面に響いた幼い声であったのだ。
「すっげー! 何あれ? あんなに速い弾初めて見た。 すげーすげー!」
「……ん?」
呼び止められた幻月の瞳に仄かな疑問が浮かぶ。ここで声をかけられるというのは、ちょっと想定になかった。
振り返ったその先。
氷精であった。パタパタと忙しなく手を動かし、目をキラキラ輝かせ子供のように感激を表現している。というか子供であった。
幼い体付きに、大きなリボンの乗った水色の髪。背中の翼は純度の高い氷のように美しく透き通っている。
「あのピンク色でちっこいあれの赤いやつより、もっともっとすげー速いじゃん! すげー速いすげー!」
興奮を捲し立てる氷精に、ピンクのちっこいのって誰だろ? とかそんな疑問を浮かべてみる幻月だが、よくよく考えると至極どうでもいいことであった。
所詮見知らぬ誰かである。それよりも彼女の思考は一秒に一回の頻度で「すげー」を繰り返すこの氷精に向けられている。
頭はあんまり良くないんだろうなと、幻月は何と無くそんな印象を抱いた。語彙が残念なのだ。
でもそんなお馬鹿っぽいところが、
「あは……ちょっと可愛いかも」
「ん? いま何かいった?」
「いやー、何でもないよ」
頬が綻ぶ。
幻月が上機嫌なのは氷精にとって幸いだっただろう。他人の生命を尊重するという概念に、彼女は基本関心が薄い。
可愛らしいものに対して、保護欲よりも嗜虐性をそそられるのが平素の彼女なのだ。そういう意味で、視線に黒さを孕まない今の姿は貴重である。
「ねえ、貴方はだあれ?」
わざわざ氷精に興味を持ち、名前を尋ねてみる程度に上機嫌だった。
「ん? あたいチルノ! 最強の妖精!」
快活な回答であった。
チルノと名乗った氷精はえっへんと胸を張っている。
最強なんて尊大な肩書きを宣言したわけだが、チルノの表情は自信満々で、つまりはその肩書きを一切疑っていないわけである。
その様子が可笑しくて幻月はクスリと笑みを漏らした。
「そっかー、チルノっていうんだ。私は幻月。夢幻世界の素敵な悪魔さん」
「あくま? すげー。なんかよく分からないけどすげー!」
再びすげーを連発しだしたチルノ。幻月は右手を口元に当て、クスクス笑っている。微笑ましいものを感じているのだ。
何の気無しに、その手をぽんとチルノの頭に置いてみる。
ちょっとした疑問符を顔に浮かべたチルノであるけど、そう嫌がっている様子にも見えない。
そのままくしゃくしゃと撫でてみる。
チルノは心地よさそうに目を細めていた。ひんやりした手触りに幻月も気持ちよさそうに目を細める。
蒸し暑い曇天。夏の湖であった。
さて、幻月がチルノの頭を撫でるのに十分満足した頃である。
そろそろ帰るかなと、幻月はそんな事を考え始めたのだが、丁度その時、彼女の耳が意外な言葉を捉えたのであった。
「ねえ、ししょー。早くあたいに、さっきのすげー速い弾を教えてよ」
「んん? ……ししょぉ?」
聞きなれない言葉に、幻月はふむぅとちょっぴり首を捻った。
「大ちゃんが言ってたの。どうやったら強くなるか教えてくれる人をししょーって呼ぶんだって」
ああ、師匠ね。
合点がいった様に幻月は小さく頷く。が、しかし、よくよく考えれば妙な話である。
どうしてこの氷精は、自分が教えを受けるのが、さも既成事実であるような台詞を吐いているのだろう。
師匠という言葉には、呼ぶだけで他人を専属インストラクターにする力があるとでも思っている口ぶりだ。何だその呪い。
大ちゃんとやらがそう吹き込んだのだろうか? うん、それでいいや。今度その大ちゃんってのに出くわしたなら、いちゃもんつけてみよう。
そんな事を幻月が考えてる内に、チルノの目はますますキラキラを増している。瞳から期待が溢れ出しているのだ。
「あたいも、ししょーみたいなすげー速い弾が撃てるようになりたいの!」
さてさてどうしたものかと、幻月は肩まで伸ばした金髪を指先で弄くりつつ思案している。
「ねえ、チルノ? チルノは最強の妖精なんじゃないの? じゃあ私が何も教えなくても最強なのには変わりないんじゃないかな?」
「うん、あたいは最強だよ。でも、すげー速い弾を撃てるようになったら、すげー最強じゃん。だからししょーに教えてもらうの」
「なるほどねぇ」
日本語の疎通が上手くいってない感じだが、どうやら幻月にとってこの回答は中々そそるものであったらしい。
面白い玩具を見つけた。今の彼女はそんな目付きである。
幻月にとって、怯え以外の表情を見せてくる他人というのはそれなりに珍しいのだ。しかも、それがこんなにも無鉄砲な態度であるなら、例え無知が原因であっても好奇を抱く対象として十分である。
何にしろ今からのスケジュールは真っ白であった。館に帰っても特にする事はない。自堕落にごろごろして夕食を待つだけだ。
なら、しばらく暇つぶしするのも悪くないと、幻月はそんな事を考えていた。
もしかしたら、師匠などと呼ばれて、少し気分が良くなっていた部分もあるかもしれない。
幻月は、うんうんと数回頷いて、左手に握っていた雄雉を近くの木の根っこぽんと放り投げた。
「よーし、チルノ。分かった貴方の師匠になってあげる。
チルノがすげー最強になれるように、すげー速い弾の撃ち方、教えてあげるわ。さっそく修行よ。付いてきなさい」
「うん! ししょー!」
元気一杯にチルノは言葉を返す。
どういう因果か氷精にものを教えるなんて事を了承してしまった幻月。
昔を思い返してみると、こういう事は今まで一度も無かったような気がするが、まあ長い生涯たまにはこんな事があってもいい。
そんな事を考えつつ、チルノを引き連れる今の表情は益々上機嫌である。
鏡のように滑らかな湖の真ん中。その上に彼女達は浮遊していた。
チルノが見つめる先は、湖の端っこ。そこには一際目立つ大樹がそびえていた。
「じゃ、撃ってみて」
「うん!」
『まずは実力を測らないとね』と、割かし真面目に弾幕を教え始めた幻月の前で、チルノは大きなツララを数本空中に生成してみせる。
そして、ばっと勢いよく人差し指を大樹に向けた。瞬間、呼応して湖上を滑空し始めるツララ達。数秒の時間を経てそれらは標的に到達する。
精度。その点においては非常にお粗末であった。命中は僅か一本のみ。残りは標的を大きく外れ、空や湖中に消失した。
しかし、速度と破壊力。この二点においてチルノの弾幕は幻月を感心させるに足るものであった。
大樹には無残な傷跡が残されている。ツララに深々と抉られたのだ。
「なるほどねぇ……」
本来妖精とはもっと儚い生物であり、ここまで破壊力に満ちた弾幕は放てるようにできていない。
しかし、その点、このチルノという氷精はそんな種族の範疇に収まっていない。
おそらく彼女は、この湖で最も強力な弾幕を撃ち放てる妖精だ。先ほど彼女が躊躇なく名乗った最強という肩書きも、それなりの裏打ちがあっての事なのだろう。
しかしそれゆえに、幻月の脳裏にはちょっぴり疑問が浮かんだのだ。
「ねえ、チルノ? 貴方はもう最強なのに、どうしてもっと最強になりたいと思ったのかしら?」
頭の残念そうな氷精である。あまり視界が広いようにも見えない。
なら、あのような有り余る力を手にしたなら、最強の肩書きにすっかり満足してしまって、井の中の蛙になるのが自然に思えたのだ。
最強という肩書きを疑っていないあたり、幾らかその傾向はあるようだが、それでも熱い向上心を胸に抱く彼女の姿は少し不思議に見えた。
幻月の問いに、チルノは思い出すように首を傾げる。その快活な顔に少し陰りが差した。
「……この前、あのピンクでちっこいのに負けちゃってさぁ。
すげー速い弾が、いきなりバンってやってきてドンって。あたい一発でやられちゃったの。
それがすげー悔しくてさ。あたいは最強なのにどうして負けたんだろうって。
だから、あたいは最強から、すげー最強になりたいの。おめーをばんかいするんだ」
汚名挽回とかいうベタな間違いはお約束として、さてさて、チルノもこう見えて考える事はあるらしい。
ふむふむと頷きながら、幻月は質問を続ける。
「そのピンクでちっこいのって一体誰なのかしら?」
「んー、あそこにでっかい家があるでしょ」
チルノの指し示した先。湖の向こうに、紅く荘厳にそびえる巨大な館が遠く見えた。
「あそこのきゅーけつき」
「へー、吸血鬼か」
中々好奇心をそそられる単語に、幻月は思わず唇を吊り上げた。
彼女は力持つ悪魔である。ちょっかいを出して楽しそうな相手には興味を持つのだ。
まあ、それはさておき、チルノが強くなりたい理由は分かった。なるほど吸血鬼という種族と妖精を比べれば、生まれ持ったアドバンテージが段違いである。
チルノが敗北を味わったのは至極当然の事であった。
「……ふむぅ」
さて、チルノに弾幕を教えて、それで吸血鬼に勝てるようになるまで育てられるのかというと、その実幻月はそんな事これぽっちも思っていない。
基本的に遊びのつもりなのだ。適当な事を吹き込んで、その反応を楽しめれば満足なのである。
仮に吸血鬼を見つけたならけしかけてみるのも面白そうだが、それよりも修行の名目で遊ぶのが今の彼女にとって最も優先するべき事であった。
「よーし、じゃあチルノ。速い弾の撃ち方を教えるね。これを覚えれば吸血鬼なんてけちょんけちょんよ」
「うん、ししょー」
口では調子のいい事を言ってみる。
素直に目を輝かせるチルノがおかしくて、幻月は思わず笑いを漏らした。
「まず体の動きは大きく、大袈裟なくらいでいいわ。注意するのは手首のスナップ。
あと私かっこいいって感じの決めポーズを取るのも大事よ」
その場で思いついた事を適当に口走りつつ、幻月は手の平に気弾を一かたまり形成する。
そして、口走った内容と同じように、かなり大仰なモーションで腕を振りかぶり、気弾を投げ放った。その後に、ビシリとポーズを取るのも忘れない。
先ほど雉を仕留めた弾よりも更に速度で勝るそれは、一瞬で標的に到達し、破砕音を立てて貫通する。巨大な幹に拳大の風穴が開いた。
「おー、すげー! さすがししょー。すげー速い!」
「このくらいチルノもすぐ出来るようになるわ。さあ、チルノもやってみましょう」
「うん! ……えーと、動きは大きく? スナップを使って……えーっと……」
「そうそう、決めポ-ズもしっかりね」
いい加減に並べ立てたアドバイスもどきを、疑うことなくおさらいするチルノに、幻月はニヤニヤと意地悪な笑いを浮かべていたのだが。
しかし、ここで幻月が少し真剣で、実際に役に立つような事をチルノに教えてみたのは、多分ほんの気紛れだったのだろう。
「……あとは、想像することだね。これはとっても大事だよ」
「そうぞー?」
「うん、想像するの。さっき私が見せた弾。あれよりもっと速い弾を自分が撃ってる姿。
こう目をつぶってね、強く強くイメージするの」
幻月は自分の言葉通り、静かに瞼を閉じた。チルノも従って同じようにする。
「想像力は結構馬鹿にできないんだよ。イメージがはっきりと、そして強くなるほどに体もそれに従おうとするわ。弾幕みたいな抽象的なものだと尚更ね。
日ごろからイメージを頭の隅っこに置いておくと、いざというとき便利だよ」
「んー、つまりすげー速い弾を撃ってるあたいを想像すればいいわけね」
「うん、そうそう。じっくり集中してね」
湖面を温いそよ風が撫でていた。静寂。
目を瞑り、頭の中で強固な未来を描く。自己に対する信頼を深くする。
数十秒後、その作業を終えた幻月は目を開く。
「どうかなチルノ? イメージできた?」
「……うん、何だかとっても強くなった気がする」
チルノも静かに瞼を開く。自信に満ちたまなざしであった。
「じゃあ、チルノ撃ってみて。可能な限り速くをイメージしてね」
「うん!」
チルノは再び標的の大樹に向き合う。
先ほどと同じように形成される数本のツララ。チルノの大仰な手の振りは引き金である。標的目掛け撃ち放たれたツララたち。
しかし次の瞬間幻月が見たのは、先ほどとは全く異なる弾幕であったのだ。
幻月は瞳を思わずピクリと動かす。破壊音が彼女の耳に伝わるまで、時間にして数瞬であっただろう。
やはり狙いという点では大変に粗いチルノの弾幕。だが標的には風穴が二つ。命中したチルノの氷弾は見事に太い大樹を穿ち抜いたのである。
妖精にあるまじき破壊力であった。
――パチパチパチ。
「すごいすごい。チルノ凄いわ。いきなりあんなに速い弾が撃てるなんて、チルノは天才ね」
「えへへ。だって、あたいは最強だもん」
チルノは自慢げに指で鼻の頭を擦っていた。
手を叩きながら、幻月はチルノを褒めてみる。本心では少しばかり驚いていた。
まさか一言二言適当なアドバイスを吹き込んだだけで、これだけの結果を出すとは思っていなかったのだ。
どうやら、チルノという妖精は、思い込みが激しい性質らしい。プラシーボ効果というやつである。
馬鹿とはある意味で才覚だった。
チルノに対する評価を少し上方修正した幻月は、ほうほうと納得したように頷く。
――徹底的におだててみよう。
唇がにやりと歪んだ。
「チルノ、あなたはもう最強じゃないわ。速い弾の使い方を覚えて、すげー最強になったのよ」
目線はチルノの後方、湖の端。遠くに小さな人影二つを幻月の視力は捉えていた。
「じゃあ次は実践だね。……さっきのを動く的に当ててみようか。喧嘩売りにいくよ」
何とも状況を面白くしてくれそうな人影である。人影の片方はピンク色でちっこかった。
湖のほとり。十六夜咲夜は人里から紅魔館への帰路に着いていた。
両手に抱えているのは大きな紙袋。里で買った雑多な食料品が詰め込まれていた。
しかし、大荷物を抱えていても彼女の足取りは優美である。メイド服はびしっと糊が利いている。実に瀟洒であった。
そんな咲夜の周りでクルクルと動き回り、ぺちゃくちゃ話しかけているのは、日傘を差し桃色の服を纏った幼い少女。
咲夜に対してこんな接し方をできる人物はそういない。
レミリア・スカーレット。彼女は紅魔館の当主であり咲夜の主である。
「咲夜。飴玉もう一つ頂戴」
「お嬢様。あんまりお菓子ばかり食べると、夜のパーティーまでにお腹が一杯になってしまいますわ」
「大丈夫よ。これで最後にしておくし」
咲夜が是認の言葉を発するのを待たず、レミリアは紙袋の中に手を突っ込み中身をごそごそ漁り始める。
やれやれと咲夜は溜め息をついた。
そもそも今日の買い出しなんて、メイド長である咲夜がわざわざ出向く必要なんてなかったのだ。それなりに使える妖精メイド数人で事足りる。
それなのにこうして咲夜が重い紙袋を抱えている訳は、つまり主が、『買い物行くの? じゃあ私も付いて行くよ。甘いものが食べたいんだ』なんて事を空気読まずにのたまったせいである。この我儘お嬢様の相手は、妖精だけでは心もとない。
今日は館で指揮を執りたかったのが咲夜の本音である。何しろ今晩はパーティーなのだ。幻想郷の有名な面々を集めた、盛大できらびやかな。
留守の間、準備は妖精メイドに任せてあるが、仕事に関してあまり信用できない彼女たちである。
きっと準備が進んだなら進んだだけ、同時に看過できないレベルの問題も大量に生産しているはずなのだ。
出来るだけ早く紅魔館に戻り、遅れた仕事を挽回しなければ。
そんな事を考えつつ咲夜は、ちゅばちゅぱと棒つきキャンディーをしゃぶり出した主を横目に、少し歩調を速めたのだったが……。
鋭利なナイフを連想させる彼女の細い瞳が、訝しげにさらに細められる。歓迎できないものを見た表情だ。
「う……ピンクのちっこいのじゃん。ししょー、けんかっていきなりこいつに売るの?」
「そうそう。なぁに全然大丈夫だよ。だって今のチルノはすげー最強なんでしょ? ならこんなチビに負けるまずないわ」
「ん……そう言われれば。確かにあたいはすげー最強だから、こんなちっこいのに負けるはずないかも」
「でしょ。この前酷い目遭わされたってのも昔の話よ。だってチルノはすげー最強だもの」
「そうか、あたいはすげー最強だもんね! うん、ちっこいのになんて負けない!」
咲夜の表情が不機嫌に染まっていく。ピンクのちっこいのとかチビ呼ばわりである。主を小者扱いされているのだから、愉快であるはずない。
とはいえ目の前にいるのが氷精だけなら、そう気にする事ではないのだ。
この氷精が変な自信を持って、レミリアに挑戦的な瞳を向けるのは、まあ、それなりにあることである。そういう時、咲夜は無視を決め込むのが通例であった。
しかし、チルノを煽っている金髪で翼を持った女。始めてみる顔だが仲良くなれそうにないのは一目で分かった。
彼女がレミリアにちらりと向けた瞳の色が、明らかに小馬鹿にしたものであり、悪気に満ちている。だから胸糞悪いのだ。
「よし、チルノ。あのチビをぎったんぎったんにやっつけちゃいなさい」
「うん、ししょー! おいピンクのちっこいの、あたいと勝負しろ!」
たまらなく不愉快ではある。が、咲夜としてはここで弾幕ごっこを始められるのは歓迎できる事ではない。
氷精とドンパチやったところで何の利益も出ないし、何よりパーティーの準備があるのだ。ならばそっちを優先させないといけない。
咲夜は主に目配せする。レミリアは余裕に満ちた笑みを浮かべていた。安心する。どうやら今回は空気を読んでくれたらしい。
レミリアが一歩前へ出る。
「ふん、クソガキが。私は貴様と違って忙しいんだ。貴様みたいなガキとわざわざ勝負してやる暇なんてあるはずないだろう」
「クソガキ!? むきー! クソガキって言った方がクソガキなんだぞ! ばーかばーか!」
「はいはい。勝手に言ってろ。
咲夜帰るぞ。パーティーの準備がある。ゲストを陶酔させるカリスマたっぷりなスピーチを考えないといけないからな」
「はい、お嬢様」
ばかばかと必死に連呼するチルノを完全に無視し、レミリアは紅魔館へ戻ろうとする。
咲夜はほっとしたような表情を覗かせた。
「こ、こらー、無視するなよー。あたい強くなったんだぞー! すげー最強なんだぞー!」
置き去りにされたチルノの目には涙がじわりと滲み始めている。放っておくと声を出して泣いてしまうかもしれないが、咲夜にとっては心動かすほどのことではない。
チルノを歯牙にもかけなかったレミリアは、子供のように飴をしゃぶりながらも余裕と威厳に満ちているように見えた。
その表情は咲夜をいい気分にさせたのだが、しかしその目が再び細められたのは、氷精の挑発なんかよりずっと不愉快な声を聞いたからである。
「あは……逃げちゃうんだ。まあ所詮吸血鬼だもんねー。
昔よく壊して遊んだわ。ちょこまか走り回るしか能の無い小者のくせ、プライドばっかり高くて。
でも虐めてあげると情けない悲鳴を上げて。くす……貴方の選択は正しいわ。
だって貴方は薄汚い蝙蝠に過ぎないもの。口八丁で煤けたプライドを死守し、弱いもの虐めでささくれた自尊心を満足させるのがお似合いの生物だわ。
最初っから、チルノの相手なんて務まる筈が無かったのよ」
結局挑発に肝要なのは、それがどれだけ悪気に満ちているかである。
そして幻月があっけらかんと言い放った言葉は、その点悪気の塊であった。
咲夜はガリッという音を聞いた。レミリアが飴を噛み砕いた音である。そこに先ほどの澄ました表情はもうない。隠しようのない不機嫌が彼女から滲み出している。
「チルノ喜んでいいよ。チルノは吸血鬼に勝ったのよ」
「ぐす……え……そうなの?」
「そうよ。だって見て、背中を向けて逃げていくじゃない。戦うまでもなかったわ。弱っちい吸血鬼はチルノを見てビビッてるのよ」
「たしかに……あたい、勝ったのか?」
「そうだよ。チルノ勝ったのよ」
「そうかあたい勝ったんだ! だってすげー最強だもんね。あんなのに負けるはず無い」
「やったー、チルノすげー最強!」
「うん! あたいすげー最強!」
「吸血鬼弱っちぃ!」
「うん! きゅーけつきなんてあたいの敵じゃない!」
さっきまでの涙声は何処へやら。切り替えの早い氷精であった。
背中越しに聞こえる、喜色満面なワーイやらイエーイといった声にレミリアは思わず舌打ちする。
「お嬢様。安い挑発ですわ」
「……ああ、分かってる」
レミリアの声は酷く低い。彼女は頭に上った血を何とか理性で押さえつけている状態なのだ。
キャンディーの棒は、歯軋りに潰され、平べったくなってしまっている。
咲夜は軽い頭痛を覚えた。なんとか主がこのまま怒りを堪えきってくれればいい。
しかし、幻月があと一押しとばかりに繰り出した嘲笑。それを聞いて、咲夜はこの後のスケジュールの大幅な変更を悟らされたのだ。
「よし、じゃあ言いふらしに行こっか。
紅い館の吸血鬼は、最強なチルノを怖がって、尻尾巻いて逃げだしましたってね。
捨て台詞が小者臭くて可笑しかったって言えば、きっとみんな爆笑してくれるわ」
「うん、ししょー!」
レミリアは頭の中で何かがぶちきれた音を聞いた。そもそもが短気な吸血鬼である。辛抱の限界であった。
振り返り、キャンディーの棒を吐き捨てる。
そして、能天気に喜ぶ氷精の隣で一緒に喜びつつ、悪気たっぷりなニヤニヤ笑いを浮かべている幻月をギッと睨みつけた。
「お嬢様!」
「止めるなよ咲夜。私は今、最高に腹が立っている」
制止しようとした咲夜の手を払い、レミリアは一歩前へ進み出る。
表面上は平静に、しかし内面に烈火の如き怒気を孕んだ声が、彼女の口より発せられた。
「いいだろう。貴様の挑発乗ってやるよ。
貴様が何を思ってその氷精をけしかけようとしてるのかは知らん。どうでもいい。
私がするのは。圧倒的な実力差を以って、完膚なきまでの敗北感をそいつに植えつけることだ。
残酷な事になる。了承しろよ」
「了承しろよ? そんな大きな口叩いちゃってよかったのかしら? こてんぱんにやられちゃうかもしれないのに。
きっと残酷な事になるのは貴方のプライドだわ。
あは。でもどうしてもっていうなら勝負してあげてもいいよ。
チルノ、この身の程知らずな吸血鬼をズタボロにしてあげなさい」
「うん! ピンクでちっこいのかかって来い! あたいはすげー強いぞー!」
幻月に乗せられてチルノは、自信満々な面持ちで数歩前に出る。
対決の火蓋が切られようとしていた。
黒幕の幻月は楽しくてたまらないといった風に、にやけている。咲夜は酷くなる頭痛にこめかみの辺りを押さえた。
織り成される弾幕たちが、湖畔を眩しく彩っていた。
レミリアとチルノが弾幕戦を繰り広げているのだ。
さて、勝負が始まったのはいい。しかしチルノにこの勝負を制する可能性があるかというと、難しいとしか言いようがないのが実際である。
吸血鬼とは先ほど幻月が馬鹿にしたような小者では勿論ないのだ。
生まれ持った身体能力と、闘争という分野におけるポテンシャルが他の雑多な妖怪を畏怖させる。西洋を代表する大妖怪なのである。
扱うは個性的な紅い弾幕。その密度、精度、速度、破壊力、全てがチルノを圧倒している。
しかし、それでもチルノはいまだ闘争の場に踏み留まり続ける事ができていた。
「チルノ。お茶碗持つ方にジャンプ。次はお箸持つほう。そしたら適当に弾幕ばら撒いて、距離を開きなさい!」
「うん、ししょー!」
横から幻月が適宜アドバイスを送っているのである。チルノはこの点素直であった。指示に従う事で、幾らかの余裕さえもって被弾を避けている。
そして。
「いっけー!」
チルノの手から散弾のように放たれた氷塊たち。それらを回避しつつ、レミリアは思わず舌打ちした。
所詮妖精と侮っていたのだ。
しかし、氷塊の速度はレミリアの想定に無いものであった。少し前に見たチルノとは全く別物である。
幻月におだてられたチルノは、自分自身を最強を超える最強だとすっかり思い込んでいるわけで、それが彼女の実力を大きく底上げしている。
「……生意気な」
レミリアの不機嫌が、また一つ大きくなる。
圧倒的な実力差を保ったまま、氷精を撃ち落とせないでいる事に酷く苛々していた。
レミリアが苛々を募らせれば募らせるだけ、観戦者二名の表情も変化していく。
幻月はより楽しげな笑みに、咲夜は渋い顔にである。
戦況は停滞していた。
チルノはびっくりする程の善戦を繰り広げていたし、レミリアは、あくまで十分すぎる余裕を持ったまま勝利する事に拘っているからだ。
幻月のアドバイスの数も少なくなっている。
チルノは学習しているのだ。きっと頭での理解には至っていないが、感覚的な分野に関しての飲み込みは優秀だった。
何と無く手持ち無沙汰になった幻月は、話相手にでもなってもらおうと、口をへの字に結んでいるメイドへふよふよ近寄っていったのだった。
「初めまして。私、幻月と申します悪魔ですの従者さん。以後よしなにね。
貴方、私の妹と同じようなかっこしてるわ。ええ、メイドなのよ妹も。純正じゃないけどね。
興味が沸いたわ。よかったら、お名前教えてくださらない?」
「……十六夜咲夜。幻月さんとおっしゃいましたっけ、正直こういう事されると迷惑なんですが。
今晩はパーティーなんです。準備に追われているというのに、こんなところで余計な時間を使うと、後が大変なのですよ」
「へー、今日パーティーなんだ。私も行っていい?」
「招かれざる客を、紅魔館は歓迎しませんわ」
「もー、つれないなぁ」
咲夜の表情はあからさまに嫌そうである。
幻月の事を好いていない。しかし、そんな事は幻月にとっては割とどうでもいい事であった。
そもそも他人の考えを尊重するなんて生き方をしてきていない。生粋の自己中なのだ。
咲夜の歓迎していない表情をまったく気にすることなく幻月は話しかけ続ける。
「ねえ? どうかな? 貴方の目から見てチルノは?」
「どう、と言われましても……まあ、強くはなっているみたいですね。
この前見た時と比べると、動きが全然違いますし、弾の質も良くなってますわ」
渋々といった風に咲夜は幻月との会話を続ける。
無視して厄介な事になるのも嫌だし、それに話しかけられて無視するというのは、今まで空気を読んで生きてきた彼女にとっては気持ちの収まりが悪い。
ついでに言うなら、彼女もやはり手持ち無沙汰であったという事だろう。
「でしょ。だって私が鍛えたもん。チルノは中々才能があるよ。基本的にお馬鹿さんなんだね。
教えられた事を疑うっていう概念がないのよ、丸々信じ込んじゃう。だから吹き込んであげると面白い」
「……まるでチルノを玩具か何かだと思ってる言い草ですわね」
「だいたい合ってるねそれで。でも、私はチルノで遊ぶと面白いし、チルノは私に遊ばれて強くなる。誰も損をしていないわ」
「ここに、大いに損害を被ってる人間がいるのですが」
咲夜は一つ溜め息をついた。目の前のこの女は、お友達にはなりたくない類の人外だと今更ながら噛み締める。
只者で無い事は分かるのだが、如何せん性格が良くない。
確かに幻想郷の強者面々も性格に難があるのばかりであるが、それでも嗜みというか、十分な思慮を裏打ちとして備えているものである。
なのにこの女ときたら、そんなものには興味ないと一蹴してしまいそうな雰囲気を漂わせている。物腰こそ柔らかく見えるが、本質的にはギラギラ光る抜き身のナイフなのだ。
紅魔館の地下で暮らす主の妹が、悪知恵と空気を読まない程度の能力を身につけて成長したなら、こんな感じになるんじゃないかと咲夜は想像した。
情操教育って大事だなと、そんな事をしみじみ思っていると、軽い衝撃音。流れ弾が一つ足元に着弾したのだ。
今だチルノとレミリアの弾幕の応酬は続いている。
「……よく、続くものですね」
半ば呆れ気味に咲夜は呟く。
「ほんとにね。私もびっくりだよ。所詮チルノは氷精だし、ならすぐに被弾して、わんわん泣き喚くと思ってたのに」
「泣き喚くって……もしかして、チルノが負ける前提でけしかけたのですか? ……一体どうしてそんな事を?」
「いや、別に、深い考えは無いんだけどね。
チルノに聞いたらあの吸血鬼とはちょっとした因縁があるみたいだったし、なら喧嘩させてみれば面白いかなって。
うん、それだけだね。結局私が興味あるのは面白くなりそうかそうでないか、そこなのよ」
「随分、傍迷惑な思想に思えますわ」
「あは。自覚はしてるけどね。悪趣味だって。でも改める気はないわ」
あっけらかんと幻月は答える。咲夜はそれに対して言葉を返す事はしなかった。
どうせ何か言ったところで、マトモな言葉のやり取りにはならない事を何と無く悟っているのだ。
諦めたような表情で、咲夜は弾幕戦を続ける二人に再び視線を向けたのだった。
「……ちっ……ちょこまかと」
「何これ。あたいすげー強いじゃん。勝てるんじゃないこれ!」
依然として、戦況に変化は無い。
紅い弾幕と氷の弾幕が交錯し、いずれも標的を捉える事無く消失する。それを繰り返す。
レミリアも少し本気を出せば、容易く勝利を手中にできるはずなのに、変なこだわりが邪魔しているのだ。
苛立つレミリアと、調子付くチルノ。
メンタリティーな部分での優位性。チルノはこの時初めてレミリアに勝る要素を得た。
自信満々で彼女が撃ち放った数本のツララ。
相変わらず狙いこそ粗いものの、速力という点で更なる成長を見せていた。レミリアが回避の際思わず表情を変えてしまったほどに。
勿論、それで被弾するような間抜けな事態にはならない。しかし、少々周りに対する注意が疎かになった。
だからだろう。ツララが勢いよく到達した地点が、湖畔のぬかるみ、そのど真ん中であった事に気付けなかったのは。
「……あ」
咲夜の口からそんな声が漏れた。幻月の口元がにやりと歪んだ。
ツララがぬかるみに突き刺さる、飛び散った泥水。それがレミリアへ不意打ち気味に振りかかり、スカートの裾を汚したのだ。
「嘘だろ……?」
泥がかかった。確かにそれだけである。
しかし想定に無かった被害。レミリアの表情が歪む。
彼女を嘆かせたのは、スカートの汚れではなく、傷つけられたプライドであったのだ。
「……屈辱、だな」
押し殺したような声が発せられる。
レミリアの纏う雰囲気が明らかに変質した。
「……ああ、分かった。少しだけ本気を出してやろう氷精。垣間見せてやる。
吸血鬼。我々という種族が何故こうも恐れられるのか、その一端をな。
ここから先は、貴様には何があろうと至れない別次元の世界だ。
刻み込め。その網膜に、その足りない脳味噌に。深く深くな」
怒りである事は間違いないが、先ほどまでの、言うなれば稚拙な感情の撒き散らしではない。
もっと深く、もっと濃く、何より静かな怒り。嵐の前の静寂。幼い体躯に不釣合いなまでの凄み。
レミリアはその吸血鬼としての実力を以って、大人気なくもチルノを叩き潰す事を決定したのである。
スペルカードが切られる。
――神槍「スピア・ザ・グングニル」
レミリアの右手に握られるは、紅い槍。
ギラギラとまばゆく輝き、鮮烈な禍々しさに満ちていた。
振りかぶる。投擲の構えであった。
吸血鬼の腕力を以って、最大速度で投げ放つ。貫く。レミリアはそれをしようとしているのだ。
彼女が言ったように、ここから先は別次元の闘争である。遊びでない。所詮妖精に過ぎないチルノが神槍の直撃を免れるのは、残念ながら不可能に思えた。
「へー、もっと腑抜けてると思ったけど、結構できるじゃないの、あなたのご主人。中々噛み応えがありそうだわ」
ほうほうと感心したように幻月は言った。咲夜はその気楽さに眉をひそめる。
「……よろしいのですか? 放っておけば、チルノはただでは済みませんわよ」
「だろうね。でも、それはそれでいいんじゃないかな? あの槍が実際に投げ放たれたところも見てみたいしね。
まあ、チルノも目一杯おだててみるよ。それで駄目なら、所詮氷精って事だね」
「随分冷酷なんですね」
「あはは。生まれ付いてそうなのよ。色々と感情が足りてないんじゃないかって事をよく言われる。でも不便は感じてないわ」
「……左様ですか」
どうも胸糞悪いものを感じつつ、咲夜はチルノとレミリアに視線を戻した。
「……ちょ、ちょっとそれ、何よ?」
チルノは動揺していた。
目の前に突如出現した紅い巨大な槍は、彼女の常識に無いものである。
そして、レミリアの静かな怒気。
冷や汗が吹き出る。ごくりと生唾を飲む。
「ぜ、全然怖くなんて、ないんだからね!」
虚勢である。チルノは完全に気圧されていた。かたかたと脚は震えている。生まれて始めてかもしれない、そんな恐怖をチルノは確かに今知ったのだ。
上手く体が動かない。
覚悟を決めるにも、機転を利かすにも、チルノは幼すぎた。
どうしたらいいのかも分からず、おろおろと恐怖に翻弄されるしかなかったのだ。
焦燥が心にひずみを作る。疑心が生じたのは無意識であった。
チルノが感じている胸のうちのモヤモヤ。それは最強という己の肩書きに対する信頼の揺らぎであった。
己の意思とは別の部分で、徐々に思考が固まっていく。
――負けを認めて、逃げ出してしまいたい。
その思考を自覚してしまったなら、チルノは心を敗北で染め抜かれ、きっと平凡な妖精に成り下がってしまうのだろう。
水面下の意識が、チルノに致命的な一言を言わせようとしていた。
「……あたいの……負――」
「チルノ! がんばれぇ!」
高く響いた声が、チルノに心折るのを拒絶させた。
ハッと自分を取り戻したように、頭をきょろきょろさせたチルノは、ゆっくりと声の主へ視線を向ける。
「……信じてチルノ。絶対勝てるって。最強なのは自分なんだって」
幻月は穏やかに微笑んでいた。
爛々と輝く黄金色の瞳に、チルノは思わず引き込まれる。
「チルノ、想像してみて。あの槍を防いで、吸血鬼をやっつけちゃう自分の姿を。
チルノならできるわ。だって、すげー最強なんだもの」
「あたいは……最強」
「そうよ。最強よ」
影響されやすいのがチルノである。
信頼する師の言葉は、そっくりそのまま勇気に変換される。代わりに頭から恐怖が抜け落ちた。
レミリアに向き直る。瞳は力強さを取り戻していた。
ポケットから一枚のスペルカードを準備する。パーフェクトフリーズ。チルノの切り札である。
「……ししょー。ごめん、あたいさっき、ちょっと負けちゃうかもって思ってた。
でも、がんばる。絶対に負けない。だってあたいは最強だもんね」
「うん、それでいいの。チルノ」
この時、チルノはレミリアとの真っ向勝負を決断したのである。
レミリアはそんなチルノに対して、躊躇無く槍を投げ放つだろう。
だが、逃げるという選択肢を頭の外にやってしまったチルノは、もはや何も恐ろしくはないのである。
両者の視線が激突し、火花が散った。
「これがあたいの本気だぁ!」
発動した凍符。急激に周囲の気温が低下し、形成された弾幕が凍りつく。
「……叩き潰す」
タイミングを同じくしてレミリアは紅い槍を投げ放つ。
空気を裂いて唸り声を上げる槍はチルノを一直線上に捉えていた。
スピア・ザ・グングニルは桁違いの貫通力を誇るスペルである。
紅い切先はパーフェクトフリーズによって形成された弾幕たちを次々貫き、それでも尚勢いはそのままであった。
持ちうる最良のスペルを、こうもあっさり破られてしまっているのだからチルノは絶対絶命である。しかし、彼女の勝ち気な瞳はまだ死んでいない。
自らの素養を。最強というの肩書きを、心の底より信奉しているからである。
幻月が声を張り上げた。
「チルノ、負けるなぁ!」
「うん! がんばれ! あたい!」
応えてチルノも叫ぶ。ヤケクソ気味の叫び。しかしそんな感情的な闘争こそ彼女には相応しい。
パーフェクトフリーズ。激情がそのスペルを一つ上の次元へ導こうとしていた。
気温がさらに低下する。周囲の空気を凍らせ、尚低く低く。
そして、ついには究極へと至ったのだ。
セ氏マイナス273.15度。すなわち絶対零度。それは運動エネルギーの消失した究極の極寒である。
しかし、神槍は今だ突き進む。究極の冷気を以ってしても、その切先を鈍らせるには不足であった。
だが、もしもである。その更なる先を。物理法則の限界突破を。究極を越える、神槍ですら凍りつかせてしまうような冷気を望むなら……。
マイナスK。誰も知らない世界。存在なんてしえない世界。それは幻想の範疇である。
チルノは想像する。強く強く思い描く。全てが凍ってしまう幻想の低温を。
「ちっくしょー! なめるなぁ! あたいは最強なんだぞ!」
怒号が轟いた。
その瞬間、ケルビン温度は存在しえぬはずの負数を確かに指し示したのだ。物理学が幻想を孕んだ。
凍結したエネルギーの上に、さらに凍結という事象が塗り重ねられる。世界の色が変わった。停止したのだ。
今やチルノが操っているのは単なる冷気ではない。停滞という抽象である。
少女の潜在能力が、想像力が、激情が、ついには具象より抽象を力ずくで顕在させたのだ。
かくして絶対零度を突き進んでいた紅い槍は勢いを失い、ついには空中で完全に停止する。あたかもそこだけ時が止まっているかのように。
レミリアのプライドにチルノの自負が打ち勝った瞬間である。
宙に浮く神槍を、レミリアは信じられないような目付きで見ていた。
殆ど呆然としていたと言っていいだろう。頬に鋭い痛みを感じて、ようやくレミリアは思考を取り戻すことができたのだから。
つらーっと血液が一筋垂れる。
槍が止まった際チルノが撃ち放った氷弾。それがレミリアの顔を掠めたのである。
レミリアの睨んだ先。そこにはチルノの自慢気な笑みがあった。
「あはっ! 面白い。チルノおもしろいわ!」
槍の停止を見届けて、幻月は嬉しそうに騒ぎ立てている。
「まさかあんな事ができるなんてね。ちょっぴり興奮しちゃった。
見てたでしょ? あのチルノがよ。ただの氷精に過ぎないはずのチルノがよ。凄いと思わない?」
「ええ、まあ……自分の能力以外でこういう光景を見るのは中々新鮮ですわね」
握られた両手をぶんぶん振られて、咲夜は少し困惑顔である。
チルノのまさかの健闘には確かに驚いているのだが、停止した世界というものを見慣れているのが彼女であったし、何より横でこんなに騒がれると、素直に感心しにくい。
まあしかし、一区切りである。主がこれ以上は馬鹿らしいと矛を収めてくれたなら一番いい。咲夜はそう思っているのだが……。
「……気に喰わない」
不機嫌に呟いたレミリアの声色はやはり押し殺したように低い。
叩き潰すつもりで投げ放った本気の一撃。それを力技で真正面から防がれてしまった上、顔に傷までつけられた。
愉快であるはずがない。
右手には二枚目のスペルが握られている。
「……やはり、そうですよね」
弾幕戦の続行を知り、諦めたように咲夜は溜め息をついた。
「うーん。どうせだし、このままチルノに勝たせてあげようかしら。面白いものを見せてくれたご褒美にね。貴方はどう思う?」
幻月が何やら訊ねてきて、咲夜は胡乱な目付きとなる。随分と現実味の乏しい話に思えたからだ。
勝たせるといっても、どうやって勝たせるというのだろう。さっきはたまたま上手く言ったが、奇跡は二度も続かないのだ。
それでも勝たせてみせるというなら、もう好きなようにしろと。そこまで考えて咲夜は、諦観が半分を占める口調で回答を伝えた。
「勝たせるなんてできっこないとは思いますが。お嬢様は相当お怒りのようですし。
まあ、何か方策があるならご自由に。正直なところさっさと終わらせて欲しいとは思ってますし。
この後、予定がたっぷり詰まっているんですもの」
「なるほど……じゃあ利害は一致かな? 協力してね。
ああ、嫌だってのは無しだよ。痛い目に遭うのは好きじゃないでしょ?」
「ん? おっしゃっている意味が……!?」
気付いた時には、後から体を抱きしめられていた。突飛な幻月の行動に咲夜の意識は反応できなかったのだ。
その腕力は、ひたすら力強い。抵抗は難しそうだった。
このまま全力で抱きしめられたなら、きっと胸郭は潰れて、心臓も肺も混ぜこぜになってしまうのだろう。こういう時人間って不利だなと咲夜は思った。
「動かないでね。こんなところで死んじゃうのはもったいないわ」
指先で首筋をなぞりつつ、幻月は咲夜の耳元で囁いた。無邪気な、しかしひたすら残忍な声色だった。
「……今日は厄日かしらね?」
生殺与奪を握られた咲夜は、本日何度目かの溜め息をつき、主の次の行動へ目線を移したのだった。
「……まぐれは二回続かない。次は当てる」
頬を濡らしていた血液を手の甲で拭い、レミリアは静かに言い放つ。傷は既に塞がっていた。
発動されようとした右手のスペルカード。しかし横から挟まれた声に、レミリアはスペル宣言を一端中断する。
そんな彼女に向け、幻月はそれそれは楽しそうに言い放った。
「あれ? まだやるの? だって被弾したよね今。ほっぺに傷まで残ってるし。
負けを認めずに足掻くのは、潔くないなぁ。ガッカリだよ」
「グレイズだろうが。さっきのは!」
幻月の馬鹿にしたような声に、怒りを露にするレミリア。
しかしレミリアの激昂は、そこで押し止められる。
視線の先、チルノの背後に見えたのが、余りにもおぞましい笑みであったからだ。
幻月は咲夜の首筋にその鋭利な爪先を突きつけ、楽しげに口を開く。
――コ。ロ。ス。ヨ。♪
声は出さなくとも、唇の動きだけで十分伝わった4つの文字。露骨にして悪意に満ちた脅迫である。
これ以上続けるつもりなら、容赦なく頚動脈を掻っ切ると幻月は宣言しているのだ。
咲夜は何と無く申し訳なさそうな表情で、ポリポリと頭をかいていた。
彼女も普通の人間ではないから、本気で抵抗すれば幻月の魔手より逃れることも不可能ではないのだろうが、今の表情を見る限りそのつもりはないようだった。
そもそも彼女は乗り気でなかった。
咲夜が気になって仕方がないのは今晩のパーティーの準備で、喧嘩を吹っかけてきた氷精とか正直どうでもいいと思っているのは今も変わらない。
生命をチップにするには分の悪い賭けに思えた。
「何のつもりだ? そんな暴挙が許されると?」
レミリアの表情には信じられないような色が混じっていた。弾幕とは彼女にとって矜持を賭した決闘であり、ある意味で神聖とも呼べる儀式なのだ。
それを、幻月は堂々と汚した。人質を取り、脅しをかけるという手段を以って。
レミリアの問いに答えず、幻月は咲夜の血管を皮膚上から指先で撫でる。ついでにとばかりに頬をペロリと舐め上げる。咲夜は小さく驚きの声を漏らした。
幻月の悪気に満ちた笑みにレミリアは悟る。
幻月は打算だけで咲夜を人質に取ったわけではない。
確かにチルノの勝利は幻月の求める結果ではあるが、それ以上にレミリアの反応が彼女の好奇心を甚く擽るからこういう手段に出たのだ。
つまりは、たとえレミリアが矛を収めずとも幻月は何一つ困りはしない。血管を爪先で抉る感触を楽しみつつ、レミリアの顔色が蒼白に変わるのをじっくり観察するだけである。
こうも悪意に満ちた行動を、躊躇なく、かつ完全な愉快犯で実行してしまえる人物をレミリアは他に知らない。
交渉すら許さない、何とも身勝手で理不尽な要求。
しかし、プライドと咲夜を天秤にかけるなら……。
舌打ちの音が響く。
レミリアは苛立ちを誤魔化すように、大仰に手を広げ、空に向かって声を高らかに響かせた。
「ああくそっ! 不本意だ。最高に不本意だ!
腹の中は臓器という臓器がすっかり茹で上がってしまう程に煮えたぎっているというのに、この激烈な感情を仕舞い込んだまま私は家路に着かないといけないのだからな!
帰って自棄酒だ。スピーチとかもう知らん。パチェにでもやらせておけばいい」
右手に握られていたスペルカードは懐に収められている。レミリアはプライドの挽回よりも咲夜の五体満足を優先した。
怒りを堪え、幻月の要求を了承したのだ。
レミリアの決断に、幻月は咲夜を捕まえていた腕の力を緩める。
解放された咲夜は何とも微妙な表情をしていた。色々思うところがあるのだろう。
そんな咲夜にレミリアは歩み寄る。
「咲夜。怪我は無いか」
「……ええ、お嬢様。申し訳ありません私のせいで」
「何、咲夜が無事ならかまわん。思えば寄り道だった。こんな事で命がどうとか馬鹿げているからな」
咲夜をきゅっと抱きしめ、背中を軽くぽんぽんと叩く。
この抱擁は信頼を確かめ合う儀式だ。
レミリアがかけた慈しみの言葉は偽りない本心なのだろう。大事な従者である。だからプライドを穢されても守った。
しばらく続いた抱擁に満足いくと、レミリアはすっと腕を解き、咲夜に微笑みかけた。そして目線を幻月に移す。
表情が鋭利に一変した。
「……次会った時は、覚悟しろ。その心臓にツェペシュの串なんかよりずっと太くて痛い一撃を突き刺してやる」
睨みつけるレミリア。しかし幻月は涼しい顔で返した。
「心臓に杭を打ち込まれるのは吸血鬼の専売特許でしょうに。貴方の言葉そっくりそのまま返すわ……って言いたいところだけど」
クスリと笑みを零す。
「貴方にできるのかしら? くす……だって思ったとおり、貴方優しすぎるもの」
「は?」
――優しい?
幻月の口から飛び出した、意外な単語にレミリアは首を傾げる。
口元に手を伸ばし、くすくす笑いのまま幻月は言葉を続けた。
「あの時どうして貴方は手を止めたの? 私の脅迫に激昂する事ができたはず。
侮蔑されたプライドを、その腕力を以って挽回しようともできたはずだし、従者に闘えと命じる事もできた。
なのにそれをしなかった。
従者が大事だった? 確かにそうかもしれない。名より実を優先させた冷静で知的な判断。でも問題の根幹はそこじゃない。
吸血鬼ってそもそも、もっと傲慢な生物のはずよ。自己の欲求のみに価値を求め、他の生物の悉くを見下し、慈しみなんて感情とはとっても遠い存在。
なのに貴方は従者を慈しんだ。自身のプライドよりも他人を優先させた。
光り輝く至高の残虐性を生まれ持っていたはずなのに、それを優しさなんてオブラートにくるんじゃってる。
残念だわ。優しさが邪魔して、だから貴方は私の悪意と吊り合えない」
「……あー、それを言うか」
レミリアは目の前で笑う悪魔の生き様が自身と全く異なる事を知ったのだ。
決して相容れないが、しかし理解する事はできた。
そしてそれは、先の屈辱的な勝負の幕切れが、その実レミリア自身にとって正しい判断であった事を悟る事でもあったのだ。
「その辺は察してくれ。……まあ色々あったんだよ。丸くならざる得ない事情がな」
レミリアは毒気を抜かれたような表情をしていた。怒りは一気に霧散してしまったようだ。
今の彼女は、自身が誇りの根本を静かに見つめなおしている。
「……さっき私は『次会った時は、覚悟しろ』と言ったが、撤回しよう。二度と貴様には会いたくない。
目の毒だ。徹底的に自己の悪意を肯定できる貴様の本質が、吸血鬼としての私を疼かせる。
しかしだ。それは今の私に不要なものなのだ。
今の私は残虐性なんかよりもっと価値あるものを手にしている。それは丸くなった私でしか持ち得なかったものだ。
どうだ。羨んでいいぞ。今の私は丸くなった私を素晴らしく謳歌しているのだからな」
湖の向こうに佇む紅い館を親指で指し示しつつ、レミリアは自慢げに皓歯を覗かせた。
「クスクス……なるほどね」
レミリアのこの台詞は、幻月にとって中々面白いものであったらしい。
今の笑みは先ほどまでの、何かを企んで真っ黒なそれではなく、単純に面白がっているそれである。
「むー。難しい話をしてる。あたいを無視しないでよぅ!」
笑い合う二人の間に割って入るようにして、チルノが不満そうな声を上げる。
幻月の暴挙をちゃんと見ていない彼女からすれば、よく分からないうちにレミリアが勝負をやめてしまって、幻月と談笑を始めたというのが今の状況なのだ。
レミリアはそんなチルノと目を合わせる。穏やかだが真剣な眼差しであった。
「氷精よ。貴様に敬意を表明しよう。いかなる理由であれ貴様を跪かせる事ができなかったのは、私の不足ゆえだ。
貴様は吸血鬼に土を付けたのだ。誇っていい。貴様が手にした勝利は、私が認める穢れ無き栄誉だ」
「ん……んむむ?」
「あはは。使ってる言葉が難しすぎるってさ。
チルノ。つまり。この吸血鬼さんは、さっきの勝負、チルノの勝ちだって言ってるのよ。おめでとうチルノ」
「……あたいの、勝ち?」
チルノはきょとんとしていた。
幻月の言葉を聞いて、初めて勝利した事を知ったのだ。
時間差をおいて、ようやく実感が伴いはじめる。
「嬉しい……やった、あたい勝ったんだ。やった……ぐすん」
チルノの瞳からふいに、ぽろりと零れた涙。
「ぐす……ししょーありがとう。あたい勝ったんだよ。ししょーががんばれって言ってくれて、そしたら、あたいがんばれて。
あ……ぐすん……違うの。泣いてなんか、ないんだからね……ぐす」
実感した勝利が、こみ上げる感情が、チルノの涙腺を叩いているのだ。
「うんうん。よく頑張ったね。私はチルノを信じてたよ。やればできる子だってね。
さあ、チルノは強い子だわ、だから涙とはサヨナラしましょ」
そんなチルノの涙を幻月は優しく指で拭っている。
「……もう、そこで泣くなよ。色々と調子がずれるだろうが」
苦笑してレミリアは、傍らに控える従者に向き直った。
「なんだか疲れたな。帰るぞ咲夜」
「はい。お嬢様」
紅魔館の帰路に着こうとした二人に、大体泣き止んだチルノの頭を撫でていた幻月が声をかける。
「ああ、そうそう。帰るならこれ持って行って」
幻月は近くの木陰まで移動すると、その根っこをごそごそやり始める。そして拾い上げたものを咲夜の眼前に突き付けた。
「……ん? 雉、ですか?」
「今日パーティーなんでしょ? 使ってあげて」
チルノと出会う前に狩った雄雉であった。
遠慮したそうな雰囲気の咲夜の手に、幻月は半ば強引にそれを握らせると耳元でそっと囁く。
「機会があれば、本気の貴方とやってみたいなぁ」
「そんな機会が永遠に訪れない事を願ってますわ」
「クスッ……きっとそう遠くない未来だわ。楽しみにしてる」
咲夜にニヤリと笑いかけ、幻月はチルノの側に戻る。
雄雉片手に咲夜は難しい顔をしていた。また一つ厄介ごとが増えたという表情であった。
「さらばだ。悪魔よ」
そんな咲夜の気を知ってか知らずか、レミリアは笑みすら浮かべて幻月に別れを告げた。幻月はにこやかに手を振り応えている。
咲夜は一つ溜め息をついた。
まあ、何にしろ、なるようにしかならないのだ。
余計な事を考えるのは止そう。今考えないといけないのは敬愛する主の為、今晩のパーティーを最高のものにする事だ。
そんな思いを胸に、咲夜は紅魔館への帰途についたのである。
「さて……と」
しばらくして、吸血鬼とその従者が館の中に消えるのを確認した幻月は、すぐ近くによく知った気配を感じ取っていた。
「チルノ。もっともっと最強になりたいでしょ?」
「うん、あたい、もっともっと強くなりたい!」
「よし、じゃあ早速修行よ。あそこにでっかい木があるよね。うんそうそうあれあれ。
湖の真ん中までいって、あの木がぼろぼろになるまで何回も力一杯弾幕をぶつけるの。それをすればきっとチルノはもっと強くなるわ」
「うん、わかったししょー。あたい修行がんばる!」
意気揚々と飛び立つチルノを見送り、幻月は背後に立つ人影へ向き直る。
修行というのは口実で、実際は二人だけで話ができる状況が欲しかった。そこには数少ない彼女の友人がいた。
「あらあらご友人。お久しぶりじゃない」
「用事でここまで来たら、どういう訳かあんたを見つけてね。途中から見物してたわ。
……しかし、幻月。あんたがあんたの世界の外にいるなんて珍しいわね」
軽く波がかった緑髪に、チェック柄の赤いスカート。白い日傘。
風見幽香。花を扱う大妖怪。幻月とは古い付き合いであった。
「まあ、ちょっとした暇つぶし? うん、思ったより楽しめたわ」
「……そう」
幽香の表情は、久しぶりの再会を喜ぶというには些か冴えない。胸に一物あるらしい。
「幻月。あんたが耳を貸すとは思えないけど、一応忠告はしておくわ。
いい? あれは良くない。うん、とっても良くないわ。ああいうやり方は幻想郷に馴染まない」
「ああ、あれ? メイドを質にとったやつ?
うん、そりゃ分かってるよ。知っててやったんだから」
あっけらかんと、悪びれる事もなく答えた幻月に、幽香は軽く顔をしかめた。
「あんまり悪さの度が過ぎると、そのうち大火傷するわよ」
「火傷してみるのも悪くないわ。きっとそれはとっても甘美に官能的に焼け爛れて、私を恍惚とさせるんだろうね」
呼吸をするだけで、周囲に無責任かつ盛大な迷惑が振り撒かれる。幻月はそんな星の下に生まれた女だと幽香は思っている。
嗜みなんて高尚な美徳を求めるには、この悪友は心根が歪み切っているのだ。
思えば自分の中に諦観などという感情が芽生えたのは、この突飛な悪魔と友誼を契るなんて事をしてしまったその時ではなかったか?
そんな事を思い出しながら幽香はやれやれと溜め息をつく。
「まあいいわ。どうせあんたなら、そう答えるだろうと思ってた。今更の忠告だったわね。
……しかし、どういう気紛れなのかしら? あんたが妖精にものを教えるなんてね。長い付き合いだけど、これはちょっと想像できなかったわ」
「やってみると、結構面白くてね。チルノは才能あるんだよ。氷精だってのが信じられないくらい」
幽香の表情は怪訝そうだ。
「そこら辺の妖精どもに比べれば、頭一つ抜きん出ている。そこまでは認めるわ。
でも、所詮は妖精よ。いずれ限界にぶち当たる。
それに何より、アレは頭が残念だしね、才能が飽和したなら、それ以上にはなれない。
何も考えず、本能だけで強引に相手を叩き伏せるなんて闘争をいつまでも続けていいのは、生まれ持って特別な才覚を授かったほんの一握りだけなのよ」
「あは……なるほど。でも幽香がそんな事を言うなんて、少しおかしいな」
心底可笑しそうに、幻月は唇を歪めていた。
「下手な聡明さなんてない方がいいわ。才能の限界を勝手に悟っちゃうから。
馬鹿でいいのよ、最強なんてものを目指すにはね。
どれだけ打ちのめされても、酷い敗北を重ねても、それでも自分の絶対性を愚鈍なまでに信じ続ける事。
それが大事なんじゃないかしら?」
ゆっくりと幽香の周囲を回りつつ、幻月は昔を思い出すように空を仰ぎ、一言一言、言葉を紡いでいった。
「最強なんて尊大な肩書きに、何度負けても、皆に馬鹿にされても、拘って拘って拘り続けてきた。
そうやってきた結果、今の幽香がいるんでしょ?
ならチルノも、ずっと先はどうなるか分からないよ?」
同意を求めるように幻月は幽香に向き直る。幽香は少々不本意そうな顔をしていた。
「一緒にしないで頂戴。あと昔の話をされるのは好きじゃないわ」
「くすくす。昔のゆーかちゃんは可愛かったなぁ。
ちょっと虐めてあげると、わんわん大声で泣き出して。覚えてる?」
「……だから、昔の話は止めろって言ってるでしょうが」
「きゃー、ゆーかちゃんこわいー」
「……ったく」
少し昂ぶってしまった感情を繕うように、幽香はまた一つ溜め息をついた。
幻月という悪魔の性格を良く知る幽香である。どうせ怒りを露にしたところで暖簾に腕押しなのだ。なら気にしない方が精神衛生上よろしい。
「で、どうするつもりなの?
このまま師として、チルノを最強まで育て上げるつもりなのかしら?」
「まさか、今日一日だけだよ。この私がそんなに親身なはずないじゃない」
あっけらかんと答えた幻月に、幽香はやっぱりそうかと、どこか納得したような表情を浮かべた。
十分予測できる回答だったのだろう。
「そう。チルノは結構繊細な部分があるっていうか、基本子供だから、信頼してたあんたが突然いなくなったらショック受けるんじゃない?
見捨てられたと思って、ぴーぴー泣いちゃうかも」
「かもねー。でもいいんじゃない? 女の子泣かせるの、私好きだし。こっそり様子を窺ってニヤニヤするのも悪く無さそうだわ」
「……悪趣味」
「あはは。悪魔だしね」
ケラケラと幻月は笑っていた。きっと想像したチルノの泣き喚く姿が可笑しかったのだろう。
そんな幻月に、幽香はやはり半分呆れの混じった視線を向けていた。
「……ああ、そうそう幽香、そう言えばさっき用事って言ってたけど、それってパーティーに招かれたとか、そういうの?」
ひとしきり笑い、少し落ち着いたらしい幻月が訊ねる。
「まあね。せっかく招待された事だし、暇つぶしに参加してあげるのよ」
そこまで言って幽香は、幻月の瞳が怪しく輝いている事に気付く。それは、最初から抑える気のない無邪気な好奇心だ。
「まさか、あんた……パーティーに押しかけるつもり?」
「今晩は雉を食べるって決めてるの。さっきのメイドさんは優秀そうだから、きっと上手い具合に調理してくれるに違いないわ。
たまには夢月の作る以外の料理を楽しんでみるのも悪くないでしょ?」
「料理食べて、それだけで終わる気はないでしょうに、あんたは」
「そりゃね。せっかくの機会だし騒ぐよ。思いっきり」
「……喧嘩なら他所でやれと言いたいのだけど」
「幽香もどさくさに紛れて暴れちゃえばいいよ。どうせ色々と溜まってるんでしょ? きっと面白いよ」
「はぁ……勝手にすればいいわ」
制止したところで、聞く性格ではない。
見て見ぬ振りを決め込む事にした幽香に背中を向け、幻月は湖の中央でひたむきに弾幕を撃ち続けるチルノに声を張り上げた。
「チルノー! 修行はおしまいー! 今から遊びに行くよー!」
「今からって……もしかして今から紅魔館に?」
「パーティーは準備の時間もそれなりに楽しいものだわ。幽香も一緒に行く?」
「必要以上に騒がしいのは嫌いなのよ。ていうかあんたチルノも連れて行く気?」
「今日一日は責任持って面倒見るって決めたからね」
「あの氷精も災難ね」
「まさか、とっても喜んでるって。ねぇチルノ?」
呼び寄せられて丁度先ほど隣に降り立ったチルノの頭を、幻月はワシャワシャ撫で始めた。
「ん? 何がししょー?」
チルノは同意を求められて、でもそもそも話の内容を聞いていないのでキョトンとした顔をしている。
「あは。……ううん、何でもないよ。
そうだチルノ聞いた? 今晩はパーティーなんだって。一杯美味しいもの食べて、一杯喧嘩売ろうね」
「え、パーティー!? ホント!? 楽しみ!」
目を輝かせるチルノ。幻月は満面の笑みで頭を撫で続けている。
何も知らずにこの光景を見たなら、とても微笑ましく感じられたのだろう。幽香はそんな事を思った。
そういえば、ここまで楽しそうな幻月はあまり見たこと無いような気がする。
なるほど。邪な部分が明け透けすぎて誰からも一線を引かれる幻月と、そんな幻月を心から信頼してしまうほどに純粋なチルノ。
二人の相性はきっと、とても良かったのだろう。
もっとも、明日になれば、チルノは幻月の興味の範疇ではないのだろうが。
まあしかし、ともかく今日一日は責任を持つと幻月は言った。
その言葉をどこまで信頼していいかは未知数だが、本来契約に五月蠅い種族が悪魔である。幻月は翼の形とか色々と例外な悪魔であるが、たまには約束も守る。
今現在のチルノに対する気に入りようを見るに、約束は履行される公算の方が大きそうに思えた。きっと幻月は満ち足りた一日を送るに違いない。
そして、何だかんだで幻月は、常識を知らないが強者である。その側で闘いを体感できるのはチルノにとって無駄にならないだろう。
なら、この出会いは肯定的に受け止めるべきものなのかもしれない。
そこまで考えて、妙に幻月に肩入れした思考をしている事に幽香は気付く。つまるところ彼女らの行動は、幻月の決して感心できない気紛れに過ぎないと言うのにだ。
何だかんだで甘いなぁと苦笑する。
パーティーを荒らす事に意気揚々な二人は、紅魔館へ向かい既に移動を始めていた。
その後姿。頭の大きなリボンや、子供っぽい雰囲気が何と無く似ていて、それが可笑しくて幽香は思わずクスリと笑いを漏らしたのだった。
案外本質は似ているのかもしれない。どちらも幼さばっかり目立つ悪ガキだ。
そんな幽香の思考が伝わったわけではないだろうが、幻月は存分に子供らしい提案をチルノに持ちかけていた。
「ねえ、チルノ。ゴールの門までかけっこしようか」
「ししょー、あたい負けないよ!」
「よーしその意気。じゃいくよ。位置について……よーい、どんっ!」
合図に合わせて、元気一杯に駆け出し始めた二人。楽しげな笑い声が夏の湖に響き渡っていた。
姉さんもチルノも可愛らしいなあ。
でも大ちゃん逃げてー!
蛇足ですがK=0のとき物質は消滅……幻想郷では常識に捕らわれてはいけませんね。すいません。
外道な幻月姉さんに乾杯。
それはそれで見てみたいかも。
それと、「マイナスK」の幻想に心踊りました。青と白の結界を頭の中で想像することができました。
とっても面白かったです! ありがとうございました!
貴方の書く幻月は最高です!まさに外道。
チルノも可愛かったw
彼女は本当にトラウマになっています。
しかしこの幻月さんは鬼畜かつ外道であっても、
意外と良い師匠で吃驚しました。
でも幽香ちゃん可愛い幻月ちゃん可愛い。
続きを読んでみたいですね。
続きを読んでみたいですね。
しかしチルノはかわいいなぁ。
夢幻姉妹は旧作の中でも特に異質な存在感があって好きです
お嬢様も実にお嬢様したので、不覚にも顔が緩み、結論を言うとお嬢様も幻月さんも素敵でした。
幻月姉さんとはいい友人になれそうですw
最強!
いやぁいい関係だなぁ。
マイナスKは割りと苦労した覚えがある
その在り方が魅力的。
レミリアもああやって離脱することで、ギリギリバランスとれていたと思う。