ふふふ、起きたわね。
ここ? ここは旧地獄の深道。陽の光など差すことのない暗黒の地よ。
あんた、地上から落ちてきたのね。
ふふふ、可哀想にねえ。ここは一度落ちたら這い上がることのできない土地よ。
そうよ。あんたはもうおしまい、二度と地上へは帰れないわ。
おまけにあんたの仲間なんて誰もいないのよ。
あんたはここで一生独りで暮らすの。
でも私はあんたに同情なんてしない。
むしろ、妬ましいわ。
だってあんた、人間なんですもの。
しかも男。
だから、私があんたを怨む理由なんていくらでもあるのよ。
ふふふ、私が恐ろしい? 暗闇が恐ろしい? そりゃそうでしょうね。
臆病でみじめで弱っちくてみすぼらしいちっぽけな人間ですものね。
でもここに落ちた人間は、死ぬまで妖怪のおもちゃにされることになっている。
それが決まりなのよ、運命なの。
どう? なにをされるのか解らなくて、恐ろしいでしょう、怖いでしょう。
でも大丈夫。他の妖怪には渡さないから。
どういう意味かわからない? じゃあ教えてあげる。
あんたを拾ったのは私だから、あんたは死ぬまで私のおもちゃってことよ。
楽しみねえ、あんたを使ってどんな遊びができるかしら?
あんたも気づいている通り、私も妖怪よ。
女の声だからって、安心できないわよねえ。
妖怪の中には甘い声で誘惑して、近づいてきた人間をぱくりと食べてしまうものもいるしねえ。
うふふふ、私はどっちかしらねえ。
でも大丈夫よ。食べられるとしても、一瞬のことだから。
私の牙ってこう見えても鋭くて、硬い肉でも簡単に噛み切れるのよ。
ほら、こんなふうに、ね……
おきた?
ごめんごめん、脅かしすぎたわね。
まさかまた気を失うとは思わなかった。
大丈夫、大丈夫、さっきのは嘘。私は人間を食べる妖怪じゃないから。
まあお肉は好きだけど。もっともこの洞窟ではお肉なんてめったに手に入らないけどね。
おっとと、まだ起きちゃだめよ。
落ちてきて怪我をしていたからね。一応手当はしたんだけど。
体が弱っていると思うから。ちょっとそのまま待ってなさいな。
あんたが寝ている間に食事を作ったのよ。
病人でも食べれる薬膳粥よ。
安心しなさい。毒なんて入れてないわよ。
人間の食べれる材料を使ったから、お腹こわしたりしないわ。
まあ眠り薬を入れて、寝ている間にあんたを食人妖怪に売り飛ばすっていう算段もあるけどねえ。
だったらさっき気絶している間に売り飛ばせばよかった?
そういやそうね。
なんだ、意外と冷静じゃないの。
ま、冷めないうちに食べなさい。
どう、おいしい?
……そう。
むしゃむしゃ、がつがつ、ばくりばくり
本当においしそうに食べるのねえ。
あらあら、もう空になっちゃった。
人間のくせに、すごい食欲ねえ。
でも、あんたって、……ひどい人よね。
何も気づかないの? 鈍感。
わからないかしら……。
こんな陽の差さない洞窟の中に、植物なんてめったに生えないわ。
あんたのために私は自分の食べる分を我慢しているのに。
そんな私の前で……少しぐらい、気を配って残してくれたっていいのに……ひどいわ。
ああ、満腹になって幸せそうなあんたが妬ましいわ。
うそうそ。冗談よ。つい言わなきゃいけないような気がして。おやくそくってやつ?
私はさっきあんたが寝ている間に食べたから大丈夫よ。おかわりもあるし。気にせず召し上がれ。
ここ、暗いけどなぜか作物は一杯取れるのよ。
この間だってミラクルフルーツが豊作で大変だったんだから。
食べ終わったらまた休みなさいな。
あんた、もう地上に帰れないから行く場所がないでしょう。
本当に出られないのかって?
うーん、悪いけど私も地上に出る出口は知らないの。
ここは旧地獄と言って、ずっと昔に地上から切り離された場所だから。
下の方には妖怪達の都があるけど、人間は一人も住んでいないわ。
まあこの先どうするか知らないけど、この洞窟の中なら嫌になるほど広いから、好きに暮らしてていいわよ。
怪我が治るまでしばらくいなさいな。
あっ、名前?
私は水橋パルスィよ。
『なにじん』なのかって? 私も知らないわ。
日本生まれの妖怪だとは思うんだけど。
日本人にしては自分でも変な名前だと思うけど、親が付けてくれた名前だから仕方ないわね。
あら、もう起き上がれるのね。この分なら包帯を取っても大丈夫でしょう。
来なさいな。ほら、そこに座って。
うん、もう傷は塞がってるわね。
人間の手当てなんてしたことなかったから、一時はどうなることかと思ったけど。
ほら、人間て妖怪と違ってちょっとした怪我でもすぐ死んじゃったりするでしょう?
……あんた、なんで赤くなってるの?
よし、もう終わったわ。じゃあ服を着替えなさい。あんたの寝巻きは洗濯するからね。
えっ? 仕事を手伝いたい?
病み上がりなんだからもう少し休んでなさいな。
そう? そこまで言うんだったら手伝ってもらおうかしら。
この桶に一杯水を汲んで来て。
井戸は洞窟の奥にあるわ。ちょっと暗いから気をつけてね。
なに? 井戸で水を汲んだら女の子が出てきていきなり弾をぶつけられた?
ああ、それはキスメね。このあたりに住んでいる釣瓶落としの妖怪よ。
きっと入浴中だったのね……裸を見られたから怒ったんだわ……パルパル、なんてね。
意味が分からない? 別にいいのよ、分からなくても。
あれ? これ、血?
なんだ、また怪我しちゃったの? しょうの無い人ね、あんたは。
キスメのやつ、よっぽどあわてて手加減できなかったのね。
みせなさいな。ほら、傷口洗ったげるから。
夕ごはん出来たわよ。
まあ麦粥しかないけどね。
洞窟の中は養分の関係で麦しか育たないの。
地霊殿の連中は米のご飯を毎日食べているって言うのにねえ。
まったく妬ましいわねえ。
え、これで十分なの?
ふうん。あんたって、若いのにつつましいのねえ。
ああ、地霊殿? 地霊殿っていうのはこの下の旧都にあるお屋敷の名前よ。
都を治めてる妖怪が住んでるおっきな屋敷。
ああ、あいつらか。ううん、あいつらも知らないと思うわ。
地下の妖怪は封印されてるの。
それでなくても、ずっと前から地上に出て行かない約束を結んでいるから、この先もずっと地上への道が開かれることはないと思うわ。
えっ? 何でいつも妬ましい妬ましい言ってるのかって?
だって本当に妬ましいんだもの。
みんな、私にないものを持ったやつらばっかり。
え?
……ああ、あれね。最初にあんたのことを怨んでるって言ったのはね、あんたが人間の男だからよ。
よくわからない?
私はね、橋姫っていう種族なの。
私のお母さんは、人間の男に惚れて恋人になったんだけどね、浮気されちゃって、そのあげくに捨てられちゃったんだって。
それで怨みを持ったまま橋から川に飛び込んで自殺したの。
でも未練がありすぎて死にきれなかったから、化けて出て妖怪になったんだってさ。
本当のことかどうか知らないけど。
私は生れてからずっとそれを聞かされて来たわ。
いつかはお前も立派な妖怪になって、私を裏切った人間の男たちに復讐するんだって。
そればっかり言ってた。
と言っても今じゃそんなことどうでもいいけどね。
お母さんも随分前にどこかに行ったっきり帰ってこないし。
娘の私にはお母さんの恨みなんて実際どうでもいいかも。
親子二代掛けた復讐だなんて、バカみたい。
だけど、私たちが地上に暮らす人間を妬み続けていたのはほんとよ。
だって、人間達は私たちにないものを一杯持ってるもの。
地上の光が妬ましい、巡る風が妬ましい。いつもそう思って来たわ。
暖かい地上を与えられて、美しい景色と美味しい食べ物と一緒に、森の緑や青い空や雲を楽しみながら暮らしていける。
どうして人間だけがあんなにめぐまれているんだろうってね。そう思ってた。
人間だけずるいじゃない。私たち妖怪にあるのは、こんなさびしい暗がりだけだしね。
特にここは、いつも風が吹いて来て気持ちの悪い音が鳴るから。
じゃあどうして下の都に行かないのか?
行きたくないの。下には嫌なやつがいるし。
昔、下でひどい目にあったから……だからここで一人で暮らしているの。
ああ、気にしなくていいわよ。
別に一人が好きなわけじゃなくて、こんなさびしい所にやってくる物好きな妖怪があんまりいないだけよ。
あんた一人増えたところで食い扶持に困るわけでもなし。
飽きるまで居るといいわ。
もちろん、ここが気に食わないなら下の都でも何でも好きなところへ行けばいいわ。
え、ここにいる?
そう、
別に、
いいけどね……
最近すきま風が吹いてきて寒いわん。
ね、そんなところにいないで、もうちょっとこっちに来ない?
ほら、暖炉に当たるといいわ。毛布も使う?
ねえ、あんたの手って冷たいわね。凍ってるみたい。私の方が体温高いんじゃないかしら。
人間のくせに妖怪より体温が低いなんてちょっと変よ。
あれ? ねえ、あんた、なんだか顔色が悪いわよ?
ちょ、ちょっとふらついてるわよ……寝ちゃったの? ねえ、どうしたの……ああっ!
ど、どうしたの? なにこれ、凄い熱……風邪、じゃないわよね。
こんなのみたことない。
どうしよう……私、人間の病気に詳しくないから。
人間の病気にも詳しい友達に相談してくる……すぐ戻ってくるから待っててね!
☆
ねずみ穴にしつらえた糸のハンモックに寝ころびながら本を読んでいると、入口の方でがさがさと音がした。
次いでばたんとドアが勢いよく開かれる。ノックもなしに飛び込んできたのは、久方ぶりに見る友人の顔だった。
「おやパルスィじゃないかい。最近顔を見なかったが、私のこと覚えててくれたのかい?」
「ヤマメ、あなたの力を貸してほしいの!」
「血相変えてどうしたんだ?」
「とにかく着いてきて! お願い」
息せき切らしながらパルスィは私の腕を掴んだ。
そのまま私はパルスィに引きずられて、大洞穴の中にある彼女の住居に連れてこられた。
彼女の家に着いて、以前とは違うところに気づいた。
驚くほど部屋の中が片付いている。
パルスィはあんまり綺麗好きじゃなかったはずだけど……これはどうしたことかな。
なんて考えていたら、寝室の一つに案内される。
部屋の隅に置かれたベッドには、みかけパルスィと同じぐらいの年頃の、人間の男の子が寝かされていた。
「この子は?」
「洞窟の底に落ちていたの。
拾って置いてやってたんだけど……急に具合が悪くなって。
それであなたに診てもらいたくて」
おや? 言葉づかいはぶっきらぼうだけど、言い方の節々に今まで感じたことのない温かみを感じる。
パルスィはこれまで人間のことは妬みや恨みを当てる対象としてしか見てこなかったはず、じゃなかったか。
二人の間にどんなことがあったのかと想像しながら、私は男の子の様子を診てやった。
私ら土蜘蛛の種族は昔から器用で、医療の心得も少しあるのだ。
「どうかしら……」
脈をとり終わると、見るからに心配そうなパルスィに向きなおって私は告げた。
「ううん。これは洞窟の毒気にやられたんだね」
「えっ!?」
「この深道は地獄からやってくる風が渦巻いているからね……昔の怨霊が混じった空気は人間の体に良くない。
きっと徐々に生気を吸われていたんだろう」
「そんな……そんな様子はちっともなかったわ」
「たぶん、がまんして表に出さないようにしてたんだろう。
一緒に暮らしているパルスィに心配かけないようにってことじゃないかな。
それじゃなくても、太陽の光に当たらないで生活するのは人間の体に良くない。
長い間陽の光に当たらないと、人間の体は骨がもろくなってしまうと聞いたことがある。
どれくらいの間、この子と一緒にいたんだい?」
「……」
「ねえ、パルスィと会ったのは半年ぶりだよね。もしかしてその間ずっと」
「……」
「どうして彼を地上に帰してあげなかったんだい? お前さんならできたろうに。
それに私に言いに来れば、すぐに穴を掘ってあげたのに。
私にとっちゃそんなの簡単なことだって知ってるでしょ?」
「……」
パルスィはすっかりしょげかえってしまっていた。
こんなパルスィの顔を見るのは始めてだ。
男の子がこんな風になってしまったのは自分のせいだと考えて、落ち込んでいるのだろう。可哀想に。
とにかく男の子を休ませようと思い、寝室のドアを閉じてパルスィと二人だけで居間に入る。
「パルスィ、あの子を引きとめておきたかったんだね。パルスィ、あの子のことが好きになったの?」
「う、ううん。違うと思う。だけどその」
「一緒にいると、なんだか元気な気分になれたの。
あの子が居るだけで、こんな地底の暗い場所でも、そこだけ光が注いだように明るく見えて、暖かかった」
パルスィは気付いていないんだ、生まれてからずっとこんな暗い洞窟の奥底にいて、そんなこと今まで経験したことがなかったから。
今のパルスィの気持ち、それが恋してるってことなんだって。
「ねえ、パルスィ。あなたが本当にこの子のことを大切に思ってるんだったら。
あの子のことを助けたいのだったら、すぐに地上に送り返してあげるしかないわ。
このままだと、あの子死ぬわよ」
「死ぬ……」
死、という言葉を意識してか、元々青白かったパルスィの顔がますます蒼くなった。
「それも一週間と経たないうちに」
「で、でも。送り返しちゃったら」
「もう二度と戻ってこないでしょうね。穴はふさがないと、また怨霊が噴き出していってしまうし。
地底と地上の行き来は別に禁じられているわけではないけど、どっちにしろ人間は地底で暮らすのに向いていないわ」
「……」
人間には人間の世界がある。妖怪と人間は違うのだ。
パルスィには酷だけど、早目にあきらめたほうがいいと私は暗に示すことにしたのだ。
☆
男の子を地上に送り返して以来、パルスィは日に日に暗くなっていった。
もともとパルスィは人づきあいの薄い方で、家にこもっているのが多い子だったけど、最近はちょっと異常だ。
私にも責任があるだけに、とても気の毒に思う。
最近起こった地震の影響で地上への道が開いたとき、一時的に明るくなったが、あの騒がしい連中が去って後はまた元に戻った。
それどころか、連中の一人に傷つくことを言われたらしく、それで余計に落ち込んでしまった。
「ねえ、もう地上と自由に行き来できるようになったんだから、会いに行ってみたら? 向こうも待ってるかもしれないよ」
「そんなの無理よ。あれから何年も経っているし。きっとあの人も私のことなんて忘れちゃってるわ」
私が励ましの言葉をかけても、彼女は頑なな態度で希望を持とうとしない。
「今じゃ他の女の所に行ってるかも。それこそ伝承にある宇治の橋姫みたいに。
私みたいに醜い妖怪のことなんて忘れちゃってて……
気立てのよいちゃんとした人間のお似合いの彼女のところに行って、それで……幸せな家庭を」
宇治の橋姫はとても嫉妬深くて、恋人の心変わりに嫉妬し、男と相手を怨んで丑の刻まいりをし、怨みの力で鬼になったと言う。
今のパルスィはちょっとおかしいと思う。
橋姫だからっていう理由で、悪い想像ばかりして、自分が幸せになれないと思い込んでしまっているのだ。
心を閉ざして、自分の中に引きこもってしまっている。
このままではよくない。
あんなに精神を病んだままだと、パルスィは病気になってしまう。
なんとかしないと……
☆
ヤマメは私を励ますために色々言ってくるけど、私には信じられなかった。
私には良い未来像が想像できないのだ。
いや、私は怖いだけなのかもしれない。
本当は彼に会いに行きたい。会って話がしたい。
できるなら、彼の近くに住んで、それでもっと仲良くなって。
そんなのみんな妄想だ。
あっちは人間。こっちは生まれつき妖怪。
人間と妖怪の間の悲恋なんて腐るほど聞いてきた。
私のお母さんだって幸せになれなかった。
きっと私も、のめりこんだらお母さんと同じ目にあう……
彼を怨み、誹り、妬むようになる……それぐらいならいっそのこと……
そんな風に考えて深道の中を歩いていると、暗がりの向うに桃色の奇妙な光が見えた。
眼を見開く。
体が震える。
足が竦んで動かない。
ああ、そんな。
「な、なんであんたがここに」
嫌な、大嫌いな奴が来た。
こいつが深道に来ることなんて、これまでなかったのに。
なんで急に現れたの!? に、逃げなければ。
そんな私の恐怖を見越すように、あの声がまた聞こえた。
ふふふ、きれいな緑色の光が見えたから、あなただと思ったわ。
直接頭の中にひびいてきた。
「噂を聞いて来てみれば。聞いた通りね。
またこんなに暗く歪んだ心を貯め込んで。うふふ、あなたの歪んだ心はとてもおいしいの」
そいつは嬉しそうに厭らしい笑みを浮かべながら、言った。
私は心を閉ざした弱い妹とは違う。
我々さとりは、心の機微を読み取ってそれを喰らうのです。
さあ、私にあなたの全てを見せて!
「やめて、やめて、私の心のなかを読まないで!」
だめだ、逃げられない!
また昔みたいに、心をなめつくされてしまう!
もう遅いわよ。
もうあなたの心を捉えたから!
さあ聞かせて。あなたが本当はどう思っているのか。
どんな想いを抱いてこの暗がりで生きてきたのか……
最初は……
最初は人間だから、やっぱり妬ましいと思った。
人間の男なんて誰も信じられない、心を許したりしたら、いつか裏切られるんだって。
人間の男なんて、後腐れのないように怪物に食わしてしまえばいいんだ、気絶している彼の顔を見てそう考えた。
でも、なぜだかそうはできなくて。
それで、なしくずしに彼と一緒に暮らしているうちに……
自分の中にやり場のない、もやもやした気持ちが溜まっていくのがわかった。
それが胸のなかを満たすと、いてもたってもいられなくなって。切なくなって。
これが、これが恋だったのね。
私そんなこと初めてだったから、気付かなかった。
妬ましい妬ましい、それが私の口癖だったけど。
彼が一緒にいるときは、誰も妬む必要なんてなかった。
彼が一緒にいてくれるだけで、幸せで満ち足りた気分になれた。
ああ、どうしてお母さんは私に恋なんてものについて教えたんだろう。
そんなもの知らなければ、こんな気持ちにならずにすんだのに。
ううん、秘密にしていたけど、私は本当は、お母さんの話を聞いて憧れていたんだ。
そんなにもお母さんが夢中になった恋ってどんなものなんだろうって。
彼が落ちてきたとき、これから何か素晴らしいことが始まるんだ、そんな風に考えた。
実際一緒に暮らしてみると、どんどん好きになっていって。
普通に生活しているだけなのに、特別なことなんて何もなかったのに。
私、いっちょうまえに彼好みの女の子になりたいなんて願った。
私はお母さんとは違う。私はうまくできる。
一生懸命彼に尽くせば、彼ももっと私のことを好きになってくれて、ずっとずっと幸せになれる。
そんな妄想をずっと抱いていた……。
でも無理。私はけっきょく、穢れた妖怪なんですもの。
橋姫は妖怪の中でも最も下賤な種族。地上から来た妖怪もそう言っていた。
自分でもそう思う。
ああ、私は全てを妬んで生きてきた、汚くてみじめで弱くて、ちっぽけな妖怪なんです。
私はもう何も望むことがありません。私には人を愛する資格なんてないんです。
だから、放っておいてください。
私にかかわると、不幸になるだけです。
げんに、私は彼を不幸にしてしまった。
私の我がままで引きとめたから、彼は危うく死ぬところだった。
やっぱり私は呪われているんだ。他人を不幸にするだけなんだ。
あの妖怪の言ったとおりだった。
ああ、どうか。どうか私になんてかまわずに、幸せになってください。
元々人間と妖怪なんて不釣り合いだったのだから……
☆
「どうでした?」
パルスィを眠らせたあと、私はヤマメの所に戻ってきました。
「相当まいっていたわ。大分抱え込んでいたみたいね」
溜まっていたパルスィの負の感情は一通り吸い出してきました。
これで彼女もしばらくは安楽でいられるでしょう。
「私も、地上への道が開いたんだから、会いにいけばいいって言ったんですけどね。
自分なんて会っても相手にしてもらえないとか、もう自分のことなんて忘れてるとか、
ネガティブな返事ばっかり返ってくるんです」
「あの子は母親の運命と自分を重ねているのでしょうね。
自分は橋姫だから、愛されるはずがないと思い込んでいる」
「確かに相手の方が今どうなっているかわかりませんけど……
でもこのままじゃパルスィに良くないと思うんです。なにか、大変なことになってしまいそうで」
確かにそうです。
精神体である妖怪は、精神状態に影響を受けやすいのです。
あのように病んだ心を抱えたままでは、妖怪は弱り切ってしまう。
しまいには己の存在意義を自分で否定して、消滅してしまうかもしれません。
私もなんとかしてあげたいのですが……
☆
霊夢を地底に送ったときに、地霊殿という屋敷に住む妖怪と知り合いになった。
なかなか話せる妖怪で、何度か遊びにお邪魔し、打ち解けた今ではゆかりんさとりんで呼び合うほどの仲になっている。
そのさとりちゃんの所にまた猫を遊ばせに来たついでにお茶をご馳走になった。
茶飲み話にさとりちゃんが話題に出したのは、パルスィとかいう地獄の深道でうろちょろしている地味な妖怪のことだった。
あんまり興味はないが、暇なので話を聞いてみた。
どうもパルスィは人間の男に恋してしまったようである。恋煩いで体調まで崩してしまっているとか。
「ふうん。そんなこともあるのねえ」
「ですからとても不憫で。可哀想なんですよ」
「でもその二人を結びつけるのは難しいわねえ。
男の方は地底にいたら死んじゃうし、パルスィが里へ出て行けばいいんだけど、その気はないんでしょ?
だいいちパルスィが言ったとおり、もう里で新しい生活になじんじゃってるかもしれないわ。
あの里は婚期が早いから、もう縁談の一つや二つきちゃってるかも」
「ですから紫さん、ちょっと人里まで行って様子を見てきてくれませんか?」
耳をほじりながら返答していると、さとりちゃんが意外な申し込みをしてきた。
「ええー? なんで私がそんなことしなくちゃいけないの」
面倒だからやりたくない。
「責任の一端はあなたにもあるんですよ」
「ほえ?」
「あなた、この間巫女を差し向けた時に、パルスィのことを下賤な妖怪って言ったらしいじゃないですか」
「言ったかしらそんなこと」
「それであの子すっかり自信をなくしちゃって、落ち込んじゃってるんですよ」
「ちょっと待ってよ、それ言ったの確か萃香だわ。私じゃないって」
「地底の連中は呪われた忌わしい力を持つやつらだから、出会い頭に倒しなさいとか巫女に吹き込んでたじゃないですか」
「だってあれは、間欠泉から怨霊が噴き出してきてたから、慌てていて」
「いいんですかー? あなたが巫女さんに隠してること全部ばらしちゃおっかしら」
「へっ」
「さっきちょっと心を読ませてもらいましたよ。油断してましたね。
白玉楼の桜が咲いたときに、本当はあなたがどうしてたとか……霊夢のことどう思ってるとか。
まあ、いろいろと」
「むはー……むむむ」
確かにすっかり気を抜いていた。
色々と恥ずかしい想像をしていたことを思い出し、慌てて紅茶のカップを置いて瞑目し、無念無想を試みる。
「いまさら心を閉ざしても無駄ですよ。必要なことは全部わかりましたから」
「むぐう」
「ねえ、あなただって幻想郷は幸せな場所であってほしいでしょう? 妖怪と人間が種族の違いを乗り越えて愛し合う。
素敵じゃないですか。そんな素敵なカップルのキューピッド役、やってみたいと思いません?」
「……ふーむ。様子を見てくるだけよ。それ以外はやらないから。
私だって忙しいんですからね。それから、霊夢には内緒にしといてよ」
「はい。じゃあよろしくお願いしますね」
「といいますか、あなたがご自分で人里まで行けばよろしいんじゃなくて?」
「私にはパルスィの心のケアという大切な仕事があります。殿方を見つける役は紫さんに。
人里に行くんだったら紫さんの方が私より色々と便利でしょう?」
「なんで私、あなたにアゴで使われてるのかしら……」
☆
ああ、あいつ? 何かガキの頃事故に会って行方不明になったんです。
なんでもその間、地底に行っていたとかで。そこで天女を見たとか言ってるんですよ。
たぶん地底で会った妖怪のことを言ってるんだと思うんですけど。
でも幻想郷の地下っていうと、聞いた限りじゃ昔の地獄だって言うじゃないですか。
そんなとこで神隠しに会っていたから、ちょっとおかしくなっちゃったのかな。
けっこう良いトコのボンボンだけど、気さくでいい奴だったんですけどね。
見ればわかるとおり、今じゃすっかり落ち込んで暗くなっちゃって。
まるで明日世界が終わってしまうかも、みたいな表情でしょ?
よっぽどその妖怪のことが忘れられないんですね。
なんとかしてやりたいとは思うんですけど、妖怪がらみのことでしょう?
えっ? ああ、そうか慧音さんに。
確かに慧音さんなら妖怪がらみの問題でも何か良い方法を知っているかも。
そうか、慧音さんに相談するように、それとなく伝えてやればいいかもしれませんね。
☆
君の噂は聞いているよ。
妖怪に恋してしまった男。里中の噂になっている。
ときに神社で起こった事件のこと、聞いているかね?
先ごろの地震によって、閉ざされていた地底への道が開いた。
そう、まさしく君が幼少のころ行方不明になっていたときに行っていた地底の穴だ。
君の想い人もそこにいるだろう。
だが勇んで神社へ向かうのは早計だと思う。
普通の人間が地底へ行くのは危険だ。
君がそうだったように、地底の毒気にあてられると人間は長く生きられない。
しかし今ならひとつ方法がないでもない。
妖怪の山の頂上に引っ越してきた神の話を聞いているかい?
かなり力が強く、御利益のある神だ。
じかに神社に詣でれば、彼の神ももしかしたら君の願いを聞いてくれるかもしれない。
かくして男は山へと旅立った。
男の頭にあるのは迷妄に近い狂信。
道は険しいが、愛が本物ならどんな障害も乗り越えられるだろうとかたくなに信じる、時代遅れの失われたセンチメンタリズムだ。
しかし人は時にそんな愚にもつかない信念のために命を掛けるものなのだ。
いとし恋し、美しき乙女のためとあらば。
千里の道もなんのその、弾幕の雨の中だろうと、地獄の針の山上だろうと、どこへなりとも行くであろう。
それが男という生き物だ。
かつてイザナギが、死んだ妻のイザナミの面影を忘れられず、伴侶恋しさに冥界の深道を降りて行ったかのように。
愛しい女性のために命を賭す、それは神話の時代から保ち続ける男のサガなのだ。
<山麓の渓流>
「おや? 人間がこの山に来るなんて珍しいな。だけどこれ以上山に入ると危険だよ。
悪いことは言わない、さっさと里へ帰った帰った。
なに? どうしても進まなきゃいけない理由があるって言うのかい。
残念だねえ、仕方がない、これ以上山へ入るというのならその本気、試させて……
あれ、なにこれ? もきゅう!?」
<九天の滝>
「侵入者かと思って出向いてみたら、なんと人間か。それもあまり力を持ってそうもない。
よくここまでこれたもんだ。だけどここから先は通さないよ。
気の毒だけど、大天狗様は人間を通すなと言ってるんだ。
この間巫女と魔法使いに突破されて以来ピリピリしていて……はぎゅう」
自分の前に立ちふさがる手ごわそうな数匹の妖怪。
だがその妖怪達は皆、前口上の途中で空に開いた奇妙な穴に吸い込まれてしまった。
なにごとが起こったのかわけがわからなかったが、これぞ僥倖とばかりに男は先へと進む。
<こちらスキマ内部>
「あれ? ココどこ?」
「やあ、椛じゃないか。元気?」
「ハレ? にとりじゃない。なんで私たち縛られてるの?」
「藍、動けないようにきつく縛っておいてよ」
「アイタタタ、アイタタタ、ちょっと、コレはどういうことなんですか!?」
「じっとしてなさい」
「縄をほどいてください! 警備に戻らないと」
「戻らなくていいのよ。あの人間の男は怪しい奴じゃないから」
「滝まで登ってこれるほど力のある人間は怪しい奴です。
といってもあんまり力がありそうにも見えなかったな?
あ、八雲さんがあいつを助けていたんですね! どうりで」
「あの子は頂上へ行って神様に会わなきゃいけないの。
アンタらみたいな中途半端に手ごわいのが途中を塞いでたら、あの子頂上へたどりつけないじゃないの」
「仕方ありません。それが私達の仕事なんですから」
「そうね。お仕事ご苦労様。
だから仕事熱心で空気の読めない分からずやのあんたらには事が済むまでここでじっとしていてもらうわ」
「私は人間と盟友だから別に喧嘩するつもりはないんですけど……」
「こら、にとり裏切り者。山へ不審なやつを入れるなって上の方からも言われてるでしょ!」
「じゃあ、藍。この子たちの相手はまかせたわよ」
「はい。かた結びにしましたから私もほどけません」
<守矢神社へようこそ>
人間がこの山の上まで上ってくるなんて、よほどの覚悟だったんだろうね。
天狗や河童にいじめられただろうに、それでもなんとかかんとか辿りつくとは。見上げたもんだよ。
だけどね、それとこれとは事情が違う。
今お前は、妖怪の少女のことを話した。
お前はその妖怪の娘に心底惚れ上げていると言う。
あまつさえ一生その娘と添い遂げたいから、彼女と同じ妖怪にしてくれだって?
ばかなことを。正気の沙汰じゃないよ。人間が妖怪にだなんて、簡単になれるもんじゃない。
それにいくら最近地底への道が開いたからって、その娘がお前を忘れずに想っているという保証はないじゃないか。
それなのになんだい、妖怪にしてくれだなんて。向こう見ずにも程がある。
なに? あの子はそんなこじゃないだって。
ばかをお言い。笑わせるよ。
話を聞いた限りではその娘、橋姫だって言うじゃないか。
お前はいったい橋姫が何だか知っているのか?
知ってるだって? いいや、上っ面だけ知っていて中身を知らないんだよ。
いいかい、橋姫ってのはね。謂れのない妬みを他者に向けてばかりの、呪われた不浄の妖怪なんだ。
心根のいやしい、みじめな、あやかしなんだよ。
あの子に限ってそんなことはないだって? ばか、そりゃ男が惚れた女に抱く幻想さ。
種族の壁っていうのはお前みたいなあまちゃんが考えてるよりよっぽど厚いんだ。
そういう風に作ったうちの一人が言うんだから間違いない。
妖怪ってものはね、昔から人間の害になって、それで人間を戒める役目をもっている。
そういう存在なんだ。
橋姫は生まれながらに人間を害する存在なのさ。
だからそんなのに惚れこんで、魂を寄せあうなんてのはもともとあっちゃいけないことなんだ。
そんなのに人間が近づくと、穢れが付いちまうようできてる。
現にお前の魂は、妖怪のそばに寄っていたことによって半分穢れかかっている。
もしこれ以上あんな妖怪に近づいたら、しまいには神々から見放されて、死んだ後に極楽浄土へ行くことはできなくなり、永遠に地底を彷徨うことになるだろうさ。
なんだって? それでもよいだって?
まったく思いつめた奴だねえ。
まあそこまで言うなら、願いを聞いてやらんこともない。
よろしい。私も神のはしくれだ。はっきりいって度し難い阿呆だと思うわけだけどさ、仕方ない。
あんたの心意気に打たれたよ。ひとつ手を打ってみようじゃないか。
そうさね、私の神様仲間に、水の神でタカオカミノカミというのがいる。
あいつに話を通しましょう。
あの神は人間の願い聞き届ける心願成就の神でもあるから、きっとお前の恋慕をかなえてくれるだろう。
準備に時間がかかる。決心が変わらなければ、一週間後、またこの神社に来るといい――
――やあ、本当に来たね。
タカオカミノカミに話したよ。
お前を妖怪にすることはできないが、特別な条件で仙籍に入れて、長命にしてくれるそうだ。
だけど普通の仙人になるわけじゃない。
忘れるんじゃないよ。おまえに与えたのはかりそめの命だ。
その命は、おまえの一途な思いに縛られている。
つまり、条件と言うのはそれだよ。
お前の気持ちが揺るがない限り、お前は愛しい相手とともにいられるだろう。
仙人としての命によって、地底の毒気の影響を受けることもない。
だが、少しでもお前の気持ちが他を向いたりしたら、穢れはまた戻り、たちどころにお前の命を食らいつくす――
……よっ、あんたか。道中のこと、境内から見てたよ。
柄にも合わず面倒なことやってるじゃないかい。今回はご都合主義の神様役ってわけか。
人間のことをこんなに心配してあれこれ手を焼いてやるなんて、あんたも可愛いとこあるねえ。
違うわよ。私はさとりんに弱みを握られて仕方なく。
ふふ、別にいいけどね。
パルスィといったかい? 果報者だね、その子。
子供のころ一度会ったきりなのに、ずっと途切れることなく想ってきたんだね。
あいつねえ、私に言ったんだよ。
パルスィと一緒になれるんだったら、他のどんな物を失ってもかまわない。
人間としての成功も幸せもいらない。
暖かい陽の光も、巡る風も、パルスィと一緒にいられないんだったら何の意味もない。
もし彼女が見られるのがいやだって言うんなら、何も見えなくなっても構わないだなんて。
まったく泣かせるじゃないかい。
あれだけ一途な人間はいまどき珍しいわね。
きっとあいつなら、その妖怪のことを裏切ることなんて、ないだろうよ。
さてと、あと一仕事のこっているのか……
もう、なんで私だけこんなに働かなきゃいけないの!?
<とある紅いお屋敷>
「いきなり部屋に入って来たかと思えば、お前はなにを言い出すのよ。
なんで私がそんなことしなくちゃいけないの?」
「ただとは言わん。五百年ものの処女の生血2リットルでどうだ!」
「ふざけるな、どのつらさげて処女だっ! 恥を知れ、しかるべき後、死ね」
「ちょ、私じゃないわよ!」
「なにィ、うーん。ねえ、咲夜。五百年ものの処女の生血って美味しいのかしら。熟成してるとか?」
「なんだか蜘蛛の巣が生えてそうですねえ」
「というか私に対するフォローはなしなの? 先入観で考えないでよ! 私は乙女!」
「それはどうでもいいけど。ふーむ、五百年ものかあ。ちょっと興味あるな……。しかし」
「ねえ、お願いよ。人助けなんだからさ」
「なんでそんなに肩入れするの? どうみても親切に興味の無さそうなあんたが」
「それは……恋人を思う美しい想いに私の乙女心が揺り動かされたのです」
「際限なく怪しいわ」
☆
「と、いうことになったから」
「そこまでしてくれたんですか」
「何てお優しい……」
私とヤマメは目をうるわせながら紫さんを見つめます。
私がお願いしたのは、殿方の様子を見てきていただくことだけなのに、紫さんはほとんどお膳立てしてくれたのです。
「か、勘違いしないで。私は自分が見たいものを見るために、やりたいことをやっただけだから」
そう言う紫さんの心は読めませんでした。
心を閉ざしているようです。
きっと読まれたら恥ずかしいことを考えているからですね。
みんなに内緒で世界を良い方に導く仕事をする。
本当に賢者に相応しい仕事だと思います。
「あ、それから。明日この屋敷でパーティーを開くことにしたから、準備お願いね。
主だった知り合いは皆呼んでおいたわよ」
「急ですね!? って勝手に決めないで下さいよ」
「よし、あなたのペットを貸して。飾り付けとか料理の用意は私がしておくわ。
あなたは最後の仕上げがあるでしょ?」
「え?」
☆
ヤマメの勧めもあり、私は地底の深道から都の入口がある橋の袂へと引っ越した。
地底の妖怪たちが言っていたとおり、もう一つの太陽ができたせいで確かに地底は明るくなったようだ。
それでも私の気分が晴れるわけではない。
私は結局都市を取り巻く堀の側に住居を構えて、都の中には入らなかった。
ふだんは橋の下の暗がりで座り、ぼっとしている。
あるいは橋の中頃に立って、そこからやはり何をするでもなく堀の水を眺める。
母が飛び込んだという川は、こんな様子だったのだろうか、などと考えるのだ。
いつも通り橋の下でぼっとしていると、橋の上からがやがやと音がする。
雑踏の中に聴き覚えのある声を見つけた。
確か以前地上から来た連中だ。
そういえば、今日は地霊殿でパーティーがあるらしい。
昨日ヤマメがそんなことを言っていたのを思い出す。
なにかのお祝いをやっているらしいが、私は興味がない。
無視して橋の下でじっとしている。
すると、目に障る桃色の光が視界の端に映った。
またあいつがやってきたのだ。
さとりだ。
さとりはわざわざ橋の下までやって来て私の前に立つと、こんにちはと挨拶した。
聞けば私をパーティーに誘うという名目で来たらしい。
もっともこいつも、私がそんなのに参加する気がないことは最初から知っているだろう。
事の次第はもうヤマメから聞いていた。
このさとりという女はずいぶんなお節介焼きで、私が鬱な心を貯め込んで病んでしまわないように、時々心の中の病んだ部分を吸い取っていたらしい。
私が今も暗く淀んだ心を貯め込んでいるのを察知すると、また私の心を触ろうとしてきた。
以前は心を覘かれるのに強い抵抗を感じていた。
今も嫌なものは嫌だが、もうどうでもよくなった。逃げる気力も起きない。
何も考えずにじっとしていると、さとりは私の心をやわらかく撫でた後、急になじりの言葉を入れてきた。
……何よ昼間っから橋の下何かに隠れて。おこものマネ?
地底もこんなに明るくなったというのに変わらずあなたは暗がりにいる。
隠しても私にはわかる。
怖がっているのね。あなたはおびえているんだわ。陽の光の下に出ることを。
結果を見ることを。
でもね、パルスィ。
白日の下を歩くことを恐れている臆病ものには、恋をする資格なんてもともとないのよ。
さとりは私をなじるだけなじって去って行った。
言われていることはその通りなので反論の余地はない。
さとりの態度は、わざと厳しい言葉を投げかけているように思えた。
発破をかけて、元気づけてくれようという気なのだろうか。
今の私にはそういう心遣いすら鬱陶しかったが、ほんの少しだけ癪に障る気持ちもわいてきた。
ふらっと、橋の下を出て堀沿いを進み、橋の上から堀の水を眺める。
最初の橋姫はいったいどんな気持ちでこの水に飛び込んだのだろうか。
私も橋姫に生まれてきたけど、だれもかれもうらやんで妬んで、生きていかなければならない一生なんてそんなの嫌だった。
だけどどうしようもないことはあるのだ。
他の人の持っていない、自分だけのものがあれば、きっと妬む必要なんてないんだろうと思う。
以前の私は、それを手に入れたと思っていた。
自分のことだけを大切に想ってくれている人がいると思っていた。
一時でも最高の時間を体験できたのだから、それで満足するべきなのだろう。
世の中に平等なんてないから、誰も彼もが最高の幸せを掴めるわけじゃない。
私の悩みが贅沢なものであることも、ずっと前から気づいていた。
じっさい好きな人と一緒になれる人間なんて、ほんの一握りなんだから。
「もしもしそこのお嬢さん」
いきなり後ろから声がした。
振り向く。
「私ですか? 私はしがない辻占いですよ。
お嬢さん、お見受けしたところ、興味深い人相をしていらっしゃる。
どうですかな? 私にちょっと相を見せてみませんか」
いつのまにか、私が立っていた場所の反対側の端に、小さな机が置いてあり、そこにぼろのフードを目深にかぶった小さな女の子が座っていた。
その背中からは体に不釣り合いな大きなこうもりの羽が生えていて、それがぴょこぴょこと動いている。
机の真ん中には水晶玉が一つ、右隣りには遁甲盤、左にはタロットカードが並べられている。
これが辻占いだとしたら、随分と節操がない。
「なに、お代は結構です。今日はめでたい日でしてね。
私も都の屋敷のパーティーに呼ばれているのですが、パーティーが始まるまで地底の方々の運勢を見てみようかなんて」
「ああ、あなた、地上の屋敷で暮らしている吸血鬼じゃないの? 確か……レミリアだっけ」
「……って知ってんじゃないの!」
レミリアはいきなり叫んで立ちあがると、被っていたフードを剥ぎ取って地面にぺちと叩きつけた。
「なんのために私はこんな……みすぼらしい辻占いに変装までして……意味ないじゃないの」
なにかブツブツ言いだしたがわけがわからないや。
放っておこう。もう堀沿いの小屋に帰ろう。
「ちょっと待ちなさいよ!」
そそくさと立ち去ろうとする私の腕を小さな手がつかんだ。
「この某有名辻占い師が運勢を見てやってるって言ってんでしょ!」
「でも、占い師じゃなくて吸血鬼なんでしょ?」
「吸血鬼でかつ、占い師なの! あんた、私の運命操作の能力を知らないの?」
運命操作?
「さっさと人相と手を見せなさい!」
「はあ……」
強引に席に座らされる。
チビは私の顔を覗き込んできたと思うと、すぐに眉を思いっきりしかめた。
「うっわ、辛気臭い顔ねえ。こんなんじゃ、せっかくの幸運も夜逃げしちゃうわよ」
なんなのもう、人が気にしていることを。
腹たつなあ、このチビッコ。
「次は手相ね。まあ素晴らしいわ、何て幸運の持ち主なんでしょう!」
「どっちなのよ」
「喜びなさい、あんた今日は百年にあるかないかのラッキーデーよ。
ラッキカラーは緑色! そうたとえば……あの柳の木の葉みたいにね」
柳の木?
レミリアの視線は橋を渡った都と反対側の街路に向いている。
そこには街路樹として柳の木が植えられている。
「橋の上を通って行く地形は吉兆。出会いは木の下。時刻は正午ね。
そこであなたの運命が待っている」
そう言うとレミリアはパチリと片目を下ろしてウインクした。
「礼は言わなくていいわよ。橋姫も鬼女だって言うじゃない? 私、同じ『鬼』には優しいの」
それだけ言うと、チビッコは席から立ち上がり、都の方へ去って行った。
わけがわからない。いったいなんだったんだ。
言われたとおり、柳の木の下でしばらく待った。
一時間ほど経ったが、メインストリートから外れたこんな場所、誰も来るはずがない。
ばかみたいだ。
しなだれかかった柳の葉が風に揺れて、なんだか気味が悪い。
そんな場所に一人で立っているのだから、これじゃまるで幽霊みたいだ。
ひょっとして担がれたのだろうか。
しかし、柳の下で正午って、占いにしては妙に限定的なはっきりした指定だった。
おかしなこともいっていた。運命とか、吉兆とか。
……もしかして。
はっとなる。
私は木の下から都市とは正反対の方向を見た。
ここから見えるのは地底の深道に続く一本の通路。
丁度、そこを歩いてくる小さな人影が見えた。
遠くて分からないが、着ている物は地底の服ではない。
男だろうか女だろうか?
確かな足取りでその人は近づいてくる。
あ……
なにかが変わったのに私は気づいた。
世界が彩りを増して、空気が澄んで。
心の中で鐘が鳴る。寺院の重苦しい音ではない。それは軽くて高らかでまるで。
覚悟を決めて地底へ降りたものの、男は内心の緊張を抑えきれなかった。
歩を進めるために最悪の展開ばかり思い浮かんだ。
あれから何年も経ってしまっている。自分もあの時のままではない。
成長して、面立ちも変わった。
彼女は自分のことに気付いてくれるだろうか。
ちゃんと自分のことを覚えていてくれているだろうか?
妖怪の彼女は歳を取ることがないから、あのときのままずっと変わっていないのだろうか。
様々なことを考えながら、以前暮らしていた懐かしい場所に辿り着く。
だが深道の以前の住居は取り払われていて、そこに想い人の姿はなかった。
どこか別の場所へ移ってしまったのだろうか。
この場所で彼女に会えなかった場合、彼女を探す手がかりが一切ないことを知って、落胆する。
しばらくして、以前地下に都があると言われたことを思い出す。
そこへ行ってみよう思い立つ。移動したとすれば、そこだろうと考える。
都へ通じる、地底を掘って造られた長い街道を歩くと、しばらくして明るい大空洞へと出た。
どうやら向うに見える堀に囲まれた区画が、聞いていた地底の都のようだ。
その都へと通じる橋の前に、踏み固められた土の道が堀沿いに延びている。
そこには柳の木が植えられていて、その木の下をよく見ると。
一人の少女が立っていた。
金色のふさふさした髪。とがった耳。右手を胸の前で握っていて、その手が小刻みに震えている。
そして、こちらをまっすぐに見つめている、綺麗な緑色の目。
何度も思い出し、夢にまで見た姿だ。
いつも薄暗い洞窟の中にいたからはっきり見えなかったが、こんなにも綺麗で可愛らしかったのか。
動悸が激しくなる。
彼女は今、どんな気持ちで自分を見つめているのだろうか。
彼は今、どんな気持ちで自分を見ているのだろうか。
大きくなって、背も伸びて、顔も大人っぽくなっていたけど、一目でわかった。
彼女は怯えていた。本当に、本当に自分は受け入れてもらえるのだろうか。
今目の前の光景は幻なのではないだろうかとすら思った。
それでも二人の距離は縮まっていき、馬鹿みたいにお互いに見つめ合ったまま、手が届く距離まで近づく。
しばらく沈黙があって。
ぽつりぽつり何気ない会話のやりとりがあったあと、どっと感情が湧いてきて、思いのたけをまくしたてる。
会えなかった、離れ離れになっていた時のことを、話したくて聞きたくてたまらないから。
嬉しくて嬉しすぎて涙が湧いてくる。
それでも彼女は、その幸せな気持ちに実感がわかなくて、怖くなる。
時には、人間と妖怪が本当にうまくやっていけるのだろうかと不安になるかもしれない。
でもきっとそんな彼女の心配は杞憂に過ぎないだろう。
二人には会えなかった時間の分お互いに積み上げた想いの大きさがあるし、それに。
昔々、神様と呼ばれ今は妖怪と呼ばれるこの郷の守り人たちは、ご都合主義のハッピーエンドが大好きで、
できるかぎり世界をそんな適当でいい加減で、のんきな方向へと導きたがるものなのだから。
だからきっと、彼と彼女の未来をちゃんと祝福してくれるはず。
……そう、彼女はもう誰も妬ましく思う必要なんてないのですよ。
彼女は自分だけのものを手に入れたのですから。
さあ、もうパルパルは卒業ね。
これからあなたは陽のあたる道を歩くのだから。
私は橋の向こうで幸せそうな笑顔を振りまいているパルスィに向けて心の中でそう呟きます。
これで、全て良い方向におさまったというわけですね。
えっ? まだ解決していない問題があるような気がする?
たとえば、パルスィの穢れはどうなったのか? ちょこっと色目使っただけで死んでしまうのはあんまりじゃないだろうか、ですか。
ふふふ、穢れなんてそんなもの、はじめからあるわけないんですよ。
だって橋姫は、もともとの名前は瀬織津姫と言って、それは水や川の神様として神社にも祭られている、最も尊い女神の一人なんですから。
神様は二人の前途に何の心配もなくなるように、全部うまくやってくれたんです。
ほらほら、手を繋いで橋を渡ってくるカップルが見えますよ。
まったく幸せそうじゃありませんか。
嘆いてばっかりの心も食べがいがありますけど、見てるだけで恥ずかしくなっちゃうような仲の良い恋人達の心も、それはそれはおいしいんですよ。
さてと、私も幸せのおすそわけをもらいましょうかね。
今私は、橋のたもとにある灯篭の陰に隠れています。
ここからだと、橋を歩いてくる二人の様子が見えるので、通りがかった際にこっそりと心を読んで楽しもうという見積もりです。
なんですが、さっきからみんな私の陰に入ってきて、狭いです。みんなパーティーを抜け出して見物に。
そんなにたくさん入れませんよ! はみでて気づかれちゃいます。
「パルスィ、よかったなあ。幸せそう。よかったよかった」
ハンカチ片手に涙ぐみながらそう言うのはヤマメです。
彼女はパルスィの一番の友達ですからね。彼女もこれで安心でしょう。
紫さんや藍さんに慧音さんもにやにやしながら橋の上の二人の様子を見ます。あら、八坂様まで?
みんな出歯亀?
「あっ、そうださとりん」
「なんです?」
呼びかけてきたのはゆかりんさとりんで呼び合う仲になった紫さんです。
「そこの吸血鬼に報酬としてあなたの血を2リットルあげることになってるから。よろしくね」
「ああ、この子か。五百年ものの名酒って」
「は……なんでそんなことになってるんですかっ!? 2リットルもあげたらいくら妖怪でも貧血になります!」
「そうね、あんな無意味な小芝居やらされて神経をすり減らしたから、せめて五割増しぐらいにはしてもらうわよ」
「五割増し? 3リットル! やあ、死んじゃう!」
「ちょっと味見させてもらうわよ。あら、あんた肌きれいねえ。陽に当たらないせいかしら」
やだ、この子何やってるの? やめて、くすぐったいです。
それに、めちゃめちゃ無防備というかあけすけで心駄々洩れなんですけど。
ああ、何かとんでもないこと考えてるわ、この子。
それを恥じるどころか、むしろ見せつけて喜んでいる感じ。
ちょっと、押さないで、はみでる!
イタタタ、オンバシラと角と羽根と日傘がクアドラで当たって痛い!
……うわっ!
たえきれずに私はずっこけて地面に飛び出しました。
私の後ろに隠れていた皆も、ドミノ倒しのようにばたばたと前のめりに倒れて私の背中に乗っかります。
そのたびにむぎゅ、むぎゅ、と悲鳴を上げる私。つぶれる!
しばらくして打ちつけた顎を擦りながら顔を上げると、そこにはきょとんとしたパルスィの顔がありました。
「あら、パルスィ、ごきげんよう。オホホ」
「さとり……さん? こんなところで何を。あっ。さっきの占い師? ヤマメもいるの?」
パルスィの隣に居る男性の方が八坂様を見て、あれっ、神様じゃないですかと驚きの声を上げます。
「あっ……あー」
心を読むに、パルスィも男性もこの場にいる人物と、自分達の間に起こった出来事を結びつけようとしています。やばっ。
なんとかごまかそうと私は四苦八苦したあと、照れ笑いしながらパルスィの腕を握りました。
「そうだ、二人とも屋敷のパーティーに来てください! おいしい料理をたくさん作ったんですよ!」
そう、もう細かいことは言いっこなし!
なんといっても今日はお祝いの日ですからね。
何のお祝いかは……
みなさんもうご存知ですよね?
ここ? ここは旧地獄の深道。陽の光など差すことのない暗黒の地よ。
あんた、地上から落ちてきたのね。
ふふふ、可哀想にねえ。ここは一度落ちたら這い上がることのできない土地よ。
そうよ。あんたはもうおしまい、二度と地上へは帰れないわ。
おまけにあんたの仲間なんて誰もいないのよ。
あんたはここで一生独りで暮らすの。
でも私はあんたに同情なんてしない。
むしろ、妬ましいわ。
だってあんた、人間なんですもの。
しかも男。
だから、私があんたを怨む理由なんていくらでもあるのよ。
ふふふ、私が恐ろしい? 暗闇が恐ろしい? そりゃそうでしょうね。
臆病でみじめで弱っちくてみすぼらしいちっぽけな人間ですものね。
でもここに落ちた人間は、死ぬまで妖怪のおもちゃにされることになっている。
それが決まりなのよ、運命なの。
どう? なにをされるのか解らなくて、恐ろしいでしょう、怖いでしょう。
でも大丈夫。他の妖怪には渡さないから。
どういう意味かわからない? じゃあ教えてあげる。
あんたを拾ったのは私だから、あんたは死ぬまで私のおもちゃってことよ。
楽しみねえ、あんたを使ってどんな遊びができるかしら?
あんたも気づいている通り、私も妖怪よ。
女の声だからって、安心できないわよねえ。
妖怪の中には甘い声で誘惑して、近づいてきた人間をぱくりと食べてしまうものもいるしねえ。
うふふふ、私はどっちかしらねえ。
でも大丈夫よ。食べられるとしても、一瞬のことだから。
私の牙ってこう見えても鋭くて、硬い肉でも簡単に噛み切れるのよ。
ほら、こんなふうに、ね……
おきた?
ごめんごめん、脅かしすぎたわね。
まさかまた気を失うとは思わなかった。
大丈夫、大丈夫、さっきのは嘘。私は人間を食べる妖怪じゃないから。
まあお肉は好きだけど。もっともこの洞窟ではお肉なんてめったに手に入らないけどね。
おっとと、まだ起きちゃだめよ。
落ちてきて怪我をしていたからね。一応手当はしたんだけど。
体が弱っていると思うから。ちょっとそのまま待ってなさいな。
あんたが寝ている間に食事を作ったのよ。
病人でも食べれる薬膳粥よ。
安心しなさい。毒なんて入れてないわよ。
人間の食べれる材料を使ったから、お腹こわしたりしないわ。
まあ眠り薬を入れて、寝ている間にあんたを食人妖怪に売り飛ばすっていう算段もあるけどねえ。
だったらさっき気絶している間に売り飛ばせばよかった?
そういやそうね。
なんだ、意外と冷静じゃないの。
ま、冷めないうちに食べなさい。
どう、おいしい?
……そう。
むしゃむしゃ、がつがつ、ばくりばくり
本当においしそうに食べるのねえ。
あらあら、もう空になっちゃった。
人間のくせに、すごい食欲ねえ。
でも、あんたって、……ひどい人よね。
何も気づかないの? 鈍感。
わからないかしら……。
こんな陽の差さない洞窟の中に、植物なんてめったに生えないわ。
あんたのために私は自分の食べる分を我慢しているのに。
そんな私の前で……少しぐらい、気を配って残してくれたっていいのに……ひどいわ。
ああ、満腹になって幸せそうなあんたが妬ましいわ。
うそうそ。冗談よ。つい言わなきゃいけないような気がして。おやくそくってやつ?
私はさっきあんたが寝ている間に食べたから大丈夫よ。おかわりもあるし。気にせず召し上がれ。
ここ、暗いけどなぜか作物は一杯取れるのよ。
この間だってミラクルフルーツが豊作で大変だったんだから。
食べ終わったらまた休みなさいな。
あんた、もう地上に帰れないから行く場所がないでしょう。
本当に出られないのかって?
うーん、悪いけど私も地上に出る出口は知らないの。
ここは旧地獄と言って、ずっと昔に地上から切り離された場所だから。
下の方には妖怪達の都があるけど、人間は一人も住んでいないわ。
まあこの先どうするか知らないけど、この洞窟の中なら嫌になるほど広いから、好きに暮らしてていいわよ。
怪我が治るまでしばらくいなさいな。
あっ、名前?
私は水橋パルスィよ。
『なにじん』なのかって? 私も知らないわ。
日本生まれの妖怪だとは思うんだけど。
日本人にしては自分でも変な名前だと思うけど、親が付けてくれた名前だから仕方ないわね。
あら、もう起き上がれるのね。この分なら包帯を取っても大丈夫でしょう。
来なさいな。ほら、そこに座って。
うん、もう傷は塞がってるわね。
人間の手当てなんてしたことなかったから、一時はどうなることかと思ったけど。
ほら、人間て妖怪と違ってちょっとした怪我でもすぐ死んじゃったりするでしょう?
……あんた、なんで赤くなってるの?
よし、もう終わったわ。じゃあ服を着替えなさい。あんたの寝巻きは洗濯するからね。
えっ? 仕事を手伝いたい?
病み上がりなんだからもう少し休んでなさいな。
そう? そこまで言うんだったら手伝ってもらおうかしら。
この桶に一杯水を汲んで来て。
井戸は洞窟の奥にあるわ。ちょっと暗いから気をつけてね。
なに? 井戸で水を汲んだら女の子が出てきていきなり弾をぶつけられた?
ああ、それはキスメね。このあたりに住んでいる釣瓶落としの妖怪よ。
きっと入浴中だったのね……裸を見られたから怒ったんだわ……パルパル、なんてね。
意味が分からない? 別にいいのよ、分からなくても。
あれ? これ、血?
なんだ、また怪我しちゃったの? しょうの無い人ね、あんたは。
キスメのやつ、よっぽどあわてて手加減できなかったのね。
みせなさいな。ほら、傷口洗ったげるから。
夕ごはん出来たわよ。
まあ麦粥しかないけどね。
洞窟の中は養分の関係で麦しか育たないの。
地霊殿の連中は米のご飯を毎日食べているって言うのにねえ。
まったく妬ましいわねえ。
え、これで十分なの?
ふうん。あんたって、若いのにつつましいのねえ。
ああ、地霊殿? 地霊殿っていうのはこの下の旧都にあるお屋敷の名前よ。
都を治めてる妖怪が住んでるおっきな屋敷。
ああ、あいつらか。ううん、あいつらも知らないと思うわ。
地下の妖怪は封印されてるの。
それでなくても、ずっと前から地上に出て行かない約束を結んでいるから、この先もずっと地上への道が開かれることはないと思うわ。
えっ? 何でいつも妬ましい妬ましい言ってるのかって?
だって本当に妬ましいんだもの。
みんな、私にないものを持ったやつらばっかり。
え?
……ああ、あれね。最初にあんたのことを怨んでるって言ったのはね、あんたが人間の男だからよ。
よくわからない?
私はね、橋姫っていう種族なの。
私のお母さんは、人間の男に惚れて恋人になったんだけどね、浮気されちゃって、そのあげくに捨てられちゃったんだって。
それで怨みを持ったまま橋から川に飛び込んで自殺したの。
でも未練がありすぎて死にきれなかったから、化けて出て妖怪になったんだってさ。
本当のことかどうか知らないけど。
私は生れてからずっとそれを聞かされて来たわ。
いつかはお前も立派な妖怪になって、私を裏切った人間の男たちに復讐するんだって。
そればっかり言ってた。
と言っても今じゃそんなことどうでもいいけどね。
お母さんも随分前にどこかに行ったっきり帰ってこないし。
娘の私にはお母さんの恨みなんて実際どうでもいいかも。
親子二代掛けた復讐だなんて、バカみたい。
だけど、私たちが地上に暮らす人間を妬み続けていたのはほんとよ。
だって、人間達は私たちにないものを一杯持ってるもの。
地上の光が妬ましい、巡る風が妬ましい。いつもそう思って来たわ。
暖かい地上を与えられて、美しい景色と美味しい食べ物と一緒に、森の緑や青い空や雲を楽しみながら暮らしていける。
どうして人間だけがあんなにめぐまれているんだろうってね。そう思ってた。
人間だけずるいじゃない。私たち妖怪にあるのは、こんなさびしい暗がりだけだしね。
特にここは、いつも風が吹いて来て気持ちの悪い音が鳴るから。
じゃあどうして下の都に行かないのか?
行きたくないの。下には嫌なやつがいるし。
昔、下でひどい目にあったから……だからここで一人で暮らしているの。
ああ、気にしなくていいわよ。
別に一人が好きなわけじゃなくて、こんなさびしい所にやってくる物好きな妖怪があんまりいないだけよ。
あんた一人増えたところで食い扶持に困るわけでもなし。
飽きるまで居るといいわ。
もちろん、ここが気に食わないなら下の都でも何でも好きなところへ行けばいいわ。
え、ここにいる?
そう、
別に、
いいけどね……
最近すきま風が吹いてきて寒いわん。
ね、そんなところにいないで、もうちょっとこっちに来ない?
ほら、暖炉に当たるといいわ。毛布も使う?
ねえ、あんたの手って冷たいわね。凍ってるみたい。私の方が体温高いんじゃないかしら。
人間のくせに妖怪より体温が低いなんてちょっと変よ。
あれ? ねえ、あんた、なんだか顔色が悪いわよ?
ちょ、ちょっとふらついてるわよ……寝ちゃったの? ねえ、どうしたの……ああっ!
ど、どうしたの? なにこれ、凄い熱……風邪、じゃないわよね。
こんなのみたことない。
どうしよう……私、人間の病気に詳しくないから。
人間の病気にも詳しい友達に相談してくる……すぐ戻ってくるから待っててね!
☆
ねずみ穴にしつらえた糸のハンモックに寝ころびながら本を読んでいると、入口の方でがさがさと音がした。
次いでばたんとドアが勢いよく開かれる。ノックもなしに飛び込んできたのは、久方ぶりに見る友人の顔だった。
「おやパルスィじゃないかい。最近顔を見なかったが、私のこと覚えててくれたのかい?」
「ヤマメ、あなたの力を貸してほしいの!」
「血相変えてどうしたんだ?」
「とにかく着いてきて! お願い」
息せき切らしながらパルスィは私の腕を掴んだ。
そのまま私はパルスィに引きずられて、大洞穴の中にある彼女の住居に連れてこられた。
彼女の家に着いて、以前とは違うところに気づいた。
驚くほど部屋の中が片付いている。
パルスィはあんまり綺麗好きじゃなかったはずだけど……これはどうしたことかな。
なんて考えていたら、寝室の一つに案内される。
部屋の隅に置かれたベッドには、みかけパルスィと同じぐらいの年頃の、人間の男の子が寝かされていた。
「この子は?」
「洞窟の底に落ちていたの。
拾って置いてやってたんだけど……急に具合が悪くなって。
それであなたに診てもらいたくて」
おや? 言葉づかいはぶっきらぼうだけど、言い方の節々に今まで感じたことのない温かみを感じる。
パルスィはこれまで人間のことは妬みや恨みを当てる対象としてしか見てこなかったはず、じゃなかったか。
二人の間にどんなことがあったのかと想像しながら、私は男の子の様子を診てやった。
私ら土蜘蛛の種族は昔から器用で、医療の心得も少しあるのだ。
「どうかしら……」
脈をとり終わると、見るからに心配そうなパルスィに向きなおって私は告げた。
「ううん。これは洞窟の毒気にやられたんだね」
「えっ!?」
「この深道は地獄からやってくる風が渦巻いているからね……昔の怨霊が混じった空気は人間の体に良くない。
きっと徐々に生気を吸われていたんだろう」
「そんな……そんな様子はちっともなかったわ」
「たぶん、がまんして表に出さないようにしてたんだろう。
一緒に暮らしているパルスィに心配かけないようにってことじゃないかな。
それじゃなくても、太陽の光に当たらないで生活するのは人間の体に良くない。
長い間陽の光に当たらないと、人間の体は骨がもろくなってしまうと聞いたことがある。
どれくらいの間、この子と一緒にいたんだい?」
「……」
「ねえ、パルスィと会ったのは半年ぶりだよね。もしかしてその間ずっと」
「……」
「どうして彼を地上に帰してあげなかったんだい? お前さんならできたろうに。
それに私に言いに来れば、すぐに穴を掘ってあげたのに。
私にとっちゃそんなの簡単なことだって知ってるでしょ?」
「……」
パルスィはすっかりしょげかえってしまっていた。
こんなパルスィの顔を見るのは始めてだ。
男の子がこんな風になってしまったのは自分のせいだと考えて、落ち込んでいるのだろう。可哀想に。
とにかく男の子を休ませようと思い、寝室のドアを閉じてパルスィと二人だけで居間に入る。
「パルスィ、あの子を引きとめておきたかったんだね。パルスィ、あの子のことが好きになったの?」
「う、ううん。違うと思う。だけどその」
「一緒にいると、なんだか元気な気分になれたの。
あの子が居るだけで、こんな地底の暗い場所でも、そこだけ光が注いだように明るく見えて、暖かかった」
パルスィは気付いていないんだ、生まれてからずっとこんな暗い洞窟の奥底にいて、そんなこと今まで経験したことがなかったから。
今のパルスィの気持ち、それが恋してるってことなんだって。
「ねえ、パルスィ。あなたが本当にこの子のことを大切に思ってるんだったら。
あの子のことを助けたいのだったら、すぐに地上に送り返してあげるしかないわ。
このままだと、あの子死ぬわよ」
「死ぬ……」
死、という言葉を意識してか、元々青白かったパルスィの顔がますます蒼くなった。
「それも一週間と経たないうちに」
「で、でも。送り返しちゃったら」
「もう二度と戻ってこないでしょうね。穴はふさがないと、また怨霊が噴き出していってしまうし。
地底と地上の行き来は別に禁じられているわけではないけど、どっちにしろ人間は地底で暮らすのに向いていないわ」
「……」
人間には人間の世界がある。妖怪と人間は違うのだ。
パルスィには酷だけど、早目にあきらめたほうがいいと私は暗に示すことにしたのだ。
☆
男の子を地上に送り返して以来、パルスィは日に日に暗くなっていった。
もともとパルスィは人づきあいの薄い方で、家にこもっているのが多い子だったけど、最近はちょっと異常だ。
私にも責任があるだけに、とても気の毒に思う。
最近起こった地震の影響で地上への道が開いたとき、一時的に明るくなったが、あの騒がしい連中が去って後はまた元に戻った。
それどころか、連中の一人に傷つくことを言われたらしく、それで余計に落ち込んでしまった。
「ねえ、もう地上と自由に行き来できるようになったんだから、会いに行ってみたら? 向こうも待ってるかもしれないよ」
「そんなの無理よ。あれから何年も経っているし。きっとあの人も私のことなんて忘れちゃってるわ」
私が励ましの言葉をかけても、彼女は頑なな態度で希望を持とうとしない。
「今じゃ他の女の所に行ってるかも。それこそ伝承にある宇治の橋姫みたいに。
私みたいに醜い妖怪のことなんて忘れちゃってて……
気立てのよいちゃんとした人間のお似合いの彼女のところに行って、それで……幸せな家庭を」
宇治の橋姫はとても嫉妬深くて、恋人の心変わりに嫉妬し、男と相手を怨んで丑の刻まいりをし、怨みの力で鬼になったと言う。
今のパルスィはちょっとおかしいと思う。
橋姫だからっていう理由で、悪い想像ばかりして、自分が幸せになれないと思い込んでしまっているのだ。
心を閉ざして、自分の中に引きこもってしまっている。
このままではよくない。
あんなに精神を病んだままだと、パルスィは病気になってしまう。
なんとかしないと……
☆
ヤマメは私を励ますために色々言ってくるけど、私には信じられなかった。
私には良い未来像が想像できないのだ。
いや、私は怖いだけなのかもしれない。
本当は彼に会いに行きたい。会って話がしたい。
できるなら、彼の近くに住んで、それでもっと仲良くなって。
そんなのみんな妄想だ。
あっちは人間。こっちは生まれつき妖怪。
人間と妖怪の間の悲恋なんて腐るほど聞いてきた。
私のお母さんだって幸せになれなかった。
きっと私も、のめりこんだらお母さんと同じ目にあう……
彼を怨み、誹り、妬むようになる……それぐらいならいっそのこと……
そんな風に考えて深道の中を歩いていると、暗がりの向うに桃色の奇妙な光が見えた。
眼を見開く。
体が震える。
足が竦んで動かない。
ああ、そんな。
「な、なんであんたがここに」
嫌な、大嫌いな奴が来た。
こいつが深道に来ることなんて、これまでなかったのに。
なんで急に現れたの!? に、逃げなければ。
そんな私の恐怖を見越すように、あの声がまた聞こえた。
ふふふ、きれいな緑色の光が見えたから、あなただと思ったわ。
直接頭の中にひびいてきた。
「噂を聞いて来てみれば。聞いた通りね。
またこんなに暗く歪んだ心を貯め込んで。うふふ、あなたの歪んだ心はとてもおいしいの」
そいつは嬉しそうに厭らしい笑みを浮かべながら、言った。
私は心を閉ざした弱い妹とは違う。
我々さとりは、心の機微を読み取ってそれを喰らうのです。
さあ、私にあなたの全てを見せて!
「やめて、やめて、私の心のなかを読まないで!」
だめだ、逃げられない!
また昔みたいに、心をなめつくされてしまう!
もう遅いわよ。
もうあなたの心を捉えたから!
さあ聞かせて。あなたが本当はどう思っているのか。
どんな想いを抱いてこの暗がりで生きてきたのか……
最初は……
最初は人間だから、やっぱり妬ましいと思った。
人間の男なんて誰も信じられない、心を許したりしたら、いつか裏切られるんだって。
人間の男なんて、後腐れのないように怪物に食わしてしまえばいいんだ、気絶している彼の顔を見てそう考えた。
でも、なぜだかそうはできなくて。
それで、なしくずしに彼と一緒に暮らしているうちに……
自分の中にやり場のない、もやもやした気持ちが溜まっていくのがわかった。
それが胸のなかを満たすと、いてもたってもいられなくなって。切なくなって。
これが、これが恋だったのね。
私そんなこと初めてだったから、気付かなかった。
妬ましい妬ましい、それが私の口癖だったけど。
彼が一緒にいるときは、誰も妬む必要なんてなかった。
彼が一緒にいてくれるだけで、幸せで満ち足りた気分になれた。
ああ、どうしてお母さんは私に恋なんてものについて教えたんだろう。
そんなもの知らなければ、こんな気持ちにならずにすんだのに。
ううん、秘密にしていたけど、私は本当は、お母さんの話を聞いて憧れていたんだ。
そんなにもお母さんが夢中になった恋ってどんなものなんだろうって。
彼が落ちてきたとき、これから何か素晴らしいことが始まるんだ、そんな風に考えた。
実際一緒に暮らしてみると、どんどん好きになっていって。
普通に生活しているだけなのに、特別なことなんて何もなかったのに。
私、いっちょうまえに彼好みの女の子になりたいなんて願った。
私はお母さんとは違う。私はうまくできる。
一生懸命彼に尽くせば、彼ももっと私のことを好きになってくれて、ずっとずっと幸せになれる。
そんな妄想をずっと抱いていた……。
でも無理。私はけっきょく、穢れた妖怪なんですもの。
橋姫は妖怪の中でも最も下賤な種族。地上から来た妖怪もそう言っていた。
自分でもそう思う。
ああ、私は全てを妬んで生きてきた、汚くてみじめで弱くて、ちっぽけな妖怪なんです。
私はもう何も望むことがありません。私には人を愛する資格なんてないんです。
だから、放っておいてください。
私にかかわると、不幸になるだけです。
げんに、私は彼を不幸にしてしまった。
私の我がままで引きとめたから、彼は危うく死ぬところだった。
やっぱり私は呪われているんだ。他人を不幸にするだけなんだ。
あの妖怪の言ったとおりだった。
ああ、どうか。どうか私になんてかまわずに、幸せになってください。
元々人間と妖怪なんて不釣り合いだったのだから……
☆
「どうでした?」
パルスィを眠らせたあと、私はヤマメの所に戻ってきました。
「相当まいっていたわ。大分抱え込んでいたみたいね」
溜まっていたパルスィの負の感情は一通り吸い出してきました。
これで彼女もしばらくは安楽でいられるでしょう。
「私も、地上への道が開いたんだから、会いにいけばいいって言ったんですけどね。
自分なんて会っても相手にしてもらえないとか、もう自分のことなんて忘れてるとか、
ネガティブな返事ばっかり返ってくるんです」
「あの子は母親の運命と自分を重ねているのでしょうね。
自分は橋姫だから、愛されるはずがないと思い込んでいる」
「確かに相手の方が今どうなっているかわかりませんけど……
でもこのままじゃパルスィに良くないと思うんです。なにか、大変なことになってしまいそうで」
確かにそうです。
精神体である妖怪は、精神状態に影響を受けやすいのです。
あのように病んだ心を抱えたままでは、妖怪は弱り切ってしまう。
しまいには己の存在意義を自分で否定して、消滅してしまうかもしれません。
私もなんとかしてあげたいのですが……
☆
霊夢を地底に送ったときに、地霊殿という屋敷に住む妖怪と知り合いになった。
なかなか話せる妖怪で、何度か遊びにお邪魔し、打ち解けた今ではゆかりんさとりんで呼び合うほどの仲になっている。
そのさとりちゃんの所にまた猫を遊ばせに来たついでにお茶をご馳走になった。
茶飲み話にさとりちゃんが話題に出したのは、パルスィとかいう地獄の深道でうろちょろしている地味な妖怪のことだった。
あんまり興味はないが、暇なので話を聞いてみた。
どうもパルスィは人間の男に恋してしまったようである。恋煩いで体調まで崩してしまっているとか。
「ふうん。そんなこともあるのねえ」
「ですからとても不憫で。可哀想なんですよ」
「でもその二人を結びつけるのは難しいわねえ。
男の方は地底にいたら死んじゃうし、パルスィが里へ出て行けばいいんだけど、その気はないんでしょ?
だいいちパルスィが言ったとおり、もう里で新しい生活になじんじゃってるかもしれないわ。
あの里は婚期が早いから、もう縁談の一つや二つきちゃってるかも」
「ですから紫さん、ちょっと人里まで行って様子を見てきてくれませんか?」
耳をほじりながら返答していると、さとりちゃんが意外な申し込みをしてきた。
「ええー? なんで私がそんなことしなくちゃいけないの」
面倒だからやりたくない。
「責任の一端はあなたにもあるんですよ」
「ほえ?」
「あなた、この間巫女を差し向けた時に、パルスィのことを下賤な妖怪って言ったらしいじゃないですか」
「言ったかしらそんなこと」
「それであの子すっかり自信をなくしちゃって、落ち込んじゃってるんですよ」
「ちょっと待ってよ、それ言ったの確か萃香だわ。私じゃないって」
「地底の連中は呪われた忌わしい力を持つやつらだから、出会い頭に倒しなさいとか巫女に吹き込んでたじゃないですか」
「だってあれは、間欠泉から怨霊が噴き出してきてたから、慌てていて」
「いいんですかー? あなたが巫女さんに隠してること全部ばらしちゃおっかしら」
「へっ」
「さっきちょっと心を読ませてもらいましたよ。油断してましたね。
白玉楼の桜が咲いたときに、本当はあなたがどうしてたとか……霊夢のことどう思ってるとか。
まあ、いろいろと」
「むはー……むむむ」
確かにすっかり気を抜いていた。
色々と恥ずかしい想像をしていたことを思い出し、慌てて紅茶のカップを置いて瞑目し、無念無想を試みる。
「いまさら心を閉ざしても無駄ですよ。必要なことは全部わかりましたから」
「むぐう」
「ねえ、あなただって幻想郷は幸せな場所であってほしいでしょう? 妖怪と人間が種族の違いを乗り越えて愛し合う。
素敵じゃないですか。そんな素敵なカップルのキューピッド役、やってみたいと思いません?」
「……ふーむ。様子を見てくるだけよ。それ以外はやらないから。
私だって忙しいんですからね。それから、霊夢には内緒にしといてよ」
「はい。じゃあよろしくお願いしますね」
「といいますか、あなたがご自分で人里まで行けばよろしいんじゃなくて?」
「私にはパルスィの心のケアという大切な仕事があります。殿方を見つける役は紫さんに。
人里に行くんだったら紫さんの方が私より色々と便利でしょう?」
「なんで私、あなたにアゴで使われてるのかしら……」
☆
ああ、あいつ? 何かガキの頃事故に会って行方不明になったんです。
なんでもその間、地底に行っていたとかで。そこで天女を見たとか言ってるんですよ。
たぶん地底で会った妖怪のことを言ってるんだと思うんですけど。
でも幻想郷の地下っていうと、聞いた限りじゃ昔の地獄だって言うじゃないですか。
そんなとこで神隠しに会っていたから、ちょっとおかしくなっちゃったのかな。
けっこう良いトコのボンボンだけど、気さくでいい奴だったんですけどね。
見ればわかるとおり、今じゃすっかり落ち込んで暗くなっちゃって。
まるで明日世界が終わってしまうかも、みたいな表情でしょ?
よっぽどその妖怪のことが忘れられないんですね。
なんとかしてやりたいとは思うんですけど、妖怪がらみのことでしょう?
えっ? ああ、そうか慧音さんに。
確かに慧音さんなら妖怪がらみの問題でも何か良い方法を知っているかも。
そうか、慧音さんに相談するように、それとなく伝えてやればいいかもしれませんね。
☆
君の噂は聞いているよ。
妖怪に恋してしまった男。里中の噂になっている。
ときに神社で起こった事件のこと、聞いているかね?
先ごろの地震によって、閉ざされていた地底への道が開いた。
そう、まさしく君が幼少のころ行方不明になっていたときに行っていた地底の穴だ。
君の想い人もそこにいるだろう。
だが勇んで神社へ向かうのは早計だと思う。
普通の人間が地底へ行くのは危険だ。
君がそうだったように、地底の毒気にあてられると人間は長く生きられない。
しかし今ならひとつ方法がないでもない。
妖怪の山の頂上に引っ越してきた神の話を聞いているかい?
かなり力が強く、御利益のある神だ。
じかに神社に詣でれば、彼の神ももしかしたら君の願いを聞いてくれるかもしれない。
かくして男は山へと旅立った。
男の頭にあるのは迷妄に近い狂信。
道は険しいが、愛が本物ならどんな障害も乗り越えられるだろうとかたくなに信じる、時代遅れの失われたセンチメンタリズムだ。
しかし人は時にそんな愚にもつかない信念のために命を掛けるものなのだ。
いとし恋し、美しき乙女のためとあらば。
千里の道もなんのその、弾幕の雨の中だろうと、地獄の針の山上だろうと、どこへなりとも行くであろう。
それが男という生き物だ。
かつてイザナギが、死んだ妻のイザナミの面影を忘れられず、伴侶恋しさに冥界の深道を降りて行ったかのように。
愛しい女性のために命を賭す、それは神話の時代から保ち続ける男のサガなのだ。
<山麓の渓流>
「おや? 人間がこの山に来るなんて珍しいな。だけどこれ以上山に入ると危険だよ。
悪いことは言わない、さっさと里へ帰った帰った。
なに? どうしても進まなきゃいけない理由があるって言うのかい。
残念だねえ、仕方がない、これ以上山へ入るというのならその本気、試させて……
あれ、なにこれ? もきゅう!?」
<九天の滝>
「侵入者かと思って出向いてみたら、なんと人間か。それもあまり力を持ってそうもない。
よくここまでこれたもんだ。だけどここから先は通さないよ。
気の毒だけど、大天狗様は人間を通すなと言ってるんだ。
この間巫女と魔法使いに突破されて以来ピリピリしていて……はぎゅう」
自分の前に立ちふさがる手ごわそうな数匹の妖怪。
だがその妖怪達は皆、前口上の途中で空に開いた奇妙な穴に吸い込まれてしまった。
なにごとが起こったのかわけがわからなかったが、これぞ僥倖とばかりに男は先へと進む。
<こちらスキマ内部>
「あれ? ココどこ?」
「やあ、椛じゃないか。元気?」
「ハレ? にとりじゃない。なんで私たち縛られてるの?」
「藍、動けないようにきつく縛っておいてよ」
「アイタタタ、アイタタタ、ちょっと、コレはどういうことなんですか!?」
「じっとしてなさい」
「縄をほどいてください! 警備に戻らないと」
「戻らなくていいのよ。あの人間の男は怪しい奴じゃないから」
「滝まで登ってこれるほど力のある人間は怪しい奴です。
といってもあんまり力がありそうにも見えなかったな?
あ、八雲さんがあいつを助けていたんですね! どうりで」
「あの子は頂上へ行って神様に会わなきゃいけないの。
アンタらみたいな中途半端に手ごわいのが途中を塞いでたら、あの子頂上へたどりつけないじゃないの」
「仕方ありません。それが私達の仕事なんですから」
「そうね。お仕事ご苦労様。
だから仕事熱心で空気の読めない分からずやのあんたらには事が済むまでここでじっとしていてもらうわ」
「私は人間と盟友だから別に喧嘩するつもりはないんですけど……」
「こら、にとり裏切り者。山へ不審なやつを入れるなって上の方からも言われてるでしょ!」
「じゃあ、藍。この子たちの相手はまかせたわよ」
「はい。かた結びにしましたから私もほどけません」
<守矢神社へようこそ>
人間がこの山の上まで上ってくるなんて、よほどの覚悟だったんだろうね。
天狗や河童にいじめられただろうに、それでもなんとかかんとか辿りつくとは。見上げたもんだよ。
だけどね、それとこれとは事情が違う。
今お前は、妖怪の少女のことを話した。
お前はその妖怪の娘に心底惚れ上げていると言う。
あまつさえ一生その娘と添い遂げたいから、彼女と同じ妖怪にしてくれだって?
ばかなことを。正気の沙汰じゃないよ。人間が妖怪にだなんて、簡単になれるもんじゃない。
それにいくら最近地底への道が開いたからって、その娘がお前を忘れずに想っているという保証はないじゃないか。
それなのになんだい、妖怪にしてくれだなんて。向こう見ずにも程がある。
なに? あの子はそんなこじゃないだって。
ばかをお言い。笑わせるよ。
話を聞いた限りではその娘、橋姫だって言うじゃないか。
お前はいったい橋姫が何だか知っているのか?
知ってるだって? いいや、上っ面だけ知っていて中身を知らないんだよ。
いいかい、橋姫ってのはね。謂れのない妬みを他者に向けてばかりの、呪われた不浄の妖怪なんだ。
心根のいやしい、みじめな、あやかしなんだよ。
あの子に限ってそんなことはないだって? ばか、そりゃ男が惚れた女に抱く幻想さ。
種族の壁っていうのはお前みたいなあまちゃんが考えてるよりよっぽど厚いんだ。
そういう風に作ったうちの一人が言うんだから間違いない。
妖怪ってものはね、昔から人間の害になって、それで人間を戒める役目をもっている。
そういう存在なんだ。
橋姫は生まれながらに人間を害する存在なのさ。
だからそんなのに惚れこんで、魂を寄せあうなんてのはもともとあっちゃいけないことなんだ。
そんなのに人間が近づくと、穢れが付いちまうようできてる。
現にお前の魂は、妖怪のそばに寄っていたことによって半分穢れかかっている。
もしこれ以上あんな妖怪に近づいたら、しまいには神々から見放されて、死んだ後に極楽浄土へ行くことはできなくなり、永遠に地底を彷徨うことになるだろうさ。
なんだって? それでもよいだって?
まったく思いつめた奴だねえ。
まあそこまで言うなら、願いを聞いてやらんこともない。
よろしい。私も神のはしくれだ。はっきりいって度し難い阿呆だと思うわけだけどさ、仕方ない。
あんたの心意気に打たれたよ。ひとつ手を打ってみようじゃないか。
そうさね、私の神様仲間に、水の神でタカオカミノカミというのがいる。
あいつに話を通しましょう。
あの神は人間の願い聞き届ける心願成就の神でもあるから、きっとお前の恋慕をかなえてくれるだろう。
準備に時間がかかる。決心が変わらなければ、一週間後、またこの神社に来るといい――
――やあ、本当に来たね。
タカオカミノカミに話したよ。
お前を妖怪にすることはできないが、特別な条件で仙籍に入れて、長命にしてくれるそうだ。
だけど普通の仙人になるわけじゃない。
忘れるんじゃないよ。おまえに与えたのはかりそめの命だ。
その命は、おまえの一途な思いに縛られている。
つまり、条件と言うのはそれだよ。
お前の気持ちが揺るがない限り、お前は愛しい相手とともにいられるだろう。
仙人としての命によって、地底の毒気の影響を受けることもない。
だが、少しでもお前の気持ちが他を向いたりしたら、穢れはまた戻り、たちどころにお前の命を食らいつくす――
……よっ、あんたか。道中のこと、境内から見てたよ。
柄にも合わず面倒なことやってるじゃないかい。今回はご都合主義の神様役ってわけか。
人間のことをこんなに心配してあれこれ手を焼いてやるなんて、あんたも可愛いとこあるねえ。
違うわよ。私はさとりんに弱みを握られて仕方なく。
ふふ、別にいいけどね。
パルスィといったかい? 果報者だね、その子。
子供のころ一度会ったきりなのに、ずっと途切れることなく想ってきたんだね。
あいつねえ、私に言ったんだよ。
パルスィと一緒になれるんだったら、他のどんな物を失ってもかまわない。
人間としての成功も幸せもいらない。
暖かい陽の光も、巡る風も、パルスィと一緒にいられないんだったら何の意味もない。
もし彼女が見られるのがいやだって言うんなら、何も見えなくなっても構わないだなんて。
まったく泣かせるじゃないかい。
あれだけ一途な人間はいまどき珍しいわね。
きっとあいつなら、その妖怪のことを裏切ることなんて、ないだろうよ。
さてと、あと一仕事のこっているのか……
もう、なんで私だけこんなに働かなきゃいけないの!?
<とある紅いお屋敷>
「いきなり部屋に入って来たかと思えば、お前はなにを言い出すのよ。
なんで私がそんなことしなくちゃいけないの?」
「ただとは言わん。五百年ものの処女の生血2リットルでどうだ!」
「ふざけるな、どのつらさげて処女だっ! 恥を知れ、しかるべき後、死ね」
「ちょ、私じゃないわよ!」
「なにィ、うーん。ねえ、咲夜。五百年ものの処女の生血って美味しいのかしら。熟成してるとか?」
「なんだか蜘蛛の巣が生えてそうですねえ」
「というか私に対するフォローはなしなの? 先入観で考えないでよ! 私は乙女!」
「それはどうでもいいけど。ふーむ、五百年ものかあ。ちょっと興味あるな……。しかし」
「ねえ、お願いよ。人助けなんだからさ」
「なんでそんなに肩入れするの? どうみても親切に興味の無さそうなあんたが」
「それは……恋人を思う美しい想いに私の乙女心が揺り動かされたのです」
「際限なく怪しいわ」
☆
「と、いうことになったから」
「そこまでしてくれたんですか」
「何てお優しい……」
私とヤマメは目をうるわせながら紫さんを見つめます。
私がお願いしたのは、殿方の様子を見てきていただくことだけなのに、紫さんはほとんどお膳立てしてくれたのです。
「か、勘違いしないで。私は自分が見たいものを見るために、やりたいことをやっただけだから」
そう言う紫さんの心は読めませんでした。
心を閉ざしているようです。
きっと読まれたら恥ずかしいことを考えているからですね。
みんなに内緒で世界を良い方に導く仕事をする。
本当に賢者に相応しい仕事だと思います。
「あ、それから。明日この屋敷でパーティーを開くことにしたから、準備お願いね。
主だった知り合いは皆呼んでおいたわよ」
「急ですね!? って勝手に決めないで下さいよ」
「よし、あなたのペットを貸して。飾り付けとか料理の用意は私がしておくわ。
あなたは最後の仕上げがあるでしょ?」
「え?」
☆
ヤマメの勧めもあり、私は地底の深道から都の入口がある橋の袂へと引っ越した。
地底の妖怪たちが言っていたとおり、もう一つの太陽ができたせいで確かに地底は明るくなったようだ。
それでも私の気分が晴れるわけではない。
私は結局都市を取り巻く堀の側に住居を構えて、都の中には入らなかった。
ふだんは橋の下の暗がりで座り、ぼっとしている。
あるいは橋の中頃に立って、そこからやはり何をするでもなく堀の水を眺める。
母が飛び込んだという川は、こんな様子だったのだろうか、などと考えるのだ。
いつも通り橋の下でぼっとしていると、橋の上からがやがやと音がする。
雑踏の中に聴き覚えのある声を見つけた。
確か以前地上から来た連中だ。
そういえば、今日は地霊殿でパーティーがあるらしい。
昨日ヤマメがそんなことを言っていたのを思い出す。
なにかのお祝いをやっているらしいが、私は興味がない。
無視して橋の下でじっとしている。
すると、目に障る桃色の光が視界の端に映った。
またあいつがやってきたのだ。
さとりだ。
さとりはわざわざ橋の下までやって来て私の前に立つと、こんにちはと挨拶した。
聞けば私をパーティーに誘うという名目で来たらしい。
もっともこいつも、私がそんなのに参加する気がないことは最初から知っているだろう。
事の次第はもうヤマメから聞いていた。
このさとりという女はずいぶんなお節介焼きで、私が鬱な心を貯め込んで病んでしまわないように、時々心の中の病んだ部分を吸い取っていたらしい。
私が今も暗く淀んだ心を貯め込んでいるのを察知すると、また私の心を触ろうとしてきた。
以前は心を覘かれるのに強い抵抗を感じていた。
今も嫌なものは嫌だが、もうどうでもよくなった。逃げる気力も起きない。
何も考えずにじっとしていると、さとりは私の心をやわらかく撫でた後、急になじりの言葉を入れてきた。
……何よ昼間っから橋の下何かに隠れて。おこものマネ?
地底もこんなに明るくなったというのに変わらずあなたは暗がりにいる。
隠しても私にはわかる。
怖がっているのね。あなたはおびえているんだわ。陽の光の下に出ることを。
結果を見ることを。
でもね、パルスィ。
白日の下を歩くことを恐れている臆病ものには、恋をする資格なんてもともとないのよ。
さとりは私をなじるだけなじって去って行った。
言われていることはその通りなので反論の余地はない。
さとりの態度は、わざと厳しい言葉を投げかけているように思えた。
発破をかけて、元気づけてくれようという気なのだろうか。
今の私にはそういう心遣いすら鬱陶しかったが、ほんの少しだけ癪に障る気持ちもわいてきた。
ふらっと、橋の下を出て堀沿いを進み、橋の上から堀の水を眺める。
最初の橋姫はいったいどんな気持ちでこの水に飛び込んだのだろうか。
私も橋姫に生まれてきたけど、だれもかれもうらやんで妬んで、生きていかなければならない一生なんてそんなの嫌だった。
だけどどうしようもないことはあるのだ。
他の人の持っていない、自分だけのものがあれば、きっと妬む必要なんてないんだろうと思う。
以前の私は、それを手に入れたと思っていた。
自分のことだけを大切に想ってくれている人がいると思っていた。
一時でも最高の時間を体験できたのだから、それで満足するべきなのだろう。
世の中に平等なんてないから、誰も彼もが最高の幸せを掴めるわけじゃない。
私の悩みが贅沢なものであることも、ずっと前から気づいていた。
じっさい好きな人と一緒になれる人間なんて、ほんの一握りなんだから。
「もしもしそこのお嬢さん」
いきなり後ろから声がした。
振り向く。
「私ですか? 私はしがない辻占いですよ。
お嬢さん、お見受けしたところ、興味深い人相をしていらっしゃる。
どうですかな? 私にちょっと相を見せてみませんか」
いつのまにか、私が立っていた場所の反対側の端に、小さな机が置いてあり、そこにぼろのフードを目深にかぶった小さな女の子が座っていた。
その背中からは体に不釣り合いな大きなこうもりの羽が生えていて、それがぴょこぴょこと動いている。
机の真ん中には水晶玉が一つ、右隣りには遁甲盤、左にはタロットカードが並べられている。
これが辻占いだとしたら、随分と節操がない。
「なに、お代は結構です。今日はめでたい日でしてね。
私も都の屋敷のパーティーに呼ばれているのですが、パーティーが始まるまで地底の方々の運勢を見てみようかなんて」
「ああ、あなた、地上の屋敷で暮らしている吸血鬼じゃないの? 確か……レミリアだっけ」
「……って知ってんじゃないの!」
レミリアはいきなり叫んで立ちあがると、被っていたフードを剥ぎ取って地面にぺちと叩きつけた。
「なんのために私はこんな……みすぼらしい辻占いに変装までして……意味ないじゃないの」
なにかブツブツ言いだしたがわけがわからないや。
放っておこう。もう堀沿いの小屋に帰ろう。
「ちょっと待ちなさいよ!」
そそくさと立ち去ろうとする私の腕を小さな手がつかんだ。
「この某有名辻占い師が運勢を見てやってるって言ってんでしょ!」
「でも、占い師じゃなくて吸血鬼なんでしょ?」
「吸血鬼でかつ、占い師なの! あんた、私の運命操作の能力を知らないの?」
運命操作?
「さっさと人相と手を見せなさい!」
「はあ……」
強引に席に座らされる。
チビは私の顔を覗き込んできたと思うと、すぐに眉を思いっきりしかめた。
「うっわ、辛気臭い顔ねえ。こんなんじゃ、せっかくの幸運も夜逃げしちゃうわよ」
なんなのもう、人が気にしていることを。
腹たつなあ、このチビッコ。
「次は手相ね。まあ素晴らしいわ、何て幸運の持ち主なんでしょう!」
「どっちなのよ」
「喜びなさい、あんた今日は百年にあるかないかのラッキーデーよ。
ラッキカラーは緑色! そうたとえば……あの柳の木の葉みたいにね」
柳の木?
レミリアの視線は橋を渡った都と反対側の街路に向いている。
そこには街路樹として柳の木が植えられている。
「橋の上を通って行く地形は吉兆。出会いは木の下。時刻は正午ね。
そこであなたの運命が待っている」
そう言うとレミリアはパチリと片目を下ろしてウインクした。
「礼は言わなくていいわよ。橋姫も鬼女だって言うじゃない? 私、同じ『鬼』には優しいの」
それだけ言うと、チビッコは席から立ち上がり、都の方へ去って行った。
わけがわからない。いったいなんだったんだ。
言われたとおり、柳の木の下でしばらく待った。
一時間ほど経ったが、メインストリートから外れたこんな場所、誰も来るはずがない。
ばかみたいだ。
しなだれかかった柳の葉が風に揺れて、なんだか気味が悪い。
そんな場所に一人で立っているのだから、これじゃまるで幽霊みたいだ。
ひょっとして担がれたのだろうか。
しかし、柳の下で正午って、占いにしては妙に限定的なはっきりした指定だった。
おかしなこともいっていた。運命とか、吉兆とか。
……もしかして。
はっとなる。
私は木の下から都市とは正反対の方向を見た。
ここから見えるのは地底の深道に続く一本の通路。
丁度、そこを歩いてくる小さな人影が見えた。
遠くて分からないが、着ている物は地底の服ではない。
男だろうか女だろうか?
確かな足取りでその人は近づいてくる。
あ……
なにかが変わったのに私は気づいた。
世界が彩りを増して、空気が澄んで。
心の中で鐘が鳴る。寺院の重苦しい音ではない。それは軽くて高らかでまるで。
覚悟を決めて地底へ降りたものの、男は内心の緊張を抑えきれなかった。
歩を進めるために最悪の展開ばかり思い浮かんだ。
あれから何年も経ってしまっている。自分もあの時のままではない。
成長して、面立ちも変わった。
彼女は自分のことに気付いてくれるだろうか。
ちゃんと自分のことを覚えていてくれているだろうか?
妖怪の彼女は歳を取ることがないから、あのときのままずっと変わっていないのだろうか。
様々なことを考えながら、以前暮らしていた懐かしい場所に辿り着く。
だが深道の以前の住居は取り払われていて、そこに想い人の姿はなかった。
どこか別の場所へ移ってしまったのだろうか。
この場所で彼女に会えなかった場合、彼女を探す手がかりが一切ないことを知って、落胆する。
しばらくして、以前地下に都があると言われたことを思い出す。
そこへ行ってみよう思い立つ。移動したとすれば、そこだろうと考える。
都へ通じる、地底を掘って造られた長い街道を歩くと、しばらくして明るい大空洞へと出た。
どうやら向うに見える堀に囲まれた区画が、聞いていた地底の都のようだ。
その都へと通じる橋の前に、踏み固められた土の道が堀沿いに延びている。
そこには柳の木が植えられていて、その木の下をよく見ると。
一人の少女が立っていた。
金色のふさふさした髪。とがった耳。右手を胸の前で握っていて、その手が小刻みに震えている。
そして、こちらをまっすぐに見つめている、綺麗な緑色の目。
何度も思い出し、夢にまで見た姿だ。
いつも薄暗い洞窟の中にいたからはっきり見えなかったが、こんなにも綺麗で可愛らしかったのか。
動悸が激しくなる。
彼女は今、どんな気持ちで自分を見つめているのだろうか。
彼は今、どんな気持ちで自分を見ているのだろうか。
大きくなって、背も伸びて、顔も大人っぽくなっていたけど、一目でわかった。
彼女は怯えていた。本当に、本当に自分は受け入れてもらえるのだろうか。
今目の前の光景は幻なのではないだろうかとすら思った。
それでも二人の距離は縮まっていき、馬鹿みたいにお互いに見つめ合ったまま、手が届く距離まで近づく。
しばらく沈黙があって。
ぽつりぽつり何気ない会話のやりとりがあったあと、どっと感情が湧いてきて、思いのたけをまくしたてる。
会えなかった、離れ離れになっていた時のことを、話したくて聞きたくてたまらないから。
嬉しくて嬉しすぎて涙が湧いてくる。
それでも彼女は、その幸せな気持ちに実感がわかなくて、怖くなる。
時には、人間と妖怪が本当にうまくやっていけるのだろうかと不安になるかもしれない。
でもきっとそんな彼女の心配は杞憂に過ぎないだろう。
二人には会えなかった時間の分お互いに積み上げた想いの大きさがあるし、それに。
昔々、神様と呼ばれ今は妖怪と呼ばれるこの郷の守り人たちは、ご都合主義のハッピーエンドが大好きで、
できるかぎり世界をそんな適当でいい加減で、のんきな方向へと導きたがるものなのだから。
だからきっと、彼と彼女の未来をちゃんと祝福してくれるはず。
……そう、彼女はもう誰も妬ましく思う必要なんてないのですよ。
彼女は自分だけのものを手に入れたのですから。
さあ、もうパルパルは卒業ね。
これからあなたは陽のあたる道を歩くのだから。
私は橋の向こうで幸せそうな笑顔を振りまいているパルスィに向けて心の中でそう呟きます。
これで、全て良い方向におさまったというわけですね。
えっ? まだ解決していない問題があるような気がする?
たとえば、パルスィの穢れはどうなったのか? ちょこっと色目使っただけで死んでしまうのはあんまりじゃないだろうか、ですか。
ふふふ、穢れなんてそんなもの、はじめからあるわけないんですよ。
だって橋姫は、もともとの名前は瀬織津姫と言って、それは水や川の神様として神社にも祭られている、最も尊い女神の一人なんですから。
神様は二人の前途に何の心配もなくなるように、全部うまくやってくれたんです。
ほらほら、手を繋いで橋を渡ってくるカップルが見えますよ。
まったく幸せそうじゃありませんか。
嘆いてばっかりの心も食べがいがありますけど、見てるだけで恥ずかしくなっちゃうような仲の良い恋人達の心も、それはそれはおいしいんですよ。
さてと、私も幸せのおすそわけをもらいましょうかね。
今私は、橋のたもとにある灯篭の陰に隠れています。
ここからだと、橋を歩いてくる二人の様子が見えるので、通りがかった際にこっそりと心を読んで楽しもうという見積もりです。
なんですが、さっきからみんな私の陰に入ってきて、狭いです。みんなパーティーを抜け出して見物に。
そんなにたくさん入れませんよ! はみでて気づかれちゃいます。
「パルスィ、よかったなあ。幸せそう。よかったよかった」
ハンカチ片手に涙ぐみながらそう言うのはヤマメです。
彼女はパルスィの一番の友達ですからね。彼女もこれで安心でしょう。
紫さんや藍さんに慧音さんもにやにやしながら橋の上の二人の様子を見ます。あら、八坂様まで?
みんな出歯亀?
「あっ、そうださとりん」
「なんです?」
呼びかけてきたのはゆかりんさとりんで呼び合う仲になった紫さんです。
「そこの吸血鬼に報酬としてあなたの血を2リットルあげることになってるから。よろしくね」
「ああ、この子か。五百年ものの名酒って」
「は……なんでそんなことになってるんですかっ!? 2リットルもあげたらいくら妖怪でも貧血になります!」
「そうね、あんな無意味な小芝居やらされて神経をすり減らしたから、せめて五割増しぐらいにはしてもらうわよ」
「五割増し? 3リットル! やあ、死んじゃう!」
「ちょっと味見させてもらうわよ。あら、あんた肌きれいねえ。陽に当たらないせいかしら」
やだ、この子何やってるの? やめて、くすぐったいです。
それに、めちゃめちゃ無防備というかあけすけで心駄々洩れなんですけど。
ああ、何かとんでもないこと考えてるわ、この子。
それを恥じるどころか、むしろ見せつけて喜んでいる感じ。
ちょっと、押さないで、はみでる!
イタタタ、オンバシラと角と羽根と日傘がクアドラで当たって痛い!
……うわっ!
たえきれずに私はずっこけて地面に飛び出しました。
私の後ろに隠れていた皆も、ドミノ倒しのようにばたばたと前のめりに倒れて私の背中に乗っかります。
そのたびにむぎゅ、むぎゅ、と悲鳴を上げる私。つぶれる!
しばらくして打ちつけた顎を擦りながら顔を上げると、そこにはきょとんとしたパルスィの顔がありました。
「あら、パルスィ、ごきげんよう。オホホ」
「さとり……さん? こんなところで何を。あっ。さっきの占い師? ヤマメもいるの?」
パルスィの隣に居る男性の方が八坂様を見て、あれっ、神様じゃないですかと驚きの声を上げます。
「あっ……あー」
心を読むに、パルスィも男性もこの場にいる人物と、自分達の間に起こった出来事を結びつけようとしています。やばっ。
なんとかごまかそうと私は四苦八苦したあと、照れ笑いしながらパルスィの腕を握りました。
「そうだ、二人とも屋敷のパーティーに来てください! おいしい料理をたくさん作ったんですよ!」
そう、もう細かいことは言いっこなし!
なんといっても今日はお祝いの日ですからね。
何のお祝いかは……
みなさんもうご存知ですよね?
>昔々、神様と呼ばれ今は妖怪と呼ばれるこの郷の守り人たちは、ご都合主義のハッピーエンドが大好きで
大いに賛成です。やっぱしハッピーエンドが一番ですよね。
橋姫に対する解釈が独特でたまらんわぁ。
ヤマメやさとりも彼女のことを気にかけてて
どうにかしたいという気持ちも良かったです。
神奈子や紫様、レミリアの行動なども良い味が出てました。
良いお話でした。
さとりんがいい味だしてる
だ が 1 0 0 点
でもよかったらいいんだよ!!www
貴方もその一柱か。
これが最近メディアで言われている振り込めない詐欺か
やっぱり、ハッピーエンドが一番ですね
感動をありがとうございます
この場合は「見積もり」ではなく、「腹積もり」か「心積もり」が正しいかと。
面白かったです。面白かったんですけど、う~ん……。
前半は「2人が結ばれて幸せになれるといいな」と思いながら読んでいたんですよ。
でも後半は、裏方のみなさんが頑張りすぎたせいで、主役の2人が霞んでいる気がします。
何から何までお膳立てしすぎ。「これで結ばれなきゃ詐欺だろう」ってところまでやっていますし。
2人とも安穏としている訳ではないのは解ります。パルスィは青年を想う余り心労を溜め込み、
青年も(当人としては)命がけで妖怪の山に登るなどして頑張っていますよね。
でも、読んでいる側からするとどうしても、さとりや紫の手拍子に誘導されているだけに見えて
しまいます。
本当に相手を想っているなら、無鉄砲と思えるくらいの情熱と行動力を見せてほしかったな、と。
その結果、紫たちの計画が破綻しようとも、泥まみれ傷だらけの自分たちの手で掴み取ってこそ、
ハッピーエンドが輝くのではないでしょうか?
作者氏の文章力・表現力には卓越したものを感じますし、確かに面白かったのですが、私としては
そんな風に考えてしまいました。
つまりこの野郎は毎日キスメ汁を飲んでいたということか?
何気に周りのみんなも、変に偉そうぶってなくて、なんか可愛い。
だれかこれで同人誌書いて。