もしわたしの記憶に色をつけるなら、それは赤色で、最初に気がつかせたのは魔理沙だった。
互いに背が低く、手は舞い散る楓のように小さかった、童女の頃。気の進まないままに神社で修行をしていると、魔理沙がやってきた。駆け寄る魔理沙の、ふっくらと丸い頬は赤く、唇も同じ色に染まっていた。すぐに化粧をしてるんだと気がついた。てんで下手くそな塗り方で、赤い筋が大きく口からずれている。
口紅なんてつけてどうしたのよと、言うと、ポケットから小さな筒状のものを出し、わたしに見せた。
いいだろ、これ、と魔理沙が自慢げに言う。
買ったの? そう尋ねたら、いいや借りてきた、と返された。
それを聞いて、たぶんあの人のところからねと、察した。きっと、これ借りるぜ、なんて言って返事も聞かずに持ってきたんだ。
これで私も大人の女の仲間入りだぜと、歪んだ赤い唇で魔理沙が笑ったけど、どこが大人の女なもんか。男の子みたいな喋り方に、暴れ牛みたいな行動力。黙っていれば人形みたいに可愛いのに、口を開けば、出てくるのは皮肉ばかり。大人の女なんてほど遠い。わたしはそう思う。
だけど、似合っているとも思った。下手な化粧でもいままでと違って見える。蜂蜜色の髪も、猫目石みたいな目も、真っ白な肌も、全部同じなのに、たった一色加えただけで、ずっと華やかになった。紅色の不思議を感じるのと同時に、ちょっと羨ましくもあった。
わたしは紅を差していなかったけど、着てはいた。
歴代の巫女たちが腕を通した、博麗の巫女服は、生地に赤を多く用いる。時代ごとに作りは変わったが、色だけはそのままらしい。代々伝えるのは衣でなく色の方だと、誰かが教えてくれた。それがなにを意味するのかよくわからないけど、わたしの紅といえば、これしかない。
いいだろ、いいだろ、と自慢してくる魔理沙に、適当に相槌をうって返す。淡白すぎる気はしたが、仕方ない。もともとの性分に加えて、そのときのわたしは、魔理沙ではなく彼女の唇だけを見ていた。唇の色に気をとられていて、彼女の言葉を上の空で聞いていた。
つれないわたしの態度に、魔理沙は怒ったりしなかった。たぶん、慣れていたからだろう。あるいは自慢したいだけで、わたしの反応になんか興味がなかったのかもしれない。
その証拠に、じゃあなとだけ言うと、こちらに背を向けて走り出した。本当に、見せびらかすだけ見せびらかしたら満足したようで、振り返りもしない。夕陽に向かっていく小さな背中が、それを無言で語っていて、なんだかすこし、憎らしい。
そう思っていたら、鳥居のところで魔理沙が急に立ち止まった。振り向くとわたしを見て、
霊夢も化粧してみろよ。きっと似合わないだろうけど。そう、言ったのだ。
うるさい、魔理沙の馬鹿。
わたしは追いかけて、怒鳴った。
わたしの罵声を後ろに、魔理沙は石段を下りる。どんどんと小さくなっていく後姿。行く先は、西日に染んだ茜路。火よりも赤いその中へ、揺らぎ、霞んでいく背を見ていると、少しずつ寂しさが募る。
もう魔理沙には会えないんだ。突然、そんな思いが胸をかすめた。魔理沙の姿はまだ見える。なのにわたしは、それを彼女だと思えない。
試みにさっきの魔理沙と、いつもの魔理沙を重ねてみた。けれど、上手くいかない。重ねようとすればするほど、真っ赤な唇が邪魔をする。どんなに思いだそうとも昔の姿はすぐにあやふやになって、像を結んでも、唇が赤く染まってしまう。どうしても、昔を思いだせない。まるでその色に奪われてしまったかのように。
寂しさを抱えながらも最後まで見届けると、わたしは踵を返した。足早に境内を抜ける。修行を続ける気はなかった。もともと乗り気でなかったし、そのときにはわたしの関心は別にあった。口紅を見て、思いつくものがあったのだ。
靴を脱ぐ手間さえもどかしく、乱雑に脱ぎ散らかすと真っ直ぐ居間へ向かう。そこから隣続きの私室の戸を開いた。桐の箪笥に鏡台と、それに雑多な小物がいくつかあるだけの部屋。わたしは鏡台の前に座る。鏡を前にして、わたしは幽かな記憶の糸を辿った。
糸の中ほどで赤色がちらついた。そこを丹念に解きほぐす。あふれ出した色とともに、わたしの心が流れていく。鏡を、じっと見つめた。
自分の顔が鏡に映っている。どこかで見覚えのある光景だ。わたしの顔が目の前でより幼いものに変わった。
幼いわたしが鏡を見つめている。その傍に、誰かが立つ。わたしではない、成熟した女だ。わたしが女を見上げる。女は腰を下ろすとわたしの頬に手をそえた。柔らかな手。女の声は、それよりも柔らかい。
こんにちわ、かわいい巫女さん、と女が言う。
あなたのことよ。霊夢。新しい博麗の巫女に、あなたが選ばれたの。
不安そうな顔ね。でも、大丈夫よ。私が一緒にいてあげる。ずっととは言えないけど、あなたが大人になるまではね。
今日から巫女として、新しく生きるのですよ。
ほら、霊夢。
女の掌に、いつ取り出したのか、貝殻がひとつあった。色は桜に似ている。桜貝よ、と女が言った。
手を伸ばして、貝殻の蓋を開いた。途端に、朱色があふれた。貝が火を吹いた、と思ったが、違う、目にも鮮やかな紅粉。それが貝の中に満ちていた。
まるで火の粉が凝ったようでしょう。
そう言うと、女は自分の指を浸した。指先に小さな赤い火が灯る。紅を差しましょうね。言葉とともに、わたしの口先に触れた。唇の上を、ゆったり、白魚のように指が踊る。
しばらくするとその動きが止まった。鏡を見ると、わたしの唇は真っ赤に焼けていた。鮮やかすぎる色が、なんだか怖くて、泣き出したくなった。しゃくりあげたわたしの肩に、女の手が置かれた。あらら、どうしたのかしら。女の声に驚きがにじむ。赤色が怖いの。そう告げたら、ぽろぽろと涙がこぼれはじめた。
怖がることなんてないのに。霊夢には紅がとても似合ってるわ。
わたしは首を横に振る。いや。見てて怖いの。わたしのはこんな色じゃないもん。ねえ、もとに戻して。返して。わたしのお口を、持っていかないで。
すすり泣きが激しさを増す。火がついたように泣き出したわたしを、女の袖が優しく包んだ。わたしはそこに顔を埋める。芳しい香。慰めるように背中をさする女の手。唇が白い袖に触れて、赤い染みを移した。染みが、わたしの涙で滲んでいく。それに呼応するように、わたしの記憶も薄れだす。泣きじゃくるわたしを残して、わたしは帰ろうとしている。
障子の隙間からも同じ色が流れ出す。茜色の中に溶けていく二人。わたしは、振り返らない。背後に赤色を残して、わたしは戻る。
気がつけばわたしは鏡台の前にいた。鏡に映る、いまのわたしの顔。口紅の跡は、どこにもない。けれど記憶には確かに残っていた。その前後をはっきりと思いだせなくとも、化粧をされたことだけは、間違いない。
それにしても、と思う。どうして幼いわたしは口紅の色が怖かったのか。なぜあんなに大泣きしたのか。それをいままで忘れていたのも不思議だし、思いだしたところでまったく実感がわかない。そのわたしが、いまでは当たり前のように赤を身につけているのだから、なおさらであった。わたしはもう、赤を恐れていない。
そもそも記憶の中の女は、誰だったのだろう。
母親のような気もするし、まったくの他人のような気もする。思い返そうとしたが無理だった。輪郭が夕日に彩られ、目鼻はそこに沈んだきりで、その顔立ちが一向に浮かんでこない。
わたしの過去の記憶はどうもところどころで曖昧だった。それでも化粧をされたことは確かだし、されたからにはその道具がどこかに残っているはずだ。
鏡台の取っ手をわたしは片端から引いた。引き出しの数はそう多くない。すぐに調べ終わった。
口紅はどこにもなかった。最初から存在しなかったように、影も形もなく。考えてみれば当たり前だ。女がここに仕舞ったのかさえわからないのだから。
はあ、とため息をつき、引き出しを片付けて、わたしは立ち上がった。部屋は随分前から茜に沈んでいる。障子も、壁も、箪笥も。その色は血か炎かとまがうほど。わたしは、赤く染まった障子を撫でてみた。その指で唇に触れた。偽りの紅はなにも残さず、すぐに四散した。
本物は、まだ早いのかもしれない。なぜだかそんな考えが、頭をかすめた。
紅をつけた魔理沙を二度目に見たのは、諸々の異変を解決した頃だった。
光を食む霧も、花のない春も、常しえの夜も、すべてが過去の話になりかけていたが、わたしは変わらず神社にいて、境内を掃き清めていた。
その日も、同じだった。ただ体調だけが悪かった。朝からずっと頭が痛くて、お腹が重い。経験のない痛みだったが、努めて気にしないでいた。掃除をしていたのも気が紛れるだろうという思いからだった。
そんなときに魔理沙がやって来た。おあつらえむきに、時刻は夕暮れ。
近寄る魔理沙の唇に、また夕日とは違う色を見つけた。あのときによく似た色。でも今度は、きちんと唇に沿って赤い筋が引かれていた。塗りが厚すぎたり、ムラがあったりと慣れていない証が残ってたけど、以前よりも腕を上げたみたいだ。
紅を差した魔理沙がわたしの前に立つ。どこか誇らしげな表情だ。夕陽に赤い唇を煌かす彼女は、とても大人びいて見える。化粧ひとつでこれだけ変わるのね。そう、わたしは思った。
これまで子供っぽいと見ていた相手が、急に変わったことをわたしは知った。それを認めた途端、わたしのなかで、なにかが疼く。頭でも、お腹でもない、心からくる不快な感覚に、わたしは沈黙した。そのまま黙っていると、魔理沙の方から喋りだした。
なんだよ霊夢、黙ったままで。ほら、わたしを見てさ、なんか言うことがあるんじゃないのか。そう言って、殊更に唇を見せつける。わたしはなにも言わない。
なんかあるだろ、いつもと違うわねとか、なにかあったのとか。不服そうな魔理沙の声が聞こえる。
別に、なにもないわよ。ようやく口にしたわたしの言葉は、棘を帯びていた。変わらないわ。いつもと同じ魔理沙。あんたの見慣れた顔を見て、なにを言えっていうのよ。
わたしの言葉の棘に、魔理沙は気づいたのだろうか、帽子のつばを引っ張り、そこに顔を半分隠すと黙ってしまった。
用もないのにそっちからやって来て、勝手に不機嫌になって、あんたの方こそなによ。我侭な奴ね、ちっちゃな子供みたいだわ。わたしの言葉は止まらない。
顔を俯かせた魔理沙の体が、わずかに震える。頬に、赤みがさす。わたしの目がそこに吸い寄せられた。紅潮した頬とは違う、赤く、ぷっくりと膨れたものが、あった。
ああ、あんた、変わったとこがあったわ。殊更意地の悪い口調で言った。頬に、おできがあるじゃない。
告げた途端、勢いよく魔理沙の顔が上がった。その相貌がくしゃりと歪む。ぱん、と乾いた音、遅れて、頬に痛みが走る。叩かれたんだと、少ししてから気づいた。なにするのよと、言おうとしたが、魔理沙はすでに石段に向かって走り出していた。鳥居の下で立ち止まると、振り返り、
霊夢の大馬鹿野郎!
と、大声で怒鳴られた。
顔はよく見えないけど、泣いている気がした。わたしの言葉はそんなに魔理沙を傷つけたのか。夕焼けの空に飛んでいく魔理沙を追いかけもせず、呆然と見送った。
叩かれた頬から痛みが消えない。痛くて、痛くて、仕方がない。たぶん、赤くなってるだろう。押さえていると、なんだか泣きたくなってきた。頬の痛みではなく、別の痛みに、わたしは苛まれる。体の不調がそれに拍車をかけた。頭も、お腹も、頬も、心も痛くてどうしようもない。
箒を投げ捨て、わたしは駆け出した。乱暴に戸を引き、走り、逃げるように私室へ入る。後ろ手で勢いよく襖を閉めると、そのまま鏡台の前に突っ伏した。それから声を押し殺して泣いた。涙がとめどなく零れる。落ちた熱い雫が、手の甲を焼く。からだは燃えるように熱い。熱が全身を駆け巡る。
からだの芯から、煮えた蜜のようなものが流れた。
白に包まれた雪原。足跡ひとつない。風花が舞う。白かと思えば、赤。氷雪は花びらに。花は寒椿。そのひとひらが、ほろりほろりと落ちていく。雪原に紅色のかた時雨。白雪が、わずかに血に染む。どこからともなく女がやってくる。滲んだ血のように広がる花びらの前にひざまずき。手には、貝殻。「桜貝よ」女の手が花弁を摘み、貝殻に収める。くべた焚き木のように花がつぎつぎと燃え、蜜のように溶けていく。後に残る紅色。「火の粉が凝ったようね」と女が言えば、なみなみと湛えられた朱の水が、縁から零れ、露となって降りそそぐ。濡れた白雪はいつか見た夕映えの空。
ぐるりと、天地が回る。
目を開くと景色が一転した。飛び込んできたのは、見慣れた天井。黒ずんだ木目は、雪にはほど遠い。どうやら夢を見ていたようだ。目の奥に赤色がちらつく。夢の名残かしらと、思ったが、違う、障子に映える西日に照らされただけ。
妙だ。わたしは鏡台の前で突っ伏していたはずなのに。天井が見えたからには、わたしは仰向けで寝ているわけだ。布団も掛けられていた。自分でひいた覚えはない。
そこでようやく、自分の手が握られていることに気がついた。ひやりと冷たい、しなやかな手に。誰なのか確かめようとわたしは首を動かす。その矢先、
「あら、目が覚めたのね」
むこうから答えがきた。あまりによく知ったその声。
「……紫?」
八雲紫がそこにいた。スキマから半身を出すのでなく、きちんとした姿で座っていた。
紫の手がわたしの左手を包んでいる。
「いつから、いたの?」
わたしは問うた。紫は問いに答えず、代わりとばかりか、
「具合はどうかしら」と言って、もう一方の手でわたしの頬を撫でた。冷たくて、気持ちがいい。
「ん……。あんまり良くないけど、さっきよりはまし」
「そう。よかったわ」
紫が、笑みを浮かべる。すこしばかり寂しげに。……そう見えたのは、わたしの弱った神経の為かもしれない。
「ねえ、いつからいたのよ」
「前からよ」
嫌な予感がした。
「どれくらい」
「言いたくないわあ。言ったら多分、あなた怒るんじゃない?」
「怒らないから。言いなさい。言え」
「ずっと前からよ。喧嘩して、泣き出す前から。……ほら、怒った」
うるさい、と怒鳴って頭から布団を被る。
やっぱり見られていた。魔理沙に叩かれたことや、その後の醜態を。思い返して、恥ずかしさと気まずさから頬に朱が差す。他人の目を気にしない性分とはいえ、さすがにばつが悪い。相手が紫だったということも拍車をかけた。口から上だけを布団から出し、非難を込めて、紫を睨む。
「覗いてたなんて最低」
「だって趣味ですもの」
「ほんと、あんたって趣味が悪いわ。そんなに覗きたければ、せめて堂々と覗きなさいよ」
「まあ、霊夢たら大胆ね。堂々と見てほしいなんて」
「違うわよ!」
「違わないわ」
ころころと声を立てて、紫が笑う。「じゃあ、今度からはそうしましょうかしら」そう言うとわたしの髪を撫でた。
「見つけ次第、思いっきりぶん殴ってやるけどね」
「怖い怖い。あなたにそんなことされたら傷ついちゃうかも。やっぱり、覗き見する方がいいわ」
のらりくらりとした物言いは、いつもの紫だった。その顔には一片の陰りもない。わたしが見たのは、きっと錯覚だろう。
そのときに、わたしは着ているものに違和感を覚えた。上衣よりもずっと軽く、薄く。しかも風通しがいい。まさか。思わずわたしが布団を持ち上げると、
「布団、勝手に出させてもらったわ」
「……紫が、したの?」
「あのままじゃ風邪引くでしょ」
「まあ、そうだけど……」
語尾が濁る。布団を敷いた、それはいい。この方が楽なのは確かだし、紫の気遣いも、いまのわたしには嬉しかった。ただ、着ていたはずの上衣が、いつの間にか寝巻き代わりの襦袢に換わっているのは、いただけない。寝かしてくれるだけでいいのに、服まで換えるなんて。
女同士とはいえ、さすがにどうかと思った。当の本人は涼しい顔をしている。その、気にもしていないわ、という態度が癪に障った。ひとこと言ってやるべく、
「紫」
「なあに?」
わずかな間。
「……ありがとう」感謝の言葉が、でてきた。
「着替えさせたこと、かしら」
「そうじゃないわ。そうじゃなくて……」
傍にいてくれて、と、それだけ告げた。
こんなことを言うなんてらしくないわ。そう思い、気まずさを感じはしたけど、このときのわたしはひどく感傷的で、素直でもあった。いつになくわたしは弱っている。弱みを晒すのは好きではないのに、傍に誰かいてほしくて、寂しさに慣れるまで隣にいてほしかった。だから紫がいてくれたのが、すこしだけ嬉しかった。たとえ、わたしのこんな気持ちを紫が察していたとしても。いまだけは。
もう一度、ありがとうね、と言った。
握る紫の手に、すこし力がこもる。握り締めるのではなく、慈しむように、優しく。手から伝わるわずかな温もりが心地いい。
「あのね、霊夢」
髪を撫でていた手が離れると、いつの間にか開いたスキマにその手を差し込んだ。どうしたの、と思うと、
「あなたにあげるものがあるの」
スキマからなにかを取り出す。抜かれた手にあったのは、昔に、そして夢に見たのと同じ、燃える夕映えの、降りそそぐ火の粉を凝らせ閉じ込めたような、
「桜貝?」
紫は頷くと蓋を開いた。朱色が流れ出る。
「くれるのかしら」
「ええ。霊夢にあげるわ」
「どういう風の吹き回しよ?」
「風に意味を問うなんてナンセンス。風はいつも気まぐれで、あるがままなすがままに吹くもの。たまたまあなたがその風下にやって来た、それだけのことよ。ただ、いつかは必ず来ることだけど」
もうそんな日が来てしまうなんて。あなたたちに流れる時間は、私には早すぎるわ。紫は言った。
「これはスキマ風からあなたへの贈り物よ」
「なにかのお祝い、なの?」
「そうよ。変わっていくあなたへの、ね」
紫の言葉が心のどこかに響いた。
変わる。変わっていく。変わってしまう。同じ言葉の羅列が、響き、奏で、微細な波となってわたしを揺らす。まるでいままでいたところから、別のところに連れていくように。流れの先を見ようとわたしは思いをはせた。変化。赤色。桜貝。紅のお祝い……。
ああ、そういうことか。
ぼんやりとだが、自分の身に起こったことをようやく感じとった。
起きられる? 紫が尋ねてきた。軽く頷いて、わたしは体を起こす。
紫の手が、わたしの手にそえられた。掌に貝殻が置かれる。つけろということか。紫を見る。微笑みで隠された表情からはなにも読みとれないが、構わない。
わたしはそっと、紅粉に指を下ろす。けれど、触れるか触れないかというところで手を止めた。
「どうしたの」紫が聞いた。
「つけて」
わたしは貝殻を差し出す。
「え?」
「つけて。紫が、わたしに。昔みたいに」
そう、と紫が呟いた。「覚えていたのね」
わたしは首を横に振った。覚えていたのではない、思いだしただけだ。同じ貝殻に、同じ口紅。こんなに分かりやすい符合はない。記憶の欠けていた部分が埋まっていく。夕焼け。鏡台の前で幼いわたしに紅を塗り、抱きしめた顔のない女。夕闇に沈んでいた目鼻が浮かび、目の前の紫と重なる。遠く離れていた思い出が、擦り寄ってきた。
「私にさせるなんて珍しいわね。普段は嫌がるくせに。今日は甘えたいのかしら?」
「違うわよ。化粧のつけ方なんてしらないもの。教えてもらったこともないし。こういうことなら、あんたの方が慣れてるでしょ」
すこし恥ずかしくて、思わずそっぽを向いた。
「まあ、そういうことにしといてあげましょう」
含み笑いが聞こえ、頬にこそばゆい感触がした。そろり、そろり、と紫の手が頬を這う。「でも」ゆっくりと顔を向かされた。
「嬉しいわ」
間近に息吹を感じる。濃紫の瞳がわたしを見つめている。眼差しの先は遠い。目の前のわたしを越えて遥か彼方に広がるものを見渡しているように感じた。
ほっそりとした右の薬指に紅粉がつけられた。灯る小さな篝火。左手が顎にそえられて、こころもち上にむけられた。わたしは唇を差し出す。紅が差した指が近づく。
薬指が唇に触れる。そろりそろりと這う。ひかれる朱色の軌跡。薄紅の稜線をなぞる。暮れなずむ渓谷を描く。火の粉が露と成って降るたびに、口唇が緋に染まり、濃さを増す。それを見なくともわかった。
指先からわたしを感じ取ろうとするように、口紅を塗る動きが、いっそう繊細に、濃密になる。唇を押す柔な力も、刷毛で撫でるようなこそばゆい感触も、心地よい。
わたしも紫を感じ取ろうとする。指先のわずかな震え。膚の感触。仄かな温度。そのすべてが紫の心のように思えて、指を通して伝わってくるように感じた。
気持ちいいかしら。紫がそう聞いてきた。唇は動いていない、けれど、わたしには確かに聞こえた。心地いいわ、と言う無言の答えも、紫には届く気がする。
互いを結びつける赤色が、色濃くなるたびに、わたしと紫の境が薄れていく。口紅がただの粉から紫の血となり、わたしの血ともなる。血潮が交じり合い、溶け合う錯覚を、わたしは覚える。
赤ってなにかしら? そう始めに考えたのは、どちらだろう。赤はね……。こう思ったのは、たぶん、紫。
生まれてきた赤子の体の色。それが最初。その子が幻想郷の娘で、博麗の巫女になるのならばそのときに。普通の少女からの決別が二度目。三度目は少女なら誰でも。成長の証、幼年の終わり。四度目はつがい雛のお祝いに。そして五度目が、最後の赤となるわ。血潮も淀み、頬から紅も抜けてたのなら、今生のお別れ。
赤は、変化の合間に下ろされる幕のようなもの。
人が変転を尊び、祝すならその色はめでたい色となるでしょう。けれど、本当にそうかしら?
変化するならその前が必ずあるわ。どんなに変わったとしても、その前がなくなることはない。別れたもの、置き去りにされたものは変わらぬままに残るのに、ただ人だけが忘れていく。覚えていても、いつかは霞み、記憶から消してしまう。
残されたものは、赤色を見て偲ぶでしょうね。それなら、きっと――
「赤は、別れの色」
はっきりと紫の声が聞こえた。すうっ、と指が離れていく。
「出来たわ。霊夢」
その言葉とともにわたしの心は現実へと戻る。紫が手鏡を差し出した。鮮やかに口許を染めたわたしの顔が映る。見慣れた顔なのに、すこしだけ違って見えた。
丹の唇にそっと触れて、わたしは想う。
軽やかに空を飛ぶ少女。日の生まれ変わりのような少女。その少女は、もう、ここにはいないのだ。少女のわたしは羽化した蝶のように中から抜け出し、遠くへ行ってしまった。生身の、女のわたしだけを残して。
赤は別れの色。口紅はさようならの印。変わってしまったことを、ようやく肌で感じた。
夏の終わりの蜉蝣のように消えていった、わたしの面影。それを悲しいと思うより、寂しかった。ひとつの楽しい夢から覚めた後に似た寂寥感。夢の中に残された、夢のような日々を自然と蘇り、切なさがこみ上げてきた。色鮮やかな過去は、退屈な日常でさえきらきらと輝かして見せる。思い返すうちに、わたしの目から涙が一筋流れて落ちた。
「寂しいかしら」
「そりゃあ、まあね。わたしだって人並みに感じるもの」
「でもちょっとしか泣かないのね」紫の指が涙を拭う。「巫女になるときはあんなに大泣きしたのに」
「だって」すこし口ごもり、
「もう、子供じゃないから」
あんなに泣くことはできない。あれはわたしが幼かったからだ。普通の子供でいたいことへの未練が、わたしを泣かせたんだ。化粧をされた瞬間にただの女の子の自分を盗られた気がして、戻してほしかったんだと、今になって思う。小さかったわたしには、その別れが怖かったのだ。
いまのわたしなら怖がりはしないし、別れがそこまで嫌なものとは思わない。けれど慣れたかといえば、それは違う。いざ目の前にしたら、すこしは受け入れることができても、まだ寂しさの方が勝る。
さっきのこともその所為に違いない。
丹の唇の魔理沙を思いだす。
化粧をした魔理沙を見たとき、心がざわついたのは、きっと、一足先に少女でなくなってしまった彼女への寂しさと嫉妬からなんだ。変わらないなんてことはないのに、それでも心のどこかで互いに少女のままだと思っていた相手から突然別れを告げられて、わたしは置いていかれたような気がした。
無邪気に、誇らしげに唇を指し示した魔理沙。
けれど、わたしはまだ見たくなかった。教えてほしくなかった。だから気づかない振りをしたんだ。それでも見せ付けるから、ついひどいことを言ってしまった。
「子供じゃないから、子供のようなことはできないわ」
少女であることに固執してしまった。未練に引きずられ、囚われたがために傷つけてしまった。それは、とてもわたしらしくない。
「魔理沙に謝らなくっちゃね」
何がと、紫は聞いてこない。ただ「そうね。このままお別れじゃあ寂しいものね」とだけ言った。
わたしは頷き、庭の方を向いた。空はさっきよりも色濃い。日が暮れようとしていた。気の早い虫が草の陰で鳴いている。
「きれいな夕映え紅葉」ぽつりと紫が呟く。
「もうじき一日が終わってしまう」
暮れなずむ空を紫と一緒に眺めた。あと数刻もしないうちに夜がくる。そうしたら、人の時間は終わりだ。夜は妖たちの世界。薄暮の後に人の残れる場所がないことを、わたしたちは知っている。
夕焼けを見たら帰りたくなるのは、きっとそのためだ。
茜に染まったらもうお別れ。背を向けて、家路につこう。振り返らず、真っ直ぐに。どんなに楽しくても、どれだけ未練があっても、別れなくてはいけない。後ろに広がる色がどれほどきれいでも、残っていてはいけない。
茜の雲に懐かしさや寂しさを覚えるのは、きっと、そうして置いてきたものを思い返させるからだろう。なんだか口紅と同じだ。それとも逆なのかもしれない。
夕闇は、別れ色。夕映えは空のお化粧だと、わたしは思う。
紫にとってはどうなのだろうか。ふとそんな考えが過ぎった途端、
「霊夢」
と、紫が声をかけてきた。
驚いて振り返ったわたしの前に白い布が突き出された。紫の服の袖だ。眩いほどに白いその袖は、けれど、一か所にだけ小さな染みがついていた。自然とわたしの目はそこに引き付けられる。
「覚えているかしら。これを」
「もしかして、子供のときの……」
「正解。あの時の化粧の染みですわ」
「あんたずっと残してたの。ちょっと、汚いわよ」
「大丈夫。境界を弄ってあるから汚くなんかならないわ。いつまでも新鮮でつやつやのまま」
「そういう問題じゃなくて。ああ、もう!」
なんで残してるのよ、この馬鹿むらさき、とわたしは罵った。
霊夢はとても大泣きしたわねえ。わたしの非難を聞き流し、懐かしむように紫が語りだした。
あまりにも泣くもんだから、巫女なんて無理かしらと思ったわ。でも、それは杞憂になったわ。次の日からあなたは巫女だった。振る舞いもごく自然で、ところどころに未熟なところがあったけど、些細なことだったわ。
あれだけ悲しんでも、あなたは未練を残さなかった。なにかを惜しむ心は当然あなたにもあるでしょう。けどいつまでも囚われはしない。自然とすぐに別れられる。さっきのことだって、もう受け入れてるでしょう?
ここに、と、紫が染みを指差す。あなたは接吻したわ。きっとそのときにすべてを写したのね。
「接吻の後を残してあなたと、あなたは別れた。思い出をこの色に託して。だからあなたの心には未練が残らない。私はね、そのお別れの証を留めておきたかったの」
霊夢の印だもの。消してしまうのは惜しいわ。
「あんたは意外と未練がましいのね」
「ええ、そうよ。そうでなければ、幻想郷なんて造らないわ。私には、赤は別れの色であると同時に思い出の色にもなる。ひとつの別れは、一瞬で燃え去り、瞬くごとに移ろう刹那の光芒だけど、積み重ねれば膨大な追憶の宙になる。長い、長い刻を生きる私が見続けられるのは、紅く透き通ったその宙ぐらい。赤色に包まれながら、私は美しすぎた幻を思い返す。私には、それさえあればいいの」
紫の言葉は、わたしには理解しがたかった。
それって楽しいの、と尋ねたら、私には合ってるわね、と返された。声に湿りはなかったから、本心だと感じたが、紫のことだから甚だ怪しい。
ただ、紫はわたしより長く生きているのだから、寂しいとか悲しいといった感傷に慣れていてもおかしくはない。別れの経験だって幾度もしてきたはずだ。慣れていなければ、とっくの昔に潰れてここにいるはずもない。
あるいは、と、わたしは思う。
それが紫にとって当たり前のことなのかもしれない。
自分自身の別れがないということは、ただ積み重ねていくだけだ。手放すこともなく、自分の内に閉ざしていく。いまこの瞬間のことも、そしてこの先のことさえも。紫は、追憶というその黄昏の中で生きているんだ。
やがてわたしもそこへ行くのだろう。そうして思い出されるだけの色となる。それを、すこし寂しいと感じる。けれど、こう思うわたしの心さえも、いつかは失われるのだ。そして惜しむ日もまた、やってくる。
それを、わたしの中に残していこうとはもう思わない。
だったらどこに置いていこうかしら、と思案したが、答えは決まっていた。
「わたしには赤が似合うって、紫は言ってくれたわね」
眩い記憶をきれいなままに、大切にしてくれそうな相手にあげようとわたしは思う。
この色を捧げ、わたしは別れを告げる。ときどき懐かしみ、やがては霞み消えていくのを待ちながら、生きていこう。消え去ったときになにも残らないとしても、それでいい。
紫の片手を、貝殻を持ったわたしの手に重ねる。
「でも、紫だって似合うわよ。きっと」
互いの手の中には桜貝。そこに閉じ込められたのは、別れと、追憶を溶かした朱色。
紫が微笑み、空いた手をわたしに伸ばす。
「欲しい赤があるのだけど、いいかしら」
「いいわよ」
薬指が、わたしの唇をなぞった。
「あなたの紅を、くださる?」
口許を赤くした魔理沙がまた来たのは、それからだいぶ経ってからだ。
その日の魔理沙は唇にきれいに紅を引き、とても大人びいていて、華やかに見えた。外だけでなく、内からも溢れる艶やかさに、わたしは気がつく。三度目の、わたしと同じように数えるなら四度目の、赤を迎えたことを。
しばらくは魔法使いは休業だぜ、と、言葉だけ昔のままの魔理沙が告げる。もっとも廃業する気はないけどな。そう言って見せる笑顔も昔どおり。わたしは、あっさりと、けど心から祝福する。
おめでとう、魔理沙。
ありがとな、霊夢。
次はお前の番だぜ、と、言って魔理沙は立ち去ろうとする。わたしは引き止めないし、魔理沙も振り返らない。ただ、背を向けながら、きっと似合うんだろうな、霊夢の化粧は、とだけ言った。
大人になった魔理沙が、一足先に夕陽に向かい飛んでいく。
そしてわたしが四度目の紅を差す日もやってきた。
鏡台の前にひとりで座り、自分の指で口紅を塗る。誰かに塗らせることもなければ、どこかに残すこともない。四度目の紅は、それ自体が彼女への別れとなる。
化粧をしている間、背後で走り回る音が聞こえた。子供がふざけて走るような軽い足音は、手伝いにきている誰の耳にも届かない。聞こえるのは、わたしだけ。
化粧が終わるとわたしは部屋から立ち去った。隣室に控えていた、訪問客の人間と、半分人間と、魔法使いの知り合いたちが、祝辞と、無邪気で個性に満ちた皮肉を告げていく。どの言葉も最後には「口紅がよく似合う」で結ばれた。彼女たちとともにわたしは外に出た。
庭を抜け、境内を行き、鳥居の前で立ち止まった。目の前に濃紫と、藍と、茜が層をなして広がっている。その色はあの頃と比べて薄い。空を見るわたしの心も似ていた。
夕焼けを眺めるわたしの背を、わたしと女が見つめる。
幼いわたしは、女の膝に乗って無邪気に歌う。少女のわたしは、女の隣に寄り添う。女は、満ち足りた表情でわたしを見送ると、そっと目を閉じて、まどろむ。
その姿も、やがては夕闇に溶けて見えなくなる。
わたしは振り向かず、前へ歩みだす。
艶のあるしっとりしたお話で面白かったです。
二人ともお嫁に行ったのかな
少女っていうのは、特別な時なんでしょうねきっと
自分は男ですが、なんとなくわかる気もします
霊夢を見送る霊夢たちにじーんと
あるいは悲しい別れ。
痛切でありながら尊い人世の理。
そういうものをじんわりと感じる事が出来たように思います。
お見事でした。
祝福ってとても扱いの難しい感情ですよね。裏を返せば呪い尚且つそれら表裏を合わせた物はエゴですし。
わだかまりの無い幸福感もまた幻想だったりするんですかね。
苦い話でもありましたが美味いかと言われれば、美味いです。ごちそうさま。
文章を読んで色を感じられました。
もう少し時間の止まった幻想を見続けたい自分は情けないのだろうなあ。
いつまでも見送っていたいような、そんな余韻が残りました。
全体に柔和だけど、なんだか切られてしまいそう。