このお話は、作品集57にあるお話『七曜×七色≠七(曜×色)』の続きです。
前作をお読みになったことのない方は、そちらを先にお読み頂くと諸々分かりよいと思います。
注意事項は前作と同じです。文中の無駄知識はあまり信じない方がよろしいかと。
目が覚める。薄く眼を開けて見えるのは、見慣れた天井だ。顔を横に向けると、サイドテーブルに置いておいた読みさしの本とランプがある。
仰向けに寝ていた体を横にして、肘をついてゆっくりと上半身を起こす。
ベッドから足を下ろし、そのまま腰かけるような恰好でしばらく過ごした。
その姿勢のまま、右手の指をゆっくり動かす。親指、人差し指、中指、薬指、小指。左手も同様に。
手首、ひじ、肩と順に動かしていき、首、表情筋と一通り動かし終わると立ち上がる。
前後に体を反らせ、腰から上をゆっくり回すと立ったままで呼吸を整える。
右足をあげて片足立ちになり、そのまま五秒。左足でも同じようにしてから、ゆっくりと伸びをする。
今日も体は思い通りに動く。
こうして、アリス・マーガトロイドの一日は始まる。
■□■□■
「まるで鬱病患者みたいね」
「酷い言われようだわ」
ふとした雑談から寝起きの話になり、パチュリー・ノーレッジはアリス・マーガトロイドの目覚めに関してそう評価を下した。
「鬱病患者は自分の体を自由に動かせることを自覚して満足感を得るそうよ。行動だけを見ればぴったりじゃない」
「私の場合は人形を作る参考にしたいだけ。気分が滅入ってるとかそんなんじゃないわよ」
「で、どうなの?」
「むずかしいわねぇ。ユダヤとかも当たってみているのだけれど、なかなか」
「ああ、ユダヤ。真理から一文字削ると死んで土くれに戻るっていうあれ」
「気に入らなさそうね。まあ、オートマタなんかとは全然系統が違っちゃってるから、正直無駄足だったと思うわ」
「ゴーレムなんか作ってどうするのよ」
「そうね。なんだかあれは人形を動かす魔術に近い気がするわ」
「というか、そのものじゃない。人の形をしているものを動かしているだけなのだから。リアルタイムに指示する代わりに事前にプログラミングしておく程度しか差はないのよ」
「あー、そうね」
「まあ、YHVHがゴーレムを作るとアダムになるわけだけど」
「神、凄いわね」
「神だもの。あなたは神を信じますか?」
「身内に一人ばかりいるわ」
「割と身近なのね、神」
「山の上の神社にもいるでしょう。蛇と蛙」
「あれもまた神。でも多神教の神と一神教の神との間には一方的で埋められない溝があるの」
「……魔界神ってどうなのかしらね」
「あなたが他の神の存在を認めている以上、多神教的な神なのだと思うのだけれど。何より実体もあるのだし」
「実体、ね」
ああまた面倒な話になりそうだ。
アリスはそう判断すると、出された紅茶を飲みながら長話に備える。
パチュリーにはどんな話題を振っても長話になる。それは今に始まった事ではないのだし、こうした他愛もない話は既に日常の一部になってしまっている。
アリスが紅魔館にあるこの図書館に通うようになったきっかけは、自律人形を作る理論を構築する過程でパチュリーに助言を求めたことにあった。それから半年ほど経った今でも、経過報告や気晴らしという名目で週に一度は顔を合わせている。
アリスの作ってきたクッキーやケーキを齧りながら、二人で無駄話に興じる。そんな些細な事柄を、二人はともに楽しんでいた。
アリスの自律人形製作が終わるまでの、心地よい関係。
「ねえアリス、幻想郷には様々な神がいるわよね」
「ええ。実りの神に厄神に現人神まで様々」
「ここは日本だから、日本神話の話をしましょう。今あなたが挙げた神はすべて日本神話にいる神ね。現人神なんてこれ以上無いほど日本的だわ」
「そうね。海外では人間が神だなんて聞いたことが無いもの」
「海外というよりは西洋諸国とでも言った方が適当かも知れないけれど。それはさておき日本神話。神世七代の最後の二柱であるイザナギ・イザナミによる国産みを経て、この大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)は産みだされた。古事記にはそう記されているわね」
「なにそれ?」
「日本のことよ。正確には、大倭豊秋津島とは本州の部分のみを指していたのだけれど、転じて日本全土を指し示すようになったの。秀真(ホツマ)の国とも言うらしいけれど、これは日本の更に限定的な地域に対する呼称かしら」
「ホツマ、ねぇ」
「むしろ魔法を使うものにとってはホツマの方が通りがいいくらいよ。関連書籍はいくつかあったはずだけど……」
「いえ、いいわ。後で暇があったら読んでおくから」
「そう。話を戻すとね、イザナギ・イザナミの二柱は国産みの後で神を産むの。生みだされたのは主に自然神。その過程でイザナミは傷つき命を落とし、イザナギは苛立ち紛れに生まれた子供を殺すと妻を追って黄泉国(よみのくに)へと向かう一大活劇が始まるわけね」
「……えらく物騒な創世神話じゃない」
「創世神話とも趣は異なるのよ。ここがこの話のポイントなのだけれどね、イザナミ・イザナギは国土も自然神も産んだのに、人間は産み出さないの。神は初めから人の形をしているわけ」
「西洋とは大分違うみたいね」
「理由の一つには多分日本の神々の性質があるのだろうと思うのだけれど、とりあえず日本の神々は人間を作り出していない。影響関係にあるはずの中国の神話には人間の起源が語られているというのに」
「ジョカが土をこねて作ったのよね。そういえばYHVHも泥をこねてアダムを作ったんだったかしら」
「そう。あなたは実にいい話相手ね。賢いから話が早い。ユダヤなどでは神が人間を作るの。泥をこねてアダムを作り、アダムの肋骨からエヴァを作る。人を作るのは神の御業なのよ。ところが人は神を真似て人形を作り、ユダヤではそれがゴーレムと呼ばれるものになるのね。神ならざる身の及ばなさゆえに、ひどく不完全でいびつな生命体」
「そうね。自律した人形には程遠いわ」
このあたりが話の落とし所だろう。アリスはそう判断して紅茶を口に含む。
なるほど。神ならざる身には人間を作り出すなんて叶わぬ望みなのだろう。それこそ神綺様のような……。
そこまで考えて、アリスははっと気がつく。
「ねえパチュリー。あなたさっき神綺様は多神教的な神だって言ったわよね」
「ええ。本当にアリスは賢いわね。頭なでてもいいかしら」
「遠慮しておくわ。じゃなくて、さっきの話じゃまるで――」
「そう。あなたのお母様はあなたたちを“作った”。まさしく神の御業ね。YHVHと比較するのは不適当だけれど、だからこその魔界神でしょう」
「じゃあなんで多神教的なの?」
「宗教の話をすると色々と厄介なのよね。ところで多神教と一神教って何が違うのかしら」
「……神様の数?」
「ああ、アリス。なんて単純な答えなのかしら。たとえレミィだってもう少し気の利いた答えを返してくれるわよ」
「単純で悪かったわね」
「まあ、大体正解なのだけれど」
「……ああ、そう」
「気を悪くしたかしら。ああ、アリスに嫌われては生きていく気力もなくなってしまう」
「別に怒ってないから無理に機嫌を取ろうとしないで。棒読みでそんな台詞吐かれても困るわ」
「残念ながら、私に演劇の才能はないのよ。さて、一神教と多神教との違いは単純に言えば神様の数の違い。単純に言えば」
「分かったから」
「つまり一神教、ユダヤに限ればYHVH以外は神になる余地が無いのよ」
「それは翻って言えば多神教は神になる余地があるってことね」
「流石に理解が早いわね。そう、日本神話においては、すでにいる神以外も神になれるのよ」
「だから現人神なんてのがいてもいいってこと?」
「そうね。それどころか物だって神になるわ。九十九神とか」
「あれは妖怪でしょう」
「日本では妖怪と神の違いなんて大した問題じゃないわ。河童だってもとは神だもの」
「それは聞いたことがあるわね」
「日本の神は、一言でいえば“すごい存在”ということ。鬼だって神よ。葛城の一言主(ひとことぬし)なんかは、元は神だけれど時代を経るにつれて鬼とも呼ばれるようになったのだもの。荒魂(あらみたま)・和魂(にぎみたま)・幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)なんて言葉があるように、日本の神は単に“すごい存在”というだけの意味しかなくて、人に恵みを与えることもあれば逆に祟ったりもするのよ」
「随分一神教とは違うのね」
「ええ。特に十字教なんかはかなり無理矢理一神教の形態を取っているから、神話の構造はかなりグロテスクよ。だからこそ神学なんていう学問で無理矢理補強しているのだし。神ならざる身の作り上げた、いびつな神話だわ」
「……パチュリーって、キリスト教が嫌い?」
「魔女でキリスト教が好きな奴がいたら、是非ともお目にかかってロイヤルフレアね」
「ああ、そう……。まあ、色々あったものね」
考えてみれば当然だ。悪名高い異端審問や魔女狩りなど、いびつさの最たるものだろう。
あまりに苛烈で狭量な宗教と言えなくもない。
そんなことを考えながらも、アリスは自分の作ったクッキーを一口齧る。サクッと軽い触感と、ほのかな甘み。なかなかよく出来ている。
「歴史的な事件はともかくとして、私個人としてもあんな不自然な神話は好きじゃない」
「宗教って面倒ね」
「面倒だけど、宗教と神話は別物よ、アリス。神話は文学だけれど宗教は政治学だもの。神話という物語だけがあったとしても、それが直ちに宗教になることはないわ。宗教とは、それを信じる人の集団がいてこそ成立するものなのだから。まあ、当然なのだけれどね」
「人の集団に関してだから政治学ってこと? 分からなくもない理屈だけど、奇妙な話ね」
「奇妙でも何でもないわ。キリスト教の神は人格神だもの。神が思考し判断を下すのよ。世界を作り森羅万象を司る唯一で絶対の神がさらに人格まで持つ。これは尋常じゃない事態よ」
「……うん?」
「物語に出てくる神がどのようにして生まれるか、話した方がいいのよね、きっと。神って言うのは自分からなるものではなくて人が作り上げるものなのよ」
「えっと……」
「たとえばあなたが自律人形を作り上げて自らを神だと名乗ったとしましょう」
「名乗らないわよ。それじゃイタい子じゃない」
「イタい話をしているのよ。あなたは自律人形を作り上げた。それが神の御業に相当する素晴らしい偉業であることは間違いない。でも、その事実はあなたしか知らなかったとする。まあ、友達少なそうだし」
「数少ない友達の一人であるあなたくらいには教えるわよ。当たり前じゃない」
「話の仮定をひっくり返さないで頂戴。星一徹の前に置いたちゃぶ台じゃないんだから。あとそういう嬉しい事をさらっと言うのもやめて。恥ずかしい」
「え?」
「なんでもない。で、アリスは言うの。“私は神の御業を成し遂げた。私は神だ”ってね。なんてイタいのかしら」
「イタいイタい連呼しないで。なんで仮定の話からいきなり私がイタい子になってるのよ」
「イタいからじゃない?」
「イタくない」
「そうね。アリスがイタい子だなんて酷い暴言だわ。失礼にも程がある。冗談はさておき、アリスが神になるためには自律人形を作るだけでは不十分ということが言いたかったのよ。神の御業を成し遂げることは神になるための必要条件だけれど十分条件では無かったのね」
「必要とか十分とか論理学みたい」
「論理学をやってるんだもの、当然よ。穴だらけだけど。では、話を仮定に戻しましょう。まだイタい子のアリスはとりあえず近場にいる白黒鼠にでも言うんでしょう。“私は自律人形を作ったわ”って」
「どうでもいいけどイタい子はやめない? 例えばの話だと分かっていても心が痛いわ。あと、自律人形が完成したら魔理沙じゃなくてパチュリーに一番に教えるわよ」
「あら嬉しい。じゃあ、アリスの意志を優先して話しかける相手は私にしましょう。そうすると私に会いに来る途中で門番と挨拶をするんでしょう。“アリスさん、なにやらうれしそうですね”“そうなのよ。聞いてくれる? 実は自律人形が完成したの”こうしてアリスが自律人形を作り上げたことがアリス以外に伝わるわけね。ああそれにしてもなんで私が一番じゃないのかしら。妬ましい。最近の流行りだとパルいって言うのかしら」
「自分で作った話に自分で嫉妬してどうするのよ」
「それもそうね。で、当然私に会う前に小悪魔とああ妬ましい」
「それはいいから」
「そう? で、私に会うわけね。“自律人形が完成したわ”“あらそう、おめでとう”“何よ、もっと喜んでくれてもいいじゃない”“じゃあもう私に用は無いわね。さよなら”“え、ええ。そうね。あの、……いままでありがとう。じゃあ”なんて。ああ、アリスはなんて薄情なのかしら」
「どう聞いてもあなたの方が薄情だわ」
「そんなことないわよ。嘘だけど。さて、そんなこんなでアリスが自律人形を完成させたことが色々な人に広まったとする。そうすると、アリスは“すごい存在”って認められるわけね。そこであなたは神の御業を成し遂げた存在として認知されて神になる。そのあと里の人間なんかが“アリスさんスゲーマジスゲー鬼スゲーリアル神だろjk”とか言い出して人が集まって集団になって“アリス真理教”とかいう宗教が出来上がり私がそこの巫女におさまるところまでが私の妄想」
「なんだか言葉遣いがかなり乱れていたような気がしたけれど」
「流行りらしいわ。それはともかく、この場合アリスが神になるためには自分の成し遂げたことを自分以外の誰かに知られることが必要だったわけね。つまり、神の御業を成し遂げ、かつその事実が自分以外の存在に認められることが神になるための条件なの」
「うん。まあ、例え話に何か釈然としないものを感じるけど、分かったわ」
「まあ、実際は神の御業をなそうがなすまいが周囲の人々によって勝手に神に祭り上げられることなんてざらなのだけれど。
だから神の御業を成すことが必要条件っていうのも間違い。結局神が神たりえるために必要なのはその存在を信じる人々がいるっていうこと」
「だから、政治学って言ったのね」
宗教にとって重要なのは神ではなくそれを信じる人々である。だから、宗教的に重要な理屈というのは実に政治的であって、神学とは政治を安定させるツールにすぎない。
きっとパチュリーが言いたいのはこういうことだろうとアリスは合点し、それまでの話の流れを振り返りまとめ始めた。
それにしても紅魔館で出される紅茶は実においしい。茶葉の違いか淹れ方の差か。
今度咲夜に聞いておこう。
アリスは頭の片隅にそう記すと、また紅茶を口に含む。
「半分は正解。もう半分はキリスト教に特徴的なことよ」
「まだあるの」
何を当たり前のことを聞いているんだ。
そう言わんばかりのパチュリーの表情を見て、アリスは大人しく観念する。
諦めの肝要さを、図書館に通い始めて以降身に染みて学んでいるのだから。
「要点ならもう一点かそこそこはあるわ。ところでアリス、なぜ冬はこんなにも寒いのかしら。風も強いわね。幸い隙間風の心配はないけれど、困ったものだと思わない?」
「冬の寒さね。雪女の心当たりはあるけれど。風なら天狗あたりが吹かせているんじゃないかしら。そういうの得意でしょ」
「そう。冬なら雪女だし、風なら天狗の団扇よね。普通に考えたら自然現象なのだけど。でも、自然現象にも行為者を求めたくなるのが人情というものね」
「えっと、ごめん。いきなりわからない」
「たとえば、森の中を歩いていたらいきなり木の倒れる音が聞こえたとしましょう」
「魔法の森ではそんなことないわよ。精々マスタースパークが見えるくらいで」
「だから話の仮定をひっくり返さないで。で、行って見たら別に木なんか倒れてない。どういうことだろう。で、言うのよ。“天狗じゃ、天狗の仕業じゃ”“落ち着け。天狗なんていない”って。いるのにねぇ」
「いるわね。迷惑なのが」
「さっきのは天狗倒しっていう現象で、木を切る音につづいて、木の倒れる音と地響きが感じられるのに行ってみると何もないの。所謂怪現象ね。珍しくもなんともない。で、誰がやったのか分からないけど誰かやった奴がいる筈だというわけで天狗のせいにされているわけ」
「天狗もいい迷惑ね」
「この前読んだものにはうちわで低気圧を呼ぶ天狗も出てきていたわね。“乾坤九星八卦良し!!! 落ちよ怒槌神鳴る力!!!”とか言って。……っ! 大声なんか出すもんじゃないわ」
「大声って、そんな無理してないでしょう」
「……心配してくれないのね」
「何を今更。私が一体何度その手に騙されていると思うの? 情けないけど」
「まあ、決して誇れることでは無いわね。自虐はもういいかしら。早く話を進めたいの」
「止めてるのはパチュリー」
「そうね。さておき、今度は私も試してみようかしら。風水的に地形を整えてから八卦を利用し大団扇を触媒に嵐を召喚し、雷を落とすか。雨を降らせるくらいなら私にも出来るわね。あの天狗の団扇で代用がきくといいのだけれど」
「物騒だからやめた方がいいわよ。それに、あの天狗にそこまで神通力があるとは思えないし」
「そうね。大天狗の団扇って書いてあったもの。それよりは“天光満つる所に我は在り、黄泉の門開く所汝在り”の方が現実的かもね」
「分からないわ」
「いいのよ別に。妄言だから。話を本筋に戻すと、“誰かは知らないけれど誰かがやっているに違いない”っていう考えは人としてとても常識的な考え方なの。アリスの留守中に貴重な鉱石がなくなっていたとしましょう。どう考えるかしら」
「魔理沙ね」
「そうね。それが常識的な回答よ。でも実はその物質には潮解する性質があったとしたらどうかしら。別に昇華でもいいわ。そんな鉱石は聞いたことが無いけれど、あるとしましょう。つまり、誰もやってないっていう事態がありえる」
「例がめちゃくちゃでよく分からないけど、まあ、あるんでしょうね。雨なんかそうかしら」
「そうね。誰が降らせているわけじゃないもの。けれど、降っているからには誰かが降らせているに違いない。誰だろう。神だな。神なら仕方ない。そんな具合もあるかもしれないわね」
「変な話ね」
「変じゃない。あそこの家はなぜかついてる。不自然なまでに金回りがいい。何かあるに違いない。で、犬神憑きだって言われたり中国では山ショウ憑きなんて言われるわけ。この辺は蟲毒に関係するわね。よく分からないけれど何かいるに違いない。誰かがやっているに違いない。そんな考えはごくごく常識的な発想なの」
「常識的ってやけに強調するじゃない」
「常識なんかは必ずしも正しいわけではないものの端的な例だもの。というかだいたい間違ってる。分かりやすくて、事実と異なる。ヘーゲルなんて常識的過ぎて哲学者なのかと疑いたくなるくらい」
「いや、哲学は知らないけれど」
「そうね。話を戻しましょう。ここに人間がいる。人間は無からは生まれない。となれば作った存在がいる筈だ。また、世界がある。世界を作った存在がいるに違いない。雨を降らせたり晴れにしたりする何かがいるに違いない。こうしてYHVHの存在が想定される。そしてYHVHは戒律を定められた。唯一絶対であると。天国と地獄と煉獄を作られた。裁きを下されるのも、YHVHである。YHVHは意志を持つに違いない。思考するに違いない。人格を持つに違いない。こうして人間が想定した実体を持たない神は唯一絶対で人格を持つ神になった。ところで実体を持たない神はどうやって思考するのかしら。実体がないのなら精神を持つこともありえない。でも神は人格を持ち裁きを下しえる。その思考はどこから来たのかしら?」
「実体がなくても精神のある存在って、結構心当たりがあるけれど?」
「ここは幻想郷だもの。そして今までのは外の世界の話。で、YHVHの思考とか判断って言うのは、つまるところその存在を想定している人たちの思考や判断だわ。実体のない神の思考や判断なんてありえないもの。唯一絶対の神がいるとして、想定されえる健全な在り方は非人格的な神ね。アザトースの在り方が近いのかもしれない。世界は白痴の神の見る夢。また、混沌に形を与えると混沌は死んでしまうようなもの」
「最後のは荘子ね」
「ええ。まあ、荘子も大概悪ふざけが過ぎると思うけれど。私が蝶なのか、蝶が私なのか。まるで我は汝、汝は我の世界ね。我は汝の心の海より出でし者、力をかそうぞ……。なんて」
「ん?」
「なんでもない。YHVHの意思は信者達の意思。信者達の意思は謂わば民意ね。民意を先導するのは政治家。政治家がやってる事を学問化すると政治学というわけで、宗教は政治学とでも言うべきなのかもしれないわ」
そこまで言い切ると、パチュリーはぬるくなった紅茶に口をつけた。不快そうに顔をしかめるが、そのまま飲み干してしまう。
実は彼女が喘息持ちというのは嘘なのじゃないかとアリスは話をするたびに思うのだが、本人がそう主張するからにはそうなのだろう。
「ところで、魔界に宗教ってあるのかしら」
「さあ。一応神綺様がいるし私の姉妹もいるから宗教のできる素地はあるかもしれないけれど」
「宗教黎明期は明確な形をとるものが少ないものね。宗教や神話の本領は神がおかくれになった後なのだから当然と言えば当然かしら。まだムラ社会みたいなものなのかもしれないわね。私は実物を見たことが無いから分からないけれど」
「そんなものかしら。戒律とかないし、結構自由気ままよ」
アリスの脳裏に、姉たちに叱咤激励される神綺様の姿が浮かぶ。さっきまでしていた話とは程遠い状態だ。
「キリスト教の悪癖にね、ほかの宗教の神を悪魔という形で取り込むって言うのがあるのよ。一神教だから当然なのだけれど。天空神バアルが悪魔バアルゼブス=ベルゼビュートみたいにね。だから天使も悪魔も呆れるほどに有象無象の十把一絡げで二束三文出血大サービスなの。でも信者以外の人間にとっては天使も悪魔も神も仏も妖怪も大差無い存在でしかないの。いずれもが信仰の対象になるえる存在だもの」
「幻想郷にいると実感するわね」
「アリスは魔界神を信仰しているのかしら?」
「そうね、尊敬もしているし感謝もしてる。けれど信仰となるとどうも、ね。さっきの話を聞いた後で即答するのは難しいわよ。意地が悪い」
「別に意地が悪くてこんな話をした訳じゃない。ただ、聞いておきたいのよ」
「何を」
「あなた、神になる心構えはできているの?」
■□■□■
神になる。
パチュリーからそう言われた時、アリスは面喰ってしまった。
神になどなる気はない。それこそイタい話だ。
ただ自律人形を作ってみたいだけで、変に名が知れるのは望むところでは無い。
しかし、神とは自らなるものではなく周囲の人物によって祭り上げられるものらしい。
その考えに至る度、作業の手が止まる。
神なんて耐えられない。
そしてすぐに思考を作業に向ける。
目の前にあるのは馬鹿みたいに巨大な作業台だ。そこには木材から削り出した骨格標本が置いてある。
木だけなら家の周囲にいくらでもある。削りだしたり連結させるのが多少骨だったが、それでも他の素材で代用するよりは実用に向いている。主に重量的な意味で。
体積に比して軽く、なおかつある程度の強度がなければ実験体用の骨格として不適当だ。
おかげで屋外に屋根を仮設しただけの場所に作業台を作らざるを得なかったのだけれど、仕方のないことと納得するしかない。
全長は16メートルほど。アリスの身長のおよそ10倍強はあるだろうか。
人形を動かすための様々な機能をテストする目的で用意された素体だ。
別にこのまま魔力を流して操ってもいいのだけれど、正直めんどくさいし疲れる。
それに、巨大な骸骨を動かして楽しいとも思わない。
動かすにしても、せめて外見くらいはまともにしてからだ。
骨格標本と言っても、細部は適当に誤魔化して作ってある。
あまりに可動部分が多いと不必要に脆弱な骨格になってしまうし、何よりもメンテナンスが大変になる。
人の体は新陳代謝の恩恵で限りなくメンテナンスフリーに出来ているのだが、人形はそうもいかない。
人形にその機能を組み込むには現在持っている知識以上の物を要求されるし、何より最初からそこまでの機能を必要とはしていない。
あくまでこれから作る人形はテストベッドなのだ。詳細な調整は対象が大きい方がしやすいと思って作ったのだが……。
正直、こんな大きくなくてもよかったと思っている。
これじゃあどこぞの人型機動兵器だ。
大きな物を動かすのが目的ではないのだから、いくらなんでも途中で気付いてよかった。
しかし作ってしまったのだからしょうがない。
今やっているのは、腕を動かすための簡単なギミックの取り付けだ。
人体の解剖図を参考に、筋肉組織を魔力で伸縮させられる糸の束で代用している。
試しに魔力を通してみると、予想通りに前腕部と手が持ち上がった。
骨格同士はロープでつないでいるだけなので、持ち上がった前腕から手のパーツがだらりとぶら下がっているという多少情けない姿ではあるのだけれど、それでも実験は成功した。
基本方針は間違っていないのだろう。
そう判断して、他の筋肉にあたるパーツを作り始める。
この一週間で、右腕だけでも完成させておきたい。
何も人体構造を丸ごと再現する必要はないだろうと思っていたのだが、実際はそうでもない。
目的は「作った人形を動かす」のではなく、「動く人形を作る」ことにある。
岩や土塊を用いて作り上げられたゴーレムを動かすならば、その形は人体に準拠する必要などない。
犬や猫といった生命体である必要もない。
ゴーレムなどという存在は、「たまたま」人型であったにすぎない。それでは意味が異なるのだ。
人型「でなければならない」物を作ろうとしているのだから、全く別の設計思想に基づいているべきだ。
そしてここに至る。
もう二日ほど徹夜を続けているので、そろそろ疲労も気力ではどうにもできないほど溜まっている。
一応の実験が成功したからだろう。体が休息を求めてストライキに入ろうとしている。
アリスは前腕部に取り付ける代用筋肉を一つだけ作り上げると、シャワーを浴びてベッドに入ることにした。
とりあえずぐっすり眠りたい。
あまり面倒なことは考えたくない。
神になるとかならないとか、知ったことじゃない。
瞼を閉じた刹那、アリスは睡眠へと落ちていた。
■□■□■
「おじゃましてるわよ」
「あらお見限り。今日はどうしたの? 随分疲れているようだけど」
アリスが図書館へ入りいつもの場所に座るが、パチュリーは本からチラッとだけ目を来訪者へ向け前述の台詞を呟いたきり、そのまま元通りに本を読み続ける。あからさまに険の含まれた口調だ。
アリスは軽く嘆息する。
こういうときは間違いなく機嫌が悪い。
一言で言うと、拗ねているのだ。
そしてその理由も分かっている。
かれこれ一月ほど図書館へ来ていなかったからだ。間違いない。
「仕方ないじゃない。パーツを作ったり素体に組みつけたりで忙しかったのよ。だから当分は来れないって人形を遣いによこしたでしょう」
「ええ。そうじゃなかったら私が出向いていたわよ。まったく、これだから七色人形馬鹿は……」
「あなただって研究に没頭すると似たようなものでしょう」
「それもこれも諸々の事情込み込みで納得した上で、この反応なの。わかるかしら?」
「はいはい。ご無沙汰してごめんなさいね。私もあなたに会えなくて寂しかったわよ。これでいい?」
「棒読みでそんな台詞を吐かれても困るわ」
「そう。まあ、お詫びと言ってはなんだけど、今日は腕によりをかけてお菓子を作ってきたの」
「何よ。そんな物。食べるわよ。物につられるわよ」
「で、満足した?」
「そうね。久しぶり。制作は順調かしら」
「おかげさまで」
お菓子を目にしたパチュリーの言葉から棘が抜ける。いや、棘が抜けたのは単に飽きたからだろう。
仮にも半年以上は付き合いがあるのだから、流石に本気で拗ねているわけではないことくらいはアリスにも分かる。
「随分大がかりみたいじゃない」
「う……。大きい方が、複雑な調整がしやすいのよ」
「で、どれくらいあるの?」
「えっと、16メートル、強」
「……まあ、ね。ほら」
「いいの。何も言わないで。お願いだから」
「やってみないと分からないことってあるもの。そんなに気にすること無いわよ」
「リアルなフォローはやめて。優しくしないでよ。私の何が目的なの」
「あえていうならアリス自身かしら」
「なに? 貞操の危機? こう見えてもただの3ボスじゃないのよ。Exモードいっとく?」
「確かにあなたの持っている本に興味が無いでもないのだけれど」
「本。本が目当てなのね。だから私に優しくしてくれるんだわ……」
「そろそろ怒ってもいいかしら。悪ふざけで言ってもいいことと悪いことがあるわ。ちなみに今のは言ってもいいこと」
「ならなんで怒るのよ」
「言ってもいいけど気に食わないことだから。どうせ分からないでしょうけれど」
「大丈夫よ。パチュリーの言いたいことはわかってるから」
「失礼ね。アリスに全て見透かされるような安い精神構造してないわ。それにしても珍しく引きずってるみたいじゃない」
「そんなことないわ」
「嘘つきは泥棒の始まりよ。あなたまであの白黒鼠と同じになってほしくはないのだけれど」
「もう少し言い方ってものがあるでしょう……」
確かにパチュリーの言う通り、アリスは失敗を引きずっていた。
というのも。
「ふふ。実験体が重すぎて動かせないのでしょう」
「ご明察」
パーツを組みつけたまでは良かったのだが、骨格の重さだけに考えが向いておりパーツの重さまで計算に入れていなかったのである。
たかが木と糸の塊と侮るなかれ。塵も積もれば山となるの言葉通りに、すべてのパーツを付け終えた実験体はもはやアリスの魔力のみでは動かせなくなってしまっていた。
アリスが得意としているのは魔力を精密に操ることであって、大量の魔力を放出するのは得意では無い。むしろ不得意科目と言ってしまってもいい。流石に人間である魔理沙に劣ることはないが、パチュリーには敵うはずもない。
ただでさえ事前に計画していたサイズ以上の物を作ってしまったことにショックを受けていたというのに、それに加えて己の魔力の脆弱さを思い知らされることとなったアリスは、しばらくぶりに精神的に打ちのめされていた。
「傷心のアリスになら、付け入る隙はあるかしら」
「腰までずっぽり付け入っておきながら、今更だわ」
「身持ちが固いくせに何を言っているの。で、どうにかなりそう?」
「どうにかなるようならいいわね。動力の参考になるものが無いかと期待してやってきたのだけれど」
「八卦炉とか」
「そうね。八卦炉を作るスキルに持ち合わせはないのだけれど」
「それ以前に、八卦炉のエネルギーをどうやって魔力に変換するかが問題ね」
「え? そのまま……」
「八卦炉はもともと炉。八卦の理屈を組み込んだ炉に過ぎないわ。魔理沙のあれはもはや炉とかいう次元のものではないけれど、作った人間がそう意図したのでしょう」
「じゃあ、仮に八卦炉を作り出せたとしても問題は解決しないわけね」
「そうね。八卦炉はもともと高度な錬丹技術に使われるものだから。三昧真火であらゆるものを溶かすためのものだもの、そこから直接魔力を取り出すことはできないわね。何か変換用にアイテムを作らなければいけない」
「はぁ。また難航しそうな問題が出てきたものね。八卦炉かぁ」
「じゃあ、今日のティータイムの話題は八卦炉にちなんで八卦にしましょう」
「……いい気晴らしになりそうだわ」
沈んだ表情でアリスがうめく。
やることなすことすべてが上手くいかない。
勿論そんな簡単に自律人形が作れると思っていたわけではないが、実際に困難な点が大量に出てくると気が滅入る。
動力のあてさえつけばと思っていたのに、その動力がとてつもなくハードルの高い問題だった。
問題はあの巨大な実験体を動かすだけに留まらない。実際に制作する小型な自律人形にも、自立した動力を取り付けなければいけない。
あわよくば魔理沙の持っているミニ八卦炉を参考にしてしまおうと思っていた矢先に明らかになった問題だったので、失意の程は想像以上だった。
さらに、あまりに順調に事が運ぶのでちょっとした躓きに必要以上に動揺している自分がいることに落ち込む。
これではあまりに幼く滑稽だ。
何年魔法に関わってきているのだろう。
そこまで考えてから、アリスは自分の思考がどんどん暗い方向に向かっていることに気付く。
今ここで考えるべきことでは無い。
「私が動かしてあげましょうか」
「……遠慮しておくわ。そこまでおんぶにだっこじゃあまりにも私が情けないもの」
「情けないアリスも好きよ?」
「あら嬉しい、とでも言うと思う?」
「かけらも」
「そうね。その通り。そこまで分かっていて聞くんだから、意地が悪い」
「目の前にいるのは何かしら」
「魔女ね」
「魔女の意地が悪いのは常識だと思わない?」
「常識は正しくないものなんでしょう?」
「必ずしも正しいわけではない、ね。それに、そもそも常識が正しかろうが間違っていようが日常生活にさほど支障はない」
「……なんだか同じ言語を話している自信がなくなってきたわ」
「次元波動超弦励起縮退半径跳躍重力波超光速航法」
「え?」
「次元波動超弦励起縮退半径跳躍重力波超光速航法。はい」
「じげんはどう、……なに?」
「一応日本語ね」
「そう。わけが分からないけれど」
「同じ言語を話していても、通じないことなんかいくらでもある。というか極論すると同じ言語なんてない」
「乱暴ね」
「そう。でも外的に規定できるような個人言語間の同一性条件は未だに存在しない」
「ここは幻想郷よ。日本語で頼むわ」
「日本語よ。つまり私とあなたが同じ言語を喋っているってことはどこの誰にも保証できないの。常識とはかけ離れた話だけど」
「ただ単にその理屈が間違ってるだけじゃないの?」
「かもしれない。でも、私とあなたが同じ言葉をしゃべっていることを保証する理論も無いの」
「通じてるんだから同じ、じゃあ駄目なの?」
「それが常識。ところで、アリスは足し算ができるかしら」
「それくらいできるわよ」
「普通はそうよね。1+1は?」
「2ね」
「そうね。10かもしれないけれど」
「人類は十進法を採用したのよ」
「でも二進法を放棄しているわけでもない」
「……ああ言えば」
「こう言うのよ。冗談はさておき、続きにいきましょう。2+2は?」
「4でしょ」
「この前うちの小悪魔は3って言ったわよ」
「ちゃんと教育しなさいよ」
「そうね。3以上はすべて3って答えるみたいだったからきちんと教えてあげたわ。そしたら今度は100を超えたら全部100って答えるようになったの」
「だったら……」
「どれだけきちんと教えても、終わりなんかないのよ。クリプキは賢いんだか馬鹿なんだか分からないけれど、クワス算っていう非常に腹立たしい理屈を考え出したわ」
「クリプキ?」
「名前なんかどうでもいいのよ。それなりに偉い学者だと思ってて。つまり、その人が本当に足し算をしているかは分からないって言ってるの。もしかしたらアリスがやってる足し算だって“plus”によく似た“qlus”かもしれない」
「確かめればいいじゃない」
「どうやって? 条件なんて膨大な量があるのよ。それこそ無限に。その上無限にある条件を無限にある自然数一つ一つについて確かめるなんて狂気の沙汰だわ」
「それは、そうだけど」
「同様に、私とあなたが本当に同じ言語を話しているかは分からないの」
「……ああ、そう繋がるわけ」
「でも、会話に支障はない。同じ言語だろうとそうでなかろうと、日常生活に支障はないのよ。つまり常識の正誤は日常生活にそれほど関係しない」
「そこでつまりはおかしいでしょう」
「そうね。でも大体あってる。というか、言葉の習得過程と言葉の意味について考えると、同じ言語って無いとしか言えない気がするのだけれどめんどくさいからいいわ」
「一気にやる気なくしたわね」
「きっとアリスのせい。あと太陽のせいね」
「ここって日光入らないじゃない」
「異邦人かよってツッコんでくれない」
「知ってるけど面倒だったから」
「ああ、やる気がどんどん減っていくわ」
「……異邦人かよ」
「言われてからやるようじゃねぇ」
「ああもう。あんまり酷いと私の方がやる気なくすわよ?」
「それは困る。まあつまり、同じ言語なんて無くても困らないのよ。あったら不気味なくらいのもので。常識なんかそんなもの。本当にどうなっているかは問題じゃなくて、それで社会が問題なく動けばいいだけのもの」
「まあ、そうね」
「まあ、そうね。って便利な言葉だと思わない? 大体“まあ、そうね”って言っておけば事足りるもの」
「まあ、そうね」
「……まあ、そうよね」
「まあ、そうよ」
「アリスが冷たいわ」
「パチュリーの方がもっと冷たい」
「私ほど人間味あふれる魔女もなかなかいないわよ。嘘だけど」
「魔女は意地悪だものね、常識的に考えて」
「常識は実際を反映しないものよ」
「でも常識のおかげで世の中上手くいっているのだから、意地悪なんでしょう。魔女」
「西の善き魔女っているじゃない」
「どこが西でどう善いのか知らないけれど」
「具体的にはウルスラさん。善い魔女」
「知り合いにはいないわね。ウルスラさん」
「私の知り合いにもいないわ。あら、お茶の準備が出来たのかしら」
言われてアリスが振り向くと、咲夜がお茶の支度の整った台車を押して近づいてくるところだった。
全く気付かなかったのは、咲夜の振る舞いによるものかパチュリーとの無駄話に熱中していたからか。
おそらく前者であると思うけれども、後者で無いとも言い切れないのが忌々しい。
咲夜は慣れた手つきでカップとクッキーの乗った皿を置くと、一礼して音を立てずに去って行った。
「ああ、お礼を言うのを忘れた」
「別にいいんじゃない。気になるなら私が後で伝えておくわ」
「それもあるけど、お茶の淹れ方についても聞いておきたいと思って」
「そう。咲夜、悪いんだけど私の占いセット持ってきてくれないかしら。あとアリスが話したいことがあるそうよ」
パチュリーが言い終わった時にはもうパチュリーの横にさまざまな道具の乗った小さなテーブルが置いてあり、アリスの横には咲夜が立っていた。
パチュリーは持ってきてもらったテーブルの上で、何やら占いの下準備をしている。
「何かしら」
「呼び立ててごめんなさいね。紅茶の淹れ方について色々と聞きたいことがあって」
「そう。文句を言われるのではないかとひやひやしましたわ」
「文句なんてありはしないわ。この紅茶についてなんだけど、……あら」
「ええ。ですから」
「アップルティーね。珍しい」
「嫌いだったかと思って」
「そんなことないわ。この香りは好きよ。きちんと皮を煮てあるのね」
「丁度ジャムにする林檎が沢山手に入ったのですよ。いい機会だから」
「それでアップルティーが出てきたわけ。もしよかったら、林檎をいくつか分けてもらえないかしら」
「構わないわよ。そのまま食べるには向かない林檎だけれど」
「パイを作ろうと思って。大丈夫かしら」
「多分、香りの強いものだから合うはずですわ」
「そう。よかった」
「帰りにでも持っていかれるようなら門番に預けておきますけれど」
「宜しくお願いするわ。ありがとう」
「いえ。では」
「ああ、それと。いつも美味しい紅茶を有難う」
「……どういたしまして。では」
礼を言われたことに少し驚いたようだったが、軽く一礼すると咲夜はいつも通りに出て行った。
「アリスの作るアップルパイはおいしそうね」
「どうかしら。久しく作っていないから味の保証はしないわよ」
「上手くいく可能性の無いものを作ったりはしないでしょう」
「そうね。あなたに食べさせるとは言ってないけれど」
「私も食べさせろとは言ってないわね」
「そう?」
「そう」
「まあ、上手く出来たら持ってくるわ」
「じゃあ、期待しておこうかしら」
「で、それは何?」
「私の占いセットよ。タロットや水晶玉に片方だけのサンダルもあるわ」
「サンダル?」
「天気占いするの。あーしたてんきになーあーれー、って」
「あのねぇ」
「冗談よ。で、今回のメインがこの易者セット。ティータイムの出しものね」
「あら楽しみ。どんな手品を見せてくれるのかしら」
「なんという棒読み。あと、手品は咲夜の得意技だから私はやらないわよ」
「ああ、タネなし手品」
「手品はタネがあるから面白いのだけれど。そもそも手品の妙というのは……」
「自分の話の腰を折ってどうするのよ」
「あら、落ち込んでいた割には楽しみに聞いてくれるのかしら」
「もう落ち込むのはやめたの。別に八卦が悪いわけでなし」
「そう。残念ね」
「何がどう残念なのか非常に興味があるところだけれど、今はまあいいわ」
「徒に焦らしても仕方ないことであるし、実際に占ってみましょう」
そう言うとパチュリーは木の枝の束のようなものを手に取った。
「これは筮竹(ぜいちく)と言って、またの名をめどぎとも言うわ。マメ科の植物の枝の部分を50本集めてあるものよ。竹で作ったものもあるけれど、どちらも八卦を元にした占いに使われる道具ね。まず束から一本抜き取って太極をおくの。次に無念無想の境地に入り、束を左手と右手に取り分ける。左手が天で右手が地ね。そして右手から一本、人にあたるものとして抜き出して左手の薬指と小指との間に挟んでおくの。これで天地人が揃ったわけ。それから右手に持っている分を置いて、左手から四本ずつ取って行って余りを中指と薬指の間に挟む。次は右手で取り分けた分を同様に。そして取り分けた余り、つまり左手に挟んである筮竹の数がまず一つ目の数になるわね。人を取り分けるところからここまでが一セットで、三回繰り返して数を三つ得るまでが一サイクル。爻というのがその三つの数字によって得られるの。陰陽各々に若い相と老いた相の二つ、つまり四つの状態を表したものね」
「うん。一気に行き過ぎ。もっとゆっくりお願いできるかしら」
「じゃあ八卦の話からしましょう。一である太極から陰陽の二つが生まれ、陰陽は四象に分かれ、四象は更に八卦へと移る。この八卦が基本構成要素ね。基本は陰陽の二つ。仮にそれらを0と1としましょうか。すると綺麗に二進数で000から111までってことね。その八つというのが乾坤震巽離坎艮兌で、それぞれ二つ一組で対概念のペアを作るように出来ているの。伏羲が作り、周の文王が発展させ、孔子に至って完成されたと言われているわね。絶対違うけど」
「私が前に読んだものとは微妙に違うのね」
「八卦の成立や意味は占いの系統や時代によって様々に解釈が変わるわ。易経という書物を元にはしていても、細かな差異はいくらでも出てくるものよ」
「私は八卦炉に興味があって調べただけだから、占いには興味がなかったの。それでかしら?」
「八卦は本来占いまで含めて完成されるものなのだから、理屈だけ学んでも仕方ないの。良く易を修める者は占わないとも言うらしいけれど、それだって普段易の勉強を続けているからこその言葉ね。占いというのは一朝一夕に習得できるものではないのだから」
「タロットなんかは、形だけなぞるというわけにはいかないものだものね」
「元々タロットは遊戯のための道具から様々に改良されて占いに使われるようになったものだもの。絵柄が重要視されるように、タロット占いに重要なのは読み解きね。易も同じ。出てくる結果に対して一定の文言が指標として与えられているけれど、重要なのはそれをいかに易の精神にのっとって現状に即した形に読み解くか。易の占いは誰にでも出来るものではない。八卦の理屈が身に染みついた者でなければ真っ当な占いなど出来はしない。易に限らずだけどね」
「はいはい。私が甘かったわよ」
「別にそんなことは言ってない。八卦炉に必要なのは易じゃなくて八卦の理屈だから、八卦だけでも理解はできるわ。でも八卦の理屈に対する理解を深めるためには易の占いまで含めた全体を把握するのがいいの。というわけで、占いの話題から始めたわけね。で、どこまでいったのだったかしら。……そうそう、爻の話ね。爻には老陰、少陽、少陰、老陽の四つがあるの。平たく言うと陰と陽の二つ。さらにそれぞれに若い相と老いた相の二つで四つね。ここ重要」
「その爻って八卦に関係あるの?」
「あるわよ。爻が三つで八卦になるのだもの。これが爻」
そう言ってパチュリーは手元にある紙に図形を描き始めた。
┏━━━━━━━━━━━━┓
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ━━━ ━ ━ ┃
┃ ┃
┃ 陽 陰 ┃
┃ ┃
┃ ┃
┃ ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛
「つながってるのが陽でつながってないのが陰よ」
「ああ、魔理沙の八卦炉についてる模様」
「正確にはその一部ね。八卦はこう」
再び、パチュリーは図形を描き始める。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ┃
┃ ━━━ ━━━ ━━━ ━━━ ┃
┃ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ┃
┃ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ┃
┃ ┃
┃ 乾 巽 離 艮 ┃
┃ ┃
┃ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ━ ┃
┃ ━━━ ━━━ ━ ━ ━ ━ ┃
┃ ━━━ ━ ━ ━━━ ━ ━ ┃
┃ ┃
┃ 兌 坎 震 坤 ┃
┃ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
「ああ、これは見たわ。全く専門外の分野だから何が書いてあるか分からないけれど」
「そうね。知らない人にとっては唯の模様だけど魔術に関わるものとしてはそんなのざらにあること。乾坤が天地、震巽が雷と風、坎離が水と火、艮兌が山と沢」
「まあ、ね。一応パチュリーが今言った図形と対応する名前、意味だけは覚えていたんだけど」
「私の労力を返して」
「難しいわ」
「ふりでもいいから」
「困難よね」
「試しに」
「それは難題だと思うの」
「私はかぐや姫じゃないのよ」
「なおさら理由にならないじゃない」
「それもそうね。じゃあいいわ。話を戻しましょう。八卦に八卦をかけた六十四卦が易の占いに使われる指標ね。水地比とか水沢節とかいう名前があるけれど、前二文字は八卦のどれとどれで出来てるかを表すの。猫又と吸血鬼って感じね。ああ、妄言よ。気にしないで。沢地萃っていうとあの鬼を思い浮かべるわね。タロットのカードが64枚あると思えばいいわ。それを一枚選び出す手順が、さっき私がやった筮竹の操作」
「あの一サイクルを六回も繰り返すの?」
「そうね。都合十八セットもじゃらじゃらやるのよ。そうして爻が六つ得られるわけ。その六つの爻を並べると、六十四卦の一つと合致するの」
「それがカードを選び出すのに相当する、と」
「そう。で、占いが始まるのよ。この卦はかくかくしかじかの内容で……って。そこで読み解きの手がかりになるのが、爻の若さね」
「その若さって何? 珍しい言葉遣いよね」
「易の本質は、変化にあるの。易姓革命ってあるじゃない。あの易よ。具体的に変わるってどういうことかというと、若い爻は変わりにくく、爻が古いと変わりやすい。だから、卦が出てもそこから先がありえるということなの。しかも変化する先は一つじゃない。より複雑な読みが出来るのよ」
「つまり奥が深いのね」
「簡単に言うと奥が深いのよ。まあ、変化が重要なキーワードね」
「変化ね。それは面白い観点だわ」
「中国の思想には動きが伴うものが多いわね。実に本質的な観点だわ。注目すべきは物体のみではない。それらの動きも同様に意味あるものなのだから。それゆえ集合論のみならずカテゴリー論なども面白いのかもしれないけれど資料が乏しいからよく分からない」
「最後は私にも分からないわ。とにかく、変化が大切ね」
「そう。ここで八卦炉の話をすると、あれって正八角形じゃない。で、対辺同士に対概念が刻まれている。対概念を見てみると、丁度陰陽が反対になっているのが分かると思うのだけれど」
「そうね。先天八卦図の形になっているわね」
「……アリス、あなた分かっているのかいないのか判断付けづらい物言いをするのね」
「わかってはいないわよ。外面的なものは暗記しているけれど、自分で再構成できるような知識は持ち合わせていないの」
「なによ、その公式を丸暗記しただけみたいな虚しい知識は」
「まずは形から入るのよ」
「理論を作り上げた先人に敬意を表しなさい。形だけを使うのは剽窃にも等しい不敬な行為よ。犯罪と言ってもいいわね」
「悪かったわね。役に立つ知識を効率的に集めようと思ったらそれが一番だったのよ」
「間に合わせならそれでもいいし日常生活で困ることもないでしょうけれど、あなたのやっている研究はそれで済むようなものでもないでしょう?」
「……そうね。今も自分の不勉強を悔やんでいるところよ。易の表面的なところしか知らなかったから有難いわ」
「そう。無駄話もそれなりに役に立っているようで無駄話なのか微妙なところね。不本意だわ」
「なんでよ」
「役に立つような知識なんて私は必要としていないもの。無駄な知識の美しさこそ至高ね」
「まあ、パチュリーのスタンスがそうならそれでいいとは思うのだけど」
「役に立つようなら好きに役立ててもらって構わない。あまり期待されても困るけれど」
「そうね。何でもかんでも頼りたいとは思っていない」
「それは有難いわね。さて、八卦炉の強みというのは対概念を対辺同士に配置して、八卦の持つ変化の働きを炉の働きに加えられることなのね。陰陽って陽が良いもので陰が悪いものと考えられがちだけれど、そんなことはないのよ。陽が直ちに善にはならないし、陰が即ち悪でもない。陰陽と善悪とは直接関係しないの。陰も陽も物事の一面に過ぎないわ。単なる逆ベクトルよ。その動きの持つエネルギーを炉に見立てて使っているわけだから、強力な炉になって当然ではあるわけ」
「強力なのね、八卦炉」
「強力なのよ、八卦炉」
今日の無駄話もこれで終わりだろうと、アリスはアップルティーを飲み干す。
話の最中に少しずつ飲んではいたが、飲みきるまで林檎の香りは薄れなかった。何か仕掛けがしてあったのかもしれない。
「ところでアリス、これは私の純然たる興味なのだけれど」
「何? パチュリーの頼みなら大概聞いてあげるわよ」
「その試作品を見せてほしいの」
パチュリーの発言を受けて、アリスが固まる。
この魔女は一体何を言っているのだろう。アリスの瞳は何よりも雄弁にそう語っていた。
「あのね、動かせないって私何回も言ったわよね。もう恥を忍んで。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだわ」
「そして無様に負けるのよね。その忍耐は不毛だわ」
「ほっといてちょうだい」
「そして、何故私がアリスの家に出向くという発想が出てこないのかしら」
「え?」
「私が、アリスの家に、行く。OK?」
「……アナタ、ウチ、クル?」
「そう」
「……何の冗談かしら」
「何が?」
「パチュリーが動くなんて。異変でもないのに」
「知的好奇心よ。書を捨てよ、町へ出よう。ではないけれど」
「嵐とか呼ばないでね」
「……天候操作なら得意よ? アリスのブラウスも透け放題だわ」
「誰もやれなんて言ってないでしょ。セクハラしたら怒るわよ」
「あら恐い。雨を降らせながらロイヤルフレア、サイレントセレナ、賢者の石を唱えるくらいが精一杯のか弱い私になんてことを言うのかしら」
「そこにか弱さは無いわね」
「かもしれないわ」
「かもしれないじゃないわよ。それだけ膨大な魔力を使えるくせに何を言っているんだか」
「持病の喘息が……」
「何で喘息で頭を押さえてるのよ」
「ちょっとした気の迷い」
「つまり嘘なのね」
「そう、嘘なのよ」
妙に誇らしげに胸を張るパチュリーを、アリスはどこか諦めの混じった表情で見つめる。
断ったところでついてくるだろう。
勝手に入られていじり回されるよりは、招待したという建前を作っておく方が御しやすいに違いない。
アリスはそう判断すると、渋々承知した風を装いながらパチュリーを見る。
「しょうがないわね。そこまで言うなら来てもいいわよ」
「ありがとう。感謝するわ」
「ただし、あまりいじり回さないでね」
「心得てるわ。日記帳とか見ない」
「見たら蝋人形にするわよ」
「おお怖い」
パチュリーは、冷めた紅茶を何故か美味しそうに飲み干すと立ち上がる。
心なしか血色も良いように見える。
「咲夜、用事が出来たの。アリスの家に行ってくるわ。レミィに今晩のお茶会は欠席するって伝えておいてくれるかしら」
「かしこまりました」
「それと、ここの警備の増員もお願いするわ。一応いつもより強力な結界は張っておくけれど、強すぎると小悪魔や妖精たちまで影響が出るのよ」
「最近は襲撃の頻度も落ち着いてきましたから、問題ないとは思いますが」
「念には念を入れよ。あれの行動パターンは読むだけ無駄よ」
「わかりました。館内清掃からいくらか回しますわ」
「あいつ、まだ来るの?」
「ええ。おかげで新作魔法の的には事欠かないわ」
「懲りないわね」
「全くですわ」
「妹様が暴れそうになったら、雨を降らせて頂戴。陣は書いてある。小悪魔には発動のアンチョコを渡してあるから」
「畏まりました」
パチュリーはそのまま咲夜にいくつか用事を言付けると、何冊か魔道書をくくり出かける支度を始めた。
「その本持ってくるの?」
「役に立ちそうだから」
「そんなに沢山?」
「魔法で浮かせればいいじゃない」
「ああ、なるほど」
「ついでに私も浮くから楽に動けるわ」
「正直羨ましいわよ、その魔力」
「あげないわよ」
「もらえないものはいらない」
「補助アイテムとか使えばいいのに」
「そうよね。でもいいわ」
「そう。まあ、好みだから強制するようなものでもないし」
言いながらも、パチュリーの手元にはお出かけセットが集まってくる。
「どうやってるのそれ。ポルターガイスト?」
「これ以上この図書館をうるさくしたくはないわね」
「そうよねぇ」
「だからもうアリスには来ないでほしいくらい。嘘だけど」
「嘘でも傷つくわよ」
「なめていい?」
「物理的には傷つかない」
「残念」
「何がどう残念なのかしら?」
「別に。さ、支度が出来たわよ」
「なんで沢山帽子があるの? しかも何個かちっちゃいし」
「ああ、それドアノブカバー」
「どれだけ潔癖症なのよ。うちだってちゃんと掃除してるわ」
「そういう理由じゃない」
「まあ、別にいいけど……」
物理的には持ち上げられないだろう荷物を、魔法でふわりと浮かびあがらせるパチュリー。
自らも浮くと、風を吹かせて滑るように扉へと向かっていく。
「アリス、ぼーっとしてると置いていくわよ」
「なんでそんなにやる気なのよ」
よく分からないテンションのままするすると滑るパチュリーを追いかけながら、門で林檎を受け取るのを忘れずにアリスも紅魔館を出る。
「ああ、アリス。アップルパイ楽しみにしているわ」
「……気が向いたらね」
■□■□■
アリスの家に着くなり、パチュリーは居間の隅に巣を作り始めた。
「あのねぇ。うちにも客間くらいあるのよ」
「私は気にしないわ」
「私が気になるのよ」
「……そう」
「案内するからついて来て」
「仕方無いわねぇ」
本当に渋々といった様子で、パチュリーはアリスの後をついて歩く。勿論荷物一式は浮かせて動かしていた。
案内された部屋のドアを通るか通らないかという大量の荷物だったが、数回に渡る試行錯誤の上最終的にはまとめてある荷物を一旦ばらして運び込むことにしたようだ。
「この部屋を使って頂戴。それにしても、すごい荷物ね。まるで一週間くらい泊まり込むような量じゃない」
「そうよ。しばらくお世話になるわ」
事も無げに告げるパチュリーに、アリスは暫く次の言葉を紡げないでいた。
微妙な沈黙の後、アリスは意を決して問う。
「……それは、私の家に泊まり込むっていうことでいいのかしら?」
「だから言っているでしょう。お世話になるわ」
「どれくらい」
「さあ。気分次第ね。最低五日」
「いきなりすぎないかしら。そういうことは事前に言っておくのが筋というものだわ」
「だってさっきアリスと話していて急に思いついたのだから仕方ない」
「なら紅魔館を出る前にせめて一言」
「言ったらあなたは許してくれたかしら。アリスのことだもの、たいして散らかってもいない部屋をわざわざ散らかっていると偽って、後日改めてという流れになるでしょう」
「さすがに親しき仲にも礼儀ありと言う言葉もあるわけだし」
「衣食足りて礼節を知る。主に食。というわけで、アップルパイが食べたいわ」
「明らかに間違った使い方よね、それ。……まあ、いいけれど」
「出来上がるまで、例の実験体を見せてもらっているわね」
「どうぞご随意に」
「ありがとう。やっぱりアリスは押しに弱いわ」
「押しも押されぬ人形遣いである自負はあったのだけれど」
「自負なんてそんなもの。じゃあ、楽しみにしているわ」
そう言うとパチュリーは、ドアに向かって歩き出した。
「あ、家の案内は」
「後でいいわよ。実験体は裏にあるのよね」
「ええ。廊下の突き当たりにあるドアを開ければ見えるわ」
「そう。それと、ドアノブにカバーをつけてもいい? 部屋を間違えない為にも」
「ああ、それで。構わないわよ」
「ありがとう」
ドアノブに帽子そっくりのデザインのカバーをかけると、パチュリーは満足した様子で実験体の様子を見に行った。
残されたアリスは、軽く溜息を吐くとアップルパイを作るためにキッチンに向かうことにした。
・・・---・・・
パチュリーは、実験体を前にして感嘆していた。
まさかここまで馬鹿正直に人体の構造を再現するとは。
筋肉の動きだけに限って言えば、この模型は実によく出来ている。
各々の筋肉を動かすために接続された糸が模型の外側を走っているのはご愛敬として、標本としては文句のつけようがない出来だ。
実験のために一つにまとめられた神経の束とでも言うべき入力部分に、試しに少し魔力を流してみる。
少しずつ、ゆっくりと流れる量を増やしていくと、やがてゆるゆると右腕が肩から持ち上がる。
人体の腱に当たる部分は、布を幾重にも巻いて補強してあった。おかげでだらりと無様に腕を引きずることなく、腕が上がる。
関節の可動域も設計されているからだろうか、無理に持ち上げられた腕は肘のあたりに多大な負担がかかっているように見える。
あまりいじって壊すとアリスに嫌われてしまうので、パチュリーは流していた魔力をゆっくりと弱めた。
すると右腕は、流れる魔力の量に応じてゆっくりと下がって行く。
改めて、パチュリーは感嘆する。
よくもここまで再現したものだ、と。
そして、ここまで愚直に再現しなくてもよかったんじゃないか、とも。
パチュリーは裏口のドアを開けて、キッチンにいるアリスに声をかける。
「アリス、今忙しいかしら」
「アップルパイを食べたくないなら用事を聞けるわよ」
「アップルパイは急ぎじゃない。それよりもこっちが大事」
「わがままな魔女ね」
「わがままじゃない魔女なんて形容矛盾もいいところだわ」
「だから魔女には友人が少ないのね」
「あら今更。あなたも似たようなものでしょう」
「お生憎様。私はそれなりに社交的なの」
「裏切られた。慰謝料を請求するわ」
「アップルパイでいいかしら」
「それで手を打ちましょう」
下らないやり取りをしながら、アリスがやってくる。
エプロンで手を拭きながら歩いてくる姿は実に所帯じみている。
「アリスは所帯じみているわね」
「そこは婉曲に家庭的と言って欲しかったわね」
「結婚して頂戴」
「段階って大事よ?」
裏庭に出たアリスは、腰に手を当て少々怒っている風にパチュリーを見る。
「……何?」
「勝手に動かしたでしょう」
「あら、そんなこと」
「右手がずれてる。あと、全体に姿勢が歪んでいる」
「ごめんなさい」
「まあ、いいわ。壊れたわけではないのだし。それにしても、やっぱりパチュリーなら動かせるのね」
「ええ。それなりに骨は折れるけれど、全身を動かすのも不可能ではないくらいかしら。ただ、細かい魔力の配分が問題ね」
「無理に動かすと壊れそう?」
「ええ。人の体は直接動かさない部分にも負荷がかかるものだから」
「……やっぱりか」
「こんなにデリケートに作らなくても良かったでしょうに」
「フィードバックも考えると、これが精一杯の簡略化なのよね」
「これじゃあ立たせるだけでも一苦労よ」
「そうね。土台に動力を仕込んで、立ち上がる時の位置エネルギーを軽減してもダメかしら」
「直立を維持するだけでもかなりの魔力を必要とするでしょうね」
「あー。うー」
「風雨に負けず?」
「そうね。負けたくないけどこれも私もケロちゃんじゃないわ」
「とりあえず、テスト用に動作をプログラめるかしら? 動力についてはあてがあるから」
「河童?」
「魔女が技術者に頼るのは癪ね。第一、物理的な動力を魔力変換するのも面倒だし」
「そうよね」
「錬金術ではなくて錬丹術に近いのかしら。八卦炉では無いけれど、発動機に近いものを本の記述に見つけたの。作ってみようと思ってね」
「パチュリーが? ……明日は槍が降るのかしら」
「降らない。失礼な」
「まあ、槍が降るなんて物理的にありえないものね」
「物理的にありえない、ね。幻想郷では虚しい台詞だわ」
「さておき。プログラムならいくつかはもう出来上がってるわよ。ある程度フィードバックを取っておきたかったから。……動かせなかったけれど」
「そう。では楽しみにしていてちょうだい。理論だけなら組みあがっているから」
「材料は?」
「持って来てあるし、足りなければ取り寄せるわ。最近アポートの魔法を開発したの」
「だったらあんなに大量の荷物を持ってくる必要はなかったんじゃない?」
「失敗したら大変だもの。代えの利かない物には使わないわよ」
「そんな物騒な魔法を私の家で使うの?」
「大丈夫よ。対策はしてあるから。見たでしょ、ドアノブカバー」
「パチュリーの帽子ね」
「……まあ、意図的にデザインを同じにしているから別に構わないけれど」
「で、帽子がどうしたの」
「あれ、一応マジックアイテムなのよ? あれであの部屋を一時的に私の工房に見立てているの」
「え? でも魔力なんか感じなかったけど」
「単なる触媒だもの。魔力を通さなければただの布きれよ」
パチュリーは帽子をとるとひっくり返したりリボンを解いたり結んだりしてから再びかぶる。
「ほら」
「そうみたいね。便利だこと」
「私の魔法は見立てが重要なのよ。形が大事」
「形だけ真似するのは良くないんじゃなかったの」
「形だけならね」
「ああそう」
「ところでアリス、わたしはおなかがすいたわ」
「あら、あなたはおなかがすいたの。奇遇ね、私もなの。どこかの魔女が呼ばなければ、今頃軽食くらいは出来ていたかも知れないわよ」
「我儘な魔女ね。碌なものじゃない」
「私は食べなくても平気だけれど」
「ああ、アリス。アップルパイを食べなければ研究ができないわ」
「なら部屋で大人しく本を読んでいるといいんじゃないかしら。もしかしたらアップルパイを持った人形が部屋のドアをノックするかもしれないから」
「冷静に考えるとなかなかにホラーな構図よね」
「そうね。あなた以外には気を付けるわ」
そう言うと、アリスはキッチンへ戻って行く。
パチュリーは改めて実験体を眺め溜息をつくと、大人しく部屋に戻ることにした。
■□■□■
「パチュリー、軽食でもどう」
アリスはパチュリーの部屋のドアをノックしながら声をかけた。
もう日も暮れて暫く経つ。
パイが焼けたので、軽い食事にしないかと呼びに来たのだ。
暫く待つが、返答が無い。
「……パチュリー? どうしたの、開けるわよ」
「今手が離せないから、勝手に入って来て頂戴」
「ああ、そう」
ドアを開けたアリスは、部屋の惨状に絶句した。
たかだか3、4時間見ないうちに、客間は魔窟へと変貌していた。
部屋の至るところに魔法円を描いた紙や参考にしたであろう魔道書が散乱している。
それらの傍には、あまり見慣れない素材でできたかけらが散らばっていた。
それと、壁の所々が泥や煤で汚れ、何故か素材が変質している部分もある。
この短時間でよくもこれだけ散らかせたものだ。
「何をやっているのかしら」
「言ったじゃない、発動機的な何かを作っているのよ」
「この惨状は?」
「失敗は発明の母と言うでしょう」
「つまりがらくたね」
「成功への礎よ」
「言い繕ってもゴミはゴミ」
「ロマンの無い」
「そうね。少なくともこの部屋はロマンを語るに相応しい状態ではないわ」
「えっと、アリス。ひょっとして、……怒っているの?」
「人形に片付けさせるから、大事なものだけ机によけておいてくれるかしら。それとパチュリー、服が所々煤けているから、シャワーを浴びて着替えてからリビングでお茶にしましょうか」
「アリス?」
「……いいから。別に怒ってるけど怒っていないことにするから、早くシャワーを浴びて着替えて。出て左に行って、二番目の扉」
「ええと……。ごめんなさい」
「いいわよ別に。それより、パイが冷めてしまうから早くね」
パチュリーは少しだけ申し訳なさそうにすると、着替えを持って部屋を出て行った。
アリスは仕舞ってある人形のうち普段使わない数体を取り出すと、それぞれに道具を持たせて部屋の修復にあたらせる。
ふと、ほうきと塵取りで落ちている欠片を集める人形の操作に妙な違和感を感じた。
妙に反応がいい。そんなに急いで片づけているわけでは無いのに、その作業をしている人形だけ妙に動作が軽い。
定期的にメンテナンスをしているとはいえ、この反応は普段使っている上海人形並だった。
おかしい。けれど妙な違和感が解決される前に床の掃除は終わってしまった。
あとでパチュリーに問い質そうと思いながら、他の部分を直しているうちにパチュリーがシャワーを浴び終えた音がしたのでリビングに向かいお茶の準備にかかる。
「さ、座って。お茶にしましょう」
「ええ。アリス、その……」
「別にいいわよ。実験するなと言ったわけでもないし、発動機の為に必要だったんでしょう? まあ、出来れば散らかしてほしくはなかったのだけれど」
「そうね。反省しているわ」
「パチュリーっていつもああなの?」
「ええ。まあ、紅魔館とは地形的なもののせいで魔力の流れが違うから少し特殊な事をしたけれど」
「そうじゃなくて、いつもあんなに散らかしているの?」
「そうよ。大体小悪魔に片付けさせているけれど」
「ああ、そう……」
小悪魔に少しばかり同情しないでもない。
「それよりアリス、アップルパイはどこかしら」
「あわてなくても食べさせてあげるから。それより、あの部屋に何かした? あ、してあるのは知っているんだけど……」
「そうね。予行演習というかなんというか。オリハルコンって知っているかしら。神珍鉄でもいいのだけれど」
「知ってるわよ。有名な金属じゃない」
「魔力伝導がいいから、発動機の部品に使おうと思って実体化させようとしてたの。かけらはその失敗したものね」
「それってそんな簡単に実体化させられるものだったかしら?」
「だから失敗したのよ」
「そうじゃなくて」
「西遊記にも出てくる神珍鉄なんて、珍しくもなんともない。オリハルコン、アカガネ、ヒヒイロカネ。呼び名は様々にあるけれど、賢者の石より実体化は楽だもの。私のスペルカードは賢者の石の見立てにすぎないけれど、理屈はあれで合っているはず。とすれば、同様に理屈さえ出来てしまえばそのものでなくてもそれらしいものは実体化できる。ただそれだけ」
「それだけって……」
「ここは幻想郷だもの。物理法則なんて虚しいわ」
「まあ、……そうね」
「屋内でやるには制限が多すぎるわね。明日は外でやってみることにするわ」
「ご自由に。実験体を壊すようなことは控えてほしいけれど」
「分かってる」
会話をしながら、アリスはアップルパイを切り分けていた。
紅茶を人形に淹れさせながら取り分けたパイを持って席に着くと、いつものティータイムのようにパチュリーと話を始める。
「ところでアリス、やっぱり人形を動かす時には落雷が必要だと思わない?」
「思わない」
「そう。お約束なのに」
「私はフランケンシュタインのゴーストを作ろうとしているわけじゃないのよ」
「似たようなものじゃない」
「似てない。あれはフレッシュゴーレム。私のは自律人形の実験体」
「そうね。大違い。でも、明日は落雷があるわよ」
「なんで? 気象予報でも始めたのかしら」
「私が落とすもの」
「え?」
「前に話さなかったかしら。雷を落とす方法」
「与太話じゃなかったの?」
「与太話よ。真面目な」
「大天狗の大団扇にあてでもできたのかしら」
「残念ながら。それに、明日と言っても全てが順調に運べばだけど」
「ねえパチュリー。発動機的なものって一体何なの? 八卦炉のエネルギーを魔力変換するものじゃなかったのかしら」
「それでは面白みがないから、別の物を作ろうとしているの。五行器っていうのだけれど」
「ああ、なんとなくパチュリーっぽいわね」
「そうね。こちらの理論の方が八卦よりも扱いやすいし。一言で言えば永久機関」
「……永久機関って、永久機関かしら」
「アリスがどの永久機関を言っているのか知らないけれど、多分その永久機関みたいなものね」
「止まらない?」
「まあ、その表現が分かりやすいのかしら。五行の相生を応用して魔力を循環させる。エネルギーの完全に閉じた輪を作り出すのよ」
「出来るの?」
「出来るかも知れないし、出来ないかも知れない。分が悪いどころか殆ど目の無い賭けだと思ってもらって構わないわ」
「それで、落雷なのね」
「ええ。自然のエネルギーで最も分かりやすく手に入れやすいから。木行に相当する中では多分一番ね」
「で、発動機本体は出来そうなのかしら」
「上手くすれば明日。出来なくても明後日かその次あたりには出来る筈よ。複雑な組成の組替えとかはないはずだし、きちんと見立てさえ作り上げられれば。後は私の体調次第」
「どうなの?」
「まあ、順調ね。この分なら嵐だって呼べるわ」
「それは勘弁してほしいものね」
妙にテンションの高いパチュリーに、アリスは少し戸惑いを覚えていた。
しかし、話を聞いてみれば納得もできる。
永久機関を完成させるというのは、それ程の偉業なのだ。
「ところでアリス。あなたは子供が産めるのかしら」
「それ、前にも聞いたでしょう。時が来れば産みますと答えればいいのだったかしら?」
「今回は違うわね。質問を変えましょうか。神になる心構えはできた?」
「……どういうこと?」
「新たな命を創造する責任を、あなたは取れるのかしら。一時的でなく、その新たな命がずっと存在することについて。あなたのこれからにずっと付いて回る責任について」
「私は別に生物を作り出すわけじゃないわ」
「そうね。あなたが作りたいのはただの人形だもの。では、あなたにとって命って何かしら。今給仕してくれているこの人形は勿論あなたが操っているものだけど、この人形に命は、精神は、魂はあるのかしら」
「それは……」
「あなたの作りだす自律人形に精神や魂や命があるのかしら」
「え……」
「別にそんなもの、本当はあろうが無かろうが関係ないの。重要なのはあなたがどう思っているか。もしあると思っているなら、それを生み出す責任も一緒に引き受けるべきもの、というだけの話よ」
「命とか、魂とかって、そんな……」
「中国では魂魄というわね。三魂七魄、魂(コン)天に帰して魄(ハク)地に帰さず、以て鬼(キ)と成りキョウシとなる。キョウシというよりキョンシーとでも言った方が通りがいいかしら。魂は精神を、魄は肉体を支える。あなたの作る人形はどうなるのかしらね。魂のないキとなりキョウシとなってネクロマンサーに操られているが如きものなのか、そも魄すら無いものなのか。つまり単なる物にすぎないのか。それとも魂魄を備えた人間として誕生するのか。あなたはネクロマンサーになりたいのかしら?」
「そんなこと、ない」
「でしょうね。では別の道を探しましょう。動く無機物に魂はあるか。アニミズムの話をしたわよね。どう思う? 勿論あなたの人形は動くわよ。私が保証するわ。動力だったら作ってあげるし、不具合があったら解消してあげたっていい」
「無機物が動くだけでは、魂があるかどうかなんてわからない」
「そう。そう考えるのね。それならそれで結構。じゃあ、あなたが作る自律人形は思考するのかしら。してほしいわよね、やっぱり。周囲の環境に適応して最適な行動をとるようにフィードバック機能もつけたいんだもの。それらの情報を集積し判断する機能も必要ね。だってそうでないと行動できないから。その自律人形は思考をしているといえるのかしら」
「わからない」
「あらそう。ではもう少し考えてみましょうか。上海人形は少なくとも動いているわ。それはアリスの判断によるもの。自律人形は動いているけれど、それは誰の判断によるもの? 別に誰かなんて分からなくても動くのは可能よね。アリスは何を作りたいのだったかしら。自分の延長としての自律人形? 自律思考する自分以外? 何を目的として自律人形を作るのかしら」
「パチュリー、ずるいわよ。それは……」
「私は何も結論を出していない。命についても、魂についても、精神についても、思考や判断についても。考えるのはアリス、悩むのはアリス、生み出すのはアリスなのよ。あなたがどう思うかが問題なの。私が、では無いわ。あなたは、どうするの? 作り出した何者かに対する責任があると思う? それが実際に思考するか否かは問題じゃない。命や魂の実在も問題じゃない。無論無視してもいいということではないわ。結局はあなたが魂や命や思考についてどう思うかという問題でしかない。常識と実際は異なっていても問題ないのだから」
「それ、は。だから。その」
「さてアリス、あなたに子供が――」
「黙って!!」
「ええ、黙りましょう。アリスがそう望むなら」
「お願い、黙って」
「私が黙って。あなたは、どうする?」
「お願いだから……」
「ここまで言っても、出て行けとは、いなくなれとは言わないのね。あなたは本当に優しい」
「黙ってよ……」
「そうするわ。もう寝るとしましょうか。アップルパイ、おいしかったわよ。おやすみ」
「……この、魔女ッ!」
「あら今更。では、良い夢を」
パチュリーはそう告げると、客間へと姿を消す。
アリスは暫くそのままでいたが、パイを片付けるとシャワーを浴びて寝室に入って行った。
■□■□■
翌朝の目覚めは最悪だった。
最悪と言えるうちはまだ最悪では無いなどと言った馬鹿もいたらしいが、最悪なものは最悪だ。一つきりである必要なんかない。
少なくとも人生の中でも五指に入るほど嫌な眼覚めだ。
以前こんな気分になったのは、パチュリーにもう来るなと言われた時だったか。
あの時も悩み事のせいでまともに睡眠がとれずに困った。
そうか。
あれもこれもパチュリーだ。
パチュリーが悪い。
パチュリー。
が、悪い。
わるい。
わるい?
考えるほどに、断言し難くなってくる。
言っていることは、それ程間違っているわけでもなさそうだ。
勿論、実にひねくれていて意地の悪い問いかけではあるだろうけれど。
それでもパチュリーが悪いことにしたい。
冷静に思考出来ていないことは、アリス自身がよく分かっていた。
けれども、命を生み出す覚悟と言われても、実感できない。
少女である自分に、そんな事を言われたって困る。
勿論、自分の生みだしたものなのだからきちんと責任は取る。
しかし、それが命となると。
……命となると、なんだろう。
それが命で、何が変わるんだろう。
自分が生みだした物には違いない。
それについてきちんと世話をすることも当然だ。
責任の取り方が少し難しいだけで。
それは自律人形だろうと普通の人形だろうと変わらない。
命とか、魂とか、精神とか思考とか。
パチュリーは無駄に惑わせるような言い方をする。
だから苦手ではあるのだけれど。
と、急にドアがノックされる。
「アリス、おはよう。おなかがすいたわ。もうお昼よ」
「おはようじゃないじゃない。……できたら呼ぶから部屋で待ってて」
真面目に考え事をしているところを邪魔されて、少々不機嫌になりながらもアリスはベッドから起き上がる。
しかもその考え事をさせている当人が、のほほんと空腹を訴えてきている。
お前はどこぞの亡霊かと。
そもそも昨夜あんな話をしておいて、まともに食事を作ってもらおうなどと。
ああもう、あの魔女は。
そんな思考を独り言で垂れ流しながら着替えを終えると、アリスはキッチンへ向かう。
「遅いわ。おなかがへったの」
「白玉楼の亡霊じゃないんだから、あんまり空腹を主張しないで頂戴」
「そう。でもへるものはへるのよ。あと、久しぶりに体力を使ったから筋肉痛になるわ。明日か明後日」
「年齢的な問題ね。あと、私は部屋で待っててって言った記憶があるわ」
「その記憶は多分正しいわね。私も聞いた覚えがある」
「じゃあ部屋に戻って」
「ここも部屋」
「そうね。客間に戻って」
「疲れたわ。寝ててもいいかしら」
「客間でね」
「往復するのは無駄な労力だと思うわ」
「出来たら持っていくわ。客間まで片道だから無駄じゃないわよ」
「アリスが冷たい」
「そうでもない」
「必死に機嫌を取ろうとしているのに」
「やめてよ。なんだか不気味だわ」
「やっぱり魔女は迫害される宿命にあるのね」
「これは魔女とか関係ないから。あと迫害とか人聞きの悪いことを言わない」
「私はこんなにアリスを愛しているのに」
「ありがとう。でも、さらっと愛の告白をしない」
「告白にありがとうで返されると、とっても困る」
「困るといいわね。最も多く愛する者は常に敗者であり、最も多く悩まなければいけない」
「マンね。忌々しくも尤もな言葉だわ」
「ああ、パチュリー。ありがとう」
「さっきも言われたわ。これは振られるフラグね。帰ってレミィに慰めてもらおう」
「自律人形、作るわ」
「……そう。心構えができたのね」
「ええ。だから、ありがとう」
「どういたしまして」
「案ずるより産むがやすし、ね」
「まあ、常識的に考えればね」
会話をしながらも、アリスはパチュリーに背を向けたままキッチンであれこれと作業をしている。
パチュリーは、机に突っ伏しながらアリスの背中を見ている。
「それにしても、パチュリーは怒り甲斐のない性格をしているわね」
「そんなことない。この疲れの半分以上は、アリスに嫌われたかも知れないって言う心労だもの」
「嘘ばっかり。肉体労働って言っていたじゃない」
「そうね。五行器はさすがに重かったわ」
「……できたの?」
「暫く錬金術にはかかわりたくないわね」
「雷は?」
「いや、うるさいのは嫌いだから」
「魔力は?」
「賢者の石で私の魔力を増幅して入れたの。疲れるから嫌だったのだけれど、うるさいよりはいいわ」
「なんで雷を落とすなんて言ったのよ」
「楽が出来るかと思って。成功確率は低いけど、それなら一度で済むもの」
「目が無いっていうのは、落雷で成功する目が無いっていうこと?」
「そうね。そもそもあまりに不確実な動力なら提案しないわ」
「っていうことは、もう五行器は使えるのね?」
「あと数日かけて実用可能なくらいに魔力を貯めれば。相生の理屈を使っているから、どんどん貯まるわ」
「それで、五日」
「そう。もうあと四日だけど。実用にはそれくらいかかるでしょう。余分な魔力は放電させればいいし」
「……パチュリー」
「なに?」
「あなたって、やっぱりかなりわがままだわ」
「そうね。今更だけれど」
「この、魔女」
「そうだけど、何か?」
「……嫌いになっていいかしら」
「アリスは優しいし可愛いわね」
「怒るわよ。……無駄だろうけど」
「そんなことないわ。アリスに嫌われたら生きていけないもの」
「だから、棒読みでそんな台詞吐かれても困る」
「生憎と、演劇の才は無いのよ」
「無いから余計に性質が悪い」
「知り合いにはいないわね、性質の善い魔女」
「私の知り合いにもいないわ」
食事の支度が出来たのか、アリスが振り向く。
まるで見惚れてしまいそうな、魅力的な笑顔で。
「はい、アップルパイのメープルシロップがけ。サービスでたっぷりかけてあげたわ」
「あ、ありがとう」
「紅茶にもたっぷりお砂糖を入れておいてあげたから」
「そう。……胸やけで寝込む予定が出来たから看病をお願いしたいわね」
世はなべて事もなし。めでたしめでたし。
■□■□■
・蛇の足・
「パチェ、帰ってこないな」
「魔法の森へ行ったようです」
「魔法使いか人形遣いか」
「人形ですわ」
「パチェ、しばらく帰ってこないな」
「ですわ」
なので、繰り返し読ませて頂こうと思います。
それでも、面白かった。凄く面白かった。
内容的にも続きがあるようなお話なので、是非とも期待させて頂きます。
あと、アリスもパチュリーも可愛いなぁちくしょー。
なんといってもアリスとパチュリーのやりとりがなんかもうツボに入ってもうあれだ
\すげえ/
次回作も期待させてくださいな。ご馳走様でした
前に書かれた作品も、そんな風に記憶にそそり立っていますもん。
神の在り様から入って、軽妙な掛け合いのうち不意に、命を生み出す覚悟に結びつく。身震いするような瞬間でした。
ああ、このパチュリーもアリスも大好き。
貴方の書くパチュアリが大好きです。
ごちそうさまでした。
その結果に行くまでにかなり費やしているのがちょっと気になるところではあります。
それでも面白いですけどね。
アリスとパチュリーの雰囲気や会話は好きだったりします。
ただ「アリス真理教」とかって…アレじゃないですよねぇ…?
私の勘違いなら良いのですが、もしそうならあまり出さないほうが良い事も……。
面白かったですよ。
でもそれが面白い。むにゃむにゃ。
……宵闇眩燈草子はやめれ、ダイスキだから。
次回作も楽しみに待ってます。
話が終始脱線してとりとめがないのですが、ヰさんの書かれる二人の雰囲気のおかげで
サクサク読めました。
素敵な話をありがとうございます。
サラッとバカップル。
いいぞもっと(ry
淡々とまったりと
これはいい話だ
嬉しそうに薀蓄を披露するパチュリーと、知りすぎず無知すぎないアリスの関係がいいですねぇ
しかし、所々で出てくる小ネタからして、作者とは相当読むものが被ってる感じ。
宵闇とか、足洗邸とか。
好評をいただいているようで、正直ほっとしています。
今回もネタにまみれた文章でしたが、色々と反応してくださってありがとうございます。
前作に引き続き抜粋レスの形になりますが、細々としたことなど。
>アリス真理教
そういえばそうですね。配慮が足らなかったかも知れません。
特に含むところもなく語感だけで名づけました。
まあ、危ない話題には、触ら、ぬ。ということで。
>ああもうってくらいああもう
個人的に好きな言い回しです。佐藤友哉好きですか?
私は好きです。
見当違いの事を言っていそうな気がするのでこれで。
>『宵闇眩燈草紙』と『足洗邸の住人たち。』
大好きです。そりゃあもう。
東方が好きな人は好きそうな感じのお話ですよね。人外がてんこもりで。
非常に絵とストーリーの魅せ方が上手な方々です。
>アリスの家に行きたかっただけ。
その通りです。今回のテーマはパチュリーのお出かけなので、タイトルもあんな具合です。
半分嘘ですけど。
本当はタイトルに困って、とあるライトノベルのタイトルをパk……。やだなぁオマージュですよ。
あの白衣とゴスロリの夫婦漫才が大好物ですが、関係ないのでここまで。
最後になりましたが、コメントの一つ一つが非常に嬉しいです。励みになります。
……遅筆なのはいかんともしがたいのですがorz
本当にありがとうございました。
ところでパッチェさんてばどこからそんな書物に無いような無駄知識まで集めてきたのかしらかしら
>アリスの家に着くなり、パチュリーは居間の隅に巣を作り始めた。
なぜかここが非常にツボった、さらに
>「そう。それと、ドアノブにカバーをつけてもいい? 部屋を間違えない為にも」
ここで橋頭堡を固めるつもりだと解釈した私はきっと間違っていない
いずれ、どこぞのスキマのように直接部屋の中に次元波動超弦迎起縮退半径跳躍重力波超光速航法してくるようになっちゃうんだ
>パチュアリの子供
そうですね。きっとそうなるんです。
二人の愛の結晶なんですよウフフ。
私がウフフって笑うとちょっと気持ち悪いですウフフ。
>橋頭保
その通りです。アリスの家に来る足がかりですね。
イナーシャルキャンセラーが無いのでアレですけど。
きっとそのうち突然現れるんでしょう。なんたって紫(むらさき)ですから。
パッチェさんの知識ですが、きっと本になってるんです。ムックとか。
……苦しい言い訳だなぁ。
この二人はこんな風に口喧嘩する位が逆に甘さが引き立つんだなぁ
……えっと、その、ごめんなさい、聞いた事無い名前なので今度書店で探してみます。
いいパチュアリでした。ごちそうさまです!
実に面白い文章です。
以前読んだ時は流し読みだったのでコメントもしづらかったのですが、改めてじっくり読むと言い回しと駆け引きに引き込まれますね。
本当にやりやがったよあの子。
しかしこの二人、実にいい空気である。
言い回しといい小ネタといい、作者とは趣味が合いそうだ。
……そして、人形が由貴彦さんに見えて仕方ないw
きっと澄ました表情で小難しい議論を交わしてるだろうに、
実に楽しそうにしている二人の様子がありありと伝わってきました。
素晴らしい。
セリフの中に小ネタが散りばめられていてとっても面白かったです。