Coolier - 新生・東方創想話

永遠亭

2009/02/09 20:19:13
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 静かな夜は、笹の擦れる音で微かな静寂を保っている。何処か遠くから、さわさわという音が集まっては風の動きを伝えてくる。そんな夜を彩るように、青白い光が天空に君臨する満月から落ちていた。庭の外に煙る葉のことごとくが竹の笹で、暗闇に包まれた竹林の先を見通す事は叶わない。たださわさわという音が、無機質に、けれども柔らかく届いてきて、その音に耳を澄ませる二人の女性は、一様に穏やかな表情を形作っていた。全ての生物が死に絶えたかのような、不気味な夜でもある。常人ならば恐れを抱く丑三つ時、肝が据わっている者ならば、肝試しには最適な時分であった。
 悠然と漂う雲が、静かに星の海を流れて行く中で、月はその身を隠し現わし、気紛れに光を投げ掛ける。それは大きな和風の屋敷に備えられた日本庭園を見通せる縁側に座った女性二人からすれば、風流を感じさせるものでもなく、また特別な感慨を湧かせるものでもなく、月があるという事実だけを感じさせる空の装飾の一部のようであった。何故なら彼女らは月に何があるのかを知っている。誰もが知り得ない事実を知っているからこそ、その美しさには虚飾の雲が懸かっている事を確信している。それだから二人には、この夜を彩っているのは静かな笹の音ばかりなのである。

「こういう夜に、こうして座っているのは何度目かしら」

 ふと隣り合って座った女性の内一人が声を発する。澄んだ鐘の音を思わせる美しい声音は、この夜の静寂に溶けて交わるかの如く、全く自然に竹林の奥へと吸い込まれて行く。庭の一角に備えられた棚の上で、風に揺られている盆栽の葉が月明かりに照らされて朧に現れ、それを見ては言葉を発した女性の唇は、妖美に歪む。艶やかな黒い髪の毛は漆黒の闇に溶けるのを拒むかのように、縁側の上に垂れ、月光を受けている。その美しき髪の流れは暗黒の中を流れる川よりも尚明媚である。多く形容出来る言葉はそこにない。彼女の美貌を表現し得る言葉が数多あるならば、世に美を自負する者達を表現する言葉は軒並み見当違いである。それは路傍の石と何も変わらない。

「教えて欲しいのなら、天文学的数字を並べ立てる事になるけれど」
「それなら止めとくわ。そんな数字を知ったら頭がおかしくなってしまうもの」

 月光の恩恵を受けたかのような銀の髪の毛は結ばれて、隣りに座る女性の黒き髪の毛の隣を流れている。闇が世界を支配する中で、それでも尚輝く髪の毛はその存在を主張しながら、女性の美しさを際立たせていた。二人の女は互いに笑い合った。一方は淑やかな笑い声を夜の帳の中に響かせて、一方は口元を僅かに上げた。それでも二人は互いの意思が言葉を必要とせずとも伝わっているかのように、互いの感情を感じる事が出来る。それはある意味で辛辣であり、ある意味で幸福な事象であった。嘘は容易く暴かれ、真は現実を突き刺し、そうした末路には深淵の闇が佇んでいるのである。

「それでも時間が経ったのは明らかね」
「そうね。とても大きな時間が経ったわ」
「これだけ時間が経ったのなら、あの満月が落ちて来ても好いのに」

 颯と吹く風が不意に二人の髪を梳いては去った。黒き川の潺湲が宵闇に流れる。それに交わるようにして、銀の糸が重なった。けれども二つの色が調和を成す事はない。銀に黒が混ざれば濁るのと同様で、黒に銀が混ざろうとも濁るばかりである。それは決して融和する事のない生物の深層、即ち心と称される精神的根源の在り様を示唆しているかのようで、全ての生物が天より賜わった不安定な姿を顕現しているようでもあった。
 やがて黒髪の女性は自らを嘲るような笑みを片頬に浮かべると、満天の星空を見上げ、その中心で静かに光を放っている月を見詰めた。空気の冴えた肌寒い夜には殊更月の姿が明瞭である。そこに静かの墓地を認める事も容易かった。が、彼女は静かの墓地が、墓地足り得る理由を有していない事を知っていた。それだから、空に浮かぶ満月の何処を見ても、感動の一片さえ感じる事がない。それどころか彼女は、蔑視さえ月に向けていた。

「――ねえ、永琳。自分が生まれて何年経ったか、覚えてる?」

 卒然として黒髪の女性はそう尋ねた。永琳と呼ばれた女性はそうして彼女に目を向ける。凛としているようで何処か儚い瞳は、精巧な硝子細工のような光を湛えていた。活き活きとして、生命力に満ち溢れた生物では決して湛える事の出来ない光である。それが永琳には酷く滑稽に思われた。何故なら誰よりも強い生命力を二人は有している。決して終わる事のない生命力は、最早生命力という枠組みの中から逸脱し、神の領域にさえ手を伸ばしているのだ。それだからその儚い瞳は彼女には不釣り合いなのである。禁じられた薬をその体内に取り込み、永遠を得た彼女には。

「数える事も、もう飽いてしまったわ」
「私も同じ。幾星霜の時を生き続けていては、積み重ねた年でさえ意味を持たないものね」
「これからも積み重ね続けて行くのだから、どうしたって不毛に違いないわ」
「とてもつまらない事よ。人間は一つ年を取る度にそれを祝うのに」

 ふふ、と彼女の唇から諦念の溜息が漏れ出る。柳眉は可笑しそうに垂れ下がり、瞳に宿る光は一層儚くなった。そんな二人を夜の闇は静かに包み込む。活き活きと沈黙が領する中で、二人の存在感は一際強くなりながらそこに在る。けれどもそれは、虚構に包まれながら永遠に発露する事がないように弱々しかった。高く伸びて天を穿つ竹林の孟宗竹は、そんな二人が見詰める先に聳え立っていた。一切合財の景色を覆い隠すその竹は強靭な生命力を否応なしに感じさせる、まるで彼女達とは対極的な存在である。月光でさえ甘んじてその身に受けるそれは、静かに戦ぐ風に揺られていた。

「それも道理ね。私達は人間じゃないでしょう」
「それなら私達はどういう存在なのかしら。もうそんな事も忘却の彼方」

 女はそう云ってまた笑みながら、長い黒髪に細い指先を通した。一切の滞りなく流れる髪の毛は人形のように繊細である。が、それがまた人間味のなさを主張する。彼女のその言葉通りに、自らの存在が判らないとでも云うように、長い髪の毛は造形の域を決して飛び出さない。ともすれば本当の人形に成り得そうである。それだから本来人を模して造られる人形という形容は彼女を皮肉っている。生物は決して無生物には成り得ないのだから。
 やがて永琳は静かに空気を吸うと、誰に云うでもなく、自身に云い聞かせるようにして語り出した。悩乱を、煩悶を、或いは苦痛を、辛苦を語るが如く、重々しい口振りである。

「それを定義付けるのは私達ではないわ。その存在が何であるかは周りが勝手に決める。新しく発見された動物が、自身の名を持たないのと同じように。だから今の私達は何物でもないのよ。"蓬莱山輝夜"と"八意永琳"という名前だけが私達の存在が何であるかを示す唯一の要素。人間だの妖怪だのと云った定義は、私達には付ける事が出来ない。一つだけ云えるとすれば、蓬莱の薬を飲んだ蓬莱人であるという事だけね。全く薬の名に頼るなんて笑ってしまうけれど」

 永琳はそうしてくつくつと喉を鳴らす。それに呼応するように、何処か遠くで梟の鳴き声が響いた。夜の静寂を打ち崩す声音を恨めしく思っているかのように、何度もほうという鳴き声が響き渡る。ところへ二人の見詰める庭先に一羽の兎が現れた。全然普通の兎である。特殊な力など何一つとして持たない、強者に喰われる運命を背負った悲しき兎である。小さな命は庭の中を好き放題に走り回った。餌を求める風でもなく、また遊び相手を探す風でもなく、ただ庭を走っている。すぐ傍にいる二人を警戒する様子も見えず、危機感などまるで持っていない。

「咎人は咎人以外の何者でもない、ね」
「そういう事かも知れないわね。罪を犯した者は罪人と称されたまま駆逐されるだけだから」
「酌量の余地を認められれば違う運命もあるわ」
「けれど犯した罪は決して消えない。永遠に背負ったまま、死んだ生を送るのよ」
「死んだ生なんて、まるで私達のようじゃない」

 一羽の兎はそうして輝夜の元へ寄ってきた。本来警戒されるべき存在である輝夜の足に身を擦り寄せて赤い眼を向けてくる。白い毛並みに覆われた身体は暖かく、肌寒い夜に微かな温かみを与えた。丸々とした可愛らしい愛嬌がある目は一心に輝夜に向けられている。何を求めるでもなく、ともすれば無感情な瞳が何かを訴えかけているようで、その意図を汲み取れない彼女は、小さな体躯を抱え上げて膝の上に乗せた。泥に汚れた足が彼女の膝の上に乗ると、着ている服は足跡の形をした泥によって容易く穢れる。が、そんな事は一向に構わないのか、輝夜は穏やかに笑みながら兎の頭を撫でて遣った。

「――懐かしいわね。時を忘れてしまうくらいには」

 永琳はその様子を見ると懐古に浸る心持ちでそう云った。静かな永遠亭の中は森閑として静まっている。彼女ら以外に生命の息吹きを全く感じさせぬまま、丁度目先に広がる竹林の中のように、生物の気配を感じさせない。灯りの一つさえ存在しないその中は、夜の闇に溶け込むように不気味な様相を呈していた。それがより一層懐古へ浸れと永琳を促すのである。今は昔の懐かしい光景を思い、悲しいような、寂しいような、とにかく寂然とした思いに駆られるのだ。

「そうね、全く懐かしいわ。それでいて、どうしようもなく可笑しい」

 兎の頭を撫でて遣ると、気持ち良さそうに兎は身を輝夜に寄せる。すると白い毛に覆われた身体から更なる温もりを感じる事が出来る。冷たい夜気を跳ね返そうとしているかのように、頼りない兎はこの時ばかりは輝夜の力になろうとしているかのように思われた。けれども、輝夜にそんな意識は毛頭なく、気紛れなはぐれ兎が迷い込んで来て、それが偶然人懐こかっただけだろうと納得したばかりである。他の温もりなど久しく忘れていた彼女にはそう思うより他に無かった。

「あの頃は今よりは多少賑やかだった気がするわ」
「兎の悲鳴とか」
「それは薬の実験に抵抗したからよ」
「永琳の薬は恐ろしいって噂されてたものね」
「実際に害があった事は一度もないわ」

 憤慨だと云わんばかりに永琳は眉を寄せて見せた。輝夜は可笑しそうに笑いながら、手持無沙汰な手で兎の頭を繰り返し撫でている。いよいよ月は山の方へと傾いてきた。如何に竹林が近くにあろうとも、遠方に窺える峰巒は近付く月光に中てられて青々と煙っている。尖った枝の先さえ見通せると思えるぐらいに澄み渡った空気は曙光の差す時分に向けて冷やかになってきた。到底寒さを凌げるような服装をしているようには見えぬ二人は、それでも動こうとする気色がない。極寒さえ甘んじて受けようとする意思が見え隠れするぐらいに、不動を誓っているかのようである。

「でも、本当に懐かしいわ」

 始終底の知れぬ笑みを湛えていた輝夜は、その時初めて真の表情を見せたように永琳は感じた。今まで薄い仮面に隠していた本当の表情を不意を突かれた所為で外してしまったのと同様で、すぐに彼女は元の通りの笑みを浮かべたが、それは判然と発見されてしまった。永琳には微々たる変化でさえ見通せる。長い付き合いだからという平凡な理由からでなく、時という世を統べる概念を超越したある種愛情めいた感情がそれを可能にするのである。それだから輝夜は一寸永琳の方を見遣ると、しまったとでも云うような顔付きをした。心持ち兎の頭を撫でる手にも力が入ったように思われる。

「他者のことごとくが有象無象、我が興味を引く事能わず」
「それがどうしたのよ」
「輝夜が何時か、私に云った言葉」
「確かに云った気がするけど、何で今云うのかしら」
「今感傷に浸っている姫様がそんな事を云っただなんて面白いと思っただけです」

 おどけた風に笑って見せる永琳は微かにからかいの趣を含ませて、わざと畏まった態度を取った。輝夜にはそれが不愉快に思われたのか、端正な顔立ちを心持ち歪めると、遠い過去に思いを馳せる気味で、つんとそっぽを向いた。それが全く子供らしい稚気を含んでいて、永琳には殊更面白く思われる。彼女は「冗談よ」と云って言訳にもならぬ糊塗をすると、また元の通り在らぬ方向へ視線を向けた。冬枯れの夜空は寒々しい。荒涼たる光景は此処にないが、それでも心持ち陰鬱な空気が蔓延る世の中を感じるような気がしてならない。永琳はそれが感傷に浸っている故の感情だと判ずると、甚だ自分のからかい文句が滑稽に思われた。それに当て嵌まるのは輝夜ばかりでなく、自分も含まれているからである。

「私だって人並みに剛情になる事ぐらいあるわ」
「あら、認めるのね」
「今更意地を張った所で、情けない体たらくが露見するでもないじゃない」
「変わったわね。前までは何処までも他人に興味が無いように見えたわ」
「人は変わると云うけれど、私も変わるのよ。例え人でなくとも」

 永琳はそこに寂寞の断片を見出すに至った。かつて自らの思量を悟らせないようにしていた気高き姫君の弱味を垣間見た心持ちがすると同時に、自己の憫然たる様までもが寂しき夜の中に浮き彫りになった気さえした。――やがて兎は輝夜に寄せていた身を離すと、大地に向かって勢い好く飛び降りた。「あっ」と輝夜のか細いような少しの驚きに思わず漏れ出てしまったような声が響くと、兎は一寸二人の方を顧みてから竹林の向こうへと消えた。後には豪奢な日本庭園の中に好く手入れの施された盆栽ばかりが鎮座していた。兎が通って来たかと思われる抜け穴も、その一番下の棚の辺りにある。輝夜は物哀しい瞳を暫く竹の隙間に遣っていたが、やがて溜息を白い霧に変えると、満足げに微笑した。

「――本当に、賑やかだったのね」
「ええ、本当に」

 二人は等しく視線を大地の上へと落とした。背後にある永遠亭の一室からは物音一つしない。何者かが走る騒がしい足音もしなければ、戯れに興じる声もしない。全く森閑としていて、閑雅なる趣さえ凝らしている。それはともすれば物の哀れを感じさせる静けさで、輝夜はそこを一寸見遣ると、再び寂しげな瞳を大地の上へと落とした。長い睫毛が上下する度に、年相応にも感じられる愛嬌の露が滴っている。美しき女性が寂寥を背負えば儚い美しさを醸すに至る。それは一抹の不安が成す一種の造形美である。輝夜はそういう美しさを身に纏う一人であった。

「今では月の姫君とその従者が住まう大きな屋敷」
「それでもかつての思い出が消える事はないわ」
「過去の残影ほど私達を苦しめるものは無いのにね」
「過去が無ければ今の私達は存在しないのよ」
「けれど已今当を共に駆ける者が居なければ、私達の存在なんて無いのと同義だわ」
「居るでしょう、私にも、貴方にも。永遠の時を生きる為に必要とする者が」
「その人はそれを望んでいないのかも知れない」
「付き合ってくれるのなら多少の望みはあるわ」
「それを信じる心が無かったら、私はどうしたって……」

 輝夜はその先を、まるで云ってはならない事を云い掛けてしまったかのような面持ちで区切った。そうしてその後は先の話題を再び出す事もなく、沈静な表情で佇んでいた。沈黙の幕が降りると辺りは殊更不気味な沈黙に包まれる。永琳は一人、苦悶に耐え兼ねたような調子で、苦々しい顔を寒空に向けていた。夜半を吹き抜く冷たい風が頬に当たると尋常でない冷たさが身を襲う。が、そんな事にも頓着する事のない彼女は、徒に月へ視線を向けるばかりであった。

「皮肉なものよね。永遠と須臾を操る能力を持つ私が、その二つに板挟みにされて苦しんでいるなんて」
「既にして矛盾しているのよ。決して交わる事のない永遠と須臾を操る事が出来たとて、須臾を永遠に変える事なんて出来やしない。私だって同じだわ。どんな薬でも作れると自負していても、この身を蝕む最大の病を治癒するに至らない。不治の病なんてものは、私達の者のような事を云うのよ。簡単に逃げられるほど、永遠の呪縛は弱くないんだから」
「今だからこそ、時に永遠というものは残酷なものだと思えるのかしらね」
「大切なものを失って、初めて気付くのよ。明日の朝陽を見れる私達は、その大切ささえ忘れかけている」

 下弦の月が空に懸かれば、やがて漆黒の闇に呑まれて新月へと至る。そうしてまた上弦の月が懸かり、夜の暗さを僅かばかり解消するのである。彼女らはその繰り返しが如何に尊いものかを心得ていなかった。永遠の呪縛がもたらす不幸は、その身に降り掛かる災難の数々ばかりではない。当然の事を何時の間にか忘れさせている事こそ最も忌むべき、真の不幸なのである。それを忘れた時、生物は時を忘れる。時の流れが如何に早いかを忘れる。滝壺に落ちる水が溜まる事なく流れ行くように、それを止める術が無いように、常にして流れ続ける世の時の残酷性を失念してしまうのである。
 二人は自己の内で時間という概念を完結させている。流れる時の早さなどに頓着する事のない所以もそこにある。が、生来大切にしていた宝が風化すれば否応なしに気付かざるを得ない。幾ら安全な所に保管していたとて、その風化を止める事は自然の摂理に反する。永遠に朽ちる事のない物質が世に存在しないように、――即ちそういう概念から逸脱した存在である二人が腐敗した宝に気付くのは、それが壊れたと自覚するまでの間にあるに違いない。

「惰性で生きる人間は死に向かうより他にない。――或いはその方が、幸せなのかも知れないわね」

 輝夜はそう云うと、おもむろに立ち上がった。そうして風に揺れる黒き糸を靡かせて、目の上にかかったそれを耳の上へと通す所作をすると、永琳に向き直って「お酒が飲みたいわ」と云って微笑んだ。永琳は困った風に笑って見せて、仕方なしに立ち上がると室内の中へ姿を消した。月明かりさえ届かぬ深淵の闇の中へと酒を取りに向かった永琳は、ほどなくして輝夜の元へと戻って来る。盆には猪口が二つと、小さな徳利が一つ載せられて、永琳はそれを縁側の上へ置いた。

「また行くのね」
「ええ、懲りずにまた行くのよ」
「その前にお酒だなんて」
「景気付けのお酒だと思えば縁起が好いじゃない」

 輝夜はそうして猪口を一つ、細くしなやかに伸びる五指を用いて掴み取る。それに永琳が徳利を傾けて、滾々と流れだす酒が猪口の中に注がれて行く。限界まで注がれたかと思うと、輝夜はそれを一思いに飲み干した。熱い息が夜気に晒されると、白い霧が月に懸かる。心持ち赤くなった頬を見て、永琳も自らの猪口に酒を注ぐと、彼女は慎ましやかに口中に一口分を含んだ。そしてそれを吟味するかのように味わった後、喉の奥へと通し、輝夜と同じように熱い息を夜気にて冷やす。彼女らはそういうある種儀式めいた行いをすると、互いに見詰め合った。

「私に対する処方は、こういう馬鹿みたような事が一番合っているわ」
「輝夜がそう云うのなら口出しする道理はないし、行っていらっしゃい」
「――寂しいって云ったら、行かないであげるわよ」
「馬鹿」

 輝夜は「冗談よ」と云って竹林の方向へ飛んで行った。鬱蒼と茂る竹林の、竹の間を縫うようにして、暗黒の中へ消えて行った。取り残された永琳は、一人「全く」などと呟くと、庭を歩き出す。そうして暫く歩き続けて裏庭へと出ると、彼女は冴え冴えしい空気の中を流れる風に揺られている幻燈の焔を目にした心持ちがした。時に青く燃えては、瞬時に赤く瞬くその焔は、静かな闇の中で音もなく揺れている。そうしてその先に過去の虚像を捉えると、図らずも柳眉は八の字を描き出し、悲しみに伏せられた瞼からは、長い睫毛が静かに哀愁の雫を滴らせ、幽玄なる幻想の中に燃ゆる焔を、白き煙へと変えて天に昇らせようとするが如く、消すのである。
 ――眼前に作られた二つの墓標を包み込むかのように、音のない、けれども玲瓏な調べの慟哭が響き渡る。決して遠くない竹林の何処かからは、赤々と燃ゆる焔が、遠く天に向かって立ち上っていた。
 大地を揺るがす轟音と共に、時折空を駆けては交差する光が見えた。一方は虹の色彩より尚鮮やかな光を輝かせ、一方は猛々しい焔を身に纏う火の鳥である。今宵空に懸かる異端の光は、何処までも場違いでありながら、何処までも豪華絢爛たる光を、明るみかけた空に懸けていた。朝月夜が自身の存在を憚るかのように空に浮かぶのも、直の事であろう。――






――了
永遠亭は、今も竹林の深くに佇んでいる。
twin
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コメント



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3.80名前が無い程度の能力削除
そう、あなたの書く話はとても切なくなる。しかしまたそれもいい。
あなたの書く幸せな、明るい話も一度呼んでみたいな
4.100煉獄削除
静かだ……二人の会話とその静けさが、経過した時の長さを物語っているようでした。
永遠亭には二人だけ…かつての弟子も幸兎も今や過去の人……ですか。
なんだか寂しいというか悲しいというか、二人の会話でそう感じました。
しかし、それがとても面白いものだったと思います。
良いお話でした。
17.90☆月柳☆削除
いつもの二人、いつもの永遠亭、なのに何かが違う。
それは文章の雰囲気からも十分伝わってきました。
何かが違うと思った理由は最後まで読んでわかりました、なるほどと。
そして、だからこういう雰囲気の作品だったのか、とも納得。
良かったです。
19.100名前が無い程度の能力削除
永遠だなぁ。
21.80名前が無い程度の能力削除
人物描写が素晴らしいですね。