妖怪の山の深く分け入った場所に、天狗や河童さえも近づかない大滝があった。
寒さの厳しい時期であるにも関わらず、水は凍るどころか雪の一粒さえも、その周りには存在しなかった。
山のほかの部分には、深い雪が積もっているにも関わらず、である。
滝壷には、冬に似つかわしくない、じんわりと汗を浮かべてしまうほどに暖かさが周囲に広がっており。
季節が間違って顔を出している異質な場所の中心には、一人の少女が背筋を伸ばし、座禅を組んでいた。
少女の名前は藤原妹紅。木々の息遣いに耳を澄ませ、滝の落ちる音に体を浸していた。
妹紅はこの三日間、他に何をするわけでもなく大岩に腰掛け、身じろぎもろくにすることはなかった。
その間は飲まず食わずでおり、当然睡眠も取っていない。疲労の色が表情からも簡単に伺い知ることができる。
呼吸もぜいぜい苦しそうに吐き出している。
それでもなお、妹紅はその場に留まり続け、動く素振りは見受けることができない。
酷い耳鳴りがした。
頭も痛い。
しかし心の中は波一つなく、穏やかであった。
余計な感情に流されていれば、本質を見据えることはできない。
滝が水面を叩く轟音が、一つ、また一つと妹紅の心を鎮めていった。
腹が減った、喉が渇いた、眠りたいなどという欲求は随分と前から何処かへと消え去り。
水の流れと、大地の匂いだけで、いくらでも生きていけるのではないかと錯覚してしまえそうだった。
このように己を見つめ返す行為は、まるで底の見えない暗い穴を覗き込むようなものだ。
一つ一つ拾い上げられていく自覚は、小さな心をこれでもかと殴りつけていく。
しかし弱い心は変形して不恰好になろうとも、壊れることだけは決してなかった。
壊れぬという一点だけを見れば強靭であるかもしれないが、心とは水を満たす器のようなもの。
変形を繰り返せば、許容できる広さは失われていく。周りが信じられぬようになり、狭く尖っていく。
これがはじめてのことではない。
妹紅はこうなってからの孤独との付き合い方を誰よりも深く知っていた。
藤原妹紅は蓬莱の呪いを受けしものであり、悠久の時を一人流離う孤独の民である。
腹が減り倒れようとも、その身を獣に差し出したとしても、その輪廻から決して逃れられはしない。
一所には留まれず、疎まれながらもただ生きてゆくのみであった妹紅は、長い旅路の末にようやく安住の地を見つけることができた。
それがこの、幻想郷である。
人々の記憶から薄れ、忘れ去られた者が辿りつく約束の土地。
妹紅はここにきて初めて、人として受け入れられる喜びを知った。
自らの正体を明かしても排斥されず、打算からではなく心から誰かの力になれる。
それにここには、憎き仇敵がいるのだ。妹紅はようやく、生きるための目的を取り戻した。
ひょっとしたら孤独に生きた千年間は空虚な胡蝶の夢であり、幻想郷で生まれてきたのではないかとさえ思い込むほどに。
しかしそれは、遠い過去に置いてきた温もりが否定した。それだけは、忘れるわけにはいなかったのだ。
じっと水の流れを見つめていると、ここに座っているのかという理由がおぼろげになり、水に流れていきそうになる。
そのたびに、妹紅は忘れてはならぬと思い直し、また己の心の内を見つめ直すこととなるのだ。
藤原妹紅は、死を忘れてしまった少女である。
しかしその心は、長い年月を経ても少女のそれであった。
1.冬の寒さは柔らかな手を繋ぐとのこと
その日妹紅は、いつも通りの時間に起床し、いつも通りに竹林の散歩へと出かけた。
今日はさしたる用事もないと、鼻歌を歌いながらでもぶらぶらしながらすることを探そうと決めるぐらいには退屈で。
ふあぁと生あくびをしながら、妹紅は竹林を歩いていた。
冬には活発に動く妖怪もほとんどおらず、秋にはあれほど騒がしかった動物もなりを潜め、いつでも賑やかな妖精たちも、たまに氷精とぶつかるのみだった。
弱いものいじめに興味はない妹紅は、はしゃぎまわる氷精たちを楽しそうだなと流し見するばかり。
これが例えば、チルノとかいう喧嘩っ早い氷精であれば、それをあしらって暇を潰すこともできたのであろうが、あいにくとその姿を見つけることはできなかった。
「退屈」
呟いた妹紅の言葉に答えるものはいない。ただ緩い風が吹いて、竹の葉が擦れてしゃらしゃら鳴るばかり。
足を止めて耳を澄ましてみても、風の流れる音と、しゃらしゃらと葉の鳴る音だけが耳に入ってきた。
「静かだなぁ」
この静かな環境を妹紅は気に入っていたし、できるならば、未来永劫変わらないでほしいとも思っている。
時折輝夜とケンカをし、そうでなければタケノコを掘ったり罠を仕掛けたり。
気が向けば川まで足を伸ばして魚を釣る、たくさん釣れれば干せばいい。
炭を作って里へ卸しに行くのも喜ばれる仕事だったし、慧音に招かれて、里で何かを手伝うのも嫌いじゃない。
祭りがあればその中に混ざって、たくさん米が取れますようにと手を合わせ拝む。
何気なく過ごす緩やかな日常こそが、幾年も願い続け、手に入れることができなかった宝だった。
永遠に抜けることはないと思い込んでいたトンネルは、ついに開けたのだ。
ここ数年で、よく笑うようになった。
痛いときは痛いと言うし、気に入らないこと、あるいは自分の信念を貫くために弾幕ゴッコへ興じることもある。
住処を求めて彷徨い歩く日々には、楽しみも悲しみも感じる余裕はなかった。
だからこそ、何気ない一つ一つが琴線に触れていくのだろう。
薄く積もった雪を踏みしめているうちに竹林は途切れた。
天を仰げば、雲一つ無い大空に、鴉が二匹じゃれあっていた。
ここまできたんだしせっかくだ、慧音の家にでも遊びにいこうか。
そう考え、妹紅は止まりかけていた足を、再度動かし始めた。
妹紅は、踏むとしゃりしゃりと鳴る雪が好きだった。
子供染みているとは思うけれども、好きなものは好きなのだ。それに誰に咎められるわけでもあるまい。
できるだけ長く踏みしめていたいと回り道に回り道を重ねているうちに、茂みの奥に踏み込んだ場所に小さな泉が湧き出ているのを見つけた。
泉の周りには雪にも負けず、瑞々しい緑の草が生え茂り、水面の縁には白い花が、小さいながらも美しい花を咲かせていた。
かすかに甘い香りが、辺りには漂っている。
鼻が特別利くわけでもない妹紅は、しばらくその香りの正体に思い至ることができなかったが、どうやら泉全体から香ってくるらしい。
懐かしい香りである。どこかで確かに、嗅いだような気がするのだが、それは靄のようなものに巻かれてどこかへ消え去った。
忘れてしまったのならば、大したものでもあるまいて。
歩き続けているうちに、忘れてきたもの、失くしたものは数え切れないほどにあった。
もう子供の頃に住んでいた屋敷のことなど、何一つ覚えてはいない。
懐いていたはずの乳母や、くるくると身の回りのことに精を出していた女中の顔は、遠い昔にのっぺらぼうだ。
縁側から足をぶらぶらさせ眺めた木になっていた果物の色も、ぼやけてしまって思い出すことはできない。
辛い思い出が分厚く重なり、それを忘れたいがために思い出は、水に濡れた紙のようにふやけていく。
しかし長い途上の中で、決してぼやけはしない鎖が確かに存在していた。
数奇な運命さえ舞い込まなければ、いずれは貴族として誰かの嫁となり、それなりに幸せな人生を終えていたのではないかということ。
ふっと、妹紅の頬が緩んだ。
辿れなかった道筋を、今更考えてもしょうがない。
たまたま掛け違えたボタンのようなものだとしても、もうずっと、振り返っても見えないほど遠くまで歩いてきてしまった。
それに、時間を遡ることなんて誰にもできない、人として死ぬことは、許されないのだ。
それでも――この思いは、千年歩き続けている最中、幾度となく心を蝕んできた。
なぜ私だけが、苦しみ生きなければならないのだろうか、と。
あの時、蓬莱の薬を飲まなければ。
あの時、諦めて家で泣いていたならば。
あの時、蓬莱山輝夜が父の前に現れなかったならば。
輝夜のことは、そこまで憎くなかったはずなのに。
蓬莱の薬を奪おうとしたのも、父親の恥をどうにか濯ぎたいという子供ながらの発想で、それ以上でもそれ以下でもない。
じゃあなぜ固執するかといえば、そうしなければ自己を保つことができなかったのだ。
人として生きるということは、背中がぞっとするほど恐ろしいことで、常に張り合いが求められている。
のんべんだらりと生きているだけでは、それは人とは呼べず、腐っていくのを待つ屍と何ら変わりは無い。
野山で毒キノコにあたろうとも、人に疎まれ狩り立てられようとも、恐ろしい妖怪に付け狙われているときも。
生きるために、輝夜を憎まなければいけなかった。
そう思わなければ、輝夜のせいにしてしまわなければ、死んでも死に切れない。
日は登って沈むのを永遠に繰り返していく中で、輝夜だけが生きる支えなのだった。
何年前のことだったろう、恐ろしく寒い日があった。
並の人間ならばたちまち生きる気力が削がれるであろう寒さの中、薄っぺらなボロ布だけを羽織って震えていた。
輝夜が憎い、輝夜が憎い。
ガチガチ歯を鳴らしながら、それだけを呪文のように繰り返していた。
意識は何度も遠くなり、落ちるたびに見えない力で無理やり引き戻された。
繰り返し落ちていくうちに慣れてしまったのか、いつのまにやら寒さはまったく気にならなくなっていた。
といっても手足はまったく動かず、思考も凍り付いてしまったかのように緩慢にしか回らない。
回らない頭は、ずっと同じ言葉を繰り返す。
憎い憎い。
輝夜が憎い。
憎しみだけが、凍った心を溶かし燃え滾っていく。
憎しみだけが、心に深い根をはり、それが全てなのだと自己主張をはじめる。
生きるから憎いのか、憎いから生きているのか。
それすらも混ざって、気が狂ってしまいそうだった。
いいやきっと、狂っていたのだ。
自らの異常性というものは、妹紅は痛いほどに知っている。
優しくしてくれた岩笠を殺し逃げてから、妹紅は他人へ心を開くことができなかった。
その代わり、憂いた気分を晴らすために、妖怪を嬲り殺した経験は掃いて捨てるほどにある。
村を襲う妖怪を片付け、お礼に授かり悦に浸った経験も当然、ある。
妖怪だけでなく、悪いと認識したものを探し、狩り、燃やし尽くすたびに、心は少しだけ晴れた。
命乞いをする山賊を、正義のためだと一閃したときは、胸がすく思いがした。
手はどす黒く染まり、憎悪だけを宿していったけれど、腕なんて切り落とせばいくらでも生えてくる。
だから早く、もっと殺さなければいけない。
悪い奴は殺して殺して、お父様を悪い奴から守らなければいけない。お父様はもう死んでいるのに。
違う、じゃあなぜ殺さなければいけないんだ。
殺す相手を探すだけの日々が数十年か続き、大義名分ががおかしな方向へ捻じ曲がっていったことを自覚してからは、考えることをやめてしまった。
ただそこにいるから、感情も込めずに淡々と処理をする。
どうしたって死なない妹紅は、最後にはいつも相手を殺して、その屍の上で抜け殻のように座り込むようになった。
そしてまた、当てもなくどこかへと彷徨い始めるのだ。
自分から妖怪を殺すことをやめたあとも、過去は幾度となく妹紅を追いかけてきた。
殺した妖怪の親類縁者が、妹紅を付け狙って襲い掛かってくるのだ。
殺してきた数よりも、追いかけてきた数のほうが最後は多かったのではないだろうか。
追われる日々も、数十年ではきかないほどに続いた。
折れた心に添え木を当てるため、輝夜が憎いとうすっぺらい嘘を吐く。
殺したはずの妖怪たち、不死の人間が憎らしいと怨嗟の声をあげる。
その声を掻き消すために、理由も忘れるぐらいに大声で、輝夜が憎いと叫ぶ。
怨嗟の声がうるさいと、耳を潰したこともあった。
(仕方ないだろう。生きるためには殺さなきゃいけなかったんだから)
それがとんでもないエゴだとしても、死ねないのだから生きなければいけない。
心を歪めるにはこれ以上ない矛盾の中を、妹紅はたった独りで駆けて生きてきた。
笑えることに、憎たらしいはずの仇敵の顔も知らなかった。
だから私の中の輝夜は、本物と相見えるまでいろんな顔をしていた。
ある時は自分よりももっと年上で、鋭い目をして睨みつけてきた。
またある時は自分よりももっと年下のくせに、生意気にあざ笑ってきた。
本物はそのどれよりも憎たらしく、そのどれよりも、悲しげな瞳をしていた。
長い間、私はそれを許すことができなかった。
悲しんでいるのは私だけでいいのに、なぜ全てを奪ったはずのお前が、そんな瞳をしているんだ。
泣きじゃくりながら、私は輝夜を殺した。何度も何度も殺した。
首を折っても、心臓に刃を突き立てても、輝夜は死なない。
死ぬことができないのだった。
嫌なことを思い出してしまった。
そのまま風化していけば良いものをわざわざ掘り返してしまうのは人としての性か業か。
妹紅は自分がまだ人であったことに半ば苦笑しつつ、泉へと背を向けた。
もう二度と、ここにはこないであろうという確信を持って。
しゃりしゃり鳴らしながら四半刻も歩いていると、ようやく見慣れた道に入ることができた。
里に行く特別な用ことなどなかったが、アテもなくぶらぶらしていてもつまらない。
それならば、慧音のところでゆっくり茶でも飲ませてもらおうと考え、妹紅は先ほどまでの憂いを飛ばすように鼻歌を歌った。
空にはトンビが一匹、ゆらりゆらりと舞っている。今日は非常に天気がいい。青色が満面に広がる、雲一つ見えない快晴だった。
道端では、朝露に濡れた雑草が昇り始めた太陽の陽を反射して輝いている。
里へ向かう最中妹紅は、大きな杉の木の横で若い夫婦とすれ違った。二人はまるで、この世には春しかないかのように晴れやかな表情をしていた。
その表情に妹紅は釣られて機嫌を良くし、歩く速さも心なしか早くなっていた。
先ほどまで心に侵食していた暗い思い出の数々は、もう心の奥底に鍵をかけて仕舞われた、しばらくは出てくることもないだろう。
里は朝っぱらだというのに人に溢れていて、ついでにちょこちょこと妖怪の姿も混ざっている。
まぁ自分も妖怪の一種みたいなもんだなと考えていると、唐突に腹が鳴った。
「そうだった、朝飯も食べてきてないんだもんなぁ」
そうなると体というものは面白いもので、ようやく思い出したかと不満の声を鳴らした。
一応は乙女の心を持っているので、何度も鳴かれると体裁が保てなくなる。
悪かったよと腹をさすってから、長椅子に腰掛け、散歩の途中食べようともってきたおむすびの包みを開いた。
米を硬く握り締めたそれにかぶりつくと、具にしていた梅干の味が、ツンと鼻を抜けていく。
先日慧音がおすそ分けにと持ってきてくれたものだ。酸っぱい。
おむすびにかぶりつきながら、妹紅はしばらく人の流れを眺めていた。
妖怪と人間がこうして同じ場所にいるだなんて、妹紅がそれまで培ってきた常識では考えられない。
妖怪は妹紅にとっては、食事を得るための糧にもなり、鬱憤晴らしにもなる存在。
対立することしか知らなかった妹紅にとって、里の光景は眩しすぎた。
この足が地面を踏みしめているという現実すら喪失しかねない。
何事も時間が解決してくれる、徐々に慣れていけばいいさ。気持ちを吐露したとき、慧音は子供を諭すように言った。
それに郷に入れば郷に従えというピッタリな言葉もある。というか、せっかく優しく素晴らしい世界に浸っていられるのに、むざむざそれを手放すのも馬鹿らしい。
「ごちそうさま」
梅干の種はそのまま口の中で転がすことにした。
慧音には下品と言われるかもしれないが、口の中に何も入れていないと少し寂しい気分なのだ。
「んーっと」
大きく伸びをした妹紅は、賑わいはじめた朝の喧騒、それぞれ歩いていく人の群れを、するすると抜けていく。
「あら、藤原さんじゃありませんか」
「うん?」
人込みをいよいよ抜けるときになって、通りすがり話しかけられた。
振り向けば、妹紅にとっては既知の人間。稗田阿求だった。
阿求は頬に手を当てて、あっと小さな声を漏らした。何か思い至ることがあったらしい。
「いまから上白沢さんのお宅へいくのですか?」
「ああうんそのつもり。えーと、稗田さんは?」
「阿求、で構いませんよ。私はそうですねぇ、見聞でも広げようかと」
それが考えなしで出た言葉であることぐらいは、妹紅にもすぐに知れた。
要するに暇だったから、散歩をしていただけなのだ。深い理由などないが、それを少し面白おかしく修飾してみた。
先ほど何か思い当たったという仕草も、上白沢慧音と藤原妹紅の関係から推測してみせたのだろう。
無論、それも遊び心からであろう。
いちいち仕草が、慧音から聞き思い描いていた稗田阿求像とピッタリと重なり、少しだけ嬉しくなった。
それに自分も暇だから散歩をしているのだ。妹紅は阿求へと、変なところで親近感を覚えた。
幻想郷縁起の編纂の時に話しかけられて以来、個人的な付き合いは持っていなかったが、機会があれば仲良くなってみたい。
人間関係に対する余裕が、今の妹紅には生まれていた。
「それじゃあ、がんばって見聞を広げてくるといいよ」
「ええ、そうさせてもらいます」
しかし今はその機ではないとなんとなく思った妹紅は、それではと頭を下げる阿求を見送り、慧音の家のほうへと歩いていった。
その道は、先ほどまで歩いてきた道を逆戻りするもの。気が向くままに歩いているうちに、反対側のほうへと出てきていたのだった。
気まぐれに、妹紅は土産を持っていこうと思い立った。きっと慧音は既に起きていて、朝飯もとっくに済ませているだろう。
となると、持っていって喜ばれるのは茶菓子の類だろう。買っていった自分が食べてもいいし、また別の機会に来客用に出してもらってもよい。
妹紅は自分の思いつきにほくそ笑んだ。本当に良く笑うようになった。
数百年間、いや、生きてきた大半の時の中で、笑っていた思い出なんて蓬莱の薬を飲む前にしかない。
(これも幻想郷さまさまってやつだな)
梅干の種を舌で転がしながら、適当に乾き物を物色する。日持ちのする物のほうが喜ばれると思ったからだった。
ほどなくして妹紅は、煎餅を網に載せ焼いている店を見つけた。いい香りに誘われて、店主の男へと声をかける。
「十枚ぐらい包んでくれないか。あー、慧音が何が好きかって知ってる? できればあいつの好きな物を包んでやりたいんだけど」
「上白沢先生のところに行くのかい。あの人が一番買ってくのは、醤油を塗っただけの一番簡素な奴だね」
「じゃあ、それを五枚と、あとはそうだなぁ。その、豆が入った奴をくれ」
「あいよ」
店主は手早く、袋に焼き立てを詰めていった。枚数が十枚でなく二枚余計に入っていたが、男はウインクをしてくるばかりで説明はしない。
おまけと言いたいのだろうが、男のウインクのせいで得した気分はまったくしなかった。妹紅は久しぶりに、非常に残念な思いをした。
妹紅は小脇に袋を抱え、今度こそ慧音の家へと向かおうとした。しただけである。
というのも、妹紅の目線は何気なく目を向けた先、少しばかり綺麗な装飾の入った玩具の置いてある店先にあるお手玉へと注がれていた。
なぜお手玉にここまで惹かれてしまうのだろうか。
何かが引っかかっている気はするのだけど、それは喉元から先には出てこようとはしない。
結局妹紅は、お手玉を数個購入し、回し始めた。
自分でも驚くほどに、お手玉は綺麗に回る。
幼い頃に練習したんだっけなぁ、と遠い昔に思いを馳せては見るものの、芳しい結果は返ってこない。
思い出すことは諦め、しばらくは何も考えないことにした。
ひょいひょいと小気味の良いリズムで、お手玉は回っていく。
不意にズキンと頭に鈍痛が走った。
猛烈な痛みに立っていられなくなった妹紅はその場に屈み込み、深呼吸をして落ち着かせようとする。
幸いなことに、頭痛はすぐにどこかへ去ってしまい、動けないということはなさそうだった。
「お姉ちゃん大丈夫?」
差し伸べられた赤みの差した小さな手。妹紅がさきほど購入した小さなお手玉が、その小さな手のひらに収まっている。
仕立ての良い服を来ている少女は、無邪気にえくぼを作りながら、お手玉を差し出している。
その手を、妹紅は乱暴に振り払った。
弾かれ、地面に転がるお手玉と、何が起こったか把握しきれていない少女。
しかしじんじんと痛む手の甲が、状況を嫌でも把握させた。大きな瞳が潤み、えぐっえぐっと少女はえづきだした。
一方妹紅は、信じられないという表情で、自分の手のひらを見つめていた。
(なんで、振り払ってしまったんだ?)
振り払ったことに一番驚いていたのは、他の誰でもない妹紅自身だった。
人の親切、それも無邪気な子供からの親切をむげにするなど、普通であれば考えられないこと。
お手玉が大切なものかと言えば、それもついさっき購入した安物で、何の思い入れもありはしない。
無意識に動いた腕が、本当に自分の手なのかという疑念を交えてまじまじと見つめるが、間違うはずが無い、自分の腕である。
困惑していたのは、周りでその様子を見ていた里の人間たちも同様であった。
上白沢慧音とも親しくしており、里の人間からの信頼も芽生え始めていた妹紅。
それがいま、子供の手を乱暴に振り払っていたのだ。
やはり信用に足らない存在なのだろうか。そういえば竹林で起こった小火の原因はあの娘だとか。
疑惑の火種は勢いよく燃え上がり、場の空気は急速に硬化していった。
妹紅はその空気に耐え切れず、焦って煎餅の袋を少女へと押し付けた。
「ごめんっ!」
転がっていたお手玉を慌ててポケットに詰め込むと、妹紅は踵を返して駆け出した。
野次馬のようにして見ていた人たちは妹紅へと道を譲り、その背中が見えなくなってから、あれやこれやとあることないことを喋り始めた。
見た目は仲睦まじく暮らしているようでも、人間たちは深い部分で、自分たち以外の人型を恐れている。
これは幻想郷で生きる人々の中に根付いている共通の認識であり、恐れと人としての連帯があるから里が成り立っているともいえる。
気まずそうにした妖怪たちが、野次馬たちから離れはじめた。
離れていく者たちは表情は一様に硬く、中には舌打ちする者もいた。
妖怪たちの中には人間と商売をしている者がおり、立場を悪くするような騒ぎを嫌っているのだ。
「大丈夫だったかい? 怪我はないかい?」
訳知り顔で近寄ってきた大人たちは、尻餅をついている少女へと手を差し伸べた。
煎餅入りの袋を、少女はぎゅっと抱きしめた。
◆
妹紅のしでかしたことは、その日のうちに慧音の耳にも入ってきた。まさか温厚な妹紅が理由もなしにそんなことをするはずがない。
しかし里の者は身振り手振りを交え、あれは妖怪の目をしていただの、炎を操る魔物の類をいつまでもここに連れ込むのが不安だのとのたまった。
一度転がり始めたものを止めることは常に困難で、たった一度の過ちで、それまで築き上げてきた信頼関係は跡形もなく砕け散るということはままあることだった。
それが世の常というものであり、伝えに来た里の者の目には明らかにわかる不信の光が宿り始めていた。慧音は無常感に唇を噛み締めた。
(なんでこうも簡単に……)
妹紅も、自分の立場が非常に危ういものであることを嫌というほど知っていたはず。
妹紅自身長年追い立てられていた立場であり、手のひらを返される恐ろしさを誰よりも深く知っていると信じていた。
だというのに、妹紅は親切から差し出された子供の手を払いのけた。
ほんの些細な事件だ。だからこそなおさら、妹紅がそんな愚行を犯したとは、にわかに信じることはできなかった。
多少気の短いところはあるが、根は実直で子供にも優しい妹紅は寺子屋に通う子供にも人気者だ。
竹林に迷い込んだ子供を妹紅が助け出したこともあった。
本人は恥ずかしがって寺子屋に顔を出すことは少なかったが、来れば授業がまともに成り立たなくなるほどに纏わりつかれている。
子供は人の真を無意識に見抜く。子供に好かれる妹紅を、慧音は誰よりも信頼していた。
何か理由があって気が立っていたのか、しかし、八つ当たりを子供にしてしまうほど自制が効かぬとも思えない。
それに子供は、寺子屋での面識があったはず。なおさら妹紅の行動が理解することができなかった。
しかし、払いのけてしまったのは曲げようの無い事実。
どんな意図があったとしても、整然と用意された理由がなければ、信用を取り戻すことはできまい。
それに妹紅は、子供の手を払いのけたあとに、一目散に竹林に向かって走り去った。
持っていた煎餅を押し付けるほかは、何の弁解もしなかったそうだ。
面倒なことに、振り払われた子供というのは里の中でも有力者の娘だった。
一声かければ、妹紅の立場はたちまち悪くなる。
ほころびは今は小さいものだったが、放っておけばそれは深い傷口となって現れるだろう。
妹紅はとてつもなく細い綱渡りをしながら、この幻想郷で生きているのだ。
そしてその理は、半獣である慧音でさえ例外ではなかった。
慧音は半獣でありながら里の守護者として敬われており、寺子屋を開き、子供たちに勉学を教えている立場である。
しかしその立場とは、里の輪から離れたところに用意されることで保たれている、か細い糸に過ぎないのだった。
実際のところ、寺子屋の役割というのは、大人が面倒を見れない昼間にまとめて子供たちを預かることが主で、学問自体は二の次。
いずれは家を継ぐものたちばかりである。学問で優れているからといって、身を立てるということはない。
妖怪から体を張って里を守り、永遠亭にも顔が利く慧音は確かに里の者から必要とされていた。
といっても、一つ噂が立てばたちまち危うくなってしまうほどにか弱い立場でもあったのだ。
そこは慧音も重々承知していることで、それでも里の力になれるのならばと教師の仕事を快く引き受け、誇りにもしていた。
むしろ、人間の味方であろうとするあまり、妖怪たちに対して潔癖過ぎるきらいすらある。
人間の里にバランサーを配置したいと思っていた八雲紫は、慧音へと支援を惜しまなかったが、大半の妖怪は慧音を苦手に思っている。
人間ばかりに肩入れし、妖怪としての本分を何一つ果たしていないと毒づく者も妖怪の中にいた。
それでも慧音は人間の味方であろうとし、その信念は決して揺るぎはしない。
しかしその中で妹紅だけが、堅い行動理念からも外れる特別な存在だった。
本来であれば、身元不詳の炎を操る女と付き合っても、得になるようなことは何もないと、慧音は親しくなろうとはしなかっただろう。
己を殺し、公に奉じることを良しとするならば、それが自然であった。
そのことを論理の上では理解していたが、感情は全て論理で片付くものではあるまい。
自分の気持ちというものを一から十まで把握できればどんなにいいだろうと、慧音は天井を仰いだ。
妹紅のことを、放っておくことができない。
同情か憐憫からなのかは果たして定かではなかったが、ともかくこのままにはしておけない。
髪の毛をくしゃっと手で掴み、窓の外を眺めた。まだ昼時、いまから竹林に行けば、夜になる前に戻ってこれるはずだ。
本人から話を聞き、真意を確かめなければ何も始まらない、納得できない。
慧音は妹紅の家へと行くことを決め、早速その準備に取り掛かった。
その頃妹紅は、床へ潜り込み、今朝しでかしたことを思い返していた。
差し伸べられた手を振り払った瞬間に少女の表情に生まれた、恐怖の色。
あの一瞬で、周囲からは親しみが消え。代わりに、得体の知れないものへの恐怖が向けられていた。
ぎゅっと、胸元を掴む。
(もう二度と、あんな気分味わいたくなかったよ)
人間から追われるときは、妖怪よりもよっぽど恐ろしかった。
容赦を知らないのは妖怪も人間も同じだったが、馴れ合いを好まない妖怪たちに対して、人間は群れて生活をしている。
社会は基本的に狭い世界で完結しており、それを乱す者には全体で当たる。
追い立てられる側としては、松明を掲げた者が何十人と追ってこられるのは精神的にやつれてしまう。
それを避けるため、数年ごとに住処を転々としてきた。
しかし幻想郷では他所へ移って新生活を始めるなんてことは不可能だ。だからこそ注意を払って生きていくと誓っていたはずなのに。
妹紅は無意識に唇を噛み、血の珠がぷくりと浮かんだ。歯を離すと、唇にできた傷口はすぐに塞がった。
自分が恐ろしかった。今ならわかる。子供の手を振り払ったとき湧き上がっていた感情は、確かに憎しみのそれであったと。
里の人間たちは守るべき存在であり、愛すべき存在であると感じていたのは驕りだったのか。
自らを受け入れなかった人間たちを、心の奥底では憎んでいたのだろうか。
考えたくないことだったが、その感情を否定しきれないのも事実だった。
人間だって、正体がわかれば恐怖を持って排除にかかる。
それならいっそのこと、初めから受け入れる気のない妖怪のほうがよっぽど優しい。
陽の当たらない場所にいっそのこと堕ちてしまえば、悩むことなどなくなるだろうに。
何を勘違いしていたんだ。
人間に受け入れられると思って、いい格好を続けようとしていたのか?
どうせまた、恐怖を基に吊るしあげられるだけじゃないか。
悪魔の囁きが頭に響き始めた。
(違う……)
布団を頭から被り、震える体を抑えこもうとするが、ガチガチと鳴る歯は止まろうとはしなかった。
手にしたと思っていたものが、全て手の間からすり抜けていく儚さ。
排斥され続け、寄る辺もなく歩いた日々でさえ、妹紅は人間の心を忘れまいとしてきた。
妖怪の血で染まった手は、人間の側であろうとした名残のはずだった。
(わかってたよ、それが私の自己満足でしかないことぐらい)
人に忌み嫌われ、妖怪にもなりきれない疎まれ者。
それが自分なのだと、妹紅は自嘲気味に再認識した。
いっそのこと、輝夜のことも忘れてどこかへ行ってしまおうか。
狭い幻想郷とはいえ、妖怪すらも滅多に近づかない秘境は存在しているはずだ。
誰も来ない場所に庵を構え、何も考えずに生きていけたらどれだけ素晴らしいだろうか。
受け入れられようと望み焦がれることも、生を実感するために憎むことも、戦うこともない。
静かで、穏やかな生活。
長い間探し求めてきたものとは、本当はそれだったのではないだろうか。
妹紅は布団に包まって、もう一度最初から自問自答をしなおすことにした。
慧音が妹紅の庵をノックすると、案の定返事が帰ってくることはなかった。
「妹紅、入るよ」
戸を開けると、布団が不自然に盛り上がっていた。慧音はため息を吐いて、無造作に敷かれていた座布団の上へと腰を下ろす。
「妹紅」
呼びかけても布団は微動だにせず、じっと慧音の目線を受けるがまま。しばらくの間、静寂が庵の中に広がる。
「妹紅、話をしよう」
しかし妹紅は、会わせる顔がないと布団に潜り込んだままだった。
それはまるで、叱られるのを怖がっている子供のようにも慧音には思えた。
「怒ってないから顔を出そう? 話さなきゃ何もわからないんだ」
なるべく優しい声を出したつもりではあったが、布団はさらに包まってしまった。
またこうなったかと、慧音はため息を吐いた。
へそを曲げた妹紅の相手は、寺子屋の子供の機嫌を取るよりも難しい。
妹紅は子供のように泣きはしないけれど、まず布団から出てこようとしない。
出てきたとしても、貝のように黙りこくって黙々とご飯を食べ始める。
そのご飯の用意は慧音がしなければならないのだ。
「わかった。話を聞くのは飯を食った後にしよう」
「いらない」
慧音は妹紅の言葉に目を丸くした。いつもならば味噌汁が出来た頃になってようやく顔を出してくるのに。
こうして口を挟んでくるのは付き合って数年になるが、初めての経験だった。
「一人にさせてほしいんだ。今日は誰とも会いたくない」
「妹紅」
「一人にさせてくれ」
「だけど、ただ手を振り払っただけなんだろう? きちんと説明すれば何も……」
「慧音!」
布団を跳ねあげた妹紅は、そのまま紅い瞳を充血させて慧音を睨んだ。
爛々と輝く本気の色に、慧音はその場から一歩たじろいだ。
「お願いだから、私に構わないでくれよ。いっそう惨めになるだけだから」
顔を背けて、どすんと座布団に座る妹紅。
まさかつっけんどんに対応されるとは。
慧音は、予想だにしていなかった妹紅の反応に戸惑っていた。
話をきちんと聞いたうえで、今夜一緒に誤解に解きにいく。そうすれば広まった噂も、尾ひれ背ひれがつく前に収束する。
そう踏んでいたのに、出鼻を挫かれた気分だった。
「妹紅……」
妹紅の背中はいつも以上に小さく見えた。
付き合って数年、これほど寂しそうな姿を見たのは初めてのことだった。
しばらく立ち竦んでいたが、どうにもかける言葉が見つからずに、慧音は自らの不甲斐なさに唇を噛んだ。
「また来るから……。勝手にどこかへ、行かないでくれよ?」
妹紅は何も答えずに、小さく肩を震わせていた。
居た堪れなくなった慧音は、そのまま庵を後にする他になかった。
慧音が初めて妹紅と出会ったのは、迷いの竹林でたまに起きる小火の調査をしたときのことだった。
陽が落ちてから竹林に入った慧音は、妖怪一匹出てこないことに違和感を持った。
竹林は平時ならば、一人で歩けばばたちまち妖怪に襲われてしまう危険な場所である。
しかしここで大火事が起き、万が一燃え広がった場合には里に被害が出るかもしれないという名目で、慧音が調査に駆り出されたのだ。
松明一本で竹林の中を歩くのは、慧音にとっても勇気の要ることだったが、だからといって断れるものでもあるまい。
人間の手には余ることだからと、話が回ってきたのだから。
その日は妖怪の代わりに、妙に兎の姿を多く見かけた。
慧音はそのことを訝しがってはいたが、もとより竹林は野良兎が数多く棲んでいることで知られている。
たまたま多く見かけたのだろうと、その時は気にも留めなかった。(後に、永遠亭の兎が見物に出てきたと知ることとなる。)
(それにしても、さっきから静かすぎる)
風が吹くとしゃらしゃらと笹の葉が擦れる、しかしそれ以外は、全ての生き物が息を潜めているのではないかと思うぐらいに竹林は静かだった。
気味が悪い、と慧音は湿った地面を蹴った。飛んだ土は松明の灯から飛び出すと、たちまち暗闇に飲まれていった。
まるで怪物の腹の中にいるみたいだと思い、慧音は自分でした想像を笑った。
一応自分も女性の範疇なのだから、怖いといって誰かについてきてもらえばよかったかもしれない。
弱気になってくると、普段では思いつかないような発想が次々と出て来るものだと慧音は苦笑した。
松明の灯を揺らしながら歩いていると、不意に静けさをつんざく爆音が響いた。
何事かと音の方向へと振り返ってみると、三日月が見ている下で炎の鳥が、雨のように降り注ぐ五色の弾丸を舞い踊るようにして避けている。
その姿はこの世の者とは思えないほどに美しく、脆く儚く思えた。体が震えるのが止められず、感嘆の声が自然と漏れ出す。
愛を確かめ合うように絡み合い飛び交っていた光は、闇夜に何筋もの明るい線を残してゆく。
その軌道は、とてつもなく広い真っ黒なキャンバスに、無邪気な巨人が縦横無尽に線を引いていくように清清しく、躊躇なく、大胆だった。
炎の鳥の吐いた爆炎が、上空で大輪の花を咲かせる。その花弁からは対照的な色である蒼白い光の槍が、舞い遊ぶ鳥を貫こうと幾筋もの軌跡を作った。
防御と攻撃を一体にして行おうとしたのか、紫色に光る符のようなものを、鳥は大量にばら撒いた。
それを槍に代わって放たれた炎が焼いていき、燃え広がった炎は、もんぺを履いた少女を追いかけた。
この時初めて、遠目ながらも戦っている者の姿が見えたのだった。
豪奢な着物を着た女性と、サスペンダー付きのもんぺを履いた少女の殺し合い。
めまぐるしく代わっていく攻めと受け。滅ぼすために放たれた必殺の弾幕を潜り抜け、反撃の手を打っていく。
(……命を燃やし合う戦いは、これほどまでに美しいものか)
お互いの弾幕は、明らかに殺意が込められたそれであった。
遊戯であればあるはずの加減、その一切が込められておらず、描かれる弾幕も不恰好。
しかし、それは奇妙に美しいものだった。
美しき遊戯であれと考案されたスペルカードルールの体現を、慧音はその中に見た。
スペルカードルールは、対戦相手の命を奪わないことを前提として考案されたものだ。
より華やかに魅せようと弾幕ゴッコに興じるよりも、相手の命を奪おうと死合うほうが美しいとは何たる皮肉だろうか。
このときより慧音は、蓬莱人の戦いに心酔した。
藤原妹紅との親交が始まったのも、それからまもなくのことだった。
竹林からの帰路、陽はもう遠く山へと沈みかけていた。
普通に歩けば傾く頃には戻れる距離だったが、茫然自失した慧音は、ふらふらとよろめきながら一歩一歩を踏みしめていた。
「くそ、私は一体何をしてきたんだ」
妹紅の友人だと思っていたのは、単なる自惚れに過ぎなかったのか。
何一つ声をかけることのできなかった自分の不甲斐なさ、悔しさが蘇る。
苦味ばしった後悔の念を飲み込もうとして、慧音は嗚咽を漏らした。
(本当に、何をしてきたんだ)
知り合ってからまもなく、こっそりと妹紅の歩んできた歴史を覗いたことがある。
その道程は暗く冷たい修羅の道で、自嘲気味で笑う妹紅の傍に居たいと思わせるには十分過ぎる材料だった。
人の温もりを忘れた少女へと寄り添う、しかし良く考えて見るならば、それは自らへの慰めとして芽生えた気持ちだったのかもしれない。
人から受け入れられることはない半獣の身は、少なからず生に影響をもたらしてきた。
その苦しみは、妹紅の辿ってきたものに比べれば小さなものだということはわかってはいたが、共感を少なからず持っていた。
同じ枷を背負っている同士だから、私たちは分かり合える。
ほんの少しだけ私のほうに余裕があるのだから、手を差し伸べてあげよう。
そのように驕った気持ちが、心の中になかったと言い切れるだろうか。
友情という綺麗な言葉でそれを塗りつぶして、自分の寂しさを埋めるがために妹紅へと近づいたのではないか。
そもそも近づこうとしたキッカケも、命のやり取りをする狂気にも似た戦いに惹かれてではなかっただろうか。
物珍しいものへの興味関心を誤魔化していたのではないか。
かつて幼き日、私にそうして近づいてきた者たちのように。
(ああ……)
慧音は、自分の抱えていた矛盾へと思い至った。
自分と妹紅は似ていると嘯き続けてきたが、その実決定的に違うということに、本当は気づいていたのに。
今日物を言いにきたのだって、自分の生活が危うくならないようにと先手を打つつもりではなかったのか。
本当に、妹紅のことを思って思い立った行動だったのだろうか。
(言うに困って言った言葉が、どこかへ行かないでくれだなんて、私は自分のことしか頭にないのか!)
手近にあった木の幹を、慧音は思いっきりに叩き付けた。
皮膚が裂け、紅い血が流れ出そうとも気に留めず、何度も何度もそうした。
こんなことで贖罪になるわけがない。妹紅がもしも見ていたならば、体を張ってでも止めるだろう。
優しい妹紅。
私はその優しさにしなだれかかって、善人面をしていたの過ぎない卑怯者。
滑稽じゃないか。
子供たちに学を教え、人を守る立場の者が、自分の身の可愛さに矛盾を押し隠すなど。
下唇を噛み締めると、血の代わりに眼から涙が溢れてきた。
興味本位で近づいて、勝手に共感を覚えて、無理やり傍に座っている。
長い間抱えてきた孤独につけ込んで、私は居座ってきただけではないのか。
自責の念が慧音を苛なむ。
(私は、なんてことをしてしまったんだろう)
慧音は手で顔を覆い、声を殺して泣き始めた。
悔やんでも悔やんでも、深みにはまってゆくばかりだった。
そしてストンと陽が、落ちた。
長い夜がやってくる。
2.不器用な私たちの歩む道
太陽が顔を隠した今となっては、灯の無い部屋の中は、己の手元すら不確かなほどに暗かった。
その中で一人、妹紅は座布団の上で胡坐をかきながら、胡乱な頭でこれからのことを考えていた。
もとより自分は、妖怪にも人間にも疎まれる身だ。
それが狭い社会で生きていくならば、いずれは軋轢を引き起こすのは自明の理。
どう折り合いをつけていくかが問題なのだと、妹紅は前向きに考えることした。
厭世的に生きることは確かにできるだろう。
それは魔法の森に居を構える魔法使いたちも実践していることだった。
しかし、温もりを知ってしまった今となっては、離れて生きていけるわけがないのだ。
たとえ見苦しくあろうとも、妹紅は人と共に生きてゆきたいと再認した。
ただ恐ろしかったのは、自分の歪んだ部分が不意に顔を出し、誰かを傷つけてしまうかもしれないということだった。
それにもしもその対象が、誰よりも暖かい慧音になってしまったら。
このよごれきった手で大切な人を傷つけた後、私はどうやって生きていけばいいのだろうか。
考えてみるだけで寒気が止まらない。想像がしがみついてくるのを、必死で頭の中から追い払う。
もしも憎しみが心の内に巣食っているのなら――いつまでも部屋に閉じ篭っていては、道を切り開くことはできない。
(ごめんね慧音、しばらくここを空けるよ)
粗末な家だったが、妹紅にとっては慧音が訪ねてきてくれるだけで特別な場所だった。
卓を囲みながら、何気ない話に花を咲かせる。釣った魚の干物と野菜を交換したり、それを夕飯にしてみたり。
時々七面倒くさい輝夜からの誘いも来るけれど、それはそれで暇潰しにはなるというか。
(輝夜は……私がいなくても平気か)
妹紅が輝夜の顔を思い出すと、想像の中では底意地悪そうに笑っていた。
そんな表情は一度だって見せたことはないのだけど、そういう風に笑うんだと勝手に決め付けていた。
輝夜は私がいなくたって平気なのだ。
傍には永遠に付き従う従者がいて、大きなお屋敷で、妖怪兎たちと賑やかに過ごしている。
胸の奥がチクっと痛んだ。
今は輝夜のことなんてどうでもいいじゃないか。
ただぼんやりと己のことを見つめなおそう。
それが逃避に過ぎないことであってもと、妹紅は少ない手荷物で庵を後にした。
道なき道、獣道と言うにも憚られるほどうっそうと茂った森の中。
草木も眠る丑三つ時に、妹紅は大瀑布を求めて妖怪の山を登っていた。
土には雪が覆いかぶさっていて、それが幾度となく足を滑らせた。
それでもなお、黙々と山を登る妹紅。
しかし別段、苦労してでも登らなければいけないという理由もないのだった。
当てもなく夜に飛び出した妹紅は、心を鎮めるならば滝の前でなければいけないと考えた。
単純な発想ではあったが、これ以上なく妙案かもしれない。
先ほどまでウジウジ悩んでいた身としては、楽天的すぎるとも思えたがそれはそれ。
無理やり気持ちを暗くしたところで何の得があるのだろうか。
たとえ空元気でしかなかったとしても、自分探しの旅の始まりぐらいは明るく始めたかったのだ。
途中出会った哨戒天狗は、出会い頭に打ち倒した。
人間と侮り仕掛けてきたようだが、あいにくこちらはそこまで甘くはない。
伝令の鴉を飛ばされる前に、ひっ捕まえて気絶させることができたので、胸を撫で下ろして大木の根元に寝かせておいた。
風邪ぐらいはひくかもしれないけれど、元が丈夫な天狗なのだから、それぐらいしたってたいしたことにはならないだろう。
(しかし、前に進めんなぁ)
手で掻き分けて進む他に、妹紅には手だてがなかった。
天狗も河童も独自の社会を築いており、その社会は非常に閉鎖的だ。
山に侵入者がいると知れば(朝には知られているだろうが)つまみ出すために躍起になることは間違いない。
空を飛べば哨戒天狗の目に引っかかる。
川沿いを歩けば神経質な河童の目に留まる。
通る道は、獣道以外には存在しなかったのだ。
枝葉を掻き分けるたびに鋭い痛みと、申し訳程度にささくれや擦り傷ができていく。
しかしその痛みも長くは続かず、また新しい痛みが走る。
(私も、図太くなったなぁ)
幼い頃や、蓬莱人に成り立ての頃は、小さな傷でもびーびー泣いた覚えがある。
今となれば、擦り傷なんてかゆいかくすぐったいぐらいのものでしかない。この成長は、果たして良いことなのやら。
痛みや孤独に対する耐性ばかりが成長しただなんて、本当にロクな道を歩んできていないと、妹紅は自嘲の笑みを漏らした。
「さてと、いつになったら、滝につくんかねぇ」
正直、道が合ってるかどうかは妹紅にはわからなかった。
適当に上に登っていけば、いつかは滝にぶち当たるだろうという甘い考えだったが、何しろここは自然豊かな山。
素人ならばいざ知らず、長く放浪してきた妹紅にとっては馴れ親しんだ場所だった。
たとえ遭難したとしても、大事には成り得まい。
一時は適当に物を食べることにハマリ、蛇でも蛙でも、毒々しいきのこもなんでも口に放り込んでいた。
死ぬほど苦しくなり、意識が落ちてもまた目を覚ますという確信が妹紅にはある。
死も眠ることも、妹紅にとっては大差がないのだ。
「よっとっと」
踏み出すのを躊躇う丸太橋も、妹紅にとっては遊び道具に過ぎない。
足を滑られて死ぬようなことがあったしても、それもまた一興。
恐怖心の麻痺している妹紅の歩みを止めるものは、山には存在していなかった。
登り始めて数時間。
太陽が顔を出し、鳥たちが五月蝿くさえずり始めた頃になってようやく、妹紅は思い描いていた目的地を見つけることができた。
滝壺に落ちていく膨大な水は、遠目に眺めていた妹紅が無意識に手をかざすほどに猛烈だった。
「うわぁ……なんだこれ」
思っていた以上に豪華な滝を前にして、万が一でも滝に打たれれば死んでしまうかもしれないなとのん気に考える妹紅。
おあつらえむきに、滝を望める大岩も近くには存在していた。
その上に腰掛けて考えを巡らせれば、時間はかかるかもしれないが答えはきっと見つかる。
そうでなければ、困るのだ。
(なるべく早く、帰りたいな。慧音も心配するだろうし)
なぜだか、酷く遠くまで来てしまったような感覚に囚われた。
虚しさが、胸一杯に広がって苦しい。
嗚咽が漏れ出しそうになるのを呑み込んで、妹紅は大岩に腰掛けた。
滝を前にして、考えることは山ほどある。
妹紅は寂しさを振り切って、一つ一つを頭の中で並べていくのだった。
河城にとりは好奇心の強い河童である。
臆病ではあったが、興味のあることであればなんでも食いついた。
そんなにとりが最近ハマっている遊びを言えば、妖怪の山の山頂から川を下っていくことだった。
下手をすれば岩にぶつかるというスリルも楽しかったが、水量の判断や、適切なコース取りで縮む時間もにとりを惹き付けた。
そして何よりもにとりを魅了したことは、大瀑布から滝壺に向かって飛び込むもゴールの瞬間だった。
背筋が冷やりと凍って、水中で前後不覚になるほどにもみくちゃにされる。
感覚が戻ってきて、顔を出したときの達成は計り知れない。
そして今日もにとりは、ゴールである大瀑布の前へと差し掛かった。
いよいよだと覚悟を決めたにとりは、肺一杯に空気を溜め込み、目を見開いて大空へと飛び立った。
今日初めてのダイブは、朝陽を全身に浴びてのものだ。
体を撫でていく冷たい空気が気持ちいい。
そんなことを考えているうちに、みるみるうちに水面が迫っていた。
今日はどれぐらいの水柱があがるだろうか。
(あ!)
着水する直前に、大岩の上にいる人間と目が合った。
まさかこんな山奥に人間がいるだなんて。
焦ったにとりはパニックを起こして、しこたま水を飲んでしまった。
(人が落ちてきた!? ……いや、妖怪か?)
ぼうっと眺めていた妹紅は、空から降ってきた物が少女だと認識するまでに若干のズレを起こしていた。
天を突くかのごとく上がった水柱。しばらく眺めていても、浮かんでくる様子はなかった。
飛び込んで助けようか、縄か何かを探すべきかと慌てていると、水面から目線を感じた。
妹紅が驚いて振り向くと、にとりが半分だけ顔を出して、様子をじぃっと覗ってきている。
その表情には悪戯を見つけられた子供のように、怯えの色が混じっている。
(なんだ河童か……。懐かしいな)
妹紅とにとりの間に直接の面識はなかったが、妹紅は河童という種族の特性を知っていた。
臆病ながらも好奇心の強い彼らは、妹紅が独り過ごしている最中、行く先々で相撲を挑んでいた。
初めは警戒心が強いが、友人の誓いを立てれば、彼らは決して裏切らない。
幻想郷の河童との交流は持ったことはなかったが、妹紅は河童という種族に親近感を抱いていた。
にとりは妹紅から只ならぬ者の気配を感じ取っていた。
急いでここから逃げ出して、天狗さまに伝えるべきだろうか。
しかし、どうにも悪い人間には見えない。河童を長年やっている身としては、自分の鑑定眼を信じたい。
結局にとりは、迷った末に一つの選択を下した。
「そこで、何してるの?」
「座禅」
気を抜いたら吹き出してしまいそうな空気が、二人の間に流れた。
◆
「もうすっかり日が暮れちゃったなぁ。困ったわ」
アリス・マーガトロイドは、魔法使いでありながらも、人間と変わらない生活を続けている。
というのも魔法使いになってから日が浅いせいで、習慣が抜けきらないのだ。
その日もアリスは里へ買出しに来て、日用品のほかに布などを大量に買い込んでいた。
魔法の森からわざわざ出てくるのは骨なので、買えるときに一括して買うことにしているのだ。
「それじゃあ上海、蓬莱、よろしくね」
少女の手では文字通り、荷が重い。
人形の小さな手ではなおさらとも思わなくもないが、そこは数ある人形たちの中でも愛情の詰まっている二体だ。
並の妖怪となら、上海蓬莱たちだけでも互角以上に戦える。
「さーてと、飲むかな」
頼もしい人形たちを見送って、アリスは夜の街へと繰り出すことにした。
せっかく里に来たのだから、お酒の一杯や二杯ぐらいは引っ掛けておかないと損だろう。
(んー、ま、いつものところでいいや)
年頃の人間や妖怪で、行きつけの店を持たない者はこの幻想郷にはいない。
アリスのお気に入りの店は、中年のマスターが一人でやっている小さなバーだった。
大勢でわいわい飲むのは宴会のときだけでいいと考えているアリスには、居酒屋は少々五月蝿すぎるのだ。
(今日は何を飲もうかなっと)
大抵の場合は一杯、二杯に軽食を少々。
のんびりと雰囲気に浸って帰るのが、お気に入りの呑み方だった。
「こんばんは、まだやっています……ってええ!?」
「うー……妹紅ぉ」
冷静沈着という属性をそのまま抜き出したようなアリスも、予想外のことが起きれば人並みに驚くというのが発覚した瞬間だった。
上白沢慧音が、カウンターに突っ伏してうわごとを呟いているなど、伝聞ならばアリスは信じなかっただろう。
しかしこの光景は現実に、アリスの目の前に広がっている。ほっぺを引っ張ったところで現実からは醒めないのだ。
アリスが店主のほうへ顔を向けると、店主も何があったのやらと首をかしげてみせた。
見れば、転がっている酒瓶は一人で空けるには随分と過ぎた量だった。
はてまぁ、いつも嗜む程度にしか飲んでいるのを見ない彼女が、一体今日は何があったのやら。
店を変えようかとも思ったが、ここまで荒れている理由にも興味が沸いた。
(首突っ込む癖、直したほうがいいかしら)
自分って意外とお節介なところもあるのかもしれないと、アリスは独り笑った。
半分は好奇心、半分は不器用そうな半獣への手助けのつもりで、アリスは慧音の隣に座った。
「いつもので」
「あいよ」
「妹紅ぉ……行かないでくれよぉ」
見れば、慧音は寝ながら大粒の涙を零している。しきりに藤原妹紅の名前を呟くところを見ると、どうも仲がこじれたのだろうか。
アリスは梅酒をあおりながら、危うく垂れかかっていたものを拭き取った。
整った容姿であればあるほど、ケチがつけば間抜けに見える。
いつぞやの宴会の席、鼻にワリバシをさして、どじょうすくいをする魔理沙や紫は異常にシュールだった。
よもやそのようなことにはなりはしないが、美人に鼻水はどうしたって似合わない。
涙だったら少しはありかもしれないけどと思う自分は、一体どうしたものかと梅酒のコップを手で揺らす。
「慧音先生も、どうしてか今日は荒れてるねぇ」
「珍しいですね。いつも周りを制するような人ですし」
「うー……」
妹紅ぉ、と慧音はまた小さく呟いた。
一体どれだけこの半獣は、あの蓬莱人へと入れ込んでいるのだろうかと、アリスはまた一つ大きなため息をつく。
寿命の長さの違いから、人間と妖怪は仲良くしないことが多い。
それは、いずれはくる別離が互いを苦しめるとわかっているからだろう。
例外は、いつも妖怪がたむろっている博麗神社の博麗霊夢と、それとセットで霧雨魔理沙。
妖怪に仕えて生きると決めた十六夜咲夜に、信仰を集めるべくして日々奮闘している東風谷早苗。
もちろん寄り添っている妖怪たちにも寿命の差はあるが、概ねはこんなところだろう。
蓬莱人を例に出すのならば、その永遠の命の前にはどんな妖怪も線香花火のようなもの。
その点永遠亭の連中は、まだ利害や元々の従属関係を引き摺っていたりと理由はわかる。
しかしそうでない藤原妹紅と上白沢慧音というのは、これもまた例外の一つなのだった。
周りから一歩引いているつもりの自分には、そういった各自の距離感が垣間見えると、アリスは自負していた。
(お互いの寂しさを、埋めあってるのかしらね)
「もう一杯同じの」
「あいよ」
それもまた、結構なことだと思う。
世話好きに見える慧音だったが、本当に心を開ける相手というのは少ないのかもしれない。
まるで自分を見ているようだと、アリスは苦笑した。
もちろん自分は、自律人形の研究を第一に考えているため、人付き合いは二の次。
幸いなことに、心の内を打ち明けれる相手がいるため好きにやれてはいるが、もしもこじれたらと考えるとぞっとした。
(ほんっとに、難しいものだわぁ)
一人で生きることを余儀なくされたならば、自分は正気をいつまで保てるだろうか。
うーうーと、うなされはじめた慧音の横で、アリスはコップを傾けるのだった。
◆
「で、なんで座禅を組んでるのさ」
「そりゃ、考えごとをしているから」
「ロクでもないことを考えてるんだったら、それは座禅じゃなくてあぐらだよ」
「バカいえ、私は本気で悩んでるんだから。用がないなら帰ってくれないか」
「それじゃあ天狗さまたちに報告をしよう」
「それは困るな」
「どうして?」
「追い出されるだろう」
「ああそっか。それは困るね。だって座禅を組んでるんだもの」
にとりは妹紅の人となりの値踏みを済ませたらしく、妹紅の隣に腰を下ろした。
「なぁ、気が散るんだが」
「誰かがいるぐらいで考えられないぐらいなら、そのことについて考える必要もないんじゃない?」
「むぅ」
上手いこと返されたと、妹紅は一人で得心した。
自らの存在意義について思いを巡らせているのだ。
誰かが横に座っているぐらいで揺らぐようでは見つけられるわけもない。
「だけど、人が居ないところを求めてわざわざここまで来たんだが」
「でもそこを、私が見つけちゃったってわけね」
「……案外あつかましい奴だな、お前」
「谷河童は興味を持ったらこんなもんだよ。きゅうり食べる?」
「食べない、と言いたいところだけど喉が渇いた。貰う」
「はいどうぞ」
差し出されたきゅうりを齧りながら、妹紅は流れる滝をじっと睨んでいた。
にとりは何も言わずに、妹紅の横顔を眺めたり、自分の分のきゅうりを齧っている。
パキン、と瑞々しい音が時々響く以外は、滝の音がすべてをかき消していた。
滝の音が気にならなくなれば、自然と後は自分と向き合うだけという寸法だ。
残念ながらきゅうりの音が、妹紅のことを集中させはしないのだけど。
「何について悩んでるの?」
「ん?」
「座禅組んでるんでしょ、わざわざこんな遠いところまできてまで」
「そんなに、大仰なことでもないんだけどね」
本人にとっては大事でも、他人から見れば小さい悩みだなんてことはザラにある。
妹紅はそれを匂わせることで、にとりの質問を煙にまいた。
「そっか」
にとりもあえてそれを追求をしようとはしない。
それをするのは野暮なことだとわかっているからだった。
「なぁ、名前も知らないあんた」
「ん? にとり、河城にとりだよ」
「にとりね。河童のにとり。覚えた」
「あなたの名前は?」
「私は藤原妹紅。竹林に住んでる」
「じゃあ私たちはもう、友達だね。人間は河童の盟友だもの」
「バカいえ、私は人間じゃないんだ。蓬莱人っていう不死身の化け物さ」
「人間以外でも、妹紅は私の友達だよ。だって、一緒にきゅうりを食った仲だもの」
妹紅はにとりの言葉に面食らいつつも、すぐに気を取り直してにへらと笑ってみせた。
「こんな簡単に、友達ってできるんだな」
「なんでも、近づいてみたらシンプルなもんだよ」
にとりはそう言って立ち上がると、大岩から滝壺へと飛び込んだ。
上がる水柱。滝から落ちてきたときに比べれば高くはない。
妹紅が水面を眺めていると、にとりはすぐに、ひょっこり顔を出した。
「ここにいることは、黙っててあげるから」
「……ありがとさん」
にとりはにっこりと微笑むと、ぶんぶんと大きく手を振った。
妹紅が手を振り返すと、そのままにとりは山の中へと消えていった。
にとりはこれ以後、ここには姿を現さないだろうという予感が、妹紅にはあった。
友達になったばかりのにとりの気遣い。
こんな私の、どこを気に入ってくれたのかはわからないが、荒んだ心には優しさが痛いぐらいに染み込んだ。
不意にこみ上げてきた熱いものを拭って、頬を軽くはたく。
次に会うとするならば、山を降りての別の機会だろう。
当初の目的を忘れちゃしょうがない。
「さて、と」
にとりの去った後で、妹紅はまた独りであぐらをかいた。
滝がざぶざぶと大声をあげている。
◆
「だからなぁ、私はいってやったんだぁ! 何かあったらぁ、話してくれぇって
えもなぁ、えもなぁ……。もこぉは何も話してくれなかったんだぁ……うぐっ」
「はいはい、わかったからわかったから」
「うあー、もこー」
先ほど目を覚ました慧音は、眼をとろんとさせながらアリスへとしなだれかかっていた。
口を開けばもこもこもこと何かを膨らませているのかと思うぐらいの勢いに、さすがのアリスも気圧されていた。
酒の量も、気づかないうちに増える増える。
「結局妹紅がどうして意固地になってるかわからないってことなんでしょ」
「そうんあおら」
「まぁギリギリ意味は通るけど、だったら待ってあげるのも友人の務めだと思わない?
たしかに一部の人は変に騒ごうとするかもしれないけど、里に出入り禁止になるほどじゃないんだから」
「んあー」
「ああもう! 心配しすぎなんだってば! 魔理沙だって紅魔館に入れるのよ!?
盗みばっかりしてるくせに普通にパチュリーと話してたり、よっぽどあっちのほうがマジカルよ!」
顔を真っ赤にさせたアリスは、誰が見てもいい感じに出来上がっていた。
店主はそっと看板を閉店に変えておくのが精一杯で、あと女二人が次々酒瓶を空にするのを見守ることしかできなかった。
「違うのらぁ」
「何が違うっていうのよ……」
「私はぁ、里のことよりも、妹紅のほうがよっぽど大事なのぉら。
ほんとはぁ、妹紅が居てくれたら、私はそれだけでいいのら……」
そういって、慧音はカウンターへと突っ伏して泣き出してしまった。
一体何があったのかはいまだにわからないし、酔っ払いの頭ではせいぜい次の一杯を飲むことしかできない。
アリスの中の僅かに残った正気が、ここまで酔ったことはない、これ以上は飲むなと悲鳴をあげている。
しかし大部分を酒瓶型の兵隊に制圧されてしまったアリスは、もう一杯をコップ注いだ。
そしてついに反対勢力を駆逐しきったアリスは、一息に琥珀色の液体を喉に流し込んだ。
「だったらそういえばいいじゃないのよ。一緒にいてくれえって!
あんた女でしょー! 子供産むこと考えたらー、それぐらいの覚悟いつでも持っとけぇ!」
「だってぇ、妹紅は蓬莱人だろう。怖いんだ、私がおばあちゃんになっても、妹紅は若いままじゃにか。
私なんて捨てて、どこかへ行ってしまうかもしれなくて、怖いんだぁああ……」
「はーわっけわからん! 歳が離れてたって寿命が違ったって、今を楽しんだもの勝ちでしょうに。
私だって、そりゃ霊夢とか魔理沙とかが先に死ぬかもしれないけど、まぁ人形作ったりで毎日充実してるっての」
「もこぉ」
「話を聞けー! 私が言いたいのはぁ、そうやってウジウジ女々しく悩んでることでぇ、何の解決になるんだってことなのー。
私なんてなー、子供の頃ずーっと花の妖怪に付け回されてここにでっかい傷ができてるのよ!
なんなら脱いで見せようかその傷ー! でっかいのがー、こー、ついてるんだよー!」
いよいよ脱ぎだしたアリスと、カウンターをしきりに叩く慧音。
店主にできたのは、そっと店の奥へと身を引くことだけだった。
「起きろ半獣ー! 立派なもんを二つぶらさげて何めそめそ泣いてるんだー!
世が世なら立派な母親だろー! なんで子供みたいな泣き方をしてるのよ、起きろー!」
「もこーもこー、うあああもこー」
深夜の狂騒曲は、もう少しだけ続く。
◆
「ん……あっ、侵入者!?」
出会い頭に気絶させられた椛が目を覚ましたのは、日がすっかり高く昇ってからだった。
哨戒天狗として最低の責務である伝令の鴉も飛ばせずに、むざむざとやられてしまった。
しかし後悔をしている場合などない。地面に寝ていたせいで痛む体を無理やり引き起こして、辺りを見回す。
当然、侵入者の姿はそこにはない。となると、山のもっと奥にまで進まれたか。
(やばいやばいやばいどうしよう)
山に余所者を入れたとなれば、河童ならまだしも天狗では重大な過失となる。
もしかすると、今は侵入者ではなく自分が追われる身になっているかもしれない。
(うー、お仕置きくらっちゃう)
耳をぺたんと伏せ、怯える椛。
実際のところ、外部の者を入れたところでどうにかなるわけではない。
天狗は自らを最強の種族だと自認しており、歯向かう相手は容赦なく叩き潰す。
問題は、天狗の矜持を守れたかどうか、なのだ。
任を果たせなかったということは、天狗としては最大の恥。
生き恥を濯ぐために、自らの命を絶つ者も少なくはない。
「ああもうどうしよう……」
「何がどうしたのよ」
「ひっ!」
椛が怯えて顔を上げると、そこには不思議そうな顔をしたにとりが立っていた。
そのことにほっと息を吐く椛。
立っていたのがもしも文ならば、怠慢についてチクチクと小言を言われただろう。
それに、侵入者が天狗のテリトリーを進んでいたならば、それこそただではすまなかっただろう。
「そ、そのどうしようにとり! 私大変なことしちゃったかも」
「へ? まぁよくわかんないけど」
「山に侵入者入れちゃったかもしれなくて!」
椛は言ってから、あっと口を手で塞ぎ、今のちょっとなしと慌てて取り繕うとした。
にとりは一瞬渋い顔をして、すぐにいつもの明るい表情へと戻った。
「その侵入者なら、さっき私が追い払ったよ」
「え?」
「ここは人間の来る場所じゃないって説明したら、渋々ながら頷いてくれたよ」
「そ、そうなの……?」
「河童は嘘吐かないよ、たぶん」
「よ、よかったぁ……」
安心感で、その場にへたり込む椛。大将棋友達であるにとりが、わざわざ不利になるような嘘をつくこともあるまい。
いずれにせよこの分ならば、天狗のテリトリーに入ることなく侵入者は帰っていったのだ。
胸を撫で下ろしている椛に、にとりはそっぽを向いた。
(これで共犯、だね)
どうしてか、にとりは妹紅のことが気になってたまらなかった。
今まで見てきたどんな人間よりも、彼女は老練に見えた。
しかし同時に、今にも泣き出しそうな幼子にも見える。
困難を一人で乗り越えていく強さと、その場で立ち止まり、泣きじゃくる弱さ。
その不可解な共存が、これ以上なく興味を引くのだ。
妹紅が何を見つけるか。
そもそも何を探しにきたのかはわからないが、にとりはそれでも良いと思った。
(いずれにせよ、そこまでは私が関われるもんじゃないだろうしね)
「椛、将棋やろっか将棋。どうせ暇でしょ」
「あ、うん! しよしよ!」
にとり一度だけ歩いてきた方向を振り返り、椛の手を引いて帰路についた。
雪解けの日は、そう遠くはない。
3.ハルヨコイ
「あいだだだ……。頭が痛い……。っと、ここはどこだ?」
慧音がゆっくりと体を起こすと、なぜか隣ではアリスが涎を垂らしながらカウンターへと突っ伏していた。
(???)
慧音の顔に疑問符が浮かぶ。なぜアリスが隣でだらしなく寝ているのだろうか。
そもそもここはどこだろう。見たところここは酒処だろうが、なぜ自分がここにいるかが思い出せなかった。
(っとと、二日酔いかこれは)
霞がかった頭は上手く回っていないらしいと、慧音は苦笑した。
落ち着いて一から思い返してみれば、昨日はこれ以上ないほどに荒れていたようだ。
泣いて気持ちを落ち着かせようとしたのか、帰り道に散々泣いた。
誰かが見ていないということでタガが外れたのか、顔から火が吹き出そうになるぐらいみっともない泣き方をした。
それでも気持ちが収まらないと、そのまま昨晩は酒に溺れた。
宴会を除けば、家で静かに飲むことしか知らない慧音にとっては、独りで店に入るのは大冒険のはずだった。
しかし動揺のしすぎで気が大きくなっていたのか、文字通り浴びるように酒を飲んでしまった。
嫌なことを全部、忘れてしまおうと思って。
(まったく、馬鹿だなぁ私は)
だんだんと、酒を飲んでいる最中のことがぼんやりと浮かび上がってきた。
アリスの顔がだんだん紅潮していって、しまいには脱ぎだしたことも。
そのことはひとまず置いておいて、思いの丈を全て吐き出していたことまで。
慧音は改めて、己の発言を思い出して苦笑した。
建前や理性で覆い隠されていた、深い部分の感情。
いつから私は、理屈抜きでは行動ができなくなっていたのだろうか。
もっと素直に話すことができたならば、独りでウジウジと悩む必要もなかったかもしれない。
(やれやれ、下手に歳を取るもんじゃないな)
寝息を立てているアリスへと、慧音は深く頭を下げた。
どういう経緯で一緒に飲んだのかは知る由もないが、こんな酔っ払いに付き合ってくれたから今がある。
そして、すべきことが今ならハッキリと見える。
落ち込んでいるならば、それを優しく包み込んであげるぐらいに広い器量を持ちたい。
それは今は願望でしかないと慧音は知っている。
落ち込んでいる理由を根掘り葉掘り聞きたくなってしまうし、場合によっては余計なことを言ってしまうかもしれない。
目指す頂ははるか遠い。同じことをこれからも何度も繰り返してしまうかもしれない。
ぐっと手を握って、また開く。
寂しさを埋めるために、不器用に寄り添って傷ついて。
相手の気持ちが見えなくなるぐらい、自分のことだけしか考えられなくなって。
それでも独りでいるのなら、いつかは孤独の寒さに震えてしまう。
「あいつの帰ってくる場所を、しっかり作っておいてやらないとな」
妹紅の気持ちなんてこの際全て無視をして、私は少しだけワガママになろう。
傲慢な気持ちかもしれないが、私は妹紅と共に歩みたい。
追いかけるのは横暴かもしれない、だけど待ち続けるのであれば、誰も文句は言わないはずだ。
(少しだけ、自分の心に素直になろう、上白沢慧音)
「代金はここに置いておく、足りなかったらツケにしておいてくれ!」
財布の中身を全てひっくり返し、慧音はそのまま店を後にした。
アリスは薄目を開けて、その後ろ姿を見送った。
「せいぜいがんばってきなさいよ、ばーか」
◆
数時間後、身なりをしっかりと整えた慧音は客間で一人腰掛けていた。
出された茶をすすりながら、話す内容を頭の中で組み立てていく。
傷口は、処置をしなければ日が経てば経つほどに化膿していく。
本人が直接出てこれないのなら、代理として弁護に立つのが友人としての務めだろう。
そう考えた慧音は、朝からくだんの家へと来ていた。
事前の連絡がなかったため門前払いを受けるかと思っていたのだが、丁度時間があるということで招き入れられた。
しかし、ここで待っていろと言われて既に数十分。
裏で何をしているかは定かではなかったが、歓迎の準備をしているというわけではあるまい。
覚悟を決めて座っていると、ようやく主人が現れた。
主人は恰幅の良い大男で、遅くに生まれた娘を溺愛していることでも有名だった。
鼻をフンと鳴らすと、敷いてあった座布団へ床が抜けるかと思うぐらいに思い切って腰を降ろす。
慧音はわざと飛び上がり、牽制をしてみせた。
威嚇をしたところで無駄だと暗に伝えたのだった。
「穏やかじゃない。実に穏やかじゃないと思うんだが」
「それは妹紅のことでしょうか」
「そう、その妹紅とかいう得体の知れない女のことだ。たまにあんたの家にも来ているそうじゃないか。慧音先生」
「ええ、私の友人ですから、訪ねてきても何も問題はありますまい」
「友人なのが問題だと思うのだが」
「それはなぜ」
「その女は危ない。里の中で人間に手を出す化け物なんて許されるわけがない」
「妹紅を化け物と言いましたか。人の友人を侮辱するとは、あなたもいい度胸をしていますね」
「あんただって、半分は化け物だろう」
慧音は瞼一つ動かさずに、辛辣な言葉を受け流した。
話にならないと怒らせて帰し、あとは乱暴を振るわれそうになったと誇張すれば良い。
主人の謀略を見抜いている慧音は、あくまで淡々と振舞うことにした。
「いつまでも、瑣事にこだわっているのも利益にはならないと思うのですが」
「危険な者を出入りさせることが瑣事と? 里の守護者というのも地に堕ちたのではないか?」
「怪我の一つもしてはいない。それに妹紅は本来心優しく、子供たちにも好かれていますから」
「今は、ではないのか? 次何が起こるとも限らないだろう?」
「里の外で人間を襲った者も、里には来ているではありませんか」
「それは詭弁だ。里の中では我々は平等だというのが妖怪の賢者の決めたルールのはず」
「では、里の外で人間を助けている妹紅は危険だと? 私情を挟んで冷静な判断が出来ていないのではないでしょうか。
里の外では人間を襲っている妖怪たちの良識たちに任せるほうが、私には危険に思えてならないのですが。
ルールありきではなく、柔軟に考えて話して欲しいものです」
「女狐め。人を化かして楽しいか」
「楽しいわけではありません。私はあくまで妹紅の友人としてここに居ます。
そして旦那様に賢い判断をしていただきたいのです。もし私が客観的に支離滅裂なことを言っているのであれば、その時は私は里から出て行きましょう。
あなたの言う通り私は半分が妖怪なのですから、受け入れる者が人間から妖怪へと変わるだけ。生活の様式も大きくは変わりますまい。
私はそれだけの覚悟を持って、今ここに座っているのです。それに、当事者は一体どう言っているのです?
娘さんの口から私は直接、話が聞きたい。もちろん旦那様は深く話を聞いた上でそこに座っていると承知しております。
しかし私は、娘さんを預かる身として、直接目を見て話をしたいのです。出すぎた真似かもしれませんが、ここに呼んできてはくれないでしょうか」
一息にまくし立てると、慧音は涼しい顔で茶を啜った。
勢いに気圧された主人は、面食らって人を呼びに廊下へと出て行った。
父親として心配なのはわかるが、こちらだって、友人のためにここに座っている。
一歩だって引くわけにはいかない。
気を抜けば湯飲みを落としてしまいそうなほど、手のひらは汗で湿っている。
しかしそんな心の内など、微塵も態度に出さなければいい。論理の鎧を着込んで、感情は悟らせなければいいのだ。
昨晩は心の丈をぶちまけて、今日は心を押し隠す。
一度中身を空っぽにしてあるからか、今ならさとりだって騙しとおせる自負が、慧音にはあった。
それは鬼気迫るほどの圧迫感を持ち、所詮は女と舐めてかかった主人を完全に喰った。
(覚悟を決めた女は、強いぞ)
もし、例えばのことを慧音は思った。
妹紅のことが怖いと言うのならば、恐怖は子供たちの間にも伝染していくだろう。
そうなれば、妹紅のことを庇い立てした立場はなくなる。
里に居られなくなった後、私を受け入れてくれる場所は果たしてあるのだろうか。
里を守るためとはいえ、妖怪の恨みは人一倍買っている。
となれば報復に怯え、安穏とした生活を送ることはできないだろう。
(そうなれば、私は妹紅と一緒に居られなくなるな)
そうなったとしても、いいと今は思えた。
目を背けて、安穏とした生活を送るのならば。義理に生き、死ぬほうがよっぽどマシだ。
自分を守る理屈を全て振り切ってでも、その先にたとえ道がなくとも、慧音はこの道を進むと決めた。
廊下からとてとてと柔らかい音がする。
少女らしい軽さを含んだ音が、場合によっては地獄への調べにもなりえる。
それでも慧音は、落ち着いた心持ちでそれを待った。
◆
にとりが去ってからは、訪ねてくる者もおらず、ただ水の音だけが辺りを支配していた。
夜がきて、また太陽が昇って。それを何度繰り返したかを妹紅はよく覚えてはいない。
ただわかることといえば、未だに答えという答えが見つからぬということだけ。
(もうここらまで、来てる気がするんだけどな)
そっと胸に手を置き、何度となく繰り返したあの瞬間を再生する。
差し伸べられた赤みがかった手を、振り払ったときに突き刺さった棘。
思い出せばチクチクと痛むけれど、目を背けているわけにはいかなかった。
答えはきっと、ここにあるはずなのだから。
集中は熱となり、熱は妹紅の体を通して辺りの雪を融かすに至っている。
しかし妹紅は、答えには決して至らない。
大事な鍵を、まだ手に入れてはいないから。
◆
「こんにちは、慧音さん」
「ひ、稗田の……。なんでお前さんが」
「キクちゃんもいますよ。後ろにですけどね」
目の前で笑うは、稗田の九代目は稗田阿求。
悪戯っぽい笑みを浮かべた少女の後ろから、おっとりとした容貌の少女が顔を出した。
「こんにちは、慧音先生」
「あ、ああ……」
「驚きました? まさか私がいるとは思わなかったでしょ」
「いや、お前が出てくる意味が」
「私はですね、キクちゃんのところに遊びに来ていたんですよ。ほら、歳が近いでしょう?」
慧音はそれを嘘だと確信していた。稗田阿求は見た目と精神年齢の差が非常に激しい。
子供と遊ぶよりも、大人に混ざって茶を飲んでいたほうが似合う人間なのだ。
「冗談ですよ、変な顔しないでください」
無邪気に微笑んでいるようでも、腹の底では何を考えているのかわかったものじゃない。
慧音が身構えていると、阿求はさきほどまで主人が腰をおろしていた座布団に腰掛けた。
この家の者でもないくせに、態度が異様にでかい。
「妹紅さんが、やらかしたそうですね」
「やらかすってお前……」
「いえいえ、これは幻想郷を見守り続けてきた稗田の者としてはぜひとも食いつきたい話だったんですよ」
目を輝かせる阿求と、朝から付き合わされていたのか、疲れているのが一目でわかるキク。
着込んでいたはずの論理の鎧が、音を立てて剥がれていくのが慧音には確かに聞こえた。
「天狗が化けてるんだろ?」
「何をいいますか。私は妖怪と人間が、建前だけでも仲良くしているこの里について深く考えているんですよ。
主に寝る前や、おやつをつまんでいるときや、紅茶を飲んでいるときになど」
「それって、ついでってことじゃないのか……?」
「ええ、まさに瑣事です。ただ面白そうだから首を突っ込んだだけで」
そう言うと阿求は手を叩き、一言「お茶をください」とだけ言った。
そして慧音へと向きかえったと思うと、その目の色が変わった。
「私にはどうしても、妹紅さんがあんな間抜けなことをするとは思えないんですよ。
妹紅さんは本来、里の人間から多少距離を取りつつ過ごしている普通の人です。
昨日の朝も私は妹紅さんと挨拶を交わしましたが、気が立っていたどころがむしろ機嫌は良さそうでした。
私の記憶は閻魔の鏡よりも正確だと自負していますからね。のはずが、その直後に手を振り払う。
これはおかしいと、私は朝からここへやってきて、キクちゃんから根掘り葉掘り聞いていたわけです」
薄い胸を張る阿求と、こくこくと何度も頷くキク。
キクは確かに疲れていたが、その目は透き通って奥まで見透かされそうだった。
「あくまでキクちゃんからの話を総合してですが、妹紅さんは決して悪意があってあんなことをしたのではないと。
むしろ、今にも泣き出しそうなそんな顔をしていたそうなんです」
「どういうことだ、それは」
「さあ? でも危害を加える気はなかったと私は断言してもいいと思います。
ここの主人にはまったく取り合ってくれませんでしたがね」
喉が渇きました、と阿求は慧音が飲みかけにしていたお茶を飲んだ。
暗くなりかけていた部屋の中で聞いた、妹紅の涙声。
(あれは……。子供の声か)
あれが欲しいこれが欲しいと泣き叫ぶ声。
不思議なことに慧音には、妹紅の嗚咽がそう思えて仕方がなかった。
だんまりだったキクが、顔をあげた。
目線を何度も泳がせ、やっと
「あの、慧音先生……。妹紅さんは、妹紅さんはまた寺子屋に来てくれますよね」
慧音の鎧は、その言葉一つで全て剥がれ落ちてしまった。
奥に仕舞いこんでいたはずの感情が、堰を切って奔流となる。
奔流は涸れた川を満たし、両の目から止め処なく流れ出した。
「ば、なんで泣いてるんだろうな私は。全然、悲しくなんてないのに、おかしいな。
ああ、来るさ、絶対くるさ。誰も怒ってないんだから、はやく帰ってくればいいな」
心配事なんて、杞憂でしかなかったよ。だからもう、自分を傷つけなくたっていいんだ。
慧音は今すぐにこの言葉を、妹紅へと伝えたかった。
たとえ目の前にいたとしても、気持ちが溢れ出して上手く言葉を紡ぐことはできなかっただろうけど。
「人の噂も七十五日と言いますが、それよりも濃い噂でかき消せばいいと思いますよ。
例えば慧音さんと妹紅さんが籍を入れて一緒に住み始めたとか言えば、こんな瑣事はたちまち吹き飛びます。」
慧音は返事のかわりに、座布団を投げつけた。
◆
月が顔を出さない晩だった。空を眺めても星たちがちらほらと瞬いているだけで、そのほかには灯りもない。
滝が相変わらずざぶざぶと大きな音を立てているけれど、それ以外には何の音も聞こえてはきやしなかった。
このまま答えなんて見つからず、庵に戻れないのかもしれないと思い始めてもなんら不思議はないほどに、妹紅の中身は空っぽであった。
思い当たる節は全て掘り起こしたつもりなのだけど、どうしても思い至ることができない。
手のひらをじっと眺めてみても答えは浮かび上がってはきやしないし、空を眺めたところで答えが載っていやしない。
何日も飲まず食わずを続けていると、頭もロクに回っていなかった。
(これは本当に失敗だったな、せめて何か食べるものぐらい持ってくればよかった)
準備をケチった数日前の自分に悪態をついても腹が膨れるわけでもない。
しかしここで動いてしまえば、この数日間全てが水の泡になってしまうような気がする。
(もういい、考えるのはやめだ)
いっそのこと眠ってしまおうか。そっと目を瞑った妹紅は、昔に覚えた歌を口ずさんだ。
立ち寄った街で開かれていた祭り。余所者である妹紅もその輪に入り、共に歌った懐かしき記憶。
暖かかった、懐かしかった。たとえそれが仮初のものだと知っていても、涙を流してその時を忘れまいと誓った。
誓ったはずなのに、この記憶は洗いなおしてようやく拾うことができたのだった。
記憶の中では明るく賑やかだったはずの歌は、独りで歌うには寂しする。搾り出す細い声は滝の音にかき消され、自分で聞くことも困難だった。
「へったくそな歌ね。聞いてるこっちが恥ずかしくなるわ」
自分の声すら聞き取り辛かったはずなのに、憎たらしい声だけは頭が痺れるぐらいによく聞こえた。
妹紅はわざと緩慢に振り向くと、そこには一番会いたくない相手が立っていた。即刻殴り倒したくなるぐらいに、憎たらしい微笑みを讃えて。
「ごきげんよう妹紅、いい夜ね」
「こんばんは輝夜、たった今最低の夜になったよ」
それ以上の言葉はいらない、妹紅はガチガチに固まった関節の悲鳴を無視して輝夜へと飛び掛った。
輝夜はこれ以上なくたおやかに突進を受け流し、そのまま右腕を取って大岩へと妹紅を叩きつける。
ぐちゃりという鈍い音と、一瞬の躊躇いもなく折られるひじ関節。
バキンッ! という小気味良い音が、今宵の戦いの火蓋を切る合図となった。
「いきなり飛び掛ってくるなんて酷いじゃないの。餌を前にした犬のほうがまだ自制心があるわ」
「あいにくと、私は犬以下なんでねっ!」
折れた腕の痛みは、妹紅にとっては戦いのために体を作り変えるための供物にすぎない。
全身を電撃的に、断続的に巡るハンマーでぶったたかれたような衝撃は、灰になった不死鳥を蘇らせるには十分だった。
「あつっ!」
夜を焦がさんとばかりに燃え上がる妹紅。
輝夜はその熱に耐え切れず、反射的に手を離して距離を取った。
その隙に妹紅は左腕で体を跳ね上げ、折れた右腕を輝夜に向かって突き出した。
「見ろよ輝夜、この腕だって……。話してる間に治っちまう」
妹紅の人差し指が輝夜を射抜かんとばかりに突き出される。
爛々と燃え盛る炎の羽と、それ以上に紅く光る憎しみを灯した瞳。
(殺す殺す殺す殺す……)
輝夜の顔を見た瞬間、抑え付けていたはずの理性が一つ残らず吹き飛んだ。
輝夜の両の瞳を引き摺りだして、大岩に叩きつけたい。
か細い首をへし折るときの音を響かせ、それを心の慰めにする。
「まるで悪鬼を前にしてるみたいだわ」
ぼやく輝夜は、心底嫌そうな顔をして半身の構えをとった。
今夜はお互いに、このまま格闘へと洒落込む腹づもりなのだった。
相対したとき、いつだって先に動くのは妹紅のほうだった。
それは晴れの時も雨の時も、どちらともなく決めた勝負の日のときも、そうでないときも同じ。
口をすぼませた妹紅が、ひゅっと小さく息を吸ってから腰を落とし、四、五歩で詰められる間合いを一挙に詰めた。
みっともなく、だらしなく、貰うダメージも一切考えずに、愚直に足を刈るためのタックル。
輝夜は突っ込んでくる妹紅の鼻っ柱目掛けて、カウンターの膝を繰り出す。
それを額で受ける妹紅、その勢いは完全には殺されず、輝夜を岩の上へと押し倒すことになる。
「捕まえた……」
額からの出血は、傷の深さの割りに多く出る。
視界を真っ赤な血で塞がれた妹紅は、半ば手探りに輝夜の柔らかい首筋を掴んだ。
ほんの少しだけ力を入れれば折れてしまいそうに細い首。
妹紅は一切の情け容赦なく、万力のように力を込めて潰しにかかった。
「へへ……」
無意識に漏れる笑み。しかし輝夜は苦しそうな表情を一つも見せなかった。
それがむしょうに腹が立った妹紅は、輝夜の端整な顔へと正拳を振り下ろす。
一つ、二つ、三つ。骨で拳が砕けても、打ち損じて大岩を打ち、もはや手が原型を留めなくなっても、妹紅は拳を振り下ろし続けた。
「くそ、なんでだよ。どうして反撃してこないんだよ……」
ぼそぼそっと、輝夜が何かを呟いた。その声を聞き取ることができなかった妹紅は、輝夜の右眼へと指を差し入れた。
「痛いだろ!? 泣けよ! 泣けよ! 痛みに震えて私の心を慰めろよ!
ちくしょう! なんでお前はいつも、私を哀れむような真似をする!?」
眼球を引きちぎった妹紅は、そのまま岩へと叩きつける。
ぐちゃりと潰れた眼球は、もうどうやっても元の形に戻ることはなさそうだった。
涙の代わりに、紅い血が窪んだ眼窩から垂れていく。
「私は、お前を憎まないと生きてけないんだよ! それ以外には何もない、何一つとして持ってない!」
ぐっと首に手をかけ、もてる力を振り絞る妹紅。
輝夜の片方だけ残った瞳が、次第に濁っていく。
「どうして輝夜は私の欲しいものをみんな持ってるんだよ。共に歩む仲間、賑やかな家族、周りからの尊敬……。
私には何一つない。欲しがっても欲しがってもこの命続く限り、手に入らないものばかりじゃないか。
どうして私は一人ぼっちなんだ。何も悪いことはしてなかったはずなのに。ただお父様のために……。
なぁ、私にも一つぐらい分けてくれよ。私はもう、何も持ってない。お前への憎しみだけしか手の中にはないんだ。
どこに落としてしまったんだ? 確かに手の中にはあったはずなんだ。ただ失くしちゃったんだよ。
お願いだよ……。一つぐらい、分けてくれたっていいだろう?」
妹紅の心の奥にかけられた鍵が、音を立てて開く。
その中からは、怨嗟で包み隠していた生の感情が溢れだす。
「私は、お前が羨ましいんだ……。同じ蓬莱人のはずなのに、私は、私はずっと一人じゃないか。
ずっと一人で生きてきて、これからもずっと、未来永劫ひとりぼっちだ。
私を哀れだと思うだろう? 思ってくれよ。なのにどうしてお前はいつだって、私を構うんだ。
二度と探し出せないぐらいに、どこか遠くに行ってくれたほうがいっそのことマシだ!
月にでも帰っちまえ! もう二度と、お前の顔なんて見たくない!」
言葉とは裏腹に、妹紅の手からは力が抜けていた。
輝夜のことを殺すことができるのに、胸の内を少しでも軽くすることができるはずなのに。
憎い、憎いと思っているはずなのに、手は力を込めてくれはしなかった。
「ばかやろ……。なんでお前は、正真正銘の、屑じゃないんだよ……。
心の底から憎めれば、こんな風に惨めに思うことだって、なかったのに……」
それ以上言葉を紡げず、妹紅は声をあげて泣いた。
押し隠していた自分への欺瞞。憎しみという炎で暖をとって生きてきた孤独の日々。
虚しいものだと知っていても、それから離れては、生きていけなかったのだ。
子供のように泣きじゃくる妹紅の背中へと、輝夜はそっと腕を回し、慈愛を持ってあやすように優しく撫でる。
「辛かったでしょう妹紅。蓬莱の呪いはその心さえも歪ませる。
死んで死んで死んで、狂ってしまっても、蓬莱の呪いはその都度、耐えられるように心を作り直していく。
今の私ならば、全身を磨り潰されても笑っていられるわ。気持ち悪いでしょう?」
「ばか……やろ」
「もしもって、考えたことはあるかしら? 私たちの関係はいわば平行線。未来永劫交わらないけど、見える位置で意識しあうの。
でもそれが少しだけ違ったら……。心を触れ合わすことができたなら、あるいは違った道を辿っていたかもしれないわね。
いまさらそれは無理だと私も思うわ。妹紅は私を憎まなければ生きていけないように、私も退屈凌ぎとしょうして、憎しみを受けていなきゃ耐えられない。
本当に吐き気がするわ……。でも、妹紅? 私とハクタクは違う。あなただって、誰かと触れ合う権利はちゃんと、持っているのよ?」
「違う……。慧音は、死んでしまうじゃないか。お前と永琳は、ずっと一緒に居られるだろう?」
「ずっと重なっていられる二本の線があるわけないじゃない。だったらせめて、重なってる間だけでも悔いなく過ごしなさいよ。
永遠を生きるからこそ、永遠に続く一瞬を無駄にはできないでしょうに」
「私は、お前の事が羨ましいんだ。私だって、私だって、誰かと一緒に居たかった。
一人は寂しかった。本当は、本当はお前に会えて嬉しかったのに、でも、どうして、憎まずにいられない?
お前を殺さずには居られないんだ……。お前が私にしてくれるみたいに、優しくできないんだよ」
「殺して、いいのよ妹紅。それであなたの気が晴れるならば、私は喜んで何度だって死んでみせるわ。
でも知ってる? あなたが一番安らかな顔を見せるときは、死ぬその瞬間だって」
「知ってるさ……。暗い闇に落ちる瞬間、やっと憎まずに済むって思うんだ。
でも絶対に目は覚める。そしたらまたお前のことを殺したくなるんだよ、どうしようもなく」
「それは憎しみ? 嫉妬? もしかして、愛情かしら」
「わからないよ、そんなの」
妹紅は輝夜にされるがまま、背中を撫でられていた。
体越しに伝わる輝夜の心音が、自分の心臓の音と重なって、やけに五月蝿く聞こえてくる。
輝夜の体からほのかに漂う匂いが、遠く霞んだ母の記憶を仄かに晴らす。
「疲れたでしょう? それにもう、何日も、帰ってないんでしょう。帰りなさいよ、あなたには戻る場所があるんだから……」
輝夜は月の出ていない空へと、遠い目を向けた。
妹紅は目を瞑り、輝夜の胸に顔を埋めていた。
「ねぇ妹紅、このままずっと居られたら、それはそれで素敵なことだと思わない?」
「馬鹿いえ、すぐに飽きるっての」
「じゃあ、もう少しだけこのままで」
輝夜から薫る匂い、それは遠い昔に貰った無償の愛。
探していたものは、憎悪ではなく羨望。妹紅はたまらなく羨ましかった。
輝夜と取巻く賑やかな永遠亭が、愛をたっぷりと貰って育っている、あの少女が。
瞼の裏に、のっぺらぼうだった乳母や女中の顔が蘇る。
持っていないと思っていたはずの手の中に、ほんの少しだけ慰みの記憶が残っていた。
(私のことを、死ぬまで覚えていてくれたんだろうか?)
彼らは人として生き、人として死んだ。
もう千数百年の前の話である。その答えを知る者はどこにもいないだろう。
それでもよかったと、妹紅には思えた。
自分へと無償の愛を注いでくれた存在がいたことを、いま鮮明に思い出すことができたのだから。
それに幻想郷には大切な存在がいる。貰ってばかりの自分が、溜まった借りを返せる相手がいる。
もしかすると貰ってばかりで、何も与えることはできていやしないのかもしれないが。
妹紅は苦笑しつつ、顔を上げた。
(慧音のとこに、早くもどってやらないとな)
酷く遠回りをしてしまったけれど、妹紅はようやく出発地点へと戻ってくることができた。
明日からはきっと、何も変わらない。また輝夜憎しと竹林で殺し合い。
そうでなければ、慧音と泣き、笑って過ごすのだろう。
ぎゅるるるる。
間抜けな音が、やけに鮮明に聞こえた。
妹紅と輝夜は呆気に取られてその場で見つめあい、どちらともなく大笑いをした。
「もう何日も、何も食べてないから腹が減っちまったよ。輝夜、お前何かもってないか?」
「お酒とおつまみしか、持ってきてないわよ」
「じゃあそれでいい、なんだ、準備がいいな」
「ええ、だって」
喧嘩した後は、お酒を飲んで仲直りするもんでしょ?
ウインクをして、悪びれずに言ってのけた輝夜に、妹紅は苦笑した。
「ま、今夜のところはそれで許してやるよ。また明日からはいつも通りだからな」
「ええ、ずっとこんな調子じゃ飽き飽きするもの」
こうして、数日間に渡った妹紅の旅路は終わりを告げた。
滝の音にかき消されつつも、少女二人は目一杯に笑い、泣き、殺し合った。
この素晴らしき夜が、明けてしまうまで。
◆エピローグ
時節は変わろうとも、妖怪の山の深く分け入った場所に、天狗や河童さえも近づかない大滝があることは変わらない。
滝壷には、轟々と大量の水が流れ込んでおり、辺り一切の音を全て掻き消している。
その傍に聳えている岩では、一人の少女が自分の背丈よりも大きな筒を設置していた。
「にとりー、まだー?」
「ん、もう終わるよ。椛こそ準備は?」
「いつでもいいよん」
にとりは大筒に気合を入れるように、バシンと黒光りする身体を叩いた。
じんじんする手は、気合をたっぷり入れた証拠。
鼻をすすって、にとりは岩を降りた。後は火をつければ完成だ。
「でっかい華が、咲くといいね!」
今宵は月一つ出ていない。こんな寂しい夜だからこそ、明るく染め上げてやるのだ。
「もうすぐかしらね、永琳」
「妹紅が言ってた、月が出るって話ですね」
「そそ、新月の晩でも、空を眺めてろってことみたいね」
輝夜はおちょこに注がれている酒を一息に飲み干し、空になった器を永琳へと差し出した。
永琳は何も言わずに、とっくりから零さぬように細心の注意を払いつつ注いだ。
永遠亭の縁側には、二人のほかは誰もいない。
こうして水入らずの時間を過ごすのを、輝夜と永琳の二人は何よりも大切にしているのだった。
「ほら、上がったわ」
人の噂も七十五日というが、妹紅の噂は三日も経てば忘れ去られていた。
広まった噂をかき消すように、子供たちがそれぞれの親へと、妹紅の話を吹き込んだのだ。
誰からでもない。キクから話を聞いた子供たちが、妹紅のためにと自発的に動いたのだった。
このことには慧音も妹紅も、目頭を熱くし、その信頼に背いてはならぬと、二人は決意を新たにした。
ほとぼりもとうにさめたと、今宵妹紅は、慧音の家へとお邪魔していた。
竹林にある自分の家からは、にとりが夜空に打ち上げる華を、見ることができないから。
庭に出た二人は、酒の注がれたコップを軽く合わせて、平穏な夜を噛み締めていた。
「なぁ慧音」
「ん?」
「私は、恵まれてるよ」
「どうしてだ?」
「だって、お帰りって言ってくれる相手がいるんだもの」
恥ずかしそうに笑い、また空へと目線を戻す妹紅。慧音はその横顔を、慈しみを湛えながら見守っていた。
(いつまでも、隣には座っていられないだろうけど、せめてその時までは一緒にいよう)
慧音はそっと目を閉じ、蓬莱の民と共に生きる決意を新たにする。
「あ、上がったよ慧音」
「ん?」
袖を上海人形に引かれたアリスが、夜空を眺めると、そこには夜を全て照らしてしまわんばかりに明るく華が咲いていた。
お酒を飲んだせいか、それがやけに眩しく見える。手をかざして遮っているうちに、華は枯れてしまった。
「ま、私に向けてじゃぁ、ないだろうしねえ」
なぜだか気分が良かった。アリスはほろ酔いの体を揺らして、誰もいない道にステップを刻む。
つい一ヶ月前までは厚く覆っていたはずの雪は、里の周りではもう、見受けることはできない。
今宵夜空に咲いた華は、過ぎ去る冬を送るものか、来る春を報せるものか。
そんなことは、アリスにとってはどうだってよかった。
「春よ、こい!」
アリスが天へと手を掲げたその時、一陣の大風が辺りを吹き抜けていった。
夜空には、その後も次々と華が咲いていく。
まるで、春の到来を告げるかのように。
ありがとうございました。
妹紅は安定して人気があるイメージ。輝夜と圧倒的な差があるのは何故だろう。
数文字単位で合わせてきた貴方に敬意を表して。
超大作って感じがするぞ・・・
キャラクターの心情がすごくリアルに描かれてますね
永遠の命は幸か不幸か。
長いからダレルかなぁと思いつつ読んでいたはずなのに、一気に惹き込まれました。
文章力もさることながら、話の構成も上手い。
そんな自分が印象に残ったシーンと会話は。
・手を振り払った後の妹紅の場面
・水面から顔半分出して妹紅を見ているにとり場面と、その後のやりとり。
・慧音の酔いどれ場面
・キクの言葉で慧音の鎧が剥がれ落ちた場面
・妹紅と輝夜のやりとりの場面
です。他にもたくさんあるけど(実は椛だったとこか)特に印象に残ったのはここです。
だけどやっぱり1番印象に残った場面は、妹紅と輝夜のやりとりの場面での輝夜の言葉。
「一番安らかな顔を見せるときは、死ぬその瞬間」
これですね。
思わず安らかな表情を見せる妹紅を想像して……。
素晴らしい作品でした。本当、読めて幸せだ。
↑
何をやってるんだこの二人www
子供って相手の感情わかるからすごいよね
泣きそうな顔しててもわかってくれるキクちゃんやアキュン
凄い溢れているお話でしたね。
皆が皆、それぞれの味を出していて内容は濃いのにスッキリと読めた
感じがしました。
ずっと続く幸せではないけれど、その日が幸せと思えるほどに
妹紅や慧音、他の皆にも笑っていて欲しいですね。
素敵なお話でした。
誤字などの報告
>大義名分ががおかしな方向へ捻じ曲がっていったことを
「が」が一字余計ですよ。
>それでも里の力になれるのならばと教師の仕ことを
ここは仕事…でしょうか?
以上、報告でした。(礼)
慧音も妹紅も輝夜も良ったっす!
あと誤字報告。
>危うく垂れかかっていたものをを拭き取った。
なんというか、切ねぇ…
羊さんの影響で音楽の聞き方が変わりました。
とにかく素晴らしいSSをありがとうございます。
よっぱらいアリスかわいい
誤字報告をひとつ。
×今の私ならは、
○今の私ならば、
妹紅ファン・・・なんだろう吹いてきてる確実に、着実に、妹紅たちのほうに。
中途半端はやめよう、とにかく最後までやってやろうじゃん。
幻想郷の向こうには沢山の妹紅の仲間がいる。決して一人じゃない。
信じよう。そしてともに戦おう。
妹紅は幸せ者だなぁ。
畜生うらやましい
もう何とも表現のしようがないのです。
阿求然り御阿礼は祖母かな。
兎に角、おいしく頂けた作品でした。
妹紅SSだとこれまで一番良かった希ガス
点数は敢えてこれで
笑顔で座布団投げつけられた阿求で和んだw
電気羊さんの想いが剛速球の直球で叩き込まれたせいで何も考えられなくなっちゃいました。
紫の株が大暴落しましたw
にとりとアリスがいい味出してたと思います。
良いものを読ませていただいて感謝です!
妹紅は諭す側だと思ってましたけど、確かにこの立ち位置もしっくりきますw
非常に面白い、作品世界に入り込みやすい作品でした。
あくまで妹紅と慧音に主軸を置きながらも、登場人物がそれぞれ無駄なく役割
を果たし、それぞれに輝いていたと思います。
また異端である彼女たちが、その苦悩から脱する経過の描写が、とても秀逸な
ものでした。
一点のみ瑕瑾を挙げるならば、人里の扱いでしょうか。
私は、二人の心情に従って人里が動いている印象を受けました。特に最後の解決
部分は、もう少し人里と二人の間の交渉が入っても良かったように思います。
ともあれ、私は、名作と呼ぶに値う作品であると思っております。
最後になりましたが、このような良作を読ませていただき、
本当にありがとうございました。
みんな良い関係を築いてるな。
そして輝夜、素敵すぎるぜ。
私も99.9kbを・・・
妹紅は絶望も希望も見たんですね すごくいい物見させてもらいました
慧音は保身の為に動き、後悔こそしたけれど
最後は自分の気持ちに素直になれたんですねぇ・・・
輝夜と妹紅の殺し合いは慰めあいであり愛情表現なんですかねぇ
最後の最後まで面白かったです。
輝夜を憎まないと生きていけないもこたん…
それでも幾年後にはまた酒を飲み交わすのかと考えるとニヤニヤします………御免。
登場人物全員の心情など凄くいいが、中でも輝夜の存在がきらりと光っててよかった。
久々に良い涙を流せたと思う。ありがとう。面白かった!
輝夜の株急上昇。