――ちりん。
◆
晴天の広がる空の中心には、燃え立つ太陽が強い陽射しを大地へ降らしていた。大きな入道雲は稜線の向こうから次第に近付いて来ている。この空を支配しようとしているかのように、この空を支配せしめる太陽を覆い隠そうとしているかのように、それは緩慢に近付いてくる。遠方に聳える山はそれで翳っている。巨大な入道雲はその領域を、あの山を丸々囲えるくらいには広げている。入道雲からは雨が降るだろうか。そんな事を考えながら、私は空を見上げていた。
私が居る場所は、絶えず圧力の注がれる執筆部屋ではなく、何もかもから隔絶されたかのように、人里の集落から離れ、妖怪の山から離れた博麗神社である。此処では時間の流れさえ感じられなくなるほどに穏やかな時が流れている。気付けば一刻が経っていた事などままあるし、予想以上に短い時間しか経っていなかった事も数多ある。此処はそんな場所で、浮世に存在するあらゆる煩悩から解放される事が出来る特別な場所でもある。少なくとも私にとってはそんな場所だった。
「今日も陽射しが強すぎる事以外は、平和ねえ」
漠然とした意識で空を見上げていた私は、隣りに座っている博麗神社の巫女、博麗霊夢の言葉によって注意を逸らされた。隣を見遣ると、そこにはぼんやりとした表情で仰向けに寝転がる博麗の姿があって、その怠惰な様子を見ると、かつて引き起こされた異変の数々を解決してきた人物とは思えぬほどに気楽そうだった。それだから私はその姿を目にして、図らずも笑みが唇の端より浮き出て、口中より空気が吹き出るのを我慢する事が出来なかった。
あらゆる死地を乗り越えてきた彼女の英雄譚を聞けば誰もが厳格な人なのだろうと判ずる博麗の巫女だが、その日常生活は世の喧騒とは懸け離れた安穏とした生活である。博麗の巫女を英雄視する者も少なくないこの幻想郷で、彼女本来の姿を見ると私はやはりそれを妙に思う。何だか矛盾めいている。とても強大な敵の前に立ちはだかり、そして打倒してきた人物とは思えない。そんな差異が私の笑いを誘発したのだ。博麗はそんな私に怪訝な眼差しを向けている。
「何かおかしい事でもしたかしら」
「いえ、特に。ただ貴方があまりにも気楽そうなものですから」
そう云うと博麗はあははと笑って見せて、そう見えると問うてきた。実際そう見えている私は、その言葉に何らかの特別な意図があるのだろうかと、彼女の様子から無駄に深い詮索を行っていたが、そんな事にはまるで意味がないようで彼女はただ徒に「見えるのね」と云ってまた笑う。私は疑り深い自分の事を恥ずかしく思いながらも、正直に見えますと答えた。するとやはり、彼女は朗らかな表情であははと笑うのである。
「存外気楽でもないかもね」
「それはまた、どうして」
「此処には癖の強い奴が沢山いるもの。何時気紛れで異変を起こさないとも限らないじゃない」
そうして博麗は寝転がったまま晴天を仰ぐ。私達の頭上を、一羽の鳥が優雅に飛び去って行く。去り際に残されて行った囀りがこの昼下がりの一時に趣向を凝らしているが、彼女にとっては然したる享楽にも成り得ないと見えて、博麗はただぼんやりと空を見上げるばかりである。縁側の庇から落ちる影が丁度彼女の瞳にあるから、今もぎらついている太陽の陽射しは気にならないのだろう。寝転がらずに座っている私には日光が直接当たるものだから、着物の奥からは汗がじわりと滲んできている。少しだけ感触が気持ち悪かったが、敢えてそれを口に出すような真似もしなかった。
「でも幻想郷は確かに平和です。貴方の云う癖の強い奴も、今日みたような日は悪戯を起こす気は無いでしょう。こんな日はのんびりと空を見上げているに限る、と教えてくれたのは貴方じゃないですか」
過去に執筆された幻想郷縁起には妖怪達と人間達の血を血で洗うような血生臭い争いがあった事や、旱魃や飢饉などに見舞われた人間が疑心暗鬼になり、惨憺たる事件を招いた事などが細かく記載されている。しかし私が執筆を務めた今代の幻想郷縁起では、奇妙な異変は多く起こされてはいても、全てが平穏無事に終わり、人妖間に於ける争い事も少ない。前代と比較すると平和という言葉以上に形容の仕方はないほどである。
それだから、博麗の巫女がある日私に云った弁はそんな平和を実感するのに実に適している言葉だった。のんびりとしてぼんやりとしながら過ごせる日がある事ほど平和染みている事はない。私達がこうして無為に時間を過ごしているのも、ひとえにこの平和を実感する為という確かな目的があるからなのだ。尤も彼女にはそんな気概はないようで、博麗は当り前のようにあるこの平和な一時を、当たり前のように享受しているようである。
「そう云えばそうだったわね。阿求が何時も思い詰めたような顔をしているから、そう云ったのよ」
「そんなにあからさまな表情をしていたんですか。当時の私は」
「そりゃもう。見てるこっちが辛くなるような表情だったわよ」
「それはご迷惑をお掛けしまして、申し訳ありません」
冗談めかしてそんな事を云えるのも、私の肩の荷を軽くしてくれた彼女の言葉があったからなのだろう。かつての私は何時も自分に課せられた責務に追われて、追い詰められていた。私達稗田の命は儚く脆く、そうして短い。もしも幻想郷縁起という私が完成させなければならない書が未完成のままに死んでしまったのなら、私は何にも勝る辛苦を感じるに違いない。それほどまでに、私にとっての幻想郷縁起とは重要な意味を占める物だった。それは無くてはならない物であり、一方で私という存在を縛り付ける重荷でもあった。それを軽くしてくれたのが、他ならぬ彼女なのである。
「まあ今はこうして元気に居るんだから、何も昔を思い出す事はないわ」
「あのまま貴方の言葉を聞かずに居たら、きっと私は押し潰されていたでしょうね」
「だから、そんな仮の話なんてしなくて好いのよ。あんたは元気、それだけで充分だわ」
少し怒ったような語気は、しかし嬉しく思える。こういう彼女の優しさだとかに私は癒されるのだ。ともすればそれは不器用な表現だったが、私には判然とした意図が伝わっている。稗田という家系の重圧を払拭してくれている。自らも決して楽とは云えない境遇に居る彼女が、そういう気配りをしている事に心底感嘆する。私は他者に気など回らなかった。自分自身の事で精一杯で、深い闇の中に一人で佇んでいた。誰彼も見えず、自分の行く先さえ見えない漆黒の中で打ちひしがれていた。私をそんな闇から連れ出してくれたのが、博麗の巫女だというから面白い。
「そうですね。近頃は自分の為の時間も増えましたし」
そう云う私の声音が心持ち暗くなっていたのは、気の所為ではない。恐らくは博麗も気付いている事だと思う。天性の勘の好さは私も知っている。また他者の変化に敏感な彼女が、私の元にもたらされている変化に気付かないとは考え難い。私は博麗と過ごしてきた時間の中で、そういう彼女の事を知っているのだ。例え些細な変化であろうとも、彼女はその事に気付く。けれどもそれについて口を出す事はむしろ稀なくらいである。彼女は他者の変化に敏感であると共に、その時の心情についても鋭敏な感覚神経を有しているのだ。それが私なりに導き出した見解だった。
「幻想郷縁起が、完成したらしいわね」
「……ええ。漸く私が記憶した事全てを、書き遺す事が出来ました」
今回も彼女の話振りは先の私の見解を肯定しているかのようだった。深くは踏み込まず、ただ事実だけを確認するかのように遠回しな口振りで話す。それだから私達二人は平生の如く居られるのだ。重々しい雰囲気になる事もなく、何時ものように安穏としたまま過ごし続ける事が出来るのだ。もしも彼女がある意味無遠慮な人間で、他者の心の領域に容易く足を踏み入れる者だったのなら、私はきっと“今日”此処へは来ない。
博麗はやがて遠い空を眺めながら「そう」と呟いた。心持ち瞳が細められたのは、私の勘違いだったのだろうか。彼女の平生が崩れる所など目にした事がない私にとって、その微細な変化は何処か不自然でもあり、心苦しいものでもある。――が、既にして私達は平生とは懸け離れているのかも知れない。誰もが平生の通りだと思えるだろうこの光景は、客観的に見詰めてみればとても穏やかとは云えないのかも知れないのだから。
「お疲れ様、――いや、おめでとう、の方が好いかしら」
「どちらでも構いませんし、どちらでも嬉しいですよ」
「そう。それならお疲れ様。おめでとう」
「ありがとうございます。色々と世話を焼いて貰いまして」
縁側から覗く庭先に煙る青々とした葉は、その生命力を誇示するかのように陽光を受けて鮮やかな緑を光らせている。颯々と吹く風が梢を揺らし、ざわざわと音を立てては過ぎ去っていく。乾いた地面から砂埃が舞っている。何気ない夏の光景の一時が、そうして過ぎ行く。美しい羽を有する揚羽蝶はひらひらと舞いながら花の上に降り立ち、逞しい木の幹に止まっている蝉は忙しなく鳴き続けている。夏の音は斯くも心安らかなものだったろうか、と新たな発見に微かな喜びを覚えながら、私は人知れず微笑した。全ての生命が愛おしく思われた。
「あんたの云うほど世話なんて焼いてないわよ。阿求の力があってこそじゃない」
「それでも、貴方は私にとって大きな存在なんですよ」
「そう云われても嫌じゃないけど、何だか恥ずかしいわ」
「おや、貴方が恥じらう所を見られるなんて、思わぬ僥倖ですね」
からかわないでよ、と云って赤らんだ頬を隠すように身体を横転させるものだから、私はそれが可笑しくてつい笑ってしまった。「あはは」と私の声が聞こえる。まるで彼女のような笑い声だった。心の底から今を楽しんでいるような声だった。こういう風に笑えた事がこれまで生きて来た中でどれくらいあった事だろう。そう思うとあははという笑い声が次第に震えてくる。きっと彼女にも震えているように聞こえている。私は何とか口を閉じて、袂を口元に当てた。唇より漏れる吐息が熱を持っている。目の奥が熱い。視界が滲む。太陽の光がその所為で強くなる。
平生の私が崩れてしまった。心が揺れている。水面に落ちた一滴の雫が波紋を広げ、それから次いで落ちる水滴が更に波紋を広げていく。幾重にも重なって行く円が私の心の乱れを表して、跳ねた水が溢れ出そうになってしまう。私は彼女がこちらを向く前に、何とか自分を取り戻そうとして、目を擦ったり、洟を啜ったりしていた。そんな奮闘の甲斐があってか、博麗が私の方へ向き直った時には微笑んでいる事も出来た。不自然な笑みであったのかは判らない。
「どうも、感傷的になってしまって駄目ですね」
私の方へ向き直り、何も云わずに見詰めてくる博麗の視線に耐えられず、私はそんな事を云って苦笑する。すると語尾がまた震え始めて、平生の私が揺らぐ。今の私は所々に罅が入った歪な石のようだった。些細な刺激ですらその罅を広げて崩しかねない。そうしてそれが崩れると不様な様を晒してしまう。決まっていた現実に対する理不尽さと、この幻想郷への未練が抑え切れず、泣き出しそうになってしまう。
私は初めから平生などではなかった。この博麗神社に赴いた時には既に、心は揺らいでいたのだ。私にとって特別な今日、わざわざ屋敷を出て此処に来たのは理由があるからである。その理由こそが既に平生から離れているのだ。以前までの私なら一人屋敷の中で思慮に耽った事だろう。そうしてこの幻想郷に向けて感じるのは、払拭し難い未練ではなく、ある種傲慢な憐憫だったに違いない。深淵の闇の中を生き、初めて光をまともに目にする時が今日だなんて皮肉も好い所だ。それでは遅すぎる。光の温かみを長い間実感する事が出来ない。
「――この時期の風流よね」
博麗は脈絡もなく、卒然としてそんな事を云った。私には何の事を云っているのかまるで判らない。含まれた意図も私の理解を超えているようで、何の準備もなしに受けたその言葉を咀嚼する事が出来ない。私は一時の驚きを純粋に不思議がった。ごくごく平凡な日常の中で感じる不思議をこの時に感じた。私が尋常でない状態で聞いたから、殊更案外に思われる。あるいはそれすら、彼女の意図した事の中に入るのかも知れなかった。
「風鈴の事。こんな暑い日に音が鳴ると、不思議に少しだけ涼しくなった気がするじゃない」
彼女の言葉に後押しされたかのように、爽やかな風が颯と吹く。すると高音の透き通った音が、ちりんと鳴って、彼女の見ている先に視線を移せば、そこには硝子で出来た風鈴が風に揺られていた。水玉の模様が描かれている何の変哲もない風鈴である。注意を向けるように促されなければ、決して気に留めなかった物が目に入り、私は小さな変化をこの胸に感じた。なるほど、確かに風鈴の音は錯覚の涼しさを私達にもたらしている。纏わり付くような熱気も然して気にならなくなるから不思議だった。正に日常の風景を切り取ったかのような風景である。
「何だか風鈴が鳴ると平和って思えるのよ。あんたはそうは思わない?」
「そう云われれば、確かにそうも思えます」
「これが今の幻想郷なのよ。だから、――ねえ阿求。そんなに我慢する必要だって無いのよ」
一瞬彼女が何を云っているのか判らず、目を丸くした。しかしそれを理解するのは簡単な事である。今私が何を我慢しているかなど、考えるまでもない問題で、それは傍から見れば一目瞭然の変化なのだ。博麗もそれに気付いているからこそ、遠回しな言い方でそう促したのだろう。けれども、それは私からすれば迷惑に違いなかった。今まで必死で堰き止めて来た大波を、此処で解放してしまえば尋常で居られない事を知っていた。不様な姿を晒してしまうと自覚していた。
私に親切が必要だというのなら、それは何にも気付かない振りをして、何時もの通り振舞ってくれるだけで充分なのである。決して優しさを求めている訳ではなかったし、その優しさに甘えてしまう自分も嫌だった。それだから、私は必然彼女の言葉を耳にして、俯くより他になく、膝頭に置いた手が小刻みに震え出すのも仕方のない事なのだ。
「我慢なんて、してないです」
「そう強がらない方が気楽だわ」
「強がってもないです」
「あんたもいい加減強情ね。私には明らかに何かを辛抱しているように見えるわよ」
顔を上げると、寝転がっていた身体を起こして、穏やかな微笑を湛えた博麗が私を見詰めていた。緩やかな曲線を描く唇は言葉を必要とせずに、彼女の意思を伝えている。私は次第に心の奥から溢れ出す感情の奔流を止めていられなくなっていた。少しでも気を抜けば今までの努力が水泡と帰し、情けない姿を晒してしまいそうになっていた。――しかし、彼女がその笑みを絶やす事はなく、依然として変わらない慈顔は始終私に向けられている。
「強情、なんて、そんな事……」
「そういう所が強情なの。――泣いても好い、って云ってるのに」
爽やかな陽射しに照らされて、透き通っていた視界は一瞬にして歪み、熱くなる瞳から雫が一つ頬を伝った。その事に私は暫く気付かなかった。ただ茫然としたまま、博麗の顔を見詰めて、どうしたら好いかも判らずに何度も同じ個所を低回している思考に終止符を打てずにいた。漸く自分が泣いているという事実に気付かされたのは、両の瞳から次々に涙が溢れた時で、その時には既に咽喉から嗚咽が漏れ出ていた。
そんな私を、博麗は恩倖を込めた腕で抱き締めた。暖かな温もりは少しも煩わしくはなく、例え今日が猛暑日であっても気に掛かる事は有り得ない。私は情けない事に彼女の優しさに甘えている事しか出来なかった。今まで散々続いていた強がりの仮面は容易く剥がされてしまって、もう決して本当の表情を隠す事は出来ない。晴天の空に年甲斐もなく声を出して泣く女の声が響き渡る。蝉時雨がそんな声を掻き消して、遥か彼方にあると思っていた入道雲は太陽の光を遮った。きっとこの瞬間は私にとって特別な刹那だったのだろう。世の変化は、それはそれは美しく見えて、そんな世界に包まれながら、私は自分が幸せ者だと思わざるを得なかった。この世界に生きる私は、紛れもなく幸せ者なのだと。
「――あの風鈴、あんたにあげるわ」
ふと幾何かの時間が経った後、そんな霊夢の声が聞こえてくる。彼女の胸に顔を埋めた私には、博麗の表情を知る由はない。それでも、無愛想の中に確かな恩倖を湛えた彼女の言葉は、私の瞳から溢れる涙を止めはしない。齢二十と余年、人間にしては短すぎる生涯の中で、その言葉は最も嬉しいものだった。何故なら彼女は先刻あの風鈴を見遣って云ったのだ。――あの風鈴が軽快に音を響かせる度に、彼女は平和を感じている。そうであるなら、彼女にとってこの幻想郷が紛れもなく平和だという事を、あの風鈴は象徴しているのだ。それが何よりも嬉しかった。
「……はい。是非とも頂戴致します」
ちりん、と風鈴が鳴る。生暖かな風が吹く度に、何度も何度も鳴り続ける。この地は平和だ。この世界は平和だと訴えるように、何度も何度もそれは鳴る。その間隔と呼応して私の身体は震えている。喉が詰まり、しゃくり上げる度に情けない嗚咽と共に身体が揺れる。けれども彼女が背中に回している手を感じると、どうしようもなく安心するのである。常に幻想郷を平和に導いてきた彼女の腕は、誰よりも力強く、誰よりも頼りになった。
「また、会えると好いわね。ううん、絶対会わなきゃ駄目よ。それまであんたの望んだ世界を決して崩しはしないから」
もう声は出なかった。無理に言葉を形作ろうとすれば、それはたちまち崩れてしまい、くぐもった鳴き声が唇から漏れ出るばかりで一向に要領を得ない。涙は止まらず嗚咽は止まらず、乱れた心を平生に戻す事も叶わないまま、彼女の腕に抱かれて、ただただ泣き続けた。如何ほどの時間が経ったのかも判らず、一心に泣いた。この幻想郷に転生を果たしてから初めてと云えるほど泣いた。
それも最後くらいは許されるだろう。脆弱な精神を必死に取り繕わずに、真の自分を白日の下に曝け出す事も許されるだろう。――私は自身の生涯に誇りを持つ。この幻想郷に生を受けた事を、素晴らしい人々に出会えた事を、万の金塊よりもどんなに偉大な地位に立つ事よりも貴い物だと思いながら、そう思う。
言葉を出せない代わりに私は頷く。そうして彼女の胸の中で泣きながら、自然に、本当に自然な笑みを浮かべられたように思う。――ちりん、と風鈴が爽やかな音を奏でた時に。
◆
恐れは、と問われた時に、私は毅然とした態度で無いと答える事が出来た。転生の儀を終えて、この身体より魂が旅立つ準備が整うと、後は僅かな時間を好きなように家の中で過ごすだけである。前もって判っていた私の人生の果てはそうして終わりを迎え、新たな生を得るべく閻魔の元へと行くのだ。それが稗田が持つ運命にして永遠の輪廻である。
先代の稗田達は何を思ってこの時を迎えたのだろう。私はそんな事を考えながら、一人自室に坐し、何をする事もなく考えていた。しかしその答えが得られる訳ではない。先代たちが思った事は全てその胸の内に留められ、それを知る道理は決してありはしないのだ。だから私がこうして最後の時を過ごしている時に何を考えているのかも、次代の稗田が知る事はなく、全ては私だけの中に眠り続ける。私はそれこそが稗田が迎える真の終わりなのだと解釈している。
窓の外に浮かぶ星月夜は鮮やかに瞬いている。強い光を放つ星があれば、弱々しい光を放つ星もある。正に千差万別と云えるその夜空はまるで私達の生きる世界と酷似していた。誰もが異なった特徴を持つこの世界は、全て何かの意思によって突き動かされ、常に動いて行く。その何かは、この夜空の中心に浮かぶ月のような存在なのかも知れない。それとも、夜には姿を隠してしまう太陽こそがその正体で、蒼茫たる空こそが私達の世界なのかも知れない。
「今晩は。こうして会うのは久し振りかしら」
そんな事を考えていると、不意に私の前に妖怪の賢者と謳われるほどの力を持った聡明な妖怪、八雲紫が現れた。彼女は何時ものような胡散臭い笑みを湛えずに、心持ち穏やかな表情で笑んでいる。卒然とした登場には驚かなかった。むしろ来たるべき時が来たのだと受け入れる事が出来たように思える。彼女は何の理由もなくこうして人里の中に居を構える稗田邸を訪れはしない。こうして来た理由があるとするのなら、それは私の最後を看取りに来た証左であるに違いない。
「今晩は。お久し振りです」
「夜の散歩の途中に、少し気紛れで立ち寄ってみたのだけど、存外安らかにしているようね」
「不思議と恐怖が無いんです。何だか普段と同じ夜のような気がして妙な心持ちですが」
今の心情を吐露すると、彼女は柔和な笑みを見せて「そう」と云った。夜空の下、緑豊かな庭の中で彼女の差す日傘は場違いのように思われるが、何だか何時もと同じ姿は私に安堵をもたらした。縁側の庇に飾った風鈴は、風の凪いだ今宵に涼やかな音を奏でていない。洒落た水玉模様の硝子細工は静かに吊り下げられていて、月光を受けてきらきらと光っていた。
「泣かないのかしら」
「もう充分に泣きましたから」
「それじゃ未練もないの」
「残せないくらいに素晴らしい人生を歩めたと思っています」
「強いのね」
「それほどでもありません」
そんな話をして笑い合う。静謐な夜に二色の笑い声が響き、遥か彼方の空に流れ星が尾を引いて落ちて行った。
「それなら問いましょうか。貴方にとっての幻想郷はどんな物?」
先代の稗田もこうして同じ問いを同じ時に問われたのだろうか。彼女の口振りはそんな事を思わせる。そうしてその度に違う答えを受けたのだろう。そうであるなら、私も厳粛な態度を以てその問いに答えねばならない。幻想郷の初めから終わりまでを全て見届ける彼女に私の遺志を、ありのまま伝えねばならない。それは私の望みであると同時に、最後に課せられた私の使命なのだ。何も慮る必要はない。私が感じた事をそのまま伝えれば、彼女は満足するのだろうから。
「この上なく歪で、この上なく美しい、愛おしい心の故郷――そう思います」
凪いでいた風は吹き出した。ちりんと透き通った音が鳴る。彼女はただ微笑んだばかりで、他に何も云う事がなかった。そうして私に背を向けて、目の前に開けた境界に足を踏み入れると、最後にこう云った。
「私にとっての幻想郷も、貴方と同じよ」
そうして消える後ろ姿は瞬く間に見えなくなり、そこに広がるのは宵の色彩に染められた草花達だった。それらが風に吹かれてざわついている。風鈴がそれに合わせるかのように鳴る。私は目を閉じた。暗闇の世界に見える物はなく、ただ漆黒が目の前に広がっている。するとその中に私が記憶した事の全てが現れる。どんなに些細な事も、思い出となって思い返される。私という走馬灯の具現が成す事象なのだろう、細部に至るまでが明瞭に浮かぶ記憶の奔流は留まる事を知らず、永遠とも思えるほどの時がその中で過ぎて行く。
その中であの風鈴がちりん、ちりん、と途絶える事なく鳴り続けている。
やがて私はその音を心の中で再現してみた。何度も繰り返されるその音を忘れぬように、私が生きた幻想郷の全てを忘れぬように、この能力を最後まで残して欲しいと願いながら。
風鈴は尚も鳴り続ける。ちりん、ちりん、ちりん――と。……
◆
幻想の終焉に用意された篝火が、闇の中で静かに揺れる。
焔が揺らめく其の先に、一人佇む女の姿。
相貌若く白磁の如き肌は汚れを知らず、しかし死相は克明、篝火は風に揺られて頻りに瞬く。
揺蕩う闇が晴れる事はなく、雫がぽたり水面に波紋を広げ、佇む女の足洗う。
記憶せしめた百景、万人、限界を知らぬ永遠の書の末尾、其処に記すは逝く先に差す新たな曙光。
斯くも儚いその背中、押す風ちりんと風鈴揺らし、ふと消える紅い焔。
転に沿って輪廻を巡り、永久に枯れ果てぬ記憶の深海、沈みし棺に寝転ぶ女。
嗚呼やがて、奈落の闇に堕ちた魂が、その呼気を水泡に変え――
ちりん、ちりん、と闇に轟き闇に堕ち行く鎮魂歌。
――了
寒い季節に夏の日差しが見えました。
しんみりで良かったです。
次代の稗田を継ぐものに風鈴に籠められた想いが伝わると信じたいものです
穏やかな状況でしたね。
私も、今は冬なのに夏の風景を見ることができました。
阿求と霊夢の関係、そして紫様の一部の登場が
とてもよく引き立っていたと思います。
最後の詩…かな?
幻想的でいてどこか重みのある良いモノだったと思います。
次の稗田はどんな想いを作っていくのでしょうね。
面白い作品でした。
最後に添えられた文章も鮮やか且つテンポが良く、寂寥感のある余韻に浸らせていただきました。
以下は私の意見です。
文章に体言止めや改行を増やすと、より読みやすくなるのではないでしょうか。
日本語の横書き文は情報が一目に塊として入ってきまして、こと小説は適切な位置で区切らないと「疲れる文章」になりがちです。
一つご参考までに。
けれど、なんというか、塩コショウが足りない感じといいますか。なにか一つパンチが足りない気がしました。