何故、こんなにもこの関係は歪んでいるのだろうか。
「綺麗ですよ、パルスィ」
自らの名前を愛おしそうに呟く声を聴きながら、水橋パルスィは心地よいようなくすぐったい様なそんな気持ちになっていた。それはもちろん精神的な意味でだが、髪を柔らかく撫でる感触も同じようなものだった。
彼女の体勢を分かりやすく表現するなら、それは膝枕だ。ほっそりとした柔らかい膝に頭を乗せ、身を投げ出している。右手は胸に、左手は畳に。自然な体勢で、静かに頭を撫でられ続ける。
その心地よさから彼女はずっと目を閉じていた。そうすると、体勢的に目の前に居る“彼女”の顔が見れなくなってしまうが、時折“彼女”が言葉を紡ぐから何の苦にもならない。
むしろ近い位置にある顔のせいで逆に心苦しくなってしまいそうだから、パルスィはただ身を任せていた。傍から見れば、寝ているように見えるかもしれない。
「綺麗ですよパルスィ」
また、言葉が紡がれる。
パルスィの“頭上”で彼女が時折呟くのは何時もそんな言葉ばかりだった。髪の感触・顔の造詣・胸の形の感想。さすがに最後のそれを漏らされた時はいろいろと表現できない感情をパルスィは抱いたが。
(というよリ、何時触ったのかしら・・・・・・・)
ふと思い至り記憶を探してみるが心当たりは――多すぎた。少なくともチャンスという点では多すぎる。宴会で酔っ払った時、こうして膝枕をされている間に寝てしまった時、数えていけばキリがない。
だからそんな無駄なことをパルスィはしない。今、大切なことは髪を撫でる感触と紡がれる言葉なのだから。
「妬ましいほどに美しい」
(それは私の専売特許・・・・・・)
まるで愛を囁くかのような“彼女”の言葉。その調子は、まるでペットを愛玩しているようなもので。
「っ――」
ふと、口に出来ない感情を抱いてしまって彼女は起き上がってしまった。驚いてか頭を撫でられていた手が撥ね退けられたことにほんの少しの後悔を抱きながら、パルスィは“彼女”――古明地さとりに向き直る。
「・・・・・・どうしたのですか?」
柔らかく微笑んで、彼女はそうパルスィに問いかける。
この関係が始まったのはそう遠くない過去の話。
地上に間欠泉が噴き出し、それに乗って怨霊が飛び出し。
間欠泉を止めるために(人間側は違う考えだったが)人妖のペアが地下へとやってきて。
そして全てが解決した後のこと。
地霊殿で宴会が行われた。
これは今まで無かったことである。旧都の鬼達は宴会好きであるが、さとりは『心を読む能力』を持っているため嫌われており、また彼女もその状況を受け入れていたので、地霊殿が宴会場になることは有り得なかった。
だが、今回は違った。
例の異変を解決した二人の人間がその宴会の主催者だったのだ。彼女達の思考経路としては『ペットの不始末は飼い主の責任→ならば宴会場の提供を』という短絡的かつ合理的なものであり、さとりのその他の妖怪達のしがらみなど、ましてやさとりの都合など知ったこっちゃなかった。
とはいえ、悪いことばかりではなかった――それが宴会に参加した妖怪の総意であった。
どんな能力の持ち主だろうと、酔っ払いの席では平等。むしろ、普段は強いと称される大妖怪の意外な一面を見られる場所という認識すらある。
一例を挙げれば、心を読む妖怪には赤面するほど恥ずかしい思考をぶつけ、嫉妬する妖怪にはめまぐるしいほどの嫉妬材料を与える。そんな風な余興が行われ、全員が盛り上がり、全員が楽しんだ。
・・・・・・その後の惨状で頭を痛める者も居たが。
そんな宴会が終わった時から、二人の関係は始まった。
(・・・・・・正確には、宴会の最中かもしれないけど)
パルスィは心の中でそう訂正する。
最初に感じたのは頭痛だった。
「ぅん・・・・・・痛っ」
酒を呑めば待っているのは二日酔い。それはパルスィも例外ではなかった。うっすらと彼女は目を開けた。
その視界が90度ほど傾いていた。
目に映るのは、酒瓶が転がり皿が割れ料理と酔いつぶれた妖怪が散乱した惨状。酔っ払いに『発つ鳥跡を濁さず』なんてことわざが通じるはずもなく。きっとここの主は後で酒以外の理由で頭を痛めるんだろうなぁ、とそんな風にパルスィは考えていた。もちろん他人事である。
(静か・・・・・・)
次に感じたのはその静寂さ。
記憶からも惨状からも、つい先ほどまで賑やかだったのは明らかだ。だが、今の宴会場は静寂に包まれている。突っ伏している妖怪は寝息しか立てないし、この程度で突っ伏しない妖怪はパルスィの見える範囲には居なかった。
きっと二・三次会にでも行っているのだろう、と彼女は当たりをつける。
(・・・・・・柔らかい?)
そして彼女が三つ目に感じたのは、頭の下の柔らかさだった。
視界は90度傾いている。つまり、身体を横たえているということだ。となると、ここまでの柔らかさを感じるはずも無い。それに、彼女が感じている柔らかさは無機質なものではない。柔らかさの中にも硬さがあり、心地よい感触を彼女に与えている。
(――っ)
生きてきた中でほとんど感じたことのない感触だがすぐに彼女は記憶からそれを引き出した。思い至った答えに頬を赤くしながら、彼女は身体を回転させ仰向けになる。
自然と飛び込んできたのは、顔だった。
「・・・・・・あら」
「・・・・・・」
その顔はほんの少し驚いた様子を見せたが、すぐに目を細めて何時もどおりの表情に戻った。そのまま、仰向けになっているパルスィの髪に指を通し始める。
もちろんパルスィから見えるその顔――さとりの表情は90度傾いているから、先ほど思い至った答えの裏づけとなる。
つまり、パルスィはさとりに膝枕をしてもらっていたのだ。
「あんた、何のつもりで――」
「綺麗ですね」
こんなことを、と続けようとした言葉はさとりの言葉に遮られる。思わぬ彼女の言葉にパルスィの頬が更に赤くなる。
(・・・・・・髪のことよ、そうよ髪のことよね!?)
いろんな意味の不意打ちで訳の分からない思考をしてしまう彼女にとって残念だったのは、目の前の妖怪の能力をすっかり失念していたことだろう。
「いえ、貴方のことですよ・・・・・・もちろん髪も綺麗ですが」
「っ――」
『心を読む能力』を思い出したパルスィの顔がさらに赤くなる。残った酒の所為もあるだろうが、もはや林檎以上に赤い顔だった。
それでもパルスィが起き上がらなかったのは、心地よい感触かそれともかけられた言葉の所為だったか。
むしろ彼女は“起き上がれなかった”のかもしれない。
そんな宴会から数日後、パルスィはさとりに呼び出されていた。
その呼び出しに応じる必要性も義務も何もなかったが、気がついてみればパルスィは地霊殿を訪れていた。
丁重に通された彼女を待っていたのは――宴会の時と似たような状況だった。
(・・・・・・訳が分からないわね)
何となく思い返してみた記憶だったが、逆にパルスィの混乱を招くだけだった。さとりが何故このようなことをしてくるか、その意味と理由も分からないが、むしろ最も分からないのは――
「どうしたんですか?」
柔らかい笑みを浮かべたまま、さとりがもう一度聞いてくる。それにどう答えようかパルスィは悩んでいたが、ふと自らがあの宴会の時と同じ間違いをしていることに気がついた。
『心を読む能力』があるだのから、さとりの問いは無意味であるし、パルスィの悩みもまた同様に無意味だった。
「分かってるくせに」
「何の話ですか?」
自然と出てきた答えに返ってきたのは素知らぬ答え。むしろその白々しさがパルスィの考えの正しさを証明していた。
(分かってるくせに――でも、それを指摘しないってことは)
さとりは読んだ心をそのまま口に出す傾向がある(それが嫌われる原因であるとの一津もある)。それをしないということは、パルスィの考えに対して答えが無い、もしくは答えられないということだろう。
パルスィにとってこれは初めてのことではない。何せ、事あるごとに彼女はその問いを再確認するのだから。さとりがその考えを知らないはずがないのだ。
「どうしました?」
「・・・・・・何でもない」
だから、パルスィはそれ以上の追求ができない。相手が答えられないのなら、わざわざそれを聞く意味もないからだ――というのは建前でしかない。
本当は・・・・・・
「っ――」
柔らかい感触に包まれて、パルスィの思考は中断された。それはむしろ、そのための抱擁のようにも思えて、彼女はどこか複雑な感情を抱いた。
真正面からさとりに抱きしめられているせいで、パルスィは柔らかい感触を味わっていた。もちろんさとりもまた同様にパルスィの感触を味わっているということで。
冷めかけていた熱がまた戻ってくるのをパルスィはどこか他人事のように感じていた。幸いなのは、頬を寄せ合うようにして抱きしめられているためにお互いの顔が見えないことだろう。
(でも・・・・・・息がかかってるのよね)
時折耳や髪の毛に息がふりかかり、ぞくぞくとした感触をパルスィは味わっていた。そんな考えを彼女がしているのにまだ息が吹きかけられているということは、つまりさとりはわざとやっているということで。
「あんた、ほんとに勝手よね」
「そうですか?」
抱きしめられたまま、パルスィは動かない。さとりもまた同様に。ただ、お互いの距離が零に近いというだけの体勢。接吻も、涙も、その他何もない。抱きしめ、抱きしめられ、聴こえてくるのはお互いの呼吸、感じるのはお互いの鼓動。
それらを味わいながら、パルスィは考えていた。
(さとりは・・・・・・私のことをどう思ってるんだろ)
パルスィがさとりに問いかけないのは意味がないからではなく、
問いかけることによりこの時間が壊れることを危惧しているからかもしれない。
彼女は、この感触が嫌いではないのだから。
「それはやっぱり恋だろうな」
「こい~っ?」
パルスィの拠点とも言うべき橋。その上に居るのは彼女ともう一人、額の角が目立つ鬼、星熊勇儀だけ。
二人は今、手すりにもたれかかって胡坐をかき、酒を呑んでいる。勇儀が注ぐ酒をパルスィが呑み、その呑みっぷりを肴に勇儀が呑み、またパルスィの杯に注ぐ。
明らかに自棄酒状態だった。
「いいわねいいわね、私が恋してるのね、私が妬ましいわ」
「自らも妬みの対象とは・・・・・・」
もうべろんべろんなパルスィの言葉に勇儀は苦笑しながら杯を空ける。
この二人がこんな風になったのは、実はごくごく最近のことである。
「はぁ・・・・・・」
「どうしたんだい、そんなに暗い顔をして」
件の宴会について橋で悩んでいたパルスィの前に杯を二つ持って現れたのが勇儀だった。最初は呑む気も起きなかった酒だが、強引に勧められている内にパルスィは杯を手にとってしまった。
「・・・・・・これ、結構高いわね」
「度数かい、価値かい?」
「両方よ」
一杯呑んでしまえば後はなし崩し、勇儀に注がれるがままにパルスィは酒を呑み続ける。そうなれば口は軽くなるから、そうなるのも必然だった。
「ふんふん、お前さんはさとりに懐かれたのか」
「まるで動物か何かみたいね」
つい口を滑らせてしまったパルスィの告白に勇儀は親身になって相談に乗った(と言っても悩んでいる時に現れて酒を酌み交わすぐらいだが)。
それが、この二人の関係の始まりである。
(それまでは話すことも無かったのよね・・・・・・)
宴会好きな勇儀と、一人で居ることが好きなパルスィ。二人に対した接点はなく、出会ったところですぐに別れる。話したこともほとんど無い。
それなのに、今では旧友のようにしている。
(ほんと、この関係もおかしいわよね。こうなったのも何時の間にかだし。最近、ほんとに訳分かんないわぁ~)
酒の回った頭ではあまり複雑なことは考えられない。それでも、今の自分を取り巻
く状況がおかしいということを彼女は良く理解している。
「そんな風に慕われてるなんて、羨ましいねぇ」
「別に、慕われてるとかそんなんじゃないわよ」
心底羨ましそうに――嘘をつかない鬼がそう言うということは本当に羨ましいのだろうが――口から出た言葉に、どこか苦い顔をしてパルスィが異議を挟む。
彼女はさとりのような能力を持っていない。だが、それでも彼女には良く分かる。さとりが彼女を扱う様は、まるでペットに対するそれだった。本当に良く分からない関係だが、きっとさとりの気まぐれで始まったのだろう、とパルスィは最近思うようになってきた。
「いんや、羨ましいのはあんたじゃないよ」
「え?」
そんな考えをしている時にそんなことを言われたものだから、パルスィは少々間抜けな声を出してしまった。一連の勇儀の台詞から考えたところで、羨望の対象はパルスィ以外には有り得ないはずだ。
そう考えながらパルスィはまた杯を空ける。勇儀が用意する酒に共通することかもしれないが、今日の物もまた度数が高かった。何時もより早めに自らの意識が混濁としていくのを、パルスィは他人事のように感じていた。
「なぁパルスィ・・・・・・お前はさとりのことが好きか?」
「・・・・・・どういう意味よ?」
「そのままの意味だよ」
とんと脈絡のない質問にパルスィは答えられない。意識は混濁としていくし、もう単純な思考すら成り立たなくなっていく。
だから、自らの手から杯が落ちたことに彼女は気づけなかった。
「言われなくても分かるよ、あんたはさとりのことが好きだ。鬼が言うんだから間違いないよ」
「わけが、わからない・・・・・・」
「ん、分からなくても良いよ。というより、もう気づいているんだろう? 自分の考え、気持ち、想い、恋慕に」
唄うように続ける勇儀の言葉ですら、まるで遠い水底から響いているようにパルスィには感じられた。
(・・・・・・むしろ、水底に居るのは私?)
それに気づいた時には、パルスィの意識は闇へと消えていた。
「私が羨ましいのは・・・・・・あんたに好かれてるさとりの方だよ」
勇儀のその言葉は、果たしてパルスィに届いただろうか。
その日、パルスィは地霊殿を訪れなかった。
「・・・・・・」
大した用事がなければ何時も来てくれた存在の来訪を待ちながら、さとりは訝しがっていた。まず、パルスィがやらなければいけない仕事いうのが滅多にないし、急用があるのなら彼女はちゃんと断りを入れてきた。
だというのに、今日は来ない。
「・・・・・・風邪でも引いたのかしら」
言葉だけを抜き出せば心配しているように聞こえるかもしれないが、口調と表情は何時も通り。「来なければしょうがない」程度に思っているようにも見える。
そんな彼女の元にやってきたのは、一匹のペットだった。妖怪化をしていないペットの中では古参に入る部類の猫である。
「どうしたんですか?」
訪ねるさとりに答えて、猫は一声鳴いた。必然的に、口に咥えていた封筒がぱさりと落ちる。さとりはそれを拾い、中に入っていた手紙を広げて、読み始める。
「・・・・・・なるほど」
数秒後、さとりは内容を理解した。短い一文だったから読むのは一瞬で済んだのだが、理解するのにそれだけの時間がかかったのだ。
内容を言い表すなら、『パルスィを預かった』、その一言と地霊殿に近いとある広場の住所だけ。
「誰に渡されたんですか?」
封筒には宛名も差出人も書かれていなかったが、猫が教えてくれたのは意外な妖怪の名前だった。
この広場は、常に人気が少ない。
かなりの広さを誇るそこは、場所の悪さから宴会で使われることも少なく、旧都からも外れた場所なので誰も居ないのだ。故に、何か大きな事をする時は利用される場所でもある。
今日はまさにそれだった。
「来ましたよ、星熊勇儀」
広場の中央に立つのはさとり。ペットも連れていない。
「手紙はちゃんと届いたかな?」
そこから十メートルほど離れた場所に、勇儀は立っていた。こちらも同じく一人。何時もなら彼女を放っておかない他の鬼達も今日は居ない。
今、この広場に居るのはこの二人だけ。妖怪も、動物も、もちろん人も居ない。静寂が支配する広場に、声が響く。
「届きましたよ。ですが・・・・・・次は名前を書いておいてもらいたいですね」
「いやぁすっかり失念していた。こりゃすまない」
あちゃぁ、といった表情で額の角を勇儀は叩いた。その表情と鬼の性格、そして自らの能力の裏づけでさとりはその言葉が嘘でないことを悟る。
(どこまでも食えない性格だ)
二人が出会ったのは初めてではないが、出会うごとにその考えの正しさをさとりは再確認している。
「それで・・・・・・何故、パルスィを攫ったのですか?」
「鬼は人を攫うものだよ」
「彼女は人ではありませんよ。嘘はいけませんね」
そう言いながらも、さとりは自らの言葉が正しくないことを知っている。鬼というのは嘘を好まないがユーモアの精神がないわけではない。今の勇儀の言葉も不正確ではあるが、嘘ではないのだ。
それに――
「どうせ分かっているんだろう? お前さんの能力で」
「・・・・・・確かにそうですね。ですが、にわかには信じがたかったもので・・・・・・
まさか、貴方がパルスィを好き、だとは」
それこそが勇儀がパルスィを攫い、さとりをここに呼び出した理由である。
「そう、それが理由さ」
「ですが、それでは私を呼び出した理由になりませんよ? 貴方がパルスィを好きだというなら、告白すればいいだけのことではありませんか」
「おやおや、すっとぼけるのかい? パルスィはお前のことを好いているんだよ。それで理由にならないかい?」
勇儀のその言葉に、パルスィの眉がピクリと動く。あまりにも小さな動きで見逃してしまいそうなほどだったが、そんなへまをする勇儀ではなかった。
「・・・・・・やはり理由になりませんね。パルスィがたとえ私のことを好いていようと、私がパルスィを好いているとは限らないじゃないですか」
「『たとえ』、ねぇ・・・・・・お前さんがそれを言うかい?」
言外に能力のことを言っているのはさとりにもすぐに分かった。だが挑発的なその口調に乗るつもりはない。
もちろん、パルスィの向ける感情にさとりが気づいていなかったわけが無い。というより、気づく気づかない以前に能力を使ってしまえば関係なくその手の思考は読み取れてしまう。強い感情ならなおさらだ。
(ああそうだ、勇儀がパルスィのことが好きで攫ったのなら、そのままでいいじゃないか。パルスィがたとえ私のことを好きだとしても、鬼の直情さで振り向かせてやればいい)
――それで良いのか?
ふと、頭の中にそんな声が響いた。能力とかテレパスとかそんな類の物ではなく、純粋な心の声。いわば天使と悪魔のようなものだ・・・・・・これがどちらのものかは分からないが。
(パルスィと居て楽しかったのは事実・・・・・・ですが、人の恋路を邪魔するつもりはありません。私にはペットが居ますし、また新しい相手でも探せば――)
――それで、良いのか?
心の声が、ほんの少し嘲りを含んだような気がしてさとりは訝しがった。元より自分の心の声というあやふやな存在からのものだから、真意を探れるはずもないのだから。それでも何か引っかかるものをさとりは感じた。
「さとり・・・・・・勝負をしないか?」
そんなことを考えている間に、勇儀がそんな言葉を発した。
「勝負、ですか?」
「ああそうだ。そちらが勝ったら攫った存在を返す、こちらが勝ったら頂いていく・・・・・・分かりやすいだろう?」
「古より続く鬼のくだらない遊び、ですか。そう言わずにパルスィのことなど攫っていってくれても構いませんが」
「何の代償も無しに対価を手に入れても面白くないからなぁ。簡単な勝負だ、乗ってはくれないか?」
屈託の無い笑みで笑う勇儀の言葉に、さとりは悩む。
パルスィを攫っていっても構わない、それが今の彼女の気持ちだ。だが目の前の鬼はそんなことでは納得してくれないかもしれない。おかしなものだが、鬼とはそういうものだ。何事にも勝負や遊びを持ち出してくる。
(ならば、手際良く負けるのも一興)
納得されないよりは、遊びに付き合うほうがまだマシだと、さとりは決心した。
「良いでしょう、どのようなルールにします?」
その言葉にほんの少し笑みを深めた勇儀に対して嫌な予感を感じるものもあったが、さとりにはもうどうしようもなかった。
「簡単な勝負だ。お互いの力を出し尽くす真剣勝負。私は術や弾幕の類は使わない。さとりは何をしてもいい、もちろん心を読む能力も使ってくれて構わない。勝敗は、私の顔に何でも良いから一撃を入れるか、さとりが背中を地面につけて五秒経った時に決まる。そして賞品は――もちろんパルスィだ」
「つまり、私は貴方の顔に一撃を入れるだけで良いんですね?」
「ああ、その通りさ」
元々乗り気ではない勝負だったが、勝てるかもしれない、という思いをさとりは抱いた。ルールに則られるならば(まず鬼がルールを違えることはないが)さとりは拳でも肘でも、弾幕でも小石でも良いから勇儀の顔に当てればいいだけのことである。これほどアンフェアな勝負はないだろう。
「ルールは分かってくれたかな、ん?」
「ええ、もちろん。何時、始めます?」
「それなら――今から」
勇儀の顔つきが変わった――いや、笑みも変わっていないし顔の筋肉一つ動いていないように見受ける。だが、確かに何かが変わったと、さとりは確信した。
それはもしかするとオーラのようなものかもしれない。勇儀の体から発せられた“気”が広場全体を包み込んでいくような錯覚をさとりは味わっていた。
「傷がついても――恨みっこなしですよ」
一応、そう断りを入れてからさとりは弾幕を展開した。スペルカードを使うものではない、ごっこ遊びではない弾幕だ。下手な存在が当たれば大怪我では済まないほどだ。高速の大玉を雪崩のように相手に向けて放ち、時折タイミングをずらして曲線を描く小玉をその中に混ぜる。
『美しく、そして避けられるように』が基本である弾幕ごっことは訳が違う、純粋に相手を落とすためのものだ。
「この程度かい?」
しかし勇儀にはそんなものは効かない。
いくら落とすための弾幕であろうと、隙間が零であるはずがない。身体を左右に揺らしてあるかないかほどの隙間に潜り込み、当たりそうな弾丸は――拳で弾き飛ばす。鬼の身体能力があってこその技だ。
ほんの数秒間で三桁を超える弾幕が飛ぶが、お互いにまだ無傷。
「しかし――私だけが弾幕を使えるというのはハンディキャップのつもりですか?」
そう言いながらさとりは弾幕のパターンを変えようとした。元より答えを望まない質問。
「ハンデ? まさか」
しかしその答えはすぐに返ってきた――それもかなりの近距離から。
はっとしたさとりの眼前――パターンを変えるために一瞬途切れた弾幕の隙をついて勇儀が懐に飛び込んできた。
(しまった――)
弾幕を使わないのがハンデ――そんな甘い考えを抱いていた自分にさとりは我ながら驚いてしまう。
鬼の身体能力――弾幕では発揮されないそれは近接格闘、まさに今のこの状況でこそ発揮される。
「ふん!」
眼前で振るわれた拳を――さとりは自らの能力を使い半歩引くことで回避する。力がある拳であろうと、どこを狙うか分かれば避けるのはたやすい。
だが掠めた拳の風圧からさとりはその考えすら甘いことを思い知らされる。
「はっ!」
次に振るわれた左の拳は半回転して軸をずらし回避。
この状況は――例えるなら超至近距離から放たれる銃弾の狙点と発射タイミングが分かった状態で避けるようなものだ。妖怪とはいえ身体能力はさほど高くないさとりにとってこれほどの危険な賭けはない。
(一度距離を取って――)
至極真っ当な判断を頭は下すが、猛攻を仕掛ける勇儀に対してその判断に身体がついていかない。ほんの少しでも隙を見せれば岩をも砕く拳が炸裂する。
そう、本来ならこのような接近戦をするべきではないのだ。さとりの本分はそこではない。能力・身体的にも攻撃型ではなく支援型なのだから。
(・・・・・・それでも!)
だからといって泣き言をいってもどうしようもない。さとりは全身系を自らの能力に集中させた。普段は読まないような細かい思考まで、一見関係がなさそうなそれをも読み相手の攻撃を“読む”。
拳が顔に向かえば首だけを動かし、腹を狙われればタイミングを合わせて一歩下がる。
ほんの数秒で仕掛けられる幾多の連撃を綱渡りのような危うさでさとりは避けていく。
「やっぱり・・・・・・一筋縄ではいかないなぁ、さとり!」
「褒め言葉と受け取っておきましょう!」
当たらない攻撃を仕掛けながらも勇儀は笑いながらそんなことを言う。対照的にさとりの顔は曇っていた。
当たり前だ、このままではいずれスタミナが切れるか避けきれずに攻撃を食らってしまう。距離を取れない以上接近戦を続けるしかなく、この状態では弾幕も放てない。不得手な格闘を仕掛けるわけにもいかない。なんとかして状況を打開しないといけない。
その思考を嘲うかのように勇儀が次のステップに進んだ。
「っ――!」
さとりはすぐに能力でそれに気づいた・・・・・・いや、正確に言えば能力の恩恵ではない。“自らの能力で心を読めなかったから気づいた”のだ。まさに皮肉。
(これはいったい――)
さらに勇儀の攻撃の質が変わる。先ほどまでのいやらしさはなくなり単調になり、そのせいか攻撃自体のスピードは上がっていた。
単調故に読みやすく、だが“能力で読む”ことが出来ない攻撃。
(まさか――無我の境地!?)
もはや完全に避けることは叶わず掠めた――それだけでも骨まで揺さぶられるが――拳の痛みに顔をしかめながらさとりは気づく。
“さとり”という種族の最大の弱点――それは昔話に伝えられるとおり、無意識や無心といったものだ。
どれだけ心を読まれようと、読まれる思考が存在しなければ何の意味も無い。
今、勇儀の心に思考はなかった。ただ機械のように決められたプログラムを無意識故のランダムで繰り出していく。
単純かつ、強力な攻撃。
「くっ――」
掠める打撃がさとりの身体を貫いていく。直撃は避けている、だがそれもぎりぎりだ。一発掠めれば動きが鈍り、動きが鈍ればまた一発が掠める。典型的な悪循環を断ち切るだけの力がさとりにはない。
(単調になったが故に速度と威力が上がっている――?)
何も小細工を弄さないがために持ち前の身体能力がフルに活かされた打撃はもはや岩を砕くどころか粉にしかねない。そんなものをまともに食らうわけにはいかない。だが現状をどうすることもできない。
本日二度目の葛藤。さとりは避け続けるしかない。たとえ、その先に破滅しか待っていないとしても。
その葛藤がほんの少し鈍らせた動きを勇儀が見逃すはずも無かった。
口角が吊りあがった笑みを浮かべた勇儀とその心を読んでさとりは自らの失態に気づく。
(しま――)
勇儀が軽く宙を飛んだ。身体を回転させ、その勢いを左足に乗せて回す。俗にいう後ろ回し蹴り――さとりの即頭部を狙った高い蹴撃が神速で空を切る。だが避けきれない速度ではない。だからさとりは“避けざるを得なかった”――突如として思考を再開させた勇儀の心から読み取った罠に気づきながらも。
身を低くしてその蹴りを避けたさとりを――更なる蹴りが襲う。
それは左の回し蹴りの勢いをそのまま利用して放たれた第二撃、右の回し蹴り。第一撃で姿勢を低くしたさとりの頭部を狙った凶悪な一撃。
(第一撃は――布石!?)
全てを悟ってももう遅い。
文字通り殺人的な威力の蹴りがさとりの頭部に直撃した。
(このまま――終わってもいいかな)
元より、彼女は勝負に乗り気ではなかった。彼女はパルスィの想いに答える気はなかった。ならば、勇儀がその想いを遂げる邪魔をするつもりもない。
(私のような存在より、鬼の方が遥かに・・・・・・)
嘘を嫌い、ユーモアを愛し、酒を嗜む。
そんな存在に愛されるパルスィというのは幸せ者だろう。
(そう、これで終われば――)
それで、いいのだろうか。
無防備なまま食らったその蹴りの衝撃を殺しきれずさとりは横っ飛びに宙を舞い、地面へと転がっていく。土煙が舞い彼女の姿を隠す。
後の地面に残ったのは転がったさとりがつけた溝だけだった。
(・・・・・・やりすぎたかな)
蹴りを放ったままの姿勢で数秒勇儀はそんな後悔を抱いた。勝負事である以上、手加減をするつもりはなかったがそれでもやりすぎたという感はある。
それほどまでに決定的な一撃だった。
「終わった、かな」
さとりの敗北条件は、『背中を地面につけて五秒経った時』。今の一撃をまともに、それも頭部に食らってしまったのだ、意識を失っていてもおかしくはない。たとえそれがう伏せであろうと、もう立てないのなら勝負は決まったも同然。
土煙が晴れていく。
「――お」
「・・・・・・痛い、ですね」
痛い、なんてものじゃない。さとりの頭はまだぐらぐらしているし、時折意識はブラックアウトしかける。地面につけられた溝はそのままさとりの身体が引きずられたことを表しており、服はもうぼろぼろだ。もちろんその下の皮膚・筋肉も同様に。
それでも晴れていく土煙の中、さとりは両足で地面に立っていた。
「なかなかやるねぇ」
「おかげさまで」
心底驚いたといった様子の勇儀にそう返してから――さとりは弾幕を展開した。それはこの勝負の始まりと似たようなパターンの弾幕。だが今回は超高速の大玉だけだった。
(さすがにダメージは効いてるみたいだねぇ)
自らを襲う弾幕を楽しそうに弾き飛ばしていきながら勇儀はそんなことを考える。さすがに生身で大玉を弾き飛ばすのにノーダメージとはいかないがそれでも鬼には苦痛ではない。もはや小細工を弄する労力すらさとりにとっては惜しいのだろうと彼女は当たりをつけた。
(ならば――)
同じことだ。弾幕が途切れた瞬間に飛び込み、最後の一撃を叩き込む。先ほどのダメージと合わせればそれがフィニッシュとなるだろう。
飽くことなく放たれる弾幕は視界を覆いつくすほどの勢いで飛んでくるがそれでも勇儀は笑っていた。右手を振るい左手を撃ち下ろし時折首を傾けながら、彼女はその時を待ち続ける。
そして――その時はやってきた。
一瞬弾幕が途切れたことを知覚した瞬間勇儀は本能的に飛び出した。右手を振りかぶり、必殺の拳を目標に叩き込もうと。
「・・・・・・なっ!?」
そしてそれは――さとりも同様だった。
(ここで決めるしかない――!)
蹴りのダメージが残っている以上、あと一発食らうまでもなく時間を稼がれればそれでタイムオーバーだ。だからこそ、さとりは“誘った”。
最初に勇儀が勝負の流れを掴むことになったきっかけである自らの弾幕、それを餌に彼女は息を整える。
勝利条件を考えても、必要なのは一発だけ。その一発を叩き込むために、さとりは全身系を集中させる。
そして――弾幕の展開を辞めると同時に彼女は飛び出した。
目指すは――同じようにこちらに飛び込んでくる勇儀。
「・・・・・・なっ!?」
勇儀の顔が驚愕に歪む。
だが今更止められない――お互いに。飛び出してしまえば後はそのまますれ違うか、ぶつかるしかない。もちろん、さとりに前者の考えなどあるはずもない。
彼女の勝利条件、『何でもいいから勇儀の顔に一発当てる』。
ならばそれが彼女の、もはや握りしめるだけで精一杯なはずの右拳でも問題ないはずだ。
(――でも)
やはり駄目だったか、と彼女は悟った。
例え驚いていても、この状況で有利なのが勇儀であることに変わりは無い。身体能力を活かしたスピードと類稀なる戦闘能力。
このままでは――先に放たれる拳は勇儀のそれだ。
(・・・・・・駄目、でしたか)
もう、本当にどうしようもない。
最後の一撃を外してしまえば、後は敗北しかない。
諦めに目を閉じながら、それでもさとりは握りしめた拳を突き出して――
広場に、また一つ土煙が舞った。
彼女は想いに答えなかったのか、それとも答えられなかったのか。
さとりは地面に仰向けに転がっていた。
――それで、良いのか?
戦闘が始まる前、自らの心の声を彼女は思い出す。
(違う――心の声なんかじゃない)
それは、紛れもなく自らの“想い”。
そう、彼女の偽らぬ本心は、パルスィのことを想っていた。
宴会でパルスィに近づいた時から、さとりは嫉妬を操るその存在が、実はどこまでも純粋な心の持ち主だということを知った。
嫉妬というのは他者に向ける感情であり、それはどこまでも真っ直ぐなもので。
生まれてこの方、様々な存在の心を読み取ってきた彼女が見たことも無いほどの純粋な心で。
(だから、私は彼女を気に入った)
戯れにパルスィに触れている内に、さとりは彼女の想いを知る。だが、それに答えられるはずがなかった。どこまでも純粋な心を、自らの“黒”が汚してしまうような気がしたから。
他者の心を読み、疎まれ、たった一人の妹のことすら護ってやれなかった彼女の心が何時しか黒くなっていくのは、当然のことだった。
(だから、私は負けても良かった)
それでパルスィが幸せになるのなら、そう考えて彼女はこの勝負に乗った。
だが、それは結局のところ自らのパルスィに対する執着を思い知らされただけにすぎなかった。そうでなければ、わざわざあのような捨て身の一撃をすることもなかったのだから。
「大丈夫かい?」
考えにふける彼女の視界に、勇儀が入り込んだ。
その頬は――ほんの少し赤くなっていた。
「何故ですか?」
「ん、何がだい?」
“勝負に負けた”というのに何時ものように――いやそれ以上に微笑んでいるように見えた勇儀に対して彼女は疑問を投げ掛ける。
「何故――負けたんです?」
そう、さとりの拳は勇儀の頬に当たっていた。
結局吹き飛ばされたのはさとりの方だったが、それでも勝ちは勝ちだ。だからこそさとりは訝しがる。あの時、明らかに勇儀は勝っていたのだ。そう、手加減でもしない限り。
だから聞くのは、その理由。
「ん~、何て言えばいいかなぁ」
そんなさとりに対しての答えは、
「・・・・・・あんたも必死な顔、するんだなぁと思って、気が抜けた」
馬鹿らしいものだった。
「そんな、理由ですか」
「ん、そうだよ。理由がどうあろうと負けは負け、もうお二人さんの邪魔はしないよ。ちょっくら馬にでも蹴られてくる」
そういい残して、勇儀はさとりの視界から消えた。
仰向けに寝転んだまま、彼女は考える。
(ここまでぼろぼろにされて勝ったと言われても――)
服はぼろぼろ、身体もぼろぼろ。それに対する勇儀の傷は、せいぜいが頬のそれだけだ。どこか腑に落ちないものをさとりは感じる。
(だいたい、パルスィはどこに――)
そんな彼女が聞きなれた足音が、近づいてきた。
たった一日ほど聞かなかっただけなのに、その足音を懐かしんでいる自分が居ることにさとりは少なからず驚いていた。
「・・・・・・ほんと、何やってるんだろうねぇ」
どこから取り出したのか杯の酒を煽りながら勇儀は歩いている。
「これじゃまるで道化じゃないか」
彼女が言ったことは全て本当だ。パルスィのことを愛しているのも、さとりの表情に気が抜けてしまったのも――そしてもう二人の邪魔をしないということも。
勇儀がパルスィに惚れてしまったのは、例の宴会の後に橋でパルスィと出会った時だろう。物憂げな彼女の表情に一瞬ドギマギしてしまい――自然と勇儀は杯を差し出していた。
それから相談に乗っている内に、その想いが膨らんでいった。
「・・・・・・あぁ、そうか」
そこまで考えて、勇儀は自らの愚かしさに思い至った。
元から、恋する少女に恋をした時点で、実る可能性など少ない恋だというのに。そんなことをとんと考えもしなかった自分に嫌気が差して、また彼女は杯を煽る。
「ま、いいか」
彼女は振り向く。
その視線の先、広場の中央――上体を起こしたさとりと、そんな彼女を抱きしめるパルスィの姿。
(素直じゃないんだから)
両者に対してそんな感想を抱きながら――勇儀は杯を持ち上げた。
「二人の未来に――乾杯」
さとりも勇儀もパルスィのことが好きだからこそ、
こういう戦いにもなったのでしょうし。
戦闘描写なども実に楽しく読めました。
今後、さとりとパルスィにはどんな事が待っているんでしょうね?
面白かったです。