ここは昼の陽さえろくに射さぬ魔法の森の中、静かに七色の点る魔法使いの家。禽獣の声とてほとんどしない静寂の中、その家の主は一心不乱に手を動かしていた。
月の光から紡いだ魔法の糸が純銀の針に通され、夏至の日に咲いたサンザシだけで染め上げた麻布を一針また一針と縫い上げていく。手が動くたびに魔法のかけらがきらきらとこぼれ、床に落ちてはぱあっと瞬いた。
「アリスー、汗カイテル、タオルー」
「……あら、ありがとう蓬莱」
助手をするように、という自動命令を糸に組み込んである蓬莱人形が、横からタオルをそっと差し出す。見ていると非常に可愛らしく思えるのだが、これが自律行動ではないのを考えると複雑な心境だった。
タオルで汗を拭って、アリスは布の中にハシバミとオークを砕いたもので煮込んだ綿を詰めはじめた。この詰まり具合は非常に大事だ。なぜなら、ハシバミもオークも智恵の象徴。人形の頭脳部分の出来がここで半分以上は決まってしまう。
慎重に慎重に智恵のかたちを整えていき、やがてアリスはうんと頷いて再び針を取り上げた。布を綴じるのは、月の糸ではなく太陽の糸。春の初めの日の朝日で生薬を煮込んで染め上げた「命の糸」。
ほどなく、布と綿のかたまりは皺ひとつないいくつかの人形のパーツに整えられた。
自らの作品の原型を何度かそっと撫でると、アリスは更に次の作業へと進んだ。出来上がったパーツそれぞれに、まずは呪文を縫い取る。
関節の内側に、背中に、そして髪を取り付ける前の頭部に、他にもいくつかの目立たない場所に、あるいはアクセントになるような場所に。
呪文を隠すのは、一応魔法の源を外から読み取られないようにと言う意味はあるが(悪戯でEを消されて動かなくでもなったらたまったものではない)、何より、せっかく綺麗に出来上がった人形なのだから、文字が容貌を損なうような彫り付け方にはしたくなかったのだ。
それが終わると、まずは上から薬液で処理して文字を保護しながら肌に生きているような艶を与える。それから、各パーツに金や銀や水晶の線を通して繋ぎ、繋ぎながら線による立体的な魔法回路を組み立てた。
アリスの手は早く、そして狂いの一つもなかった。ここで通す線の種類や順番を間違えたり、まごついてタイミングを逃したり、質の悪い素材を使ったりすると、後で魔力の伝達がうまく行かなくなる。時間や労力や資金をケチって失敗作を造るのは、魔術師とも呼べぬなり損ないだけだ。精密な上にも更に精緻に、作業は時間をかけて続けられた。
その内、目が一点を見過ぎてぼやけて来る。そのタイミングを実によく心得て、手伝いの人形達は目薬をとって差し出してくれる。何度も同じ命令を糸に組み込むと、魔力が馴染んで、より効率よく仕事をしてくれるのだ。
「目ニ汗ハイッチャウ……」
夜食を持って来た和蘭人形が、いつもの命令どおりに主人の身に気をくばり、良くないと思われる要素を排除する。
凄まじい集中力でアリスは視線を作品に食い込ませていて、顔を拭かれるまで和蘭人形の存在に気づいていなかった。ぴくりと顔を動かし、和蘭人形の姿を目に留めると、アリスは笑いかけた。
「ん、ありがと。……もうちょっとで魔力回路が完成するわ。きっと、あなた達と同じように可愛く動く子にしてあげるからね」
和蘭人形は、大きな丸い目をひとつ瞬かせると、ぺこりと頭を下げて部屋を出て行った。
アリスは再び作業に没頭し……一時間ほど後、はたと視線を上げた。
「……ふむ、私ったら」
今さらながらに、アリスは、まるで人やあやかしにするように人形に接していた自分に気づいた。自立していなくても、まるで生きているように見えるものだ……と、アリスは少し皮肉な感慨にふけった。らしく見せている自分の腕を褒めるべきか、それともそこまでしか出来ない自分の腕を悲しむべきか、少し悩んでもみた。
やがて、軽く首を振って彼女は作業に戻った。ぐずぐずしていては、良い空の日を逃してしまう。魔術には、天体の状態が大きく影響するのだ。
「オルレアン、眼を」
手を止めぬままアリスが一声かけると、銀甲冑のオルレアン人形が、がちゃりと一礼して傍らの椅子から浮き上がる。その手には、様々な色合いの「眼」が納められた白木の箱があった。そのどれもが、形状も厚みも大きさも違う水晶片を、本物の人の眼球と全く同じ構造に組み合わせ、瞳の部分には宝石をあしらってある。
これらの材料を入手するためには様々な場所の探索や爪に火を点すような生活が、材料を精錬して眼を造るまでには常人なら気が狂うような細かく長い作業が必要だった。
「今日はどんな色にしようかしら。……そうね、青がいいわ。まだあったかしら?」
「コノ間オ造リニナッタサファイアノ眼ハドウデショウ?」
「ふむ……いいわね。それちょうだい」
青々と輝く眼を手に取り、人形の眼窩にはめ込んでやる。この眼の品質と設置具合もまたとても重要だ。強い想いを込めた眼は時に魔眼となり、澄んだ眼は時に異界や時の彼方さえ見通す。眼は皮や肉を通り越して体の内外をはっきりと繋ぐ門であり、つまりは「境界を超える力」を非常に強く帯びた器官だ。
そこに手を抜けば、神秘との繋がりを弱めてしまうことになる。魔力の糸で操りづらくなるばかりか、この世としか繋がりの持てぬ不完全な存在となってしまう。目が閉じているのならよい。それは閉じた世界の王なのだから。手抜きの目があるより、ない方がましなのだ。しばらくつくづくと人形の顔を眺め、アリスはようやく納得してその頭を撫でてやった。
次は、外見を整えてやらなければならない。この作業が、アリスはとても好きだった。女の端くれとして、丹精をこめて大事な顔や服をきれいに整えるのは、たとえ自分のそれでなくとも楽しく嬉しいことだった。
今回は、どんなデザインにしてやろうか。人形らしくなって来た原型を眺めて、彼女はふとその青い瞳に目を止めた。その青は、確かに記憶の中のどこかに存在する色だった……そう、あれは確か……。
「海……か」
昔お気に入りだった絵本。魔界とも幻想郷とも違う外の世界から流れついたその絵本には、上海と呼ばれる場所に建つ、港を臨む美しい紅茶館の物語が描かれていた。館の窓から見える海はとても綺麗な青で、幼いアリスはまだ見ぬ海と言うものに胸を高鳴らせていたものだった。
「……そうね、決めたわ。あなたの名前は上海人形」
その紅茶館に住んでいた主人公の少女は、思い出してみれば今作っている人形と顔立ちがそっくりだった。似せたつもりはもちろんないのだが、体形から口や鼻の造形に至るまで、不思議なほど瓜二つであった。
「……だから思い出したのかもね。それとも、思い出すように造ってしまったのかしら?」
言いながら、彼女は自らの髪を小刀でいくらか切り落とした。それを数十種類の魔法の茸と薬草を煮出して作った「中和剤」に浸し、容器ごと火にかけながら、歌うような響きの呪文を唱える。
切り離した体の一部をそのままにしておくなど、魔法使いには自殺行為だ。下手をすれば、それに何かあった時に出来事を共有してしまうハメになる。だから、まずは自分と髪の間にあった霊的な繋がりを断ち切ったのだ。
そして、なお色あせない金色の髪を中和剤から取り出して乾かすと、アリスはそれを上海人形の頭に植え始めた。面倒な手間をかけても、上海人形の髪はこれでなくてはならなかった。紅茶館の少女は、アリスとそっくりの金髪だったから。
髪を植えたら、今度は顔立ちと髪型と身体つきのバランスを再調整する。あの可愛らしい少女の姿を、この人形にもあげたかった。なめらかで丸い頬を百分の一ミリ以下の単位で丁寧に整え、布製でありながらまるで陶磁器のような肌をなお磨き上げ、睫毛を一本一本丁寧に植え……そこで、アリスはふと手を止めた。
「……いけない。懐かしいからって少々感傷的になり過ぎてるわね」
魔法使いとして、施術の最中に感情に身を任せることは禁忌。軽く休憩を入れ、熱い紅茶を啜りながら頭を冷やすことにした。熱いのに落ち着くとは不思議なものだ、考えてみれば。加熱すれば物は活発化すると言うのに。
「倫敦、紅茶……いえ、やっぱり京、緑茶をちょうだい。この間慧音から貰ったのが棚にあったでしょ」
あえて、アリスは紅茶館のイメージから自らを切り離した。イメージを持つのは必要だが、イメージに振り回されないように適度な距離を取るのもまた必要だから。
熱い緑茶を啜っていると、少しずつ心が落ち着いて来た。そっと目を閉じて落ち着きと情熱を押し合わせ、平衡を取って行く。平衡が完全に保たれたのを確認して、アリスは再び作業に戻った。
「肩がちょっと違うかしら……んー、胸の曲線ももうちょっとだけ色っぽくしてあげようかな。やっぱり女の子だもんね」
人形相手に話しかける様は、外部の他者の目には確かに奇異に映るだろう。しかし、この家は彼女の魔法のための聖域。彼女の王国。ならば、正しいのは彼女なのだ。
外ではいかにあれ、この家の中では彼女の姿は神聖そのものだった。そうして自らを神の域にまで押し上げなければ、神域の作品に手を伸ばせはしないのだ。
「さてと、あとは服ね。どんな服を着せてあげようかしら?」
アリスはあやすように上海人形を持ち上げ、その透き通った目を覗き込んだ。しばらく見つめて、彼女は穏やかに微笑んだ。
「うん、下地はブルーにしましょう。それも黒に近いのがいいわね。それに白を重ねて……うん、きっとよく似合うわ」
ここでどんな服を選ぶか、それはどんな殻を人形に被らせるかと言うこと。育つべき人形の魂の添え木を選ぶのだから、ほんの少しでもおろそかにしてはならないのだ。
今度は落ち着いたリズムでしっかりと呼吸をしながら、アリスは夜空から切り取った黒布に雲を織った白布を縫いつけ始めた。息の音も許さないような荘厳な方式ばかりでは堅苦しくなってしまう。こちらには本体と違って魔力暴走の危険もあまりないのだし、色々な風を吹き込んでやった方がきっと魂にはいいはずだ。
まだ魂を持てると決まったわけでもない我が娘のことを先の先まで考えながら、アリスの手が鮮やかに翻る。引き、返し、通し、よじり、合わせ、込める。全ての動作が曲線で繋ぎ合わされて途切れることなく続いて行く。
それだけの見事な手並みでありながら、一着の小さな服が仕立て上がったのは、数時間経ってからのことだった。いつでもアリスは、何度も服を人形に着させては仮縫いを繰り返し、完全にフィットさせるまで拘りぬくからだ。もとより着飾らせるのは楽しいこと、面倒という言葉の立ち入る隙などあろうか。
「さあ、これで完成かな……」
完成した服を着せて、彼女は布地のバランスのよさを最終確認し、その出来栄えに満足した。しかし……
「ふむ?何か足りないわね……」
首をひねっていると、その傍らに仏蘭西人形がふわふわと飛んできて肩を叩いた。
「ん、なに仏蘭西…あら」
仏蘭西人形の手にあったのは大小ふたつの赤いリボンだった。
「これをつけたらどうか、って?」
仏蘭西人形はこくこくと頷く。もちろん魂があってのことではない。人格(人形格?)がなくとも、服飾の作業をずっと手伝っていれば「どの服装にはどんなアクセントが入るといいか」考えるくらいのデータは入る。過去の蓄積から解を出す分には、主観などいらないのだ。仏蘭西人形は、いわば条件反射をしたに過ぎない。
「なるほどね……いいかも知れない。どれ、やってみましょう」
頭に大きなリボンを結んでやって、胸元にも小さいリボンでワンポイント。その結果を見ようとあらためて上海人形を見直し…アリスは手をぱんと打ち合わせた。
「うんうん、ベスト!うわぁ…可愛いなあ…よくやったわ、仏蘭西人形」
意味はないと知りながらも、彼女は仏蘭西人形を抱き締めて頭をぐりぐり撫でてやった。心なしか嬉しそうに見える……のは、あくまでアリスの気分を反映したものだろう。観測によって事実が変化しただけだ。アリスの感情を鏡のように映し出しているだけのこと。
仏蘭西人形は抱き潰されて皺だらけになる前にどうにか彼女の腕の中から抜け出し、ぺこりと頭を下げて再び脇に静かに控えた。
「よし、完璧そのものだわ。それじゃ糸を繋いでっと……さあ、起きなさいな」
アリスの声と同時に、上海人形はぴょこんと立ち上がって、アリスのほうへとことこ歩み寄ろうとして……ぱたりと倒れた。
ばたばたともがいているその様を見て、アリスは感極まったように駆け寄って抱き締めた。毎回、人形の目覚めの度に見られる、まだ動作経験不足ならではのこの姿。これを見て落ちない少女がいようか。
ぱちぱちと無表情に目を瞬かせる上海人形の顔を覗き込み、アリスは告げた。
「おはよう、上海人形。……あなたの名前よ」
「シャンハイニンギョウ……ワタシノナマエ……キオクシマシタ、マスター」
まだ、基本動作と言語能力のための回路しか出来ていない上海人形は、無機質にそう繰り返した。アリスは優しく笑うと、その頭をぽんぽんと叩いた。
「私の名前はアリスよ。そっちで呼んでちょうだい」
「ハイ、マスター」
アリスの笑いは苦笑に変わった。細工に時間をかけ過ぎて知能回路に隙でも入り込んでいたのか、やや頭がよくないようだ。きちんと教育してやらなければ。いつの日か、糸を切れる日が来ても困ることのないように。考えるだに、それは楽しみなことだった。
月の光から紡いだ魔法の糸が純銀の針に通され、夏至の日に咲いたサンザシだけで染め上げた麻布を一針また一針と縫い上げていく。手が動くたびに魔法のかけらがきらきらとこぼれ、床に落ちてはぱあっと瞬いた。
「アリスー、汗カイテル、タオルー」
「……あら、ありがとう蓬莱」
助手をするように、という自動命令を糸に組み込んである蓬莱人形が、横からタオルをそっと差し出す。見ていると非常に可愛らしく思えるのだが、これが自律行動ではないのを考えると複雑な心境だった。
タオルで汗を拭って、アリスは布の中にハシバミとオークを砕いたもので煮込んだ綿を詰めはじめた。この詰まり具合は非常に大事だ。なぜなら、ハシバミもオークも智恵の象徴。人形の頭脳部分の出来がここで半分以上は決まってしまう。
慎重に慎重に智恵のかたちを整えていき、やがてアリスはうんと頷いて再び針を取り上げた。布を綴じるのは、月の糸ではなく太陽の糸。春の初めの日の朝日で生薬を煮込んで染め上げた「命の糸」。
ほどなく、布と綿のかたまりは皺ひとつないいくつかの人形のパーツに整えられた。
自らの作品の原型を何度かそっと撫でると、アリスは更に次の作業へと進んだ。出来上がったパーツそれぞれに、まずは呪文を縫い取る。
関節の内側に、背中に、そして髪を取り付ける前の頭部に、他にもいくつかの目立たない場所に、あるいはアクセントになるような場所に。
呪文を隠すのは、一応魔法の源を外から読み取られないようにと言う意味はあるが(悪戯でEを消されて動かなくでもなったらたまったものではない)、何より、せっかく綺麗に出来上がった人形なのだから、文字が容貌を損なうような彫り付け方にはしたくなかったのだ。
それが終わると、まずは上から薬液で処理して文字を保護しながら肌に生きているような艶を与える。それから、各パーツに金や銀や水晶の線を通して繋ぎ、繋ぎながら線による立体的な魔法回路を組み立てた。
アリスの手は早く、そして狂いの一つもなかった。ここで通す線の種類や順番を間違えたり、まごついてタイミングを逃したり、質の悪い素材を使ったりすると、後で魔力の伝達がうまく行かなくなる。時間や労力や資金をケチって失敗作を造るのは、魔術師とも呼べぬなり損ないだけだ。精密な上にも更に精緻に、作業は時間をかけて続けられた。
その内、目が一点を見過ぎてぼやけて来る。そのタイミングを実によく心得て、手伝いの人形達は目薬をとって差し出してくれる。何度も同じ命令を糸に組み込むと、魔力が馴染んで、より効率よく仕事をしてくれるのだ。
「目ニ汗ハイッチャウ……」
夜食を持って来た和蘭人形が、いつもの命令どおりに主人の身に気をくばり、良くないと思われる要素を排除する。
凄まじい集中力でアリスは視線を作品に食い込ませていて、顔を拭かれるまで和蘭人形の存在に気づいていなかった。ぴくりと顔を動かし、和蘭人形の姿を目に留めると、アリスは笑いかけた。
「ん、ありがと。……もうちょっとで魔力回路が完成するわ。きっと、あなた達と同じように可愛く動く子にしてあげるからね」
和蘭人形は、大きな丸い目をひとつ瞬かせると、ぺこりと頭を下げて部屋を出て行った。
アリスは再び作業に没頭し……一時間ほど後、はたと視線を上げた。
「……ふむ、私ったら」
今さらながらに、アリスは、まるで人やあやかしにするように人形に接していた自分に気づいた。自立していなくても、まるで生きているように見えるものだ……と、アリスは少し皮肉な感慨にふけった。らしく見せている自分の腕を褒めるべきか、それともそこまでしか出来ない自分の腕を悲しむべきか、少し悩んでもみた。
やがて、軽く首を振って彼女は作業に戻った。ぐずぐずしていては、良い空の日を逃してしまう。魔術には、天体の状態が大きく影響するのだ。
「オルレアン、眼を」
手を止めぬままアリスが一声かけると、銀甲冑のオルレアン人形が、がちゃりと一礼して傍らの椅子から浮き上がる。その手には、様々な色合いの「眼」が納められた白木の箱があった。そのどれもが、形状も厚みも大きさも違う水晶片を、本物の人の眼球と全く同じ構造に組み合わせ、瞳の部分には宝石をあしらってある。
これらの材料を入手するためには様々な場所の探索や爪に火を点すような生活が、材料を精錬して眼を造るまでには常人なら気が狂うような細かく長い作業が必要だった。
「今日はどんな色にしようかしら。……そうね、青がいいわ。まだあったかしら?」
「コノ間オ造リニナッタサファイアノ眼ハドウデショウ?」
「ふむ……いいわね。それちょうだい」
青々と輝く眼を手に取り、人形の眼窩にはめ込んでやる。この眼の品質と設置具合もまたとても重要だ。強い想いを込めた眼は時に魔眼となり、澄んだ眼は時に異界や時の彼方さえ見通す。眼は皮や肉を通り越して体の内外をはっきりと繋ぐ門であり、つまりは「境界を超える力」を非常に強く帯びた器官だ。
そこに手を抜けば、神秘との繋がりを弱めてしまうことになる。魔力の糸で操りづらくなるばかりか、この世としか繋がりの持てぬ不完全な存在となってしまう。目が閉じているのならよい。それは閉じた世界の王なのだから。手抜きの目があるより、ない方がましなのだ。しばらくつくづくと人形の顔を眺め、アリスはようやく納得してその頭を撫でてやった。
次は、外見を整えてやらなければならない。この作業が、アリスはとても好きだった。女の端くれとして、丹精をこめて大事な顔や服をきれいに整えるのは、たとえ自分のそれでなくとも楽しく嬉しいことだった。
今回は、どんなデザインにしてやろうか。人形らしくなって来た原型を眺めて、彼女はふとその青い瞳に目を止めた。その青は、確かに記憶の中のどこかに存在する色だった……そう、あれは確か……。
「海……か」
昔お気に入りだった絵本。魔界とも幻想郷とも違う外の世界から流れついたその絵本には、上海と呼ばれる場所に建つ、港を臨む美しい紅茶館の物語が描かれていた。館の窓から見える海はとても綺麗な青で、幼いアリスはまだ見ぬ海と言うものに胸を高鳴らせていたものだった。
「……そうね、決めたわ。あなたの名前は上海人形」
その紅茶館に住んでいた主人公の少女は、思い出してみれば今作っている人形と顔立ちがそっくりだった。似せたつもりはもちろんないのだが、体形から口や鼻の造形に至るまで、不思議なほど瓜二つであった。
「……だから思い出したのかもね。それとも、思い出すように造ってしまったのかしら?」
言いながら、彼女は自らの髪を小刀でいくらか切り落とした。それを数十種類の魔法の茸と薬草を煮出して作った「中和剤」に浸し、容器ごと火にかけながら、歌うような響きの呪文を唱える。
切り離した体の一部をそのままにしておくなど、魔法使いには自殺行為だ。下手をすれば、それに何かあった時に出来事を共有してしまうハメになる。だから、まずは自分と髪の間にあった霊的な繋がりを断ち切ったのだ。
そして、なお色あせない金色の髪を中和剤から取り出して乾かすと、アリスはそれを上海人形の頭に植え始めた。面倒な手間をかけても、上海人形の髪はこれでなくてはならなかった。紅茶館の少女は、アリスとそっくりの金髪だったから。
髪を植えたら、今度は顔立ちと髪型と身体つきのバランスを再調整する。あの可愛らしい少女の姿を、この人形にもあげたかった。なめらかで丸い頬を百分の一ミリ以下の単位で丁寧に整え、布製でありながらまるで陶磁器のような肌をなお磨き上げ、睫毛を一本一本丁寧に植え……そこで、アリスはふと手を止めた。
「……いけない。懐かしいからって少々感傷的になり過ぎてるわね」
魔法使いとして、施術の最中に感情に身を任せることは禁忌。軽く休憩を入れ、熱い紅茶を啜りながら頭を冷やすことにした。熱いのに落ち着くとは不思議なものだ、考えてみれば。加熱すれば物は活発化すると言うのに。
「倫敦、紅茶……いえ、やっぱり京、緑茶をちょうだい。この間慧音から貰ったのが棚にあったでしょ」
あえて、アリスは紅茶館のイメージから自らを切り離した。イメージを持つのは必要だが、イメージに振り回されないように適度な距離を取るのもまた必要だから。
熱い緑茶を啜っていると、少しずつ心が落ち着いて来た。そっと目を閉じて落ち着きと情熱を押し合わせ、平衡を取って行く。平衡が完全に保たれたのを確認して、アリスは再び作業に戻った。
「肩がちょっと違うかしら……んー、胸の曲線ももうちょっとだけ色っぽくしてあげようかな。やっぱり女の子だもんね」
人形相手に話しかける様は、外部の他者の目には確かに奇異に映るだろう。しかし、この家は彼女の魔法のための聖域。彼女の王国。ならば、正しいのは彼女なのだ。
外ではいかにあれ、この家の中では彼女の姿は神聖そのものだった。そうして自らを神の域にまで押し上げなければ、神域の作品に手を伸ばせはしないのだ。
「さてと、あとは服ね。どんな服を着せてあげようかしら?」
アリスはあやすように上海人形を持ち上げ、その透き通った目を覗き込んだ。しばらく見つめて、彼女は穏やかに微笑んだ。
「うん、下地はブルーにしましょう。それも黒に近いのがいいわね。それに白を重ねて……うん、きっとよく似合うわ」
ここでどんな服を選ぶか、それはどんな殻を人形に被らせるかと言うこと。育つべき人形の魂の添え木を選ぶのだから、ほんの少しでもおろそかにしてはならないのだ。
今度は落ち着いたリズムでしっかりと呼吸をしながら、アリスは夜空から切り取った黒布に雲を織った白布を縫いつけ始めた。息の音も許さないような荘厳な方式ばかりでは堅苦しくなってしまう。こちらには本体と違って魔力暴走の危険もあまりないのだし、色々な風を吹き込んでやった方がきっと魂にはいいはずだ。
まだ魂を持てると決まったわけでもない我が娘のことを先の先まで考えながら、アリスの手が鮮やかに翻る。引き、返し、通し、よじり、合わせ、込める。全ての動作が曲線で繋ぎ合わされて途切れることなく続いて行く。
それだけの見事な手並みでありながら、一着の小さな服が仕立て上がったのは、数時間経ってからのことだった。いつでもアリスは、何度も服を人形に着させては仮縫いを繰り返し、完全にフィットさせるまで拘りぬくからだ。もとより着飾らせるのは楽しいこと、面倒という言葉の立ち入る隙などあろうか。
「さあ、これで完成かな……」
完成した服を着せて、彼女は布地のバランスのよさを最終確認し、その出来栄えに満足した。しかし……
「ふむ?何か足りないわね……」
首をひねっていると、その傍らに仏蘭西人形がふわふわと飛んできて肩を叩いた。
「ん、なに仏蘭西…あら」
仏蘭西人形の手にあったのは大小ふたつの赤いリボンだった。
「これをつけたらどうか、って?」
仏蘭西人形はこくこくと頷く。もちろん魂があってのことではない。人格(人形格?)がなくとも、服飾の作業をずっと手伝っていれば「どの服装にはどんなアクセントが入るといいか」考えるくらいのデータは入る。過去の蓄積から解を出す分には、主観などいらないのだ。仏蘭西人形は、いわば条件反射をしたに過ぎない。
「なるほどね……いいかも知れない。どれ、やってみましょう」
頭に大きなリボンを結んでやって、胸元にも小さいリボンでワンポイント。その結果を見ようとあらためて上海人形を見直し…アリスは手をぱんと打ち合わせた。
「うんうん、ベスト!うわぁ…可愛いなあ…よくやったわ、仏蘭西人形」
意味はないと知りながらも、彼女は仏蘭西人形を抱き締めて頭をぐりぐり撫でてやった。心なしか嬉しそうに見える……のは、あくまでアリスの気分を反映したものだろう。観測によって事実が変化しただけだ。アリスの感情を鏡のように映し出しているだけのこと。
仏蘭西人形は抱き潰されて皺だらけになる前にどうにか彼女の腕の中から抜け出し、ぺこりと頭を下げて再び脇に静かに控えた。
「よし、完璧そのものだわ。それじゃ糸を繋いでっと……さあ、起きなさいな」
アリスの声と同時に、上海人形はぴょこんと立ち上がって、アリスのほうへとことこ歩み寄ろうとして……ぱたりと倒れた。
ばたばたともがいているその様を見て、アリスは感極まったように駆け寄って抱き締めた。毎回、人形の目覚めの度に見られる、まだ動作経験不足ならではのこの姿。これを見て落ちない少女がいようか。
ぱちぱちと無表情に目を瞬かせる上海人形の顔を覗き込み、アリスは告げた。
「おはよう、上海人形。……あなたの名前よ」
「シャンハイニンギョウ……ワタシノナマエ……キオクシマシタ、マスター」
まだ、基本動作と言語能力のための回路しか出来ていない上海人形は、無機質にそう繰り返した。アリスは優しく笑うと、その頭をぽんぽんと叩いた。
「私の名前はアリスよ。そっちで呼んでちょうだい」
「ハイ、マスター」
アリスの笑いは苦笑に変わった。細工に時間をかけ過ぎて知能回路に隙でも入り込んでいたのか、やや頭がよくないようだ。きちんと教育してやらなければ。いつの日か、糸を切れる日が来ても困ることのないように。考えるだに、それは楽しみなことだった。
物凄く詰まっているようでした。
上海との最初の会話などはそれまでの空気を吹き飛ばすような
穏やかな感じでしたね。
素晴らしい作品だったと思います。
アリスにとっては日常のことでしょうが物を丹精こめて一から創り上げる姿がとても美しい。
同じ芸術家の端くれとして共感と尊敬の念を禁じ得ません。
奇異だなんてとんでもない!この世界は他者が安易に入り込めない神聖さに満ちていると思いました。
実は自我がありそうな人形たち。とても素敵な雰囲気でした。
SideAliceってことはSide何かがあるってことですよね?
期待してます。
人形にかけるアリスの熱意もですが、その空気感が良い
求聞史紀ではアリスが操ってる事になってますが
文花帖や三月精をみたら小さな魂が宿る事もありそうに思えますし
この作品の上海人形がそうなるのかもしれません
アリスと人形たちに対する深い愛情を感じました。
この人形とアリスの関係が大好きです。
もし別SIDEがあるのなら、とても楽しみです。
なんと鬼畜な事か
アリスと人形たちの美しい光景が浮かんできますね。
続編も楽しみにしてます。