※ 以下は同作品集「序の巻」、「破の巻」から続く話です
――急の巻――
まだ夜が明けない時刻に、妖夢は薄くまぶたを開いた。
顔を動かさずに、隣の橙の寝息を確認する。まだ目は覚ましてないようだ。
――よし。
妖夢は音をたてないよう、慎重に体を起こした。
永遠亭の大部屋。
兎達が好きな寝相で、乱雑に眠っている。
あるものは布団をひっくり返し、あるものは何故か敷布団の下にいたり。
行儀よく寝ている鈴仙の体には、隣の兎の足が乗っていた。
昨晩の枕投げを思い出して、妖夢の口元に笑みが浮かぶ。
しかし、一抹の寂しさが残った。
すでに起きていた八意永琳に、妖夢は挨拶をした。
「おはようございます」
「あらおはよう。本当に早いわね」
永琳は軽くうなずくようにして、妖夢の姿を頭から下まで確認した。
妖夢はすでに、元の服に着替えていた。刀も二本とも腰にさしている。
しかし、一つだけ、昨日ここに来た時とは足りないものがあった。
永琳は全て察したようだった。
「あの子は置いてくの?」
「はい」
「そう。寂しがると思うわよ」
「……一人で考えたくなったんです」
まだ幸せな夢を見ているようだった、橙の寝顔が思い出される。
彼女は自分をどう思うだろうか。幻滅されても無理はない。
だが、考えても仕方が無かった。
もう二度と会うこともないかもしれないのだから。
「あまり難しく考えてはだめよ」
「はい、お世話になりました」
妖夢は丁寧にお辞儀して、お礼の言葉を述べた。
じゃあね、と永琳はそれだけ言って、奥へと戻っていった。
妖夢はその背を見送ってから、永遠亭の玄関へと向かった。
そして、ようかんから逃げた。
妖夢が出て行ってからすぐに、因幡てゐが見回りから帰ってきた。
永遠亭の奥にある、永琳の研究室へと入ってくる。
「ただいま師匠」
「おかえり。今日も早起きね、てゐ」
「ふふん。早寝早起きは健康の秘訣。朝の散歩は最高の目覚まし。新鮮な空気で血液サラサラ。
この素晴らしさを味わえず、いまだ寝ている不健康な悪党共は、今日もストレスを揉みほぐす極悪な罠に引っかかるでしょう。
ナンマンダブ、ナンマンダブ」
「最近は妹紅よりも、ウドンゲの方が罠にかかっている気がするわね」
「悔しかったらしくて、この前徹夜して私を見張っていたわ。次の日、師匠に怒られてた」
「そういうことだったのね。寝ぼけて私に注射しようとするんだから驚いたわ。あんまりからかうと後が怖いわよ」
「怖い鈴仙なんて鈴仙じゃないよ」
なるほど、それは一理あるな、と永琳は笑った。
てゐも好意で言っているのだ。鈴仙本人が喜ぶかどうかは別として。
それはともかく、実験に戻りながら、いつものように永琳は確認した。
「それで、本日の竹林の状況は?」
「異常無し。……不自然なくらいに異常無し」
てゐの台詞に、言外に含んだ何かを感じて、永琳の試験管を揺らす手が止まった。
「……つまり、不自然だったの?」
「うまくいえないけど……。何か変だった。いつもと同じはずなのに、不自然っていうのが、一番しっくりくる」
この兎も勘が鋭い。
奥歯に物が挟まったような説明は、永琳の好奇心を刺激するのに十分だった。
そして……警戒心も。
「何かあったのかしらね」
「というか、何かいたかもしれんない。妖怪とか」
「………………」
「でも、普通の妖怪ならわかるんだけど」
「じゃあ、普通の妖怪じゃなかったのかもね」
「えっ。やだな怖い」
てゐが怯えた顔つきになる。
しかし、永琳は脅かすつもりで言っているわけではなかった。
兎と入れ違いに、館を出て行った剣士がいる。
「あの子、大丈夫かしら」
永琳は少し考えてから、当初の予定を変更して、立ち上がった。
◆◇◆
迷いの竹林を、妖夢は独りで歩いていた。
細い道は、竹の育つ匂いで満ちている。
まだ薄暗い空の下、背の高い竹林に光が遮られて、足元の土は黒かった。
この季節に眠りそこねた音虫が、残り少ない灯火で、小さく鳴くのが聞こえる。
妖夢はそこで、足を止めた。
竹を見上げる。
見上げると首が痛くなるほど、立派に成長した竹だった。
昔、誰かに竹に似ていると言われたことがあった。
その時は、素直に嬉しかった。竹を割ったような性格。破竹の勢い。どれも好きな言葉だ。
幼い頃の自分も、竹刀を振りながら、竹のように真っすぐ成長したいと思った。
だけど……。
妖夢は自分の腰に視線を戻した。
鞘がささっている。もはや、これが無ければ具合悪くなってしまうほど、身になじんだ重さ。
剣こそが、自分の取り柄。剣があるからこそ自分は従者としていられる。
八坂神に言い返したかった。私は剣そのものなのだと。
だけど……。
昨晩は眠らずに、ずっと考えていた。
二つの剣が、主人に隠されたことをだ。
幽々子がどうしてあんなことをしたのか。
橙の言うとおり、自分が何より大切にしているものだと、知っていたはずなのに。
だけど……その答えはわかりきっていた。
楼観剣の鞘を外す。その手が、わずかに震えていた。
認めたくなかった。でも、認めるしかなかった。
幽々子も妖夢に、剣を捨てろと諭したのだ。
背中の剣を抜いた。
人の迷いを断つ白楼剣。
目の前の空気を切り裂く。
剣を振りながら、妖夢は思考する。
確かに、幽々子に妖夢の剣が必要なのかどうかは疑わしい。
彼女はただの亡霊ではない。懐の広さは妖夢の比ではない。
戦闘ですら、実際のところ妖夢より強いかもしれない。剣術指南役というのも、半ば形骸化している。
護衛なんていらないんじゃないか。そうした疑問を持ったことは何度もあった。
白楼剣を手に、妖夢は闇の中を舞う。
剣風が竹の葉を散らす。
ならば心を鍛えるため。
剣を振るうことによって、自分の心を鍛えよう。
そうすることで、幽々子を守るのにふさわしい存在になろう。妖夢はそう考えてきた。
しかし、その剣は外ならぬ主人によって否定されてしまった。
そしてなにより……。
妖夢は剣を振る手を止めた。
「楽しかったな……」
昨晩の枕投げのことである。妖夢にとって、はじめての経験だった。
いや、枕投げだけではない。
その前の金魚すくいも、サンドイッチ作りも、夜に布団にくるまって、三人で内緒話をするのも。どれも、はじめての経験。
そんな中で、剣にかける一途な思いが、遠くなっていた。
剣を忘れるくらい楽しかった。
平和な、光景だった。
その光景と、妖夢は対峙する。
剣を携えた妖夢の向こう側で、橙が微笑んでいる。
羨ましかった。誰とも自由に打ち解けて遊ぶ、あの猫が。
毎日が楽しくてしょうがない。全身で、そう歌っているように見えた。
その側には幽々子がいる。そして、他にもいっぱい。
ようかんを持つものたちが、幸せそうに笑っていた。
平和な遊びの輪へと、妖夢に手を差し伸べている。
独りで剣を振る、妖夢へと。
じゃあ、剣を捨ててそっち側に行けば、私に何が残る?
剣しかなかった私が、剣を持たない私となったら、私に何の意味がある?
滑稽なほど、何もない自分がいる。
「貴方のためと思って、努力してきたのに……」
幽々子の望むままに、剣を捨ててしまえば、
「貴方が私を従者にする意味なんて、無くなっちゃうじゃないですか!」
主人の影に、妖夢は声を叩きつけた。
だけど、想像の幽々子は笑うだけだった。
いつもそうだ。彼女には、自分が剣にかける思いが、まるで伝わらない。
そんな時、必ずといっていいほど、一人の人物が思い浮かぶ。
――お師匠様は、どう考えたんだろう。
三百年幽々子に仕えて、姿を消した師匠、祖父である魂魄妖忌。
師もひょっとして、自分と同じ疑問を抱いたのだろうか。
この平和な世界に、自分なんていらないと。ようかんと、決別したのだろうか。
ならば、自分もいよいよ、幽々子の元を去るべきなのだろうか。
だけど、幽々子の元を去るのも、やはり恐怖だった。
彼女は今では、大切な家族だ。幽々子がそう思っているかどうかは別として。
剣と幽々子。どちらを取るべきか。
白楼剣は迷いを断ち切るが、それも使い手の技量しだいだった。
妖夢の悩みは深く、剣は届かなかった。
元々、考えるのは苦手なのだ。
剣で斬ることで、いつも補ってきた。
だけど、今では、自分の剣すら、妖夢は分からずにいる。
師と話したかった。師に聞いてもらいたかった。
だけど、自分は孤独に剣を振るのみ。
いくら斬ろうと、楼観剣も白楼剣も、何も答えてくれない。
――このまま、独りで消えた方がいいのかな
思い悩んでいた妖夢は、いつしか開けた場所にたどりついていた。
見覚えのある場所ではない。
どこまで来たのだろうか。
迷いの竹林であることには、間違いないのだが。
少し、違和感があった。
そして、妖夢の前に、ついにそれが、姿を見せた。
鞘越しに、痺れが走った。
◆◇◆
妖夢の前に現れたのは、女人の姿をした黒ずくめの妖怪だった。
青黒い髪の毛が、長く背中まで伸びている。
着ている服は、鴉色の和服に、赤い刺繍をしたものだった。
顔にかかった前髪の向こうに、美しい顔立ちと鋭い目つきが隠れていた。
妖夢の行く先を通せん坊するように、道の真ん中に立っている。
表情無しに悠然と立つ彼女は、日の差してきた竹林と混ざり合って、静謐ながらいささか不気味な風景画を作り出していた。
その両腰に、鞘がささっているのに気が付き、妖夢はほんのわずかに、左足を引いた。
「何用か」
そう問いかける自分の声が乱れていないことを、妖夢は確認した。
妖怪は、返事をせずに立ったままだ。
妖夢は再度、硬い声で問いかけた。
「私は西行寺家剣術指南役、魂魄妖夢。無用ならば、道を開けられい」
妖怪はうなずいた。
そして、道を開けずに、両鞘から逆手に剣を抜いた。
半回転して順手に持ち変える。
小太刀が二つ。ここで一戦やる気なようだ。
剣士としての本能から、妖夢もそれに呼応するように抜刀した。
妖夢の得物は楼観剣。
背格好に見合わぬ太刀は、かつて師から受け継いだ業物である。
構えは陽の構え。すなわち、妖夢がもっとも得意とする脇構えだ。
刀身を隠すように体に寄せた、相手の攻めに合わせて、即座に迎え撃てる構え。
下げた刀を持つ手に力みは無く、長期の対峙にも耐えうる。
対する妖怪の構えは、無形だった。
だらりと両手を下げ、肩幅に足を開いた状態でいる。
意図も流派もわからない。
例え姿形は人間の女でも、相手は妖怪。どれほどの強さと禍々しさを持つ存在かは、見た目ではわからない。
妖夢は仕掛けてみた。
「はあっ!!」
全身から剣気をほとばしらせる。
裂帛の気合いを受けて、相手の黒髪がわずかに揺れる。
しかし、隙はできない。
並の魑魅魍魎なら退散するほどの威力だが、風を感じた柳のように受け流されてしまった。
幻想郷では見たことのない妖怪だったが、やはり、かなりの力を持っていそうだ。
対峙する間も、己の妖気を、無駄に垂れ流していないところから、分かる。
――やりにくいな
一瞬、脳裏を流れた感想を、妖夢は無視した。
長年の修行の甲斐あって、この状態なら一時であろうと我慢できる。
その前に、相手は仕掛けてくるだろうか。
と、黒い妖怪が、無造作に足を出した。
そのまま、すたすたと間を詰めてくる。
妖夢は唖然としたが、すぐに気を引き締めなおした。
間合いに入れば即座に斬る、と自らに言い聞かす。
妖怪は自然な動作で足を運び、妖夢の間合いに入る直前で。
たんっ、と地を蹴った。
目の前に足。
「!?」
妖夢は反射的に身をよじった。
袴が頬を撫でるのを感じながら、空中の相手を斬ろうとする。
が、それは竹トンボのように回転した敵の両刃を、迎え打つことになった。
ぎん、と散った火花を後に、地を転がってから、妖夢は跳ね起きた。
刀を正眼に構える。
不自然な態勢で打ち合ったため、手が少し痺れた。
刀の向こうに立つ妖怪は、背を向けて、先程と同じく立ったたままだ。
あれほどの勢いで水平に跳んできたにも関わらず、息も切らさず落ち着いている。
後ろを向いたままで、振り向こうともしない。
――私が……仕掛けないと思っているのか?
実際、妖夢はその背に仕掛けられなかった。
正々堂々を旨とする、剣士としての誇りだけではない。
腕はまだ痺れが取れておらず、絶好の斬る隙であるはずの相手の背中は、異様な雰囲気を放っている。
何か策があるのかもしれない。
指をくわえて待つのは性に合わないが、妖夢はあくまで慎重に闘うつもりだった。
しかし、『黒服』の動きは、またしても予想外のものだった。
なんと背を向けたまま、こちらへと歩いてくるのだ。
妖夢は驚いたが、反射的に、その背中に斬りつける。
『黒服』は振り向きもせずに、両の小太刀でそれを払った。
そのまま、逆手で妖夢を突いてくる。
妖夢は身をよじってかわし、再び袈裟がけに斬り下げる。
『黒服』が跳んだ。
空中で独楽のように身を捻り、頭上から剣戟を降らせてくる。
「ちぃっ!」
妖夢は低く下がる。
すかさず相手は追撃してくる。
二本の小太刀が、からみつく蛇の動きを見せる。
曲線的な牙が、妖夢の首や心臓を脅かす。
変則的な剣術に、妖夢は防戦一方だった。
――これではだめだ。先手を取らなきゃ
しかし、『黒服』の剣は流水のように捕らえがたく、刀で斬り込む機会がつかめない。
と、その姿が消えた。
いつの間にか、妖夢の右を走っている。
妖夢がそちらに向き直れば、今度は後ろに回っていた。
「ぬっ!」
振り向きざまに、刀を横に払う。
詰めていた『黒服』が再び跳躍して、妖夢の頭を飛び越える。
そして、遠くに着地したかと思うと、凄まじい勢いで間を詰めてきて、慌ててよける妖夢の横を過ぎ去っていった。
緩急の差が激しすぎる。
ぎりぎりでかわすことができたが、銀髪をいくつか持ってかれた。
秘密は歩法にあるのだろうか。
今の自分が、追って追いつけるものではない。
妖夢は刀を鞘に納めた。
懐から取り出した、スペルカードを宙に放つ。
「人符『現世斬』!」
捕えられなければ、自分の最速の剣で先手を取る。
妖夢が出した答えはそれであった。
『黒服』はそれを見て、動きを止めた。
はじめの対峙と同じく、半歩踏み出して、両の刀を垂らしている。
あろうことか、迎え打つ気らしい。
妖夢は震脚で地を蹴った。
瞬き一つの時間で、視界が変わる。
神速の抜き打ちが、空間を切り裂く。
が、手応えはない。
予想通り、『黒服』は上に跳んでいた。
妖夢はすぐに停止し、相手の着地に滑り込んだ。
弦月斬。大きく刀を回し、逃げ場の無い相手を切り上げようとする。
なぜか、再び空振り。
妖怪の体はフワリと浮いていた。
「なっ!」
そのまま空中を浮きながら、頭を下にして、『黒服』は剣を振るいだした。
「ちょ、わっ、とっ!」
狼狽しつつ、妖夢はそれを捌く。
人間じみた妖怪から、いきなり逆さの化け物を相手している。
急所が上に遠ざかり、頭が混乱した。
「何なのよ、一体!」
苛立ちながら、妖夢は剣を振るう。
ひゅう、と『黒服』は高く浮いた。
そのまま、空中をくるくると、羽虫のように飛び回る。
妖夢は飛ばずに、待ち構える。
『黒服』はそれを見て急降下し、地面すれすれに飛ぶ燕となって、逆手の剣で妖夢の膝下を脅かした。
妖夢は剣を下にして、それを飛び越えた。
地面に立ち、振り向く。
『黒服』は何事も無かったかのように、刀を下げて立っている。
対照的に、急激な運動と動揺により、妖夢の息は乱れていた。
師匠との稽古は数えきれないほど行った。
実戦の経験だって少なくない。
ただし、弾幕抜きの剣と剣での勝負は、ここ幻想郷ではなかなか機会がなかった。
いや、低級な妖怪のなまくら剣術ならいざ知らず、
――こいつは……本物の剣士だ。でも、私の剣とは全く違う。後ろ向きで急に加速したり飛んだり……常識はずれの剣術だ
特に、『飛ぶ』ということが驚きだった。
足場が無ければ踏み込めない。下半身のバネ、体にかかる重力は大地という支えがあってこそ剣に生かせる。
ところが飛行できる妖怪の場合は話が変わってくる。
空中での斬り合いは、加速を使うことで敵に接近し、それを代価に威力を稼ぐことになる。すなわち、地上戦とはまるで違う戦いになるのだ。
妖夢自身もできないわけではないが、地上の斬り合いと比べると、やはり劣る。
ましてや、それらを状況に合わせて選ぶとなれば、百やそこらで会得できる領域ではない。
知る限り、それができるとなると……。
「魂魄妖忌……」
ハッとなった。
はじめて『黒服』が口を開いたから、というのもある。
だが、出てきた言葉はさらに予想外のものであり、脳裏をよぎった姿と同じだったのだ。
「師を知っているのか!」
「知っている」
「どこで……」
「その剣に見覚えがある。その剣の使い手を追って、私はここに来た。だが……」
妖怪は、無表情で小太刀を手の中で回している。
遊んでいるように見えて、やはり隙らしい隙が無かった。
その言葉が続く。
「私の知る、その剣の使い手はお前ではない。あまりに、お粗末だ」
「………………」
ぎりっ、と妖夢は歯をかみしめる。
相手の余裕ぶりが不快だった。
そして、師から受け継ぎ、鍛えた自分の剣を粗末だと評されるのは、恥辱以外の何物でもない。
「お粗末かどうか……」
妖夢は左手で、二枚目のスペルカードを取り出した。
「今一度確かめてみるがいい!」
自分の一生は剣を鍛えることばかりだった。
その自分を証明できる機会が、こうしてやって来たのだ。
平和な日常とは対極の、死が支配する真剣の場。
剣に生きる自分にふさわしい。ここで斬られれば、私はそれまで。
妖夢は右手で刀を握りなおした。
「その前に、名を聞いておこう」
「無用だ。万が一、私を斬れたら教えてやらんでもない」
「そうか。では、墓には名を入れず、黒石に花を添えてやる。魂魄妖夢、参る!」
妖夢は覚悟を決めて、斬りこんだ。
『黒服』に飛ぶ間を与えず、ひたすら突進して押す。
刀同士が空中でぶつかり、澄んだ金属音が響く。
本来刀は打ち合うものではないが、妖怪が鍛えた業物である楼観剣は、岩を斬ろうと刃こぼれはしない。
しかし、それは相手の小太刀も同じようだった。
おまけに小太刀にも関わらず、妖夢の持つ長刀を凌ぐ重さを見せる。これも使い手の力量なのだろうか。
――負けるもんか!
妖夢はスペルカードを発動させた。
断命剣「冥想斬」。妖力をまとった楼観剣は、さらに長くなり光り出す。
「食らええ!」
渾身の力をこめて、唐竹に斬った。
『黒服』は刃を交差させて一歩踏み込み、その刀身を受け止めた。
がっきと刃が噛み合い、妖気が四散する。
「ぐぐっ」
「…………」
交差する小太刀に吸いつけられた楼観剣は、押せども引けども動かなかった。
それどころか、妖夢自身も、体を動かすことが、できなかった。
あくまで刀を封じられているだけなのに、巨大な手で全身を握られているように感じた。足さばきがまるで使えない。
目が合った。
黒髪の向こうの赤い瞳が、自分を小馬鹿にしているような気がした。
遊ばれているのか。
「ふざけるな!」
妖夢は気合で押し込もうとした。
そこで刀がふっと軽くなる。
力を流され、投げ飛ばされたと気がついたのは、地面に背中から落ちてからだった。
「……がっ、ふ」
一瞬、呼吸が止まる。
それでも、師から受け継いだ剣は、何とか手放さなかった。
「……………………」
『黒服』が無言で小太刀を振りかぶっている。
妖夢は片膝をついて立ち上がりかけた。
だが、もう動く力が残っていない。
「くっ!」
駄目だ、斬られる。
ここまでか。所詮自分の剣などこの程度なのか。
目を閉じたくなるのを必死でこらえつつ、妖夢は覚悟した。
その時、
「鬼符『青鬼赤鬼』ー!!」
『黒服』が妖夢から跳び退いた。
その空間を弾幕が過ぎる。
赤と青の輪光が、妖夢の周囲を守るように動いた。
……今の声は、
「橙?」
空から飛来して、妖夢の前にしゅたっと降り立ったのは、永遠亭に置いてきたはずの橙だった。
背中の妖夢をかばう姿勢で、跳び離れた『黒服』をフーッとにらみつけている。
「大丈夫、妖夢!?」
「橙……どうして」
「妖夢が先に出て行ったって聞いて、急いで飛んできたの! ひどいよ妖夢! 置いてっちゃうなんて!」
「そ、それはごめん。でも……」
「やい、お前!」
橙は『黒服』をビシッと指差して、
「喧嘩ならスペルカードで弾幕ごっこでしょ! 本気で真剣で斬るなんて! ルールを守らない悪い奴だな!」
空気は読めていなかった。
というか、妖夢も普通に斬りあっていたのだが。
指された『黒服』は肩をすくめた。
「あいにく私は外から来たんでね。ここのルールなど知らん」
「関係ないよ! ちゃんと教えてあげるから覚えなさい!」
「いらん。私は剣の勝負をしに来たんだ。そこの若いのと」
『黒服』は、左手の小太刀の峰を、とんと肩に置きながら、
「やるなら、二人まとめてでも構わんぞ。剣以外に使っても構わん。
飛び道具だろうと何だろうとな。正直、その剣士の剣は退屈だしね」
その言葉に、妖夢は前に出た。
「橙、下がってて」
「妖夢!?」
「私一人でやるから」
「駄目だよ! 私も戦う!」
「これは、私の戦いだから」
「あいつ、妖夢を斬る気だよ!」
「いいんだ。それが私の望んだ戦いだから。剣士として」
「よくないよ! 幽々子さんはどうするの!?」
聞き逃すには、あまりに重い名前だった。
「従者にとって、一番大事なのはご主人様だって、言っていたじゃない!
妖夢が消えちゃったら、幽々子さんは悲しむよ!」
「……違うよ!」
「何が違うの!?」
「幽々子様には、私なんていらないんだ! 私なんて必要ない!」
橙はびっくりして、言葉を飲んだ。
妖夢はやるせない気持ちで、わめき続けた。
「私は剣しか取り柄がないもの! 別に面白くないし、変な子だし、平和な世界なんて似合わないよ!
だから、死んだって別に皆に変わりはないし、自分が一生かけた剣で死ねるなら、しょうがないでしょ!」
「馬鹿!」
「ば、ばか!?」
「馬鹿だよ! 妖夢のニブちん! 悲しむに決まってるじゃない!
変わらないなんて、そんなわけないじゃない! 妖夢が勝手に考えて、勝手に悩んでるだけでしょ!」
橙の泣き顔に、妖夢は言葉に詰まった。
「幽々子さんだけじゃない、私だって悲しむよ! 藍様だって、咲夜さんだって、小町さんだって、永遠亭のみんなだって。
一昨日から会った人、みんなみんな、妖夢がいなくなったら悲しむよ!
みんな友達じゃない! それが、わからないの!?」
妖夢は茫然としていた。
橙は怒っている。悲しんでいる。自分に真剣になってくれている。
それは、ようかんだとか、剣だとかは、まるで関係がなかった。
友達だからだった。
「一緒に帰ろうよ! 帰ってちゃんと話そう、妖夢! 諦めちゃだめだよ! 消えちゃ、やだよ!」
利き腕に、橙が必死でしがみついていた。
その嘘の無い言葉を、妖夢は静かに反芻していた。
そこに、黒ずくめの死神が、冷たく宣告した。
「どちらにせよ、同じことだ。お前たちに帰る機会などない」
「いいや……」
妖夢は楼観剣を左手に持ち、橙の手をぐっと引き寄せた。
「私は主人の元に帰るんだ。橙と二人で、お前を倒してね」
「妖夢!」
忘れていた。ここで倒れるわけにはいかない。
従者の役目は、主に付き従うこと。
師から託された役目だ。
そして、それを曲げてしまえば、この旅で出会った、同じ従者たちに申し訳が立たない。
簡単に投げ出せるほど、今の妖夢の命は安くない。
主と会って、きちんと話さなければ。その悔いを残したまま消えたくは無い。
今は何よりも、生きのびることだ。
「橙。あいつの注意を引きつけて。ただし、無茶は駄目だよ」
「うん、妖夢もね」
二人は『黒服』を見据えたまま、確認し合う。
橙は小さい背を、バネを縮めるようさらに低くし、背中を丸めて戦闘態勢をとった。
妖夢も楼観剣を正眼に構えなおす。横の橙と息を合わせるように、心を決める。
対峙する『黒服』も、脇をわずかに開いた。
両の小太刀が鈍く輝いた。
◆◇◆
竹林の間を、『黒服』は疾走している。
上から時折弾幕が降ってくるが、気にせず走り続ける。
独特の歩法だった。両手の得物を揺らしつつ、速度を緩めぬまま、笹の間をじぐさぐに移動する。
風圧に黒髪がなびいているが、竹にひっかかる様子を見せない。川を流れる木の葉のごとく、頭上の気配を引き付けながら、足を細かく走らせる。
視界を覆っていた緑の闇が、急に開けた。
銀髪の少女が、楼観剣を手にして待ち構えている。
『黒服』は、なおも走るのをやめない。
小太刀を身体に巻くようにして、間合いに入る直前に飛んだ。
回転する妖怪に対し、銀髪の少女は切り込んでは来ず、横に飛んだ。
『黒服』は着地する、そこに上から弾幕が放たれる。
転がりながらそれを避けるが、そこに先の剣士が斬りこんでくる。
上段からの切り下ろし。
『黒服』は全身のバネを使って、後ろに飛んだ。
――ほう。
飛びながら、竹を掴んで方向を転換。そのすぐ横を、回転する茶色い影が過ぎる。
カツンという乾いた音と共に、青竹が横に両断された。
先程から頭上から牽制していた妖怪猫の強襲だ。妖力の乗った爪の一撃は、刀に劣らぬ切れ味を見せた。
そこに再び剣を手に銀髪の少女が躍り込んでくる。
黒服は剣を勢いよく振るった。
周囲の竹が風圧でしなる。
斬りかかろうとしていた剣士の足運びが乱れる。
形勢が入れ代わり、『黒服』は先手を取って、逆に斬りかかろうとした。
そこに絶妙なタイミングで、猫が飛んでくる。
放った弾幕に混じりながら、背中を狙ってくる。
仕方なく、妖怪はその場を逃れるために、跳んだ。
しかし、予想外の重力が加わった。
「……?」
足にふよふよと青白い半霊が巻きついていた。
蹴り払おうとしたが、うまく離れてくれない。
余裕をもって行った回避が、ぎりぎりのタイミングとなり、服の一部を、猫の鋭い爪で剥ぎ取られた。
「やるな」
再び地上を走りはじめながら、『黒服』はニヤリと笑った。
半霊の奇襲のことではない。
彼女らの戦いぶりについてであった。
誘い手と決め手が瞬時に入れ替わる、息をつかさぬ波状攻撃。
一撃一撃が、相方のフォローを前提としている。
自分を仕留めようとするだけならば、両者同時に捨て身で攻めてくる方が確率が高い。
もちろん、そうなれば必ずどちらかは自分に斬られることになることになる。
では何故そうしないか。
つまり、彼女らの目的は自分を倒すことではない。二人同時に生き延びることを目的として戦っているのだ。
その小気味良さが『黒服』には愉快であり、同時にその戦法の手強さに闘志が湧くのであった。
――さて、次はどう来るか。
いまだ余裕を見せながら、剣の怪物は、敵の攻めを待った。
◆◇◆
一方その頃。
竹林を並んで飛ぶ、二匹の兎の姿があった。
永遠亭の、鈴仙とてゐである。
飛び出していった橙を、師匠の永琳の命令で追ってるのだ。
しかし、先を行った猫は恐るべきスピードで、あっという間に見失ってしまっていた。
「本当にこっちでいいの!?」
「しあわせウサギの能力を馬鹿にしないで!」
「でも、もうかなり走ってるのに、ちっとも追い付けないわよ!」
「……外に出たのかな。確かに変ねー」
てゐは呟いて、地上に降りた。
下を向いたまま、眉をひそめてふんふんと頷く。
「やっぱりおかしい。竹の下の気の流れ……普通のようで、飛び飛びになってる」
「どういうこと?」
「よく分からないけど、何かが原因で閉ざされていて、たどり着けない場所があるのかも」
「そんな! あの二人はどうするのよ!」
「他力本願! 人にばっかり頼まないでほしいわ! 鈴仙こそ! あんたの能力はどうしたのよ!」
「あ、そうだった」
鈴仙の赤い瞳が渦を巻きだす。
周囲一体の波長に、乱れが無いかを確認する。
「…………な、なにこれ」
竹林の一角が、すっぽりと何かで包まれていた。
その表面はデタラメな波が流れており、奥の様子が分からない。
それどころか、普通の目では絶対に見つけられない状態だ。
空間が丸ごと隠されて、中は迷路状になっていることだけがわかった。
一体誰がこんなことを。
「どうなの、鈴仙!?」
「わかんないけど、凄く変な場所があるわ!」
「どこに!」
「目の前よ!」
「って全然分からないし」
てゐの目には、いつもの竹林があるだけだった。
「よし! 勇気を出して飛び込むわよ!」
「うわあ、鈴仙お先にどうぞ」
「何言ってるの、てゐ! 怖がってる場合じゃないでしょ!」
「そういう台詞は腰をしゃんとさせて言ってよ! 何そのへっぴり腰!」
「しょ、しょうがないでしょ! ほら、二人で行くわよ! あっちの二人が、何か大変な目にあってるかもしれないんだから!」
「むう、仕方がない」
てゐと鈴仙は、互いの手を取って、
「それー!!」
と飛び込んだ。
しばらく、息まで止めつつ、恐る恐る目を開けると、
「って、ええええ!! なんで!?」
見馴れた永遠亭に戻っていた。
◆◇◆
長い黒髪が、いくつか飛んでいった。
妖夢は片膝をついて、斜め上に剣を抜いている。
『黒服』は一間離れた位置に跳んでいた。
妖夢の横に、橙が下りてきた。
「惜しかったね」
「うん、でも――」
――いける。こっちが押している。橙と二人なら勝てる
妖夢の気力が湧いてきた。
刀という『防具』を持たない橙には、『黒服』に劣らぬスピードがあった。
加えて、妖夢は地上戦、橙は空中戦と、互いに得意な場所をカバーし合っている。
そのおかげで、お互い、攻撃の拍の間隙を埋めることができていた。
急造コンビではあったが、不思議なくらい息が合っているのは、
「一緒に旅をした成果かもね」
「そうだね」
何にせよ、この展開なら、遠からず倒すことができそうだ。
だが、解せないのは、
「なかなか面白い」
相手の余裕が消えないことだった。
橙も気が付いているのか、距離が離れていても警戒を解かない。
妖夢も気を引き締めなおした。
「ここまでやるとは思っていなかった。いい連携だと誉めておこう」
「どうするの? やめるんだったら逃がしてあげるよ」
橙が黒髪を挑発する。
横に立つ妖夢も、思わず苦笑したくなるほど、生意気な台詞だった。
だけど、ありがたい。心がすっと軽くなる。
「やめはしない。そして、お前達を逃がすつもりもない、とだけ言っておこう」
「あっそう。怪我しちゃっても助けてあげないからね」
「…………少しやりにくいなここは」
不気味に笑った妖怪が、構えを大きくする。
空気が変わった。
なにか来る。
異様な気配に、妖夢と橙はいつでも飛べるように準備する。
妖怪の目が赤く輝いている。
黒髪がわさわさと、生き物のように蠢いている、
こおおおおお、と吐く息にまで妖気が混じっていた。
そして、その剣気が噴火した。
「!?」
竹が轟々と音を鳴らす。地面までわずかに揺れている。
飛んでくる土ぼこりに、二人は腕で顔をかばった。
ここまでくると、剣気というより烈風に近い。
『黒服』の全身が、青白い気に包まれているのを、幻視すらできた。
「……行くぞ」
その声に、全身が総毛立つ。
妖怪は腰をひねって、刀を振りかぶった。
そして一閃。
妖夢と橙は同時に飛んだ。
風をまとった斬撃が、二人の背後の竹林を、木っ端微塵に吹き飛ばした。
すぐに第二の矢が放たれる。
二人は再びかわそうとしたが、足を乱気流に飲まれて、地面へと引きずり下ろされた。
「な、なにこれー!」
「橙、落ち着いて!」
地面に伏せながら、妖夢は橙の頭をかばった。
しかし、驚いているのは妖夢も同じだった。
さっきまでのスマートな戦いとはまるで違う、力任せの暴威だった。
砕けた竹の雨が体に降り注いで、かなり痛い。
呼吸五つほどの時間か。それよりはるかに長い時間に感じたが。
『黒服』がようやく腕を振るうのをやめた。
風は収まっていた。
しかし、竜巻に襲われたかのように、竹林がそこだけすっぽり消えて、大きな広場ができていた。
「でてきていいぞ、小童共。これで闘いやすくなっただろう」
『黒服』が声をかけてくる。
橙は立ち上がって、大声で返した。
「何が闘いやすくなったよ馬鹿力ー! いいもんねー! こうなったら、二人で逃げてやるから!」
「できるものなら、そうするがいい」
「なにおー! 妖夢、急ごう! あんな化け物と付き合うことないよ!」
「……いや。駄目だよ、橙」
「どうして! まだ闘いたいの!?」
「そうじゃなくて、逃げられないのよ、私達は」
「…………?」
妖夢は立ち上がった。
もっと早く気がつくべきだった。
あたりを見回す。自分と橙と黒服の妖怪、それ以外にまるで気配がしない。
妖精も小動物も姿を見せない。これだけの騒ぎになっているのに、誰も様子を見に来る気配がしない。
「……たぶん、結界だ。私達はすでに、あいつの結界の中にいるんだ」
「えっ!」
橙はその言葉に青ざめた。
結界術は八雲のお家芸だ。姓をついでいないとはいえ、一家の一人である橙も当然知っている。
だからこそ、どの程度の結界を作り出せるかで、実力を測ることもできるのだ。
橙は今、『黒服』の実力を知って、萎縮している。
「そんな……」
「気がついたか。これ以上邪魔が入ると興醒めだからな。この竹林をいくら進んでも出口にはたどり着けん。
お前達がここを抜け出すには、私を倒して、術を解くしかないということだ。どうだ、命がけで闘う気になっただろう?」
『黒服』が挑発している。
橙は悔しそうに唇を噛み締めた。
「大丈夫、橙」
「妖夢……」
「今は闘うしかない。でも、とにかく生き残ることを考えて。そうすれば、きっと助けに来てくれるよ。藍さんたちが」
「…………あっ、そうだね!」
橙の顔に明かりが灯った。
彼女の主が、この事態に気がついてくれれば。
「よおし。元気がでてきたぞ! 待っててね藍様!」
「誰のことだか知らんが、私の結界は破れん」
「私の主だ! いい気になっているのも今のうちよ! 藍様は凄く強いんだぞ!
お前なんか、けちょんけちょんにされちゃうんだから!」
「…………それは楽しみだな。お前を殺せば、そいつは本気で向かってくるかい?」
「ひっ」
橙は舌を引っ込めた。
妖夢も決して楽観的にはなれなかった。
目の前の妖怪は、師の魂魄妖忌と闘って、今も生きているのだ。
ひょっとしたら、博麗大結界も自力で越えてきたのかもしれない。
だとすれば、幻想郷でも滅多に見られない大妖怪ということになる。
師も恐ろしい宿題を残してくれたものだ。
果たして自分たちはどこまで生き残れるか。
いや……
「大丈夫、橙。二人でやれば勝てるよ」
「妖夢……」
「主の元に帰らなきゃ、でしょ」
「うん、そうだね」
橙を励ますと共に、自分を励ます。
もう怯えてはいないし、いられない。
「では、始めるか」
再び妖怪の剣気が襲ってくる。
だが、二人は動じなかった。
妖夢は橙にだけ聞こえるように話した。
「橙。大技をしかけるわ」
「大技?」
「うん。さっきは速くて捕らえられなかったけど、橙が隙をつくってくれるならできる。それが決まればあるいは」
「わかった、まかせて!」
橙がスペルカードを取り出した。
「鬼神『飛翔毘沙門天』!」
少女の体に妖力が集まる。
ぴょんと跳びあがり、空中で前転する。そのまま宙に浮いたまま、回転数をあげていく。
周囲の空気が渦を巻いていく。
「いっくぞー!」
妖力を纏った巨大なボールとなって飛び出し、橙は『黒服』の周囲を高速で回り出した。
その体から、弾幕がこぼれていく。
上を飛ぼうと身を屈める妖怪の先を行き、橙は上空も弾幕で固めていく。
ついにはドーム型となった弾幕に、『黒服』は閉じ込められていた。
妖夢は橙を信じて、スペルカードを取り出した。
人鬼「未来永劫斬」。
使い手の体の制約を外し、暴走状態にすることで無数の斬撃を相手にたたきこむ大技だ。
だが、外せば急激な負荷が体を襲い、致命的な隙をさらすことになる。
まさに、一か八かの賭けだった。
その命がけの賭けは、橙の助けがあって初めて成立する。
――やるしかない
楼観剣の妖力が、全て開放される。
妖夢は心を決めて、その力を飲み込んだ。
瞬時に神経が刺激され、脈拍が速くなる。
覚醒した意識に、周囲の光景が色鮮やかになっていく。
『黒服』を包む橙の弾幕が広がっていた。もはや橙も『黒服』も、その姿が見えなくなっている。
妖夢はじっと橙の合図を待った。
弾幕の壁がついに妖夢の足元にまで達したとき。
視界が左右に開けた。
妖夢と『黒服』の間に、弾幕の隙間で作られた、一直線の道が出現する。
――これなら入る!
「人鬼『未来永劫斬』!」
暴れる剣に、意識を持っていかれそうになりながらも、妖夢は飛び込んだ。
一瞬の内に、いくつもの斬線を敵の体に走らせる。
最後に、渾身の切り上げが、『黒服』の体に食い込んだ。
そのまま、真っ二つに斬り裂く。
――やったか!?
橙の弾幕を抜けながら、妖夢は見下ろした。
『黒服』の体がバラバラに裂かれている。
即死だった。
が、妖夢が安堵の笑みを浮かべる中、その一つ一つが、白煙を噴いた。
あとには、粉々になった丸太が残されていた。
馬鹿な……。
「変わり身!? どうやって!」
妖夢は叫び声は悲鳴に近かった。
逃げる場所なんて無かったはずなのに。
地面から土砂が舞い上がる。
黒い髪を振り乱して、妖怪が飛び出してくる。
土中に隠れて、自分の必殺の一撃をやり過ごしたのか。
そう妖夢が悟った時には、『黒服』が小太刀を振るっている。
「ちぃっ!」
ずしりと重くなった腕を、妖夢は最後の力を振り絞って動かした。
刀で弾幕を放ち、なけなしの受けの足しにする。
斬撃が飛んでくる。
それを何とか相殺するも、衝撃波に妖夢は全身を打たれた。
激痛に目がくらむ。
視界で銀の星が咲き乱れた。周囲の光景が急速に暗くなっていく。
――絶対に、斬れると思ったのに。
『黒服』が見下ろしている。
橙の悲鳴が聞こえる。
意識が遠のき、無力感が襲ってくる。
この世に斬れぬものはない。
師の教えが頭をよぎった。
その師はもうここにはいない。
自分が引き継いで、守らなきゃいけない言葉だったのに。
妖夢は今一度、その言葉にすがりたかった。
お師匠様。
どうしても、斬れないものが、あるのです。
◆◇◆
「無い」
祖父は断じた。
迷い無く即答されるとは読んでいなかった。
聞き違いか、と思ったほどだ。
だから、本当かどうか、妖夢はもう一度聞いていた。
「無い。世の中には斬れぬものなどないのだ」
その場逃れの言葉ではなかった。
信念ですらなかった。
人はいつか死ぬ、そんな自然の摂理のように、当たり前の話として語られていた。
我慢できずに、聞いていた。
水は斬れるのか。風は?
「斬れる。それは斬ることによって理解できる。聞くがよい、妖夢」
祖父の言葉に、妖夢は正座し直した。
「全ては、斬ることによって理解できる。真実は、斬ることによってわかるのだ」
その言葉は、妖夢の心にしっかりと根を下ろした。
須弥山の頂から、見下ろされているようだ。
どこか刀に限界を感じ、それに甘えかけていた自分が、ひどく小さいものに思えた。
祖父はニコリともせず、妖夢を見つめている。
その顔が少し憎たらしかったので、
じゃあ、私を斬れますか?
幼い妖夢は、小ずるく聞いてみた。
降参する祖父の顔を期待して。
だが、その答えは、やはり予想外のものだった。
師は巌のような顔に、笑みを浮かべて言ったのだ。
「妖夢。お前はすでに斬られているのだよ」
◆◇◆
この世に斬れないものはない。
全ては斬ることによって理解できる。
あの時から今に至るまで、私は何もわかっていなかったんだろうか。
じゃあお師匠様。
斬るって、何なんですか?
◆◇◆
妖夢は目を覚ました。
背中に固い感触がある。
地面に倒れているのだ、と気づいた。
体の節々が痛む。舌に鉄の味を感じた。口の中も少し切っているようだ。
ぼやけた頭が、だんだん記憶を取り戻していく。
――そうだ。私はあの黒服の妖怪にやられて……
はっ、と妖夢は身を起こした。
場所は竹林から変わっていない。
「橙は!」
辺りを見回すが、二人の姿は見えない。
だが、遠くで甲高い叫び声が聞こえる。
――まさか、まだ闘っているの?
「何てざまだ! 橙、待ってて!」
自分はどれくらい気を失っていたのだろうか。
妖夢はすぐさま立ち上がって、声のほうへと走ろうとした。
だが、その足が止まった。
声は遠い。だが、方向が一瞬つかめなかった。
右じゃない。左でもない。
前でも後ろでもなく、その声がするのは
「上?」
頭上を見あげる。
高く伸びた竹で切り取られた、丸い青空に目を凝らす。
ポツポツと、奇妙な点が、出たり消えたりしている。
と、遠くの地面で土煙が上がった。
竹の折れる音が聞こえた。それに混じって、叫び声がする
こっちまでおいでー! と。間違いなく、橙の声だ。
が、次に別の方向から、音がする。
これも橙の声に聞こえる。
どこを向いても、何やらこげ茶の球のようなものが、目に映ったり消えたりする。
妖夢は立ち上がって、瞬きした。
そして、ようやく何が起こっているのか気がついた。
「なっ!」
点滅して見えたのは、橙だった。
広場を囲む竹林の間を、高速で移動しているのだ。
叫びながら目まぐるしく動く橙は、とても妖夢の目で追えない。
「お
に
さ
ん
こ
ちらー!!
手
の
鳴
る方
へー!!」
振り向く先に、橙が現れるようだった。
妖夢はある台詞を思いだしていた。
(とっても難しいんだよ。妖夢もやってみない?)
「まさか…………鬼ごっこ!?」
しかし、それは、妖夢の想像する遊びとは、かけ離れていた。
まず、速すぎる。だがそれだけじゃない。
あまりにも細かく方向転換しているため、目が追いつかないのだ。
遥か向こう側で飛び回っている姿すら、不規則な動きに錯覚を起こさせる。
とらえたと思いきや、それは残像で、斜め後ろから声がする。
動きの量が半端じゃない。鬼ごっこというより、分身の術だ。
その茶色い影に、ぴたりと追走する黒い影があった。
鬼役となった『黒服』が、橙を仕留めようと追っている。
だが、あの妖怪の方も、橙の動きについていくのがやっとのようだ。
いや、妖夢から見れば、ついていけるだけで凄い。
そして、遊びの文句を唱えながら動き回る橙は、遊んでいなかった。
ちらりと見えた橙の形相は、必死だった。
よく見れば、妖夢を中心にして一定の距離を保ったまま、『黒服』から逃げ回っているのだ。
何のために。
決まってる。気絶していた妖夢のためだ。
妖怪がこちらに近付かないように、囮になろうと頑張っているのだ。
命がけの鬼ごっこを。
「……橙!」
竹の間から飛び出した橙の目と、立ち尽くしていた妖夢の目が合った。
「妖夢! 早く逃げて……」
その声が、致命的な隙となった。
巨大な烏が、橙の背後に現れる。
妖夢が茫然とする中で、黒い腕が鋭く伸びていく。
振り向き、放心している橙の腹に、その鉤爪が食い込んだ。
空中で二人の動きが止まる。
冷水が妖夢の体を満たす。
体をくの字に折って、橙が落ちていく。
思わず伸ばした手が、むなしく宙を泳ぐ。
妖夢は喉を震わせて、
絶叫した。
「橙―――――!!」
◆◇◆
「なかなか、すばしっこかったが……」
黒服の女妖怪は、動かなくなった橙の体を見下ろしていた。
「これで、元に戻ったな。一対一だ」
その視線がこちらへと移る。
「おのれぇ……!」
火がついた。
妖夢の体を灼熱の怒りが焦がしていく。
が、同時に鋼鉄の意志が、無謀に切り込もうとする妖夢の体を押しとどめた。
歯を食いしばりながら、自制する。
――落ち着け。橙は……
橙は……生きていた。
怪我の様子はここからわからないが、まだ生気が感じられる。
しかし、ここで妖夢が倒れれば二人ともお終いなのだ。
独りで戦うのと違い、絶対に無謀に斬りかかることはできない。
自分だけではなく、橙の命も、一人で背負うことになったのだ。
……自分を守っていた、橙に代わって。
「逃げないのか、お前は?」
「何だと?」
妖夢は聞き返した。
『黒服』が不思議そうに、こちらを見ている。
ふっ、と嘲笑しつつ、足で橙の頭を示す。
「こいつはそう願ったぞ。お前に逃げろとな。今なら逃がしてやってもいいぞ」
「…………見くびるな、下郎が」
妖夢は楼観剣を構えた。
「あらためてお相手しよう。冥界一硬い盾、どれほどのものか確かめてみるがいい」
「先の斬り合いで、腕の差をはっきりと知ったと思ったのだが」
「黙れ」
「ここで命を捨てるつもりか? お前のご主人様が一番大事、とかなんとか言っていた気がするが」
「黙れ!」
妖夢は剣で言葉を払った。
例え、ここで妖夢が逃げたとしても、こいつが本当に見逃してくれるかどうかは分からない。
そして、仮に無事逃げおおせたとしても、幽々子や藍が自分を許すとは思えない。
だけど、そんなくだらない理屈を抜きにして、絶対引けない理由があった。
「橙は……私を守ってくれた」
ぽた、と足元に雫が落ちた。
「情けない私を……慕ってくれた。私が困っているとき、橙は私を助けてくれた」
ぽた、ぽた、と雫は止まない。
「ふさいでいた私の心に、何度もぶつかってきてくれた! 最後は、逃げた私を、引っ張り上げてくれた! その私が!」
振りかぶった剣によって、
「その私が逃げられるもんか!」
迷いが断ち切られる。剣気に竹林がざわめく。
周囲の葉がぱぁん、と音を立てて破裂する。
妖怪の黒髪が、気風になびいている。
「お前を倒し、橙と二人で主人の元に帰る! それが、私が斬り開く未来だ!!」
妖夢の咆哮に、『黒服』も一足飛んで橙から離れ、刀を抜いた。
牙をむいた凄絶な、妖怪そのものの笑みを見せながら、
「いい覚悟だ! その目を待っていた! だが、威勢だけで私を斬れるか!? 半人の剣士よ!」
妖夢はその問いかけに、とっておきのスペルカードを取り出した。
「……ようかんが鍛えたこの楼観剣に、」
それを、拳の中で握りつぶす。
「斬れぬものなど、きっとない!」
光が炸裂した。
魂魄「幽明求聞持聡明の法」。
浮き従っていただけの半霊が、半人の妖夢と同じ姿形となる。
その手には白楼剣。
「参る!」
「来い! 魂魄!」
二人となった妖夢は、迷わず死地へと飛び込んだ。
◆◇◆
「でぃやああああ!!」
魂魄妖夢が、突進して切り上げてくる。
姿に重なる半霊が、半人の動きを正確に追って切り上げる。
その攻撃が終わる前に、半人が刀を振り下ろす。
『黒服』は反撃の隙を見つけることなく、後退した。
袈裟斬りと逆銅、逆銅と左切上、左切上と柄突き。
逆方向からの攻撃。それぞれが同時に襲ってくる。
――なるほど、手数は倍になっている。だが……
まったく同じ動きである分、予測はしやすい。
先の二人でかかってこられた方が厄介だった。
すでに『黒服』は、妖夢の攻撃の拍子を、つかんでいた。
真っ直ぐに楼観剣が下りてくる。
その先にくる動きを先回りする。
――切落しを右剣で払って半人の体勢を崩させ、次に来る半霊の切落しを一歩踏み込んでかわして、左の剣で……。
予想通りに攻めてくる相手に合わせて、妖怪は動こうとする。
その流れが急に変化した。
半霊は刀を切り落とさず、飛んでいた。
「なに!?」
半霊は、『黒服』の後頭部に狙いを定めている。
そして、前から来る半人が、気合と共に切り上げようとしている、
挟み撃ちだ。
「ぬん!」
『黒服』は両の小太刀を構え、高速で回転して、その場を離脱しようとする。
鋭い金属音とともに、火花が散った。
攻防一体の技だが、わずかに出し遅れた。
地面に降り立ちながら、『黒服』は振り向いた。
「半人半霊か。魂魄妖忌もそうだった。二つの体が、同時に別々の斬撃を繰り出すとは。面白い芸当だ」
「………………」
返事がこない。
姿二つの魂魄妖夢が、肩で息をしていた。
『黒服』は片頬を歪めた。
「お前にも厳しい技なようだな。大した精神力だ。私に傷を負わせるとは」
左手の甲が、斬られていた。
この程度の傷は、すぐに回復する。人と違い、急所を打たれなければ、妖怪は倒れることはない。
『黒服』は傷を一舐めしてから、長く伸びた黒髪を一度振るった。
「だが、一人だろうと二人だろうと関係はない」
「…………あるわよ」
妖夢が犬歯をむき出して、ニヤリとした。
「私はもう一人じゃない。だから闘えるんだ。行くぞ!」
二人の剣劇は続く。
◆◇◆
……。
……んー。
……どうなったんだろう、私死んじゃったのかな。
……でも、妖夢の声がする。
橙は薄く目を開けた。
ぼやけた視界で、妖夢と黒い妖怪が闘っている。
……あ、妖夢が一人で頑張ってる……助けなきゃ。
だけど、体が動かなかった。
麻痺したように、全身の感覚が無くなっている。
あるいは夢の中のようだ。
動きたいのに動けない。意識だけが残っている。
まだ戦いが続いているのに、もどかしい。
急激に眠気に沈められそうになるのに、嫌々する。
橙は目を開けようと懸命だった。
妖夢が二人いる。
飛んだり、しゃがんだりして、目まぐるしく動いている。
凄く速かった。でも、黒い方も凄く速い。
刀が細い光の糸となって、二人の間でくるくる回っている。
いつまでも止む様子が無い。
妖夢が斬られないか心配だった。
……あれ?
……でも、変だな。
……見間違いかな。
妖夢、とっても楽しそうだ。
◆◇◆
妖夢は無我夢中で、剣を振るっていた。
命綱が焦げる音が聞こえる。
死の一歩手前で、妖怪と踊っている。
時間が引き延ばされて、一瞬一瞬の剣がのろく見えた。
――変だな。
その思考が置き去りにされていく。
頭に上っていた怒りが、蒼く透き通っていく。
体を止めようと、厳しく律しようとするが、追い付かない。
それにつれて、相手の引き出しが増えていく。
まるで底を見せない。
剣を手にして、妖夢をさらなる高見へと連れていく。
妖夢は手を引かれながら、その階段を上っていく。
――凄いな。
いつしか、純粋な感動が、胸に湧き起こっていた。
剣には、これほど技があったのか。
一つ一つが全て新しい。そして、美しい。
発想の次元が並外れている。
そして、それに付いていっている自分が不思議だった。
つまずけば、そこに死が待っているはずなのに、怖くなかった。
思考の先を、剣が走っている。
だけど、それより先に走るものがある。
イメージだ。
イメージに合わせるのではなく、イメージを自然に体がなぞる。斬るより先に、斬れている。
一間離れて、互いに動きが止まった。
ひらひらと飛びつかれた蝶が、妖夢の楼観剣で足を休める。
その重みまで、感じることができた。
――あ、金魚すくい。
場違いな記憶が、頭を過ぎった。
閉じていた心が、広がっているのがわかる。
世界が妖夢に語りかけてくる。
妖夢はさらに心を開いた
竹が息をしている。
土中の虫が眠っている。
気絶していた橙が、目を覚ましている。
自分たちを丸く包む結界が意識できる。
その向こうの風景まで知覚できる。
あるいは天高くから、あるいは地の深くから。
妖夢の心に次々と情景が映される。
世界が斬り取られていく。
――わあ。
幻想郷の真ん中に、妖夢は立っていた。
生も死も、全ての理が、自分の中で息づいている。
竹林を吹く風の行方がわかった。その向かう先の匂いまで、ありありと思い浮かべられた。
時間の流れまで、肌で感じられる。
宇宙にまで、手が届きそうだ。
そして……。
目の前の敵、剣を持つ蜃気楼のような存在。
彼女だけが、影絵のように浮いている。
それは、互いに、同じ情景に生きているからだと、わかった。
同じ感動の中で、二人だけで立っているのだと。わかった。
これが、師の見ていた光景なんだと、わかった。
そして……妖夢は唐突に気がついた。
この世界で自分が手にしてるのは、
ただの剣だった。
◆◇◆
互いに剣が払われる。
斬撃が、二人の間の空間で衝突し、辺りに散らばる葉が一掃された。
ひらひらと舞っていた葉っぱは、一陣の風に乗り、列になって遠くへ運ばれていった。
妖夢は、それに目を向けず、じっと相手を見つめていた。
そして、『黒服』も、こちらを見つめている。
すでに、その目に驕りは無かった。
だが、真剣ながらも愉悦が混じっているのは、はじめから変わっていなかった。
そうだ。
冷たく武骨で卑劣な態度とは裏腹に、この妖怪は遊んでいた。
殺すつもりなら、最初から殺せたはずなのに、いつまでもとどめを刺さずに待っていた。
その意図も斬れている。
強さの追求か、師への感傷か。
理由だけはわからないが、彼女はこの光景を、自分に見せようとしてくれたのだ。
さらなる上の剣の境地にまで、引き上げてくれたのだ。
そして、今の自分はそれに答えられる。
視線を真っ直ぐに受け止めながら、妖夢はぽつりと言った。
「あらためて……名前を聞いておきたい」
「無用だと言ったはずだが」
相変わらずつれない返事だったけど、妖夢は気にしなかった。
迷いの無い、蒼天の微笑を浮かべた。
「私の名は魂魄妖夢。魂魄妖忌の一番弟子です」
「…………シーアンだ。剣は我流」
「覚えておきましょう」
ふっ、と同時に笑みがこぼれる。
また、風が吹いた。
互いに走る。
間を一気に詰める。
妖夢は手にした楼観剣を、無言の気合で投げ付けた。
『黒服』は、シーアンは瞠目したが、落ち着いてそれを跳ね上げた。
ついで、妖夢が白楼剣で切りかかる。
命知らずの捨て身の一撃だ。
足で半円を描きつつ、それも鮮やかに受け流す。
無防備になった妖夢に、膝蹴りが叩き込まれた。
その体が霧散する。正体は半霊だった。
では、半人は。
妖夢はすでに跳んでいた。
真上に跳ねた楼観剣を手にして、大きく振りかぶっている。
巨大な刀身が、蒼く輝く大波を作っている。
断迷剣「迷津慈航斬」。
自分の一生、悟ったもの、それらに対する思い。
全てを妖力に変えた、渾身の一撃。
イメージの中にあった光景が、実現されていく。
迷い無き斬線が、無防備となって見上げる、シーアンの体へと向かった。
一閃。
「はあああああああ!!」
妖気が全て叩き込まれる。
爆風と共に土砂が巻き上がった。
勢いのあまり、妖夢は前方に一回転した。
降り立ったとき、地面は真っ二つに裂かれていた。
その線上にあった石は、ドロドロに溶けている。
しかし、土煙の中に、妖怪の姿はない。
また変わり身か。
いや、斬った手応えはあった。
今の自分なら剣が届く。どこに消えようと見つけられる。
だが、妖夢の足は動こうとしなかった。
他でもない、斬った感触が、妖夢の猛っていた心を醒ました。
潮が引いていく。
離れていた音が戻ってくる。
世界がいつもの姿を取り戻していく。
刀を垂らしたまま、しばし茫然として、妖夢はたたずんでいた。
…………?
「妖夢ー!」
倒れていた橙が、走ってきた。
飛びついて、抱きしめてくる。
「妖夢! 大丈夫? 怪我してない?」
「私は大丈夫。橙は?」
「平気。どこも痛くない。さっきは、すごく眠くて、動けなかったけど」
「そっか……」
「あいつはどこ行ったの? 紫様や藍様に知らせないと!」
「いや、いらないよ」
「でも……あれ? もしかして、妖夢が倒したの?」
「……うん」
「すごい! さすが妖夢!」
「………………」
「妖夢?」
妖夢は返事をせずに、楼観剣を見つめていた。
夢の中にいたようだ。だけど、あれは現実の戦いだった。
剣先が血で濡れている。
妖夢は手ぬぐいを取り出して、それをぬぐった。
――斬ればわかる……か。
楼観剣は沈黙したままだ。
きん、と甲高い鍔鳴りの音とともに、妖夢は刀を納めた。
そこが限界だった。
妖夢はふらふらと草むらに向かい、そこでばたんと倒れた。
「よ、妖夢!?」
「ごめん橙。ちょっと疲れた。ここで休むわ」
「ええ!?」
横になると、季節外れのバッタと目が合った。
鳶の声も聞こえてくる。
結界は解かれているようだ。
「服が汚れちゃうよ、いいの?」
「もう汚れてるし。そういう橙も泥だらけよ」
仰向けになって、妖夢は両手両足を伸ばした。首の後ろがくすぐったかった。
「あー、いい気持ち。橙もやってみたら」
「なんか、妖夢変だよ。妖夢じゃないみたい」
「ふふっ、どうせ私は変だもん。来ない?」
妖夢が笑って、手を差し出す。
橙はそれを、軽く握った。
ぐいっと引っ張られ、橙は投げ飛ばされた。
「うわわわわー!」
「あはは。ひっかかった」
「むむー、やったな妖夢ー!」
橙が怒りながらも嬉しそうに飛びかかってくる。
二人でごろごろと転がる。
そんな遊びを二人がしたのも、今が初めてだった。
しばらくそうやって笑い合い、やがて並んで空を見上げる。
「妖夢」
「ん?」
「空って、広いねー」
「うん」
寝転んで見上げると、本当にそう思う。
視界いっぱいの紺碧の空に、お菓子のような白雲が浮かんでいる。
…………本当に、空は広いなぁ。
師から極意を教わったとき、はじめに思ったのは、あの雲を斬ってみたい、だった。
綺麗に動物の形に斬って、幽々子に見せてみたいと思ったのだ。
それくらい動機が単純で、剣が本当に楽しかった。
そう。剣は楽しかったのだ。
我を忘れて、頭をからっぽにして、剣に没頭した結果。
思い出したのは、そんな小さい頃の感情だった。
剣は妖夢の心にあった。自由に形を変えて、育っていった。
そして、回りまわって、ここに戻ってきた。
今はもう遠くに行ってしまったが、あの感覚は忘れられそうにない。
剣を通して、全て斬ることで見極める。
まだ指先が届いた程度だけど、もっと強くなれる、そんな予感がした。
…………よし。
「じゃあ、帰ろうか、橙」
「もう帰るの? もう少し遊ぼうよ」
「それもいいけど、幽々子様に報告しなきゃ」
「え……」
その意味に気がついて、橙の声が弾んだ。
「じゃあ、わかったんだね妖夢! ようかんが何か!」
「うん」
ようかん。
それに対する答えは見つけた。
幽々子と真剣に話し合わなくてはいけない。
自分の答えを、幽々子は受け入れてくれるだろうか。
妖夢は東を向いた。
雲の中を太陽が泳いでいる。
八雲邸はここからは見えない。
でも、そこに、自分の未来が待っている。
「帰ろう。主人のもとへ」
「うん! ……あ、妖夢」
「何? 橙」
「今の妖夢の横顔。ちょっと、藍様に似てたよ」
「本当? ……そっか」
そんなものなのかな、と妖夢は笑った。
◆◇◆
幻想郷の艮の位置に、古いお屋敷が建っている。
外界の邪気をその身で濾しつつ、呑気な下界を見下ろすように。
妖夢と橙は、庭に降り立った。
八雲邸の縁側では、出発時と変わらぬ様子で、幽々子が座っていた。
妖夢が来るのがわかっていたのかもしれない。
紫はまだ寝ているのか、姿がなかった。
庭には藍が腕を組んで立っている。
妖夢は軽く頭を下げた。声をかけてくれるかと思ったが、藍は薄く笑うだけで、黙っていた。
横にいた橙が、少し離れた位置に移動している。主の藍に飛びつこうとせず、真剣な顔で、妖夢と幽々子を見比べている。
二人とも、再会の喜びを後にして、自分を応援してくれているのだとわかった。
妖夢は勇気をだして、幽々子と向き合った。
巨大なようかんが目の前にそびえ立っている。あまりに大きすぎて、煮ても焼いても食べられない。
誰にも理解できない、滑稽な代物。
そのようかんは、口を開いた。
「妖夢じゃないの。どうしたの? 忘れもの?」
「幽々子様。私は修行の旅をして戻ってきたのですよ」
「そう。もう二日たったのね」
本気とも冗談ともとれない、浮世離れした声だった。
「顔も服も泥だらけね、妖夢。泥んこ遊びでもしてたの?」
「まあ、そんなところです」
「それで、ようかんはどうなったのかしら」
幽々子が笑っている。
彼女はいつも笑っている。
その笑顔を絶やすことの無い、まさにようかんの権化だった。
「妖夢?」
「はい、幽々子様、私はようかんが何か、この旅でわかりました。そして、それが私に足りないことも。
ですが……、もう一つ悟ったことがあります」
「なにかしら?」
「幽々子様、貴方のようかんは大きすぎますよ」
妖夢は、きっぱりと言い放った。
「幽々子様はふざけすぎです。頭も柔らかすぎです。
何も考えてないようで、何か深い考えがあって、やっぱり考えてなかったりして。
妙な悪戯で人を悩ましたりして。そのくせ大事なことは全て遠まわしに言って。
何がようかんですか」
いつしか、愚痴になっていた。
幽々子の表情は変わらない。
「そんなに性格がぐにゃぐにゃしてると、幻想郷中から敬遠されてしまいますよ。
誰からも敬遠されて、貴方のそばには、同じくらい巨大な紫色のようかんしかいなくなるでしょう。
そして、二人で従者を悩ますんだから救えません。はっきり言って、迷惑です」
黙っていた藍が吹き出した。
「ですから、私は貴方のために、別の道を歩もうと思います。ようかん以外の道を」
「私のために?」
「ええ。貴方のために」
「それは何なの?」
「それは包丁です。私は包丁になります」
それが、妖夢が幽々子のために用意した答えだった。
「世界が貴方を拒むことのないように、私が切って差し上げます。包丁は、ようかんの本当の姿を知っているからこそ、その刃で理解することができる。そして、包丁は難物、すなわちようかんを切ることによって鍛えられ、役目をまっとうするのです。私は貴方にとっての包丁としてお仕えする。大きすぎるようかんには包丁が必要であり、包丁には大きすぎるようかんが必要なのです。だから、私は貴方の包丁になります」
すぅっと息を吸って、妖夢は言葉を結んだ。
「これが私の答えです」
妖夢は待った。
藍も橙も、幽々子の反応を見ている。
幽々子はう~ん、と頬を指で押さえながら、感想を述べた。
「つまり、妖夢は私を切っちゃうの? ひどいわねぇ」
だが、その答えは予想していた。
妖夢はうろたえずに、してやったりと笑って、決め台詞を言った。
「幽々子様。貴方はすでに切られているのです」
「ま」
思わぬ反撃だったのだろう。幽々子の表情が変化した。
口を扇で隠して、じろりと妖夢をにらむ。
「嘘はだめよ妖夢。まだ貴方ごときに見極められるものではないわ。訂正なさい」
「はい、そのとおりです。失礼しました。でも、いつかは幽々子様を解き明かして見せますよ。
そうなったら、もう私もからかわれることは無いでしょう。残念でしたね」
「あらあら。じゃあ今のうちに楽しんでおかなきゃね」
「……………………」
今度は妖夢が反撃を受けた。
思わずうめきそうになったが、妖夢は我慢した。
まだ、大事な話が残っているのだ。
「幽々子様。また貴方の従者を務める前に、もう一つお許し願いたいことがあります」
「あらあら、今度は何かしら。包丁の次はまな板?」
「いいえ。私の剣についてです」
妖夢は一呼吸置いて、腰から鞘を外した。
楼観剣を、幽々子に見えるようにかざす。
「私は剣を捨てられません。私はようかんによって、自分の剣を一歩進めました。
剣は楽しいです。それは、貴方が私に薦めた道である、ようかんと矛盾しません。
ようかんとこの剣が、私を従者として更なる高みへと導いてくれます。
だから、私は剣を持ちながらも……いえ、剣を持つからこそ、包丁として貴方の従者でいられるのです」
妖夢は再び、鞘を腰に戻した。
「もし気に入らなければ、どうぞ、私をお払い箱にしてくださって結構です。
貴方は剣に生きる私がお嫌いかもしれませんが、でも私は、剣で貴方に仕えたいのです。
ですから……どうか」
それ以上言葉は続かなかった。
だけど、どうだ。
これが自分の精一杯の答えだ。
どんな言葉が返ってきても、どんな結果になっても、悔いはない。
橙が首をうんうんと振っている。藍は黙って幽々子の方を見ている。
幽々子は、また考える素振りをみせていた。
妖夢はじっと待った。
「んー、でも今はお煎餅の方が食べたいわ」
ダメだった。
敵は一枚も二枚も上手だった。
いつもの妖夢をからかう口調で、幽々子はのほほんとしている。
そして、妖夢の感情は限界だった。
「ゆ……」
「ゆ?」
幽々子が首をかしげている。
本気で何も考えてない顔で。
「幽々子様の意地悪!!」
爆発した。
妖夢は泣いた。本気で涙した。
ようかんの極意を得ようと、何とか幽々子に認めてもらおうと、こんなに一生懸命だったのに、彼女にはその程度の話でしかないのか。
橙が駆け寄ろうとするが、藍が目で制し、首を振って止めた。
「私がどれだけ悲しかったかわかりますか!必死だったかわかりますか!
貴方が出した難問のせいで、私はぐっちゃぐちゃのめちゃめちゃでした!
今日だけじゃなく、いつも、いっつもです!」
言葉がせきを切ったようにあふれた。
三日間の、それ以前からの、疑問と鬱憤と恨みが、一気に噴き出す。
「もう、本当のことをおっしゃってください!
貴方は私にどうしてほしいのですか。私はどうすればいいのですか。
剣を捨てろというのですか! それとも、もう私はいらないというのですか!
おっしゃってください! でなければ、貴方が信じられません!」
妖夢は両膝をついた。
顔は伏せずに、幽々子へと向けたままだ。
「お願いします。貴方の従者でいたいんです。私頑張ったんですよ、幽々子さまぁ……」
顔を手で覆わなくても、涙で幽々子の顔が見えない。
ひどい泣きべそ顔が、皆に見られているだろう。
こんなにも心が乱れるのは、いつも幽々子のせいだった。
「泣かないでちょうだい、妖夢」
澄んだ声が、聞こえた。
「泣きたくて……泣いてるんじゃありません。教えてください、幽々子様」
また、声が聞こえた。
「妖夢。わからないの妖夢」
「わかりませんよう」
「でも、私を斬れたんじゃなかったの?」
「ひっく、全然歯が立ちません、何もかもさっぱりです!」
「修業の旅、どうだった?」
「ですから、ぐっちゃぐちゃのめちゃめちゃでしたよ、もう!」
「でも、楽しかったでしょ?」
「楽しくなんて……!」
はっ、とそこで妖夢は、やっと気がついた。
目を開いて、幽々子を見る。
「そう……楽しくなかったの。じゃあまた失敗して、傷つけちゃったのね、私は」
あの幽々子が、いつも笑っている幽々子が、落ち込んだ表情を浮かべながら、悲しそうに言っていた。
あてが外れた子供のように、しょんぼりした顔だった。
「妖夢が笑ってくれると思ったのに」
「!」
その一言で、妖夢の頭に残っていた雲が、一瞬で消し飛ばされた。
ついに、包丁はようかんの深意を斬れたのだ。
――ああ……。ああそうか。そうだったんだ。
本当に、自分は難しく考えすぎていたのだ。
わが主人は、自分に剣を捨てることを命じたのではない。
ようかんになれ、というのは表向きの口実でしかなかったのだ。
この方の願いは、もっと素朴で単純なもので……。
今までのことが思い出された。
紅魔館でお手伝いしたこと、中有の道で金魚すくいしたこと、守矢神社で神と対峙したこと、永遠亭で枕投げしたこと、
……そして、
「いいえ幽々子様。悲しまないでください」
「どうして?」
「だって……」
妖夢は泣き顔を、涙の笑顔に変えた。
「おかげで、楽しい旅でした。本当に楽しかったです」
「ああ……よかった。ようやく、その一言が聞けたわね」
「幽々子様……」
幽々子はまた、笑っていた。
しかし、その目は深い色を湛えて、ひたと妖夢を見据えていた。
「妖夢は早とちりしちゃったのね。でも、勘違いしないでほしいわ。
確かに、貴方は頼りなかったし、未熟なのは不安だったし、頭が固くて呆れることも少なくない。
でもね。貴方が未熟だろうと慌てんぼさんだろうと、ようかんだろうとお煎餅だろうと包丁だろうと、私は手放す気は無いわ。
ずっと貴方に従者でいてほしいと、心から思ってるのよ」
「……………………」
妖夢の心に空いていた穴に、幽々子の本心が慈愛となって、こんこんと染み入る。
「だから、好きに成長しなさい。難しく考えずに、もっと肩の力を抜いて、人生を好きに楽しんでみなさい。
剣に生きるのもよし。誰かと遊ぶのもよし。剣があろうと無かろうと、妖夢は妖夢。私にはわかる。貴方を見つけられる。
そんなに心配なら、貴方が迷うたびに、私が目を覚まさせてあげましょう。他ならぬ貴方が不安になるたびに……」
幽々子は扇を閉じて、その腕を開いた。
「抱きしめて、言ってあげましょう。……間違いなく、貴方は私の従者、魂魄妖夢だってね」
話の途中で、妖夢は我慢できず走り込んだ。
ようかんが妖夢を、優しく柔らかく包んでいく。
「これからもお願いね、包丁さん」
「…………」
妖夢の返事は、涙で湿っていく幽々子の懐で、もごもごと砕けて溶けた。
――余韻の巻――
「あらあら、私も汚れちゃったわね」
そこで妖夢は、幽々子の胸から顔を上げた。
その顔も服も、泥だらけだった。
「……申し訳ありません、幽々子様」
「どうして謝るの妖夢。楽しいわよ」
「ほんとですかぁ?」
「ええ、本当よ」
互いに泥だらけになった主従は、笑い合った。
そこに、藍が歩み寄って声をかけた。
「妖夢。お風呂が沸いているので、入るといい。その間、昼食は私が用意しよう」
「あら、じゃあ私も入るわ」
「ええ、どうぞ。幽々子様も」
「そうだ。ついでに、紫の寝顔も泥んこにしちゃおうかしら」
「本当ですか。ぜひお願いします」
藍は満面の笑みを浮かべる。
こくこくと頷く仕草にも、異様に力が入っていた。
「たまには日が高いうちから、皆でのんびり入るのもいいものよね」
幽々子はふわふわと浮きながら、わざわざ泥を手にして、紫の寝室へと向かった。
「あ! 橙がいない!」
藍が気づいて声を上げた。
「お風呂と聞いて逃げ出したのね。仕方のない子だ」
「…………藍さん」
「ん、ああ」
藍は近寄ってきていた妖夢に、ねぎらいの言葉をかけた。
「お疲れ様、妖夢」
「藍さん」
「見事だった。主を見極める包丁になりたい、か。いい言葉だ。お互い、厄介なようかんを主に持つもの同士、精進しなくてはね」
「………………」
妖夢は無言で、藍を睨んだままだ。
「どうしたの、妖夢」
「………………」
「あ、そうだった。出発前は本当に悪いことをしたわ。きっと紫様の悪影響が……と主のせいにするのは、らしくないな。ごめん」
「………………」
「あれ、違うか。いや、本当はわかってるんだ。謝らなきゃいけないことが別にあるとは……ごめんなさい」
「………………」
「か、顔が怖いよ、妖夢。あわわ怒ってるのか」
「………………」
「そ、そうだ! また何か思うことがあったら、気がねなく訪ねてくるといいよ」
「………………」
「あーそのー……妖夢が望むなら、対練でも鬼ごっこでも……」
「じゃあ、両方で」
「むむむそうか、りょうほ……えっ、両方?」
「はい、両方がいいです」
泳がせていた目を、ぱちくりさせる狐に向かって、妖夢は少し照れながら、上目使いをした。
「その時は橙も一緒で。よろしくお願いしますよ、八雲藍さん?」
花が開いたその笑みに、九尾の狐は瞠目する。
やがて、まいった、と苦笑した。
「旅に出る前とは別人のようね。私の心配はいらないようだ」
「そんな……」
「いや、本当だ。いずれお前が、妖忌の域にまでたどりつけると、今なら賭けてもいいよ」
「……ありがとうございます」
「いい修行になって何よりだわ。さあ、主の背中を流しに行ってあげなさい。あ、主に流してもらう方がいいかな」
「ふふふ、それも両方がいいかも」
「はは、そうね。あ、それと、橙の風呂を頼んでもいいかな。今とっ捕まえてくるから」
「わかりました……でも、藍さんは」
「心配ないよ。気にせず風呂に入ってらっしゃい」
「……はい。失礼します。本当にありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、妖夢は主の後を追って走って行った。
その元気な姿を見送って、
「……さて」
藍は遠くの物置に視線をうつした。
そこから、二本の尻尾がひょこひょこと見えている。
――本当に、隠れんぼが下手ね、あの子は
ため息をついてから、藍は縮地で、一瞬のうちに、その場に走りこんだ。
二本の尻尾をつかみ上げる。
「こら橙! お風呂から逃げようとしたな!」
「にゃにゃ! ち、違います!」
「何が違うの! 主を誤魔化そうとするなんて悪い式! 橙はそんな子になったの!」
「違います! そんなんじゃありません! あっ……」
橙の手からゴトンと何かが落ちた。
それは……
「……へ? 薬箱?」
地面に転がっているのは、この八雲邸に常備している薬箱だった。
「どうしてまた。橙は怪我をしたの?」
「藍様にと思って……」
「私に?」
「はい」
「……でも、私はどこも怪我してないよ」
「嘘です。藍様は右腕を怪我しています。私にはわかります」
反対に、橙が叱るような目つきになる。
急所をつかれて、藍の口が半開きになった。
「どこで怪我したんですか。誤魔化してるのは藍様じゃないですか。藍様は悪い主です」
「橙……」
地面に落ちた薬箱を両手で拾い、式は蓋を開いた。
「私は藍様の式ですよ。すぐに気がつきました。早く傷を見せてください」
泥だらけの橙の顔で、強い意思を秘めた瞳が光っている。
仲間が傷つくのを許さない。修業の旅で、式が得た、新たな感情だった。
それに、主の体が小刻みに震えだして、
「あははははは!」
ついにこらえきれずに、藍は笑った。
頭に手をやり、大声で。
家の中まで響くほど、実に愉しげに。
「ら、藍様! 何で笑ってるんですか! 私、怒ってるんですよ!」
「ははは! いやごめん! 確かに私は悪い主だ、くくっ。そして橙。あなたは本当に私の式なのね。流石だ、驚いたよ!」
「そんなことより説明してください! いつどこで怪我したんですか!」
「ははは、ん。これはもう大丈夫。えーと、ちょっと転んで床でこすっただけさ」
「こ、転んだ!?」
「……うんまあ、転んだの」
「藍様でも、転んで怪我するなんてことあるんですか!?」
「……そう! 私もまだまだ未熟ってことよ!」
信じられない、といった顔つきで見上げてくる式に、藍は恥じる風もなく、豪快に宣言して、胸を張った。
そしてまた、はっはっはと高らかに笑い出した。
橙はわけのわからない様子で、首をかしげる。
「藍様、嬉しそうですね」
「うん、嬉しいよ」
「未熟なのが、嬉しいんですか?」
「そうだよ。それは、まだ成長できるってことだから。わかるかな?」
藍の瞳の色が、深くなっていく。
「私だけじゃない。橙も妖夢もだ。私達は未熟だ。だからこそ、まだ成長できる。
それが、私たちに許されている。それは、とても大切で、素敵な特権なの」
橙は主の教えを、心に刻んでいる。
「特にお前達二人は凄いよ。帰ってきて、二人とも凄く成長してることに気がついた。
私から見ても眩しいくらい。いいわね、若いって」
「藍様……」
しかし、橙の不安な表情は解けなかった。
「じゃあ、傷はもう大丈夫なんですね」
「ああ。もう手当もちゃんとしてある」
「藍様は……怪我してるからお風呂に入らないわけじゃないんですね?」
「ああ、そっか。そのことを心配してくれたのか」
優しい子だ。と、藍は橙の頭を撫でてやった。
「ありがとう橙。見なさい。私はぴんぴんしてるよ。こんな傷どうってことない。お昼御飯の支度があるだけだよ。
だから、妖夢と一緒にお風呂に入っておいで」
「藍様!」
ようやく、いつものように、橙が飛びつく。
おっと、と藍は優しく抱きかかえた。
三日ぶりに、日に焼けた髪の毛に頬をよせる。
よく頑張ったね、誇らしかったよ、と心の中で褒める。
口に出せば、気づかれてしまうかもしれない。
本当のことを話せば、橙は傷つき、泣いてしまうだろう。
でも、いつかは話してあげてもいいかもしれない。
自分を脅かす存在になった、その時には。
優しく強い主は、成長した最愛の式に、体と尻尾を、きつく抱きしめられた。
と、そこで藍は違和感を感じた。
ん?
何かおかしいぞ。確か橙は……。
はっ!
藍が気が付くと同時に、橙は飛びのいた。
その顔は、帰ってきたのと同じく泥んこである。
そして、今その式に抱きつかれた主は……。
藍が頬を触ると、そこにはべったりと土の感触があった。
尻尾には泥の手形がついている。
「これで、藍様もお風呂に入らなきゃダメですよね」
「……………………」
橙がニィッと笑って、駆け出した。
藍はしばし呆然としていたが、
「…………こらあ! 橙!」
「へへーん」
橙は屋根へと飛び移り、二跳びで屋敷の反対側へと回った。
その後を、藍も同じ動きで追っかける。
「やっぱり橙は悪い式だ! 待ちなさい!」
「こっちまでお~いで!」
「主に悪戯するなんて、もう怒ったぞ~! 久しぶりに、お仕置きが必要ね!」
「だって嫌だったんですもーん! 仲間外れは駄目だって、藍様に教わりましたよ!
だから、藍様もいなきゃ入りません! みんなで一緒に、お風呂に入りましょうよ!」
「待ちなさい、橙ー!」
尻尾が尻尾を追いかける。
二人にとっては恒例の、八雲式鬼ごっこが始まった。
でも、未熟な橙は気が付けない。
それは二人にとって、本日二度目の鬼ごっこだったということに。
(おしまい)
――急の巻――
まだ夜が明けない時刻に、妖夢は薄くまぶたを開いた。
顔を動かさずに、隣の橙の寝息を確認する。まだ目は覚ましてないようだ。
――よし。
妖夢は音をたてないよう、慎重に体を起こした。
永遠亭の大部屋。
兎達が好きな寝相で、乱雑に眠っている。
あるものは布団をひっくり返し、あるものは何故か敷布団の下にいたり。
行儀よく寝ている鈴仙の体には、隣の兎の足が乗っていた。
昨晩の枕投げを思い出して、妖夢の口元に笑みが浮かぶ。
しかし、一抹の寂しさが残った。
すでに起きていた八意永琳に、妖夢は挨拶をした。
「おはようございます」
「あらおはよう。本当に早いわね」
永琳は軽くうなずくようにして、妖夢の姿を頭から下まで確認した。
妖夢はすでに、元の服に着替えていた。刀も二本とも腰にさしている。
しかし、一つだけ、昨日ここに来た時とは足りないものがあった。
永琳は全て察したようだった。
「あの子は置いてくの?」
「はい」
「そう。寂しがると思うわよ」
「……一人で考えたくなったんです」
まだ幸せな夢を見ているようだった、橙の寝顔が思い出される。
彼女は自分をどう思うだろうか。幻滅されても無理はない。
だが、考えても仕方が無かった。
もう二度と会うこともないかもしれないのだから。
「あまり難しく考えてはだめよ」
「はい、お世話になりました」
妖夢は丁寧にお辞儀して、お礼の言葉を述べた。
じゃあね、と永琳はそれだけ言って、奥へと戻っていった。
妖夢はその背を見送ってから、永遠亭の玄関へと向かった。
そして、ようかんから逃げた。
妖夢が出て行ってからすぐに、因幡てゐが見回りから帰ってきた。
永遠亭の奥にある、永琳の研究室へと入ってくる。
「ただいま師匠」
「おかえり。今日も早起きね、てゐ」
「ふふん。早寝早起きは健康の秘訣。朝の散歩は最高の目覚まし。新鮮な空気で血液サラサラ。
この素晴らしさを味わえず、いまだ寝ている不健康な悪党共は、今日もストレスを揉みほぐす極悪な罠に引っかかるでしょう。
ナンマンダブ、ナンマンダブ」
「最近は妹紅よりも、ウドンゲの方が罠にかかっている気がするわね」
「悔しかったらしくて、この前徹夜して私を見張っていたわ。次の日、師匠に怒られてた」
「そういうことだったのね。寝ぼけて私に注射しようとするんだから驚いたわ。あんまりからかうと後が怖いわよ」
「怖い鈴仙なんて鈴仙じゃないよ」
なるほど、それは一理あるな、と永琳は笑った。
てゐも好意で言っているのだ。鈴仙本人が喜ぶかどうかは別として。
それはともかく、実験に戻りながら、いつものように永琳は確認した。
「それで、本日の竹林の状況は?」
「異常無し。……不自然なくらいに異常無し」
てゐの台詞に、言外に含んだ何かを感じて、永琳の試験管を揺らす手が止まった。
「……つまり、不自然だったの?」
「うまくいえないけど……。何か変だった。いつもと同じはずなのに、不自然っていうのが、一番しっくりくる」
この兎も勘が鋭い。
奥歯に物が挟まったような説明は、永琳の好奇心を刺激するのに十分だった。
そして……警戒心も。
「何かあったのかしらね」
「というか、何かいたかもしれんない。妖怪とか」
「………………」
「でも、普通の妖怪ならわかるんだけど」
「じゃあ、普通の妖怪じゃなかったのかもね」
「えっ。やだな怖い」
てゐが怯えた顔つきになる。
しかし、永琳は脅かすつもりで言っているわけではなかった。
兎と入れ違いに、館を出て行った剣士がいる。
「あの子、大丈夫かしら」
永琳は少し考えてから、当初の予定を変更して、立ち上がった。
◆◇◆
迷いの竹林を、妖夢は独りで歩いていた。
細い道は、竹の育つ匂いで満ちている。
まだ薄暗い空の下、背の高い竹林に光が遮られて、足元の土は黒かった。
この季節に眠りそこねた音虫が、残り少ない灯火で、小さく鳴くのが聞こえる。
妖夢はそこで、足を止めた。
竹を見上げる。
見上げると首が痛くなるほど、立派に成長した竹だった。
昔、誰かに竹に似ていると言われたことがあった。
その時は、素直に嬉しかった。竹を割ったような性格。破竹の勢い。どれも好きな言葉だ。
幼い頃の自分も、竹刀を振りながら、竹のように真っすぐ成長したいと思った。
だけど……。
妖夢は自分の腰に視線を戻した。
鞘がささっている。もはや、これが無ければ具合悪くなってしまうほど、身になじんだ重さ。
剣こそが、自分の取り柄。剣があるからこそ自分は従者としていられる。
八坂神に言い返したかった。私は剣そのものなのだと。
だけど……。
昨晩は眠らずに、ずっと考えていた。
二つの剣が、主人に隠されたことをだ。
幽々子がどうしてあんなことをしたのか。
橙の言うとおり、自分が何より大切にしているものだと、知っていたはずなのに。
だけど……その答えはわかりきっていた。
楼観剣の鞘を外す。その手が、わずかに震えていた。
認めたくなかった。でも、認めるしかなかった。
幽々子も妖夢に、剣を捨てろと諭したのだ。
背中の剣を抜いた。
人の迷いを断つ白楼剣。
目の前の空気を切り裂く。
剣を振りながら、妖夢は思考する。
確かに、幽々子に妖夢の剣が必要なのかどうかは疑わしい。
彼女はただの亡霊ではない。懐の広さは妖夢の比ではない。
戦闘ですら、実際のところ妖夢より強いかもしれない。剣術指南役というのも、半ば形骸化している。
護衛なんていらないんじゃないか。そうした疑問を持ったことは何度もあった。
白楼剣を手に、妖夢は闇の中を舞う。
剣風が竹の葉を散らす。
ならば心を鍛えるため。
剣を振るうことによって、自分の心を鍛えよう。
そうすることで、幽々子を守るのにふさわしい存在になろう。妖夢はそう考えてきた。
しかし、その剣は外ならぬ主人によって否定されてしまった。
そしてなにより……。
妖夢は剣を振る手を止めた。
「楽しかったな……」
昨晩の枕投げのことである。妖夢にとって、はじめての経験だった。
いや、枕投げだけではない。
その前の金魚すくいも、サンドイッチ作りも、夜に布団にくるまって、三人で内緒話をするのも。どれも、はじめての経験。
そんな中で、剣にかける一途な思いが、遠くなっていた。
剣を忘れるくらい楽しかった。
平和な、光景だった。
その光景と、妖夢は対峙する。
剣を携えた妖夢の向こう側で、橙が微笑んでいる。
羨ましかった。誰とも自由に打ち解けて遊ぶ、あの猫が。
毎日が楽しくてしょうがない。全身で、そう歌っているように見えた。
その側には幽々子がいる。そして、他にもいっぱい。
ようかんを持つものたちが、幸せそうに笑っていた。
平和な遊びの輪へと、妖夢に手を差し伸べている。
独りで剣を振る、妖夢へと。
じゃあ、剣を捨ててそっち側に行けば、私に何が残る?
剣しかなかった私が、剣を持たない私となったら、私に何の意味がある?
滑稽なほど、何もない自分がいる。
「貴方のためと思って、努力してきたのに……」
幽々子の望むままに、剣を捨ててしまえば、
「貴方が私を従者にする意味なんて、無くなっちゃうじゃないですか!」
主人の影に、妖夢は声を叩きつけた。
だけど、想像の幽々子は笑うだけだった。
いつもそうだ。彼女には、自分が剣にかける思いが、まるで伝わらない。
そんな時、必ずといっていいほど、一人の人物が思い浮かぶ。
――お師匠様は、どう考えたんだろう。
三百年幽々子に仕えて、姿を消した師匠、祖父である魂魄妖忌。
師もひょっとして、自分と同じ疑問を抱いたのだろうか。
この平和な世界に、自分なんていらないと。ようかんと、決別したのだろうか。
ならば、自分もいよいよ、幽々子の元を去るべきなのだろうか。
だけど、幽々子の元を去るのも、やはり恐怖だった。
彼女は今では、大切な家族だ。幽々子がそう思っているかどうかは別として。
剣と幽々子。どちらを取るべきか。
白楼剣は迷いを断ち切るが、それも使い手の技量しだいだった。
妖夢の悩みは深く、剣は届かなかった。
元々、考えるのは苦手なのだ。
剣で斬ることで、いつも補ってきた。
だけど、今では、自分の剣すら、妖夢は分からずにいる。
師と話したかった。師に聞いてもらいたかった。
だけど、自分は孤独に剣を振るのみ。
いくら斬ろうと、楼観剣も白楼剣も、何も答えてくれない。
――このまま、独りで消えた方がいいのかな
思い悩んでいた妖夢は、いつしか開けた場所にたどりついていた。
見覚えのある場所ではない。
どこまで来たのだろうか。
迷いの竹林であることには、間違いないのだが。
少し、違和感があった。
そして、妖夢の前に、ついにそれが、姿を見せた。
鞘越しに、痺れが走った。
◆◇◆
妖夢の前に現れたのは、女人の姿をした黒ずくめの妖怪だった。
青黒い髪の毛が、長く背中まで伸びている。
着ている服は、鴉色の和服に、赤い刺繍をしたものだった。
顔にかかった前髪の向こうに、美しい顔立ちと鋭い目つきが隠れていた。
妖夢の行く先を通せん坊するように、道の真ん中に立っている。
表情無しに悠然と立つ彼女は、日の差してきた竹林と混ざり合って、静謐ながらいささか不気味な風景画を作り出していた。
その両腰に、鞘がささっているのに気が付き、妖夢はほんのわずかに、左足を引いた。
「何用か」
そう問いかける自分の声が乱れていないことを、妖夢は確認した。
妖怪は、返事をせずに立ったままだ。
妖夢は再度、硬い声で問いかけた。
「私は西行寺家剣術指南役、魂魄妖夢。無用ならば、道を開けられい」
妖怪はうなずいた。
そして、道を開けずに、両鞘から逆手に剣を抜いた。
半回転して順手に持ち変える。
小太刀が二つ。ここで一戦やる気なようだ。
剣士としての本能から、妖夢もそれに呼応するように抜刀した。
妖夢の得物は楼観剣。
背格好に見合わぬ太刀は、かつて師から受け継いだ業物である。
構えは陽の構え。すなわち、妖夢がもっとも得意とする脇構えだ。
刀身を隠すように体に寄せた、相手の攻めに合わせて、即座に迎え撃てる構え。
下げた刀を持つ手に力みは無く、長期の対峙にも耐えうる。
対する妖怪の構えは、無形だった。
だらりと両手を下げ、肩幅に足を開いた状態でいる。
意図も流派もわからない。
例え姿形は人間の女でも、相手は妖怪。どれほどの強さと禍々しさを持つ存在かは、見た目ではわからない。
妖夢は仕掛けてみた。
「はあっ!!」
全身から剣気をほとばしらせる。
裂帛の気合いを受けて、相手の黒髪がわずかに揺れる。
しかし、隙はできない。
並の魑魅魍魎なら退散するほどの威力だが、風を感じた柳のように受け流されてしまった。
幻想郷では見たことのない妖怪だったが、やはり、かなりの力を持っていそうだ。
対峙する間も、己の妖気を、無駄に垂れ流していないところから、分かる。
――やりにくいな
一瞬、脳裏を流れた感想を、妖夢は無視した。
長年の修行の甲斐あって、この状態なら一時であろうと我慢できる。
その前に、相手は仕掛けてくるだろうか。
と、黒い妖怪が、無造作に足を出した。
そのまま、すたすたと間を詰めてくる。
妖夢は唖然としたが、すぐに気を引き締めなおした。
間合いに入れば即座に斬る、と自らに言い聞かす。
妖怪は自然な動作で足を運び、妖夢の間合いに入る直前で。
たんっ、と地を蹴った。
目の前に足。
「!?」
妖夢は反射的に身をよじった。
袴が頬を撫でるのを感じながら、空中の相手を斬ろうとする。
が、それは竹トンボのように回転した敵の両刃を、迎え打つことになった。
ぎん、と散った火花を後に、地を転がってから、妖夢は跳ね起きた。
刀を正眼に構える。
不自然な態勢で打ち合ったため、手が少し痺れた。
刀の向こうに立つ妖怪は、背を向けて、先程と同じく立ったたままだ。
あれほどの勢いで水平に跳んできたにも関わらず、息も切らさず落ち着いている。
後ろを向いたままで、振り向こうともしない。
――私が……仕掛けないと思っているのか?
実際、妖夢はその背に仕掛けられなかった。
正々堂々を旨とする、剣士としての誇りだけではない。
腕はまだ痺れが取れておらず、絶好の斬る隙であるはずの相手の背中は、異様な雰囲気を放っている。
何か策があるのかもしれない。
指をくわえて待つのは性に合わないが、妖夢はあくまで慎重に闘うつもりだった。
しかし、『黒服』の動きは、またしても予想外のものだった。
なんと背を向けたまま、こちらへと歩いてくるのだ。
妖夢は驚いたが、反射的に、その背中に斬りつける。
『黒服』は振り向きもせずに、両の小太刀でそれを払った。
そのまま、逆手で妖夢を突いてくる。
妖夢は身をよじってかわし、再び袈裟がけに斬り下げる。
『黒服』が跳んだ。
空中で独楽のように身を捻り、頭上から剣戟を降らせてくる。
「ちぃっ!」
妖夢は低く下がる。
すかさず相手は追撃してくる。
二本の小太刀が、からみつく蛇の動きを見せる。
曲線的な牙が、妖夢の首や心臓を脅かす。
変則的な剣術に、妖夢は防戦一方だった。
――これではだめだ。先手を取らなきゃ
しかし、『黒服』の剣は流水のように捕らえがたく、刀で斬り込む機会がつかめない。
と、その姿が消えた。
いつの間にか、妖夢の右を走っている。
妖夢がそちらに向き直れば、今度は後ろに回っていた。
「ぬっ!」
振り向きざまに、刀を横に払う。
詰めていた『黒服』が再び跳躍して、妖夢の頭を飛び越える。
そして、遠くに着地したかと思うと、凄まじい勢いで間を詰めてきて、慌ててよける妖夢の横を過ぎ去っていった。
緩急の差が激しすぎる。
ぎりぎりでかわすことができたが、銀髪をいくつか持ってかれた。
秘密は歩法にあるのだろうか。
今の自分が、追って追いつけるものではない。
妖夢は刀を鞘に納めた。
懐から取り出した、スペルカードを宙に放つ。
「人符『現世斬』!」
捕えられなければ、自分の最速の剣で先手を取る。
妖夢が出した答えはそれであった。
『黒服』はそれを見て、動きを止めた。
はじめの対峙と同じく、半歩踏み出して、両の刀を垂らしている。
あろうことか、迎え打つ気らしい。
妖夢は震脚で地を蹴った。
瞬き一つの時間で、視界が変わる。
神速の抜き打ちが、空間を切り裂く。
が、手応えはない。
予想通り、『黒服』は上に跳んでいた。
妖夢はすぐに停止し、相手の着地に滑り込んだ。
弦月斬。大きく刀を回し、逃げ場の無い相手を切り上げようとする。
なぜか、再び空振り。
妖怪の体はフワリと浮いていた。
「なっ!」
そのまま空中を浮きながら、頭を下にして、『黒服』は剣を振るいだした。
「ちょ、わっ、とっ!」
狼狽しつつ、妖夢はそれを捌く。
人間じみた妖怪から、いきなり逆さの化け物を相手している。
急所が上に遠ざかり、頭が混乱した。
「何なのよ、一体!」
苛立ちながら、妖夢は剣を振るう。
ひゅう、と『黒服』は高く浮いた。
そのまま、空中をくるくると、羽虫のように飛び回る。
妖夢は飛ばずに、待ち構える。
『黒服』はそれを見て急降下し、地面すれすれに飛ぶ燕となって、逆手の剣で妖夢の膝下を脅かした。
妖夢は剣を下にして、それを飛び越えた。
地面に立ち、振り向く。
『黒服』は何事も無かったかのように、刀を下げて立っている。
対照的に、急激な運動と動揺により、妖夢の息は乱れていた。
師匠との稽古は数えきれないほど行った。
実戦の経験だって少なくない。
ただし、弾幕抜きの剣と剣での勝負は、ここ幻想郷ではなかなか機会がなかった。
いや、低級な妖怪のなまくら剣術ならいざ知らず、
――こいつは……本物の剣士だ。でも、私の剣とは全く違う。後ろ向きで急に加速したり飛んだり……常識はずれの剣術だ
特に、『飛ぶ』ということが驚きだった。
足場が無ければ踏み込めない。下半身のバネ、体にかかる重力は大地という支えがあってこそ剣に生かせる。
ところが飛行できる妖怪の場合は話が変わってくる。
空中での斬り合いは、加速を使うことで敵に接近し、それを代価に威力を稼ぐことになる。すなわち、地上戦とはまるで違う戦いになるのだ。
妖夢自身もできないわけではないが、地上の斬り合いと比べると、やはり劣る。
ましてや、それらを状況に合わせて選ぶとなれば、百やそこらで会得できる領域ではない。
知る限り、それができるとなると……。
「魂魄妖忌……」
ハッとなった。
はじめて『黒服』が口を開いたから、というのもある。
だが、出てきた言葉はさらに予想外のものであり、脳裏をよぎった姿と同じだったのだ。
「師を知っているのか!」
「知っている」
「どこで……」
「その剣に見覚えがある。その剣の使い手を追って、私はここに来た。だが……」
妖怪は、無表情で小太刀を手の中で回している。
遊んでいるように見えて、やはり隙らしい隙が無かった。
その言葉が続く。
「私の知る、その剣の使い手はお前ではない。あまりに、お粗末だ」
「………………」
ぎりっ、と妖夢は歯をかみしめる。
相手の余裕ぶりが不快だった。
そして、師から受け継ぎ、鍛えた自分の剣を粗末だと評されるのは、恥辱以外の何物でもない。
「お粗末かどうか……」
妖夢は左手で、二枚目のスペルカードを取り出した。
「今一度確かめてみるがいい!」
自分の一生は剣を鍛えることばかりだった。
その自分を証明できる機会が、こうしてやって来たのだ。
平和な日常とは対極の、死が支配する真剣の場。
剣に生きる自分にふさわしい。ここで斬られれば、私はそれまで。
妖夢は右手で刀を握りなおした。
「その前に、名を聞いておこう」
「無用だ。万が一、私を斬れたら教えてやらんでもない」
「そうか。では、墓には名を入れず、黒石に花を添えてやる。魂魄妖夢、参る!」
妖夢は覚悟を決めて、斬りこんだ。
『黒服』に飛ぶ間を与えず、ひたすら突進して押す。
刀同士が空中でぶつかり、澄んだ金属音が響く。
本来刀は打ち合うものではないが、妖怪が鍛えた業物である楼観剣は、岩を斬ろうと刃こぼれはしない。
しかし、それは相手の小太刀も同じようだった。
おまけに小太刀にも関わらず、妖夢の持つ長刀を凌ぐ重さを見せる。これも使い手の力量なのだろうか。
――負けるもんか!
妖夢はスペルカードを発動させた。
断命剣「冥想斬」。妖力をまとった楼観剣は、さらに長くなり光り出す。
「食らええ!」
渾身の力をこめて、唐竹に斬った。
『黒服』は刃を交差させて一歩踏み込み、その刀身を受け止めた。
がっきと刃が噛み合い、妖気が四散する。
「ぐぐっ」
「…………」
交差する小太刀に吸いつけられた楼観剣は、押せども引けども動かなかった。
それどころか、妖夢自身も、体を動かすことが、できなかった。
あくまで刀を封じられているだけなのに、巨大な手で全身を握られているように感じた。足さばきがまるで使えない。
目が合った。
黒髪の向こうの赤い瞳が、自分を小馬鹿にしているような気がした。
遊ばれているのか。
「ふざけるな!」
妖夢は気合で押し込もうとした。
そこで刀がふっと軽くなる。
力を流され、投げ飛ばされたと気がついたのは、地面に背中から落ちてからだった。
「……がっ、ふ」
一瞬、呼吸が止まる。
それでも、師から受け継いだ剣は、何とか手放さなかった。
「……………………」
『黒服』が無言で小太刀を振りかぶっている。
妖夢は片膝をついて立ち上がりかけた。
だが、もう動く力が残っていない。
「くっ!」
駄目だ、斬られる。
ここまでか。所詮自分の剣などこの程度なのか。
目を閉じたくなるのを必死でこらえつつ、妖夢は覚悟した。
その時、
「鬼符『青鬼赤鬼』ー!!」
『黒服』が妖夢から跳び退いた。
その空間を弾幕が過ぎる。
赤と青の輪光が、妖夢の周囲を守るように動いた。
……今の声は、
「橙?」
空から飛来して、妖夢の前にしゅたっと降り立ったのは、永遠亭に置いてきたはずの橙だった。
背中の妖夢をかばう姿勢で、跳び離れた『黒服』をフーッとにらみつけている。
「大丈夫、妖夢!?」
「橙……どうして」
「妖夢が先に出て行ったって聞いて、急いで飛んできたの! ひどいよ妖夢! 置いてっちゃうなんて!」
「そ、それはごめん。でも……」
「やい、お前!」
橙は『黒服』をビシッと指差して、
「喧嘩ならスペルカードで弾幕ごっこでしょ! 本気で真剣で斬るなんて! ルールを守らない悪い奴だな!」
空気は読めていなかった。
というか、妖夢も普通に斬りあっていたのだが。
指された『黒服』は肩をすくめた。
「あいにく私は外から来たんでね。ここのルールなど知らん」
「関係ないよ! ちゃんと教えてあげるから覚えなさい!」
「いらん。私は剣の勝負をしに来たんだ。そこの若いのと」
『黒服』は、左手の小太刀の峰を、とんと肩に置きながら、
「やるなら、二人まとめてでも構わんぞ。剣以外に使っても構わん。
飛び道具だろうと何だろうとな。正直、その剣士の剣は退屈だしね」
その言葉に、妖夢は前に出た。
「橙、下がってて」
「妖夢!?」
「私一人でやるから」
「駄目だよ! 私も戦う!」
「これは、私の戦いだから」
「あいつ、妖夢を斬る気だよ!」
「いいんだ。それが私の望んだ戦いだから。剣士として」
「よくないよ! 幽々子さんはどうするの!?」
聞き逃すには、あまりに重い名前だった。
「従者にとって、一番大事なのはご主人様だって、言っていたじゃない!
妖夢が消えちゃったら、幽々子さんは悲しむよ!」
「……違うよ!」
「何が違うの!?」
「幽々子様には、私なんていらないんだ! 私なんて必要ない!」
橙はびっくりして、言葉を飲んだ。
妖夢はやるせない気持ちで、わめき続けた。
「私は剣しか取り柄がないもの! 別に面白くないし、変な子だし、平和な世界なんて似合わないよ!
だから、死んだって別に皆に変わりはないし、自分が一生かけた剣で死ねるなら、しょうがないでしょ!」
「馬鹿!」
「ば、ばか!?」
「馬鹿だよ! 妖夢のニブちん! 悲しむに決まってるじゃない!
変わらないなんて、そんなわけないじゃない! 妖夢が勝手に考えて、勝手に悩んでるだけでしょ!」
橙の泣き顔に、妖夢は言葉に詰まった。
「幽々子さんだけじゃない、私だって悲しむよ! 藍様だって、咲夜さんだって、小町さんだって、永遠亭のみんなだって。
一昨日から会った人、みんなみんな、妖夢がいなくなったら悲しむよ!
みんな友達じゃない! それが、わからないの!?」
妖夢は茫然としていた。
橙は怒っている。悲しんでいる。自分に真剣になってくれている。
それは、ようかんだとか、剣だとかは、まるで関係がなかった。
友達だからだった。
「一緒に帰ろうよ! 帰ってちゃんと話そう、妖夢! 諦めちゃだめだよ! 消えちゃ、やだよ!」
利き腕に、橙が必死でしがみついていた。
その嘘の無い言葉を、妖夢は静かに反芻していた。
そこに、黒ずくめの死神が、冷たく宣告した。
「どちらにせよ、同じことだ。お前たちに帰る機会などない」
「いいや……」
妖夢は楼観剣を左手に持ち、橙の手をぐっと引き寄せた。
「私は主人の元に帰るんだ。橙と二人で、お前を倒してね」
「妖夢!」
忘れていた。ここで倒れるわけにはいかない。
従者の役目は、主に付き従うこと。
師から託された役目だ。
そして、それを曲げてしまえば、この旅で出会った、同じ従者たちに申し訳が立たない。
簡単に投げ出せるほど、今の妖夢の命は安くない。
主と会って、きちんと話さなければ。その悔いを残したまま消えたくは無い。
今は何よりも、生きのびることだ。
「橙。あいつの注意を引きつけて。ただし、無茶は駄目だよ」
「うん、妖夢もね」
二人は『黒服』を見据えたまま、確認し合う。
橙は小さい背を、バネを縮めるようさらに低くし、背中を丸めて戦闘態勢をとった。
妖夢も楼観剣を正眼に構えなおす。横の橙と息を合わせるように、心を決める。
対峙する『黒服』も、脇をわずかに開いた。
両の小太刀が鈍く輝いた。
◆◇◆
竹林の間を、『黒服』は疾走している。
上から時折弾幕が降ってくるが、気にせず走り続ける。
独特の歩法だった。両手の得物を揺らしつつ、速度を緩めぬまま、笹の間をじぐさぐに移動する。
風圧に黒髪がなびいているが、竹にひっかかる様子を見せない。川を流れる木の葉のごとく、頭上の気配を引き付けながら、足を細かく走らせる。
視界を覆っていた緑の闇が、急に開けた。
銀髪の少女が、楼観剣を手にして待ち構えている。
『黒服』は、なおも走るのをやめない。
小太刀を身体に巻くようにして、間合いに入る直前に飛んだ。
回転する妖怪に対し、銀髪の少女は切り込んでは来ず、横に飛んだ。
『黒服』は着地する、そこに上から弾幕が放たれる。
転がりながらそれを避けるが、そこに先の剣士が斬りこんでくる。
上段からの切り下ろし。
『黒服』は全身のバネを使って、後ろに飛んだ。
――ほう。
飛びながら、竹を掴んで方向を転換。そのすぐ横を、回転する茶色い影が過ぎる。
カツンという乾いた音と共に、青竹が横に両断された。
先程から頭上から牽制していた妖怪猫の強襲だ。妖力の乗った爪の一撃は、刀に劣らぬ切れ味を見せた。
そこに再び剣を手に銀髪の少女が躍り込んでくる。
黒服は剣を勢いよく振るった。
周囲の竹が風圧でしなる。
斬りかかろうとしていた剣士の足運びが乱れる。
形勢が入れ代わり、『黒服』は先手を取って、逆に斬りかかろうとした。
そこに絶妙なタイミングで、猫が飛んでくる。
放った弾幕に混じりながら、背中を狙ってくる。
仕方なく、妖怪はその場を逃れるために、跳んだ。
しかし、予想外の重力が加わった。
「……?」
足にふよふよと青白い半霊が巻きついていた。
蹴り払おうとしたが、うまく離れてくれない。
余裕をもって行った回避が、ぎりぎりのタイミングとなり、服の一部を、猫の鋭い爪で剥ぎ取られた。
「やるな」
再び地上を走りはじめながら、『黒服』はニヤリと笑った。
半霊の奇襲のことではない。
彼女らの戦いぶりについてであった。
誘い手と決め手が瞬時に入れ替わる、息をつかさぬ波状攻撃。
一撃一撃が、相方のフォローを前提としている。
自分を仕留めようとするだけならば、両者同時に捨て身で攻めてくる方が確率が高い。
もちろん、そうなれば必ずどちらかは自分に斬られることになることになる。
では何故そうしないか。
つまり、彼女らの目的は自分を倒すことではない。二人同時に生き延びることを目的として戦っているのだ。
その小気味良さが『黒服』には愉快であり、同時にその戦法の手強さに闘志が湧くのであった。
――さて、次はどう来るか。
いまだ余裕を見せながら、剣の怪物は、敵の攻めを待った。
◆◇◆
一方その頃。
竹林を並んで飛ぶ、二匹の兎の姿があった。
永遠亭の、鈴仙とてゐである。
飛び出していった橙を、師匠の永琳の命令で追ってるのだ。
しかし、先を行った猫は恐るべきスピードで、あっという間に見失ってしまっていた。
「本当にこっちでいいの!?」
「しあわせウサギの能力を馬鹿にしないで!」
「でも、もうかなり走ってるのに、ちっとも追い付けないわよ!」
「……外に出たのかな。確かに変ねー」
てゐは呟いて、地上に降りた。
下を向いたまま、眉をひそめてふんふんと頷く。
「やっぱりおかしい。竹の下の気の流れ……普通のようで、飛び飛びになってる」
「どういうこと?」
「よく分からないけど、何かが原因で閉ざされていて、たどり着けない場所があるのかも」
「そんな! あの二人はどうするのよ!」
「他力本願! 人にばっかり頼まないでほしいわ! 鈴仙こそ! あんたの能力はどうしたのよ!」
「あ、そうだった」
鈴仙の赤い瞳が渦を巻きだす。
周囲一体の波長に、乱れが無いかを確認する。
「…………な、なにこれ」
竹林の一角が、すっぽりと何かで包まれていた。
その表面はデタラメな波が流れており、奥の様子が分からない。
それどころか、普通の目では絶対に見つけられない状態だ。
空間が丸ごと隠されて、中は迷路状になっていることだけがわかった。
一体誰がこんなことを。
「どうなの、鈴仙!?」
「わかんないけど、凄く変な場所があるわ!」
「どこに!」
「目の前よ!」
「って全然分からないし」
てゐの目には、いつもの竹林があるだけだった。
「よし! 勇気を出して飛び込むわよ!」
「うわあ、鈴仙お先にどうぞ」
「何言ってるの、てゐ! 怖がってる場合じゃないでしょ!」
「そういう台詞は腰をしゃんとさせて言ってよ! 何そのへっぴり腰!」
「しょ、しょうがないでしょ! ほら、二人で行くわよ! あっちの二人が、何か大変な目にあってるかもしれないんだから!」
「むう、仕方がない」
てゐと鈴仙は、互いの手を取って、
「それー!!」
と飛び込んだ。
しばらく、息まで止めつつ、恐る恐る目を開けると、
「って、ええええ!! なんで!?」
見馴れた永遠亭に戻っていた。
◆◇◆
長い黒髪が、いくつか飛んでいった。
妖夢は片膝をついて、斜め上に剣を抜いている。
『黒服』は一間離れた位置に跳んでいた。
妖夢の横に、橙が下りてきた。
「惜しかったね」
「うん、でも――」
――いける。こっちが押している。橙と二人なら勝てる
妖夢の気力が湧いてきた。
刀という『防具』を持たない橙には、『黒服』に劣らぬスピードがあった。
加えて、妖夢は地上戦、橙は空中戦と、互いに得意な場所をカバーし合っている。
そのおかげで、お互い、攻撃の拍の間隙を埋めることができていた。
急造コンビではあったが、不思議なくらい息が合っているのは、
「一緒に旅をした成果かもね」
「そうだね」
何にせよ、この展開なら、遠からず倒すことができそうだ。
だが、解せないのは、
「なかなか面白い」
相手の余裕が消えないことだった。
橙も気が付いているのか、距離が離れていても警戒を解かない。
妖夢も気を引き締めなおした。
「ここまでやるとは思っていなかった。いい連携だと誉めておこう」
「どうするの? やめるんだったら逃がしてあげるよ」
橙が黒髪を挑発する。
横に立つ妖夢も、思わず苦笑したくなるほど、生意気な台詞だった。
だけど、ありがたい。心がすっと軽くなる。
「やめはしない。そして、お前達を逃がすつもりもない、とだけ言っておこう」
「あっそう。怪我しちゃっても助けてあげないからね」
「…………少しやりにくいなここは」
不気味に笑った妖怪が、構えを大きくする。
空気が変わった。
なにか来る。
異様な気配に、妖夢と橙はいつでも飛べるように準備する。
妖怪の目が赤く輝いている。
黒髪がわさわさと、生き物のように蠢いている、
こおおおおお、と吐く息にまで妖気が混じっていた。
そして、その剣気が噴火した。
「!?」
竹が轟々と音を鳴らす。地面までわずかに揺れている。
飛んでくる土ぼこりに、二人は腕で顔をかばった。
ここまでくると、剣気というより烈風に近い。
『黒服』の全身が、青白い気に包まれているのを、幻視すらできた。
「……行くぞ」
その声に、全身が総毛立つ。
妖怪は腰をひねって、刀を振りかぶった。
そして一閃。
妖夢と橙は同時に飛んだ。
風をまとった斬撃が、二人の背後の竹林を、木っ端微塵に吹き飛ばした。
すぐに第二の矢が放たれる。
二人は再びかわそうとしたが、足を乱気流に飲まれて、地面へと引きずり下ろされた。
「な、なにこれー!」
「橙、落ち着いて!」
地面に伏せながら、妖夢は橙の頭をかばった。
しかし、驚いているのは妖夢も同じだった。
さっきまでのスマートな戦いとはまるで違う、力任せの暴威だった。
砕けた竹の雨が体に降り注いで、かなり痛い。
呼吸五つほどの時間か。それよりはるかに長い時間に感じたが。
『黒服』がようやく腕を振るうのをやめた。
風は収まっていた。
しかし、竜巻に襲われたかのように、竹林がそこだけすっぽり消えて、大きな広場ができていた。
「でてきていいぞ、小童共。これで闘いやすくなっただろう」
『黒服』が声をかけてくる。
橙は立ち上がって、大声で返した。
「何が闘いやすくなったよ馬鹿力ー! いいもんねー! こうなったら、二人で逃げてやるから!」
「できるものなら、そうするがいい」
「なにおー! 妖夢、急ごう! あんな化け物と付き合うことないよ!」
「……いや。駄目だよ、橙」
「どうして! まだ闘いたいの!?」
「そうじゃなくて、逃げられないのよ、私達は」
「…………?」
妖夢は立ち上がった。
もっと早く気がつくべきだった。
あたりを見回す。自分と橙と黒服の妖怪、それ以外にまるで気配がしない。
妖精も小動物も姿を見せない。これだけの騒ぎになっているのに、誰も様子を見に来る気配がしない。
「……たぶん、結界だ。私達はすでに、あいつの結界の中にいるんだ」
「えっ!」
橙はその言葉に青ざめた。
結界術は八雲のお家芸だ。姓をついでいないとはいえ、一家の一人である橙も当然知っている。
だからこそ、どの程度の結界を作り出せるかで、実力を測ることもできるのだ。
橙は今、『黒服』の実力を知って、萎縮している。
「そんな……」
「気がついたか。これ以上邪魔が入ると興醒めだからな。この竹林をいくら進んでも出口にはたどり着けん。
お前達がここを抜け出すには、私を倒して、術を解くしかないということだ。どうだ、命がけで闘う気になっただろう?」
『黒服』が挑発している。
橙は悔しそうに唇を噛み締めた。
「大丈夫、橙」
「妖夢……」
「今は闘うしかない。でも、とにかく生き残ることを考えて。そうすれば、きっと助けに来てくれるよ。藍さんたちが」
「…………あっ、そうだね!」
橙の顔に明かりが灯った。
彼女の主が、この事態に気がついてくれれば。
「よおし。元気がでてきたぞ! 待っててね藍様!」
「誰のことだか知らんが、私の結界は破れん」
「私の主だ! いい気になっているのも今のうちよ! 藍様は凄く強いんだぞ!
お前なんか、けちょんけちょんにされちゃうんだから!」
「…………それは楽しみだな。お前を殺せば、そいつは本気で向かってくるかい?」
「ひっ」
橙は舌を引っ込めた。
妖夢も決して楽観的にはなれなかった。
目の前の妖怪は、師の魂魄妖忌と闘って、今も生きているのだ。
ひょっとしたら、博麗大結界も自力で越えてきたのかもしれない。
だとすれば、幻想郷でも滅多に見られない大妖怪ということになる。
師も恐ろしい宿題を残してくれたものだ。
果たして自分たちはどこまで生き残れるか。
いや……
「大丈夫、橙。二人でやれば勝てるよ」
「妖夢……」
「主の元に帰らなきゃ、でしょ」
「うん、そうだね」
橙を励ますと共に、自分を励ます。
もう怯えてはいないし、いられない。
「では、始めるか」
再び妖怪の剣気が襲ってくる。
だが、二人は動じなかった。
妖夢は橙にだけ聞こえるように話した。
「橙。大技をしかけるわ」
「大技?」
「うん。さっきは速くて捕らえられなかったけど、橙が隙をつくってくれるならできる。それが決まればあるいは」
「わかった、まかせて!」
橙がスペルカードを取り出した。
「鬼神『飛翔毘沙門天』!」
少女の体に妖力が集まる。
ぴょんと跳びあがり、空中で前転する。そのまま宙に浮いたまま、回転数をあげていく。
周囲の空気が渦を巻いていく。
「いっくぞー!」
妖力を纏った巨大なボールとなって飛び出し、橙は『黒服』の周囲を高速で回り出した。
その体から、弾幕がこぼれていく。
上を飛ぼうと身を屈める妖怪の先を行き、橙は上空も弾幕で固めていく。
ついにはドーム型となった弾幕に、『黒服』は閉じ込められていた。
妖夢は橙を信じて、スペルカードを取り出した。
人鬼「未来永劫斬」。
使い手の体の制約を外し、暴走状態にすることで無数の斬撃を相手にたたきこむ大技だ。
だが、外せば急激な負荷が体を襲い、致命的な隙をさらすことになる。
まさに、一か八かの賭けだった。
その命がけの賭けは、橙の助けがあって初めて成立する。
――やるしかない
楼観剣の妖力が、全て開放される。
妖夢は心を決めて、その力を飲み込んだ。
瞬時に神経が刺激され、脈拍が速くなる。
覚醒した意識に、周囲の光景が色鮮やかになっていく。
『黒服』を包む橙の弾幕が広がっていた。もはや橙も『黒服』も、その姿が見えなくなっている。
妖夢はじっと橙の合図を待った。
弾幕の壁がついに妖夢の足元にまで達したとき。
視界が左右に開けた。
妖夢と『黒服』の間に、弾幕の隙間で作られた、一直線の道が出現する。
――これなら入る!
「人鬼『未来永劫斬』!」
暴れる剣に、意識を持っていかれそうになりながらも、妖夢は飛び込んだ。
一瞬の内に、いくつもの斬線を敵の体に走らせる。
最後に、渾身の切り上げが、『黒服』の体に食い込んだ。
そのまま、真っ二つに斬り裂く。
――やったか!?
橙の弾幕を抜けながら、妖夢は見下ろした。
『黒服』の体がバラバラに裂かれている。
即死だった。
が、妖夢が安堵の笑みを浮かべる中、その一つ一つが、白煙を噴いた。
あとには、粉々になった丸太が残されていた。
馬鹿な……。
「変わり身!? どうやって!」
妖夢は叫び声は悲鳴に近かった。
逃げる場所なんて無かったはずなのに。
地面から土砂が舞い上がる。
黒い髪を振り乱して、妖怪が飛び出してくる。
土中に隠れて、自分の必殺の一撃をやり過ごしたのか。
そう妖夢が悟った時には、『黒服』が小太刀を振るっている。
「ちぃっ!」
ずしりと重くなった腕を、妖夢は最後の力を振り絞って動かした。
刀で弾幕を放ち、なけなしの受けの足しにする。
斬撃が飛んでくる。
それを何とか相殺するも、衝撃波に妖夢は全身を打たれた。
激痛に目がくらむ。
視界で銀の星が咲き乱れた。周囲の光景が急速に暗くなっていく。
――絶対に、斬れると思ったのに。
『黒服』が見下ろしている。
橙の悲鳴が聞こえる。
意識が遠のき、無力感が襲ってくる。
この世に斬れぬものはない。
師の教えが頭をよぎった。
その師はもうここにはいない。
自分が引き継いで、守らなきゃいけない言葉だったのに。
妖夢は今一度、その言葉にすがりたかった。
お師匠様。
どうしても、斬れないものが、あるのです。
◆◇◆
「無い」
祖父は断じた。
迷い無く即答されるとは読んでいなかった。
聞き違いか、と思ったほどだ。
だから、本当かどうか、妖夢はもう一度聞いていた。
「無い。世の中には斬れぬものなどないのだ」
その場逃れの言葉ではなかった。
信念ですらなかった。
人はいつか死ぬ、そんな自然の摂理のように、当たり前の話として語られていた。
我慢できずに、聞いていた。
水は斬れるのか。風は?
「斬れる。それは斬ることによって理解できる。聞くがよい、妖夢」
祖父の言葉に、妖夢は正座し直した。
「全ては、斬ることによって理解できる。真実は、斬ることによってわかるのだ」
その言葉は、妖夢の心にしっかりと根を下ろした。
須弥山の頂から、見下ろされているようだ。
どこか刀に限界を感じ、それに甘えかけていた自分が、ひどく小さいものに思えた。
祖父はニコリともせず、妖夢を見つめている。
その顔が少し憎たらしかったので、
じゃあ、私を斬れますか?
幼い妖夢は、小ずるく聞いてみた。
降参する祖父の顔を期待して。
だが、その答えは、やはり予想外のものだった。
師は巌のような顔に、笑みを浮かべて言ったのだ。
「妖夢。お前はすでに斬られているのだよ」
◆◇◆
この世に斬れないものはない。
全ては斬ることによって理解できる。
あの時から今に至るまで、私は何もわかっていなかったんだろうか。
じゃあお師匠様。
斬るって、何なんですか?
◆◇◆
妖夢は目を覚ました。
背中に固い感触がある。
地面に倒れているのだ、と気づいた。
体の節々が痛む。舌に鉄の味を感じた。口の中も少し切っているようだ。
ぼやけた頭が、だんだん記憶を取り戻していく。
――そうだ。私はあの黒服の妖怪にやられて……
はっ、と妖夢は身を起こした。
場所は竹林から変わっていない。
「橙は!」
辺りを見回すが、二人の姿は見えない。
だが、遠くで甲高い叫び声が聞こえる。
――まさか、まだ闘っているの?
「何てざまだ! 橙、待ってて!」
自分はどれくらい気を失っていたのだろうか。
妖夢はすぐさま立ち上がって、声のほうへと走ろうとした。
だが、その足が止まった。
声は遠い。だが、方向が一瞬つかめなかった。
右じゃない。左でもない。
前でも後ろでもなく、その声がするのは
「上?」
頭上を見あげる。
高く伸びた竹で切り取られた、丸い青空に目を凝らす。
ポツポツと、奇妙な点が、出たり消えたりしている。
と、遠くの地面で土煙が上がった。
竹の折れる音が聞こえた。それに混じって、叫び声がする
こっちまでおいでー! と。間違いなく、橙の声だ。
が、次に別の方向から、音がする。
これも橙の声に聞こえる。
どこを向いても、何やらこげ茶の球のようなものが、目に映ったり消えたりする。
妖夢は立ち上がって、瞬きした。
そして、ようやく何が起こっているのか気がついた。
「なっ!」
点滅して見えたのは、橙だった。
広場を囲む竹林の間を、高速で移動しているのだ。
叫びながら目まぐるしく動く橙は、とても妖夢の目で追えない。
「お
に
さ
ん
こ
ちらー!!
手
の
鳴
る方
へー!!」
振り向く先に、橙が現れるようだった。
妖夢はある台詞を思いだしていた。
(とっても難しいんだよ。妖夢もやってみない?)
「まさか…………鬼ごっこ!?」
しかし、それは、妖夢の想像する遊びとは、かけ離れていた。
まず、速すぎる。だがそれだけじゃない。
あまりにも細かく方向転換しているため、目が追いつかないのだ。
遥か向こう側で飛び回っている姿すら、不規則な動きに錯覚を起こさせる。
とらえたと思いきや、それは残像で、斜め後ろから声がする。
動きの量が半端じゃない。鬼ごっこというより、分身の術だ。
その茶色い影に、ぴたりと追走する黒い影があった。
鬼役となった『黒服』が、橙を仕留めようと追っている。
だが、あの妖怪の方も、橙の動きについていくのがやっとのようだ。
いや、妖夢から見れば、ついていけるだけで凄い。
そして、遊びの文句を唱えながら動き回る橙は、遊んでいなかった。
ちらりと見えた橙の形相は、必死だった。
よく見れば、妖夢を中心にして一定の距離を保ったまま、『黒服』から逃げ回っているのだ。
何のために。
決まってる。気絶していた妖夢のためだ。
妖怪がこちらに近付かないように、囮になろうと頑張っているのだ。
命がけの鬼ごっこを。
「……橙!」
竹の間から飛び出した橙の目と、立ち尽くしていた妖夢の目が合った。
「妖夢! 早く逃げて……」
その声が、致命的な隙となった。
巨大な烏が、橙の背後に現れる。
妖夢が茫然とする中で、黒い腕が鋭く伸びていく。
振り向き、放心している橙の腹に、その鉤爪が食い込んだ。
空中で二人の動きが止まる。
冷水が妖夢の体を満たす。
体をくの字に折って、橙が落ちていく。
思わず伸ばした手が、むなしく宙を泳ぐ。
妖夢は喉を震わせて、
絶叫した。
「橙―――――!!」
◆◇◆
「なかなか、すばしっこかったが……」
黒服の女妖怪は、動かなくなった橙の体を見下ろしていた。
「これで、元に戻ったな。一対一だ」
その視線がこちらへと移る。
「おのれぇ……!」
火がついた。
妖夢の体を灼熱の怒りが焦がしていく。
が、同時に鋼鉄の意志が、無謀に切り込もうとする妖夢の体を押しとどめた。
歯を食いしばりながら、自制する。
――落ち着け。橙は……
橙は……生きていた。
怪我の様子はここからわからないが、まだ生気が感じられる。
しかし、ここで妖夢が倒れれば二人ともお終いなのだ。
独りで戦うのと違い、絶対に無謀に斬りかかることはできない。
自分だけではなく、橙の命も、一人で背負うことになったのだ。
……自分を守っていた、橙に代わって。
「逃げないのか、お前は?」
「何だと?」
妖夢は聞き返した。
『黒服』が不思議そうに、こちらを見ている。
ふっ、と嘲笑しつつ、足で橙の頭を示す。
「こいつはそう願ったぞ。お前に逃げろとな。今なら逃がしてやってもいいぞ」
「…………見くびるな、下郎が」
妖夢は楼観剣を構えた。
「あらためてお相手しよう。冥界一硬い盾、どれほどのものか確かめてみるがいい」
「先の斬り合いで、腕の差をはっきりと知ったと思ったのだが」
「黙れ」
「ここで命を捨てるつもりか? お前のご主人様が一番大事、とかなんとか言っていた気がするが」
「黙れ!」
妖夢は剣で言葉を払った。
例え、ここで妖夢が逃げたとしても、こいつが本当に見逃してくれるかどうかは分からない。
そして、仮に無事逃げおおせたとしても、幽々子や藍が自分を許すとは思えない。
だけど、そんなくだらない理屈を抜きにして、絶対引けない理由があった。
「橙は……私を守ってくれた」
ぽた、と足元に雫が落ちた。
「情けない私を……慕ってくれた。私が困っているとき、橙は私を助けてくれた」
ぽた、ぽた、と雫は止まない。
「ふさいでいた私の心に、何度もぶつかってきてくれた! 最後は、逃げた私を、引っ張り上げてくれた! その私が!」
振りかぶった剣によって、
「その私が逃げられるもんか!」
迷いが断ち切られる。剣気に竹林がざわめく。
周囲の葉がぱぁん、と音を立てて破裂する。
妖怪の黒髪が、気風になびいている。
「お前を倒し、橙と二人で主人の元に帰る! それが、私が斬り開く未来だ!!」
妖夢の咆哮に、『黒服』も一足飛んで橙から離れ、刀を抜いた。
牙をむいた凄絶な、妖怪そのものの笑みを見せながら、
「いい覚悟だ! その目を待っていた! だが、威勢だけで私を斬れるか!? 半人の剣士よ!」
妖夢はその問いかけに、とっておきのスペルカードを取り出した。
「……ようかんが鍛えたこの楼観剣に、」
それを、拳の中で握りつぶす。
「斬れぬものなど、きっとない!」
光が炸裂した。
魂魄「幽明求聞持聡明の法」。
浮き従っていただけの半霊が、半人の妖夢と同じ姿形となる。
その手には白楼剣。
「参る!」
「来い! 魂魄!」
二人となった妖夢は、迷わず死地へと飛び込んだ。
◆◇◆
「でぃやああああ!!」
魂魄妖夢が、突進して切り上げてくる。
姿に重なる半霊が、半人の動きを正確に追って切り上げる。
その攻撃が終わる前に、半人が刀を振り下ろす。
『黒服』は反撃の隙を見つけることなく、後退した。
袈裟斬りと逆銅、逆銅と左切上、左切上と柄突き。
逆方向からの攻撃。それぞれが同時に襲ってくる。
――なるほど、手数は倍になっている。だが……
まったく同じ動きである分、予測はしやすい。
先の二人でかかってこられた方が厄介だった。
すでに『黒服』は、妖夢の攻撃の拍子を、つかんでいた。
真っ直ぐに楼観剣が下りてくる。
その先にくる動きを先回りする。
――切落しを右剣で払って半人の体勢を崩させ、次に来る半霊の切落しを一歩踏み込んでかわして、左の剣で……。
予想通りに攻めてくる相手に合わせて、妖怪は動こうとする。
その流れが急に変化した。
半霊は刀を切り落とさず、飛んでいた。
「なに!?」
半霊は、『黒服』の後頭部に狙いを定めている。
そして、前から来る半人が、気合と共に切り上げようとしている、
挟み撃ちだ。
「ぬん!」
『黒服』は両の小太刀を構え、高速で回転して、その場を離脱しようとする。
鋭い金属音とともに、火花が散った。
攻防一体の技だが、わずかに出し遅れた。
地面に降り立ちながら、『黒服』は振り向いた。
「半人半霊か。魂魄妖忌もそうだった。二つの体が、同時に別々の斬撃を繰り出すとは。面白い芸当だ」
「………………」
返事がこない。
姿二つの魂魄妖夢が、肩で息をしていた。
『黒服』は片頬を歪めた。
「お前にも厳しい技なようだな。大した精神力だ。私に傷を負わせるとは」
左手の甲が、斬られていた。
この程度の傷は、すぐに回復する。人と違い、急所を打たれなければ、妖怪は倒れることはない。
『黒服』は傷を一舐めしてから、長く伸びた黒髪を一度振るった。
「だが、一人だろうと二人だろうと関係はない」
「…………あるわよ」
妖夢が犬歯をむき出して、ニヤリとした。
「私はもう一人じゃない。だから闘えるんだ。行くぞ!」
二人の剣劇は続く。
◆◇◆
……。
……んー。
……どうなったんだろう、私死んじゃったのかな。
……でも、妖夢の声がする。
橙は薄く目を開けた。
ぼやけた視界で、妖夢と黒い妖怪が闘っている。
……あ、妖夢が一人で頑張ってる……助けなきゃ。
だけど、体が動かなかった。
麻痺したように、全身の感覚が無くなっている。
あるいは夢の中のようだ。
動きたいのに動けない。意識だけが残っている。
まだ戦いが続いているのに、もどかしい。
急激に眠気に沈められそうになるのに、嫌々する。
橙は目を開けようと懸命だった。
妖夢が二人いる。
飛んだり、しゃがんだりして、目まぐるしく動いている。
凄く速かった。でも、黒い方も凄く速い。
刀が細い光の糸となって、二人の間でくるくる回っている。
いつまでも止む様子が無い。
妖夢が斬られないか心配だった。
……あれ?
……でも、変だな。
……見間違いかな。
妖夢、とっても楽しそうだ。
◆◇◆
妖夢は無我夢中で、剣を振るっていた。
命綱が焦げる音が聞こえる。
死の一歩手前で、妖怪と踊っている。
時間が引き延ばされて、一瞬一瞬の剣がのろく見えた。
――変だな。
その思考が置き去りにされていく。
頭に上っていた怒りが、蒼く透き通っていく。
体を止めようと、厳しく律しようとするが、追い付かない。
それにつれて、相手の引き出しが増えていく。
まるで底を見せない。
剣を手にして、妖夢をさらなる高見へと連れていく。
妖夢は手を引かれながら、その階段を上っていく。
――凄いな。
いつしか、純粋な感動が、胸に湧き起こっていた。
剣には、これほど技があったのか。
一つ一つが全て新しい。そして、美しい。
発想の次元が並外れている。
そして、それに付いていっている自分が不思議だった。
つまずけば、そこに死が待っているはずなのに、怖くなかった。
思考の先を、剣が走っている。
だけど、それより先に走るものがある。
イメージだ。
イメージに合わせるのではなく、イメージを自然に体がなぞる。斬るより先に、斬れている。
一間離れて、互いに動きが止まった。
ひらひらと飛びつかれた蝶が、妖夢の楼観剣で足を休める。
その重みまで、感じることができた。
――あ、金魚すくい。
場違いな記憶が、頭を過ぎった。
閉じていた心が、広がっているのがわかる。
世界が妖夢に語りかけてくる。
妖夢はさらに心を開いた
竹が息をしている。
土中の虫が眠っている。
気絶していた橙が、目を覚ましている。
自分たちを丸く包む結界が意識できる。
その向こうの風景まで知覚できる。
あるいは天高くから、あるいは地の深くから。
妖夢の心に次々と情景が映される。
世界が斬り取られていく。
――わあ。
幻想郷の真ん中に、妖夢は立っていた。
生も死も、全ての理が、自分の中で息づいている。
竹林を吹く風の行方がわかった。その向かう先の匂いまで、ありありと思い浮かべられた。
時間の流れまで、肌で感じられる。
宇宙にまで、手が届きそうだ。
そして……。
目の前の敵、剣を持つ蜃気楼のような存在。
彼女だけが、影絵のように浮いている。
それは、互いに、同じ情景に生きているからだと、わかった。
同じ感動の中で、二人だけで立っているのだと。わかった。
これが、師の見ていた光景なんだと、わかった。
そして……妖夢は唐突に気がついた。
この世界で自分が手にしてるのは、
ただの剣だった。
◆◇◆
互いに剣が払われる。
斬撃が、二人の間の空間で衝突し、辺りに散らばる葉が一掃された。
ひらひらと舞っていた葉っぱは、一陣の風に乗り、列になって遠くへ運ばれていった。
妖夢は、それに目を向けず、じっと相手を見つめていた。
そして、『黒服』も、こちらを見つめている。
すでに、その目に驕りは無かった。
だが、真剣ながらも愉悦が混じっているのは、はじめから変わっていなかった。
そうだ。
冷たく武骨で卑劣な態度とは裏腹に、この妖怪は遊んでいた。
殺すつもりなら、最初から殺せたはずなのに、いつまでもとどめを刺さずに待っていた。
その意図も斬れている。
強さの追求か、師への感傷か。
理由だけはわからないが、彼女はこの光景を、自分に見せようとしてくれたのだ。
さらなる上の剣の境地にまで、引き上げてくれたのだ。
そして、今の自分はそれに答えられる。
視線を真っ直ぐに受け止めながら、妖夢はぽつりと言った。
「あらためて……名前を聞いておきたい」
「無用だと言ったはずだが」
相変わらずつれない返事だったけど、妖夢は気にしなかった。
迷いの無い、蒼天の微笑を浮かべた。
「私の名は魂魄妖夢。魂魄妖忌の一番弟子です」
「…………シーアンだ。剣は我流」
「覚えておきましょう」
ふっ、と同時に笑みがこぼれる。
また、風が吹いた。
互いに走る。
間を一気に詰める。
妖夢は手にした楼観剣を、無言の気合で投げ付けた。
『黒服』は、シーアンは瞠目したが、落ち着いてそれを跳ね上げた。
ついで、妖夢が白楼剣で切りかかる。
命知らずの捨て身の一撃だ。
足で半円を描きつつ、それも鮮やかに受け流す。
無防備になった妖夢に、膝蹴りが叩き込まれた。
その体が霧散する。正体は半霊だった。
では、半人は。
妖夢はすでに跳んでいた。
真上に跳ねた楼観剣を手にして、大きく振りかぶっている。
巨大な刀身が、蒼く輝く大波を作っている。
断迷剣「迷津慈航斬」。
自分の一生、悟ったもの、それらに対する思い。
全てを妖力に変えた、渾身の一撃。
イメージの中にあった光景が、実現されていく。
迷い無き斬線が、無防備となって見上げる、シーアンの体へと向かった。
一閃。
「はあああああああ!!」
妖気が全て叩き込まれる。
爆風と共に土砂が巻き上がった。
勢いのあまり、妖夢は前方に一回転した。
降り立ったとき、地面は真っ二つに裂かれていた。
その線上にあった石は、ドロドロに溶けている。
しかし、土煙の中に、妖怪の姿はない。
また変わり身か。
いや、斬った手応えはあった。
今の自分なら剣が届く。どこに消えようと見つけられる。
だが、妖夢の足は動こうとしなかった。
他でもない、斬った感触が、妖夢の猛っていた心を醒ました。
潮が引いていく。
離れていた音が戻ってくる。
世界がいつもの姿を取り戻していく。
刀を垂らしたまま、しばし茫然として、妖夢はたたずんでいた。
…………?
「妖夢ー!」
倒れていた橙が、走ってきた。
飛びついて、抱きしめてくる。
「妖夢! 大丈夫? 怪我してない?」
「私は大丈夫。橙は?」
「平気。どこも痛くない。さっきは、すごく眠くて、動けなかったけど」
「そっか……」
「あいつはどこ行ったの? 紫様や藍様に知らせないと!」
「いや、いらないよ」
「でも……あれ? もしかして、妖夢が倒したの?」
「……うん」
「すごい! さすが妖夢!」
「………………」
「妖夢?」
妖夢は返事をせずに、楼観剣を見つめていた。
夢の中にいたようだ。だけど、あれは現実の戦いだった。
剣先が血で濡れている。
妖夢は手ぬぐいを取り出して、それをぬぐった。
――斬ればわかる……か。
楼観剣は沈黙したままだ。
きん、と甲高い鍔鳴りの音とともに、妖夢は刀を納めた。
そこが限界だった。
妖夢はふらふらと草むらに向かい、そこでばたんと倒れた。
「よ、妖夢!?」
「ごめん橙。ちょっと疲れた。ここで休むわ」
「ええ!?」
横になると、季節外れのバッタと目が合った。
鳶の声も聞こえてくる。
結界は解かれているようだ。
「服が汚れちゃうよ、いいの?」
「もう汚れてるし。そういう橙も泥だらけよ」
仰向けになって、妖夢は両手両足を伸ばした。首の後ろがくすぐったかった。
「あー、いい気持ち。橙もやってみたら」
「なんか、妖夢変だよ。妖夢じゃないみたい」
「ふふっ、どうせ私は変だもん。来ない?」
妖夢が笑って、手を差し出す。
橙はそれを、軽く握った。
ぐいっと引っ張られ、橙は投げ飛ばされた。
「うわわわわー!」
「あはは。ひっかかった」
「むむー、やったな妖夢ー!」
橙が怒りながらも嬉しそうに飛びかかってくる。
二人でごろごろと転がる。
そんな遊びを二人がしたのも、今が初めてだった。
しばらくそうやって笑い合い、やがて並んで空を見上げる。
「妖夢」
「ん?」
「空って、広いねー」
「うん」
寝転んで見上げると、本当にそう思う。
視界いっぱいの紺碧の空に、お菓子のような白雲が浮かんでいる。
…………本当に、空は広いなぁ。
師から極意を教わったとき、はじめに思ったのは、あの雲を斬ってみたい、だった。
綺麗に動物の形に斬って、幽々子に見せてみたいと思ったのだ。
それくらい動機が単純で、剣が本当に楽しかった。
そう。剣は楽しかったのだ。
我を忘れて、頭をからっぽにして、剣に没頭した結果。
思い出したのは、そんな小さい頃の感情だった。
剣は妖夢の心にあった。自由に形を変えて、育っていった。
そして、回りまわって、ここに戻ってきた。
今はもう遠くに行ってしまったが、あの感覚は忘れられそうにない。
剣を通して、全て斬ることで見極める。
まだ指先が届いた程度だけど、もっと強くなれる、そんな予感がした。
…………よし。
「じゃあ、帰ろうか、橙」
「もう帰るの? もう少し遊ぼうよ」
「それもいいけど、幽々子様に報告しなきゃ」
「え……」
その意味に気がついて、橙の声が弾んだ。
「じゃあ、わかったんだね妖夢! ようかんが何か!」
「うん」
ようかん。
それに対する答えは見つけた。
幽々子と真剣に話し合わなくてはいけない。
自分の答えを、幽々子は受け入れてくれるだろうか。
妖夢は東を向いた。
雲の中を太陽が泳いでいる。
八雲邸はここからは見えない。
でも、そこに、自分の未来が待っている。
「帰ろう。主人のもとへ」
「うん! ……あ、妖夢」
「何? 橙」
「今の妖夢の横顔。ちょっと、藍様に似てたよ」
「本当? ……そっか」
そんなものなのかな、と妖夢は笑った。
◆◇◆
幻想郷の艮の位置に、古いお屋敷が建っている。
外界の邪気をその身で濾しつつ、呑気な下界を見下ろすように。
妖夢と橙は、庭に降り立った。
八雲邸の縁側では、出発時と変わらぬ様子で、幽々子が座っていた。
妖夢が来るのがわかっていたのかもしれない。
紫はまだ寝ているのか、姿がなかった。
庭には藍が腕を組んで立っている。
妖夢は軽く頭を下げた。声をかけてくれるかと思ったが、藍は薄く笑うだけで、黙っていた。
横にいた橙が、少し離れた位置に移動している。主の藍に飛びつこうとせず、真剣な顔で、妖夢と幽々子を見比べている。
二人とも、再会の喜びを後にして、自分を応援してくれているのだとわかった。
妖夢は勇気をだして、幽々子と向き合った。
巨大なようかんが目の前にそびえ立っている。あまりに大きすぎて、煮ても焼いても食べられない。
誰にも理解できない、滑稽な代物。
そのようかんは、口を開いた。
「妖夢じゃないの。どうしたの? 忘れもの?」
「幽々子様。私は修行の旅をして戻ってきたのですよ」
「そう。もう二日たったのね」
本気とも冗談ともとれない、浮世離れした声だった。
「顔も服も泥だらけね、妖夢。泥んこ遊びでもしてたの?」
「まあ、そんなところです」
「それで、ようかんはどうなったのかしら」
幽々子が笑っている。
彼女はいつも笑っている。
その笑顔を絶やすことの無い、まさにようかんの権化だった。
「妖夢?」
「はい、幽々子様、私はようかんが何か、この旅でわかりました。そして、それが私に足りないことも。
ですが……、もう一つ悟ったことがあります」
「なにかしら?」
「幽々子様、貴方のようかんは大きすぎますよ」
妖夢は、きっぱりと言い放った。
「幽々子様はふざけすぎです。頭も柔らかすぎです。
何も考えてないようで、何か深い考えがあって、やっぱり考えてなかったりして。
妙な悪戯で人を悩ましたりして。そのくせ大事なことは全て遠まわしに言って。
何がようかんですか」
いつしか、愚痴になっていた。
幽々子の表情は変わらない。
「そんなに性格がぐにゃぐにゃしてると、幻想郷中から敬遠されてしまいますよ。
誰からも敬遠されて、貴方のそばには、同じくらい巨大な紫色のようかんしかいなくなるでしょう。
そして、二人で従者を悩ますんだから救えません。はっきり言って、迷惑です」
黙っていた藍が吹き出した。
「ですから、私は貴方のために、別の道を歩もうと思います。ようかん以外の道を」
「私のために?」
「ええ。貴方のために」
「それは何なの?」
「それは包丁です。私は包丁になります」
それが、妖夢が幽々子のために用意した答えだった。
「世界が貴方を拒むことのないように、私が切って差し上げます。包丁は、ようかんの本当の姿を知っているからこそ、その刃で理解することができる。そして、包丁は難物、すなわちようかんを切ることによって鍛えられ、役目をまっとうするのです。私は貴方にとっての包丁としてお仕えする。大きすぎるようかんには包丁が必要であり、包丁には大きすぎるようかんが必要なのです。だから、私は貴方の包丁になります」
すぅっと息を吸って、妖夢は言葉を結んだ。
「これが私の答えです」
妖夢は待った。
藍も橙も、幽々子の反応を見ている。
幽々子はう~ん、と頬を指で押さえながら、感想を述べた。
「つまり、妖夢は私を切っちゃうの? ひどいわねぇ」
だが、その答えは予想していた。
妖夢はうろたえずに、してやったりと笑って、決め台詞を言った。
「幽々子様。貴方はすでに切られているのです」
「ま」
思わぬ反撃だったのだろう。幽々子の表情が変化した。
口を扇で隠して、じろりと妖夢をにらむ。
「嘘はだめよ妖夢。まだ貴方ごときに見極められるものではないわ。訂正なさい」
「はい、そのとおりです。失礼しました。でも、いつかは幽々子様を解き明かして見せますよ。
そうなったら、もう私もからかわれることは無いでしょう。残念でしたね」
「あらあら。じゃあ今のうちに楽しんでおかなきゃね」
「……………………」
今度は妖夢が反撃を受けた。
思わずうめきそうになったが、妖夢は我慢した。
まだ、大事な話が残っているのだ。
「幽々子様。また貴方の従者を務める前に、もう一つお許し願いたいことがあります」
「あらあら、今度は何かしら。包丁の次はまな板?」
「いいえ。私の剣についてです」
妖夢は一呼吸置いて、腰から鞘を外した。
楼観剣を、幽々子に見えるようにかざす。
「私は剣を捨てられません。私はようかんによって、自分の剣を一歩進めました。
剣は楽しいです。それは、貴方が私に薦めた道である、ようかんと矛盾しません。
ようかんとこの剣が、私を従者として更なる高みへと導いてくれます。
だから、私は剣を持ちながらも……いえ、剣を持つからこそ、包丁として貴方の従者でいられるのです」
妖夢は再び、鞘を腰に戻した。
「もし気に入らなければ、どうぞ、私をお払い箱にしてくださって結構です。
貴方は剣に生きる私がお嫌いかもしれませんが、でも私は、剣で貴方に仕えたいのです。
ですから……どうか」
それ以上言葉は続かなかった。
だけど、どうだ。
これが自分の精一杯の答えだ。
どんな言葉が返ってきても、どんな結果になっても、悔いはない。
橙が首をうんうんと振っている。藍は黙って幽々子の方を見ている。
幽々子は、また考える素振りをみせていた。
妖夢はじっと待った。
「んー、でも今はお煎餅の方が食べたいわ」
ダメだった。
敵は一枚も二枚も上手だった。
いつもの妖夢をからかう口調で、幽々子はのほほんとしている。
そして、妖夢の感情は限界だった。
「ゆ……」
「ゆ?」
幽々子が首をかしげている。
本気で何も考えてない顔で。
「幽々子様の意地悪!!」
爆発した。
妖夢は泣いた。本気で涙した。
ようかんの極意を得ようと、何とか幽々子に認めてもらおうと、こんなに一生懸命だったのに、彼女にはその程度の話でしかないのか。
橙が駆け寄ろうとするが、藍が目で制し、首を振って止めた。
「私がどれだけ悲しかったかわかりますか!必死だったかわかりますか!
貴方が出した難問のせいで、私はぐっちゃぐちゃのめちゃめちゃでした!
今日だけじゃなく、いつも、いっつもです!」
言葉がせきを切ったようにあふれた。
三日間の、それ以前からの、疑問と鬱憤と恨みが、一気に噴き出す。
「もう、本当のことをおっしゃってください!
貴方は私にどうしてほしいのですか。私はどうすればいいのですか。
剣を捨てろというのですか! それとも、もう私はいらないというのですか!
おっしゃってください! でなければ、貴方が信じられません!」
妖夢は両膝をついた。
顔は伏せずに、幽々子へと向けたままだ。
「お願いします。貴方の従者でいたいんです。私頑張ったんですよ、幽々子さまぁ……」
顔を手で覆わなくても、涙で幽々子の顔が見えない。
ひどい泣きべそ顔が、皆に見られているだろう。
こんなにも心が乱れるのは、いつも幽々子のせいだった。
「泣かないでちょうだい、妖夢」
澄んだ声が、聞こえた。
「泣きたくて……泣いてるんじゃありません。教えてください、幽々子様」
また、声が聞こえた。
「妖夢。わからないの妖夢」
「わかりませんよう」
「でも、私を斬れたんじゃなかったの?」
「ひっく、全然歯が立ちません、何もかもさっぱりです!」
「修業の旅、どうだった?」
「ですから、ぐっちゃぐちゃのめちゃめちゃでしたよ、もう!」
「でも、楽しかったでしょ?」
「楽しくなんて……!」
はっ、とそこで妖夢は、やっと気がついた。
目を開いて、幽々子を見る。
「そう……楽しくなかったの。じゃあまた失敗して、傷つけちゃったのね、私は」
あの幽々子が、いつも笑っている幽々子が、落ち込んだ表情を浮かべながら、悲しそうに言っていた。
あてが外れた子供のように、しょんぼりした顔だった。
「妖夢が笑ってくれると思ったのに」
「!」
その一言で、妖夢の頭に残っていた雲が、一瞬で消し飛ばされた。
ついに、包丁はようかんの深意を斬れたのだ。
――ああ……。ああそうか。そうだったんだ。
本当に、自分は難しく考えすぎていたのだ。
わが主人は、自分に剣を捨てることを命じたのではない。
ようかんになれ、というのは表向きの口実でしかなかったのだ。
この方の願いは、もっと素朴で単純なもので……。
今までのことが思い出された。
紅魔館でお手伝いしたこと、中有の道で金魚すくいしたこと、守矢神社で神と対峙したこと、永遠亭で枕投げしたこと、
……そして、
「いいえ幽々子様。悲しまないでください」
「どうして?」
「だって……」
妖夢は泣き顔を、涙の笑顔に変えた。
「おかげで、楽しい旅でした。本当に楽しかったです」
「ああ……よかった。ようやく、その一言が聞けたわね」
「幽々子様……」
幽々子はまた、笑っていた。
しかし、その目は深い色を湛えて、ひたと妖夢を見据えていた。
「妖夢は早とちりしちゃったのね。でも、勘違いしないでほしいわ。
確かに、貴方は頼りなかったし、未熟なのは不安だったし、頭が固くて呆れることも少なくない。
でもね。貴方が未熟だろうと慌てんぼさんだろうと、ようかんだろうとお煎餅だろうと包丁だろうと、私は手放す気は無いわ。
ずっと貴方に従者でいてほしいと、心から思ってるのよ」
「……………………」
妖夢の心に空いていた穴に、幽々子の本心が慈愛となって、こんこんと染み入る。
「だから、好きに成長しなさい。難しく考えずに、もっと肩の力を抜いて、人生を好きに楽しんでみなさい。
剣に生きるのもよし。誰かと遊ぶのもよし。剣があろうと無かろうと、妖夢は妖夢。私にはわかる。貴方を見つけられる。
そんなに心配なら、貴方が迷うたびに、私が目を覚まさせてあげましょう。他ならぬ貴方が不安になるたびに……」
幽々子は扇を閉じて、その腕を開いた。
「抱きしめて、言ってあげましょう。……間違いなく、貴方は私の従者、魂魄妖夢だってね」
話の途中で、妖夢は我慢できず走り込んだ。
ようかんが妖夢を、優しく柔らかく包んでいく。
「これからもお願いね、包丁さん」
「…………」
妖夢の返事は、涙で湿っていく幽々子の懐で、もごもごと砕けて溶けた。
――余韻の巻――
「あらあら、私も汚れちゃったわね」
そこで妖夢は、幽々子の胸から顔を上げた。
その顔も服も、泥だらけだった。
「……申し訳ありません、幽々子様」
「どうして謝るの妖夢。楽しいわよ」
「ほんとですかぁ?」
「ええ、本当よ」
互いに泥だらけになった主従は、笑い合った。
そこに、藍が歩み寄って声をかけた。
「妖夢。お風呂が沸いているので、入るといい。その間、昼食は私が用意しよう」
「あら、じゃあ私も入るわ」
「ええ、どうぞ。幽々子様も」
「そうだ。ついでに、紫の寝顔も泥んこにしちゃおうかしら」
「本当ですか。ぜひお願いします」
藍は満面の笑みを浮かべる。
こくこくと頷く仕草にも、異様に力が入っていた。
「たまには日が高いうちから、皆でのんびり入るのもいいものよね」
幽々子はふわふわと浮きながら、わざわざ泥を手にして、紫の寝室へと向かった。
「あ! 橙がいない!」
藍が気づいて声を上げた。
「お風呂と聞いて逃げ出したのね。仕方のない子だ」
「…………藍さん」
「ん、ああ」
藍は近寄ってきていた妖夢に、ねぎらいの言葉をかけた。
「お疲れ様、妖夢」
「藍さん」
「見事だった。主を見極める包丁になりたい、か。いい言葉だ。お互い、厄介なようかんを主に持つもの同士、精進しなくてはね」
「………………」
妖夢は無言で、藍を睨んだままだ。
「どうしたの、妖夢」
「………………」
「あ、そうだった。出発前は本当に悪いことをしたわ。きっと紫様の悪影響が……と主のせいにするのは、らしくないな。ごめん」
「………………」
「あれ、違うか。いや、本当はわかってるんだ。謝らなきゃいけないことが別にあるとは……ごめんなさい」
「………………」
「か、顔が怖いよ、妖夢。あわわ怒ってるのか」
「………………」
「そ、そうだ! また何か思うことがあったら、気がねなく訪ねてくるといいよ」
「………………」
「あーそのー……妖夢が望むなら、対練でも鬼ごっこでも……」
「じゃあ、両方で」
「むむむそうか、りょうほ……えっ、両方?」
「はい、両方がいいです」
泳がせていた目を、ぱちくりさせる狐に向かって、妖夢は少し照れながら、上目使いをした。
「その時は橙も一緒で。よろしくお願いしますよ、八雲藍さん?」
花が開いたその笑みに、九尾の狐は瞠目する。
やがて、まいった、と苦笑した。
「旅に出る前とは別人のようね。私の心配はいらないようだ」
「そんな……」
「いや、本当だ。いずれお前が、妖忌の域にまでたどりつけると、今なら賭けてもいいよ」
「……ありがとうございます」
「いい修行になって何よりだわ。さあ、主の背中を流しに行ってあげなさい。あ、主に流してもらう方がいいかな」
「ふふふ、それも両方がいいかも」
「はは、そうね。あ、それと、橙の風呂を頼んでもいいかな。今とっ捕まえてくるから」
「わかりました……でも、藍さんは」
「心配ないよ。気にせず風呂に入ってらっしゃい」
「……はい。失礼します。本当にありがとうございました」
ぺこりと頭を下げて、妖夢は主の後を追って走って行った。
その元気な姿を見送って、
「……さて」
藍は遠くの物置に視線をうつした。
そこから、二本の尻尾がひょこひょこと見えている。
――本当に、隠れんぼが下手ね、あの子は
ため息をついてから、藍は縮地で、一瞬のうちに、その場に走りこんだ。
二本の尻尾をつかみ上げる。
「こら橙! お風呂から逃げようとしたな!」
「にゃにゃ! ち、違います!」
「何が違うの! 主を誤魔化そうとするなんて悪い式! 橙はそんな子になったの!」
「違います! そんなんじゃありません! あっ……」
橙の手からゴトンと何かが落ちた。
それは……
「……へ? 薬箱?」
地面に転がっているのは、この八雲邸に常備している薬箱だった。
「どうしてまた。橙は怪我をしたの?」
「藍様にと思って……」
「私に?」
「はい」
「……でも、私はどこも怪我してないよ」
「嘘です。藍様は右腕を怪我しています。私にはわかります」
反対に、橙が叱るような目つきになる。
急所をつかれて、藍の口が半開きになった。
「どこで怪我したんですか。誤魔化してるのは藍様じゃないですか。藍様は悪い主です」
「橙……」
地面に落ちた薬箱を両手で拾い、式は蓋を開いた。
「私は藍様の式ですよ。すぐに気がつきました。早く傷を見せてください」
泥だらけの橙の顔で、強い意思を秘めた瞳が光っている。
仲間が傷つくのを許さない。修業の旅で、式が得た、新たな感情だった。
それに、主の体が小刻みに震えだして、
「あははははは!」
ついにこらえきれずに、藍は笑った。
頭に手をやり、大声で。
家の中まで響くほど、実に愉しげに。
「ら、藍様! 何で笑ってるんですか! 私、怒ってるんですよ!」
「ははは! いやごめん! 確かに私は悪い主だ、くくっ。そして橙。あなたは本当に私の式なのね。流石だ、驚いたよ!」
「そんなことより説明してください! いつどこで怪我したんですか!」
「ははは、ん。これはもう大丈夫。えーと、ちょっと転んで床でこすっただけさ」
「こ、転んだ!?」
「……うんまあ、転んだの」
「藍様でも、転んで怪我するなんてことあるんですか!?」
「……そう! 私もまだまだ未熟ってことよ!」
信じられない、といった顔つきで見上げてくる式に、藍は恥じる風もなく、豪快に宣言して、胸を張った。
そしてまた、はっはっはと高らかに笑い出した。
橙はわけのわからない様子で、首をかしげる。
「藍様、嬉しそうですね」
「うん、嬉しいよ」
「未熟なのが、嬉しいんですか?」
「そうだよ。それは、まだ成長できるってことだから。わかるかな?」
藍の瞳の色が、深くなっていく。
「私だけじゃない。橙も妖夢もだ。私達は未熟だ。だからこそ、まだ成長できる。
それが、私たちに許されている。それは、とても大切で、素敵な特権なの」
橙は主の教えを、心に刻んでいる。
「特にお前達二人は凄いよ。帰ってきて、二人とも凄く成長してることに気がついた。
私から見ても眩しいくらい。いいわね、若いって」
「藍様……」
しかし、橙の不安な表情は解けなかった。
「じゃあ、傷はもう大丈夫なんですね」
「ああ。もう手当もちゃんとしてある」
「藍様は……怪我してるからお風呂に入らないわけじゃないんですね?」
「ああ、そっか。そのことを心配してくれたのか」
優しい子だ。と、藍は橙の頭を撫でてやった。
「ありがとう橙。見なさい。私はぴんぴんしてるよ。こんな傷どうってことない。お昼御飯の支度があるだけだよ。
だから、妖夢と一緒にお風呂に入っておいで」
「藍様!」
ようやく、いつものように、橙が飛びつく。
おっと、と藍は優しく抱きかかえた。
三日ぶりに、日に焼けた髪の毛に頬をよせる。
よく頑張ったね、誇らしかったよ、と心の中で褒める。
口に出せば、気づかれてしまうかもしれない。
本当のことを話せば、橙は傷つき、泣いてしまうだろう。
でも、いつかは話してあげてもいいかもしれない。
自分を脅かす存在になった、その時には。
優しく強い主は、成長した最愛の式に、体と尻尾を、きつく抱きしめられた。
と、そこで藍は違和感を感じた。
ん?
何かおかしいぞ。確か橙は……。
はっ!
藍が気が付くと同時に、橙は飛びのいた。
その顔は、帰ってきたのと同じく泥んこである。
そして、今その式に抱きつかれた主は……。
藍が頬を触ると、そこにはべったりと土の感触があった。
尻尾には泥の手形がついている。
「これで、藍様もお風呂に入らなきゃダメですよね」
「……………………」
橙がニィッと笑って、駆け出した。
藍はしばし呆然としていたが、
「…………こらあ! 橙!」
「へへーん」
橙は屋根へと飛び移り、二跳びで屋敷の反対側へと回った。
その後を、藍も同じ動きで追っかける。
「やっぱり橙は悪い式だ! 待ちなさい!」
「こっちまでお~いで!」
「主に悪戯するなんて、もう怒ったぞ~! 久しぶりに、お仕置きが必要ね!」
「だって嫌だったんですもーん! 仲間外れは駄目だって、藍様に教わりましたよ!
だから、藍様もいなきゃ入りません! みんなで一緒に、お風呂に入りましょうよ!」
「待ちなさい、橙ー!」
尻尾が尻尾を追いかける。
二人にとっては恒例の、八雲式鬼ごっこが始まった。
でも、未熟な橙は気が付けない。
それは二人にとって、本日二度目の鬼ごっこだったということに。
(おしまい)
出だしのギャグタッチとようかんを求める過程での妖夢と周囲の描写など非常に良かったです。
ただ異常を感じた永遠亭メンバーが結局最後まで出てこなかったのが「んー?」といった感じに
永琳あたりが企みに気づいて見守ってたのでしょうが、何も描写がなかったのでちょっとスッキリ
しない感じが残りました。
前回のゆゆさまの悪戯がそんな複線になってたとは!ゆゆさまや藍さまの未熟さも絶妙で楽しかったです。
けっきょくようかんが何の隠喩かはっきりとはわからなかったです。陽観? あるいは お菓子を楽しむこころとか?
ようかん食いたい、わはー
ゆかりんや映姫、神様たちはもっと強いのか
それはさておき前作からの伏線といい、お見事でした
それにしても、変化してる藍様かっこいい。よくよく見直せば、妖忌と戦ったとか、結界や妖術を使ったりと、所々に複線があったんですね。
紫とか他の方々の陰に隠れてて、藍様がしっかりと強い話ってあんまり見ない気がするので、なんか嬉しかったです。主が最強すぎるだけで、藍様も十分トップクラスの妖怪なんですよねー。
とりあえず、また次回作を楽しみにしています。無理せずに頑張ってください。(お風呂シーンも書いちゃえば(スキマ
妖夢の成長ぶりが良かったです
最後はやられたなぁーw
とてもよい話でした。凄いまとまってますね。
私もこんなふうに書けるようになりたいです。
貴方のようかんのお陰で忘れてた物を思い出せた気がします。有難うございました!
最後の戦闘シーンの、刀を投げる情景が最高でした。
終わりのゆゆ問答はもちっとアッサリ仕上げにしてもいいかもしれません。比喩に比喩が重なって大変な事に。いや、むしろこれが東方か。
素晴らしいSSをありがとうございました。
私は栗ようかんが好きですねぇ。コリコリとした栗がまた微妙に噛みにくくて。
久々にあのおいしさを思い出しました。私の好きなようかんを食べに行く気になりましたね。
甘さの中で噛みにくさをも楽しめるように…。
うーん、ここまで素晴らしい物語を見られるとは。
様々な伏線をしっかり最後に落ちに持ってのが素晴らしい。
次回作も楽しみにしてます。
怖すぎです藍様
PNS様の術中に見事にはまってしまったのだろうなあ。
もう一回読む作業に戻ろうかと思います。
比喩では無くて
楽しませて頂きました
途中ニヤっとしたシーンもあったし、吹き出したりもしたけれど最後で「フッ」と裏切られた感じがしました。
それまでの楽しかった感情が一瞬で消し飛んでしまったような気さえしました。
やっぱ藍のほのぼのとシリアスの差が大きすぎたのが原因ですかね。
ただストーリーは本当に面白かったです。
いやいい物を読ませてもらいました
何でポイント伸びないのやら…
タイトルもいいと思うんですけどねぇ
藍はシアンじゃなくてインディゴだorz
妖夢も橙も、もっとずっと強くなっていってくれることでしょう。色々な意味で
妖夢と橙の幻想郷二泊三日りょこ……じゃなくて修業の旅、堪能させていただきました。
二人の関係がまるで姉妹のように思えるくらい仲良く描きだされていて、最後まで楽しく読むことが出来ました。
最終決戦はてっきりオリキャラだと思っていたのでオチにはビックリ。
総合して100点、良いお話をありがとう!
何故フラグ建てたw
しかし、二回目にゆったりと読んでみると、ひとつひとつのシーンの描写が細かく、面白いと思う場面を発見し、おおこれがようかんか!と二重の意味で感心させられました。
とても面白かったです。
時間がたち、ふたたび読んだときに気づきました。細やかな、想像を掻き立てられるような描写、随所に見られる笑どころ。そんな、このお話の魅力に気づいたのです
それと同時に、ああ、これがようかんか、と。
駄文になってしまいましたが、何が言いたいかというと、すごく面白かったです。素敵なお話をありがとうございました