紅色の葉が地面を覆い始めたある日。
太陽が僅かに下がり始めた昼過ぎに、紅魔館近くの湖で、チルノは文と談笑をしていた。
文はよく、チルノの下を訪れるのだ。
チルノにとっては、鬱陶しいのと嬉しいのとが半々といったところ。
来たら来たでからかってくるのが癪に障るのだが、来なかったら来なかったで寂しい。そんなところだ。
「でねー、そこにでっかいのが出てきたのよ! 凍らせようと思ったら舌がこう、びゅん! って」
「ほうほう」
「でもあたいは諦めなかったんだよ! 巻きついた舌を必死に引きはがしてね、『パーフェクトフリーズ』!」
「へえへえ」
文は丸太に腰掛け、聞き流しながらペンを走らせ続ける。左手に持っているのはいつもの取材手帳ではなく、小さいメモ帳だ。
もともとチルノの話を新聞にする気はないのだろう。妖精がどうしてたか、なんて記事は誰にも好まれないし、意義もないからだ。
それなのに何故、彼女がここを訪れるのかは、チルノにもわからない。
けれど、来てくれる以上は、友達として接したいのだ。
「でねーそれでねー………」
話し始めて少し経った頃、不意に、違和感がチルノの中に広がった。それは、小さな小さな違和感。
広い湖に、小さな水滴が一粒落ちたような―――――――普通なら気付かないほどの、ちっぽけな違和感。
「……あや?」
「はいはい、何でしょう」
チルノは訝しげな顔で、文を覗き込んだ。
文は書きかけの構図からチルノに目を移す。
文の顔は毎日というほどではないが、三日か四日に一回は見る。そのたびに、可愛い顔をしているな、とチルノは思う。
煌々と照り映える瞳に、さらさらのショートヘア。幼いが整っている顔立ち。可憐、というと幼すぎるし、頼れる人なので男前、というといきすぎだが、その矛盾した要素にはときめくものがある。
そんな文の表情に、少しばかり元気が足りないと、チルノは感じた。
本当にわずかにだが、文の顔に影が見えたのだ。
「……顔色悪いよ」
チルノは心配そうな表情をする、何て事はなく、呆れたような表情で言う。
文が忙しく走り回っていることは知っているし、時々こんな顔をして自分の前に現れるから、いつか言ってやろうと思っていたのだ。
それを聞いた文は目を見開いて、とても驚いていた。
「……そうですか?」
そして、手元のメモ帳に目を落とす。何故か嬉しそうだ。破顔一笑というような笑みを浮かべた。
チルノはせっかく心配してんのに、と内心不満だったので抗議しようとしたが、文はそんなチルノの様子に気がついたのか、うふふと笑った。
「ま、大丈夫です。それより続きをどうぞ?」
「何で嬉しそうなのよ……」
「あなたが心配したってしょうがないでしょ」
「……そうかもしれないけどさ」
また黙ってペンを走らせ始める文をみて、チルノは口を噤んだ。
山での仕事は大変なのだろう。普段と全く変わりない様子なのだが、チルノの子供特有の感性が、文の疲れを察しさせてくれた。
レティに聞いた話では、天狗はシビアな実力重視の社会らしい。実力も人気もある作者なら新聞を書いて暮して行けようが、文の新聞があまり人気でないことはチルノも知っている。
そういう者は他の仕事と掛け持ちだそうだ。何をしているかは話してくれない。
自分に話せるようなことではないのだろうか。
「文ってさ、普段何してんの?」
「何って、こうやって新聞製作を……」
「新聞以外」
「ん~……カメラの修行?」
「……なにそれ」
「いや、文章修業だったかも」
文はあっけからんと言い放つ。見た感じ、どうやら後ろめたい様な事ではなさそうだ。
でも、言い方が悪い。チルノは文のでたらめな事を平気で言うところが好きではなかった。
言いたくないなら、言えないでいいじゃないか。
腹立たしげに、ブルーのショートヘアーをくしゃと掻き上げながらチルノは言った。
「あ~……もう。そういう性格だと、友達少なくなるわよ~」
「いいですよ、別に。というか、友達なんていませんし」
文の言い草に、チルノはむっと口を尖らせた。
友達だと思っていたのは私だけか、この馬鹿。そういいかけて、慌てて自分の腕をギュッと握りしめる。
「……寂しい奴」
「寂しくはないですよ。同僚なら何人もいますし」
チルノはふー、と息を吐き出すとそっぽを向いて、黙った。
チルノの様子を上目使いで見て、文は悲しそうな面影を残しながら、微かに目を伏せる。
「……そういうあなたはいるんですか? 友達」
チクリ、と胸が刺すように痛んだ。
チルノはそんな素振りも見せずに、むっつりとした顔のまま答えた。
「あんたに言われて自信無くなった」
それを聞いた文は少しだけ顔を上げた。
そっぽを向いたままのチルノの後ろ姿を少しの間眺めてから、また顔を下げる。憂いを帯びた表情が、和らいでいた。
「寂しい人ですね」
「……なんかムカつくわね。ていうかさぁ、その気味の悪い敬語は何とかならないの?」
「仕事中ですので」
「あ、そう」
チルノはそこらに落ちていた石を拾って、湖に投げた。薄い霧を割きながら、石は飛んでいく。
そしてぽちゃん、と短い音が辺りにこだました。
石が水を打った音を聞きながらチルノは、これじゃあ埒が明かないな、と考えた。
このまま行くと、前回のように気まずくなってさようなら、ということになってしまう。これ以上の悪循環は避けたいところだ。
となると、言うしかないだろう。何、緊張することではない。ただ文に「家に遊びに来ない?」と言えばいいだけのことだ。簡単じゃないか。
だが、それと同じように、もし断られたらどうしよう。という気持ちも湧き上がってくる。
「……新聞書くのって楽しい?」
「そりゃあ、もう」
「取材ってどんなことでもいいの?」
「ネタになりそうなものなら」
「ネタねぇ……」
文の返事を聞いたチルノは、知らないうちにおどおどしてる自分に気が付き、苦笑した。
考える前にやる。それが自分だろう。
風が、背中を押して流れて行った。
「じゃあ、取材させてあげる」
「……はあ、いや、あなたの話を聞いても仕方がないんですが」
顔を上げた文は、ふわりとした風に髪をあおがれているチルノに、目を奪われた。
昼下がりの、角度のついた太陽の光を受けて燃えるように輝く湖をバックに、氷のような清涼感をもった少女が佇んでいる。それは、とても絵になっていた。
チルノはぼさっとしている様に見える文に焦燥感を覚えたが、断られても無理やり引きずっていこうと考えなおし、ずかずかと文に歩を進めた。
「仕方なくても聞くの!」
チルノは額がくっつくくらいに詰め寄って、じっと目を見詰めた。
文は間近に迫ったチルノの顔をコンマ一秒見つめてから、急にぎょっとしたように身を引いて丸太からひっくり返りそうになり、「あやや!?」と手足をばたばた動かして重力に負けないように最善を尽し、結局ひっくり返ってしまった。
「……ったぁ!」
「……………………ぷっ」
「たたた……」
「あははは! あはははは!……っははははは!」
「……」
「っははは……苦しい……苦し……くくくっ……」
「わ……笑いすぎですよ」
「だって……っくっく……あんなの……お腹が……死ぬ……」
文も頭を擦りながら身を起して、落としてしまったメモ帳を拾った。
それから、指さしながら笑っているチルノをみて、文自身も噴き出してしまった。
静寂な湖に、二人分の笑い声が響いた。
☆
紅魔の湖から少し離れた森の中に、チルノの家は建っていた。基本的な木造の作りで、三角屋根の一階建てである。
ずいぶんと質素な家だが、妖精にしては大きい。これはレティの息がかかっているからこそだ。
本来大きな家を持つというのは、それだけ自分の力を誇示しているということだから、余程実力に自信がない場合は、小さい住処を持つのが普通なのだ。
文は下駄を脱いで、玄関に上がった。微かに木の香りが漂ってくる。天井まで六尺六寸程度、カーペットが敷かれた十二畳の居間に扉が二つ。外から見た限りでは少なくとも五部屋以上はあるだろう。
チルノの家に来たことはあるが、中に入るのは初めてだったため、文は物珍しそうに家の中を見渡している。
「ずいぶん広いですよね。妖精のくせに」
「ほっといてよ。あと、下でレティが寝てるからあまりうるさくしないでね」
「……下? ……ああ、そういうこと」
部屋の隅に、地下に通じると思われる四角い扉があるのを見つけて、よく考えたものだと文は感心していた。
季節の妖怪であるレティは冬ではほとんど反則的な強さを誇るが、逆に冬以外では、そこいらの妖怪よりちょっと強い程度の力しか出せない。
だから、他の三季は誰かに頼ったりして、こっそりと暮らしているのである。
「秋眠ですか?」
「ううん、昨日は『腹式呼吸を極める』とか言って朝方まで起きてたみたいだから。大ちゃんも多分隣で寝てるよ」
「……よっぽど暇なんですね」
文を居間に座らせて、チルノはキッチンに向かった。
冷蔵庫を開けそこから深赤色の氷菓子を取りだす。スプーンで適当に抉り取り木でできた皿に盛りつけ、居間に戻った。
文はチルノが持ってきた氷菓子を見て、棚からぼたもちが落ちてきたような笑みを作った。
「うわぁ! ちょっと前まで里で売ってた『あいすくりぃむ』ですよね。どこから買ってきたんですか?」
里には毎年夏、『アイスクリーム』が売られる。文は珍しいものが大好きなので毎年欠かさず食べていたのだ。
このお菓子は夏限定なので、すこぶる人気がある。季節外れのこの時期に食べられるとは思ってなかった。
チルノは氷菓子の乗った皿をテーブルにおいて、ふふふと不敵に笑いながら座った。
「それね、アイスクリームじゃないんだよ」
「はあ? だって……」
「食べればわかるわよ」
どう見ても、アイスクリームだ。漂う氷霧がそれを示している。
言われた文はとりあえず一口、スプーンを運んだ。
口に広がったのは、目の覚めるような冷たさと、ラズベリーの甘酸っぱさ。ラズベリーのアイスは食べたことがなかったが、美味い。
すっきりとした味で、後味に残るラズベリー独特の甘さが何とも言えない。
しかし、食べてみてもわからない。これはあいすくりぃむではないという。本当だろうか。
「あいすくりぃむじゃないですか、これ」
「違うよ。ジェラートっていうの」
「じぇ……?」
「アイスクリームよりもシャリシャリしてるでしょ」
文はもう一口食べた。
確かに、しゃりしゃりとした歯ごたえがある。
「これはシャーベットを固めたような感じで……何ていうのかな……」
チルノはこみかめに指をあてて、説明しようとするが、うまく言葉が浮かばなかった。
文は気にした様子もなく、ジェラートにパクついた。
「まあよくわかりませんが、凄く美味しいです。特にこの新しい食感が……しゃりしゃりという口当たりが心地よく、あいすくりぃむよりも数段上の存在感。さらに新しい味のバリエーションが新鮮で、フレッシュな後味が溜まりません」
「よく喋るようになったわね」
「美味しいもの食べるとテンション上がるじゃないですか」
「メモしなくてもいいの? それ」
「取材手帳は家に置いてきてしまいました」
「メモ帳に書けばいいじゃん。持ってたでしょ」
「え……いや、まあ。あはは」
「……?」
「いやあ、これ、凄くおいしいですね。あはは」
チルノは怪訝な顔をしたが、美味しい美味しいといって食べる文を見て、満足そうに笑った。途中一気に食べ過ぎて頭を押さえて「いたたた」と唸る文を見てまた笑う。文も恥ずかしそうに笑ってごまかした。
肌寒い季節なのに、心から温かくなるような楽しい時間が過ぎていく。
少しして、ジェラートをたいらげた文はごちそうさまと手を合わせた。
「よかったらレティさんにこれの取材をさせて頂きたいのですが」
「何でレティ?」
「だから、これを作った人に取材するんです」
それを聞いたチルノはずる、と滑って床に手をつく、そしてやたら不機嫌な声で言った。
「それを作ったのは私! 私が作ったの!」
「……はあ? まさか」
「信じなさいよ! まったく私をなんだと思ってんのよ!」
「おつむの足りない子」
「馬鹿にするなぁ!」
チルノの腕ぐるぐるパンチを、文は黙って受けた。ぽこぽこという迫力のない打撃音が聞こえた、ような気がした。
「本当にチルノさんが作ったというなら、証拠を見せてくださいよ」
「む~! わかった。台所に来なさい!」
チルノがドスドスと大股開きでキッチンに向かう。
文はそんなチルノの様子を見て、微笑ましそうにくすっと笑いながら、立ち上がった。
☆
文は新聞記者である。そのため、驚くようなことはたくさん見てきた。
驚くようなことでなければ記事にならない、というのもあるが、文自身そういうのが無情に好きだったからだ。
ただし、好きといってもモノにもよる。
男勝りの魔法使いが、実は至極乙女心満載でうふふと笑いながら人形を弄ってたのを見た時は心臓が口から飛び出すほど仰天した。が、その近くにあった研究中の、一滴で大人六十万人を殺傷できる特殊なカエルの毒素については「へぇ、すごいですね」であった。
どこぞの門番が実は物凄く積極的で熱烈なのを知った時は、全身の血が沸騰するような興奮を覚えた。が、その門番が育てていた百種類近くの花々については「ふぅん、すごいですね」であった。
サディストで知られている花の妖怪が、実は子供に弱くて、たくさんの妖精から慕われているのを聞いた時は、肉が弾けるような脈動を感じた。が、その妖怪の殺戮能力については「はぁ、すごいですね」であった。
つまるところ、ネタ次第なのである。なにが得意だろうが、所詮は妖精だ。
妖精がどうであろうが、決して驚かない。はずだった。今の今まで。
「お……おぉ!?」
「どう! 見直したでしょ!」
「確かに……」
ごくりと唾を飲み込む。
「……凄い」
文は無意識にカメラを向けると、シャッターを切った。
一粒一粒が立ち、眩い光を放つ白米。
素朴だが、上品なスープ。
分厚い肉にはバターが乗っており、そのサイドには茹でた人参とポテトが盛り付けられている。
小さい皿にのったサラダは、綺麗なドレッシングがかけてある。
その向こうの大きな皿には、数々のフルーツが山になっていた。
秀麗、である。
王族しか食べられないほど豪勢な食事だ。
このレベルのものが見られるとは思っていなかった。まるで、全体が透き通るよう。
というか、透けていた。
「まさか氷像でここまで表現できるとは……感服です」
「もっと褒めてもいいわよ!」
チルノは凍てつききった台所で、胸を張っていた。
文はカシャカシャと一しきり写真を撮った後、チルノと向き直った。
「でもあのあいすくりぃむを作れるという証明にはなりませんよね」
「え! ウソ!?」
「馬鹿ですか。あなたは」
「でもジェラートもアイスクリームも材料足りないし。あるのリンゴくらいだし」
チルノはごそごそと林檎を木箱から取り出した。かなりの貯えがあるようだ。
五尺四方の木箱は様々な木の実でいっぱいになっていた。栗の実や柿、林檎、その他諸々がひしめいている。
「リンゴでさっきのは作れないんですか?」
「作れるけど、材料がないんだってば」
チルノはポンポンとキッチンデスクにおいてあった本を叩いた。『冷たいデザートの作り方』とポップな感じで書かれた表紙には、美味しそうなプリンの写真が乗っけてあった。
文は手にとって、ペラペラと適当にページをめくる。どのページにも材料やらデザートの名前やらが書いてあったが、文には聞きなれないものが大半だった。
最後のページにはアリス・マーガトロイド著、協力パチュリー・ノーレッジと書かれている。紅魔館の大図書館のものだ。
どうやら、本当にあれを作ったのはチルノらしい。本の所々にアンダーラインが引かれており、細かいメモやコツまでもが書き込まれている。意外に、真面目に勉強しているらしかった。
文はパタン、と本を閉じていった。
「じゃあ、リンゴで我慢しましょうか」
「このままでいい?」
「お客さんに出すんですから、剥いてくださいよちゃんと」
「……めんどくさいなぁ」
「ったく」と悪態をつきながらも、チルノは戸棚からまな板と果物包丁を取り出した。まな板は表面にたくさんの裂傷があり薄黒く変色している。かなり使い込んでいそうだ。対照的に小振りな包丁は、白刃がぎらと光るほど真新しく見える。手入れは行き届いているようだ。
チルノは柔らかく林檎を握りしめ、刃を合わせた。そして、押すようにして刃を入れる。
刃は滑るように、皮を切り裂いていく。しゅるしゅると慣れた手つきで、林檎を回しながら剥いていった。
途中皮が切れるなんてことはなく、最後まで剥いてから皮を切り取り、林檎の果肉を器用に六つに切り分けて、真ん中の種を切り出した。
皮にも種にもぎりぎりの果肉しか付いていない。ほとんど無駄がない剥き方だった。
「巧いですね」
「……そう?」
文は螺旋状になった皮を摘みあげて感嘆の声を漏らした。
皮の幅がほとんど乱れていない。包丁が安定している証拠だ。
「……相当ですよ」
「大ちゃんとか、レティとか頼りないからさ、私がしっかりしてないとって身につけたものなんだけど」
「……何で包丁使い?」
「馬鹿ね、お姉ちゃんと言えば料理が上手に決まってるじゃない」
チルノは戸棚からボールを出した。木でできた簡単なボールだ。それを持ってキッチンの隅に行き、水かめから汲み置きの水をポールにすくって入れ、それに塩を混ぜ、塩水を作る。
さらにその塩水に浸るように切った林檎をつける。
こうすると林檎の酸化を防げる。つまり、林檎が茶色に変色するのを防げるのだ。
一分と経たないうちに林檎を水から引き揚げる。
それから、さっきの氷像の隅に氷の皿を一つ追加した。その上に林檎を盛り付ける。
「ねー、リンゴ酢って疲れがとれるらしいわよ。あんたにぴったりね」
「だから、疲れてませんって」
文はひょいと林檎を取って、齧りながら言った。
「まぁ、気に入らないことならありましたけど」
「ふぅん、山での仕事のこと?」
「そうです。まったく、あの爺はうざいんですよ。ちょっと鼻が高いからっていい気になって。大体、神奈子様が移動してきたときももっと迅速に動くべきだったんですよ、上は。懐柔して結果オーライでしたけど、もし話のわからない奴らだったら……」
そこまで一気に話してから、チルノがテーブルに肘を乗せ、にこにこと笑いながらこっちを見ているのに気づいて、コホンと咳払いをした。
「どうしたの? 続けていいよ」
「いえ、これでも情報部出身です。これ以上話すわけにはいきません」
うっかりと愚痴ってしまったことに、多少悔しいようなを表情をする文。
チルノはやっと、文が自分を話してくれたことに、嬉しさを感じた。いい気分だった、ともいえる。
「じゃ、好きなことを教えてよ。趣味でも得意なことでもいいわよ」
「……新聞」
「新聞以外」
「……知り合いが将棋をやってますが私は強くないですし……う~ん、絵は割と得意なんですがね」
「絵、描けるの? 何か意外」
「カメラがない時代の新聞をどう作ったと思っているのですか。まあ、苦労はしましたけど」
「……何でそんな面倒なことをしようと思ったの?」
「ああ~それはですね……」
文はバツが悪そうに頭を掻いてから言った。
「さっきも言いましたが、私は情報部の出だったんです。それが面倒くさくてだるくて。それで、新聞を作ることにしたんですよ。めんどくさいのが嫌だから、更に面倒な絵の修業、文章の修行、新聞の作り方を勉強したわけです」
「なるほど。怠惰を求めて勤勉に行き着くっていうやつね」
チルノが林檎を齧りながら言うと、文が首を傾げた。
「よくまあ、そんな難しい言葉を知ってますね。あいすくりぃむも作れるそうですし、どこで勉強してるんですか?」
「紅魔館に面白いのがいてさ、中国と遊んでた時に知り合ったんだけど、いつも地下で暇してるらしくて。それで、いっしょにでっかい図書館に遊びに行ってるの」
齧ろうと摘んでいた林檎が、ぽとりと膝の上に落ちた。
そのまま、文は林檎を拾いもせずに、チルノを凝視した。
「……あの、その子の名前、知ってますか?」
「もちろん、友達の名前くらい知ってるよ」
「その子がどんな子なのかも知ってますか?」
「面白い奴だよ」
「その子がどんな立場なのかも……」
「偉い奴の妹だって言ってた」
「……その子の名前は?」
きょとんとしてから、チルノはその名前を口にした。
「フラ――――」
「ああああああああああ!」
文は全部を聞き終える前にチルノの肩を掴んで押し倒した。
どたっと床に押し付けられたチルノは何が起こったのかわからず、目を白黒させた。
「い、いいですか。もうその子とは会っちゃだめです。絶対だめです。わかりましたか?」
「え? なんで……」
文はぎりっと歯噛みすると、胸倉を掴んでいる手に力を込める。
「危ないからですよ! 危ないの! わかる!? 危険なの! あなたはなんて綱渡りをしてきたの!? 命が幾つあっても足りないわよ!」
文は馬乗りになって、チルノをがくがくと揺すった。
フランドール・スカーレット。第一級危険人物。
快楽的に物を破壊するのが趣味な、少々気の狂った可愛らしい妹君である。
その扱いは困難を極め、レミリアでさえ手に負えないという。
そんな愛くるしい姫君と戯れるというのは、言わばいつ爆発してもおかしくない爆弾を抱き枕にして眠るような、ロープなしでバンジージャンプに望むような、パラシュートなしでスカイダイビングを行うような、自殺行為にも等しいものなのだ。文が動転するのも無理はない。
「ま、まって! ちょ、落ち着きなさいよ!」
チルノが叫ぶと、文ははっと我にかえって、横に倒れ込むようにして離れた。
チルノは胸元を押さえながら、はぁはぁと荒い息を吐いた。
「……失礼しました。取り乱してしまって」
文が申し訳なさそうな表情で、謝る。
チルノは息を整えながら、さっき文が言ったことを思い返し、心に黒いものが浮かびあがってくるのを感じていた。
どろどろとした液体が食道や気管支にべっとりとこびりついて取れなくなったような、胸がぎりぎりと締めあげられているような、そんな苦痛と不快感。
チルノは自身の手が震えていることに気がついて、ぎゅっと握りこぶしを作った。
この震えは、何だろうか。なぜ、自分は震えているのだろうか。
何で、こんなに嫌な気分になるんだろう。貶されたのは、私じゃない……。なのに、何でこんなに、嫌な気分になるんだろう。
……いや、本当は分かっている。
分かりたくないだけだ。
この震えは、恐怖。
また、虐められかもしれない。
また、仲間外れにされるかもしれない。
底なしで、剣を喉元に突きつけられたときよりも恐ろしい、恐怖。
「……」
チルノが服を直しながら無言で睨みつけると、文はしゅんと縮まった。
「……」
「あの……」
「……危ないってのはわかんないよ」
「……は?」
文が首を傾げる。
チルノは目を瞑って、怒気を孕んだ声で続けた。
「みんなと少し違うってだけで、軽蔑したりするのはおかしいってこと」
「でも……」
文が言いたいことはわかる。
自分も何度もあいつと遊んでいるから、あいつがおかしいことは解ってる。自分の身が危ないことも何となく解る。
でも。
それでも、離れられない。あいつは自分と重なるんだ。
少し力が強かっただけで恐れられ、友達どころか、自分に近づこうとする妖精すらいなかった。
かといって、力が及ばないから、妖怪にも理解者はいない。
中途半端な溝の中で、一人ぼっちで何日も何日も空を見ながら過ごした日々。妖精たちが戯れるのを遠くで見ながら、醜い憎悪と酷い嫉妬を募らせたあの毎日。
自分が変われたのは、レティと大妖精のおかげだ。
もし、自分がレティに会えなかったら、大妖精に会えなかったら。
自分は笑顔を誰かに向けることはなかったはずだ。
この笑顔は、あの二人に貰ったんだ。
なら、自分にも。
自分にも誰かに、何かをあげられるかも知れない。
笑顔なんて大層なものをプレゼントできなくても、他の何かを、あげられるかも知れない。
あいつは自分と重なるから。
あいつに言われたことは、自分に言われた様な気持になるから。
あいつには友達が必要なんだ。
「でもも何もない! 私とあいつは友達! 決めた! あいつがどう思っても、私はあいつの友達!」
そうだ。
こいつにもくれてやろう。
今の自分がプレゼントできる最高の言葉を。
こいつは何て答えるだろう?
迷惑だと嫌な顔をするだろうか。
いいか、そんなこと。
返品はなしだ。嫌でも受け取らせてやる。
「そんで、あんたも!」
「……え?」
「あんたがどう思おうが、私は友達だと思ってるから! わかった!?」
チルノは、半ばやけくそで叫ぶように言った。
場が、しんと静まり返る。
のど元過ぎればなんとやら。言いたかったことが言えてすっきりした気分になった。しかし反面、流れに任せて自分はとんでもなく恥ずかしいことを言ってしまったのではないか、という羞恥心が込み上げてくる。
でも、もう遅い。後悔先に立たず、である。
文はそれを聞いて、しょぼくれた表情からきょとんとした顔になり、パチクリと目を瞬いて、ぼん、と顔が真っ赤に染まった。
「ばっ!? 何赤くなってんのよ! こっちまで恥ずかしくなるじゃない!」
「違いますよ! 赤くなってませんよ!」
「ついで……ついでだからね! 勘違いしないでよ!」
「わかってますってば……!」
文は顔をそむけて、抗議したが、もう耳まで赤くなっている。隠し通せるものではなかった。
チルノも顔をそむける。すると、自分の手の隣に、文のメモ帳が落ちているのに気づいた。さっきのいざこざで、ポケットから落ちたのだろう。
湖でも、彼女が一生懸命書いていたメモ帳。
それを拾ってみる。思ったより、小さくて軽かった。
チルノは今まで触ったことすらなかったそれを、まるで今までずっと大切にしてきた贈り物のように、愛おしげに見つめた。
小さくて、頼りなくて、よれよれで。そんな小物に、愛着を感じた。
後ろを向くと、文はまだ顔を赤くしていた。頬をかいてみたり、頭を押さえてみたり。慣れない展開に戸惑っているようだ。
そんな彼女を見ていると、ムラムラと別の感情も湧いてくる。
それは、悪戯心だった。
よくも自分にこんな恥ずかしい思いをさせたな、仕返しに恥ずかしいネタでも探ってやる。
そう考えて、ほくそ笑みながらピッとページを弾いた。
刹那、思考が止まった。
「……え?」
そこに書かれていたのは、
「うわああああああああ!」
文が横っ跳びに飛び出して、チルノからメモ帳をひったくった。そのままごろごろと床を転がり、隅っこの壁にぶつかって止まる。
「……」
「……」
「……今の……見ましたか?」
「……」
チルノは放心したように文を見つめた。
「う……ううん。見てない。見えなかった」
「そうですか、それはよかった」
文はほっと一息ついて、身を起こした。
それから少しの時間、二人はだらだらと話をして、すぐに別れた。
外が暗くなり始めた時に、文が「そろそろ帰らないと」と言い、チルノは「バイバイ、来たかったらまた来なさい」といって送り出した。
「また食べに来ますからね」と見えなくなるまで手を振る文に、チルノも手を振ってやった。
文が帰って片付けを終えた後、チルノはぼーっと外を眺めていた。
外はもう暗い。真っ暗ではないが、三丈先も見えなさそうだった。
暗がりの向こうをぼんやりと眺めながら、文の言葉を反芻する。
冷静に考えれば、彼女があれほど取り乱したのは初めてみた。しかも自分を心配してくれて。
それに、あのメモ帳――――――。
なぜ文が自分の下を訪れてくれるのかが、やっとわかった。
それを思い出すと、自然と頬が緩む。
―――――――次はもっとカッコよく描いてほしいな。
またしばらくぼーっとしていると、地下室から二人分の足音が聞こえてくるのに気づいた。
夕食は林檎で許してくれるかなぁ、という呟きが、ぶわりと巻きあがった風に、流されていった。
了
こういうのはとても好きです。
ここまで出来るチルノはちょっと怖いですがこのチルノもまたありかなと。
とても面白かったのでこの点で
原作(紅魔郷)よりのチルノですね
こんなチルノが読みたかった……っ!!
チルノの家庭的スキルの高さに笑ってしまった。
文も結構な乙女でした。。。
文チルよかったです
でも、他の妖精と一線を画した所がありますから色々と優秀だったりするかも知れませんね。
弾幕戦ではいっぱいいっぱいですがw
次回は、ルナ姉と妹さんを是非とも。
すらすら苦無く読めた。
でも、でもなんてチルノがお馬鹿さんじゃないんだ!!!!!11111
こういうチルノって良いわー
文チル好きの私としては泣きたくなるような素晴しい作品でした。
次を、さあ早く次を書くんだ!
それじゃあ早く早苗霊夢を書く作業に戻るんだ!!
この雰囲気で早霊とか書かれたら信仰心が鼻からあふれちゃう!
次回作も期待しています
さっぱりとしていて甘い雰囲気がとてもツボでした。
良い雰囲気の文チル作品でした。
こういうチルノの方がずっと魅力的だなぁ。