後悔先に立たずとはよく聞く言葉だけれど、いざ自分がそういった状況に置かれてみると、これほど苛立たしいこともない。
何に苛立つのかって? そんなの、自分自身に決まってる。
どうしてあんな血迷ったことを考えたのか。なんであの時思いとどまらなかったのか。
どうして。なぜ。考え始めるとキリがない。
嗚呼、叶うなら一刻前の自分をしこたまぶん殴ってやりたい―――
焼酎のロックが注がれたグラスを傾けながら、私はひたすら憂鬱な気分に浸っていた。
周囲からは愉しげに酒を酌み交わす妖怪たちの笑い声がひっきりなしに聞こえてくる。ああ五月蝿い。
旧都で一番でかいと評判の居酒屋。実際店舗の広さは相当なもので、その上ほぼ満席。
ひとりきりで呑んでいるのは私ぐらいしか見当たらない。当然だ。旧都の妖怪は基本的に馬鹿騒ぎして呑むのが好きなのだから。
最初こそ店内の喧騒に新鮮さを感じる程度の余裕はあったが、それが嫌悪感に取って代わるのにそう時間はかからなかった。
賑やかなのは好きじゃない。他の奴らが楽しそうにしてるのを見るのも我慢ならない。
見るもの聞くもの、ありとあらゆるモノに嫉妬心を抱かずにはいられない私が他人に囲まれて酒を呑むなんて、馬鹿げている。
たまには居酒屋で呑むのもいいか、などと思ったのがそもそもの間違いだったのだ。
長居は無用、さっさと酒飲み干して出ていけばいい。そう思っていられたのもほんの一瞬。
だって、考えてもみなさいよ。一人で呑みにきてそそくさと急いで帰るなんて、いくらなんでも惨め過ぎて泣けてくるでしょう?
「で、だ。そこで私は言ってやったのさ。許せるのは強い奴と勇気のある奴だけだ! ってな」
「ほうほう。流石は勇儀の姐さん、喧嘩の前の啖呵も粋だねえ」
喧騒に交じって聞こえてきた声に、ちらりと視線を遣る。
私が一人で占領している座敷から丁度斜向かいにあたる座敷で、得意げに武勇伝を披露しているのは星熊勇儀という鬼。
鬼は総じて酒好きだが、こいつはそれに輪をかけて酒が好きで喧嘩の時ですら杯を手放さないという筋金入りのうわばみだ。
噂によると杯に注いだ酒を一滴も零さずに戦っているらしいが、絶対嘘だと思う。誰が何と言おうと、絶対私は認めない。
何故って、戦闘の最中にそんなことができるぐらい強いなんて、妬ましいにもほどがあるもの。
……ああ、迂闊にあんなヤツの顔を見たから、無性に妬ましくなってきちゃった。
鎌首をもたげ始めた嫉妬心を静めようとグラスを口元へ運んだ私は、口につける寸前でふと手を止めた。
何処からかはわからないが視線を感じる。件の鬼は取り巻きと一緒に馬鹿笑いの真っ最中。別の相手だ。
さりげなく周囲に視線を巡らせると―――
「………………」
いた。確かにこっちを見ている。
……見てるんだけど。何て言うか、ええと、言葉に詰まる。
あれは桶、でいいのだろうか。座布団の上に置かれた桶の中に入り込み、ちょこんと頭だけ出してこちらを見つめている。
見た目可愛いと言えなくもないが、ここは居酒屋だ。どう贔屓目に見てもシュールという言葉が先に浮んでしまう。
とりあえず、どうして私にそんな熱い視線を送ってくるのか、理由がわからないんだけど。ねえ。
無視して呑むという選択肢は選べない。だってもう気付いちゃったんだもん。
仕方が無いので『何見てんだゴルァ。見せもんじゃねーぞ』的な意思を視線に込めて睨み返してみることにする。
「ひっ……!?」
あ。効果覿面。
見ていて気の毒になるぐらい露骨に怯えて、半泣きになった桶っ子は逃げるように視線を逸らした。
そして。
「ん? どしたのキスメ。ぶるぶる震えちゃって。トイレ?」
「ち、ちが……」
「我慢するのは体によくないよ。ほら、私が持っていってあげる」
「そ、そうじゃな―――」
「いいからいいから、私とキスメの仲じゃないか。遠慮は要らないよ」
何を勘違いしたのか、隣に座っていた提灯スカートの土蜘蛛に桶ごと抱えられて店の奥へと連れて行かれる桶っ子。
「……ふっ。勝った」
メンチ切りで私に勝とうなどとは片腹痛い。
残された私は、勝利の美酒に酔いしれるためにグラスを傾け、
「って、違うでしょ! 何が『勝った』なのよ、何が!」
口元に運びかけたグラスをダン! と座卓に叩きつける。
いけない、私としたことがみっともなく取り乱してしまった。嫉妬心、嫉妬心。うん、妬ましい。
今の一連の動作で、周りで呑んでる何人かが奇異の視線をこちらに向けているみたいだけど、気にしない。
ともあれ、ぶしつけな視線を送ってきていた桶っ子は退場してくれた。
これでようやく一人で清々と酒を呑めるというものだ。ああ嬉しい。
気付けば、グラスの中の氷はいつの間にか随分とちびっこくなってしまっていた。
決めた。これ呑み干してもう一杯呑んだら、帰ろう。
そう思ってグラスを持ち上げた、その瞬間。
「―――ちょいとお邪魔するよ」
横から声を掛けられ、思わず手を止めた。
店内の喧騒をものともしない、妬ましいほどによく通る声。この声には聞き覚えがある。
声の主は最初から返事を待つ気もなかったようで、図々しくも私の真正面にどっかりと腰を下ろした。
鮮血の色に似た紅い瞳がこちらを見据え、その双眸に気圧されぬよう私もまた見詰め返す。
店内は相変わらず喧々囂々としている。飲めや歌えやの大騒ぎ。
その喧騒が急に遠くにいってしまったかのような錯覚を覚えるほど、胸の鼓動が急速に激しさを増した。
ときめき? んなわけない。動悸を加速させているのは、煮えたぎる嫉妬の炎。
……気に入らない。まったくもって気に食わない。
当然の権利であるかのように目の前に座っている鬼の顔に向かって、私は容赦なく言葉の棘を叩きつけた。
「何の用? 酒の肴にお喋りがしたいなら他を当たって欲しいんだけど」
「そう邪険にしなくてもいいじゃないか。珍しい顔を見つけたから、一緒に呑もうと思ってね。たまにはいいだろう?」
「冗談。あなたの顔を見ながらお酒を呑むなんて、まっぴら御免だわ」
「つれないねぇ。ま、お前さんらしいっちゃらしいけどな」
くつくつと可笑しげに笑い、星熊勇儀は杯を呷った。
注いであった酒を一息に飲み干し、ぷはぁと下品に息を吐く。
私が顔をしかめたことに気付いたらしく、勇儀は「これは失敬」とおどけた調子で頭を下げた。全然悪いと思ってないわね、こいつ。
空いた杯にさっそく新しい酒を注ぎながら、目だけを私に向けて勇儀が言う。
「それにしても、今日はどういう料簡で来たんだい?
お前さんがこんな所に酒飲みに来るなんて、なんぞ悪いことでも起きる前触れなんじゃないかと勘繰っちまう」
「……私が居酒屋に来ちゃいけないって言いたいの」
ふん。あんたに言われるまでもない。私だって場違いだってことぐらい自覚してるわよ。
感情を隠そうという努力もしなかったので、私の顔はさぞ醜く歪んで不機嫌そうに見えたことだろう。
さりとて勇儀は慌てた様子もなくのんびりした口調で言葉を続ける。
「いやいや、そうは言ってないさ。むしろ逆さね」
「逆?」
「あんたが頻繁に店に顔を出すようになれば、誰もそんなことは思わない。
私も酒を酌み交わす相手が増えて嬉しいし、あんたも楽しく酒が呑めて一石二鳥。
ほら、皆幸せになれる素晴らしい考えだと思わないか?」
私に笑いかける勇儀の視線には、迷いとか躊躇いとかそういうマイナス方向の感情が一切なかった。
下らない。何を言い出すかと思えば、愚にもつかぬ寝言の類か。
酔っ払いに道理を求めるほど私も馬鹿ではないけれど、流石にこの言い分は聞き過ごせない。
何処までも能天気な鬼に対し、私は唇の端を精一杯吊り上げてせいぜい酷薄に見えるように嗤ってみせた。
「皆幸せ? 馬鹿言わないでよ、幸せなもんですか。
星熊勇儀。この際だからはっきり言わせてもらうけど、私はあなたが嫌い。大がつくほど嫌いよ」
そう。わざわざ言の葉として口に出すまでもなく、私はこの余裕ぶった鬼が大嫌いだった。
理由なんて、それこそいくらでも挙げられる。
私より強いのが妬ましい。私より大きな体が妬ましい。私より胸が大きいのが妬ましい。私より人望があるのが妬ましい。
いつも楽しそうにしているのが妬ましい。いつも誰かと一緒にいるのが妬ましい。お酒を心の底から美味しそうに呑めるのが妬ましい。
星熊勇儀という鬼を構成する、全ての要素が妬ましい。
所詮私は旧都の妖怪からさえも下賤と評される、嫉妬狂いの卑しい橋姫。私と知った上でなお寄ってくる者など殆どいない。
そんな私が屈強な鬼の中でも一目置かれる勇儀に対して、妬み嫉みを抱かずにいられるわけがない。
私には無いモノをたくさん持っている勇儀。
じゃあ、私は勇儀に無いモノを一つでも持っているのか? 答えは言うまでもないだろう。
今でさえ、こいつが気まぐれで私に構う、ただそれだけで胸の奥の嫉妬心が狂おしい程に猛っているというのに。
これ以上一緒にいる時間が増えたら、それこそ発狂してしまうに決まってる―――
「大嫌い、ね。これまたえらく嫌われたもんだねえ、私も」
言葉の内容のわりには悲しげな様子でも寂しげな様子でもなく、勇儀はからからと笑って杯に口をつけた。
その余裕綽々の態度が余計に私を苛立たせる。
「ふん。私なんかに嫌われても痛くも痒くもないってこと? さすが、旧都の人気者は違うわね。妬ましいったらないわ」
「妬ましい―――か。お前さんの口癖だよな、それ」
「だから何? 他人を妬むのは悪いことだとでも言うつもり?」
「まさか。私にそんなことを言う資格はないよ」
当たり前だ。
私は嫉妬心を司る橋姫。その私に向かって「妬むのをやめろ」と諭すことは、私という存在の全否定に他ならない。
「何故って、私自身がお前さんに嫉妬してるからね。自分が自制できないことを他人に押しつけるわけにもいくまい」
「―――え?」
一瞬、耳を疑った。
目の前で酒を呷り続けるこの鬼は今なんと言った。
他愛のない世間話のような気安い口調で、何を言った?
「どうした。式神が水鉄砲食らったような顔して」
鬼の声に我に返る。
見ると、勇儀がにやにやと笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいた。
心底愉しそうな勇儀の顔を見て、私は全てを理解した。
「……からかったのね。私を」
口から滑り出た声は、自分でもびっくりするぐらい低く、くぐもっていて。
この場に鏡が無いのは僥倖と言うべきなのかしら。
私とて、怒りを内に秘めた般若の如き形相の自分と対峙したくはない。
「からかった? さて、何のことかねぇ」
わざとらしくそっぽを向いて耳をほじる勇儀。
今まさに現在進行形でからかってるじゃないのよ、この酔っ払いが。
「ふぅん、とぼける気なの。鬼は嘘を吐かないのが誇りなんじゃなかったかしら」
「嬉しいねえ、よく知ってるじゃないか。その通り、鬼は嘘を嫌う。卑怯な振る舞いなどもってのほかだ」
「じゃあ今のあなたの振る舞いは、その鬼の誇りとやらに鑑みて、どうなのかしら?」
ふふん。どうだ、いいわけできまい。心にもないことを言うあんたが悪いのよ。
気に食わないこの鬼をうまい具合に言い包めることができた達成感に、自然と頬が緩んでしまう。
どうせ酔いにまかせてつい口を滑らせたってところでしょう。鬼のくせに酒に足をすくわれるなんて、滑稽ね。
「別にどうもしないさ。なにせ私は嘘を吐いちゃいないからね。恥じる必要が何処にある?」
しかし敵もさる者。
私の対面に座ってから一貫して変わらぬ不敵な笑みを浮かべたまま、勇儀はもったいぶった調子で話を続ける。
「なあパルスィ。私の言葉をもう一度、よーく思い返してごらんよ」
「は? 何を今更―――」
「いいからいいから、騙されたと思って、な? 私は最初『お前さんに嫉妬している』と言ったね」
こいつがどういうつもりなのかはわからない。
わからないが、笑顔の裏に言い知れぬ迫力を感じ、威圧感に圧されるままに相槌を打ってしまう。
……ああ、ここぞという時に押しが弱い自分が恨めしい。
「え、ええ、そうね」
「そして『嘘は吐いていない』とも言った」
「…………」
「さて、その二つの事実から導き出される結論は?」
なに? なんなのよ。自信あり気なその顔、むかつくんだけど。
結論なんてもう出てるじゃない。あんたは私をからかうために「嫉妬している」なんて嘘まで吐いて―――
あれ。ちょっと待って。
何かおかしい。そもそも前提からして間違っているような気がする。
私は最初から『勇儀が私を妬むことなどあり得ない』と決めてかかっていた。
だから勇儀が私に「嫉妬している」と言った時も、すぐに嘘だと思い込んでしまった。
けれど、もし。もしもの話だけど。
星熊勇儀が本当に、私に対して―――水橋パルスィに対して何らかの嫉妬心を抱いているのだとしたら?
いや。まさか。そんな。しかし。ねえ?
「その顔、気付いたみたいだね。な、私は嘘を吐いていないだろう?」
ほれ見たことかと言わんばかりに胸を張る勇儀。
普段の私だったら売り言葉に買い言葉、負け惜しみの一言ぐらい投げつけてやるのに。
どうしよう。動揺しすぎたせいか、喉が異様に渇いちゃって上手く喋れない。
なんとか声を出そうと努力しても、中途半端に開いた私の口から漏れるのは「あ、う」といった出来損ないの呻き声ばかり。
そうして無様に口をぱくぱくさせる私の前には、にやついた勇儀の顔。屈辱だ。
「……どうしてよ。どうしてあなたが、私なんかに」
ようやくの思いで、たったそれだけの言葉を絞り出す。
「そんなの簡単じゃないか。自分が持ってないものを持ってるヤツを羨み妬むのは、至極当然だろう」
「だからこそ、わからないのよ。あなたが持ってないものを、私が持っているなんて―――」
私が欲しいと願っても得られないものを全部持っている、星熊勇儀という鬼。
誰にも負けないくらい腕っぷしが強くて、しなやかで均整の取れた身体をしている上に器量も良く、おまけに人望まである。
そんな彼女が、よりによって妬む? 私を?
……ダメだ。どう考えてもあり得ない。
私と勇儀。根本的な部分で私達を分かつ深い溝を再確認しただけの不毛な思考。
嫉妬の炎が再び勢いを増すと同時に惨めな気分が胸の内を満たし、私は思わず顔を俯けた。
「参ったね。どうやらちゃんと口に出さないとわからないみたいだな」
溜め息混じりの面倒くさそうな声。
「パルスィ」
名を呼ばれ、渋々ながらも顔を上げた私はすんでのところで声を上げそうになった。
座卓に身を乗り出した勇儀の顔が、互いの息遣いすら聞き取れそうなほど近くにあったから。
「私がお前さんを妬むのはな、その眼のせいさ」
勇儀の大きな手が私の顎をとらえ、心持ち上を向かされる。
「ああ、こうして近くで見るのは初めてだが、改めて確信したよ。
磨き抜かれた翠玉のような、綺麗な綺麗な緑色の瞳。こんな美しい目玉を持った妖怪は、お前さん以外にいやしない」
紅い眼を細め、口元をうっすらと笑みの形に歪めて鬼が囁く。
この鬼の眼には呪いの類でも宿っているのだろうか。
血の色を連想させる双眸に射抜かれている、ただそれだけで手を振り解こうとする気概さえ奪われていく。
―――胸の鼓動がうるさい。とても。
「それにこの金色の髪も」
顎を掴んでいた手が離れたかと思うと、今度は頬を撫で上げられた。
皮膚の表面に触れるか触れないかのもどかしい感覚に背筋がむずむずしたのも束の間。
「うん、柔らかくて実に触り心地が良い。
こう見えて私の髪は結構な剛毛でね。手入れをしても、こうまで柔らかくはならないのさ」
ゆるくウェーブのかかった私のくせっ毛を梳く勇儀の指は、あくまで優しく。
手を動かしている間も、鬼の紅い眼は私の緑眼を捉えて放そうとしない。
蛇に睨まれた蛙の気持ちがなんとなくわかった気がする。捕食者と被捕食者とでも言えばいいのか。
そんなことあり得ない、あるはずがないとわかっているのに。
今も愛おしそうに私の髪を梳いているたおやかな指が、私の眼球をくり抜く様を幻視した。
嗤いながら手の平の上で翠玉に似た眼球を転がす鬼。その姿が、妙に克明に想像できてしまって。
渇き切った喉を動かして唾を飲み込む。それが精一杯だった。
私を縛り付けていた呪縛が解けたのは、勇儀が唐突にいつもの顔つきに戻って笑いかけてきた時だった。
「と、まぁこんなところかね。納得いったかい?」
そう言って再び杯を手に取る勇儀は、本当に普段通りだったのだけれど。
情けないことに、私はまだ少しびびっていた。
震わせずに声を出す自信がなかったので、間抜けだなとは思いつつも聞き分けのいい子供のようにこくこくと首肯した。
「そうか。わかってもらえたようで、なによりだ」
勇儀が満足げに頷いて杯を呷る。それはもう、美味しそうに。
……妬ましい。妬ましいわ。
思わず歯軋りしたくなっちゃうくらい、妬ましいんだけど。
今更なにを言い返したところで、私の大負けは変わらない気がする。
「まあ、私もついつい興が乗って話し過ぎたな。もっとこう、わかりやすく一言で表現したほうが性に合ってるんだがねぇ」
私が内心で必死に嫉妬の炎を焚きつけているのを知ってか知らずか。
勇儀はにやりと含みのある笑い方をして、こっちを見遣った。
……なぜだろう。なんだかとっても嫌な予感がする。
根拠はない。あえて言うなら妖怪としての勘、かしら。
ヤツにこれ以上言葉を吐かせてはならない。そんな警告めいた危機感が瞬時に膨れ上がる。
が、時既に遅し。
「パルスィ。お前さんは、自分が思い込んでるよりずっと魅力的で面白い奴だよ。それこそ、妬ましいぐらいにね。
鬼の私が言うんだ、これ以上の保証はないだろう?」
「なっ―――」
ダメ。やめて。それはいけない。
この上なく優しい笑顔で、そんなことを言われたら。
顔が熱い。物凄く熱い。お酒呑んで火照ってきちゃったとか、そういう熱さじゃない。
自分の顔が今どんな色をしているのか、手に取るようにわかる。否、わかってしまう。
熱が脳まで回ったのか、くらくらしてきた。
あいつの言葉で声も出せないほどに動揺させられるなんて、業腹にも程があるってのに。
ああ、それなのに、何か言わなきゃと思うだけで頭も口も回らない。
……やっぱり、ここに鏡が無くてよかったと思う。
完熟のトマトみたいに顔を真っ赤にしてる自分を視覚で認識したら、恥ずかしくて死にたくなるだろうから。
やばい。どうしよう。目眩がする。顔が熱い。熱いのよ。
私の頭がいい感じに茹だりきった、まさにその時。
止むことなく延々と店内を満たしていた他の客どもの喧騒が、ぴたりと静まった。
次の瞬間、今まで以上の喧しさを伴って店中の客という客が沸き立った。
「―――え? ちょ、なによこれ……!?」
何が起きたのか訝る暇もあればこそ。
店内は怒号にも似た喚き声で溢れかえっており、もう何が何やら。
周囲を見回しても、拍手をしている奴、大笑いしている奴、果ては泣いている奴まで。何なんだ、いったい。
と、そこまで見回してふと気付いた。
目の前で懸命に笑いをこらえている鬼―――星熊勇儀の存在に。
嫌な予感というかほとんど確信に近いモノを胸に抱きつつ、私は眼前の鬼を睨みつけた。
私の視線に気付いた勇儀が、全然悪びれた様子もなく笑いながら言う。
「ま、そろそろ頃合いかね。実はな、パルスィ。私はこの店で呑んでいる連中とある賭けをしていたんだよ」
「……賭け?」
「うむ。お前さんの顔を花も恥らう乙女のごとく赤く染めることができたら私の勝ち。
逆に仏頂面を崩せなかったら連中の勝ち、ってな具合にね。いやぁ、私も結構焦ったよ。
負けたら今ここにいる奴ら全員に一杯ずつ酒を奢る約束だったからねぇ」
周囲に視線を投げる勇儀に倣い、いま一度周りの客たちに目を向ける。
青天井だった喧しさもいくらか落ち着きを見せ始め、耳を澄ませるとかすかに周囲の会話の内容を聞き取ることができた。
「流石は勇儀の姐さんだ、殺し文句が痺れるねぇ! お見事!」
「あの橋姫が顔真っ赤にしてるところなんて、見たいと思ってもなかなか見れるもんじゃないぜ。いやー、いいもん見せてもらった」
「賭けに負けたのは残念だが、なかなか面白い見世物だったなぁ。
しかし、姐さんと橋姫、べっぴんが差し向かいで呑んでる様は絵になるねぇ。酒が進むこと進むこと」
聞こえなければよかった、と激しく後悔した。
要するに、店中でグルだったってこと? ふざけんなと大声で叫びたい。むしろ一人一発ずつ殴らせろ。
怒りと恥ずかしさ、その他もろもろの感情を腹の中でごった煮にしながら俯いていると、肩をぽんと叩かれた。
上目遣いに見上げた私の視線と、勇儀の同情の眼差しとがもろにぶつかる。
「お前さんが気付かなかったのも無理はないから、そう気を落とすな。何せあの喧しさだ、こっそりと伝言を回すのも容易い」
ええ、ええ、そうでしょうとも。
何も知らない私を陰で笑いながら酒を呑むのはさぞ楽しかったでしょうよ。
「でも結果的にお前さんを嫌な気分にさせちまったのは事実だからな。それについては謝ろう。すまなかった」
珍しく神妙な表情で言って、勇儀は言葉通りに頭を下げた。
……なによ、それ。ずるいじゃない。
今更そんな風にしおらしく謝るなんて。
私にいったいどんな顔しろっていうのよ。
こちとら怒りのぶちまけどころを探している真っ最中だっていうのに。
このままじゃ感情の捌け口が見つからな―――
「よし、謝ってすっきりした! これでチャラだな。さあ呑み直そう。安心しろ、パルスィの分は私の奢りだ」
ぶち、と。
自分のこめかみの辺りから、鳴ってはいけない音が聞こえたような気がした。
「いやいや、パルスィもこれでめでたくこの店の常連だな。次からは気兼ねなく私の座敷に来るといい。歓迎するよ」
清々しい笑顔で勇儀が右手を差し出してくる。
「なに、私はいつもあそこの席で呑んでいるから、お前さんでもすぐにわかる。
誰かしら同席してるだろうが、気にする必要はない。気のいい奴らばかりだからな。それと―――」
「ねえ、勇儀」
「ん? なんだい」
「一つ確認しておきたいことがあるんだけど」
「おう、いいよ。何でも訊いておくれ」
「じゃあ訊くけど。結局、あなたは私をからかっていたのよね?」
「ん。さっきのやりとりのことを言ってるのか? まあ、有り体に言ってしまえばそうなるのかな」
勇儀は握手をするために突き出していた右手を引っ込めて頬を掻く。
うん。それを聞いて、安心した。
自然と顔が綻ぶ。
「なるほどね、納得、納得―――」
笑いながら、私は飲みかけの焼酎が入ったままのグラスを手に取った。
どうするのかって? こうするのよ。
「―――なんて言うとでも思ったかこのバカ鬼が」
グラスの口を外側に向け手を思い切り水平に振り抜く。
当然、中に入っていた液体はぶちまけられ、目の前にいた勇儀はもろに引っ被った。いい気味だ。
いきなり濡れ鼠になって目をぱちくりさせている勇儀とさっきまでとは別の理由でざわめいている客達を尻目に、
私はことさら平静さを見せつけるようにしてゆっくりと腰を上げる。
「帰るわ。あなたの奢り酒なんて呑みたくないし」
ざわつく店内を悠然と横切り、往来に面した出入り口に向かう。
最後に多少は溜飲を下げられたとはいえ、胸が透いたとは言い難い。
一秒でも早くここから、あの憎たらしい鬼の眼前から去りたかった。
「待ちな」
背後から声。振り向くまでもない。
だが、無視して出ていくのも逃げるのに必死と思われそうで嫌なので、一応足は止める。
「なによ。引きとめたって無駄よ。あなたと呑むつもりはないわ。金輪際ね」
「酒は楽しんで呑むもの。嫌がる奴を無理に引きとめようとは思わないさ」
飲みかけの焼酎をぶっ掛けられたというのに、背後から聞こえてくる声は普段と変わらず穏やかだった。
酒をぶっ掛けられたことなど取るに足らない瑣末事とでも言いたいのか。自分の寛大さをそんなに見せ付けたいのか。
―――私をどれだけ苛立たせれば気が済むのだろう、あの鬼は。
「物分りがよくて助かるわ。それじゃ」
「だから待ちなって。せっかちな奴だね」
引きとめない。
自分でそう言ったくせに、これ以上なにを待てというの。
「なあパルスィ。お前さん、なにか忘れちゃいないかね」
「……は?」
「私の思い過ごしでなければ、とっても大事なモノを忘れてるはずなんだが」
忘れ物、ですって?
そんなもんある訳ないわよ。そもそも手荷物なんて持ってないし。
「……ひょっとして、謝ってから帰れってこと?」
「いやいや、お前さんが謝る必要なんざこれっぽっちもないさ。悪ふざけが過ぎたのはこっちのほうだからな」
じゃあなんなのよ。
身に覚えのない忘れ物とか、言いがかりにしたって性質が悪過ぎる。新手の嫌がらせじゃないでしょうね。
私が押し黙ってしまったからだろうか。
背後でかすかな溜め息が聞こえた。
「仕方ないね。それじゃはっきり言おう。
―――パルスィ。お前さん、勘定は済ませたのかい?」
「あ」
後頭部を鈍器で殴られたような錯覚を覚えた。
最後にぶちまけたとはいえ、私はちゃんとお酒を注文しているのだ。
ならば、そこに料金が発生するのは必然。
……もしかして私、呑み逃げの一歩手前だった?
その事実に気付いた瞬間、再び顔中の血液が沸騰した。
「食い逃げ呑み逃げは私としても見過ごせないんでねぇ。知り合いなら尚更さ。いや、帰る前に気付いてよかったよかった」
のんきな鬼の声が追い討ちとなって容赦なく私の頭を殴りつける。
よかったよかった、って全然よくないわよ。
これじゃ私、完全に道化じゃない。
今日はあれか。厄日なのか。
日に二度もトマトよろしく赤面するなんて。
それもよりによって、そういう顔を一番見られたくないヤツの目の前で。
今は背中向けてるだけさっきよりマシだけど、どうせ耳まで真っ赤に染まってるだろうからバレバレよね。
やっぱり居酒屋で呑むなんて慣れないことするんじゃなかった。
ああ、後悔っていう字は「後に悔いる」って書くんだっけ。当たり前よね、そんなの。
「どうした? 持ち合わせがないのなら、私が貸してやろうか?」
うるさい黙れ。
さて、どうしよう。
金はある。呑んだ分を払うには充分過ぎるぐらい。
だがここで踵を返してすごすごと料金を払うのは、いくらなんでも間抜け過ぎる。
かといってこのまま呑み逃げするのも勘弁だ。こんなくだらないことで自らの評判を貶めたくはない。
じゃあどうする。どうすればこの場を切り抜けられる?
火照った顔で思考を巡らせていた時間は、ほんの数秒足らずだったと思う。
その数秒の間に、顔からくる熱でショートしかけていた私の頭は何とか信頼に足る答えを弾き出した。
切羽詰ったこの状況を考えれば、どんな答えだろうと出せただけで上出来だろう。
でも。ああ、でもでも。
「……その必要はないわ」
こんなこと言いたくない。
言いたくないんだけど、これ以外に手段が見つからないんだもの、仕方ないじゃない。
「店主。悪いけどツケにしといて頂戴。今度来た時にまとめて払うから」
私がそう告げた途端、店内が三度ざわめきに包まれた。
そう。世の中には『ツケ払い』という支払い方法がある。
支払いを後回しにし、ある程度まとまったらいっぺんに払う決済が。
でもそれは、裏を返せば「また来る」と宣言しているのと同じなわけで。
「おお、そうだったのかい。それならそうと言ってくれればよかったのに。わざわざ呼び止めちまってすまなかったね」
嬉しそうな勇儀の声が癪に障る。
……くそう。笑いたければ笑いなさいよ。
苦々しい思いを噛みしめながら出入り口の引き戸に手をかける。
この店は私にとって鬼門だ。最初から最後までついてない。実際鬼が居座ってるし。
「パルスィ」
―――きっと煤けて見えているであろう私の背中に声を投げかけたのは、やっぱりあいつだった。
「またな。いつになるかはお前さん次第だが、この店でまた一緒に酒が呑める日を楽しみにしてるよ」
背中にかけられた言葉に返事をすることなく、往来へと足を踏み出した私は後ろ手に戸を閉めた。
外に出ると店の中にいた時は気にならなかった冬の寒さが身に沁みる。刺すような風は頬に当たるだけで痛みすら伴う。
着物の襟を掻き合わせつつ帰路につこうとして、さっきまでいた居酒屋をふと振り返った。
戸板越しに窺う店内の雰囲気は、例によって呑めや歌えやの馬鹿騒ぎに戻りつつある。
連中はまだまだ呑み続けるのだろう。旧都に住む妖怪たちは地上を追いやられた暗い経歴のわりには、陽気な馬鹿が多いし。
「……ふん。妬ましいわね」
くだらない与太話に大声で笑って、呑んで、また笑って。
たった戸板一枚挟んだだけの空間が、やけに遠くに感じられる。
あいつらも私も、地上では同じ嫌われ者のはずなのに。
身を寄せ合い、息を潜めて生きていくしかなかった半端者のはずなのに。
旧都での私たちの間には、こんなにも距離がある。
旧都であいつらが手に入れたモノ。安住の地。美味い酒。楽しい宴。陽気な仲間。
それらが欲しいのかと訊かれたら、私は嗤ってこう答える。そんなわけない、と。
だって、それらを手に入れて私自身が満ち足りてしまったら、他者を妬むことができなくなってしまう。
「妬ましい。ああ、妬ましいわ」
だから私は声に出す。
自分自身を戒めるために。言霊で自分自身を縛り付けるために。
私、水橋パルスィという妖怪の根っこの部分にある、大事なルールを忘れないように。
「星熊勇儀。本当に―――妬ましい鬼」
誰かを妬む。
それさえ忘れなければ、私は私でいられる。
……逆に言えば、忘れちゃうと今日のような醜態を晒す羽目になる。
そういう意味では今日の一件はいい教訓になったと言えなくもない。
「ああもう、妬ましいったらないわね。次に会う時は、どうにかして一泡吹か――――――っくちゅん!」
くしゃみが出た。寒風が吹き荒ぶ中、ぼーっと突っ立っていれば体が冷えて当然か。
いい加減、寒さが許容範囲を超え始めている。
鼻をすすり上げ、多数の妖怪たちが行き交う往来へと歩き出す。
風は依然として冷たい。
それでも、今度あの鬼に会ったらどんな嫌がらせをしてやろうか、と前向きに考えを巡らせていると何だか楽しくて。
ひとり往来を行く私の足取りは、不思議と軽かった。
<了>
何に苛立つのかって? そんなの、自分自身に決まってる。
どうしてあんな血迷ったことを考えたのか。なんであの時思いとどまらなかったのか。
どうして。なぜ。考え始めるとキリがない。
嗚呼、叶うなら一刻前の自分をしこたまぶん殴ってやりたい―――
焼酎のロックが注がれたグラスを傾けながら、私はひたすら憂鬱な気分に浸っていた。
周囲からは愉しげに酒を酌み交わす妖怪たちの笑い声がひっきりなしに聞こえてくる。ああ五月蝿い。
旧都で一番でかいと評判の居酒屋。実際店舗の広さは相当なもので、その上ほぼ満席。
ひとりきりで呑んでいるのは私ぐらいしか見当たらない。当然だ。旧都の妖怪は基本的に馬鹿騒ぎして呑むのが好きなのだから。
最初こそ店内の喧騒に新鮮さを感じる程度の余裕はあったが、それが嫌悪感に取って代わるのにそう時間はかからなかった。
賑やかなのは好きじゃない。他の奴らが楽しそうにしてるのを見るのも我慢ならない。
見るもの聞くもの、ありとあらゆるモノに嫉妬心を抱かずにはいられない私が他人に囲まれて酒を呑むなんて、馬鹿げている。
たまには居酒屋で呑むのもいいか、などと思ったのがそもそもの間違いだったのだ。
長居は無用、さっさと酒飲み干して出ていけばいい。そう思っていられたのもほんの一瞬。
だって、考えてもみなさいよ。一人で呑みにきてそそくさと急いで帰るなんて、いくらなんでも惨め過ぎて泣けてくるでしょう?
「で、だ。そこで私は言ってやったのさ。許せるのは強い奴と勇気のある奴だけだ! ってな」
「ほうほう。流石は勇儀の姐さん、喧嘩の前の啖呵も粋だねえ」
喧騒に交じって聞こえてきた声に、ちらりと視線を遣る。
私が一人で占領している座敷から丁度斜向かいにあたる座敷で、得意げに武勇伝を披露しているのは星熊勇儀という鬼。
鬼は総じて酒好きだが、こいつはそれに輪をかけて酒が好きで喧嘩の時ですら杯を手放さないという筋金入りのうわばみだ。
噂によると杯に注いだ酒を一滴も零さずに戦っているらしいが、絶対嘘だと思う。誰が何と言おうと、絶対私は認めない。
何故って、戦闘の最中にそんなことができるぐらい強いなんて、妬ましいにもほどがあるもの。
……ああ、迂闊にあんなヤツの顔を見たから、無性に妬ましくなってきちゃった。
鎌首をもたげ始めた嫉妬心を静めようとグラスを口元へ運んだ私は、口につける寸前でふと手を止めた。
何処からかはわからないが視線を感じる。件の鬼は取り巻きと一緒に馬鹿笑いの真っ最中。別の相手だ。
さりげなく周囲に視線を巡らせると―――
「………………」
いた。確かにこっちを見ている。
……見てるんだけど。何て言うか、ええと、言葉に詰まる。
あれは桶、でいいのだろうか。座布団の上に置かれた桶の中に入り込み、ちょこんと頭だけ出してこちらを見つめている。
見た目可愛いと言えなくもないが、ここは居酒屋だ。どう贔屓目に見てもシュールという言葉が先に浮んでしまう。
とりあえず、どうして私にそんな熱い視線を送ってくるのか、理由がわからないんだけど。ねえ。
無視して呑むという選択肢は選べない。だってもう気付いちゃったんだもん。
仕方が無いので『何見てんだゴルァ。見せもんじゃねーぞ』的な意思を視線に込めて睨み返してみることにする。
「ひっ……!?」
あ。効果覿面。
見ていて気の毒になるぐらい露骨に怯えて、半泣きになった桶っ子は逃げるように視線を逸らした。
そして。
「ん? どしたのキスメ。ぶるぶる震えちゃって。トイレ?」
「ち、ちが……」
「我慢するのは体によくないよ。ほら、私が持っていってあげる」
「そ、そうじゃな―――」
「いいからいいから、私とキスメの仲じゃないか。遠慮は要らないよ」
何を勘違いしたのか、隣に座っていた提灯スカートの土蜘蛛に桶ごと抱えられて店の奥へと連れて行かれる桶っ子。
「……ふっ。勝った」
メンチ切りで私に勝とうなどとは片腹痛い。
残された私は、勝利の美酒に酔いしれるためにグラスを傾け、
「って、違うでしょ! 何が『勝った』なのよ、何が!」
口元に運びかけたグラスをダン! と座卓に叩きつける。
いけない、私としたことがみっともなく取り乱してしまった。嫉妬心、嫉妬心。うん、妬ましい。
今の一連の動作で、周りで呑んでる何人かが奇異の視線をこちらに向けているみたいだけど、気にしない。
ともあれ、ぶしつけな視線を送ってきていた桶っ子は退場してくれた。
これでようやく一人で清々と酒を呑めるというものだ。ああ嬉しい。
気付けば、グラスの中の氷はいつの間にか随分とちびっこくなってしまっていた。
決めた。これ呑み干してもう一杯呑んだら、帰ろう。
そう思ってグラスを持ち上げた、その瞬間。
「―――ちょいとお邪魔するよ」
横から声を掛けられ、思わず手を止めた。
店内の喧騒をものともしない、妬ましいほどによく通る声。この声には聞き覚えがある。
声の主は最初から返事を待つ気もなかったようで、図々しくも私の真正面にどっかりと腰を下ろした。
鮮血の色に似た紅い瞳がこちらを見据え、その双眸に気圧されぬよう私もまた見詰め返す。
店内は相変わらず喧々囂々としている。飲めや歌えやの大騒ぎ。
その喧騒が急に遠くにいってしまったかのような錯覚を覚えるほど、胸の鼓動が急速に激しさを増した。
ときめき? んなわけない。動悸を加速させているのは、煮えたぎる嫉妬の炎。
……気に入らない。まったくもって気に食わない。
当然の権利であるかのように目の前に座っている鬼の顔に向かって、私は容赦なく言葉の棘を叩きつけた。
「何の用? 酒の肴にお喋りがしたいなら他を当たって欲しいんだけど」
「そう邪険にしなくてもいいじゃないか。珍しい顔を見つけたから、一緒に呑もうと思ってね。たまにはいいだろう?」
「冗談。あなたの顔を見ながらお酒を呑むなんて、まっぴら御免だわ」
「つれないねぇ。ま、お前さんらしいっちゃらしいけどな」
くつくつと可笑しげに笑い、星熊勇儀は杯を呷った。
注いであった酒を一息に飲み干し、ぷはぁと下品に息を吐く。
私が顔をしかめたことに気付いたらしく、勇儀は「これは失敬」とおどけた調子で頭を下げた。全然悪いと思ってないわね、こいつ。
空いた杯にさっそく新しい酒を注ぎながら、目だけを私に向けて勇儀が言う。
「それにしても、今日はどういう料簡で来たんだい?
お前さんがこんな所に酒飲みに来るなんて、なんぞ悪いことでも起きる前触れなんじゃないかと勘繰っちまう」
「……私が居酒屋に来ちゃいけないって言いたいの」
ふん。あんたに言われるまでもない。私だって場違いだってことぐらい自覚してるわよ。
感情を隠そうという努力もしなかったので、私の顔はさぞ醜く歪んで不機嫌そうに見えたことだろう。
さりとて勇儀は慌てた様子もなくのんびりした口調で言葉を続ける。
「いやいや、そうは言ってないさ。むしろ逆さね」
「逆?」
「あんたが頻繁に店に顔を出すようになれば、誰もそんなことは思わない。
私も酒を酌み交わす相手が増えて嬉しいし、あんたも楽しく酒が呑めて一石二鳥。
ほら、皆幸せになれる素晴らしい考えだと思わないか?」
私に笑いかける勇儀の視線には、迷いとか躊躇いとかそういうマイナス方向の感情が一切なかった。
下らない。何を言い出すかと思えば、愚にもつかぬ寝言の類か。
酔っ払いに道理を求めるほど私も馬鹿ではないけれど、流石にこの言い分は聞き過ごせない。
何処までも能天気な鬼に対し、私は唇の端を精一杯吊り上げてせいぜい酷薄に見えるように嗤ってみせた。
「皆幸せ? 馬鹿言わないでよ、幸せなもんですか。
星熊勇儀。この際だからはっきり言わせてもらうけど、私はあなたが嫌い。大がつくほど嫌いよ」
そう。わざわざ言の葉として口に出すまでもなく、私はこの余裕ぶった鬼が大嫌いだった。
理由なんて、それこそいくらでも挙げられる。
私より強いのが妬ましい。私より大きな体が妬ましい。私より胸が大きいのが妬ましい。私より人望があるのが妬ましい。
いつも楽しそうにしているのが妬ましい。いつも誰かと一緒にいるのが妬ましい。お酒を心の底から美味しそうに呑めるのが妬ましい。
星熊勇儀という鬼を構成する、全ての要素が妬ましい。
所詮私は旧都の妖怪からさえも下賤と評される、嫉妬狂いの卑しい橋姫。私と知った上でなお寄ってくる者など殆どいない。
そんな私が屈強な鬼の中でも一目置かれる勇儀に対して、妬み嫉みを抱かずにいられるわけがない。
私には無いモノをたくさん持っている勇儀。
じゃあ、私は勇儀に無いモノを一つでも持っているのか? 答えは言うまでもないだろう。
今でさえ、こいつが気まぐれで私に構う、ただそれだけで胸の奥の嫉妬心が狂おしい程に猛っているというのに。
これ以上一緒にいる時間が増えたら、それこそ発狂してしまうに決まってる―――
「大嫌い、ね。これまたえらく嫌われたもんだねえ、私も」
言葉の内容のわりには悲しげな様子でも寂しげな様子でもなく、勇儀はからからと笑って杯に口をつけた。
その余裕綽々の態度が余計に私を苛立たせる。
「ふん。私なんかに嫌われても痛くも痒くもないってこと? さすが、旧都の人気者は違うわね。妬ましいったらないわ」
「妬ましい―――か。お前さんの口癖だよな、それ」
「だから何? 他人を妬むのは悪いことだとでも言うつもり?」
「まさか。私にそんなことを言う資格はないよ」
当たり前だ。
私は嫉妬心を司る橋姫。その私に向かって「妬むのをやめろ」と諭すことは、私という存在の全否定に他ならない。
「何故って、私自身がお前さんに嫉妬してるからね。自分が自制できないことを他人に押しつけるわけにもいくまい」
「―――え?」
一瞬、耳を疑った。
目の前で酒を呷り続けるこの鬼は今なんと言った。
他愛のない世間話のような気安い口調で、何を言った?
「どうした。式神が水鉄砲食らったような顔して」
鬼の声に我に返る。
見ると、勇儀がにやにやと笑みを浮かべてこちらを覗き込んでいた。
心底愉しそうな勇儀の顔を見て、私は全てを理解した。
「……からかったのね。私を」
口から滑り出た声は、自分でもびっくりするぐらい低く、くぐもっていて。
この場に鏡が無いのは僥倖と言うべきなのかしら。
私とて、怒りを内に秘めた般若の如き形相の自分と対峙したくはない。
「からかった? さて、何のことかねぇ」
わざとらしくそっぽを向いて耳をほじる勇儀。
今まさに現在進行形でからかってるじゃないのよ、この酔っ払いが。
「ふぅん、とぼける気なの。鬼は嘘を吐かないのが誇りなんじゃなかったかしら」
「嬉しいねえ、よく知ってるじゃないか。その通り、鬼は嘘を嫌う。卑怯な振る舞いなどもってのほかだ」
「じゃあ今のあなたの振る舞いは、その鬼の誇りとやらに鑑みて、どうなのかしら?」
ふふん。どうだ、いいわけできまい。心にもないことを言うあんたが悪いのよ。
気に食わないこの鬼をうまい具合に言い包めることができた達成感に、自然と頬が緩んでしまう。
どうせ酔いにまかせてつい口を滑らせたってところでしょう。鬼のくせに酒に足をすくわれるなんて、滑稽ね。
「別にどうもしないさ。なにせ私は嘘を吐いちゃいないからね。恥じる必要が何処にある?」
しかし敵もさる者。
私の対面に座ってから一貫して変わらぬ不敵な笑みを浮かべたまま、勇儀はもったいぶった調子で話を続ける。
「なあパルスィ。私の言葉をもう一度、よーく思い返してごらんよ」
「は? 何を今更―――」
「いいからいいから、騙されたと思って、な? 私は最初『お前さんに嫉妬している』と言ったね」
こいつがどういうつもりなのかはわからない。
わからないが、笑顔の裏に言い知れぬ迫力を感じ、威圧感に圧されるままに相槌を打ってしまう。
……ああ、ここぞという時に押しが弱い自分が恨めしい。
「え、ええ、そうね」
「そして『嘘は吐いていない』とも言った」
「…………」
「さて、その二つの事実から導き出される結論は?」
なに? なんなのよ。自信あり気なその顔、むかつくんだけど。
結論なんてもう出てるじゃない。あんたは私をからかうために「嫉妬している」なんて嘘まで吐いて―――
あれ。ちょっと待って。
何かおかしい。そもそも前提からして間違っているような気がする。
私は最初から『勇儀が私を妬むことなどあり得ない』と決めてかかっていた。
だから勇儀が私に「嫉妬している」と言った時も、すぐに嘘だと思い込んでしまった。
けれど、もし。もしもの話だけど。
星熊勇儀が本当に、私に対して―――水橋パルスィに対して何らかの嫉妬心を抱いているのだとしたら?
いや。まさか。そんな。しかし。ねえ?
「その顔、気付いたみたいだね。な、私は嘘を吐いていないだろう?」
ほれ見たことかと言わんばかりに胸を張る勇儀。
普段の私だったら売り言葉に買い言葉、負け惜しみの一言ぐらい投げつけてやるのに。
どうしよう。動揺しすぎたせいか、喉が異様に渇いちゃって上手く喋れない。
なんとか声を出そうと努力しても、中途半端に開いた私の口から漏れるのは「あ、う」といった出来損ないの呻き声ばかり。
そうして無様に口をぱくぱくさせる私の前には、にやついた勇儀の顔。屈辱だ。
「……どうしてよ。どうしてあなたが、私なんかに」
ようやくの思いで、たったそれだけの言葉を絞り出す。
「そんなの簡単じゃないか。自分が持ってないものを持ってるヤツを羨み妬むのは、至極当然だろう」
「だからこそ、わからないのよ。あなたが持ってないものを、私が持っているなんて―――」
私が欲しいと願っても得られないものを全部持っている、星熊勇儀という鬼。
誰にも負けないくらい腕っぷしが強くて、しなやかで均整の取れた身体をしている上に器量も良く、おまけに人望まである。
そんな彼女が、よりによって妬む? 私を?
……ダメだ。どう考えてもあり得ない。
私と勇儀。根本的な部分で私達を分かつ深い溝を再確認しただけの不毛な思考。
嫉妬の炎が再び勢いを増すと同時に惨めな気分が胸の内を満たし、私は思わず顔を俯けた。
「参ったね。どうやらちゃんと口に出さないとわからないみたいだな」
溜め息混じりの面倒くさそうな声。
「パルスィ」
名を呼ばれ、渋々ながらも顔を上げた私はすんでのところで声を上げそうになった。
座卓に身を乗り出した勇儀の顔が、互いの息遣いすら聞き取れそうなほど近くにあったから。
「私がお前さんを妬むのはな、その眼のせいさ」
勇儀の大きな手が私の顎をとらえ、心持ち上を向かされる。
「ああ、こうして近くで見るのは初めてだが、改めて確信したよ。
磨き抜かれた翠玉のような、綺麗な綺麗な緑色の瞳。こんな美しい目玉を持った妖怪は、お前さん以外にいやしない」
紅い眼を細め、口元をうっすらと笑みの形に歪めて鬼が囁く。
この鬼の眼には呪いの類でも宿っているのだろうか。
血の色を連想させる双眸に射抜かれている、ただそれだけで手を振り解こうとする気概さえ奪われていく。
―――胸の鼓動がうるさい。とても。
「それにこの金色の髪も」
顎を掴んでいた手が離れたかと思うと、今度は頬を撫で上げられた。
皮膚の表面に触れるか触れないかのもどかしい感覚に背筋がむずむずしたのも束の間。
「うん、柔らかくて実に触り心地が良い。
こう見えて私の髪は結構な剛毛でね。手入れをしても、こうまで柔らかくはならないのさ」
ゆるくウェーブのかかった私のくせっ毛を梳く勇儀の指は、あくまで優しく。
手を動かしている間も、鬼の紅い眼は私の緑眼を捉えて放そうとしない。
蛇に睨まれた蛙の気持ちがなんとなくわかった気がする。捕食者と被捕食者とでも言えばいいのか。
そんなことあり得ない、あるはずがないとわかっているのに。
今も愛おしそうに私の髪を梳いているたおやかな指が、私の眼球をくり抜く様を幻視した。
嗤いながら手の平の上で翠玉に似た眼球を転がす鬼。その姿が、妙に克明に想像できてしまって。
渇き切った喉を動かして唾を飲み込む。それが精一杯だった。
私を縛り付けていた呪縛が解けたのは、勇儀が唐突にいつもの顔つきに戻って笑いかけてきた時だった。
「と、まぁこんなところかね。納得いったかい?」
そう言って再び杯を手に取る勇儀は、本当に普段通りだったのだけれど。
情けないことに、私はまだ少しびびっていた。
震わせずに声を出す自信がなかったので、間抜けだなとは思いつつも聞き分けのいい子供のようにこくこくと首肯した。
「そうか。わかってもらえたようで、なによりだ」
勇儀が満足げに頷いて杯を呷る。それはもう、美味しそうに。
……妬ましい。妬ましいわ。
思わず歯軋りしたくなっちゃうくらい、妬ましいんだけど。
今更なにを言い返したところで、私の大負けは変わらない気がする。
「まあ、私もついつい興が乗って話し過ぎたな。もっとこう、わかりやすく一言で表現したほうが性に合ってるんだがねぇ」
私が内心で必死に嫉妬の炎を焚きつけているのを知ってか知らずか。
勇儀はにやりと含みのある笑い方をして、こっちを見遣った。
……なぜだろう。なんだかとっても嫌な予感がする。
根拠はない。あえて言うなら妖怪としての勘、かしら。
ヤツにこれ以上言葉を吐かせてはならない。そんな警告めいた危機感が瞬時に膨れ上がる。
が、時既に遅し。
「パルスィ。お前さんは、自分が思い込んでるよりずっと魅力的で面白い奴だよ。それこそ、妬ましいぐらいにね。
鬼の私が言うんだ、これ以上の保証はないだろう?」
「なっ―――」
ダメ。やめて。それはいけない。
この上なく優しい笑顔で、そんなことを言われたら。
顔が熱い。物凄く熱い。お酒呑んで火照ってきちゃったとか、そういう熱さじゃない。
自分の顔が今どんな色をしているのか、手に取るようにわかる。否、わかってしまう。
熱が脳まで回ったのか、くらくらしてきた。
あいつの言葉で声も出せないほどに動揺させられるなんて、業腹にも程があるってのに。
ああ、それなのに、何か言わなきゃと思うだけで頭も口も回らない。
……やっぱり、ここに鏡が無くてよかったと思う。
完熟のトマトみたいに顔を真っ赤にしてる自分を視覚で認識したら、恥ずかしくて死にたくなるだろうから。
やばい。どうしよう。目眩がする。顔が熱い。熱いのよ。
私の頭がいい感じに茹だりきった、まさにその時。
止むことなく延々と店内を満たしていた他の客どもの喧騒が、ぴたりと静まった。
次の瞬間、今まで以上の喧しさを伴って店中の客という客が沸き立った。
「―――え? ちょ、なによこれ……!?」
何が起きたのか訝る暇もあればこそ。
店内は怒号にも似た喚き声で溢れかえっており、もう何が何やら。
周囲を見回しても、拍手をしている奴、大笑いしている奴、果ては泣いている奴まで。何なんだ、いったい。
と、そこまで見回してふと気付いた。
目の前で懸命に笑いをこらえている鬼―――星熊勇儀の存在に。
嫌な予感というかほとんど確信に近いモノを胸に抱きつつ、私は眼前の鬼を睨みつけた。
私の視線に気付いた勇儀が、全然悪びれた様子もなく笑いながら言う。
「ま、そろそろ頃合いかね。実はな、パルスィ。私はこの店で呑んでいる連中とある賭けをしていたんだよ」
「……賭け?」
「うむ。お前さんの顔を花も恥らう乙女のごとく赤く染めることができたら私の勝ち。
逆に仏頂面を崩せなかったら連中の勝ち、ってな具合にね。いやぁ、私も結構焦ったよ。
負けたら今ここにいる奴ら全員に一杯ずつ酒を奢る約束だったからねぇ」
周囲に視線を投げる勇儀に倣い、いま一度周りの客たちに目を向ける。
青天井だった喧しさもいくらか落ち着きを見せ始め、耳を澄ませるとかすかに周囲の会話の内容を聞き取ることができた。
「流石は勇儀の姐さんだ、殺し文句が痺れるねぇ! お見事!」
「あの橋姫が顔真っ赤にしてるところなんて、見たいと思ってもなかなか見れるもんじゃないぜ。いやー、いいもん見せてもらった」
「賭けに負けたのは残念だが、なかなか面白い見世物だったなぁ。
しかし、姐さんと橋姫、べっぴんが差し向かいで呑んでる様は絵になるねぇ。酒が進むこと進むこと」
聞こえなければよかった、と激しく後悔した。
要するに、店中でグルだったってこと? ふざけんなと大声で叫びたい。むしろ一人一発ずつ殴らせろ。
怒りと恥ずかしさ、その他もろもろの感情を腹の中でごった煮にしながら俯いていると、肩をぽんと叩かれた。
上目遣いに見上げた私の視線と、勇儀の同情の眼差しとがもろにぶつかる。
「お前さんが気付かなかったのも無理はないから、そう気を落とすな。何せあの喧しさだ、こっそりと伝言を回すのも容易い」
ええ、ええ、そうでしょうとも。
何も知らない私を陰で笑いながら酒を呑むのはさぞ楽しかったでしょうよ。
「でも結果的にお前さんを嫌な気分にさせちまったのは事実だからな。それについては謝ろう。すまなかった」
珍しく神妙な表情で言って、勇儀は言葉通りに頭を下げた。
……なによ、それ。ずるいじゃない。
今更そんな風にしおらしく謝るなんて。
私にいったいどんな顔しろっていうのよ。
こちとら怒りのぶちまけどころを探している真っ最中だっていうのに。
このままじゃ感情の捌け口が見つからな―――
「よし、謝ってすっきりした! これでチャラだな。さあ呑み直そう。安心しろ、パルスィの分は私の奢りだ」
ぶち、と。
自分のこめかみの辺りから、鳴ってはいけない音が聞こえたような気がした。
「いやいや、パルスィもこれでめでたくこの店の常連だな。次からは気兼ねなく私の座敷に来るといい。歓迎するよ」
清々しい笑顔で勇儀が右手を差し出してくる。
「なに、私はいつもあそこの席で呑んでいるから、お前さんでもすぐにわかる。
誰かしら同席してるだろうが、気にする必要はない。気のいい奴らばかりだからな。それと―――」
「ねえ、勇儀」
「ん? なんだい」
「一つ確認しておきたいことがあるんだけど」
「おう、いいよ。何でも訊いておくれ」
「じゃあ訊くけど。結局、あなたは私をからかっていたのよね?」
「ん。さっきのやりとりのことを言ってるのか? まあ、有り体に言ってしまえばそうなるのかな」
勇儀は握手をするために突き出していた右手を引っ込めて頬を掻く。
うん。それを聞いて、安心した。
自然と顔が綻ぶ。
「なるほどね、納得、納得―――」
笑いながら、私は飲みかけの焼酎が入ったままのグラスを手に取った。
どうするのかって? こうするのよ。
「―――なんて言うとでも思ったかこのバカ鬼が」
グラスの口を外側に向け手を思い切り水平に振り抜く。
当然、中に入っていた液体はぶちまけられ、目の前にいた勇儀はもろに引っ被った。いい気味だ。
いきなり濡れ鼠になって目をぱちくりさせている勇儀とさっきまでとは別の理由でざわめいている客達を尻目に、
私はことさら平静さを見せつけるようにしてゆっくりと腰を上げる。
「帰るわ。あなたの奢り酒なんて呑みたくないし」
ざわつく店内を悠然と横切り、往来に面した出入り口に向かう。
最後に多少は溜飲を下げられたとはいえ、胸が透いたとは言い難い。
一秒でも早くここから、あの憎たらしい鬼の眼前から去りたかった。
「待ちな」
背後から声。振り向くまでもない。
だが、無視して出ていくのも逃げるのに必死と思われそうで嫌なので、一応足は止める。
「なによ。引きとめたって無駄よ。あなたと呑むつもりはないわ。金輪際ね」
「酒は楽しんで呑むもの。嫌がる奴を無理に引きとめようとは思わないさ」
飲みかけの焼酎をぶっ掛けられたというのに、背後から聞こえてくる声は普段と変わらず穏やかだった。
酒をぶっ掛けられたことなど取るに足らない瑣末事とでも言いたいのか。自分の寛大さをそんなに見せ付けたいのか。
―――私をどれだけ苛立たせれば気が済むのだろう、あの鬼は。
「物分りがよくて助かるわ。それじゃ」
「だから待ちなって。せっかちな奴だね」
引きとめない。
自分でそう言ったくせに、これ以上なにを待てというの。
「なあパルスィ。お前さん、なにか忘れちゃいないかね」
「……は?」
「私の思い過ごしでなければ、とっても大事なモノを忘れてるはずなんだが」
忘れ物、ですって?
そんなもんある訳ないわよ。そもそも手荷物なんて持ってないし。
「……ひょっとして、謝ってから帰れってこと?」
「いやいや、お前さんが謝る必要なんざこれっぽっちもないさ。悪ふざけが過ぎたのはこっちのほうだからな」
じゃあなんなのよ。
身に覚えのない忘れ物とか、言いがかりにしたって性質が悪過ぎる。新手の嫌がらせじゃないでしょうね。
私が押し黙ってしまったからだろうか。
背後でかすかな溜め息が聞こえた。
「仕方ないね。それじゃはっきり言おう。
―――パルスィ。お前さん、勘定は済ませたのかい?」
「あ」
後頭部を鈍器で殴られたような錯覚を覚えた。
最後にぶちまけたとはいえ、私はちゃんとお酒を注文しているのだ。
ならば、そこに料金が発生するのは必然。
……もしかして私、呑み逃げの一歩手前だった?
その事実に気付いた瞬間、再び顔中の血液が沸騰した。
「食い逃げ呑み逃げは私としても見過ごせないんでねぇ。知り合いなら尚更さ。いや、帰る前に気付いてよかったよかった」
のんきな鬼の声が追い討ちとなって容赦なく私の頭を殴りつける。
よかったよかった、って全然よくないわよ。
これじゃ私、完全に道化じゃない。
今日はあれか。厄日なのか。
日に二度もトマトよろしく赤面するなんて。
それもよりによって、そういう顔を一番見られたくないヤツの目の前で。
今は背中向けてるだけさっきよりマシだけど、どうせ耳まで真っ赤に染まってるだろうからバレバレよね。
やっぱり居酒屋で呑むなんて慣れないことするんじゃなかった。
ああ、後悔っていう字は「後に悔いる」って書くんだっけ。当たり前よね、そんなの。
「どうした? 持ち合わせがないのなら、私が貸してやろうか?」
うるさい黙れ。
さて、どうしよう。
金はある。呑んだ分を払うには充分過ぎるぐらい。
だがここで踵を返してすごすごと料金を払うのは、いくらなんでも間抜け過ぎる。
かといってこのまま呑み逃げするのも勘弁だ。こんなくだらないことで自らの評判を貶めたくはない。
じゃあどうする。どうすればこの場を切り抜けられる?
火照った顔で思考を巡らせていた時間は、ほんの数秒足らずだったと思う。
その数秒の間に、顔からくる熱でショートしかけていた私の頭は何とか信頼に足る答えを弾き出した。
切羽詰ったこの状況を考えれば、どんな答えだろうと出せただけで上出来だろう。
でも。ああ、でもでも。
「……その必要はないわ」
こんなこと言いたくない。
言いたくないんだけど、これ以外に手段が見つからないんだもの、仕方ないじゃない。
「店主。悪いけどツケにしといて頂戴。今度来た時にまとめて払うから」
私がそう告げた途端、店内が三度ざわめきに包まれた。
そう。世の中には『ツケ払い』という支払い方法がある。
支払いを後回しにし、ある程度まとまったらいっぺんに払う決済が。
でもそれは、裏を返せば「また来る」と宣言しているのと同じなわけで。
「おお、そうだったのかい。それならそうと言ってくれればよかったのに。わざわざ呼び止めちまってすまなかったね」
嬉しそうな勇儀の声が癪に障る。
……くそう。笑いたければ笑いなさいよ。
苦々しい思いを噛みしめながら出入り口の引き戸に手をかける。
この店は私にとって鬼門だ。最初から最後までついてない。実際鬼が居座ってるし。
「パルスィ」
―――きっと煤けて見えているであろう私の背中に声を投げかけたのは、やっぱりあいつだった。
「またな。いつになるかはお前さん次第だが、この店でまた一緒に酒が呑める日を楽しみにしてるよ」
背中にかけられた言葉に返事をすることなく、往来へと足を踏み出した私は後ろ手に戸を閉めた。
外に出ると店の中にいた時は気にならなかった冬の寒さが身に沁みる。刺すような風は頬に当たるだけで痛みすら伴う。
着物の襟を掻き合わせつつ帰路につこうとして、さっきまでいた居酒屋をふと振り返った。
戸板越しに窺う店内の雰囲気は、例によって呑めや歌えやの馬鹿騒ぎに戻りつつある。
連中はまだまだ呑み続けるのだろう。旧都に住む妖怪たちは地上を追いやられた暗い経歴のわりには、陽気な馬鹿が多いし。
「……ふん。妬ましいわね」
くだらない与太話に大声で笑って、呑んで、また笑って。
たった戸板一枚挟んだだけの空間が、やけに遠くに感じられる。
あいつらも私も、地上では同じ嫌われ者のはずなのに。
身を寄せ合い、息を潜めて生きていくしかなかった半端者のはずなのに。
旧都での私たちの間には、こんなにも距離がある。
旧都であいつらが手に入れたモノ。安住の地。美味い酒。楽しい宴。陽気な仲間。
それらが欲しいのかと訊かれたら、私は嗤ってこう答える。そんなわけない、と。
だって、それらを手に入れて私自身が満ち足りてしまったら、他者を妬むことができなくなってしまう。
「妬ましい。ああ、妬ましいわ」
だから私は声に出す。
自分自身を戒めるために。言霊で自分自身を縛り付けるために。
私、水橋パルスィという妖怪の根っこの部分にある、大事なルールを忘れないように。
「星熊勇儀。本当に―――妬ましい鬼」
誰かを妬む。
それさえ忘れなければ、私は私でいられる。
……逆に言えば、忘れちゃうと今日のような醜態を晒す羽目になる。
そういう意味では今日の一件はいい教訓になったと言えなくもない。
「ああもう、妬ましいったらないわね。次に会う時は、どうにかして一泡吹か――――――っくちゅん!」
くしゃみが出た。寒風が吹き荒ぶ中、ぼーっと突っ立っていれば体が冷えて当然か。
いい加減、寒さが許容範囲を超え始めている。
鼻をすすり上げ、多数の妖怪たちが行き交う往来へと歩き出す。
風は依然として冷たい。
それでも、今度あの鬼に会ったらどんな嫌がらせをしてやろうか、と前向きに考えを巡らせていると何だか楽しくて。
ひとり往来を行く私の足取りは、不思議と軽かった。
<了>
鬼の四天王を相手に一歩も退かないパルスィ、なんてかっこいい女!
彼女が勇儀から勘定のことを指摘されて悩んでいる時、勘違いしたキスメが「あ、あの、これ……」と
言いながらお金を貸そうとする展開を予想していました。
まさかツケとはw
私も旧都の連中と飲みたいなぁ。
いいお話でした。
>>4様
キスメとヤマメはあと一回ぐらい登場させるつもりでしたが、色々考えた結果断念しました。
メインはもともとパルスィ、サブに勇儀だったんで、あんまり脇道に逸れてもアレかなと思いまして……
でも一面コンビは好きです。
>>19様
勇儀にしろ萃香にしろ、嘘はつかせたくないですね。彼女たちらしさの一つだと思いますし。
あと私の個人的なイメージとして、鬼たちは賭け事とか大好きな感じです。
いやーいいッスね、最高、素晴らしい。なんかもう全体的に大好き。
居酒屋の賑やかな雰囲気もパルスィの乙女っぷりも勇儀姐さんの漢っぷりも。
なによりも「旧都に住む妖怪たちは地上を追いやられた暗い経歴のわりには、陽気な馬鹿が多いし」という描写がいい。
実際、地霊殿の後日談とか見る限り心底のん気な連中ばっかりみたいですしね。
そんな下町のごとき賑やかな雰囲気が文章の端々から滲み出ておりました。楽しかったです。
個人的に一番好きなのは
>>嫉妬心、嫉妬心。うん、妬ましい。
この一文。ニヤニヤしながら読みましたw
感動しました。
くそっいろいろ言いたいのに言葉にならん。
とにかく良かったです。
あと勇儀に良くしてもらってパルスィ妬ましいわ!!
キャラクターたちがリアルな質感を持ってたように思います。
パルスィにいいことがあるといいね! って感じです。幸あらんことを、とは言えない感覚。
なるほどなぁ、これが水橋パルスィか。
そしてあとがきで吹いたw いいたとえですよ。うんw
勇儀さんは姉御としか言いようがないw
パルスィも勇儀姐さんもうまい感じに活きていて、楽しめました。
最後のツケ払い=また来るってことのところなんかもよかったです。
ではでは。
嫌いじゃない関係だ