※ この話は、作品集59にある、拙作『バックドロップは八雲式』の裏話という位置付けになっております。
幻想郷にある山は、
妖怪の暮らす平和の地。
食べて歌って寝て過ごし、
飲んで踊って笑い合う。
長く生きてる親妖怪、
いつも見回り大忙し。
遊び盛りの子妖怪。
今日は何して遊ぶかな。
「おっはよー!」
「あ、来た来た! これで揃ったね」
「じゃあ、いつもどおり鬼ごっこしよっか」
「あれ? 橙。それ何?」
「これは釣りの道具だよ!」
「釣り? 橙って釣りをするの?」
「するよ! すっごく楽しいんだから」
「でも、そんな道具使わなくても、魚は捕れない?」
「あたいだったら、川を凍らせちゃえば一発よ!」
「わかってないな~。これを使うことに意味があるんだから」
「そうなの? じゃあ、やってみせてよ」
「もちろん! 今日はみんなに、釣りの面白さを教えてあげるよ!」
竿を手にして座り込む。
何が起こるか、さあ楽しみ。
ところがなんだか退屈で
見ているだけで眠くなる。
「橙~。まだ釣れないの~?」
「静かに。魚が逃げるから」
「退屈だよ~」
「見ててもよく分からないね~」
「鬼ごっこしない?」
「やろうやろう! じゃあチルノちゃんが鬼ね」
「よーし! 最強のあたいから逃げられると思うなよー!」
「………………」
妖怪の子は、遊び好き。
今日も元気に駆け回る。
山から鬼は消えたけど、
子供は誰もが鬼になる。
「はい! 捕まえた!」
「あ~! やられちゃった!」
「わーい! 次はリグルが鬼ねー」
「橙も早く遊ぼうよー!」
「………………」
逃げては木陰に隠れんぼ。
追っては空からダイビング。
捕まったのなら、はい交代。
十だけ数えて、またおいで。
「こっちこっち! 手のなるほうへ!」
「ちぇ、橙、速すぎるよー!」
「もう疲れちゃった。休憩しない?」
「賛成ー!」
「あ! 私、お弁当持ってきたよ!」
「なになに? わあ。おにぎり」
「えへへ。藍様が作ってくれたんだ」
「いただきまーす」
遊びつかれて一休み。
みんなで楽しくお昼ご飯。
五つのお握りおかか味。
並んで座ってかぶりつく。
土と葉っぱのいい香り。
お日さま隠れた雲の下。
涼しい風に飛ばされた、
漬け物見つけて大慌て。
「もーいーかい!」
「まーだだよ!」
「こ、声が近いよチルノー!」
「あははー! 最強のあたいは逃げも隠れもしないのよ!」
「早く隠れてよ~」
午後はみんなで隠れんぼ。
木の陰、茂み、穴の中。
声より遠くは行っちゃ駄目。
始まる合図は、もういいよ。
口を押さえて隠れてる。
どきどきわくわく声が出そう。
草からにょっきりはみ出した。
二本の尻尾はだ~れだ。
「橙見~っけ!」
「はわわ! どうして!?」
「ぷぷぷ。橙って鬼ごっこは強いけど、かくれんぼは下手だね」
「むー、そんなことないもん!」
見つかってからも大はしゃぎ。
走って飛んで、跳ね回る。
楽しい時間はすぐに過ぎ、
別れの時間がやってくる。
「あー、楽しかった。そろそろ帰るか~」
「また遊ぼうねー」
「じゃあまたね~」
「さようなら~」
「さよならー!」
すっかり遊んで大満足。
お家に帰って一眠り。
明日もここで遊ぼうね。
仲良く手を振りさようなら。
そういや何か忘れてる?
あ、
「あああああああ!! しまったあああ!!」
橙は大音声で叫んだ。
※※※※※
虫の音に混じって、甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。
暑い夏が過ぎたとはいえ、山の木々はまだ緑が濃く、名物の紅葉の時期には早かった。
木の下は薄暗く、突き出た根っこが苔や芝で覆われていて滑りやすい。
人が歩くには難所だが、大抵の妖怪は、空を飛んで移動するので、苦にはならない。
そもそも普通の人間はこの山に入ってこないのだ。
普通の人間は、だが。
「ひっさ~つ、もこキック~♪ 飛んでいーけーかーぐーやー♪」
そんな山の中を、調子外れな歌を歌いながら、一人の少女が行進していた。
背中に籠を背負っており、肩には長い大きな犂をかついでいる。
重装備にも関わらず、鬱蒼とした森の中を、足を乱さずに歩いていた。
「返~品は、却~下♪ 月まで届け不死のお馬鹿~♪」
洋風の襟付きシャツに赤のもんぺ。
長い白髪を、動きやすいように赤いリボンで一つに縛ってまとめている。
服装だけはいつもと同じの蓬莱人、
藤原妹紅である。
彼女の目的は山菜摘みだった。
先日から、友人が体調を崩して寝込んでいたのだ。
今朝になってようやく回復してきたので、何か元気になるものを食べさせてやろうと山にやってきたのである。
ここまで来るのに、すでにいくつか手に入れている、
フキ、アケビ、クリ、クルミ。どれも美味しいが、本命ではない。
では目当てのものは何かというと……。
「お。あった、あった」
見上げるほどの大木に、薄緑色の葉っぱをつけた蔓が巻きついている。
その蔓から、丸い紅褐色の実のようなものが、いくつも垂れ下がっていた。
ムカゴである。
そろそろ、できているやつもあるのでは、と思ったがどんぴしゃだった。
栄養満点で消化もよく、美味しい。病み上がりの友人にぴったりであった。
「とりあえず、これは後で収穫することにして、と」
妹紅はかついだ犂を構えた。
ムカゴの下には山芋が眠っている。
まだ食べるのには早いが、今の内にしかるべき処置をしておかないと、猪に食われてしまう。
軽く掘って状態を確認してから、触れると痺れるイノシシ避けのお札を撒いておく。
お味の方は、晩秋あたりのお楽しみ、というわけである。
「ここ掘れ、わんわん。なんてね」
よっ、と鉄で出来た犂の先端を地面に刺すと、湿った土の感触が返ってくる。
手つきはあくまで慎重に。一気に掘り返そうとして、芋を傷つけては台無しだ。
ムカゴ採りに比べれば面倒ではあるが、
晩秋に食べられる『とろろ飯』を思えば、
不思議と楽しい作業に変わるものなのである。
「ん?」
せっせと地面を掘る妹紅の視界に、何かが映った。
木々の間に、妙な草の塊ができている。
自然に生えている感じではない。
猟師が仕掛けた罠だろうか。
しかし、妖怪の山のここまで深くに入ってくる人間がいるとは、
……数名ほどしか心当たりが無かった。
「なんだろ」
とりあえず芋掘りの手を止め、
近寄ってみて、草を慎重にどかしてみた。
虎バサミが仕掛けてあるわけでもなく、あっさり下の物が出てきた。
「あれま」
現れたのは、竹竿と、青いバケツだった。
「河童の持ち物かしら。……いや、あいつらはこんなもん使わないか」
とすると、誰の物だろう。
妹紅は頭を上げて見回してみたが、辺りに持ち主らしき姿は見つからない。
とりあえず、珍しい色合いの竿を、手にとって立ててみる。
軽く一振りすると、ぴゅん、といい音が鳴った。
よくしなる、いい竹竿だ。
「あれ? 御札」
紫色をした柄には、面妖な文字が記された黒い札が貼ってあった。。
長く生きている内に、様々な術式を学んだ妹紅でも、よくわからないほどの高度な物だ。
ただ、普通の人間の持ち物でないことは分かった。
おまけにバケツ。
ここらの里の人間は漁籠を使う。
バケツなんていうものは、外界からたまに流れてくるものくらいだった。
妹紅も滅多に見たことがない。
と、その青いバケツを覗いてみて、妹紅はギョッとした。
底が無い。
底が抜けているのではなく、夜の井戸のように真っ暗なのだ。
おっかなびっくり手を突っ込んでみるが、
手はバケツの中にどこまでも入っていき、
ついには肩まですっぽりはまるほどだった。
「妖怪……じゃないよね」
手を抜いて、コンコンとバケツを叩いてみるが、反応なし。
さしずめ、物がたくさん入るバケツということか。
怪しい釣竿にバケツ。
持ち主が――おそらく妖怪だろうが――ここに隠していったと考えるべきだろう。
しかし、隠したといっても、何ともお粗末なやり方である。
まるで子供の悪戯のようだった。
それにしては道具が立派だが。
「いやいやそれにしても、これはいいものですね」
しばらく竿を振り回していると、何だか、うずうずしてきた。
目的は山菜だったのだが、釣りもいいかもしれない。
ちょっとだけ借りて、数匹川魚を燻製にしてお土産に……。
「ふっふっふ」
妹紅は笑って、先ほど自分が掘っていた穴の方に目をやった。
山芋掘りは途中で放っておくとしよう。
犂は……どうせ誰かが盗んだりするようなもんじゃない。
それより今は、魚の方が食べたくなってきた。
妹紅は、ほくほく顔で、竹竿とバケツを手にして、川へと向かった。
※※※※※
「あー!! 無くなってる!!」
隠し場所に戻ってくるなり、橙は悲鳴をあげた。
釣竿もバケツも消えている。
場所を間違えたかと思ったが、そんなはずはなかった。
目印につけておいた傷もあるし、何より散らばった葉っぱが証拠だ。
誰かが持っていったのだろうか。
「ど、どどどど、どうしよう」
大切な釣り道具を無くしてしまった、と知ったら、主の藍は怒るだろう。
さらに、無くした理由について聞かれるに違いない。
自分が遊んでいる間に放っぽり出していたから、なんて話したら……。
怒られるだけじゃ済まないかもしれない。
橙は、ほわわん、と想像してみた。
「そうか……。やっぱり橙に釣りは早かったか。いいんだ。期待した私がいけないんだ。
今日のおかずは用意していなかったので、缶詰を食べようか。紫様にも言っておこう」
しょげた顔で呟く藍の姿を思い浮かべて、
橙はパニックに陥った。
怒られる以上に悲しまれるのが辛い。
おまけに、起きた紫からお仕置きされることは間違いない。
ひょっとしたら、猫の缶詰にされてしまうかも。
「あ! もしかして、どっかに飛んでいったとか!」
風で少し移動しただけかもしれない。
橙は慌てて辺りを散策した。
すると、変なものが見つかった。
「な、なにこれ」
とある木の根元、土が掘り返されて、浅い穴ができていた。
穴にはでっかい犂が放っておかれている。
「も、もしかして釣竿がこれに変身したとか」
そんなはずが無いが、元が紫の道具なだけに有り得ない話ではない。
いずれにせよ、釣竿とバケツのかわりに、何の変哲もない大きな犂が置かれているのだ。
これを持ち帰ったら、藍はどんな顔をするだろうか。
笑って許してくれるだろうか。
再び、橙はほわわん、と想像してみた。
「藍様! 釣竿とバケツがこんなんなっちゃいました!」
「ほほう。これは見事な犂だ。よく拾ってきたな橙。誉めてあげよう、よしよし」
「えへへ~」
「ってそんなわけあるかああああ!!」
脳内の藍の怒声とシンクロしながら、
橙は抱えた犂を遠くまでぶん投げた。
見た目は子供でも、並の妖怪の力はあるのだ。
――落ち着くんだ。こんな時、藍様ならどうするだろう。
橙は深呼吸しながら考えた。
主の藍は、そもそもこんな失敗をすることは無いだろう。
しかし、あえてミスを犯し、釣り道具を盗まれてしまったとする。
藍は間違いなく泥棒を見つけ出そうとするはずだ。
頭を働かせて推理し、居場所を探り当て、八雲の名にかけて、お仕置きする。
自分がどこまでできるかわからないが、やってみる価値はある。
「むむ~」
橙は腕を組んで、眉間にしわを寄せた。
犯人は釣竿を持っていった、とする。
すると、さっき投げた犂は偶然ここにあったものだろうか。
おそらく犯人の物じゃないだろうか。
ということは、そいつは、いずれここに取りに戻ってくるはずだ。
それを待ち伏せすれば……。
――いや! それよりも!
犂を放って、釣竿を持っていったということは、
川で釣りをしているのではないか。
橙の耳が、遠くのせせらぎの音に反応する。
「むむむー!! 絶対取り返してやるんだから!」
橙は瞳に闘志を燃やした。
山吹色の風呂敷を、マントのようになびかせ、
近くを流れる川へと、猛スピードで飛んでいった。
※※※※※
妖怪の山の渓流で、
妹紅はのんびりと岩に座って釣りを楽しんでいた。
「さ~て、どんだけ釣れるかな~」
流れる清水を耳で味わいながら、錘で上手に餌を流していく。
後は引っかかるのを待つだけだった。
火術を使う妹紅にとって、釣った後の調理はお手の物である。
「ん?」
川音に混じって、森の方から不自然な音が聞こえてくる。
何かが物凄い勢いで近付いてくるような。
ざっ
木々の間から、オレンジ色の影が飛び出した。
「あー! 見つけたー!!」
「な、なに?」
「返せー!!」
突如川原に降り立ったそれは、
予備動作無しで妹紅に飛び掛ってきた。
「うわ、あぶなっ!」
慌てて竿を手放し、身を翻す。
その上を、鋭い爪を光らせながら、闖入者は過ぎていった。
何とか、かわすことができた。
妹紅は横転して立ち上がり、
地を一蹴りして距離を開ける。
フーッ!
と背中を丸めて威嚇してくるのは、少女のような外見の妖怪だった。
耳といい、伸びた爪といい、化け猫にしか見えない。
くりくりとした大きな目を血走らせながら、こちらを睨みつけてくる。
気勢は凄いが、それほど力を感じなかった。
この辺によくいる小物と変わらないが、
襲来者を甘く見るほど、妹紅は戦いに初心ではない。
油断なく身構えながら、相手の視線をはね返す。
「いきなり攻撃してくる、ってのは酷いわね」
「悪い人には攻撃してもいいの!」
「悪い人?」
「私が隠してた釣り道具! 持っていたのはお前だな!」
「…………ああ」
妹紅は納得した。
どうやら、この子の持ち物だったようだ。
子供じみた隠し方だとは思ったが、本当にそうだったとは。
少し力を抜いて、ごまかすように笑う。
「ごめんごめん。ちょっと借りてたのよ。すぐに返すから」
「じゃあすぐに返せー!」
「はいはい。…………あ、流されてる」
「にゃあああ!?」
先程放り出したときに、川に落ちたのだろう。
流れに乗って、竿が下っていく。
妖怪の子は、はじかれたように、川沿いを走り出した。
そのまま助走をつけて飛び上がる。
突然の出来事に、妹紅はしばし呆気に取られていたが、
面白そうだったので、後を追うことにした。
「うー、うー! 捕まらないよー!」
急流の上を飛びながら、橙は四苦八苦して竿を手に取ろうとしていた。
川に飛び込めば式が外れてしまう。そのまま溺れて流されてしまうかもしれない。
藍から教わった釣りの三か条その1、「川に入ってはいけない」、
これは水が弱点である式の安全についての心得でもあるのだ。
そして元の妖怪猫である橙自身も、水が苦手であり、怖がっている。
そんな訳で、川に手を入れようとしても、恐怖心が働いてしまう。
水しぶきが飛ぶたびに、手が引っ込んでしまい、うまく摑めずにいた。
焦れば焦るほど、竿は逃げていってしまう。
と、その時、
炎が舞った。
「よっと」
燃え盛る翼を背に、後ろから飛んできた人間が、あっさりと流れる竿を手に取った。
そのまま、橙が驚いている前で、ひらりと回転して、危なげなく川岸へと降り立つ。
一瞬の早業だった。
橙は慌ててその後を追った。
「はい。どうぞ」
喚きたとうとした橙の前に、にゅっ、と竹竿が差し出された。
思わず口を閉じて、目を丸くする。
が、すぐに、奪い取るようにして、竿を抱きしめた。
「あんたの釣竿だったのね。いい物だったんで、つい試してみたくなっちゃったのよ。ごめんね」
謝ってくる人間に対して、橙はそっぽを向いた。
「私は藤原妹紅。あんたは妖怪よね。どっかで見たことがあるような気もするけど」
「知らない!」
「いつ見たんだっけなー。あ、確か輝夜のアホが肝試しとか言って私に刺客をよこしたときに」
「知らないったら知らない!」
橙はあくまで妹紅の方を見ない。
「ひょっとして、あのスキマ妖怪の式?」
「違う! 式の式!」
と、反射的に答えてしまってハッとする。
妹紅がニヤっと笑った。
「へえ。てことは、あの狐の式なの。可愛い顔してるじゃない。主の主と違って」
頭を撫でようと伸ばしてきた手から、橙はサッと身を引く。
ぷるぷる震えながら、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なんで人間がここにいるの!?」
「いや、山菜を取りに来たんだけど」
「ここは妖怪の山だよ! 人間は入っちゃだめなの! 出てって!」
妖怪の山への侵入者は、例外なく追い返す。
山に住む妖怪なら誰もが知っている掟だった。
そもそも普通の人間は、恐れて山の麓以外に近付こうとしないのだが。
しかし、目の前に立つ銀髪の人間は、全く動じずに、不敵に笑っている。
「ふふん。河童には、ちゃんと了解を取ってるもんね」
「えっ!? 嘘!」
「お嬢ちゃん。世の中には通行料というものがありましてね」
ふっふっふ、と意地の悪い笑みを見せて、
妹紅は背中の籠から、得意気に『通行料』を一本取り出し、
橙の顔の前に持ってきた。
みずみずしく熟れた、朝もぎのキュウリだ。
言うまでもなく、河童の大好物である。
「あ、一本欲しい? あげたら許してくれる?」
「いらない!」
橙は背を向けて、
川の流れる方へ歩き出した。
「あれ? どこ行くの」
「私は釣りをするの! どっか行って」
「そう言われてもなぁ」
「山菜でも何でも取っていったら? 私の見えない所で」
「んじゃ。そうするか」
「さっさと行ってよ」
「はいはい」
妹紅は橙の背中に返事して、逆の方向へと足を向ける。
「じゃあ、あの『バケツ』は私がもらっていこうかな」
わざわざそう言って、妹紅は上流へと歩き出した。
その背中に、橙が飛び掛ってきた。
※※※※※
戻ったら、今度はバケツが無くなっていた、
……ということは流石になかった。
妹紅より先に川原に降り立った橙は、
たたたたたっ、とバケツに駆け寄り、確保しにいく。
妹紅がポケットに手をつっこんで、のんびりと見ていると、
橙は先程と同じく、フーッ! と威嚇しながら睨みつけてきた。
「だから、別に盗んだわけじゃないっての」
ちょっと借りただけ……と言おうとして、妹紅は思いとどまった。
これでは、どこぞの白黒魔法使いと変わらない。
子供相手に誤魔化すのも、みっともなかった。
「あー、悪かったわ。ごめん」
手を合わせて、ぺこりと頭を下げる。
橙はその様子をしばらく見ていたが、
「……フン!」
と背を向けて、
きょろきょろと見回し、
川原の側の石をひっくり返しはじめた。
どうやら餌釣りの虫を探しているらしい。
――ふうん。ここで釣りをするのか。
妹紅は流れの速い沢に目をやった。
そもそも、ここは妹紅が選んだ釣り場だった。
悪い場所では無かったが、
初心者が釣果を上げるのは難しい。
果たしてこの子供の妖怪はどれほどの腕前か。
妹紅は少し離れた位置から、橙の動きを見守ることにした。
準備をする橙の動きは速かった。というか、慌ただしかった。
見つけた虫をすぐに針で刺し、竿を手にして、
間髪入れずに投げ込む。
ぶっきらぼうなやり方だ。
そのまま竿を構える姿も、何となく頼りなげで、へっぴり腰といっていい。
要するに下手くそで、子供の遊びにしか見えなかった。
ただ、橙の表情は真剣だった。
遊んでいるような余裕は感じられない。
むしろ、今すぐ釣らなくては、という思いが伝わってくる。
――何を急いでるんだろ。
妹紅は大きめの川石に腰を下ろして、空を見上げた。
頭上には、紫がかった雲が浮かんでいる。
日没まで、あと一時ほどか。
もしかしたら、それまでに獲物を釣り上げたいのか。
しかし、この渓流釣りは難関だった。
ただでさえ、ここの川魚は妖気を取り込んでいるものばかり。
普通の魚より、すばしっこくて頭が良く、何より警戒心が強い。
釣り人が、釣りたい釣りたいと思えば思うほど、
魚は敏感に気配を察して隠れてしまうのだった。
そして、橙の意気込みは、離れて座っている妹紅にまで感じられるほどだった。
――あれ? でもこの子、何で竿を使ってるんだろう。
猫の妖怪が釣りをしているというのは、考えてみればおかしな光景だった。
川に飛び込んで、手で引っかいて捕まえる方が勝算はあるはずなのに。
どうやらこの子は、『竿で釣る』というやり方にこだわっているようだ。
だが、この様子では簡単に釣れそうにない。
妹紅は静かに近付いて、後ろから小声でアドバイスをしてやった。
「……そんなに竿を動かさないで。静かに流れに遊ばせるんだ。もっと力を抜いて」
「知ってるもん!」
「…………うるさくすると魚が逃げるよ?」
「わかってるもん! 放っといて!」
わかってないじゃん。
こっちを見ずに大声で言い返してくる橙を見て、妹紅は笑いを噛み殺した。
しかし、意外と頑固な妖怪だ。
少し助けてやろうかと思ったのだが、ここまで拒絶されては仕方が無い。
これ以上邪魔しては何なので、妹紅は立ち去ることにした。
とりあえず、芋を掘っていた犂のある場所に戻ろうとする。
しかし、
「おお!? 舞茸!」
川と林の境目で、木の根本に美味そうなキノコを見つけた。
「こんなに生えてる。いい場所を見つけちゃったわね」
妹紅は橙のことは放っておいて、意気揚揚と舞茸を採りはじめた。
※※※※※
「へへへ。豊作ですなぁ」
妹紅はキノコを丁寧にむしりながらほくそ笑んだ。
今日一日で、これだけ色々なものが手に入るとは。
しばらくおかずには苦労しない
「あとはムカゴか。どれから食べようかなー。……ん?」
背後の足音に、妹紅はキノコを採る作業を止めて、振り返った。
釣りをしていたはずの子妖怪が、竿を胸に抱いて、近寄ってきていた。
先ほど元気に揺れていた二つの尻尾が、今はしょんぼりと垂れ下がっている。
「どしたの?」
「…………教えてください」
蚊の鳴くような声だった。
妹紅はしゃがんだまま、キノコを籠に放り入れながら聞いた。
「何を?」
「釣りの仕方を、教えてください」
「……知ってるし、分かってるし、放っておいてほしいんじゃなかったの?」
「ごめんなさい」
意地悪な質問だと自覚していたが、素直に謝られてしまった。
橙は頭を下げて、おずおずと言ってくる。
「……分からなかったら人に聞ききなさい、って」
「ふ~ん」
妹紅は、もんぺについた土を払って、立ち上がった。
ごしごしと目をこする橙と、正面から向き合う。
「あのさ。逆に、一つ聞いていいかな。どうして、そんなに魚を釣りたいの?」
「…………」
「友達に自慢したいとか」
橙は、ふるふる、とうつむいたまま首を振る。
「どうしても魚が食べたいとか」
またも否定。
やがて、絞り出すような声が、橙の口から漏れた。
「……藍様に」
「らんさま?」
「藍様に……食べさせてあげたくて……」
ぐすっ、
と、橙の目に涙があふれた。
竿を持つ手が握り締められている。
こらえきれなさそうに、しゃっくり上げ、
「藍様が……この前、私が魚を釣ったら、すっごく嬉しそうで」
ひっく、ひっくと、橙の涙は止まらない。
「だけど私、鬼ごっこで遊んじゃってて……。せっかく藍様が道具を貸してくれたのに。
今日も、楽しみにしているって言ってくれたのに。おかずの魚が釣れなくて……!」
声はだんだん大きくなり、ついには
「うわーん、ごめんなさい藍さま~!」
と、天を仰いで泣き叫びだした。
黄昏時の山に、子供の泣き声が響き渡る。
妹紅は泣き続ける橙を、じっと見下ろしていた。
その目は優しくもなく、厳しくもなかった。
ただ、静かな眼差しだった。
ふーっ、と長いため息が出る。
家族……か。
ぽりぽりと頭を掻いて、
妹紅は泣き止まない橙の肩を優しく叩いた。
「そっか。わかったわ。もう泣かないで」
橙が涙に赤く腫らした目で見上げてくる。
妹紅は自信たっぷりに笑ってみせた。
「この私が協力してやるわ。絶好の釣り場所を教えてあげる」
※※※※※
日が沈むまで半時ほど。
急ぎではあったが、目的の釣り場には、飛ばずに徒歩で向かうことになった。
理由を聞くと、私の翼じゃ山火事になっちゃうから、と答えが返ってきた。
「もう少し下ったところにあるのよ。大丈夫。任せておきなさい」
前を行く妹紅は、雑然と生えた木々の中を、息も切らさず、ひょいひょいと進んでいく。
動くたびに、尻尾のような銀髪が揺れた。
妖怪の橙も驚くほどの身軽さだ。
あらためて観察していると、到底ただの人間には見えなかった。
気になったので聞いてみた。
「あの、妹紅……さんは、いつもここに山菜を取りにくるんですか?」
「うんにゃ。今日はちょっと友人にムカゴを食べさせてあげたくてね」
「友人?」
「うん。慧音っていうんだけど、知ってる? ……あれ、苗字なんだっけ」
「かみしらさわ」
「おう、それ。知ってたか」
知っていた。
本当はいけないことだけど、橙はたまに人里に遊びに行くことがある。
初めて行った時に、悪さをしないように監督していたのが、上白沢慧音だった。
綺麗な人だったが、主の藍よりも真面目で厳しい感じがして、少し苦手だった。
考えてみると、妖怪なのに人里に出る橙は、人間なのに山に来る妹紅に似ているかもしれない。
さっき大騒ぎした自分が、少し恥ずかしくなった。
「それがさあ、この前の満月の晩に、あいつ食あたりしたらしくて」
「食あたり?」
「うん。でも普段から食べる物に慎重なやつだからねぇ。食中毒なんてしないと思うんだけど。
な~んか隠してるような気がするのよね」
むむう、と考え込む妹紅の顔がおかしくて、橙はくすりと笑ってしまった。
「ま、そういうわけで今日は山登りに来たのよ。妖怪の山は味覚が豊富だからね。
河童は渋っていたけど、友人に食べさせたいからって言ったら通してくれたわよ。
キュウリもあげたけど」
「あ、でも。じゃあ妹紅さんも私と同じなんですね」
「ん? 何が?」
「だって、慧音さんのために山菜を取ってあげるんでしょ?
私も藍様のために魚を釣るんだから……」
橙は別に何ともない気分で言ったのだが、
妹紅の足が止まった。
「………………」
「どうしたの?」
「………………」
橙が心配そうに聞いても、妹紅は答えない。
真剣な顔つきで、虚空を見つめている。
何か考え込んでいるようだ。
「……ひょっとして、何かまずいこと言っちゃいましたか?」
「………いや」
妹紅は少し笑った。
ただ、その笑みは、面白くて笑っている感じではなかった。
何だか、悔しいような、悲しいような、見てて切なくなる表情だった。
橙はそんな顔をする人を、初めて見た。
だがそれは一瞬のこと。
妹紅は上を向き、首を振って、鼻を鳴らす。
「……そうだね。橙と同じだね」
「はい」
「うん。どっちも、早く獲物を持って帰ってやんないとね」
「はい!」
「よし、じゃあ行きますか!」
「行きましょう!」
気合の声をあげる妹紅に応じて、橙も力いっぱい拳を握って突き出した。
二人は元気よく目的地に向かって走り出す。
が、妹紅は動きを止めて。
「あ、そういえば私の犂、置いてきたまんまだった。後で取りに行かなくちゃ」
「ひっ」
橙はすくみあがった。
あれは、やっぱり妹紅の物だったのだ。
おもいっきり投げてしまったが、あの犂はどこに行ってしまっただろうか。
橙は青ざめた顔を妹紅に見せないようにして、ビクビクとついていった。
※※※※※
「はい。着いたよ」
「ここ……ですか」
先ほどいた沢と比べると、その川はかなり幅が広かった。
深さも結構あるようだ。
橙は藍の言いつけを思い出す。
――深そうなところはやめておきなさい、魚に引き込まれて溺れては危ないから。
そのことを妹紅に告げると、
「大丈夫よ。何かあったらすぐに助けてあげるから。これでも泳ぎは得意よ」
「はい。もしものときはお願いします」
出会いは険悪な感じであったが、橙はすでに、妹紅という人間を信頼していた。
何だか、人間にありがちな恐怖心が感じられないのだ。
未知に対して臆病な人間ほど、妖怪にとって危険な存在である、と知っている。
あはは、と笑って竿の準備をしている妹紅は、大胆で恐れ知らずにしか見えなかった。
「でも、ここで本当に釣れるんですか?」
「もちろん。軽く千年以上生きている私の意見を信じられないとでも?」
「せっ、千年!?」
橙は跳び上がった。
てっきり人間なので、自分より年下だと思っていた。
それが、ずっとずっと年長の先輩だったとは。
むしろ、自分の主と比べられる年だ。
「ちょいと事情があってね。まあ、長く生きていれば、それだけ経験があるってことよ。
どう、少しは見直した?」
えっへん、と威張って、竿を手渡してくる妹紅。
それを受け取る橙の心に、希望が湧いてきた。
「妹紅さん! よろしくお願いします!」
「いい返事だ。でも、声はもう少し小さくね」
「あ……えへへ」
こうして、二人の釣りが始まった。
妹紅は橙の隣に立って、懇切丁寧に指導してくれた。
藍から教わったことと重なることもあるけど、
彼女ならではの独特の表現が面白かった。
「あ、そんなに強く握っちゃだめ。反応が鈍くなるし、魚にばれるから。
余計なこと考えずにぼけーっと風景を眺めてなさい」
「はい」
橙は言われた通りに、無心になろうとする。
しかし、やはり頭に浮かぶのは主の姿だった。
一匹も釣れなくても、藍は許してくれるだろうか。
鬼ごっこで遊んでいたと知られたらどうしよう。
橙の嘘など、一発で見破られてしまう。
「橙、引いてるってば」
「え、ええ!?」
橙は慌てて竿を引っ張るが、手応えは一瞬で消えた。
「惜しかったね。何か考えてた?」
「あう……。ごめんなさい」
「じゃ、もう一度」
「はい」
橙は仕掛けを投じる。
何とか落ち着こうと努力する。
妹紅の指導のままに、ゆっくりと餌を滑らせるように。
ふと、手応えがあって、橙は竿を引っ張った。
「あ! 釣れた!」
「おお。おめでとう」
「でも、ちっちゃい……」
その魚は、手のひらほどの大きさしかなかった。
「大きいのが釣りたいなら、もっと気配を消さなきゃダメね。あいつら頭がいいから」
「すみません。どうしても、考え事をしちゃいます」
「ふーむ」
妹紅は顎に手をやって考え込んだ。
「よし! じゃあ、今から私をあの狐だと思ってやりなさい」
「ええ! 妹紅さんが藍様!?」
「そう。ま、物は試しよ」
「は、はい!」
再び橙は仕掛けを投じた。
言われたとおりに、心の中で静かに念じる。
隣にいるのは藍様……。隣にいるのは藍様……。
橙の体が、緊張で石のように固まっていった。
妹紅がいつもより低い声音で、それをたしなめてくる。
「橙、落ち着きなさい」
「はい!」
「返事は静かに」
「は、はい」
「釣れなくても怒らないから」
「わ、わ、わかりました」
「ほら、リラックスリラックス」
「……りらっくす、りらっくす」
「…………何で益々緊張していくんだ」
「……すみません」
「主がいいって言うんだから、そんな怖がらなくてもいいのに。変な子ね」
「………………」
「あ、そうか。主の前だからいいところ見せたいんだ」
「………………」
「なるほどねー。だから固くなってるんだ。可愛いもんだねぇ。うりうり」
「…………妹紅さん」
「私は八雲藍様よ」
「藤原妹紅さん」
ほっぺたを突付かれていた橙は、ぎぎぎと首を動かして、ジト目で妹紅を見る。
「ひょっとして、私で遊んでませんか」
「あ、バレた?」
「むううう」
「あはは、ごめんごめん。でも、釣りなんて遊びみたいなもんよ」
「…………遊び」
「そうだ。今日、一日中遊んでいたんでしょ? だったらその感覚でやってみなさい」
「遊ぶ感覚?」
「そう。今の橙は、何か釣りを怖がってるからね。遊びならそんなことないでしょ」
人差し指を立てて、妹紅は橙に説明した。
「はい。わかりました」
そうか、確かに怖がっていたかも。
遊びの感覚か。確かに鬼ごっこはスリルがあるけど、怖くはなかった。
今日の遊びの感覚……遊びの感覚。
「ほーら!! こっちまでおーいでー!!」
「かくれんぼにしろ!」
竿を左右にブンブン振り始めた橙の後頭部に、
スパーン、と妹紅のしたたかな突っ込みが入った。
すでに西の空は赤く染まっていた。
それなのに、結局橙は小魚を三匹しか釣れていなかった。
何だか、また泣きたくなってくる。
そんな橙に、妹紅からのほほんとした声がかけられた。
「ところでさ。川に入って捕まえようとか思わないの?」
「……釣った魚かどうか、藍様にはすぐに分かっちゃいますよ。
それに、私は川に浸かったら式が外れちゃうし」
「ああ、なるほど。そういうことか」
妹紅は納得したようにうなずいた。
「でもさ、あの狐のことだから、橙が釣れなかった時の対策も用意しているんじゃないの」
「…………あ、そうかも」
考えてみれば、主の藍は、橙など及びもつかないほど、気がきくし優しい。
晩御飯のおかずを、橙に任せっきりにすることなど、あるはずがない。
橙が何も釣らなくても、いつものように笑って頭を撫でてくれるんじゃないだろうか。
もし道具を無くしてしまっても、一緒に探してくれたんじゃないだろうか。
慌てるあまり、自分の主を見損なっていたのかもしれない。
橙は心の中で百回ほど藍に謝った。
しかし、そんな優しくて大好きな主だからこそ……。
「釣りたいんです」
「…………」
「ちょっとでも、藍様の望みどおりに働ける、ってところを見せたいんです」
「そっか」
だけど時間は残り少ない。
もうすぐ日が沈みそうだ。
暗くなっても帰らなければ、主が橙を探しに来るはずだ。
迫る時間に、橙は気持ちが沈んでいく。
ふと、隣に座る人間の顔を見た。
妹紅はちっとも心配しているようには見えなかった。
よほど神経が太いんだろうか。
笑みを消さずに、のんびりと川の向こうの風景を眺めている。
「妹紅さん……」
「なあに?」
「助けてください……」
また弱音を吐いてしまった。
自分の主なら、絶対こんなこと言わないのに。
情けなくて、ますます気落ちしてしまう。
妹紅は立ち上がって、何を思ったか、橙の後ろに回ってきた。
「橙。よく聞いて」
妹紅の声は優しかった。
「あんたの主に、大きな魚を食べさせてやりたいって、必死になるのはわかる」
橙の肩にそっと手が置かれる。
温かくて、少しくすぐったい。
「でも、肩に力入れてたって物事はうまくいかないよ。もっと釣りを楽しまなきゃ」
あっ!
思わず橙は声をあげそうになった。
釣りは楽しくやらなきゃ。
それは主である藍が、釣りに行くときにいつも言っていたことだった。
なぜ自分はそれを忘れていたのだろう。
いきなり妹紅は、拳を握って叫んだ。
「それに! 親に魚を食べさせてあげたいから! 喜んでもらいたいから!
自分じゃなくて人のため! これで釣れなきゃ魚にバチが当たるっての!」
「も、妹紅さん! 釣り場では静かにするんじゃなかったの?」
「おっとごめん。あまりにいい話だったんでつい」
「……もー」
本当にこの人にまかせて大丈夫だろうか。
でも何だか気が抜けてしまった。
時間は残り少なかったが、
ちょっとだけ、釣りが楽しくなりそうなきがしてくる。
「じゃあ、今度は目を閉じてみようか」
「目を閉じるんですか?」
「そう。余計なことを考えずに、耳をすましてみなさい」
「はい」
橙は思い切って、目を閉じた。
川の流れる音に混じって、山のざわめきが聞こえてくる。
風に乗って、山に生きる物のにおいが鼻をくすぐる。
自然と同化していくような感覚。
心が静かになっていく。
切羽詰っている状況も、何だか忘れてしまいそうだ。
竿を通して、川の中の様子まで伝わってきそうな……。
あれ? なにこれ?
突然、橙の竿が、手の中で暴れだした。
のんきな顔をしていた妹紅の目が光った。
「わ、わ、わ!」
「慌てるな! しっかり持つだけでいい!」
真剣な妹紅の声が飛ぶ。
「両足で踏ん張って! お尻を少し下げなさい!」
「はい!」
「逆らわずに! 引き上げようと思わないで! 鬼ごっこで遊んであげるように!」
鬼ごっこのように!
それなら得意分野だ。
逃げる方は全速力で逃げてはいけない。
つかず離れず、追いかける鬼の動きに流されるように動く。
それが遊びのこつだ。
橙は気持ちを落ち着けた。
竿にはまだ、ずっしりと重い手応えがある。
心臓は高鳴っているが、頭のほうはスッキリしてきた。
時折糸が、川の流れる方へと向かうが、力で引き返さずにゆっくりとついていく。
川の下にいるのは、どんな魚だろう。
好奇心で手が震えてくる。
走り出したくなる気持ちを押さえて、橙はしっかりと踏ん張った。
「いいよ。そのまま弱るまで遊んであげなさい」
「はい!」
ぐいっ、と引っ張られる動きにあわせて、
橙はサッと移動し、背中を後ろに倒した。
現れた。
水面を破って、大きな魚が顔を出す。
二、三度と素早く首を振って、鱗を光らせながら、再び水中に潜っていく。
橙は息を呑んだ。
イワナだ。
「も、妹紅さん!」
「わかってる! もう少し我慢しなさい! 静かに下がって!」
「はい!」
橙は後ずさりする。
だんだんと手応えに、逆らいが無くなってきた。
竿と魚の境界が、不明瞭になってくる。
橙は笑った。
本当に鬼ごっこで遊んでるみたいだ。
最初はかくれんぼ、次は鬼ごっこ。
そして、もうすぐ終わる予感がする。
「よし! 全身で引っ張って!」
「はいっ、やあああああ!!」
気合と共に、一気に橙は獲物を引き上げた。
川原に魚が打ち上がる。
緑がかった褐色に、白い水玉模様の背中。
長さが橙の腕ほどもある。
まるまると太った大きなイワナだ。
イワナは川原に上がると、
ぴょんぴょんと歩くようにして川に戻ろうとした。
妹紅は素早く近寄って針を外し、逃げないように両手で魚を支えながら、
橙の所に持ってきてくれた。
「ほら。持ってみる?」
「わあ。……あれ。あ、あの」
「ん?」
橙は恥ずかしそうに告白した。
「……竿から、手が離れなくなっちゃいました」
「ぶっ」
妹紅が吹き出して、大声で笑った。
橙もつられて大笑いした。
「わあ、すごいなぁ」
橙は妹紅と並んで、バケツを覗いていた。
中で泳ぐイワナは、とても綺麗だった。
自分が釣ったものだとは、信じられない。
いつまでも飽かずに眺めていられる。
「1尺ちょっとか。いい大きさね」
妹紅がバケツから顔を上げて、橙に向かって親指を立ててきた。
「よかったね。主に自慢できるよ、橙」
「はい、はい!」
橙は涙ぐみながら、何度もうなずいた。
妹紅が嬉しそうに笑っている。
その顔が、大好きな主の顔と重なった。
そこで、今さらのように橙は気づいた。
そうだった。
この釣り上げる楽しさが、隣で見守る人に笑ってもらえる喜びが忘れられなかったから、
自分は釣りに夢中になったんだ。
釣りは楽しくね、という主の言葉の意味が、ようやく分かった気がした。
「妹紅さん! このご恩は一生忘れません!」
「いいって。それよりもう暗くなるよ。早く帰ってあげなよ」
「はい!」
「あ、ちょっと待った。これもお土産に持っていきなよ。風呂敷に包んでさ」
「え! いいんですか!?」
渡されたフキやクリを手に、橙はびっくりして妹紅の顔を見た。
妹紅は手を振って、
「いいって、いいって。その代わり、主の料理でも手伝ってあげなさい。たぶん、びっくりするわよ」
「わ、わかりました!」
主がきっと心配して待っているだろう。
いつものように玄関で出迎えてくれるに違いない。
この獲物を見たら、藍はどんな顔をするだろうか。
橙は自分が誇らしかった。
風呂敷を背負い、バケツと竿を大切に抱えて、
橙は地面を蹴った。
「ありがとー!! さよーならー!!」
竿をぶんぶんと振りながら妹紅に別れを告げ、
橙はマヨヒガへと全速力で飛んでいった。
※※※※※
「ま、そんな話があったのよ」
人里近くの一軒家、時刻は昼飯時前。
妹紅は昨日に出会った妖怪猫の釣り話を、友人に聞かせ終わった。
「なるほど。いい話だな」
すっかり元気になっていた上白沢慧音は、湯飲みを手にして、嬉しそうに微笑した。
彼女は美談が好きだということを、妹紅は知っていた。
特に、妹紅が関わっている話になると喜ぶのは気のせいだろうか。
「それにしても、ここ数日は妹紅に世話になった。借りができてしまったな」
「よしてよ。今さら、そんなこと言う仲じゃないでしょ」
「……これは失礼」
慧音の苦笑が少し照れくさかったので、妹紅はあさっての方向を向いた。
「だけど、あまり頻繁に山には入らない方がいいぞ」
「わかってるわよ。次は山芋の時期かな。楽しみだなー」
「山芋か。里でも栽培しているが、やはり山の土で育った自然薯は格別……ん?」
そこで、慧音はふと、湯飲みを置いて、玄関を向く。
「誰か来るな。見舞いだろうか」
「そうかな。妖気を感じるけど」
そこで扉が開いた。
「お邪魔する」
「おお。噂をすれば」
入ってきたのは、九尾の妖怪狐、八雲藍だった。
手に大きな風呂敷を抱えている。
すぐに慧音は、茶を用意しにかかった。
「昨日はうちの橙が世話になったようで。妹紅殿の家は不在だったので、こちらかと。
ああ、お構いなく」
「なんのなんの。大したことはしてないわよ」
「これはお礼の品だ。召し上がってくれ」
藍は風呂敷を床に置き、包みを解いた。
出てきたのは、いなり寿司と海苔巻だった。
一人じゃとても食べきれないほどの量だ。
だが、その内の半分は、何というか、不恰好だった。
慧音は、崩れかけたかっぱ巻きを一つ摘んで、首をかしげた。
「失礼だが、藍殿の作とは思えんが」
「お察しの通り、橙が握ったものだ。ぜひ食べてほしいと」
「妹紅への礼か。となると、私にはもったいない寿司だな」
「いやいや、慧音殿もどうぞ」
「二人ともかしこまってないで、皆で食べればいいでしょ。あれ? でも橙は?」
作った本人が礼に来ないというのもおかしな話である。
すると、藍は困った笑顔を見せて、
「それが……竹林で友人と会って、遊んでいる。すまないけど、後でちゃんと顔を出させるつもりだ。
妹紅殿には凄く感謝していたよ。できれば、これからも遊んでもらうと嬉しい」
「ははは、照れちゃうね」
そこで、藍は出されたお茶を一口飲み、こん、と咳をした。
「実を言えば、橙抜きで、二つほど聞きたいことがあった。まずは慧音殿」
「私に?」
慧音は、はてと首をかしげた。
藍は、改まった口調をくだいて、内緒話をするように問い掛けた
「……満月の夜に食あたりで倒れたそうだけど、何を食べたの?
私の主が何かを知っているようだったけど、笑うだけで教えてくれないんだ」
「あっ、そうよ。私にも教えてくれないじゃん慧音」
「…………黙秘権を行使する」
「別に空腹でテングタケ食べたなんて聞いても驚かないわよ。笑うけど」
「お前じゃないんだから、そんなことは無い! ただ……何といっていいやら」
ううむ、
と慧音は渋い顔で、頭を抱えてうめいていたが、
やがて一言だけ述べた。
「…………乙女心は辛く哀しい、といったところだ」
「全然わかんないわよ」
「いや、話したくないならそれでいいよ。どうも複雑な事情があるようだし。
それと、これは自家製の梅干し。胃にいいでしょう」
「すまない」
藍がクスクスと笑う前で、慧音はホッと胸を撫で下ろし、梅干しの壷を受け取った。
「もう一つは妹紅殿。貴方だ」
「ん。どうぞ」
「昨日橙が釣ってきたイワナについてだ。実に美味だった。礼をいいたい」
「またまた。あの子の手柄でしょ」
「そこなんだ。あいつが本当にあのイワナを釣ったとは、イマイチ信じられない」
思わぬ言葉に、慧音は壷を手にしたまま、きょとんとした。
九尾の狐は腕を組んで笑っていたが、その目は油断なく妹紅の反応をうかがっている。
対する妹紅は知らん顔をしていた。
藍はさらに話を続ける。
「ただ嘘をついているようにも思えなかった。ここはぜひ、同じ釣り人として、
千年鍛えた蓬莱人殿の釣りの極意を学んでおきたいと思ってね」
「そんな大げさな。別に何でもないってば」
「…………釣った場所を詳しく聞いて、いよいよ確信した。あそこでイワナが釣れるとは思えない。
となると、それを教えた人物に何らかの秘策があったに違いない」
スラスラと自分の推理を披露する藍に対して、
妹紅は降参して苦笑し、肩をすくめた。
「ん。秘策はあったわよ」
「やはり」
「でも、あのイワナを釣り上げたのは、あの子の実力よ。それは間違いない。
あとは……家族に大物を食べさせたい、っていう想いが釣らせたってことで」
「…………?」
「いやあ。あの子の必死の決意に、私も感動しちゃってね。
『えらい。自分じゃなく、家族のためとは。これで釣れなきゃ魚にバチがあたるわ』
なんて大声で言っちゃったりして」
「…………あ、もしや」
藍がハッとするのを見て、
妹紅はニヤっと笑った。
「お礼の品はありがとう。ただ、私一人では受け取れなかったね。これから行ってみようか」
「なんだ? 私にはサッパリ話が読めないぞ」
慧音が、妹紅と藍の顔を見比べる。
妹紅は橙の握ったいなり寿司を一つ摘んで、ぽいっと口に入れた。
その優しい味に、頬を緩ませながら、得意げに説明する。
「いやなに。家族の愛を解するのは、人間も妖怪も同じだってことよ」
※※※※※
夕焼け空に、橙が飛び去っていく。
その姿が見えなくなるまで、妹紅は手を振ってあげた。
「この御恩は一生忘れない……か。猫は三日で恩を忘れるっていうけど。ふふっ」
笑って、手を下ろす。
まあでも、悪い気はしなかった。
一人になって、急に静かになったようだ。
流れる川をぼんやりと見ながら、
妹紅はしばし立ち尽くした。
自分以外に誰もいない光景が広がっている。
別に珍しくもない。
それは藤原妹紅の人生のほとんどだった。
家族のため……ね。
はるか昔を思い出す。
父上に可愛がってくれた記憶。
妹紅が大好きな家族、父のためにしたことといえば……復讐くらいだった。
蓬莱山輝夜に恥をかかされ、落ちぶれていく悲しそうな姿。
それは今も、妹紅の心の底で燃え続けている。
輝夜に対する恨みが、消えずにそこに残っている。
不毛な殺し合いと言われようと、その動機が自分という存在を千年かけて作ってきたのだ。
簡単に捨て去れるものではない。
この気持ちは誰にも理解できない。
だけど……。
妹紅は籠の中の山菜に目をやる。
この食べ物は、自分のために採ったものではない。
こんなことをするようになったのも、思えばつい最近になってからだった。
今では仇敵のいる永遠亭に、病人を運ぶ案内役までやっている
かつての自分が見たら、何度死んでも気がおさまらない光景かもしれない。
だが、そんな風に、純粋に人のために何かをするというのも、意外と好きになってきたのだ。
そんな些細な喜びに気がつくのに、ここまで長い時がかかった。
それを自嘲する自分を、嬉しそうに否定する友人が、今はいる。
憎しみとは違う、別の生きる目的。
ここ幻想郷に来て、それは見つかった。
「……ま、難しく考えないことが、長生きのコツよね。さて、と」
妹紅はうーん、と伸びをして、
「腹痛の石頭殿が待ってるし。いい加減、帰るとしますか」
よいしょ、と籠を背負って歩き始めた。
その時、
ちゃぽん。
と川音がした。
わずかに心臓が跳ねたが、
すぐに妹紅の笑みが深くなる。
「おっとっと、いけない。忘れてた」
大事な用事がまだ残っていた。
立ち止まった妹紅は、
背中の籠から『通行料』を取り出す。
ここで暮らす限り、もう自分が一人の時代なんて、こないかもしれない。
妹紅は愉しげに笑って、
緑色のキュウリを、思いっきり振りかぶった。
「これはイワナの分! ありがとね!」
投げたキュウリは放物線を描き、
夕日に染まった川へと落ちていく。
それを、
水中から、びよーん、と伸びた機械性の手が、
しっかりと受け取った。
(了)
幻想郷にある山は、
妖怪の暮らす平和の地。
食べて歌って寝て過ごし、
飲んで踊って笑い合う。
長く生きてる親妖怪、
いつも見回り大忙し。
遊び盛りの子妖怪。
今日は何して遊ぶかな。
「おっはよー!」
「あ、来た来た! これで揃ったね」
「じゃあ、いつもどおり鬼ごっこしよっか」
「あれ? 橙。それ何?」
「これは釣りの道具だよ!」
「釣り? 橙って釣りをするの?」
「するよ! すっごく楽しいんだから」
「でも、そんな道具使わなくても、魚は捕れない?」
「あたいだったら、川を凍らせちゃえば一発よ!」
「わかってないな~。これを使うことに意味があるんだから」
「そうなの? じゃあ、やってみせてよ」
「もちろん! 今日はみんなに、釣りの面白さを教えてあげるよ!」
竿を手にして座り込む。
何が起こるか、さあ楽しみ。
ところがなんだか退屈で
見ているだけで眠くなる。
「橙~。まだ釣れないの~?」
「静かに。魚が逃げるから」
「退屈だよ~」
「見ててもよく分からないね~」
「鬼ごっこしない?」
「やろうやろう! じゃあチルノちゃんが鬼ね」
「よーし! 最強のあたいから逃げられると思うなよー!」
「………………」
妖怪の子は、遊び好き。
今日も元気に駆け回る。
山から鬼は消えたけど、
子供は誰もが鬼になる。
「はい! 捕まえた!」
「あ~! やられちゃった!」
「わーい! 次はリグルが鬼ねー」
「橙も早く遊ぼうよー!」
「………………」
逃げては木陰に隠れんぼ。
追っては空からダイビング。
捕まったのなら、はい交代。
十だけ数えて、またおいで。
「こっちこっち! 手のなるほうへ!」
「ちぇ、橙、速すぎるよー!」
「もう疲れちゃった。休憩しない?」
「賛成ー!」
「あ! 私、お弁当持ってきたよ!」
「なになに? わあ。おにぎり」
「えへへ。藍様が作ってくれたんだ」
「いただきまーす」
遊びつかれて一休み。
みんなで楽しくお昼ご飯。
五つのお握りおかか味。
並んで座ってかぶりつく。
土と葉っぱのいい香り。
お日さま隠れた雲の下。
涼しい風に飛ばされた、
漬け物見つけて大慌て。
「もーいーかい!」
「まーだだよ!」
「こ、声が近いよチルノー!」
「あははー! 最強のあたいは逃げも隠れもしないのよ!」
「早く隠れてよ~」
午後はみんなで隠れんぼ。
木の陰、茂み、穴の中。
声より遠くは行っちゃ駄目。
始まる合図は、もういいよ。
口を押さえて隠れてる。
どきどきわくわく声が出そう。
草からにょっきりはみ出した。
二本の尻尾はだ~れだ。
「橙見~っけ!」
「はわわ! どうして!?」
「ぷぷぷ。橙って鬼ごっこは強いけど、かくれんぼは下手だね」
「むー、そんなことないもん!」
見つかってからも大はしゃぎ。
走って飛んで、跳ね回る。
楽しい時間はすぐに過ぎ、
別れの時間がやってくる。
「あー、楽しかった。そろそろ帰るか~」
「また遊ぼうねー」
「じゃあまたね~」
「さようなら~」
「さよならー!」
すっかり遊んで大満足。
お家に帰って一眠り。
明日もここで遊ぼうね。
仲良く手を振りさようなら。
そういや何か忘れてる?
あ、
「あああああああ!! しまったあああ!!」
橙は大音声で叫んだ。
※※※※※
虫の音に混じって、甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。
暑い夏が過ぎたとはいえ、山の木々はまだ緑が濃く、名物の紅葉の時期には早かった。
木の下は薄暗く、突き出た根っこが苔や芝で覆われていて滑りやすい。
人が歩くには難所だが、大抵の妖怪は、空を飛んで移動するので、苦にはならない。
そもそも普通の人間はこの山に入ってこないのだ。
普通の人間は、だが。
「ひっさ~つ、もこキック~♪ 飛んでいーけーかーぐーやー♪」
そんな山の中を、調子外れな歌を歌いながら、一人の少女が行進していた。
背中に籠を背負っており、肩には長い大きな犂をかついでいる。
重装備にも関わらず、鬱蒼とした森の中を、足を乱さずに歩いていた。
「返~品は、却~下♪ 月まで届け不死のお馬鹿~♪」
洋風の襟付きシャツに赤のもんぺ。
長い白髪を、動きやすいように赤いリボンで一つに縛ってまとめている。
服装だけはいつもと同じの蓬莱人、
藤原妹紅である。
彼女の目的は山菜摘みだった。
先日から、友人が体調を崩して寝込んでいたのだ。
今朝になってようやく回復してきたので、何か元気になるものを食べさせてやろうと山にやってきたのである。
ここまで来るのに、すでにいくつか手に入れている、
フキ、アケビ、クリ、クルミ。どれも美味しいが、本命ではない。
では目当てのものは何かというと……。
「お。あった、あった」
見上げるほどの大木に、薄緑色の葉っぱをつけた蔓が巻きついている。
その蔓から、丸い紅褐色の実のようなものが、いくつも垂れ下がっていた。
ムカゴである。
そろそろ、できているやつもあるのでは、と思ったがどんぴしゃだった。
栄養満点で消化もよく、美味しい。病み上がりの友人にぴったりであった。
「とりあえず、これは後で収穫することにして、と」
妹紅はかついだ犂を構えた。
ムカゴの下には山芋が眠っている。
まだ食べるのには早いが、今の内にしかるべき処置をしておかないと、猪に食われてしまう。
軽く掘って状態を確認してから、触れると痺れるイノシシ避けのお札を撒いておく。
お味の方は、晩秋あたりのお楽しみ、というわけである。
「ここ掘れ、わんわん。なんてね」
よっ、と鉄で出来た犂の先端を地面に刺すと、湿った土の感触が返ってくる。
手つきはあくまで慎重に。一気に掘り返そうとして、芋を傷つけては台無しだ。
ムカゴ採りに比べれば面倒ではあるが、
晩秋に食べられる『とろろ飯』を思えば、
不思議と楽しい作業に変わるものなのである。
「ん?」
せっせと地面を掘る妹紅の視界に、何かが映った。
木々の間に、妙な草の塊ができている。
自然に生えている感じではない。
猟師が仕掛けた罠だろうか。
しかし、妖怪の山のここまで深くに入ってくる人間がいるとは、
……数名ほどしか心当たりが無かった。
「なんだろ」
とりあえず芋掘りの手を止め、
近寄ってみて、草を慎重にどかしてみた。
虎バサミが仕掛けてあるわけでもなく、あっさり下の物が出てきた。
「あれま」
現れたのは、竹竿と、青いバケツだった。
「河童の持ち物かしら。……いや、あいつらはこんなもん使わないか」
とすると、誰の物だろう。
妹紅は頭を上げて見回してみたが、辺りに持ち主らしき姿は見つからない。
とりあえず、珍しい色合いの竿を、手にとって立ててみる。
軽く一振りすると、ぴゅん、といい音が鳴った。
よくしなる、いい竹竿だ。
「あれ? 御札」
紫色をした柄には、面妖な文字が記された黒い札が貼ってあった。。
長く生きている内に、様々な術式を学んだ妹紅でも、よくわからないほどの高度な物だ。
ただ、普通の人間の持ち物でないことは分かった。
おまけにバケツ。
ここらの里の人間は漁籠を使う。
バケツなんていうものは、外界からたまに流れてくるものくらいだった。
妹紅も滅多に見たことがない。
と、その青いバケツを覗いてみて、妹紅はギョッとした。
底が無い。
底が抜けているのではなく、夜の井戸のように真っ暗なのだ。
おっかなびっくり手を突っ込んでみるが、
手はバケツの中にどこまでも入っていき、
ついには肩まですっぽりはまるほどだった。
「妖怪……じゃないよね」
手を抜いて、コンコンとバケツを叩いてみるが、反応なし。
さしずめ、物がたくさん入るバケツということか。
怪しい釣竿にバケツ。
持ち主が――おそらく妖怪だろうが――ここに隠していったと考えるべきだろう。
しかし、隠したといっても、何ともお粗末なやり方である。
まるで子供の悪戯のようだった。
それにしては道具が立派だが。
「いやいやそれにしても、これはいいものですね」
しばらく竿を振り回していると、何だか、うずうずしてきた。
目的は山菜だったのだが、釣りもいいかもしれない。
ちょっとだけ借りて、数匹川魚を燻製にしてお土産に……。
「ふっふっふ」
妹紅は笑って、先ほど自分が掘っていた穴の方に目をやった。
山芋掘りは途中で放っておくとしよう。
犂は……どうせ誰かが盗んだりするようなもんじゃない。
それより今は、魚の方が食べたくなってきた。
妹紅は、ほくほく顔で、竹竿とバケツを手にして、川へと向かった。
※※※※※
「あー!! 無くなってる!!」
隠し場所に戻ってくるなり、橙は悲鳴をあげた。
釣竿もバケツも消えている。
場所を間違えたかと思ったが、そんなはずはなかった。
目印につけておいた傷もあるし、何より散らばった葉っぱが証拠だ。
誰かが持っていったのだろうか。
「ど、どどどど、どうしよう」
大切な釣り道具を無くしてしまった、と知ったら、主の藍は怒るだろう。
さらに、無くした理由について聞かれるに違いない。
自分が遊んでいる間に放っぽり出していたから、なんて話したら……。
怒られるだけじゃ済まないかもしれない。
橙は、ほわわん、と想像してみた。
「そうか……。やっぱり橙に釣りは早かったか。いいんだ。期待した私がいけないんだ。
今日のおかずは用意していなかったので、缶詰を食べようか。紫様にも言っておこう」
しょげた顔で呟く藍の姿を思い浮かべて、
橙はパニックに陥った。
怒られる以上に悲しまれるのが辛い。
おまけに、起きた紫からお仕置きされることは間違いない。
ひょっとしたら、猫の缶詰にされてしまうかも。
「あ! もしかして、どっかに飛んでいったとか!」
風で少し移動しただけかもしれない。
橙は慌てて辺りを散策した。
すると、変なものが見つかった。
「な、なにこれ」
とある木の根元、土が掘り返されて、浅い穴ができていた。
穴にはでっかい犂が放っておかれている。
「も、もしかして釣竿がこれに変身したとか」
そんなはずが無いが、元が紫の道具なだけに有り得ない話ではない。
いずれにせよ、釣竿とバケツのかわりに、何の変哲もない大きな犂が置かれているのだ。
これを持ち帰ったら、藍はどんな顔をするだろうか。
笑って許してくれるだろうか。
再び、橙はほわわん、と想像してみた。
「藍様! 釣竿とバケツがこんなんなっちゃいました!」
「ほほう。これは見事な犂だ。よく拾ってきたな橙。誉めてあげよう、よしよし」
「えへへ~」
「ってそんなわけあるかああああ!!」
脳内の藍の怒声とシンクロしながら、
橙は抱えた犂を遠くまでぶん投げた。
見た目は子供でも、並の妖怪の力はあるのだ。
――落ち着くんだ。こんな時、藍様ならどうするだろう。
橙は深呼吸しながら考えた。
主の藍は、そもそもこんな失敗をすることは無いだろう。
しかし、あえてミスを犯し、釣り道具を盗まれてしまったとする。
藍は間違いなく泥棒を見つけ出そうとするはずだ。
頭を働かせて推理し、居場所を探り当て、八雲の名にかけて、お仕置きする。
自分がどこまでできるかわからないが、やってみる価値はある。
「むむ~」
橙は腕を組んで、眉間にしわを寄せた。
犯人は釣竿を持っていった、とする。
すると、さっき投げた犂は偶然ここにあったものだろうか。
おそらく犯人の物じゃないだろうか。
ということは、そいつは、いずれここに取りに戻ってくるはずだ。
それを待ち伏せすれば……。
――いや! それよりも!
犂を放って、釣竿を持っていったということは、
川で釣りをしているのではないか。
橙の耳が、遠くのせせらぎの音に反応する。
「むむむー!! 絶対取り返してやるんだから!」
橙は瞳に闘志を燃やした。
山吹色の風呂敷を、マントのようになびかせ、
近くを流れる川へと、猛スピードで飛んでいった。
※※※※※
妖怪の山の渓流で、
妹紅はのんびりと岩に座って釣りを楽しんでいた。
「さ~て、どんだけ釣れるかな~」
流れる清水を耳で味わいながら、錘で上手に餌を流していく。
後は引っかかるのを待つだけだった。
火術を使う妹紅にとって、釣った後の調理はお手の物である。
「ん?」
川音に混じって、森の方から不自然な音が聞こえてくる。
何かが物凄い勢いで近付いてくるような。
ざっ
木々の間から、オレンジ色の影が飛び出した。
「あー! 見つけたー!!」
「な、なに?」
「返せー!!」
突如川原に降り立ったそれは、
予備動作無しで妹紅に飛び掛ってきた。
「うわ、あぶなっ!」
慌てて竿を手放し、身を翻す。
その上を、鋭い爪を光らせながら、闖入者は過ぎていった。
何とか、かわすことができた。
妹紅は横転して立ち上がり、
地を一蹴りして距離を開ける。
フーッ!
と背中を丸めて威嚇してくるのは、少女のような外見の妖怪だった。
耳といい、伸びた爪といい、化け猫にしか見えない。
くりくりとした大きな目を血走らせながら、こちらを睨みつけてくる。
気勢は凄いが、それほど力を感じなかった。
この辺によくいる小物と変わらないが、
襲来者を甘く見るほど、妹紅は戦いに初心ではない。
油断なく身構えながら、相手の視線をはね返す。
「いきなり攻撃してくる、ってのは酷いわね」
「悪い人には攻撃してもいいの!」
「悪い人?」
「私が隠してた釣り道具! 持っていたのはお前だな!」
「…………ああ」
妹紅は納得した。
どうやら、この子の持ち物だったようだ。
子供じみた隠し方だとは思ったが、本当にそうだったとは。
少し力を抜いて、ごまかすように笑う。
「ごめんごめん。ちょっと借りてたのよ。すぐに返すから」
「じゃあすぐに返せー!」
「はいはい。…………あ、流されてる」
「にゃあああ!?」
先程放り出したときに、川に落ちたのだろう。
流れに乗って、竿が下っていく。
妖怪の子は、はじかれたように、川沿いを走り出した。
そのまま助走をつけて飛び上がる。
突然の出来事に、妹紅はしばし呆気に取られていたが、
面白そうだったので、後を追うことにした。
「うー、うー! 捕まらないよー!」
急流の上を飛びながら、橙は四苦八苦して竿を手に取ろうとしていた。
川に飛び込めば式が外れてしまう。そのまま溺れて流されてしまうかもしれない。
藍から教わった釣りの三か条その1、「川に入ってはいけない」、
これは水が弱点である式の安全についての心得でもあるのだ。
そして元の妖怪猫である橙自身も、水が苦手であり、怖がっている。
そんな訳で、川に手を入れようとしても、恐怖心が働いてしまう。
水しぶきが飛ぶたびに、手が引っ込んでしまい、うまく摑めずにいた。
焦れば焦るほど、竿は逃げていってしまう。
と、その時、
炎が舞った。
「よっと」
燃え盛る翼を背に、後ろから飛んできた人間が、あっさりと流れる竿を手に取った。
そのまま、橙が驚いている前で、ひらりと回転して、危なげなく川岸へと降り立つ。
一瞬の早業だった。
橙は慌ててその後を追った。
「はい。どうぞ」
喚きたとうとした橙の前に、にゅっ、と竹竿が差し出された。
思わず口を閉じて、目を丸くする。
が、すぐに、奪い取るようにして、竿を抱きしめた。
「あんたの釣竿だったのね。いい物だったんで、つい試してみたくなっちゃったのよ。ごめんね」
謝ってくる人間に対して、橙はそっぽを向いた。
「私は藤原妹紅。あんたは妖怪よね。どっかで見たことがあるような気もするけど」
「知らない!」
「いつ見たんだっけなー。あ、確か輝夜のアホが肝試しとか言って私に刺客をよこしたときに」
「知らないったら知らない!」
橙はあくまで妹紅の方を見ない。
「ひょっとして、あのスキマ妖怪の式?」
「違う! 式の式!」
と、反射的に答えてしまってハッとする。
妹紅がニヤっと笑った。
「へえ。てことは、あの狐の式なの。可愛い顔してるじゃない。主の主と違って」
頭を撫でようと伸ばしてきた手から、橙はサッと身を引く。
ぷるぷる震えながら、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「なんで人間がここにいるの!?」
「いや、山菜を取りに来たんだけど」
「ここは妖怪の山だよ! 人間は入っちゃだめなの! 出てって!」
妖怪の山への侵入者は、例外なく追い返す。
山に住む妖怪なら誰もが知っている掟だった。
そもそも普通の人間は、恐れて山の麓以外に近付こうとしないのだが。
しかし、目の前に立つ銀髪の人間は、全く動じずに、不敵に笑っている。
「ふふん。河童には、ちゃんと了解を取ってるもんね」
「えっ!? 嘘!」
「お嬢ちゃん。世の中には通行料というものがありましてね」
ふっふっふ、と意地の悪い笑みを見せて、
妹紅は背中の籠から、得意気に『通行料』を一本取り出し、
橙の顔の前に持ってきた。
みずみずしく熟れた、朝もぎのキュウリだ。
言うまでもなく、河童の大好物である。
「あ、一本欲しい? あげたら許してくれる?」
「いらない!」
橙は背を向けて、
川の流れる方へ歩き出した。
「あれ? どこ行くの」
「私は釣りをするの! どっか行って」
「そう言われてもなぁ」
「山菜でも何でも取っていったら? 私の見えない所で」
「んじゃ。そうするか」
「さっさと行ってよ」
「はいはい」
妹紅は橙の背中に返事して、逆の方向へと足を向ける。
「じゃあ、あの『バケツ』は私がもらっていこうかな」
わざわざそう言って、妹紅は上流へと歩き出した。
その背中に、橙が飛び掛ってきた。
※※※※※
戻ったら、今度はバケツが無くなっていた、
……ということは流石になかった。
妹紅より先に川原に降り立った橙は、
たたたたたっ、とバケツに駆け寄り、確保しにいく。
妹紅がポケットに手をつっこんで、のんびりと見ていると、
橙は先程と同じく、フーッ! と威嚇しながら睨みつけてきた。
「だから、別に盗んだわけじゃないっての」
ちょっと借りただけ……と言おうとして、妹紅は思いとどまった。
これでは、どこぞの白黒魔法使いと変わらない。
子供相手に誤魔化すのも、みっともなかった。
「あー、悪かったわ。ごめん」
手を合わせて、ぺこりと頭を下げる。
橙はその様子をしばらく見ていたが、
「……フン!」
と背を向けて、
きょろきょろと見回し、
川原の側の石をひっくり返しはじめた。
どうやら餌釣りの虫を探しているらしい。
――ふうん。ここで釣りをするのか。
妹紅は流れの速い沢に目をやった。
そもそも、ここは妹紅が選んだ釣り場だった。
悪い場所では無かったが、
初心者が釣果を上げるのは難しい。
果たしてこの子供の妖怪はどれほどの腕前か。
妹紅は少し離れた位置から、橙の動きを見守ることにした。
準備をする橙の動きは速かった。というか、慌ただしかった。
見つけた虫をすぐに針で刺し、竿を手にして、
間髪入れずに投げ込む。
ぶっきらぼうなやり方だ。
そのまま竿を構える姿も、何となく頼りなげで、へっぴり腰といっていい。
要するに下手くそで、子供の遊びにしか見えなかった。
ただ、橙の表情は真剣だった。
遊んでいるような余裕は感じられない。
むしろ、今すぐ釣らなくては、という思いが伝わってくる。
――何を急いでるんだろ。
妹紅は大きめの川石に腰を下ろして、空を見上げた。
頭上には、紫がかった雲が浮かんでいる。
日没まで、あと一時ほどか。
もしかしたら、それまでに獲物を釣り上げたいのか。
しかし、この渓流釣りは難関だった。
ただでさえ、ここの川魚は妖気を取り込んでいるものばかり。
普通の魚より、すばしっこくて頭が良く、何より警戒心が強い。
釣り人が、釣りたい釣りたいと思えば思うほど、
魚は敏感に気配を察して隠れてしまうのだった。
そして、橙の意気込みは、離れて座っている妹紅にまで感じられるほどだった。
――あれ? でもこの子、何で竿を使ってるんだろう。
猫の妖怪が釣りをしているというのは、考えてみればおかしな光景だった。
川に飛び込んで、手で引っかいて捕まえる方が勝算はあるはずなのに。
どうやらこの子は、『竿で釣る』というやり方にこだわっているようだ。
だが、この様子では簡単に釣れそうにない。
妹紅は静かに近付いて、後ろから小声でアドバイスをしてやった。
「……そんなに竿を動かさないで。静かに流れに遊ばせるんだ。もっと力を抜いて」
「知ってるもん!」
「…………うるさくすると魚が逃げるよ?」
「わかってるもん! 放っといて!」
わかってないじゃん。
こっちを見ずに大声で言い返してくる橙を見て、妹紅は笑いを噛み殺した。
しかし、意外と頑固な妖怪だ。
少し助けてやろうかと思ったのだが、ここまで拒絶されては仕方が無い。
これ以上邪魔しては何なので、妹紅は立ち去ることにした。
とりあえず、芋を掘っていた犂のある場所に戻ろうとする。
しかし、
「おお!? 舞茸!」
川と林の境目で、木の根本に美味そうなキノコを見つけた。
「こんなに生えてる。いい場所を見つけちゃったわね」
妹紅は橙のことは放っておいて、意気揚揚と舞茸を採りはじめた。
※※※※※
「へへへ。豊作ですなぁ」
妹紅はキノコを丁寧にむしりながらほくそ笑んだ。
今日一日で、これだけ色々なものが手に入るとは。
しばらくおかずには苦労しない
「あとはムカゴか。どれから食べようかなー。……ん?」
背後の足音に、妹紅はキノコを採る作業を止めて、振り返った。
釣りをしていたはずの子妖怪が、竿を胸に抱いて、近寄ってきていた。
先ほど元気に揺れていた二つの尻尾が、今はしょんぼりと垂れ下がっている。
「どしたの?」
「…………教えてください」
蚊の鳴くような声だった。
妹紅はしゃがんだまま、キノコを籠に放り入れながら聞いた。
「何を?」
「釣りの仕方を、教えてください」
「……知ってるし、分かってるし、放っておいてほしいんじゃなかったの?」
「ごめんなさい」
意地悪な質問だと自覚していたが、素直に謝られてしまった。
橙は頭を下げて、おずおずと言ってくる。
「……分からなかったら人に聞ききなさい、って」
「ふ~ん」
妹紅は、もんぺについた土を払って、立ち上がった。
ごしごしと目をこする橙と、正面から向き合う。
「あのさ。逆に、一つ聞いていいかな。どうして、そんなに魚を釣りたいの?」
「…………」
「友達に自慢したいとか」
橙は、ふるふる、とうつむいたまま首を振る。
「どうしても魚が食べたいとか」
またも否定。
やがて、絞り出すような声が、橙の口から漏れた。
「……藍様に」
「らんさま?」
「藍様に……食べさせてあげたくて……」
ぐすっ、
と、橙の目に涙があふれた。
竿を持つ手が握り締められている。
こらえきれなさそうに、しゃっくり上げ、
「藍様が……この前、私が魚を釣ったら、すっごく嬉しそうで」
ひっく、ひっくと、橙の涙は止まらない。
「だけど私、鬼ごっこで遊んじゃってて……。せっかく藍様が道具を貸してくれたのに。
今日も、楽しみにしているって言ってくれたのに。おかずの魚が釣れなくて……!」
声はだんだん大きくなり、ついには
「うわーん、ごめんなさい藍さま~!」
と、天を仰いで泣き叫びだした。
黄昏時の山に、子供の泣き声が響き渡る。
妹紅は泣き続ける橙を、じっと見下ろしていた。
その目は優しくもなく、厳しくもなかった。
ただ、静かな眼差しだった。
ふーっ、と長いため息が出る。
家族……か。
ぽりぽりと頭を掻いて、
妹紅は泣き止まない橙の肩を優しく叩いた。
「そっか。わかったわ。もう泣かないで」
橙が涙に赤く腫らした目で見上げてくる。
妹紅は自信たっぷりに笑ってみせた。
「この私が協力してやるわ。絶好の釣り場所を教えてあげる」
※※※※※
日が沈むまで半時ほど。
急ぎではあったが、目的の釣り場には、飛ばずに徒歩で向かうことになった。
理由を聞くと、私の翼じゃ山火事になっちゃうから、と答えが返ってきた。
「もう少し下ったところにあるのよ。大丈夫。任せておきなさい」
前を行く妹紅は、雑然と生えた木々の中を、息も切らさず、ひょいひょいと進んでいく。
動くたびに、尻尾のような銀髪が揺れた。
妖怪の橙も驚くほどの身軽さだ。
あらためて観察していると、到底ただの人間には見えなかった。
気になったので聞いてみた。
「あの、妹紅……さんは、いつもここに山菜を取りにくるんですか?」
「うんにゃ。今日はちょっと友人にムカゴを食べさせてあげたくてね」
「友人?」
「うん。慧音っていうんだけど、知ってる? ……あれ、苗字なんだっけ」
「かみしらさわ」
「おう、それ。知ってたか」
知っていた。
本当はいけないことだけど、橙はたまに人里に遊びに行くことがある。
初めて行った時に、悪さをしないように監督していたのが、上白沢慧音だった。
綺麗な人だったが、主の藍よりも真面目で厳しい感じがして、少し苦手だった。
考えてみると、妖怪なのに人里に出る橙は、人間なのに山に来る妹紅に似ているかもしれない。
さっき大騒ぎした自分が、少し恥ずかしくなった。
「それがさあ、この前の満月の晩に、あいつ食あたりしたらしくて」
「食あたり?」
「うん。でも普段から食べる物に慎重なやつだからねぇ。食中毒なんてしないと思うんだけど。
な~んか隠してるような気がするのよね」
むむう、と考え込む妹紅の顔がおかしくて、橙はくすりと笑ってしまった。
「ま、そういうわけで今日は山登りに来たのよ。妖怪の山は味覚が豊富だからね。
河童は渋っていたけど、友人に食べさせたいからって言ったら通してくれたわよ。
キュウリもあげたけど」
「あ、でも。じゃあ妹紅さんも私と同じなんですね」
「ん? 何が?」
「だって、慧音さんのために山菜を取ってあげるんでしょ?
私も藍様のために魚を釣るんだから……」
橙は別に何ともない気分で言ったのだが、
妹紅の足が止まった。
「………………」
「どうしたの?」
「………………」
橙が心配そうに聞いても、妹紅は答えない。
真剣な顔つきで、虚空を見つめている。
何か考え込んでいるようだ。
「……ひょっとして、何かまずいこと言っちゃいましたか?」
「………いや」
妹紅は少し笑った。
ただ、その笑みは、面白くて笑っている感じではなかった。
何だか、悔しいような、悲しいような、見てて切なくなる表情だった。
橙はそんな顔をする人を、初めて見た。
だがそれは一瞬のこと。
妹紅は上を向き、首を振って、鼻を鳴らす。
「……そうだね。橙と同じだね」
「はい」
「うん。どっちも、早く獲物を持って帰ってやんないとね」
「はい!」
「よし、じゃあ行きますか!」
「行きましょう!」
気合の声をあげる妹紅に応じて、橙も力いっぱい拳を握って突き出した。
二人は元気よく目的地に向かって走り出す。
が、妹紅は動きを止めて。
「あ、そういえば私の犂、置いてきたまんまだった。後で取りに行かなくちゃ」
「ひっ」
橙はすくみあがった。
あれは、やっぱり妹紅の物だったのだ。
おもいっきり投げてしまったが、あの犂はどこに行ってしまっただろうか。
橙は青ざめた顔を妹紅に見せないようにして、ビクビクとついていった。
※※※※※
「はい。着いたよ」
「ここ……ですか」
先ほどいた沢と比べると、その川はかなり幅が広かった。
深さも結構あるようだ。
橙は藍の言いつけを思い出す。
――深そうなところはやめておきなさい、魚に引き込まれて溺れては危ないから。
そのことを妹紅に告げると、
「大丈夫よ。何かあったらすぐに助けてあげるから。これでも泳ぎは得意よ」
「はい。もしものときはお願いします」
出会いは険悪な感じであったが、橙はすでに、妹紅という人間を信頼していた。
何だか、人間にありがちな恐怖心が感じられないのだ。
未知に対して臆病な人間ほど、妖怪にとって危険な存在である、と知っている。
あはは、と笑って竿の準備をしている妹紅は、大胆で恐れ知らずにしか見えなかった。
「でも、ここで本当に釣れるんですか?」
「もちろん。軽く千年以上生きている私の意見を信じられないとでも?」
「せっ、千年!?」
橙は跳び上がった。
てっきり人間なので、自分より年下だと思っていた。
それが、ずっとずっと年長の先輩だったとは。
むしろ、自分の主と比べられる年だ。
「ちょいと事情があってね。まあ、長く生きていれば、それだけ経験があるってことよ。
どう、少しは見直した?」
えっへん、と威張って、竿を手渡してくる妹紅。
それを受け取る橙の心に、希望が湧いてきた。
「妹紅さん! よろしくお願いします!」
「いい返事だ。でも、声はもう少し小さくね」
「あ……えへへ」
こうして、二人の釣りが始まった。
妹紅は橙の隣に立って、懇切丁寧に指導してくれた。
藍から教わったことと重なることもあるけど、
彼女ならではの独特の表現が面白かった。
「あ、そんなに強く握っちゃだめ。反応が鈍くなるし、魚にばれるから。
余計なこと考えずにぼけーっと風景を眺めてなさい」
「はい」
橙は言われた通りに、無心になろうとする。
しかし、やはり頭に浮かぶのは主の姿だった。
一匹も釣れなくても、藍は許してくれるだろうか。
鬼ごっこで遊んでいたと知られたらどうしよう。
橙の嘘など、一発で見破られてしまう。
「橙、引いてるってば」
「え、ええ!?」
橙は慌てて竿を引っ張るが、手応えは一瞬で消えた。
「惜しかったね。何か考えてた?」
「あう……。ごめんなさい」
「じゃ、もう一度」
「はい」
橙は仕掛けを投じる。
何とか落ち着こうと努力する。
妹紅の指導のままに、ゆっくりと餌を滑らせるように。
ふと、手応えがあって、橙は竿を引っ張った。
「あ! 釣れた!」
「おお。おめでとう」
「でも、ちっちゃい……」
その魚は、手のひらほどの大きさしかなかった。
「大きいのが釣りたいなら、もっと気配を消さなきゃダメね。あいつら頭がいいから」
「すみません。どうしても、考え事をしちゃいます」
「ふーむ」
妹紅は顎に手をやって考え込んだ。
「よし! じゃあ、今から私をあの狐だと思ってやりなさい」
「ええ! 妹紅さんが藍様!?」
「そう。ま、物は試しよ」
「は、はい!」
再び橙は仕掛けを投じた。
言われたとおりに、心の中で静かに念じる。
隣にいるのは藍様……。隣にいるのは藍様……。
橙の体が、緊張で石のように固まっていった。
妹紅がいつもより低い声音で、それをたしなめてくる。
「橙、落ち着きなさい」
「はい!」
「返事は静かに」
「は、はい」
「釣れなくても怒らないから」
「わ、わ、わかりました」
「ほら、リラックスリラックス」
「……りらっくす、りらっくす」
「…………何で益々緊張していくんだ」
「……すみません」
「主がいいって言うんだから、そんな怖がらなくてもいいのに。変な子ね」
「………………」
「あ、そうか。主の前だからいいところ見せたいんだ」
「………………」
「なるほどねー。だから固くなってるんだ。可愛いもんだねぇ。うりうり」
「…………妹紅さん」
「私は八雲藍様よ」
「藤原妹紅さん」
ほっぺたを突付かれていた橙は、ぎぎぎと首を動かして、ジト目で妹紅を見る。
「ひょっとして、私で遊んでませんか」
「あ、バレた?」
「むううう」
「あはは、ごめんごめん。でも、釣りなんて遊びみたいなもんよ」
「…………遊び」
「そうだ。今日、一日中遊んでいたんでしょ? だったらその感覚でやってみなさい」
「遊ぶ感覚?」
「そう。今の橙は、何か釣りを怖がってるからね。遊びならそんなことないでしょ」
人差し指を立てて、妹紅は橙に説明した。
「はい。わかりました」
そうか、確かに怖がっていたかも。
遊びの感覚か。確かに鬼ごっこはスリルがあるけど、怖くはなかった。
今日の遊びの感覚……遊びの感覚。
「ほーら!! こっちまでおーいでー!!」
「かくれんぼにしろ!」
竿を左右にブンブン振り始めた橙の後頭部に、
スパーン、と妹紅のしたたかな突っ込みが入った。
すでに西の空は赤く染まっていた。
それなのに、結局橙は小魚を三匹しか釣れていなかった。
何だか、また泣きたくなってくる。
そんな橙に、妹紅からのほほんとした声がかけられた。
「ところでさ。川に入って捕まえようとか思わないの?」
「……釣った魚かどうか、藍様にはすぐに分かっちゃいますよ。
それに、私は川に浸かったら式が外れちゃうし」
「ああ、なるほど。そういうことか」
妹紅は納得したようにうなずいた。
「でもさ、あの狐のことだから、橙が釣れなかった時の対策も用意しているんじゃないの」
「…………あ、そうかも」
考えてみれば、主の藍は、橙など及びもつかないほど、気がきくし優しい。
晩御飯のおかずを、橙に任せっきりにすることなど、あるはずがない。
橙が何も釣らなくても、いつものように笑って頭を撫でてくれるんじゃないだろうか。
もし道具を無くしてしまっても、一緒に探してくれたんじゃないだろうか。
慌てるあまり、自分の主を見損なっていたのかもしれない。
橙は心の中で百回ほど藍に謝った。
しかし、そんな優しくて大好きな主だからこそ……。
「釣りたいんです」
「…………」
「ちょっとでも、藍様の望みどおりに働ける、ってところを見せたいんです」
「そっか」
だけど時間は残り少ない。
もうすぐ日が沈みそうだ。
暗くなっても帰らなければ、主が橙を探しに来るはずだ。
迫る時間に、橙は気持ちが沈んでいく。
ふと、隣に座る人間の顔を見た。
妹紅はちっとも心配しているようには見えなかった。
よほど神経が太いんだろうか。
笑みを消さずに、のんびりと川の向こうの風景を眺めている。
「妹紅さん……」
「なあに?」
「助けてください……」
また弱音を吐いてしまった。
自分の主なら、絶対こんなこと言わないのに。
情けなくて、ますます気落ちしてしまう。
妹紅は立ち上がって、何を思ったか、橙の後ろに回ってきた。
「橙。よく聞いて」
妹紅の声は優しかった。
「あんたの主に、大きな魚を食べさせてやりたいって、必死になるのはわかる」
橙の肩にそっと手が置かれる。
温かくて、少しくすぐったい。
「でも、肩に力入れてたって物事はうまくいかないよ。もっと釣りを楽しまなきゃ」
あっ!
思わず橙は声をあげそうになった。
釣りは楽しくやらなきゃ。
それは主である藍が、釣りに行くときにいつも言っていたことだった。
なぜ自分はそれを忘れていたのだろう。
いきなり妹紅は、拳を握って叫んだ。
「それに! 親に魚を食べさせてあげたいから! 喜んでもらいたいから!
自分じゃなくて人のため! これで釣れなきゃ魚にバチが当たるっての!」
「も、妹紅さん! 釣り場では静かにするんじゃなかったの?」
「おっとごめん。あまりにいい話だったんでつい」
「……もー」
本当にこの人にまかせて大丈夫だろうか。
でも何だか気が抜けてしまった。
時間は残り少なかったが、
ちょっとだけ、釣りが楽しくなりそうなきがしてくる。
「じゃあ、今度は目を閉じてみようか」
「目を閉じるんですか?」
「そう。余計なことを考えずに、耳をすましてみなさい」
「はい」
橙は思い切って、目を閉じた。
川の流れる音に混じって、山のざわめきが聞こえてくる。
風に乗って、山に生きる物のにおいが鼻をくすぐる。
自然と同化していくような感覚。
心が静かになっていく。
切羽詰っている状況も、何だか忘れてしまいそうだ。
竿を通して、川の中の様子まで伝わってきそうな……。
あれ? なにこれ?
突然、橙の竿が、手の中で暴れだした。
のんきな顔をしていた妹紅の目が光った。
「わ、わ、わ!」
「慌てるな! しっかり持つだけでいい!」
真剣な妹紅の声が飛ぶ。
「両足で踏ん張って! お尻を少し下げなさい!」
「はい!」
「逆らわずに! 引き上げようと思わないで! 鬼ごっこで遊んであげるように!」
鬼ごっこのように!
それなら得意分野だ。
逃げる方は全速力で逃げてはいけない。
つかず離れず、追いかける鬼の動きに流されるように動く。
それが遊びのこつだ。
橙は気持ちを落ち着けた。
竿にはまだ、ずっしりと重い手応えがある。
心臓は高鳴っているが、頭のほうはスッキリしてきた。
時折糸が、川の流れる方へと向かうが、力で引き返さずにゆっくりとついていく。
川の下にいるのは、どんな魚だろう。
好奇心で手が震えてくる。
走り出したくなる気持ちを押さえて、橙はしっかりと踏ん張った。
「いいよ。そのまま弱るまで遊んであげなさい」
「はい!」
ぐいっ、と引っ張られる動きにあわせて、
橙はサッと移動し、背中を後ろに倒した。
現れた。
水面を破って、大きな魚が顔を出す。
二、三度と素早く首を振って、鱗を光らせながら、再び水中に潜っていく。
橙は息を呑んだ。
イワナだ。
「も、妹紅さん!」
「わかってる! もう少し我慢しなさい! 静かに下がって!」
「はい!」
橙は後ずさりする。
だんだんと手応えに、逆らいが無くなってきた。
竿と魚の境界が、不明瞭になってくる。
橙は笑った。
本当に鬼ごっこで遊んでるみたいだ。
最初はかくれんぼ、次は鬼ごっこ。
そして、もうすぐ終わる予感がする。
「よし! 全身で引っ張って!」
「はいっ、やあああああ!!」
気合と共に、一気に橙は獲物を引き上げた。
川原に魚が打ち上がる。
緑がかった褐色に、白い水玉模様の背中。
長さが橙の腕ほどもある。
まるまると太った大きなイワナだ。
イワナは川原に上がると、
ぴょんぴょんと歩くようにして川に戻ろうとした。
妹紅は素早く近寄って針を外し、逃げないように両手で魚を支えながら、
橙の所に持ってきてくれた。
「ほら。持ってみる?」
「わあ。……あれ。あ、あの」
「ん?」
橙は恥ずかしそうに告白した。
「……竿から、手が離れなくなっちゃいました」
「ぶっ」
妹紅が吹き出して、大声で笑った。
橙もつられて大笑いした。
「わあ、すごいなぁ」
橙は妹紅と並んで、バケツを覗いていた。
中で泳ぐイワナは、とても綺麗だった。
自分が釣ったものだとは、信じられない。
いつまでも飽かずに眺めていられる。
「1尺ちょっとか。いい大きさね」
妹紅がバケツから顔を上げて、橙に向かって親指を立ててきた。
「よかったね。主に自慢できるよ、橙」
「はい、はい!」
橙は涙ぐみながら、何度もうなずいた。
妹紅が嬉しそうに笑っている。
その顔が、大好きな主の顔と重なった。
そこで、今さらのように橙は気づいた。
そうだった。
この釣り上げる楽しさが、隣で見守る人に笑ってもらえる喜びが忘れられなかったから、
自分は釣りに夢中になったんだ。
釣りは楽しくね、という主の言葉の意味が、ようやく分かった気がした。
「妹紅さん! このご恩は一生忘れません!」
「いいって。それよりもう暗くなるよ。早く帰ってあげなよ」
「はい!」
「あ、ちょっと待った。これもお土産に持っていきなよ。風呂敷に包んでさ」
「え! いいんですか!?」
渡されたフキやクリを手に、橙はびっくりして妹紅の顔を見た。
妹紅は手を振って、
「いいって、いいって。その代わり、主の料理でも手伝ってあげなさい。たぶん、びっくりするわよ」
「わ、わかりました!」
主がきっと心配して待っているだろう。
いつものように玄関で出迎えてくれるに違いない。
この獲物を見たら、藍はどんな顔をするだろうか。
橙は自分が誇らしかった。
風呂敷を背負い、バケツと竿を大切に抱えて、
橙は地面を蹴った。
「ありがとー!! さよーならー!!」
竿をぶんぶんと振りながら妹紅に別れを告げ、
橙はマヨヒガへと全速力で飛んでいった。
※※※※※
「ま、そんな話があったのよ」
人里近くの一軒家、時刻は昼飯時前。
妹紅は昨日に出会った妖怪猫の釣り話を、友人に聞かせ終わった。
「なるほど。いい話だな」
すっかり元気になっていた上白沢慧音は、湯飲みを手にして、嬉しそうに微笑した。
彼女は美談が好きだということを、妹紅は知っていた。
特に、妹紅が関わっている話になると喜ぶのは気のせいだろうか。
「それにしても、ここ数日は妹紅に世話になった。借りができてしまったな」
「よしてよ。今さら、そんなこと言う仲じゃないでしょ」
「……これは失礼」
慧音の苦笑が少し照れくさかったので、妹紅はあさっての方向を向いた。
「だけど、あまり頻繁に山には入らない方がいいぞ」
「わかってるわよ。次は山芋の時期かな。楽しみだなー」
「山芋か。里でも栽培しているが、やはり山の土で育った自然薯は格別……ん?」
そこで、慧音はふと、湯飲みを置いて、玄関を向く。
「誰か来るな。見舞いだろうか」
「そうかな。妖気を感じるけど」
そこで扉が開いた。
「お邪魔する」
「おお。噂をすれば」
入ってきたのは、九尾の妖怪狐、八雲藍だった。
手に大きな風呂敷を抱えている。
すぐに慧音は、茶を用意しにかかった。
「昨日はうちの橙が世話になったようで。妹紅殿の家は不在だったので、こちらかと。
ああ、お構いなく」
「なんのなんの。大したことはしてないわよ」
「これはお礼の品だ。召し上がってくれ」
藍は風呂敷を床に置き、包みを解いた。
出てきたのは、いなり寿司と海苔巻だった。
一人じゃとても食べきれないほどの量だ。
だが、その内の半分は、何というか、不恰好だった。
慧音は、崩れかけたかっぱ巻きを一つ摘んで、首をかしげた。
「失礼だが、藍殿の作とは思えんが」
「お察しの通り、橙が握ったものだ。ぜひ食べてほしいと」
「妹紅への礼か。となると、私にはもったいない寿司だな」
「いやいや、慧音殿もどうぞ」
「二人ともかしこまってないで、皆で食べればいいでしょ。あれ? でも橙は?」
作った本人が礼に来ないというのもおかしな話である。
すると、藍は困った笑顔を見せて、
「それが……竹林で友人と会って、遊んでいる。すまないけど、後でちゃんと顔を出させるつもりだ。
妹紅殿には凄く感謝していたよ。できれば、これからも遊んでもらうと嬉しい」
「ははは、照れちゃうね」
そこで、藍は出されたお茶を一口飲み、こん、と咳をした。
「実を言えば、橙抜きで、二つほど聞きたいことがあった。まずは慧音殿」
「私に?」
慧音は、はてと首をかしげた。
藍は、改まった口調をくだいて、内緒話をするように問い掛けた
「……満月の夜に食あたりで倒れたそうだけど、何を食べたの?
私の主が何かを知っているようだったけど、笑うだけで教えてくれないんだ」
「あっ、そうよ。私にも教えてくれないじゃん慧音」
「…………黙秘権を行使する」
「別に空腹でテングタケ食べたなんて聞いても驚かないわよ。笑うけど」
「お前じゃないんだから、そんなことは無い! ただ……何といっていいやら」
ううむ、
と慧音は渋い顔で、頭を抱えてうめいていたが、
やがて一言だけ述べた。
「…………乙女心は辛く哀しい、といったところだ」
「全然わかんないわよ」
「いや、話したくないならそれでいいよ。どうも複雑な事情があるようだし。
それと、これは自家製の梅干し。胃にいいでしょう」
「すまない」
藍がクスクスと笑う前で、慧音はホッと胸を撫で下ろし、梅干しの壷を受け取った。
「もう一つは妹紅殿。貴方だ」
「ん。どうぞ」
「昨日橙が釣ってきたイワナについてだ。実に美味だった。礼をいいたい」
「またまた。あの子の手柄でしょ」
「そこなんだ。あいつが本当にあのイワナを釣ったとは、イマイチ信じられない」
思わぬ言葉に、慧音は壷を手にしたまま、きょとんとした。
九尾の狐は腕を組んで笑っていたが、その目は油断なく妹紅の反応をうかがっている。
対する妹紅は知らん顔をしていた。
藍はさらに話を続ける。
「ただ嘘をついているようにも思えなかった。ここはぜひ、同じ釣り人として、
千年鍛えた蓬莱人殿の釣りの極意を学んでおきたいと思ってね」
「そんな大げさな。別に何でもないってば」
「…………釣った場所を詳しく聞いて、いよいよ確信した。あそこでイワナが釣れるとは思えない。
となると、それを教えた人物に何らかの秘策があったに違いない」
スラスラと自分の推理を披露する藍に対して、
妹紅は降参して苦笑し、肩をすくめた。
「ん。秘策はあったわよ」
「やはり」
「でも、あのイワナを釣り上げたのは、あの子の実力よ。それは間違いない。
あとは……家族に大物を食べさせたい、っていう想いが釣らせたってことで」
「…………?」
「いやあ。あの子の必死の決意に、私も感動しちゃってね。
『えらい。自分じゃなく、家族のためとは。これで釣れなきゃ魚にバチがあたるわ』
なんて大声で言っちゃったりして」
「…………あ、もしや」
藍がハッとするのを見て、
妹紅はニヤっと笑った。
「お礼の品はありがとう。ただ、私一人では受け取れなかったね。これから行ってみようか」
「なんだ? 私にはサッパリ話が読めないぞ」
慧音が、妹紅と藍の顔を見比べる。
妹紅は橙の握ったいなり寿司を一つ摘んで、ぽいっと口に入れた。
その優しい味に、頬を緩ませながら、得意げに説明する。
「いやなに。家族の愛を解するのは、人間も妖怪も同じだってことよ」
※※※※※
夕焼け空に、橙が飛び去っていく。
その姿が見えなくなるまで、妹紅は手を振ってあげた。
「この御恩は一生忘れない……か。猫は三日で恩を忘れるっていうけど。ふふっ」
笑って、手を下ろす。
まあでも、悪い気はしなかった。
一人になって、急に静かになったようだ。
流れる川をぼんやりと見ながら、
妹紅はしばし立ち尽くした。
自分以外に誰もいない光景が広がっている。
別に珍しくもない。
それは藤原妹紅の人生のほとんどだった。
家族のため……ね。
はるか昔を思い出す。
父上に可愛がってくれた記憶。
妹紅が大好きな家族、父のためにしたことといえば……復讐くらいだった。
蓬莱山輝夜に恥をかかされ、落ちぶれていく悲しそうな姿。
それは今も、妹紅の心の底で燃え続けている。
輝夜に対する恨みが、消えずにそこに残っている。
不毛な殺し合いと言われようと、その動機が自分という存在を千年かけて作ってきたのだ。
簡単に捨て去れるものではない。
この気持ちは誰にも理解できない。
だけど……。
妹紅は籠の中の山菜に目をやる。
この食べ物は、自分のために採ったものではない。
こんなことをするようになったのも、思えばつい最近になってからだった。
今では仇敵のいる永遠亭に、病人を運ぶ案内役までやっている
かつての自分が見たら、何度死んでも気がおさまらない光景かもしれない。
だが、そんな風に、純粋に人のために何かをするというのも、意外と好きになってきたのだ。
そんな些細な喜びに気がつくのに、ここまで長い時がかかった。
それを自嘲する自分を、嬉しそうに否定する友人が、今はいる。
憎しみとは違う、別の生きる目的。
ここ幻想郷に来て、それは見つかった。
「……ま、難しく考えないことが、長生きのコツよね。さて、と」
妹紅はうーん、と伸びをして、
「腹痛の石頭殿が待ってるし。いい加減、帰るとしますか」
よいしょ、と籠を背負って歩き始めた。
その時、
ちゃぽん。
と川音がした。
わずかに心臓が跳ねたが、
すぐに妹紅の笑みが深くなる。
「おっとっと、いけない。忘れてた」
大事な用事がまだ残っていた。
立ち止まった妹紅は、
背中の籠から『通行料』を取り出す。
ここで暮らす限り、もう自分が一人の時代なんて、こないかもしれない。
妹紅は愉しげに笑って、
緑色のキュウリを、思いっきり振りかぶった。
「これはイワナの分! ありがとね!」
投げたキュウリは放物線を描き、
夕日に染まった川へと落ちていく。
それを、
水中から、びよーん、と伸びた機械性の手が、
しっかりと受け取った。
(了)
妹紅の秘策ってにとりに手伝ってもらうことでしたか。
「ああ、なるほど」と思いましたよ。
面白かったです。
でもって
>「ひっさ~つ、もこキック~♪ 飛んでいーけーかーぐーやー♪」
これは…売れる…かもしれない…。
もし続編があるなら、満月の夜の食当たりの原因になった切ない乙女の話が読みたいです。
妹紅も何だかんだ長生きしてる分、若い者に対しては面倒見がいいイメージが。
しかし、慧音が相当ヤヴァい物を食べた事は想像できてましたが、
まさか「アレ」とは(汗)そりゃ食あたりもするわなw
この作品のおかげで、俺の中のもこたん株がストップ高になってしまった。
にとりもやってくれるなぁ~
それと、けーね・・・・
いくら満月だからって、何でもかんでも食べたらダメよ!!
ほんわかしてて非常にいいです
スパッと切って、読み手側に「にとりが手伝ったのかな?」と考えさせる余韻を与えると、美しさが増します。
解らないけど兎に角とんでもないくらい微笑ましい
すげー
もっと書いてほしいなぁ。
文章も読みやすくて非常によかったです。
見えたんですね。どういう仕組みなのだろう。
改めて実感させられて「予測する」という作業がいっそう楽しくなります。
小ネタや伏線も利いていて面白い作品でした。
他のキャラクターも皆生きているって感じがします。良作でした。
でも
犂は犂はどこへ行ったんだーーーーーー
あれを食べちゃったらお腹も壊すよ。
そしてにとりGJすぎる。
腹痛の原因ってなんだろう…と思ってちょっと以前の作品を読み直してみたら…
…この話の背景が途端にギャグ話にしか見えなくなった。腹筋が痛いwwww
前作に続き良いお話でした。
上で仰られている方もいますが、同じ一日が様々な視点で描かれていて、
それぞれのエピソードがより深みを増している良いお話だと思います。
イワナのくだりは「家族の愛を解するのは」の部分から、
覗いていた紫様の仕業だと思っていました。
改めて読み返してみると、「大声で」というところがポイントなんですね。
一言も喋っていないにとりが、いい仕事をしてます。
……あんな歴史食べれば、そら腹も壊すわw
こういう美談は本当にいいものですね。
にとりいい仕事してるよにとり。
>「ひっさ~つ、もこキック~♪ (中略) 月まで届け不死のお馬鹿~♪」
すごく・・・不死の煙のテンポです・・・
最後まで秘策が分からなかったorz
藍が気付いたあたりで自分も気付いたんですけどね。
にとりは「縁の下の力持ちーーー!!!!」だね。
ヘッポコ釣り師の意見ですが、釣る方に雑念や邪念があると、
無意識の内に釣り糸を不自然に流してしまうようです。
相手はちょっとでもエサがヘンな動きをすると、危険と判断するようです。
自分で自然に流せるようになれば、橙もきっと良い釣り師になれんでしょうね。
藍はもちろん、妹紅やナイスアシスト!だったにとりも大よろこびでしょう。
大物を釣り上げたいくばくかの経験からすると、どれも自然体でした
むしろ「こんなところにいるかいな」と流す練習してると、いきなりかかってきました
>>137さんのご指摘通りで、彼らは「自然な流れを読める程度の能力」な存在ですから
キャラがみないいですね。
それに、ほのぼのの中にもしっとりが含まれているのは大好きです。