※ オリジナルな解釈が多々出てきます。
※ グロくてスプラッタで倒錯しています。
主が重度の放浪癖の持ち主であるからして、豪奢な調度が誂えられたこの一室が正しく役目を果たした最後の日から既に久しい。
でも、それにもかかわらず、床には僅かばかりの埃も溜まっていないし、もちろん窓枠を人差し指でなぞっても塵一つ付かない。
だって彼女の館には私というお節介焼きがいるから。
毎朝決まった時間に彼女の部屋を掃除する私の姿が滑稽だと姉さんは言う。今日も帰ってこなかったし、どうせ明日も帰ってこないのだからって。
確かにそれは間違いないから姉さんの言う事も一理あるのだけど、いつも気が付くと私はハタキを握っているのだ。
大体にして、私は姉さんみたいに一日中ソファで寝そべっているだけで暇を潰せる類の性格じゃないし。
今日も部屋が完璧に綺麗な事に満足した私は、天気がいいからとベッドから羽毛のお布団を抱き上げた。
肌に感じるふかふかが自然と頬を緩ませる。
お日様の光をたっぷり吸い込んだならもっと柔らかになるのだろう。想像すると更に頬が緩んだ。
私は家事が好き。掃除も洗濯も、勿論お料理も。
いや、家事そのものが好きと言うよりも、館の怠け者たちに世話を焼くのが楽しいのかもしれない。
その辺の区切りは判然としないし、別にさせようとも思わないけれど、でも、ただ一つだけ言えるとしたら、私が歩くたび頭で揺れるこのホワイトブリムは、私自身が好き好んで付けている物なのだ。
扉を開け廊下へ出る。赤と黒が基調でやたらと長く、その上窓が少なく薄暗いとあって大体の人は不気味だと言う。
そういえば彼女も最初そんな事を言っていた。
その時、確か私は、悪魔の館だからこの位で丁度いいと答えたと思う。それで彼女は納得したように頷いていた。
姉さんはあんまりそういう事に頓着しないけれど、私としてはやっぱり悪魔らしい威厳を演出できる館であって欲しいと思っている。
だから、この内装にはちょっとこだわりがあったり。
ともすれば悪趣味になってしまう色彩だけど、それを瀟洒に決めるのがメイドの腕の見せ所。
無駄は極力省いて、所々にアクセントを散らす。考えるだけでウキウキしてくる。
前言撤回。区切る必要なんて無い。家事も世話焼きもどっちも等しく楽しい行為だ。
開けはなった大扉の先。まばゆいまでの太陽光が降り注ぐ館の外へ、ちょっと上機嫌な私は足を踏み出したのだった。
※※※※※※※※※※
底で茂る藻のせいか、赤紫という不思議な水色を呈す湖の中心にこの黒い島は浮かんでいる。
夏の太陽に焼かれ、焦げてしまったかの様な土壌。
少し見回せば、一年で生命が最も勢い付く季節であるにもかかわらず、草木の緑はちらほらとしか確認できない。
殺風景を通り越して異様とも言える風景にあって、さらに異質な印象を与えるのは一つの大きな屋敷。
場違いだと見た人は口を揃えるけど、館はそんな意見など黙殺するかの様に、荘厳かつ孤高な勇姿を以って佇んでいる。
それは私の自慢の館。その名も夢幻館。私たち姉妹の名前から一文字ずつとって、姉さんがそう名づけたのだ。
元の名前は別にあった筈だけど覚えていない。それ程興味も無かったし、とんでもなく昔の事だから。
何しろ、私達が物心ついて間もない頃だ。
当時の記憶は霞がかかったように曖昧な部分が多い。ただ、その中から思い出せるだけ思い出してみようと思う。
姉さんは今でも傍若無人を地で行く難儀な悪魔であるけれど、若い頃はそれに行動力まで備わっていたものだから、正に傍迷惑の権化みたいな存在だった。
この館を強奪しようとか言い出したのも、前の住居で箪笥に小指ぶつけたとか、歩いていて石に躓いたとか、そんな八つ当たり気味で下らない理由だったと思う。
いや、更に言うなら、他人が聞いたら失笑するに違いないそんな理由ですら、きっかけに過ぎない。
より正確な理由は館の所在を姉さんが知っていたからで、最も正しい理由は姉さんがあくまで姉さんであったからだ。
時々、姉さんみたいなのが生まれたのは、運命とか、そういった奴の手違いだったんじゃないかと思うことがある。
何と言っても姉さんは、契約の遵奉者にして淑女たるべき義務を、喰い破った子宮の中に忘れてきたイレギュラー。力の使い方を誤るイカレた悪魔。
構造的に欠陥なのが明らかなのに、どういう訳か破格の天稟の持ち主。戯れに拳を振るうだけで同属の大概を屠る事が出来た。
それに、大体見た目からしておかしい。
悪魔の翼っていうのは、もっと禍々しく黒い蝙蝠の翼だって相場が決まっている。
なのに、姉さんのそれときたら染み一つ無い純白で、殊勝な顔してミサの会場にでも降り立ったなら、衆愚より熱烈に崇拝される事請け合いだ。
だけど、先に言った通り姉さんは天使なんて柄じゃないから、残念な事に、礼拝堂は酸鼻極まる血の日曜日の舞台となってしまうだろう。
赤く染まった窓ガラスを指差して、“ステンドグラス”とか他人に通じない洒落で一人爆笑する姉さんの姿が容易に想像できた。
“かわいい悪魔”――姉さんがそんな風に呼ばれるようになったのは果たしていつの頃だったか。何にしろ、極々自然とそう呼ばれるようになったのは間違いない。
思うに、“かわいい”というのは中々に汎用性の高い褒め言葉で、大体の場合、そう言われた相手は肯定的に受け取ってくれる。
もちろん私もかわいいと言われれば嬉しい。女の子だから。
しかし、極まれに、かわいいは蔑みとなる。貴様は矮小だという皮肉でもあるからだ。
もちろん、そう言われれば私は怒る。私にだってプライドはあるから。
しかし、なら姉さんの“かわいい”はどっちだろうかというと、残念ながらそのどちらでも無い。
別の言葉に言い換えるなら無邪気が近いのだろうと思うけど、その本質はもっと恐怖されて然るべきものである。
例えば、蟻の巣を見つけた子供が木の枝でそれをほじくり返すように、例えば蛙を見つけた子供がその肛門に爆竹を詰め込むように。
何の打算も哲学も伴わない、ただただ、そうしたいからという気紛れを理由に凄惨な暴虐を振り回し、それでも罪悪感など微塵も覚えはしない。
そういった、ある意味で穢れが無さ過ぎる狂気。姉さんの“かわいい”はそれだ。
そして悪い事に、姉さんの場合その純真な毒牙の対象が昆虫や両生類如きで留まらず、ありとあらゆる生命にまで拡大される。
目が合った。いや、遠く姿が見えた。それだけで十分。
姉さんがそうしたいなら、そんな何の責任も問えない理由で悲惨な嬲りを受ける事になる。味わうのは面白半分に足をもがれる飛蝗の絶望だ。
流石に最近は少し丸くなったが、当時の姉さんは妹である私ですら弁護の仕様が無い程に常軌を逸していたと言える。
そんな姉さんであったから、この館に殴り込んだその時の光景は当然の如く筆舌に尽くしがたいものとなった。
館の持ち主やその血族、そして住み込みで働く結構な数の従僕達。
彼らは、各々分相応に意味ある生涯を送っていて、それなりの幸せとかを噛み締めていた筈だと思うけど。残念な事にそれは姉さんの興味の範疇ではなかった。
悪童が昆虫を解体して遊ぶのは、破壊された中身の構造とか、ピクピク震える命の哀れさが楽しいからで、そこには虫の短い生を慮る余地など一寸たりとも存在しないのだ。
だから姉さんは、それはそれは丁寧に楽しんだ。一人一人時間をかけて。
行為に勤しんでいる間姉さんはずっと笑っていた。心の底から。狂気の乾いた笑い声ではない。見た目相応の少女が笑劇を観賞して腹を抱える、そんな朗らかな笑い声。
その姉さんを見る私は間違いなくうんざりした表情をしていたと思う。
それはそうだ。赤ペンキをぶちまけたような廊下を掃除するのがどれだけ大変か想像すればそんな表情にもなる。
幾ら好きとは言っても、わざわざゴミ箱をひっくり返してまで掃除をしたいと思うほど病んではいない。
赤い絨毯に染み込んだのが紅い血だからパッと見床は綺麗だけど、少し時間が経ったなら黒ずんだ斑点が浮き出てくるだろう。新調しないと駄目かもしれない。
ちょっとは考えてくれてもいいのに……。
そう呟き、姉さんの幼稚さにはっきりとした嫌悪を向けた私ではあるけれど、ちょっと己を顧みると、私も結局姉さんと同じであることに気付いた。
なるほど、私は姉さんに比べると、ほんの少しだけ嗜みを心得ていて、尚且つほんの少し合理を好むだけ。
証拠に、無残に嬲られる彼らの苦しげな呻き声が、耳障りな蚊の羽音程度にしか私には感じられなかったのだから。そこには何の憐憫も無い。
だって私と姉さんは双子。私もまた暴虐非道な悪魔であるのは疑いようの無い真実なのだ。
少し安心する。何だかんだで私が尊敬できるのは姉さんだけ。その彼女と根っこの部分を共有していると実感できたのだから。
思えば、悪魔として異端な私がそれでも生きたいと願うなら、姉さんの無遠慮さが不可欠だったし、姉さんが文化的に生きたいと思うのであれば私の几帳面さが必要だった。
でも、つまりそれは、私がいなくても姉さんは生きていけるけど、私はそうじゃないという事であり、その事に私が幾らかの負い目を感じていたのは間違いない。
「――私たちは二人で一人前だね」
それだけに、そう姉さんが言ってくれた時は本当に嬉しかった。
姉さんの右手に握られている、館の持ち主であった物からは容赦なく血液が噴出し、内装のみならず私まで赤く染めていたけど、そんな事はもう気にもならなかった。
部屋で一番真っ赤な姉さんはやっぱり笑っていて、でも少しだけいつもより穏やかで。
ああ、信頼してくれてるんだなあって。
そう、姉さんはこれから棲みたい場所の管理を私に任せてくれると言ってくれたのだ。
日が昇った後、姉さんは何処からかメイド服を探してきて私に着せようとした。
その理由を尋ねれば、可愛いし絶対似合うからと姉さんは言ってたけど、実際のところはこの頃の私の気持ちをよく分かっていたからなのだろう。
流石だと思う。子供じみた言動がどうしても目に付くし、実際それが姉さんの本質であるけれど、時折見せる聡さは本物だ。
フリルがあしらわれたこの装束には、可愛らしい外見以上にもっと重要な意味がある事を私は知っていた。
それを理解していて、それでも私は袖を通した。抵抗などあるはずも無かった。
だって、私は“かわいい悪魔”にすっかり心酔していたのだから。
とんでもなく気分屋で自己中心的で、でも無垢な笑みはこの世のどんな宝石よりも魅力的に思えて、そんな姉さんだからこそ仕えたいと思った。
姉と妹という関係を考えれば普通じゃないのだろうけど、そんな常識で姉さんを縛れるはずがないし、縛るべきではない。
かくしてこの日、私は夢幻館のメイドとなった。主は愛らしく畏怖すべき無邪気なデーモンだ。
※※※※※※※※※※
「……ふう、熱いわね」
物干し竿にお布団をぶら下げた私は、ハンカチで額の汗を拭いつつそう呟いた。
日向の直射日光は殺人的と呼んで差し支えないくらいで、しかも無風だから、運動らしい運動をしていなくてもだらだら汗が垂れる。
「……とは言え」
額のハンカチをそのまま翳すようにし、雲一つ無い青空を仰いだ。
うん、素晴らしい洗濯日和だ。これだけの好条件は一年間通しても何度も無い。
布団干しが終わったなら、洗濯をするべきだろう。でないと罰当たりというものだ。
箪笥の奥に仕舞ってから暫く使っていない衣類も引っ張り出して、一緒に洗ってしまおう。
そうだ、桶に水を汲むときにドジ踏んだ振りして、ポンプの水を被ってみるのもいいかもしれない。
ぐちょぐちょのメイド服が気持ち悪くて、後になって後悔するんだろうけど、構うもんか。こんなに熱ければ、私だってちょっとお茶目をしたくなる。
そこまで考えて、そういえば、この壮絶な日差しに早朝からちくちく刺され続けているであろう門番がいるなと私は思い至った。
日射病にやられるほど儚い体ではなかった筈だが、一応倒れていない事を確認して、ついでに労いの言葉の一つでもかけてやるべきだろう。
ハンカチをポケットに仕舞った私は、裏庭に向けて足を進めた。
植物が育つに適さないらしいこの島で、これだけ沢山の緑色を目にする事が出来る場所は、表の花壇とここ裏庭の菜園だけだ。
それなりに手間をかけた土壌改良の成果である。植えた種から最初の芽が出たのを見た時は中々に感慨深かったのを覚えている。
とは言え、毎日の手入れが大切なのが庭園仕事。
実際に育て始めると思った以上に時間を取られ、他の業務との兼ね合いが難しい事が分かったので、今の庭園は我が館の暇人その一の手によって管理されている。
その彼女と言えば、丁度、藪を刈り取る作業中らしい。一本一本は細いとは言え、私の背丈ほどにの高さまで成長した雑草の群れ相手は骨が折れる事だろう。
「エリー。暑い中ご苦労様、はかどってる?」
「あっ、夢月さん。まあ、ぼちぼちってところですかね」
私の声に、細腕らしからぬ力強さで振り回していた大鎌を地面に突き刺し、彼女は振り返った。
肩辺りでカールした癖の強い金髪が特徴的で、名前はエリー。我が夢幻館の門番である。
門番であるなら門の前で直立不動してるのが正しいという意見もあるだろうし、私としてもそれには概ね賛成の立場だが、それでも彼女が裏庭にいるのは理由がある。
まあ、要するに門番は暇なのだ。昔ならいざ知らず、今時わざわざ館を訪れる物好きなんて本当に稀だし、立地条件のお陰で迷い人がふらふら進入してくる事も殆ど無い。
なら、門の前で無駄に威圧感を振り撒いてみたり、ふわぁと欠伸したりで一日が潰れる生産性の欠片も無い門番業務なんかよりも、働けば働いた分だけ私たちの目と胃袋を満足させてくれる庭園業務の方が優先されるのは自明の理である。
うん。私は合理的でないことは嫌いなのだ。
「全然元気そうね。でも、それが何よりだわ」
「それだけが取り柄ですから」
健康的な汗を垂らした彼女は溌剌そのものであり、消耗が激しい真夏の重労働の最中とは思えないほど。
しかし、流石に暑苦しい正装での園芸作業は厳しいと見えて、今の彼女は薄手の半袖Tシャツに短パンという大層ラフな格好である。
被っているのもいつもの白いハットではなく、涼しげな麦藁帽子だ。
たくし上げたシャツの臍より下が脇腹の辺りで団子結びにまとめられていて、締め付けが増した分、大振りな胸がさらに強調される形になっている。
私は軽く眉を寄せた。いい年した女の子なんだし、もう少し恥じらいとかを感じて欲しい。
やはり女所帯だとその辺の感覚が麻痺してくるものなのだろうか。……私は気を付けたいと思う。
そんな私の気など知らず、エリーはシャツを胸の前でくるくる捻り汗を搾っている。雫が指先を伝ってぽとりぽとりと地面に落ちていた。
愉快じゃないけど止めろとは言えない。これだけ汗をかいて仕事してくれているのだ、その善意にけちを付ける程空気が読めない女ではないつもり。
とは言え、私の本心に忠実な眉毛と眉毛の距離はじわじわと縮まってきている訳で。
平素と違う眉間からの感覚に、この癖も考え物だなと私は思った。やっぱり、ここに皺が入ってしまうのは、女の子として遠慮したい事柄なわけで。
姉さんからは、あんまり細か過ぎは良くないと窘められる事がある。確かにもう少しおおらかに物事を見られたなら、皺が寄る回数も減るのだろう。
でもよくよく考えると、私がこうなったのは姉さんが大雑把すぎるからで、なら、私がおおらかになるのはやっぱり難しいんじゃないだろうか?
「あれ? 夢月さん。難しい顔してどうしたのですか?」
「いや、何でもないわ」
思考が脱線したせいで、どうやら相当酷い顔になっていたらしい。
「暑いですもんねえ。よっと……これどうぞ。夏場を健康に過ごすには、太陽の灼熱を逆手に取って力に変えた彼らの力を借りるのが一番です」
エリーは私の不機嫌そうな顔が夏バテだと勘違いしたらしく、畑の中から赤く熟した果実を一つもぎ取って私に渡してくれた。
勘違いではあるが、彼女の行動は善意であったし、実際少し喉も渇いていたので素直に礼を言い、私は汁で服を汚さないよう、出来るだけ上品にそれにかぶりついた。
瑞々しい食感と程よい酸味、素晴らしく甘いが不自然な感じは一切ない。間違いなく極上のトマトである。
お日様のエネルギーをぎゅっと濃縮したという表現が全く正しく思えて、もちろん体力回復の魔法なんてかかってはいないのだけど、まるでそういう物であるかのように、この夏野菜は私に元気という錯覚を与えてくれるのだ。
「うん、いつも思うんだけど、流石だわ」
「伊達に長いこと土いじりしてませんから」
ちょっと自慢げに微笑みながら、エリーもトマトを一つもぎ取った。彼女が自分で齧る分だ。
「見た目もいい感じに赤いし、くるみも喜ぶわ」
齧りかけのトマトを太陽に透かすように見て、ウチのもう一人の見張り番の顔を思い浮かべる。
「そろそろウンザリしてるみたいですよ。見た目がそれっぽいからって血の代わりになると思ったら大間違いだって」
「最初は喜んでたんだけどね」
「吸血鬼としてのプライドの問題じゃないですか? 単に飽きたというのも大きいとは思いますが」
「プライドかあ。あの子にはあんまり似合わない言葉ね」
ここ最近動物を潰していないから、その間トマトジュースで代用してきたのだけど、代用はあくまで代用という事らしい。
ならお昼にトマトを使うのはくるみの望むところじゃ無いのかなと、私は残りの果実を齧りつつ昼食の献立をぼんやり考えていた。
エリーも同じように齧っている。目の前で雫がこぼれていくのが見えると、やっぱり水分たっぷりの熟れきった赤というのは魅力的に思えて……。
「そうよ、やっぱり勿体無いわ、こんなに美味しいのに。食事作るのは私だし、昼にはトマトを出しましょう。文句は言わせない。
良さそうなのを何個か見繕っておいてちょうだい」
割りと自己中心的に決断を下した私は、齧り尽くされヘタだけになったトマトの残骸を指で弾き、畑の方に視線を移す。
「トマトはサラダに使うとして、他に何か収穫できる野菜はあるかしら?」
「そうですねえ。……これとかどうでしょう」
エリーは、やはりヘタだけになったトマトを藪に投げ捨てると、畑に生えている葉っぱを両手で掴み、スポンと引っこ抜いた。
「へえ、カブね。なかなか立派じゃない」
本日のエリーお勧め野菜は丸々肥えた白カブである。
「鶏と一緒にクリームで煮てみようかしら」
ミルク多目の子供っぽい味付けにすれば、偏食の嫌いがある姉さんも文句は言わないだろうし。
「いいですねえ。クリーム煮は私も好きです」
エリーの同意も得られた事だし、昼食の献立がほぼ固まる。
あとは適当に一品二品作ってやればいいだろう。幸い、カブとトマトと鶏だけでこの昼を乗り切れる程度のレシピは備えている。
さて、そうなると……。
「じゃあ、さっさと鶏を準備しましょうか。エリーあとでトマトとカブを台所に置いといてね」
「あら? 鶏絞めるのですか? なら私がやりますよ」
畜舎に向かおうとした私の行動を察したエリーがそう提案してくれる。
「別にいいわよ。この炎天下の中ずっと畑にいたんでしょ、いい加減休憩したほうがいいわ」
「このくらい全然平気ですよ。体は丈夫なのです。
それに夢月さん、白のメイド服ですから、血が付くと良くないですし、着替えるのも億劫でしょ?
その点私の服はもう十分汚れてますから、少しくらい血が付いても大丈夫なのです」
そう言ってエリーはカブを置くと、傍らの土に刺してあった大鎌を引き抜いた。
「洗濯するのは私だけどね」
とは言え、エリーが代わりにやってくれるなら、確かにそっちの方が好都合ではある。
お昼までの時間を鑑みると、鳥を捌くところから料理していたなら、洗濯は午前午後に分けてしないといけなくなるだろう。
効率の面から、それはあまり好ましくない。ここは頼る事にしよう。
「でも、そこまで言ってくれるならお願いしようかしら。
……ちなみに分かってるとは思うけど、鶏一匹ってのは比喩でもなんでもないからね。捌くのは豚や牛じゃないし、勿論人を狩りに行くわけでもないわ。
牛刀じゃないけど、大鎌で鶏を割くのも多分間違ってるんじゃなくて?」
「別にいいのですよ。この子も斬るのが雑草ばっかりじゃ可哀想ですし、たまには血を吸わせてあげないと」
本当はもっとお肉の多い生き物がいいのですけど――そう続けたエリーは少し寂しげに、刃に付いた緑色の雑草滓を指で拭った。
基本的に真面目な彼女だから、まさか目的と違うものを斬り付けるという事はないと思うけど、しかし刃物を持つと若干性格が攻撃的になるのも間違いない。
暴走するのは姉さんだけで十分だ。楔は打ち込んでおくべきだろう。
「最近平和だもんねえ。次の侵入者は問答無用で切りつけていい事にするから、それで我慢しなさい」
「楽しみにしておきます。さて、じゃあ私は畑がひと段落ついたら、畜舎に行きますね。後で毛を毟って野菜と一緒に台所へ持って行きますよ」
「うん。お願い。血は棄てないであげてね」
大鎌を手に仕事に戻ろうとするエリー。
しかし私はふと思い出した事があったので、彼女が一歩二歩進んだところで呼び止めた。
「そういえばエリー。姉さん見なかった? お布団干したいから、一言断っておきたいのよね」
そう、珍しく今日は部屋に姉さんの姿が無いのだ。
エリーやくるみの物なら勝手に干しても問題ないのだけど、姉さんにそれをするとへそを曲げられる。
基本的に自分の部屋に他人が入るのが気に入らないのだ。自分は人の部屋に何の遠慮もなく入り込む癖に。
「幻月さんなら、くるみと一緒に湖に行きましたよ」
「あら、珍しい。姉さんが外出するなんて何週間ぶりかしら」
本当に珍しい。暑いこの季節は、魔法の力でガンガン冷房を効かせた室内でダラダラしてるのが普通なのに。
「水着でしたから、たまには夏らしい事をしたいんじゃないでしょうか」
「水着ねえ。そんな物持ってたんだ」
「くるみに借りたみたいですよ。あんまり体形は変わらないですから」
「可哀想に。姉さんは借りた物を返さないわよ」
うんざりとした表情を引きつった笑顔で繕い、でも何も言えないでいるくるみと、そのくるみの水着コレクションを試着しながら、気に入らない物はポイポイ放り投げて部屋を散らかしていく姉さんの構図が容易に想像できた。
「やれやれ。お洗濯の時、こっそり抜き取ってあげないとね」
「はは……お願いしますね。くるみじゃ返せって言えないでしょうから」
「言って聞く姉さんじゃ無いしね」
そう言って私は軽く肩を竦めて見せた。
「さて、ということは、姉さんはしばらく帰ってこないわね。
まあいいわ。姉さんのはまた今度にしましょう」
夏はまだ続くわけだし。とりあえずの結論が出たので私は仕事に戻ることにする。
「貴女のお布団は勝手に干しておくわね。あと、仕事が終わったらその服持ってきなさい。ちょうど洗濯してるだろうから」
「はい、ありがとうございます」
その元気の良い返事に満足し、背中を向けて歩き始めた私は、しかし今度はエリーに呼び止められる事になる。
「あ、そうそう夢月さん。布団干しって事は花壇の前を通りますよね」
「うん、そうね」
エリーの言うとおり、物干し竿は館の正面の花壇が見える場所に設置している。日当たりもいいし。
「えっと、もうご存じだとは思うんですが」
振り返った私を、エリーはちょっともじもじした様に見つめ、続けた。
「向日葵が満開です。ひょっこり確認しにくるかもしれませんよ」
「……かもしれないわね」
――花は全部好きだと言ったけど、その中で一番を選ぶなら向日葵だという彼女。
向日葵畑の真ん中で佇むだけで絵になる彼女。
ああ、そう言えばそんな彼女と最初に出会ったのも、今日と同じように暑い暑い日だったなと、私は遠い記憶に思いを巡らせた。
※※※※※※※※※※
私たちが館に居着いて、何百年か経った頃には、館の雰囲気も目に見えて変わって、私が望むような禍々しさを備えるようになった。
日ごろの献身的な手入れの賜物と言える部分もあるだろうが、築何百年でますます艶めく外壁などを鑑みるに、一番の原因は、何と言うか、つまり――“館が私たちに当てられた”からとでも言うべきものなのだろう。
すなわち名実ともに、館は“私たちの世界”となった訳だ。
この頃になると、姉さんはあまり外に出なくなった。
代わりに身に付けたのは、館に収められている膨大な蔵書より適当な一冊を抜き出しそれを片手にごろごろ暇を潰す習慣だ。
姉さんがそうなったのは、無意味に暴虐を振り撒いてきた恐ろしい過去に罪悪感を抱いたからとかそんな殊勝な理由ではないらしい。単に面倒になったのだろう。
何にしろ私としては面倒が減るので歓迎すべき変化だ。
復讐に燃える血族や朋友のもとを訪れ、連鎖を断ち切るために、仇討ちなんて考えるだけで癲癇の発作を起こしたよりも酷く痙攣するほどの恐怖を植えつけて回るのは、どんなに骨の折れる作業だったか。
まあしかし、引き篭もりがちになって、先人が説く何千冊分もの道徳とか正義とかに触れるようになっても、姉さんの残忍な性質はやっぱり相変わらずで、しかも時々暴発して私を困らせるものだから、あれこれ考えた私は地下に特別な部屋を作った。
つまり床も壁も石造りだから掃除の手間が少なくて済むのだ。
後は定期的に適当な獲物を放り込んで満足させておけば、フラストレーションが溜まった姉さんが無闇な行動に走る事は大体防げる。
幸いと言うか、当時は姉さんや私の悪名を聞きつけ館を訪れる勇者気取りが少なくなかったので生け贄には事欠かなかった。
寧ろ多すぎるくらいだったので、散らばった肉片を食材と生ゴミに分別する作業を厭わない程度に私の機嫌が良ければ姉さんに供し、そうで無いなら丁寧に恫喝して退散してもらい、よっぽど私の機嫌が悪ければ、来館の記念に左右非対称をプレゼントした上でお引取り願った。
そういった感じで何と無くマンネリしながらも暇はしない、まあそれなりに充実してると言って良さそうな日々。
もちろん代わり映えしない毎日であるから、その頃の細かい記憶というのはあまり鮮明で無い。わざわざ覚えておく程の価値も無い事だし。
ただ、そんな暢気な日々にあって、鮮烈に映像を思い出せる一日がある。それは私たちにとって特別な日。停滞した私たちの日常に新しい風が吹き込まれた記念すべき一日。
振り返るに、その日というのはメイドとしての私らしからぬ失敗――つまり、掃除中に不注意から花瓶を一つ駄目にしてしまったせいで、相当イライラしていたのを覚えている。
それだけに館に向かってくる二人組みを見つけた時は丁度いいとほくそ笑んだのだ。
普段なら訪問者に対して鬱陶しいという以上の思いを抱くことは殆ど無いのだけど、例外的な感情に身を任せてみたいと思える程度に鬱憤晴らしを望んでいたという事らしい。
「今日は機嫌が悪いの。クソ熱いからね。
右耳、右目、右手、右足のどれか一つだけ残してあげるから、十秒で選びなさい。
できないなら無条件で二回りほど小さいシンメトリーが選択されるから迷ってる時間はないわよ。
ひとーつ。ふたーつ……」
目の前で軽く会釈した彼女たちに、用件を訊ねる事もせず、私は理不尽な選択を強要した。
ちなみに、言葉を発した時点で、私の手は目の前にある二つの頭を左右それぞれの手で掴んでいるので、彼女たちは既に逃げるという選択肢を失っている。
私だって悪魔の端くれ。このまま力を込めれば頭蓋くらいは簡単に砕けるのだ。
「あう……帽子の形が崩れちゃうじゃないですか」
「ちょっと! 痛いって。あなたメイドでしょ。客人にこんなことしていいの!?」
それを知ってか知らずか、ともかく、掴まれて暫くの間は元気いっぱいに不平を述べていた彼女たちだけど、徐々にきつくなる頭の締め付けに、私が冗談で無いことを感じ取った途端、その顔面を蒼白なものに変えた。
「ちょ……ちょっと待ってください。ほら、えっと、そうだ話し合いましょう。きっと話を聞いてもらえたならきっと誤解も解けると思うのです」
「そ、そうよ、ええ、話し合いましょ。だからその手を離してほしいなあって……痛っ! ごめんさい。謝るから許して!」
「むーっつ。ななーつ。やーっつ……」
そういえば何にも道具を持って来ていなかった事に気付いたけれど、すぐに、まあいいかと思い直した。
凝固しかけの血液が指先でネチネチいう感覚を楽しんでみるのも、たまには悪く無いように思えたのだ。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「うえーん! ゆーかさま助けてぇ」
「ここのーつ……ゆうか?」
いよいよ締め切りが近くなると、彼女達は子供のように泣き叫ぶしかしなくなった。
冷静に答えれば、半分以上は保証されるというのに。その権利を放棄するとは、何て愚かなんだろうと思ったものだ。
ただ、彼女達の翼がある方が口走った“ゆうか”という名前は聞いたことがあった。
まあしかし、割りとありふれた名前だし、私が知っているゆうかと彼女が言ったゆうかが同じである可能性はそんなに高いとも思えなかったので、結局私はそれ以上気にせずにカウントを続ける事にしたのだった。
「……とーお。残念だけど時間切れよ。親切な誰かが見つけて、止めを刺してくれたらいいわね」
「ゆうかさま御免なさい先に逝きます!」
「嫌だ! 嫌だぁ! まだ死にたくない」
殺してはあげないけどねと、私は多分嗜虐的な笑みを浮かべて手を彼女たちの肩に移動させる。
関節の窪みに指を添え、力を入れればいつでも腕をもげる体勢を作った。恐怖を煽るように軽く骨の上に指を這わしてやる。
……その時だった。
「――あらあら。ごめんなさいね。どうせまたウチの従者が何かやらかしたのでしょう。
何分彼女たちは色々鈍くて嗜みも心得ていないのです。
しかし、こんなのでも、いたらいたらでそれなりには役に立つのですよ。よろしければその手を離してあげて下さらない?」
残念ながら私の悪趣味なストレス発散はここで終わってしまった。いや終わらせざるを得なかったと言うべきだろう。
いつの間にか私の目の前に彼女はいた。
若葉を連想させる緑色の長髪に紅い瞳、常に日傘を携えチェック柄を好む。
物腰は柔らかで洗練されているが、接する相手の心を訳も無くざわつかせ、その笑顔が笑顔に見えない。
――風見幽香。
私が知る、世界で一番優美で、二番目に子供っぽい大妖怪。
そんな彼女と私が出会った、忘れもしないその瞬間だった。
「主の器を知りたければ、従者を見よ。誰の格言だったかしら?
今まで眉唾だと思っていたけど、この館は期待して良さそうな気がするわ」
――だから案内して頂戴と、そう言外に匂わせ軽く肩を竦めて見せたその格好が実に様になっている。
彼女は私の事を始めて知ったようだったけど、実は私は彼女の事を名前だけは知っていた。
当時の風見幽香の悪名というのは相当なもので、こんな辺境にまで轟いていたのだ。
眠れる恐怖、オリエンタルデーモン、フラワーマスター。
そんな言葉で流伝される彼女の実際を計ろうと、私は彼女に値踏みするような視線をくれてやる。
殆ど侮辱に近い私の行為だったけど、幽香は感情的な部分を見せる事もなく、涼しい顔をしていた。
しかし、その気品に溢れた微笑に、隠れた彼女の本質を見透かしたような気がして――。
――ああ、向日葵だ。
どうして、そう思ったのだろうか?
季節が夏だったからというのが多分にあるかもしれない。
何より、私のそう多くない花の知識で、あれだけの大輪を持つ花というのは、やはり他に無かったからだろう。
でも、それにしても、おかしいじゃない?
向日葵ってのは燦燦たるお日様の色をしているのが道理なのに、彼女のそれときたらキャンパスの絵の具を全部混ぜこぜにしたような酷い色。
よくよく見れば、それは大きさも色彩も様々な沢山の花が絡みあって、巨大な巨大な一輪を形作っているのだ。
なるほど、それで合点がいった。彼女は向日葵のような形をしてはいるが、あくまで形だけだ。本質は花そのもの。
それも私達が花と聞いて思い浮かべる可憐さとか、そういう上辺だけではない。
己が生き延びるため土の中で凄惨な同族殺しを続ける、花のもう一面。むしろそれこそがより本質に近い彼女なのだろう。
それが分かって、少し怖いと思った。
ああ、何て新鮮な感情。唇が吊り上がる。些細な恐怖は、私の心に大きな喜びをもたらした。
――この日をどれだけ待ち侘びた事か、我が夢幻館は初めて“お客様”を迎える事が出来たのだから。
私は両手を塞ぐ邪魔者をどんと突き飛ばし、幽香に向かい恭しく頭を下げた。
「お待ちしておりました、風見幽香様。
我が姉にして館の主、幻月は、貴女様の来館を大層喜ぶでありましょう。
さあ、案内いたします。夢と現の魔窟へどうぞ歩をお進めくださいませ」
幽香は満足そうに唇を歪ませると、ぴしゃりと日傘を閉じ、先導してくださるかしらと続けた。
館の中、私の後ろを幽香と彼女の従者二人が付いてくる。案内する場所は応接間だ。
そこで待機してもらって、私から姉さんに話を通した後に謁してもらうのが正しい手続きではあるけど、その通りなった試しが無いし、今回もそうらしかった。
謁見の間というのが何の為に存在するのか姉さんには理解して欲しいものだけど、しかし、今日に限って言えば仕方が無いと納得しよう。
姉さんは私以上に楽しみでならないのだから。
応接間の重厚な扉を開け放つ。
ちょこんと正面の椅子に座り、姉さんはそこにいた。
好奇心の滲んだ瞳は、まっすぐ幽香を見据えている。幽香はそれに応える様にニヤリと笑って見せ、数歩前へ進み出た。
「白き翼の青髭公、ご機嫌麗しゅう。
わたくし風見幽香と申しますの。火薬庫を突付く事が趣味の優雅な大妖怪。座右の銘は『大量虐殺も遊びの内』。
人は私の事を眠れる恐怖と呼んだりしますわ。以後お見知りおきを」
尊大な自己紹介を恥ずかしげも無く終えた幽香は上品にスカートの端をつまみ、姉さんに一礼した。
「あらあら、ようこそ歓迎しますわ。
私がジル・ド・レだっていうなら、あなたは不貞な淑女のお兄様?
でも、どうしてどうして? あなた、近衛騎兵にもドラグーンにも見えやしないわ。
どっちかっていうとカリギュラとかネロとかそんな感じ」
立ち上がり、両手を広げて歓迎の意を表した姉さんは実に楽しそうである。姉さんの性格なら、幽香の傲慢な態度もむしろ好ましいと考えているに違いない。
「偉大なる暴君を引き合いに出していただくとは至極恐悦。
ならあなたも、元帥程度じゃ不満でしょう。イヴァン雷帝とか紂王あたりになぞらえてあげましょうか?」
「悪くないわね。さっきまでドラキュラ公ヴラド三世がいいかなとも思っていたけど、よく考えるとそれは私の妹だわ。
彼はカスピ海を死体で埋め立てるくらい沢山人を串刺しにしたけれど、残念ながら真面目過ぎるの。
結局それは頑迷な合理主義故の苛烈さで、故に英雄。なら私の柄じゃ無い。
暴君たるもの、縛り首を見物しに来た民衆を、何の気なしに炮烙刑に処して笑い飛ばせるくらいの突飛さが欲しいわね。
それなら……っと、あら、いけない。悪い癖。すぐに話が脱線しちゃう。
折角お客様が自己紹介してくださったのに、私が名乗らないなんてレディの振る舞いじゃないわね。
では、改めまして。私は幻月。この館の主にして夢幻世界の素敵な悪魔さんですの。
幽香さんでしたね。お噂はかねがね。悪名高いフラワーマスターをお客様に迎えることができ、嬉しく思いますわ。
さあ、是非ご用件をお言いになって。私たちはそれに出来得る限りの誠意で応えたいと思うわ。
もてなしを望むなら貴女の為に子羊を一匹潰しましょう。愛好家垂涎のビンテージワインも用意できるし、なにより私の妹はメイドだけど優秀なコックでもあるの。
きっと満足していただけるんじゃないかしら」
「あら、それは大変魅力的なお誘いだわ。ラム肉は大好物なのよ。なら御礼に、選りすぐったケシの株を1ダースほどプレゼントするのも吝かではないわ。
でも、それはまたの機会にしましょう。なにしろ、わたくし、お食事はつい先程済ませたばかりですから。
ええ、ならどうして館の門を叩いたのか、訝しくお思いになって?
ご尤も。しかし、理由など、ピクニックの最中にたまたま素敵な館を見つけたからというだけで十分ではないですか。
私は欲しいと思った物を、手中に収める事ができるにもかかわらず我慢するなんて禁欲には否定的な立場ですの。
……いや、この際はっきりとした言葉で貴女に要求しましょう。
でないと、貴女に対して礼を失する事になるし、何よりまどろっこしいのは私の一等嫌うところ。
そう、私はこの館を貰いに来たの。
貴女の綺麗な翼を毟り取って、石榴よりも真っ赤に苛め抜いて、大事なものを取り上げるためにやってきたの。
どうかしら? 貴女は私の欲望にどう応えてくれる?」
空気が固まった様な気がした。
姉さんも幽香も表情は笑顔のまま変わらないというのに、この瞬間、見慣れた応接間が別の何かに変質したかの様な錯覚すら覚える。
幽香の従者二人は戸惑ったように顔を見合わせていた。しかし私としては姉さんの判断を待つだけだ。
もっとも、姉さんがどう答えるか、そんなのは幽香を通したその時に大体の予想は付いている。
だから静寂を破ったのが姉さんの、異様に甲高い笑い声であっても特に驚きはしなかった。
「アハハハハ! 奇遇ね。私たち気が合うような気がしていたけれど、今確信したわ。
実は私も似たような事を考えていたの。
貴女をハスのように穴ぼこにしたい。関節と言う関節を全部もいで、プクプク泡を立てる血管を見てみたい。
血へどを吐きながら芋虫みたいにのたうつ哀れな貴女を見たい。
この欲求は一万言の諫言を以ってしても押し止められない程強くて、だからきっと、ワイングラス片手に皮肉たっぷりの十字を切って、貴女と乾杯するまでの僅かな時間ですら我慢できない。
そう、晩餐会まで待つ必要なんてないのだわ。
ねえ、今から遊びましょう。残虐で耽美的で、何より刹那主義な禁じざるをえない遊戯を今から!」
「ちょっとばかり性急かしら。でも自分に素直な子は嫌いじゃないわよ」
磁石が引かれ合うようにゆっくりと距離を縮める姉さんと幽香。
それはあんまりにも自然な動きで、それこそ挨拶でも交わすような気安さだったから、私は何も反応することが出来なかった。
気付いたときにはもう手遅れだったのだ。
「あら? 貴女の血は赤いのね。お花だっていうから緑色とかだと思ってた」
「葉や茎の緑はあくまで主役を引き立てるための脇役。頂上で咲き誇る鮮烈な色彩こそが花の醍醐味。
ところで一番緑に映える色は何か知ってる? そう赤よ。ならば私の血が赤いのは当然の事じゃなくて?
そんな事より、貴女の血は赤いのね。悪魔だっていうから黒色とかだと思ってた」
「それはそうよ。だって赤い血液は素敵でしょ。飛び散る様がこれ程綺麗な色彩は他に無いわ。
なら、そんな素敵な赤色を素敵な私が持つのは、とっても自然な事じゃない?」
「あはは。違いないわね」
笑いあう二人の左腕はともに赤く染まっていて、つまりあの瞬間姉さんはその素晴らしい握力で幽香の肉をこそげ取り、幽香は日傘の先端で姉さんを突き抉ったのである。
不覚だった。
流石の姉さんでも、まさか、いきなりこの部屋で押っ始める事はしないと楽観的に見てしまっていたのだ。
姉さん達の傷は既に八割方塞がったようだが、飛び散った血液まで元通りにはならない訳で。
真新しい染みの出来たいくつかの調度を見て、私は頭に痛みを覚えた。
しかし、そんな私を気にも留めず、姉さん達は再度血をばら撒こうとしている。
「ちょっとお待ちください!」
私の切羽詰ったような声に、姉さんと幽香がこちらを向く。頭を抱えている場合では無い。これ以上部屋を汚させるのは阻止しないと。
「僭越ながら申し上げます。
お客様が踏みしだいているその絨毯は、砂と太陽の国のうら若き少女が青春の大半を費やし織り上げた至高の逸品。
姉さんが何の気無しに血を零したそのテーブルは、タイガと氷の国の名工が生涯の最後を記念して造り上げた究極の逸品。
それだけではありません。例えば、あの、部屋の隅で人知れず明かりを灯し続けているランプのシェード。
部屋全体の調和のため一歩引いた所でその気品を知らしめる抽象画。部屋の全てが世界に二つと無い一流の品々なのです。
それを血で染め上げ、あまつさえ欠損させるような行為が果たして正しいのか、どうか御一考をお願いします」
メイドとして越権行為ではあるけど、これは私の矜持に係わる問題だ。
声色に滲ませたのは、聞き入れられないなら実力行使も辞さないという意志であり、丁寧な言葉遣いのみが辛うじて従者としての限度を守っている。
私の要求の後、少しの間考えるようなポーズをしていた姉さんは、幽香に再び向き合うと幾らか物静かに口を開いた。
「だって。
ごめんなさい。夢月がああ言ってるから、場所を変えていいかしら? 機嫌損ねると夕食の味が落ちるのよ」
「謝るのは私の方ですわ。やんごとなき乙女は名品に敬意を払うもの。
それを、あんまりにもワクワクし過ぎて失念していたというのだから、ただ恥じ入るばかり。
もちろん場所を変える事に異論はありませんわ。さあ、案内していただける?」
良かった。ここはあくまでも応接間で、コロセウムなんかじゃないって事をどうやら理解してもらえたらしい。
姉さんは子供っぽいけど、何だかんだで、無駄に駄々をこねて私を失望させた事はない。その辺りの一線はよく分かってくれているのだろう。
幽香も大妖怪らしい余裕を見せてくれたので、私は頭を下げ、ポケットより一つの鍵を取り出した。
それは地下に通じる扉の鍵。つまりはそういう事をするために造った特別な部屋の鍵。
案内しますと言いかけ、しかしその瞬間、ひゅっと空気を切る音がして私の手より鍵が掠め取られた。
……姉さんだ。
「いいよ夢月。私が開けるから」
そう言った姉さんは私が止める間も無く、きゃははと笑いながら廊下を駆けていく。
「あら? ちょっと待ちなさい。客人を走らせるなんて、礼儀がなって無いわよ」
その後に幽香も続く。言ってる文面こそ不満そうだが、その表情というのは実に活き活きとして楽しそうだった。
多分、姉さんと同じような事を考えたのだろう。
つまり、行為の始まりを咎めた私に対する、ちょっとした意趣返しだ。
置いてけぼりにされた私は、やれやれと呟き、ゆっくり地下室への廊下を歩き始めた。
「……付いてくるの? 逃げたほうがいいんじゃない?」
その私の後ろを、やはり置いてけぼりにされた従者二人が付いてくる。
「今から向かうのは戦場よ、それもラグナロク級の半端じゃない死闘が繰り広げられるね。
フェンリルを拘束する呪縛が今まさに千切られようとしているのに、彼女の上顎と下顎の間にわざわざ頭を突っ込むこともないでしょ?」
概ね親切心からの忠告だった。彼女達に対する興味が初対面ほど大きくなくなったからというのも否定はしないが。
しかし、姉さんがあの部屋に入ると、どんな事が起こるか一番分かっているのは私なのだから。
わざわざ見なくてもいいものを見て、胸に傷を負うことも無いのだ。
「まさか、それをしないなら、私はカタコンベの端っこで苔むしてる骸骨と何ら変わらないって事になるわ」
しかし、彼女達はそんな私の思いやりをあっさり無視してくれた。
「つまり、貴女は暢気にも彼女の胃袋の中身を見物しようって言うの? 正気とは思えないわ」
「まったくですね。しかし私も彼女と同じ考えです。
だって、勿体無いじゃないですか。
貴女が神々の黄昏に例えたから私も同じように例えさせてもらうと、つまり私たちはユグドラシルの下でいつ飛び火するか分からない戦火にガタガタ震えているよりも、混沌極まる戦場に飛び出し、オーディンやロキの顔を一目拝んでやりたい、そういう性質なのですよ」
物怖じしない彼女の瞳に、多分私は呆れたような表情をしていたと思う。
「立派な野次馬根性ね。ならせいぜい焼け死なないよう気を付けなさい。きっとスルトの炎は熱いわよ」
「ご心配なく。体の丈夫さだけが取り柄なのです」
分かった事がある。思っていた以上に彼女達は図太いらしい。
やはりあの主の僕はそうでないと務まらないのだろう。
「ふう……全く以って度し難いわね。
いいわ。貴女達がこの先へ踏み込むのを許可してあげる」
どうも彼女たちの雰囲気に流された気がするのが愉快じゃないけど、何と無く彼女達をつまみ出す気になれなかった私は、仕方なく諦めてあげる事にした。
「ありがとうございます……えっと、むげつさんでよかったですかね」
「そうよ、ゆめのつきと書くの」
「夢月さん……いい名前ですね。あ、そうそう私はエリーといいます。それでこっちのが……」
「くるみよ。よろしく」
「名前は聞いてないんだけど」
「別にいいじゃない。貴女で呼び合うのも不便でしょ? ね?」
……どういう訳か懐かれてしまったらしい。
私はついさっきまで彼女達を壊そうとしていた張本人だっていうのに。
基本的に能天気な性格なのだろう。
それに、彼女達が仕えている風見幽香という人物に比べれば、私はずっとお人好しな訳で、今になって思えばそこに付け込まれたような気がしないでもない。
単純な力量差では天と地ほどの開きがある割に、なんとなくピリッとしない私と彼女たちとの関係というのは、どうやらこの瞬間に決定してしまったようだ。
※※※※※※※※※※
「ただいまぁ。相変わらず今日も侵入者ゼロでーす」
お昼の準備をしていた私の後ろで聞きなれた声がする。
振り返った先には大きな翼を背負った湖の見張り番。
食事の時間になると帰ってくるのだけど、しかし、今日はだいぶ早くない?
「お帰りくるみ。でも食事には、まだまだ早いわよ」
「だって無茶苦茶暑いですし。真面目に見張りなんかしたら死んじゃいますよ」
せめて露出を増やさないと外勤とか無理と常日頃から主張している彼女は、セパレーツタイプの水着の上にデニムのショートパンツという格好だ。
携えていた釣竿と壷は床に置き、そして厨房のテーブルにぐたりとへたり込んだ。
「おー、トマトですかあ。そろそろ違う何かでもいいんじゃないかなあとか思ってみたりして……」
ザル一杯分の艶を放つトマトを見て、案の定くるみが、不平を漏らす。
「文句言わない。夏は夏の野菜を食べるのが一番正しいのよ」
「はーい」
覇気の無いだるそうな返事に、私は軽く溜め息を付くと、包丁の動きを中断させ、傍らの陶器製ピッチャーとグラスをテーブルの上に置いてやる。
「エリーが取っておいてくれたから、固まる前に飲んでしまいなさい」
ピッチャーの中を覗き込んだくるみの表情がぱあっと明るくなる。
「いや、流石ですねえ。実は俎に鶏が乗ってるのを見て、ちょっと期待はしてたんですよ」
中身をグラスに注ぎ始めたくるみの声色は俄然喜色を帯びている。さっきまでの元気の無さが嘘みたいだ。
「ほんとにありがたいですねえ。最近トマトジュースばっかりでしたもん。
今が旬だからって言葉に最初は騙されてましたけど、よくよく考えると血とトマトって鯛と鯛焼きくらい違いますよね。
あ、夢月さん、氷あります?」
そう言うだろうと思っていたので、予め用意してあった氷を、鶏の血が満たされて赤くなったグラスに浮かべてやった。
こうしてやると、中々涼しげで美味しそうに見える。飲みたいとは思わないけど。
昔、興味本位で口にして酷い目にあったのは苦い思い出だ。血を材料にする料理も一応作れるけど、私はあんまり好きじゃない。
ぐびぐびと喉を鳴らし、それはそれは美味しそうに血液を嚥下するくるみの姿というのは、やっぱり私と彼女は違う種族なんだなって事が実感できる数少ない機会だ。
「ぷはぁ!」
音を立ててグラスをテーブルに置き、口元を拭うくるみの血色というのは、間違いなく良くなっている。
彼女にとって血を飲むという行為は、嗜好以上の意味を持つのだろう。
ともかく、無駄に元気な平素の姿を取り戻したくるみは、大変に上機嫌であり、床から持ち上げた壷の蓋を外すと、私にその中身を覗かせた。
「さて夢月さん。本日の釣果ですが……何とか人数分は確保できました!」
くるみが嬉しげに見せる壷の中では、形は鮒に似た小魚がグルグルと泳いでいた。
「へえ、なかなか美味しそうじゃない」
いい感じに肥えて、肉も柔らかそうだ。夕食のメインにしよう。
確か白身だったこの魚をどう調理するか、頭の中でレシピをめくっていく。
……うん、この季節ならマリネとかがいいかもしれない。
「四匹まではスイスイ釣れたんですが、五匹目がなかなかですねえ。でも何とかなって良かったです」
「あら、ずいぶん慕っているのね」
まったく。ずっと顔を見せていないというのに、機会あるごとに主の分もしっかり確保する彼女というのは、良くできた従者だと思う。
「だって、もし帰ってきて、食事が一人分足りなかったら、絶対怒るじゃないですか」
喜色がにじみ出る顔付きを見るに、それが理由の全てでは無いだろう。
慇懃無礼な口調が抜けず、よく折檻される彼女だけど、その忠節は疑いようが無い。そんなくるみの態度が小気味よく思えた。
うん。夕飯のトマトは少なめにしておいてあげよう。再び包丁を握りつつ、私はそんなことを考えた。
「ところで、くるみ。姉さん知らない」
朝からくるみと一緒に出て行ったという破天荒な姉の姿を思い浮かべる。
そろそろ外には飽きただろうし、一緒に帰ってくると思っていたのだけど。
「幻月さんですか。さっきまで湖に漂ったり沈んだり浮かんだりしてましたけど。
お腹も空いたでしょうし、そろそろ帰ってくるんじゃないですか?」
「そう、泳いでたんじゃないんだ」
姉さんの奇行は今に始まった事じゃないし、別に驚きはしないけど、しかし水の中で泳がないというのは逆に難しいんじゃないだろうか。
そんな事を考えていると、廊下よりドタドタうるさい音が近づいてきた。
性格の突飛さに定評のある我が姉の帰還である。
「たっだいまー! 夢月、ご飯できてる?」
「……まだよ」
鶏を解体しつつ私は答える。
そっかーっと少し残念そうに呟いた姉さんは、私が包丁を動かすのを、私の肩を掴みながら覗き込んでいた。
「今日は何作るつもりなの?」
「鶏とカブをクリームで煮て、後はサラダと適当に二品くらい作るわ」
「ふーん。私、サラダはパスね」
「偏食は良くないわよ……っていうか姉さん。着替えたら?」
湖より帰って直接台所に来たらしく、姉さんは水着のままである。
乾ききっていないワンピースタイプのそれが、ぴたりぴたりと肌に当たって何となく気持ち悪かったので、私は再び包丁を置くと、ゆっくり姉さんの方へ振り返った。
「あれ? 夢月怒った?」
「別に怒ってはいないけど、ちょっと邪魔かな」
そっと私は姉さんを押して距離を取ってもらう。
そう言えば、水着姿の姉さんは珍しいなと思い至った私は、意識的に姉さんの全体像を見てみる事にした。
一目見た感想。
……小さいなぁ。
水着姿だから、当然、体のラインが良く分かる。
細いけれどしなやかな肢体は、確かに芸術的だと言っても良さそうだけど、いかんせん薄い平べったい。
私も特別自慢できるほどじゃ無いけど、自尊心が傷つかない程度は確保できているつもり。双子だっていうのにこの差は大きいと思う。
野菜を食べないのが原因だ。うん、間違いない。
「――という事なので、今日はちゃんとサラダ食べてね。でないとお肉よそってあげない」
「あれ? やっぱり怒ってる? ……夢月のいじわるぅ」
「姉さんの事を真に考えた愛情よ」
不満そうに頬っぺたを膨らませた姉さんだけど、野菜を食べるのと、肉無しのメインディッシュを天秤にかければ、やはり食欲が満足する方に傾くだろう。
「もう、仕方ないなあ。邪魔したのは悪かったし、今日はサラダも食べてあげるよ。でもお肉は一番大きいやつね」
「はいはい」
まだ少し不満そうだけど、何だかんだで納得してくれた姉さんが背中を向ける。着替えに行くのだろう。
台所の出入り口まで歩いて、しかし姉さんはそこで何かを思い出したように振り返った。
「あ、そうそう。これ後で仕舞っておいて」
姉さんが私に投げて渡したのは、フリルがふんだんにあしらわれた日傘である。
「また懐かしいわね」
「クローゼットの奥で見つけて、湖まで持って行ったんだけど。そういえば借り物だったって事を思い出してね」
持ち手から上に向かって指先でなぞってみる。相当な年代物であるけれど、上質の絹よりもきめ細かい手触りは昔触った時と全く変わっていない。
そして少女趣味なデザインにあって異様とも言える、鋭く尖らせた凶悪な先端も相変わらずだった。
「この前帰ってきた時は普通の先端だったわね」
「性格と一緒に丸くなったのね」
元は白い日傘だったはずだが、先に近づけば近づくほどに黒ずんでいく。
所々に、こびりついて取れない小さな塊も付着していた。
それの正体が何か私は知っている。だって私はこの傘がこうなっていく様をこの目でしっかり見たのだから。
私は懐かしむように軽く笑みを漏らし、当時の持ち主を体現しているようなこれの黒ずみが、まだ鮮やかな赤色をしていたその時に思いを馳せた。
※※※※※※※※※※
「あれ? どうも、ありがとうございます」
「いいの? ぶっちゃけ歓迎されてるとは思ってなかったんだけど」
「一応客人の従者だからね。不本意だけど最低限のもてなしはするわよ」
石造りの殺風景な地下室。特別なこの部屋に調度はたった一つだけ。つまりこのテーブルセットだ。
私はエリーとくるみの前のテーブルにグラスを二つ置き、ティーポットの中身を注いでやった。
「毒じゃないから安心しなさい」
もう一つグラスを置き、自分の分のお茶を注いだ後、椅子を引き私もテーブルに付いた。
「あ……美味しい」
「ええ、本当に美味しいです。こんなアイスミルクティーは初めてですよ」
グラスに顔を付けた彼女たちは驚いたような顔つきで私のミルクティーを褒めてくれた。お世辞が言えるほど器用には見えないので、そのまま受け取っていいのだろう。
正直嬉しかったので、彼女たちに対する好感度というのは一分前とは比べ物にならないくらいまで上昇した。
何とも単純な話だが、私のお茶を評論してくれる人物が姉さんだけという状況が長く続いていたのだから無理もないと思う。
「一番得意なレシピだからね。自信はあるのよ」
声色にも少し喜色が滲んでいた。どうやら相当機嫌が良くなってしまったらしい。
ここが昼下がりのテラスであったなら、この紅茶に対する私のこだわりを彼女たちに講釈していたのだろうけど、残念ながら状況がそれをさせてくれなかった。
「……で、私がお茶を用意してる間に何か変わった事はあったかしら?」
「いや特に。やってることは相変わらずです」
「血痕は増えたけどね」
彼女たちが言ったように、姉さんと幽香の現状というのは私が地下室の扉を開け放ったその時と全く変わっていないように見えた。
幽香が尖った日傘を真っ直ぐ突き出すと、防御なんて全く考えていない姉さんの肉がいとも容易く削られる。
姉さんが乱雑に腕を振り回すと、幽香の洗練された技術を以ってしても凌ぎきれない分の破壊力が彼女の肉を砕く。
ともかく、腕だろうが足だろうが頭だろうが、どちらかの体が動けば盛大に血液が飛び散り、同時に、尋常で無い類の笑い声が石の壁に反響するのだ。
しかも、ひしゃげた端から肉体は補修されていくので、姉さんも幽香も見た目はたった今闘争を始めた如くの健康体であり、灰色から赤黒く色を変えた床の面積だけがひたすら大きくなっていくのだった。
「楽しそうね。姉さんのテンションがいつもよりだいぶ高いわ」
「幽香様も楽しそうですね。最近期待を裏切られてばかりだったから、久々に闘いらしい闘いができて嬉しいのだと思います。
しかし、本当に凄いですねえ。今の所あの幽香様と互角ですよ。
今まで幽香様が“虐めた”殆どのお相手さんは、一分と持たずに跪いて許しを請うか、破れかぶれになるかのどっちかだったのに」
「互角といっても、闘ってるわけじゃないわよ。傍目にはそう見えないかもしれないけど。
まだ二人してじゃれあってる段階なのよ、手の内を探るとかそんな余計な事は考えずにね。
まあ、何にしろ、この光景は、時が経つにつれどんどん激しく悲惨になっていくのは間違いないから期待しながら見ていなさい。
ところでクッキー食べる? 昨日焼いたのを持ってきたのよ」
「流石夢月さん。やっぱりお茶にはお菓子が無いとね」
「ありがとうございます。甘い物は大好きなのですよ」
布の袋の口を縛っていたリボンを解くと、部屋に充満した血の匂いに混じって仄かにバターが香る。
早速食指を動かした二人が絶賛してくれたので、私もポリポリ齧ってみると優しい甘さが口の中にふんわり広がった。
自尊心と味覚がいい感じに満足するのを感じつつ、私は姉さん達の方へ視線を戻す。
楽しんでいるのは間違いないけど、そろそろ単調な壊し合いには飽き始める頃だろう。
「――あはは! 楽しいわ。貴女みたいな御方は初めてよ。
ああ、もっともっと貴女の声を聞かせて欲しいの。
ねえ? どうしたら、もっともっと饒舌になってくれる?
貴女の神経が激痛に耐えかねて、ガラスを鋸で挽いたような酷い金切り声を上げるように仕向ければいいのかしら?」
姉さんの笑い声がほんの少し高くなる。欲求が大きくなってきている事の表れだ。
「よく分かっているじゃない。
本音を洗いざらいぶちまけて貰いたいなら、生爪を一枚一枚丁寧にむいていくのが手軽で効果的よ。
ついでに、外気に曝されて敏感になった指先に燭台の炎をちらつかせれば、心にも無い事まで必死に喋ってくれるわ。
その道の達人である私が言うんだから間違いない」
「へぇー。試してみようかしら」
新しい刺激を求め始めた姉さんは、言うや否や幽香の左手首を捕まえると、振りほどく暇も与えず、幽香の親指の先端に、残ったもう一本の手を伸ばす。
ぷちゅっという感じの小さな破裂音。
性格が大雑把だから、爪を摘まんだ際に幽香の指先の肉も少し潰してしまったらしい。
しかし、しっかりと摘まめるという意味では好都合だろう。好奇心で一杯という顔付きで姉さんは思いっきり幽香の爪を剥ぎ取った。
「うっわー。見てるほうが痛い」
「痛みって点なら、まだ肉を抉られる方がましですもんね」
エリーもくるみも顔をしかめていた。
でも、幽香は爪が剥がれて血が滲んでいる部分を指でさすると、そのまま親指の第一関節から上を自らの手で捻じ切って見せた。
「爪だけじゃ再生の効率が悪いのよね」
単に痛みに強いのか、それとも我慢しているだけなのかは判然とはしなかったけど、ともかくその表情は痛みなど感じていないかのように、あくまで余裕に満ちている。
「あれ? あんまり痛がってないね。貴女は嘘をついたのかしら?」
「嘘はついて無いわ。果たして私に拷問は効果的なのか聞かなかったでしょ? 駄目よ。大事なことは先に聞いておかないと。
よろしいこと。痛みというのは最も高級な感覚なのよ。
暑さも寒さも、眩しすぎる光も、大きすぎる音も全て最後は痛みに至るもの。
だから、痛みとはお友達になっておいたほうがいいわ。
貴女がどのくらい痛みと仲良くやってるか、確かめてあげる」
幽香はそう言うと、先程自分がそうやられた様に、姉さんの左手を捕まえた。
しかし爪を剥がすといった風の掴み方ではない、幽香は薬指と小指を使い、姉さんの人差し指をロックしているのだ。
「これで泣かなかったらご褒美をあげるわ、頑張りなさいよ」
「へえ、期待してるわ」
幽香と姉さんが笑い合う。そして幽香は姉さんの指を力いっぱい床へ押し付け、そして――。
「……うわぁ。流石幽香様。やる事がえげつない」
「多分、表情には出さないけど、爪を剥がされたのが相当悔しかったんだと思うわ。
だからもっと残虐な方法で意趣返しをしたと……幽香様らしいわね」
エリーもくるみも自分の事でないのに痛そうな顔をしていた。それだけ見てしまった光景が陰惨だったという事だろう。
――鉛筆。幽香の仕返しを物に例えるならそれだろうか。
石畳の上に引かれた赤いライン。よく見れば石灰質の細かい破片が混じるそれはさっきまで姉さんの人差し指であった物だ。
そう、幽香は押し付けた姉さんの指をザラザラした石の床で摩り下ろしたというのである。
「あは! 凄いねこれ。次は中指でやってみる?」
「……好き者ね」
しかし、やはりと言うべきか姉さんは笑っていた。
第二関節まで磨耗してしまった人差し指をとろりと舐め上げるその表情は、ぞっとするほど嬉しそうである。
幽香としてはもっと違う反応が欲しかったのか、それともあんまり予想通りで拍子抜けしたのか、それは分からなかったけど、ともかく苦笑いしていた。
「笑ってますね……そういえば指を潰された時も、抵抗したように見えませんでした。むしろ自分から望んでそうしたような……」
エリーの指摘は正しい。姉さんは興味ある事には貪欲だ。
「頭おかしいんじゃないかしら?」
「こら! くるみ。妹さんの前でそういう事言っちゃ駄目です」
「……まあ、普通じゃない事は確かね。
毎日がアイスミルクみたいに口当たりがいいと、そのうちトリカブトの刺激が恋しくなる。
退屈すぎて自傷癖が付いたっていうなら私は自分の不甲斐無さを責める事も出来るんだけど、でも、多分と言うか間違いなく姉さんの場合はそれじゃないわ。
姉さんは人の痛みが分からない。だって自分の痛みですら分からない上に、それをカンナビスか何かだと勘違いしているのだから。
そう、単に好きなのよ。生まれ付いてね。
客観的に見ると、やっぱり頭おかしいわね。狂ってると言われても否定できる要素が見当たらないわ。
……ああ、でも、こんなこと言っていいのは妹である私だけだからね、貴女たち如きが姉さんを語るなんて思い上がりも甚だしい。
晩餐のメインディッシュにされたくなかったら口に気をつけなさい。次は無いわよ」
おかしいのをおかしいと言ってはいけないなんて馬鹿らしいとは思うけど、やっぱり身内を悪く言われるのは愉快ではないのだ。
何にも言わなくて調子に乗られても困るし。
さて、姉さんの反応に、しばらくウーンと唸りながら軽く頭を掻いていた幽香だったけど、何か納得したように頷くと、右手に携える日傘をパッと開き、それを姉さんに向けた。
「まあいいわ。約束通り、ご褒美をあげる」
――閃光。
青白く、そして尋常ではない太さをもったその光の激流は、私の知識に無いものだった。
幽香の日傘から放たれたそれに、姉さんは散弾銃の至近弾でも喰らったかのように弾き飛ばされ、石の硬い壁に十分な速度を伴って衝突したのである。
「一瞬しか見えなかったけど……あれはレーザーかしら?」
「そうですね。幽香様が好きな攻撃の一つです」
なるほど。案外彼女は気が短いらしい。
多分、指を潰した際、姉さんが怒気でも殺意でも、そういった感情をむき出しにしてくれるのを期待していたのだろう。
そうすれば停滞した局面より、次の段階へ進めるから。
しかし、姉さんがそんな性格で無い事を理解したので、自らの手で状況を動かしたわけだ。
「ほら、もっとあげるわ。嬉しい?」
幽香は横たわる姉さんに向け、二度三度といたぶるようにレーザーを射出する。その度に姉さんは木の葉のように舞い上げられた。
時には背中から、時には頭から、重力に逆らう事無くも無く鈍い音を立てて落下する姉さんは、ともすれば一方的な暴虐に、何の抵抗もできずに嬲り殺される哀れな少女に見えるかも知れない。
そうであったなら幽香も安心だが、しかし私は知っている。
姉さんは儚さをアピールポイントにするには色々と異常すぎるのだ。
「ええ、もちろん! 嬉しいわ! 蕩けそうよ!」
幽香の容赦ない連射が途切れると、姉さんはぱんぱんと服に付いた埃を払い、ゆっくりと立ち上がった。
あれだけの熱量を一身に受けたというのに、火傷は既に修復されていて、そのしっかりとした足取りからは、殆ど消耗が伺えない。
そして、その瞳は喜びを表現すように爛々と怪しく輝いている。
そう、姉さんは抵抗できなかったのではない。しなかったのだ。そして初めて体験する閃光の焦熱を思う存分味わいたかったのである。
「ああ、なんて新鮮な感覚なんでしょう。
稲光よりも眩しい輝きは私の網膜を焼いたわ。
溶鉱炉で赤く漂う鋳鉄の如き灼熱は私の肉を焦がしたわ。
ああ、本当に新鮮! ねえ、私が同じ事を貴女にしてあげるには、いったい何が必要なのかしら?」
「あら、そんなの決まっているじゃない。世界平和を祈るピュアな心と、あらゆる生命の幸福を願う篤い母の愛だわ」
「なるほど、そんな簡単な事でいいんだ」
いけしゃあしゃあとした幽香の態度を見るに、姉さんの平然ぶりは予想通りなのだろう。
多分、小手調べ程度の感覚だから、ここで姉さんがくたばってしまったなら、相当がっかりしたに違いない。
「じゃあ、次は一割り増しでいくわよ」
再び日傘を構える幽香。しかし、表情を僅かに歪ませると、レーザーを発射する事も無く、踊るような足運びで横に退いた。
その幽香の靡いた長髪の先を焦がすようにして、光の激流が通過していく。
激流の源には、両の手の平をまっすぐに向けている姉さんがいて――。
「……何あれ? 幽香様を模倣したっていうの?」
くるみが訝しげに呟いた通り、姉さんの手の平から放たれた光の奔流は、幽香のそれと同質に見えた。
「……私の真似かしら? 貴女があらゆる生命に慈悲を注げるような殊勝な心がけの持ち主だなんてビックリだわ」
光線の通り道を横目で眺めていた幽香の言は、幾らか苛立っているように聞こえる。それはそうだ、得意としている攻撃をあっさり模倣されて、愉快であるはずがない。
「当然よ。私は世界中の存在の悉くが私を祝福してくれてるって自信があるわ。
つまりそれは、私の心が彼らに対して十分な慈雨を降らせてあげてるからって事なのよ」
そこは祝福と慈雨ではなく、畏怖と血の雨が正しい気もするが、姉さんの場合皮肉か本気かよく分からないので突っ込むのは止めておこう。
それよりも問題は、幽香の技術を姉さんがさも当然のように使役している事だ。
「一種の天才なのよね」
「天才……ですか?」
「姉さんはいろんな物が欠けている分、こういう事のセンスは抜きんでているのよ」
つまりはそう言う事。
きっと論理レベルの理解には至っていないだろうが、何となくの体の動かしかただけで技術を盗める素養を姉さんは備えている。
幽香はくしゃりと髪の毛を掻き上げ、しかし苛つきは殆ど表情に出さず、姉さんに日傘を向けた。
「やっぱり、貴女に計るような真似は必要ないのね。取っておきをプレゼントしましょう」
真剣になった。それが幽香の顔付きの変化で分かった。
自信に満ち、これから振るう暴力の結果に期待を膨らませる、凶悪な笑み。
今までは彼女にとって戯れだった。しかし、ここからはそうじゃない。幽香は姉さんを潰す為の闘争を本気で始めようというのだ。
「ふふ……素晴らしい貴女に静かな瞑りを」
そして再びの閃光。
しかし私は目を見張った。さっきと同じものではない。
いや、激烈な勢いで放たれる白光である事までは変わらないが、尋常でないのはその規模だ。
太い。ただひたすら太い。
ありとあらゆる物質を理不尽に塵と帰す破壊。馬鹿馬鹿しいほどの純粋な破壊。
その想像を絶する熱量を持った切っ先に姉さんが飲み込まれようとして。
そして――姉さんがぶれた。
一瞬驚いたように目を見開いた姉さんを、しかし光線は捉える事ができず、期待された破壊を成すこと無く消失する。
姉さんの回避行動に幽香が興味深そうな視線を向けた。
「へー。面白い技を持っているのね。時間があれば私も真似してみようかしら」
「……真似? それは無理だと思うよ」
顔を俯け姉さんが言う。いつもの能天気さからは想像もできない重く陰鬱な声だった。
「あの……夢月さん、さっきのあれは一体何ですか? 一瞬姿が掻き消えたように見えましたが……」
「貴女の言う通りよ。あの瞬間の姉さんはこっち側の世界の住人じゃ無かったって事」
私も似たような事ができるから分かるのだけれど、あれは技と言うより姉さんの特性だ。
名は体を現す。幻の一字は伊達ではない。幽香の攻撃がいかに強力な破壊力を有しようとも、蜃気楼を撃ち抜く事などできないのだ。
しかし――
「なんか面白くないわ。私の取っておきを凌いでおいて、どうして不機嫌そうなの? もっと自慢げに奢っていいんじゃなくて?」
「……納得できないなあ」
「はあ? 何が?」
――姉さんは戸惑っている。先の自分の行動がよっぽど信じられなかったのだろう。
そう、だって、今の今まであらゆる痛みを悦びに変えてきた姉さんだというのに、あの幽香の攻撃には恐怖を感じてしまったというのだ。
それは、摩滅してすっかり無くなってしまったと、本人ですらそう思っていた理性が発した想定外の叫びであり、その結果の行動は生涯で始めて走った保身だ。
「こんなの……違う。私の望むところじゃない」
悔しいのだろう。思い通りにならなかった事が。
悔しいのだろう。圧倒的な破壊にその身を委ねられなかった事が。
だから、姉さんは挽回するために行動するだろう。
幽香の前で大きく手を広げ、無防備な様をさらしている今が、その答えだ。
「ねえお願い。もう一度同じ事をして欲しいの。
手加減も容赦もいらない。一番熱い貴女を知りたいの」
「……何かを企んでいるのかしら?」
幽香が首をかしげる。
確かにこの状況なら、姉さんが何か策をくわだてていると考えるのが普通だ。
しかし、それでも日傘を真っ直ぐ構えたのは、例え姉さんが小細工を弄しても力で叩き潰せるという自信があるからなのだろう。
「まあ、いいでしょ。焼き殺す気でいくから、気張りなさいよ」
そして、幽香の日傘が再び光を放つ。
幽香のあのレーザーは確かに凄まじい。インドラの炎と言われても信じただろう。
しかし、私は分かっている。姉さんはきっと避けない。真っ正面から光線に身をさらそうとするだろう。
そして耐え切るに違いない。私は確信していた。
だって、幽香のレーザーは所詮他の何かに例えられる程度だけど、姉さんときたら、何に例えればいいのか判断が付かないほどに、未だ底が見えないのだから。
灼熱が姉さんを焦す。しかしその口元は三日月に釣り上がり、壮絶な笑顔で悦楽を表現していた。
ああ、なるほど、理性が焼け爛れる感覚が嬉しいのだ。
恐怖など姉さんにとっては快楽を邪魔する不要な感情に過ぎない。それを火刑に処し完全に消し炭に出来ると言うなら最も望むところだろう。
そして、光は次第に体積を増し、網膜に傷を付ける程の強すぎる輝度が部屋全体に満ちた為、姉さんの姿は完全に隠れてしまった。
私たちに視界が戻ったのは、幽香が十分過ぎる放出に満足した後である。
最初に気づいたのはやはり幽香だったようで、意外そうに眉を動かしていた。
その幽香の視線の先。レーザーの暴威が悉くを焼き切ったはずの軌跡上に、私はよく知った形の人影を見つけて。
ああ、やはり姉さんは信頼を裏切らなかった。
接触しただけで原子の霧にまで分解されるような規格外の熱量を、小細工を弄することも無く、最初から最後まで受け止め切ったのだ。
着ている服はボロボロで、髪の毛も乱れてしまったけど、今の姉さんは間違いない。そう、私が知る中でもっとも“かわいい”姉さんなのだ。
「……まったく、何で防御しないかな。それとも私の十八番はそんな事する価値もないって?」
幽香は何となく不機嫌そうだ。
きっと、一切抵抗しなかった姉さんの行動を挑発と受け取ったのだろう。
しかし……そうじゃ無い。
「クスクス……さっきは御免なさいね。でも、もう大丈夫。私の不躾で脆弱な部分が貴女をがっかりさせる事はないわ。
きっと何処までだっていける。何だってできる。
でもね、残念。
だって私、分かっちゃったもの。貴女は私の足りないところを満足させられるだけの才覚があるのに、それを出し惜しみしているんだって。
でも、そんなのずるいでしょ。私は貴女に私の最も純粋な部分を見て欲しいと思っているのに。
だから、貴女も私に見せて、他の誰にも見せた事の無い、混じり気なしの貴女を」
姉さんが甘ったるい声で囁く。
――そう、挑発ではないのだ。
だって、のぼせた様に頬を桃色に染めた姉さんの吐息は熱くて湿り気を帯びている。
俯き気味の前髪で隠れている上等のシェリーを固めたような瞳は、更に蜂蜜でも流し込まれた様に、すっかり潤んでしまっているに違いない。
そう、これは誘惑。
精神と精神、いや、もっともっと深いところで交わりましょうと、姉さんは幽香を誘っているのだ。
もはや姉さんはかつての童女ではなく、魔性を振り撒く一匹の雌。
噎せ返るような色香を纏いながらも、姉さんを姉さんたらしめる無垢さは一片たりと損なわれてはいない。
その魅力の源を、酷く破れて端たないと紙一重な露出のせいにするのは正しく無いだろう。
視覚に理由の全幅を求められるほど易いものではない。例えば、仮に幽香が盲であったとしても決して姉さんを無視させない、姉さんのそれはそういうものだ。
暴力的とも言える姉さんの魅了を敢えて言葉で説明するならば、それは熟れた林檎の芳醇さと、青い林檎の瑞々しさ。
悪夢の中で男を喰い物にする淫魔の妖艶さと、未だ色を知らぬ聖女の処女性。
相反するはずの二つの蠱惑さは、しかし確かに姉さんの小さな体の中に収まっていて。
例えばこの様を性別の異なる生物が目にしたなら、たとえ彼が何の知識も無い幼子であろうと、無能になって久しい老体であろうと関係ない。
思わず姉さんの柔らかな体を抱きしめ押し倒し、そして乱暴に服を剥ぎ取ろうとするだろう。理性の箍など一目見た瞬間に破壊されている。
同性であるエリーとくるみですら思わず体を乗り出し、私が制止しなければ、彼女らは食虫花に惹かれる羽虫の如くふらふら姉さんに吸い寄せられてしまっただろう。
かく言う私――そう、妹たる私ですら姉さんの引力に心を侵食されかかったのだ。
無節操に振り撒かれる、もはや猛毒と言うべき邪欲。
幽香は姉さんの誘いにどう応えるのだろうか。私は興味があった。
しばらくの間やれやれと肩を竦めていたその幽香は、ニィと唇を釣り上げると、カツンと靴を鳴らし、姉さんの方に一歩進み出たのだった。
「あらあら。淑女たる者、明け透けな欲望を周りに見せ付けるのは感心しませんわ。
昼間はあくまで貞潔。さも興味なんて無いような面構えをしてみせて、日が沈んでから、初めてちらつかせるベラドンナの紫黒。
賢いレディはそうあるべしと心得なさい。
いやいやしかし、恥じらいなんて最初から知らない様な無粋さだっていうのに、なかなかどうして、貴女はとっても魅力的だわ。
私は基本、自愛説の人だから、例えば自分の髪を一本抜けば世界が救われるとしても、そんな事してあげる気はさらさら無いのよ。
でも、貴女を見ていると、頭から踵まで磨り減ってしまうような兼愛に溺れてみるのも悪くないように思えてくるの。
それもそうよね。貴女みたいな可愛い女の子の誘いを無碍にするなんて、それこそ無粋ってものだわ。
いいわ。付き合ってあげる。
今から私はアザミの可愛らしさを捨てて苛烈極まる薔薇となる。
シャクヤクの気品もヒナゲシの可憐さも全部擲って、胡蝶蘭の性悪さと、ラフレシアの貪欲さを見せ付けてあげる。
二人で乱れて乱れて、感情の一番純粋な部分を曝け出しあって、一緒に奈落の底まで堕ちてみるのも、また一興だわ」
幽香はゆっくり日傘を閉じ、無造作に放り投げた。そう、もはやこんな物は不要とでも言うように。
くるくると空中で何度か回転した日傘のとんがった先がテーブルの真ん中に音を立てて刺さる。付着していた血液が衝撃で払い落とされテーブルクロスを汚した。
私達がそっちに気を取られた一瞬の間に、幽香と姉さんは既に動き始めていて――。
部屋に轟く鈍い破壊音。
響いたのでは無い、轟いたのだ。
ぶちまけられたのは鮮血と、明らかな固形物。
お互いの体の何割かを欠損させるほどの、重すぎる拳による規格外の衝撃。
姉さんと幽香の小さな体が発生源だとはとても信じられないような、さっきの音の正体はこれだった。
そう、すなわち幽香は姉さんの誘惑を全面的に承諾したのだ。
小細工無し。保身も無し。
ただただ、力いっぱい壊したり壊されたりするだけ。
「さあ、踊りましょう! 速く速くプレスティッシモのテンポで!」
「ええ! 譜面にドルチェとアジタートとカプリチョーソを書き加えましょう。フォルテは幾つ重ねようかしら」
異質な暴力。姉さんだけでなく幽香までその気になった故に繰り広げられる光景は、まだ地獄の方がマシなんじゃないかと思えるほど。
幽香が足を振り上げると姉さんの右手右足は、大刀に切り上げられたかのように斜めの断面を残して吹き飛んだし、姉さんが幽香の腕を掴んだなら、綿でも千切るかの様に軽々と胴体から切り離されてしまった。
次々欠落していく体。そして、フル稼働する再生によって入れ変わっていく体。
あんまりにも激しいものだから、きっと一日前の体と今の体では、同じ肉が何掴みも無いのだろうなあと私は思った。
しばらくすると、何度かの完膚なき損害を経て再生した幽香の新しい腕には茨が巻きついていた、再生したときに腕と一緒に生やしたのだ。
腕の血肉を苗床とし、血管に添う茨が皮膚の下で棘を立てている様は、酷く痛そうで、グロテスクで、しかしこの場にこれほど似つかわしい物も無いように思えた。
今は感情を強く刺激して、昂ぶらせてくれる存在のみが正義なのだから。
その幽香が突き出した茨が姉さんの左目に刺さった時は、さすがの姉さんでもこれは死んだんじゃないかなと思った。
水晶体を貫いた茨は深々と眼窩にめり込み……と言うか、頭蓋まで突き破って後頭部から緑の先端が生えている。
しかも茨はウネウネと蠕動しているから、脳味噌は穴を開けられただけに止まらず、今も容赦なく蹂躙されている最中であるのだ。
しかし、やはり姉さんは化け物だったから、中枢をやられているというのに、その右指は幽香の左目に深く深く捻じ込まれていた。
その深さというのは、どんなに楽観的に見ても脳に達している事が明らかなほどである。
相打ちにも見えるこの構図。しかし、叫びに近い程の激烈な笑い声が途切れる事は無い。
だって、永年の渇望を潤してくれる相手にやっと出会えたのだから。
殴る拳が砕けるまで壊したり、内臓の正しい位置が分からなくまで壊されたりを飽くなきまで続け合う事のできる相手にようやく出会えたのだから。
ならば、頭が潰れたくらいじゃ止まらないし、止められない。
いまや脊髄も筋肉も、いや表皮の一枚に至るまで壊し合いの享楽を貪っているのだ。
後先を顧みない極度の快楽主義。
ああ……まったく。
底が見えない。
「……幽香様があそこまで乱れるなんて……悔しいけど、羨ましい」
「ええ、まったくです。私達じゃどんなに頑張っても幽香様のオモチャ以上にはなり得ないですから」
「……私も羨ましく思ってるわ。単なる力量なら私も貴女達のご主人に劣るとは思っていないの。小細工を存分に弄してって条件付だけどね。
でも、それじゃ、姉さんはああならないから」
エリーとくるみが幽香に向ける視線というのは、完全に心奪われているといった風であり、私の幼い頃もこんな顔をしていたのだろうかと、ふとそんな事を思った。
機会があれば彼女達が幽香に従っている理由を尋ねようとも思っていたけど、それはもういいだろう。
私が姉さんのメイドをしている理由と大差無いに違いないのだから。
そうこうしている内に、幽香の茨は引きちぎられてしまったけど、それが大勢に影響を与える事も無く、行為はますます激しさを増していていくのだった。
そんな中、存分に過激さが高まった姉さんが一際大きく声を張り上げる。
「ああ! “私の中に貴女の手で熱狂の火を点じてちょうだい!
貴女の口が私の口に応え、貴女の舌が私の舌を呼び、私を逸楽に誘っていくわ!
私が貴女にした事を、貴女も私にしてちょうだい! そして私を快楽で死なせてみせて!”」
「マルキ・ド・サド? 本当にいいご趣味だこと。
“このじれったい常識を剥ぎ取ってしまいましょう。第一その方がよっぽど自然じゃない?
ああ、貴女の熱狂がかきたてられる時、私、貴女の心臓が動いているのを見たいのよ”。
……ふふ、これで、満足かしら!」
幽香の手が姉さんの胸に吸い込まれる。
胸郭を容易く突き破り、左の肺臓を衝撃で破裂させた手の平は、姉さんの搏動を直接感じ取れる位置にあるのだ。
「あは! 分かってるねぇ。どうかな? 感じてくれてる? 私の脈動を。私の体温を」
「ええ、とっても力強く温かいわ。さあ、果たして貴女の望みは叶うかしら?」
袋が圧され弾ける音。
幽香は心臓を掴んだまま、捻りを加えつつ姉さんを背中から地面に叩き付けたのだ。存分に体重の乗った一撃は姉さんの胸の中をばらばらにしてしまっただろう。
立ち上がり、手に付いた臓物の破片をペロリと舌で掬いつつ幽香は姉さんの様子を観察している。
その姉さんはぴくぴくと痙攣していて、焦点がばらばらな目は、きっと何も映してはいないだろう。
……しかし、これでも姉さんを至らせるには不足なのだという。
瞳孔は既に縮小した。胸の穴もあっという間に塞がってしまった。そして一気に跳ね起きると、臨死の興奮を捲し立てたのだ。
「素晴らしいわ! 素晴らしいわ! 私の全ての感覚が真っ白に麻痺したの。
でも、足りない! まだ足りない! 全然足りない!
もっともっと私の感情は歪んだ形になれるわ。貴女だってそうでしょ?」
一度死に臨んだというのに、それでも姉さんはさらなるものを求め、欲火はますます盛んに燃え上がる。
何故か。私は姉さんという悪魔を良く知っているから理解できた。そう……底が近いのだ。
心肺を粉々にされたのが平気だったはずが無い。
姉さんは、姉さんにとって最上の甘美な遊戯が、しかし、もう長くは続けられない事を悟ったのだろう。
だから、後で悔いたりしないように、残された僅かな体力を全部注ぎ込んでいるのだ。
「さあ、もっと喘がせてあげる! だから、もっともっと私を悶えさせて!」
「いいわ。骨の髄のそのまた髄に至るまで辱めて頂戴! そうしたら肺腑の奥のそのまた深淵まで弄んであげる!」
――発狂。
そう例えるのが正しいのかは分からない。
でも、刹那主義な欲求へさらに傾き、もはや極端になってしまった今の姉さんと幽香を見るに、あまり語弊は無いようにも思えた。
残り少ない蝋燭が激しく燃えるように、終わりが近いからこそ、より本能に近いところに忠実であろうとしているのだ。
しばらくすると、幽香が姉さんの翼を根っこから引き抜いたり、姉さんが幽香の喉元を食い破ったり、状況はいよいよ獣じみてきたように見える。
再生が間に合わないから、五体のどこかが満足でない状態で壊しあい、それでも体を動かす事を止めない。
二人の足元には大きな大きな血だまりが出来ていた。
あんまりにも凄惨な光景。
しかし、私は目を逸らすことが出来なかった。
感情の趣くままに異常な事を続ける姉さん達は、しかし、まるで世界で最も美しい存在であるかのように、すっかり私を魅了していたのだから。
エリーとくるみも食い入るように見つめている。最早おしゃべりに意識を回すなんて勿体無い事は出来ないのだ。
一挙手一投足を瞳に焼き付けたいと思った。
この光景がずっと続けばいいのにとさえ思ってしまった。
しかし、残念。
姉さんと幽香は、とんでもない速度で堕ちているから、どんなに底が深くても、いずれはそこまで至ってしまうのだ。そして、それはもう間近。
足の付け根を思い切り踏みしだかれた姉さんが倒れこむ。
上体を起こすけど、その次に進めない。そう、立てないのだ。皮一枚で辛うじて胴体と繋がっている足では、本来の役割を果たせない。
先に底を踏んだのは姉さんだった。
今までの無茶を可能にしてきた再生能力もとうとう音を上げてしまったらしい。
一応従者である身としては残念に思わないといけないのだろう。
しかし、私が今感じている残念はそれとは全く性質の異なる物で、言うなれば、緞帳が降りてしまったというのに、劇場の椅子から立ち上がれないでいる、あの感覚に似ている。
あーあ……終わっちゃうんだなあ。誰に言うでもなく私は呟いた。同じテーブルに付く二人も同じような事を呟いていた。
しかし、まだ幕切れが残っている。姉さんはこの壮大な惨劇を、どう美しく締めくくってくれるだろうか。
ずるりと血の跡を引きながら、姉さんが幽香に近づこうとしている。
それを見た幽香は自ら姉さんのすぐ側により、目線を同じ高さにするようしゃがんでみせた。
「あはは。ねえ、どう?
翼を千切られて、両足も使い物にならなくなって、蛞蝓みたいに床を這いずり回る事しか出来ない私は醜いかしら?」
「まさか、とっても綺麗よ。今の貴女を見たなら、アフロディテも裸足で逃げ出すに違いないわ。
頭の天辺から爪先まで派手に染まった血化粧も、取れかかって痛々しい白を曝す関節も、いまや全て貴女の魅力を引き立てる装飾だわ」
淀みなく幽香は答える。自信に満ちたその表情は自らの発言が口先では無い事の証左であるのだろう。
それを聞いた姉さんは、ほんの少し驚いた様な、私も始めて見る不思議な表情をしていた。
憧憬と表現するのが正しいわけじゃないのだろうけど、根の部分を形作る要素はそれと同じに思える。
「あは……お世辞は結構なのに。はっきり醜いって言ってくれて良かったのに。
……でも、ちょっと嬉しいかも。
ねえ、貴女が本心から私を綺麗だと思うのであれば、少しお顔を貸して下さらない?」
「ええ、無論ですわ」
姉さんの誘いに幽香は戸惑うこともなく顔を近づけていく。
ああ、なるほどねえ。そんな声が自然と私の口から零れた。
狭まる距離、瞑る瞳――。
「きゃ!」
エリーが思わず目を覆い隠し、くるみが熱っぽい視線を向ける。
――かくして、姉さんと幽香はついに重なったのだった。
どのくらいそうしていただろうか? 随分長く感じたし、実際軽い接吻といった風ではなかった。
たっぷりと、貪り合い、お互いの血の味を存分に味わい合う。
その様はしつこいと思えるほどであったけど、不思議と不快には感じなかった。
そしてエリーが恐る恐る顔の前から手をどかした頃になって、ようやく満足いったらしい二人は、吐息がかかる程の距離で、クスリと微笑み合って見せる。
口腔内も出血が酷いからというのが原因で、言うなればこれは偶然なんだけど、紅い糸は運命を結びつける糸だっていう俗信は案外馬鹿に出来ないかもと思ったものだ。
「……ファーストキスって訳じゃないんだけどね。そうは見えないかもしれないけど、それなりに経験はあるし。
でも、戯れじゃなくて、これ程まで感情が純粋に欲したのは初めての事なの。
そういう意味で私の初めてよりもずっとずっと重い最上の親愛を、貴女に捧げるわ」
「あら責任重大ね。恋人のキスは唇に。なら友情のキスは何処だったかしら?
でも、そんなのは瑣末な問題。だって私たちはもはや並々ならないもの。
それは秋風に吹かれただけであっさり冷める恋慕なんかよりずっと高尚な感情で、なら、私たちが友誼を契るのに、分不相応な彼らの定位置を奪い取ったのも、まったくもって正当じゃない」
つまりはそういう事。姉さんは生まれて始めて他人を尊敬できたのだ。そして始めて共に在りたいと思ったのだ。
だから、子供っぽくて不器用で、でもある意味もっとも姉さんらしいこの方法で誼みを請うた訳だ。
それが分かっていたから、私も姉さんの選択を素直に受け入れられたのだろう。
「あはは……良かった。嫌いって言われたらどうしようかって思ってた。
こんなに緊張したのは生まれてから始めてだわ」
安心したように微笑んでいる今の姉さんは、狂気も鳴りを潜め、見た目相応の普通の少女であるようにすら見えた。
「これで、名前で呼び合える関係になったのね? 幽香」
「その通りよ。幻月」
心底嬉しそうな姉さんに、しかし、すぐに悪戯っ子のような表情が戻る。
「ねえ幽香。私はこんな体だって言うのに未だ満足できていないの。卑しい女だって罵ってくれてもいいのよ。
でもね、あともう少し、そうあとほんの少しでいいの。それで私の欲望は満たされるわ。
宜しければ、付き合ってくださらない?」
「本当に好き者ね。でも、貴女のそういうところ嫌いじゃないわ。
それに、私だってこんなに昂ぶっているの。不完全燃焼で終わるなんて、そんな残酷な事許さないわ」
あははははと楽しげに笑いあう二人。
そして、傍目には突飛に、しかし実際には息がぴったり合ったタイミングで、終結となる破壊を互いに繰り出したのだった。
姉さんが上半身のばねのみで繰り出した一撃は、幽香の鳩尾の辺りにずぷりとめり込み五つの穴を開けたけど、幽香は構うこと無く、姉さんの下腹を踏みつけた。
穴が開くことは無かったけど、へこんだ深さから鑑みるに中身の惨状は相当なものだろう。
それでいよいよ限界だったらしい姉さんは意識を飛ばした。
でも、どさりと上体が倒れる前に、満ち足りた笑みと口元のだらしない輝きが一瞬見えて。
ああなるほど、気持ちよかったんだなと、私は納得した。
その時の幽香は、両足で立つ事は出来たけど、やはり消耗具合は相当であるらしくて、鳩尾からの出血を止める事も出来ていない。
しかし、微笑んでいるように見える表情に、仄かに憂いらしきものが伺えるのは、それが原因ではないだろう。
つまり彼女は彼女で残念に思うところがあったという事だ。
「……ああ友よ。私は貴女を跪かせたかったのに。貴女の口が敗北を宣言するのを聞きたかったのに。
でも貴女はそんな事これっぽっちも考えてはいなかったのでしょうね。
だって貴女にとって、これは決闘でなく、あくまで遊びだったのだから。今、無防備に寝顔をさらすのも負けたからではなく、じゃれ合いに疲れたから。
勝敗に拘らせる事ができなかったのが悔しいし、それ以上に、最後には勝ちも負けも顧みず、野蛮な悦楽に身を委ねてしまった自分が口惜しい。
でも、私は私の矜持を満足させてやらないといけないの。だって、それこそが私の生き甲斐だもの。
だから友よ。貴女が倒れた後にも私は立っている、この事実を以って今日のところは満足する事にしましょう」
幽香は訥々と姉さんに語りかけていた。勿論姉さんは気を失っているから独り言と変わりはしないのだけど、語りかける事が重要なのだろう。
だから、幽香は伸ばした右腕の親指を天に向け、誇らしげに宣言した。
「幻月。私の勝ちよ」
――ぱちぱちぱち。
主の勝利宣言に従者二人は両手を鳴らして賞賛の意を表している。
エリーが何やら目配せしてきて、つまりは私も手を叩く事を期待しているらしかった。
一応、立場としては敵であるわけだし、実の姉をボロボロにした相手を祝福するのも変な話だと思ったけど、何と無く場の雰囲気に流された事もあって渋々と手を打ち鳴らしてみた。
釈然としない思いもあるけれど、素晴らしい舞台を演じてくれた彼女には、やはりそれ相応の感謝をしなければならないのだろう。
そんな私達の拍手に幽香は手を振って応えていたけど、突然、眩暈を起こした様にバランスを崩した。
彼女も底に片足をついているという事なのだろう。
「ふう……危なかった。痩せ我慢なんて何年ぶりかしら。
……喉渇いたわね」
ふらふらとテーブルまで歩いてきた幽香は、無遠慮に私のアイスミルクを手に取ると、一気に飲み干してしまった。
「いいアッサムね。葉っぱの活かし方を良く分かっているし、ミルクとの調和にもこだわりが感じられる。
素晴らしいと言っていいわ。九十五点。
でも……えっと……。ああもう! どうして気の利いた言葉が出ないかな!
いよいよ私も限界みたいね。貴女たちが思っている以上に脳味噌が参っているのよ。
まあ、とにかくぶっ倒れる前にこれだけは言っておかないと」
眉間に皺を寄せた私の顔の前に、幽香はぴしゃりという効果音が似合いそうな切れのよさで人差し指を突きつける。
そして、
「――貴女にも勝った!」
最後にそれはそれは偉そうな笑顔を私に向け、その表情のまま、勢いよくばたりと倒れこんだのだった。
※※※※※※※※※※
お日様が西よりに傾いても、激烈な射光は相変わらずであり、地熱が酷くなったから気温も鰻登りだ。
ただ、青空には遠く雲が見える。
一雨くるかも知れないし、何より風が吹いてきたので私は干していた洗濯物を急いで取り込んだ。
風があると乾きは確かに早くなるけど、埃が付くから、手放しで歓迎はできない。
幸いにしてこの天気なので、僅か数時間干しただけでも、衣服の湿気を取り去るには十分だったようだ。
こんもりと山ができた籠を抱え、私は館に向かって小道を進む。
そうなると中庭を通過する事になるわけだけど、果たしてそこの花壇には、午前中エリーが言ってたように満開の向日葵。
黄色い大輪が立ち並ぶ中々に壮観な光景は、同時に威圧的でもあり、輝かしくもあり、酷く傲岸であるようにも思えた。
なるほど、彼女が館の主人になって最初に植えた種がこれだった理由も、一番好きな花だと言った理由も何と無く分かる。
こうして見ると、よく似ているのだから。
一人納得しながら、さらに小道を歩いていくと洒落たパラソルと白く塗った木製のテーブルが見えた。
そこに据えられた椅子に、今日は妙に行動的な人影が座っているのを見つけて。
「あら、姉さん。また珍しいわね」
「うん、ちょっとね」
優雅な午後のティータイムといったつもりだろうか。
ティーカップ片手に姉さんは物静かに微笑んでいる。
「ところでこのお茶どうしたの? エリーにでも頼んだ?」
「いや、自分で淹れたよ。
そうだ、ちょっと飲んでみてよ。夢月の感想が聞きたいわ」
姉さんがティーカップを差し出して来たので、私は洗濯籠を地面に置いて、それを受け取った。
本当に珍しい事があるものだなと思いつつ、口を付ける。
「……言ってくれれば、いつでもお茶くらい淹れるのに」
「それはあんまり美味しくないって事でいいのかな」
「あんまりじゃないわ。全然よ」
「酷いわ夢月。自分でも分かってたけど、ちょっとくらいのリップサービスはあっていいと思うのよ」
唇を尖らせる姉さんを前に、私は茶葉をお湯に浸して出来た液体をテーブルに置く。
それなりに高級な葉っぱなのだから、無駄遣いはして欲しくないなあ。
図らずも溜め息を吐いてしまった私は、姉さんに視線を戻した。
「それにしても、唐突に自分でお茶を淹れてみたりして。何かあったの?」
それが本当に分からない。
姉さんは味は分かる方だと思うけど、淹れる方は全然だ。基本的に興味が無いから手順なんか知ってるはずないし。
生涯で姉さんがティーセットに触った回数というのは、私が知る限り両手の指で事足りる。
それだけに今日のこの行動は特異に思えた。
「暑いしね。懐かしいでしょ? だから一緒にどうって思ってね」
「ああ、なるほど」
それで私は姉さんの言わんとする事を理解した。
「じゃあ、姉さんはここで待ってて。ちゃんとしたお茶を淹れて、それから語り合いましょう」
「うん、お願いね」
私は姉さんが持ってきたティーセットを持ち上げ、お茶会の準備をするため館に向かう。
玄関まであと数歩という所で、そう言えば洗濯籠を置きっぱなしだった事に気づいたけど、まあいいことにする。
たまには大雑把に振る舞ってみるのも悪くないし、何より、そんな事は思い出話に花を咲かせた後でも十分にできるのだから。
※※※※※※※※※※
日を遮る大振りの白いパラソルと、同じく白色で真新しいテーブルセット。
そこに座るのは私と、血なまぐさくなってしまった体を綺麗に洗い、服も新しく下ろした姉さんである。
普段はお茶を出す立場の私にとって、人にお茶を淹れてもらう機会というのはそれまで無かったので、どうも落ち着かない気持ちだったのを覚えている。
そんな私達の前でお茶の準備をしているのは、我が夢幻館の新しい主。風見幽香だ。
姉さんが負けて、これからの身の振りをどうするかと、そんな事を考えていた私をお茶会に誘ったのが、他ならぬ彼女だった。
訝しげに思った私だけど、姉さんが即諾した為、私も付き合う事になったわけだ。
フラワーマスターの本領発揮と言うわけか、振舞ってくれるのは、自らの能力で採取したハーブと茶葉をブレンドしたお茶らしい。
彼女みたいな妖怪は自分でお茶を入れたりはしないものだと思っていたけど、どうやら偏見だったようだ。
その所作というのは大変に洗練されている。長年の修練の賜物である事が伺えた。
「一応、私の物になった訳だけど、やっぱり相応しい使用人は必要だと思うのよ」
お茶を淹れながら、幽香は私達に様々な言葉を投げかけてきた。
最初に彼女が伝えたのは、幽香に私達を追い出す気は無いという事。
部屋は十分過ぎるほど余っているから、姉さんは友人として居候してもいいという事だった。
まあ、賢明だと思う。多分姉さんは出て行けといわれても、何食わぬ顔で居座っていただろうし。
ただ、私の処遇の件なると、少し雰囲気が変わってくる。
今までの言葉から判断するに、どうやら幽香は私が姉さんにしていたように、メイドとして仕えてくれるのを期待しているらしい。
ただ、その割りに煮え切らない部分が見てとれるというか……。
「ウチの従者も貴女に預けるわ。それに、貴女は私の友の妹な訳だし。
……まあ、つまりあれよ。メイド兼……って、ああもう! 皆まで言わせないでよ」
メイドして従いなさいと、はっきり言えばいいのにと思う。
傅くつもりは無いけど、彼女は姉さんの友人だし、望むならそれなりに奉公してあげるつもりではいるのだから。
「あー、もう伝わらないなあ。基本的にこういう誘いは不得手なのよ私。特に今みたいな素面じゃね。
まあいいわ。なら私はこの思いを大地のリンゴの雫に託すことにしましょう。貴女に届くことを願ってね」
そう言って、彼女はポットから琥珀色の液体を注ぎ、私達に差し出した。
ティーカップからはさっき彼女が言った通り、林檎に似た甘く優しい香り。
「カモミール? どうせならアカシアとかコブシの方がよかったんじゃない?」
「美味しいお茶が飲みたいでしょ。ならこの辺りが落とし所なのよ」
なるほど。姉さんの言ったことを聞いて、私は幽香が何を求めているのか理解できた。単に従者を欲していただけでは無かったのだ。
カモミールの花言葉は『親交』。
なんて陳腐な言葉だろう。でも、だからこそ心に響いた。
その自信満々な笑顔が、実は剥き出しの哀愁であることを彼女は隠そうともしなかったのだ。
誰も釣り合えない。それだけの大器であったから彼女はずっと一人ぼっち。
姉さんがティーカップを傾けるのを横目に、私は少しの逡巡があった。
私は彼女の哀願を一笑に付す事も出来た。いや、むしろそうするべきなのだろう。何と言っても彼女は私達の城に土足で踏み入った侵略者なのだから。
でもそうしなかったのは、結局私も寂しかったという事だろう。滑稽な話だが。
長い長い私の生で、姉妹同士でしか認め合えないのが傲慢と思えない程に、誰も彼もが私と釣り合ってくれなかったのだ。
だから私は彼女の願いが精一杯に込められた雫に口を付けた。
「……美味しい」
悔しいけど、自然と声が出た。
彼女の能力を以ってすれば葉っぱの能力を限界まで引き出す事ができる訳で、それは反則だと思うのだけど、負けは負けだ。
当時の私には、どれだけ頑張っても、たとえ奇跡的なまぐれが味方についても、彼女に敵うカモミールは淹れられなかっただろう。
いや、一番得意なアイスミルクでさえもきっと彼女は私の上を行った。そう確信せざるを得ない程に見事な腕前だったのだ。
しかし、これで決心は付いた。
私に首輪をかけるには、やはりそれなりのものを示してもらわないといけない。
姉さんは、力で屈服させられたから彼女を認めた。
ならば、私は技量で屈服させられたから、彼女を認めよう。
「……分かったわよ。“幽香”。これでいい?
これから私は貴女の対等な友人であり、同時に忠実な従者よ。
貴女のそういう屈折したところはきっと私に色々迷惑かけるだろうけど、望むところだわ。
精一杯お節介を焼いてあげる」
私からこの言葉を引き出した事に、我が初めての友人は大層満足したらしく、ふふんと、自慢げに鼻で笑って見せた。
思えば、最近丸くなったとよく言われる彼女だけど、こういう嫌な性格は当時から全く変わっていないと思う。
でも、だからこそ。私は飽きずに友人を続けているのかも知れないと、そうとも思った。
※※※※※※※※※※
やっぱりと言うか、今日も彼女は帰ってこなかった。
いつものように五人分作った夕飯は、いつものように一人分余り、いつものように健康優良娘二人の胃袋へ収まる事となった。
いつものことだし特に気にもせず、小骨の残った皿とかを洗って、台所の掃除も終わらせると、私の一日のお仕事も終了だ。
この時間帯になると館内は完全にくつろぎモードであり、食堂では寝間着姿のエリーとくるみがチェスボードを広げている。
姿が見えない姉さんは、多分自室で本でも読んでいるのだろう。
チェスをしてる二人の横から口を出してみたり、読書に親しんでみたりするのも楽しそうに思えたけど、今日はそれよりもしたいことがあった。
ティーセットと一番いい茶葉、その他必要な物を台所のテーブルに置く。
そして棚から古びた一冊のノートを取り出した。これは私の技術の分身と言っても差し支えない物だ。
濃いめに抽出した紅茶と冷たいミルクを混ぜていく。琥珀色の水面に乳白色の縞が入っていった。
アイスミルクティー。こうやってお茶の研鑽をするのは実益を兼ねた私の趣味なのだけど、今日このレシピを選んだのは、今日が色々昔の事を思い出した一日だったからだろう。
十分混ざって色が均一になった液体をグラスに注ぎ、一口含む。
「うん……まあまあかな」
前回作ったときよりは美味しくなっていると思う。
それでも気付く所はあるので、それをノートに書き記していった。
比較的シンプルなレシピだけど、その分奥は深くて、だからこうやって知識を積み重ねていくのが大切だと考えている。
「アイスミルクティー? こだわるねえ」
囁くような声。いつの間にか後ろに姉さんがいた。多分夜食が欲しくてここまで来たのだろう。
でも丁度良いい。このアイスミルクの感想を聞かせてもらおう。
「カモミールで勝負するのも何だか癪だしね。やっぱり私のレシピで挑まないと」
「あはは、夢月らしいね」
姉さんのグラスにも紅茶を注ぐ。
椅子に腰掛けた姉さんは興味深そうな目つきで、グラスを口に付けた。
「……思うに夢月の技術ってのは、あの頃に比べると凄く洗練されてるから、ぶっちゃけあの子より美味しいお茶を淹れてるんじゃないかな?」
舌に関しては信用できる姉さんだから、褒め言葉は単純に嬉しいけど、その反応じゃまだ私の望む域に不足だ。
「少なくともあの頃のよりはね。でも今はもっと上手になっているだろうし、第一、ちょっと上なくらいじゃ絶対美味しいって言わないわよ」
「そうだねぇ、意地っ張りだもんねぇ」
苦笑いして姉さんはもう一口分グラスを傾ける。
「まあ、口には出さなくても、実は満足しているんだろうけど……」
そして、ちょっと遠くを見るような目つきをした。
「……今はどうしてるんだろうねえ」
「さあ、適当によろしくやってるんでしょ」
軽く溜め息をつき、姉さんがそうしたように、私も彼女の今に思いを馳せる。
彼女は根無し草だし、今日もどこかをほっつき歩いているのだろう。私たちの事なんか思い出す事もせずに。
でもそれでいい。その傲慢さこそ我が友だ。
……まあ、しかし、ちょっとだけ寂しいのは否定できないかな。
彼女はとんでもなく迷惑な人格の持ち主だけど、その極端な個性は交わっていて確かに心が躍るのだ。
だから私は、彼女の為にいつでも美味しい料理を用意できるようにしたいと思う。
もし放浪中に何か嫌なことがあったなら、その鬱憤を思いっきり姉さんにぶつければいいし。
元気で帰ってきたなら、エリーもくるみも、あの裏表の無い笑顔で喜ぶに違いない。
……ともかく、我が夢幻館一同は、友として従者として、彼女の帰還を待ち望んでいるのだ。
ここまで考えて、でもこの事は直接言わずに胸にしまっておこうと決める。
だって、こんな事聞いたら絶対調子に乗るから。
「まったく、いつ帰ってきてもいいのにねえ。
ここまで想われているのにフラフラ放浪の身ってどれだけ贅沢なんだか」
だから、今の内に声に出しておくことにする。
そうしたら、何か凄く画期的そうなアイデアが閃いて。
自画自賛なそれをノートに書きとめた私は、思わず美味しいと本音を漏らしてしまう彼女を想像して、クスリと笑った。
姉さんと目が合う、何となく考えていた事が伝わったらしく、一緒にクスクスした。
「本当に早く帰ってくればいいのに。そしたら次こそ美味しいって言わせてみせるのに」
そんな事を口走ってみたなら、静かな静かな夏の夜に、何かの音が仄かに響いた気がして。
私はそれが聞こえた方向に視線を向けた。
なるほど。
優雅にかつ傲岸不遜な調子で聞こえたそれは足音だったんだなと私は納得し、ますます暑くなるであろう明日に唇をつり上げたのだった。
色々な意味でお腹いっぱい、素晴らしいフルコース料理でございました。
幽香りん・幻月様の溢れ出るカリスマに乾杯!
>幽香様の美しい御御足で踏みしだいていただけるなら~
貴兄とは美味い酒が呑めそうだw
すごい気合入ってますね
尊敬に値する作品です
お疲れ様でした
夢幻姉妹がメインのSSは創想話で初めてです。いいもの読ませていただきました。
夢月がアイスミルクティーにこだわるあたりになにか感じるものがありましたが
そういえば彼女のテーマ曲は副題が“Icemilk Magic”でしたね。うまいなと思いました。
次回作も期待しております。また夢幻館メンバーで書いて下さると嬉しいですw
ゆうかりんと幻月がメインですが、
語り手の夢月と脇を固めるくるみとエリーがいい味を出して素敵でした。
よいお話をありがとうございます。
>幽香様の美しい御御足~
酒宴の準備がととのっております、今宵は夜通し語り合いましょう。
>作者様,2,10
自分も混ぜてくれー。
まさに理想的幽香&夢幻館。
>幽香様の美しい御御足~
「幽香様に踏まれ隊」諸氏の皆様、追加の酒と肴持って来ましたよ。
とりあえずちょっと某スレにエリーへの愛を綴ってくる!
あと金髪ロールっ娘の土いじりは見ものだなww
自分が幻月や幽香を好きになった切っ掛けになった話でした。
自分の中の幻月像は随分とこの話の影響を受けてるんですよね。
間違いなく、自分にとってはトップ3に入るほど好きな作品です。
これからも頑張ってください!
自分的幻月像がちょこっと変わりました