「いや……ちょっとだけ、悪いことしちゃったかなーって。申し訳なかったな、って」
「はあ」
今その台詞を幻想郷にてぬけぬけと喋った日には恐らく暴動が起きるだろう。衣玖は良識の天秤に彼女の言動を掛け、そして胸の内で舌を出した。
曰く比那名居の総領娘が、大地震で博麗神社を灰燼に帰しめた。ばーか。挙げ句天界に地上人を攻め込ませ、宴会まで開かせて、ついでに神社の修復を御自ら請け負うこととなった。ばーかばーか。
神社をお釈迦にしたなんて話はまったく洒落にもならないね――とまあ、天界の人々に後世七代先まで口伝されるであろう醜態を歴史に刻んで、比那名居天子は今衣玖に対して訥々と愚痴っているのだった。
申し訳なかった、と来た。
よもや本心でもあるまい。
罪悪感などは母体内にきれいさっぱり置き忘れたであろう彼女が、
「――ここは一つ、神社の竣工式の二次会として、天界仕込みのお料理でも振る舞おうかと」
「はあはあ」
そんな殊勝な真似などするはずもない。
衣玖はそう信じていた。
理屈はあとから粘土細工のようにくっつけることが出来るわけで、要するにこれも暇つぶしの一環なのだろうと竜宮仕込みの溜息ひとつ。帽子の鍔のすぐ下のあたりをぽりぽりと掻いて、青い青い空を衣玖は見上げた。
何故こんなことを相談されているかといえば、その地震の騒動以来何かと、この総領娘と対面する機会が募ったその結果である。特にはっきりとした交誼を結んだ覚えもないが、こうでもしなければ女友達にも不自由するくらい、彼女の棲まう天界は楽園すぎるのかもしれなかった。何かと絡んでくる天人崩れの少女と爾来、風を受ッる柳のように衣玖は付き合っている。別に苦痛ではないし、足手まといというわけでもない。衣玖自身日頃は忙しくも何ともないし、この天人がお喋りに不自由しているのなら、まあどうせかなり暇だし、ちょっとくらいは付き合ってあげるのが人間関係的に筋かなーと思った。それだけだった。
人なつこい印象の天子に人付き合いの一つもないという事実は、衣玖には当初少し不思議だった。曰く、この上ない極上最高級の幸せが用意されている天界にあっては、ベタベタとした他人との付き合いをしてまで楽しみを見出そうとする人は少ないらしい。一人でいれば充分幸せだからということで、そこで止まってしまうという。そういう意味でどうやら天界に棲まう天人という種族は本質的に友達嫌いであり、つまるところ、なべて皆孤高なようだった。
「どうでもいいですが、どんな料理を振る舞うのですか」
「選びに選び抜いた、天界の厳選食材よ」
ふうん、と衣玖は頷き、
「桃ですか」
「桃ね」
さすがに桃だけじゃ腹はふくれないだろう。ご大層に宴会へと招待されて、献立が桃の切り身に刺身にソテーに煮付け、ついでにテリーヌと味噌汁なんてことになったら本当に暴動に発展する。
天人は閑居して不善を為す。でもほんとにほんとに暇なのよー! と天子はいつも嘆かわしげに嘯いており、それまで身近にしてよく知らなかった天界という場所が、どうやら本当に何にも無いところなのだ――と、衣玖は近来実感しているのだった。
あくまで俗物としての感覚では、である。
この“俗物としての感覚”というのがつまり永江衣玖の感覚であり、そして更に言えばつまり、
「食材だけでよければ、私がいくらでも調達します」
「嬉しい御言葉を言ってくれるじゃない。桃ばっかじゃやっぱりー」
「心中お察ししますねぇ――甘い食べ物ばかりでは飽きますし、栄養が偏ります。お肌によろしくありません」
「でも桃だけに、お肌はしっかりピーチピチ! なんて」
「わー……」
――同時にこの天人失格の娘、比名那居天子の庶民派感覚でもあるのだった。
流石にそこまでエキセントリックな答えは求めておらず、呆けたような溜息が一つ足許に落っこちる。肩の力が抜けたがそれでもまあとりあえず、食料の調達に便宜を図る程度なら役に立ってあげよう――と、衣玖は思っていた。
それくらいには、この天子という少女に日々刻々、興味が湧いてきていた。
二人仲良く座っていた天界の岩から、衣玖だけがぴょいっと飛び降りる。
なんだかんだ言って、互いに境遇は似ていると思う。雲竜となりて雷鳴に揺蕩うばかりの我が身を振り返れば、天人を笑えない程度に自分もしっかり暇している。天人の身空に「暇」という形容を冠することの適切性はさておき、二人の間に小さく違う点を見繕うとすればそれは、そういった生き様を楽しんでいるかいないかである。天子が天人崩れと称されるなら、何の欲も不満も抱かず雲間に泳ぐ自分はきっと根っからの竜宮ノ使ヒ、ということになるのだろう。
衣玖はしれっとした顔で食材の手配に頭を悩ませ始めている。天子は暇そうに左手右手で緋想の剣をぶぅんぶんと振り回して、象でも呑み込めそうな大あくびをして奥歯まで見えて光ってってちょっとちょっとお待ち、その緋想の剣とやらは確か、本来門外不出の秘宝じゃありませんでしたっけか天子様?
それを持ち出したから、あんなに貴方は怒られて――
「――ぜんじんるいの、ひそーてーん!!」
ぼっかーん。
とまあ、衣玖のそんな疑問も、天子の憎めぬ明るさと仰角七十五度の極太バズーカが朗らかに掻き消してゆくのだった。
頭上を遥か非々々々想天くらいまで突き破る勢いの緋い大砲は、古より育まれし悠久の銀河系に対して確実に何らかの甚大な迷惑を与えつつ、閃光と爆音を置き土産に残して空中の想い出となった。
またそんな剣を持ち出したのがバレた日にゃ――と衣玖は怖い想像をしてみたが、この天子はひょっとすると、それすらも何ら痛痒に感じないんじゃないかと思い直す。
そういう性格である。件の騒動の顛末には衣玖の方が気を揉んでいたというのに、当人はまるでどこ吹く風で、今日も今日とて従前通り、天界の野原を悠然と闊歩し続けているのだ。衣玖の羨む胸が内、その蒼天を思わせる髪の色に似て彼女の心はいつどんな日も、空色快晴一点張りなのだ。
哨戒で山岳地帯をうろついている天狗達にでも食料を募ってみようか――等と算段しつつ天子の暢気なるを顧みてもう一つ嘆息、衣玖、感じるところはつまるところ、自分が纏っているひらひらの衣に似ているなーと思ったのである。
天衣は、無縫である。
■ ■
「うーん、懐かしい食材ばかりねぇ」
「……懐かしい……?」
天子の率直にして偽らざる感想に、衣玖もまた率直なリアクションでお返しする。
それにしても。
懐かしい、と来た。
「……天界に行ってしまってから、人間の食べ物には一切お目にかかれてなかったんですか?」
「うん。人間の食べ物は持たない、作らない、持ち込ませない」
「ふーん」
……いやいや、と天子は首を横に振って、
「てゆうか実際、天人の口に合わないのよ、人間の食事って」
「はあ」
そんなふうに簡潔に付け足して、衣玖に対する説明を締めくくった。
天界に於いて食べ物は桃、飲み物は酒。それだけなのだと巷間には伝えられていた。その二つだけあれば、天人とは食欲に充足を得られる人種なのだという。人間のグルメに対する憧憬は、まるで生前の煩悩のように、既に霞のごとく立ち消えているのだといい――例えば人間がカブトムシと一緒になって木の幹の樹液を嘗めたりしないのと同じで、天界人にとっては人間達が地表に這い蹲って目もなく愛好する刺身、銀シャリ、焼き魚に焼き肉、チーズバーガーもポテチもシーフードヌードルもすべてが位相のずれた食事であり、根本的なところでどれもこれも美味しいとは感じないのだということだった。
可哀想な人種ですことよ!
衣玖は憐憫の涙に咽ぶ。
哀れなる哉、地上の宝石箱のような美食を尊しとせず、天人どもは夢の跡。シーフードヌードルの美味しさが分かる自分は何と幸せなんだろうと衣玖は思い、
――同時に、そういった天人の平均的な感覚に馴染めていない天子はやっぱり、天人失格なのだろうと実感するのだった。
彼女が天界に導かれた経緯を、衣玖は知らない。生粋の天界人ではないという情報だけ耳に入れていたが、そこから先の仔細については、誰に聞くこともできず、謎のままである。
その辺は非常に複雑な生い立ちがあると、風の噂で聞いていたのだ。
だから彼女と出会ってからずっと、その話題について触れないでいる。
ずっと、衣玖は黙っている。
興味もないことである。
今、天子と会話に興じるこの一幕をとっても、それは同じだった。
衣玖自身、必要以上に他人と交誼を引き結ぶことに積極的ではない。他人を不快にさせるのは気が咎めるが、どれだけ明るい交わりを持とうという気骨も無い。人が集えば場の情勢を伺い、双方の毒にも薬にもならぬ振舞いをして、空気となって過ごす――それが永江衣玖の考える、竜宮ノ使ヒとしての生き方だった。
衣玖の種族は、基本的に誰かと触れ合う機会が極端に少ない。
衣玖自身に自覚はないものの、そういった境遇こそが、衣玖の人格に少なからず影響していた。天人が本質的に友達嫌いなのと同じように、それに類するだけの性質を衣玖自身も兼ね備えている。理由の差はあれど、天人の生き方を無下に笑い飛ばすことなど出来ない。
ひとまず、衣玖は他人に気分を害される機会はほとんど無かった。根本的に人逢いの機に恵まれないこともあるが、そのささやかな返礼として、誰かを傷つける振る舞いだけも丁寧に避けている。それが、衣玖の生き方だった。
天子に過去のことを問わないのは、そちら方面の理由もある。
しかるに衣玖がすべきこととは、したがって、根も葉もないことを根掘り葉掘りする詮索ではなかった。
触れるべきでないことに触れず、今はまだ表面だけを取り繕いながら、
「……こちらが幻想郷の指定農家が育てた和牛の霜降り。こちらが取れたての有機野菜、あと魚とかきのことか色々」
「おー……おおー!」
差し当たって地上の美味いものでも食べて元気出せー! あ、いや食べるな調理しろー! と、天子に文字通り「地取れ」の食材を突き付けることであった。
哨戒天狗達の有能さと懐の深さには深謝したい。
“ある”交換条件の下に集めた食材は、紛れもない絢爛豪華な逸品揃いである。調理のし甲斐としては申し分無い。
衣玖にできることはつまり、彼女の望んだとおりの準備をすることである。望んだとおりに料理会が成功するよう、下地を整えてあげることなのだった。
「わー、はー。……やーやー」
衣玖が自身の羽衣ですくうようにして持ってきた多くの食材に、天子が炯々爛々たる眼光を宿す。
その光を横目にしつつ、食材は衣玖の衣の間より次々にごろごろ転がり落ちる。こういう時にこの衣は非常に便利で、食の宝石箱もかくやと思しき絢爛豪華な食材が一つまたひとつと俎板に転がり出るたびに衣玖の羽衣は一枚またいちまいとはだけられてゆき、七重八重に折り重なっていた羽衣が食材と同じ数だけひらひらゆらゆら草の上にほどけてゆき、次第にほっそりとした身体の稜線が――
「……っと。これで全部ですね」
「あれ? 裸まで行くんじゃないの」
「なんでですか」
興味津々の緋色の瞳は一心不乱、緑黄色の栄養豊かなる枝葉の艶やかなるに加えて取り分け真冬の淡雪を思わせる和牛の霜降り、つまり瑞々しい鮮やかなビーフ、そして――衣服の奥に秘められた、永江衣玖自身のマシュマロのお肌に捕えられて片時も離れない。
彼女は肉の虜である。
まあいやらしい。
「……本当に、食材を見るのさえ久しぶりなんですね」
天子の顔に貼り付いた満面の喜色に、衣玖が思わず念を押す。
「そうなのよー。いやもうねえ、天界に来ちゃったら最後、こんな人間に人気なものなんてお目にかかれなかったしー」
「はあ」
すごーい、うわーすごいすごーい、と無尽蔵のような感激で子どものように無邪気にはしゃぐ天人様の威厳の無さは尋常でなかった。久しく桃しかお目に掛かっていなかったのだとしたら、脂の乗った和牛などは正しく宝石にも等しいのだろう。
雷様はほとほと呆れつつふと、不安が背中によぎるのを感じた。
一点の曇りも感じない、非常に純粋な天子の感激、
「本当に久しぶりー!」
等と重ね重ね叫び回る天子の言葉があまりにも曇りの無さ過ぎたものだから、衣玖は思わず訝しんだ。
そして尋ねた。
常識的に考えれば、こうだ。
長年天界に暮らし、食材を眼にする機会すら無かったというこの比那名居天子。
食べ物は桃だけだったというこの途方もない世界に長い間起居し続けていた彼女はつまり、
「あの――」
「?」
「失礼ですけど――見るのさえ久しぶりな食べ物を、本当にお料理なんてできるんですか?」
「……」
「……」
無言ですか。
「……ウフフ」
「……」
……笑顔、ですか。
「……むーん」
「……」
…………。
「えへへ」
「えへへ、じゃありませんよ。何ですか大見得だけ切っておいて」
「お料理は九割は気合いで出来てるんだってお師匠様が」
巫山戯た天人の少女が言葉を終いまで言い切る前に、衣玖がじゃがいもをぶん投げた。教えられたことを鵜呑みにして大人になってしまうのは、現代教育の弊害ではないだろうか。
衣玖は眉間に皺を寄せる。天人とは一体どれだけお花畑に棲んでいるというのか。肉じゃがに気合いでコクとまろやかさが出せれば、誰も苦労はしないのですよ。
地上に這い蹲る、愚か人間共をナメくさるにも程があります。
「……うーん」
唸り声混じりに天子はじゃがいも直撃のおでこを抑え、
「……う~ん」
衣玖は何も直撃していない頭を抱え、設えられた本日の舞台を二人横目で睥睨していた。
舞台だけは、並外れて豪華である。
天界の恒常的な晴天の下、雄大な雲海のほとりに設置されたキッチンルームは、ひたすら機能性だけを追求されたかのようにシンプルだった。幻想郷の森に居を構える萬屋の倉庫になぜか放置されていたシンク一式が、天界の眩しい太陽を受けて嬉しそうに煌めいている。華美さを省かれ、無駄な部分はまるで無い。同様に調達してきた適当な大きさの板、それをただ磨き上げて俎板。清冽な天界の小川の清水が手桶一杯。柔らかな布巾。笊、皿、お玉に菜箸、塩胡椒。
そこに、衣玖が今しがた並べ立てた七色の食材が躍っている。
「これだけ用意させておいて、料理のイロハも知りませんなんて言ったら怒りますよ?」
「イロハは知らないけど、さしすせそは知ってる」
「どうぞ」
「さとう……しお……酢……せう油…………そ……そ……」
「……英語ですよ」
「ソドム!」
残念、はずれでした。
下界の人間に一体どんな料理を食べさせるつもりですか貴方は。
「……まあ、好きにやってみられたらいいじゃないですか」
これ以上付き合うよりは、いっそ全てを任せてしまった方が良い。
衣玖はそんな気がした。放任主義という訳ではないが、ここで手を離しておけば、然るべき過程の上に然るべき結果が出るだろう。
少し突き放した考えのもとに、衣玖はそっぽを向く。
アルェー、と天子の気の抜けた声が、視界の左に外れた方から聞こえた。
「……そんじゃ、勝手にやらせてもらうね」
ややあって、そんな言葉が天子の口から聞かれた。
――衣玖はきゅん、と気に病む。同時に、一抹の寂しさが胸の中に揺らめいた。
元よりこれは天子の計画なのだ、と自分に言い聞かせるものの、冷淡な拒絶の罪悪感は、生来人の良い衣玖の胸を呵責に苛んで離さなかった。窮地に陥ったなら多少の助太刀も考えていたとはいえ、元々本気で手出しをするつもりはなかったというのにである。
それはあくまで、比那名居天子というひとりの迷惑少女による、博麗神社および幻想郷に対しての、贖罪意思を込めた宴席という事業計画だった筈だ。
それでも、ちょっと寂しかった。
事業趣旨から考えて当然の判断をしたまでなのに、大きな後ろめたさが沸き立ってくる。
一人っきりぽつねんと、手持ち無沙汰で息を吐く。
「それではまずゴマ和えから~」
「……またエラいものから作りますねえ」
活動的な天子がちょっとだけ羨ましくなりつつ、衣玖は自信作のキッチンスペースを見た。青い髪をポニーテールに織りまとめた天子は実に嬉しそうに立っており、食材を吟味するその小柄な身体に真っ白な割烹着を着ていた。
割烹着まで準備した憶えは無いぞ。
要するに、あれは自前ということらしい。料理もしない人が何で割烹着持ってるんだろうとか、何も持ってこなかったくせにどうしてそんなものだけ準備してるんだとか、そもそも天界に何で割烹着なんてモノがあるのかとか、色々懐疑は尽きない。天人に自分たちの常識が通用しないことを、改めて衣玖は悟る。
悟った面白味は、苦笑いと溜息に化けた。
天子自身が楽しそうなので、ひとまず衣玖も、胸の淀みを飲み下す。
とりあえず手は出さずに、天子の調理作業を観察する体勢に入った。
「ホント豪華な食材があるわね~」
「そりゃあ――それなりに見繕って調達してきましたから」
天子に褒められ、衣玖は内心胸を張る。この準備の出来映えは、称賛されて良いレベルである。間違いない。
食材の質に気を遣ったというのは本当だし、のみならず、種類もそれなりに取り揃えた。食事会というからには、単色のメニューで乗り切ることは出来ない。やるべきでもない。また、献立もろくに決めていなかった状況にあっては、満遍なく食材を調達する必要性に迫られたのも事実であった。
がさごそ、と衣玖の調達してきた食材からゴマさんをチョイスした天子はついでに大きな擂鉢を召使いに順えて、そそくさと準備に取りかかり始めていた。
暇を両手両足で持て余しながら衣玖が、それをぼんやりと眺めている。
小脇に擂鉢を抱えておたおたと走り回る天子が、なんか可愛いなー、と思っていた。
今日はぽかぽか温かいなー、と思っていた。
割烹着姿の天人というのは、たぶん何百年に一度くらいしか見られないレアな光景だろうなー、等々等々思っていた。
衣玖が苦労して調達してきた良品のゴマを惜しげもなく擂鉢の中に注ぎ込み、即席キッチンの機能美テーブルの上にどかんと置いてじっと見つめる天子、
「……」
見つめる天子。
それを見つめる衣玖。
更に、見つめる天子。
「……?」
「……。」
じーっと、じーっと見つめる天子、
見つめる天
「…………あの。擂粉木が無いと、いつまで経ってもゴマはゴマのままですが」
たまりかねて、そこで衣玖が口を挟んだ。
天子の動作は、完全に停止していた。
擂鉢の準備までは割と闊達に手際よく進めて見せた天子だったが、どういうわけかテーブルに鉢を置いてしまい、そこから動く様子が無くなった。かれこれ二分近く、擂鉢に入ったゴマさん達と睨めっこの態である。
ゴマの擂鉢は知っていても、ゴマの擂り方を知らないか。
それが衣玖の、当初の推察である。嗚呼そうか天人というのは、ゴマの擂り方も知らないんだ。世間知らず。だから、変な感じで知識をつまみ食いしたりしてたのだ。その結果、こんな変なところで壁に当たってしまったというわけだこの可愛い奴め。
そう思い至った衣玖は、やれやれしぶしぶと擂粉木を御自ら手渡そうとして、
「――大丈夫だから、待って」
天子の真剣な声に、足を止められた。
「大丈夫……って、何ですか」
「大丈夫なのよ」
「じゃあ『待って』って何ですか。待っててもゴマは」
「待ってったら待って、」
ゆったりとした整息、
「――今、霊力を溜めてるんだから!」
そして、天子が声を張った。
気圧された衣玖、踏み出しかけた足が思わず止まる。差し出しかけた擂粉木も、背中の後ろに引っ込めた。
れいりょく、と、口の中だけでその単語を反芻した。
霊力。
なるほど。
霊力を溜めているのだ。比那名居天子は霊力を蓄積している。衣玖は大変納得した。
それならば仕方ないだろう。霊力をフルゲージにするとなれば、それ相応の時間を要すのは当然である。多少長い時間が掛かっても、じっくりと溜めてから放った方が料理は美味しく仕上がるだろう。料理の基本中の基本である。
急いては事をし損じる、霊力を込めて料理はきっと旨くなる。
って。
……なんでやねん。
「えい」
ぽこ。と音がして、天子の腕からタケノコが出てきた。
灰色のタケノコだった。
――衣玖の眼には、少なくともその瞬間、そういう光景に映った。
タケノコはとても固そうだった。まるで岩のようではないか。
タケノコはくるくる回転していた。まるでドリルのようではないか。
衣玖がみゅーっと眺めていると、くるくる回転していたタケノコはそのうちぐるぐる回転するようになった。
ほへー、と感心していると、ぎゅいんぎゅいんと回転するようになった。
うひょー、と衣玖が興奮しているとタケノコは唸りと煙を上げながらぶおおんぶおおんと音速回転、永江衣玖、その鈍色の切っ先に彼女は男のロマンを感じていた。
誰もが憧れるその切っ先、
「で、何ですかこれ」
「B射撃」
「……」
「多段ヒットのB射撃、略してドリル岩」
天子はにこやかに微笑んで、衣玖の目の前にぐいーっとドリル岩を突き出してきた。そんなに近づけなくても見えてるんだけど、と衣玖は思った。
てゆうか当たる。当たるから離して。当たっちゃったら800くらい喰らうから離して。
今のぜんぜん略してないね。
(そういえば、こんなのを使ってましたねえ……)
衣玖の脳裡に、十日ばかり前の光景が蘇ってきた。
それは衣玖が自ら天人である少女に刃を向け、あろうことか、お灸まで据えてしまった痛快な一件のことである。
あれは自分なりに、分限を越えた大立ち回りだったと自覚している。何しろ現役の天人に刃向かったのである。大それた事をしたなあと後々膝が震えたし、またそれにうっかり勝ってしまったので尚更印象に強い。
相手の天子は曲がりなりにも天界人で、しかるに圧倒的な力を持っていたから、衣玖は随分と苦戦した。一歩間違えれば、お灸を据えられていたのは自分だったに違いない。
特にこの、通常射撃のドリル岩が難敵であった。相殺にも強いし多段ヒットだし、一方ならず手を焼いた記憶がある。
これがそうか、あのときの天敵の正体か――と衣玖の感心する傍らに天子はと言えば、やおらその岩を擂鉢の方に向けて戦闘態勢、
「えいやあ!」
衣玖が何かを訝しむ暇もなかった。
天子が気の抜けたようなつぶやき声を上げたのを合図にして、岩は面倒くさげに腰を持ち上げる。
そして眠たげに回転しながら彼は、ゴマの盛られた擂鉢の中へと切なげに、その身を投げた。
ややあって、
「ごりごりごり」
と、つまらなそうな硬質の音が衣玖の耳に届いた。
居たたまれないような雰囲気でごりごりごり、ごりごりごり、
「……」
「えい」
ごりごりごりごりごりごり。
「…………」
「えい」
ごりごりごりごりごりごり。
「……………………」
「えいえいえいえいえい」
ごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりご
「ちょっと待ってください」
どの辺で突っ込もうかと延々考えていた衣玖だったが、一行に進展する気配の無い現況に嫌気が差して遂に待ったを出した。
「何やってるんですか」
「ゴマを摺ってる意外にどう見えるの?」
「そういう問題ではなくて」
「だって……お手軽だし」
「お手軽かもしれませんが、しかし」
「しかし?」
「……えーと……擂鉢が傷みますね」
「え? そういう問題なの?」
「……まあ」
それだけじゃないけど。
「あなたって人は……もう……」
衣玖は呆れて、ゴマが大量に惨殺された擂鉢の中を覗き込んだ。
原形を留めぬほど破砕されたゴマは、一粒残らず粉末になっていた。そして覗き込んだ瞬間に、濃厚すぎるほど芳醇なゴマの香りが衣玖の鼻腔をグングニルの様に貫いていった。
良い匂い。
それはもう、ものすごく。
上物のゴマを目一杯まで摺ったらこんなに良い香りがするんだー、と衣玖は感心した。感心しつつその濃密な香りの秘訣はよく見ると、目一杯摺りすぎて摩擦熱の煙が上がる寸前まで加熱していたことであった。
つまり陶器製の鉢は、とても熱かった。
重い、焼けた石みたいにねっとりとした熱さが掌に伝わった。
掌が伝えた温度信号を衣玖は脊椎内で処理し、放り出すように手を離した。
哀れ見捨てられた鉢はごどん、とテーブルの上に着弾して辛うじて割れず、また何とかひっくり返ったりもしなかった。天子が横で「きゃっ」と、可愛い声を上げた。
「こぼれたらどうするのよー!」
「あ――失礼しました」
「……んもー」
危ないところだった。
鉢が割れたら況や惨事だし、またそもそもあのタイミングで天子のドリル攻撃を衣玖の良心が止めていなければ、擂りゴマがどういうわけか焙煎ゴマになるか、あるいは擂鉢がハコ眼鏡になるかのどっちかだっただろう。
衣玖は瞳を閉じて、人差し指で眉間を抑える。
とりあえず、曲がりなりにも擂りゴマにはなっている。それならば、深く追及しない方が良いと思った。
幾らか腑に落ちないところもあるが、とりあえず
「まあ……及第点と言えば及第点かもしれません」
だいぶボーダーを引き下げて、衣玖は悩ましげに呟くのである。
天子は笑った。
「よーし。じゃあ次は漬け物」
「――ってゴマ摺っただけで終わりかい!?」
悠然たる天界に釣り合わない素っ頓狂な絶叫が、蒼い蒼い蒼天の彼方まで届いた。
「ごめんこっから先は、衣玖も手伝ってくれないかな?」
「こっから先、って……」
ゴマ和え、と天子は言った。而るにレシピは野菜の数々を茹でて、ゴマで和えること。
野菜のゴマ和えの、「ゴマ」しか出来ていませんけど。
「野菜」と「和え」の部分はノータッチのまま投げっぱなしとか、
「それで満足するんですか貴方は」
「ええ。私は漬け物の仕込みに回るから」
煌めく天子の笑顔が眩しいかった。そこにあるのは残酷なまでに、純真な本心だけである。
衣玖の脳裡に偏頭痛が去来した。
本当にこれで良いのだという。
……地上人に贖罪の意を示す、料理会ではなかったのか。
そういう大切な誠意の場面で「しあげはおかあさ~ん」みたいな、こういう卑劣な手段が許されて良いものか。
衣玖は眉を八の字にして、うんうんと呻吟していた。
悔しいような虚しいような、居たたまれないような不憫なような、複雑な胸中が上手い言葉を紡げないでいる。
「ねぇねえ~」
そオて、そんな人の悩みもまったくお構いなしに、頭痛の原因が朗らかに語りかけてくる。
「漬け物は~、コレで良いわね!」
明るい声の方側へ、衣玖は淀んだ瞳を向けた。
ぶんぶん、と振り回される両手にまるで勇ましく掲げられている緋想の剣の如きは剣に非ず、剣状の野菜は大根、胡瓜、聖護院蕪におたんこ茄子。
本当に漬け物の方へ行ってしまうらしい。
衣玖が無言で頷くと、はじめてお料理を手伝う子供のような無邪気さでもって、包丁を手にする天子の腕まくりが見えた。
衣玖は苦笑いを一つ足許に落っことし、ここに至ってやっとこさ、しずしずと準備に取りかかる。天子に命じられたとおりのゴマ和えを完成させるべく、だった。
渋々重い腰を上げる。酢を絡めたゴマ和えを目指して白菜とか人参とかを手にとり、あとはひたすら包丁包丁である。大概お人好しだなあ、と、自分で想った。
空気を読めすぎるのも考え物である。よく考えると料理するというのにひらひらふわふわ、すごく邪魔な服装をしていることに気付いたので天子同様、自分も腕まくりをしてから改めて包丁。
「……」
「……」
「……」
「……」
とんとん、と。
互いが作業に没頭したことで、会話は暫し已んだ。晴れ渡る空の下、雲上の澄み切った空気が急速に静寂へと包まれる。
天界とは実はこんなにも静かだったのかと、初めて衣玖は気がついた。心地よい静けさの天界の片隅にとんとんとん、とんとんとん、と、心地よい俎板の音が二組響いていた。
途絶えた会話で出来た音の空白の中に、軽やかな俎板の音が割り込んできたような具合である。その音は、天界にあってごく自然に馴染んでいるように思われた。適度に硬質な音が、相対的に周囲の静けさを唄っていた。まるで練習ずくのように端正に整った音律が、喧噪に火照っていた衣玖の心を、そっと穏やかなものにしてゆく。包丁を振るう手が、俄然気持ち良くなってきた。天子も少なからず、きっと同じ気持ちを感じているだろうと思った。
衣玖の菜切り包丁、天子の文化包丁、ともに人郷で名の知れた、手練れの鍛冶による珠玉の逸品である。衣玖が哀願懇願し、竜宮ノ使ヒの仲間が秘蔵していたところを直々に借り受けてきた業物だった。おかげさまで音同様、切れ味もまた頗る宜しい。
衣玖自身、それは久々のお料理だった。料理とは得てして、野菜なんかを包丁で切っているこの瞬間が一番楽しいし、いかにも料理をしているのだという実感が湧く。リズムが生まれて気分は軽快、スキップをするように心が波に乗れるというものである。思わず意味もない笑顔を零しそうになりながら衣玖もまた、久々のお料理を楽しんでいた。ついつい気分良く切っていると思わず白菜を必要量の倍くらい切ってしまったりして危なっかしいったらありゃしないがひょいひょいと、根菜葉菜その他さまざまを切り揃えて一仕上げし、衣玖は首の骨をばきぼきべきっと鳴らして菜切り包丁を俎板に置く。
天子の方を顧みる。
待っていたかのように、こちらを見ていた天子と眼があった。
「私も完成したよ!」
天子の口調は、心なしか誇らしげだった。その口調と曇り無きその笑顔が衣玖に安堵をもたらすが、二秒と持たずすぐその後に、その三倍程度の不安感に化けた。
非常に失礼な話である。が、数分前に前科があるので仕方がない。
つまりこうだ。
――本当に“ちゃんと”、出来ているのか。
「ちょっと見せてご覧なさい」
心配して歩み寄った永江衣玖。
……だったがしかし、天子の眼前の俎上には、衣玖が想像したのとちょっと違う光景が繰り広げられていた。
「……あ……あれ?」
衣玖がまごつき、天子がえっへん胸を張る。
天子の前に展開されていたのは、哀れ有機野菜の無惨なる残骸――――ではなくて、割と小綺麗に切り揃えられた瑞々しい根菜の短冊達だった。
小ざっぱりと切り揃えられた葉野菜。瑞々しい根菜はきちんと皮も残さず落としてある。
手の行き届いた、丁寧な下拵え。
「はー……」
「うまいもんでしょ」
肩透かしを引かれてしまって、衣玖は出す言葉に困った。天子はむーん、と胸を張る。衣玖はうーん、と唸りを零す。
褒めそやすにはちょいっと仕上がりの大きさにムラがあるものの、文句の付け所はそれくらいである。それなりに見た目は整っている。先ほどの愚挙から期待数値を下げていたこともあるが、純粋に判断しても必要充分以上だろう。
衣玖はあらためて瞠目し、天子のまるで教科書のようなドヤ顔を目の当たりにするのだった。
天人というのはやはり、ベーススペックが高くて先読みが出来ない。何をやらせても上手くやるか、或いは思いっきりボケるかのどちらかである。
悉く行動の読めない天人の少女に、また衣玖の頭の中、偏頭痛がぶり返してきた。
「ま……まあ、上手く行ったならそれに越したことはありませんね。じゃあ、あとは浅漬けにするだけで」
「うん」
「ええ、それを伺ってないんですが、一体どうするおつもりなんですか。まさかとは想いますが、漬ける行程は私任せとかではありませんよね」
「……あら」
衣玖の言葉は、無論、さっきのゴマ和えの阿呆な展開を念頭に置いたものである。
天子は、目を丸くした。
そんなことを言われたのがさも心外、といった表情で、それからふふん、と目を細め、自慢げに微笑んで見せた。
「さすがにねえ、浅漬けの作り方くらいは心得てましてよ」
と、来た。
「はあ」
天子の自信に溢れた気勢に衣玖はふうんと頷き、一歩引いてキッチンスペースを天子さんにお譲りした。
心得てます、というなら話は早い。
私は何も助けませんよ、と、そういう合図である。天子も一つ、その衣玖の意思表明に頷いて見せた。
そこからの動きは速かった。本当に衣玖の意思を察してくれたかどうかはともかく、下拵えから始まる立ち振る舞いに、無駄や迷いはなかった。御石のボウルにたちまち酢と塩をぶちまけると、手際よくほぼ基本通りの床を作った。ついでに衣玖が切った野菜と自らの切った野菜とを合流させて、御丁寧にも粗塩で揉んで見せる。
衣玖は、言葉にこそ出さなかったが、感心していた。
手際は良かったし、何より基本に忠実である。つい今し方まで料理のりの字も知らなかったような彼女と、同一人物とはにわかに信じがたい。派手な無茶を演じて見せた五分後には、味に大ハズレの起こらない手本通りの調理を、ここまで徹底できている。
衣玖も会食に呼ばれるのは確実だろうが、このままいけば多少でも安心できようものである。
しかし、当然話はここからだ。
「さてさて天子さん、材料は完成しましたが、仕上げまできちんとしてくださいね?」
「む」
「さっきみたいに、最後は私任せじゃいけませんよ。漬け物は漬けてこそ、料理する方のセンスが見えるんですから」
多少、意地の悪い言い回しを選んだ。
漬け方が鍵を握る。
そういう念を押しておけば、天子に僅かでもプライドが残っている限り、この料理会に供与するにおいて自分でやらざるを得なくなるだろうと思ったからである。
衣玖は別に、嘘をついているわけではない。漬け物は漬け方が決め手という、それは紛れもない真実である。「漬け物を天子が作る」というなら、最後の過程は、天子が直截に手を下してこそなのだ。
中途半端に衣玖が協力姿勢を見せていては、いざまたお鉢を回された時に言い逃れが利かなくなる。別に自分の腕の方が怪しいという訳ではないが、やはり、そこで自分が手を貸すのは何か違うと思った。
「……よし」
天子の決意の声が聞こえた。天子は、またしても機敏に動いた。
辣腕料理人の如く、まるで不安など感じさせないてきぱォとした仕草でもって磨き上げられた石の器に、先の野菜たちと、漬け床を一緒に盛りつけた。
そして、先程まで使っていた俎板をどういうわけかその上にぼん、と置いた。
それを衣玖はじっと見ていた。天子もじっと見ていた。
それはもう、じーっと見ていた。
衣玖の胸に先ほどの不安が過ぎった。
不安は間髪を入れず「予想」に転じ、間もなく確信に転じた。
霊力を溜めている。
溜めているということは、どういうことか。
……絶対アレだ。
「待って! お願いだから待」
「……天地開闢!!!」
無念、間に合わなかった。
衣玖が手を差し伸ばそうとしたその瞬間、天子は何事かを喚くように唱えた。
躊躇い無く。
喜色満面で。
衣玖が考えるに恐らくはそれが技の名前だったのだろうけれども、金切り声ははっきりと聞き取れなかった。聞き取れなかったがとにかくその一声に天が黒く染まった。文字通り、快晴だった頭上が一秒で青さを喪った。
曇ることのないはずの天界の空が一面影に覆われて衣玖は立ちつくし、それが大きな岩のお腹の部分であることにちょっとしてから気が付いた。
気が付いてすごくびっくりした。
「天地開闢! プレ~ぇ~ス~~!!」
大岩に乗っかった天子が、羽毛のような軽やかさと豪放磊落さでもって地面に向かい急降下してくる。岩と共に。
身構える暇も無い。逃げる暇などもっと無かった。
――天界すべてを揺るがすような、激甚なる爆音と振動と衝撃が発生した。
完全無欠の直下型地震である。文句なしの一撃に、空の上で十年百年のほほほほんと閑居してきた衣玖が真っ当に対処できようはずもなかった。足を着けている地面が揺れる、という事態を体験したことの無かった衣玖はほぼまったく抵抗できず、思いっきり足を取られてすっ転んで鼻を強打した。空前の直下型は衣玖の真横数十センチを震央として、哀れ竜宮ノ使ヒを一匹仕留められたハエのように地面に縫い止める。寄せては返す細波のように去来する振動は愛の抱擁となり、ハエは二度三度と猛る地面に往復ビンタをされる。
一体どれだけの時間の阿鼻叫喚であったか。
その揺れがようやく収まる頃になって、岩の上から天子が軽やかに降りてきた。
「どう? 野菜ちゃんと漬かった?」
「……」
「ねぇ」
「……見てるわけ無いでしょ!!」
赤くなった鼻をさすりながら、衣玖はどうにか立ち上がる。立ち上がるのが非常に怖くなっていた。安定した地面氏に対する信頼感は失われていた。信頼というのは、些細なことで砂の城のように崩れ落ちるものなのである。
もう誰も信じられなくなった絶望の地上で、衣玖は生まれたての子鹿のようにぷるぷると立ち上がった。二本の足で立つことがすごく怖くなっていた。地面は震えていないのに、膝が震えていた。
衣玖の涙目に霞む視界の向こう側、漬け物のセットはといえば多分今、その大きな岩の下にあるのだろう。
漬け物などもう忘れた。
今となっては、どのみちあの巨岩の下など確かめようがない。
「実は人まねなんだけどねー。人間達もみんな漬け物を漬ける時は、こうしてたという話よ」
誇らしげに屹立する巨岩を見上げながら、天子は嬉しげに頬を染めて両頬に掌を添えた。
計算通り、といったところか。
なるほど調理行程としては、恐らく間違っていない。
「まあ……もう、何でも良いです」
ふにゅう、と赤い鼻に涙目をしつこくこすりながら、衣玖はもうどうにでもなーれと、こくこく頷いた。
確かに間違ってはいないだろう。きっと正しいはずだ。ただ漬け物石が本当にこんなに巨大である必要があるのかどうかだけ、どうしても胸に引っかかったけどそんなことももうどうでも良い。
天人はハイスペックなのだ。
常人の常識は通用しない。
「――もうとっとと、最後のメニューに行きませんか。“あれ”を使って、メインディッシュを作るのでしょう」
遅々として牛歩のような調理タイムに次第に苛立ちは募り、衣玖は突っ慳貪に進展を促す。
巨岩に空を浸食されてすっかり日陰になってしまったキッチンスペースで、衣玖は先を急ぐ。顎を横に振り、視線でそれを示す。
「“あれ”ですよ」
「うん」
天子も衣玖に従うように、それに目を向けた。
二人の美少女に見つめられ、“あれ”は、元々赤い頬をさらに赤面させてつやつや輝いた。
食肉界の優男。燃えるような情熱の赤に、淡いロゼ色は霜降りの誘惑。
二文字で言えば牛肉である。
衣玖が下界に降りて調達してきた、とってもおいしい牛さんだった。
「本当にでも、よくこんな上物が調達できたわね。こんなもの、人間やってた頃だって見たこと無いわよ」
「私だって初めてです。……苦労しましたよ」
上質の食材を眼前にして、天子も思わず畏まっていた。そうさせるだけの威光が見て取れる。究極的に言えば食肉でしかないそれは、まるで俗物に似つかわしくない気品溢れる佇まいをしており、ぞんざいな調理を丁重に拒絶するような居丈高なオーラを放っていた。
ありがとう、と天子が呟く。
衣玖は、無言で頷く。
ここまですったもんだの調理会だが、一発逆転の可能性を充分に秘めた最高の食材が最後に待ちかまえているのだ。
腕に撚りをかけて、本日のメインディッシュと行きたい。
「では最後のメニューです。最高級品、国産衣玖牛の」
「衣玖牛って名前じゃありません」
「牛みたいな胸の衣玖さんの」
「要らんことは言わなくて良いですから」
「というわけで最後は、この美味しそうな幻想郷牛肉をレアステーキで締めてみたいと思います。です!」
ぽんぽんと手を叩きながら、天子ははしゃいでいた。
悪くない選択だ、と衣玖は思う。
良くも悪くも上質な食材なので、調理法に小手先の小細工が必要ないのは僥倖である。天子が無理な調理法に挑まずとも、とりあえず焼いておけば味を損なうことはないだろう。焼き加減が決め手とはなるが、材料が材料だけに、多少の失敗は覆い隠してくれるに違いない。
張り切って肉の塊を持ち上げる天子に、衣玖は、今度こそ全ての行程を一任することを決心する。成功の公算が大きくなったことで、天子にすべての下駄を預けるだけの余裕がようやく生まれた。開催趣旨に照らし、ようやく本来あるべき姿に戻ったのである。
手近な岩に腰掛けて、成り行きを眺める姿勢に入った。
――ひとつだけ、今し方耳にした、ちょっと気になる言葉を抱えて。
(「人間やってた頃だって」)
天子は、確かにそう口にした。
言葉の正確な意味は判らない。ただ、何かしらの経緯があって天界の住人となった事は確かなようであもある。死者の一人として天界に導かれたと考えると、俗世への未練を残しているのは極めて不自然なことだった。
仔細はともかく、彼女の言葉を言葉通りに信じれば、辻褄の合うことが多いのは事実である。
天人として決定的に違和感のある性格、価値観、本来究極の楽園として考えられている天界を疎んじるような日頃の物言い。
何も起きないことを、退屈と言い切る思考。
その思考は、極端なまでに“人間的”と言えた。
彼女の来歴に何かの“秘密”があり、それに起因しているのだとしたら得心が行く。
人間が天の世界に移り住んだがために、人間としての境遇を引きずったまま、ただ住まう場所だけが雲を飛び越えたとしたら。
「……総領娘さま」
「はいな」
「ちょっと出かけてきます」
腰を上げて、衣玖はお尻をぽんぽん払った。
――今しがたまで続けていた思考が、ひどく愚かしいものに思えたからだ。
「このまま行けば、宴会に来られる人数分の食事を用意することが出来ません。郷に降りて、適当に魚でも捕ってきます」
「ういさっさー」
気立ての良さそうな笑顔でひらひら手を振る天子に背を向けて、衣玖は、すぐそこに広がる雲海のほとりへと歩みを進め始めた。
蟠る気持ちは、彼女に背を向けて隠した。
(……私が気にすべき事じゃない)
そう言い聞かせて、忘れようとした。
脳裡にしつこく思考の鎖を引き結んでくるのを、必死でふりほどこうとする。
興味も無いことだと、自分でも感じていたことである。忘却は容易な筈だった。
にも、関わらず。
思考の歯車を、衣玖は止めることが出来なかった。悶々と一人葛藤を抱えながら歩き、雲海の水面はどんどん近づいてきていた。
理由が何も分からなかった。天子の過去になど首を突っ込むべきでないと自制し、そもそも興味もなく、慎ましやかな態度を遂行できていたはずの自分が――どうして、一体、こんなにも変わってしまったのか。
天子の生い立ちには、余計な詮索をしないと決めた筈だった。
それがいつしか自分は、下衆めいて、彼女の過去を曝こうとしている。
自分のことを恐らくは信頼してくれている天子に対して、それはある種の裏切りとも思われた。彼女から自分に向かい、僅かでも親愛の情があるというなら、衣玖自身の信念などよりも何より、彼女のその純潔な思いを蹂躙する行為だと思う。
止め処なく、探偵の真似事のように推察を加えてしまう自分が、とても恥ずかしい気がした。
思考をふりほどこうと、衣玖は激しく首を横に振る。
(……)
疑問に答えを見つけられぬまま、衣玖は雲海の中へと飛び込んだ。
目指すのは遥か下界にある、幻想の地上である。
天子の気配が遠ざかり、慣れ親しんだ雲達の光景が視界を覆い尽くしてゆく内。
――あまりにも悔しい安堵という感覚が、飛翔する衣玖の胸を包み込んでいった。
(続)
「はあ」
今その台詞を幻想郷にてぬけぬけと喋った日には恐らく暴動が起きるだろう。衣玖は良識の天秤に彼女の言動を掛け、そして胸の内で舌を出した。
曰く比那名居の総領娘が、大地震で博麗神社を灰燼に帰しめた。ばーか。挙げ句天界に地上人を攻め込ませ、宴会まで開かせて、ついでに神社の修復を御自ら請け負うこととなった。ばーかばーか。
神社をお釈迦にしたなんて話はまったく洒落にもならないね――とまあ、天界の人々に後世七代先まで口伝されるであろう醜態を歴史に刻んで、比那名居天子は今衣玖に対して訥々と愚痴っているのだった。
申し訳なかった、と来た。
よもや本心でもあるまい。
罪悪感などは母体内にきれいさっぱり置き忘れたであろう彼女が、
「――ここは一つ、神社の竣工式の二次会として、天界仕込みのお料理でも振る舞おうかと」
「はあはあ」
そんな殊勝な真似などするはずもない。
衣玖はそう信じていた。
理屈はあとから粘土細工のようにくっつけることが出来るわけで、要するにこれも暇つぶしの一環なのだろうと竜宮仕込みの溜息ひとつ。帽子の鍔のすぐ下のあたりをぽりぽりと掻いて、青い青い空を衣玖は見上げた。
何故こんなことを相談されているかといえば、その地震の騒動以来何かと、この総領娘と対面する機会が募ったその結果である。特にはっきりとした交誼を結んだ覚えもないが、こうでもしなければ女友達にも不自由するくらい、彼女の棲まう天界は楽園すぎるのかもしれなかった。何かと絡んでくる天人崩れの少女と爾来、風を受ッる柳のように衣玖は付き合っている。別に苦痛ではないし、足手まといというわけでもない。衣玖自身日頃は忙しくも何ともないし、この天人がお喋りに不自由しているのなら、まあどうせかなり暇だし、ちょっとくらいは付き合ってあげるのが人間関係的に筋かなーと思った。それだけだった。
人なつこい印象の天子に人付き合いの一つもないという事実は、衣玖には当初少し不思議だった。曰く、この上ない極上最高級の幸せが用意されている天界にあっては、ベタベタとした他人との付き合いをしてまで楽しみを見出そうとする人は少ないらしい。一人でいれば充分幸せだからということで、そこで止まってしまうという。そういう意味でどうやら天界に棲まう天人という種族は本質的に友達嫌いであり、つまるところ、なべて皆孤高なようだった。
「どうでもいいですが、どんな料理を振る舞うのですか」
「選びに選び抜いた、天界の厳選食材よ」
ふうん、と衣玖は頷き、
「桃ですか」
「桃ね」
さすがに桃だけじゃ腹はふくれないだろう。ご大層に宴会へと招待されて、献立が桃の切り身に刺身にソテーに煮付け、ついでにテリーヌと味噌汁なんてことになったら本当に暴動に発展する。
天人は閑居して不善を為す。でもほんとにほんとに暇なのよー! と天子はいつも嘆かわしげに嘯いており、それまで身近にしてよく知らなかった天界という場所が、どうやら本当に何にも無いところなのだ――と、衣玖は近来実感しているのだった。
あくまで俗物としての感覚では、である。
この“俗物としての感覚”というのがつまり永江衣玖の感覚であり、そして更に言えばつまり、
「食材だけでよければ、私がいくらでも調達します」
「嬉しい御言葉を言ってくれるじゃない。桃ばっかじゃやっぱりー」
「心中お察ししますねぇ――甘い食べ物ばかりでは飽きますし、栄養が偏ります。お肌によろしくありません」
「でも桃だけに、お肌はしっかりピーチピチ! なんて」
「わー……」
――同時にこの天人失格の娘、比名那居天子の庶民派感覚でもあるのだった。
流石にそこまでエキセントリックな答えは求めておらず、呆けたような溜息が一つ足許に落っこちる。肩の力が抜けたがそれでもまあとりあえず、食料の調達に便宜を図る程度なら役に立ってあげよう――と、衣玖は思っていた。
それくらいには、この天子という少女に日々刻々、興味が湧いてきていた。
二人仲良く座っていた天界の岩から、衣玖だけがぴょいっと飛び降りる。
なんだかんだ言って、互いに境遇は似ていると思う。雲竜となりて雷鳴に揺蕩うばかりの我が身を振り返れば、天人を笑えない程度に自分もしっかり暇している。天人の身空に「暇」という形容を冠することの適切性はさておき、二人の間に小さく違う点を見繕うとすればそれは、そういった生き様を楽しんでいるかいないかである。天子が天人崩れと称されるなら、何の欲も不満も抱かず雲間に泳ぐ自分はきっと根っからの竜宮ノ使ヒ、ということになるのだろう。
衣玖はしれっとした顔で食材の手配に頭を悩ませ始めている。天子は暇そうに左手右手で緋想の剣をぶぅんぶんと振り回して、象でも呑み込めそうな大あくびをして奥歯まで見えて光ってってちょっとちょっとお待ち、その緋想の剣とやらは確か、本来門外不出の秘宝じゃありませんでしたっけか天子様?
それを持ち出したから、あんなに貴方は怒られて――
「――ぜんじんるいの、ひそーてーん!!」
ぼっかーん。
とまあ、衣玖のそんな疑問も、天子の憎めぬ明るさと仰角七十五度の極太バズーカが朗らかに掻き消してゆくのだった。
頭上を遥か非々々々想天くらいまで突き破る勢いの緋い大砲は、古より育まれし悠久の銀河系に対して確実に何らかの甚大な迷惑を与えつつ、閃光と爆音を置き土産に残して空中の想い出となった。
またそんな剣を持ち出したのがバレた日にゃ――と衣玖は怖い想像をしてみたが、この天子はひょっとすると、それすらも何ら痛痒に感じないんじゃないかと思い直す。
そういう性格である。件の騒動の顛末には衣玖の方が気を揉んでいたというのに、当人はまるでどこ吹く風で、今日も今日とて従前通り、天界の野原を悠然と闊歩し続けているのだ。衣玖の羨む胸が内、その蒼天を思わせる髪の色に似て彼女の心はいつどんな日も、空色快晴一点張りなのだ。
哨戒で山岳地帯をうろついている天狗達にでも食料を募ってみようか――等と算段しつつ天子の暢気なるを顧みてもう一つ嘆息、衣玖、感じるところはつまるところ、自分が纏っているひらひらの衣に似ているなーと思ったのである。
天衣は、無縫である。
■ ■
「うーん、懐かしい食材ばかりねぇ」
「……懐かしい……?」
天子の率直にして偽らざる感想に、衣玖もまた率直なリアクションでお返しする。
それにしても。
懐かしい、と来た。
「……天界に行ってしまってから、人間の食べ物には一切お目にかかれてなかったんですか?」
「うん。人間の食べ物は持たない、作らない、持ち込ませない」
「ふーん」
……いやいや、と天子は首を横に振って、
「てゆうか実際、天人の口に合わないのよ、人間の食事って」
「はあ」
そんなふうに簡潔に付け足して、衣玖に対する説明を締めくくった。
天界に於いて食べ物は桃、飲み物は酒。それだけなのだと巷間には伝えられていた。その二つだけあれば、天人とは食欲に充足を得られる人種なのだという。人間のグルメに対する憧憬は、まるで生前の煩悩のように、既に霞のごとく立ち消えているのだといい――例えば人間がカブトムシと一緒になって木の幹の樹液を嘗めたりしないのと同じで、天界人にとっては人間達が地表に這い蹲って目もなく愛好する刺身、銀シャリ、焼き魚に焼き肉、チーズバーガーもポテチもシーフードヌードルもすべてが位相のずれた食事であり、根本的なところでどれもこれも美味しいとは感じないのだということだった。
可哀想な人種ですことよ!
衣玖は憐憫の涙に咽ぶ。
哀れなる哉、地上の宝石箱のような美食を尊しとせず、天人どもは夢の跡。シーフードヌードルの美味しさが分かる自分は何と幸せなんだろうと衣玖は思い、
――同時に、そういった天人の平均的な感覚に馴染めていない天子はやっぱり、天人失格なのだろうと実感するのだった。
彼女が天界に導かれた経緯を、衣玖は知らない。生粋の天界人ではないという情報だけ耳に入れていたが、そこから先の仔細については、誰に聞くこともできず、謎のままである。
その辺は非常に複雑な生い立ちがあると、風の噂で聞いていたのだ。
だから彼女と出会ってからずっと、その話題について触れないでいる。
ずっと、衣玖は黙っている。
興味もないことである。
今、天子と会話に興じるこの一幕をとっても、それは同じだった。
衣玖自身、必要以上に他人と交誼を引き結ぶことに積極的ではない。他人を不快にさせるのは気が咎めるが、どれだけ明るい交わりを持とうという気骨も無い。人が集えば場の情勢を伺い、双方の毒にも薬にもならぬ振舞いをして、空気となって過ごす――それが永江衣玖の考える、竜宮ノ使ヒとしての生き方だった。
衣玖の種族は、基本的に誰かと触れ合う機会が極端に少ない。
衣玖自身に自覚はないものの、そういった境遇こそが、衣玖の人格に少なからず影響していた。天人が本質的に友達嫌いなのと同じように、それに類するだけの性質を衣玖自身も兼ね備えている。理由の差はあれど、天人の生き方を無下に笑い飛ばすことなど出来ない。
ひとまず、衣玖は他人に気分を害される機会はほとんど無かった。根本的に人逢いの機に恵まれないこともあるが、そのささやかな返礼として、誰かを傷つける振る舞いだけも丁寧に避けている。それが、衣玖の生き方だった。
天子に過去のことを問わないのは、そちら方面の理由もある。
しかるに衣玖がすべきこととは、したがって、根も葉もないことを根掘り葉掘りする詮索ではなかった。
触れるべきでないことに触れず、今はまだ表面だけを取り繕いながら、
「……こちらが幻想郷の指定農家が育てた和牛の霜降り。こちらが取れたての有機野菜、あと魚とかきのことか色々」
「おー……おおー!」
差し当たって地上の美味いものでも食べて元気出せー! あ、いや食べるな調理しろー! と、天子に文字通り「地取れ」の食材を突き付けることであった。
哨戒天狗達の有能さと懐の深さには深謝したい。
“ある”交換条件の下に集めた食材は、紛れもない絢爛豪華な逸品揃いである。調理のし甲斐としては申し分無い。
衣玖にできることはつまり、彼女の望んだとおりの準備をすることである。望んだとおりに料理会が成功するよう、下地を整えてあげることなのだった。
「わー、はー。……やーやー」
衣玖が自身の羽衣ですくうようにして持ってきた多くの食材に、天子が炯々爛々たる眼光を宿す。
その光を横目にしつつ、食材は衣玖の衣の間より次々にごろごろ転がり落ちる。こういう時にこの衣は非常に便利で、食の宝石箱もかくやと思しき絢爛豪華な食材が一つまたひとつと俎板に転がり出るたびに衣玖の羽衣は一枚またいちまいとはだけられてゆき、七重八重に折り重なっていた羽衣が食材と同じ数だけひらひらゆらゆら草の上にほどけてゆき、次第にほっそりとした身体の稜線が――
「……っと。これで全部ですね」
「あれ? 裸まで行くんじゃないの」
「なんでですか」
興味津々の緋色の瞳は一心不乱、緑黄色の栄養豊かなる枝葉の艶やかなるに加えて取り分け真冬の淡雪を思わせる和牛の霜降り、つまり瑞々しい鮮やかなビーフ、そして――衣服の奥に秘められた、永江衣玖自身のマシュマロのお肌に捕えられて片時も離れない。
彼女は肉の虜である。
まあいやらしい。
「……本当に、食材を見るのさえ久しぶりなんですね」
天子の顔に貼り付いた満面の喜色に、衣玖が思わず念を押す。
「そうなのよー。いやもうねえ、天界に来ちゃったら最後、こんな人間に人気なものなんてお目にかかれなかったしー」
「はあ」
すごーい、うわーすごいすごーい、と無尽蔵のような感激で子どものように無邪気にはしゃぐ天人様の威厳の無さは尋常でなかった。久しく桃しかお目に掛かっていなかったのだとしたら、脂の乗った和牛などは正しく宝石にも等しいのだろう。
雷様はほとほと呆れつつふと、不安が背中によぎるのを感じた。
一点の曇りも感じない、非常に純粋な天子の感激、
「本当に久しぶりー!」
等と重ね重ね叫び回る天子の言葉があまりにも曇りの無さ過ぎたものだから、衣玖は思わず訝しんだ。
そして尋ねた。
常識的に考えれば、こうだ。
長年天界に暮らし、食材を眼にする機会すら無かったというこの比那名居天子。
食べ物は桃だけだったというこの途方もない世界に長い間起居し続けていた彼女はつまり、
「あの――」
「?」
「失礼ですけど――見るのさえ久しぶりな食べ物を、本当にお料理なんてできるんですか?」
「……」
「……」
無言ですか。
「……ウフフ」
「……」
……笑顔、ですか。
「……むーん」
「……」
…………。
「えへへ」
「えへへ、じゃありませんよ。何ですか大見得だけ切っておいて」
「お料理は九割は気合いで出来てるんだってお師匠様が」
巫山戯た天人の少女が言葉を終いまで言い切る前に、衣玖がじゃがいもをぶん投げた。教えられたことを鵜呑みにして大人になってしまうのは、現代教育の弊害ではないだろうか。
衣玖は眉間に皺を寄せる。天人とは一体どれだけお花畑に棲んでいるというのか。肉じゃがに気合いでコクとまろやかさが出せれば、誰も苦労はしないのですよ。
地上に這い蹲る、愚か人間共をナメくさるにも程があります。
「……うーん」
唸り声混じりに天子はじゃがいも直撃のおでこを抑え、
「……う~ん」
衣玖は何も直撃していない頭を抱え、設えられた本日の舞台を二人横目で睥睨していた。
舞台だけは、並外れて豪華である。
天界の恒常的な晴天の下、雄大な雲海のほとりに設置されたキッチンルームは、ひたすら機能性だけを追求されたかのようにシンプルだった。幻想郷の森に居を構える萬屋の倉庫になぜか放置されていたシンク一式が、天界の眩しい太陽を受けて嬉しそうに煌めいている。華美さを省かれ、無駄な部分はまるで無い。同様に調達してきた適当な大きさの板、それをただ磨き上げて俎板。清冽な天界の小川の清水が手桶一杯。柔らかな布巾。笊、皿、お玉に菜箸、塩胡椒。
そこに、衣玖が今しがた並べ立てた七色の食材が躍っている。
「これだけ用意させておいて、料理のイロハも知りませんなんて言ったら怒りますよ?」
「イロハは知らないけど、さしすせそは知ってる」
「どうぞ」
「さとう……しお……酢……せう油…………そ……そ……」
「……英語ですよ」
「ソドム!」
残念、はずれでした。
下界の人間に一体どんな料理を食べさせるつもりですか貴方は。
「……まあ、好きにやってみられたらいいじゃないですか」
これ以上付き合うよりは、いっそ全てを任せてしまった方が良い。
衣玖はそんな気がした。放任主義という訳ではないが、ここで手を離しておけば、然るべき過程の上に然るべき結果が出るだろう。
少し突き放した考えのもとに、衣玖はそっぽを向く。
アルェー、と天子の気の抜けた声が、視界の左に外れた方から聞こえた。
「……そんじゃ、勝手にやらせてもらうね」
ややあって、そんな言葉が天子の口から聞かれた。
――衣玖はきゅん、と気に病む。同時に、一抹の寂しさが胸の中に揺らめいた。
元よりこれは天子の計画なのだ、と自分に言い聞かせるものの、冷淡な拒絶の罪悪感は、生来人の良い衣玖の胸を呵責に苛んで離さなかった。窮地に陥ったなら多少の助太刀も考えていたとはいえ、元々本気で手出しをするつもりはなかったというのにである。
それはあくまで、比那名居天子というひとりの迷惑少女による、博麗神社および幻想郷に対しての、贖罪意思を込めた宴席という事業計画だった筈だ。
それでも、ちょっと寂しかった。
事業趣旨から考えて当然の判断をしたまでなのに、大きな後ろめたさが沸き立ってくる。
一人っきりぽつねんと、手持ち無沙汰で息を吐く。
「それではまずゴマ和えから~」
「……またエラいものから作りますねえ」
活動的な天子がちょっとだけ羨ましくなりつつ、衣玖は自信作のキッチンスペースを見た。青い髪をポニーテールに織りまとめた天子は実に嬉しそうに立っており、食材を吟味するその小柄な身体に真っ白な割烹着を着ていた。
割烹着まで準備した憶えは無いぞ。
要するに、あれは自前ということらしい。料理もしない人が何で割烹着持ってるんだろうとか、何も持ってこなかったくせにどうしてそんなものだけ準備してるんだとか、そもそも天界に何で割烹着なんてモノがあるのかとか、色々懐疑は尽きない。天人に自分たちの常識が通用しないことを、改めて衣玖は悟る。
悟った面白味は、苦笑いと溜息に化けた。
天子自身が楽しそうなので、ひとまず衣玖も、胸の淀みを飲み下す。
とりあえず手は出さずに、天子の調理作業を観察する体勢に入った。
「ホント豪華な食材があるわね~」
「そりゃあ――それなりに見繕って調達してきましたから」
天子に褒められ、衣玖は内心胸を張る。この準備の出来映えは、称賛されて良いレベルである。間違いない。
食材の質に気を遣ったというのは本当だし、のみならず、種類もそれなりに取り揃えた。食事会というからには、単色のメニューで乗り切ることは出来ない。やるべきでもない。また、献立もろくに決めていなかった状況にあっては、満遍なく食材を調達する必要性に迫られたのも事実であった。
がさごそ、と衣玖の調達してきた食材からゴマさんをチョイスした天子はついでに大きな擂鉢を召使いに順えて、そそくさと準備に取りかかり始めていた。
暇を両手両足で持て余しながら衣玖が、それをぼんやりと眺めている。
小脇に擂鉢を抱えておたおたと走り回る天子が、なんか可愛いなー、と思っていた。
今日はぽかぽか温かいなー、と思っていた。
割烹着姿の天人というのは、たぶん何百年に一度くらいしか見られないレアな光景だろうなー、等々等々思っていた。
衣玖が苦労して調達してきた良品のゴマを惜しげもなく擂鉢の中に注ぎ込み、即席キッチンの機能美テーブルの上にどかんと置いてじっと見つめる天子、
「……」
見つめる天子。
それを見つめる衣玖。
更に、見つめる天子。
「……?」
「……。」
じーっと、じーっと見つめる天子、
見つめる天
「…………あの。擂粉木が無いと、いつまで経ってもゴマはゴマのままですが」
たまりかねて、そこで衣玖が口を挟んだ。
天子の動作は、完全に停止していた。
擂鉢の準備までは割と闊達に手際よく進めて見せた天子だったが、どういうわけかテーブルに鉢を置いてしまい、そこから動く様子が無くなった。かれこれ二分近く、擂鉢に入ったゴマさん達と睨めっこの態である。
ゴマの擂鉢は知っていても、ゴマの擂り方を知らないか。
それが衣玖の、当初の推察である。嗚呼そうか天人というのは、ゴマの擂り方も知らないんだ。世間知らず。だから、変な感じで知識をつまみ食いしたりしてたのだ。その結果、こんな変なところで壁に当たってしまったというわけだこの可愛い奴め。
そう思い至った衣玖は、やれやれしぶしぶと擂粉木を御自ら手渡そうとして、
「――大丈夫だから、待って」
天子の真剣な声に、足を止められた。
「大丈夫……って、何ですか」
「大丈夫なのよ」
「じゃあ『待って』って何ですか。待っててもゴマは」
「待ってったら待って、」
ゆったりとした整息、
「――今、霊力を溜めてるんだから!」
そして、天子が声を張った。
気圧された衣玖、踏み出しかけた足が思わず止まる。差し出しかけた擂粉木も、背中の後ろに引っ込めた。
れいりょく、と、口の中だけでその単語を反芻した。
霊力。
なるほど。
霊力を溜めているのだ。比那名居天子は霊力を蓄積している。衣玖は大変納得した。
それならば仕方ないだろう。霊力をフルゲージにするとなれば、それ相応の時間を要すのは当然である。多少長い時間が掛かっても、じっくりと溜めてから放った方が料理は美味しく仕上がるだろう。料理の基本中の基本である。
急いては事をし損じる、霊力を込めて料理はきっと旨くなる。
って。
……なんでやねん。
「えい」
ぽこ。と音がして、天子の腕からタケノコが出てきた。
灰色のタケノコだった。
――衣玖の眼には、少なくともその瞬間、そういう光景に映った。
タケノコはとても固そうだった。まるで岩のようではないか。
タケノコはくるくる回転していた。まるでドリルのようではないか。
衣玖がみゅーっと眺めていると、くるくる回転していたタケノコはそのうちぐるぐる回転するようになった。
ほへー、と感心していると、ぎゅいんぎゅいんと回転するようになった。
うひょー、と衣玖が興奮しているとタケノコは唸りと煙を上げながらぶおおんぶおおんと音速回転、永江衣玖、その鈍色の切っ先に彼女は男のロマンを感じていた。
誰もが憧れるその切っ先、
「で、何ですかこれ」
「B射撃」
「……」
「多段ヒットのB射撃、略してドリル岩」
天子はにこやかに微笑んで、衣玖の目の前にぐいーっとドリル岩を突き出してきた。そんなに近づけなくても見えてるんだけど、と衣玖は思った。
てゆうか当たる。当たるから離して。当たっちゃったら800くらい喰らうから離して。
今のぜんぜん略してないね。
(そういえば、こんなのを使ってましたねえ……)
衣玖の脳裡に、十日ばかり前の光景が蘇ってきた。
それは衣玖が自ら天人である少女に刃を向け、あろうことか、お灸まで据えてしまった痛快な一件のことである。
あれは自分なりに、分限を越えた大立ち回りだったと自覚している。何しろ現役の天人に刃向かったのである。大それた事をしたなあと後々膝が震えたし、またそれにうっかり勝ってしまったので尚更印象に強い。
相手の天子は曲がりなりにも天界人で、しかるに圧倒的な力を持っていたから、衣玖は随分と苦戦した。一歩間違えれば、お灸を据えられていたのは自分だったに違いない。
特にこの、通常射撃のドリル岩が難敵であった。相殺にも強いし多段ヒットだし、一方ならず手を焼いた記憶がある。
これがそうか、あのときの天敵の正体か――と衣玖の感心する傍らに天子はと言えば、やおらその岩を擂鉢の方に向けて戦闘態勢、
「えいやあ!」
衣玖が何かを訝しむ暇もなかった。
天子が気の抜けたようなつぶやき声を上げたのを合図にして、岩は面倒くさげに腰を持ち上げる。
そして眠たげに回転しながら彼は、ゴマの盛られた擂鉢の中へと切なげに、その身を投げた。
ややあって、
「ごりごりごり」
と、つまらなそうな硬質の音が衣玖の耳に届いた。
居たたまれないような雰囲気でごりごりごり、ごりごりごり、
「……」
「えい」
ごりごりごりごりごりごり。
「…………」
「えい」
ごりごりごりごりごりごり。
「……………………」
「えいえいえいえいえい」
ごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりごりご
「ちょっと待ってください」
どの辺で突っ込もうかと延々考えていた衣玖だったが、一行に進展する気配の無い現況に嫌気が差して遂に待ったを出した。
「何やってるんですか」
「ゴマを摺ってる意外にどう見えるの?」
「そういう問題ではなくて」
「だって……お手軽だし」
「お手軽かもしれませんが、しかし」
「しかし?」
「……えーと……擂鉢が傷みますね」
「え? そういう問題なの?」
「……まあ」
それだけじゃないけど。
「あなたって人は……もう……」
衣玖は呆れて、ゴマが大量に惨殺された擂鉢の中を覗き込んだ。
原形を留めぬほど破砕されたゴマは、一粒残らず粉末になっていた。そして覗き込んだ瞬間に、濃厚すぎるほど芳醇なゴマの香りが衣玖の鼻腔をグングニルの様に貫いていった。
良い匂い。
それはもう、ものすごく。
上物のゴマを目一杯まで摺ったらこんなに良い香りがするんだー、と衣玖は感心した。感心しつつその濃密な香りの秘訣はよく見ると、目一杯摺りすぎて摩擦熱の煙が上がる寸前まで加熱していたことであった。
つまり陶器製の鉢は、とても熱かった。
重い、焼けた石みたいにねっとりとした熱さが掌に伝わった。
掌が伝えた温度信号を衣玖は脊椎内で処理し、放り出すように手を離した。
哀れ見捨てられた鉢はごどん、とテーブルの上に着弾して辛うじて割れず、また何とかひっくり返ったりもしなかった。天子が横で「きゃっ」と、可愛い声を上げた。
「こぼれたらどうするのよー!」
「あ――失礼しました」
「……んもー」
危ないところだった。
鉢が割れたら況や惨事だし、またそもそもあのタイミングで天子のドリル攻撃を衣玖の良心が止めていなければ、擂りゴマがどういうわけか焙煎ゴマになるか、あるいは擂鉢がハコ眼鏡になるかのどっちかだっただろう。
衣玖は瞳を閉じて、人差し指で眉間を抑える。
とりあえず、曲がりなりにも擂りゴマにはなっている。それならば、深く追及しない方が良いと思った。
幾らか腑に落ちないところもあるが、とりあえず
「まあ……及第点と言えば及第点かもしれません」
だいぶボーダーを引き下げて、衣玖は悩ましげに呟くのである。
天子は笑った。
「よーし。じゃあ次は漬け物」
「――ってゴマ摺っただけで終わりかい!?」
悠然たる天界に釣り合わない素っ頓狂な絶叫が、蒼い蒼い蒼天の彼方まで届いた。
「ごめんこっから先は、衣玖も手伝ってくれないかな?」
「こっから先、って……」
ゴマ和え、と天子は言った。而るにレシピは野菜の数々を茹でて、ゴマで和えること。
野菜のゴマ和えの、「ゴマ」しか出来ていませんけど。
「野菜」と「和え」の部分はノータッチのまま投げっぱなしとか、
「それで満足するんですか貴方は」
「ええ。私は漬け物の仕込みに回るから」
煌めく天子の笑顔が眩しいかった。そこにあるのは残酷なまでに、純真な本心だけである。
衣玖の脳裡に偏頭痛が去来した。
本当にこれで良いのだという。
……地上人に贖罪の意を示す、料理会ではなかったのか。
そういう大切な誠意の場面で「しあげはおかあさ~ん」みたいな、こういう卑劣な手段が許されて良いものか。
衣玖は眉を八の字にして、うんうんと呻吟していた。
悔しいような虚しいような、居たたまれないような不憫なような、複雑な胸中が上手い言葉を紡げないでいる。
「ねぇねえ~」
そオて、そんな人の悩みもまったくお構いなしに、頭痛の原因が朗らかに語りかけてくる。
「漬け物は~、コレで良いわね!」
明るい声の方側へ、衣玖は淀んだ瞳を向けた。
ぶんぶん、と振り回される両手にまるで勇ましく掲げられている緋想の剣の如きは剣に非ず、剣状の野菜は大根、胡瓜、聖護院蕪におたんこ茄子。
本当に漬け物の方へ行ってしまうらしい。
衣玖が無言で頷くと、はじめてお料理を手伝う子供のような無邪気さでもって、包丁を手にする天子の腕まくりが見えた。
衣玖は苦笑いを一つ足許に落っことし、ここに至ってやっとこさ、しずしずと準備に取りかかる。天子に命じられたとおりのゴマ和えを完成させるべく、だった。
渋々重い腰を上げる。酢を絡めたゴマ和えを目指して白菜とか人参とかを手にとり、あとはひたすら包丁包丁である。大概お人好しだなあ、と、自分で想った。
空気を読めすぎるのも考え物である。よく考えると料理するというのにひらひらふわふわ、すごく邪魔な服装をしていることに気付いたので天子同様、自分も腕まくりをしてから改めて包丁。
「……」
「……」
「……」
「……」
とんとん、と。
互いが作業に没頭したことで、会話は暫し已んだ。晴れ渡る空の下、雲上の澄み切った空気が急速に静寂へと包まれる。
天界とは実はこんなにも静かだったのかと、初めて衣玖は気がついた。心地よい静けさの天界の片隅にとんとんとん、とんとんとん、と、心地よい俎板の音が二組響いていた。
途絶えた会話で出来た音の空白の中に、軽やかな俎板の音が割り込んできたような具合である。その音は、天界にあってごく自然に馴染んでいるように思われた。適度に硬質な音が、相対的に周囲の静けさを唄っていた。まるで練習ずくのように端正に整った音律が、喧噪に火照っていた衣玖の心を、そっと穏やかなものにしてゆく。包丁を振るう手が、俄然気持ち良くなってきた。天子も少なからず、きっと同じ気持ちを感じているだろうと思った。
衣玖の菜切り包丁、天子の文化包丁、ともに人郷で名の知れた、手練れの鍛冶による珠玉の逸品である。衣玖が哀願懇願し、竜宮ノ使ヒの仲間が秘蔵していたところを直々に借り受けてきた業物だった。おかげさまで音同様、切れ味もまた頗る宜しい。
衣玖自身、それは久々のお料理だった。料理とは得てして、野菜なんかを包丁で切っているこの瞬間が一番楽しいし、いかにも料理をしているのだという実感が湧く。リズムが生まれて気分は軽快、スキップをするように心が波に乗れるというものである。思わず意味もない笑顔を零しそうになりながら衣玖もまた、久々のお料理を楽しんでいた。ついつい気分良く切っていると思わず白菜を必要量の倍くらい切ってしまったりして危なっかしいったらありゃしないがひょいひょいと、根菜葉菜その他さまざまを切り揃えて一仕上げし、衣玖は首の骨をばきぼきべきっと鳴らして菜切り包丁を俎板に置く。
天子の方を顧みる。
待っていたかのように、こちらを見ていた天子と眼があった。
「私も完成したよ!」
天子の口調は、心なしか誇らしげだった。その口調と曇り無きその笑顔が衣玖に安堵をもたらすが、二秒と持たずすぐその後に、その三倍程度の不安感に化けた。
非常に失礼な話である。が、数分前に前科があるので仕方がない。
つまりこうだ。
――本当に“ちゃんと”、出来ているのか。
「ちょっと見せてご覧なさい」
心配して歩み寄った永江衣玖。
……だったがしかし、天子の眼前の俎上には、衣玖が想像したのとちょっと違う光景が繰り広げられていた。
「……あ……あれ?」
衣玖がまごつき、天子がえっへん胸を張る。
天子の前に展開されていたのは、哀れ有機野菜の無惨なる残骸――――ではなくて、割と小綺麗に切り揃えられた瑞々しい根菜の短冊達だった。
小ざっぱりと切り揃えられた葉野菜。瑞々しい根菜はきちんと皮も残さず落としてある。
手の行き届いた、丁寧な下拵え。
「はー……」
「うまいもんでしょ」
肩透かしを引かれてしまって、衣玖は出す言葉に困った。天子はむーん、と胸を張る。衣玖はうーん、と唸りを零す。
褒めそやすにはちょいっと仕上がりの大きさにムラがあるものの、文句の付け所はそれくらいである。それなりに見た目は整っている。先ほどの愚挙から期待数値を下げていたこともあるが、純粋に判断しても必要充分以上だろう。
衣玖はあらためて瞠目し、天子のまるで教科書のようなドヤ顔を目の当たりにするのだった。
天人というのはやはり、ベーススペックが高くて先読みが出来ない。何をやらせても上手くやるか、或いは思いっきりボケるかのどちらかである。
悉く行動の読めない天人の少女に、また衣玖の頭の中、偏頭痛がぶり返してきた。
「ま……まあ、上手く行ったならそれに越したことはありませんね。じゃあ、あとは浅漬けにするだけで」
「うん」
「ええ、それを伺ってないんですが、一体どうするおつもりなんですか。まさかとは想いますが、漬ける行程は私任せとかではありませんよね」
「……あら」
衣玖の言葉は、無論、さっきのゴマ和えの阿呆な展開を念頭に置いたものである。
天子は、目を丸くした。
そんなことを言われたのがさも心外、といった表情で、それからふふん、と目を細め、自慢げに微笑んで見せた。
「さすがにねえ、浅漬けの作り方くらいは心得てましてよ」
と、来た。
「はあ」
天子の自信に溢れた気勢に衣玖はふうんと頷き、一歩引いてキッチンスペースを天子さんにお譲りした。
心得てます、というなら話は早い。
私は何も助けませんよ、と、そういう合図である。天子も一つ、その衣玖の意思表明に頷いて見せた。
そこからの動きは速かった。本当に衣玖の意思を察してくれたかどうかはともかく、下拵えから始まる立ち振る舞いに、無駄や迷いはなかった。御石のボウルにたちまち酢と塩をぶちまけると、手際よくほぼ基本通りの床を作った。ついでに衣玖が切った野菜と自らの切った野菜とを合流させて、御丁寧にも粗塩で揉んで見せる。
衣玖は、言葉にこそ出さなかったが、感心していた。
手際は良かったし、何より基本に忠実である。つい今し方まで料理のりの字も知らなかったような彼女と、同一人物とはにわかに信じがたい。派手な無茶を演じて見せた五分後には、味に大ハズレの起こらない手本通りの調理を、ここまで徹底できている。
衣玖も会食に呼ばれるのは確実だろうが、このままいけば多少でも安心できようものである。
しかし、当然話はここからだ。
「さてさて天子さん、材料は完成しましたが、仕上げまできちんとしてくださいね?」
「む」
「さっきみたいに、最後は私任せじゃいけませんよ。漬け物は漬けてこそ、料理する方のセンスが見えるんですから」
多少、意地の悪い言い回しを選んだ。
漬け方が鍵を握る。
そういう念を押しておけば、天子に僅かでもプライドが残っている限り、この料理会に供与するにおいて自分でやらざるを得なくなるだろうと思ったからである。
衣玖は別に、嘘をついているわけではない。漬け物は漬け方が決め手という、それは紛れもない真実である。「漬け物を天子が作る」というなら、最後の過程は、天子が直截に手を下してこそなのだ。
中途半端に衣玖が協力姿勢を見せていては、いざまたお鉢を回された時に言い逃れが利かなくなる。別に自分の腕の方が怪しいという訳ではないが、やはり、そこで自分が手を貸すのは何か違うと思った。
「……よし」
天子の決意の声が聞こえた。天子は、またしても機敏に動いた。
辣腕料理人の如く、まるで不安など感じさせないてきぱォとした仕草でもって磨き上げられた石の器に、先の野菜たちと、漬け床を一緒に盛りつけた。
そして、先程まで使っていた俎板をどういうわけかその上にぼん、と置いた。
それを衣玖はじっと見ていた。天子もじっと見ていた。
それはもう、じーっと見ていた。
衣玖の胸に先ほどの不安が過ぎった。
不安は間髪を入れず「予想」に転じ、間もなく確信に転じた。
霊力を溜めている。
溜めているということは、どういうことか。
……絶対アレだ。
「待って! お願いだから待」
「……天地開闢!!!」
無念、間に合わなかった。
衣玖が手を差し伸ばそうとしたその瞬間、天子は何事かを喚くように唱えた。
躊躇い無く。
喜色満面で。
衣玖が考えるに恐らくはそれが技の名前だったのだろうけれども、金切り声ははっきりと聞き取れなかった。聞き取れなかったがとにかくその一声に天が黒く染まった。文字通り、快晴だった頭上が一秒で青さを喪った。
曇ることのないはずの天界の空が一面影に覆われて衣玖は立ちつくし、それが大きな岩のお腹の部分であることにちょっとしてから気が付いた。
気が付いてすごくびっくりした。
「天地開闢! プレ~ぇ~ス~~!!」
大岩に乗っかった天子が、羽毛のような軽やかさと豪放磊落さでもって地面に向かい急降下してくる。岩と共に。
身構える暇も無い。逃げる暇などもっと無かった。
――天界すべてを揺るがすような、激甚なる爆音と振動と衝撃が発生した。
完全無欠の直下型地震である。文句なしの一撃に、空の上で十年百年のほほほほんと閑居してきた衣玖が真っ当に対処できようはずもなかった。足を着けている地面が揺れる、という事態を体験したことの無かった衣玖はほぼまったく抵抗できず、思いっきり足を取られてすっ転んで鼻を強打した。空前の直下型は衣玖の真横数十センチを震央として、哀れ竜宮ノ使ヒを一匹仕留められたハエのように地面に縫い止める。寄せては返す細波のように去来する振動は愛の抱擁となり、ハエは二度三度と猛る地面に往復ビンタをされる。
一体どれだけの時間の阿鼻叫喚であったか。
その揺れがようやく収まる頃になって、岩の上から天子が軽やかに降りてきた。
「どう? 野菜ちゃんと漬かった?」
「……」
「ねぇ」
「……見てるわけ無いでしょ!!」
赤くなった鼻をさすりながら、衣玖はどうにか立ち上がる。立ち上がるのが非常に怖くなっていた。安定した地面氏に対する信頼感は失われていた。信頼というのは、些細なことで砂の城のように崩れ落ちるものなのである。
もう誰も信じられなくなった絶望の地上で、衣玖は生まれたての子鹿のようにぷるぷると立ち上がった。二本の足で立つことがすごく怖くなっていた。地面は震えていないのに、膝が震えていた。
衣玖の涙目に霞む視界の向こう側、漬け物のセットはといえば多分今、その大きな岩の下にあるのだろう。
漬け物などもう忘れた。
今となっては、どのみちあの巨岩の下など確かめようがない。
「実は人まねなんだけどねー。人間達もみんな漬け物を漬ける時は、こうしてたという話よ」
誇らしげに屹立する巨岩を見上げながら、天子は嬉しげに頬を染めて両頬に掌を添えた。
計算通り、といったところか。
なるほど調理行程としては、恐らく間違っていない。
「まあ……もう、何でも良いです」
ふにゅう、と赤い鼻に涙目をしつこくこすりながら、衣玖はもうどうにでもなーれと、こくこく頷いた。
確かに間違ってはいないだろう。きっと正しいはずだ。ただ漬け物石が本当にこんなに巨大である必要があるのかどうかだけ、どうしても胸に引っかかったけどそんなことももうどうでも良い。
天人はハイスペックなのだ。
常人の常識は通用しない。
「――もうとっとと、最後のメニューに行きませんか。“あれ”を使って、メインディッシュを作るのでしょう」
遅々として牛歩のような調理タイムに次第に苛立ちは募り、衣玖は突っ慳貪に進展を促す。
巨岩に空を浸食されてすっかり日陰になってしまったキッチンスペースで、衣玖は先を急ぐ。顎を横に振り、視線でそれを示す。
「“あれ”ですよ」
「うん」
天子も衣玖に従うように、それに目を向けた。
二人の美少女に見つめられ、“あれ”は、元々赤い頬をさらに赤面させてつやつや輝いた。
食肉界の優男。燃えるような情熱の赤に、淡いロゼ色は霜降りの誘惑。
二文字で言えば牛肉である。
衣玖が下界に降りて調達してきた、とってもおいしい牛さんだった。
「本当にでも、よくこんな上物が調達できたわね。こんなもの、人間やってた頃だって見たこと無いわよ」
「私だって初めてです。……苦労しましたよ」
上質の食材を眼前にして、天子も思わず畏まっていた。そうさせるだけの威光が見て取れる。究極的に言えば食肉でしかないそれは、まるで俗物に似つかわしくない気品溢れる佇まいをしており、ぞんざいな調理を丁重に拒絶するような居丈高なオーラを放っていた。
ありがとう、と天子が呟く。
衣玖は、無言で頷く。
ここまですったもんだの調理会だが、一発逆転の可能性を充分に秘めた最高の食材が最後に待ちかまえているのだ。
腕に撚りをかけて、本日のメインディッシュと行きたい。
「では最後のメニューです。最高級品、国産衣玖牛の」
「衣玖牛って名前じゃありません」
「牛みたいな胸の衣玖さんの」
「要らんことは言わなくて良いですから」
「というわけで最後は、この美味しそうな幻想郷牛肉をレアステーキで締めてみたいと思います。です!」
ぽんぽんと手を叩きながら、天子ははしゃいでいた。
悪くない選択だ、と衣玖は思う。
良くも悪くも上質な食材なので、調理法に小手先の小細工が必要ないのは僥倖である。天子が無理な調理法に挑まずとも、とりあえず焼いておけば味を損なうことはないだろう。焼き加減が決め手とはなるが、材料が材料だけに、多少の失敗は覆い隠してくれるに違いない。
張り切って肉の塊を持ち上げる天子に、衣玖は、今度こそ全ての行程を一任することを決心する。成功の公算が大きくなったことで、天子にすべての下駄を預けるだけの余裕がようやく生まれた。開催趣旨に照らし、ようやく本来あるべき姿に戻ったのである。
手近な岩に腰掛けて、成り行きを眺める姿勢に入った。
――ひとつだけ、今し方耳にした、ちょっと気になる言葉を抱えて。
(「人間やってた頃だって」)
天子は、確かにそう口にした。
言葉の正確な意味は判らない。ただ、何かしらの経緯があって天界の住人となった事は確かなようであもある。死者の一人として天界に導かれたと考えると、俗世への未練を残しているのは極めて不自然なことだった。
仔細はともかく、彼女の言葉を言葉通りに信じれば、辻褄の合うことが多いのは事実である。
天人として決定的に違和感のある性格、価値観、本来究極の楽園として考えられている天界を疎んじるような日頃の物言い。
何も起きないことを、退屈と言い切る思考。
その思考は、極端なまでに“人間的”と言えた。
彼女の来歴に何かの“秘密”があり、それに起因しているのだとしたら得心が行く。
人間が天の世界に移り住んだがために、人間としての境遇を引きずったまま、ただ住まう場所だけが雲を飛び越えたとしたら。
「……総領娘さま」
「はいな」
「ちょっと出かけてきます」
腰を上げて、衣玖はお尻をぽんぽん払った。
――今しがたまで続けていた思考が、ひどく愚かしいものに思えたからだ。
「このまま行けば、宴会に来られる人数分の食事を用意することが出来ません。郷に降りて、適当に魚でも捕ってきます」
「ういさっさー」
気立ての良さそうな笑顔でひらひら手を振る天子に背を向けて、衣玖は、すぐそこに広がる雲海のほとりへと歩みを進め始めた。
蟠る気持ちは、彼女に背を向けて隠した。
(……私が気にすべき事じゃない)
そう言い聞かせて、忘れようとした。
脳裡にしつこく思考の鎖を引き結んでくるのを、必死でふりほどこうとする。
興味も無いことだと、自分でも感じていたことである。忘却は容易な筈だった。
にも、関わらず。
思考の歯車を、衣玖は止めることが出来なかった。悶々と一人葛藤を抱えながら歩き、雲海の水面はどんどん近づいてきていた。
理由が何も分からなかった。天子の過去になど首を突っ込むべきでないと自制し、そもそも興味もなく、慎ましやかな態度を遂行できていたはずの自分が――どうして、一体、こんなにも変わってしまったのか。
天子の生い立ちには、余計な詮索をしないと決めた筈だった。
それがいつしか自分は、下衆めいて、彼女の過去を曝こうとしている。
自分のことを恐らくは信頼してくれている天子に対して、それはある種の裏切りとも思われた。彼女から自分に向かい、僅かでも親愛の情があるというなら、衣玖自身の信念などよりも何より、彼女のその純潔な思いを蹂躙する行為だと思う。
止め処なく、探偵の真似事のように推察を加えてしまう自分が、とても恥ずかしい気がした。
思考をふりほどこうと、衣玖は激しく首を横に振る。
(……)
疑問に答えを見つけられぬまま、衣玖は雲海の中へと飛び込んだ。
目指すのは遥か下界にある、幻想の地上である。
天子の気配が遠ざかり、慣れ親しんだ雲達の光景が視界を覆い尽くしてゆく内。
――あまりにも悔しい安堵という感覚が、飛翔する衣玖の胸を包み込んでいった。
(続)
↑前後完結っぽいから後編でコメントする人が多いんじゃないですかね
ォなんて表示されてるの俺だけ?
後半に期待
ムダに自信満々な天子と気苦労の多そうな衣玖さんのやりとりが
微笑ましくも可愛くてニヨニヨしっぱなしでした
後編もきたいしてまっす!