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どうしてこんな状況になっているのでしょう?
そんな事を思いながら、私は目の前の空間すら斬らん勢いで振るわれる大太刀を回避していきます。三尺以上はありそうなそれを片手で扱う彼女の技量には驚きつつも、しかし脅威は感じられません。風を読み、そして操る事の出来る私を斬ろうとするにはまだまだ速さが足りないのです。ですが、太刀を振るう彼女の表情はまさに真剣で、童顔の顔には必死さが滲んでいます。それなのに可愛らしさを感じるのは、恐らく元が良いからなのでしょうね。当然のように写真栄えしそうなので、この状況を写真に収めれば新聞の発行部数増加の手助けをしてくれるかも……って、相手を観察している場合じゃありませんでした。
袈裟に走る白銀を避け、追撃を行う為か刀身を返す彼女から距離を取りながら、私はこんな状況になった切っ掛けを思い出します。
そう、あれは三日前。取材から帰って来た折に、同僚から自警隊に新しい天狗が入隊したという話を聞かされたのです。とはいっても私はただの新聞記者であり、自警隊との直接の関係はありません。天狗社会の上下関係が厳しいといっても、部署が違えばその勝手も変わってくるものですから。なのでその時は『頑張ってもらいたいものですね』ぐらいにしか思っていなかったのです。
しかし今日になって、急にその白狼天狗と顔を合わせる事になってしまいまして……それから、えーっと、
「――そう、突然こんな事に」
大きく空を斬った太刀を構えなおす彼女を見ながら、誰にとも無く呟きを漏らします。
顔合わせといっても普通に挨拶を交わしただけで、私から喧嘩を売ったつもりはありませんでした。まぁ、「名前の通り犬っぽいですね」なんて言いながら頭を撫でたりはしましたが……って、あ、もしかしてそれが悪かったのでしょうか。この状況になったのはそれからすぐ後でしたし。撫で心地が良かったので少々長い間撫で回させて貰いましたが、あれが彼女の逆鱗だったのかもしれません。うむむ。
そういえば「辱められた!」とか叫んでいたような気もします。彼女は久々の新人さんだったらしいですから、私の行動でその立ち位置が決まってしまったのかもしれません。
つまり、犬、と。
そもそも白狼天狗といえば天狗の中でも地位が低く、下っ端扱いされている者達です。そこへ来て犬なんて呼ばれた日にゃあ、弄られ対象になるのは確実でしょう。……まぁ、天の狗と書いて天狗ですから、実際にはイヌと呼ばれる事にマイナスのイメージを抱く必要は無いのですが、やはり『狗』と『犬』では違うのでしょう。日本語って難しいですね。
「ねぇポチ」
「誰がポチですか!」
あれ、ちょっとしたお茶目だったのに。最近の若い子は冗談も通じないようで。困ったものです。
「冗談?! 貴女はこの状況でも冗談を言えるのですか?!」
「ええ、まぁ。私は貴女から脅威を感じていないもの」
「ッ!」
おお、赤くなった赤くなった。耳まで真っ赤ですよ? ですがこんな簡単な一言で理性を欠いているようでは哨戒天狗として勤まりません。山に侵入して来た者の影響力を判断し、それが危険なものか否かを見極めるのが彼女達の役目であり――その判断を相手の口撃で狂わされてしまうようでは哨戒天狗失格だからです。
それに、怒りというのはどうしても剣先を狂わせるもの。このままだらだらと戦い続けても互いに利益は無いでしょう。
「じゃあ、終わりにしましょうか」
そう告げると、私の言葉の意味が理解出来ないのか、彼女の剣先が更に大きくぶれてしまいました。ああ、本当に駄目ですねこの娘は。動揺し過ぎです。
「まぁ、リベンジは受け付けてあげますよ――」
言葉と共に、扇を一閃。
上から下へ。叩き付けるように生み出した風は視覚出来るほどの密度を持って彼女へと。当然のように彼女が回避行動を取りますが――しかし、その動きは遅過ぎました。
大太刀を持った姿が一瞬で風に飲まれ、そのまま地面へと落下していきます。まぁ、流石に普段なら耐え切れるのでしょうが、冷静さを欠いていたこの状況では、私が風をどの方向から生み出すのかを把握出来なかったのでしょう。折角の眼も、これでは持ち腐れというものです。
私達鴉天狗が風を操るように、彼女達白狼天狗は千里先まで見通す事の出来る優秀な眼を持っています。解りやすく言えば千里眼ですね。そしてそれは比類なき状況把握能力を有しているという事であり……例えば今のように一対一で敵と対峙している状況ならば、相手の行動の先を『視る』事も可能なのです。
とはいっても、それは未来視という訳ではなく、相手の動きや周囲の状況から導き出す行動予測になります。……まぁ、少々無理難題を言っているような気もしますが、我々は人間ではなく天狗です。その程度の事が出来なくては種族としての地位を保てないのです。
「さて、取材にでも行きますか」
呟きながら視線を落とすと、大太刀を手に彼女が立ち上がろうとしている事に気付きました。ですが、もうそこに戦意は無いでしょう。これ以上戦っても彼女に勝ち目はありませんし、それを理解出来ずに突っ掛かって来るようならただの阿呆だからです。
当然彼女は阿呆ではなかったようで、私を真剣な目で睨んでくるだけ――って、あれ?
「……」
なにかこう、視線に敵意がありませんよ? むしろ熱っぽいというか……このままこの場所に留まっていると、何か妙な事に巻き込まれると私の勘が告げています。ですが、妙な事というのは結果的に記事のネタになったりするのです。例えばこれがスクープの切っ掛けだった場合、確実にあとで後悔する可能性が――なんて戸惑っていたら、
「射命丸さん! いえ、文さん!」
注がれる、すごい、熱視線。
「……何かしら」
「わたしに稽古をつけてください!」
嫌な予感的中――!
しかも皆見てますし、これはどうやってもNOと言えない状況ですよ? あれ、もしかして嵌められた? いやまさかそんな事は無いでしょうが……でも、人目をはばからず戦い始めてしまった私も悪いのでしょう。だったら初めから逃げれば良かったのかもしれませんが、目の前の戦いから逃げてしまうと「お前記者の癖に逃げてんじゃねぇよ」的な空気が生まれるのは必至なのです。嗚呼悲しきかな報道人人生。危険に飛び込んで糧を得る生活……。
よし、決めました。
「考えさせてくださーい」
逃げます。だって面倒ですから。最近は大きな事件もありませんし、ネタ探しに忙しいのですよ私は。
そうしてスタコラと去ろうとする私へと、尚も真剣な言葉が続きます。
「お願いします!」
無理です。
って、皆の視線が痛いのは気のせいでしょうか。傍観していた同僚が『やってやれよ』と言わんばかりの目をしています。なら代わってください。無理? そんな殺生な。そもそもですね――
「文さん!」
あー。
出来たら耳を塞いで逃げ出してしまいたい。スクープは欲しいですが面倒事は嫌いなのです。ですがまぁ、ここは肯定の意を示す以外に取れる手がありません。
「……解った、解ったわ。だからそう大声で叫ばないで。みんな出てきちゃったじゃない」
今や自警隊を始め、報道機関に所属する私の同僚達もこの騒ぎに何かネタの匂いを嗅ぎつけたのか顔を出してきています。もしこれで彼女の上司である(つまり自警隊を率いている)大天狗でもやって来た日には、断るにしろ引き受けるにしろ面倒な事になりかねません。というか、もう今の時点で十二分に面倒なのですが。
「ああもう、どうしてこんな事に……」
嘆いたところでもう遅く、私はキラキラした目でこちらを見つめてくる犬走・椛の相手をする事になってしまったのでした。
■
……とはいえ、逃げられるなら逃げ切ってみたいと思うのが人情というものでして。
ちょっとした騒ぎが生まれ始めてしまった滝から逃げるように場所を移すと、私は彼女へと問いを放つ事にしました。
「取り敢えず一つ聞かせて。どうして私に稽古を?」
「わたし、ずっと文さんに憧れていたんです!」
夢見ていた相手と会話出来ている事が嬉しくて堪らない、的なトーンで返事が返ってきました。……意味が解らない。
「憧れていたって……じゃあ、どうしてさっきは私に突っ掛かって来たの? 貴女はその、私の行為に怒ったのでしょう?」
私の言葉に、きょとん、という顔をする彼女。うわぁ、反則的に可愛いですが今は何かムカつきます。
「文さんの行為に、ですか? いえ、わたしは怒ってなんていません」
「『辱められた』とか叫んでいたじゃない。まぁ、周りが五月蝿かったから良くは聞き取れなかったのだけれど」
膨大な水量を誇る滝のすぐ傍で会話をするな、という話でもあるんですが。というか、そんな状況で新人を紹介する方もどうかしていますね。そんな事を思っていると、彼女が少し恥ずかしげに、
「あ、あれは、恥ずかしいです、と言ったんです。まさか、頭を撫でられるとは思っていなかったので……」
もじもじと俯きながら呟く彼女。ああもう、なんでこう逐一可愛いんでしょうねこの娘。もしこれが演技だとしたら三千世界の彼方へと旅立ってもらいたいところですが、天然みたいなので反応に困るというかなんというか。まぁそれは兎も角、「はずかしいです」と「はずかしめられた」ですか。あー、何か似ている気がするようなしないような。……耳掃除は毎日しているのですが、これじゃあ記者失格ですね。どんなに五月蝿かろうと騒がしかろうと、相手の発言を一字一句間違えずに記録していくのが記者として当然の行いですのに。
「どうやら私が聞き間違えていたみたいね……。なら、どうして突然太刀を向けてきたの?」
というか問題はそこです。もし彼女が私へと突っ掛かって来なければ、こうして二人で密談めいた事をやらなくて済んだのですから。
「それは、文さんが『私ぐらい倒せないと、自警隊でやっていくには大変ですよ?』と言っていたからです。覚えていらっしゃらないんですか?」
「あー……」
覚えていますよそりゃあ。でも、あれはあの場に居た天狗達全員へと向けた冗談というかなんというか。ほら、隣に同僚もいましたし、自警隊には古くからの知り合いもいますし。
でもだからって素直に「あれは冗談だったの」なんて言おうものなら、凄まじい勢いでの謝罪を受けそうで結構怖いですねこの状況。どうやら彼女は名前にある『犬』のように、主人の行動一つで反応を変化させ――
「――って、誰が主人なのよ誰が」
「あ、文さん?」
「え、ああ、ちょっと風の囁きがね……」
そう呟いて話をごまかします。慕われているのは悪くないですが、変に思われるのは嫌ですからね。
「えっと、そう、風よ。私が貴女へと風を放つまで、結構本気で太刀を振るってこられた気がしたんだけど、あれは一体どういう事?」
憧れている相手に本気で剣を向けるヤツは居ないでしょう。そう思っての問いに、彼女は困惑気味に、
「わたし、これでも剣の腕が立つと言われてきたんです。以前、大天狗様に褒められた事もあるぐらいで」
あんの野郎、余計な事を……。そう思う私へと、彼女は言葉を紡いでいきます。
「それで、わたしちょっと浮かれていたみたいです。天狗が天狗になっていた、なんて笑えませんけど……」
「……という事は、私が真剣に相手をしなかったから、頭に血が上ってしまったとかそんな感じなのかしら」
自分は剣の実力があるんだー! という子供染みたプライドがあったが為に、それを逆なでするような私の行為に逆上してしまったのでしょう。そう思って告げた私に、
「そ、そんな感じです……。それに、恥ずかしながら、文さんを前にして舞い上がっていたみたいで……」
予想とは違う反応ですが、そう言って彼女は俯いてしまいました。恐らく、頭に血が上った事で、獣の闘争本能が呼び覚まされてしまったのでしょう。獣から妖怪に至った者には良くある事です。
しかし、この妖怪の山は厳格なる上下関係の出来上がった縦社会です。そこで「頭に血が上りました」などという言い訳は通用しません。そんなもの、押さえ込むのが当然だからです。
私は溜め息を吐きたい所をどうにか我慢し、彼女へと言い聞かせるように、
「良い? 自警隊に所属する天狗に必要なのは、冷静な判断能力と観察能力よ。その為に、千里を見通す眼を持つ貴女達白狼天狗が警備の中枢を担っているの。それは理解してるわよね?」
「はい……」
「だったら、まずはそこをどうにかしないと。貴女を鍛えようにも、実戦で暴走してしまっては意味が無いのだから」
よし、綺麗に纏まりましたよ! 自制心を高める鍛練となれば私が相手をしなくてもどうにかなる筈です。というか、武道ならまだしも、心の鍛練は私の専門外ですからね。これで今まで通りの日常が戻って来てくれるでしょう。ビバ平穏。
……や、まぁ、どうしてこんなにも必死に彼女を遠ざけようとしているのか、その理由は解ってるいるのです。
正直恥ずかしいのですよ。嫌われる事の多い記者をやっている為か、こうやって純粋に好意を向けられる事に慣れていないのです。それに、なんだかむずがゆくて。
そんな私を前に、彼女は悲しげに、
「解りました……。では、一つ文さんにお願いがあります」
「なにかしら」
まぁ、無茶な事を言い出さなければ聞いてあげましょう。なんて思いながら返事を返すと、彼女は真剣な顔で、
「わたしを罵ってください!」
「解ったわって何言ってるの貴女?!」
予想外にもほどがありますよ?!
そう一気に混乱する私へと、彼女は言うのです。
「文さんに罵ってもらうのが一番苦しいですから。それを我慢出来れば……きっと、自制心を高められる筈です!」
いや、いやいやいや。流石にそれは無いですって。そりゃあ罵倒されながらも耐える事が出来れば自制心が高まるかもしれませんが、私と貴女は今日が初対面なんですよ?!
そう叫び出したくなるのをぐっと抑え、彼女の顔を見返します。そこにあるのはどこまでも真剣な表情で――だからこそ、そこに裏があるような気がしてきました。あれですかね、これは嫌がらせか何かなんでしょうか。彼女には悪いですが、ここまで来るとそれを疑いたくなってしまいます。
そもそも、私は子供を相手にしていられるほど暇ではないのです。今日もこれから取材を行い、夜までに記事を仕上げて明日の朝一には新聞を発行しなくてはならないのですから。
ですので、こうやって巫山戯た態度を取られると流石に堪忍袋も持たなくなってくると言いますか、
「……貴女は阿呆ですか?」
ほら、口が勝手に言葉を紡いでしまいました。まさか私にそんな事を言われるとは思わなかったのか、彼女が目を丸くしています。もしその好意が本物だったとしても、これで嫌われる切っ掛けを作ってしまったに違いありません。
少し残念ですが、本人が望んでいるのだから仕方ありませんよね。まぁ、初対面の相手にキレる私も大概ですが、真剣を向けられるよりは遥かにマシです。
「貴女はとんでもない阿呆なんですね?」
ここまできたら彼女の望み通り罵ってあげましょう。時には心を鬼にして後輩に接するのが先輩の役目ですし、一度ガツンと言っておけば、もうこんな馬鹿な事は言い出さなくなるでしょうから。
では、
「良いでしょう。いえ、全く持って良くないですがそういう事なら私も腹を決めましょう。元々貴女に稽古をつけるつもりなんてありませんでしたから逆に好都合です。今から貴女を罵って、こんな状況をさっさと終わらせる事にします。そもそもですね、私は新聞記者なのですよ。記事を書き、それを発行する事で生活している訳です。貴女達から見れば華やかな職業かもしれませんが、実際にはそんな事はありません。そんな私に憧れていたですって? 寝言は寝て言ってください。人の表層しか見ていない癖に、その人物の本質まで捉えた気にならないで欲しいものです。愚かしい。そうやって勝手な幻想を押し付けられる側の迷惑を考えた事がありますか? 新人が来たからと言われて挨拶に向かったら、突然剣を突きつけられた者の気持ちが解りますか? まぁ、妖怪に成りたてのお子様には解らないのでしょうね。ですがそれが迷惑だというのですよ。こちらにも仕事というものがあるのです。山に詰めていれば良い貴女達とは違い、私は幻想郷中を回らねばならないのです。その苦労が解りますか? 雨だろうが雪だろうが雹だろうが雷だろうが濃霧だろうが、何か事件が無いかと飛び回らねばならない者の気持ちが――」
って、あ、これじゃただの愚痴ですね。まぁ、ぶっちゃけ苦労なんてありませんし、事件を探すのは楽しいのですけどね。時には嘘も必要だという事です。無駄に敬語なのがこの嘘の味噌ですね。……一部本音が混じってますけど。
「貴女には――短気で単純なお子様には理解出来ないでしょう?」
しかしまぁ、語彙が少ないですね私。というか表現の幅が狭過ぎて言ってて少し悲しくなってきました。まぁ、実際に記事を書いていれば様々な言い回しが出て来るものなのですが、口頭となるといまいち上手く言葉が出ません。難しいものです。
「それにですね――」
「……」
と、気付けば彼女の手が腰の太刀に伸びていました。このまま言葉を重ねていけば、これ以上迷惑を被る事も――って、何か嫌な予感がビビっと。
先程から、小さく肩を震わせながらも、彼女は一歩も動いていません。その左手は剣の鞘を強く掴んでいますが、しかし右手は柄を握らずにきつく握り締められていて、そしてその表情は俯いたまま窺えず。
一見するとそれは怒りに震えているようで……でも、見方を変えれば私の言葉を必死に耐えているようで。
それが勘違いで済めば良かったのですが、小さく鼻をすする音が聞こえてきてしまっては、もうこれ以上彼女に言葉を放つ事なんて出来ませんでした。
「……ほら、泣かないの」
「ッ!」
俯いている頭を撫でようとした瞬間、彼女が勢い良く顔をそむけてしまいました。
全く、罵ったら罵ったで(というか取り敢えず文句を言い続けたら)これですか……。一体私にどうしろというのでしょう。
「困ったわねぇ……」
しつこい子供は嫌いですが、だからといって泣いている子供を見捨てられるほど心は狭くないのです。
小さく泣き始めてしまった彼女を前に、私はどうする事もできないまま、その場に立ちつくしかなかったのでした。
1
それから一週間後。
「じゃあ、風を放つから頑張って避けるのよ?」
「はいっ!」
そこには、椛を相手に扇を振るっている私の姿がありました。
あの後、彼女はどうにか泣き止んでくれました。しかし、彼女は私の放った言葉が全て『自分の為の言葉』なのだと思い込んでいるようなのです。つまり彼女の中では、『文さんが敢えて汚い言葉を使って自分を罵ってくれた』と、そういった事になっているようでした。
信頼って怖い、と感じつつも、そこまで慕われているとは思っていなかった私は面食らいました。なにせ彼女は泣き止んだあとに「有り難う御座いました」と微笑んで見せたのですから。
こうなるともう何を言っても無駄だと観念した私は、彼女の稽古を引き受ける事にしました。それに、ここまで慕われている理由、というのも気になってしまったのです。記者としてではなく、一天狗として純粋に。
ですが、自分を慕ってくれている理由を本人に直接聞くというのも恥ずかしいものです。新聞記者なのだからその程度の羞恥心など捨ててしまえと思うのですが、やっぱり気にしていると思われると年長者としての威厳がですね? ――なんて自分自身に言い訳をしていたら、あっという間に一週間が経ってしまったのでした。
とはいえこの一週間、取材の合間合間ではありますが、私達はしっかりと稽古を行ってきました。仲間達の見ている前で彼女の提案を引き受けた以上、もしこれで彼女の技量が上がらないようなら私の責任問題に発展する可能性があるからです。
まぁ、誰かに物を教えるというのは中々に頭を使うもので、いつの間にか真剣になり……その結果、私も少しずつ教える楽しみに目覚めてきていたりもするのですが。彼女は私の言葉に真摯に向き合ってくれるので、こちらも教えがいがあるのです。
「……でも、気になる事が一つ」
それは、周囲からの視線。
私達は滝を背に稽古を行っているのですが、どうにも見物客が多いのです。河童や妖精ならまだしも、自警隊の天狗達までもがこちらを注視している状況はちょっとやり辛いというか。普段は観察する側なので、されるのに慣れていないんですよね……。
と、そんな事を考えていると、風を全て回避し切った彼女が戻ってきました。その動きは見事なもので、大天狗に褒められるのも頷けるほど。彼女はセンスが良いのです。
先週の勝負も、彼女が終始冷静な状況でしたら少しは押されていたかもしれません。これなら、若くして自警隊に入隊できたのも頷けます。
「文さん、次をお願いします!」
「解ったわ。……でもその前に、ちょっと聞きたい事があるのだけれど」
「なんでしょう?」
「稽古をしている間、みんなに見られているわよね。……主に私が」
そう、注視されているのは稽古を受けている彼女では無く、何故か私の方なのです。仕事柄他人の視線や気配には敏感なので、初日からそれには気付いていたのですが……一週間連続で見られ続け、しかもその数が日々増えているとなるといい加減無視していられません。
そんな私の問い掛けに、彼女は荒れた息を整え、そして笑顔を持つと、
「ああ、それなら気にしないでください。文さんはわたし達自警隊のアイドルですから。みんな興味津々なんですよ」
「……アイドル?」
記事にすらそうそう書く事が無いその単語に、少々面食らってしまいました。恨まれたり嫌われたりしているのならまだしも、アイドルですって?
「そうです。文さんはあの博麗の巫女の所や、吸血鬼が住んでいるという紅魔館へと自ら進んで取材に行くではありませんか。その勇気や勇ましさは、わたし達の憧れなんですよ」
「あー……」
そういう事、ですか。
山は妖怪の住処であり、他者の侵入を拒む一種の要塞でもあります。ですので、どうしてもそのコミュニティは閉鎖的になりがちなのです。そしてそれは、外からの情報が得られ難くなる事を意味します。
そうはいっても、私のような報道機関の天狗は幻想郷のアレコレに詳しくないと仕事になりませんので、日々様々な知識を仕入れていきますが――しかし、自警隊など山に籠っている者達となると話は変わってきます。
例えば自警隊の場合。普段は滝を中心に山の警備に当たっている彼らですが、そもそも山への侵入者自体が少ない為、暇を持て余しているのが現状です。その暇潰しの為に河童と将棋やらをしている事に問題は無いのですが……そうした毎日の積み重ねからか、彼等は新しい知識を得ようとする事に酷く鈍感になってしまっているのです。長寿であるが故に、良くも悪くも成熟し過ぎてしまっている訳ですね。その生き方は妖怪としては間違っていないのですが、結果的にそれが山という狭い世界と、幻想郷という広い世界で暮らす者達との認識の違いを生み出してしまっているのです。
例えば博麗の巫女、紅魔館の吸血鬼、白玉楼の亡霊、永遠亭の月人、そして神隠しの主犯を例に挙げましょう。
これらは博麗・霊夢、レミリア・スカーレット、西行寺・幽々子、蓬莱山・輝夜、八雲・紫の事で、彼女達と面識のある者ならば、彼女達がその言葉のイメージよりも結構……いえ、かなり呑気であるという事を知っているでしょう。
ですが、それを知らない者達からすれば、それらの単語は脅威にも成り得るのです。
つまり、博麗・霊夢という巫女は幻想郷での規律を持つ者であり、レミリア・スカーレットという吸血鬼はここ数百年来で最強の種族であり、西行寺・幽々子という幽霊は死を操る亡者であり、蓬莱山・輝夜という蓬莱人は不老不死の宇宙人であり、八雲・紫という存在は胡散臭いスキマ妖怪である訳です。
そして、生み出されたイメージというのは時間の経過と共に様々な憶測や想像によって脚色され、仕舞いには全く別のものへと変化してしまう事があります。見ず知らずの存在を相手にしている訳ですから、そこで極端な変化が起こっていたとしても(例えば女性である筈の人物が男性だといつの間にか言われるようになっていたとしても)、違和感を感じずにそれを事実だと受け入れてしまう訳です。
幸いにも椛は霊夢達に対してそういった勘違いを持ってはいないようですが、きっと現実を知ったらがっかりするに違いないでしょう。特に霊夢の場合、人妖関わらず人気がありますが、その実体はお茶と煎餅さえあれば生きていけるような人間ですからね。それに一人ぼっちですし。
まぁ、こうした認識のズレも私達が発行している新聞を読んでいれば少しは改善されるのでしょうが……天狗の新聞には嘘も混じっていますから、記事の内容を信じない者達が多いのが現状なのです。私が発行しているそれのように、嘘の無い新聞が増えてくれれば良いのですけれど。
それはさておき、ここで霊夢達の実態を披露してしまうのも味気ないので、私はそれとなくその勇敢さなどを肯定しておく事にしました。褒められて悪い気はしませんからね。でも、アイドルというのは流石になぁ……なんて事を思っていると、彼女の口から予想もしていなかった言葉が飛び出してきました。
「……それに、わたしの家系は文さんからご恩を頂いているんです」
「恩?」
一体どういう事なのでしょう。疑問に思う私を前に、彼女は隠し事を打ち明ける少女のように小さくなりながら、
「はい。これは、まだこの山に鬼が居た頃の話なのですが……」
それは古い古い昔話。古くから日本に住み着いていた彼女の祖先達が、妖怪へと変化する事が出来るようなった頃のお話。
ある寒い冬の事。彼女の祖先は仲間達とはぐれ、山の中で孤立してしまったのだそうです。冬の山に食料は無く、日に日に弱り果ててしまい……そんなある日、ついに人間に見付かってしまいました。
彼女の祖先は必死の抵抗をしたそうですが、弱った体では人間を撃退する事も出来ません。そんな時、可憐な天狗が現れ、颯爽と彼女の祖先を救い――
「救いませんでした」
「救ってないんだ、私」
「はい、救っていないんです。助けを求めたわたしの祖先に対し、それが摂理なのですよ、と仰ったそうです。妖怪は人間を喰らい、人間は妖怪を殺す。それが当たり前の事なのだと」
確かにそうなのですが、目の前で見捨てましたか。結構酷い事をしますね過去の私。
「ですが、それだけではなく、わたしの祖先が逝くまで見守ってくれていたようなのです」
「そうだったの……って、逝っちゃったら貴女は居ないわよね?」
「え、あ、そうですね。その、逝ってません」そう慌てて続けて彼女はちょっとしどろみどろになり、そして考えを整理するように「その、」と呟いてから、改めて語り出します。
「文さんの存在が、そのまま成す術無く殺されかけていたわたしの祖先を勇気付けたんです」
「私の存在が、背水の陣を敷く手助けをしたって事に――って、あー……そう、思い出したわ」
そう、確かにあれはかなり昔の事です。彼女の言う通り、この山がまだ鬼神によって治められていた頃の話なのですから。
そうして一度記憶の封が紐解かれると、あとは一気にその当時の情景が浮かび上がってきました。
私は彼女の祖先を助けなかったのでは無く、助けられなかったのです。当時の私は今のように強い力を持っていませんでしたから、加勢すれば殺されると解っていたのでしょう。だから綺麗事を言い、見守る事しか出来なかった……。
嗚呼、思い出しました。
傷だらけの、しかし尚身震いするほどに美しい毛並みを持った白狼が、雄々しい咆哮と共に人間へと立ち向かっていくさまを。まさかあの状況で反撃に出るとは思っていなかった私にとって、それはとても衝撃的で、だからこそ強く記憶に刻み付けられていたのです。
今思えば、あの瞬間を忘れずにいたいという想いが、私を記者という道に進ませたのかもしれません。記憶というのは薄れてしまうものですが、記事や記録というものは色あせずに残り続けるものですから。……まぁ、恥ずかしくて彼女にはこんな事言えないですけれど。
「懐かしいわ……。まさかあの時の白狼が、貴女の祖先だったとはね」
思わず呟いた言葉に、彼女はとても嬉しそうな笑みを持つと、
「覚えていらっしゃったのですか! うれしいなぁ……。……っと、それでですね、わたしの祖先はその窮地をどうにか生き延びて、はぐれた仲間と再会し、この地に住み着きました。そして、将来は文さんに仕えるような天狗になりたいと望んだそうです」
「その結果に居るのが貴女、という訳ね」
「そうです! 文さんに仕えるという夢は叶いませんでしたが、こうして一緒に働けるというだけで、わたしの一族には至上の喜びなんです!」
嬉しげに、もう本当に心から喜びながら彼女は言います。その表情は私には眩しすぎて、でもどこか羨ましく思えました。
何だかんだで私も結構長く生きています。そんな中で、まさかこんな大層な望みを持たれているとは思っていもいませんでした。
「……でも、どうして貴女の代になるまでその想いを果たせられなかったの?」
と、思わず問い掛けた言葉だったのですが、どうやら彼女には地雷だったようです。喜びから一転、一気に萎んでしまった彼女は、それでも気丈に振舞いながら、
「お恥ずかしながら、我が犬走家はあまり人化が得意ではなくて。その為なのか、天狗として高い神通力を得る事が出来ず、わたしが生まれるまで自警隊に加わる事すら出来なかったんです」
「そうだったの……。ごめんなさい、不躾な事を聞いたわ」
どうりで『犬走』という名前に聞き覚えが無いと思いました。でもだからこそ、彼女が持つ強い想いが納得出来た気がします。……というか、そこまで想っている相手と初めて手合わせをした時に、その相手から馬鹿にされてしまえば、嫌でも頭に血は上ってしまうでしょう。むしろ、そこで失望されなかっただけ私は幸せなのかもしれません。
……って、話を聞けば聞くほど、彼女に入れ込んでしまっている感じが。出逢った当初は面倒臭いという気持ちばかりが先行していましたが、今では逆にもっと頼って欲しくなってきています。
「……ま、これじゃあ仕方ないわね」
「何か仰いましたか?」
「いーえ、なんでもないわ。それよりも、稽古を続けるわよ?」
「はいっ!」
そうして、再び風を放ちます。そろそろ取材の時間なのですが、今日は一日彼女に付き合ってあげる事に決めました。それが彼女にとっても、私にとっても良い方向に繋がる決断になるのだろうと、そんな風に思いながら。
■
そんなこんなで時間は過ぎていきまして。
取材の合間に椛と稽古を行うのが日課となり、それが当たり前の日常となるまで、時間は然程要しませんでした。覚えの良い生徒を相手に稽古を行う事が楽しくなってきたのもありますが、純粋に彼女と一緒にいる時間が大切なものになってきていったのです。
時には椛と共に取材を行ったり、新聞の製作を手伝ってもらったりもしながら、私達は沢山の時間を共有するようになりました。感覚的には、年の離れた妹が出来たような感じでしょうか。
そうして、騒がしくも楽しく、緩やかで暖かな時間が過ぎて行き――
――神様が、やってきました。
人生とは予想通りにはいかないものですね、全く。
2
上を下への大騒ぎ、という言葉があります。混乱しているさまを表す言葉ですが、現在私の目の前では実際にそれが起こっていました。
それはもう描写するのが面倒な位の大騒ぎ。今なら大根が走っていても驚きませんよ、ええ。
「……全く、面倒な場所にやってきたものだわ」
幻想郷に新しい建物が現れるのは、最近では少ないですが珍しい事ではありません。外の世界から屋敷ごと移動してくる妖怪が現に居るからです(最近では紅魔館がそうでした)。
そして、幻想郷に新しい神様が現れるのも珍しい事ではありません。そもそも八百万も居る上に、付喪神として普段大切に使っている道具が神となる場合もあるからです。
しかし、我々天狗のテリトリーであるこの山に、しかもその上に突然神社ごと神様が現れたとなるとその状況は一気に変わってきます。というか大問題です。しかもその神様がこの山を自分達の物にしようとしているとの事で、この問題は天井知らずに大きくなっていくばかり。同僚の話では天魔様まで動いているという話で、正に天地を揺るがす大騒ぎになっているのです。
……とはいえ、忙しいと言っても、しがない新聞記者である私に出来る事は無く、雑務に追われているのが現状なのですが。当然仲間の天狗達も同じように慌ただしく動き回っていて、部屋の中はかなりの五月蝿さに満ちています。なので誰にも聞かれはしないだろうと思いながら「……嗚呼、取材行きたい」なんて呟きを漏らしていると、
「何か仰いましたか?」
どうやら聞こえてしまったのか、隣で私の仕事を手伝ってくれている椛が顔を上げ、問い掛けてきました。彼女は本来防衛の任に就かなくてはならないのですが、まだまだ新人という事もあり、こうして私の手伝いを命じられているのです。
疲れの見える彼女を心配させないように、私は笑みを浮かべ、
「ちょっと独り言。このところ毎日書類整理をしたり、状況確認の為のレポート作成に明け暮れていたから、少し現実逃避したくなったの」
ここ最近、愛用の写真機に触れる機会すら無いのです。当然取材に行く暇などあったものではなく、記者としての私は日々のストレスに圧迫されていくばかり。けれどそれは山で暮らす天狗達全員に共通する事なので、駄々をこねる訳にはいきません。
「ただの戯言ね。気にしないで」
「解りました……」とは良いつつ、椛は書類整理を行っていた手を止めて、何かを考え、「……そういえば、文さんは将棋は嗜まれますか?」
「ええ、まぁ、それなりには」
突然何を、とは思いつつも頷き返します。ここ百年近くは取材ばかりで将棋をのんびり指す事もありませんでしたが、決して弱くはありません。
「そうですか」
私の言葉に彼女はそう呟き、そうしてまた何か考え込んだと思うと、不意に顔を上げ、
「でしたら、この騒ぎが一段落したあとにでも、私に――」
その時です。
「大天狗様!」
その声と共に、年老いた白狼天狗が部屋に飛び込んで来ました。
警備担当が慌ててやってくる――それは、何か状況に変化が起こった事を意味します。彼の登場に部屋の中は一気に緊張に包まれ、そしてその報告を聞き逃さんと皆が耳を立てるのが解りました。
かなり急いでやって来たのだろう彼は、荒れた息を整える暇も待たず、机を囲んで他の天狗達と対策を練っていた大天狗へと駆け寄ると、
「山に、侵入者が入り込んでおります!」
――それはまるで青天の霹靂のように、全く予期していなかった言葉で。
その一言で部屋の混乱は更に増し、怒号にも似た声が飛び交い始めます。侵入者が現れたという事は、つまり麓から山への侵略を目論む者が現れたという事。恐らくはこの混乱に乗じてこの山を乗っ取ろうという魂胆なのでしょう。
ただでさえ緊迫状態にあった部屋の中は怒声の飛び交う戦場となり、変化しない状況に痺れを切らしていた者達の中からは、今すぐにでも総力戦に持ち込むべきだという過激な意見すら飛び出し――
「静まらんか!」
と、物理的な衝撃を感じそうなほどの声量で、部屋の中に大天狗の喝が飛びました。それは正に言霊。一瞬で部屋の中が静けさを取り戻し、そして改めるように大天狗が白狼天狗へと問い掛けます。
「警備状況はどうなっておるのだ」
「そ、それが、山の上に現れた者達の動向を探るべく、戦力を山の各所に分けております故、侵入者に割く戦力がないので御座います。ですので、ご報告と共に、ご命令の変更をと……」
おいおい迎撃出来てないのかよ、と誰かが呟き、それを切っ掛けに再びざわめきはじめてしまった部屋の中、大天狗と白狼天狗が話を進めていきます。その会話を盗み聞こうと思うのですが、回りの声量が大きすぎて上手く聞き取れません。嗚呼もう五月蝿い。
とはいえ、報道機関の一員である私は見守る事しか出来ません。それはこうやって雑務を任されている状況からして明らかな通り。私の役目は戦いではなく、取材を行う事なのです。
しかし、私の隣で小さくなっている椛は違います。こうなってしまった以上、彼女が駆り出される可能性も――などと思っていたら、お呼びが掛かりました。
「椛」
「は、はい!」
大天狗の言葉に椛が返事を返します。思わず大天狗の顔を睨みつけると、彼はそれを意にも介さず、駆け寄って行った彼女へと指示を与え始めました。
それは白狼天狗と話していた時よりも大きな――部屋に居る天狗達に敢えて聞かせるような声量で、
「お主には侵入者の足止めを命じる。ある程度時間を稼いだら、深追いをせずに戻ってくるのだ」
「わ、解りました」
「そして侵入者の情報をつぶさに伝えよ。解ったな?」
「はい! ――では、犬走・椛、往って参ります!」
そう彼女が大きく宣言し、大天狗へと深く頭を下げ――けれど周囲の天狗達の視線から逃げるように私の所へ駆け戻ってきました。勢い良く啖呵を切ったのは良いものの、やはり緊張してしまっているようです。
私は全身を強張らせる彼女の頭を軽く撫で、そしてその大きな目と視線を合わせながら微笑み、
「気を付けてね、椛」
「は、はい!」
それで少しは緊張がほぐれてくれたのか、彼女の体から多少強張りが抜けました。
そして愛用の大太刀と、巨大な盾を手に椛が部屋を出て行きます。沢山の声援を受けるその背中は小さく、ですが決して弱々しくない力強さがありました。
こういった状況が訪れた時の為に稽古を行ってきたとはいえ、それでも怪我をせず無事に戻ってきて欲しい……そう思いながら彼女を見送ると、大天狗の視線が私に注がれている事に気付きました。
慌ただしさの残る部屋の中、私はその巨躯へと近付くと、
「……なんですか」
「椛が戻ったら、お主に侵入者を向かい討って貰おうと思うてな」
両腕を組み、さも事もなさげに大天狗が言います。全くこの阿呆は脳に花でも咲いているのでしょうか。
「私は報道機関の天狗です。そういった事は、ウチの上司を通してください」
「話ならもう付けてある」
「……何ですって?」と、そう問い掛けると同時に、隣にある会議室から同僚がやってきました。そして私の姿を見付けると、少々困惑のある顔で、
「シャメ。お前に自警隊への協力命令が出たぜ」
うわぁ、本当に話が付いてる……。
「……あー、今聞いたわ。了解しましたと伝えておいて」
「あいよー」
言って、「お前も大変だな」と苦笑しながら同僚が上司のいる会議室へと戻って行きます。私は大きく溜め息を付きながら、呑気に煙管なんざ吸い始めた大天狗の隣へと腰掛け、
「で、一体何を企んでいるんですかこの耄碌爺。今は私なんかが出張るような状況じゃ無いでしょう? というか、いつの間に手回しをしたんです」
「さっきの白狼に頼んでな」
言われてみれば、先程までここに居た筈の白狼天狗の姿が見当たりません。椛に意識を取られている内に話を進められてしまったようです。不覚。
と、大天狗が紫煙をくゆらせながら、私だけに聞こえるように、
「それにな射命丸。お前が俺を爺と言うのなら、お前だって十分婆だろうが」
「……私に断りもせず、勝手に老ける事を選んだアンタに言われたくないわ」
昔の口調に戻りながら言う彼にイラっとしながらも、私も彼だけに聞こえるように言い放ちます。正直言いたい事はたっぷり七百年分ぐらいあるのですが、今はそんな事を話している場合ではありません。
「で、どうして私なんです。取材を行えというのならまだしも、迎撃は私の範疇外ですよ」
私の言葉に、大天狗はさも困っているかのように顎鬚を撫で付けながら、
「実はな、手が空いているのがお主しかおらんのだ。上手くいけば侵入者に関する情報を全て独り占め出来る訳じゃし、悪い話ではなかろう?」
確かに悪い話ではありません、しかし、誰かが侵入者に対する情報を独占する、などといった状況では既に無くなっているのです。それなのにも拘らずこうして私に話を持ち掛けてきたという事は、相応の裏があるに違いありません。
「……何か釈然としませんが、まぁ良いでしょう」
「頼んだぞ。彼奴等を山に入り込ませぬようにな」
「解っていますよ」
そう答えて、大天狗の手から煙管を奪い、軽く一口。
書類整理以上に気が進みませんが、椛が頑張って情報を仕入れてくる筈なので、それに応えられる働きはしましょう。
何よりも誰よりも、彼女の期待に答えられるように。
とまぁ、この時の私は、この後に訪れる状況をまるで予測出来てはいませんでした。
まさか、侵入者が博麗・霊夢と霧雨・魔理沙だとは思いもしなかったのですから。
■
そうして、ピンチをチャンスに変えた私は功労賞を貰うほどに褒められ、八坂・神奈子や東風谷・早苗と戦う霊夢達の様子を的確に報告した椛は私以上の賞や褒美を頂く事になりました。
山に大騒動を呼んだ今回の事件はこれで終結し、私達の間にようやく平穏がやって来たのです――と思ったら、今度は神様を招いた宴会の毎日が始まりました。
朝も早くから宴会は始まり、そして次の朝まで宴会が続きます。呑んで歌って騒いで踊る。酒宴は終わる事を知らずに新たな宴会を巻き起こし、溜まりに溜まったストレスや疲れを発散するかのように際限なく続いてきます。
まぁ、楽しいから良いのですが、それも毎日のように続いてくると少し飽きてくるもので。それに、お酒に強く、酔い難い体質である為か、際限なく高まっていくテンションに段々付いていけなくなってきたというかなんというか。
そろそろ写真機を片手に取材にでも行きたいなぁ、などと思い始めた、そんなある日、
「居た居た居ました文さんですよ! ようやく見つけましたよー!」
結構顔が赤く、なんだかとても陽気そうな表情で椛がやってきました。そして私の目の前にすとんと座ると、手に持った一升瓶をその間にどんと置き、
「さぁ開けますので呑みましょう! らめって言っても呑んでもらいますよぉ!」
呂律が上手く回っているようで回っていない口調で言う彼女に私は苦笑しながら、
「それは良いけど……椛、貴女結構酔ってるわよね?」
「酔ってません! 酔ってませんのですよ!」
そう、酔っ払いなら誰でも言うような一言を口にしながら、何が楽しいのかおかしそうに笑い出してしまいました。その様子を微笑ましく眺めつつ、私はちょっと気になった事を問い掛けます。
「それで、さっき『ようやく見つけた』って言っていたけど、それはどういう事なの?」
「あ、それはですねぇー、わたしが文さんをようやく探し出せたという事なんですよー! えへへ」
あれ、答えになってない。そう思う私を前に、嬉しげに椛が笑います。ああもう、こういう状況でも可愛いのねこの娘は。撫でてあげましょう。うりうり。
「やぁ、くすぐったいですよぉ」
と、逃げようとする椛の頭を撫で回しつつ、探し出せたという言葉から、彼女の言わんとしている事は読み取れました。
現在私達の居る宴会場は上座・下座関係なく、天狗や河童が一同に介して大宴会を行っています。それは、一度場所を動くとすぐにそのスペースが消えてしまうほどの混雑ぶりで、にも拘らずその総数は減らずに増え続けているという有様なのです(もし今この状況で山に攻め込まれたら、確実に我々は負けるでしょうね。何せ哨戒に出ている筈の白狼天狗の一人が、私の腕の中で頭を撫でられているのですから)。
そんな中で特定の一人を探し出すというのは、椛の能力を持ってしても困難だったに違いありません。しかも、彼女は今回の事件で一躍有名になってしまいましたから、探している最中も沢山の天狗達に声を掛けられた筈です。こうしてすっかり出来上がってしまっているのも、その先々でお酒を呑んできたからなのでしょう。
その陽気な様子を見るに、お酒に弱いという事は無さそうですが……でも、多少は無理をしてしまった筈。私の方からも彼女の事を捜せばよかったのに、悪い事をしてしまいました。そう思いながら彼女に謝ると、しかし何故か楽しげに、
「だいりょーぶです! 友達がいっぱい出来ましたから!」
「友達?」
どうやら、私を探している間に沢山の天狗や河童と出逢った結果、多くの友人を得る事に成功したようです。以前彼女は『昔から訓練ばかりで、実は友達が少ないんです』とこぼしていた事がありましたから、今日の出逢いは彼女にとってプラスに働いていくに違いないでしょう。
「良かったわね」
その言葉と共に開放してあげると、椛は少し残念そうな顔をしながらも、
「はい! では開けますから呑みましょう!」
嬉しげに楽しげに言って、彼女が一升瓶を手に取りました。ここ暫くは椛もストレスの溜まる毎日でしたでしょうから、開放された事が、そして自分の働きが褒められた事が嬉しくて堪らないのでしょう。
そんな彼女のテンションがこちらにも伝染して来て、なんだか酔ってもいないのに楽しくなってくるのを感じながら、私は椛からお酒を注いでもらいます。そして今度は私が彼女のコップにお酒を注ぐと、『乾杯』の一言と共にコップを打ち合わせ、そして一口。
飲み慣れている筈なのに、舌に残る日本酒の甘さをやけに強く感じて――
そうして、宴会の日々は過ぎていきました。
3
宴会も小康状態に入り、さていい加減取材を始めないといけませんね、なんて思っていた矢先に入って来た『神社に二人目の神様が居た!』という衝撃の事実から一ヵ月。
小出しにして読者の気を引くのは連載記事などで良くある手法ですが、こういった状況では勘弁して欲しかったですね……。なんて事を同僚と話しつつ、ようやく平穏を取り戻した山で、私は少々手持ち無沙汰な状況にありました。
何でしょう、こう、予定がぽっかりと開いてしまっている感じというか。解りやすく言えば、自分一人で自由に使える時間が増えた感じで。つまりまぁ、以前と同じ生活環境に戻った訳でして。
なので今までの分を取り戻すかのごとく、取材に撮影に明け暮れようと思ってはいるのですが……どうもこう、そこまでテンションが上がってくれず。
必要最低限のルーチンワークをこなした後、私は同僚と一緒に熱い日本茶を飲みながら、ここ最近多くなってきてしまった溜め息をひとつ吐きました。
すると、同僚が器用に方眉を上げ、
「どうしたシャメ。溜め息とはお前らしくない」
「そうかしら」
「ああ、そうさ。ようやく開放されたってのにそれじゃあ、やっぱり名残惜しいのか?」
にやにやと笑いながら聞いて来る同僚に「そんな事はないわ」と答え――でもやっぱりそうなのかなぁと思っている自分が居ました。
そう、私は開放されたのです。
犬走・椛に稽古をつけるという、あの妙な役回りから。
終わりは突然でした。まぁ、始まりも突然でしたので、それは予測の範疇内でなければいけなかったのでしょうが……不覚ながら、私は椛との関係がこの先もずっと続いていくものだと勝手に思ってしまっていたのです。それは彼女と過ごす時間が思いのほか楽しく、充実したものになってきていたからで――まぁ、正直に言えば、失うのが惜しくなっていたのです。
ですが、守矢神社転移によるいざこざが終了したあと、その功績を認められた椛は、私と呑気に稽古をやっていられない立場にまで昇格してしまったのです。これは流石の本人も困惑していましたが、周囲の勧めもあり、彼女はそれを受け入れました。
そうして、いとも呆気なく、私と椛の関係は終了したのです。
まぁ、そうは言っても、逢えば挨拶を交わします。ですが、以前のように二人っきりで一日を過ごしたりするような事はありません。
ありませんが……しかし、その立場が変わったとはいえ、椛は哨戒を任されている白狼天狗。その役職自体に変化がない以上、彼女は暇を持て余している筈なのです。
なので、
「……なにか釈然としないのよね」
「何がだ?」
「……相手が明らかに暇なのをこちらが知っている状態で、その相手に『暇じゃない』って言われたらどう感じる?」
「そりゃあアレだろう。相手に避けられてるか、嫌われてるか……」と、そこまで言って気付いたのか、同僚が表情を固くし「……って、シャメ、もしかしてお前、」
「……みなまで言わないで。これでも結構凹んでいるんだから」
そう、今の私は椛に避けられているのです。
山の上に神社が出来たとはいえ、山に侵入者が入り込む頻度は以前と殆ど変わりません。時折白黒の服を着た陽気な人間が山の実りを奪いに来る事があるようになったくらいです。そんな状況下で白狼天狗達にする事がある訳も無く、彼等は今日も、以前と変わらず河童達と将棋を指したりしつつ時間を無為に潰しています。忙しく幻想郷中を飛び回っている私達からしてみれば嫌味のような話ですが、彼等にとってはそれも仕事のようなものなのですから、別に良いのです。問題は、椛もその中に加わっているという事。
何も以前のように稽古を、などと言っている訳ではありません。ただ、暇な時間があるのなら、一緒にお茶を飲んだり散歩をしたりといった事も出来る筈。ここ暫くはそれが日常になってしまっていた私からしてみれば、そういった事ぐらいには付き合ってくれそうなものだと思っていたのですが……実際には、こうして同僚と熱いだけのお茶を飲んでいる始末。
テンションの低下と手持ち無沙汰の原因はそれなのです。椛の為に割いていた時間がごっそり空き時間になってしまった為に、私は以前の感覚を取り戻せずにいたのでした。
同僚は私の言葉に「そうか」と小さく呟き、立ち上がると、
「何か、お前が元気になれそうな記事でも探してきてやるよ」
そう、私の肩を軽く叩いて部屋を去っていきました。同僚のそういったベタベタしないところは個人的に好印象なのですが、流石に今はもう少しぐらい付き合ってほしかったなぁというのが正直なところ。
らしくないな、と思いながらも、少し前に椛から言われた一言を思い出します。
その日は珍しく一日仕事が入っていなかったので、久しぶりに一緒にご飯でも食べようかと彼女を誘ったのです。ですが、
『あ、あの、ちょっと忙しいので……。ごめんなさい』
少々困ったように目を逸らし、こちらを避けるかのように告げられたその一言は、私に結構大きなダメージを与えてくれました。こう、ぐっさりと。
それから何度か誘いを掛けてみたのですが、その尽くが轟沈。そうして今では彼女の元へ向かってすらいません。当然、向こうからの連絡も無く。
「……」
彼女が与えてくれていた信頼。それが永遠に続くものだと、どこかで錯覚していたのかもしれません。この世に永遠などというものはなく、長く続くと思っていたものほど簡単に壊れると、今までにも何度も経験してきたというのに、それを忘れてしまっていたようです。
「――って、これじゃあ本当に老人のようだわ」
耄碌するにはまだまだ早過ぎます。久々だったのでちょっと凹んでしまいましたが、生きてればいろんな事があるもの。絶縁を告げられた訳ではないのですし、ゆっくりと関係を改善していけば良いでしょう。まだお互いに生きているのですからね。
私は意識を切り替えるように残ったお茶を飲み干すと、湯飲みを片付け、午後の取材に出かける事にしました。
■
風の噂を聞きながら、様々な場所へと出かけます。
とはいえ、見知った相手からは警戒されてしまったり、或いは嬉々として勝負を挑まれたりして、意外に取材は進みません。
特にこれといった収穫のないまま、世界は段々と夜に近付き始め――上空の特等席で美しい太陽が沈んでいくのを眺めてから、私は山へと戻る事にしました。
■
で、山に戻って来てみれば、同僚の発行した号外がバラ撒かれている始末。
見出しには大きく、
『思い悩む射命丸・文! その心中に迫る!』
なんて書いてありまして。怒りよりも先に、この短時間でこれだけしっかりとした号外を創り上げた技術に脱帽してしまいました。しかも掲載されている少し憂いを帯びた私の写真(これは多分去年の花見の時に撮った写真でしょうか)が見事に記事とマッチしていて、新聞としての出来には文句の付けようがありません。何でしょう、これが才能の無駄遣いというヤツですか。
とはいえ、ざっと見たところ記事の内容は九割以上が嘘で、しかも私が何か重大な悩みを抱えた悲劇のヒロインかのように演出されています。そこに椛についての事は一切降られておらず、それが同僚なりの優しさであり、更には私から必要以上の怒りを買わない為の防衛線である事は明白でした。
しかし、そもそもこんな号外を発行した時点で面白がっているのは確実な訳でして、この号外が発行された事により今後被るだろう迷惑などを考えると、このまま流す事など出来ません。
まずは居場所を突き止め、そして三分の一ぐらい殺しましょう。その上で、新調したと言っていた写真機を頂きましょう。嘘とはいえ、勝手に記事にされた事から来る精神的苦痛に比べたら安いものです。
と、普段は自分も似たような事をしている事実は風の彼方に忘れつつ、私は我等が報道機関の本拠地である大部屋に入ろうとし……部屋の中から何か言い争っているような声が聞こえてきている事に気付きました。
何かトラブルでも発生してしまったのでしょうか。突然の状況に少々焦りながら部屋の扉を開き、中へと入り――そこで、私は意外なものを目にする事になりました。
「一体これはどういう事なんですか?!」
巻き起こっている状況の中心に居るのは、号外を強く握り締めながら声を上げる椛と、
「や、だから、これは……」
久々に嘘だけの新聞を出してみたんだ! なんて事実を言うに言えなくなっている同僚の姿がありました。周囲に居る者達はその様子を面白がっているのか、追い詰められていく同僚を助けようともしません。中には自前の写真機をこっそりと構え、この状況を記事にしようと企んでいる者まで居る始末。そんな普段と変わり無さ過ぎる状況に、今更ながらに山に平和が戻ってきた事を痛感していると、椛の剣幕に押されてどんどんと部屋の隅に追い込まれて行っている同僚が私に気付いてしまいました。
「お、おい、シャメ! 射命丸! 助けてくれ! いや、助けてください!!」
余裕なさげなその姿に、悩み多き乙女なので無理です、と返事を返そうとしたところで椛が私に気付きました。彼女は私の姿を見て一瞬驚いたように目を丸くすると、
「――文さん!」
同僚の襟元を締め上げていた手をぱっと放し、心配げな表情で彼女が言います。それはまるで心の底から私の事を案じてくれているかのようで、避けられてしまっていたのが嘘だったかのようで。
その表情に偽りがあるとは思えず、という事はつまり私は嫌われていなかったのかもしれなくて、でも少し臆病になってしまうのは、一度はその信頼を失ったと感じたからで――って、今更ネガティブな思考を続けても仕方ありません。
こんなにも心配して貰えている。その事実が全てなのですから。
「椛」
「は、はいっ」
「色々と聞きたい事はあるでしょうし、私も言いたい事があるけれど……まずは、ソイツを三分の一殺しで。私が許可するわ」
「解りました!」
そう力強く頷くと、椛は犬のように順々に、「お情けをぉぉぉ!」と情けない叫び声を上げる同僚へとにじり寄っていき――
その後、手も足も出なかった同僚の情け無い姿が記事となり、それが切っ掛けで『射命丸・文を敵に回すと恐ろしい事になる』という不名誉な言い伝えが広まっていく事になるのですが……それはまた別のお話です。
■
一連の騒ぎが治まったあと、私は自室にて椛から詰問を受けていました。
「この新聞、一体どういう事なんですか? 文さんが居なくなってしまうなんて、私は嫌です!」
自分の事を心から信頼してくれている(のだと思いたい)少女に心配げな表情でそんな事を言われると、私だって心が痛く――って、
「……私が居なくなる?」
「そうです! えっと、新聞のこの部分……」
差し出されたそれを手に取り、椛が指差す部分へと目を通していくと、見方によっては『全てを捨てて旅に出る』とも言わん事も無いようなニュアンスの文章が綴られていました。……まさか読み飛ばしていた部分に重要な事が書かれていたなんて。不覚です。
そして、それを踏まえた上で新聞を読み進めていくと、最後には私が旅立ちを決意したかのように感じられるではありませんか。そう、それは決して断言されていないのに、結末に到るまでの文章がそれを明確に裏付けている――そんな同僚の文章テクニックに驚かされます。椛がこれを真に受けてしまったのも仕方ないと言えるでしょう。それほどまでにこの号外は『読み物』としての完成度が高かったのですから。
私は、『自分達報道機関の天狗が、時折お遊びで嘘だらけの新聞を出す』という事を説明してから、
「ここに書かれているのは全部嘘なの。だから、心配しなくても大丈夫」
「ほ、本当ですか?」
「ええ、本当よ」
微笑みながら告げると、ようやく安心出来たのか、椛が全身から力を抜き、
「良かった……」
そう小さく呟くと、ちょっと聞き捨てならない一言を口にしました。
「近頃文さんに避けられてるみたいだったので、わたしが何かしてしまったんじゃないかって、凄く心配だったんです……」
私が椛を避けている? 椛が私を避けているのではなくて?
一瞬そう問い掛け直そうとして、しかし私はすぐにその言葉を飲み込みました。彼女の様子を見るに、明らかにそうではないと気付いたからです。ですが、そうなると私達が擦れ違ってしまってしまった原因が解りません。そこで私は、ここ最近の自分の行動を改めて振り返ってみる事にしました。
同僚に話した通り、椛を誘い、そして断れたのは確かです。その後も何度か彼女を誘いましたが……避けられていると判断した私は、こちらから一切彼女と連絡を取る事を止めてしまいました。誰かに椛の話を聞く、などといった事もしていなかったのです。
しかし、ここに間違いがあったとしたらどうなるでしょう。つまり、椛が本当に忙しかった場合です。でも、私はその可能性をすぐに捨ててしまいました。自警隊の天狗イコール暇、という方程式を半ば無条件に信じてしまっていた為に、彼女が本当に忙しい状況にあるという事を想像出来なかったのです。
そして一度『自分は避けられているのではないか?』などという疑心に囚われてしまえば、暗鬼に襲われるのは必至です。実際、椛の口からは何も聞いていないにも拘らず勝手に凹んでいましたし、そんな私へと彼女の方から声を掛けてくるのは難しかったでしょう。
そうして時間が過ぎていき、こんな新聞が発行され、私を心配し続けてくれていたのだろう椛は居ても立ってもいられなくなってしまったのでしょう。そうして、同僚へと詰め寄ってしまった訳です
悪い事をしてしまいました。私はそう思いながら、椛を安心させるようにその両手を握り、
「避けてなんていないわ。ただ、貴女が忙しそうだったから」
「そうでしたか……」良かった、と言わんばかりに呟いてから、「すみません、少し学びたい事がありましたので、それで……」
「学びたい事?」
一体何でしょう。そう思いながら聞き返すと、
「将棋です」
「将棋?」
飛び出してきた意外な単語に、どう反応して良いのか一瞬解らなくなってしまいました。そんな私へと、椛は少し陰りのある笑顔で、
「はい。わたしは今まで、そういった遊びを知りませんでしたので」
それは意外な――しかし、言われてみれば納得出来る言葉でした。
犬走家の期待を一身に背負う事となった少女に、今まで遊ぶ時間など無かったのでしょう。以前言っていたように、彼女は友人を作る暇すらも無かったのですから。
今では地位も上がり、友達も沢山出来て、ある程度自由な行動が出来るようになった筈です。そこに来てようやく、初めてそういった文化にも触れられる余裕が出来てきたに違いありません。私と居る時は、何だかんだで稽古が一番になってしまっていましたから。
とはいえ、数ヶ月前のあの日、初めて椛と出逢った時に感じた真剣さの本当の理由が解ったような気がしました。そして、彼女がここまで私を慕ってくれる理由も。……何せ、彼女にはそれしか寄る辺が無かったのでしょうから。
「文さんのお誘いを断るのは心苦しかったのですが、あれは結構覚えるのが難しくて……。でも、ようやく教本無しでも指せるようになりました!」
元気に告げる椛を前に、なんだか体の力が抜けてしまいました。
彼女は私を避けていたのではなく、急いで私と対戦したいと焦っていたのでしょう。困ったような表情は私を嫌いになったのではなく、新しい知識を得ようと必死になっていた為だったのです。だというのに、私は彼女が変わってしまったと勝手に勘違いを続けてしまっていました。
私は将棋の面白さを語り始めた椛の頭を軽く撫で、ごめん、と小さく呟いてから、
「……正直に言うとね、椛に嫌われたんじゃないかって、不安だったの」
「わ、わたしが、文さんを?」
「そう。……少し臆病になっていたのかもしれないわ」
形あるモノも無いモノも、いつか必ず失われる。それを千年近い人生の中で何度も体感してきましたから、新しく得た椛との関係が少し擦れ違っただけで、もう全てが終わってしまったかのように錯覚してしまっていたのです。
そんな私に、椛は真っ直ぐな視線と共に、
「そんな事言わないでください! 文さんは、わたしにとって一番大切な人なんですから!」
そう真剣に告げられたその言葉は、紛れもなく彼女の本心で……純粋で真っ直ぐなその言葉に、心が大きく震えました。
以前、彼女の犬のようだと評価した事がありましたが、あれをこの場で訂正する事にします。彼女は犬などでは無く、気高い狼なのです。そして私は彼女を率いる群れのリーダーに選ばれたのでしょう。だからこそ、彼女の眼には迷いが無いのです。
しかし、当の私はそんな彼女の機嫌が解らなくて右往左往していて、
「……全く、これじゃあ私の方が犬みたいね」
ご主人の機嫌が解らなくて、尻尾をどう振って良いのか解らない犬。
想いは口に出さなければ伝わらない、などと良く聞きますが、確かにそうだと痛感します。数回誘いを断られた程度で壊れるほど私達の関係は脆くなく、そこから何度も話を聞くチャンスはあったのですから。
「でも、どうして将棋を?」
「以前から興味はあったんです。それに、文さんも将棋を嗜まれると仰っていたので、私がそのお相手になれたら良いなと思って。本当は文さんに教えて貰うつもりだったんですが……色々と状況も変わってしまいましたから」
将棋というのは一局に時間を必要とし、そして先を読む力を強いられる為に頭を使います。その面白さに反して、あまり手軽なものではないのです。私に将棋の勉強を頼まなかったのは、それを踏まえた上での彼女の優しさなのでしょう。例の神様騒ぎの間、私は一切取材に出る事が出来ませんでしたから、それを邪魔しては悪い、なんて考えたのかもしれません。……当時、彼女も辛いのだと解っていても、何度か愚痴ってしまいましたし。
「それに、稽古以外にも文さんと出来る事があれば良いな、とも思っていたので」
腰から伸びている撫で心地の良さそうな尻尾をぱたぱたと揺らしながら、照れた様子で椛が言います。……狼とか言っちゃいましたが、やっぱり彼女は犬かもしれません。しかもなんだか『撫でてください』と暗に言われているような気がしてきましたよ? こうなったら思う存分撫でて弄ってもふってあげましょう。
……私からの謝罪なんて、彼女は望んでいないでしょうから。
「という事で、確保っ」
「わ、」
「本当にもう貴女って子は可愛い事を言うんだから!」
「や、耳は、耳はー! 尻尾はもっと駄目ですー!」
逃げようとする椛をひッ捕まえて、私はその撫で心地の良い頭を思う存分撫で回します。あと尻尾も。遥か以前に見た白狼のそれを彷彿とさせる美しい毛並みはとても撫で心地が良くて、今までこうしなかったのが不思議なほどの魅力を持っていました。
そうして、時が経つのも忘れて彼女を撫で続け――
「……これからも宜しくね、椛」
不意に告げた言葉に、椛が真っ赤な顔で私を見上げ、
「は、はい。こちらこそ、宜しくお願いします……。……あと、その、」
「ん?」
先を促すように少し首を傾げると、彼女は真剣な表情で私を見つめ、
「……これからも、わたしに稽古をつけて頂けますか? 地位が変わっても、新人じゃ無くなっても、ずっと、ずっと……」
不安げに問い掛けて来る彼女に、私は微笑みを返し、
「私で良ければ、いくらでも」
「良かった……」
安心したように小さく呟いて、椛が力を抜きます。
彼女が将棋を習い出した理由の中には、地位が上がってしまった事で私との接点が無くなってしまう、という不安があったのかもしれません。そして今まで稽古に使っていた時間に出来る事を探して、見付け出せたのが将棋だったのでしょう。
彼女の髪を優しく撫でながら、私はそんな事を思い――同時に、その信頼に応えられるような存在であり続けようと心に決めます。
形あるモノも無いモノも、いつか必ず失われる。でも、それを大切に護っていけば、それは世代を越えて受け継がれるほどの強さを持つのですから。
■
こうして、私の生活に日常が戻ってきました。それは数ヶ月までは異常であったもので、しかし今では大切な『当たり前のもの』です。
本当に、人生とは予想通りにいきません。
でも、だからこそ、こんなにも面白いのでしょう。
そんな風に思いながら、私は今日も取材へと向かいます。
文花帖と写真機、そしてお供に親愛なる白狼を連れて。
end
いや、椛!俺と代わってくれ
ほのぼの天狗社会っていいな。やる気のないような、あるような文がいい味で出してます。
しかし椛はいじられるのが前世からの約束でもあるかのようにハマってるなぁ。
椛かわいいよ椛。
椛をいじったり避けられてると思ったらへこんだり、ああもうあやや可愛いよあやややや
シャメって呼称も結構ツボでした。
新聞、同僚、大天狗、風神録、使いどころ上手すぎでしょう。
文と椛の始まりから現在までの流れに鼻から紅茶が出そうです。
ご指摘のあった誤字を修正致しました。
2章が個人的にベストでした。大天狗との会話とか酔った椛とか。
哀れ三分の一殺しされた同僚は…相手が悪過ぎたw
ところで椛の耳と尻尾をもふもふうりうりしたいんですが…駄目ですかね文さん?