枯れ草のように殺伐とした、黄昏の空。
雲も風も無い、無愛想な空の上、
2人の神が対峙していた。
「お前が、洩矢の神か?」
八坂の神が口を開いた。
洩矢の神は空を見上げたまま、まるで無反応。
両の肩に交差させるように下げられた大きな鉄の輪が、時折呼吸に合わせて揺れている。
聞こえなかったのか?
八坂の神がもう一度口を開こうとして、
ようやく洩矢の神がこちらを向いた。
「・・・そうだが?」
まるで興味がない、といった、そっけない答え方。
それに、八坂の神は苛立ちを覚える。
空を見上げるという行為よりも優先順位が低い、と思われている気がした。
「ここらの神の中では一番強いそうじゃないか。」
洩矢の神は答えない。
氷のように冷たい、切れ長の瞳をこちらに向けたまま。
「他の神じゃ弱すぎて相手にならなくてね。
ちょいとばかり退屈してたのさ。」
八坂の神は最近急速に力をつけてきた神で、その上好戦的。
腕試しとばかりに、手当たり次第にそこらじゅうの神を張り倒してきた。
手ごたえのなさに退屈し始めていた頃に、丁度洩矢の神のことが耳に入ったのだ。
洩矢の神は、この辺りの神の中では段違いに強いという。
「まあつまり、あたしと戦えってことさ。」
にやりと自信に満ちた顔で、洩矢の神を指差した。
洩矢の神の瞳に、一瞬だけ炎が宿った。
「我に、戦え・・・だと?」
くだらないジョークを聞いたときの、力の抜けたような笑い。
ジョークを言ったつもりはない。
八坂の神は不機嫌そうに口を尖らせる。
「やるのかい? やらないのかい?
尻尾を巻いて逃げ出すってんなら逃がしてやってもいいよ。」
それに今度ははっきりと、声を上げて笑った。
八坂の神は本気で言っているのだ。
それが、洩矢の神をさらに笑わせた。
よもや、いまさら我に戦いを挑もうとする神がいようとは・・・。
身の程知らずも甚だしい。
「・・・・・・ふっ、いいだろう。
来い、若輩。身の程を教えてやる。」
「上等!」
八坂の神が右腕を振り上げた。
すると、それに呼応するかのように、激しい地鳴りが始まった。
洩矢の神が足元の、遥か地上を見下ろすと、
そこから砲弾のような勢いで、巨大な石の柱が撃ち上げられてきた。
洩矢の神は優々と体をそらしてそれをかわす。
標的を失った石柱は遥か上空へと飛んで行き、
「ほう。あれほどの大きさの柱を一瞬で削りだしたか。
あながち期待はずれというわけでもなさそうか。」
「その余裕、すぐに消してやるよ!」
2発目。
そして間髪いれずに3発目。
猛烈な勢いで地上から撃ち出される巨大な柱を、
洩矢の神は紙一重で避けていく。
八坂の神の一方的な猛攻。
洩矢の神は様子を見るように、
いや、品定めをするかのように避けに徹する。
「どうした? その肩に下げた鉄の輪はお飾りかい!?」
すでに8本の石柱を避けたところで、
洩矢の神が唐突に動きを止めた。
それにあわせて、八坂の神も攻撃を一旦やめる。
洩矢の神がなにかを仕掛けるつもりらしい。
八坂の神は余裕に満ちた態度でそれを待つ。
洩矢の神は両の肩に引っ掛けた、2本の大きな鉄の輪を肩から外すと、
体をひねり、遠心力を乗せてそれをぶん投げた。
2本の鉄の輪が高速で回転しながら、八坂の神に向かっていく。
角などない円柱を曲げて繋いだような輪だが、触れれば日本刀のごとく切断されそうなほどの勢い。
それが八坂の神に直撃する直前、
八坂の神はその鉄の輪を、ばしっとなにかではたいた。
鉄の輪は八坂の神には当たらずに軌道を曲げ、洩矢の神の元までブーメランのように戻ってくる。
「・・・・・・ほう?」
洩矢の神は戻ってきた鉄の輪を見て、わずかに目を見開いた。
錆びている。
鉄の輪が一瞬にして、ぼろぼろの錆の固まりとなっていた。
八坂の神が得意げに掲げたのは藤の枝。
「なるほど、口だけではなかったようだな。
確かに、貴様ほどの力なら、この辺りの神では相手になるまい。」
「だろう? 本気でやる気になったかい?」
「・・・そうだな。少しだけ、見せてやろう。」
洩矢の神が右手を挙げて、空を指差した。
「あん?」
それにつられて、八坂の神も空を見上げた。
雲ひとつなかった黄昏の空。
そこに、雲が集まりだしていた。
風で流れてきたのではない。
集まりだしたのだ。
360度全方向から、風の流れというものをまるで無視して。
どんよりとした墨色の雲が、瞬く間に空を覆いつくした。
やがて、パラパラと雨が降り出す。
流石はミシャグジ様。
雨乞いはお手の物、というわけか。
「・・・っていうか、ちょっと降らせすぎじゃないかい?」
雨は瞬く間に激しさを増して、すぐにバケツをひっくり返したような豪雨になった。
ついに空まで鳴り出した。
ゴロゴロと唸るように鳴く空。
まるで、獲物を狙う虎のような―――
「お、おいおい。まさか・・・?」
流石に八坂の神の顔が引き攣った。
そんな八坂の神をまるで無視して、
洩矢の神は忠告した。
「避けろよ?」
天罰『建御雷の剣』
―カッ!!
「ぉおッ!?」
よくわからない悲鳴をあげて、八坂の神が大きく飛びのいた。
雷だった。
天より振り下ろされた神速の一閃。
間一髪、ギリギリで避けることができた。
流石の神でも、あんなものを食らえばひとたまりもない。
「ほう、本当に避けたか。やるな。」
「・・・・・・ッ、はっ、余裕さね!!」
違う。
避けたじゃない。
体が勝手に反応して動いただけ。
避けたというよりも、当たらなかっただけだ。
ただの偶然に過ぎない。
次も凌げる保障はない。
「そら、2発目いくぞ。」
「わっ、ちょっ、たんま!?」
―カッ!!
「うひィ!?」
2発目も何とか避けた。
これまで神と戦ってきたときに養われた勘が、
八坂の神の体を勝手に動かしていた。
(くそっ、このままじゃいずれやられる・・・!!)
八坂の神も、柱を撃ち上げて応戦するが、
洩矢の神は余裕すら漂わせてそれを避け続ける。
何発撃っても当たる気がしない。
「くっ、はぁ・・・、はぁ・・・。」
「もう終わりか。とんだ期待はずれだったな。」
洩矢の神が空を指差してとどめの雷を
―パラッ...
「・・・ん?」
なにかが落ちてきた。
空から、土塊・・・?
地上よりも遥かに高いこの場所で、上から土塊が降ってくるはずがない。
怪訝に思って上を見上げると、
「おっと、もうバレちまったかい。」
上空に柱が停滞していた。
その数、12本。
八坂の神が地上から撃ち出していた、あの巨大な石柱。
なるほど。
先ほどから柱を撃ち上げていたのは、このための布石だったか。
「まあ、いまさら気付いても遅いがねぇ。」
八坂の神は親指を突き立てると、
それを逆さに反転して、落とした。
「堕ちろ。」
神祭『エクスパンデッド・オンバシラ』
12本の巨大な石柱。
それが、洩矢の神目掛けて一斉に落下を始めた。
今までは1本ずつだった石柱が、
今度は12本同時に襲い掛かってくる。
さあ、これをどう捌く?
1本目。
体をわずかに反らせるだけで交わす。
体勢がやや崩れたところに2本目。
これも危なげなく回避。
しかし、体勢が不安定だったために先ほどよりも動きが大きい。
そして3本目。
今度は明らかに大きな動作で飛びのいた。
小さな動きでは対応しきれなくなり始めているのだ。
まだまだだ。
石柱はあと9本もある。
「・・・やるな。貴様を過小評価しすぎていたようだ。」
「ははん、だろう?」
「我も少し、力を出さねばならんな。」
「・・・は?」
少し・・・?
いや、今まではその少しすら出していなかったってことか?
洩矢の神が、ぐっと拳を握りこんだ。
それに応じるかのように、周囲に降り注ぐ雨粒が、
穴に吸い込まれるかのように急速に洩矢の神の眼前に集まりだした。
瞬く間に、巨大な水球が出来上がる。
それに、さらに雷が撃ち込まれた。
超高圧の電流が、一瞬でその巨大な水球を分解させる。
そこに生まれたのは、千倍以上に圧縮された可燃性の気体。
それが膨張して拡散する前に、火を点けるとどうなるか。
洩矢の神の指先に宿った小さな炎が、そこに撃ち込まれた。
通常ではありえないほどの濃度に圧縮された水素と酸素を一気に貪りつくして、
炎が爆裂した。
憤怒『火之迦具土の焔』
一瞬、耳が聞こえなくなるほどの轟音。
視界を塗り潰す閃光がやんだとき、
柱は残り4本となっていて、残りはバラバラと土塊になって地に降り注いでいた。
(い、今ので5本・・・ッ!?)
なんて無茶苦茶。
こいつは、神としての次元が違いすぎる。
八坂の神はようやく、自分がどんな相手に喧嘩を売っていたのか理解した。
9本目。
洩矢の神に横から蹴りを入れられて、高速で回転しながら彼方の山に突き立った。
10本目。11本目。12本目。
3本同時だ。
洩矢の神は待ち構えるようにそれを見上げて、
「・・・・・・ッ!?」
突然、ビクッと肩を跳ね上げた。
なにかを確認するように、慌てて地上を見下ろす。
「ちっ!!」
柱には目もくれずに、全速力で地上に降りていった。
なんだ?
なにかあったのか?
なにがあったのかは知らないが、
しかし、これはチャンスだ。
洩矢の神は落ちる石柱から目を離した。
当てさえすれば、倒しきる自信はある!!
隙だらけとなった洩矢の神の背中に、精密に狙いをつける。
洩矢の神が地上に降り立った辺りで、石柱が猛烈な勢いで地面に突き立った。
「・・・・・・やったか?」
手ごたえはあった。
おそらく直撃したはずだ。
洩矢の神の追って、八坂の神も地上に降り立った。
突き立った3本の柱の内の1本。
そこに、洩矢の神が下敷きになって倒れていた。
神力が急激に弱っているのが手に取るようにわかる。
勝った。
洩矢の神を倒したのだ。
「はっ、どうだい!? これであたしの勝ちさ!」
敗者の顔を拝んでやろうと、八坂の神は洩矢の神に近づく。
洩矢の神はまだ、わずかに動いている。
しかし、これだけ弱っているのなら、勝ったも同然だ。
八坂の神は洩矢の神を見下ろして、
「・・・は?」
固まった。
洩矢の神の腕の中から、なにかがもぞもぞと這い出してきたのだ。
子供だった。
人間の、子供。
額からわずかに血を流していて、怯えたように倒れ伏す洩矢の神を見つめていた。
洩矢の神がすっと手を伸ばして、子供の額を撫でると、
傷は血の後すら残さずに綺麗に消えた。
「・・・・・・行きなさい。」
突き放すように軽く胸を突くと、子供は一目散に逃げ出していった。
八坂の神は、それをただ呆然と見送ることしかできなかった。
やがて、洩矢の神が口を開いた。
「貴様の勝ちだな。若輩と侮ったのが我の敗因か。」
「ふっ、ふざけるなッ!!」
八坂の神は怒鳴り声を上げて地面を踏みつけた。
こいつは、
洩矢の神は地上に人間の子供が居ることに気が付いて、
それを助けるために勝負を放棄して地上に降りたのか。
勝ったのは実力でも油断でもなく、
ただ人間の子供という邪魔が入ったからに過ぎないと。
こんなものは、勝ちでもなんでもない。
「冗談じゃない。もう一度勝負しろ! 立て!!」
「見ればわかるだろう? 我はもう力を使い果たした。」
「お前が人間の子供なんかのために力を使ったからだろう!?」
人間の子供の傷を治したりなんかしなければ、
あるいはもう一度立てたかもしれない。
それならば、決着も付けられたはず。
それなのに、今は立つことすらできないという。
「納得いかぬか?」
「当たり前だろ!!」
「・・・そうか。ならば、こうしよう。」
八坂の神は怪訝そうに片眉を吊り上げた。
「我は再び力を蓄えるために転生し、永き眠りにつかねばならぬ。
我が眠りにつく間、貴様が我に代わり今の子供とその血族、洩矢の子孫を守れ。
我が力を取り戻し再び目覚めるまで、洩矢の血が絶えていなかったのならば、
その時は、もう一度相手をしてやろう。」
「・・・いいさ。やってやるよ。人間を守るくらい楽勝だ。」
「それともう一つ。
その時までに、貴様に神として足りぬ物を見つけることが出来たのなら。」
「神として、足りない物?」
八坂の神は、それがなにかを聞き返したが、
洩矢の神はそれを教えるつもりはないようだった。
自分で探せ、ということらしい。
「貴様、名は?」
「・・・八坂 神奈子。」
「洩矢 諏訪子だ。・・・洩矢を頼むぞ、八坂 神奈子。」
「約束だからな。必ず守れよ、洩矢 諏訪子!!」
洩矢の神は、首をがくっと折り、
ついに動かなくなった。
それが、八坂の神には頷いて見えたような気がして。
洩矢の神は、光の粒子となって風に消えていった。
* * *
それから、気の遠くなるような永い永い年月がたった。
神奈子は、洩矢の子孫を守り続けた。
もう一度、諏訪子と戦うために。
真の意味で、諏訪子に勝利するために。
それ以上の感情はなかった。
人間を守ること自体に、それほどの意味を感じていなかったのだ。
神奈子にとって、それはただの作業だった。
始めのうちは、諏訪子に代わって神奈子が守護神となることに戸惑った洩矢の一族も、
神奈子を受け入れて崇める様になっていた。
しかし、それも永い月日が経って変わった。
人々の信仰心が減るにしたがって。
人々は、自らの理解を超えるものを神と称し、それらを崇めた。
あるいは、雷。
あるいは、火。
あるいは、太陽。
あるいは、風。
しかし、人々の知識が成長するにしたがって、
それらの不可思議は解明されていく。
神は神ではなくなり、人々は徐々に信仰心を失っていった。
神は力を失っていき、その神から力を受ける巫女も、同様に力を失っていった。
それは洩矢の子孫たちも例外ではなく、
彼らですら神奈子の存在を知覚できなくなっていた。
神通力も扱うことはできなくなり、奇跡を呼ぶ力も使えない。
それでも洩矢の子孫たちに神通力が宿るとされていたのは、
ひとえに神奈子の力だった。
洩矢の子孫たちが火災や落盤、あるいは事故など、
絶対に助からないと思われた状況からでも幾度となく生還してきたこと。
それはもちろん、神奈子が洩矢の子孫たちを守っていたからなのだが、
神奈子の存在を知覚できない、普通の人々からみれば、それらは十分に奇跡だった。
また、力を失った洩矢の子孫も、それが神奈子のお陰だと気付くことはなく、
ただ漠然と、我々には神の加護があるのかもしれない、程度にしか考えていなかった。
神奈子本人も、それを特別気にすることはなかった。
これは人間のためではなく、あくまで自分のため。
諏訪子と再戦するためにやっているにすぎなかったのだから。
洩矢の子孫たちも、本当の意味では神の存在を信じておらず、
神奈子自身も、自分のために人間たちを守るだけ。
神と巫女と呼ぶには、あまりにもドライな関係がずっと続いていった。
諏訪子が言った、『神として足りない物』。
それもいまだ、見つかることはなく・・・。
* * *
その日も、神奈子は退屈そうに神社の庭を眺めていた。
洩矢の子孫が危険に晒されでもしない限り、神奈子には特別することもない。
つまるところ、暇だった。
神奈子のことを誰も認識できない以上、神奈子はこのただっ広い世界にたった一人で居るのに等しい。
他の神も今はめっきりと数を減らして、滅多に顔を合わせることもない。
今はもう、その退屈にすら慣れ始めていた。
「ふぁ~・・・あ。」
神奈子は大きな欠伸を一つ。
構うことはない。
どうせ誰にも見えやしない。
退屈な上、断続的に響く球蹴りの音が眠気を誘う。
庭では6歳くらいの女の子が、一人で鞠を蹴りながら遊んでいた。
確か、最近守矢の神社に生まれた子供だ。
名前は・・・・・・、よく知らない。
神社という特異な実家であり、両親がとても厳格なこともあいまって、
あの少女には友達がいないようだった。
両親もしつけは厳しいものの、遊んでやることあまりないようで、
大抵、ああして神社の庭で一人で遊んでいる。
不憫なことだ。
他人事のように神奈子は思った。
いや、実際他人事なのだが・・・。
そう、あたしにはそんな事情は関係ないのだ。
ただ洩矢の子孫を守るだけ。
再び諏訪子が目覚め、力を取り戻すその日まで。
―ぽーん...
力が入りすぎたのか、球が随分高いところへ飛んでしまった。
運の悪いことに、庭に生えていた松の木の枝に引っかかり、
落ちてこなくなってしまう。
5メートルくらいの高さ。
少女の身長では届くはずもない。
少女は困ったようにしばらく周囲をうろついた後、
どこかにとことこ駆け出していった。
しばらくして、戻ってきた少女の手には枝切り鋏が抱え込まれていた。
わざわざ物置から持ってきたらしい。
うんしょ、うんしょ、と精一杯背伸びをして鋏を伸ばすも、
わずかに及ばず。
あと2年くらい成長すれば届くかもしれないが。
まあ、球をあそこに2年も放置しておくのもどうかと思うがね。
もちろん、神奈子がちょっと手伝ってあげればあっさり球は取れるのだが、
神奈子は動こうとしない。
だって、必要性を感じない。
球が取れないくらいで、あの少女は死にはしないからである。
そりゃ困るくらいはするだろうが、あの少女がいくら困ろうと神奈子の知ったことではない。
あの少女の頑張る姿は、退屈を極めた神奈子にはちょうどいい暇潰しだった。
さて、鋏を使っても届かないと結論を下した少女は、
今度は枝に手をかけ、木を登り始めた。
いやいや、元気があっていいことじゃないか。
少女はあまり運動神経がいいほうではないらしく、
かなりの時間をかけてようやくよじ登った。
神奈子は呆れたようにため息をつく。
どん臭い子だ。
落ちるぞ、ありゃ。
幹に手を掛けたまま、体を精一杯伸ばして球に触れようとするが、
幹に触れたままではやっぱり届かない。
少女は意を決して、幹から手を離して枝を伝い始めた。
枝は少女の体重でぐらぐら揺れるが、なんとか持ちそうだった。
やっとの思いで球に手が届き、少女は球を枝から落とすことに成功する。
大役を成し遂げ、少女はほっと一息。
そこへ、
―さぁぁぁぁ...
少し強めの風が吹き付けた。
少女の体重をギリギリ支えていた枝が、風に吹かれて大きく揺れだす。
「おいおい、空気読みすぎだろう。風なだけに。」
おっ、今うまいこと言った。
一人暢気に、満足げに頷く神奈子。
しかし、少女のほうはそれどころではない。
枝が本格的に揺れだし、ぎしぎしと悲鳴を上げ始めた。
あれじゃあ折れるのも時間の問題だろう。
下は尖った砂利だ。あの高さから落ちればただではすまない。
メキメキ、と枝から致命的な音がして、
そしてついに、少女が落ちた。
枝は、折れていない。
気のせいか、自分から手を離したように見えた。
いや、それは気のせいだろう。
自ら好き好んで砂利の中にダイブしようとするやつなどそうはいるまい。
それはともかくとして、
「よっこいせっと。」
神奈子は爺臭い声とともに体を起こすと、
一瞬で少女の真下まで転移した。
「はいキャッチ。」
―ぼすっ
と、少女は神奈子の腕の中に綺麗に納まった。
その光景を外から見れば、少女が地面に激突する直前に空中に静止したように見えるだろう。
なぜなら、神奈子の姿はいまや誰にも見えないはずだからである。
少女自身も、自分が突然宙に浮いて、なにがなんだかわからないと思っているはずだ。
神奈子は放心している少女をしっかり地面に立たせた。
はい、奇跡一丁上がりっと。
安い奇跡だ。まったく。
少女は、はっと我に返ると、
今まで登っていた松の木に駆け寄って、それをじっと見つめた。
そして、安堵したようにほっと一息。
「折れてなくてよかったね。」
ぽんぽん、と撫でるように松の幹に触れた。
それに神奈子は口を半開きにして驚いた。
なんだって?
それじゃあまさか、
枝が折れそうになったから、自分から手を離して落ちたのか、こいつは?
そんなまさか。
本当にそんなことをしたのなら、馬鹿だ。
松の木よりも自分の身のほうが大切だろう。
植物は生命力が強いから、枝が折れたくらいじゃ枯れたりしない。
だが、人間は植物ほど強くはない。
今ので下手をしたら重症、もしかしたら死んでいたかもしれないのに。
少女は満足げに頷くと、球を拾ってこちらに駆け寄ってきた。
・・・・・・いや、こちらではない。
正確には、境内の少女の住居に、だろう。
その中間に神奈子が立っているに過ぎない。
少女は神奈子の体をすり抜けるように通過し
―ぴたっ
止まった。
神奈子の目の前で、唐突に足を止めた。
それどころか、顔を上げで神奈子をじっと見つめている。
いや、まさか、そんなはずはない。
洩矢の一族は、もうずっと昔に力を失った。
神奈子のことが、見えているはずがない。
そう、きっと空にヒコウキでも飛んでいたのだろう。
偶然それを見上げたに過ぎないのだ。
「ありがとう!」
少女は、ぱっと人懐っこい笑みでそう言った。
神奈子は思わず後ろを振り向いた。
誰も居ない。
再び前を向くと、少女は相変わらず、神奈子のほうを見上げていた。
「助けてくれてありがとう、おねえちゃん!」
今度ははっきりと、神奈子に対して、そう言った。
そんなはずは・・・・・・。
神奈子は恐る恐る、確認するように少女に話しかけた。
「お、お前、あたしのことが、見えるのか・・・?」
「うん。」
少女は頷いた。
「あたしの声が、聞こえるのか?」
「うん。おねえちゃん、ずっとまえからここにいるよね?
おとうさんもおかあさんも、聞いても教えてくれなかったの。」
驚いた。
洩矢の子孫が完全に力を失ってから、もうどれほどの年月がたったのだろう。
今になって、偶然強い力を持った子供が生まれたのか。
だとしたらそれはもう、まさしく奇跡としか言いようがない。
正真正銘、奇跡の力を持つ洩矢の子供。
「お前、名前は?」
「さなえだよ。こちや さなえ!」
それが八坂 神奈子と東風谷 早苗の、最初の出会い。
* * *
その日から、神奈子は早苗とよく遊んでやるようになった。
神奈子が退屈だったから、というのももちろんある。
早苗が一人で遊んでいて寂しそうだった、というのもないことはないかもしれない。
一番の理由はおそらく、2人が似ていたからだ。
信仰心を失い、誰からも気付かれることがなくなった神奈子。
厳格な両親に育てられ、友達の居ない早苗。
その、孤独な所が。
暇さえあれば、鞠つきをしたり、おはじきをしたり、昔話をしたり。
まあ、大抵暇なのでほとんど毎日のことだったが。
人間にほとんど興味がなかった神奈子も、早苗のことだけは気にかけるようになっていた。
なんだかんだ見栄を張ってみても、結局のところ、
神奈子も人が恋しかったのだ。
それからほんの2年ほど経った頃。
その日、東風谷一家は神社の仕事で、3人揃って外出していた。
もちろん、こっそり神奈子もそれについていったのだが、
それはもう、どうしようもないことだったのだ。
連日続いた大雨で、山肌がだいぶ緩んでいた。
東風谷一家を乗せた車が、山道を通る長いトンネルを抜けた直後、
突然、土砂崩れが起こって、東風谷一家はそれに巻き込まれた。
不運だった、としか言いようがない。
唯一幸運だったのは、神である神奈子が傍に居たこと。
そのお陰で、1人だけ助かることが出来た。
早苗だ。このときは8歳である。
事故直後、車は土砂に潰されて半分くらいの大きさにまで潰れていた。
乗っていた3人はほぼ即死の状態だった。
しかし、神奈子のお陰で早苗はなんとか救出することができた。
それでも、早苗の両親までは救えなかった。
信仰心を失い、力の減退した神奈子ではそれが限界だったのである。
なんて、無力・・・。
「ごめん。早苗、ごめん・・・。」
早苗は神奈子を責めるようなことはせず、
しかし、神奈子を慰めるようなこともせず。
ただ、神奈子の腕の中で声も上げずに泣き続けた。
その早苗の姿がどうしようもなく痛々しくて、
その日の夜は、2人でずっと泣き明かした。
8歳にして両親を失い、天涯孤独の身となった早苗。
生活にはそれほど困らなかった。
早苗の境遇を哀れみ、たくさんの寄付が寄せられたからだ。
早苗の実家が有名な神社だった、ということもある。
しかし、真の意味で早苗に同情しているものはいなかった。
誰も早苗を引き取ろうとしなかったのは、そういうことだろう。
口で言うほど、子供を引き取るのは楽なことではないのだ。
しかしまあ、幸いなことに、
早苗は完全に一人というわけではなかった。
神奈子が居たからである。
他の誰からも見ることはできないが、早苗だけは神奈子と交流することができた。
その事件以来、神奈子と早苗の関係はより密接なものとなり、
神奈子は早苗の親代わりとして生活するようになった。
* * *
「おいで~、早苗。昔話をしてやろう。
ほら、膝の上座んな。」
「わーい!」
「さて、今日はなんの話をしてやろうかねぇ。」
「たけみかづち~♪」
「うっ・・・。あたしはあいつのこと嫌いなんだけどねぇ。
ほら、建御名方とか須佐之男とか、ほかにもいっぱいいるだろう?」
「やー!」
「・・・しょうがないねえ、まったく。
じゃあ始めるよ。むかしむかし―――」
* * *
「こら、早苗。ちゃんと人参も食べろ。」
「やー!」
「やー、じゃない。人参だって大切な自然の恵みの一つなんだぞ。」
「やー!」
「ったく、しょうがないねぇ。鼻つまんでもいいから食べな。」
「むぅ・・・。」
「よしよし。偉い偉い。」
* * *
「やさかさま! おはじきやろう!」
「ふっ、いいだろう。身の程を教えてやる。」
「じょーとぉ!」
* * *
「うぁーーーん! さなえぇぇぇええ!!」
「なんで私の卒業式なのに八坂様のほうが泣いてるんですか、もう。」
* * *
「ごほっ、ごほっ・・・。」
「早苗、調子はどうだい?」
「なかなか、熱が下がらなくて・・・。」
「風邪には葱だな。よし、ちょっと待ってな・・・。」
「いえ、あの、それは迷信・・・。」
「あれ、梅干だったか? なあ、早苗、どっちが正解だっけ?」
「正解は氷のうと濡れタオルです・・・。」
* * *
―ピシャーーーン!!
「うひィ!?」
「あら、八坂様は雷苦手なんですか?」
「ば、ばばばばば馬鹿いうんじゃないよ!
あたしゃ神だよ!? 雷ごとき苦手なわけないだろう!!」
「そうですか? 声も体も震えてますけど、気のせいですね。」
「そ、そうだ、早苗! 久しぶりに一緒に寝てやろうか?
いやいや、早苗も一人じゃ心細いんじゃないかと思ってね!
どうだい、優しいだろう?」
「ふふっ、そうですね。お願いします。」
―ピシャーーーン!!
「うひィ!?」
* * *
「ほら、早苗。もっと飲みな!」
「みしぇいねんがぁ、おしゃけのんら~、いけにゃいんれすよぉ~?」
「未成年が酒飲んじゃいけないって?
いいんだよ、神がいいっつってんだから!」
「うぅ~・・・。ぎぼちわるい・・・・・・。」
「はっは~、守矢の一族なだけに下戸下戸ってか? こいつは傑作だ!」
* * *
「早苗。お前、夢はあるかい?」
「夢、ですか。えっと、あるにはありますけど・・・。」
「なんだい? 聞かせておくれよ。」
「ええ~、恥ずかしいですよ・・・。」
「なんだい、恥じるようなもんになりたいのかい?
水商売とかは絶対認めないからね。」
「誰がですかッ!!」
「違うのかい? じゃあ教えておくれよ。」
「あ、うう~・・・。」
「ん?」
「ほ・・・。」
「ほ・・・?」
「保母さんです・・・。」
「ほう。いいじゃないか。なんでまた?」
「八坂様みたいな人になりたかったからですよ。」
「・・・あたしゃ保母さんじゃないよ。」
「知ってます。」
「そうか、保母さんか。ちょっと寂しくなるかねぇ。」
「なりませんよ。巫女を辞めるつもりもありませんから。」
「・・・・・・器用なことで。」
「にやけてますよ?」
「うるさい!」
* * *
月日の経つのは早いもので、
あんなに小さかった早苗はもう立派に成長していた。
もう幾度となく見てきた神社の紅葉を見ながら、
神奈子は縁側でのんびり過ごしていた。
こうして何気ない時間を過ごしていられるのも、
あとどれくらいのことなのだろうか。
神奈子は自分の手を見つめながら、そう思う。
その手はわずかに
―どたどたどたっ
縁側を駆ける足音。
「まったく、人が柄にもなく感慨に耽ってるときに・・・。」
足音の正体は、もちろん早苗である。
「早苗、家の中では走るんじゃない。」
「ご、ごめんなさい。それより、これ見てください!」
よっぽど嬉しいことでもあったのか、
早苗はぞんざいに謝ると、手に持ったものを広げて突き出してきた。
紙。
なにか書かれた紙である。
「理科のテストで90点ですよ!? 快挙です! 歴史的大事件です!
今夜は盛大にお鍋にしましょう!!」
あー、テストってやつね。
早苗がいつも気合を入れて挑んでいるので、
なにか自分には理解できない意味が込められているのだろう。
とりあえず、早苗が頑張ったということだけはわかった。
それだけわかれば自分には十分。
「・・・どうかしましたか? なんだか元気がないように感じられますけど。」
「んー、まあねぇ・・・。」
神奈子は渡されたテストの答案用紙に適当に目を走らせながら、
早苗にこんな問いを投げかけた。
「早苗、神ってなんだと思う?」
はい?
早苗は首をかしげた。
「神、ですか・・・?」
難しい質問である。
漠然と、どういうものかは理解している。
しかし、それを口に出して説明しろ、と言われると・・・。
なんだろう。
私たちを見守ってくれている存在、とか?
早苗が返答に困っている様子を見て、神奈子は苦笑した。
「神ってのはな、人間の理解できないものだ。」
「は、はぁ・・・。」
早苗は曖昧に頷く。
そりゃ、理解はできないだろうけど・・・。
神がなんであるか、という問いの答えとしてはズレているような気がする。
「違う違う。文字通りの意味だよ。
昔、人間が理解できない自然現象なんかを神として崇めたってことさ。
つまり神ってのは、人間の理解できないものを人間が神として仮に定義したもの、ってことになる。
あるいは、雷。
あるいは、火。
あるいは、太陽。
あるいは、風。」
ん、なるほど。
それならば、答えとしては納得できる。
「あたしたち神が、人間の信仰心を糧として力を得ているのは知ってるな。」
「はい。」
「じゃあ、最近あたしたち神の力が衰えている原因は?」
「人間の情報や科学技術の発達、ですよね?」
「その通り。満点だ。」
神奈子は満足げに頷く。
早苗には質問の意図が理解できない。
なんで突然そんな話を・・・?
「人間がその理解できない現象を完全に理解するということ。
それは神がただの現象に成り下がることを意味する。」
「・・・はい。」
「人間が知識を蓄え、成長し、不思議を解明するということは、神が死ぬということだ。
人間の科学と情報が、神を殺す。」
「・・・ッ!!」
神を、殺す。
その物騒な響きに、早苗は思わず口元を押さえた。
小さな悲鳴すら上がった。
神奈子は答案用紙に書かれていた問の一つに目を止める。
問5 雷とはどういう現象か、説明しなさい。
この問は、早苗も正解している。
「建御雷も死んだ。」
雷。
大気中の小さな塵や氷のつぶがぶつかり合って発生した静電気が、
地上に向かって放電される自然現象。
その電圧は何億ボルトにも達する。
「火之迦具土も死んだ。」
火。
物質の温度が発火点を越えることによって起きる現象。
可燃性の物質を燃料として、熱や光を発する。
燃焼する物質によって色に違いが出る。
「天照も死んだ。」
太陽。
主な構成物質は水素とされ、常に燃え続けている恒星。
その表面温度は約6000度で、強力な熱と電磁波を発している。
太陽風、と呼ばれるプラズマの放出はオーロラの原因ということがすでに解明されている。
「見てみな、早苗。」
神奈子は早苗に見えるように左手を掲げた。
それを見て、早苗はぞっとした。
わずかに、その手が透けていた。
それは、神奈子も消えかかっているということ。
限界が近いことを示唆していた。
「人間が、知恵をつけたせいですか・・・?」
「違うよ。それは違う。」
神奈子は首を振ってそれを否定した。
「・・・そう。ただ人間にはもう、神は必要なくなったってことなのさ。」
もう神の力を借りなくても、人間は自分達の足で歩くことができる。
成長することができる。
自分達の力で歩むことができるなら、
神は潔く手を離すべきなのかもしれない。
「そんなこと、ないです・・・。」
その早苗の小さな呟きは、神奈子には聞こえなかった。
私には、あなたが必要です・・・。
* * *
今日も今日とて、物置をがさごそと漁る音がする。
いくら放任主義の神奈子とて、そろそろ限界だった。
早苗はもう3日も学校をサボっているのである。
小学校から今の今まで、ずっと皆勤賞で通してきた真面目な早苗からすれば、
それは絶対にありえないといっても過言ではないことだった。
それが突然これだ。
神奈子は開けっ放しの物置に顔だけ覗かせると、
中の早苗に向けて、不機嫌さを隠そうともせずに言った。
「早苗、いい加減にしな! さっさと着替えて学校に行け!」
「嫌です。」
即答だった。
もう気持ちいいくらいの即答。
どうしたものか、と神奈子は頭を抱えた。
アレか。
これが噂に名高き反抗期というやつか。
そんな子に育てた覚えはないというのに。
「なにやってるんだい、まったく。」
早苗は薄暗い物置の奥で、片っ端から古い書物や文献を漁って読んでいた。
目が悪くなりそうだと思って、天井にぶら下がった裸電球を点けてやる。
見れば、早苗は寝巻きのままだった。
着替えをする時間すら惜しいらしい。
「早苗。勤勉なことはいいことだが、せめて学校に行ってから、放課後にやれ。」
「嫌です。」
また即答。
流石の(自称)温厚な神奈子も、いい加減堪忍袋の緒が引きちぎれた。
「いい加減にしな、早苗!!」
神奈子は早苗を無理矢理引き剥がそうと、腕を捕まえようとして、
逆にその腕を捕まれる。
その早苗の気迫みたいなものに、神奈子のほうが気圧された。
「いつですか。」
「な、なにがだい?」
「八坂様が完全に力を失って消えてしまうのは、あとどれくらいのことですか。」
「・・・・・・。」
いや、そんなことを聞かれても。
正確な時期はわからない。
まだまだ先のことかもしれないし、
案外すぐに消えてしまうかもしれない。
「わからないですか。」
「まあ、正確な時期までは流石になぁ・・・。」
「じゃあ、明日にも消えてしまうかも知れないってことですか?」
「いや、まあ。その可能性もゼロじゃあないかもしれんが・・・。」
「ならなおさらです。学校なんかに行ってる暇はありません。」
早苗が物置に篭っている原因は、どうも神奈子のことらしかった。
それに神奈子は頭を掻いた。
嬉しくないわけじゃない。
だがそれ以上に、早苗のことが心配だった。
「早苗、神が消えるのは仕方のないことなんだよ。あきらめな。」
「嫌です。」
「いつまでも子供じゃないんだから。いい加減に親離れしろ。」
「嫌です!」
「早苗!!」
「嫌です!! 絶対に嫌ッ!!」
―パァン!!
思わず、手が上がってしまった。
そう、思い起こせば、
早苗を叱るために神奈子が手を上げたのは、これが初めてだった。
それだけじゃない。
早苗がこんなにも神奈子に対して嫌だといったのも、初めて。
早苗は素直で、利口な子だった。
年の割りに大人びていて、我侭もそんなに言わない。
あまり世話のかからない子。
だがその認識が間違っていたことに、神奈子はようやく気付いた。
違うのだ。
神奈子に苦労をかけないように、早苗が精一杯背伸びをしていただけ。
中身はやっぱり、まだまだ子供だったのだ。
まだまだ神奈子のことを必要としている。
それが不甲斐なくて、
認めづらいことに、どうしようもなく嬉しかった。
「私、八坂様を助ける方法を見つけるまで、ここを動きません。」
「早苗・・・。」
「親を失うのは、一度で十分です。」
早苗は顔を伏せると、物置漁りを再開した。
時折、目をごしごしと擦りながら。
神奈子にはもう、それ以上早苗を止める術は思いつかなくて、
「・・・わかったよ、早苗。あたしの負けだ。」
神奈子は両手を挙げて、降参したようにひらひらと手を振った。
早苗が顔を上げる。
「幻想郷、という場所を知ってるか?」
「・・・・・・いえ。ここの文献にはありませんでした。」
「今よりちょいと昔に世界から隔離されたところでね。
そこにはいまだに、魔法が存在し、魑魅魍魎が跋扈すると言われている。」
「そんなところが・・・。そこならもしかして・・・。」
「そうだな。信仰心を集めるのも難しい話じゃないだろう。」
「じゃあそこに行きましょう!」
「無理だ。」
神奈子は肩をすくめて首を振る。
せっかく掴みかけたと思った希望。
早苗はすがり付くように問いかけた。
「・・・ど、どうしてですか!?」
「あたしはこの神社から離れられない。多少ならまだしも、結界で隔離された空間じゃあね。
幻想郷に移動するなら、神社ごと移動せにゃならん。
神社を立て直すのにどれだけかかると思う?
はっきり言おう。それまであたしは持たない。
無理なんだよ。あたしが幻想郷に移動して、信仰心を集めるのは。」
「そ・・・んな・・・・・・。」
愕然と、早苗は首を折った。
そう、無理なのだ。
神奈子が早苗とずっと一緒に過ごし続けることは。
だから神奈子は、これ以上早苗に自分のために時間を潰してほしくなかった。
「さ、もう満足したかい?
もうこんな時間だ。昼飯食ったら途中からでも学校に行きな。」
「・・・・・・。」
「・・・保母さんになりたいんだろう? 頑張って勉強しないとね。」
「・・・・・・はい。」
早苗は、昼食を食べた後学校に登校した。
終始、なにか思いつめた表情のまま。
* * *
翌日。
神奈子は妙な違和感を感じて目を覚ました。
妙な違和感、といっても、悪い気分ではない。
なんだか不思議と、空気が澄んでいるような感じがした。
やけに清々しい気分だ。
ぐっと伸びをして体をほぐすと、
神奈子は勢いよく障子を開け放った。
「・・・・・・なんだ、こりゃ。」
外に見える景色がいつもと違う。
電車の走る音も、車の行き交う音も聞こえない。
嫌な予感がした。
襖を殴るように開け放って、早苗の部屋に向かう。
「早苗!?」
居ない。
もぬけの殻だった。
どこだ!?
神社の敷地内全てに意識を広げる。
敷地内に早苗がいれば、どこにいようと一発でわかる。
早苗は庭にいた。
境内の丁度ド真ん中。
階段を下りる手間すら惜しんで、
神奈子は早苗の部屋の窓から外に飛び出した。
「早苗!!」
早苗は庭の丁度真ん中に、倒れていた。
早苗の周囲にはやたらと物々しい、ろうそくやら護符やらが散乱していて。
地面にはいくつかの五亡星が書き殴られていた。
「早苗、お前なにをした!?」
慌てて早苗に駆け寄って、抱き上げる。
息はしている。
命には別状はなさそうだった。
しかし、極端に疲労している。
境内に続く階段を全力疾走したってこうは疲れまい。
早苗はゆっくりと目を開けると、空を指差した。
「見てください、八坂様。幻想郷の空ですよ。」
「幻想郷・・・!?」
そう、ここは昨日早苗に話した幻想郷だった。
ここは守矢神社であり、幻想郷でもある。
文字通り、神社ごとごっそり幻想郷に移動したのだ。
「ふふっ、奇跡の力って、本当に使えたんですね。」
「馬鹿、お前、なんてことを・・・!!」
奇跡の力。
そう、早苗の『奇跡を起こす程度の能力』。
それを、術式や霊具で無理矢理強化して神社を移動させたのだ。
下手をすれば死んでいたかもしれない。
それに、こんな無茶なこと、もう二度と成功したりはしないだろう。
それはもう、外の世界には戻れなくなったことを意味する。
「保母さんになるんじゃなかったのかよッ!!」
まるで自分自身に向けて怒っているかのように怒鳴る神奈子。
その神奈子の、悔しさで歪められた頬に、早苗はそっと手を伸ばして、
「もっと、叱ってください。」
「早苗・・・?」
「もっと叱って、もっと褒めて、もっと笑って、
もっと、もっと、一緒に居てください・・・。
私には、まだまだ、あなたが必要なんです・・・。」
「・・・まったく、いつまで経っても、この甘ったれめ。」
「・・・ごめんなさい。」
「馬鹿。褒めたんだよ。」
それから早苗は丸3日間、目を覚まさなかった。
* * *
「見な、諏訪子。これが幻想郷の空だよ。」
神社の鳥居に腰掛けながら、
神奈子は黄昏に染まった空を指差した。
「まったく、なにやってんだろうねぇ、あたしは。」
持ってきた徳利をお猪口に傾け、一杯。
飲んだ後の一息は、ため息にも似ていた。
「洩矢を守るどころか、早苗に助けられちまって。
あの子の夢も潰しちまった。
なにが洩矢を守るだよ、ホント。」
もう一杯、徳利を傾けて。
空だった。
舌打ちして、徳利を後ろに放った。
「結局、お前の言った神として足りない物も見つからないまま。
お前ともう一度戦う資格はないね。」
神奈子は丸太のような鳥居の上に器用に寝転がった。
視界一杯に広がる空を見上げて、
―ひょこ
と、なにかが視界を遮った。
顔だった。
子供の顔。
そんな馬鹿な。
だって、鳥居って、結構な高さが・・・。
『ありがとう、神奈子ちゃん。』
神奈子は跳ね起きた。
その様子をおかしそうに見つめる子供。
「・・・お前、諏訪子か!?」
間違いない。
あの長身と切れ長の瞳には似ても似つかないが、
気配のようなものはまるでそのままの諏訪子だった。
そうか、転生して力も容姿も一度リセットされたのか。
残っているのは記憶だけ。
「諏訪子! ・・・・・・済まない、あたしは!
洩矢を守るどころか、あの子の命まで危険に晒して!
あの子の夢まで壊しちまった!」
諏訪子はわずかに微笑んだまま、答えない。
代わりに、神奈子の後ろを指差す。
神奈子が振り返ると、そこにはもう見飽きるほど見た顔が、こちらに手を振っていた。
「食事の支度ができましたよー! 早く降りてきてくださいねー!?」
早苗は大きな声を上げて神奈子を呼ぶと、
上機嫌そうに家のほうに戻っていった。
『ほら、あんなに楽しそうに笑ってる。神奈子ちゃんのお陰だね。』
諏訪子が本当に嬉しそうに笑うのを見て、
神奈子は不覚にも泣きそうになった。
「諏訪子、あたしは・・・。」
『見つけられたんだね。早苗ちゃんのお陰で。』
見つけた?
・・・そうか。
これだったのか。
なにかを大切に思う気持ち。
誰かを守りたいと思う気持ち。
戦うことばかり考えていたあたしに足りなかったもの。
人間なんてものに興味を持たなかったあたしに足りなかったもの。
あたしに、神として足りなかったもの。
それがきっと、これなんだ。
「早くしてくださいよー! 冷めちゃうじゃないですかー!!」
「ああ、今行くよ!!」
焦れたような早苗の声に、負けじと大声で返事を返す。
諏訪子は、もうそこにはいなかった。
さて、早苗には悪いが、もう少しここでのんびりしてから行こう。
幻想郷の風が、この涙をさらってくれるまで。
それからもう何千年も後の、とある一瞬。
「諏訪子も、もう完全に力を取り戻したみたいだね。」
「そうだな。再戦するか?」
「ああ、約束は守ってもらわないとねぇ。」
「いいだろう。」
「じゃあこいつで勝負だ。」
「・・・・・・おはじき、か?」
「ああ、そうさ。知らんわけじゃないだろう?」
「・・・・・・ふっ、いいだろう。身の程を教えてやる。」
「上等!」
それはそうと、あーうーがEX最弱とか言われるのは、単に『風神録は霊撃が使える』からじゃないのかな?
お話は良かったです。
おはじきしているケロちゃんもなかなか。
それにしても「奇跡を起こす程度の能力」すごいな。
これで色々と説明がつきますな。
早苗さんの保母さんならちょっと見てみたいかも。
まだ和解して夫婦になってないこの時点では雷の管轄はケロのほうかなと幻視してみた。
・・・S?
良かったです。ありがとう!
まさに「大和神話と土着神話」
考えて少ししんみりした
昔の早苗と神奈子のやりとりを繰り返していたのに感動しました。
旧諏訪子の子供助けや、早苗と神奈子の出会いや、神奈子の消えかけや、幻想郷への移動や、最後のおはじきなどが心に響いた。
これを読んで風神禄が大好きになった(特に神奈子が)この作品に出会えてよかった。