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今日も今日とて博麗神社にて宴会が開かれ、人間も妖怪も幽霊も鬼も一緒になって騒いでいる頃。館主と魔女とメイド長と門番が不在となった紅魔館はひっそりと静まり返っていた。
屋敷に誰も居ない訳ではない。強大な力を持つ者達が一箇所に集まって宴会を開いているという状況から、屋敷の警備は最低限の人員だけで行われており、普段の半数以下の人数しか居ない状況になっていた。
そしてそれはここ最近では半ば日常と化してきており、一人部屋に居る少女はその静けさを訝しんだ。
始めの内はあまり気にしてはいなかった。ここ数年でこの屋敷の空気は変わってきていたし、それに伴って自分の姉が変わってきているのも感じていたからだ。だが、ここ最近の外出率は今までに無い程に多い。それ程に楽しい何かが、この紅い屋敷の外にあるのだろうか?
そんな事を毎晩毎日ずっとずっと考えていたら、なんだか少しずつ胸が痛くなって、
「……」
苦しくなって、
「……外に出よう」
昔は考えた事も無かった事を思い付き、少女は姉が何をしているのかを確かめる事にした。
……一人で居るのはどうしてか胸が痛いから。
それが『淋しい』という感情からなるものだという事に少女は気付かず、己を部屋に縛り付ける鍵の類を一息で壊し、ふわりと飛びながら部屋を出た。
過去にこの廊下で魔理沙や霊夢と逢った事を思い出しながら、久しぶりに見る紅い廊下を飛んでいく。あの後、姉と『部屋を出ない』と約束したのがつい昨日の事のようで、人間とは違う時間の流れで生きる少女は小さく微笑んだ。
だが、そんな懐かしい気分に水をさすかのように、すれ違うメイド達はこちらを驚愕の視線で見、何か言いたそうに口を開き、しかし何の言葉を発さずに閉じていく。それを見ていたら何だか気分が悪くなって、少女はメイドの一人を捕まえ、
「何?」
「い、いえ、何でもありません!」
まるで寒さに耐えるかのように体を震わせるそのメイドは、薄っすらと目に涙を浮かべながら、まるで叫ぶように答えた。少女は、どうしてメイドがそんなに寒そうなのかが解らず、小さく首を傾げながらも、
「なら、お姉様はどこ?」
「お、お嬢様なら、神社へ、宴会に……」
「宴会?」
聞きなれない言葉だ。確か、みんなで集まってお酒を飲む事だっただろうか。
……って、お酒ってなんだろう。
アルコールを含んだ飲み物だという事は解る。だが、その味や色などが解らない。
眉を寄せ、んー、と唸りながら少女は考え、
「貴女、お酒って……あれ?」
「――」
一体どうした事なのか。少女の細い手で軽々と持ち上げられていたメイドは、まるで眠ったかのように気を失っていた。
「もう、なんで突然寝ちゃうのよ」
目の前の相手が恐ろしくて失神した、などとは考えもせず、少女はメイドを静かに床に下ろすと、外へと向かい再び羽を羽ばたかせた。
そのまま、玄関へと続く長い長い廊下を飛びながら考える。
姉は宴会というものをやっている。それは毎晩出向く程のもので、つまりは楽しい事なのだろう。そしてそこではお酒を飲むらしい。つまり、お酒とは楽しい気分にさせてくれる飲み物なのだろうか。
酔ったらどうなるか、何をするかが解らない為に、今まで一度も飲む機会を与えられなかった酒の事を考えながら、少女は廊下を抜け、広い玄関ホールを抜け、本来ならば紅い髪の門番が護る門を抜け、
「――」
少女は目を見開いてその動きを止めた。
目の前に拡がっていたのは、空と大地を混ぜ合わせる漆黒と、淡く光る緑の光達。
幻想的なその光は一つの影を中心に。まるで踊るように、舞うように光と戯れるその影は、女の子の姿をしていた。
静かに鼓動する光を少女はまるで魔法のようだと感じ、息をするのも忘れて見入ってしまう。そしてふと、光の中心に居た女の子がこちらに気付き、
「誰?」
と、光に抱かれた女の子の声を聞いた途端、
「あ――」
自分がこの光景を壊してしまったような気がして、思わず少女は小さく声を上げた。しかし、動きを止めた女の子はこちらに微笑みながら、
「蛍、好きなの?」
「……ほたる?」
言われ、ようやっと目の前で飛んでいる光の正体に気が付いた。『光』というものにばかり目が言っていたが、良く見れば蟲の尻が発光しているだけのものだった。
だが、その事実に気付いたとしても、幻想的な光景であるのには変わりない。
「今日、初めて見たわ。こんなに綺麗なのね」
綺麗、という単語に、女の子が一瞬肩を震わせて反応した。そして小さく音を立てて湖から上がると、ぼんやりと中に漂っていた少女へと近寄り、その手を強く取り、
「今、綺麗って言った?」
「うん」
その言葉にどんな魔法が掛かっていたのか、少女の答えに女の子は嬉しそうに微笑んで、
「良かったー……。最近は蛍を見ても何とも思ってなかったり、無視して通り過ぎようとする人間や妖怪ばっかりだと思ってたから、何だか嬉しいよ」
「そう。……でも、何故貴女が喜ぶの?」
問い掛けに、女の子は己の周りに集まってきた蛍達へと視線を向け、
「私はこの子達の王様みたいなものだから。この子達を褒められれば、私も嬉しいの」
「王様?」
「あー、厳密には王女かなぁ。まぁ、どっちも同じようなものよね?」
つまり偉いの、と楽しげに告げて、女の子は少女の手を離した。そして蛍の一匹を己の手に停まらせると、少女へと差し出し、
「蟲は触れる?」
「……触った事が無いから解らないわ」
「じゃあ、挑戦ね。手を出して」
言われるがままに手を差し出すと、女の子の指から少女の指へと蛍が停まった。こそばゆいような感覚を感じながらも、目の前で鼓動する光に目を奪われる。
「その子は……というよりこの湖に居るのは平家蛍というの。今君の手に乗っている子や、私達の周りを飛んでいるのがオス。湖の周りで静かにしているのがメスね。オスはメスの光を目指して、こうやって飛び回るの」
「ふーん……」
頷き、しかし次の瞬間、蛍はその羽を広げて少女の指から飛び立ってしまっていた。あ、と小さく声を上げながらそれを目で追い……吸血鬼の瞳は、遠く遠く光る人工的な灯りに、今更ながらに気が付いた。
気が付いて、どうして自分が外に出たのかを思い出し、
「お酒……」
「ん?」
「そうよ、お酒。貴女、お酒ってどういうものか知ってる?」
突然の、そして突拍子のない少女の問い掛けに女の子は目を丸くし、しかしすぐに頷いて、
「知ってるけど、それがどうかしたの?」
「飲んだ事は?」
「あるわ。友達が屋台を開いてるから、そこでね」
「……友達」
そう、と女の子は頷き、そのまま暫く何か考え、
「飲んでみたいの?」
「飲んでみたいの。お酒って、楽しい気分にさせてくれるものなんでしょう?」
「まぁ、そうね。……それじゃあ、今からその屋台に行ってみる? 今日も営業してるだろうから、お酒を飲めるわ」
「本当?」
思わず聞き返す。だが、姉がやっている宴会に行ってみたい気持ちもあった。
……でも。
自分達だけで楽しんでいるだろう姉に対し、私だって自分だけで楽しんでも良いんじゃないか、という気持ちが生まれ始めた。
そしてその思考は魔理沙と霊夢の姿となって、脳内でちょっとした弾幕ごっこを繰り広げ――結果、
「行く」
「決定ね。それじゃ、行きましょうか」
そのまま歩き出そうとする女の子に、しかし少女は辺りを見回しながら、
「あ、でも、蛍は良いの?」
「大丈夫。……実はね、今日はちょっと様子を見に来ただけなの。成虫にまで成長出来たこの子達に、もう私がしてあげられる事はないから」
言って、女の子は大人っぽく微笑んだ。
1
紅魔館と人里の間に拡がる深く暗い森の中。人間達が踏み均して作った道を女の子と二人で歩いてく。
人間には見通せない闇の中でも、夜の眷属である少女にはまるで昼間と変わらない。一度も入った事の無かった森の中を物珍しく感じながら進んでいくと、前方に仄かな灯りが見えてきた。
灯りは楽しげな歌を連れており、楽しげな歌は美味しそうな匂いを連れており、美味しそうな匂いは一軒の屋台を連れていた。
屋台には『八目鰻』と書かれた暖簾が掛けられており、それを女の子と一緒にくぐると、何やら串に刺さった茶色いものを焼いている妖怪の少女が居た。
妖怪の少女はこちらに気付くと、上機嫌な顔をこちらに向け、
「いらっしゃーい。リグルに……その子は?」
妖怪の少女が窺うようにこちらを見、女の子も同じように視線を向けると、
「っと、そういえば自己紹介をしていなかったね。私はリグル・ナイトバグ。この子はこの店の店主のミスティア」
自己を紹介した女の子――リグルは、少女に向かい微笑んで、
「貴女は?」
「フランドールよ。……リグルさんに、ミスティアさん」
「あ、私の事はリグルって呼び捨てで良いわ。私もそうするから」
という事で、
「これからよろしくね」
「よろしくー。それじゃ、ご注文は?」
言って、ミスティアは視線を屋台の壁へと向けた。そこには幾つかのメニューが載っており、どれもこれもフランドールが見た事や聞いた事がないものばかりだった。
だが、この屋台に来た目的は一つ。誘惑を断ち切るようにメニューから目を逸らすと、フランドールはミスティアを見、
「お酒を頂戴」
「はいはーい」
答え、ミスティアは背後にある棚へと視線を向け、
「ビールに日本酒、焼酎、ウイスキー、ジン、それにウォッカ。あと、先週から始めた自家製ワインもあるけど、どれにする?」
「……」
どれ、と言われても、どれが美味しいのか不味いのか飲みやすいのか飲みにくいのか全く解らない。助けを求めるようにリグルへと視線を向けると、彼女は困ったように微笑み、
「私は甘いのが好きだけど、それを押し付けるのもあれだしなぁ……」
んー、と悩み出してしまった。どうしよう、と思いながらミスティアへと視線を戻すと、彼女は微笑んで、
「フランドールさんは、お酒を飲んだ事が無いの?」
「無いわ」
「じゃあ、度の低いものから色々飲んでみる? 初めてのお客さんだし、サービスするよ」
「良いの?」
確認するように聞くフランドールにミスティアは頷くと、
「それじゃ、ビールから行ってみよー」
楽しげに言い、ミスティアが酒棚へと再び視線を向けた。そんな彼女に苦笑しながら、リグルがこちらに視線を向け、
「気持ち悪くなってきたりしたら、すぐに言ってね。無理に飲んでも楽しくないから」
「解ったわ」
微笑んで答え、フランドールはミスティアから差し出されたグラスを両手で受け取った。
そして、茶色い瓶の栓が抜かれ、グラスに注がれるのは黄金色。冷たく冷やされていたそれに少し驚きながら、
「これがビール?」
「そう。因みに、麦から出来たお酒なんだよ」
ミスティアから串焼きを受け取りながら、リグルが教えてくれる。それに頷きながら、フランドールは恐る恐る、その小さな唇をグラスに近づけ、
「……」
苦味のある泡と一緒に、口の中へとビールが流れ込み、
「……にがい……」
飲み込むと同時に、フランドールは顔をしかめて呟いた。だが、耐えられない程では無い。少しだけ中身を減らしたグラスと睨めっこをしながら、頑張ってもう一口飲み、
「……やっぱりにがい……」
飲みきれないという事は無いが、楽しく飲むのには程遠い。そんなフランドールの姿に、リグル達は微笑んで、
「初めてじゃ仕方ないよ」
「じゃー、次行ってみよー」
と、その前に。
「お口直しに鰻をどうぞ」
とん、と目の前に差し出されたのは、香ばしい湯気を上げる串焼き一つ。
「……」
今まで食べた事の無いものが目の前にある。何だか少しずつ心臓の動きが早くなるのを感じながら、フランドールは隣で美味しそうにそれを頬張るリグルの真似をするように串を掴み、おずおずと口に運び
「――」
目を見開いた。
初めて食べる八目鰻は、歯ごたえがあって甘辛くて、でもちょっと苦くて――そしてとても美味しくて。お口直しというには勿体無い、不思議な感じのする食べ物だった。
……
そうして、八目鰻をゆっくりと食べながら、フランドールは他にも様々なお酒を少しずつ飲んでいく。
「甘いけど苦い」
「なんか苦い」
「甘い」
「辛い」
「喉が熱い」
などと感想を述べ続け、次第に顔が熱くなってきて、不思議と、なんだかふわふわした気分になって来た。
その様子にミスティアが少し驚きながら、
「結構飲んだねー。フランドールさんはお酒に強いのかもね」
「そうなのかなぁ」
小首を傾げて考える。だが、一度もお酒を飲んだ事の無かったフランドールには、その答えは解らなかった。
2
そうして、楽しい時間は続いていく。
この椅子に座り始めて早二時間程。今、フランドールはミスティア達と一緒に歌を歌っていた。初めはただ聞いていただけだったのだが、リグルもミスティアと一緒に歌い始めたあたりから、フランドールも見真似で歌い出したのだった。曲名は解らなかったが、繰り返されるその歌は何だか歌いやすくて楽しくて。何度も何度も覚えるまで繰り返し歌い続けていた。
と、そんな時だった。背後の森から、
「おや、何やら楽しそうだな」
「あ、慧音さんいらっしゃーい」
聞こえて来た声に視線を向けると、そこには提灯を持った一人の女性が立っていた。
美鈴のような長い髪を持ったその女性は、フランドールの隣に腰掛けると、酒棚の中の一本を指差し、
「あれを雪冷えで。それと鰻を二つ」
「はーい。でも、慧音さんが来るなんて珍しいね」
「ああ。たまには、な」
慧音と呼ばれた女性は苦笑で答え、しかしその顔には少し疲労の色があった。
蒸した鰻を焼き始めたミスティアは、心配の色をその顔に浮かべ、
「何かあったの?」
「少々里の者達の間で揉め事があってな。その仲介にこの数日引っ張りだこだったんだ」
事前に冷やしたものがあったのか、慧音はミスティアからグラスを受け取り、酒を注いでもらうと
「まだ全てが終わった訳ではないが、一休みという事だ」
一口。
その姿が何だか様になっていて、鰻を食べていた手を止めてぼんやりと眺めていると、隣に座るリグルが耳元で小さく教えてくれた。
「あの人は人里を護っている上白沢・慧音さんっていうの。人間の為にしか自分の力を使わない、ちょっと変わった人」
「へー……」
呟いた途端、女性――慧音の視線がつ、とこちらへと向き、
「リグル、聞こえているぞ」
「?! ご、ごめんなさいッ!」
苦笑と共に言う慧音に、リグルが慌てて頭を下げた。
そして慧音はフランドールに視線を向けると、リグルの言葉を訂正するように、
「私は人間が好きだから、彼等を護っているんだ。だから、妖怪から見れば変わり者と言われても仕方ない。だがな、だからといって人間を護る事を辞める訳にはいかないんだ」
何故なら、
「私は里の皆から頼りにされて……いや、頼りにされるようになれた。そんな彼等の思いに答えなければ、罰が当たってしまう。だから私は――」
「ばち?」
と、聞きなれない言葉に、思わずフランドールは問い返していた。
話の腰を折るその問い掛けに、しかし慧音は、そうだ、と頷き、グラスに残った酒を飲み干した。そして手酌で酒を注ぎながら、まるで教師のように、
「間違った事や、悪い事をしたりすると、神様から罰を受ける。それが罰(ばち)だ。そして、人から頼りにされたり、約束を交わしたりするというのは、言わば相手を信じるからこそ行う行為。その思いに答えようとして努力を行い、その結果答える事が出来なかったというのならまだしも、無為にその思いを踏み躙ったりするのは絶対にしてはならない事だ。それは罰が当たるから、というだけではなく、相手の信頼を裏切り、築き上げた関係を壊してしまう事になるからだ。そして、一度壊れた関係を修復するのは困難であり、もし修復出来ても元のような関係を築くのは難しいだろう。何故なら相手は己の思いを踏み躙られており、自分にはその負い目が出来てしまうからな。こうなってしまわない為にも、常日頃から己の言動には気を使い――」
「……」
――――――――――――――――――――――――――――
長々と、しかし聞きやすいペースで話し続ける慧音と、それを小さく頷きながら聞くフランドールを眺めつつ、ひそひそと会話をする少女が二人。
「慧音さん、全開だねぇ……」
「まぁ、お酒が入ってるから……」
苦笑で答えながら、ミスティアが酒の御代わりをさり気無く慧音の前に置いた。合間合間に飲んで行く為に、結構ペースが速いのだ。
その動きを横目で見つつ、リグルは小さく息を吐きながら
「あの人、お酒が入り出すと話が長いんだよね……。前に里の近くに流れる川に行った時も……」
そう、リグルが思い出話を始めようとした瞬間、慧音の視線がす、とこちらを向いた。
淡く紅いその顔は美しく、少し汗の浮かぶ胸元は同性とはいえ目が行き――思わず見入ってしまったリグルの目元へ、ぴ、人差し指が向けられ、
「そうだリグル、お前にも話がある」
「え、私?!」
まさかこちらに話を振られるとは思わず、リグルは素っ頓狂な声を上げた。だが、慧音はそれに構わず、深く深く頷くと、
「そう、お前だ。最近里に出る害虫の被害がだな――」
――――――――――――――――――――――――――――
「……という事だ。解ったか?」
「は、はい……」
言うだけ言ってすっきりした顔をしている慧音と、言うだけ言われてぐったりしているリグルの姿が何かおかしくて、笑みが零れる。そんなフランドールへ、リグルが影のある視線を向け、
「フランドールは、慧音さんの話を良く平気で聞いていられるね……」
力無いリグルの呟きに、フランドールは楽しげに微笑んで、
「私、こんなに長く人とお話をするのは初めてだもの。色んな事を教えてもらったし、とっても有意義だったわ」
心の底からそう思う。同時に、屋敷に居る時にはあまり感じる事の無かった、楽しい、という感情が小さな少女の中に溢れていた。それがお酒の力によるものなのか、それ以外の何かの力なのか、良く解らなかったけれど。
それでも上機嫌に鰻を口に運んでいると、ふと、慧音がこちらを見ているのに気が付いた。なんだろう、と思いながら視線を向けると、
「存外、お前は普通の娘なんだな」
「?」
「いや、何でもない」
言って、慧音は苦笑した。
フランドール・スカーレットは知らない。上白沢・慧音がどんな力を持っているのかを。そして、その力が見せた小さな少女の狂気を。
フランドール・スカーレットは知らない。恐怖や畏怖を押し殺し、何食わぬ顔で話を続けた慧音の強さを。
フランドール・スカーレットは何も知らない。慧音の言葉に小さく首を傾げながら、再び、幸せそうに鰻を食べ始めた。
3
そして、草木も眠り出す時間に近付いた頃。
一番最初に席を立ったのは、一番最後にやって来た慧音だった。
「それじゃ、私はそろそろ帰るとするよ。ミスティア、お勘定を」
「はーい。えっと……」
たどたどしく金額を告げるミスティアに、少し飲み過ぎたな、と慧音が苦笑する。そして勘定を払い、畳んであった提灯に火を灯すと、彼女はフランドールへと微笑み、
「おやすみ、妹君」
「おやすみなさい」
何気なく交わす就寝前の挨拶に、何か嬉しさが込み上げるのを感じながら、ふと、どうして自分が妹だという事を知っているのかが気になった。
気になって、リグル達に声を掛けている慧音の姿を眺め、しかし答えが見つからない。
だから、
「ねぇ」
「ん、何だ?」
こちらに視線を落とした慧音を、フランドールは窺うように見上げながら、
「どうして妹だって知っているの?」
「……私には、幻想郷の全てを知る事が出来る力がある。そしてそれは知識として残り、だからお前が妹だという事が解った、という事だ」
「そうだったんだ」
自分の持つ力と同じように、慧音も力を持っていたという事だ。フランドールは疑問が氷解するのを感じ、
……ずっとずっと紅魔館に居た私の事を、知っている人がここにも居たんだ。
今まで気にする事も無かったその事実に、胸が熱くなる。
短い時間だったけれど、色んな話をしてくれて、そして自分の事を知っていてくれた。そんな慧音に何かしてあげたい、という気持ちが高まり、
「……」
しかし、考えてみても、慧音に対して出来る事が何も無い自分に悲しくなった。自然眉が下がり、高まっていた気分が少しずつ落ち込んでいくのを感じる。
すると、そんなフランドールの顔を覗き込むように慧音が腰を落とし、
「そんな顔をするな。急にどうした?」
「……色んな事を教えて貰ったのに、私は何も出来なかったから」
沢山話をしたけれど、その殆どは聞いてばかりだった。かといってフランドールが慧音に教えられるような事は無いし、この手にあるのは慧音のような便利な力では無い。その事実に、なんだか更に悲しくなってきて――不意に、頭に何かが載せられた。
それが慧音の手だと気付くと同時、帽子越しに優しく頭を撫でられる。
「気にするな。私の話で知らなかった事を知る事が出来たのなら、それだけで十分だ」
「でも……」
簡単に食い下がる事は出来そうに無かった。そんなフランドールに慧音は暫し考え、
「そうだな……それなら、またこうやって一緒に酒を飲む事を約束してくれ」
「約束……解ったわ。でも、そんな事で良いの?」
「ああ。本来、人との出逢いというのは一期一会のものだ。それにも拘らず、もう一度逢う為の約束を出来た。これ以上のものはないさ」
だから、と慧音は微笑み、
「そんな事、なんて言わないでくれ」
言って、慧音は優しく頭を撫でてくれていた手を離した。その暖かな感触が離れてしまった事を残念に思いつつも、また逢う、という約束を交わす事が出来た事に胸が熱くなるのを感じる。
慧音に何かをしてあげたい気持ちは、またその時に解消すれば良いだろう。
フランドールから離れた慧音は。ゆっくりと森へと歩き出しながら、
「では、またな」
「うん!」
元気に答え、フランドールは去っていく慧音に手を振った。
……
慧音が帰った事により、楽しい時間は終わりが来る事を少女は知った。それを残念に思う気持ちは強かったが、慧音との約束がある事を考えると、少しだけその気持ちが和らいだ。
和らいだが、しかし気持ちを簡単に切り替える事なんて出来なかった。
「それじゃあ、私達も帰ろうか」
「……うん」
腰を上げたリグルに小さく頷く。後ろ髪を引かれ、また椅子に腰掛けてしまいたくなるのをなんとか我慢しながら、フランドールはゆっくりと立ち上がった。
「えっと、お勘定はーっと……」
歌うように言いながら、酒の瓶や鰻の串の数を数え始めたミスティアをぼんやりと眺める。思考がはっきりしないのは、きっとお酒のせいだけじゃない。
そして気付けば、
「……二人にも、何も出来ない……」
ぽつりと、フランドールは呟いていた。
この数時間を楽しく過ごす事が出来たのは、この屋台に連れて来てくれたリグルと、美味しい料理やお酒を出してくれたミスティアのお蔭だ。そんな二人に対し、慧音の時のように、何も出来ない自分を再認識して悲しくなる。
だが、そんなフランドールに返って来たのは、上機嫌な微笑みと、
「慧音さんも言ってたけど、気にしなくて良いよ。私は特に何もしてないし」
「気にしない気にしない。美味しいって言ってくれただけで大満足ー」
そう言ってくれる二人に、しかしフランドールは窺うように、
「本当に……?」
「本当に。まぁ、もし臨むなら……慧音さんと同じように、また一緒にお酒を飲もう」
「常連さん大歓迎ー」
「――解ったわ。約束ね」
微笑んで言う。出来ればもっと別の、みんなを喜ばせるような事をしてあげたい、という気持ちはあった。だが、一緒にお酒を飲むという約束も、結果的にみんなを楽しませる事に……みんなと楽しめる事になるだろう。少女はそう考える事にした。
そして、
「それじゃ、お勘定はね……」
何気なく告げられたミスティアの言葉に、フランドールの動きがぴたりと止まった。まるで氷の彫刻のように、微笑んだまま少女は動かない。
そう、衣食住に困った経験など無いお嬢様であるフランドールは、今更ながらに重要な事実に気が付いたのである。
……私、お金持ってない……。
その事実に愕然とする。それでも、何やら油が切れたように動かない体を何とか動かして、金目の物が無いか、洋服のポケットの中をぎこちなく探していく。そんなフランドールに向けられる不思議そうな二人の視線が、その悪意の無い視線が、今この瞬間だけは辛い。
そして……奇跡的にスカートの中には数枚のコインが入っていた。だが、ほっと安堵しながら差し出したそのコインだけでは、提示された金額の半分程しか払う事が出来なかった。
最後の最後で、一体私は何をやっているんだろう……と肩を落とすフランドールに、
「私が代わりに払うよ。確認しないで連れてきたのは私だし」
そう言ってくれるリグルに、しかし首を横に振る。その気持ちは嬉しいが、今日はして貰ってばっかりなのだ。そこまでしてもらう訳にはいかなかった。
そんなフランドール達に、
「……んー、足りないねぇ」
苦笑しながらミスティアが呟くのが聞こえて、フランドールはその顔を上げた。
「今から屋敷に戻って持ってくる」
と、そう答えようとし、しかしその声を遮るようにミスティアは微笑んで、
「じゃあ、足りない分はツケとくね」
「……ツケ?」
「また店に来た時に、今日の分を払うって事だよ」
それはつまり、またこの屋台に来なければならない、という事だ。フランドールは一瞬考え、しかしそれの意味するところに気付き、
「じゃあ、ツケでお願いするわ」
微笑んで告げた。
こうして、楽しい時間は終わりを迎えた。
4
「それじゃ、また」
「うん、またね」
そう笑顔でリグルと別れたフランドールは、少しずつ湧き上がってくる淋しさを紛らわせるように、蛍の光を探しながら紅魔館へと向けてふらりと空を飛んでいた。だが少女は、月の出始めた夜闇の中で、紅魔館の明かりが煌々と灯されている事に気が付いた。
一体何事だろうか。そう思いながらゆっくりと近付いてみると、少女が紅魔館を出た時の倍以上は居るだろうメイド達が、屋敷の内外を慌ただしく動き回っていた。
そんな彼女達の表情にあるのは、焦り。
気になったフランドールは、
「どうしたの?」
門番の居ない正門から、屋敷の中へと向けて何気なく声を掛けた。
瞬間、
「――」
張り詰めていた緊張が更に引き絞られたかのように、メイド達全員がこちらを見、動きを止めた。
その突然の変化に首を傾げながら、
「何かあったの?」
何が何やら全く解らない少女は、地に降り、少々ふらふらする足取りで屋敷の中へと入っていく。こんな風に慌ただしかったのは、前に魔理沙と霊夢に逢った時以来だろうか。そんな事を思いながら玄関ホールへと進んで行くと、固まったように動かないメイド達の間を裂くように、銀髪の少女がやって来た。彼女はフランドールの前で恭しく一礼すると、顔に微笑みを持って、
「お帰りなさいませ、フランドール様」
「うん、ただいま咲夜」
メイド長である十六夜・咲夜の事は、フランドールも良く知っていた。だから彼女は咲夜に微笑んで、自室への道をふらりふらりと歩き出す。すると、咲夜がこちらの後に付きながら、何やら窺うように、
「どちらまで足を運ばれていらしたのですか? 突然の外出でしたので、メイド達一同お探ししました」
「ちょっと森の屋台まで。そこで初めてお酒を飲んできたの」
楽しかったわ、と言いながら羽を広げ、咲夜に振り返りながら中に飛ぶ。そして器用に後ろ向きに進みながら、
「それにね、八目鰻を食べたの。甘辛くてちょっと苦かったけど、でもとっても美味しかった。それと、慧音さんって人から色んな事を教わったわ。今まで知らなかった事を沢山、沢山」
そしてくるり前を向き、楽しかった時間を思い出しながら、
「あとは、歌を歌ったの。知らない歌だったけど、リグルやミスティアに教えて貰って覚えたわ。それにそれに……」
話せば話すほど、あの時間が素晴らしいものだったと感じる事が出来る。
だから、屋敷を出た時よりも自室への距離が短い事に少女は気が付かなかった。同時に、それがどんな意味を持つのかも。
知らなかったからこそ、少女は楽しそうな笑顔で話を続ける。
続けていく。
そして、綺麗に修復され、こちらを迎え入れるようにその扉を開いている自室が見えてきて、
「最後に、またね、って約束もしたの! あのね、約束って言うのは――」
言いながら、少女は再び咲夜へと向かい振り返る。
その瞬間だった。
顔を伏せたメイド長の背後。
暗く長い廊下に、姉の姿が現れたのは。
「え?」
霧化からの一瞬の具現。
その事実を理解する前に、フランドールの細い体は、姉の強烈な一撃によって吹き飛ばされた。
線のように流れていく景色に理解が追いつかず、受身を取る事すら出来ずに自室の壁に激突する。衝撃を緩和できなかった事で骨が砕け肉が弾け、体の半分が潰れた。
「――」
苦悶の声すら上げられない。上げる為の器官は、今や床に落とした西瓜のように壁に張り付いている。
だが次の刹那、フランドールは体を完全に再生させると、その瞳に疑問と怒りを持って振り返り――
「……」
気が軋む音と共に、部屋の扉が閉じた。
何か嫌な予感がする。
それを打ち払うように羽を羽ばたかせ、扉を突き破らん勢いを持って突っ込んでいく。だが、一体どうした事か、木で出来ている筈の扉は逆に少女の体を弾き飛ばした。
その事に疑問符を浮かべながらも、少女は弾幕を放ち……しかし弾かれる。
何度やっても、結果は同じだった。
「何で……」
思わず呟く。
これは普段フランドールの部屋に掛けられている、外に出さない、というレベルの魔法ではない。恐らくは、それを更に強化したもの。明確な意思を込められた、封印そのものだった。
――――――――――――――――――――――――――――
紅魔館地下。そこには最低限の照明だけが点けられた薄暗い廊下がある。その突き当たりにある扉の前で、紅魔館館主である少女は重い息を吐いた。
彼女は傍らに立つ従者に視線を向けながら、
「咲夜」
「申し訳ありません、お嬢様……。警備を手薄にしてしまっていた私のミスです」
言い、頭を下げる従者に、しかし少女は首を横に振った。
「まぁ、今回は仕方ないわ。酔っていたせいでこの状況を予測出来なかった私も悪いし。で、被害は?」
「目立った被害は発生しておりません。フランドール様がお出掛けになられた際に壊された扉も、こうして元通りになっていますので」
「そう。……後はパチェと咲夜次第か」
「はい。パチュリー様のバックアップはお任せください」
現在、妹の部屋は咲夜の力により空間的に隔離された場所にある。そしてその扉が閉まった事を切っ掛けとして、更に部屋を隔離する為、パチュリーが封印魔法が発動させた。
同時に、恐らく部屋を壊してでも出ようとする妹に対し、パチュリーの封印魔法が完全にその力を発揮するまで、咲夜には常時空間を広げ続けてもらう事になる。妹の力によって破壊されていく封印魔法を、彼女には補ってもらわねばならないからだ。
……まぁ、このくらいしないと、あの子も解らないだろうしね。
姉として思う。
だが紅魔館館主としては、『ありとあらゆるものを破壊する』力を持ったフランドールを、何の枷も無く野放しにした事に対する始末を付けなければならない。例え、何の被害が出ていないとしても。
「……じゃあ、後は頼んだよ」
言って、踵を返した時、何やら咲夜が眉を落としているのが気になった。
気になったから、少女は足を止めて問い掛ける。
「咲夜?」
有能なメイドは、その一言で主が何を聞きたいのかを悟ったらしい。彼女は視線を逸らすように俯きながら、
「フランドール様による被害は、この幻想郷の至る場所にも発生していませんでした。それなのに、この処置は――」
その言葉を遮るように、紅魔館館主、レミリア・スカーレットは告げる。
「言って解らない妹を躾けるのは、姉である私の役目。歯止めの効かない破壊魔の横暴を許さないのは、紅魔館館主である私の役目。――お前に指図する権利は無いよ」
「……すみません、言葉が過ぎました」
「解ったならそれで良い。さ、行くよ」
急かすように言い、レミリアは咲夜を置いて歩き出した。
振り返る事も無い。
明るい廊下へと向かい、歩き出した。
――――――――――――――――――――――――――――
硬く硬く閉ざされた木製の扉の向こう。
幾重にも張り巡らされた結界の向こう。
果てしなく拡張し続ける空間の向こう。
その少女は泣きながら、己の力の全てを使い、部屋から出ようと足掻き続けていた。
「出して! ここから出して!!」
胸が痛い。部屋を出た時と比べ物にならない程、ずっとずっと強く。
痛みは涙を生み、涙は悲しみを生み、悲しみは叫びを産む。
レーヴァテインを滅茶苦茶に振り回し、扱えるスペルの全てを唱え――我武者羅に、少女は叫ぶ。
「またねって約束したのに! 約束は破っちゃいけないものなのに!!」
その声が部屋の外には届かないと知らず、少女は叫び続ける。
「お姉様! お姉様……!!」
話を聞いて、と叫び続ける。
……
それから、どれ程の時間が経っただろうか。
家具などが全て吹き飛び、しかし『部屋』としての形は完璧に残っているその場所で、
「……これが罰、なのかな……」
開かぬ扉に寄り掛かり、膝を抱えた少女が小さく呟いた。
罰。
それはまだ記憶にも新しい、霧雨・魔理沙と博麗・霊夢がこの屋敷にやって来た日まで遡る。
人間に興味を持って部屋を出たものの、雨の為に外に出る事が叶わなかった少女は、初めて人間という存在と出逢い――負けた。
そして雨が上がり、屋敷に戻ってきた姉と、少女は一つの約束をした。
『もう勝手に外に出ようとしない事』
それは、一言告げれば外に出る事を考慮してくれる、という事でもあった。沢山の人間や妖怪と触れ合って姉が変わっていったように、少女にも変化する可能性が提示されたのだ。
だが今日、少女はその約束を破ってしまった。
姉が何をやっているのか、それが気になったのならば、直接本人に尋ねれば良かったのだ。そんな簡単な事も行わず、一人勝手に思い詰め、結果的に外に出てしまった自分を呪う。折角の約束を破ってしまった以上、もう姉は話を聞いてはくれないだろう。
それは、五百年にも及ぶ時間を共に生きてきた少女が、一番良く解っている事だった。
「……」
溢れ出る後悔に押し潰されながら、少女は小さく身を縮めた。
5
暗い部屋の中、静かに響く歌声がある。
決して上手とはいえない、しかし沢山の想いの詰まった悲しい歌。
それは誰の耳に届く事無く、無機質な壁に響いて消えた。
end
安直なハッピーエンド主義ではないのですが、まだまだ物語が展開中な気がしてなりません。
遣り切れなさと切なさとで、とても哀しくなった。
でもそういう心を刻まれるような話。読後もずっと心に残るような話。
そういうのが、ずっと読みたかったのも事実。
だからこそ、読ませてくれてありがとうございましたw
何故か乾いた笑いが零れてきました。
ああ心が掻き毟られる
運命をどう読んでも紅魔館に隕石が落ちてくる事態になり、隕石の破壊を姉に頼まれた時などの非常時以外は、滅多に自分から本気で表に出ようとは思わない子。
それでも、鬱話は反面教師のように心の栄養になるので好きだ。
自然と物語に引き込まれたので、次の作品にも期待。ありがとう。
なんでも解決しなければならないわけではないのですが、ここで終わってしまうのは勿体ない気がしてなりません。
やるせないにもほどがある
んー、ちょっと消化不良かもしれません。
脳が蕩けてしまいそうだ
つかレミリアは宴会しとるくせに妹は幽閉なんてヒドイ・゚・(ノд`)・゚・。
後編に期待して50点
>だが紅魔館館主としては~
レミリアがどう始末をつけるのかが気になる、ここは書いて欲しかった。
後、このレミリアの行動に他の(リグルやミスティア)妖怪がそのままにするのかとか。
(作中、メイドたちに比べてフランドールを恐れていないことから相手がレミリアだからといい、大人しく引き下がるイメージが浮かばなかったので)
まあ、願望ですが。
う~む…物語の途中のような…
躾と言われればそれまでですが。
物語が完結していないように思えるのが残念。
途中でぶった切ったような。
紫様あたり救出ってか、なんとかしてほしいと思ってしまう
それはかくも辛いものなり。
子例似個卯戸駈…御医例瑠非戸乃機蛾市例南胃
亜徒子例尾化射多妊現藻
機津戸蚊射他妊現歯理唖瑠弟裳日土医出来損南胃難堕炉卯菜(笑)
それまでの展開が良かったので70で
でもこの結末こそこの物語の終着点