Coolier - 新生・東方創想話

秋の定規

2026/10/17 15:37:45
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 秋を辞めるため、私は春を旅した。春告精は声高に云う。皆さん、春が来ましたよ。忌々しい冬は遥かとおくへ逃げ出したのです。桜並木の向こう側へ消えゆく彼女が、秋に向かっていないと、誰が云えよう。そんな思惑を捨て去るために、私は春を旅したのだった。

 桜吹雪を足掛かりに、霧の湖へ旅路を進めた。狼女がそこには居た。
「あら巫女さん。お久しぶりね。」
 湖の畔からこちらを見上げる彼女の名前を、私は思い出せなかった。どんな名だったろうかと、うんうん頭を悩ませる。茶色に波立つ毛に覆われた、彼女のぴんと尖った耳が決め手となって、私は久しぶりにその名を口にした。
「あぁ、今泉影狼か。」
 その長いスカートに巻かれた脚を抱きかかえて、彼女は少し吹き出した。
「どうせ、そんなことだろうと思ったわ。」
 二人隣り合って湖の方を向いて、座っていた。影狼は、両の手で尻尾を抱き、毛繕いをしていた。ときおり顔を背けては、口に入った毛をぺっぺと吐き出していた。
「妖獣も大変ね。」
「換毛期だからね。」
 塊となって剥がれ落ちる彼女の冬毛を見ていると、私は何故か、とても恥ずかしくなった。せっせと毛繕いをする彼女の横で、私は改めて湖面を眺めていた。春の、朝の陽ざしが跳ねて、湖面は黄色っぽく銀色に輝いている。眩しくて、それをまともに眺められているのかも、不確かだった。作業を終えた影狼は、立ち上がった。
「もう、春ね。じきに暖かくなるわ。」
 今泉影狼は、それきり去ってしまった。夏毛の生え始めた彼女の尻尾は、斑にほっそりしていて、少し不格好だった。

 湖の縁を歩いて、紅魔館に寄った。紫に近い紅に塗られた鉄格子が、門の役割を果たしていた。その右側。紅い煉瓦で編まれた門の支えの下方あたりに、一部磨かれてつるつるとした門番の名残が在った。今日は紅魔館の主だった住人は、皆留守らしかった。
 紅魔館には、主人たちのための食堂とは別に、妖精メイドたちのための食堂がある。四人掛けの丸机が散りばめられた広い屋内では、何匹かの妖精が食事を摂っていた。妖精が食事をしているのだから、食堂は相応に騒がしかった。入り口から覗いていると、紫色の髪をした妖精と目が合った。彼女はなにやら白いカップを手に持って、こちらをじっと見ていた。
 私は食堂へと一歩踏み入れてみた。中は温かかった。私が姿を現したことで、幾匹かの妖精がそれに気づき、こちらをちらちら伺っていた。真っすぐ彼女の机まで歩いて、その正面に腰かけた。白いカップに入っているのは珈琲だった。
「……妖精も、そんなの飲むのね。」
 言葉の頭が、一度喉元に引っかかったような気がした。ただそんな気も、食堂の喧騒に紛れてすぐに流れて行ってしまった。
「トーストに合わせるなら、これじゃないと。」
 自信満々にそう言う彼女の顔を見ていると、丈の詰まった可愛らしい茄子のような形をしているなと思った。瞳に掛からないように、横分けにされた前髪や、多少間延びした人中が、それを連想させる。太い円柱型のカップを両手で挟んで、彼女は中身を一口飲んだ。その隣で、長い黒髪の妖精が革張りの本を広げていた。詰まった質感の装丁を、両の手に納めて、内容を理解しているのかどうなのか分からないが、なんだか小難しい顔を彼女はしていた。
「それで、巫女さんは何しに来たの?」
「別に、思ったより寒かっただけよ。すぐ出ていくわ。」
 私は、彼女から視線を逸らしてそう言った。硝子で隔たれた外の景色は、やけに静かに見えた。まだ少し冬の名残があるようで、騒がしく温かい屋内と比べて、どこか緊張した風景だった。春特有の、解けた空気感は、まだ見当たらない。
「えー、そんな寂しいこと言わないで、ゆっくりしていってよ。」
 妖精たちの立てる音が、広い食堂に詰まっている。笑い声、話し声、食器の擦れる音、走り回る足音、或いは食器の割れる音もする。それらが、高い天井に吸い込まれていくような気さえした。黒髪の妖精がぺらりと頁を捲る音が、そんな騒々しい食堂にあっても、やけに鋭く響く。視線を目の前の妖精に戻すと、その背中に生える紡錘形の薄い羽が、影狼のほっそりした尻尾に重なって見えた。
「貴方、名前は?」
 彼女はぽかんとしていた。そしてふふっと笑った。
「妖精に、名前なんてないけど。」
 そう言い切った彼女の視線を追って、私は再び窓の方を見た。
「あっそう。」
 誰かが、窓を開けた。食堂の暖気が押しのけられるように、春先の少し涼しい風が雪崩れ込んできた。黒髪の妖精の本が、風に捲られている。
「それ、面白いの?」
「さぁ?」
 小首を傾げて、彼女は席を立った。

###

 一度推力を失うと、人は案外すぐに落ちてゆく。温かい日差しの中を、それと関係ないくらい風を切って、私は落ちてゆく。全身で風を受けながら、腹を下にして真っ逆さま。眼下は霧の湖だ。紅魔館を出た後、何度かそんなことを繰り返していた。湖面の直前、やはり私は立ち止まった。空間に張り付けられたように、ぴたりと静止する。今度は逆に、私を起点に風が吹き荒れる。湖面が波立ち、飛沫が舞う。気が済んだので、私は霧の湖を後にした。

 幻想郷の空を飛んでいると、人里がとてもちっぽけに見える。だから、人間は空を飛んではいけないのだ。私はいつも、そう思っている。春の陽気は所かまわず咲いている。私はしばらく、魔法の森の上を彷徨っていた。どこに向かっているのか、自分でも杳として知れなかった。薄紫色に煙った眼下の森林へ、潜っていきたいような気持ちも在ったが、それはどうやら自分でも叶えられない類の物らしい。私は遠くに聞こえる不思議な音色に釣られて、空を滑って行った。
 魔法の森の南東方面。騒霊が住まう廃洋館がそこには在る。不思議な音色はそこから響いていた。洋館と森の境目に、野暮ったい檜の切り株が在った。香る切り株の上で、私は洋館から漏れ出す音に、耳を傾けていた。鋭く高く、トランペットが走る。その隣を、豊かで悲壮的なヴァイオリンが通奏低音となって流れる。そして、それらの道を、ティンパニの律動が整えている。幾たび聞いても、彼女たちの演奏は飽きない。飽きないものは、良いものだ。
 木漏れ日の下、切り株の上で、しばらくその音を聞いていた。たまには、彼女たちを呼んでお祭りでも開いたら、参拝客も訪れるかもしれない。そう考えていると、ふと日向に当たりたくなったので、私は空に向かった。洋館を飛び越しても、しばらく音は止まなかった。空を目指して駆け上って行く。鋭い一筋の雲みたいに、地上から一直線に力強く突き進んでいく。天上の彼方に冥界の入り口が見える。雲の切れ間に暗く佇むその入り口に、そのまま突っ込んでいく。

 冥界では、一足先に桜が満開となっていた。幻想郷では、春は空からやってくるのだ。長い石段を抜けたその先に広がる冥界は、春が訪れたばかりの地上とは異なっていた。薄茶の土道が静けさに押し固められていて、その上に桜が降っている。冥界の主が住まう白玉楼が、奥に見える。寝殿造りの大きな屋敷の門を抜け、私は廊下に上がる。屋内に入ると、やはりその静けさが目立つ。板鳴りが、やけに煩い。
「珍しいわね。貴方がこんなところに足を運ぶなんて。」
 通りがかった部屋の障子の奥から、冥界の主の声がした。曇りの日の昼のように、薄明るい白玉楼の縁側で、私は障子の奥にぼんやりと滲む彼女の影を眺めた。障子を開くと、部屋の中ほどに、こちらに背を向けて座る冥界の主――西行寺幽々子の姿が在った。
「妖夢ちゃーん、お茶出してちょーだーい。」
 六畳一間のその部屋で、私は彼女に促されその正面に座した。まもなく、従者の魂魄妖夢がお茶を運んできた。傍らに浮かぶ彼女の半霊が頭に乗せているのは、御煎餅の入った茶盆だろうか。一抱えほどもある人魂型の半霊は、白く透き通っていて、香霖堂で見かけた電球という物に似ている。
「失礼します。ってなんだ、霊夢じゃん。」
「とんだ御挨拶じゃない。従者の躾がなってないわね。」
 妖夢は、薄く笑ってお茶を配ると、部屋を出ていった。目の前の幽々子も、桜色の唇を薄く引き伸ばしていて、なんだか気色が悪い。白玉楼には、独特の空気が漂っていた。目の前には彼女が居るし、既に去ったと言っても、この屋敷のどこかには妖夢も居る。なのに妙に人の気が無くて、しんとしている。
「本当に、珍しいわね。」
 お茶を啜った。ここのお茶は、少し薄味でほんのり甘い。
「まぁ、春だからね。」
 彼女も、御煎餅をがりがり齧りながら、お茶を啜っている。私の頭の中には、まだ騒霊たちの演奏が響いている。静かな冥界だからこそ、その反響はなかなか離れない。
「春、春ねぇ……。」
 口の中で転がすように、彼女は勿体ぶってそう言う。
「……。」
 また一口、湯呑に口を付ける。彼女は明後日の方を見つめながら、それでも御煎餅を齧りながら口を噤んでいた。ぼりぼり、こりこりという咀嚼音が私の耳を占める。
「春といえば、アスパラガスよねぇ。妖夢ちゃーん。お昼はアスパラが食べたいわー。」
 遠くそう呼びかけると、幽々子はなんだかすっきりしたような顔をして、お茶を啜った。私はついに呆れ返って、机の上の茶盆に手を伸ばし、御煎餅がなくなっていることに初めて気が付いた。

 卓には、アスパラに豚肉を巻いたものや、アスパラの天ぷら、そして味噌汁などが並べられていた。最後に白米が運ばれてきて、私は図らずも白玉楼の二人と食卓を囲むことになった。三人そろって、黙々と箸を運んでいた。妖夢の料理は素朴で、とても美味しかった。幽々子が三杯目のご飯をよそったあたりで、私は箸を置いた。
「あら、遠慮しないで、もっと食べていいのよ。」
「あんたと一緒にしないで頂戴。もうお腹いっぱいよ。ご馳走様。」
 少し冷めたお茶を啜った。冷めたことで、苦みのじんわりと立った茶に、ようやく人心地つく。障子は開け放たれていた。玉砂利の続く庭に、何匹かの幽霊が彷徨っていた。食休みのために、私は縁側に出てそれらを眺めていた。相変わらず、うざったいほど桜が降っている。お茶を飲み干しても、景観はさして変わらなかった。
 茶器を片付けに、土間に寄った。そこでは、妖夢が大量の洗い物に精を出していた。
「あんたも大変ね。」
 洗い物の山に茶器を並べて、私は妖夢の隣に立つ。襷を掛け、彼女からたわしを受け取った。身内に染み透るような水の冷たさを堪えて、私たちはひたすらに洗い物を続けた。なんだかそのときは、どうしても手を動かしていたかったのだ。

 洗い物が終わって、私は妖夢の私室に通された。そういえば、彼女の部屋を訪れたのは初めてかもしれなかった。一人部屋にしては少し広々とした居室には、あまりに飾りっ気がなく、ちょっとした机と中くらいの茶箪笥、そして刀掛けがあるばかりだった。彼女と少しばかり世間話をしていた。最近は異変があまり起きないねとか、あそこの酒屋が値上げをしたなとか、そんな話だった。
 小さな机を挟んで喋る彼女は、口を優しく広げて笑っていた。その奥の茶箪笥の上に、えんじ色の何かが顔を覗かせていた。気になって、聞いてみた。
「あぁ、手鏡だね。」
 よいしょ、と腰を上げて彼女はそれを取った。そしてその隣に何か在ったようで、それも拾っていた。座布団に座り直して、手の物を机に置いた。小ぶりな彼女の白い手と同じくらいの大きさの手鏡と、その隣に漆塗りの小さな円柱が転がった。
「それは?」
 妖夢はそれを拾いあげると、円柱の上部を引っこ抜いた。蓋の下からは、てらてらとした真っ赤な塊が頭を出していた。
「これ、口紅なんだよ。」
 口紅の下部をくるくる捻ると、塊が回転しながらせり上がる。妖夢は鏡を手に取って、紅を差した。彼女の人の気の感じられない青白い肌の上で、そのきつく締まった赤色は変に映えていた。まるで新雪に零れ落ちた血のような赤だった。
「うぅ、やっぱり似合わないなぁ。」
 また捻って戻し、塊の頭を懐紙で軽く拭って、彼女は恥ずかしそうに笑っていた。
「欲しかったらあげるよ?」
「ちょっと、いらないもの押し付ける気?」
 そんなんじゃないよ、と笑って、洗面所へと向かった。一人になった部屋で、私はもうそろそろ帰ってもよいかなと思い始めていた。お昼も食べたし、少し眠くもなっていたのだ。私は袂から懐紙を取り出して書き置きをしようと思ったけれど、書くものが無いことに気が付いた。
「えっと、どうしようかしら。」

###

 その日の夜。私は神社で酒を飲んでいた。白玉楼の帰りに、酒屋に寄って買ったものだった。米の味が強くて、不味かった。肴も尽きて夜も更けた頃、そういえばと思い出して居間の壁に掛けてある装束の袂を漁った。
 箪笥から鏡を取り出して、口紅を塗りつけてみた。先端が平らに潰れていて、少し塗りづらかった。けれど、意外とじんわり馴染んでいて、悪くないかなと、ちょっと思った。
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春とは、恋のことだろうか