ひめよ、ひめよと。
かようにかなしまれ。
ここにそだった。
蝶のうたげをめっぱいにあび。
花の花ゆえのはかなさにしずごころをかなで。
いつとはなしに虹のふもとをおもった。
ふるさとはやあらかい。
かみさまのやあらかい光がくるんで、あったかい。
おきにいりのぶなの木のしたで、ぱかぱか、お馬にのりあいっこ。
西の岩やまにおひさまのしずむまで。
すてきよ、すてき。
空のまぶしさに、まよいもなし。
わらうのにはあいた。のどのしたがしびれるよう。
天地のよろこびにたっぷりそまった黄金。母はいって髪をすき。
千草のしらつゆにむすばれみのった翡翠。父はいって瞳をかさねた。
火のたくころになれば。
夜風、虫の音、ほのぼのと。
うすらかにきけば。
キスをして。
告げる。
あすのまた、さちあらんことを――――
■
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり――
ああ。音がとおざかってゆく。
鯉が跳ねた。
いや。
車輪が小石のために浮いただけだ。
まて。
わたしはあれからどれほどに離れた?
カラ、カラリ。
カラ、カラリ。
カラ、カラリ。
カラ、カラリ――
まやかしだ。
わたしははじめから谷川の流れなどきいてはなかった。
だのに。
あたまのなかを未だ流るるは、なにゆえか。
この谷のどん底はあけもくれもせずただ闇に濡れている。
「到着にござりまするぞ、橋姫さま」
同伴の使いがうやうやしく言って扉をかぱとひらいた。すでにゲートは越したよう。
使いの手を取り、ひかえめに重心をあずけ、ことっと、石畳にクツを鳴らした。口はむすんだまま。
めだまのようなまあるな外灯が表の庭を照らしている。
コツコツコツ、まっすぐに光をたどっていけば屋敷の玄関へ。
こんなにあっというま。谷川は未だ脳裏を流るるも、優雅な演奏がもれだしているのに少しさめる。
「参りましょうぞ」
わたしの平たいため息をよそに、扉は押しあけられた。
すぐそこが大広間だ。
かすかな笑い声がした。
豪勢でみやびやかな宴だ。グラスを手に語らいあう男女の目も細められる。
ひた黒く張り巡らされた壁天井。シャンデリアがうすら蒼く、しらじら灯され、あかるいような暗いような。ただよくにぎわって、いたっておだやかだ。
ふらふらり、踊る者は足取り軽やかに、手を取りあって、こころよさげに笑みしあい、曲のかなでに乗るのもそこそこに酔いに任せ身をゆらし、あちやこちやめぐっている。
「ではわたくしはこれにて。良いお時間をお過ごしください、橋姫さま」
使いはていねいに言って、去った。
わたしは礼を言うや立ちどまって、じっくりと広間を見渡した。立ち話に花を咲かせる人物。ただに思いのまま床を踏みあそぶ人物。ひとりひとりのうえを目でなぞっていく。
(ああ、いたわ)
そうしてはじめて前へと進み出た。ひらりひら、木の葉のようにたゆたう影をよける。メイドからグラスの一杯も受け取らず、たんたんと、ゆうゆうと、少しの乱れもない歩みをしていざ――奈落の王のものへ。
「こんにちは。さとりさん」
ひとことごあいさつ。
ひとり立ち尽くす彼女のひとみは、どれもとろんとろんと据わってまばゆく照る。まあるなひとみ。ゆうゆうかんかん、月のよう。
「ああ、これは……」
向きなおろうとふらり、いきすぎてふらり。
そうしてひっきょう定まらぬまま手だけ取り交わし、ぽかんと口をあけやかましく言った。
「パルスィさん……おお、これはこれはぁ……橋姫のおつとめ、ひごろよりおつとめェまとこまこと、ごぉ苦労にござり…………む……」
かと思えば急におとなしくなった。
「なにか?」
さとりさんはわたしの腕にもたれかかり、言った。
「宴席の装いではありませんね……」
周囲を見渡す。
右も左も、正面も。
ごてごてぎらぎら、華美な衣装。
じとじとと、視線が吸いつく。
顔をそむけて、口もとかくして。
笑う目目。
笑う声。
クスクスクス。わっはっは。
クスクスクス。わっはっは。
ぶわっはっはっは――
さて、知らない。
「これは橋姫の正装にございます。なればこそ、非礼にはあたりますまいと」
「なる、ほど」
ぐわんと首を縦に振って。
「いいでしょう……此度は、我ながらのきまぐれに労をねぎらわんと催したもの。ただ、お役に忠実なるはまことまこと素晴らしい……どうか、少しでもおくつろぎになって」
さとりさんが言葉をつけば、ひとまずはもとの空気に。足を踏み鳴らす音、閑談の声。どこからともなくふつふつと、わきあがりだす。
「身に余るご厚意、感謝いたします」
うやうやしく礼を言い、踵を返した。
が。
「パルスィさん」
呼び止められ肩を返せば、さとりさんはしなだれるようにしてふたたび手を取り、吐息してぽかんと、湯のうちから一小景望んだように見上げ。
「よろしければ……一周か二周、わたくしに付き合いませんか」
そう言いこぼす間にすっかり両の手をからめ向き合う形に。にへらっと。締まりなく笑いかけた。
そのまんま、ずんずんと、踊りの渦のさなかへといざなわれてしまう。
■
ずんちゃっちゃ。
ずんちゃっちゃ。
突如としておどり出た異色のひと組に、あたりのにぎわいはまたも空気を濁していく。
わたしはたまらずささやいた。
「さとりさん、さとりさん。わたくしは素面でございますよ」
「ぜひともリードして、いただければ……わたくしは、もう〝こんな〟で」
「踊りも不得手にございます。貴女に適う者なら他に――」
「わたくしは、貴女と、ともに……」
「――んだ、あの里娘は」
そこへ別の方からもひそひそと、芳しくないささやきがにおってきた。
「親類か」
「覚には見えないわ」
「眷属かも」
「さっき、ハシヒメサマとか」
「始さま?」
「箸ひめさま?」
「ハシビロコウだと?」
「ハシヒメとおっしゃってよ、アナタ酔いすぎ」
「まてよ、姫だって?」
わっはっはっは。
「よりによってかっ」
「冗談みたい」
「さすがに田舎っぷりが過ぎるな」
「そのくらいにして。聞かれたらどうするの」
「なに。お館さまは酒に弱い。あんな赤らんでちゃあ心の声も聞かれまいよ」
「ふつうの声のほうっ」
ごちゃごちゃ。
ガタガタ。
ああ、うるさい。
ああ、だまれ。
都の民。
しょせんは地底の民。
ふんぞり返ったって太陽は目もくれない。
お高いクツ履いたって月は望めない――――!
さああああ……
一滴も口にしてないのに、鼓動はげしく、嘔気もこみあげてくる。
「この地底の平らかなこと……ひとえに、ひとえに。辺境に構え橋守する貴女のおかげ……」
さとりさんは何も気に留めない。
赤く出来上がって目もくれない。
「そんな、滅相も――」
ぶわっはっはっは。
いよいよ回りに回り、だれもかれも遠慮を忘れ。
じとじとと。
じりじりと。
視線がむく。ひとみが、いっせいに剥く。
あせが。
息が。
嘔気が。
心臓が。
もう、
■
灰燼ばかり舞う幽暗の地底。
苔すら生さぬ毛無しの荒野。
このときばかり生けるもむなしい。
庭の花園をめぐる。
ひとり。
はなやかな奏ではただに遠く。
凛と生え揃うのに思いはひた黒くたれ落ちる。
わかっていた。
ほんとうは。
だれもかれも。
笑いなどしていなかった。
あれは、まぼろし。
どこからが? など。
わたしには知れない。
ただ、わたしがふと顔をほころばせようとしたとき。
妬むのだ。
遥か遠くの乱世に置きざらしにした村民が、友が、家族が。
わたし自身が。
その眼を光らせて。
ただひとりおめおめ出し抜けて、笑うなど。
妬ましい、と。
火蝶の舞ったまことのふるさと。
うつろとなった千の目をひとつも隠しもせず、わたしは逃げだした。
あの光景が、この翠のひとみにやきつき爛れ。
この幻想のふるさとに逃げおおせたそのとき。
わたしは永久に抜け落ちぬ緑をここにはめこんだ。
日陰におれば疼きはやわらぐ。
いやしく人を妬んでいれば、まぼろしの笑いは遠のく。
地のどん底。
ひとに飼われるのが、もっともみじめで安らかだった。
だがそれも。
こんなにくるしむのなら。
いっそ、幻想からも覚めてしまおうか。
橋姫はもう、それを越える。
そして一思いにやかれてしまう。
そう。わたしは、ゆく。
――地上へ出る。
■
ザッザッザッ。
ザッザッザッ――
一歩。また一歩。
屋敷をあとにし、街道をゆく。
飲み屋のちょうちん、倶楽部のネオン、溶岩をほのあかるく思わせるほどに、表も横丁も目にやかましい。
されど心は涼し。
これまで、さんざんに迷っていた。
半端にながらえ、絶大にくるしんだ。
生殺しはもはやこれまで。
わたしはゆく。
心は清々し。
わたしはゆくのだ!
「どこへいく気だ」
すでに街あかりは失せ、旧都を外れんとしたとき。声はかかる。
知り合いの鬼だ。
その長髪は何に染まった黄金か。
「どこへとは、どこかよ」
「しっかり答えろ」
「もとのところへ帰るだけ」
「その勇み立った足でか」
「……ええ」
鬼はぬっと迫った。
「きょうは奢る」肩に手をのばす。
「けっこうよ」払いのける。
「ヤな予感がするんだ」またのばす。
「帰るだけと言ってるでしょうッ!」
鎖ごとはじき、脇を駆け抜けた。
「待てッ、パルスィ!」
掴まれるすんでのところをかわした。そのまま駆け出した。
「パルスィ――ッ!」
「うるさいッ、妬ましいのよ!」
疼きを堪える。かようにかなしまれるか!
狂おしい! ああ、知らない!
わたしはゆく!
そのうちに橋が見えた。
我が憩いの架け橋。光すら帯びたよう。
その上を渡っていく。
鬼はわめけど、その中間を越えられない。
わたしは勢いのまま渡り切ろうとした。
鬼の絶なる一叫が雷の如く轟いた。
ふらりと、倒れる。
どうして、かように……
思い巡るも、気づく橋のヒビ。
痺れた全身に鞭打ち力をふりしぼった。
刹那。崩れだす。
必死にもがいた。
そして、ついにだ。
「はあァァァァ――――ッ!」
間一髪、渡り切った。
背面をすさまじい轟音が埋めつくした。
鬼の声もついぞ掻き消えた。
わたしは振り返らなかった。
用もないことだった。
ただに、ひたすらに、突き進んだ。
歩きつづけた。ひどく暗かった。しかし迷わなかった。何かに導かれている気さえした。
険しい岩肌の坂。服はやぶけ、皮膚もあちこち擦り切れた。
それでものぼった。砂利を口にしながら。力いっぱいに踏みこんだ。
そのうちに感ずる、そよかぜの気配。
土のにおい。
木の葉のまい。
草花のぬくもり。
昆虫のまじわり。
小鳥のさえずり。
ああ、ついに。
わたしは達した。
だがどうしたことか。
光は無し。
こんなにあったかいのに。
目もとに手をやった。
まぶたをめっぱいにひらいた。
ゆびをふちにすべらせて。
一突き。
……ああ。
そうか。
そうか。
もう。
なにも。
くるしまない。
ちからがぬけた。
ちにふした。
さら、さらり。
さら、さらり。
おとをきく。
なつかしいおと。
あたまのなか。
あたまのそば。
がけのはるかおくそこ。
そう。
わたしの耳がただ、谷川の流れをきくのみ。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。
さら、さらり。