今となっては、月も太陽も侵すことの出来ない暗い森。
巨木を覆うように生い茂る茨の間を、渦巻く「穢れ」を蛇に食べさせながら進んで行く。
木々の向こうのあちらこちらで、きゃっきゃと笑う子供の声が飛び交っているのが聞き取れた。
生命と自然の力が、幼き姿を取って現れるもの──妖精だ。
見つかったら面倒かなとも思ったが、異変の時でもなければさほど攻撃性は高くはないはずだ。
道祖神が阻む入り口をどうやってすり抜けてきたのやら、こんな環境でさえあの子たちにとってはいい棲み処らしい。
案外、神も妖も滅びた後の世界に残るのは、最も見くびられた存在である妖精たちなのかもしれない。
──そんな世界にも、きっと「彼女」は変わらず在るのだろうな。
そんな考えが不意に浮かんだが──彼女って?
……どうにも時どき、頭がぼんやりする。
月の民の支配から解放されて、もう随分と日も経つというのに。
自由の身となってからもずっと続いていた、何かに後ろ髪を引かれるような感覚。
どこかへ引き寄せられるような心持ちに従うまま、私は茨の間を飛び続ける。
水瓶に注がれたように満ち溢れた穢れによって、太古の姿を取り戻しつつある化石の森。
かつての怪物騒動も過ぎし日の記憶となったこの場所に、ユイマン・浅間は再び訪れていた。
木々が途切れた向こうには、果ての見えないほどの広大な空間が広がっていた。
あんなに濃密だった穢れの気配も、この先からは感じない。
妖精たちも、どうやらこの場所までは近づかないようだ。
特に目印となるようなものも見当たらない場所だが、不思議と向かうべき方角は知っているように思えた。
そちらを目指して飛び立てば、むき出しの岩肌の其処彼処から、巨大な生き物の骨らしきものが天を衝くように延びるのが目に入る。
──不気味とも言えるような場所なのに、どうしようもなく懐かしさを感じるのは何故だろう。
不思議な気持ちを抱えたまま伽藍洞を進めば、徐々にその骨の群れが整った列を成していく。
まるで私を出迎えるように並ぶ骨の上を飛び続けると、向かう先に骨以外の何かがようやく目に入った。
二本の柱で立つ、石の人工物。
あれは──鳥居だ。
額束に、三角の印が掲げられている。私の、私たちの神社の印。
その鳥居の上、鳥が静かに止まるように──彼女は居た。
背から生える石骨から広がる、薄布のような黒い片翼。
もう片翼を補うように伸びる、三本の巨大なあばら骨に灯る赤い炎。
ああ。
こんな人を、忘れていたなんて──
「──阿梨夜」
口の中でその名が転がり、遅れて頭がそれに追いつく。
「阿梨夜っ!!」
自分の心に確かめるように、私は力いっぱいその名を叫んだ。
鳥居の上の彼女が、こちらを見る。
「……ユイマン」
堪らず、私は空を蹴る。
殆ど激突するような勢いで、私は彼女に抱き着いた。
「わっ」
鳥居から弾かれながらも、彼女はしっかりと私を抱きとめてくれた。
少しのけ反りはしたが、その背の黒い翼で器用にバランスを取ると、ふんわりとふたり、空中に留まった。
「阿梨夜、阿梨夜──! 本当に、本当に貴方なのね……!」
堰を切ったように、私は彼女の名を呼び続けた。
「ずっと、思い出せなくてごめんなさい……」
「……分かってる、貴方のせいじゃないわ」
彼女の胸に縋るまま、謝罪の言葉を口にする私の頭を、阿梨夜はそっと抱いた。
高天原の連中──今は月の民と呼ばれるあいつらは、私を隷従させるために記憶を弄んだ。
あいつらに滅ぼされた故郷のこと、家族のこと──そして最も厳重に奥へと押し込められた、彼女のこと。
その背に固く回していた腕をほどき、彼女の顔を間近に覗き込む。
「あいつらに、酷いことされてない……?」
彼女は、わずかに口の端を上げて答える。
「……ちょっと三千年くらい、座りっぱなしにさせられてただけよ」
「だけって……」
どこまで本気なのか、それとも彼女なりにおどけているのだろうか。
ああ、でも──彼女は、そういう人だったな。
恒久の時を生きる、少し気の長すぎる人。
「私なんかより、貴方の方がよっぽど──」
阿梨夜の言葉が、そこで途切れる。
「……ごめんなさい」
彼女が、静かに目を伏せる。
「貴方が、酷い扱いを受けていることは分かっていたのに……私は何も出来なかった」
「阿梨夜……」
「ううん。いいの、私は」
努めて笑顔で、私は続ける。
「捕まってる間の私は、ずっと夢の中にいるような感覚で──もう、何があったかなんて殆ど思い出せないもの」
「──っ」
「あっ……」
彼女の顔が、悲しげに歪む。
そんな顔をさせたかった訳じゃないのに、私はそれを、ただ見つめることしか出来ない。
──昔と変わらない、彼女の顔。
短い黒髪に、端正な目鼻立ち。深みある赤の、優しい眼差し。
それに昔から付けていた、あの仮面。
仮面……?
改めて、彼女の顔を見る。
左目の周囲をささやかに覆う、小さな石の仮面。
なんで彼女は、あんなものを身に着けているんだっけ……?
仮面の隙間から、彼女の素顔が垣間見える。
あれっ──
阿梨夜って、こんな顔だったかな……?
何かが、かみ合わない。
私は、目の前の彼女の顔を見上げながら、その違和感の正体を探ろうとして──
「阿梨夜様のお傷を治す?」
軍服姿の兎が、お茶を注ぐ手を止めて顔を上げる。
視線の先では、阿梨夜の身柄を管理する高天原の女が優雅に掌を合わせていた。
「ええ、あんな仮面で隠すほどに気にされてらっしゃるようですし」
生命の匂いのしない都に、花の香りが満ちている。
高天原から移されて間もない、神々の住まう場所。
住人たちはそこを「月の都」と呼んでいた。
都を飾り立てるように植えられた桃の木がそこらで花の盛りを迎える中、彼女の邸宅も例外ではない。
桃の花の咲き誇るその庭園で、女は悠然と茶の時間を楽しんでいた。
「師匠に聞いてみたらね、単純な火傷の痕ならそう難しくないだろうっておっしゃってくれて」
話を続けるうちに、自然と管理者の頬が綻ぶ。
師匠とは、彼女の教育係でもある都の賢者だ。
「……そういうことなら、ご本人にも聞いてみた方がいいんじゃないですか?」
傍らに控えていたもうひとりの兎が、素朴な疑問を口にする。
「だってあのお方、何を聞いてもいらないっておっしゃるじゃない」
しれっと放たれた主の言葉に、ふたりの兎は顔を見合わせる。
その表情から互いに思うところがあることは分かったが、彼女たちもこれ以上は口を挟める立場ではない。
兎たちの戸惑いをよそに、管理者は言葉を継ぐ。
「けれど、あんなに酷い傷──治って喜ばない人なんて居ないでしょう?」
「ましてや女の人ですもの」
にっこりと笑みを浮かべる管理者を、ふたりの兎はなんとも言えない顔で見つめていた。
──あの火傷は、元はと言えば我々の身内の付けたものだと聞いている。
きっと阿梨夜様が頑なな態度を取るのも、あの傷痕のせいなのだろう。
言葉では拒絶していても、治してさしあげればきっと喜んでくださるはずだ。
兎から受け取った追加の茶を口に含みながら、管理者は無邪気に先の展望を思い描いていた。
阿梨夜が目覚めると、そこは白い壁に囲まれた見知らぬ部屋だった。
天井から降り注ぐ明るすぎる光が、開かれたばかりの阿梨夜の目を横から刺す。
──眠っている間に、移動させられたのか?
いつものようにやって来た「管理者」に、妙な術をかけられたところまでは記憶にあるが。
庇うように片眼を瞑って辺りを見れば、前方の壁面に誂えられた大きな鏡が目に入る。
そこには短丈の寝巻だけを着せられ、簡素な寝台に横たわる自分の姿が映っていた。
じわりと、胸の奥に不快なものが湧き上がる。
「……ぅ…っ…」
縛られたままの後ろ手を気にかけながら、慎重に身を下ろしていく。
細身の寝台はいやに高くて、いつ転げ始めるかも分からない小さな車輪が不安を煽る。
上体を寝台に預けるようにして、ゆっくりと床に足を付けていく。
やっと両足で立ち上がって寝台に背を向ければ、改めて壁の鏡に視線が移る。
そこに映る自分の姿に、どうにも引っかかるものを感じ、気付けば阿梨夜は鏡の方へと歩み寄っていた。
見慣れたはずの自分の顔が、近づくほどにはっきりと見えてくる。
だがそこに、見慣れたはずの火傷の痕は最早見当たらなかった。
「……」
鏡の前までたどり着くと、阿梨夜はそこに映る顔を見つめたまま立ち尽くす。
目の前の鏡像を疑っても、触れて確かめることも出来ない。
ただ、己の胸元を見下ろせば、衿の間から覗くその肌の、鏡の中と同じ真更な状態が分かった。
──何かを、されたのだ。私の意識のない間に。
「如何ですか? 綺麗に治ったでしょう」
背後から声がしたと思えば、鏡越しに「管理者」を名乗る女の姿が見える。
その声は、どこか得意げな調子だった。
「都に、万能の天才と呼ばれるお方がいらっしゃいましてね」
「医術にも実に堪能で──そのお方が、このたび阿梨夜様のために腕を振るってくださったのですよ」
鏡を前に沈黙したままの阿梨夜をよそに、女は徐々に興奮を滲ませながら語り続ける。
「そのお方も、阿梨夜様が都にいらっしゃることを心待ちにしているのです」
「ですから是非──」
「……あんたらは」
ゆっくりと、阿梨夜が鏡に背を向け振り返る。
俯くその姿からは、表情は伺えない。
「……?」
「人の身体を、何だと思って──!」
「ひっ──!」
埒外からぶつけられた阿梨夜の殺気に、管理者は思わず身を竦める。
顔を青ざめさせ震えるその姿は、ただの少女のものだった。
「……」
「はぁ」
たっぷりの沈黙ののち、気が削がれたように阿梨夜は溜息を吐く。
「……言ったって分かんないわよね、月の民には」
「……? ? ?」
身を縮めたまま、管理者は阿梨夜の顔を窺う。
管理者の顔は、未だ恐怖と困惑に染まっている。
阿梨夜は、そんな彼女にはもう用はないとばかりに踵を返す。
壁面の鏡の前まで歩み寄ると、それに背を向け、腰を下ろして目を閉ざす。
「あっ……」
無機質な部屋に、沈黙が流れる。
座り込む阿梨夜を前に、管理者はただ立ち尽くしていた。
ああ、そうだ──
ぼんやりと阿梨夜の横顔を眺めながら、私は記憶の奥底に沈んだ彼女の姿を手繰り寄せていた。
彼女の顔には、大きな傷跡があったはずなのだ。
特徴的な石の仮面で覆い隠され、それでもなおその縁から覗くあの火傷の痕。
それが今は、跡形もなく消えていた。
「傷」
私がそっと言葉を零せば、隣り合うように鳥居に腰かける阿梨夜の肩がぴくりと動く。
「治ったんだね」
微笑む私に、彼女はなんとも言えない顔で視線を返す。
彼女の口が小さく開かれるが、何かが紡がれることはついになかった。
「……あんまり、嬉しいことじゃなかったりする?」
阿梨夜が、あの傷のことでずっと苦労していたのは私も知っていた。
だから彼女も喜んでいるものかと、当たり前のように思ったのだが──
「……私が、選んだことじゃないから」
そう言って視線を逸らす彼女を見れば、何となく何があったのか察することが出来た。
──瑕疵を厭う、錦上の民。
阿梨夜の力を望むくせに、ひとたび拒絶されればその身を封じることも躊躇わないあの連中。
ああ、あいつらならきっと──そういうことも、するのだろう。
「……そっか」
私はただ、それだけしか彼女に声をかけられない。
「──ねぇっ!」
空気を切り替えるように、私は声を張る。
「神奈子って覚えてる? 湖のそばに住んでた子!」
「勿論、覚えてるわ。貴方の友達だもの」
そう言うと阿梨夜は、やっとくすりと笑ってくれた。
「あの子もね、幻想郷に来てたんだけどね……まさか、あの湖ごと引っ越してきちゃったんだよ!」
「ふふ」
冷静に考えれば、妖怪の山での出来事を阿梨夜が知らないはずもないのだけども。
それでも彼女は、楽しそうに私の話を聞いてくれた。
「……ピラミッドを出てからね、私あの子の所でお世話になってるんだ」
「阿梨夜も一緒に来ない? 大きな神社だったから、もうひとりくらい転がり込んでもきっと大丈夫だよ」
「可愛い巫女さんも居るんだよ、早苗ちゃんって言うんだけどね──」
私は、この数か月で出来た地上での縁を、矢継ぎ早に紹介する。
阿梨夜もきっと、彼女らを気に入ってくれるはずだと思うから。
阿梨夜は、私の話を静かに聞き続けてくれた。
そして私が語り切るのを見届けたように、ゆっくりとその口を開く。
「……私は、ここに居るわ」
そして、わずかに微笑む。
「私の神社は、ここだから」
「じゃあ、私も──」
だってここは、私たちふたりの神社で──
「貴方は」
強く短く、彼女は言い放つ。
そして一度大きく息を吸って、次の言葉を継いだ。
「……どうか、変化のある場所で生きて」
「これまでの、三千年の分も──」
「阿梨夜……」
「それに」
「気に入ってるんでしょ? 今の暮らし」
「……うん」
つい先ほどまで、自ら揚々と語ったことを思い返しながら、私は頷く。
「でも」
それでも私は、つい縋るように聞いてしまう。
「……これからも、ここに来ていいよね?」
だって、折角また会えたのだ。
きゅっと握った手の甲に視線を落として、私は阿梨夜の返事を待つ。
「……ふふっ」
そんな私の様子に何を思ったのか、阿梨夜は小さく笑みを零す。
「当り前じゃない」
そっと私の肩を抱き寄せて、彼女は言う。
「ここは、私たちふたりの神社なんだから」
それからも私は、折を見ては彼女の元へと通い続けた。
鹿を狩ったこと、季節が進んだこと、新しく出会った人たち。
地上で経験したことのひとつひとつを、手土産として持ち込むようにしながら。
阿梨夜は昔と同じように、穏やかに微笑みながら私の話を聞いてくれる。
けれどひとつだけ、昔とは違うことがあった。
「仮面……外さないの?」
ある日、とうとうそんなことを聞いてしまったのは、私もどこか寂しさを感じていたからなのかもしれない。
阿梨夜は、すぐにはその問いに答えなかった。
少し困ったように笑みを浮かべ、言葉を探すように視線を揺らす。
堪らず私は、先ほどは留めていたはずの言葉を口にしてしまう。
「もう、傷は無いのに……」
「……そうね」
阿梨夜は、遠くを見やってしみじみと頷く。
「……私と一緒でも、ダメ?」
言ってしまってから、ちょっと今のは狙いすぎだったかな、などと、ささやかな後悔が私を襲う。
しかし悔やんだところで、一度出た言葉は引っ込まない。
私は阿梨夜の目を、じっと見上げ続けた。
「……」
「ごめんなさい」
阿梨夜は、視線を外すように目を伏せる。
「こんなこと、きっと変に聞こえるだろうけど」
そして、言葉を選ぶようにゆっくりと話を続ける。
「なんだか、自分の顔が、自分じゃなくなったみたいで──」
「……そっか」
昔の──高天原に囚われる以前の彼女は、私の前でだけは、あの仮面を外してくれた。
神としての役目からも離れ、ふたりで過ごす穏やかな時間。
今思えば、私は……あの時間が、好きだった。
けど、彼女にとっては恐らくあの仮面も自分の一部なのだろう。
──自らの意思によらずに整えられた顔よりは、よほど愛着の持てるほどには。
「ごめんね、催促するようなこと言っちゃって」
「……阿梨夜に、無理させたいわけじゃないからさ」
それからの私たちは、彼女の仮面の話に触れることはなくなった。
──寂しさを飲み込めたかというと、嘘になるけども。
それでも、彼女が抱えたものを思えば……こんなものは子供の駄々のように感じられたから。
「ふぁ……」
季節は進み続け、地上は雪に白く染められた。
阿梨夜と並んで縁側に腰かけながら、私は欠伸を噛み殺す。
この地下の神社の庭先から見えるものと言えば、荒涼とした岩肌と骨のようなものばかりだけれど。
私は、この景色が嫌いではなかった。
「眠いのなら、無理しなくていいのよ」
「んー……」
生返事をしながら、私はこてんと横になった。
蛇の血を引く私は、どうにも冬には弱い。
とりわけ、この土地は故郷と比べると随分と寒いものだから猶更だ。
それでもこの地下の神社は気温の変化もほとんどなくて、地上と比べたら過ごしやすい。
ひと眠りでもすれば、いくらか頭もすっきりすることだろう。
「……もう、冬の間はずっとこっちに居ようかな」
ぼんやりと微睡むまま、気付けばそんなことを口にしていた。
「……」
阿梨夜は、しばらく黙っていた。
そして私の髪をそっと撫でると、優しい声で言う。
「貴方にとって、それが心地良く過ごせるのなら」
「……えへへ」
思わず、顔がにやけてしまう。
「ただ、神奈子たちにはちゃんと伝えておかないとね」
「急に帰らなかったら、心配するわ」
「ねぇ」
「それならさ……阿梨夜も一緒に行こうよ」
寝そべったまま阿梨夜を見上げて、私は続ける。
「私だけだと、また途中で眠くなっちゃうかもしれないし……」
「早苗ちゃんもね……阿梨夜のこと話したら……会ってみたいって、言ってたよ……」
「ふふっ、一体どんな話をしたのやら」
話を続ける最中にも、私はうとうとと船を漕ぐ。
「そうね」
もう瞼もほとんど開けられなくなった時、そんな声が聞こえた。
「ユイマンの大切な人たちに、私も挨拶してこようかしら」
その言葉を待っていたかのように、ついに私は眠りへ沈んで行った。
私が冬ごもりをすると聞いた神奈子たちは、日持ちのする食べ物やらお菓子やらを鞄いっぱいに持たせてくれた。
手提げ袋の中には、外の世界の本もある。
早苗ちゃんの部屋の本棚にみっしりと並べられていた、絵のたくさん描かれた小さな本だ。
「定期的に差し入れも持って行かせるので。早苗に」
「えっ!?」
さらっと放たれた神奈子の言葉に、早苗ちゃんが勢いよく振り返る。
「神奈子や私じゃ、あの森はどうにもならないからねー」
けらけらと笑って、神奈子の相棒である祟り神──諏訪子が続ける。
どうやら高位の祟り神と言えど、あの森の穢れを無視出来るものでもないらしい。
「早苗は一回行ってるでしょ? 怪物騒動の時」
「行きましたけど、行きましたけども……!」
そう。化石の森に怪物が出たと私が騒ぎ回っていた時に、最初に動いてくれたのが早苗ちゃんだった。
あの時は解放されたばかりの私が混乱していると思われて、中々話を聞いてくれる人もいなかったっけ。
「早苗ちゃんが来てくれるなんて楽しみ! おもてなしの準備して待ってるね!」
「ぐぅっ……!」
早苗ちゃんは突然、目をかばうような姿勢で顔を背ける。
雪の照り返しでも目に入ったかな……?
「阿梨夜様」
神奈子が、珍しく神妙な様子で切り出す。
「私が言うのも妙な話ですが……ユイマンのこと、どうかよろしくお願いします」
阿梨夜は一瞬だけ目を丸くして、それから静かに微笑んだ。
「こちらこそ。私の方が、あの子にお願いしたいくらいよ」
「ふふ。そう言っていただけるのなら、安心しました」
ふたりしてそうやって畏まるものだから、私は妙にこそばゆくて。
誤魔化すように、足元の雪を小さく蹴散らした。
神奈子たちに別れを告げて、昨晩積もったばかりのきらきらとした雪の上をふたりで飛んでいく。
ふっくらと積もった雪が木々の枝をしならせているのを見て、地上も相当雪深いのだろうなと想像する。
空が飛べて良かったな。
神奈子たちに持たされた鞄の重みを背に感じながら、そんなことを思う。
「楽しい人たちだったわね」
翼を広げて飛びながら、阿梨夜が言う。
鞄の背負えない彼女は、手提げ袋を抱えてくれている。
「でしょ」
私は、少し得意げに返す。
「おーい! 鹿娘!」
麓の森の上空に差し掛かったところで、地上から呼び声が聞こえた。
「あっ、ウバメさん!」
見下ろせば、木々の間に片手を上げている人がいるのが見えた。
この森に住む山姥たちの長である、ウバメだ。
ウバメは雪を蹴ると、私たちの所にまで真っすぐ飛んでくる。
「今日は見慣れない奴を連れてるじゃないか」
ウバメは空中に留まると、私と阿梨夜を見比べるようにして言った。
「阿梨夜だよ。洞窟のピラミッドに住んでるの」
「ああ」
森の山姥たちにとっても、あのピラミッドは長い間謎の施設だった。
ウバメはしげしげと阿梨夜を眺める。
「なるほどなるほど」
ウバメはひとしきり納得したように頷くと、私を見てにやりと笑う。
「お前さん、随分足しげくやってくると思ったら、ずっとこいつの所に通ってたのかい」
「あ、いや……そういう訳じゃ……」
何がそういう訳なんだろう。
ウバメが言っていることは実際その通りなのに、どうしてか私は狼狽えてしまった。
「あっ、えっとね阿梨夜。この人ウバメさん」
私は話題を変えるように、阿梨夜へ話を振る。
彼女の話なら何度かしていたはずだ。
「ほら、山姥の王様の」
阿梨夜はすぐに得心した様子で頷く。
「お初にお目にかかります、ウバメ殿」
荷物を抱えたまま、空中で姿勢を整える。
「ユイマンが住処を通るのを許してくれていること、ありがたく思っています」
「おおっ?」
阿梨夜の丁寧な挨拶に、ウバメは意外そうな声を上げる。
「こりゃまた、鹿娘とはずいぶん毛色の違う御仁だね」
……ウバメさんの中での私の認識って、どうなっているんだろう。
「いやなに。森でちょろちょろしてる娘っ子がいると思えば、私らよりも随分古くからここに住んでるって話じゃないか」
豪快に笑いながら、ウバメは続ける。
「それならまあ、邪魔するのも野暮ってもんだろう」
「まあなんだ」
ウバメは、空に留まったまま腕を組む。
「あんたのことも、仲間には伝えとくからさ」
そして先ほどまでとは違う、ふっと力の抜けた笑みを浮かべる。
「たまにはこうやって鹿娘に付き合ってやんなよ」
「……ありがとうございます」
そうしてウバメは私たちに軽く手を振り、森の中へと消えていった。
「……鹿娘」
ウバメを見送った阿梨夜が、ぽつりと零す。
「ふふっ、鹿娘って呼ばれてるのね。貴方」
「だって……」
解放されてからの私は、今までの分を取り戻すかのように鹿狩りに精を出した。
その結果、気付いた頃には、ウバメたちのみならず山の妖怪たちの間でも、「いつも鹿を追ってるあの娘」という認識が出来上がってしまった。
「鹿狩り」
阿梨夜は、しみじみとした調子で呟く。
「好きだったものね」
そして私に、優しい眼差しを向ける。
「……うん」
「ふふっ」
そうして笑う阿梨夜は、本当に嬉しそうで。
残りの帰り道。私はなんだか、やたらと暑く感じてしまって。
冬の寒さなんて忘れるくらいだった。
夜も昼もないような地下の世界でも、時間が来れば眠気はやってくる。
大人しく布団に入る前に私は、昔のように阿梨夜の部屋を訪れてみた。
ひとつ、息を吐いて引き戸を開ける。
その向こうでは彼女が、昔のように文机に向かっていた。
昔と違うのは、その手元を照らす蝋燭の火がないこと。
──そして彼女の顔に、あの仮面があること。
「今も書いてるんだね、日誌」
そっと隣に腰を下ろして、彼女に声をかける。
「読んでみてもいい?」
「どうぞ」
阿梨夜は机上を滑らせるように、開かれたままの日誌を私に差し出す。
そこに使われているのは、三千年前から変わらない、彼女の仲間の神々が用いる神の字だ。
今さっき阿梨夜が記したばかりの、今日の記録が目に入る。
●月●日
ユイマン来る。
ここで冬を越すことが決まる。
共に守矢へ挨拶に伺う。
手土産多数頂戴する。
帰り道山姥の王と面識を得る。
……簡潔にもほどがある書き方なのに、どうにもそわそわしてしまう。
頬が緩むのを堪えながら、古い頁にも指をかける。
▲月●日
特筆することなし。
▲月●日
ユイマン来る。
地上は蝉が鳴きだしたとのこと。
守矢の神社にはえあこんなるものがあり快適と。
▲月●日
特筆することなし。
▲月●日
特筆することなし。
「……」
ぺらりぺらりと、目につく箇所を拾いながら私は頁を捲っていく。
■月●日
ユイマン来る。
山は紅葉が始まりつつあるとのこと。
守矢の巫女が観楓会を企画中。
■月●日
特筆することなし。
■月●日
特筆することなし。
■月●日
ユイマン来る。
よい鹿を仕留めたとのことで鍋を馳走になる。
守矢から野菜も持たされたとのこと。
返礼に所蔵の石をひとつ持たせる。
……私が来たことばっかりじゃん!
最後のこれ、あれかな。お鍋食べた後に綺麗な石くれた時の。
空の色みたいに明るく冴えた、青い石。
あんまり嬉しかったから、帰ってから早苗ちゃんにも自慢しちゃったけど……。
「返礼」って、これ……。
あれっ、もしかして神奈子たちに渡しといてって意味だった……?
どうにももやもやしたものは感じるものの、今のタイミングで確かめるのも何となく妙な気はした。
「ああ、あの日の記録ね」
頁をめくる手も止めて日誌を見つめたままの私を気にしたのか、気付けば阿梨夜が隣から覗き込んでいた。
「美味しかったわよね、あのお鍋」
「う、うん……」
私は、生煮えのような返事しか出来なかった。
今なら……いや、やっぱり無理かな……。
「そういえば」
そのまま日誌を見ていた阿梨夜は、何かに思い至るように呟く。
「あの石って、まだ持ってる?」
「──持ってる!」
つい、被せ気味に返事をしてしまった。
「持ってきてるよ!」
そう。あの石はしっかり布袋に入れて持ってきていた。
昔使っていた時の状態、そのままだった私の部屋。
冬ごもりの荷物を降ろした時、そこにある小物入れの引き出しに真っ先にしまったのだ。
「そう」
阿梨夜は少しだけ気圧された様子だったけど、すぐに目を細めてそう言った。
その先を読み進めていっても、他の日誌も終始この調子だった。
特筆することなし。ユイマン来る。
どこまで行ってもそのふたつの書き出しだけ。
あとはたまに、どこかに何やらの化石があったとか。
最初は──正直、嬉しかった。
けれど段々と、昔に読んだ彼女の日誌のことが頭をよぎり始める。
あれには、麓の民から届いた奉納品のことや、季節の祭りのことが日々書かれていた。
今の彼女の日誌には、それがない。
「阿梨夜は、さ」
なるべく、何てことのないような調子で聞いてみる。
「また、地上に神社を作ってみるつもりはないの?」
外の世界には、今も彼女の分霊を祀った神社がたくさんあることは知っていた。
けれど、それらとは違う──彼女自身が住まう、人々と関わるための神社。
昔、ふたりで暮らしていたような、あんな場所。
「……私は」
阿梨夜は、わずかに視線を伏せるとどこか含みのある笑みを浮かべる。
「月も太陽も届かないこの場所で、やっと自由になれた気がする」
「月の民は、きっと私の力を諦めないわ」
阿梨夜はのけ反るようにして天井を仰ぐ。
けれどその目は、もっと遠くを見ているようでもあった。
「永遠の都は、あいつらの宿願だもの」
「阿梨夜……」
それじゃあずっと、貴方はこの地下に──
「ふふ、そんな顔しないで? ここでの暮らしも、そう悪くはないのよ」
阿梨夜は、口の端で小さく笑う。
「少なくとも、今は好きに歩き回れるしね」
そして、ほんの少しだけこちらへ視線を向けた。
「それに──貴方だって、来てくれる」
そう言って柔らかく笑う彼女からは、強がりのようなものは感じられなかった。
「……ずるいなぁ」
降参するように呟くと、私は彼女の肩に身を預ける。
それでもひとつくらい、我儘を言いたい気分だったから。
「……冬の間は、一緒に居ようね」
「……ええ」
彼女はただ、そっと私の手を握ってくれた。
それからの私は、冬の間ずっと阿梨夜に着いて回っていた。
地下空洞をふたりで飛んで回ったり。
阿梨夜が見つけた化石の場所を案内してもらったり。
神奈子たちが持たせてくれた食糧にあった、カレーというものを一緒に作ったり。
早苗ちゃんの本を読んで、後で感想を言い合ったり。
ある日は、納屋の整理をするという阿梨夜について私も手を動かした。
「あっ、これ──」
大きな木箱のひとつを開けた私は、その中身を見て声を上げる。
「まだ、残ってたんだね」
そこに入っていたのは、阿梨夜の祭り用の仮面だった。
顔全体を覆える、大きな逆三角の仮面。
元々は、麓の民たちが手ずから作って奉納した品だ。
「随分と懐かしいものを見つけたわね」
振り返ると、隣に阿梨夜が膝を着いていた。
しげしげと仮面を眺めていた私を、彼女は微笑みながら見つめていた。
「ねっ」
にっと笑って、私は手にある仮面を阿梨夜に向けた。
あれから何千年も経っているはずなのに、この納屋のものは不思議と全く傷んでいない。
木箱も、祭りの道具も、昔使っていた食器も。
まるで、昨日まで使われていたもののようだった。
「……楽しかったな、あの頃」
「……そうね」
少しの間、私たちは揃って古い仮面を眺めていた。
その静けさを打ち切るように、私はあることを思いつく。
「ねぇ」
私は阿梨夜を見上げて、にやっと笑う。
「ちょっと、この仮面着けてみない?」
「えっ」
「お願い! ちょっとだけ!」
手にした仮面で口元を隠す私を見て、阿梨夜は幾度かまばたきをしていた。
「そうね」
ふっと、阿梨夜の表情が和らぐ。
「貴方がそこまで言うのなら」
そうして阿梨夜は、私から祭り用の仮面を受け取ると──ごく自然な所作で──あの石の仮面を外した。
(あっ──)
それは、瞬く間のことではあった。
私が声を出す間もなく、阿梨夜は仮面を着け終えこちらに顔を向ける。
いつもより大きなその仮面の向こうで、どんな表情をしているのかは伺えない。
「どうかしら」
けれど、その向こうから聞こえた少しくぐもった声は、いつもの優しい阿梨夜のものだった。
「……えへへー」
どうにも私は、無性に嬉しくなってしまって、ただにやけているばかりだった。
「……?」
「うん、似合ってるよ」
私は、目を細めて彼女の仮面を見つめる。
「あの頃に戻ったみたい」
「そうかしら」
阿梨夜は、私の言葉にいまいちピンと来てはいないようだった。
「けど──」
何かを考えるように、彼女は仮面の顎先に手を添える。
「貴方がそんなに喜んでくれるのなら、着けた甲斐もあるかもね」
仮面の向こうで、彼女が笑っているのが確かに見えたような気がした。
納屋の一件から、改めて阿梨夜の生活に意識を向けると、仮面を外す瞬間というのは思いの外あるようだった。
着替える時、起きたばかりの時、お風呂上りの時。
考えてみれば、当たり前のことなんだけれども。
秋までは、こんなに長く一緒にいる機会もなかったからな。
それでも阿梨夜は、私に気付くと手早く仮面を着けてしまう。
彼女にとって今の顔は、どうしても人に見せたくないものというよりは、表に出したままだと落ち着かないようなものなのかもしれない。
(傷があった頃の顔も、そういう意味では同じだったんだろうけれど──)
あの頃の彼女の仮面は、奇異の視線から自らを守るものという意味合いが強かったように思う。
だからこそ、私の前ではあの仮面を外してくれていたことが、彼女の信頼の証のように感じられて嬉しかった。
(自分の顔って思えなくなった、って言ってたっけ)
長い時間をかけて、阿梨夜はあの傷痕と折り合いを付けてきた。
それを、彼女の意思とも関係なしに、急に無かったことにされてしまったのだ。
そんな風に思ってしまうのも、無理のないことなのかもしれない。
阿梨夜は、これからの恒久を──他人の顔で生きていかなければいけないのだろうか。
(私に何か……出来ることってあるのかな)
その日の夜、私はまた彼女の部屋へと押しかけていた。
いつものように日誌を書き終わるのを確認して、彼女に声をかける。
「阿梨夜ー」
「今日さ、一緒に寝ない?」
「……どうしたの、急に」
阿梨夜は、訝しげに私を見る。
「んー……なんとなく?」
私は誤魔化すように首を傾げる。
「ほら、昔はたまに一緒に寝てくれたじゃん」
「あの頃は……貴方が寒いって言うから」
そう。
山の上の神社で暮らしていた時は、そんなことを言っては、よく彼女の布団に潜り込んでいた。
実際は、他にも色々と理由はあったのだが。
「この場所は、そう寒くもないでしょう?」
阿梨夜の言うことは尤もだった。
けれど私も、もう寒さだけを言い訳にするつもりはない。
「一緒に寝たいなー……?」
私は、少し首を傾げながら阿梨夜を見つめる。
「……」
阿梨夜は、すぐには答えなかった。
じっと私の顔を見つめたあと、ほんの少しだけ目を細める。
その視線に、私はなんとなく見透かされているような気持ちがした。
けれど、阿梨夜は何も言わない。
「……だめ?」
少しだけ声を落として、もう一度尋ねる。
「……はぁ」
阿梨夜は困ったように息を吐いた。
それでも、その顔には怒った様子も、呆れた様子もない。
「随分と、甘え上手になったものね」
そう言って、小さく笑う。
「いいわ、おいで」
阿梨夜は立ち上がり、私に手を差し伸べる。
「甘えん坊の白蛇さん」
「! えへへ」
にやけながらその手を取ると、阿梨夜は引っ張り上げるように私を立たせてくれた。
昼も夜もなく薄明るい地下空洞。
せめて寝る時くらいはと窓掛けで覆った寝室も、それでも普通の夜よりは少し明るい。
互いの姿がぼんやりとだけ見える中、私たちは布団の中に並んでいた。
私の定位置は、阿梨夜の右──今は石骨だけとなった黒翼のある側だ。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
自然体、自然体。
ちらっ、と阿梨夜の方を見る。
こちらは仮面を着ける方とは反対側だけど──今の彼女は、確かにあの仮面を外している。
「ふふふ」
「…? どうしたの?」
「別にー」
「ねぇ、ちょっとお喋りしない?」
「眠いんじゃないの?」
「んー、なんだか目が冴えちゃったかも」
阿梨夜の顔が、少しだけこちらに傾く。
彼女の目鼻立ちが、薄闇の中にうっすらと浮かぶ。
「……早苗ちゃんが持ってきてくれたお菓子、美味しかったね」
「ええ、とっても甘かったわね」
この日の昼間、追加の差し入れと共にやってきた早苗は、人里のお菓子も持ってきてくれていた。
「私たちが捕まってる間に、食べ物とかすっごく美味しくなったよね」
「そうね。随分と手の込んだものが増えたみたい」
あの頃の人間たちの食べ物と言えば、肉や木の実を煮炊きした素朴なものだった。
それでも、お祭りの日にみんなで食べるそれは、温かくて美味しいものだったけれども。
「あれ、綺麗だったよね。食べるの勿体ないくらい」
練り切りと呼ばれる、繊細な細工の施されたお菓子。
花や動物など、小さな箱に並べられたひとつひとつが違う形をしていて、見ているだけでとてもわくわくした。
「食べたのでしょう?」
「食べたけど……」
「ふふっ」
そうやって阿梨夜と話していると、なんだか安心してしまって。
遅れてやってきた眠気が、徐々に私の瞼を重くしていった。
「明日……残りも一緒に食べようね……」
「……ええ。おやすみなさい」
「ん……」
そうして私は、数日おきには阿梨夜の部屋に行って一緒に寝てもらった。
あくまでさりげなく、阿梨夜が自然体で仮面を外してくれている、そのくらいの頻度で。
薄闇の中で私たちは他愛ないお喋りをして、いつの間にか眠りに就く。そんな日々の繰り返し。
そんなある日、朝起きて部屋を見渡せば──阿梨夜が、素顔のままでそこに居た。
「ああ、おはよう」
「あっ……? お、おはよう」
「今日は目覚めがいいのね」
彼女は、いつもの時間通りに窓掛を開けたところのようだった。
地下空洞の柔らかい明かりが、部屋へと差し込んでいた。
私は、ただぼうっと彼女の顔に見惚れていたと思う。
「……折角だし、朝ごはん一緒に作る?」
何を言うべきか分からずじっとしていた私に、阿梨夜がかけてくれたのはそんな言葉だった。
「えっ?」
「ほら。早苗がまた色々と持ってきてくれたじゃない」
阿梨夜が言っているのは、早苗が差し入れてくれた食糧のことだろう。
「私にはよく分からないものが多いけど、貴方なら馴染みもあるかなって」
そういえば、差し入れの中にホットケーキの粉があったっけ。
神奈子のところで、みんなで焼きながら食べたな。
あれなら、卵とか牛乳とか、早めに使いたい材料も使えるし。
「ホットケーキなら、私も分かるよ」
「ホットケーキ?」
阿梨夜が、小さく首を傾げる。
「粉に卵とか牛乳を混ぜて、生地を作るの。それをフライパンで焼くんだよ」
「へえ」
「そんなに難しくないよ。いいところでひっくり返すのが楽しいんだ」
「そう。なら、私にも教えてもらおうかしら」
「うん!」
さっきまで何を言えばいいのか分からなかったのに、急に気持ちが軽くなった。
「じゃあ、まずは顔を洗ってきましょ」
その後、一緒にホットケーキを作り始める時には、阿梨夜はまたあの仮面を身に着けていた。
けれどそれから少しずつ、彼女が素顔でいる時間が増えていったような気がする。
夜、部屋に行ったときに仮面を脇に置いていたり。
お風呂上り、私と会ってもすぐには仮面を着けなくなったり。
──何となく、彼女の方も歩み寄ってきてくれているような、そんな気がした。
三月になった。
地上では雪も解け出し、山には新しい草が芽吹き始めている頃のはずだ。
「そろそろ帰らないとな」
そう言いながらも、私は阿梨夜の隣からなかなか離れられずにいた。
「随分と長居したものね」
「だって、冬の間は一緒に居ようって言ったじゃん」
「ええ。ちゃんと守ってくれたわね」
そんなやり取りをしているうちに、ふと彼女の頬へ手が伸びる。
──仮面を外したままの、彼女の素顔。
「……」
以前なら、こんなふうに触れることはなかった。
いや──触れられなかった、という方が正しいのかもしれない。
今は、阿梨夜も逃げない。
ゆっくりと、指先が頬に触れる。
月の民によって傷の消された、不自然なまでに滑らかな肌。
元々の端正な顔立ちと相まって、今の彼女は名工の手による彫刻のようだった。
「……綺麗な顔」
「……」
自然と、そんな言葉が口から零れていた。
私を見返す阿梨夜の表情からは、感情は伺えない。
傷が無くなったこと、それ自体は本当は喜ばしいことのはずなのだろう。
あの傷のことで、民草や、仲間の神々までもが口さがない噂をしていたのはユイマンも知っていた。
──そしてそれが、当世までどのような形で伝わって来たかということも。
今の彼女が表に立てば、もうあんな風に人々から貶められることもないのだろうな。
そうであるなら、確かに私も嬉しい。
けれど──
「私は……阿梨夜が格好いいって、知ってたよ」
「──っ」
阿梨夜の視線が、僅かに逸れる。
その頬を撫でるユイマンの手に、じんわりと熱が伝わる。
「それに──可愛い人」
「……ユイマン」
じとっと私を見返す彼女の顔は、少し気の毒なくらいに赤く染まっていた。
「あまり、揶揄わないで……」
言葉とは裏腹に、阿梨夜は拒むことなく私の手を受け入れてくれていた。
「ふふっ」
「えっとね」
「私にとっては、どんな顔でも阿梨夜は阿梨夜だよ」
ずっと言いたかったことを、やっと言葉に出来たような気がする。
「……そう」
阿梨夜は、少しだけ目を細めた。
「……ありがとう」
「……絶対、また来るからね」
「……ええ、待ってる」
そうして私は、地上の──変化のある世界での、新しい生活へと戻っていった。
ユイマンが地上へ帰ってからさほど間もなく、彼女はまた、春の香りを纏うように地下の神社を訪れていた。
阿梨夜も今では、彼女の前では仮面を身に着けずに過ごしている。
けれど──
ぴとっ。
「……」
寝そべる阿梨夜の上、抱き着くようにしてユイマンが覆いかぶさっている。
地上から戻ったユイマンは、冬ごもりの間よりもさらに阿梨夜に密着するようになっていた。
(なんか……近いような……)
阿梨夜は、困惑していた。
(ユイマンって、こんな感じだっけ……?)
確かに、昔から人懐こい娘ではあった。
けれどあの頃は彼女なりに、分別のようなものはあったような気がするのだが。
「あの、ユイマン」
躊躇いがちに、阿梨夜は切り出す。
「んー?」
「ちょっと、近いような……」
「……ダメ?」
「ダメ……じゃないけども……」
「ふふっ」
風がそよぐような笑みと共に、ユイマンが身じろぐ。
ふたりの、頬と頬とが触れ合う。
「私ね」
ユイマンが、耳元で囁く。
「ずっと阿梨夜に会いたかった気がするの」
ずっと、というのがいつのことなのか、言葉にせずともふたりには通じていた。
「……これからの三千年は、一緒に居てね」
「……勿論」
先ほどまで困ったような顔をしていた阿梨夜が、すっと真面目な顔になる。
「三千年だって、その先だって」
固く、その背に手を回す。
「貴方が、この現世に在る限り──」
ふたりが別たれてから、長い、長い時が流れた。ひとつの文明が、生まれて滅ぶことすら十分な歳月。
私も彼女も──昔のままではいられないのだろう。
草の香りが、鼻をくすぐる。昔から変わらない、山を駆ける彼女の匂い。
ただ、その距離だけがあの頃よりも近い。
変化を受け入れることも、悪いことばかりではないのかもしれない。
不変の女神すらも、今はそう思えた。
巨木を覆うように生い茂る茨の間を、渦巻く「穢れ」を蛇に食べさせながら進んで行く。
木々の向こうのあちらこちらで、きゃっきゃと笑う子供の声が飛び交っているのが聞き取れた。
生命と自然の力が、幼き姿を取って現れるもの──妖精だ。
見つかったら面倒かなとも思ったが、異変の時でもなければさほど攻撃性は高くはないはずだ。
道祖神が阻む入り口をどうやってすり抜けてきたのやら、こんな環境でさえあの子たちにとってはいい棲み処らしい。
案外、神も妖も滅びた後の世界に残るのは、最も見くびられた存在である妖精たちなのかもしれない。
──そんな世界にも、きっと「彼女」は変わらず在るのだろうな。
そんな考えが不意に浮かんだが──彼女って?
……どうにも時どき、頭がぼんやりする。
月の民の支配から解放されて、もう随分と日も経つというのに。
自由の身となってからもずっと続いていた、何かに後ろ髪を引かれるような感覚。
どこかへ引き寄せられるような心持ちに従うまま、私は茨の間を飛び続ける。
水瓶に注がれたように満ち溢れた穢れによって、太古の姿を取り戻しつつある化石の森。
かつての怪物騒動も過ぎし日の記憶となったこの場所に、ユイマン・浅間は再び訪れていた。
木々が途切れた向こうには、果ての見えないほどの広大な空間が広がっていた。
あんなに濃密だった穢れの気配も、この先からは感じない。
妖精たちも、どうやらこの場所までは近づかないようだ。
特に目印となるようなものも見当たらない場所だが、不思議と向かうべき方角は知っているように思えた。
そちらを目指して飛び立てば、むき出しの岩肌の其処彼処から、巨大な生き物の骨らしきものが天を衝くように延びるのが目に入る。
──不気味とも言えるような場所なのに、どうしようもなく懐かしさを感じるのは何故だろう。
不思議な気持ちを抱えたまま伽藍洞を進めば、徐々にその骨の群れが整った列を成していく。
まるで私を出迎えるように並ぶ骨の上を飛び続けると、向かう先に骨以外の何かがようやく目に入った。
二本の柱で立つ、石の人工物。
あれは──鳥居だ。
額束に、三角の印が掲げられている。私の、私たちの神社の印。
その鳥居の上、鳥が静かに止まるように──彼女は居た。
背から生える石骨から広がる、薄布のような黒い片翼。
もう片翼を補うように伸びる、三本の巨大なあばら骨に灯る赤い炎。
ああ。
こんな人を、忘れていたなんて──
「──阿梨夜」
口の中でその名が転がり、遅れて頭がそれに追いつく。
「阿梨夜っ!!」
自分の心に確かめるように、私は力いっぱいその名を叫んだ。
鳥居の上の彼女が、こちらを見る。
「……ユイマン」
堪らず、私は空を蹴る。
殆ど激突するような勢いで、私は彼女に抱き着いた。
「わっ」
鳥居から弾かれながらも、彼女はしっかりと私を抱きとめてくれた。
少しのけ反りはしたが、その背の黒い翼で器用にバランスを取ると、ふんわりとふたり、空中に留まった。
「阿梨夜、阿梨夜──! 本当に、本当に貴方なのね……!」
堰を切ったように、私は彼女の名を呼び続けた。
「ずっと、思い出せなくてごめんなさい……」
「……分かってる、貴方のせいじゃないわ」
彼女の胸に縋るまま、謝罪の言葉を口にする私の頭を、阿梨夜はそっと抱いた。
高天原の連中──今は月の民と呼ばれるあいつらは、私を隷従させるために記憶を弄んだ。
あいつらに滅ぼされた故郷のこと、家族のこと──そして最も厳重に奥へと押し込められた、彼女のこと。
その背に固く回していた腕をほどき、彼女の顔を間近に覗き込む。
「あいつらに、酷いことされてない……?」
彼女は、わずかに口の端を上げて答える。
「……ちょっと三千年くらい、座りっぱなしにさせられてただけよ」
「だけって……」
どこまで本気なのか、それとも彼女なりにおどけているのだろうか。
ああ、でも──彼女は、そういう人だったな。
恒久の時を生きる、少し気の長すぎる人。
「私なんかより、貴方の方がよっぽど──」
阿梨夜の言葉が、そこで途切れる。
「……ごめんなさい」
彼女が、静かに目を伏せる。
「貴方が、酷い扱いを受けていることは分かっていたのに……私は何も出来なかった」
「阿梨夜……」
「ううん。いいの、私は」
努めて笑顔で、私は続ける。
「捕まってる間の私は、ずっと夢の中にいるような感覚で──もう、何があったかなんて殆ど思い出せないもの」
「──っ」
「あっ……」
彼女の顔が、悲しげに歪む。
そんな顔をさせたかった訳じゃないのに、私はそれを、ただ見つめることしか出来ない。
──昔と変わらない、彼女の顔。
短い黒髪に、端正な目鼻立ち。深みある赤の、優しい眼差し。
それに昔から付けていた、あの仮面。
仮面……?
改めて、彼女の顔を見る。
左目の周囲をささやかに覆う、小さな石の仮面。
なんで彼女は、あんなものを身に着けているんだっけ……?
仮面の隙間から、彼女の素顔が垣間見える。
あれっ──
阿梨夜って、こんな顔だったかな……?
何かが、かみ合わない。
私は、目の前の彼女の顔を見上げながら、その違和感の正体を探ろうとして──
「阿梨夜様のお傷を治す?」
軍服姿の兎が、お茶を注ぐ手を止めて顔を上げる。
視線の先では、阿梨夜の身柄を管理する高天原の女が優雅に掌を合わせていた。
「ええ、あんな仮面で隠すほどに気にされてらっしゃるようですし」
生命の匂いのしない都に、花の香りが満ちている。
高天原から移されて間もない、神々の住まう場所。
住人たちはそこを「月の都」と呼んでいた。
都を飾り立てるように植えられた桃の木がそこらで花の盛りを迎える中、彼女の邸宅も例外ではない。
桃の花の咲き誇るその庭園で、女は悠然と茶の時間を楽しんでいた。
「師匠に聞いてみたらね、単純な火傷の痕ならそう難しくないだろうっておっしゃってくれて」
話を続けるうちに、自然と管理者の頬が綻ぶ。
師匠とは、彼女の教育係でもある都の賢者だ。
「……そういうことなら、ご本人にも聞いてみた方がいいんじゃないですか?」
傍らに控えていたもうひとりの兎が、素朴な疑問を口にする。
「だってあのお方、何を聞いてもいらないっておっしゃるじゃない」
しれっと放たれた主の言葉に、ふたりの兎は顔を見合わせる。
その表情から互いに思うところがあることは分かったが、彼女たちもこれ以上は口を挟める立場ではない。
兎たちの戸惑いをよそに、管理者は言葉を継ぐ。
「けれど、あんなに酷い傷──治って喜ばない人なんて居ないでしょう?」
「ましてや女の人ですもの」
にっこりと笑みを浮かべる管理者を、ふたりの兎はなんとも言えない顔で見つめていた。
──あの火傷は、元はと言えば我々の身内の付けたものだと聞いている。
きっと阿梨夜様が頑なな態度を取るのも、あの傷痕のせいなのだろう。
言葉では拒絶していても、治してさしあげればきっと喜んでくださるはずだ。
兎から受け取った追加の茶を口に含みながら、管理者は無邪気に先の展望を思い描いていた。
阿梨夜が目覚めると、そこは白い壁に囲まれた見知らぬ部屋だった。
天井から降り注ぐ明るすぎる光が、開かれたばかりの阿梨夜の目を横から刺す。
──眠っている間に、移動させられたのか?
いつものようにやって来た「管理者」に、妙な術をかけられたところまでは記憶にあるが。
庇うように片眼を瞑って辺りを見れば、前方の壁面に誂えられた大きな鏡が目に入る。
そこには短丈の寝巻だけを着せられ、簡素な寝台に横たわる自分の姿が映っていた。
じわりと、胸の奥に不快なものが湧き上がる。
「……ぅ…っ…」
縛られたままの後ろ手を気にかけながら、慎重に身を下ろしていく。
細身の寝台はいやに高くて、いつ転げ始めるかも分からない小さな車輪が不安を煽る。
上体を寝台に預けるようにして、ゆっくりと床に足を付けていく。
やっと両足で立ち上がって寝台に背を向ければ、改めて壁の鏡に視線が移る。
そこに映る自分の姿に、どうにも引っかかるものを感じ、気付けば阿梨夜は鏡の方へと歩み寄っていた。
見慣れたはずの自分の顔が、近づくほどにはっきりと見えてくる。
だがそこに、見慣れたはずの火傷の痕は最早見当たらなかった。
「……」
鏡の前までたどり着くと、阿梨夜はそこに映る顔を見つめたまま立ち尽くす。
目の前の鏡像を疑っても、触れて確かめることも出来ない。
ただ、己の胸元を見下ろせば、衿の間から覗くその肌の、鏡の中と同じ真更な状態が分かった。
──何かを、されたのだ。私の意識のない間に。
「如何ですか? 綺麗に治ったでしょう」
背後から声がしたと思えば、鏡越しに「管理者」を名乗る女の姿が見える。
その声は、どこか得意げな調子だった。
「都に、万能の天才と呼ばれるお方がいらっしゃいましてね」
「医術にも実に堪能で──そのお方が、このたび阿梨夜様のために腕を振るってくださったのですよ」
鏡を前に沈黙したままの阿梨夜をよそに、女は徐々に興奮を滲ませながら語り続ける。
「そのお方も、阿梨夜様が都にいらっしゃることを心待ちにしているのです」
「ですから是非──」
「……あんたらは」
ゆっくりと、阿梨夜が鏡に背を向け振り返る。
俯くその姿からは、表情は伺えない。
「……?」
「人の身体を、何だと思って──!」
「ひっ──!」
埒外からぶつけられた阿梨夜の殺気に、管理者は思わず身を竦める。
顔を青ざめさせ震えるその姿は、ただの少女のものだった。
「……」
「はぁ」
たっぷりの沈黙ののち、気が削がれたように阿梨夜は溜息を吐く。
「……言ったって分かんないわよね、月の民には」
「……? ? ?」
身を縮めたまま、管理者は阿梨夜の顔を窺う。
管理者の顔は、未だ恐怖と困惑に染まっている。
阿梨夜は、そんな彼女にはもう用はないとばかりに踵を返す。
壁面の鏡の前まで歩み寄ると、それに背を向け、腰を下ろして目を閉ざす。
「あっ……」
無機質な部屋に、沈黙が流れる。
座り込む阿梨夜を前に、管理者はただ立ち尽くしていた。
ああ、そうだ──
ぼんやりと阿梨夜の横顔を眺めながら、私は記憶の奥底に沈んだ彼女の姿を手繰り寄せていた。
彼女の顔には、大きな傷跡があったはずなのだ。
特徴的な石の仮面で覆い隠され、それでもなおその縁から覗くあの火傷の痕。
それが今は、跡形もなく消えていた。
「傷」
私がそっと言葉を零せば、隣り合うように鳥居に腰かける阿梨夜の肩がぴくりと動く。
「治ったんだね」
微笑む私に、彼女はなんとも言えない顔で視線を返す。
彼女の口が小さく開かれるが、何かが紡がれることはついになかった。
「……あんまり、嬉しいことじゃなかったりする?」
阿梨夜が、あの傷のことでずっと苦労していたのは私も知っていた。
だから彼女も喜んでいるものかと、当たり前のように思ったのだが──
「……私が、選んだことじゃないから」
そう言って視線を逸らす彼女を見れば、何となく何があったのか察することが出来た。
──瑕疵を厭う、錦上の民。
阿梨夜の力を望むくせに、ひとたび拒絶されればその身を封じることも躊躇わないあの連中。
ああ、あいつらならきっと──そういうことも、するのだろう。
「……そっか」
私はただ、それだけしか彼女に声をかけられない。
「──ねぇっ!」
空気を切り替えるように、私は声を張る。
「神奈子って覚えてる? 湖のそばに住んでた子!」
「勿論、覚えてるわ。貴方の友達だもの」
そう言うと阿梨夜は、やっとくすりと笑ってくれた。
「あの子もね、幻想郷に来てたんだけどね……まさか、あの湖ごと引っ越してきちゃったんだよ!」
「ふふ」
冷静に考えれば、妖怪の山での出来事を阿梨夜が知らないはずもないのだけども。
それでも彼女は、楽しそうに私の話を聞いてくれた。
「……ピラミッドを出てからね、私あの子の所でお世話になってるんだ」
「阿梨夜も一緒に来ない? 大きな神社だったから、もうひとりくらい転がり込んでもきっと大丈夫だよ」
「可愛い巫女さんも居るんだよ、早苗ちゃんって言うんだけどね──」
私は、この数か月で出来た地上での縁を、矢継ぎ早に紹介する。
阿梨夜もきっと、彼女らを気に入ってくれるはずだと思うから。
阿梨夜は、私の話を静かに聞き続けてくれた。
そして私が語り切るのを見届けたように、ゆっくりとその口を開く。
「……私は、ここに居るわ」
そして、わずかに微笑む。
「私の神社は、ここだから」
「じゃあ、私も──」
だってここは、私たちふたりの神社で──
「貴方は」
強く短く、彼女は言い放つ。
そして一度大きく息を吸って、次の言葉を継いだ。
「……どうか、変化のある場所で生きて」
「これまでの、三千年の分も──」
「阿梨夜……」
「それに」
「気に入ってるんでしょ? 今の暮らし」
「……うん」
つい先ほどまで、自ら揚々と語ったことを思い返しながら、私は頷く。
「でも」
それでも私は、つい縋るように聞いてしまう。
「……これからも、ここに来ていいよね?」
だって、折角また会えたのだ。
きゅっと握った手の甲に視線を落として、私は阿梨夜の返事を待つ。
「……ふふっ」
そんな私の様子に何を思ったのか、阿梨夜は小さく笑みを零す。
「当り前じゃない」
そっと私の肩を抱き寄せて、彼女は言う。
「ここは、私たちふたりの神社なんだから」
それからも私は、折を見ては彼女の元へと通い続けた。
鹿を狩ったこと、季節が進んだこと、新しく出会った人たち。
地上で経験したことのひとつひとつを、手土産として持ち込むようにしながら。
阿梨夜は昔と同じように、穏やかに微笑みながら私の話を聞いてくれる。
けれどひとつだけ、昔とは違うことがあった。
「仮面……外さないの?」
ある日、とうとうそんなことを聞いてしまったのは、私もどこか寂しさを感じていたからなのかもしれない。
阿梨夜は、すぐにはその問いに答えなかった。
少し困ったように笑みを浮かべ、言葉を探すように視線を揺らす。
堪らず私は、先ほどは留めていたはずの言葉を口にしてしまう。
「もう、傷は無いのに……」
「……そうね」
阿梨夜は、遠くを見やってしみじみと頷く。
「……私と一緒でも、ダメ?」
言ってしまってから、ちょっと今のは狙いすぎだったかな、などと、ささやかな後悔が私を襲う。
しかし悔やんだところで、一度出た言葉は引っ込まない。
私は阿梨夜の目を、じっと見上げ続けた。
「……」
「ごめんなさい」
阿梨夜は、視線を外すように目を伏せる。
「こんなこと、きっと変に聞こえるだろうけど」
そして、言葉を選ぶようにゆっくりと話を続ける。
「なんだか、自分の顔が、自分じゃなくなったみたいで──」
「……そっか」
昔の──高天原に囚われる以前の彼女は、私の前でだけは、あの仮面を外してくれた。
神としての役目からも離れ、ふたりで過ごす穏やかな時間。
今思えば、私は……あの時間が、好きだった。
けど、彼女にとっては恐らくあの仮面も自分の一部なのだろう。
──自らの意思によらずに整えられた顔よりは、よほど愛着の持てるほどには。
「ごめんね、催促するようなこと言っちゃって」
「……阿梨夜に、無理させたいわけじゃないからさ」
それからの私たちは、彼女の仮面の話に触れることはなくなった。
──寂しさを飲み込めたかというと、嘘になるけども。
それでも、彼女が抱えたものを思えば……こんなものは子供の駄々のように感じられたから。
「ふぁ……」
季節は進み続け、地上は雪に白く染められた。
阿梨夜と並んで縁側に腰かけながら、私は欠伸を噛み殺す。
この地下の神社の庭先から見えるものと言えば、荒涼とした岩肌と骨のようなものばかりだけれど。
私は、この景色が嫌いではなかった。
「眠いのなら、無理しなくていいのよ」
「んー……」
生返事をしながら、私はこてんと横になった。
蛇の血を引く私は、どうにも冬には弱い。
とりわけ、この土地は故郷と比べると随分と寒いものだから猶更だ。
それでもこの地下の神社は気温の変化もほとんどなくて、地上と比べたら過ごしやすい。
ひと眠りでもすれば、いくらか頭もすっきりすることだろう。
「……もう、冬の間はずっとこっちに居ようかな」
ぼんやりと微睡むまま、気付けばそんなことを口にしていた。
「……」
阿梨夜は、しばらく黙っていた。
そして私の髪をそっと撫でると、優しい声で言う。
「貴方にとって、それが心地良く過ごせるのなら」
「……えへへ」
思わず、顔がにやけてしまう。
「ただ、神奈子たちにはちゃんと伝えておかないとね」
「急に帰らなかったら、心配するわ」
「ねぇ」
「それならさ……阿梨夜も一緒に行こうよ」
寝そべったまま阿梨夜を見上げて、私は続ける。
「私だけだと、また途中で眠くなっちゃうかもしれないし……」
「早苗ちゃんもね……阿梨夜のこと話したら……会ってみたいって、言ってたよ……」
「ふふっ、一体どんな話をしたのやら」
話を続ける最中にも、私はうとうとと船を漕ぐ。
「そうね」
もう瞼もほとんど開けられなくなった時、そんな声が聞こえた。
「ユイマンの大切な人たちに、私も挨拶してこようかしら」
その言葉を待っていたかのように、ついに私は眠りへ沈んで行った。
私が冬ごもりをすると聞いた神奈子たちは、日持ちのする食べ物やらお菓子やらを鞄いっぱいに持たせてくれた。
手提げ袋の中には、外の世界の本もある。
早苗ちゃんの部屋の本棚にみっしりと並べられていた、絵のたくさん描かれた小さな本だ。
「定期的に差し入れも持って行かせるので。早苗に」
「えっ!?」
さらっと放たれた神奈子の言葉に、早苗ちゃんが勢いよく振り返る。
「神奈子や私じゃ、あの森はどうにもならないからねー」
けらけらと笑って、神奈子の相棒である祟り神──諏訪子が続ける。
どうやら高位の祟り神と言えど、あの森の穢れを無視出来るものでもないらしい。
「早苗は一回行ってるでしょ? 怪物騒動の時」
「行きましたけど、行きましたけども……!」
そう。化石の森に怪物が出たと私が騒ぎ回っていた時に、最初に動いてくれたのが早苗ちゃんだった。
あの時は解放されたばかりの私が混乱していると思われて、中々話を聞いてくれる人もいなかったっけ。
「早苗ちゃんが来てくれるなんて楽しみ! おもてなしの準備して待ってるね!」
「ぐぅっ……!」
早苗ちゃんは突然、目をかばうような姿勢で顔を背ける。
雪の照り返しでも目に入ったかな……?
「阿梨夜様」
神奈子が、珍しく神妙な様子で切り出す。
「私が言うのも妙な話ですが……ユイマンのこと、どうかよろしくお願いします」
阿梨夜は一瞬だけ目を丸くして、それから静かに微笑んだ。
「こちらこそ。私の方が、あの子にお願いしたいくらいよ」
「ふふ。そう言っていただけるのなら、安心しました」
ふたりしてそうやって畏まるものだから、私は妙にこそばゆくて。
誤魔化すように、足元の雪を小さく蹴散らした。
神奈子たちに別れを告げて、昨晩積もったばかりのきらきらとした雪の上をふたりで飛んでいく。
ふっくらと積もった雪が木々の枝をしならせているのを見て、地上も相当雪深いのだろうなと想像する。
空が飛べて良かったな。
神奈子たちに持たされた鞄の重みを背に感じながら、そんなことを思う。
「楽しい人たちだったわね」
翼を広げて飛びながら、阿梨夜が言う。
鞄の背負えない彼女は、手提げ袋を抱えてくれている。
「でしょ」
私は、少し得意げに返す。
「おーい! 鹿娘!」
麓の森の上空に差し掛かったところで、地上から呼び声が聞こえた。
「あっ、ウバメさん!」
見下ろせば、木々の間に片手を上げている人がいるのが見えた。
この森に住む山姥たちの長である、ウバメだ。
ウバメは雪を蹴ると、私たちの所にまで真っすぐ飛んでくる。
「今日は見慣れない奴を連れてるじゃないか」
ウバメは空中に留まると、私と阿梨夜を見比べるようにして言った。
「阿梨夜だよ。洞窟のピラミッドに住んでるの」
「ああ」
森の山姥たちにとっても、あのピラミッドは長い間謎の施設だった。
ウバメはしげしげと阿梨夜を眺める。
「なるほどなるほど」
ウバメはひとしきり納得したように頷くと、私を見てにやりと笑う。
「お前さん、随分足しげくやってくると思ったら、ずっとこいつの所に通ってたのかい」
「あ、いや……そういう訳じゃ……」
何がそういう訳なんだろう。
ウバメが言っていることは実際その通りなのに、どうしてか私は狼狽えてしまった。
「あっ、えっとね阿梨夜。この人ウバメさん」
私は話題を変えるように、阿梨夜へ話を振る。
彼女の話なら何度かしていたはずだ。
「ほら、山姥の王様の」
阿梨夜はすぐに得心した様子で頷く。
「お初にお目にかかります、ウバメ殿」
荷物を抱えたまま、空中で姿勢を整える。
「ユイマンが住処を通るのを許してくれていること、ありがたく思っています」
「おおっ?」
阿梨夜の丁寧な挨拶に、ウバメは意外そうな声を上げる。
「こりゃまた、鹿娘とはずいぶん毛色の違う御仁だね」
……ウバメさんの中での私の認識って、どうなっているんだろう。
「いやなに。森でちょろちょろしてる娘っ子がいると思えば、私らよりも随分古くからここに住んでるって話じゃないか」
豪快に笑いながら、ウバメは続ける。
「それならまあ、邪魔するのも野暮ってもんだろう」
「まあなんだ」
ウバメは、空に留まったまま腕を組む。
「あんたのことも、仲間には伝えとくからさ」
そして先ほどまでとは違う、ふっと力の抜けた笑みを浮かべる。
「たまにはこうやって鹿娘に付き合ってやんなよ」
「……ありがとうございます」
そうしてウバメは私たちに軽く手を振り、森の中へと消えていった。
「……鹿娘」
ウバメを見送った阿梨夜が、ぽつりと零す。
「ふふっ、鹿娘って呼ばれてるのね。貴方」
「だって……」
解放されてからの私は、今までの分を取り戻すかのように鹿狩りに精を出した。
その結果、気付いた頃には、ウバメたちのみならず山の妖怪たちの間でも、「いつも鹿を追ってるあの娘」という認識が出来上がってしまった。
「鹿狩り」
阿梨夜は、しみじみとした調子で呟く。
「好きだったものね」
そして私に、優しい眼差しを向ける。
「……うん」
「ふふっ」
そうして笑う阿梨夜は、本当に嬉しそうで。
残りの帰り道。私はなんだか、やたらと暑く感じてしまって。
冬の寒さなんて忘れるくらいだった。
夜も昼もないような地下の世界でも、時間が来れば眠気はやってくる。
大人しく布団に入る前に私は、昔のように阿梨夜の部屋を訪れてみた。
ひとつ、息を吐いて引き戸を開ける。
その向こうでは彼女が、昔のように文机に向かっていた。
昔と違うのは、その手元を照らす蝋燭の火がないこと。
──そして彼女の顔に、あの仮面があること。
「今も書いてるんだね、日誌」
そっと隣に腰を下ろして、彼女に声をかける。
「読んでみてもいい?」
「どうぞ」
阿梨夜は机上を滑らせるように、開かれたままの日誌を私に差し出す。
そこに使われているのは、三千年前から変わらない、彼女の仲間の神々が用いる神の字だ。
今さっき阿梨夜が記したばかりの、今日の記録が目に入る。
●月●日
ユイマン来る。
ここで冬を越すことが決まる。
共に守矢へ挨拶に伺う。
手土産多数頂戴する。
帰り道山姥の王と面識を得る。
……簡潔にもほどがある書き方なのに、どうにもそわそわしてしまう。
頬が緩むのを堪えながら、古い頁にも指をかける。
▲月●日
特筆することなし。
▲月●日
ユイマン来る。
地上は蝉が鳴きだしたとのこと。
守矢の神社にはえあこんなるものがあり快適と。
▲月●日
特筆することなし。
▲月●日
特筆することなし。
「……」
ぺらりぺらりと、目につく箇所を拾いながら私は頁を捲っていく。
■月●日
ユイマン来る。
山は紅葉が始まりつつあるとのこと。
守矢の巫女が観楓会を企画中。
■月●日
特筆することなし。
■月●日
特筆することなし。
■月●日
ユイマン来る。
よい鹿を仕留めたとのことで鍋を馳走になる。
守矢から野菜も持たされたとのこと。
返礼に所蔵の石をひとつ持たせる。
……私が来たことばっかりじゃん!
最後のこれ、あれかな。お鍋食べた後に綺麗な石くれた時の。
空の色みたいに明るく冴えた、青い石。
あんまり嬉しかったから、帰ってから早苗ちゃんにも自慢しちゃったけど……。
「返礼」って、これ……。
あれっ、もしかして神奈子たちに渡しといてって意味だった……?
どうにももやもやしたものは感じるものの、今のタイミングで確かめるのも何となく妙な気はした。
「ああ、あの日の記録ね」
頁をめくる手も止めて日誌を見つめたままの私を気にしたのか、気付けば阿梨夜が隣から覗き込んでいた。
「美味しかったわよね、あのお鍋」
「う、うん……」
私は、生煮えのような返事しか出来なかった。
今なら……いや、やっぱり無理かな……。
「そういえば」
そのまま日誌を見ていた阿梨夜は、何かに思い至るように呟く。
「あの石って、まだ持ってる?」
「──持ってる!」
つい、被せ気味に返事をしてしまった。
「持ってきてるよ!」
そう。あの石はしっかり布袋に入れて持ってきていた。
昔使っていた時の状態、そのままだった私の部屋。
冬ごもりの荷物を降ろした時、そこにある小物入れの引き出しに真っ先にしまったのだ。
「そう」
阿梨夜は少しだけ気圧された様子だったけど、すぐに目を細めてそう言った。
その先を読み進めていっても、他の日誌も終始この調子だった。
特筆することなし。ユイマン来る。
どこまで行ってもそのふたつの書き出しだけ。
あとはたまに、どこかに何やらの化石があったとか。
最初は──正直、嬉しかった。
けれど段々と、昔に読んだ彼女の日誌のことが頭をよぎり始める。
あれには、麓の民から届いた奉納品のことや、季節の祭りのことが日々書かれていた。
今の彼女の日誌には、それがない。
「阿梨夜は、さ」
なるべく、何てことのないような調子で聞いてみる。
「また、地上に神社を作ってみるつもりはないの?」
外の世界には、今も彼女の分霊を祀った神社がたくさんあることは知っていた。
けれど、それらとは違う──彼女自身が住まう、人々と関わるための神社。
昔、ふたりで暮らしていたような、あんな場所。
「……私は」
阿梨夜は、わずかに視線を伏せるとどこか含みのある笑みを浮かべる。
「月も太陽も届かないこの場所で、やっと自由になれた気がする」
「月の民は、きっと私の力を諦めないわ」
阿梨夜はのけ反るようにして天井を仰ぐ。
けれどその目は、もっと遠くを見ているようでもあった。
「永遠の都は、あいつらの宿願だもの」
「阿梨夜……」
それじゃあずっと、貴方はこの地下に──
「ふふ、そんな顔しないで? ここでの暮らしも、そう悪くはないのよ」
阿梨夜は、口の端で小さく笑う。
「少なくとも、今は好きに歩き回れるしね」
そして、ほんの少しだけこちらへ視線を向けた。
「それに──貴方だって、来てくれる」
そう言って柔らかく笑う彼女からは、強がりのようなものは感じられなかった。
「……ずるいなぁ」
降参するように呟くと、私は彼女の肩に身を預ける。
それでもひとつくらい、我儘を言いたい気分だったから。
「……冬の間は、一緒に居ようね」
「……ええ」
彼女はただ、そっと私の手を握ってくれた。
それからの私は、冬の間ずっと阿梨夜に着いて回っていた。
地下空洞をふたりで飛んで回ったり。
阿梨夜が見つけた化石の場所を案内してもらったり。
神奈子たちが持たせてくれた食糧にあった、カレーというものを一緒に作ったり。
早苗ちゃんの本を読んで、後で感想を言い合ったり。
ある日は、納屋の整理をするという阿梨夜について私も手を動かした。
「あっ、これ──」
大きな木箱のひとつを開けた私は、その中身を見て声を上げる。
「まだ、残ってたんだね」
そこに入っていたのは、阿梨夜の祭り用の仮面だった。
顔全体を覆える、大きな逆三角の仮面。
元々は、麓の民たちが手ずから作って奉納した品だ。
「随分と懐かしいものを見つけたわね」
振り返ると、隣に阿梨夜が膝を着いていた。
しげしげと仮面を眺めていた私を、彼女は微笑みながら見つめていた。
「ねっ」
にっと笑って、私は手にある仮面を阿梨夜に向けた。
あれから何千年も経っているはずなのに、この納屋のものは不思議と全く傷んでいない。
木箱も、祭りの道具も、昔使っていた食器も。
まるで、昨日まで使われていたもののようだった。
「……楽しかったな、あの頃」
「……そうね」
少しの間、私たちは揃って古い仮面を眺めていた。
その静けさを打ち切るように、私はあることを思いつく。
「ねぇ」
私は阿梨夜を見上げて、にやっと笑う。
「ちょっと、この仮面着けてみない?」
「えっ」
「お願い! ちょっとだけ!」
手にした仮面で口元を隠す私を見て、阿梨夜は幾度かまばたきをしていた。
「そうね」
ふっと、阿梨夜の表情が和らぐ。
「貴方がそこまで言うのなら」
そうして阿梨夜は、私から祭り用の仮面を受け取ると──ごく自然な所作で──あの石の仮面を外した。
(あっ──)
それは、瞬く間のことではあった。
私が声を出す間もなく、阿梨夜は仮面を着け終えこちらに顔を向ける。
いつもより大きなその仮面の向こうで、どんな表情をしているのかは伺えない。
「どうかしら」
けれど、その向こうから聞こえた少しくぐもった声は、いつもの優しい阿梨夜のものだった。
「……えへへー」
どうにも私は、無性に嬉しくなってしまって、ただにやけているばかりだった。
「……?」
「うん、似合ってるよ」
私は、目を細めて彼女の仮面を見つめる。
「あの頃に戻ったみたい」
「そうかしら」
阿梨夜は、私の言葉にいまいちピンと来てはいないようだった。
「けど──」
何かを考えるように、彼女は仮面の顎先に手を添える。
「貴方がそんなに喜んでくれるのなら、着けた甲斐もあるかもね」
仮面の向こうで、彼女が笑っているのが確かに見えたような気がした。
納屋の一件から、改めて阿梨夜の生活に意識を向けると、仮面を外す瞬間というのは思いの外あるようだった。
着替える時、起きたばかりの時、お風呂上りの時。
考えてみれば、当たり前のことなんだけれども。
秋までは、こんなに長く一緒にいる機会もなかったからな。
それでも阿梨夜は、私に気付くと手早く仮面を着けてしまう。
彼女にとって今の顔は、どうしても人に見せたくないものというよりは、表に出したままだと落ち着かないようなものなのかもしれない。
(傷があった頃の顔も、そういう意味では同じだったんだろうけれど──)
あの頃の彼女の仮面は、奇異の視線から自らを守るものという意味合いが強かったように思う。
だからこそ、私の前ではあの仮面を外してくれていたことが、彼女の信頼の証のように感じられて嬉しかった。
(自分の顔って思えなくなった、って言ってたっけ)
長い時間をかけて、阿梨夜はあの傷痕と折り合いを付けてきた。
それを、彼女の意思とも関係なしに、急に無かったことにされてしまったのだ。
そんな風に思ってしまうのも、無理のないことなのかもしれない。
阿梨夜は、これからの恒久を──他人の顔で生きていかなければいけないのだろうか。
(私に何か……出来ることってあるのかな)
その日の夜、私はまた彼女の部屋へと押しかけていた。
いつものように日誌を書き終わるのを確認して、彼女に声をかける。
「阿梨夜ー」
「今日さ、一緒に寝ない?」
「……どうしたの、急に」
阿梨夜は、訝しげに私を見る。
「んー……なんとなく?」
私は誤魔化すように首を傾げる。
「ほら、昔はたまに一緒に寝てくれたじゃん」
「あの頃は……貴方が寒いって言うから」
そう。
山の上の神社で暮らしていた時は、そんなことを言っては、よく彼女の布団に潜り込んでいた。
実際は、他にも色々と理由はあったのだが。
「この場所は、そう寒くもないでしょう?」
阿梨夜の言うことは尤もだった。
けれど私も、もう寒さだけを言い訳にするつもりはない。
「一緒に寝たいなー……?」
私は、少し首を傾げながら阿梨夜を見つめる。
「……」
阿梨夜は、すぐには答えなかった。
じっと私の顔を見つめたあと、ほんの少しだけ目を細める。
その視線に、私はなんとなく見透かされているような気持ちがした。
けれど、阿梨夜は何も言わない。
「……だめ?」
少しだけ声を落として、もう一度尋ねる。
「……はぁ」
阿梨夜は困ったように息を吐いた。
それでも、その顔には怒った様子も、呆れた様子もない。
「随分と、甘え上手になったものね」
そう言って、小さく笑う。
「いいわ、おいで」
阿梨夜は立ち上がり、私に手を差し伸べる。
「甘えん坊の白蛇さん」
「! えへへ」
にやけながらその手を取ると、阿梨夜は引っ張り上げるように私を立たせてくれた。
昼も夜もなく薄明るい地下空洞。
せめて寝る時くらいはと窓掛けで覆った寝室も、それでも普通の夜よりは少し明るい。
互いの姿がぼんやりとだけ見える中、私たちは布団の中に並んでいた。
私の定位置は、阿梨夜の右──今は石骨だけとなった黒翼のある側だ。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
自然体、自然体。
ちらっ、と阿梨夜の方を見る。
こちらは仮面を着ける方とは反対側だけど──今の彼女は、確かにあの仮面を外している。
「ふふふ」
「…? どうしたの?」
「別にー」
「ねぇ、ちょっとお喋りしない?」
「眠いんじゃないの?」
「んー、なんだか目が冴えちゃったかも」
阿梨夜の顔が、少しだけこちらに傾く。
彼女の目鼻立ちが、薄闇の中にうっすらと浮かぶ。
「……早苗ちゃんが持ってきてくれたお菓子、美味しかったね」
「ええ、とっても甘かったわね」
この日の昼間、追加の差し入れと共にやってきた早苗は、人里のお菓子も持ってきてくれていた。
「私たちが捕まってる間に、食べ物とかすっごく美味しくなったよね」
「そうね。随分と手の込んだものが増えたみたい」
あの頃の人間たちの食べ物と言えば、肉や木の実を煮炊きした素朴なものだった。
それでも、お祭りの日にみんなで食べるそれは、温かくて美味しいものだったけれども。
「あれ、綺麗だったよね。食べるの勿体ないくらい」
練り切りと呼ばれる、繊細な細工の施されたお菓子。
花や動物など、小さな箱に並べられたひとつひとつが違う形をしていて、見ているだけでとてもわくわくした。
「食べたのでしょう?」
「食べたけど……」
「ふふっ」
そうやって阿梨夜と話していると、なんだか安心してしまって。
遅れてやってきた眠気が、徐々に私の瞼を重くしていった。
「明日……残りも一緒に食べようね……」
「……ええ。おやすみなさい」
「ん……」
そうして私は、数日おきには阿梨夜の部屋に行って一緒に寝てもらった。
あくまでさりげなく、阿梨夜が自然体で仮面を外してくれている、そのくらいの頻度で。
薄闇の中で私たちは他愛ないお喋りをして、いつの間にか眠りに就く。そんな日々の繰り返し。
そんなある日、朝起きて部屋を見渡せば──阿梨夜が、素顔のままでそこに居た。
「ああ、おはよう」
「あっ……? お、おはよう」
「今日は目覚めがいいのね」
彼女は、いつもの時間通りに窓掛を開けたところのようだった。
地下空洞の柔らかい明かりが、部屋へと差し込んでいた。
私は、ただぼうっと彼女の顔に見惚れていたと思う。
「……折角だし、朝ごはん一緒に作る?」
何を言うべきか分からずじっとしていた私に、阿梨夜がかけてくれたのはそんな言葉だった。
「えっ?」
「ほら。早苗がまた色々と持ってきてくれたじゃない」
阿梨夜が言っているのは、早苗が差し入れてくれた食糧のことだろう。
「私にはよく分からないものが多いけど、貴方なら馴染みもあるかなって」
そういえば、差し入れの中にホットケーキの粉があったっけ。
神奈子のところで、みんなで焼きながら食べたな。
あれなら、卵とか牛乳とか、早めに使いたい材料も使えるし。
「ホットケーキなら、私も分かるよ」
「ホットケーキ?」
阿梨夜が、小さく首を傾げる。
「粉に卵とか牛乳を混ぜて、生地を作るの。それをフライパンで焼くんだよ」
「へえ」
「そんなに難しくないよ。いいところでひっくり返すのが楽しいんだ」
「そう。なら、私にも教えてもらおうかしら」
「うん!」
さっきまで何を言えばいいのか分からなかったのに、急に気持ちが軽くなった。
「じゃあ、まずは顔を洗ってきましょ」
その後、一緒にホットケーキを作り始める時には、阿梨夜はまたあの仮面を身に着けていた。
けれどそれから少しずつ、彼女が素顔でいる時間が増えていったような気がする。
夜、部屋に行ったときに仮面を脇に置いていたり。
お風呂上り、私と会ってもすぐには仮面を着けなくなったり。
──何となく、彼女の方も歩み寄ってきてくれているような、そんな気がした。
三月になった。
地上では雪も解け出し、山には新しい草が芽吹き始めている頃のはずだ。
「そろそろ帰らないとな」
そう言いながらも、私は阿梨夜の隣からなかなか離れられずにいた。
「随分と長居したものね」
「だって、冬の間は一緒に居ようって言ったじゃん」
「ええ。ちゃんと守ってくれたわね」
そんなやり取りをしているうちに、ふと彼女の頬へ手が伸びる。
──仮面を外したままの、彼女の素顔。
「……」
以前なら、こんなふうに触れることはなかった。
いや──触れられなかった、という方が正しいのかもしれない。
今は、阿梨夜も逃げない。
ゆっくりと、指先が頬に触れる。
月の民によって傷の消された、不自然なまでに滑らかな肌。
元々の端正な顔立ちと相まって、今の彼女は名工の手による彫刻のようだった。
「……綺麗な顔」
「……」
自然と、そんな言葉が口から零れていた。
私を見返す阿梨夜の表情からは、感情は伺えない。
傷が無くなったこと、それ自体は本当は喜ばしいことのはずなのだろう。
あの傷のことで、民草や、仲間の神々までもが口さがない噂をしていたのはユイマンも知っていた。
──そしてそれが、当世までどのような形で伝わって来たかということも。
今の彼女が表に立てば、もうあんな風に人々から貶められることもないのだろうな。
そうであるなら、確かに私も嬉しい。
けれど──
「私は……阿梨夜が格好いいって、知ってたよ」
「──っ」
阿梨夜の視線が、僅かに逸れる。
その頬を撫でるユイマンの手に、じんわりと熱が伝わる。
「それに──可愛い人」
「……ユイマン」
じとっと私を見返す彼女の顔は、少し気の毒なくらいに赤く染まっていた。
「あまり、揶揄わないで……」
言葉とは裏腹に、阿梨夜は拒むことなく私の手を受け入れてくれていた。
「ふふっ」
「えっとね」
「私にとっては、どんな顔でも阿梨夜は阿梨夜だよ」
ずっと言いたかったことを、やっと言葉に出来たような気がする。
「……そう」
阿梨夜は、少しだけ目を細めた。
「……ありがとう」
「……絶対、また来るからね」
「……ええ、待ってる」
そうして私は、地上の──変化のある世界での、新しい生活へと戻っていった。
ユイマンが地上へ帰ってからさほど間もなく、彼女はまた、春の香りを纏うように地下の神社を訪れていた。
阿梨夜も今では、彼女の前では仮面を身に着けずに過ごしている。
けれど──
ぴとっ。
「……」
寝そべる阿梨夜の上、抱き着くようにしてユイマンが覆いかぶさっている。
地上から戻ったユイマンは、冬ごもりの間よりもさらに阿梨夜に密着するようになっていた。
(なんか……近いような……)
阿梨夜は、困惑していた。
(ユイマンって、こんな感じだっけ……?)
確かに、昔から人懐こい娘ではあった。
けれどあの頃は彼女なりに、分別のようなものはあったような気がするのだが。
「あの、ユイマン」
躊躇いがちに、阿梨夜は切り出す。
「んー?」
「ちょっと、近いような……」
「……ダメ?」
「ダメ……じゃないけども……」
「ふふっ」
風がそよぐような笑みと共に、ユイマンが身じろぐ。
ふたりの、頬と頬とが触れ合う。
「私ね」
ユイマンが、耳元で囁く。
「ずっと阿梨夜に会いたかった気がするの」
ずっと、というのがいつのことなのか、言葉にせずともふたりには通じていた。
「……これからの三千年は、一緒に居てね」
「……勿論」
先ほどまで困ったような顔をしていた阿梨夜が、すっと真面目な顔になる。
「三千年だって、その先だって」
固く、その背に手を回す。
「貴方が、この現世に在る限り──」
ふたりが別たれてから、長い、長い時が流れた。ひとつの文明が、生まれて滅ぶことすら十分な歳月。
私も彼女も──昔のままではいられないのだろう。
草の香りが、鼻をくすぐる。昔から変わらない、山を駆ける彼女の匂い。
ただ、その距離だけがあの頃よりも近い。
変化を受け入れることも、悪いことばかりではないのかもしれない。
不変の女神すらも、今はそう思えた。