その日、朝から空が赤かった。もちろん、どこかの町が燃えていたとか山が燃えていたとかそういう訳ではない。ただ単に、朝焼けが美しかった。玄関を出てすぐ赤々と燃える東の空を見て、コウモリ傘を持って行こうときびすを返したことを山中次郎は覚えている。
「キヨ。今日は雨が降るかもしれないから早めに洗濯物を取り込んでおくんだよ」
そう言って、山中は家を出たのだ。
結局のところ、山中の務める会社のあたりでは雨は降らなかった。山中の務める企業は、自宅から歩いて十分の停車場から電車に揺られること十分、駅を降りると見えるビルの中にある。
(そこまで離れていないのだから降られているはずはないが)
それでも自宅のあたりはわからない。
「キヨは洗濯物を取り込めただろうか」
仮に雨が降ったとして、空の様子からしてすぐに雨が降り出すことはないだろう。多少の猶予は間違いなくあったはずだ。ただ、キヨは少々忘れっぽいところがある。雨が降り始めるまでの時間に、自分とのやりとりを忘れてしまっていたら――。
心なしか歩幅を早めた山中は、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。
◇◇◇
出番のなかったコウモリ傘が線路を走る車両に合わせて視界の端でぶらぶらと揺れている。車窓から見える空はまたしても赤かった。もちろん火事ではない。今度は夕焼けだ。ぼうと空を眺めていると、遠く彼方に横たわる丹沢の山塊に太陽が沈んでゆく。残照に染められた青空と、そこに薄く漂う雲が徐々に赤く染まっていく。
その雲間に、山中は人影をみとめた。
「なんだあれ。人、か?」
空には由比ヶ浜の白波のように細い雲が筋を描いていた。確かに今、その波間を泳ぐように飛行する人影があった。
「そんなまさか」
しかし、車窓に顔を押しつけて目を眇めると、やはり人型をしている。あれは髪だろうか、黒いシルクハットから伸びる線がたなびいている。衣装にもフリルがあしらわれていてまるで西洋の貴婦人のよう。
やがて空を舞う西洋の貴婦人は雲の中へと姿を消していった。
「なんだったんだ、あれ」
今居る車両には十人ほどの乗客が居る。皆は同じものを見ただろうか。
座席を見渡すも、乗客は誰も空飛ぶ西洋の貴婦人に気付いた素振りはない。その顔には、突然振り返った山中に怪訝な瞳を向けるばかりだ。
「あ、すみません、でした」
それから最寄りの停車場まで、山中は顔をあげることができなかった。
◇◇◇
「ただいま。帰ったよ」
山中が玄関を引くと、キヨが引き戸に手を伸ばした状態で固まっている。
「お、おかえりなさい」
「ただいま。・・・・・・どうしたんだいそんな顔して」
「い、いえ」
その後、小動物のように怯えるキヨの様子に違和を覚えつつ、山中は帰りに見た不思議な光景のことをキヨに語った。
「私、その人と話したかもしれません」
「は?」
ただし、キヨによれば、その人は西洋の貴婦人などではなく、支那の貴人のようだったという。
山中が電車に乗り込んだ頃、キヨは山中の言葉を思い出して洗濯物を取り込もうと外に出た。すると、空が夕焼けで真っ赤に染まっている。
「なんだ今日は空が赤いんだなぁ」
山中が家を出たときも、確か空は赤かった。では、帝都の空はまさか一日中赤く燃えていたのだろうか。そうではなことくらい小卒のキヨにもわかる。夫が見た空は朝焼けで、これは夕焼けだ。そう思い、庭の物干しまで歩いていた時のことだった。
「もし。そこのあなた、少しよろしいですか」
あたりに桃を煮詰めたような甘い香りが広がった。
声の方を見れば、家の前の路地に女性が立っている。住宅街には似合わない絶世の美女が立っている。
「あなた、このあたりで青い髪の少女を見かけませんでしたか」
そんな髪色の娘などここいらで見たことはない。そう答えようとするも、美女の発する芳香と色香に当てられ声が出ない。
「どうされましたか?」
薄桃色のシャツに黒のスカートを履いた美女。その背後には、赤いフリルの付いた袖がまるで仏の後光のように浮いている。黒いハットに巻き付く赤いリボン。その下から覗く蒼に、キヨは内心(あなたは自分を探しているのですか)と思った。
しかし、声になることはない。
「い、いえ」
そう、うわずった声で答えるだけがキヨの精一杯だった。
「そうですか。突然話しかけてごめんなさいね」
そう告げると、支那の貴婦人は路地の角を歩いて行ってしまった。
かと思えば、顔だけキヨの方に向けて
「明日の予定はありますか。明日は雨が降りそうです。洗濯物は昼までには取り込んでおいてくださいね」
とだけ告げ、今度こそ姿を消してしまった、という。
「不思議なこともあるものだな」
ひとしきり話し終え興奮した瞳を向けるキヨを見つつ、山中は素直に感じた。が、ふと気が付く。
「キヨ、やっぱり洗濯物をしまい忘れているじゃないか」
そう指摘した瞬間、キヨの喉から変な音が聞こえる。
(挙動不審だった理由はこれか)
そうこうしているうちにキヨはどんどん縮み込んでしまう。
「キヨ、しまっていなくてもいいんだよ、雨は降っていないのだから」
今にも泣き出しそうなキヨと、必死になだめる山中。そこに貴婦人にまつわる不思議な体験が入る余地などない。ましてや貴婦人の言葉など気にとめるはずもなかった。
帝都、八月、最後の一日が終わりつつある。
「キヨ。今日は雨が降るかもしれないから早めに洗濯物を取り込んでおくんだよ」
そう言って、山中は家を出たのだ。
結局のところ、山中の務める会社のあたりでは雨は降らなかった。山中の務める企業は、自宅から歩いて十分の停車場から電車に揺られること十分、駅を降りると見えるビルの中にある。
(そこまで離れていないのだから降られているはずはないが)
それでも自宅のあたりはわからない。
「キヨは洗濯物を取り込めただろうか」
仮に雨が降ったとして、空の様子からしてすぐに雨が降り出すことはないだろう。多少の猶予は間違いなくあったはずだ。ただ、キヨは少々忘れっぽいところがある。雨が降り始めるまでの時間に、自分とのやりとりを忘れてしまっていたら――。
心なしか歩幅を早めた山中は、ホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。
◇◇◇
出番のなかったコウモリ傘が線路を走る車両に合わせて視界の端でぶらぶらと揺れている。車窓から見える空はまたしても赤かった。もちろん火事ではない。今度は夕焼けだ。ぼうと空を眺めていると、遠く彼方に横たわる丹沢の山塊に太陽が沈んでゆく。残照に染められた青空と、そこに薄く漂う雲が徐々に赤く染まっていく。
その雲間に、山中は人影をみとめた。
「なんだあれ。人、か?」
空には由比ヶ浜の白波のように細い雲が筋を描いていた。確かに今、その波間を泳ぐように飛行する人影があった。
「そんなまさか」
しかし、車窓に顔を押しつけて目を眇めると、やはり人型をしている。あれは髪だろうか、黒いシルクハットから伸びる線がたなびいている。衣装にもフリルがあしらわれていてまるで西洋の貴婦人のよう。
やがて空を舞う西洋の貴婦人は雲の中へと姿を消していった。
「なんだったんだ、あれ」
今居る車両には十人ほどの乗客が居る。皆は同じものを見ただろうか。
座席を見渡すも、乗客は誰も空飛ぶ西洋の貴婦人に気付いた素振りはない。その顔には、突然振り返った山中に怪訝な瞳を向けるばかりだ。
「あ、すみません、でした」
それから最寄りの停車場まで、山中は顔をあげることができなかった。
◇◇◇
「ただいま。帰ったよ」
山中が玄関を引くと、キヨが引き戸に手を伸ばした状態で固まっている。
「お、おかえりなさい」
「ただいま。・・・・・・どうしたんだいそんな顔して」
「い、いえ」
その後、小動物のように怯えるキヨの様子に違和を覚えつつ、山中は帰りに見た不思議な光景のことをキヨに語った。
「私、その人と話したかもしれません」
「は?」
ただし、キヨによれば、その人は西洋の貴婦人などではなく、支那の貴人のようだったという。
山中が電車に乗り込んだ頃、キヨは山中の言葉を思い出して洗濯物を取り込もうと外に出た。すると、空が夕焼けで真っ赤に染まっている。
「なんだ今日は空が赤いんだなぁ」
山中が家を出たときも、確か空は赤かった。では、帝都の空はまさか一日中赤く燃えていたのだろうか。そうではなことくらい小卒のキヨにもわかる。夫が見た空は朝焼けで、これは夕焼けだ。そう思い、庭の物干しまで歩いていた時のことだった。
「もし。そこのあなた、少しよろしいですか」
あたりに桃を煮詰めたような甘い香りが広がった。
声の方を見れば、家の前の路地に女性が立っている。住宅街には似合わない絶世の美女が立っている。
「あなた、このあたりで青い髪の少女を見かけませんでしたか」
そんな髪色の娘などここいらで見たことはない。そう答えようとするも、美女の発する芳香と色香に当てられ声が出ない。
「どうされましたか?」
薄桃色のシャツに黒のスカートを履いた美女。その背後には、赤いフリルの付いた袖がまるで仏の後光のように浮いている。黒いハットに巻き付く赤いリボン。その下から覗く蒼に、キヨは内心(あなたは自分を探しているのですか)と思った。
しかし、声になることはない。
「い、いえ」
そう、うわずった声で答えるだけがキヨの精一杯だった。
「そうですか。突然話しかけてごめんなさいね」
そう告げると、支那の貴婦人は路地の角を歩いて行ってしまった。
かと思えば、顔だけキヨの方に向けて
「明日の予定はありますか。明日は雨が降りそうです。洗濯物は昼までには取り込んでおいてくださいね」
とだけ告げ、今度こそ姿を消してしまった、という。
「不思議なこともあるものだな」
ひとしきり話し終え興奮した瞳を向けるキヨを見つつ、山中は素直に感じた。が、ふと気が付く。
「キヨ、やっぱり洗濯物をしまい忘れているじゃないか」
そう指摘した瞬間、キヨの喉から変な音が聞こえる。
(挙動不審だった理由はこれか)
そうこうしているうちにキヨはどんどん縮み込んでしまう。
「キヨ、しまっていなくてもいいんだよ、雨は降っていないのだから」
今にも泣き出しそうなキヨと、必死になだめる山中。そこに貴婦人にまつわる不思議な体験が入る余地などない。ましてや貴婦人の言葉など気にとめるはずもなかった。
帝都、八月、最後の一日が終わりつつある。