私はただ疑う余地もなく、心からあなたを愛している。
だからあなたを、この手に掛けたいと願った。
……
博麗神社に一陣の風が吹いた。
それは強く、勢いがあって、同時に心地よいほど爽やかで。うららかな昼下がりをささやかに彩る、この上ないものであった。
「よう霊夢、相変わらず腑抜けた顔だな。ここらで一発異変でも起きた方が幻想郷のためになる」
博麗神社にふわりと風が吹き、白黒の少女──霧雨魔理沙が軽やかに箒から舞い降りる。
白い服の上に黒のエプロンを掛け、つばの広い黒の三角帽を被ったその姿は、さながらおとぎ話の魔法使いと例えて差し支えない。
そして、もはや見飽きた光景だな、と博麗霊夢は思う。
「異変ならたった今起きたじゃない。招かれざる客の応接、という名のね」
「毎日起きてる事を異変とは言わないぜ。日課という。お前はもっと辞書を引いた方がいい」
「私にとっては異変なのよ。日常の中の非日常って感じで」
「楽しんでもらえて何よりだぜ」
「まあ、否定はしないわ。ほら、あがって」
魔理沙が軽口を叩き、霊夢がそれに乗り、魔理沙が適当にあしらう。
そして二人で縁側に座り、人里から仕入れた茶を啜っては取り留めのない話に興じるのだ。
魔理沙は顔が広い上に好奇心に溢れていて、気の利いた話題には事欠かない。
ゆえに話を仕掛けるのは、いつだって魔理沙からであった。
「霊夢、後で星でも見に行こう。いつもの場所な、今日はとびきり綺麗な流星群が降るってよ」
「へぇ、悪くないわね。というか、あんたって意外とロマンチストよね」
「魔法使いってのは皆そうだろ。自分だけの星を掴み取ろうとして、いつだって足掻いてるんだからな」
魔理沙が顔色一つ変えずに言うので、霊夢は少し面食らった。
普段は剽軽者で、かと思えば時折、魔法に邁進する者としての純真さが垣間見える。
「……それ、自分で言ってて恥ずかしいとか思わないわけ?」
「自分の気持ちにだけは嘘はつけない質なんでね」
「嘘つきは泥棒の始まりよ、魔理沙。いや今更か」
何でもない日常がつつがなく続く。
それがかけがえのない時間であり、自身の一部であることは、二人にとっては語るも無粋であった。
──あったのだが、近頃はそれも怪しくなっている。
あれだけ神社に茶々を入れに来た魔理沙の足先が、ぐんと遠のいたのだった。
魔理沙は好奇心に溢れていて、その上強い向上心を持ち合わせている。
いずれも霊夢には乏しいものだ。魔理沙が近頃“多忙”な理由はある程度見当がつく。
「……あんまり羽目を外し過ぎないでよね」
……
瘴気漂う魔法の森に、一陣の風が吹く。
それは強く、勢いがあって、いっそ清々しいほど迷惑で。
茜色に染まった空を背に、箒に跨った白黒の魔法使いがふわりと地に降り立った。
それに対して七色の人形遣い──アリス・マーガトロイドはにこやかに手を振って、歓迎の意を示した。
「あらいらっしゃい、魔理沙。研究熱心なのはいいけど程々にね、目の隈が酷いわ」
「そう言ってくれるなよ。同業(まほうつかい)に同情されちゃあオシマイってもんだ」
魔理沙の目には隈が浮かび、指先には絆創膏が貼られていた。
夜通し魔法の実験でまた軽い怪我でもしたのだろう。とは言え、アリスがそれ以上に気になったのは──
「それはそうなんだけど……にしても、今日はずいぶん色んな本を持ってきたのね。どういう風の吹き回しかしら」
「今日は折り入って色々と聞きたいことがあってな、詳細は後で話す。とりあえず入れてくれ」
魔理沙は俯いて、物憂げに答えた。
普段の人をからかう様子はまるで見えず、何かに追われているような、じっとりとした焦燥に苛まれているような。
「はいはい。紅茶はいつものでいいわよね」
「ああ。悪いな」
垢抜けた白煉瓦の造りのアリス宅に、両腕いっぱいに本を抱えた魔理沙がずけずけと押し入っていく。
神社で呑気に羽を伸ばす少女の姿はそこには無い。
……
「魔法の完成には、今の私の魔力じゃ足りなさすぎる。地道な研鑽は不可欠だが、それ以上に_どうすれば人としての限界を超えられるか、って話だ」
アリスを見据えて毅然と言い放つ魔理沙に対し、
「ああ、そんなこと。その手の話なら、貴方はもう十分人間離れしてると思うけど。妖怪と対等に渡り合える人類、これだけで結構。違くて?」
「そうじゃないんだって」
友人にあしらわれたのがよほど気に触ったのか、魔理沙の表情は険しい。
のみならず__卓上にどんと手を置いて、アリスに前のめりになった。
いつになく本気だな、とアリスが訝しむ。
「ごめんごめん、冗談よ。けど、こっちも色々聞きたくてね。何をそんなに急いでるのかって、近いうちに誰かに魔法のお披露目でもするつもり?」
「...まぁ、そんな所だ。それも、ただの自己満足の、な」
魔理沙はばつが悪そうに、あるいは気恥ずかしげに答えた。
彼女が誰かに魔法を見せたい状況__は置いといて、自身の努力の成果を見せたい相手は誰か。考えるまでもなく、アリスには分かりきっていた。
が、それがアリスには面白くなかった。
だから、深い意味は無くとも、ちょっと意地悪してやろうと思った。
「研究にお熱なのは同志(まほうつかい)としては嬉しいわ。で、その大量の本はどうやって盗ってきたの?それとも、パチュリーに賄賂でも渡したわけ?」
アリスの鋭い視線が魔理沙を貫く。
魔理沙はしばし無言を貫いた。
「魔道書ってのは、得てして求道者たちの血で紡がれたものよ、魔理沙。それに対価も払えない魔法使いに微笑む神なんて居やしないわ。たとえ貴方であってもね」
...
「いやなに、パチュリーの居ぬ間にちょっとな。盗んだつもりは無いぜ、死ぬまで借りてるだけだからな」
などと宣うのだろう__と、アリスは目の前の泥棒を見据えている。
少しの間を置いて、魔理沙は持っていた本の全てを丁寧に卓上に積み重ねた。
「死ぬまで借りるのはもう止めだ。ここにある本全部、返す期日をきちんと話し合って、ちゃんと借りて来た。人間は時間が無いからな、締め切りを決めないとだらけてダメだ」
アリスは目を丸くした。
あの魔理沙に、あの白黒泥棒にそんな間違いがあり得るのか。
よほど本気であるらしい。であればこちらも、とアリスは口の端を上げて、魔理沙にずいと近づいた。
「...ずいぶんお急ぎのようね。手伝ってあげたい所だけど、生憎私も専門分野で忙しくてね...タダ働きは性に合わないわ。貴方は何を差し出せる?」
「パチュリーから借りた本だが、期限が許す限りは好きに見てくれて構わん。それと、研究の成果はお前にも一つ残さず共有してやる。これでどうだ」
魔理沙はプライドが高く負けず嫌いだ。
自分の研究結果__ひいては自身の努力の跡を他人に見せるなど、よほどの理由がなければあり得ない。
それは気の置けない友人(アリス)であっても例外ではなかった。
魔理沙の知られざる一面を見れる。
_興味深い。今一度、見てみたいものだ。
アリスの胸に薄暗い好奇の火が灯り、口の端がさらに歪んだ。
「...交渉成立ね」
瞬間、黄金色のアリスの瞳に、生気に満ちた光が宿った。
瞳孔が妖しく開き、その様相は人ならざる歪さを醸している。
そこには、人間としての生を捨て、魔族(まほうつかい)として生きてきたアリスの覚悟と矜持をも感じさせる気迫があったが__
「そう来なくっちゃあな」
奇しくも魔理沙も同じ目をしていた。
人と魔族。種族と寿命は違えども、魔法を究める者として魂の在り方は同じであった。
目指すべき方向性は同じである。であれば、取るに足りない垣根がどうして彼女たちを引き裂く事が出来ようか。
小窓から静謐な月明かりが差し込んで、心地よい静けさが辺りを支配している。
白き煉瓦の城塞に、知の道に魅入られた者が二人。邪魔する者は誰も居ない。
今宵をもって開かれた魔女の夜宴(サバト)は、まだ始まったばかりだった。
...
魔理沙が神社に来なくなってから、およそ一ヶ月は経っただろうか。
以前なら、しばらくどこそこに行くからと、予め話してくれたような気もするが。
神社に閑古鳥が鳴いていた。これは珍しい事であった。
霊夢には"博麗の巫女"として、"幻想郷の調停者"としての本分がある。
妖怪が騒ぎを起こせば異変を収めに出向き、命がけで幻想郷に均衡をもたらさねばならない。少なくとも、博麗の巫女はそう決定づけられている。
霊夢にも立場がある以上、深謀遠慮の大賢者__八雲紫や、説教臭い仙人の華扇が講釈を垂れにやって来る日もままある。
あるいは、飲みの相手や新聞のネタに飢えた鬼や天狗であろうか。ともかく巫女として、仲の良い知り合いは多い。
けれど霊夢には_
私には、同じ目線の仲間は居ないものね。
霊夢は自嘲した。幻想郷の調停者とは、詰まるところ誰であれ平等でなければならない。
例え親しい友人であろうとも、この世界を揺るがす恐れがあれば、その時は___
___嗚呼、あの人が羨ましい。
彼女はどうしてああも自由に羽ばたけているのだろう。種族を超越した無二の友人がいるのだろう__
そこまで考え耽って、霊夢ははっとした。
まるで静電気のような_何か不吉な刺激が肌を縫った。
言い知れぬ妖気と共に、自身のすぐ近くで空を切り裂く音がしたのだ。
すらりと静かな音を立てて、破れた空間から一人の女が顔を出す。
「御機嫌よう、霊夢。調子はいかがかしら」
幻想郷の創設者__八雲紫が空間の裂け目から顔だけを覗かせて、こちらをニヤニヤと見下ろしている。
霊夢は溜め息をついた。彼女が自分に会いに来る時は、決まって面倒がある時だけだからだ。
「そんなに気張らなくていいわ。ただ可愛い霊夢をからかいに来ただけだから」
「相変わらず鬱陶しいわね...来てほしくない時ばかり来て。用件があるなら端的に」
紫はふん、と鼻を鳴らして訥々と語り始めた。
「今日は藍も橙も家を空けてるから暇でねぇ。時間つぶしに、人をやめた男の話でもしようと思うの__」
話の流れはこうだ。
人里のある所に、占星術に長けた男がいた。
男の術式は秀逸なもので、彼の用いる水晶玉を通してみれば、人の深い心理までたちまち見通してしまうという。
だが、その占いはやがて、彼に大いなる呪いをもたらすことになる。
男は術式と興味本位に駆られるあまり、この世界の深淵と、そこに広がる闇を見てしまったのだった。
そして男は絶望の末に自ら命を絶ち__
己に施した呪術をもって、妖として現世に蘇ったのだった。
「で?男はその後結局どうなったわけ?」
紫の昔話に痺れを切らし、霊夢はぶっきらぼうに聞いた。
実際は結末など分かりきっている。聞きたくもない話であった。
恐れる人間と、畏れられる妖怪。両者は儚い均衡の上に共存を成立させ、この世界で生きている。
その幻想を崩した者の末路など、言うに及ばずだ。
「あら、私の話はそんなに退屈?」
紫がわざとらしく首をかしげる。
それが今は無性に腹立たしくて、つい八つ当たりしてしまう。
「老人の昔話が好きな若者はいないわ」
「あらそう?まぁ、良薬は口に苦しとも言いますものね」
若人の癇癪を涼しい顔で受け流し、口元を扇子で隠す賢者であった。
紫の佇まいはどこかミステリアスで不明瞭で、霊夢からしても底知れない相手であった。
彼女を捉えるなど正しく雲を掴むような話で、だから"八雲"というのだろうか。などと不意に考える。
曰く八雲とは、幾重にも連なる雲を言い、曰く紫とは、虹の中で最も外側にある色だという。虹と外とを分かつ、境界となる色。
「ああ、薬と言っても甘いものもあったわね。確か」
今度は何?
と霊夢が問う前に、紫は空のスキマに引っ込んで何かを取り出し始めた。
しばし間を置いて、よければどうぞと両手で手渡された代物は、
「...これのどこが薬なの?」
丁寧な包装がなされた和菓子の詰め合わせだった。
巷で話題の高級菓子とは耳にしているが、気軽に渡す代物とは思いがたい。紫はどういう腹づもりなのだろうか。
「今日の霊夢ちゃんは何だか参っているように見えたから、ね」
「...そんなに分かりやすい自覚は無いんだけど」
「私は貴方のことなら何でも知ってるわ。かけがえのない、可愛い可愛い霊夢だもの」
などと微笑みを貼り付けて、老獪な賢者は言ってのける。
心根を見透かされているようで些か気分が良くないものの、霊夢は甘味から目を離せなかった。
「...ありがと、でも今はどうしても気分じゃないの。後で頂くわ」
とは言え、洒落た茶請けをこの胡散臭い妖怪と堪能する気にはなれず、頭を下げて謝意を述べると、
「博麗の巫女として、人と妖の均衡を守る__それは貴方にしか務まらないし、故に、霊夢の成すことは全て正解で、そう在らねばならない」
紫が改まった様子で霊夢を一瞥する。冷徹で、合理的で、打算に満ちた眼をこちらに差し向けて。
流石の豹変に霊夢も戸惑いを隠せず、不意に心臓を握られた気分に陥った。
「大いなる自由には大いなる責務が伴い、そして幻想郷は全てを受け入れる___それはそれは、残酷な話ですものね」
今度は幾ばくか温かみのある笑顔を見せて、霊夢の頭を優しく撫でた。
何だか逆らう気も起きず、紅白の少女は何も言わず受け入れる。
「常に正しく在るために、心の労いは必要だもの。疲れた時には甘味がいいわよ、そのうちガンにも効くようになるわ」
「何の話?」
「何でもない」紫はおどけた素振りを見せたのち、瞬く間にスキマの中へと身を翻した。「また来るわね」
紫はいつもこうだ。
神出鬼没で、勝手に現れてはあれこれと自分に都合の良い御託を並べて帰っていく。
この私を監視して、博麗の巫女としての役目に従わせる為に。
和菓子の箱をまじまじと見てみる。
こんな菓子折りで餌付けしたつもりか。舐められたものだ。あ、美味しい。奴の人柄は気に食わないが、食のセンスは悪くない。
しかしどうにも釘を刺されているようで、手放しでは喜べないのだった。
...
【雲一つない晴天続く 太陽神もご満悦か】
文々。新聞の予報が示す通り、その日は実に穏やかな陽が差す一日であった。
朝も昼も晩も、良い意味で、本当に何も無かった。気づけば神社に夜の帳が降りてきて、無為な一日に終わりを告げる。
たまには独りで思索に耽るのも悪くない。霊夢がふと夜空を見上げると、そこには月も星も見当たらない。
漆黒に身を包んだ新月の風情と言えば、壮観の一言に尽きる。理由もなく、今宵はどうにも眠れそうにない。
そう言えば今日は、自分にとって何か特別な日であった気がしてならない。
何だろうと考え込むも上手く頭が働かず、まぁ良いかと話を置いておくことにする。
たまには夜風に吹かれながら、一杯でも_と霊夢が思い立ったその時であった。
ぶわりと、博麗神社に一陣の風が吹く。
それは強く、勢いがあって、穏やかな空気を蹴散らすような_賑やかな騒々しさに溢れていて。
「ただいま。相変わらずだな」
白い服の上に黒のエプロンを掛け、つばの広い黒の三角帽を被ったその姿は、
「平和ボケって感じの顔してるぜ。巫女さんが暇そうで何よりだが」
いつだって代わり映えしない。
「...おかえり」
言葉が口を衝いて出た。
半ば反射的に、無意識的に。霊夢の眼前に魔理沙がふわりと舞い降りる。
今までどこに行っていたのかと、言える筋合いは霊夢にはない。何せただの友人同士である。
それは彼女の勝手だが、何か説明があれば納得できるのに。魔理沙を見つめて黙って二の句を待っていると、
「今から星でも見に行こう。いつもの場所な、今日はとびきり綺麗な流星群が降るってよ」
「え?いや、星なんて、どこにも__」
「付いてこい。なに、後悔はさせないさ」
それだけ言って、魔理沙は半ば強引に霊夢の手を引いた。
「ちょ、っと、いきなりどういうつもり_」霊夢の意思などお構いなしに、洒脱な魔法使いは自慢の箒に友人を乗せる。
「大船に乗ったつもりでいるといい」
「にしてはちょっと小さくない!?」
魔理沙がニヤリと笑みを浮かべたのち、箒は少しずつ浮上を始めた。
魔力の集約した箒は輝きに満ちて、さながら童話の世界のようだ。
「今日は最高速を見せてやる」
箒の尾から魔力が力強く噴出され、ごう、と突風が吹き荒れる。
一瞬にして凄まじい魔力の放出が推進力となって、瞬く間に二人を夜の旅へと連れ出した。
霊夢が魔理沙の箒に乗せてもらうのは、このかた初めてのことであった。
無論安全帯など無いもので、魔理沙の腰元に両腕を回して掴まっているのである。
時おり、魔理沙の身体から静電気じみた魔力が走り、霊夢の両腕が微かにぴりりとする。これも初めての感覚だった。
「霊夢。この一ヶ月の間でさ、私は色々な物を見たり触れたりして、さ」
風のうねりを受けながらも、魔理沙の声は不思議と透き通ってよく聞こえた。
聞く所によれば、暇を持て余したあまり色んな所に遊びに行っていたという。
ネタを探しに人里に。かと思えば、天狗たちと連んで雄大な九天の滝を見物に。
魔理沙の話題は枚挙に暇がなく、すらすらと言葉が紡がれていく。
彼女の顔は見えないが、本当に楽しかったのだろうと思う。
「着いたぜ」
言葉巧みな友人の話とは、こうも時間を忘れさせるものであるらしい。
しかしやはり、微かに期待して空を見上げども、月も星も一つとして見当たらない。これでは真夜中に二人組が突っ立っているだけではないか。
「今日は夜空でも描こうっての?ペンと紙なら置いてきたけど」
霊夢が努めて軽妙に振る舞う。そこに魔理沙が、待ってましたとばかりに合いの手を入れる。
「紙ならそこらに、ペンならここにだ」
魔法使いに不敵な笑みがこぼれた。
「__ああ、そういうこと。素敵ね」
霊夢は思わずはにかんだ。
後はゆっくりと後ろに下がり、腰を下ろすだけだ。今の私はただ一人の観衆に過ぎない。
「魔符___」
魔理沙が掲げた八卦炉を中心に大気は震え、魔力が唸りを上げる。
足元から、大地から、妖しい光が差している。霊夢があまりの眩しさに目を瞑ると、一帯の魔力はいつしか魔法陣へと姿を変え、大地に深々と刻み込まれていた。
次には魔法の詠唱が始まった。いつになく真剣な表情で魔法を諳んじる魔理沙を、霊夢が固唾を飲んで見守る。
言葉は淀みなく紡がれて、魔法陣も次第に輝きを増してゆく。
陣円からは色とりどりのスパークがしきりに吹き出して、赤色だったり、青色だったり、あるいは赤黒い魔力の奔流が駆け抜けて、魔理沙を包み込んだ。
七色の雷が地走る様はどこか神聖で、しかし同時に禍々しさにも満ち満ちていて。これほど膨大な魔力、一体どこで___
「スターダストレヴァリエ」
霊夢の疑問など露知らず、詠唱を締め括る最後の言葉(スペル)が告げられる。
同時に魔理沙の双眸が、琥珀色から血の如き紅へとみるみる染まり、魔力は間もなく最高潮に達するだろう。
魔法を呼び起こす意思が、魔力が、魂が渾然一体となって、彼女の望みを描き上げ__。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
無数の星々がそれぞれの光と輝きを誇り、あまねく夜空に虹を架けた。
無限に湛えられた闇が、星の瞬きを一層美しく彩りながら。
霊夢は眼前の光景に目を奪われて、しばらく口も思考も動けずにいた。
ややあって、息を荒げた魔理沙が隣にゆっくりと座り込む。
「今日は、何の日か分かるか?」
ぜぇぜぇと呼吸を乱し、しかし尚も意味ありげにニヤつく魔理沙であった。
そこでようやく霊夢は考える。何か特別な日であっただろうか。思いつかないが、強いて言うなら、今日は私の_
「お誕生日、おめでとう」
側にいる魔法使いが、今度はくしゃくしゃな笑みで言ってのける。
「あんたまさか、わざわざこの一ヶ月間、今このために、だって、なんで__」
言葉と思考がまとまらない。きっと耳まで真っ赤になって、その様子はさぞ滑稽に映るのだろう。
それほどまでに信じられない光景だった。
「おっ、今のその面は良いな。顔真っ赤でわたわたしてさ、見てて飽きん。酒のアテには丁度良いかな」
「ひ、人を酒のアテって、あんたねぇ...」
魔理沙がけらけら笑いながらゆっくりと帽子を外すと、中から一升瓶がごろりと転がった。
どういう理屈だ。どういう術だ。ここ一ヶ月で鍛えたであろう魔力とやらのお陰で、そんな芸まで身につけたというのか。
「霊夢。あの星々が降り止む前に、この酒を空にするってのも乙だと思わないか?」
魔理沙の提案は決まって唐突で、気づけばいつも振り回されている。
けれども彼女の行動には、何も深い意味など無いのだろう。迷惑で、自分本位で、ひたむきで、純粋で、何のしがらみもない。そんな彼女が_
「...いいわ。だったらどっちが最後まで酔い潰れずに居られるか、勝負しましょう?」
「ハッ、そう来なくっちゃあな」
魔力盛んにして星夜未だ止まず。
七色の流星か、美酒のせいか。胸と喉とを熱くさせ、潰れるには惜しい夜だった。
……
──私は今、博麗霊夢として、目の前の女──霧雨魔理沙を見下ろしている。
流星さえ止んだ真夜中の折、二人は博麗神社に帰ってきていた。魔理沙は既に布団の上で、酩酊に包まれて微睡んでいる。
無防備にも口をだらんと開き、皮肉にも幸せそうに寝ていた。
一方の霊夢はというと、どう足掻いても眠れるはずがなかった。
魔理沙に披露してもらった魔法を目にして、二つの意味で胸が高鳴ったのだ。
一つは歓喜。
もう一つは_私の語彙では、今のこの感情を、上手く言い表せそうにない。
魔理沙の寝顔をじっと見つめ、頬に手をそっと添えてみる。酒気に火照っていて温かいと同時に、やはり何かが肌を走る。
ぴりりとした刺激。それはどこか言い知れぬ妖気を醸していて、霊夢はこの気配に見覚えがある。そして、正体を知っている。
「御機嫌よう、霊夢」
ひどく耳障りな囁きが霊夢の顔を歪ませた。
空間がすらりと静かに破られて、そこからスキマの賢者が辺りを冷徹に見下ろしている。
「何の、つもり」
友人を起こさぬよう声を荒げず、しかし確かな怒気をもって、紫に言葉を突きつける。
でないと、心臓を握り潰されてしまいそうだったから。
「前にした、人を辞めた男の話。まだ結末を話していなかったでしょう?」
「あ、ああ__」
紫の口ぶりに遊びはない。故に望みもない。
背筋がうっすらと冷たくなるのを感じて、手が震え、視界がぼやけた。
「恐れる人と、畏れられる妖。幻想郷の根源たる鉄則は絶対であり_故に男は、」
紫はにわかに口を止めた。意地の悪いババアだと罵る気力はもう霊夢には残されていない。
ただ逃避するように俯く霊夢の姿に、博麗の巫女の威厳など有ろうものか。
紫は一つ溜め息をついて、霊夢と魔理沙を静かに見据える。
二人の距離は近しい。あえて表現するならば、親密という他無いと、紫は改めて認識した。
「ふん」紫が不機嫌そうに鼻を鳴らした。「"その時"はいつか必ずやってくるわ、霊夢。貴方の答えを_見せてもらうから」
紫が消えたのち、霊夢はしばらく沈黙に押し潰されていた。
恐る恐る魔理沙の方を見遣る。眠りが深いのか、未だ幸せそうに目を瞑っている。
であれば、今が絶好の機であろうか。どこかそう考える自分が確かにいる。
流星の魔法_スターダストレヴァリエの時に見た、確かな邪気にこの魔力。
魔理沙の身体はごく僅かに、しかし確実に_妖怪のそれへと変じていた。
妖怪に堕ちた人里の人間は、幻想郷の掟によって死をもって償う以外に未来はない。
そこにはただの一人も例外はなく、魔理沙にも平等に向けられる。彼女が本当に妖怪へと変貌した時は、如何なる痛苦を以て処刑されるのだろうか。
魔理沙の首筋に、ゆっくりと霊夢の両腕が伸びる。
首元はか細く、か弱く、少し汗ばんでいて、喉笛が深呼吸に合わせてゆっくりと上下している。
そこから感じる禍々しい気配の片鱗は、年相応の彼女にはまるで似つかわしくない。認めたくないが、それが厳然たる事実なのだ。
魔理沙は好奇心に溢れていて、その上強い向上心がある。
私と会っていない間に何があったのか。誰かに入れ知恵されたのか、自ら力を望んだ末か。
私が必死に引き止めても、いずれ意味など無くなるのだろうか。
であれば、魔理沙が人間である内に。その愛しさと眩しさを保ったまま、いっそ_
私はただ疑う余地もなく、心からあなたを愛していて。
だからこそ、この手に掛けたいと願ってしまった。
「まり、さ」
改めて魔理沙の寝顔を見た瞬間、堰を切られたように涙が溢れて止まらなくなった。
いつかは運命の時がやってきて、私と魔理沙は今のままでは居られなくなる。この世を分かつかもしれない。
「っ...うっ...」
心も視野もぐしゃぐしゃになって、魔理沙の輪郭が朧げに映る。けれども確かに私の近くで寝息を立てている。
今はまだ、その時ではない。
だから今はせめて、ただこの瞬間を_
「もう少しだけ、そばに、いて」
……
漆黒を思わせる夜空の淵で、星が一つ瞬いた。
それは闇の中に在って尚、目を奪われるほど美しい。
──Fin.
だからあなたを、この手に掛けたいと願った。
……
博麗神社に一陣の風が吹いた。
それは強く、勢いがあって、同時に心地よいほど爽やかで。うららかな昼下がりをささやかに彩る、この上ないものであった。
「よう霊夢、相変わらず腑抜けた顔だな。ここらで一発異変でも起きた方が幻想郷のためになる」
博麗神社にふわりと風が吹き、白黒の少女──霧雨魔理沙が軽やかに箒から舞い降りる。
白い服の上に黒のエプロンを掛け、つばの広い黒の三角帽を被ったその姿は、さながらおとぎ話の魔法使いと例えて差し支えない。
そして、もはや見飽きた光景だな、と博麗霊夢は思う。
「異変ならたった今起きたじゃない。招かれざる客の応接、という名のね」
「毎日起きてる事を異変とは言わないぜ。日課という。お前はもっと辞書を引いた方がいい」
「私にとっては異変なのよ。日常の中の非日常って感じで」
「楽しんでもらえて何よりだぜ」
「まあ、否定はしないわ。ほら、あがって」
魔理沙が軽口を叩き、霊夢がそれに乗り、魔理沙が適当にあしらう。
そして二人で縁側に座り、人里から仕入れた茶を啜っては取り留めのない話に興じるのだ。
魔理沙は顔が広い上に好奇心に溢れていて、気の利いた話題には事欠かない。
ゆえに話を仕掛けるのは、いつだって魔理沙からであった。
「霊夢、後で星でも見に行こう。いつもの場所な、今日はとびきり綺麗な流星群が降るってよ」
「へぇ、悪くないわね。というか、あんたって意外とロマンチストよね」
「魔法使いってのは皆そうだろ。自分だけの星を掴み取ろうとして、いつだって足掻いてるんだからな」
魔理沙が顔色一つ変えずに言うので、霊夢は少し面食らった。
普段は剽軽者で、かと思えば時折、魔法に邁進する者としての純真さが垣間見える。
「……それ、自分で言ってて恥ずかしいとか思わないわけ?」
「自分の気持ちにだけは嘘はつけない質なんでね」
「嘘つきは泥棒の始まりよ、魔理沙。いや今更か」
何でもない日常がつつがなく続く。
それがかけがえのない時間であり、自身の一部であることは、二人にとっては語るも無粋であった。
──あったのだが、近頃はそれも怪しくなっている。
あれだけ神社に茶々を入れに来た魔理沙の足先が、ぐんと遠のいたのだった。
魔理沙は好奇心に溢れていて、その上強い向上心を持ち合わせている。
いずれも霊夢には乏しいものだ。魔理沙が近頃“多忙”な理由はある程度見当がつく。
「……あんまり羽目を外し過ぎないでよね」
……
瘴気漂う魔法の森に、一陣の風が吹く。
それは強く、勢いがあって、いっそ清々しいほど迷惑で。
茜色に染まった空を背に、箒に跨った白黒の魔法使いがふわりと地に降り立った。
それに対して七色の人形遣い──アリス・マーガトロイドはにこやかに手を振って、歓迎の意を示した。
「あらいらっしゃい、魔理沙。研究熱心なのはいいけど程々にね、目の隈が酷いわ」
「そう言ってくれるなよ。同業(まほうつかい)に同情されちゃあオシマイってもんだ」
魔理沙の目には隈が浮かび、指先には絆創膏が貼られていた。
夜通し魔法の実験でまた軽い怪我でもしたのだろう。とは言え、アリスがそれ以上に気になったのは──
「それはそうなんだけど……にしても、今日はずいぶん色んな本を持ってきたのね。どういう風の吹き回しかしら」
「今日は折り入って色々と聞きたいことがあってな、詳細は後で話す。とりあえず入れてくれ」
魔理沙は俯いて、物憂げに答えた。
普段の人をからかう様子はまるで見えず、何かに追われているような、じっとりとした焦燥に苛まれているような。
「はいはい。紅茶はいつものでいいわよね」
「ああ。悪いな」
垢抜けた白煉瓦の造りのアリス宅に、両腕いっぱいに本を抱えた魔理沙がずけずけと押し入っていく。
神社で呑気に羽を伸ばす少女の姿はそこには無い。
……
「魔法の完成には、今の私の魔力じゃ足りなさすぎる。地道な研鑽は不可欠だが、それ以上に_どうすれば人としての限界を超えられるか、って話だ」
アリスを見据えて毅然と言い放つ魔理沙に対し、
「ああ、そんなこと。その手の話なら、貴方はもう十分人間離れしてると思うけど。妖怪と対等に渡り合える人類、これだけで結構。違くて?」
「そうじゃないんだって」
友人にあしらわれたのがよほど気に触ったのか、魔理沙の表情は険しい。
のみならず__卓上にどんと手を置いて、アリスに前のめりになった。
いつになく本気だな、とアリスが訝しむ。
「ごめんごめん、冗談よ。けど、こっちも色々聞きたくてね。何をそんなに急いでるのかって、近いうちに誰かに魔法のお披露目でもするつもり?」
「...まぁ、そんな所だ。それも、ただの自己満足の、な」
魔理沙はばつが悪そうに、あるいは気恥ずかしげに答えた。
彼女が誰かに魔法を見せたい状況__は置いといて、自身の努力の成果を見せたい相手は誰か。考えるまでもなく、アリスには分かりきっていた。
が、それがアリスには面白くなかった。
だから、深い意味は無くとも、ちょっと意地悪してやろうと思った。
「研究にお熱なのは同志(まほうつかい)としては嬉しいわ。で、その大量の本はどうやって盗ってきたの?それとも、パチュリーに賄賂でも渡したわけ?」
アリスの鋭い視線が魔理沙を貫く。
魔理沙はしばし無言を貫いた。
「魔道書ってのは、得てして求道者たちの血で紡がれたものよ、魔理沙。それに対価も払えない魔法使いに微笑む神なんて居やしないわ。たとえ貴方であってもね」
...
「いやなに、パチュリーの居ぬ間にちょっとな。盗んだつもりは無いぜ、死ぬまで借りてるだけだからな」
などと宣うのだろう__と、アリスは目の前の泥棒を見据えている。
少しの間を置いて、魔理沙は持っていた本の全てを丁寧に卓上に積み重ねた。
「死ぬまで借りるのはもう止めだ。ここにある本全部、返す期日をきちんと話し合って、ちゃんと借りて来た。人間は時間が無いからな、締め切りを決めないとだらけてダメだ」
アリスは目を丸くした。
あの魔理沙に、あの白黒泥棒にそんな間違いがあり得るのか。
よほど本気であるらしい。であればこちらも、とアリスは口の端を上げて、魔理沙にずいと近づいた。
「...ずいぶんお急ぎのようね。手伝ってあげたい所だけど、生憎私も専門分野で忙しくてね...タダ働きは性に合わないわ。貴方は何を差し出せる?」
「パチュリーから借りた本だが、期限が許す限りは好きに見てくれて構わん。それと、研究の成果はお前にも一つ残さず共有してやる。これでどうだ」
魔理沙はプライドが高く負けず嫌いだ。
自分の研究結果__ひいては自身の努力の跡を他人に見せるなど、よほどの理由がなければあり得ない。
それは気の置けない友人(アリス)であっても例外ではなかった。
魔理沙の知られざる一面を見れる。
_興味深い。今一度、見てみたいものだ。
アリスの胸に薄暗い好奇の火が灯り、口の端がさらに歪んだ。
「...交渉成立ね」
瞬間、黄金色のアリスの瞳に、生気に満ちた光が宿った。
瞳孔が妖しく開き、その様相は人ならざる歪さを醸している。
そこには、人間としての生を捨て、魔族(まほうつかい)として生きてきたアリスの覚悟と矜持をも感じさせる気迫があったが__
「そう来なくっちゃあな」
奇しくも魔理沙も同じ目をしていた。
人と魔族。種族と寿命は違えども、魔法を究める者として魂の在り方は同じであった。
目指すべき方向性は同じである。であれば、取るに足りない垣根がどうして彼女たちを引き裂く事が出来ようか。
小窓から静謐な月明かりが差し込んで、心地よい静けさが辺りを支配している。
白き煉瓦の城塞に、知の道に魅入られた者が二人。邪魔する者は誰も居ない。
今宵をもって開かれた魔女の夜宴(サバト)は、まだ始まったばかりだった。
...
魔理沙が神社に来なくなってから、およそ一ヶ月は経っただろうか。
以前なら、しばらくどこそこに行くからと、予め話してくれたような気もするが。
神社に閑古鳥が鳴いていた。これは珍しい事であった。
霊夢には"博麗の巫女"として、"幻想郷の調停者"としての本分がある。
妖怪が騒ぎを起こせば異変を収めに出向き、命がけで幻想郷に均衡をもたらさねばならない。少なくとも、博麗の巫女はそう決定づけられている。
霊夢にも立場がある以上、深謀遠慮の大賢者__八雲紫や、説教臭い仙人の華扇が講釈を垂れにやって来る日もままある。
あるいは、飲みの相手や新聞のネタに飢えた鬼や天狗であろうか。ともかく巫女として、仲の良い知り合いは多い。
けれど霊夢には_
私には、同じ目線の仲間は居ないものね。
霊夢は自嘲した。幻想郷の調停者とは、詰まるところ誰であれ平等でなければならない。
例え親しい友人であろうとも、この世界を揺るがす恐れがあれば、その時は___
___嗚呼、あの人が羨ましい。
彼女はどうしてああも自由に羽ばたけているのだろう。種族を超越した無二の友人がいるのだろう__
そこまで考え耽って、霊夢ははっとした。
まるで静電気のような_何か不吉な刺激が肌を縫った。
言い知れぬ妖気と共に、自身のすぐ近くで空を切り裂く音がしたのだ。
すらりと静かな音を立てて、破れた空間から一人の女が顔を出す。
「御機嫌よう、霊夢。調子はいかがかしら」
幻想郷の創設者__八雲紫が空間の裂け目から顔だけを覗かせて、こちらをニヤニヤと見下ろしている。
霊夢は溜め息をついた。彼女が自分に会いに来る時は、決まって面倒がある時だけだからだ。
「そんなに気張らなくていいわ。ただ可愛い霊夢をからかいに来ただけだから」
「相変わらず鬱陶しいわね...来てほしくない時ばかり来て。用件があるなら端的に」
紫はふん、と鼻を鳴らして訥々と語り始めた。
「今日は藍も橙も家を空けてるから暇でねぇ。時間つぶしに、人をやめた男の話でもしようと思うの__」
話の流れはこうだ。
人里のある所に、占星術に長けた男がいた。
男の術式は秀逸なもので、彼の用いる水晶玉を通してみれば、人の深い心理までたちまち見通してしまうという。
だが、その占いはやがて、彼に大いなる呪いをもたらすことになる。
男は術式と興味本位に駆られるあまり、この世界の深淵と、そこに広がる闇を見てしまったのだった。
そして男は絶望の末に自ら命を絶ち__
己に施した呪術をもって、妖として現世に蘇ったのだった。
「で?男はその後結局どうなったわけ?」
紫の昔話に痺れを切らし、霊夢はぶっきらぼうに聞いた。
実際は結末など分かりきっている。聞きたくもない話であった。
恐れる人間と、畏れられる妖怪。両者は儚い均衡の上に共存を成立させ、この世界で生きている。
その幻想を崩した者の末路など、言うに及ばずだ。
「あら、私の話はそんなに退屈?」
紫がわざとらしく首をかしげる。
それが今は無性に腹立たしくて、つい八つ当たりしてしまう。
「老人の昔話が好きな若者はいないわ」
「あらそう?まぁ、良薬は口に苦しとも言いますものね」
若人の癇癪を涼しい顔で受け流し、口元を扇子で隠す賢者であった。
紫の佇まいはどこかミステリアスで不明瞭で、霊夢からしても底知れない相手であった。
彼女を捉えるなど正しく雲を掴むような話で、だから"八雲"というのだろうか。などと不意に考える。
曰く八雲とは、幾重にも連なる雲を言い、曰く紫とは、虹の中で最も外側にある色だという。虹と外とを分かつ、境界となる色。
「ああ、薬と言っても甘いものもあったわね。確か」
今度は何?
と霊夢が問う前に、紫は空のスキマに引っ込んで何かを取り出し始めた。
しばし間を置いて、よければどうぞと両手で手渡された代物は、
「...これのどこが薬なの?」
丁寧な包装がなされた和菓子の詰め合わせだった。
巷で話題の高級菓子とは耳にしているが、気軽に渡す代物とは思いがたい。紫はどういう腹づもりなのだろうか。
「今日の霊夢ちゃんは何だか参っているように見えたから、ね」
「...そんなに分かりやすい自覚は無いんだけど」
「私は貴方のことなら何でも知ってるわ。かけがえのない、可愛い可愛い霊夢だもの」
などと微笑みを貼り付けて、老獪な賢者は言ってのける。
心根を見透かされているようで些か気分が良くないものの、霊夢は甘味から目を離せなかった。
「...ありがと、でも今はどうしても気分じゃないの。後で頂くわ」
とは言え、洒落た茶請けをこの胡散臭い妖怪と堪能する気にはなれず、頭を下げて謝意を述べると、
「博麗の巫女として、人と妖の均衡を守る__それは貴方にしか務まらないし、故に、霊夢の成すことは全て正解で、そう在らねばならない」
紫が改まった様子で霊夢を一瞥する。冷徹で、合理的で、打算に満ちた眼をこちらに差し向けて。
流石の豹変に霊夢も戸惑いを隠せず、不意に心臓を握られた気分に陥った。
「大いなる自由には大いなる責務が伴い、そして幻想郷は全てを受け入れる___それはそれは、残酷な話ですものね」
今度は幾ばくか温かみのある笑顔を見せて、霊夢の頭を優しく撫でた。
何だか逆らう気も起きず、紅白の少女は何も言わず受け入れる。
「常に正しく在るために、心の労いは必要だもの。疲れた時には甘味がいいわよ、そのうちガンにも効くようになるわ」
「何の話?」
「何でもない」紫はおどけた素振りを見せたのち、瞬く間にスキマの中へと身を翻した。「また来るわね」
紫はいつもこうだ。
神出鬼没で、勝手に現れてはあれこれと自分に都合の良い御託を並べて帰っていく。
この私を監視して、博麗の巫女としての役目に従わせる為に。
和菓子の箱をまじまじと見てみる。
こんな菓子折りで餌付けしたつもりか。舐められたものだ。あ、美味しい。奴の人柄は気に食わないが、食のセンスは悪くない。
しかしどうにも釘を刺されているようで、手放しでは喜べないのだった。
...
【雲一つない晴天続く 太陽神もご満悦か】
文々。新聞の予報が示す通り、その日は実に穏やかな陽が差す一日であった。
朝も昼も晩も、良い意味で、本当に何も無かった。気づけば神社に夜の帳が降りてきて、無為な一日に終わりを告げる。
たまには独りで思索に耽るのも悪くない。霊夢がふと夜空を見上げると、そこには月も星も見当たらない。
漆黒に身を包んだ新月の風情と言えば、壮観の一言に尽きる。理由もなく、今宵はどうにも眠れそうにない。
そう言えば今日は、自分にとって何か特別な日であった気がしてならない。
何だろうと考え込むも上手く頭が働かず、まぁ良いかと話を置いておくことにする。
たまには夜風に吹かれながら、一杯でも_と霊夢が思い立ったその時であった。
ぶわりと、博麗神社に一陣の風が吹く。
それは強く、勢いがあって、穏やかな空気を蹴散らすような_賑やかな騒々しさに溢れていて。
「ただいま。相変わらずだな」
白い服の上に黒のエプロンを掛け、つばの広い黒の三角帽を被ったその姿は、
「平和ボケって感じの顔してるぜ。巫女さんが暇そうで何よりだが」
いつだって代わり映えしない。
「...おかえり」
言葉が口を衝いて出た。
半ば反射的に、無意識的に。霊夢の眼前に魔理沙がふわりと舞い降りる。
今までどこに行っていたのかと、言える筋合いは霊夢にはない。何せただの友人同士である。
それは彼女の勝手だが、何か説明があれば納得できるのに。魔理沙を見つめて黙って二の句を待っていると、
「今から星でも見に行こう。いつもの場所な、今日はとびきり綺麗な流星群が降るってよ」
「え?いや、星なんて、どこにも__」
「付いてこい。なに、後悔はさせないさ」
それだけ言って、魔理沙は半ば強引に霊夢の手を引いた。
「ちょ、っと、いきなりどういうつもり_」霊夢の意思などお構いなしに、洒脱な魔法使いは自慢の箒に友人を乗せる。
「大船に乗ったつもりでいるといい」
「にしてはちょっと小さくない!?」
魔理沙がニヤリと笑みを浮かべたのち、箒は少しずつ浮上を始めた。
魔力の集約した箒は輝きに満ちて、さながら童話の世界のようだ。
「今日は最高速を見せてやる」
箒の尾から魔力が力強く噴出され、ごう、と突風が吹き荒れる。
一瞬にして凄まじい魔力の放出が推進力となって、瞬く間に二人を夜の旅へと連れ出した。
霊夢が魔理沙の箒に乗せてもらうのは、このかた初めてのことであった。
無論安全帯など無いもので、魔理沙の腰元に両腕を回して掴まっているのである。
時おり、魔理沙の身体から静電気じみた魔力が走り、霊夢の両腕が微かにぴりりとする。これも初めての感覚だった。
「霊夢。この一ヶ月の間でさ、私は色々な物を見たり触れたりして、さ」
風のうねりを受けながらも、魔理沙の声は不思議と透き通ってよく聞こえた。
聞く所によれば、暇を持て余したあまり色んな所に遊びに行っていたという。
ネタを探しに人里に。かと思えば、天狗たちと連んで雄大な九天の滝を見物に。
魔理沙の話題は枚挙に暇がなく、すらすらと言葉が紡がれていく。
彼女の顔は見えないが、本当に楽しかったのだろうと思う。
「着いたぜ」
言葉巧みな友人の話とは、こうも時間を忘れさせるものであるらしい。
しかしやはり、微かに期待して空を見上げども、月も星も一つとして見当たらない。これでは真夜中に二人組が突っ立っているだけではないか。
「今日は夜空でも描こうっての?ペンと紙なら置いてきたけど」
霊夢が努めて軽妙に振る舞う。そこに魔理沙が、待ってましたとばかりに合いの手を入れる。
「紙ならそこらに、ペンならここにだ」
魔法使いに不敵な笑みがこぼれた。
「__ああ、そういうこと。素敵ね」
霊夢は思わずはにかんだ。
後はゆっくりと後ろに下がり、腰を下ろすだけだ。今の私はただ一人の観衆に過ぎない。
「魔符___」
魔理沙が掲げた八卦炉を中心に大気は震え、魔力が唸りを上げる。
足元から、大地から、妖しい光が差している。霊夢があまりの眩しさに目を瞑ると、一帯の魔力はいつしか魔法陣へと姿を変え、大地に深々と刻み込まれていた。
次には魔法の詠唱が始まった。いつになく真剣な表情で魔法を諳んじる魔理沙を、霊夢が固唾を飲んで見守る。
言葉は淀みなく紡がれて、魔法陣も次第に輝きを増してゆく。
陣円からは色とりどりのスパークがしきりに吹き出して、赤色だったり、青色だったり、あるいは赤黒い魔力の奔流が駆け抜けて、魔理沙を包み込んだ。
七色の雷が地走る様はどこか神聖で、しかし同時に禍々しさにも満ち満ちていて。これほど膨大な魔力、一体どこで___
「スターダストレヴァリエ」
霊夢の疑問など露知らず、詠唱を締め括る最後の言葉(スペル)が告げられる。
同時に魔理沙の双眸が、琥珀色から血の如き紅へとみるみる染まり、魔力は間もなく最高潮に達するだろう。
魔法を呼び起こす意思が、魔力が、魂が渾然一体となって、彼女の望みを描き上げ__。
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫。
無数の星々がそれぞれの光と輝きを誇り、あまねく夜空に虹を架けた。
無限に湛えられた闇が、星の瞬きを一層美しく彩りながら。
霊夢は眼前の光景に目を奪われて、しばらく口も思考も動けずにいた。
ややあって、息を荒げた魔理沙が隣にゆっくりと座り込む。
「今日は、何の日か分かるか?」
ぜぇぜぇと呼吸を乱し、しかし尚も意味ありげにニヤつく魔理沙であった。
そこでようやく霊夢は考える。何か特別な日であっただろうか。思いつかないが、強いて言うなら、今日は私の_
「お誕生日、おめでとう」
側にいる魔法使いが、今度はくしゃくしゃな笑みで言ってのける。
「あんたまさか、わざわざこの一ヶ月間、今このために、だって、なんで__」
言葉と思考がまとまらない。きっと耳まで真っ赤になって、その様子はさぞ滑稽に映るのだろう。
それほどまでに信じられない光景だった。
「おっ、今のその面は良いな。顔真っ赤でわたわたしてさ、見てて飽きん。酒のアテには丁度良いかな」
「ひ、人を酒のアテって、あんたねぇ...」
魔理沙がけらけら笑いながらゆっくりと帽子を外すと、中から一升瓶がごろりと転がった。
どういう理屈だ。どういう術だ。ここ一ヶ月で鍛えたであろう魔力とやらのお陰で、そんな芸まで身につけたというのか。
「霊夢。あの星々が降り止む前に、この酒を空にするってのも乙だと思わないか?」
魔理沙の提案は決まって唐突で、気づけばいつも振り回されている。
けれども彼女の行動には、何も深い意味など無いのだろう。迷惑で、自分本位で、ひたむきで、純粋で、何のしがらみもない。そんな彼女が_
「...いいわ。だったらどっちが最後まで酔い潰れずに居られるか、勝負しましょう?」
「ハッ、そう来なくっちゃあな」
魔力盛んにして星夜未だ止まず。
七色の流星か、美酒のせいか。胸と喉とを熱くさせ、潰れるには惜しい夜だった。
……
──私は今、博麗霊夢として、目の前の女──霧雨魔理沙を見下ろしている。
流星さえ止んだ真夜中の折、二人は博麗神社に帰ってきていた。魔理沙は既に布団の上で、酩酊に包まれて微睡んでいる。
無防備にも口をだらんと開き、皮肉にも幸せそうに寝ていた。
一方の霊夢はというと、どう足掻いても眠れるはずがなかった。
魔理沙に披露してもらった魔法を目にして、二つの意味で胸が高鳴ったのだ。
一つは歓喜。
もう一つは_私の語彙では、今のこの感情を、上手く言い表せそうにない。
魔理沙の寝顔をじっと見つめ、頬に手をそっと添えてみる。酒気に火照っていて温かいと同時に、やはり何かが肌を走る。
ぴりりとした刺激。それはどこか言い知れぬ妖気を醸していて、霊夢はこの気配に見覚えがある。そして、正体を知っている。
「御機嫌よう、霊夢」
ひどく耳障りな囁きが霊夢の顔を歪ませた。
空間がすらりと静かに破られて、そこからスキマの賢者が辺りを冷徹に見下ろしている。
「何の、つもり」
友人を起こさぬよう声を荒げず、しかし確かな怒気をもって、紫に言葉を突きつける。
でないと、心臓を握り潰されてしまいそうだったから。
「前にした、人を辞めた男の話。まだ結末を話していなかったでしょう?」
「あ、ああ__」
紫の口ぶりに遊びはない。故に望みもない。
背筋がうっすらと冷たくなるのを感じて、手が震え、視界がぼやけた。
「恐れる人と、畏れられる妖。幻想郷の根源たる鉄則は絶対であり_故に男は、」
紫はにわかに口を止めた。意地の悪いババアだと罵る気力はもう霊夢には残されていない。
ただ逃避するように俯く霊夢の姿に、博麗の巫女の威厳など有ろうものか。
紫は一つ溜め息をついて、霊夢と魔理沙を静かに見据える。
二人の距離は近しい。あえて表現するならば、親密という他無いと、紫は改めて認識した。
「ふん」紫が不機嫌そうに鼻を鳴らした。「"その時"はいつか必ずやってくるわ、霊夢。貴方の答えを_見せてもらうから」
紫が消えたのち、霊夢はしばらく沈黙に押し潰されていた。
恐る恐る魔理沙の方を見遣る。眠りが深いのか、未だ幸せそうに目を瞑っている。
であれば、今が絶好の機であろうか。どこかそう考える自分が確かにいる。
流星の魔法_スターダストレヴァリエの時に見た、確かな邪気にこの魔力。
魔理沙の身体はごく僅かに、しかし確実に_妖怪のそれへと変じていた。
妖怪に堕ちた人里の人間は、幻想郷の掟によって死をもって償う以外に未来はない。
そこにはただの一人も例外はなく、魔理沙にも平等に向けられる。彼女が本当に妖怪へと変貌した時は、如何なる痛苦を以て処刑されるのだろうか。
魔理沙の首筋に、ゆっくりと霊夢の両腕が伸びる。
首元はか細く、か弱く、少し汗ばんでいて、喉笛が深呼吸に合わせてゆっくりと上下している。
そこから感じる禍々しい気配の片鱗は、年相応の彼女にはまるで似つかわしくない。認めたくないが、それが厳然たる事実なのだ。
魔理沙は好奇心に溢れていて、その上強い向上心がある。
私と会っていない間に何があったのか。誰かに入れ知恵されたのか、自ら力を望んだ末か。
私が必死に引き止めても、いずれ意味など無くなるのだろうか。
であれば、魔理沙が人間である内に。その愛しさと眩しさを保ったまま、いっそ_
私はただ疑う余地もなく、心からあなたを愛していて。
だからこそ、この手に掛けたいと願ってしまった。
「まり、さ」
改めて魔理沙の寝顔を見た瞬間、堰を切られたように涙が溢れて止まらなくなった。
いつかは運命の時がやってきて、私と魔理沙は今のままでは居られなくなる。この世を分かつかもしれない。
「っ...うっ...」
心も視野もぐしゃぐしゃになって、魔理沙の輪郭が朧げに映る。けれども確かに私の近くで寝息を立てている。
今はまだ、その時ではない。
だから今はせめて、ただこの瞬間を_
「もう少しだけ、そばに、いて」
……
漆黒を思わせる夜空の淵で、星が一つ瞬いた。
それは闇の中に在って尚、目を奪われるほど美しい。
──Fin.