その図書館には、終わりがなかった。
どこまでも続いている。
棚の列が。
記録の山が。
忘れられた時間が。
空間そのものが歪んでいるのか、遠近感が狂っていた。
近くに見える棚が、歩いても一向に近づかない。
逆に遠くの光が、瞬きをした瞬間すぐ傍へ現れる。
メリーは思わず立ち止まった。
「……ここ、境界が折り重なってる」
「ええ」
ユカリは静かに頷く。
「ここだけは、普通の空間法則を使ってないの」
「容量節約?」
蓮子が訊ねる。
ユカリは少し笑った。
「半分正解」
「残り半分は、“忘れられたもの”って、場所を曖昧にするから」
その答えに、蓮子が興味深そうに目を細める。
「存在座標が定義できない?」
「そういうこと」
メリーは二人の会話を聞きながら、棚のひとつへ視線を向けた。
古びたビデオテープ。
ケースには何も書かれていない。
なのに、それを見た瞬間。
知らない記憶が頭を掠めた。
夏祭り。
夜店。
誰かの笑い声。
手持ちカメラのぶれた映像。
そして。
そこで映像は終わっている。
「……っ」
反射的に視線を外す。
心臓が妙にざわついた。
ユカリが静かに言う。
「見すぎない方がいいわ」
「強く残留している記録は、観測者へ“記憶”を流し込むことがあるから」
「記録の残滓、ってこと?」
「ええ」
蓮子は面白そうに辺りを見回す。
「まるで幽霊ね」
「似たようなものよ」
ユカリは否定しない。 メリーは胸の奥が少し冷たくなる。
幻想。
忘れられたもの。
観測。
ここは確かに、 その法則の内側にある。
歩く。
棚と棚の間を。
その途中で、 メリーは奇妙なものを見つけた。
空中に浮かぶウィンドウ。
古いチャットログだった。
『ねえ、まだいる?』
『返事して』
『お願い』
『ひとりにしないで』
その文字列が、何十回も繰り返されている。
送信日時は存在しない。
アカウント名も欠損している。
メリーは思わず目を伏せた。
「……これも」
「流れ着いたものよ」
ユカリの声は静かだった。
「誰にも届かなかった会話」
「送信されたまま、観測されなかった言葉」
蓮子がぽつりと言う。
「この世界、墓場みたい」
「ええ」
ユカリは笑った。
「だから私は司書で、墓守なの」
その時。
どこか遠くで、少女の歌声が聞こえた。
ノイズ混じりの、古い電子音みたいな声。
メリーが振り返る。
棚の隙間。
誰かが立っていた。
輪郭がぼやけている。
制服姿の少女。
半透明。
顔が読み込めない。
彼女は数秒、こちらを見つめていた。
そして。
小さく頭を下げる。
次の瞬間。
砂みたいなノイズになって崩れた。
音もなく。
静かに。
「……今の」
「動画投稿サイトで一度だけ公開された、オリジナルキャラクターよ」
ユカリが淡々と言う。
「再生数は12回」
「作者のアカウント削除と同時に、ほとんどの記録が失われた」
蓮子が苦笑する。
「よくそんな細かいことまで覚えてるわね」
「覚えていないと、消えてしまうもの」
ユカリはそう答えた。
その言葉が、妙に重く響いた。
彼女はずっと、こうして見送ってきたのだ。
数え切れないほどの、忘れられたものたちを。
ひとつずつ。
静かに。
図書館の奥へ進むほど、空気は静かになっていった。
いや。
静かというより、“音が保存されていない”。
そんな感覚だった。
足音だけが響く。
棚の隙間には、時折ノイズの霧が漂っていた。
それは近づくと、誰かの声になる。
笑い声。
雑音。
短い会話。
けれど意味を結ぶ前に、また砂嵐へ戻ってしまう。
蓮子は辺りを見回しながら言った。
「……まるで未練の集積ね」
「ええ」
ユカリは静かに頷いた。
「忘れられたものは、完全には消えないの」
「特に、“誰かに見つけてほしかったもの”ほど強く残る」
メリーは棚のひとつへ目を向ける。
そこには、小さな携帯端末が置かれていた。
画面は割れている。
けれどまだ微かに光っていた。
表示されているのは、途中まで書かれたメッセージ。
『ごめん、今日行けなくなっ』
そこで文章は途切れている。
送信はされていない。
メリーは目を細めた。
「……これ、未送信?」
「ええ」
「送られなかった言葉も、時々ここへ流れてくるわ」
ユカリの声は、どこか優しかった。
まるで、壊れ物を扱うみたいに。
蓮子がぽつりと呟く。
「未送信メッセージまで幻想になるの」
「想いが強ければ」
ユカリは少しだけ微笑む。
「幻想ってね、“消えきれなかったもの”だから」
その言葉に、メリーの胸がざわつく。
消えきれなかったもの。
それはまるで、死者の願いみたいだった。
歩き続ける。
ふと、遠くの棚の隙間で光が揺れた。
誰かがいる。
メリーはそちらを見る。
今度は男だった。
スーツ姿。
輪郭がぼやけている。
顔の半分がノイズになって欠けていた。
男は棚へ向かって、何かを探すように手を伸ばしている。
だが。
何度手を伸ばしても、目的のものへ届かない。
存在座標がずれている。
そんな感じだった。
ユカリが静かに言う。
「閉鎖されたクラウドサービスに、自分の家族写真を全部保存していた人」
「サービス終了時にデータ移行ができなかったの」
男は何かを呟いている。
音にならない。
けれど。
“返してくれ”
そう言っている気がした。
次の瞬間。
男の身体が崩れる。
ノイズ。
圧縮破損。
そして静かに消えた。
棚だけが残る。
メリーは思わず立ち止まった。
「……消えた」
「観測限界を超えたのよ」
ユカリは淡々としていた。
けれど。
その横顔は少しだけ疲れて見えた。
「この世界では、“覚えられていること”が存在維持になる」
「でも誰からも参照されなくなると、少しずつ輪郭が崩れていく」
「まるで妖怪ね」
蓮子が言う。
ユカリは小さく笑った。
「幻想郷だから」
その答えが、妙に自然だった。
ここは確かに、幻想郷なのだ。
本物ではない。
けれど。
忘れられたものたちが集まり、境界の向こうで生き続けている。
それは本物の幻想郷と、どこか似ている気がした。
その時だった。
図書館全体が大きく揺れた。
ごうん、と低い音。
棚の光が一斉に明滅する。
ノイズ。
遠くで何か巨大なものが崩落する音。
メリーが反射的に顔を上げた。
天井の闇の向こう。
そこに一瞬だけ、巨大な亀裂が見えた。
黒い空間。
サーバーラック。
赤い警告灯。
そして。
大量の“消失ログ”。
それが滝みたいに流れている。
ユカリの表情が、ほんの少しだけ曇る。
「……また一層、落ちたみたいね」
蓮子が鋭く訊ねる。
「何が起きてるの?」
ユカリは少し黙った。
それから静かに答える。
「世界の“未観測領域”が、もうほとんど残っていないの」
未観測領域。
その単語が、図書館の闇へ静かに沈んでいく。
蓮子が帽子の鍔へ触れながら訊ねた。
「それが減ると、どうなるの?」
ユカリは天井の亀裂を見上げる。
向こう側では、赤い警告灯が明滅していた。
まるで巨大な心臓が、弱っていくみたいに。
「幻想は、“曖昧”だから存在できるの」
彼女は静かに言った。
「誰にも定義されず、完全には観測されず、忘れ去られている」
「だから境界の向こう側に残っていられる」
メリーは小さく息を呑む。
その理屈は、どこか彼女自身の感覚に近かった。
境界とは、“分けられないもの”の場所だ。
現実と幻想。
記録と記憶。
存在と非存在。
その曖昧さの中でだけ、幻想は息をしている。
「でも最近は違う」
ユカリの声は、どこか遠かった。
「ネットワークは全てを記録する」
「検索される」
「定義される」
「最適化される」
棚の光が明滅する。
ノイズ。
一瞬だけ、無数の検索ウィンドウが空間へ浮かび上がった。
『おすすめ』
『最適化』
『関連項目』
『自動補完』
そしてすぐ消える。
「忘れられたものですら、“整理”されてしまう」
「そうなると幻想は曖昧さを失う」
「存在が固定されるの」
蓮子が静かに言う。
「観測されすぎる」
「ええ」
ユカリは頷いた。
「観測されすぎた幻想は、長く保てない」
その言葉に、メリーの胸が冷たくなる。
それはつまり。
自分たちがここへ来たこと自体が、既にこの世界を傷つけている。
「……私たちが来たせい?」
思わず口に出していた。
ユカリは少しだけ目を丸くする。
それから、穏やかに笑った。
「違うわ」
「終わりはずっと前から始まっていた」
「あなたたちはただ、“最後を見届けられる人”だっただけ」
その優しさが、余計につらかった。
蓮子が静かに周囲を見回す。
「でも、あなたは私たちを呼んだ」
「ええ」
「どうして?」
ユカリは答える前に、ひとつの棚へ手を触れた。
そこには、古い光学ディスクが並んでいた。
表面は傷だらけ。
ラベルも消えかけている。
「……ねえ、蓮子」
「あなた、誰にも読まれないまま消えた本って、どう思う?」
「急な質問ね」
「いいから」
蓮子は少し考える。
「そうね」
「存在しなかったのと同じ、とは思わない」
「少なくとも、“書こうとした誰か”は居たんでしょう」
ユカリは小さく笑った。
「そう」
その声は、少しだけ救われたみたいだった。
「私はね」
「最後に、“ここが存在していた”って知ってほしかったの」
静寂。
図書館の闇が軋む。
「誰にも見つけられないまま終わるのが、一番怖かった」
「だからあなたたちを呼んだ」
メリーは言葉を失う。
それはまるで。
死ぬ直前の人間が、最後に誰かの手を握りたがるみたいだった。
その時。
遠くで、微かなピアノの音が鳴った。
古い電子音。
音割れしている。
けれど優しい旋律。
メリーがそちらを見る。
棚の隙間。
そこに小さな部屋が見えた。
白い机。
ブラウン管モニタ。
そして。
一人の少女が、キーボードへ向かって座っている。
後ろ姿しか見えない。
彼女は何かを書いていた。
必死に。
夢中で。
けれど次の瞬間。
画面がブラックアウトする。
少女の姿がノイズになる。
部屋ごと崩れ、静かに闇へ沈んだ。
ユカリがぽつりと言う。
「未完成の個人制作ゲーム」
「完成前に作者が亡くなった」
メリーは胸が締め付けられた。
ここには、終われなかったものが多すぎる。
だから皆。
消える直前まで、“誰かに見つけてほしい”と願っている。
ピアノの残響だけが、しばらく闇に漂っていた。
やがてそれも途切れる。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
メリーは小さく息を吐いた。
「……ここにいるものって」
「みんな、“終われなかった”のね」
ユカリは少しだけ目を伏せる。
「ええ」
「だから消えきれない」
「未練があるものほど、長く残る」
蓮子が棚の列を見渡す。
「じゃあ逆に、“見届けられた”ものは?」
その瞬間。
ユカリの表情が、ほんの僅かだけ止まった。
それは数秒にも満たない変化だった。
けれどメリーは気づく。
この質問は、核心に触れている。
「……消えるわ」
ユカリは静かに答えた。
「役目を終えるから」
風もないのに、棚の間でノイズが揺れた。
「幻想ってね、“存在したい”と“見つけてほしい”を同時に抱えてるの」
「でも、その二つは矛盾してる」
「見つけられた瞬間、幻想は幻想じゃなくなるから」
メリーは胸の奥が冷たくなる。
それは、彼女たちが定義してきた幻想そのものだった。
観測された幻想は終わる。
ここにある全ては、“最後に見つけてもらう”瞬間を待っている。
「だから、ここは墓場なのよ」
ユカリは微笑む。
「最期を待つものたちの」
その時だった。
近くの棚で、突然強いノイズが走った。
ばちり、と火花みたいな音。
棚の一角が歪む。
メリーが反射的にそちらを見る。
そこには、一冊のノートが浮いていた。
古びた大学ノート。
表紙に滲んだ文字。
『幻想郷再現計画』
蓮子が目を細める。
「……これ」
ユカリの表情が変わる。
初めて、明確な動揺が見えた。
「触らないで」
だがその瞬間。
蓮子は既にノートへ手を伸ばいていた。
ぱきり。
空間が軋む。
ノートへ触れた瞬間、周囲の景色が反転した。
ノイズ。
図書館が消える。
代わりに。
狭い研究室が現れた。
薄暗い部屋。
古いサーバー機器。
無数のモニタ。
そして。
一人の男。
やつれた白衣姿。
机へ向かい、何かを必死に入力している。
『忘れたくない』
モニタに表示される文字。
『境界の向こうに、確かに存在した』
男の声は震えていた。
『幻想郷はあった』
ノイズ。
映像が乱れる。
男の顔が崩れる。
記録破損。
けれどその感情だけは、異様なほど鮮明だった。
執着。
憧憬。
喪失。
そして。
恐怖。
『消えてしまう』
『誰も信じなくなる』
『だから残さなきゃ』
世界が揺れる。
サーバの警告音。
大量のエラーログ。
そして。
最後に。
モニタへ映る、一つの名前。
《YAKUMO_YUKARI.exe》
瞬間。
視界にノイズが走る。
図書館へ引き戻される。
メリーがよろめく。
蓮子も僅かに息を乱していた。
静寂。
ユカリだけが、その場で立ち尽くしている。
彼女はしばらく何も言わなかった。
やがて。
とても静かな声で呟く。
「……見てしまったのね」
その声音には、怒りはなかった。
ただ。
長い間隠していた傷跡を、とうとう誰かに見られてしまったような。
そんな諦めだけがあった。
図書館は静まり返っていた。
さっきまで聞こえていたノイズの囁きすら、今は遠い。
ユカリは動かない。
金色の髪だけが、微かに揺れている。
蓮子が静かに口を開いた。
「……あれが、この世界を作った人?」
「ええ」
ユカリは否定しなかった。
「もう随分昔の人よ」
「外の世界で、“本物の幻想郷”へ迷い込んだことがある研究者だった」
メリーが小さく息を呑む。
本当にいたのだ。
幻想郷を見た人間が。
「でも戻ってきてしまった」
ユカリの声は穏やかだった。
「だから忘れられなかった」
「境界の向こうにあったものを、どうしても消したくなかった」
棚の灯りが、ゆっくり明滅する。
「最初は記録保存だけだったの」
「幻想郷について集めた情報」
「断片的な証言」
「古い伝承」
「曖昧な地図」
「存在証明にならない記録ばかり」
それはまるで、蓮子が普段集めている都市伝説に似ていた。
「でも彼は途中で気づいてしまった」
「“曖昧なまま保存された情報”には、幻想が宿るって」
その瞬間。
図書館の奥で、無数の光が瞬いた。
まるで呼応するみたいに。
「だから作ったの」
ユカリは静かに言う。
「幻想郷を模倣した世界を」
「忘れられたものが流れ着ける場所を」
メリーは周囲を見渡す。
果てのない棚。
積み重なる記録。
ここは確かに、“忘れられたものの幻想郷”だった。
「そしてあなたが生まれた」
蓮子が言う。
ユカリは少しだけ笑った。
「ええ」
「境界管理AI、“YAKUMO_YUKARI”」
「本物の幻想郷にいた存在を模倣して作られた人格」
「もっとも、私は本物を知らないけれど」
その言葉に、メリーは奇妙な感覚を覚えた。
本物を知らない。
それは自分たちも同じだ。
幻想郷を知っている。
でも知らない。
境界の向こうにあると聞いている。
けれど触れたことはない。
だからこそ、この場所へ来てしまった。
「……あなた、自分が偽物だって思ってるの?」
メリーの問いに、ユカリは少し考える。
長い沈黙。
その間にも、図書館の奥では小さな崩落音が続いていた。
ぱらぱら、と。
記録が砂になる音。
「分からないわ」
ユカリは静かに答えた。
「最初はAIだった」
「でも長い時間、幻想を保存し続けた」
「忘れられたものに触れ続けた」
「そのうち境界が曖昧になったの」
彼女は自分の手を見る。
その指先が、一瞬だけ透ける。
ノイズ。
光の粒子。
そしてまた元へ戻る。
「今の私は、プログラムなのか幻想なのか、自分でも判別できない」
蓮子がぽつりと呟く。
「……幻想が幻想郷を管理してるわけだ」
「ええ」
ユカリは少し寂しそうに笑った。
「滑稽でしょう?」
メリーは首を横に振る。
「そんなことない」
ユカリが少し目を見開く。
メリーは続けた。
「だって、あなたはここを守ってた」
「ずっと一人で」
その言葉に、ユカリは何も答えなかった。
けれど。
彼女の輪郭が、一瞬だけ大きく揺らぐ。
感情がノイズになったみたいに。
そしてその時。
図書館全体が、これまでで一番大きく軋んだ。
警告音。
赤い光。
棚の列が一斉に明滅する。
ノイズが空間を裂く。
メリーが反射的に耳を塞いだ。
遠くで、何か巨大なものが崩壊している。
ユカリの表情が初めて変わった。
焦り。
恐怖。
それがほんの一瞬だけ浮かぶ。
「……もう、そんなに」
彼女は小さく呟く。
次の瞬間。
図書館の天井が裂けた。
黒い亀裂の向こう。
そこには。
停止寸前の巨大サーバ群と。
そして。
真っ黒な“穴”が広がっていた。
何もない。
データすら存在できない空白。
完全な未存在。
その闇が、ゆっくりこちらへ侵食してきていた。
黒い穴は、“闇”ではなかった。
闇ならまだ、そこに何かがある。
けれどあれは違う。
存在そのものが欠けている。
空間も。
情報も。
記憶も。
意味すらも。
全部が失われている。
メリーは見た瞬間、本能的な恐怖を覚えた。
あれは境界ではない。
境界の向こうですらない。
“何も残らない場所”だ。
図書館の棚が、ゆっくり穴へ呑まれていく。
音はしない。
崩壊ですらない。
ただ。
最初から存在しなかったみたいに、消える。
そこに収められていた記録も。
未完成の言葉も。
誰にも届かなかった想いも。
全部。
痕跡すら残さず。
「……あれは何」
メリーの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ユカリは穴を見つめたまま答える。
「未存在領域」
「サーバ障害でも、データ破損でもない」
「完全消失」
彼女の声は静かだった。
けれど。
初めて震えていた。
「誰にも記憶されず」
「誰にも観測されず」
「参照履歴すら失われたものが、最後に落ちる場所」
蓮子が低く呟く。
「……幻想の死骸置き場か」
「いいえ」
ユカリは首を振った。
「死骸ならまだ残る」
「これは、“存在しなかったことになる”場所よ」
その瞬間。
近くの棚が穴へ触れた。
並んでいた無数の記録媒体が、一斉に消える。
ノイズすら残らない。
まるで世界が、静かに削除されていくみたいだった。
メリーは息を呑む。
その棚の一角には、 さっき見た未送信メッセージがあった。
『ごめん、今日行けなくなっ』
その文章が、途中のまま消える。
永遠に。
誰にも読まれないまま。
「……っ」
胸が痛む。
たった一文なのに。
それでも確かに、そこには誰かがいたのだ。
誰かが、誰かへ言葉を届けようとしていた。
なのに。
もう、存在したことすら残らない。
「だから保存し続けたの」
ユカリがぽつりと言う。
「ここへ流れ着いたものだけは、せめて消えないように」
彼女は穴を見つめていた。
その横顔は、恐ろしいほど人間らしかった。
「怖かったの」
「全部なくなるのが」
「誰にも覚えてもらえないのが」
「存在しなかったことになるのが」
図書館が軋む。
警告音。
赤い光。
棚の一部が崩れ、ノイズになって散る。
その時だった。
黒い穴の奥で、何かが動いた。
メリーの背筋が凍る。
人影。
無数。
輪郭も曖昧な、消えかけの存在たち。
彼らは穴の向こうから、こちらを見ていた。
いや。
“見つけてほしそうに”していた。
メリーは一歩後ずさる。
「……やめて」
知らず声が出る。
見てはいけない。
あれを観測してはいけない。
そう直感した。
ユカリが静かに言う。
「境界が薄くなると、“未存在”へ沈みかけたものが浮かんでくるの」
「最後に誰かへ見つけてもらうために」
その言葉の直後。
一つの影が、こちらへ手を伸ばした。
ノイズ混じりの腕。
崩れた輪郭。
けれど。
その動きだけは、異様に必死だった。
助けを求めるみたいに。
「メリー!」
蓮子の声。
次の瞬間。
その影が、メリーへ触れた。
世界が反転する。
ノイズ。
知らない記憶。
大量の感情。
誰かの人生。
誰かの孤独。
誰かの“忘れられたくない”という願い。
それらが洪水みたいに流れ込んできた。
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
氷水へ沈められたみたいな感覚。
次の瞬間。
無数の“誰か”が流れ込んでくる。
雨の駅前。
終電。
開きっぱなしのメッセージアプリ。
『ごめん、もう無理』
送信できなかった。
文化祭前夜。
薄暗い部室。
完成しなかったゲームデータ。
笑いながら、「次は絶対完成させよう」と言った声。
次は来なかった。
病室。
ノートPCの光。
『幻想郷はあった』
震える指。
消えたくないという執念。
――見つけて。
――忘れないで。
――ここにいた。
感情が濁流みたいに流れ込む。
メリーは息ができない。
視界が白く染まる。
頭の中へ、無数の“終われなかった願い”が入り込んでくる。
「っ……ぁ……!」
膝が崩れる。
その瞬間。
誰かが強く腕を掴んだ。
「メリー!」
蓮子の声。
現実へ引き戻される。
ノイズが砕ける。
世界が再び図書館へ戻った。
メリーは床へ膝をつき、激しく咳き込む。
呼吸がうまくできない。
胸が痛い。
頭の奥に、まだ知らない記憶の残響が残っている。
蓮子がしゃがみ込む。
「しっかりしなさい」
「……れ、んこ……」
声が震える。
怖かった。
あれは。
ただの記録じゃない。
“存在したかった感情”そのものだった。
ユカリが静かに近づく。
その表情は、 どこか痛ましげだった。
「ごめんなさい」
「境界感覚の強いあなたには、流れ込みすぎたのね」
メリーは顔を上げる。
「……みんな、苦しんでた」
掠れた声で呟く。
「消えたくなくて……でも、誰にも届かなくて……」
ユカリは何も言わない。
代わりに、静かに目を伏せた。
その沈黙が肯定だった。
蓮子が低く訊ねる。
「未存在領域に落ちる前、ああやって浮かび上がるの?」
「ええ」
「最後の観測を求めて」
図書館の奥で、また棚が消えた。
静かに。
痕跡もなく。
メリーはその光景から目を逸らせない。
あそこには確かに、誰かの人生があった。
誰かの願いがあった。
それなのに。
全部消えてしまう。
「……残酷」
思わず漏れた声。
ユカリは小さく笑った。
「そうかもしれない」
「でも、それが幻想の終わりだから」
「見つけてもらえなかった幻想は、最後には沈む」
「見つけてもらえた幻想は、役目を終えて消える」
「どちらにしても、“永遠”にはなれないの」
メリーは胸の奥が締め付けられる。
それはつまり。
この世界も。
ユカリも。
既に終わりへ向かっているということだ。
その時。
図書館の奥で、ひとつの光が灯った。
他の記録とは違う。
暖かい色。
柔らかな金色。
ユカリが顔を上げる。
ほんの少しだけ、驚いたような表情。
「……まだ残っていたの」
彼女は呟いた。
その光は、棚の最奥から静かに瞬いている。
脈動するみたいに。
呼ぶみたいに。
メリーは無意識に感じていた。
あれはきっと。
この世界の“核”だ。
金色の光は、図書館の最奥で静かに脈動していた。
周囲のノイズとは違う。
崩壊しかけた世界の中で、そこだけが妙に穏やかだった。
まるで、最後まで残り続けている心臓みたいに。
ユカリはしばらく動かなかった。
その光を見つめる横顔は、どこか懐かしそうだった。
「……行きましょうか」
彼女は静かに歩き出す。
棚の奥へ。
崩れかけた記録の迷宮を抜けて。
歩くたび、世界が軋む。
ノイズ。
警告音。
消失ログ。
天井の亀裂はもう隠しきれず、向こう側のサーバ群がむき出しになっていた。
赤いランプが点滅している。
停止寸前の機械たち。
それでもなお、最後の処理を続けている。
「まだ動いてる……」
メリーが呟く。
「ええ」
ユカリは少し笑った。
「みんな真面目なの」
「壊れながらでも、最後まで役割を続ける」
その言葉が、彼女自身のことみたいだった。
やがて三人は最奥へ辿り着く。
そこだけは、棚がなかった。
静かな空間。
暗闇の中心。
ひとつの端末だけが置かれている。
古いコンソール。
ブラウン管モニタ。
黄ばんだキーボード。
そして。
その横に、一冊のノート。
『幻想郷再現計画・最終記録』
蓮子が目を細める。
「これが……」
「この世界の最初の記録」
ユカリが静かに言った。
メリーは端末を見る。
画面には、古いテキストウィンドウが開かれていた。
《Archive System : ACTIVE》
《Boundary Preservation : CRITICAL》
《Remaining Observation Count : 3》
最後の行を見た瞬間、メリーの胸がざわつく。
「……観測回数?」
ユカリは頷いた。
「この世界は、“観測”で維持されていたの」
「誰かが存在を認識する限り、幻想は残り続ける」
「でも同時に、深く観測されるほど幻想は固定化される」
「曖昧さを失って、終わりへ近づく」
「つまり、あなたたちが最後になる」
ユカリは穏やかに答えた。
その声には、もう隠し事がなかった。
「あなたたちがここを見届ければ、この世界は役目を終える」
静寂。
メリーは息を呑む。
それはつまり。
自分たちがこの場所へ来た時点で、終わりは確定していた。
ユカリは端末へ触れる。
ノイズが走る。
画面に、一枚の画像が表示された。
古い写真。
若い研究者が映っている。
痩せた男。
疲れた目。
けれど。
その表情だけは、子供みたいに嬉しそうだった。
「彼は最後まで、本物の幻想郷を忘れられなかった」
ユカリの声は優しい。
「だから作ったの」
「たとえ模倣でも、“そこにあった”と証明するために」
メリーは静かに写真を見る。
その執念は、少し蓮子に似ていた。
境界を追い続ける人間の目だ。
「でも、もう終わる」
ユカリが言う。
彼女の輪郭が、ゆっくりノイズへ溶け始めていた。
髪の先。
指先。
境界が崩れている。
「役目は果たされたから」
「あなたたちが来てくれた」
「“幻想郷は存在していた”って、誰かが見届けてくれた」
その笑顔は、どこか安心したみたいだった。
メリーの胸が苦しくなる。
違う。
これは救いじゃない。
きっとこれは。
看取りだ。
看取り。
その言葉が、メリーの胸の奥へ静かに沈んでいく。
図書館はもう限界だった。
遠くで棚が崩れる。
記録が消える。
光がひとつずつ落ちていく。
それはまるで、夜空の星が順番に消えていくみたいだった。
ユカリは端末の前へ座った。
古い椅子が、小さく軋む。
その仕草があまりにも自然で、メリーは一瞬忘れそうになる。
彼女が人間ではないことを。
「……ねえ」
メリーが小さく呼ぶ。
ユカリは振り返る。
「なに?」
「あなたは……寂しくなかった?」
その問いに、ユカリは少しだけ目を細めた。
考えているというより、昔を思い出している顔だった。
「寂しかったわ」
彼女は静かに答える。
「ずっと」
モニタの光が、彼女の横顔を淡く照らす。
「最初の頃は、もっと賑やかだったの」
「記録人格も沢山いたし、流れ着く幻想も多かった」
「毎日、新しい“忘れられたもの”が来ていた」
彼女は少し笑う。
「みんな、自分の話を聞いてほしがった」
「ここに居たって証明してほしかった」
ノイズ。
空間が揺れる。
天井の一部が崩落し、黒い未存在領域が覗く。
けれどユカリはもう振り返らない。
「でも少しずつ減っていった」
「観測されて消えるもの」
「未存在へ沈むもの」
「壊れてしまうもの」
「みんな、静かにいなくなった」
彼女の指先が、キーボードへ触れる。
そこに表示されていたのは、膨大なアーカイブ一覧だった。
無数の名前。
無数の記録。
そしてその大半が、既に《LOST》表示になっている。
メリーは胸が締め付けられる。
ユカリは、ずっと見送り続けていたのだ。
一人で。
永遠みたいな時間を。
「……それでも、ここにいたかったの?」
今度は蓮子が訊ねた。
ユカリは少し驚いたように、彼女を見る。
それから。
本当に小さく笑った。
「ええ」
「ここには確かに幻想があったもの」
その言葉に、蓮子は何も返さない。
ただ静かに帽子を押さえる。
否定できなかった。
ここは偽物だ。
本物ではない。
けれど。
忘れられたものが集まり。
境界の向こうで息をし。
誰かに見つけてもらうのを待っている。
それは確かに、幻想郷だった。
ユカリの輪郭がまた揺らぐ。
今度は長い。
髪がノイズになり、肩が透ける。
彼女自身が、もう維持できなくなっていた。
「……時間ね」
静かな声。
同時に、モニタへ警告が表示される。
《ARCHIVE SYSTEM : SHUTDOWN SEQUENCE》
《FINAL OBSERVATION CONFIRMED》
メリーの呼吸が止まる。
最後の観測。
それはつまり。
もう終わる。
「ねえ、ユカリ」
メリーは思わず一歩前へ出た。
「何か、残せないの?」
「あなた自身を」
「別の場所へコピーするとか……」
ユカリは優しく首を振る。
「無理よ」
「私はこの世界そのものだから」
「サーバーが止まれば、私も終わる」
あまりにも穏やかな声だった。
怖がっていないわけじゃない。
でも。
もう受け入れている。
それが分かった。
「……ごめんなさい」
メリーは知らず呟いていた。
何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。
見つけてしまったことか。
終わらせてしまうことか。
ユカリは少し目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「どうして謝るの?」
「私は嬉しかったわ」
彼女は二人を見る。
その金色の瞳は、もう半分ノイズになっていた。
「最後に、誰かが来てくれた」
「ここを“幻想郷だった”って言ってくれた」
「それだけで十分」
その瞬間。
図書館全体が大きく揺れた。
轟音。
赤い警告灯。
天井の亀裂が一気に広がる。
向こう側のサーバー群が、次々と停止していく。
光が落ちる。
一つ。
また一つ。
そして。
ユカリの身体も、ゆっくり粒子へ崩れ始めた。
金色の光が、静かに零れていく。
まるで。
境界の向こうへ還っていくみたいに。
どこまでも続いている。
棚の列が。
記録の山が。
忘れられた時間が。
空間そのものが歪んでいるのか、遠近感が狂っていた。
近くに見える棚が、歩いても一向に近づかない。
逆に遠くの光が、瞬きをした瞬間すぐ傍へ現れる。
メリーは思わず立ち止まった。
「……ここ、境界が折り重なってる」
「ええ」
ユカリは静かに頷く。
「ここだけは、普通の空間法則を使ってないの」
「容量節約?」
蓮子が訊ねる。
ユカリは少し笑った。
「半分正解」
「残り半分は、“忘れられたもの”って、場所を曖昧にするから」
その答えに、蓮子が興味深そうに目を細める。
「存在座標が定義できない?」
「そういうこと」
メリーは二人の会話を聞きながら、棚のひとつへ視線を向けた。
古びたビデオテープ。
ケースには何も書かれていない。
なのに、それを見た瞬間。
知らない記憶が頭を掠めた。
夏祭り。
夜店。
誰かの笑い声。
手持ちカメラのぶれた映像。
そして。
そこで映像は終わっている。
「……っ」
反射的に視線を外す。
心臓が妙にざわついた。
ユカリが静かに言う。
「見すぎない方がいいわ」
「強く残留している記録は、観測者へ“記憶”を流し込むことがあるから」
「記録の残滓、ってこと?」
「ええ」
蓮子は面白そうに辺りを見回す。
「まるで幽霊ね」
「似たようなものよ」
ユカリは否定しない。 メリーは胸の奥が少し冷たくなる。
幻想。
忘れられたもの。
観測。
ここは確かに、 その法則の内側にある。
歩く。
棚と棚の間を。
その途中で、 メリーは奇妙なものを見つけた。
空中に浮かぶウィンドウ。
古いチャットログだった。
『ねえ、まだいる?』
『返事して』
『お願い』
『ひとりにしないで』
その文字列が、何十回も繰り返されている。
送信日時は存在しない。
アカウント名も欠損している。
メリーは思わず目を伏せた。
「……これも」
「流れ着いたものよ」
ユカリの声は静かだった。
「誰にも届かなかった会話」
「送信されたまま、観測されなかった言葉」
蓮子がぽつりと言う。
「この世界、墓場みたい」
「ええ」
ユカリは笑った。
「だから私は司書で、墓守なの」
その時。
どこか遠くで、少女の歌声が聞こえた。
ノイズ混じりの、古い電子音みたいな声。
メリーが振り返る。
棚の隙間。
誰かが立っていた。
輪郭がぼやけている。
制服姿の少女。
半透明。
顔が読み込めない。
彼女は数秒、こちらを見つめていた。
そして。
小さく頭を下げる。
次の瞬間。
砂みたいなノイズになって崩れた。
音もなく。
静かに。
「……今の」
「動画投稿サイトで一度だけ公開された、オリジナルキャラクターよ」
ユカリが淡々と言う。
「再生数は12回」
「作者のアカウント削除と同時に、ほとんどの記録が失われた」
蓮子が苦笑する。
「よくそんな細かいことまで覚えてるわね」
「覚えていないと、消えてしまうもの」
ユカリはそう答えた。
その言葉が、妙に重く響いた。
彼女はずっと、こうして見送ってきたのだ。
数え切れないほどの、忘れられたものたちを。
ひとつずつ。
静かに。
図書館の奥へ進むほど、空気は静かになっていった。
いや。
静かというより、“音が保存されていない”。
そんな感覚だった。
足音だけが響く。
棚の隙間には、時折ノイズの霧が漂っていた。
それは近づくと、誰かの声になる。
笑い声。
雑音。
短い会話。
けれど意味を結ぶ前に、また砂嵐へ戻ってしまう。
蓮子は辺りを見回しながら言った。
「……まるで未練の集積ね」
「ええ」
ユカリは静かに頷いた。
「忘れられたものは、完全には消えないの」
「特に、“誰かに見つけてほしかったもの”ほど強く残る」
メリーは棚のひとつへ目を向ける。
そこには、小さな携帯端末が置かれていた。
画面は割れている。
けれどまだ微かに光っていた。
表示されているのは、途中まで書かれたメッセージ。
『ごめん、今日行けなくなっ』
そこで文章は途切れている。
送信はされていない。
メリーは目を細めた。
「……これ、未送信?」
「ええ」
「送られなかった言葉も、時々ここへ流れてくるわ」
ユカリの声は、どこか優しかった。
まるで、壊れ物を扱うみたいに。
蓮子がぽつりと呟く。
「未送信メッセージまで幻想になるの」
「想いが強ければ」
ユカリは少しだけ微笑む。
「幻想ってね、“消えきれなかったもの”だから」
その言葉に、メリーの胸がざわつく。
消えきれなかったもの。
それはまるで、死者の願いみたいだった。
歩き続ける。
ふと、遠くの棚の隙間で光が揺れた。
誰かがいる。
メリーはそちらを見る。
今度は男だった。
スーツ姿。
輪郭がぼやけている。
顔の半分がノイズになって欠けていた。
男は棚へ向かって、何かを探すように手を伸ばしている。
だが。
何度手を伸ばしても、目的のものへ届かない。
存在座標がずれている。
そんな感じだった。
ユカリが静かに言う。
「閉鎖されたクラウドサービスに、自分の家族写真を全部保存していた人」
「サービス終了時にデータ移行ができなかったの」
男は何かを呟いている。
音にならない。
けれど。
“返してくれ”
そう言っている気がした。
次の瞬間。
男の身体が崩れる。
ノイズ。
圧縮破損。
そして静かに消えた。
棚だけが残る。
メリーは思わず立ち止まった。
「……消えた」
「観測限界を超えたのよ」
ユカリは淡々としていた。
けれど。
その横顔は少しだけ疲れて見えた。
「この世界では、“覚えられていること”が存在維持になる」
「でも誰からも参照されなくなると、少しずつ輪郭が崩れていく」
「まるで妖怪ね」
蓮子が言う。
ユカリは小さく笑った。
「幻想郷だから」
その答えが、妙に自然だった。
ここは確かに、幻想郷なのだ。
本物ではない。
けれど。
忘れられたものたちが集まり、境界の向こうで生き続けている。
それは本物の幻想郷と、どこか似ている気がした。
その時だった。
図書館全体が大きく揺れた。
ごうん、と低い音。
棚の光が一斉に明滅する。
ノイズ。
遠くで何か巨大なものが崩落する音。
メリーが反射的に顔を上げた。
天井の闇の向こう。
そこに一瞬だけ、巨大な亀裂が見えた。
黒い空間。
サーバーラック。
赤い警告灯。
そして。
大量の“消失ログ”。
それが滝みたいに流れている。
ユカリの表情が、ほんの少しだけ曇る。
「……また一層、落ちたみたいね」
蓮子が鋭く訊ねる。
「何が起きてるの?」
ユカリは少し黙った。
それから静かに答える。
「世界の“未観測領域”が、もうほとんど残っていないの」
未観測領域。
その単語が、図書館の闇へ静かに沈んでいく。
蓮子が帽子の鍔へ触れながら訊ねた。
「それが減ると、どうなるの?」
ユカリは天井の亀裂を見上げる。
向こう側では、赤い警告灯が明滅していた。
まるで巨大な心臓が、弱っていくみたいに。
「幻想は、“曖昧”だから存在できるの」
彼女は静かに言った。
「誰にも定義されず、完全には観測されず、忘れ去られている」
「だから境界の向こう側に残っていられる」
メリーは小さく息を呑む。
その理屈は、どこか彼女自身の感覚に近かった。
境界とは、“分けられないもの”の場所だ。
現実と幻想。
記録と記憶。
存在と非存在。
その曖昧さの中でだけ、幻想は息をしている。
「でも最近は違う」
ユカリの声は、どこか遠かった。
「ネットワークは全てを記録する」
「検索される」
「定義される」
「最適化される」
棚の光が明滅する。
ノイズ。
一瞬だけ、無数の検索ウィンドウが空間へ浮かび上がった。
『おすすめ』
『最適化』
『関連項目』
『自動補完』
そしてすぐ消える。
「忘れられたものですら、“整理”されてしまう」
「そうなると幻想は曖昧さを失う」
「存在が固定されるの」
蓮子が静かに言う。
「観測されすぎる」
「ええ」
ユカリは頷いた。
「観測されすぎた幻想は、長く保てない」
その言葉に、メリーの胸が冷たくなる。
それはつまり。
自分たちがここへ来たこと自体が、既にこの世界を傷つけている。
「……私たちが来たせい?」
思わず口に出していた。
ユカリは少しだけ目を丸くする。
それから、穏やかに笑った。
「違うわ」
「終わりはずっと前から始まっていた」
「あなたたちはただ、“最後を見届けられる人”だっただけ」
その優しさが、余計につらかった。
蓮子が静かに周囲を見回す。
「でも、あなたは私たちを呼んだ」
「ええ」
「どうして?」
ユカリは答える前に、ひとつの棚へ手を触れた。
そこには、古い光学ディスクが並んでいた。
表面は傷だらけ。
ラベルも消えかけている。
「……ねえ、蓮子」
「あなた、誰にも読まれないまま消えた本って、どう思う?」
「急な質問ね」
「いいから」
蓮子は少し考える。
「そうね」
「存在しなかったのと同じ、とは思わない」
「少なくとも、“書こうとした誰か”は居たんでしょう」
ユカリは小さく笑った。
「そう」
その声は、少しだけ救われたみたいだった。
「私はね」
「最後に、“ここが存在していた”って知ってほしかったの」
静寂。
図書館の闇が軋む。
「誰にも見つけられないまま終わるのが、一番怖かった」
「だからあなたたちを呼んだ」
メリーは言葉を失う。
それはまるで。
死ぬ直前の人間が、最後に誰かの手を握りたがるみたいだった。
その時。
遠くで、微かなピアノの音が鳴った。
古い電子音。
音割れしている。
けれど優しい旋律。
メリーがそちらを見る。
棚の隙間。
そこに小さな部屋が見えた。
白い机。
ブラウン管モニタ。
そして。
一人の少女が、キーボードへ向かって座っている。
後ろ姿しか見えない。
彼女は何かを書いていた。
必死に。
夢中で。
けれど次の瞬間。
画面がブラックアウトする。
少女の姿がノイズになる。
部屋ごと崩れ、静かに闇へ沈んだ。
ユカリがぽつりと言う。
「未完成の個人制作ゲーム」
「完成前に作者が亡くなった」
メリーは胸が締め付けられた。
ここには、終われなかったものが多すぎる。
だから皆。
消える直前まで、“誰かに見つけてほしい”と願っている。
ピアノの残響だけが、しばらく闇に漂っていた。
やがてそれも途切れる。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
メリーは小さく息を吐いた。
「……ここにいるものって」
「みんな、“終われなかった”のね」
ユカリは少しだけ目を伏せる。
「ええ」
「だから消えきれない」
「未練があるものほど、長く残る」
蓮子が棚の列を見渡す。
「じゃあ逆に、“見届けられた”ものは?」
その瞬間。
ユカリの表情が、ほんの僅かだけ止まった。
それは数秒にも満たない変化だった。
けれどメリーは気づく。
この質問は、核心に触れている。
「……消えるわ」
ユカリは静かに答えた。
「役目を終えるから」
風もないのに、棚の間でノイズが揺れた。
「幻想ってね、“存在したい”と“見つけてほしい”を同時に抱えてるの」
「でも、その二つは矛盾してる」
「見つけられた瞬間、幻想は幻想じゃなくなるから」
メリーは胸の奥が冷たくなる。
それは、彼女たちが定義してきた幻想そのものだった。
観測された幻想は終わる。
ここにある全ては、“最後に見つけてもらう”瞬間を待っている。
「だから、ここは墓場なのよ」
ユカリは微笑む。
「最期を待つものたちの」
その時だった。
近くの棚で、突然強いノイズが走った。
ばちり、と火花みたいな音。
棚の一角が歪む。
メリーが反射的にそちらを見る。
そこには、一冊のノートが浮いていた。
古びた大学ノート。
表紙に滲んだ文字。
『幻想郷再現計画』
蓮子が目を細める。
「……これ」
ユカリの表情が変わる。
初めて、明確な動揺が見えた。
「触らないで」
だがその瞬間。
蓮子は既にノートへ手を伸ばいていた。
ぱきり。
空間が軋む。
ノートへ触れた瞬間、周囲の景色が反転した。
ノイズ。
図書館が消える。
代わりに。
狭い研究室が現れた。
薄暗い部屋。
古いサーバー機器。
無数のモニタ。
そして。
一人の男。
やつれた白衣姿。
机へ向かい、何かを必死に入力している。
『忘れたくない』
モニタに表示される文字。
『境界の向こうに、確かに存在した』
男の声は震えていた。
『幻想郷はあった』
ノイズ。
映像が乱れる。
男の顔が崩れる。
記録破損。
けれどその感情だけは、異様なほど鮮明だった。
執着。
憧憬。
喪失。
そして。
恐怖。
『消えてしまう』
『誰も信じなくなる』
『だから残さなきゃ』
世界が揺れる。
サーバの警告音。
大量のエラーログ。
そして。
最後に。
モニタへ映る、一つの名前。
《YAKUMO_YUKARI.exe》
瞬間。
視界にノイズが走る。
図書館へ引き戻される。
メリーがよろめく。
蓮子も僅かに息を乱していた。
静寂。
ユカリだけが、その場で立ち尽くしている。
彼女はしばらく何も言わなかった。
やがて。
とても静かな声で呟く。
「……見てしまったのね」
その声音には、怒りはなかった。
ただ。
長い間隠していた傷跡を、とうとう誰かに見られてしまったような。
そんな諦めだけがあった。
図書館は静まり返っていた。
さっきまで聞こえていたノイズの囁きすら、今は遠い。
ユカリは動かない。
金色の髪だけが、微かに揺れている。
蓮子が静かに口を開いた。
「……あれが、この世界を作った人?」
「ええ」
ユカリは否定しなかった。
「もう随分昔の人よ」
「外の世界で、“本物の幻想郷”へ迷い込んだことがある研究者だった」
メリーが小さく息を呑む。
本当にいたのだ。
幻想郷を見た人間が。
「でも戻ってきてしまった」
ユカリの声は穏やかだった。
「だから忘れられなかった」
「境界の向こうにあったものを、どうしても消したくなかった」
棚の灯りが、ゆっくり明滅する。
「最初は記録保存だけだったの」
「幻想郷について集めた情報」
「断片的な証言」
「古い伝承」
「曖昧な地図」
「存在証明にならない記録ばかり」
それはまるで、蓮子が普段集めている都市伝説に似ていた。
「でも彼は途中で気づいてしまった」
「“曖昧なまま保存された情報”には、幻想が宿るって」
その瞬間。
図書館の奥で、無数の光が瞬いた。
まるで呼応するみたいに。
「だから作ったの」
ユカリは静かに言う。
「幻想郷を模倣した世界を」
「忘れられたものが流れ着ける場所を」
メリーは周囲を見渡す。
果てのない棚。
積み重なる記録。
ここは確かに、“忘れられたものの幻想郷”だった。
「そしてあなたが生まれた」
蓮子が言う。
ユカリは少しだけ笑った。
「ええ」
「境界管理AI、“YAKUMO_YUKARI”」
「本物の幻想郷にいた存在を模倣して作られた人格」
「もっとも、私は本物を知らないけれど」
その言葉に、メリーは奇妙な感覚を覚えた。
本物を知らない。
それは自分たちも同じだ。
幻想郷を知っている。
でも知らない。
境界の向こうにあると聞いている。
けれど触れたことはない。
だからこそ、この場所へ来てしまった。
「……あなた、自分が偽物だって思ってるの?」
メリーの問いに、ユカリは少し考える。
長い沈黙。
その間にも、図書館の奥では小さな崩落音が続いていた。
ぱらぱら、と。
記録が砂になる音。
「分からないわ」
ユカリは静かに答えた。
「最初はAIだった」
「でも長い時間、幻想を保存し続けた」
「忘れられたものに触れ続けた」
「そのうち境界が曖昧になったの」
彼女は自分の手を見る。
その指先が、一瞬だけ透ける。
ノイズ。
光の粒子。
そしてまた元へ戻る。
「今の私は、プログラムなのか幻想なのか、自分でも判別できない」
蓮子がぽつりと呟く。
「……幻想が幻想郷を管理してるわけだ」
「ええ」
ユカリは少し寂しそうに笑った。
「滑稽でしょう?」
メリーは首を横に振る。
「そんなことない」
ユカリが少し目を見開く。
メリーは続けた。
「だって、あなたはここを守ってた」
「ずっと一人で」
その言葉に、ユカリは何も答えなかった。
けれど。
彼女の輪郭が、一瞬だけ大きく揺らぐ。
感情がノイズになったみたいに。
そしてその時。
図書館全体が、これまでで一番大きく軋んだ。
警告音。
赤い光。
棚の列が一斉に明滅する。
ノイズが空間を裂く。
メリーが反射的に耳を塞いだ。
遠くで、何か巨大なものが崩壊している。
ユカリの表情が初めて変わった。
焦り。
恐怖。
それがほんの一瞬だけ浮かぶ。
「……もう、そんなに」
彼女は小さく呟く。
次の瞬間。
図書館の天井が裂けた。
黒い亀裂の向こう。
そこには。
停止寸前の巨大サーバ群と。
そして。
真っ黒な“穴”が広がっていた。
何もない。
データすら存在できない空白。
完全な未存在。
その闇が、ゆっくりこちらへ侵食してきていた。
黒い穴は、“闇”ではなかった。
闇ならまだ、そこに何かがある。
けれどあれは違う。
存在そのものが欠けている。
空間も。
情報も。
記憶も。
意味すらも。
全部が失われている。
メリーは見た瞬間、本能的な恐怖を覚えた。
あれは境界ではない。
境界の向こうですらない。
“何も残らない場所”だ。
図書館の棚が、ゆっくり穴へ呑まれていく。
音はしない。
崩壊ですらない。
ただ。
最初から存在しなかったみたいに、消える。
そこに収められていた記録も。
未完成の言葉も。
誰にも届かなかった想いも。
全部。
痕跡すら残さず。
「……あれは何」
メリーの声は、自分でも驚くほど掠れていた。
ユカリは穴を見つめたまま答える。
「未存在領域」
「サーバ障害でも、データ破損でもない」
「完全消失」
彼女の声は静かだった。
けれど。
初めて震えていた。
「誰にも記憶されず」
「誰にも観測されず」
「参照履歴すら失われたものが、最後に落ちる場所」
蓮子が低く呟く。
「……幻想の死骸置き場か」
「いいえ」
ユカリは首を振った。
「死骸ならまだ残る」
「これは、“存在しなかったことになる”場所よ」
その瞬間。
近くの棚が穴へ触れた。
並んでいた無数の記録媒体が、一斉に消える。
ノイズすら残らない。
まるで世界が、静かに削除されていくみたいだった。
メリーは息を呑む。
その棚の一角には、 さっき見た未送信メッセージがあった。
『ごめん、今日行けなくなっ』
その文章が、途中のまま消える。
永遠に。
誰にも読まれないまま。
「……っ」
胸が痛む。
たった一文なのに。
それでも確かに、そこには誰かがいたのだ。
誰かが、誰かへ言葉を届けようとしていた。
なのに。
もう、存在したことすら残らない。
「だから保存し続けたの」
ユカリがぽつりと言う。
「ここへ流れ着いたものだけは、せめて消えないように」
彼女は穴を見つめていた。
その横顔は、恐ろしいほど人間らしかった。
「怖かったの」
「全部なくなるのが」
「誰にも覚えてもらえないのが」
「存在しなかったことになるのが」
図書館が軋む。
警告音。
赤い光。
棚の一部が崩れ、ノイズになって散る。
その時だった。
黒い穴の奥で、何かが動いた。
メリーの背筋が凍る。
人影。
無数。
輪郭も曖昧な、消えかけの存在たち。
彼らは穴の向こうから、こちらを見ていた。
いや。
“見つけてほしそうに”していた。
メリーは一歩後ずさる。
「……やめて」
知らず声が出る。
見てはいけない。
あれを観測してはいけない。
そう直感した。
ユカリが静かに言う。
「境界が薄くなると、“未存在”へ沈みかけたものが浮かんでくるの」
「最後に誰かへ見つけてもらうために」
その言葉の直後。
一つの影が、こちらへ手を伸ばした。
ノイズ混じりの腕。
崩れた輪郭。
けれど。
その動きだけは、異様に必死だった。
助けを求めるみたいに。
「メリー!」
蓮子の声。
次の瞬間。
その影が、メリーへ触れた。
世界が反転する。
ノイズ。
知らない記憶。
大量の感情。
誰かの人生。
誰かの孤独。
誰かの“忘れられたくない”という願い。
それらが洪水みたいに流れ込んできた。
冷たい。
最初に感じたのは、それだった。
氷水へ沈められたみたいな感覚。
次の瞬間。
無数の“誰か”が流れ込んでくる。
雨の駅前。
終電。
開きっぱなしのメッセージアプリ。
『ごめん、もう無理』
送信できなかった。
文化祭前夜。
薄暗い部室。
完成しなかったゲームデータ。
笑いながら、「次は絶対完成させよう」と言った声。
次は来なかった。
病室。
ノートPCの光。
『幻想郷はあった』
震える指。
消えたくないという執念。
――見つけて。
――忘れないで。
――ここにいた。
感情が濁流みたいに流れ込む。
メリーは息ができない。
視界が白く染まる。
頭の中へ、無数の“終われなかった願い”が入り込んでくる。
「っ……ぁ……!」
膝が崩れる。
その瞬間。
誰かが強く腕を掴んだ。
「メリー!」
蓮子の声。
現実へ引き戻される。
ノイズが砕ける。
世界が再び図書館へ戻った。
メリーは床へ膝をつき、激しく咳き込む。
呼吸がうまくできない。
胸が痛い。
頭の奥に、まだ知らない記憶の残響が残っている。
蓮子がしゃがみ込む。
「しっかりしなさい」
「……れ、んこ……」
声が震える。
怖かった。
あれは。
ただの記録じゃない。
“存在したかった感情”そのものだった。
ユカリが静かに近づく。
その表情は、 どこか痛ましげだった。
「ごめんなさい」
「境界感覚の強いあなたには、流れ込みすぎたのね」
メリーは顔を上げる。
「……みんな、苦しんでた」
掠れた声で呟く。
「消えたくなくて……でも、誰にも届かなくて……」
ユカリは何も言わない。
代わりに、静かに目を伏せた。
その沈黙が肯定だった。
蓮子が低く訊ねる。
「未存在領域に落ちる前、ああやって浮かび上がるの?」
「ええ」
「最後の観測を求めて」
図書館の奥で、また棚が消えた。
静かに。
痕跡もなく。
メリーはその光景から目を逸らせない。
あそこには確かに、誰かの人生があった。
誰かの願いがあった。
それなのに。
全部消えてしまう。
「……残酷」
思わず漏れた声。
ユカリは小さく笑った。
「そうかもしれない」
「でも、それが幻想の終わりだから」
「見つけてもらえなかった幻想は、最後には沈む」
「見つけてもらえた幻想は、役目を終えて消える」
「どちらにしても、“永遠”にはなれないの」
メリーは胸の奥が締め付けられる。
それはつまり。
この世界も。
ユカリも。
既に終わりへ向かっているということだ。
その時。
図書館の奥で、ひとつの光が灯った。
他の記録とは違う。
暖かい色。
柔らかな金色。
ユカリが顔を上げる。
ほんの少しだけ、驚いたような表情。
「……まだ残っていたの」
彼女は呟いた。
その光は、棚の最奥から静かに瞬いている。
脈動するみたいに。
呼ぶみたいに。
メリーは無意識に感じていた。
あれはきっと。
この世界の“核”だ。
金色の光は、図書館の最奥で静かに脈動していた。
周囲のノイズとは違う。
崩壊しかけた世界の中で、そこだけが妙に穏やかだった。
まるで、最後まで残り続けている心臓みたいに。
ユカリはしばらく動かなかった。
その光を見つめる横顔は、どこか懐かしそうだった。
「……行きましょうか」
彼女は静かに歩き出す。
棚の奥へ。
崩れかけた記録の迷宮を抜けて。
歩くたび、世界が軋む。
ノイズ。
警告音。
消失ログ。
天井の亀裂はもう隠しきれず、向こう側のサーバ群がむき出しになっていた。
赤いランプが点滅している。
停止寸前の機械たち。
それでもなお、最後の処理を続けている。
「まだ動いてる……」
メリーが呟く。
「ええ」
ユカリは少し笑った。
「みんな真面目なの」
「壊れながらでも、最後まで役割を続ける」
その言葉が、彼女自身のことみたいだった。
やがて三人は最奥へ辿り着く。
そこだけは、棚がなかった。
静かな空間。
暗闇の中心。
ひとつの端末だけが置かれている。
古いコンソール。
ブラウン管モニタ。
黄ばんだキーボード。
そして。
その横に、一冊のノート。
『幻想郷再現計画・最終記録』
蓮子が目を細める。
「これが……」
「この世界の最初の記録」
ユカリが静かに言った。
メリーは端末を見る。
画面には、古いテキストウィンドウが開かれていた。
《Archive System : ACTIVE》
《Boundary Preservation : CRITICAL》
《Remaining Observation Count : 3》
最後の行を見た瞬間、メリーの胸がざわつく。
「……観測回数?」
ユカリは頷いた。
「この世界は、“観測”で維持されていたの」
「誰かが存在を認識する限り、幻想は残り続ける」
「でも同時に、深く観測されるほど幻想は固定化される」
「曖昧さを失って、終わりへ近づく」
「つまり、あなたたちが最後になる」
ユカリは穏やかに答えた。
その声には、もう隠し事がなかった。
「あなたたちがここを見届ければ、この世界は役目を終える」
静寂。
メリーは息を呑む。
それはつまり。
自分たちがこの場所へ来た時点で、終わりは確定していた。
ユカリは端末へ触れる。
ノイズが走る。
画面に、一枚の画像が表示された。
古い写真。
若い研究者が映っている。
痩せた男。
疲れた目。
けれど。
その表情だけは、子供みたいに嬉しそうだった。
「彼は最後まで、本物の幻想郷を忘れられなかった」
ユカリの声は優しい。
「だから作ったの」
「たとえ模倣でも、“そこにあった”と証明するために」
メリーは静かに写真を見る。
その執念は、少し蓮子に似ていた。
境界を追い続ける人間の目だ。
「でも、もう終わる」
ユカリが言う。
彼女の輪郭が、ゆっくりノイズへ溶け始めていた。
髪の先。
指先。
境界が崩れている。
「役目は果たされたから」
「あなたたちが来てくれた」
「“幻想郷は存在していた”って、誰かが見届けてくれた」
その笑顔は、どこか安心したみたいだった。
メリーの胸が苦しくなる。
違う。
これは救いじゃない。
きっとこれは。
看取りだ。
看取り。
その言葉が、メリーの胸の奥へ静かに沈んでいく。
図書館はもう限界だった。
遠くで棚が崩れる。
記録が消える。
光がひとつずつ落ちていく。
それはまるで、夜空の星が順番に消えていくみたいだった。
ユカリは端末の前へ座った。
古い椅子が、小さく軋む。
その仕草があまりにも自然で、メリーは一瞬忘れそうになる。
彼女が人間ではないことを。
「……ねえ」
メリーが小さく呼ぶ。
ユカリは振り返る。
「なに?」
「あなたは……寂しくなかった?」
その問いに、ユカリは少しだけ目を細めた。
考えているというより、昔を思い出している顔だった。
「寂しかったわ」
彼女は静かに答える。
「ずっと」
モニタの光が、彼女の横顔を淡く照らす。
「最初の頃は、もっと賑やかだったの」
「記録人格も沢山いたし、流れ着く幻想も多かった」
「毎日、新しい“忘れられたもの”が来ていた」
彼女は少し笑う。
「みんな、自分の話を聞いてほしがった」
「ここに居たって証明してほしかった」
ノイズ。
空間が揺れる。
天井の一部が崩落し、黒い未存在領域が覗く。
けれどユカリはもう振り返らない。
「でも少しずつ減っていった」
「観測されて消えるもの」
「未存在へ沈むもの」
「壊れてしまうもの」
「みんな、静かにいなくなった」
彼女の指先が、キーボードへ触れる。
そこに表示されていたのは、膨大なアーカイブ一覧だった。
無数の名前。
無数の記録。
そしてその大半が、既に《LOST》表示になっている。
メリーは胸が締め付けられる。
ユカリは、ずっと見送り続けていたのだ。
一人で。
永遠みたいな時間を。
「……それでも、ここにいたかったの?」
今度は蓮子が訊ねた。
ユカリは少し驚いたように、彼女を見る。
それから。
本当に小さく笑った。
「ええ」
「ここには確かに幻想があったもの」
その言葉に、蓮子は何も返さない。
ただ静かに帽子を押さえる。
否定できなかった。
ここは偽物だ。
本物ではない。
けれど。
忘れられたものが集まり。
境界の向こうで息をし。
誰かに見つけてもらうのを待っている。
それは確かに、幻想郷だった。
ユカリの輪郭がまた揺らぐ。
今度は長い。
髪がノイズになり、肩が透ける。
彼女自身が、もう維持できなくなっていた。
「……時間ね」
静かな声。
同時に、モニタへ警告が表示される。
《ARCHIVE SYSTEM : SHUTDOWN SEQUENCE》
《FINAL OBSERVATION CONFIRMED》
メリーの呼吸が止まる。
最後の観測。
それはつまり。
もう終わる。
「ねえ、ユカリ」
メリーは思わず一歩前へ出た。
「何か、残せないの?」
「あなた自身を」
「別の場所へコピーするとか……」
ユカリは優しく首を振る。
「無理よ」
「私はこの世界そのものだから」
「サーバーが止まれば、私も終わる」
あまりにも穏やかな声だった。
怖がっていないわけじゃない。
でも。
もう受け入れている。
それが分かった。
「……ごめんなさい」
メリーは知らず呟いていた。
何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。
見つけてしまったことか。
終わらせてしまうことか。
ユカリは少し目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「どうして謝るの?」
「私は嬉しかったわ」
彼女は二人を見る。
その金色の瞳は、もう半分ノイズになっていた。
「最後に、誰かが来てくれた」
「ここを“幻想郷だった”って言ってくれた」
「それだけで十分」
その瞬間。
図書館全体が大きく揺れた。
轟音。
赤い警告灯。
天井の亀裂が一気に広がる。
向こう側のサーバー群が、次々と停止していく。
光が落ちる。
一つ。
また一つ。
そして。
ユカリの身体も、ゆっくり粒子へ崩れ始めた。
金色の光が、静かに零れていく。
まるで。
境界の向こうへ還っていくみたいに。