上白沢慧音がその渦巻く陰謀と遭遇したのは、秋も濃くなりゆく博麗神社でのことだった。
「待ちなさい! 貴方……人間じゃないわね?」
石段を登り切った先、居眠りをこいている狛犬の間を通り抜けると、果たして参道のど真ん中に彼女はいた。
慧音は一瞬どきりとしたが、そういえばこの場所においては人間ぽい見た目でありながらそうでない連中のほうが大多数であることを思い出し、すぐに平静に戻った。
ゆるくウェーブした金髪が、高い空の青の中で稲穂のようにそよいでいる。
たくさんのフリルが着いた薄い色のワンピースを腰で絞った装いは、何故だか海産物を想起させた。
こいつも明らかに、人間ではない。
「……そういう貴方はどうなんです?」
慧音は問い返した。なんだかそれが礼儀のような気がした。
「私は渡里ニナ、目覚めた蜃。とはいっても、ただ蜃気楼を見せるばかりのそんじょそこらの貝とは違うわ。言ってみれば、シン・蜃なのよ」
「はぁ」
「そして、私の目はごまかせない。貴方は人間のふりをして社会に紛れ込んでいる偽物!」
「何故、そうだと思ったのです?」
「その荷物を見れば一目瞭然だわ」
慧音は携えた紙袋を見た。
何の変哲もないりんごである。元教え子に果樹園農家がおり箱いっぱいのお裾分けが来るのだ。
それを霊夢に分けてやると大層喜ばれるものだから、毎年こうして持ってきている。
「霊夢に差し入れ持ってくるやつは、霧雨魔理沙以外は人外と、あとは半分人間ばかりなのよ。東風谷早苗は半分神様だし、魂魄妖夢は半分幽霊だし、十六夜咲夜は半分メイドだわ」
「いや、最後は全部メイドでは?」
「だから、貴方も半分人間じゃないに決まってる!」
びしり、と指をさしながら、ニナは会心の決め顔をした。
「それに貴方、いま鳥居をくぐってやってきた。つまり人間の里から来たってこと。半分人間じゃないのに、どうして人間の里から歩いてくるのかしら。それは貴方が、人間のふりをして社会で暮らしているからよ!」
慧音は長台詞を無視して、賽銭箱の前に紙袋を置いた。
「霊夢ー。いないの?」
「霊夢ならいないわよ。だから私が留守番してるの。残念だったわね。ここが貴方の年貢の納め時ってわけ」
ニナはひたりと背後に寄り、なぜか勝ち誇った声で言った。
「ふっふっふ、暴いてやる、貴方の正体」
「……暴くって、どうやって?」
「そりゃあもちろん、被ってる皮を取っ払うの」
蜃の指が遠慮なく首筋を撫でたので、慧音もさすがに驚いて跳び退いた。
「い、いきなり何?」
「あらその反応、やはりその頭は被り物ってわけね」
「急に触られたからに決まってるでしょう」
「それっぽいこと言っちゃって。本当の貴方は、ゴツゴツした鱗だらけの皮膚をして、感覚どころか痛みすらほとんど感じないくせに」
「……私のこと、何だと思ってるんだ?」
「人間のふりをして社会に紛れ込んでいる怪物といったら決まってるでしょう――レプティリアンよ!」
「れ、れぷ……何?」
舌を噛みそうな単語だ。横文字にも強いと自負している慧音だが、聞き覚えが無い。
「しらばっくれているの? それとも人間社会に溶け込みすぎて、自分の正体すら忘れてしまったとでも言うのかしら」
得意げに指を立てながら、ニナは語り始めた。
レプティリアンとは、二足歩行のトカゲ人間のことである。彼らは人間社会を乗っ取るために、ゴムでできたマスクを被って政治家や有名人に成りすましているのだ。
「貴方もそうやって、世界征服を企んでいるんでしょう」
慧音は押し黙った。
蜃という妖怪については詳しくないが、少なくともこんなおかしな妄想をまき散らす種族ではなかったはずだ。
しかもその内容は、幻想郷で見たことも聞いたことも無い、おそらくは西洋の怪物である。
(『目覚めた』タイプか……)
その結論に至るまで、時間はかからなかった。
人間の里にも、このような者は意外といる。大きく見開いた眼をらんらんと輝かせ、「自分だけが知る本当の真実」をとうとうと語り続ける人間だ。
当然、その妄言を周囲はまともに取り合おうとはしない。すると彼らはこう言うのだ。
――理解できない他の連中は馬鹿だ。
――真実を知る私こそが高等なのだ。
こうなってしまうと、もう他人の意見など聞き入れはしない。
自分の妄想が彼らの中では真実となってしまい、他人すべてが愚かな嘘つきにしか見えなくなる。
(妖怪がこうなるケースは初めて見たが、さて)
慧音が答えあぐねているのは、他でもない。
ニナの言うことが、それほど間違っていないからである。
「あー楽しみ。私トカゲ人間って見たことないのよね。早くそのゴムマスクを取って、不気味な顔を見せてちょうだい」
「まぁ待て。私はそのレトロスペクティブ京都とかいう怪物ではない」
「レプティリアンね」
「これは正真正銘、私の素顔だよ。そら、マスク人間がこんなことできるか?」
そういいながら、渾身の変顔21連発を披露する。
何を隠そう上白沢慧音は、「生きた福笑い」の異名を持つ達人である。にらめっこでは古今無双の強さを誇り、一部コミュニティからは殿堂入りという名の出禁を食らうほどだ。
「あはははは、何それ、おっかしい」
「まだまだ行くぞ。次はヒョウタンツギのマネ」
「ひーっ! もうやめてぇ」
ニナは幼児のようにけらけらと笑い、ついには仰向けにひっくり返ってしまった。
年経た貫禄のある妖怪ならばこうはなるまい。
もしかしたらこの蜃は、生まれて間も無い若い妖怪なのかもしれない。それならば、霊夢が神社に置いている事情も理解できる。
「――ふぅ。これで分かっただろう。私はレイディアントトレジャーガンとかいう怪物じゃあないって」
「はぁ、はぁ。……だから、レプティリアンだってば」
何とか呼吸を落ち着けて、ニナはゆっくりと立ち上がる。
「とりあえず、貴方が被り物をしていないということは分かったわ。だけど、そもそも考えてみたら、ここは幻想郷なんだから、魔法も仙術も何でもありじゃない。人間に変身したり化けたりしているってこともあり得る。化け狸の親分みたいにね」
「む……」
「人間の里には人間のふりをした妖怪たちが入り浸っているのよ。公然の秘密ってやつよね? そして貴方もそのひとりというわけ」
得意げに胸を張るニナの様子は、やはり幼子のようでどこか微笑ましさを感じる。
さて。
慧音は本格的に困り果ててしまった。
ニナがより真相に近づいたためである。
慧音は寺子屋で人里の子供たちの教育を引き受けている。読み書きそろばんはもちろんのこと、彼女がもっとも力を入れているのは、幻想郷に生きる人間が持つべき心構えと歴史の知識だ。
たとえば、人間は妖怪を恐れなければならない。それが消え失せた世界はもはや外の世界と同じだからだ。神々への信仰についても同様である。そこには疑いがあってはならないし、その領域は侵そうと考えることすら許されない。
と、そのように人間たちを教育する慧音は、純粋な人間ではないのである。後天的とはいえ、半分妖怪なのだ。
つまり、「人間ではない者が都合の良いように人々を動かそうとしている」という言説は、ある面では事実なわけだ。
簡単に陰謀論と斬って捨ててしまっては、逆に不都合となるかもしれない。
もちろん、慧音は自分の仕事が人間と妖怪の双方のためになると信じて、それに足る根拠とともにやっているのだが。
(それを説明したところで、理解してもらえるとは思えないし。しかし嘘だと言い切るのもうまくなさそうね。さて、どうしたものかしら)
「――で、どう? 図星? 図星でしょ?」
ニナは腰に手を当て胸を張ったポーズのまま、そんな慧音をちらちらと見ている。
「魔理沙の言ったとおりだわ。自分で見聞きして体験したものだけが事実なのね。今回はちゃんと私の見た情報から推理したから、真相を突き止めることができた」
「……ほう、魔理沙から何を教わったのか、興味があるな」
慧音の問いに、少女はぺかっと顔じゅうで笑いながら、いろいろと話してくれた。
渡里ニナは偽の真実渦巻く地下ピラミッドで妖怪として目覚めた、貝の化石なのだという。
当初はそれらの情報をすべて真実だと思い込んでいたが、退治にやってきた霊夢と魔理沙に諭され、地上へとやってきた。
「生まれたばかりのころの私にとって、偽の情報が知ることのできる全てだった。真実と虚構の区別なんて付けられなかった。だから、それまで信じてきたものの全てが嘘だったと知ったときに、私はいったい何が本当なのか分からなくなってしまったの。そうしたら、魔理沙がね」
『――簡単だぜ。お前が実際に見て聞いたものが事実だ』
なるほど、それは端的で正確だ。おまけに彼女の言いそうなことだ。
慧音は普通の魔法使いにあらためて感心した。里の人間たちの大半より、彼女は物分かりが良く頭も回る。
霧雨の家へ戻ってきてくれたなら、と一瞬だけ考えてしまった。
「だから私は、こうして幻想郷のいろいろなものをこの目で見て、この耳で聞いているところなのよ」
「なるほど、よく分かりました」
慧音はぽんとひとつ手を打った。
「確かに、生まれたばかりの貴方には学ぶべきことが多くあるでしょう。加えて、蜃は幻影を見せ相手を弄する妖怪。しかし幻影は、真実のように見えなければ説得力は薄い。事実と虚像の違いを、貴方こそ学ばなければならない」
「……で、結局貴方は人間なの? そうじゃないの?」
「人間ですよ。半分だけね」
「ふっふーん、やっぱりね! 私の目に狂いは無かったわ」
ニナの喜びようは鬼の首を取ったようだった。
しかしそこに、慧音を糾弾しようという意図は無い。彼女は純粋に、自分の推測が当たったことを褒めてほしがっているのだ。
寺子屋に入ったばかりの五つか六つくらいの子供が、先生に褒められたと親に自慢する様子によく似ていた。
「じゃあ教えなさい! 貴方は人里に紛れ込んで、いったい何を企んでいるというの?」
「えぇ、教えましょう。でもその前に」
慧音は空を見上げる。秋空の中、紅白の鮮やかなその人影は、速度を感じさせずにだんだんと大きくなってくる。
「まずは貴方のお留守番の成果を、依頼主に報告するべきでしょう」
§
境内に舞い降りた霊夢は、慧音が持ってきたりんごを大喜びで受け取った。
紅白の巫女が赤いりんごを手に持って微笑む姿は、なんと言っても絵になる。
「ちょうどさつまいもがあるから、甘煮を作っちゃおうっと。慧音先生にも包みたいから、ちょっと待っててね」
「そんな、お構いなく」
いいからいいから、と巫女は台所へとすっ飛んでいった。
これほどまでに機嫌の良い霊夢はなかなかお目にかかれるものではない。
「その辺座っててー。……あ、ニナ! 先生に変なこと言うんじゃないわよ」
「大丈夫! レプティリアンじゃないって分かったから」
「……手遅れだったか」
「いや、いいよ霊夢。私も今しがた状況を理解したところだから。これも何かの縁だし、ニナに事実と虚像について少し教えてあげようと思ってね」
「あら、それはそれは」
ザクリ、ストン、と包丁が果実を刻む音。
「そうだわ。先生をおいて他にそれを教えられるひとなんていないじゃない。どうして気が付かなかったんだろう」
慧音とニナは縁側に腰かけた。鎮守の森のどこかで、コマドリがヒヨヨヨヨと鳴いた。
「さて、私は半分だけ人間だと言ったけれど、もう半分は何だと思う?」
「えぇと」
ニナは慧音を下から見上げてみたり、顔を近くからじっと見つめてみたりしたが、やがて音を上げた。
「分かんない。妖夢みたく分かりやすければよかったのに」
「まぁ、今はどこからどう見ても人間ですからね。けれど満月の夜にだけ、私は妖怪になるのです――ハクタクという、知識を司る妖怪に」
「知識、ということは、事実!」
ニナの瞳に、とたんに尊敬の光が灯った。
「つまり貴方は、幻想郷の事実を全部知ってるの?」
「そこまで万能ではありません。しかし、私は歴史を喰い、あるいは歴史を創る者。そのためには少しでも多くの事実を知らなければならない」
「凄い、凄いわ!」
居ても立ってもいられないと、少女は立ち上がる。
「それじゃあ、貴方からいっぱい事実を教えてもらえればいいんだわ! 歴史を創るだなんて、なんだかものすごい神様みたいな能力を持ってるんだもの」
その両肩に手を置き、ニナを今一度座らせた。
「それで済めば話は簡単だったんですけどね。残念ながらそういうわけにもいきません」
「え、どうして?」
きょとんとしたニナに、慧音はちゃぶ台の上からりんごをひとつ取り上げ、その目の前に差し出す。
「ひとつ、クイズを出しましょう。私が今日持ってきたこのりんご、いったいどうしてここにあるのでしょうか?」
「どうして、ってそりゃあ、貴方が持ってきたからじゃない」
「その通り。では、私はどうしてこんなにたくさんのりんごを持ってくることができたと思いますか? 私の家にはりんごの木なんて無いのに」
「そ、そんなの知らないわ」
「そう、もちろん貴方は知らない。けれど必ず、事実の裏にはその理由、その歴史があるのです」
ニナはりんごを手に取って、しげしげと眺めた。
「これは私の寺子屋の卒業生が育てたりんごです。毎年、その子が木箱いっぱいに送ってよこすのですよ。でも私はひとり暮らしだから、とても食べきれない。だからこうして、皆にお裾分けをしているというわけです」
「なるほど、それなら納得だわ」
「――と、いうのは真っ赤な嘘で、本当は私はりんご泥棒なのです。今日も八百屋さんからたんまり盗み出したので、霊夢にお目こぼしを貰おうと企んでこうしてワイロをね」
「えぇっ!?」
ニナの視線が、りんごと慧音の間を忙しなく動く。
「さぁ、いったい何が本当なのか、貴方はどうやって確かめますか? どちらかが本当です。というのは嘘で両方とも虚偽かもしれない。いやいやそれとも、どちらも実は本当だったりして」
「ま、待って待って。そんなの無理よ! だって私はどっちも見聞きしてないんだもの」
「その通り。だから教えるだけじゃあ不十分なの。だって私が教えたことのひとつひとつ、それぞれが本当に事実かどうか、貴方には分からないでしょう」
「私に嘘を吐くってこと?」
「嘘だと分かったうえで言うのならまだ良い。教える私が間違ったことを事実だと誤解してしまっていたら?」
「……うぅ、そんなの、もうどうしようもないよ」
りんごをちゃぶ台に戻して、ニナは肩を落とす。
「そう、たとえ教わったことであっても、それが事実かどうかを貴方は確かめ続けなければならない。そのためには、できるだけたくさんのものを見て、聞いて、体験することが大切なのです」
「そっか。私が生まれたばかりのとき、周りの情報を鵜呑みにしてしまったのは、事実かどうかを確かめることができなかったからなのね」
台所からは、鍋を煮る音がことことと響いてきている。
霊夢がきびきびとかまどの周りで働く姿が、振り向かなくても手に取るように分かる。
ニナはぼんやりと、青い空を見上げていた。
うろこ雲のずっと向こう、宇宙の果ての深淵に、何か摩訶不思議なものを見つけたような顔をしていた。
「でも、そしたら私は、世界の全部を見聞きしなきゃいけないことになっちゃうわ」
「それはまた、どうしてかしら?」
「だって、この先どんな情報が私に届くか分からないんだもの。それらが事実かどうか、全部確かめるためには、私は何もかもを知っていなけりゃならないはずじゃない」
頭の回転は良いようだ、と慧音は感心した。
それは情報の渦中で生まれた妖怪らしい心配と言えるかもしれない。
世界中から流れ込む有象無象の情報、という概念は、幻想郷に生きる人々には理解しづらいだろう。
だが大結界の外の科学世紀では、インターネットの普及により地球の裏側の事件であっても数秒で一報が飛び込んでくるという。
それは確かに、京と江戸のやり取りに十日間かかった時代よりは便利なのだろう。
だがその進歩には副作用があった。ひとつの情報が届く速度と範囲が改善されたことで、人々は何倍、何十倍もの情報に晒されることになったのである。
「私が考えるに、それに対処する方法は三つあります」
慧音の言葉に、ニナは視線を戻した。
「一つは貴方もすでにお分かりの通り、自分で真偽を確かめること。次に、情報の発信源と伝達者を吟味すること。貴方が信頼に足ると判断した媒体からの情報であれば、自分で真偽を確かめる手間を省けるでしょう。そして三つめは、そもそも判断しないで放っておくこと」
「えぇっ!」
お手本のような驚きの台詞とともに、ニナは仰け反った。
「それじゃあ困っちゃうんじゃない?」
「そうでしょうか。たとえば、有名な陰謀論に地球平面説がありますね。地球が宇宙に浮かぶ球体だということを信じない人々です。彼らは地球が平面である証拠を躍起になって探し続けているそうです。真実かどうかを自分で確かめる、その姿勢だけは評価できますが、そもそも……地球が球体でも平面でも、どっちだって良くないでしょうか?」
「うーん……どっちでも関係ない、のかな」
「ロケット技師や地球学者にとっては、この大地が平面か球体かは大きな問題です。しかし、私やニナさん、そして多くの人間たちにとってはそうではない。地球が球体であることが本当だろうと嘘だろうと、私たちは太陽が東から昇って西に沈む大地で歩き、暮らすことに何ら変わりはありません。であれば、わざわざ確かめたところで何になるでしょう」
届く情報が多いのなら、真偽の判断と同じくらい、取捨選択が肝心となる。
自分にとって不要な情報に労力と時間を割くだけの余裕は、もはや科学世紀には無いのだろう。
「さて、少し話を変えて、私の専門であるところの歴史についても考えてみましょうか」
「歴史、かぁ。私、ぜんぜん勉強してないから何も知らない」
「歴史上の出来事についてのお話ではありません。そもそも歴史とは何か、何故学ぶ必要があるのか、というお話です。りんごの話に戻りましょう。先ほど、事実の裏には必ず歴史があると言いました」
「先生がなんでりんごをたくさん持ってきたか、って話だったよね」
「えぇ。貴方も正しいと知っている事実は、『私が博麗神社にりんごを持ってきた』という点ですね。それに対して、その理由を説明するものが歴史です。この場合、『私が元教え子から大量のりんごを貰ったから』が歴史になります」
「良かった。りんご泥棒はいなかったんだ」
「霊夢は喜んでりんご料理をたくさん作り、神社の宴会で皆に振舞ったとしましょう。そうすれば、『秋口に上白沢慧音がたくさんのりんごを持ってきた』という事実は長く記憶されることでしょう。けれど、付随する歴史については分からない。私の死後、歴史だけが消え失せて事実だけが残り続ける、ということも十分にあり得るのです」
「それの何がだめなの?」
「ひょっとしたら、長い時間の後に、私を嫌いな誰かがこんなことを言うかもしれない。『上白沢慧音はりんご泥棒だったから、神社にたくさん持ってくることができたんだ』と」
「そ、そんなの嘘に決まってるじゃない」
「事情を知る現在の貴方は、そうやってすぐ判断することができる。でも、遠い未来の誰かさんには、事実か虚偽かの判断はできません。そして、誰々は実は悪人だった、という情報は真偽に関わらず面白おかしく広まり、ひとも信じてしまいやすいものです。するとほら、『上白沢慧音はりんご泥棒』という新しい歴史が生まれてしまいました」
「そんなぁ……」
「私は半人半獣だからまだましです。これがもし妖怪に起こってしまうと大変なことになります。妖怪は歴史も含めた情報で成り立っている。つまり、本当にりんご泥棒になってしまうのです」
妖怪にとって、それは致命的である。
まったく別の存在になり変わってしまうということは、死と等しい。
そしてそれは、霊夢と魔理沙がニナを地上へ連れ出した理由でもある。
大量の陰謀論を真実と誤解したまま成長し、偽りの世界に適応した形に変貌してしまった妖怪が、どんな事態を引き起こすか。
前例が無いから慧音にも分からないが、ろくなことにならないのは確かだ。
「でも、それなら歴史が正しいかどうかなんて、どうやって確認すればいいの?」
「良い質問です。りんごの話で言うならば、たとえば私が『頂いたりんごのお裾分けです』という霊夢への手紙を添えていたらどうなるでしょう? 遠い未来までそれが残って、誰かが読めば、りんごの由来が貰いものだということが分かります。そのような資料をたくさん調べて、現在の事実に至るまでの道筋を組み立てていくしかありません」
そこには資料どうしの比較やら資料の信頼性などといった要素も絡んでくるが、今回の話では割愛する。
「大切なことは、歴史は絶対に事実には敵わない、ということです。いかにそれらしく記されていても、いま目の前にある現実と相反する歴史は存在できない。最初に言ったように、ひとつの事実が存在する理由を歴史というのですから」
「じゃあやっぱり、事実をこの目で見ることが大事ってことなのね!」
「その通り。そして、まだ見ても聞いてもいないものを『絶対に正しい真実だ』と言い張るようなものこそ、まずは疑ってかからなければならない。事実を見せないようにする輩を信じるなど以ての外です」
これらは陰謀論を利用する悪者たちの常套手段だ。
カモを囲いこんで選択肢を奪う。そうすれば被害者たちは、逃げ場を失うどころか逃げる気すら持てなくなってしまう。
やがて、台所からはふわりと甘い匂いが漂ってきた。
「できたわよ」
霊夢は大皿に山盛りの甘煮を、でんとちゃぶ台に置いた。
そして鳥居のほうへ走っていき、居眠りしていた狛犬、高麗野あうんを小突いて起こした。
慧音の臨時講義もひと区切りである。おやつにも調度良い時間だし、ご相伴にあずかることにした。
「何これ、美味しそう!」
ニナの瞳はきらきらと輝いている。
大皿の上では、砂糖と檸檬で煮つけられたりんごとさつまいもが、ニナの髪色と同じ黄金色の光を放っていた。
「いただきます」
慧音は客用の箸を持った。四人で食卓ひとつを囲むというのも久しぶりだ。
半月型のさつまいもの上にくし切りのりんごを乗せ、ひと口で頬張る。
途端に、秋色の甘味とみずみずしい酸味が舌の上で弾けた。
さくさくしたりんごと、ほくほくしたさつまいも。ふたつのまったく別の食材は、完璧な火の通り具合でもって見事に統一されていた。そして砂糖と檸檬は、素材だけでは埋めきれない風味の穴をしっかりと補っている。
添えられた緑茶は濃いめに淹れられている。これならなんだか、いくらでも食べられてしまいそうだ。
「今年もこの時期になったのねぇ」
ニナとあうんが競うように猛然と食べている様を、霊夢は微笑ましく見ていた。
神社には巫女の妹分だかペットだか、そういったタイプの妖怪もすっかり増えて、霊夢の貫禄もなんだか増してきているような気がする。
「冷ましたら包むから、もうちょっと待ってて、先生」
「どうもありがとう。――そうだ、少し気になったんだけど、ニナさんは蜃気楼を見せられるのかしら」
「あー、そういえば」
リスのように頬を膨らませた蜃を、ふたりは見つめた。
「そういう真っ当な妖怪らしいところ、まだ見たことなかったわね」
「ふぁにひょ、ひぇきふにひやっふぇるれひょ!」
「口の中のものを片付けてから話しなさい」
ニナは噛んでいたものを一気に飲み込んだ。
途端に目を白黒させ始めたので湯呑を渡してやると、律儀に涙目でふうふうと緑茶を冷ましてから、そーっとそれに口をつけた。
「……っぷは。できるに決まってる、って言ったの。蜃気楼の蜃なんだから当たり前でしょ」
「蜃気楼の楼って、楼閣の楼だったわよね。なんで蜃気楼って、大きな建物ばかり映すのかしら?」
「そりゃ、海の向こうとか雲の上には、大きな街があると皆が思ってるからじゃないかしら」
そう答えながらも、ニナ自身が首を捻っている。
慧音はお茶で口の甘味を洗い流した。
「蜃気楼とは、見えるのに触れられず、辿り着けない街なのです。だから、貴人や神様の住処だと考えられた。つまり天界や竜宮といった場所ですね」
「へぇ、あれ竜宮だったの。……ん? ということは」
霊夢は何事かを思いついたように手を止める。
「ねぇ、先生」
ニナが慧音の袖を引いた。
「私の蜃気楼は事実じゃあないけど、見せても大丈夫なのかしら?」
「もちろん。事実以外は無価値というわけではありません。蜃気楼とは虚偽ではなく、幻想です。それは人々に夢を見せ、それをいつか現実にしようと奮闘させる力を持つのです」
「ニナ」
霊夢に呼ばれたニナはぴょこんと振り向く。
「つまり貴方、雲の上に竜宮を映し出せるのよね?」
「うん。できると思う、けど」
それを聞いた巫女は、悪い猫のようににたりと笑った。
「ふふ、良いこと考えたわ」
その表情を見て、慧音は呆れ、ニナとあうんは身を寄せ合って震えだした。
秋の高い空を、低くて暗い雲が覆い始めた。
§
永遠亭を出た時よりも軽くなった荷箱を、鈴仙・優曇華院・イナバは背負い直した。
里の顧客はもうほとんど回り終えて、最後に向かうのは上白沢慧音の家だった。
歴史家の居宅は里から外れて歩くこと二十分ほど離れた、小高い丘の上にある。
慧音の家を回れる日は、鈴仙にとっては楽であった。
迷いの竹林と人間の里の間は、徒歩で向かわなければならない。そのように八意永琳からきつく言い含められている。
人間に見られる恐れがあるのだから、当然と言えば当然だ。
だが慧音の家に寄るとすれば、所在が里から少し離れているために、帰途はいつもと違う道となる。だから空を飛んで帰っても目立たないというわけだ。
「こんにちはー。先生、ご在宅ですね?」
鈴仙が声を張ると、書斎らしき奥の間から応答があった。波長で居場所を探知できる月兎に、居留守は使えない。
「いつも助かるよ」
慧音は少しばかり疲れた顔をしていた。満月も近いので、歴史創りの準備に余念がないのかもしれない。
彼女は頭痛薬を常備している。病気があるわけではないが、月の満ち欠けに応じた頭痛持ちなのである。
「そういえば先生、異変、気づきました?」
幻想郷じゅうが完全に停止した異変。
それが解決してからこっち、まだ慧音に話を聞いていなかったことに、鈴仙は思い当たった。
「いや、まったく気が付かなかったわ。満月の夜なら分かったのかもしれないけど」
「やっぱり、ただの人間には無理でしたか」
言いながら笑った鈴仙に悪気は無い。
あらゆる変化が失われるという最悪の異変。
それに気が付くことができたのは、「異変石」を見つけ出した霊夢と魔理沙だけである。
鈴仙だって異変の最中には何も分かってはいなかった。
しかし、実は鈴仙は、異変石については知っていた。
それを造るよう策を巡らせたのは永琳であり、その手伝いを少しばかりしたためだ。
「それにしても、変化が無いのに異変とは、これいかに」
薬を受け取りながら、慧音は冗句を口にした。
「歴史家にしてみれば、商売上がったりよ。これ以上変化が無いということは、この先歴史など不要だということだもの。まぁ食べるのも創るのも必要ないわけだから、仕事から解放されたと思えば良いのかもしれないけど」
「起きても解決しても何も感じない異変というのも、なんだか味気ないですね」
「人里としては、誰も襲われなかったぶん、安全で良かったけどね」
人間にしてみれば、何も変わらない日常が繰り返されるばかりの異変だったわけだ。
妖怪以上に気づかなくて当然である。異変があったという事実は大っぴらに喧伝されるわけでもないから、未だに異変が起こっていたことすら知らない者も多い。
慧音がお茶を淹れてくれたので、上がりかまちに腰掛ける。
秋も深まったとはいえ、歩き通しで喉が渇いていた。
「ところで、霊夢から聞いたんだけど」
鈴仙がお茶請けのさつまいもとりんごの甘煮に舌鼓を打っていると、歴史家が話を切り出した。
「今回の異変には、月の都が関わっているらしいわね」
「……えーっと」
どこまで話したものか。薬売りは目を泳がせた。
関わっている、どころの話ではない。
平たく言えば今回の騒動は、月都にとっての最重要拠点を巡ったものであった。
鈴仙は師からあらましを聞いている。
妖怪の山の聖域、その地下に存在する浅間浄穢山は、地上の情報から穢れを除染し月へ送るための施設なのだという。それが機能不全に陥ったことが、今回の異変の元凶なのだ。
「私にも話せることと話せないことがありますので」
鈴仙は慎重であった。下手なことを言えば命の危機だ。
大げさでも何でもない。月都の機密事項を漏らした兎など、どんな目に遭うかは考えるまでも無かろう。
だが、慧音相手に嘘も吐きたくない。
知り合いでも客でもあるのはもちろんのこと、ワーハクタクである彼女は、満月の夜には幻想郷のあらゆる歴史にアクセスできるという。そんな相手に即興の嘘やごまかしは通じないだろう。
「霊夢によれば、妖怪の山の地下にピラミッドがあって、そこで変な神様を倒したら異変が解決したそうよ。なんだか月都と因縁のありそうな神様だったって」
「そうなんですか。月の民と因縁がある神というと、大変古い存在だろうとは思いますが、何分下っ端の月兎兵にはそこまで情報は頂けないもので」
これは嘘ではない。
地上の施設のことも、そこに封じられた神のことも、月兎たちには何も知らされていない。
だが鈴仙は、永琳とともに彼女に会った。磐永阿梨夜、恒久を司る不変の神に。
(もう月兎兵じゃないんだから、嘘じゃないよね)
「それともうひとつ、気になることを言っていたわ。ピラミッドの奥深く、化石の森を通り抜けた先で、月に出たそうよ」
「えっ?」
それは初耳であった。
だが、考えてみればおかしな話ではない。月都の重要施設への直通通路ならば、存在して当然とも言える。
「……それが、何か?」
「いや、貴方が何か新しい情報を知ってるんじゃないかと思ってね。無理に吐けだなんて言わない。仕事柄、こういうことにはつい貪欲になってしまって」
「まぁ、地底に太陽があるくらいですから、月に辿り着いたって変な話じゃあありませんよ」
「それもそうねぇ。それで霊夢と魔理沙が、化石の森で生まれたという新しい妖怪の面倒を見ているんだけど」
「へぇ。またおかしなところで妖怪が湧いたもんですね」
「これが陰謀論に骨の髄まで染まってしまった暴れ者でね。他の妖怪にも大迷惑だ、っていうからいま必死で更生させているのよ」
「殊勝なことですねぇ。あのふたりにしては珍しい」
「で、その手間賃を貰いたいそうよ」
「……永遠亭から?」
鈴仙は湯呑を置いて身を乗り出した。
「なんでうちがそんな」
「月都側が作った通路で、月都側のトラブルのせいで生まれた妖怪なんだから、養育費を請求したいって」
「そ、そんな馬鹿な話が」
「私はどちらの立場も理解できるから、できるだけ公平な立場で動きたいと思って。ただまぁ、今回の件では中立よりは一歩だけ向こう側かなぁ」
「勝手なことを。うちだって骨を折ったんだから痛み分けでしょう。言わせておけば良いのよ」
「対応はあれを見てから判断したほうが良いと思うわ」
慧音がつっかけを履き、鈴仙を外へと促した。
何が何だか分からぬまま、玄関から出る。
霊夢たちが何を企んでいるのかは知らないが、永遠亭が脅される謂れなどこれっぽっちも無い。
確かに策は永琳によるものだが、それも月都と幻想郷を救うためである。
感謝されこそすれ、恨まれるなど。
「おぉ、これは見事な蜃気楼ね。あの娘もやるじゃない」
「…………は?」
鈴仙の顎が外れかけた。
秋空にかかる大きな雲の上、それよりも大きな絵巻物が広がっていた。
金と紫で描かれるのは、大陸風の街並みだ。
そこに暮らす人々の姿まで、幻影は細かく映し出していた。
高貴な人々が衣を乱すことなくしずしずと歩いている。兎たちがその間を忙しなくちょこまかと走る。
大通りといい建物の並びといい、やけに懐かしい光景である。
おまけに広場らしきところで兎兵に稽古をつけている少女にはとても見覚えがある。
横着して屋敷の窓から扇子を伸ばして桃の実をもごうとしている少女にも、やたら見覚えがある。
執務室で目を閉じて舟をこいでいる片翼の少女にも、やはり見覚えがあった。
「蜃は雲の上に竜宮を映し出す。そして竜宮とは、確か月の都のことだったわね」
慧音がのんびりとした声で言った。
雲の上に再現されているのは、紛うことなき月都であった。
もちろん幻影であり、中継映像の生放送というわけではなかろう。
だが月都は存在自体がトップシークレットだ。このように地上で大々的に詳細を開示されれば、大問題である。
「な、な、な、な、な、」
開いた口が塞がらないとはこのことであった。
「何を考えてるの、霊夢!」
「まずは八意殿に報告して、霊夢と掛け合ってもらたほうが良いわねぇ。その結果次第では、私がこの蜃気楼についての歴史を食べることになる。これを世界の真実の告発とするか、それともただの蜃気楼として片付けるか。決めるのはそちらです。……何だか、私が陰謀論を吹聴しているみたいになっちゃってるけど」
鈴仙は慌てて荷物をまとめ直して、挨拶もそこそこに永遠亭へと飛び去っていった。
しばらくの間、ニナの見事な蜃気楼を慧音は見上げていた。
秋空を真っ黒な烏が横切って、雲上の楼閣に向けてカァとひと声鳴いた。すると扇子を伸ばしていた少女の視線の先で、桃の実がぽとりと落ちた。
「待ちなさい! 貴方……人間じゃないわね?」
石段を登り切った先、居眠りをこいている狛犬の間を通り抜けると、果たして参道のど真ん中に彼女はいた。
慧音は一瞬どきりとしたが、そういえばこの場所においては人間ぽい見た目でありながらそうでない連中のほうが大多数であることを思い出し、すぐに平静に戻った。
ゆるくウェーブした金髪が、高い空の青の中で稲穂のようにそよいでいる。
たくさんのフリルが着いた薄い色のワンピースを腰で絞った装いは、何故だか海産物を想起させた。
こいつも明らかに、人間ではない。
「……そういう貴方はどうなんです?」
慧音は問い返した。なんだかそれが礼儀のような気がした。
「私は渡里ニナ、目覚めた蜃。とはいっても、ただ蜃気楼を見せるばかりのそんじょそこらの貝とは違うわ。言ってみれば、シン・蜃なのよ」
「はぁ」
「そして、私の目はごまかせない。貴方は人間のふりをして社会に紛れ込んでいる偽物!」
「何故、そうだと思ったのです?」
「その荷物を見れば一目瞭然だわ」
慧音は携えた紙袋を見た。
何の変哲もないりんごである。元教え子に果樹園農家がおり箱いっぱいのお裾分けが来るのだ。
それを霊夢に分けてやると大層喜ばれるものだから、毎年こうして持ってきている。
「霊夢に差し入れ持ってくるやつは、霧雨魔理沙以外は人外と、あとは半分人間ばかりなのよ。東風谷早苗は半分神様だし、魂魄妖夢は半分幽霊だし、十六夜咲夜は半分メイドだわ」
「いや、最後は全部メイドでは?」
「だから、貴方も半分人間じゃないに決まってる!」
びしり、と指をさしながら、ニナは会心の決め顔をした。
「それに貴方、いま鳥居をくぐってやってきた。つまり人間の里から来たってこと。半分人間じゃないのに、どうして人間の里から歩いてくるのかしら。それは貴方が、人間のふりをして社会で暮らしているからよ!」
慧音は長台詞を無視して、賽銭箱の前に紙袋を置いた。
「霊夢ー。いないの?」
「霊夢ならいないわよ。だから私が留守番してるの。残念だったわね。ここが貴方の年貢の納め時ってわけ」
ニナはひたりと背後に寄り、なぜか勝ち誇った声で言った。
「ふっふっふ、暴いてやる、貴方の正体」
「……暴くって、どうやって?」
「そりゃあもちろん、被ってる皮を取っ払うの」
蜃の指が遠慮なく首筋を撫でたので、慧音もさすがに驚いて跳び退いた。
「い、いきなり何?」
「あらその反応、やはりその頭は被り物ってわけね」
「急に触られたからに決まってるでしょう」
「それっぽいこと言っちゃって。本当の貴方は、ゴツゴツした鱗だらけの皮膚をして、感覚どころか痛みすらほとんど感じないくせに」
「……私のこと、何だと思ってるんだ?」
「人間のふりをして社会に紛れ込んでいる怪物といったら決まってるでしょう――レプティリアンよ!」
「れ、れぷ……何?」
舌を噛みそうな単語だ。横文字にも強いと自負している慧音だが、聞き覚えが無い。
「しらばっくれているの? それとも人間社会に溶け込みすぎて、自分の正体すら忘れてしまったとでも言うのかしら」
得意げに指を立てながら、ニナは語り始めた。
レプティリアンとは、二足歩行のトカゲ人間のことである。彼らは人間社会を乗っ取るために、ゴムでできたマスクを被って政治家や有名人に成りすましているのだ。
「貴方もそうやって、世界征服を企んでいるんでしょう」
慧音は押し黙った。
蜃という妖怪については詳しくないが、少なくともこんなおかしな妄想をまき散らす種族ではなかったはずだ。
しかもその内容は、幻想郷で見たことも聞いたことも無い、おそらくは西洋の怪物である。
(『目覚めた』タイプか……)
その結論に至るまで、時間はかからなかった。
人間の里にも、このような者は意外といる。大きく見開いた眼をらんらんと輝かせ、「自分だけが知る本当の真実」をとうとうと語り続ける人間だ。
当然、その妄言を周囲はまともに取り合おうとはしない。すると彼らはこう言うのだ。
――理解できない他の連中は馬鹿だ。
――真実を知る私こそが高等なのだ。
こうなってしまうと、もう他人の意見など聞き入れはしない。
自分の妄想が彼らの中では真実となってしまい、他人すべてが愚かな嘘つきにしか見えなくなる。
(妖怪がこうなるケースは初めて見たが、さて)
慧音が答えあぐねているのは、他でもない。
ニナの言うことが、それほど間違っていないからである。
「あー楽しみ。私トカゲ人間って見たことないのよね。早くそのゴムマスクを取って、不気味な顔を見せてちょうだい」
「まぁ待て。私はそのレトロスペクティブ京都とかいう怪物ではない」
「レプティリアンね」
「これは正真正銘、私の素顔だよ。そら、マスク人間がこんなことできるか?」
そういいながら、渾身の変顔21連発を披露する。
何を隠そう上白沢慧音は、「生きた福笑い」の異名を持つ達人である。にらめっこでは古今無双の強さを誇り、一部コミュニティからは殿堂入りという名の出禁を食らうほどだ。
「あはははは、何それ、おっかしい」
「まだまだ行くぞ。次はヒョウタンツギのマネ」
「ひーっ! もうやめてぇ」
ニナは幼児のようにけらけらと笑い、ついには仰向けにひっくり返ってしまった。
年経た貫禄のある妖怪ならばこうはなるまい。
もしかしたらこの蜃は、生まれて間も無い若い妖怪なのかもしれない。それならば、霊夢が神社に置いている事情も理解できる。
「――ふぅ。これで分かっただろう。私はレイディアントトレジャーガンとかいう怪物じゃあないって」
「はぁ、はぁ。……だから、レプティリアンだってば」
何とか呼吸を落ち着けて、ニナはゆっくりと立ち上がる。
「とりあえず、貴方が被り物をしていないということは分かったわ。だけど、そもそも考えてみたら、ここは幻想郷なんだから、魔法も仙術も何でもありじゃない。人間に変身したり化けたりしているってこともあり得る。化け狸の親分みたいにね」
「む……」
「人間の里には人間のふりをした妖怪たちが入り浸っているのよ。公然の秘密ってやつよね? そして貴方もそのひとりというわけ」
得意げに胸を張るニナの様子は、やはり幼子のようでどこか微笑ましさを感じる。
さて。
慧音は本格的に困り果ててしまった。
ニナがより真相に近づいたためである。
慧音は寺子屋で人里の子供たちの教育を引き受けている。読み書きそろばんはもちろんのこと、彼女がもっとも力を入れているのは、幻想郷に生きる人間が持つべき心構えと歴史の知識だ。
たとえば、人間は妖怪を恐れなければならない。それが消え失せた世界はもはや外の世界と同じだからだ。神々への信仰についても同様である。そこには疑いがあってはならないし、その領域は侵そうと考えることすら許されない。
と、そのように人間たちを教育する慧音は、純粋な人間ではないのである。後天的とはいえ、半分妖怪なのだ。
つまり、「人間ではない者が都合の良いように人々を動かそうとしている」という言説は、ある面では事実なわけだ。
簡単に陰謀論と斬って捨ててしまっては、逆に不都合となるかもしれない。
もちろん、慧音は自分の仕事が人間と妖怪の双方のためになると信じて、それに足る根拠とともにやっているのだが。
(それを説明したところで、理解してもらえるとは思えないし。しかし嘘だと言い切るのもうまくなさそうね。さて、どうしたものかしら)
「――で、どう? 図星? 図星でしょ?」
ニナは腰に手を当て胸を張ったポーズのまま、そんな慧音をちらちらと見ている。
「魔理沙の言ったとおりだわ。自分で見聞きして体験したものだけが事実なのね。今回はちゃんと私の見た情報から推理したから、真相を突き止めることができた」
「……ほう、魔理沙から何を教わったのか、興味があるな」
慧音の問いに、少女はぺかっと顔じゅうで笑いながら、いろいろと話してくれた。
渡里ニナは偽の真実渦巻く地下ピラミッドで妖怪として目覚めた、貝の化石なのだという。
当初はそれらの情報をすべて真実だと思い込んでいたが、退治にやってきた霊夢と魔理沙に諭され、地上へとやってきた。
「生まれたばかりのころの私にとって、偽の情報が知ることのできる全てだった。真実と虚構の区別なんて付けられなかった。だから、それまで信じてきたものの全てが嘘だったと知ったときに、私はいったい何が本当なのか分からなくなってしまったの。そうしたら、魔理沙がね」
『――簡単だぜ。お前が実際に見て聞いたものが事実だ』
なるほど、それは端的で正確だ。おまけに彼女の言いそうなことだ。
慧音は普通の魔法使いにあらためて感心した。里の人間たちの大半より、彼女は物分かりが良く頭も回る。
霧雨の家へ戻ってきてくれたなら、と一瞬だけ考えてしまった。
「だから私は、こうして幻想郷のいろいろなものをこの目で見て、この耳で聞いているところなのよ」
「なるほど、よく分かりました」
慧音はぽんとひとつ手を打った。
「確かに、生まれたばかりの貴方には学ぶべきことが多くあるでしょう。加えて、蜃は幻影を見せ相手を弄する妖怪。しかし幻影は、真実のように見えなければ説得力は薄い。事実と虚像の違いを、貴方こそ学ばなければならない」
「……で、結局貴方は人間なの? そうじゃないの?」
「人間ですよ。半分だけね」
「ふっふーん、やっぱりね! 私の目に狂いは無かったわ」
ニナの喜びようは鬼の首を取ったようだった。
しかしそこに、慧音を糾弾しようという意図は無い。彼女は純粋に、自分の推測が当たったことを褒めてほしがっているのだ。
寺子屋に入ったばかりの五つか六つくらいの子供が、先生に褒められたと親に自慢する様子によく似ていた。
「じゃあ教えなさい! 貴方は人里に紛れ込んで、いったい何を企んでいるというの?」
「えぇ、教えましょう。でもその前に」
慧音は空を見上げる。秋空の中、紅白の鮮やかなその人影は、速度を感じさせずにだんだんと大きくなってくる。
「まずは貴方のお留守番の成果を、依頼主に報告するべきでしょう」
§
境内に舞い降りた霊夢は、慧音が持ってきたりんごを大喜びで受け取った。
紅白の巫女が赤いりんごを手に持って微笑む姿は、なんと言っても絵になる。
「ちょうどさつまいもがあるから、甘煮を作っちゃおうっと。慧音先生にも包みたいから、ちょっと待っててね」
「そんな、お構いなく」
いいからいいから、と巫女は台所へとすっ飛んでいった。
これほどまでに機嫌の良い霊夢はなかなかお目にかかれるものではない。
「その辺座っててー。……あ、ニナ! 先生に変なこと言うんじゃないわよ」
「大丈夫! レプティリアンじゃないって分かったから」
「……手遅れだったか」
「いや、いいよ霊夢。私も今しがた状況を理解したところだから。これも何かの縁だし、ニナに事実と虚像について少し教えてあげようと思ってね」
「あら、それはそれは」
ザクリ、ストン、と包丁が果実を刻む音。
「そうだわ。先生をおいて他にそれを教えられるひとなんていないじゃない。どうして気が付かなかったんだろう」
慧音とニナは縁側に腰かけた。鎮守の森のどこかで、コマドリがヒヨヨヨヨと鳴いた。
「さて、私は半分だけ人間だと言ったけれど、もう半分は何だと思う?」
「えぇと」
ニナは慧音を下から見上げてみたり、顔を近くからじっと見つめてみたりしたが、やがて音を上げた。
「分かんない。妖夢みたく分かりやすければよかったのに」
「まぁ、今はどこからどう見ても人間ですからね。けれど満月の夜にだけ、私は妖怪になるのです――ハクタクという、知識を司る妖怪に」
「知識、ということは、事実!」
ニナの瞳に、とたんに尊敬の光が灯った。
「つまり貴方は、幻想郷の事実を全部知ってるの?」
「そこまで万能ではありません。しかし、私は歴史を喰い、あるいは歴史を創る者。そのためには少しでも多くの事実を知らなければならない」
「凄い、凄いわ!」
居ても立ってもいられないと、少女は立ち上がる。
「それじゃあ、貴方からいっぱい事実を教えてもらえればいいんだわ! 歴史を創るだなんて、なんだかものすごい神様みたいな能力を持ってるんだもの」
その両肩に手を置き、ニナを今一度座らせた。
「それで済めば話は簡単だったんですけどね。残念ながらそういうわけにもいきません」
「え、どうして?」
きょとんとしたニナに、慧音はちゃぶ台の上からりんごをひとつ取り上げ、その目の前に差し出す。
「ひとつ、クイズを出しましょう。私が今日持ってきたこのりんご、いったいどうしてここにあるのでしょうか?」
「どうして、ってそりゃあ、貴方が持ってきたからじゃない」
「その通り。では、私はどうしてこんなにたくさんのりんごを持ってくることができたと思いますか? 私の家にはりんごの木なんて無いのに」
「そ、そんなの知らないわ」
「そう、もちろん貴方は知らない。けれど必ず、事実の裏にはその理由、その歴史があるのです」
ニナはりんごを手に取って、しげしげと眺めた。
「これは私の寺子屋の卒業生が育てたりんごです。毎年、その子が木箱いっぱいに送ってよこすのですよ。でも私はひとり暮らしだから、とても食べきれない。だからこうして、皆にお裾分けをしているというわけです」
「なるほど、それなら納得だわ」
「――と、いうのは真っ赤な嘘で、本当は私はりんご泥棒なのです。今日も八百屋さんからたんまり盗み出したので、霊夢にお目こぼしを貰おうと企んでこうしてワイロをね」
「えぇっ!?」
ニナの視線が、りんごと慧音の間を忙しなく動く。
「さぁ、いったい何が本当なのか、貴方はどうやって確かめますか? どちらかが本当です。というのは嘘で両方とも虚偽かもしれない。いやいやそれとも、どちらも実は本当だったりして」
「ま、待って待って。そんなの無理よ! だって私はどっちも見聞きしてないんだもの」
「その通り。だから教えるだけじゃあ不十分なの。だって私が教えたことのひとつひとつ、それぞれが本当に事実かどうか、貴方には分からないでしょう」
「私に嘘を吐くってこと?」
「嘘だと分かったうえで言うのならまだ良い。教える私が間違ったことを事実だと誤解してしまっていたら?」
「……うぅ、そんなの、もうどうしようもないよ」
りんごをちゃぶ台に戻して、ニナは肩を落とす。
「そう、たとえ教わったことであっても、それが事実かどうかを貴方は確かめ続けなければならない。そのためには、できるだけたくさんのものを見て、聞いて、体験することが大切なのです」
「そっか。私が生まれたばかりのとき、周りの情報を鵜呑みにしてしまったのは、事実かどうかを確かめることができなかったからなのね」
台所からは、鍋を煮る音がことことと響いてきている。
霊夢がきびきびとかまどの周りで働く姿が、振り向かなくても手に取るように分かる。
ニナはぼんやりと、青い空を見上げていた。
うろこ雲のずっと向こう、宇宙の果ての深淵に、何か摩訶不思議なものを見つけたような顔をしていた。
「でも、そしたら私は、世界の全部を見聞きしなきゃいけないことになっちゃうわ」
「それはまた、どうしてかしら?」
「だって、この先どんな情報が私に届くか分からないんだもの。それらが事実かどうか、全部確かめるためには、私は何もかもを知っていなけりゃならないはずじゃない」
頭の回転は良いようだ、と慧音は感心した。
それは情報の渦中で生まれた妖怪らしい心配と言えるかもしれない。
世界中から流れ込む有象無象の情報、という概念は、幻想郷に生きる人々には理解しづらいだろう。
だが大結界の外の科学世紀では、インターネットの普及により地球の裏側の事件であっても数秒で一報が飛び込んでくるという。
それは確かに、京と江戸のやり取りに十日間かかった時代よりは便利なのだろう。
だがその進歩には副作用があった。ひとつの情報が届く速度と範囲が改善されたことで、人々は何倍、何十倍もの情報に晒されることになったのである。
「私が考えるに、それに対処する方法は三つあります」
慧音の言葉に、ニナは視線を戻した。
「一つは貴方もすでにお分かりの通り、自分で真偽を確かめること。次に、情報の発信源と伝達者を吟味すること。貴方が信頼に足ると判断した媒体からの情報であれば、自分で真偽を確かめる手間を省けるでしょう。そして三つめは、そもそも判断しないで放っておくこと」
「えぇっ!」
お手本のような驚きの台詞とともに、ニナは仰け反った。
「それじゃあ困っちゃうんじゃない?」
「そうでしょうか。たとえば、有名な陰謀論に地球平面説がありますね。地球が宇宙に浮かぶ球体だということを信じない人々です。彼らは地球が平面である証拠を躍起になって探し続けているそうです。真実かどうかを自分で確かめる、その姿勢だけは評価できますが、そもそも……地球が球体でも平面でも、どっちだって良くないでしょうか?」
「うーん……どっちでも関係ない、のかな」
「ロケット技師や地球学者にとっては、この大地が平面か球体かは大きな問題です。しかし、私やニナさん、そして多くの人間たちにとってはそうではない。地球が球体であることが本当だろうと嘘だろうと、私たちは太陽が東から昇って西に沈む大地で歩き、暮らすことに何ら変わりはありません。であれば、わざわざ確かめたところで何になるでしょう」
届く情報が多いのなら、真偽の判断と同じくらい、取捨選択が肝心となる。
自分にとって不要な情報に労力と時間を割くだけの余裕は、もはや科学世紀には無いのだろう。
「さて、少し話を変えて、私の専門であるところの歴史についても考えてみましょうか」
「歴史、かぁ。私、ぜんぜん勉強してないから何も知らない」
「歴史上の出来事についてのお話ではありません。そもそも歴史とは何か、何故学ぶ必要があるのか、というお話です。りんごの話に戻りましょう。先ほど、事実の裏には必ず歴史があると言いました」
「先生がなんでりんごをたくさん持ってきたか、って話だったよね」
「えぇ。貴方も正しいと知っている事実は、『私が博麗神社にりんごを持ってきた』という点ですね。それに対して、その理由を説明するものが歴史です。この場合、『私が元教え子から大量のりんごを貰ったから』が歴史になります」
「良かった。りんご泥棒はいなかったんだ」
「霊夢は喜んでりんご料理をたくさん作り、神社の宴会で皆に振舞ったとしましょう。そうすれば、『秋口に上白沢慧音がたくさんのりんごを持ってきた』という事実は長く記憶されることでしょう。けれど、付随する歴史については分からない。私の死後、歴史だけが消え失せて事実だけが残り続ける、ということも十分にあり得るのです」
「それの何がだめなの?」
「ひょっとしたら、長い時間の後に、私を嫌いな誰かがこんなことを言うかもしれない。『上白沢慧音はりんご泥棒だったから、神社にたくさん持ってくることができたんだ』と」
「そ、そんなの嘘に決まってるじゃない」
「事情を知る現在の貴方は、そうやってすぐ判断することができる。でも、遠い未来の誰かさんには、事実か虚偽かの判断はできません。そして、誰々は実は悪人だった、という情報は真偽に関わらず面白おかしく広まり、ひとも信じてしまいやすいものです。するとほら、『上白沢慧音はりんご泥棒』という新しい歴史が生まれてしまいました」
「そんなぁ……」
「私は半人半獣だからまだましです。これがもし妖怪に起こってしまうと大変なことになります。妖怪は歴史も含めた情報で成り立っている。つまり、本当にりんご泥棒になってしまうのです」
妖怪にとって、それは致命的である。
まったく別の存在になり変わってしまうということは、死と等しい。
そしてそれは、霊夢と魔理沙がニナを地上へ連れ出した理由でもある。
大量の陰謀論を真実と誤解したまま成長し、偽りの世界に適応した形に変貌してしまった妖怪が、どんな事態を引き起こすか。
前例が無いから慧音にも分からないが、ろくなことにならないのは確かだ。
「でも、それなら歴史が正しいかどうかなんて、どうやって確認すればいいの?」
「良い質問です。りんごの話で言うならば、たとえば私が『頂いたりんごのお裾分けです』という霊夢への手紙を添えていたらどうなるでしょう? 遠い未来までそれが残って、誰かが読めば、りんごの由来が貰いものだということが分かります。そのような資料をたくさん調べて、現在の事実に至るまでの道筋を組み立てていくしかありません」
そこには資料どうしの比較やら資料の信頼性などといった要素も絡んでくるが、今回の話では割愛する。
「大切なことは、歴史は絶対に事実には敵わない、ということです。いかにそれらしく記されていても、いま目の前にある現実と相反する歴史は存在できない。最初に言ったように、ひとつの事実が存在する理由を歴史というのですから」
「じゃあやっぱり、事実をこの目で見ることが大事ってことなのね!」
「その通り。そして、まだ見ても聞いてもいないものを『絶対に正しい真実だ』と言い張るようなものこそ、まずは疑ってかからなければならない。事実を見せないようにする輩を信じるなど以ての外です」
これらは陰謀論を利用する悪者たちの常套手段だ。
カモを囲いこんで選択肢を奪う。そうすれば被害者たちは、逃げ場を失うどころか逃げる気すら持てなくなってしまう。
やがて、台所からはふわりと甘い匂いが漂ってきた。
「できたわよ」
霊夢は大皿に山盛りの甘煮を、でんとちゃぶ台に置いた。
そして鳥居のほうへ走っていき、居眠りしていた狛犬、高麗野あうんを小突いて起こした。
慧音の臨時講義もひと区切りである。おやつにも調度良い時間だし、ご相伴にあずかることにした。
「何これ、美味しそう!」
ニナの瞳はきらきらと輝いている。
大皿の上では、砂糖と檸檬で煮つけられたりんごとさつまいもが、ニナの髪色と同じ黄金色の光を放っていた。
「いただきます」
慧音は客用の箸を持った。四人で食卓ひとつを囲むというのも久しぶりだ。
半月型のさつまいもの上にくし切りのりんごを乗せ、ひと口で頬張る。
途端に、秋色の甘味とみずみずしい酸味が舌の上で弾けた。
さくさくしたりんごと、ほくほくしたさつまいも。ふたつのまったく別の食材は、完璧な火の通り具合でもって見事に統一されていた。そして砂糖と檸檬は、素材だけでは埋めきれない風味の穴をしっかりと補っている。
添えられた緑茶は濃いめに淹れられている。これならなんだか、いくらでも食べられてしまいそうだ。
「今年もこの時期になったのねぇ」
ニナとあうんが競うように猛然と食べている様を、霊夢は微笑ましく見ていた。
神社には巫女の妹分だかペットだか、そういったタイプの妖怪もすっかり増えて、霊夢の貫禄もなんだか増してきているような気がする。
「冷ましたら包むから、もうちょっと待ってて、先生」
「どうもありがとう。――そうだ、少し気になったんだけど、ニナさんは蜃気楼を見せられるのかしら」
「あー、そういえば」
リスのように頬を膨らませた蜃を、ふたりは見つめた。
「そういう真っ当な妖怪らしいところ、まだ見たことなかったわね」
「ふぁにひょ、ひぇきふにひやっふぇるれひょ!」
「口の中のものを片付けてから話しなさい」
ニナは噛んでいたものを一気に飲み込んだ。
途端に目を白黒させ始めたので湯呑を渡してやると、律儀に涙目でふうふうと緑茶を冷ましてから、そーっとそれに口をつけた。
「……っぷは。できるに決まってる、って言ったの。蜃気楼の蜃なんだから当たり前でしょ」
「蜃気楼の楼って、楼閣の楼だったわよね。なんで蜃気楼って、大きな建物ばかり映すのかしら?」
「そりゃ、海の向こうとか雲の上には、大きな街があると皆が思ってるからじゃないかしら」
そう答えながらも、ニナ自身が首を捻っている。
慧音はお茶で口の甘味を洗い流した。
「蜃気楼とは、見えるのに触れられず、辿り着けない街なのです。だから、貴人や神様の住処だと考えられた。つまり天界や竜宮といった場所ですね」
「へぇ、あれ竜宮だったの。……ん? ということは」
霊夢は何事かを思いついたように手を止める。
「ねぇ、先生」
ニナが慧音の袖を引いた。
「私の蜃気楼は事実じゃあないけど、見せても大丈夫なのかしら?」
「もちろん。事実以外は無価値というわけではありません。蜃気楼とは虚偽ではなく、幻想です。それは人々に夢を見せ、それをいつか現実にしようと奮闘させる力を持つのです」
「ニナ」
霊夢に呼ばれたニナはぴょこんと振り向く。
「つまり貴方、雲の上に竜宮を映し出せるのよね?」
「うん。できると思う、けど」
それを聞いた巫女は、悪い猫のようににたりと笑った。
「ふふ、良いこと考えたわ」
その表情を見て、慧音は呆れ、ニナとあうんは身を寄せ合って震えだした。
秋の高い空を、低くて暗い雲が覆い始めた。
§
永遠亭を出た時よりも軽くなった荷箱を、鈴仙・優曇華院・イナバは背負い直した。
里の顧客はもうほとんど回り終えて、最後に向かうのは上白沢慧音の家だった。
歴史家の居宅は里から外れて歩くこと二十分ほど離れた、小高い丘の上にある。
慧音の家を回れる日は、鈴仙にとっては楽であった。
迷いの竹林と人間の里の間は、徒歩で向かわなければならない。そのように八意永琳からきつく言い含められている。
人間に見られる恐れがあるのだから、当然と言えば当然だ。
だが慧音の家に寄るとすれば、所在が里から少し離れているために、帰途はいつもと違う道となる。だから空を飛んで帰っても目立たないというわけだ。
「こんにちはー。先生、ご在宅ですね?」
鈴仙が声を張ると、書斎らしき奥の間から応答があった。波長で居場所を探知できる月兎に、居留守は使えない。
「いつも助かるよ」
慧音は少しばかり疲れた顔をしていた。満月も近いので、歴史創りの準備に余念がないのかもしれない。
彼女は頭痛薬を常備している。病気があるわけではないが、月の満ち欠けに応じた頭痛持ちなのである。
「そういえば先生、異変、気づきました?」
幻想郷じゅうが完全に停止した異変。
それが解決してからこっち、まだ慧音に話を聞いていなかったことに、鈴仙は思い当たった。
「いや、まったく気が付かなかったわ。満月の夜なら分かったのかもしれないけど」
「やっぱり、ただの人間には無理でしたか」
言いながら笑った鈴仙に悪気は無い。
あらゆる変化が失われるという最悪の異変。
それに気が付くことができたのは、「異変石」を見つけ出した霊夢と魔理沙だけである。
鈴仙だって異変の最中には何も分かってはいなかった。
しかし、実は鈴仙は、異変石については知っていた。
それを造るよう策を巡らせたのは永琳であり、その手伝いを少しばかりしたためだ。
「それにしても、変化が無いのに異変とは、これいかに」
薬を受け取りながら、慧音は冗句を口にした。
「歴史家にしてみれば、商売上がったりよ。これ以上変化が無いということは、この先歴史など不要だということだもの。まぁ食べるのも創るのも必要ないわけだから、仕事から解放されたと思えば良いのかもしれないけど」
「起きても解決しても何も感じない異変というのも、なんだか味気ないですね」
「人里としては、誰も襲われなかったぶん、安全で良かったけどね」
人間にしてみれば、何も変わらない日常が繰り返されるばかりの異変だったわけだ。
妖怪以上に気づかなくて当然である。異変があったという事実は大っぴらに喧伝されるわけでもないから、未だに異変が起こっていたことすら知らない者も多い。
慧音がお茶を淹れてくれたので、上がりかまちに腰掛ける。
秋も深まったとはいえ、歩き通しで喉が渇いていた。
「ところで、霊夢から聞いたんだけど」
鈴仙がお茶請けのさつまいもとりんごの甘煮に舌鼓を打っていると、歴史家が話を切り出した。
「今回の異変には、月の都が関わっているらしいわね」
「……えーっと」
どこまで話したものか。薬売りは目を泳がせた。
関わっている、どころの話ではない。
平たく言えば今回の騒動は、月都にとっての最重要拠点を巡ったものであった。
鈴仙は師からあらましを聞いている。
妖怪の山の聖域、その地下に存在する浅間浄穢山は、地上の情報から穢れを除染し月へ送るための施設なのだという。それが機能不全に陥ったことが、今回の異変の元凶なのだ。
「私にも話せることと話せないことがありますので」
鈴仙は慎重であった。下手なことを言えば命の危機だ。
大げさでも何でもない。月都の機密事項を漏らした兎など、どんな目に遭うかは考えるまでも無かろう。
だが、慧音相手に嘘も吐きたくない。
知り合いでも客でもあるのはもちろんのこと、ワーハクタクである彼女は、満月の夜には幻想郷のあらゆる歴史にアクセスできるという。そんな相手に即興の嘘やごまかしは通じないだろう。
「霊夢によれば、妖怪の山の地下にピラミッドがあって、そこで変な神様を倒したら異変が解決したそうよ。なんだか月都と因縁のありそうな神様だったって」
「そうなんですか。月の民と因縁がある神というと、大変古い存在だろうとは思いますが、何分下っ端の月兎兵にはそこまで情報は頂けないもので」
これは嘘ではない。
地上の施設のことも、そこに封じられた神のことも、月兎たちには何も知らされていない。
だが鈴仙は、永琳とともに彼女に会った。磐永阿梨夜、恒久を司る不変の神に。
(もう月兎兵じゃないんだから、嘘じゃないよね)
「それともうひとつ、気になることを言っていたわ。ピラミッドの奥深く、化石の森を通り抜けた先で、月に出たそうよ」
「えっ?」
それは初耳であった。
だが、考えてみればおかしな話ではない。月都の重要施設への直通通路ならば、存在して当然とも言える。
「……それが、何か?」
「いや、貴方が何か新しい情報を知ってるんじゃないかと思ってね。無理に吐けだなんて言わない。仕事柄、こういうことにはつい貪欲になってしまって」
「まぁ、地底に太陽があるくらいですから、月に辿り着いたって変な話じゃあありませんよ」
「それもそうねぇ。それで霊夢と魔理沙が、化石の森で生まれたという新しい妖怪の面倒を見ているんだけど」
「へぇ。またおかしなところで妖怪が湧いたもんですね」
「これが陰謀論に骨の髄まで染まってしまった暴れ者でね。他の妖怪にも大迷惑だ、っていうからいま必死で更生させているのよ」
「殊勝なことですねぇ。あのふたりにしては珍しい」
「で、その手間賃を貰いたいそうよ」
「……永遠亭から?」
鈴仙は湯呑を置いて身を乗り出した。
「なんでうちがそんな」
「月都側が作った通路で、月都側のトラブルのせいで生まれた妖怪なんだから、養育費を請求したいって」
「そ、そんな馬鹿な話が」
「私はどちらの立場も理解できるから、できるだけ公平な立場で動きたいと思って。ただまぁ、今回の件では中立よりは一歩だけ向こう側かなぁ」
「勝手なことを。うちだって骨を折ったんだから痛み分けでしょう。言わせておけば良いのよ」
「対応はあれを見てから判断したほうが良いと思うわ」
慧音がつっかけを履き、鈴仙を外へと促した。
何が何だか分からぬまま、玄関から出る。
霊夢たちが何を企んでいるのかは知らないが、永遠亭が脅される謂れなどこれっぽっちも無い。
確かに策は永琳によるものだが、それも月都と幻想郷を救うためである。
感謝されこそすれ、恨まれるなど。
「おぉ、これは見事な蜃気楼ね。あの娘もやるじゃない」
「…………は?」
鈴仙の顎が外れかけた。
秋空にかかる大きな雲の上、それよりも大きな絵巻物が広がっていた。
金と紫で描かれるのは、大陸風の街並みだ。
そこに暮らす人々の姿まで、幻影は細かく映し出していた。
高貴な人々が衣を乱すことなくしずしずと歩いている。兎たちがその間を忙しなくちょこまかと走る。
大通りといい建物の並びといい、やけに懐かしい光景である。
おまけに広場らしきところで兎兵に稽古をつけている少女にはとても見覚えがある。
横着して屋敷の窓から扇子を伸ばして桃の実をもごうとしている少女にも、やたら見覚えがある。
執務室で目を閉じて舟をこいでいる片翼の少女にも、やはり見覚えがあった。
「蜃は雲の上に竜宮を映し出す。そして竜宮とは、確か月の都のことだったわね」
慧音がのんびりとした声で言った。
雲の上に再現されているのは、紛うことなき月都であった。
もちろん幻影であり、中継映像の生放送というわけではなかろう。
だが月都は存在自体がトップシークレットだ。このように地上で大々的に詳細を開示されれば、大問題である。
「な、な、な、な、な、」
開いた口が塞がらないとはこのことであった。
「何を考えてるの、霊夢!」
「まずは八意殿に報告して、霊夢と掛け合ってもらたほうが良いわねぇ。その結果次第では、私がこの蜃気楼についての歴史を食べることになる。これを世界の真実の告発とするか、それともただの蜃気楼として片付けるか。決めるのはそちらです。……何だか、私が陰謀論を吹聴しているみたいになっちゃってるけど」
鈴仙は慌てて荷物をまとめ直して、挨拶もそこそこに永遠亭へと飛び去っていった。
しばらくの間、ニナの見事な蜃気楼を慧音は見上げていた。
秋空を真っ黒な烏が横切って、雲上の楼閣に向けてカァとひと声鳴いた。すると扇子を伸ばしていた少女の視線の先で、桃の実がぽとりと落ちた。