Coolier - 新生・東方創想話

西行妖の春

2026/04/18 18:57:08
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冥界は、静かな場所である。
音が無いわけではない。
風は吹き、花は散り、どこかで誰かが言葉を交わすこともある。
だがそれらはすべて、水面に落ちる花弁のように、かすかに揺れては、やがて何事もなかったかのように消えていく。
ここには、生の喧騒がない。
ただ、時を待つ者たちがいるだけだった。
転生を待つ者。成仏を待つ者。
あるいは、そのどちらにも至らず、ただ留まり続ける者。
姿はあれど重さはなく、想いはあれど、どこか現世から切り離されたような、曖昧な存在ばかりである。
そんな世界にも、四季は巡る。
春になれば、冥界は一面の桜に包まれる。
どこまでも続く白と淡紅。
風に揺れ、はらはらと舞い落ちる花びらは、まるでこの地に留まる魂の数を映しているかのようだった。
それは、賑やかではないが、確かに満ちている光景である。
その中心に、「白玉楼」がある。
広大な庭園を持つ屋敷であり、この冥界においては、ひときわ整えられた場所だった。
人の手が入っているというだけで、ここでは少しばかり特別な意味を持つ。
もっとも、その主は「整える」という言葉とは、あまり縁のない性格ではあったが。
白玉楼の奥、庭園のさらに奥まった場所に、それはある。
一本の桜の大樹。
他のどの桜よりも古く、そして大きい。
幹は太く、枝は空を覆うように広がり、その存在だけで、そこに一つの空間を生み出しているかのようだった。
——西行妖。
そう呼ばれる、その桜は花を咲かせることはない。
周囲の桜が満開の季節であっても、その枝には一輪の花もつかない。
ただ静かに、そこに在り続けるだけである。
それはまるで、何かを拒むようでもあり、あるいは、何かを閉じ込めているようでもあった。
もっとも、その理由を気にする者は、この冥界にはほとんどいない。
関わらぬものに触れようとするほど、ここにいる者たちは熱心ではないのだ。
ただ一人を除いて。
「……相変わらずね」
柔らかな声が、花の下に落ちる。
西行寺幽々子は、ゆるやかな足取りでその大樹のもとへとやって来ていた。
白玉楼の主であり、この冥界に長く留まる亡霊である。
長い時を生きているはずなのに、その仕草や声音には、どこか年齢を感じさせない軽やかさがあった。
すべてを知っているようでいて、何も気にしていないような、不思議な在り方である。
彼女は西行妖を見上げる。
咲かぬ枝。揺れぬ花。
周囲の桜が風に舞う中で、そこだけが取り残されたように静止していた。
「どうしてあなたは、咲かないのかしらね」
問いかけは、独り言に近い。
返事があるとは思っていないし、そもそも、答えを求めているわけでもない。
ただ、そう口にしてみただけだった。
冥界とは、そういう場所である。
意味のない言葉が、意味を持たないまま漂い、そして消えていく。
——だからこそ、その違和感は、すぐに気づくことができた。
気配があった。
西行妖の根元、その影の中に。
誰かがいる。
幽々子は、わずかに首をかしげる。
ここに、他の幽霊が近づくことはほとんどない。
理由は明確に語られることはないが、皆どこかで、この場所を避けている。
それでも、まったくいないわけではない。
迷い込む者も、稀にだが存在する。
だが——
「……珍しいわね」
ぽつりと呟く。
そこにいたのは、老人だった。
背をわずかに丸め、静かに立っている。
幽霊である以上、年齢に意味はないはずだが、それでもなお「老い」を感じさせる佇まいだった。
その視線は、ただひたすらに桜を——西行妖を見上げている。
動かない。
話さない。
ただ、そこに在る。
まるで、その場に縫い止められているかのように。
幽々子はしばらく、その様子を眺めていた。
不思議と、嫌な感じはしない。
むしろ、この静寂に馴染んでいるようにすら思えた。
だからだろうか。
気がつけば、彼女はその男へと歩み寄っていた。
足音はない。
だが、気配は伝わる。
ある程度の距離まで近づいたところで、幽々子は、柔らかく声をかけた。
「そんなに熱心に眺めるなんて、珍しいわね」
その言葉に、老人はゆっくりと顔を向けた。
驚いた様子はない。
ただ、穏やかに、そこにいる者を受け入れるような眼差しだった。
そして、静かに口を開く。
「……ええ。少しばかり、見入っておりました」
声は落ち着いていて、どこか懐かしさを含んでいる。
それは、この冥界に漂う他の声とは、ほんのわずかに質が違っていた。
幽々子は、ふっと微笑む。
「そう。ここに来る幽霊は、あまり多くないのだけれど」
「そうなのですか」
「ええ。だから、少しだけ気になってしまって」
問い詰めるでもなく、ただ興味を口にする。
その距離感は、彼女らしいものだった。
老人は再び、桜へと視線を戻す。
「……見事なものですな」
「咲いていないけれど?」
「ええ。それでも」
その言葉に、幽々子はわずかに目を細めた。
咲かぬ桜を見て、「見事」と言う。
その感覚は、少しだけ興味深い。
風が吹く。
周囲の桜が、いっせいに花びらを散らす。
だが、西行妖は揺れない。
ただ、その下に二人が立っている。
初めて出会ったはずの、名も知らぬ者同士が。
静かに、同じ景色を見上げていた。

しばらくのあいだ、二人は言葉を交わさなかった。
ただ、同じものを見ていた。
風に舞う花びらと、その中でただ一つ、動かぬ桜。
その沈黙は、不思議と重くはない。
むしろ、どこか心地よいものだった。
言葉がなくとも、何かが満ちているような、そんな静けさである。
やがて、老人がぽつりと呟いた。
「……春というものは、どうにも心を緩ませますな」
独り言のようでもあり、誰かに向けた言葉のようでもあった。
幽々子は、少しだけ首を傾ける。
「そうかしら。ここでは、いつでも似たようなものだけれど」
「ええ。ですが——」
老人は、散りゆく花びらを目で追いながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「それでも、やはり春は特別です。花が咲き、やがて散る。その移ろいが、目に見えるかたちで現れる季節ですから」
その言い回しには、どこか整った響きがあった。
ただ感想を述べているだけのようでいて、言葉の選び方に、長くそれを扱ってきた者の癖が滲んでいる。
幽々子は、その違和感を心地よく感じていた。
「あなた、言葉を扱うのが上手なのね」
素直な感想を、そのまま口にする。
老人はわずかに目を細め、かすかな笑みを浮かべた。
「そう見えますか」
「ええ。なんとなく、だけれど」
「……昔、少しばかり」
それ以上は語らない。
だが、その短い言葉の中に、長い年月が折りたたまれているようにも思えた。
風がまた吹く。
花びらが、今度は少し強く舞い上がる。
白く、淡く、視界を覆うほどに。
その中で、老人はふと、低く声を落とした。
「願わくは——」
静かな調子で、言葉が紡がれる。
「——花の下にて、春死なむ」
そこで一度、息を置く。
続く言葉は、まるで風に乗るように、やわらかくほどけた。
「——その如月の、望月のころ」
詠まれたそれは、短いながらも、ひとつの景色を伴っていた。
満ちる月の下、咲き誇る花のもとで、静かに命を終えるという願い。
それは、哀しみというよりも、どこか穏やかな諦観を帯びた響きだった。
幽々子は、わずかに目を見開く。
「……きれいな歌ね」
率直な感想だった。
技巧や意味を読み解こうとしたわけではない。ただ、その響きが、すっと胸に落ちてきたのだ。
老人は、少しだけ困ったように笑う。
「古い歌です。もう、誰も覚えてはいないでしょう」
「そうかしら」
幽々子は、西行妖を見上げる。
咲かぬ枝の向こう、どこまでも広がる春の空。
「少なくとも、今ここで、私は聞いたわ」
それだけで、十分ではないのか——そんな響きを含んだ言葉だった。
老人は何も答えず、ただ小さく頷いた。
沈黙が戻る。
だが今度のそれは、先ほどとは少し違っていた。
互いに、相手の存在を意識した上での静けさ。
言葉を交わすこともできるが、あえてそうしない、穏やかな距離。
やがて幽々子は、ふと問いかける。
「その歌、あなたが詠んだの?」
何気ない問いだった。
だが、老人はすぐには答えなかった。
ほんのわずかな間があってから、静かに口を開く。
「……どうでしょうな」
曖昧な返答。
肯定でも否定でもない。
ただ、過去を遠くに置いたままのような声音だった。
幽々子は、それ以上は追及しない。
興味はあれど、無理に掘り下げるほどではない。
そういう距離感を、彼女は自然に保っていた。
「不思議ね」
「何がでしょう」
「咲かない桜を見て、そんな歌を思い出すなんて」
西行妖へと視線を向けたまま、そう言う。
確かに、この木は美しい。
だがそれは、満開の桜のような華やかさではなく、もっと静かで、閉ざされた美しさだ。
そこに「花の下で死ぬ」願いを重ねるのは、少しだけ奇妙にも思えた。
老人は、その言葉を受けて、わずかに視線を上げる。
西行妖の、咲かぬ枝へ。
「……咲かぬからこそ、かもしれません」
ぽつりと、そう言った。
「咲かぬまま在るものには、別の意味が宿る」
その声音には、先ほどまでとは違う、ほんのわずかな重みがあった。
幽々子は、ゆるやかに瞬きをする。
「別の意味、ね」
「ええ」
それ以上、老人は語らない。
だが、その言葉は、西行妖の奥に何かを見ているようでもあった。
閉じ込められたもの。
留められたもの。
あるいは——
幽々子は、そこまで考えて、ふと微笑む。
「難しいことは、よくわからないわ」
軽やかに言い切る。
「でも、こうして眺めている分には、悪くない景色よ」
その言葉は、すべてを受け入れ、同時に深入りしない、彼女らしい在り方だった。
老人は、わずかに目を細める。
「……そうですな」
同意とも、諦めともつかぬ響きで、そう応じた。
風が、また静かに吹く。
花びらが舞う。
その中で、二人は並んで立っている。
咲かぬ桜の下で。
まだ名も知らぬままに。

風が、少しだけ穏やかになる。
先ほどまで舞い上がっていた花びらも、今は静かに地へと落ちていくばかりだった。
ひとつ、またひとつ。
積もることもなく、ただ消えていく。
幽々子はその様子を眺めながら、ふと呟く。
「散っていくのを見るのも、嫌いじゃないのよね」
どこか楽しげですらある声音だった。
「咲いているときよりも、ずっと静かで……落ち着くでしょう?」
問いかけというよりは、共感を求めるでもない、ただの感想。
だが老人は、ゆっくりと頷いた。
「ええ。終わりが見えるというのは、不思議と心を鎮めるものです」
その言葉には、どこか重みがあった。
幽々子は、ちらりと横目で老人を見る。
その表情は変わらず穏やかだが、ほんのわずかに、遠くを見るような気配があった。
何かを思い出しているような——
あるいは、思い出さずにはいられない何かを。
「あなたは」
気づけば、幽々子は口を開いていた。
「何か、思い出しているの?」
問いは柔らかい。
踏み込むでもなく、ただ差し出すような形で。
老人は、すぐには答えなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに息を吐く。
「……ええ」
短く、肯定する。
「ここにいると、どうしても」
そう言って、視線を足元へ落とす。
花びらが、いくつか積もりかけては、風にさらわれていく。
その儚い動きを、しばらく見つめてから——
「昔のことを、思い出します」
ぽつりと、そう続けた。
幽々子は、何も言わずに耳を傾ける。
続きを促すこともなく、ただそこにいる。
その沈黙が、言葉を引き出す余地をつくっていた。
老人は、やがてゆっくりと口を開く。
「……ある時、すべてを捨てたことがあります」
唐突とも思える話の切り出しだった。
だが、その声音はあくまで穏やかで、激しさはない。
「身の回りのものも、立場も……」
そこで、ほんのわずかに言葉を選ぶようにして。
「……家族も」
付け加える。
風が、またひとつ吹いた。
花びらが舞う。
幽々子は、その言葉に対して、驚いた様子も、否定する様子も見せなかった。
ただ、静かに問い返す。
「どうして?」
責める響きはない。
純粋な疑問だけが、そこにある。
老人は、すぐには答えない。
視線は、再び西行妖へと向けられている。
咲かぬ枝。
動かぬ影。
そこに、何かを重ねるように。
「……理由はいくつもあります」
やがて、ゆっくりと語り出す。
「若さゆえの思い込みもあったでしょう。世の無常に、強く惹かれたこともある」
淡々とした口調だった。
だが、その奥には、かすかな揺らぎがある。
「すべてを離れてこそ、見えるものがあると……そう信じていた」
言葉は整っている。
しかし、それが本当に納得されたものなのかどうかは、わからない。
幽々子は、少しだけ首をかしげる。
「それで、見えたの?」
問いは無垢だった。
だからこそ、まっすぐに届く。
老人は、ほんのわずかに目を細める。
そして——
「……どうでしょうな」
先ほどと同じ、曖昧な答え。
だが今度は、その中に微かな苦笑が混じっていた。
「見えたものもあれば、見えなくなったものもある」
静かに、そう続ける。
幽々子は、ふと視線を空へ向ける。
花びらの向こうに、淡く広がる春の空。
「そういうものなのね」
軽く受け止める。
深く追求はしない。
だが、完全に流しているわけでもない。
その絶妙な距離が、会話を穏やかに保っていた。
しばらくして、老人がぽつりと呟く。
「……ひとり、娘がおりました」
風が止む。
その言葉だけが、静かに落ちる。
幽々子は、わずかに視線を戻す。
何も言わず、ただ続きを待つ。
「まだ幼く……何も知らぬままに、私は去った」
語りは淡々としている。
だが、そこには拭いきれないものが残っていた。
「泣いていたかどうかも、覚えておりません」
一瞬だけ、言葉が途切れる。
「……覚えていないのか、思い出したくないのか」
どちらともつかぬ響きで、そう付け加える。
幽々子は、静かに聞いている。
その表情は変わらない。
ただ、ほんの少しだけ、柔らかさが増したようにも見えた。
「そのあと、どうなったの?」
問いは、やはり穏やかだった。
老人は、遠くを見るように目を細める。
「……何度か、様子を見に行きました」
ぽつり、ぽつりと語る。
「遠くから。気づかれぬように」
その情景は、はっきりとは語られない。
だが、想像するには十分だった。
門の外から覗く姿。
中で遊ぶ子どもたち。
その中に、かつて置いてきた娘がいる。
「……一度、目が合いました」
わずかに、声が揺れる。
「その子は、私を見て——」
そこで、言葉が止まる。
ほんの短い沈黙。
やがて、老人は静かに続ける。
「……怖がって、奥へと逃げていきました」
それだけだった。
それ以上の説明はない。
だが、その一言で、十分すぎるほどの情景が伝わる。
幽々子は、しばらく何も言わなかった。
花びらが、また一枚、足元に落ちる。
それを見つめながら、ゆっくりと口を開く。
「……そう」
短く、ただそれだけ。
慰めも、同情もない。
だが、突き放しているわけでもない。
ただ、その事実を、そのまま受け取る。
そんな響きだった。
老人は、ふっと息を吐く。
「今となっては、どうなっているのかもわかりません」
静かな声で、そう言う。
「もう、とうに——」
言葉が、途切れる。
続きは語られない。
だが、その先は、言わずとも明らかだった。
時間は、等しく流れる。
生きる者には終わりがあり、やがては——
幽々子は、何も言わない。
ただ、静かにそこにいる。
それだけで、この場は保たれていた。
やがて、老人が小さく笑う。
「……妙な話をしてしまいましたな」
「いいえ」
幽々子は、ゆるやかに首を振る。
「こういう話、嫌いじゃないわ」
その言葉は、どこか本心だった。
重くも軽くもない。
ただ、受け入れるという意思だけが、そこにある。
老人は、その言葉を聞いて、ほんのわずかに目を細める。
何かを確かめるように。
あるいは、何かを重ねるように。
だが、それを口にすることはなかった。
風が、再び吹き抜ける。
花びらが舞う。
咲かぬ桜の下で、語られた過去は、静かに空気へと溶けていく。
まるで最初から、そこになかったかのように。

語られた過去は、やがて言葉を失い、静寂の中へと溶けていった。
風が止み、花びらも落ち着きを取り戻す。
先ほどまでそこにあったはずの情景は、今ではどこか遠くへ押しやられたように、輪郭を曖昧にしていた。
幽々子は、しばらく何も言わずに立っていた。
何かを考えているようでもあり、ただぼんやりと景色を眺めているだけのようでもある。
その横で、老人もまた、口を閉ざしている。
互いに、無理に言葉を探そうとはしない。
それでも、不思議と気まずさはなかった。
やがて幽々子は、ふと西行妖を見上げる。
変わらず、花をつけぬ枝。
満開の桜に囲まれながら、ただ一つだけ、そこに在り続ける姿。
「……ねえ」
ゆるやかに、声を落とす。
老人は、わずかに顔を向けた。
「あなた、その娘さんのこと」
言葉を選ぶ様子もなく、続ける。
「ずっと気にしているのね」
責めるでも、哀れむでもない。
ただ、事実をそのままなぞるような言い方だった。
老人は、ほんの少しだけ目を伏せる。
「……ええ」
短く、肯く。
否定する理由も、取り繕う必要もなかった。
「どうしても、気になってしまう」
その声音には、わずかな苦笑が混じる。
「もう手の届かぬことだと、わかってはいるのですが」
そう言いながらも、その視線はどこか遠くに向けられていた。
届かぬものを、それでも追い続けているような。
幽々子は、その横顔をしばらく眺める。
やがて、小さく息を吐いた。
「……変なの」
くすり、と微笑む。
その笑みは、からかうようでもあり、どこか優しくもあった。
老人は、わずかに眉を上げる。
「変、ですか」
「ええ」
幽々子は頷く。
「だって、もう終わったことなのでしょう?」
言い方は軽い。
だが、決して冷たいわけではない。
ただ、彼女の見ている世界では、それは確かに“過ぎ去ったもの”なのだ。
「それなのに、そんなに気にするなんて」
首をかしげる。
その仕草は、本当に不思議そうだった。
老人は、少しだけ苦く笑う。
「そうかもしれませんな」
肯定するが、納得しているわけではない。
それでも、否定する力もまた、持ち合わせていない。
幽々子は、しばらく考えるように黙り込む。
だがそれは深い思索というより、ただ言葉を探しているだけのようにも見えた。
風が、また静かに吹く。
花びらが、一枚、二枚と舞い落ちる。
その様子を目で追いながら、幽々子はぽつりと口を開いた。
「でも——」
少しだけ、間を置く。
「きっと、その娘さんは」
そこで一度、言葉が切れる。
考えているのか、それとも、ただ自然に区切られただけなのか。
本人にも、はっきりとはわかっていないのかもしれない。
それでも、次の言葉は、迷いなく続いた。
「幸せだったと思うわ」
あまりにもあっさりとした言い方だった。
特別な重みを持たせるでもなく、強調するでもなく。
ただ、そう思ったから、そう言った。
それだけの響き。
風が止む。
花びらが、空中でわずかに揺れて、静かに落ちていく。
老人は、動かなかった。
しばらくのあいだ、何も言わずに立っている。
その沈黙は、これまでのものとは少し違っていた。
何かが、そこで確かに触れたような。
そんな静けさ。
やがて——
「……そう、ですか」
かすかな声で、そう呟く。
驚きも、否定もない。
ただ、その言葉を受け取ったという事実だけが、そこにあった。
幽々子は、軽く首をかしげる。
「違うかしら?」
問いかけるが、その調子はやはり柔らかい。
正しさを主張するわけでもなく、ただ確認するだけ。
老人は、ゆっくりと首を振る。
「いえ……」
その声音は、先ほどよりもわずかに低く、しかし穏やかだった。
「そうであれば、よい……ですな」
短く、そう続ける。
その言葉の中に、長く抱えていたものが、ほんの少しだけほどけたような気配があった。
幽々子は、それに気づくことなく、ただ微笑む。
「そうでしょう?」
どこか満足げに。
まるで、ちょっとした会話がうまくまとまったときのように。
深い意味を持たせているわけではない。
ただ、そう思ったから言った。
それだけだった。
だが——
老人は、その言葉を、静かに受け止めていた。
視線は、西行妖へと向けられている。
咲かぬ枝。
閉ざされたままの花。
その奥に、何かを見るように。
やがて、ほんのわずかに口を開く。
「もし——」
言いかけて、止まる。
その続きを、言葉にすることはなかった。
風が、再び吹く。
花びらが舞い上がる。
その中で、老人はただ静かに立っている。
何かを決めたようにも、あるいは、何も変わっていないようにも見えた。
幽々子は、その様子を特に気にすることもなく、再び桜を見上げた。
満開の花と、咲かぬ大樹。
その対比は、先ほどと何も変わっていない。
ただ、ほんのわずかに——
空気だけが、違っているようにも思えた。

風が、ひときわ大きく吹き抜けた。
それまで穏やかに落ちていた花びらが、一斉に舞い上がる。
白く、淡く、視界を覆うほどに広がっていく。
まるで、季節そのものが息をついたかのような一瞬。
幽々子は、思わず目を細めた。
「……綺麗」
小さく、そう呟く。
舞い散る花びらの中で、世界がわずかに揺らぐ。
視界が白に満ちるその刹那、彼女はほんの一瞬だけ、目を逸らした。
風に乗って流れていく花びらを、無意識に追ったのだ。
それは、ごく自然な動きだった。
特別な意味など、何もない。
ただ、そうしただけ。
——そして。
風が、止む。
花びらが、ゆっくりと地へと落ちていく。
白に覆われていた視界が、元の静けさを取り戻す。
幽々子は、何気なく顔を戻した。
つい先ほどまで、隣にいたはずの場所へ。
「……あら?」
声は、軽かった。
驚きというよりは、ほんの些細な違和感に対する反応。
そこには、もう誰もいなかった。
先ほどまで、確かに立っていたはずの老人の姿は、影も形もなく消えている。
足音もなければ、気配の残りもない。
まるで——
最初から、そこには何もなかったかのように。
幽々子は、少しだけ首をかしげる。
「どこへ行ったのかしら」
周囲を見渡す。
だが、視界に入るのは、ただの桜と、静かな冥界の景色だけだった。
隠れる場所など、どこにもない。
それでも、探そうとするほどの熱意はない。
この世界では、現れては消えるものなど、珍しくもないのだから。
「……まあ、いいわ」
あっさりと、そう呟く。
気にするほどのことでもない、というように。
足元に落ちた花びらを、軽く見下ろす。
先ほどと何も変わらない景色。
ただひとつ違うのは、そこにあったはずの会話が、もうどこにも残っていないことだけ。
幽々子は、再び西行妖を見上げる。
咲かぬ枝は、変わらず空へと伸びている。
何も語らず、何も示さず、ただそこに在る。
風が、静かに吹く。
今度は、花びらはほとんど舞わない。
ただ、空気がやわらかく揺れるだけ。
その中で、幽々子はしばらく立ち尽くしていた。
理由はない。
ただ、なんとなく。
その場に留まっている。
やがて、ふと小さく息を吐く。
「……変わった人だったわね」
独り言のように、そう言う。
返事はない。
当然だった。
ここにはもう、彼女以外の誰もいないのだから。
それでも、ほんの一瞬だけ。
何かがそこに残っているような気がして。
幽々子は、わずかに視線を巡らせる。
だが、その感覚もすぐに消える。
冥界とは、そういう場所だった。
残るものは少なく、消えるものばかりが多い。
だからこそ——
彼女は、特に気に留めることもなく、静かに踵を返した。
白玉楼へと戻る、いつもの道へ。
背後には、満開の桜と、咲かぬ大樹。
そして、もうどこにもいない、名も知らぬ誰かの気配。
それらすべてを、そのままにして。
歩き出す。
足音はない。
ただ、花びらがひとつ、彼女のあとを追うように舞い上がり——
やがて、静かに落ちた。

白玉楼への道を、のんびりと戻りながら。
幽々子は、ふと空を見上げた。
桜は、まだ咲き誇っている。
春は、終わっていない。
それでも、どこかで何かが過ぎ去ったような気配が、ほんのわずかに残っていた。
気のせいかもしれない。
あるいは、ただの風の名残か。
確かめる術はないし、確かめる気もなかった。
幽々子は、しばし足を止める。
振り返ることはしない。
ただ、視線だけを空へと向けたまま。
ひとひらの花びらが、ゆるやかに舞い落ちる。
それを目で追いながら——
「——春は、綺麗ね」
ぽつりと、そう呟く。
誰に向けたものでもない。
ただ、その場に満ちているものを、そのまま言葉にしただけ。
返事は、もちろんない。
風が吹く。
花びらが、ひとひら舞う。
それはやがて、どこへともなく消えていった。
冥界の春は、今日も変わらず静かに続いている。
咲く花も、咲かぬ花も。
すべてをそのままにして。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
皆様に楽しんでいただければ幸いです。
Mr
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