話というものは往々にしてカー・ラジオから動き出す。まるでアメリカン・ムービーがそのようにして幕を開けるみたいに。
山間の道はどこまで進んでも薄暗く、しかもぐねぐねと曲がっているから、ずっとこんな道を走っていると気が滅入ってしまいそうだ。街とそうでない場所とをつなぐために切り拓いて作られたわけだから、このような道になってしまうのも納得するしかないのだが。
「急ぐ旅じゃないのでしょう? ゆっくり行きなさいよ」
助手席に腰を下ろした少女がそのように言った。僕はアクセルを踏んでいる足の力を少しゆるめて、車の速度を落とした。少女はそれでとりあえず納得をしてくれたようだった。
カー・ラジオの道路情報によれば、一時間ほど前に起きた交通事故によって、都市高速はおそろしいほどの渋滞になっているようだった。それに巻き込まれないようにわざわざ道を変えたというのに、今度は傲岸な態度をした少女を拾うはめになってしまった。朝にラジオから流れた無責任な占いが(占い師は今日は可もなく不可もない感じだと言っていた)、今になって恨めしく思えた。
──やれやれ。
僕は思考のなかでだけため息をついた。どうやら、簡単な道のりというものは用意されていないようだった。
山間の道を走っているさなか、前を進んでいたハスラーに向けて、少女が手をあげていた。僕はそれを見て、ヒッチハイクをしているのだ、と思った。しかしそれはずいぶんと妙なことだった。この道に入る前には駐車場のある休憩所などもあったのに、こんな山中の何もないようなところに、少女を一人で置いていくことなどあるのだろうか?
ハスラーは止まることなく、そのまま少女をおいて走り去っていった。僕はサイドミラーを確認してみた──後ろをついてくる車はしばらく前からなくなっていた。そして、やはりというべきか、少女は僕の乗っている旧型のステップワゴンに向けて手をあげた。見過すというのも気持ちがよくないので、僕はいちど止まってみることにした。
「ありがとう」
「どこまで行かれるんですか」
「ちょっと遠いところまでね。地名とかはいえないけど」
「なら、とりあえずこの山を抜けるところまで行きましょう」
少女は助手席に乗り込んだ。身なりのせいかもしれないが、彼女は背丈に比べてずいぶんと大人びているように映った。
「私はレミリア。よろしく」
そのように名乗った少女は、うっすらと微笑んだ。その微笑みはどこか小悪魔的なもので、僕は洋画に出てくるファム・ファタール的な女性を想起せずにはいられなかった。期せずして湧いた高揚をごまかすみたいにして、サイドを倒し、アクセルを踏んだ。
発進してすぐに僕はつまみをいじり、カー・ラジオの音量を上げた。この地域のFMはビートルズの特集をしているらしく、四人のセンスある若者たちが、自信たっぷりに歌いくるっていた。レミリアはしばらく組んだ膝の上に頬杖をついて(考える人にそっくりだ)窓の外を眺めていたが、まったく代わり映えしない風景に飽きてしまったのか、僕に話しかけてきた。
「あなた、CDなんかは持ってないの?」
「見ての通りだよ。昔はたくさん持ってたんだけど」
「今は持ってない?」
「荷物の整理をしたときにぜんぶ売ったんだ」
お気に入りのコブクロのアルバムやグラミー・ノミニーズのコレクションたちは親しかった友人の手に渡り、残ったものはブック・オフまで売りに行った。旅のあいだはカー・ラジオだけでも事足りるだろうと思っていたし、実際にそればかりを聞いていても退屈するといったことはなかった。しかし、この少女はそうではないようだった。
レミリアは後部座席の様子をうかがったり、グローブボックスを開けたりして暇をつぶしていたが、それにも飽きたのか、座席を完全に倒してから寝転んでしまった。山道はまだ続くし、危ないからやめたほうがいいと言ったけれど、聞く耳をもってはくれなかった。
「あなた、こんなところで寝泊まりしているの?」
不意に彼女がそのようなことを言った。後部座席においていた荷物を見れば、僕が車中泊をしていることは明白だった。
「そうだよ。思っていたほど不便でもない」
「大きな車にしてるのもそのため?」
その通りだった。レミリアが今そうしているように、ステップワゴンの大きな座席は倒すと立派な寝床になってくれるし、大荷物の収納にもまったく不自由しないなど、この自動車は僕の要求に過不足なく応じてくれるよいものだった。
「必要だったら後ろの毛布を使ってもいい」
後部座席には畳まれた青色の毛布が置かれていた(僕が眠るときに使っているものだ)。レミリアはそれを広げて、自身へと被せた。もしかしたら眠ろうとしているのかもしれない。でも、そうだとしたらずいぶんと危機感がないように感じた。それともヒッチハイクをする人間はみんなこうなのだろうか?
山道に多くあるカーブを、僕はできるだけ静かに曲がっていく。表示板にはデジタルの文字で十五時二十分と出ていた。中途半端な時間だった。そして、山道はどんな時間でも薄暗い。
「どうしてこんな旅をしてるの?」
レミリアは出し抜けにそう尋ねてきた。退屈しているから何か話せ、という態度を隠そうともしていなかった。僕はせわしなくハンドルを切りながら、どのように答えたものかと頭をひねった。
「向かうべきところを探してるんだ」
少しばかり考えて、そのように答えてみた。少女は何も言わなかったが、かわりに呆れたような小さなため息をした。どうやら、僕の答えが気に入らなかったようだ。
「君こそどうしてヒッチハイクなんてしてるんだ?」
やり返すように僕はそう質問した。レミリアはなげやりに、そして簡潔に答えた。
「人探しをしたいけどお金がないの」
それ以上、彼女の言葉はなかった。つられて僕も無口になってしまうような沈黙が生まれた。ただ同乗しただけの人間との付き合いなど、案外それくらいなのかもしれない。ビートルズの「ハロー、グッドバイ」という声だけが車内にむなしく響くこととなった。
「車が好きなの」
独り言をするみたいに、レミリアはぽつりと言った。それから言葉を次いだ。
「命を運ぶものだから」
僕は彼女の言葉について考えを巡らせてみた。でも大した考えは浮かんでこなかった。あるいはそれはビートルズの歌のせいであったかもしれない。
「まるで運命みたいに?」
「そう。まるで運命みたいに」
デジタルの数字が十七時五十八分である旨の表示をしたころ、遠くで灯っていたばかりの街の明かりがようやく近づいてきた。僕は息を吐いた。それは長い航行を終えた船の船長がする、疲労とも安堵ともつかないところから湧いてくるものに似ていた。
秋も深まってきた季節の午後六時近くというと、日が暮れるには十分な時刻だった。紫紺色をした空のもと、街では目をぴかぴかと光らせた自動車の群れがそれぞれの住処へと向かっていた。カー・ラジオのパーソナリティが人々にねぎらいの言葉をかけていた。
僕はいつもの癖で一晩じゅう駐車のできるところを探そうとしたけれど、今は同乗者がいるのだということをすぐに思い出した。隣に目をやると、レミリアは倒されたままの助手席で静かに眠りこけていた。その姿は可愛らしいものではあったが、やはり危機感が欠けているように思えてならなかった。
車を走らせながら、この少女をどこに置いていったものだろうと僕は考えた。どのように考えても、やはり警察などに任せるのがもっともよいことであるように思えた。僕は今晩泊まれそうな駐車場を探す傍らで、ときどきスマートフォンに目を落としながら、交番の位置を確かめていた。
「今はどこに行ってるところ?」
目を覚ましたレミリアが、背伸びをしながらそのように言った。ちょうど近くの交番の位置がわかったところだった。
「警察に向かっているところだよ」
「あら、助けが必要な人でもいて?」
僕は思わず彼女のほうを見た。すると、対向車から短くクラクションが鳴らされ、慌ててハンドルを切った。
「人探しをしてるんだろう?」
「警察の世話にはなりたくないの」
衝撃的な告白だった。それは自分が怪しい者であると言っているのと何も変わらなかった(もっとも、はじめから怪しいところばかりではあったが)。それでも、身元のわからない少女を伴うという行為は、社会からあらぬ疑いをかけられてしまう危険を大いに含むものだった。僕はレミリアをどこかに預けられないか、と頭を巡らせた。
「あなただって男なのだから、まさか女の子をおいていったりしないでしょう?」
僕は反論をしようとして、すぐさま口を閉じた。男だとか女だとかいうのは現代の大きな潮流であり、下手にそのような流れに乗ってしまえば、振り落とされて荒波に揉まれることになってしまう──つまり、女の子に口論で勝てる見込みがないのだった。僕はいちど静かに海を眺めることにした。
「おなか空いたから、とりあえず夕ご飯食べましょうよ」
レミリアの気楽な言葉に覚えず頭を抱えそうになったが、まさかハンドルから手を放すというわけにもいかず、僕はやり場のない気持ちを胸のなかに押しとどめた。彼女の言う通り、僕にしてもまずはご飯を食べるべきだった。
少しばかり車を走らせたのちに、馴染みのあるファミリー・レストランがあるのを見つけたので、ひとまずそこで夕食をとることにした(そこでわかったことだけれど、レミリアは一文無しということはなかった)。入店するときにわずかに緊張があったが、怪しまれたりしないように、僕はむしろ堂々とした姿勢をとった。レミリアはそんなことは気にしていないようだった。
僕たちは四人がけのテーブル席に通された。夕食をとるには早い時間だと思っていたが、店内には僕が思っていたよりも多くの客がいた。もちろんそのなかには本物の家族(だと思う)もいて、僕はいささか妙な心持ちにならざるをえなかった。
レミリアはソファに腰を下ろすとすぐにメニューを手に取り、落ち着きなくじろじろと目を走らせた。僕がバッグを置いて冷水を取りに行こうとすると、私はいらないから、という声が後ろからかけられた。下唇を突き出すような気分だった。
冷水を一つだけ持って席に戻ったところ、レミリアはまだ頼むものに悩んでいるようだった。もう少し時間がかかりそうだと思い、僕はハード・カバーで装丁された流行りのミステリーをバッグから取り出して読みはじめた。それから少女はたっぷりと時間を使って、ようやく大盛りのアラビアータを頼むことを決めた。
僕は彼女からメニューを受け取り、もとから決めていたように、カレー・ドリアとコーン・スープを頼むことにした。レミリアはもう少し悩めと文句を言ってきたが、君が長かったからと言うとおとなしくなった。
それからまた読書へと戻ったのだが、流行りのミステリーにはあまり引き込まれなかった。あるいはそれは、今の自分が置かれている状況のほうが、それよりもよっぽど謎めいていたからかもしれない。僕はあきらめるように本を閉じて、目の前に座る少女について考えてみた。
レミリアはどこかへ置いていかなくてはならない──もちろん、誰かに彼女の保護を頼むということだが。幼い少女がたった一人で人探しをしているというのは、なんとも応援したくなるような話だが、そのようなときに寄り添うべきであるのは僕のような旅人気取りではないはずだった。
しかし、彼女は警察には頼りたくないとも言っていた。それが単なる幼いときに特有の反抗心などではないのであれば、レミリアには何か隠しておきたい事情があるということになる。しかし、こんな少女がいったいどのような事情を抱えているというのだろう?
僕は改めてレミリアをよく観察してみた。少女はきょろきょろと辺りの様子をうかがっていた。それは探し人をそのなかに求めているようにも見えた。
「人探しと言ってたけど、いったい誰を探してるんだ?」
その様子を見て、僕はそんなことを尋ねていた。レミリアが人探しをしているというのは、嘘ではないと感じたからだ。彼女は僕のほうをちょっと見て、それから口を開いた。
「妹を探してるのよ」
やはり言葉少なにレミリアはそう答えた。それから、やはり付け足すようにして言葉を続けた。
「一人にしておくと不安だから」
それ以上の言葉はなかった。レミリアはもう話すつもりはないと告げるかのように口をかたく結び、押し黙ってしまった。それは他には何も訊くな、という意思表示のように映った。
僕はウェイトレスが料理を運んでくるまでのあいだ、色々なことを考えた。もちろんそのうちのほとんどはレミリアについてのことだった。恥ずかしいことではあるが、僕のうちに、彼女に対する同情心のようなものが湧いてきているのが感じられた。
彼女は妹のことを本気で心配している──僕はそんな印象を抱いた。そして、僕はそれを手助けしたいとも感じてしまっていた。しかし、それは正しい行いではないように思われた(もちろん正しくない行いだ)。レミリアがどのような境遇におかれていたとしても、僕が果たすべきことは適切な場所まで彼女をつれて行くことだけだった。
しかし、レミリアを置いていくことが何か傷(のようなもの)を僕の心に残していくことを、僕は予感していた。ここで彼女の手助けをしなければ、僕はふとしたときに自問することになるだろう──あのあと彼女は妹に会えたのだろうか? 妹と二人になって、それから無事に過ごせているのだろうか?
ことり、という音を立ててコーン・スープが僕の目の前に置かれた。それではじめて僕は思考のうちにこもってしまっていたことに気がついた。僕は現実のことがらに意識を戻したあと、スプーンを手に取り、湯気を立てているそれを口へと運んだ。それはクリームの甘さととうもろこしの風味をよく持つ、とてもありきたりなコーン・スープだった。僕はつとめて肩から力を抜いた。
レミリアはあとからウェイトレスが運んできたアラビアータを、フォークですくい上げてから、実に美味しそうに頬張った。それは見た目にたがわない幼さを感じさせるしぐさであったから、彼女はやはり子どもであるのだ、と僕はカレー・ドリアを食べながら思った。
食事は黙々と行われた。僕も彼女もとくべつに何かを言おうとはしなかった。もちろん僕たちのあいだにはいくつもの話すべきことがらがあったのだけれど、それは今ここで解決を図るような種類のものではなかったのだ。
僕たちは改めてテーブル越しに向かい合った。僕の前にはホットコーヒーが置かれていて、彼女の前にはピーチ・ジュースが置かれていた。
どちらとも飲み物に口をつけようとしなかった。お互いに話をはじめるタイミングを慎重に見極めようとしているようだった。そして、はじめに口を開いたのは僕だった。
「君の妹はどんな子なんだい」
僕はそのように質問してみた。まるで、今から気軽な世間話でもするみたいに。レミリアは少しばかり考える素振りを見せたのちに、自身の妹についてとくとくと話しはじめた。
それは実に長い話となった。僕はときおり腕時計に目をやり、時刻を確かめることを余儀なくされた。彼女はその長い話のなかで数えきれないくらい妹への悪態をついた。それは例えば、好む創作物の傾向や、ものぐさな姿勢や、身だしなみへの無頓着さなどについて、といったものだった。そしてきまってそれらに際してどのようなサポートをするべきかも併せて語った。彼女は実に多くの点で妹を批判した。その様子は『白鯨』の愛読者がその作品を熱心に語るさまを僕に連想させた。
ともかく、申し訳なくなってしまうほど稚拙な僕の要約によると、レミリアは妹を愛しているということだった。
彼女の話が終わり、ピーチ・ジュースがからになったころ、時刻は二十時三十分となっていた。僕はすっかり冷めてしまったコーヒーの残りを飲み下した。長い時間を語り通しだったのにも関わらず、レミリアはまったく疲労した様子を見せなかった。むしろ僕のほうが疲れてしまったみたいだった。
いちど自身の思考に集中するため──そしてそのための体力を養うために、僕は少し硬めのソファに背をもたれさせた。様々なことについて思考を巡らせざるをえなかった。それは例えばレミリアの妹について。あるいはこれからのことについて。
自身の胸中をのぞいてみると、ある気持ちが揺れ動いているのが確かに認められた。そしてそれは、彼女を助けなくてはならないという気持ちだった──そんな道理などありもしないのに。僕はできるだけ冷静になろうとして、からになってしまったコーヒーカップをそうだと知りながらもあおった。しかし、そんな行為にこれといって意味はなかった。
彼女は妹を深く愛している──そしてその妹を失っている。僕はそのことを悲しく思う。幼い姉妹たちが本意でもないのに別たれてしまうことを、いったい誰が望むだろう?
しかし、僕は例えば探偵がするように、うまく人探しをこなせるような人間ではなかった。僕の果たすべき役割はきっと、彼女をこの街まで(あるいはこのファミリー・レストランまで)連れてきたところで終わっていた。そして、それ以外に何をするべきでもないはずだった。
そのはずであるのに、僕はあきらめ悪く彼女に質問をしていた。
「警察を頼りたくないと言っていたね」
「ええ」
「理由をきいてもいいかい」
レミリアは何も言わなかった。それだけ人に話したくないことがらであることが察された。
彼女にいったいどのような事情があるのか、僕には推し量るべくもない。しかし警察などといった、本来そのために存在している組織に彼女が頼ろうとはしていないのは確かなことだった。そのように考えると、まるで僕だけが彼女を手助けできるかのように錯覚してしまいそうになった。僕はもういちどばかりコーヒーカップを手に取ろうとして、やめた。
不意に、押し黙っていたレミリアがその口を開いた。
「詳しくは言わない。でも、今の私の立場はひどく弱いの」
それはどういう意味で、と僕は尋ねようとしたが、それよりも早く彼女はテーブルへと半身を乗り出していた。そのしぐさは、強い視線で獲物をその場に留めさせる手慣れた猟犬を思わせた。僕を見つめる彼女の目には、僕を惹きつける何かが確かに存在していた。
「だから、まさか助けないなんてことはないわよね」
それは有無を言わせないような、断言的な口調をしていた。僕は彼女の目と向かい合った自身の目を、しばらく逸らせないままでいた。言葉こそ脅迫じみたものであったが、僕がその目から感じとったものは、実のところそれとはまったく違ったものだった。
彼女はこのような形でしか人を頼れないのだ──僕はそのように思った。
そうすると今までの彼女の傲岸な振る舞いが、僕のなかで妙に納得がいくものとなった。おそらく彼女にとって誰かに助けを求めるという行為は、自身のうちの何か──それは例えばプライドなどといったもの──を大いに挫く行為であるのだろう。
あるいはそれは僕の勘違いであるかもしれない。レミリアが単なるわがままな少女であるという事実を、僕が好意的に見ているというだけなのかもしれない。でもどのようにしたって、彼女からのその言葉を(あるいは僕へと向けられたその目を)僕は助けを求めるものであると解釈したのだ。
レミリアを助けたい──その気持ちは僕のなかで、やがて一つのがっしりとした芯のようなものを持つまでに至った。
しかし、彼女を助けるためにいくつかの実際的なことがらというものを僕は考えなければならなかった。依然として僕と彼女は単なる同乗者の関係でしかなく、誰かに怪しまれたりなどすれば、もう言い訳を述べることすらも許してはもらえないのだった。まずはこのようなリスクをなくしておく(あるいは少しでも軽くしておく)必要が僕にはあった。
「レミリア」
僕ははじめて彼女の名前を口にした。それは少しばかりの緊張を含んだ行為だった。レミリアは僕から視線を逸らさないまま、もといた場所へと座り直した。どのように話をはじめるべきであるのか、僕はいささか悩むこととなった。
「僕は君に力を貸したいと思っている」
少し考えてから、そのように話を切り出した。レミリアは耳を傾けてくれていた(そのように僕の目には映った)。
「でも、それにはいくつもの不都合がある。君にもわかってもらえると思うけど」
彼女は理解を示すように小さく数回うなずいた。もはや僕たちは、話さなければならないことを話すところまで来てしまっていた。
はじめに、僕たちはこの関係をどうにかしてごまかす方法を話し合った。すべてを嘘で固めるというわけにもいかなかったから、もといた会社で仲が良かった同僚の娘を預かっている、ということにした(もしその同僚の名前を出すようなことがあれば申し訳ないと思う)。もちろんそれは問い詰められたらすぐに暴かれてしまうような嘘だ。僕たちは警戒心が強い野生の兎のように、ひっそりと息をひそめて動く必要に迫られた。
「どのようにしてもリスクがある。負う必要のあるリスクが」
僕は彼女に聞かせるというよりはむしろ、自身を戒めるようにそれを口にした。彼女に手を貸すということはつまりそういうことだった。それを耳にしたレミリアはわずかにうつむいたあと、何かきわめて大事なことを確認するかのように、慎重に口を開いた。
「でも、あなたは私を助けてくれる」
彼女はそのように言った。そう、僕は彼女を助ける。
二十二時十一分(なんとなくキリがいい数字だ)、僕たちは二人でステップワゴンのなかにいた。レミリアは後部座席を収納することでできたスペースに寝転がり、僕は倒した運転席に眠る場所を確保していた。
夜通し停泊できるような場所を見つけるのに時間がかかり、すっかり夜も更けてしまっていた。僕はエアー・コンディショナーの勢いを強めて、なんとか夜の寒さに抵抗しようとした。それは焚火の近くで夜を越す寒い地域の兵隊を思わせる行為だった。
つまみをFMのものに合わせると、やはりそこではパーソナリティが、夜はまだ続くと言わんばかりにまくしたてていた。これから眠るというときに聞くにはそれはいささかそぐわないものだったので、僕は音量のつまみを回し、その声を小さくした。するとそのうちに、それはちょうど心地いいくらいのバック・ミュージックになった。
レミリアの様子をうかがってみると、彼女は僕のふだん使いの枕を頭にしいて、やはりふだん使いの毛布にくるまっていた。どうやら、すっかり寝る支度は整ったようだった。
「床が硬くないかい」
「気にしないわ」
彼女はそれだけを返答としてよこした。きっとレミリアは会話する気分ではないのだろうと思い、話しかけるのはしばらくよしておくことにした。
それからしばらくのあいだ、ささやかなラジオ・パーソナリティの会話だけが車内にはしていた。僕たちは二人とも、自発的にする会話というものを忘れてしまったように思えた。
「私を助けてくれるという話だったけれど」
すると、レミリアが僕へと話しかけてきた。それはまったく意識外のことだったから、僕はやや大げさに驚いた(もちろん内心でのことだ)。
「本当にいいの」
「今になって取り消したりはしないよ」
実際のところ、彼女を助けたいという気持ちが消えることはどうやらなさそうだと僕は感じていた。出会いが偶然のものであったとはいえ、誰かが大きく困っていて助けを求めているというのなら、やるべきことは自ずと定まっていくものだった。
レミリアはふたたび黙り込んだ。そのあとに続くはずだった沈黙はカー・ラジオが埋めてくれた。それからちょっとして彼女が口を開いたので、おそらく会話の話題を探していたのだろうと推察できた。
「あなたはどこに向かっているの?」
どうやら、彼女は一般に世間話と呼称されるものを僕と行おうとしているようだった。僕は彼女からそのようなアプローチが来たことに若干の喜びを感じつつも、質問への答えには窮することとなった。
少しのあいだその質問について考えてみたものの、明確な答えは何一つとして浮かばなかった。僕はただ本能とでも表すべきものにしたがって、車に乗って理由もなく北上していただけなのだ。勤めていたところから暇を出されて、宙づりとなってしまった僕を、仮止めの目的でなんとか現世に留めておくために。
「わからないな。僕にも」
僕は正直にそう答えた。一つでも目的地を設定しておくべきだったな、とはじめて思った。どうしてこんなことをしているのかなど、これまで考えようともしなかったから。
やはりというべきか、レミリアはそれを聞いて黙ってしまった。面白みのない返答をしてしまったことを僕は申し訳なく思った。カー・ラジオは車内の空気を和ますみたいに(あるいは僕へのあてつけみたいに)、静かなオフ・ボーカルの音楽を流していた。
すると、不意にレミリアが言葉を発した。
「あなた、ひと段落したら湖へと向かいなさい」
その言葉が耳に届いたとき、はじめ僕はカー・ラジオの音声ではないかと考えた。しかしカー・ラジオは何も話してはいなかったし、その声から感じ取ることができる満ち溢れるような自信は、間違いなくレミリアのそれだった。
僕は首を傾げざるをえなかった。彼女がどのような意図からそれを口にしたのか、まったく見当がつかなかった。真意を尋ねようとしたが、まったく有無を言わせない態度から、おそらく答えてはくれないのだろうと感じた。
「君の妹を探す手立てはあるのかい」
代わりに僕はそのように尋ねてみた。それは会話を続けなくてはならないという義務感のようなものからであり、さしあたっての目的地を決めるためでもあった。
「場所なら心当たりがあるわ」
レミリアはそのように言った。僕は彼女の興味深い話に集中するために、つまみを回してカー・ラジオの音量をさらに小さくした。
「まずは図書館。それから、人が多くいるところ」
僕はスマートフォンを操作し、この街のおおまかな地理を確認してみた。街には市民図書館もあったし、少なからず人が集まりそうな複合商業施設だってあった。これから向かうところは、ひとまずその二つになるだろう。
「ところで、君の妹はそういうのが好きなのか?」
レミリアが候補にあげた二つの場所は、あまり似通っていないものであるように僕には思われた。彼女は「私の妹は知りたがりなの」と前置きしてから言葉を続けた。
「その二つが効率的だというだけよ」
時刻が零時となり、カー・ラジオも音楽を止めたころ、僕はステップワゴンのエンジンを落とした。レミリアはしっかりと毛布にくるまっていたから、暖房がついていなくても凍えることはないだろう。毛布は一つしか用意がなかったから、僕は愛用しているコートをその代わりにして被ることにした。
前を通っている駐車場に面した道路を、ちょうどわずかに栓がゆるめられた水道から垂れていく水のように、ヘッドライトの残光が途切れ途切れに横切っていった。人の流れは止まることがない。ちょっと前までの僕もそうであったように。
僕は眠りに入ろうとしたが、どうにも寝付けそうになかった。あるいはそれは緊張が原因であるかもしれなかった。なにしろ、この車にはレミリアが眠っていて、僕があらぬ誤解をかけられる可能性だってまったくあり得るのだから。
改めて僕は、自身が置かれている今の状況について考えを巡らせてみた。それはこれまでにした誤った判断を見つけるためのものではなく、これからの僕の身に──あるいはレミリアの身に──ふりかかることがらを冷静に受け止めるためのものだった。
きっと予想できないようなことがらが僕たちに起こる、という予感が漠然としていた。それは雨が降るときに先立って湿気の匂いが漂ってくるような、ある意味で必然的なものであるように僕には思えた。
なにしろ、僕はこれまでこういった経験をまったくしてこなかった──少なくとも常識に則って行動することを心がけるようにしていたはずだった。そのはずが、僕は自らの手で彼女を助けようとしている(そしてそれに伴ったリスクを背負っている)。このような状況にあるのはきっと、僕のなかにある何かが変化した──あるいは、今まさに変化の最中にあるからに違いなかった。
そのように考えてみると、レミリアの妹を探す旅の先に、新しい僕が待っているのかもしれない、と感じた。もちろんそんなによくできた話はないとも思うけれど。それでも、この旅が終わるころには何かの意味を見出せていたらいいな、とようやく健常な眠気を覚えはじめた頭でそのように考えた。
朝は静かに訪れた。僕はいつものように知らぬ間に眠りに入り、知らぬ間に朝を迎えていた。スマートフォンの画面を点けてみると、時刻は七時二分となっていた(働いていたときのクセでいつも僕は七時前後に起きてしまう)。今日向かおうと思っていた図書館の開館時間は十時となっていたから、さしあたっては時間を潰す必要があった。
レミリアの様子を確認してみると、彼女はまだ眠りこけているところだった。僕は静かにカー・ラジオのスイッチを入れて、ニュースにつまみをあわせた。演技をしているみたいな鳥の鳴き声が窓の外からはしていた。
ニュースの内容は今の僕の興味を惹くようなものではなかった。それはただ世界が滞りなく回っているという事実を僕に伝えるだけのものだった。しかし、レミリアの起床を待つあいだに流れるものとして、これ以上のものはないようにも思えた。
およそ三十分ほどのニュースをすべて聞き終えたとき、レミリアはひどく大きなあくびを一つかいた。それは彼女の起床を知らせるものとしての役割を存分に果たすものだった。僕は朝の退屈な時間に付き合ってくれた勤勉なニュース・キャスターに向けて、心のなかでお礼を言った。
「おはよう。食事はマクドナルドでもいいかい?」
「うん」
まだ完全には目を覚ましてはいないレミリアにも手伝わせて、後部座席のシートを起こした。そうしていつものように五人がけ(最後列のシートはいつも倒されたままになっている)へと戻ったステップワゴンで、近くのマクドナルドへと向かうことにした。
この時間帯の道路はやはり混雑していた。目的地への道のりはわずかなものだったが、僕たちは晩秋の朝日がそのようにして昇っていくみたいに、ゆっくりと進まざるをえなかった。昨日と同じく助手席へと収まったレミリアは、やはり退屈そうにしながらも、絶えず注意深い目をわきの歩道へと注いでいた。
マクドナルドについたとき、時刻は七時四十五分になっていた。店内にはおおむね予想していたくらいの数の客がいた。色褪せたパーカーを着た若者や、パソコンと向かい合うサラリーマン風などがまちまちといったところだ。まだ少し慌ただしい気配が残っているカウンターは、朝の盛況ぶりを感じさせた。
僕たちはわずかな人数をした列に並んで、注文する番がまわってくるのを待った。そのあいだ、レミリアはカウンターの上に掲げてあるメニューをじっとにらみつけていた。どうやら彼女はその背丈ゆえにメニューがよく見えていないようだった。僕はスマートフォンをポケットから取り出し、メニューの一覧を画面に表示させてからレミリアに手渡した。彼女はそれで満足そうにした。
それから少しして、僕たちが注文を行う段になった。僕はソーセージエッグマフィンとホットコーヒーを注文し、レミリアはてりやきを注文した。それらの会計を終えたのちに、店員から番号が記された小さなプラカードが渡された。レミリアがそれを興味なさげに受け取った。
僕たちはカウンターに近いところにある、二人掛けのこじんまりとした席に座った。ここがとくべつに望ましい場所だったというわけではない。単に注文したものを受け取りに行くのに便利そうだったからここを選んだだけだ。
腰を下ろしたあと、僕はいつものようにミステリーを取り出そうとして、ちょっとの思考ののちにやめることにした。読みはじめたところですぐ中断することになるだろうし、そのような継ぎ接ぎのような形をした読書は、一つの本を楽しむのにけして適切な方法ではなかった。
渡された番号が呼ばれるまでのわずかな時間を、僕はただぼんやりとしながら待つことにした。店の内外を隔てる壁には大きな窓が設置されており、そこからの景色はすべてが朝の潔癖な光に照らし出された瑞々しいものだった。それがやたらとまぶしく感じられたので、僕は思わず目を逸らした。
一方のレミリアは、これといって感情のうかがえない顔つきをして、頬杖をついて外の景色を見つめていた。おそらく妹のことを考えているのだろう。これから赴く図書館に、少しでもその手掛かりがあればいいが、と思う。
「ところで、君の妹は生活できるだけのお金を持っているのか?」
僕はレミリアにそのように質問してみた。どうやら彼女は生きるのに不自由しない程度には蓄えているようだったが、彼女の妹までもそうであるのかはわからなかった。
「妹用の口座があるはずよ。多分、覚えていないだろうけど」
「覚えていない?」
「あの子はあまり使っていなかったから」
僕はそれらのことについてもう少し質問を重ねようかと思ったが、やめておいた。彼女たちにはそれなりの事情があるようだったし、僕がわざわざ聞き出すことようなこともないだろう。
「ということは、君の妹はかなり苦労しているんじゃないか」
「どうかしら」
レミリアはそれだけを答えた。それから不意に軽い電子音が鳴らされ、カウンター近くの掲示板に僕たちの番号が照らし出された。
二人で使うにはやや小さいテーブルの上に、頼んだ通りのものを載せたトレーが置かれた。僕はそのうちのソーセージエッグマフィンを手に取り、レミリアはてりやきを手に取った。
「いただきます」
僕は紙のつつみを開き、あらわになったそれにさっそくかぶりついた。表面はつけられた粉によってざらざらとしていて、僕はその感じをそれなりに好んでいた。マフィンの食感は柔らかく、朝食として食べるには適切なものであるように思えた。そして挟まれた具材はそのどれ一つをとっても、及第点のぎりぎりを狙ったかのような味をしていた(僕はこのようなものが好きだ)。
レミリアはというと、思いきりてりやきにかぶりついたせいで、溢れたマヨネーズやソースでその口元を汚していた。てりやきは子どもに人気があるという言説を耳にしたことがあったが、おそらくそれは事実なのだろうと思った。僕は紙ナプキンを渡したが、彼女はそれを使うことなく、小さな舌でもってそれをすべて舐めとってしまった(そのあとで口元を拭っていた)。
マフィンを食べ終わったあと、僕は口元を拭い、まだざらついている口のなかにホットコーヒーを流しいれた。こうすると食事の満足感が高まったように感じられるからだった。僕は苦みがちょっと強いそのコーヒーを、静かに舌の上でころがして味わった。
「ごちそうさまでした」
頼んだものをすべて腹のうちに収めた僕たちは、それから少しのあいだ、まるで何かを待っているかのように席から離れないままでいた。それはあるいは休息のようなものだった──食事をしたという感覚を身体になじませるためのものであり、これからのことがらに向けて備えるための。
僕は腕時計を確かめてみた。時刻はおよそ八時十五分だった。図書館が開くまでにはしばらく時間があったが、それまでここで待ち続けるというわけにもいかなかった。僕たちは手早くごみをまとめたのちに、トレーを返却した。退店するとき、今はあまり忙しくなさそうにしていた店員たちが、口を揃えてお礼を言った。
「コンビニエンス・ストアに寄ってくれない」
助手席に座るなり、レミリアはそのように言った。スマートフォンで最寄りにあるものを検索してみると、どうやら近いところにセブンイレブンがあるようだったので、そこまで向かうことにした。
その道中、歩道をゆく人の姿をほとんど見かけなくなっていることに気がついた。現在の時刻を考慮するに、既に誰もがいるべき場所にたどりついているということなのだろう。僕はほんの一瞬だけ、カー・ラジオを聞きながらこうして車を走らせていることに対して、奇妙な現実感の喪失を覚えた。
大きなビルに挟まれたセブンイレブンの駐車場は、ホンダや日産などの軽自動車がいくつか停まっているだけで、ほとんどのスペースを持て余していた。どうやらこの時刻にコンビニエンス・ストアを利用する人間の存在はそこまで多くないようだった。
入口の近くの場所に車を停めて、エンジンを落とした。そうすると車体は振動をやめ、カー・ラジオもその声を消した。車から降りると、ステップワゴンは実際のそれよりも大きいように僕の目には映った。おそらく、他に停められている車と比べてそう見えているだけなのだろうが。
店内に入るなり、レミリアはエー・ティー・エムへと向かった。おそらくそのためにコンビニエンス・ストアまで寄らせたのだろう。僕はこれといって買うものなども思いつかなかったので、退屈をごまかすようにしてトイレに入った。
僕はいかにも清潔をしたトイレに座り込み、長い時間をかけて用を足した。ある種の動物は排せつの頻度が極端に少なく、ともなって一回の排せつにかける時間がとても長いのだという(そのため、その動物は誰にも見つからないような空間を探して排せつをする)。もしかすると僕の身体にも、旅をしているあいだにそのような機能が備わってきているのかもしれない、と思った。
トイレを出ると、カウンターと向かい合うレミリアの小さな後ろ姿が見えた。僕は彼女が会計を終えるのをその近くで待った。そのときに駐車場の様子をうかがってみたが、車は増えも入れ替わりもしていないようだった。
「お待たせ」
そう言ったレミリアの手には缶コーヒーが握られていた。
「コーヒーならさっき買ってもよかったんじゃないか」
僕はそのように言ってみた。それは缶コーヒーよりもマクドナルドのコーヒーのほうが美味しいものであるように僕には思えたからだった。するとレミリアは、思わせぶりな微笑を浮かべながら、このように答えた。
「缶が好きなの。鉄の味がするから」
それは僕にはあまりピンとこない感覚だった。どうやら彼女は、その言動に違わない独特な感性をほこっているらしかった。
車内に戻り、僕はすぐさまエンジンを起こした。それと同時に、カー・ラジオのスイッチが入り、政治コメンテーターたちの討論の様子を伝えはじめた。やはりその内容は僕の興味を惹くようなものではなかったが、そのことはかえってこれからのことを考えるのに有効に働いた。
改めて時刻を確かめてみると、現在の現在は八時二十二分(と数秒)となっていた。図書館が開くまでまだまだ時間がある。僕はスマートフォンのマップを使い、図書館の近くに何か時間を潰せそうなものがないか調べてみた。
しかし、ある程度の時間をかけて探したにも関わらず、そのような類のものは見当たらなかった。唯一、図書館の近くに美術館があるのを見つけ、いくらか興味を惹かれたのだが、やはりそこも図書館と同じ開館時間に設定されていた。
僕は少しばかり考えた。僕だけであれば手にしたミステリーやスマートフォンなどで時間を潰すことも可能だったが、レミリアは見たところそのような類のものを持っていなかった(そのくせ彼女は退屈することを嫌っているようだった)。
ほとんど希望はなかったが、あるいはという思いを込めて、僕はカー・ラジオのチャンネルを切り替えてみた。しかし当然というべきか、どこにチャンネルを合わせてみても、とくべつに楽しめるような放送はしていなかった。こんな時間に暇を持て余しているような人間などそうはおらず、そしてそのような人間にラジオがわざわざ応える義務もないのだった。
レミリアは買った缶コーヒーをとっくに飲み終えてしまっていて、今はその残骸を手のなかでもてあそんでいる。それは退屈していることを僕に言外に伝えているようでもあった。
「今のうちから図書館に行っておくかい?」
僕は意を決してそのように言った。これといって彼女の退屈を紛らわす算段があるわけではない。ただ、このままコンビニエンス・ストアの駐車場にいても何も起こらないと思っただけだ。レミリアはそっけない返事を一つだけよこした。
図書館までの道のりはおよそ十分といったところだった。カー・ラジオからはニュース・キャスターによる周辺で起こった出来事のまとめが流されていた。それは流すにあたりもっとも穏当なものを選んだ結果だった。
道路を走る車は多かったが、それはこの規模の街における(そしてこの時刻における)平均的な交通量を逸脱していないように思えるものだった。そのおかげで僕はけっこう調子よくステップワゴンを走らせることができた。そしてその道中で、僕はふと思いついた質問をレミリアにしていた。
「そういえば、なぜあのとき山にいたんだ?」
彼女はヒッチハイクをしているようだったが、僕が拾ったときには何もない道──それも通る車もそう多くはない道──に一人で立っていた。それはどのように考えても奇妙なことだった。口にしたあと、むしろ最初に尋ねておくべきことだったかもしれない、と思った。
レミリアはふん、と大きく鼻を鳴らした。くだらないことを訊くな、と言わんばかりだった。
「あそこにいるのが一番よかったのよ」
彼女はいたって簡潔に、そのように答えた。しかし、僕の質問への答えとしてはそれはあまりにも不明瞭なものだった。
「よかったというのはどういう意味で?」
レミリアはまたしても鼻を鳴らした。
「例えば、あなたが私を拾ったことが」
僕は彼女のその言葉について、考えを巡らせてみた。確かに、僕がレミリアの前を通ったことで──そして彼女を手助けすると決めたことで、彼女の状況はよいものとなっただろう。それは誰も否定するところのないものだ。
しかし、それは単なる結果論でしかなかった。もしも僕がカー・ラジオの道路情報を聞いていなければ(それは例えばビートルズの楽曲を聞いていたなどの理由で)、間違いなく僕はあの山道を行くことを選ばなかったはずだ。彼女の言い分はあまりにも不適格なもので、僕はそれを素直に聞き入れることがうまくできなかった。
「私は感じたの。ここにいると、きっとこれからのことがうまくいく、って」
レミリアはそのように言った。
きっとこれからのことがうまくいく。僕もそうであればいいと思った。
幸いなことに、開館前でありながら駐車場の門は開かれていた。僕はまだほとんど車のない駐車場をゆっくりと走り、ちょうど真ん中の辺りに停めた(そこが図書館にも駐車場の出口にも近い場所だったからだ)。目的の図書館はといえば、建物こそ大きいものだったが、スターバックスの看板が堂々と表に出されており、しかも入口の辺りには広くカフェ・スペースが取られているようだった。
期待はできない──それが僕の正直な感想だった。批判をするつもりはないが、本を目的にしてここを訪れる人間の数はそう多くはないだろう、と思った。少なくとも、知識を必要とした際に僕がここを訪れるということはなさそうだった。
とくべつ本を好んでいるわけではない僕がそのように感じたのであれば、知識を欲しているというレミリアの妹がここにいるということは、あまり望めないものであるように思われた。僕はレミリアに、妹はここを好みそうかと尋ねてみた。やはりその返答はノーだった。
「せっかく来たのだし、本を借りていきましょう」
レミリアはそのように言った。しかしそれはかなわないことだった。
それはこの図書館が市営の図書館であり、僕たちがここの市民でないことに起因していた。異国からの人間がビザがなければその国に留まれないように、他の街からの人間は、この街の図書を借りる権利が保証されていないのだ。
それらのことがらの説明をすると、レミリアは途端に不服そうにした。図書を求める人間に図書を与えないのはまったく愚かなことであると、強い言葉でもって非難した。僕は何とか彼女をなだめたのちに、できないものは仕方がないと言った。
「ここにいる理由もないだろう。これからどうする?」
「他に図書館はある?」
僕が調べた限り、この街にある図書館はここの一つだけだった(この街の文化度合いが察されるというものだ)。そのため、僕たちが次に向かうべき場所が自ずと複合商業施設へと絞られることとなった。
しかし、僕は今回のような空振りに対し、少しばかり思うところがあった──というよりも、あまり考えないようにしていたことを考えなければならなくなった、と表すべきだった。それは、レミリアのこのような人探しはあまりに無謀なものなのではないか、ということだった。
レミリアには妹が向かう場所の想像がつくらしいが、たったそれだけの手掛かりで、一人の人間が見つかるなどとは到底思えなかった。むしろ、手掛かりがそれだけであることは絶望的とも表せるだろう。果たして、いくつの図書館や人の集まる場所が存在しているというのだろう?
このような状況になり、いの一番に放り捨てたはずの、警察を頼るという考えが僕のなかで再び存在感を放ちはじめていた。そして考えを深めるほどに、やはりそうしなくてはならないのではないか、という考えが強まっていくこととなった。
「やっぱり警察を頼ったほうがいいんじゃないかな?」
僕はそのようにレミリアに言った。彼女は訝しむような目を僕へと向けた。
「無理よ」
レミリアはその一言だけを返してきた。しかし、このままほとんど当てもないような人探しを続けるよりは、ずっと現実的な方法のはずだ、と僕は言った。
「警察には頼れないと言ったでしょう」
「僕にはそこもわからない。君はそのことを立場が弱いからだと言ったが、それならむしろ警察を頼るべきなんじゃないのか」
僕の反論に対して、彼女は答えなかった。
「こう言うと角が立つけど、僕は協力している身なんだ。もっと君の事情みたいなものを話してくれてもいいんじゃないのか」
それにもやはり、レミリアは何も言わなかった。僕のほうもそれに続く言葉を失ってしまって、車内にはカー・ラジオからする、ニュース・キャスターの場違いに陽気そうな声だけがしていた(どこかの小学校での行事について話しているようだった)。
僕はそのように発言したのち、大人げのないことをした、という強い後悔の念にかられることとなった。僕が言ったことそれ自体は、おそらく間違っていなかった。しかし、レミリアにこのようなことを言ってしまったことそのものが間違っていた。
レミリアの人探しを手助けしたいと言ったのはほかならぬ僕であったし、彼女に何らかのとくべつな事情があることも、そのときに把握していたはずだった。そして何より、大人として振る舞わなければならないはずの僕が、彼女にこのような態度を取ってしまったことは許されないものだった。
僕は覚えず頭を抱え、ハンドルへとよりかかってしまっていた。今となっては、車体から伝わってくる微細な振動や、カー・ラジオからする音声でさえも、僕の気分をひどく乱すものであるかのように感じられた。
「あなたがそう言うのはもっともよ」
不意に、レミリアの言葉が僕の耳へと届いた。僕は頭を上げ、彼女に目を向けた。
「誠実な態度でなくてごめんなさい」
レミリアはこちらに頭を下げていた。
僕はそれを目にして、非常に驚くこととなった。何しろ、彼女ははじめに僕と話をしたときにも、そのようなことをしなかったのだ。
「どうしても事情は話せないの。 ──でも、まだ力を貸してくれたら嬉しいわ」
彼女はそのように言って、僕の目をしっかりと見据えた。その目はいたって冷静なものであり、どこか不思議な深遠ささえも感じさせるものだった。その冷静さに感化されてようやく認識したのだが、僕はレミリアという存在のことを、いささか子どもとして扱いすぎていたのだった。
もちろん、彼女が子どもであり保護を受けるべき存在であることは依然として事実のままだ。しかし思い返してみると、僕の行動のうちには、彼女自身のこと──つまりは彼女の意思などといったものだ──をあまり尊重できていなかった節が認められた。僕は無意識のうちに、彼女に対し、その身をこちらに委ねることを要求していたのかもしれなかった。
「すまなかった」
気がついたときには、僕の口から謝罪の言葉が出ていた。
「はじめに聞かされていたことだったのに、取り乱してしまった」
「いいわ。私が招いたことだから」
僕たちは自身の行為のうちにあった非に関して、お互いに謝罪を行った。それは層状に重なったいくつかの霜を融かしていくのによく似た行為だった。これらの行為によってひとまずは、この話に関しては終わりにしていいはずだった。
しかし、僕たちのこれからについての話はまだ終わっていなかった──どころか、問題が顕在化したと表したほうが適切だった。なぜなら、彼女のやり方があまりにも希望に乏しいものであることが、もはや明白となったからだ。
──このまま大した当てもなく、方々を巡っていてもいいものなのだろうか?
これから僕たちがするべきことについて、僕にはまだ判断がついていなかった。僕はそのことを、可能な限り正直に、レミリアへと話した。
「とくべつなことをする必要はないわ。続けていれば会えるから」
すると、彼女はまるでわかりきったことであるかのように、そのように言ってのけた。僕はなぜそのように言えるのかと彼女に訊こうとしたが、やめておいた。これまでのことから、おそらく僕が納得できるような答えは得られないのだろうし、レミリアの言葉通りの心構えでいたほうが、より冷静でいられるように僕には思えたからだ。
さしあたり、僕たちはこのような方法を取り続けることにした。もしどうしても見つかる見通しが立たないようであれば、そのときになって他の方法を選べばいいだけだ。まとめてしまえばとてもシンプルな話となった。
時刻が九時を回ったことで、カー・ラジオのコーナーが切り替わった。昨日と同じように、ビートルズの楽曲──「イエロー・サブマリン」が車内に流れはじめた。
僕たちはお互いに何も言わなかった。彼ら(ビートルズのことだ)の言に則れば、僕たちはまさに「黄色い潜水艦の中」にいるのだった。そして楽曲が終わり、パーソナリティがビートルズについての思い出話をはじめたところで、ようやく僕のほうから口を開いた。
「訊きたいんだが、君はどれくらいのあいだ妹を探しているんだ?」
「だいたいひと月くらいかな。でも、それももう終わるわ」
レミリアは自信をもってそのように断言した。僕はそれを聞いて、いつか訪れるこの旅の終わりについて、ぼんやりと考えた。
それから、車内で時間が過ぎていくのをじっと待ち、ようやく時刻が十時を回ったときのことだ。僕たちは図書館の代わりに、美術館へと赴いていた。せっかくここまで来たのなら、という理由からだ(ここにレミリアの妹がいる可能性だってゼロではない)。
しかし、美術館は僕が想定していたよりもずっと退屈なものだった。常設の展示は日本のある時期の画家にのみ集中して行われており、取り立てて見るようなものはないように思えた。僕は飾ってある絵を眺めながら、何度かあくびをした。
一方のレミリアは、ときどき精緻に描かれた静物画の前で立ち止まっては、時間をかけてそれを鑑賞した。僕は絵を見て回ることすらやめて、設置されたベンチに腰を下ろし、入口に置いてあったパンフレットを読んだ。パンフレットによれば、どうやら二か月後にはペン画の展示が行われるようだった。どうやらこの美術館と僕とのあいだには、大きな美術的センスの相違があるようだった。
展示のスペースを出たとき、時刻は十一時十五分になっていた。現代芸術の展示スペースなどもあるようだったが、あまり興味がそそられなかった。ここに妹はいそうか、とレミリアに訊いてみると、そもそも妹は芸術品を見ることには興味がないと言った。
「制作の方法や意図なんかは大好きなのだけれど」
それならと、僕は今から複合商業施設に向かうことを提案してみた。この時間から向かえば、昼食ごろにそこに到着できることが予想できたからだ。レミリアは僕の提案を了承した。僕はパンフレットを理由もなくきれいに折りたたみ、ポケットへとしまい込んだ。
複合商業施設に到着したのは十二時二分のことだった。地上の駐車場は既にそのほとんどが使われてしまっていたが、僕たちはある程度の時間をかけて、ようやく駐車できる場所をそのなかから見つけ出すことができた。
自動ドアをくぐるとすぐに、様々な音が僕の耳へと飛び込んできた。それは店員が客を呼び込む声であったり、駆けている子どもとそれに注意を呼びかける親の声であったりした。僕はそれらを耳にして、自身も人並みに生きている人間であることを実感することとなった。
フードコートに向かう途中で、このぶんだと多くの客がいそうだと予想していた折、ふと考えたことがあった。それは、今の僕たちの姿はどのように映っているのだろうか、ということだった。
幸いにして、これまでに僕たちの関係が誰かに怪しまれたりするといったことはなかった。しかし多くの人間が集まるような場所(例えばこの複合商業施設など)においては、そのようなことが起こる可能性だって十分にあった。とはいえ僕たちをより自然に見せかける方法などは思いついていないから、今はただ気をつけるということしかできないのだが。
フードコートは予想していた通りに、たくさんの客でごった返していた。現在の時刻を考慮すれば当然といったところだろう。僕たちはとりあえずフードコートをぐるりと見て回り、今食べたいものが何であるかを真剣に考えた。ふらふらとさまよいながらそうしていると、無性にハンバーグが食べたい気分であるということに、僕はふと気がついた。
そのようなわけで、僕はハンバーグ・ショップのテナントの列へと並ぶことにした。レミリアはどこかこことは別の店へと向かったようだったが、おおよその座る場所は決めてあるから、そこまで心配はいらないだろう。
並んでいるあいだに何を頼むか考えていたのだが、ハンバーグは当然として、それに併せて頼むものがいまいち決まらなかった。ちょっと悩んだ末に、今はそれなりに空腹を覚えていてしっかりと食べたい気分でもあったから、どうやらここの名物であるらしいランチセットを頼むことにした。
注文を終えたのちに番号が書かれたブザーをもらい(このとき少しだけ朝食のデジャ・ヴュを覚えた)、はじめに決めていた席まで向かった。どうやらレミリアは手早く注文を済ませていたらしく、僕よりも早くそこへと腰を下ろしていた。
僕は冷水を取りに行き、それを注いだコップを一つとおしぼりを二つ持って席についた。僕が差し出したおしぼりを、レミリアは当然といった感じで受け取った。この態度ももはや慣れたものだ。
それからブザーの呼び出し音が鳴るまでのあいだ、僕たちは周囲の人間たちをつぶさに観察していた。その理由はもちろん、そのなかにレミリアの妹を探すためだった。とはいえ僕はその姿を知っているということもないので、あまり役には立てなさそうだったが。
もちろんそう易々と見つかるはずもなく、そのうちに僕のブザーからは呼び出し音が鳴りはじめた。僕は少し急ぎ足をしてハンバーグ・ショップまで向かい、渡されたランチセットを持って席へと戻った。
「何よ、それ」
トレーをテーブルに置いた途端、レミリアは強く顔をしかめた。それがあまりにも不快感をあけすけに示す表情であったので、何か変なものでも頼んでしまっただろうか、と僕は思わず並べられたものを確認した。セットの内容は、サラダとハンバーグ、オニオン・スープとガーリック・ライスだった。そのなかでもっとも彼女の反感を買いそうなものはガーリック・ライスだった。
「私はにんにくが嫌いなの」
彼女は不快そのものといった表情でそのように言った。僕などはあまり気にしたことがなかったが、食の好みなどまったく人それぞれであるから、にんにくを強く嫌う人間がいるのも当然のことだった。そしてまた、働いていたときにはそのような配慮もできていたはずなのにな、と考えた。
僕が謝罪しようとした矢先、今度はレミリアのブザーから呼び出し音が鳴った。彼女はそれを少し乱暴なしぐさでつかんで、自身の食事を受け取りに席を立った。僕は何となく、彼女が戻ってくるまで食事に手をつけることをしなかった。
レミリアが持ちかえったトレーには、(僕がそう呼ぶところの)お好み焼きが載せられていた。より細かくいうのであれば、それは筒切られたイカやエビなどといったものが目立つように添えられたものであり、魚介類を多く使ったものであることが様相からうかがえた。
「いただきます」
僕はまずサラダに手をつけた。サラダは簡素なものだったが、レタスが大胆にちぎられていて、わりに満足感を与えてくれるものだった。ハンバーグとともに食べることを考慮されているからか、ドレッシングはあっさりとしたものが使われていて、するすると食べ進められた。
サラダを半分ほど食べたあと、僕はハンバーグに箸を入れた(ナイフとフォークも選べたが、このほうが手になじんでいる)。ハンバーグは適度に締まったものであり、箸で切り分けても大きく崩れたりすることはなかった。僕はそのことにかすかに期待を抱きながら、切り分けたうちの一つを口にした。思った通り、それはほどよい噛み心地と確かな肉汁をたたえたものだった。それらは僕がハンバーグにもっとも求めるものであるから、嬉しくなった。それからスプーンに持ち替えて、ガーリック・ライスを一口含んだ。
ガーリック・ライスはそれほどにんにくの風味が強いものではなく、むしろバターによる油の風味が強く感じられるものだった。それはハンバーグの脂との対比を生み出し、ほとんどくどいと感じるほどの──しかしけして不快ではない──満足感を与えた。
ふとレミリアの様子をうかがってみると、彼女は箸をきわめて不自由そうに扱いながら、お好み焼きにかじりついていた。一緒に添えられていたヘラにはまったく使われた痕跡がなかったので、もしや彼女はお好み焼きを食べ慣れていないのではないか、と思った。
「ヘラは使わないのか?」
彼女がいちど食事の休憩を取ったのを見計らい、僕はそのように尋ねてみた。
「うん。はじめて食べるの」
何と、彼女はお好み焼きをはじめて口にしたらしい。彼女の幼さを考慮すればそれも不思議ではないのかもしれないが、それにしても驚くべきことであるように僕には思われた。そして、彼女はどことなく大人びていたが、あるいはそれも特殊な環境にいたゆえのことなのかもしれない、と僕は考えた。
彼女はそれが美味しいことを表情で伝えるかのように、屈託のない笑顔を浮かべていた。それは今まであまり見なかったレミリアの表情だったので、僕は少し嬉しくなった。
それから、僕たちは黙って食事を続けた。それは僕たちの周辺の客の騒がしさと比べると、おそらく妙にも映ることがらだったことだろう。僕はふと、最初に二人でした食事もこのように静かであったことを思い出した。そのときと比べると、ずいぶんと打ち解けることができた、とも。
僕たちがフードコートを出たのは、およそ十三時を回ったくらいの時刻のことだった。レミリアが買いたいものがあると言うので、僕は彼女に先導される形で複合商業施設の二階を歩いていた。
連れられた先のフロアには女性向けの衣服や化粧品といったものを販売する店が数多く並んでおり、僕はいささかの場違い感を覚えざるをえなかった。店の近くを通るだけでも香水の強い香りが鼻をついてきて、あまり長居はしたくないな、と感じた。
レミリアは自信たっぷりに先導し続け、そのうちに僕たちはアンダーウェア・ショップ──もちろん女性向けのものだ──がいくつも並んだフロアへとたどりついた。当然というべきか、僕以外には男性の客も、男性の店員すらも見当たらなかった。
レミリアはアンダーウェア・ショップの店頭のマネキンたちを見比べ、そのうちの一つに納得がいったような顔をして、そのまま店の奥へと入っていってしまった。ちょっとのあいだ逡巡していると、レミリアから急かすような声がかけられたので、僕は仕方なく彼女のあとを追うことにした。
どこに視線を移しても女性用のアンダーウェアが目に入るというのは、やはりいい気分になるものではなかった(どころか、何か罪を犯しているような気分にまでなってしまう)。僕は可能な限りレミリアの近くに自分の居場所を保ち、怪しい存在でないことを強調する姿勢を取った。
このようにほとほと弱り果てた僕とはまったく対照的に、レミリアは並べられた商品を手に取っては、ゆっくりとその品質を確認していた。僕は彼女のそのような行為に対して、見慣れなさから、(けして注視するようなものではないのだが)わずかばかりの興味がこもった視線をやった。
彼女の点検はどの商品に対しても等しく時間をかけて行われた。僕の目には些細な違いとしか映らないものでも、おそらく当人からしてみれば重要で、無視ができないものなのだろう。まだ幼い少女がそのようにしているさまは、何かアンバランスなものを僕に感じさせた。
僕はそのあともいくつかのアンダーウェア・ショップへと連れまわされ、結局レミリアの用事が終わりを見たのは十五時半を回った時刻のことだった。僕は衣服を買うときにここまでの時間をかけた経験がなかったので、いくらかの新鮮さと、疲れを覚えていた(慣れない場所に留まることの疲れもなかには含まれていた)。
レミリアは購入したアンダーウェアをすべて、一つの大きな紙袋へとまとめていた。彼女はけっこうな数のアンダーウェアを購入していたから、紙袋は見るからに重量をたたえたものとなっていた。女性一人分のアンダーウェアというのは、これだけの数が必要になるものなのだろうか? 僕にはいまいちわからないところだった。
それから複合商業施設内の捜索に見切りをつけたあと、書店などといったレミリアの妹がいる可能性のある場所をいくつか巡ってみたのだが、やはりその姿を見つけ出すことはかなわなかった。それは暗中模索という言葉を体現しているかのようだった。時間が経ち日も暮れてきたところで、今日の捜索はやめておこうと、僕たちのどちらからともなく言い出した。
僕たちは夕日によって照らされた街を、ステップワゴンから漫然と眺めていた。何によるものかはわからないけれど、この時刻──十八時二十分の街は、朝に見たときとは違ったものを感じさせた。カー・ラジオから聞こえるねぎらいの言葉も、今は素直に受け取ることができた。
パーソナリティがする話を(あくまでも運転から気を逸らさずに)聞いていると、不意に、今夜はお風呂に入りたい、とレミリアが言い出した。言われてみれば、僕たちは昨晩シャワーを浴びることすらせずに就寝したのだった。僕は旅をするうちにそのような日も珍しくなくなっていたが、彼女の話を聞いて、にわかに湯舟に浸かってさっぱりしたいような気分になった。
レミリアの提案について僕は考えてみたが、彼女の立場を考慮すると、ホテルなどといった宿泊施設の設備を利用することは避けたいと思った。それらにあたっては個人情報が求められる可能性も考えられるからだ。そのため、向かうなら単なる入浴施設が適していると思われた。
昨日も利用した駐車場へと車を停めたのちに、スマートフォンを使って近辺の入浴施設を探した。すると、そう遠くないところにスーパー銭湯があるのがわかった。レミリアにここでも構わないかと尋ねると、入浴ができればどこでもいいわ、という答えが返ってきた。わずかにではあるものの、彼女の口数が増えてきていることを、僕は嬉しく感じた。
僕たちがスーパー銭湯に到着したのはおよそ十九時半だったが、そこを出たのは二十一時も近い時刻になってのことだった。入浴するだけにしては長い滞在時間となったのは、それだけ疲れがたまっていたということなのだろう。当てのない捜索とはやはり、相当の負担を身体に強いるものなのだ。あまり長いこと続けたくはないな、と僕は思った。
そして僕たちはまたもとの駐車場へと戻り、寝るまでのあいだ、明日の予定を話し合うことにした──とはいえ、やることは今日のそれと大きく変わりはしない。レミリアの妹とばったり遭遇することを期待しながら、少しでもそれが起きる可能性が高い場所を回っていくだけだ。
これらの行為が果たして人探しと呼べるようなものなのか、僕などは疑問に思ってしまうのだが、レミリアはどのような理由からか自信を持って、このままでいいと言うのだった。そしてほかでもない彼女がそのように言うのであれば、僕から話すべきことはもう何もなかった。
時刻が二十三時を回ると、FMは静かな音楽を流すようになり、疲れた人々を眠りへと誘っていた。まだこの行為に慣れてはいない僕も、疲れから湧いてきた眠気に逆らうことなく、ゆっくりと眠りに入っていった。