ところで僕はレミリアと複合商業施設へ行った日の夜から、毎晩不思議な夢を見るようになった。それははじめのうちは短いものであるように感じていたが、日を経る毎に、それから目を覚ますのが遅くなっていくのがわかった。
夢の内容はおよそ以下のようなものだった──僕は現在滞在している街と少しばかり似た街のなかに、いつのまにか迷い込んでいる。行くたび毎に街は夜に沈んでいて、しかし常に満月が照っているために目が利かないということはない。街を歩いても他の人間を見かけるようなことはなく、察するに僕はこの街に一人きりであるようだった。
僕ははじめてその夢を見たとき、潜在的な不安のためにこのようなものを見たのだ、と考えた。それからレミリアのことを思い、自分のことが情けなく感じられたので、気合を入れなおした。しかしそれ以降眠るたびに同じ夢を見るので、精神的なものというよりもむしろ、何か僕にとって重要な意味を持つものなのではないか、と考えるようになった。
何度も同じような状況に置かれたために、その街にいることがわかると、またこの夢か、と僕は次第に思うようになっていった。これまでにも夢のなかで今いる世界が夢であると自覚することはあったが、大抵は目を覚ます直前になってのことであり、それが夢であると自覚しながら長く留まるのははじめての経験だった。
僕はこの夢についてレミリアに話そうかとも思ったが、これといって僕に害を及ぼすものでもなかったし、彼女に持ちかけたところで解決が図れるようなものにも思えなかった。また何より、そのようなことよりも話し合うべきことが僕らにはあるという理由もあった。
僕たちはここ数日間ほど、同じ行為を繰り返していた──すなわち捜索をはじめた日と同様に、街の様々な場所を巡ったということなのだが、これはつまり、それにまったく進展が見られないということを意味していた。
僕は口にするこそなかったが、この街にはレミリアの妹などいないのではないか、という考えを抱くようになっていった。そしてそのような疑念がときどき僕の足を掴まえそうになるので、そのたびに僕は探す足を速めて、それをまくことに追われた。
ある夜のことだった。気がついたとき、僕はあの夢のなかの街にいた。空はやはり深い紺色をしており、そのなかに滴が一つ垂らされたかのように、よく輝く満月がぽつんと浮かんでいた。
僕は大きな道路の真ん中あたりに立っていた。この世界で自動車が走っているのを見たことがないから、おそらくそうしていても危険はないのだろうが、やはりいい気分はしないので歩道へと移動した。
それからこの街を訪れるたびにそうしているように、僕は街のなかを歩いて回ることにした──それは、僕が夜毎にこの街に迷い込むことの意味を、あるいはどこかで見つけ出せるかもしれないという理由からだった。
この街の建物はどれにも明かりが灯っておらず、街灯でさえもその例に漏れなかった。そのため、わざとらしくもある月光だけがこの街を照らし出していた。
建物は多く存在していたが、その入口はどれも厳重に閉じられていて、どれ一つとしてなかに入ることはできなかった。それは単に夜だから閉じているというよりも、はじめから誰かが入ることなど想定されていないのだと、僕には感じられた。
ジオラマじみている、と僕はこの街を訪れるたびに思った。夢が誰かの意識から構築されるものだとするならば、この作り物臭さにもうなずけるところはあるのだが、この街──ひいてはこの世界が僕のうちから作り出されたものであるとは、どうにも考えづらかった。僕は頭に思い浮かぶ様々なことがらを一つ一つ整理しながら、明かりの乏しい街の散策を続けた。
今夜の夢はいつにも増して長かった。僕は歩いているうちに足の疲れを覚えるようになり、休憩するために近くにあった縁石に腰を下ろした。夢のなかで疲れを覚えたのははじめてのことだった。それからいつもの癖で腕時計に目をやってしまったが(三時を指していた)、ここではそのようなものに意味がないことに思い当たった。
何かが変だ、というふうに僕は感じていた。これがいつもの夢と同じものであるのだったら、とっくに目が覚めているはずだった。夢を分析するための専門的な知識などは僕には備わっていないが、目を覚ますために何らかの手筈が必要とされているのではないか、と僕は漠然と考えた。
しかし、仮に僕にここでやるべきことがあるのだとして、それをどのようにうかがい知ればいいのか、この世界に教えるものはなかった。とくべつなことをせずとも目が覚めるだろうという希望的な観測は、いちど湧いてしまった疑念によって、あっさりと途絶えてしまったように思えた。
そしてそのような疑念は僕の足を容易にとりこにし、また街のなかを歩き出すことを強制した。
間断なく街を歩き続け、腕時計が四時を示しそうになったとき、僕は一人の見知らぬ少女と出会った。この街に他の人間が存在していたことへの驚きと、誰かと出会えたことの喜びとがいちどに押し寄せ、僕は頭が揺らぐような心地だった。
少女はわずかに驚いた顔をして、それからすぐに冷静な表情を取り戻した。
「ここに誰かが来るなんて」
少女がそのようなつぶやきが僕の耳に届いた。僕は少女に話しかけようとしたのだが、果たして何から話せばいいのか、そしてどのように話せばいいのかわからず、ひとまず歩き続けたことで荒れた息を落ち着けるのにつとめることにした。
それから僕の頭にようやく冷静さが戻ってきたところで、僕は少女にあいさつをした。
「はじめまして」
彼女はそれには答えなかった。それから唐突に、
「迷い込んだのね」
とだけ言った。
僕は面食らったものの、かえって彼女がこの街について何かを知っていることが、そのことによってうかがえた。
「君は誰で、ここはどこなのかな? 僕は何も知らないから、教えてほしいんだ」
僕は少女にそのように質問してみた。彼女がどのような存在であるのか僕には想像すらつかなかったが、これらの質問には答えられるのではないかという、どこか確信のようなものがあった。そして、少女は淀むこともなくすらすらと僕の質問に答えた。
「ここは私が作った世界よ。なぜかあなたが迷い込んできたけれど」
少女はそのように言って、僕のほうへと近づいてきた。僕たちの距離が縮まっていくうちに、少女のまとっている独特な雰囲気が、レミリアのそれに似たものであることに僕は気がついた。
──私が作った?
少女から返ってきた答えは、僕の想像をはるかに超えたものだった。実際のところ、この世界にはいくつもの作り物臭さがあり、僕もそれを不審に思ったりしたのだが、それでもたった一人によって作られたものであるなどと、いったい誰が考えるだろう?
僕はいつのまにか目の前にまで迫ってきていた少女のことを、おそろしいと感じざるをえなかった。
「私はフランドール。あなたは何者なのかしら?」
質問を受け、僕は(内心で彼女のことをおそれながら)ひとまず簡単な自己紹介をした。そのなかでフランドールは様々な質問をし、僕がそれに答えるたびに、考え込むようなしぐさを見せた。どうやら彼女にとって、僕はひどく興味を惹く存在であるようだった。
「眠るたびにここに来ていたから、僕は夢だと思っていたんだけど」
フランドールは首を小さく横に振り、僕の言葉を否定した。
彼女の説明によると、この世界は、彼女にとって都合のよいものだけを集めたある種の異世界であるらしい(彼女の言うことがすべて理解できたということはないが、そのように考えると納得がいく、ということは理解ができた)。だが、彼女にも僕がこの世界に迷い込んだ理由まではわかっておらず、そのために僕は強く興味を持たれたようだった。
しかし実のところ、僕はフランドールがこの世界を作ったという事実を、うまくのみ込めていないように感じた。この世界は歪に映るような箇所こそ多々あれど、それでもなお世界としての体裁を強く保ったものであるように僕には思えた。そのため、この世界が彼女一人の手によって作られたものであるという実感が、どうにも湧いてこないのだった。
自身を取り巻く様々なものの不明瞭さに、僕は眩暈を覚えるような心地だった。フランドールはこれは夢ではないと言ったが、僕はほとんど夢を見ているのと変わらないくらいに──あるいはそれよりもひどく、現実感を見失ってしまっていた。
「──世界を作るなんて簡単なことよ」
そのような僕の困惑を悟ったのか、フランドールは冷静な口調で、そのように語りかけてきた。僕は気持ちを落ち着けるために、その話に耳を傾けることにした。
「例えば、あなたが住んでいる場所を想像してみて」
彼女の言葉にしたがい、僕は旅に出る前に住んでいた自身の部屋について思い出してみた。
壁際に置かれた本棚ばかりが大きく場所を取り、それ以外の家具はどれも細々として、所在なさげなものだった。背の低いベッドやいくつか傷が残っているソファ、収納の少ない棚などといったものが、放られたジグソーパズルのような乱雑さで、僕の部屋には置かれていた。意図してそうしたわけではなく、気がついたときにはそのようなものばかりが集まっていたのだ。
そのような部屋のなかで、僕はラックに置いたラジカセから好みの音楽を流し、命令された様々なことがらを日々こなしながら、満ちも欠けもしないような生活を営んでいたのだった。
「ドアの先に何があるかは自明のことでしょ。もちろん、その先にあるものも」
あとはそれを拡げていくだけよ、とフランドールは話を締めくくった。
彼女の説明で何かが理解できた、ということはなかった──むしろ、彼女の底知れなさがいっそう深まっただけと表してもいいほどだった。この状況が夢だと一蹴できたらどれほどよかったことだろう、と少しずつ冷静の兆しを見せはじめた頭で、僕は考えた。
何にせよ、僕がここを去らなければならないのは明白なことだった。この世界に留まり続けることで、レミリアを放っておくような真似はできなかった。
「この世界から出る方法はあるのか?」
僕の質問に対してフランドールは、小さく首を傾げながら微笑み、演技じみた仕草を見せた。それはやはり、どことなくレミリアを想起させるものだった。
「知らないわ」
僕は図書館と思わしき建物(レミリアと訪れた図書館に酷似していたからだ)の、閉じられた正面入口の前で、しばらくのあいだ立ち往生していた。傍らにいるフランドールは、退屈を持て余した様子で、暗い空やその下にある街へとふらふらと定まらない視線をやっていた。
建物の規模は大きく、それにともない複数の入口を有していたが、そのどれもが抜かりなく戸締りされていた。僕はかすかな望みをかけて窓にいたるまで確認してみたが、やはりなかに入れそうな箇所はまったくなかった。脱出の手掛かりになるものがないだろうか、と考えて図書館(と思われる建物)を訪れたのはいいが、これでは手詰まりであることに変わりなかった。
入口のガラス戸からわずかに見えるまっ暗な室内を覗き込みながら、状況を進展させるよい手段がないだろうか、と僕は熟考した。それはこれまでに経験したことがないほど深い思案となった。この街には雑踏などといった思考を乱すものがほとんど存在していなかったので、僕は存分に思考へ集中することができた。
すると、不意に一つ、気がついたことがあった。
それは、図書館の入口にはまったく一般的なガラス戸が使用されているために、力ずくで侵入することもけして不可能ではない、ということだった。
──そんなことが許されるはずがない。
しかし僕は、そのようなきわめて強硬的な方法を一つの選択肢としそうになった自分自身に、むしろ驚くこととなった。今の自分が本当に冷静であるのか、覚えず疑った。
僕は意識もしないままに、周囲の様子をうかがっていた。もちろんこの街には僕とフランドール以外に誰も存在していない。それにも関わらず、僕は自身が周囲から怪しまれてはいないだろうかという警戒から、そのような行為をとったのだった。──僕は自身の臆病さを自覚することとなった。
それでもひとたび湧いたその考えは、僕の頭にしつこく残り続けた。建物のガラス戸がにわかにいやらしい光を帯びるようになり、僕の目を強く惹きつけた。その誘惑に僕はどうにか抗おうとし、よりよい方法が存在しているはずだ、とひたすらに思考を続けた。
「フランドール、ここの鍵なんかは持っていないのか?」
「いいえ」
彼女は突き放すかのように、簡潔にそう答えた。結局のところ、僕は彼女の世界の侵入者でしかないのだった。
僕はいちど腕時計を確かめてみることにした(それは四時四十分を指していた)。その行為は時刻を確かめるためというよりむしろ、普段通りの行動をなぞることで、常の思考を取り戻すためにしたものだった──たいした効果は認められなかったが。
おそらく、この建物以外に僕がこの街で頼るべきものは存在していないだろう。複数回のこの街への来訪で、僕はそのように推察していた。だから、僕はこの建物へ入ることをけして諦めるわけにはいかない。しかしその扉は閉ざされている──。
思考が堂々巡りの状況に陥ってしまっていることが、はっきりと自覚できた。なかに誤謬を含んだ論法のそれのように、思考の出発点と終着点とがいつまでも同じ地点にあった。だからどれだけ考えたとしても、同じ結論から抜け出すことがかなわないのだ。
僕は建物のガラス戸をぶち破る自身の姿を想像せざるをえなかった。砕かれ、辺りに乱れたガラス片に映る、散り散りになった自分──。
そのイメージはすぐにでも実行に移しているかもしれないという生々しさと、それゆえの確かな説得力をもって受け止められた。実のところ、それだけがこの状況を打破しうるものであることに、僕は気づかなければならなかった。
この世界には僕とフランドールしか存在しておらず、僕の行為を咎める者も、それによって迷惑を被る者すらいない(あるいはフランドールはそうなのかもしれないが)。それを理解していてもなお実行に移せないのは、僕が規則を犯すことを過剰におそれていることにまったく起因していた。
ひとたびそれを行えば、これまでの自分とは決別することになる──そのような確信が僕を支配していた。その確信は僕の心の深くにまで根を張り、腕や足にまでのびて、動きを億劫なものにさせていた。今の僕に必要なものは、僕自身を納得させられるような、正しい理由だった。
そして、そのようなものが果たして存在しているだろうかと考え込んだときに、ふと思い至ったのはレミリアのことだった──同時に、ほかでもない僕自身の手でレミリアを保護すると決めたそのときから、僕はとっくにそのような姿勢を崩していたのだ、ということを思い出した。
それらのことがらは異なる意味合いを持ったものたちであり、同一にして語ることは不可能だ。また当然ながら、僕の行為──以前のものとこれからのもの──はどのようにしても正当化できるようなものではない。それでも僕の行動に一貫性を持たせるものとして──また何より僕自身が納得できる理由として、過去のことがらは少なくない説得力を持つものであるように僕には思われた。
考えてみれば、僕はかなり迷いながらもレミリアを保護することを決意し、それに相応するだけのリスクも背負ったのだ。今さら、いったい何をおそれることがあるだろう?
ほとんどやけを起こしてしまったみたいな心持ちではあるが、僕はようやくその覚悟を決めた──いや、レミリアを保護した時点で、既に覚悟は固めていたはずだった。ただ、今までそれを忘れてしまっていたのだ。これから僕はガラス戸を壊し、建物に侵入する。
やると決めたからには準備が必要となった。ひとまず、どれくらいの力がいりそうか確認するために、僕はガラス戸に手で触れてみた。すると、ひやりとした感触が伝わってくるのと同時に、そのものの、仕切りとするにはあまりに頼りない薄さがあけすけとなった。あるいはそう感じたのは、僕の覚悟の強さのためだったのかもしれない。
何か頑丈なものがないだろうか、と周囲を確認すると、ちょうど歩道のわきのところに、穴の開いたコンクリートブロックが一つ置かれていた。それを手に取り重量を確かめてみたところ、まったく僕の要求に不足がないものだと感じた。
このように侵入のための準備を進めていると、自分がこれまでとはまったく異なる存在になったかのように感じて、少しばかり妙な気持ちになった。いちど思い切ると人間とはこうも変わるものなのか、と僕は自分のことでありながら驚いた。
「そんなもので壊せるの?」
不慣れのする足取りでコンクリートブロックを運ぶ僕に対し、フランドールはそのように尋ねてきた。言われてみると、ブロックこそ頑丈で重さもあるものだったが、僕がこれをうまく扱えるかに関しては、果たしていささかの不安が残るところだった。なにしろ、僕はこれまでこのような経験はしたことがないのだ。
成功の確率を上げるよい方法が何かないだろうか、と僕は考えてみた。僕もおそらく非力なほうではなかったが、同時に人並み外れた力を持っているといったこともなかった。すると、ふと思いつくことがあった。僕は着ていたコートを脱ぎ、コンクリートブロックをそれで包むようにして持ってみた。これならば遠心力が働き、ガラス戸を壊すのにも不自由することはないだろう──ちょうどハンマーを使うときと同じような要領だ。
「ずいぶん慣れてるのね」
僕の様子を目にして、フランドールが感心したように言った。
「まさか。はじめてのことだよ」
僕は苦笑しながらそのように答えた。とはいえ僕自身も、ここまでスムーズにアイデアが出るとは思ってもいなかった。どうやら想像していたよりもずっと早いペースで、僕は変化していっているようだった。
そうして、僕は建物の入口と相対した。握ったコートの袖からはずっしりとした重さが伝わってきて、コンクリートブロックという凶器の存在と、これからやる行為の重大さとを一まとめにして僕へと訴えていた。
いざ壊す段になると、ちょうど目の前に立ちふさがるガラス戸は、僕の目にきわめて大きなものとして映るようになった。それは乗り越えなければならない大きな障壁として、今やこれ以上ないほどの存在感を主張するようになっていた。コートを持つ僕の手に覚えず力がこもった。
ふと、ガラス戸に映り込んだ今の僕の姿(それはこれまでに見たことがない姿をした僕だった)を見て、僕がこの世界を訪れた理由はこれなのかもしれない、と感じた。知らず知らずのうちに、僕はこの街のなかのとある建物をこじ開ける役目を負っていたのかもしれない、と。
あるいはこれもまた、責任から逃げるための適当な理由づけであるのかもしれない。この期に及んで、僕はまだ自分の行為から目を背けようとしているのかもしれない。しかし何にせよ、僕が果たすべきことはとっくに定まっていた。
僕は深い呼吸を何度かして、可能な限り気持ちを落ち着けた。まだ思考の働く頭で、冷たい空気が肺のなかで渦を巻いたあとに、身体のなかへと混ざり込んでいくのを知覚した。夜はあくまで静かなものであり、そのなかに呼吸を乱すようなものなど、一つもありはしなかった。僕は一定のリズムを保ちながら、存分に新鮮な夜を吸い、不安を吐き出した。
──ほとんど唐突と表していいくらいに、それには予兆がなかった。もしかしたらそれは、そうしなければためらいが生じると無意識のうちに思っていたからかもしれない。
僕は強く握りしめたコートを、できるだけしなりが生まれるようにしながら、一思いにガラス戸へと打ち付けていた。
僕が想像していたような、あのガラスが壊れるときにする高く軽い音はそこにはなく、ただ鈍い衝撃音だけが辺りに響いた。それは僕にかえって行為の実感を湧かせるものだった。衝撃のあとにわずかに時間があり、整えられた砂の城がうず高い砂山へと姿を変えるみたいにして、ガラスは破片となりその場に重なった。
そのとき、サイレンが鳴り響いた。じりりり、というあのひどく緊迫した音だ。
しかしそれは何の役目も持たないものだった。耳にして誰かが逃げ出すわけでも、誰かが駆けつけるわけでもない、ただ威圧的な高音でしかなかった(実際のところ、僕はそれによって焦ることすらしなかった)。それでも──僕はこれから、このとき耳にした音を忘れることはないのだろうという、そんな確信があった。
少しのあいだ呆けたあと、僕は我に返り、建物のなかへと侵入した。結局のところ、僕の先ほどまでの行為は一つの過程でしかないのだった。
僕の想定通り、この建物は図書館で違いなかった。まっ暗な屋内を入口からしばらく歩いていくと、両開きの大きな扉があり、それを開いてなかへ入ると、大量の本の気配とでもいうべきものを感じた。それは、本屋などで本に囲まれたときに感じる、あの感覚と寸分違わないものだった。
少しずつ暗さにも目が慣れてきたので、書庫がいったいどれだけの規模であるのか確認しようとして、僕は目を凝らした。
そこで明らかになったのだが、この部屋にある蔵書の量は、想像を絶するほどのものだった。何しろ、本棚の数が異常なのだ。図書館の平均的な本棚の数(あるいは設置の間隔)というものを僕は正確には知らないが、利便性などを無視してひたすら本を収集していたらあるいはこうなるのでは、といった趣きだった。
それは僕にとって、ある意味で喜ばしく、しかしある意味では途方もないことだった。これだけの量の本だから、なかには今の僕にとって有用なものもあるのだろうが、しかしそれを探り当てる方法がなかった。
「フランドール、ここにはどんなものがあるんだ?」
いつのまにか僕の近くにいたフランドールに、そのように尋ねてみた。この世界の持ち主である彼女になら、あるいは手掛かりのようなものをもらえるかもしれないからだ。
「色々あるわ」
しかし、ほとんど彼女は放り投げるように、それだけを答えた。これまでのやり取りから、これが彼女なりのコミュニケーションの取り方であることを、僕はようやく理解しはじめていた(思えば、レミリアもはじめはそうだったではないか)。
「例えば、この街の地図みたいなものはないか」
僕は諦めることなく、そのように尋ねた。すると、彼女は少しばかり考えるような仕草を見せたのちに、おもむろに、どこかへと向かって歩き出した。僕は暗い部屋のなかで、彼女の背中を見失わないように気をつけながら、何とかその後ろ姿を追いかけた。
そうして到着した先にあった本棚にも、やはり隙間なく本が置かれていた。奇妙なことに、本にはどれも背表紙がなく、どれがどのような内容のものであるのか、まったく判別のしようがないように見えた。しかし、フランドールは迷うことなく一つの本を手に取った。
「これにこの街のつくりが書いてあるわ」
フランドールは持った本を広げ(暗いなかでわずかにそのような動作が見えた)、そのように言った。僕は彼女から本を受け取り、どこかからわずかに差し込んでくる光を用いて、紙面から必死に情報を読み取った。
地図にはまったく文字が使われておらず、道なりや建物の位置といったものでのみ、街の情報が示されていた。僕はそれに戸惑ったが、そもそもこの街にあるどれの名前も知らなかったために、それでとくだん不自由するといったことはなかった。その歪さも、今は気にしないことにした。
そうしてしばらく奇妙な地図と向き合っていると、街から少し離れた場所に、ゆがんだ形をした丸が書かれていることに気がついた。そのなかに波を示すような線が記されていたので、どうやらそれが水を湛えた場所であるらしいことが推察できた。
「──湖だ」
僕は直感的にそのように考えた。それと同時に、いつかの夜にレミリアから言われた、「ひと段落したら湖へ向かえ」という言葉を僕は思い出していた。果たしてあのときのレミリアが何を考えてそのように言ったのか、察することはできなかったが、二つのことがらの結びつきに、僕は何か運命的なものを感じずにはいられなかった。
そして、僕の思考はそこからほとんど一足飛びに、ある考えへと至ることとなった。
──レミリアが口にしたひと段落とは、もしかすると、先ほどまでの僕の葛藤のことではないか?
もちろん、これといった根拠はない。レミリアがただ気まぐれに口にした言葉が、ひどい偶然によって今の僕の状況と重なった、というだけなのかもしれない。しかし、僕はほとんど答えを見つけたかのような気持ちになって、その(想定上の)湖を目指すことを決めたのだった。
時刻が四時四十分となり、僕とフランドールは街から遠ざかっていく道の上にいた。
図書館から持ち出した地図は重く、嵩張るものだったが、あのコンクリートブロックの重さと比べればそれも大したことはなかった。僕はときどき紙面を月明りに当てて、進むべき道のりを確認した。
街は静けさを保っていた。それはおそらく、僕がここを初めて訪れたときとまったく変わりなく。図書館から響くサイレンの音さえも、今は静寂にのまれてしまっていた。僕がしでかしたことなど、ここではその程度のことでしかなかった。
足取りを進めていくごとに、街から離れていっているという感覚が強いものとなっていった。建物の規模は次第に小さくなり、ともなってよく整備されていた歩道も、いつしかその姿を消した。これまで街から外に出たことはなかったから、このようになっていたのか、と新鮮な気持ちになった。
しかし、この世界に「街」と「そうでない場所」の区別がある理由が、僕にはよくわかっていなかった。住人はフランドールのみであるのに、そのような区別──いやそもそも、街という場所すらも、この世界には必要がないもののはずだった。たった一人だけがいる街に、いったいどのような意味があるというのだろう?
何となく先へと進んでいるという感覚が余裕を生んだのだろうか、湖へと向かう道中で、僕は改めてフランドールという存在についての思考を巡らせていた。しかし彼女についての情報はあまりにも少ないものであり、そのためにどれだけ考えてみても、何もわからないという結論に落ち着くこととなった。
フランドールは今も僕のすぐそばにいて、どのような理由からか同じ道を歩いている。おそらく、僕は彼女に様々なことを質問することだってできるだろう。しかし実際のところ、僕は彼女に何を訊くべきであるのか──それどころか、僕が訊くべきことが存在しているのかどうかさえ、判断がついていなかった。
だから彼女のほうから僕に話しかけてきたのは、まったく僥倖というべきことがらだった。
「ずっと考えていたのだけど」
彼女はそのようにして、いささか唐突な形で会話を切り出した。僕はちょうどフランドールについて考えていたところだったから、それに少しばかり驚くこととなった。
「この世界は私に必要なものだけがある。だから、誰かが訪れたりなんてないはずなの」
そのように言いながら、フランドールは僕の前に、道を遮るようにして立ちふさがった。僕を見つめる彼女の目は、人形のガラス製のそれのように、澄んでいながらもどこか茫洋としたものだった。僕はその目にまるで捕らえられてしまったかのように、身体の自由が利かなくなっていく感覚におそわれた。
この感覚には覚えがあった──ファミリー・レストランでレミリアに見つめられ、その目に魅入ってしまったあのときと似た感覚だった。偶然という言葉で片づけるには、彼女はレミリアと同じ特質をいささか備えすぎていた。おそらく、フランドールこそが──
彼女の視線からは、僕という存在を解釈しようとする意思が、ありありと感じられた。それは子どもが動物を観察するときのような、興味という尽きない焚き木による熱に満ちあふれていた。フランドールがずっと僕の近くにいたのも、おそらくは僕を観察していたということなのだろう。
「訊きたいことは二つ。あなたは何者なのか。そして、どうして湖に向かうのか」
フランドールは指を二本立てながら、そのように言った。そこで気がついたのだが、僕は湖に向かうことにした理由を彼女に話していなかったのだった(もっとも、それをわざわざ彼女に話す理由もなかったのだが)。
「まず、二つ目の質問について」
しばらく考えたのちに、ひとまず今の僕に答えられそうなものから話していくことにした。それでもどのように話したらいいのか、僕は適宜その内容をまとめる作業に迫られることとなった。
「ある女の子に言われたんだ。ひと段落したら湖に向かえ、と」
僕はまず簡潔にそのように述べてみた。それは言葉に表すと、まったく不明瞭なことがらであり、そしてそのためにひどく無責任なものであるように感じられた。僕自身にも理解できていないことだから、あるいは無責任であることは事実であるかもしれないが。
それから僕はフランドールに、自身が旅をしている身であることや、その道中で妹を探す少女を同乗させ、協力することにしたことなどを話した。レミリアの名前はここではまだ出さなかった──何となく、まだそのときではないと感じたからだ。僕の話を聞いて、フランドールは含んだ笑みを浮かべた。
「そう言われたってだけで湖に向かうの? ──変な話ね」
彼女は僕の話を否定することも、根拠に欠けると指摘することもしなかった。ただ、そのような一言でまとめただけだった。
変な話──まったく彼女の言う通りだった。レミリアに会ってからというもの、僕は何か大きな流れに翻弄されるみたいにして、常に不安定な状態を保ったままだった。しかしそれより前の僕と比較してみると、彼女の目的に付き合うようになったことで、僕のなかに明確な一つの芯が通されたことは確かだった。
「──ところで、一つ目の質問についてなんだけど」
そのようなことを考えていると、僕がフランドールに話すべきことがらが、ぴたりと定まったような気がした。それとも、はじめからそれは定まっていて、果たされるべきタイミングがこの瞬間に訪れたというだけなのか──あるいはそうであるかもしれない、と僕は考えた。
「この世界には君に必要なものだけがある。そのはずが、僕はここに来てしまった。そうだね」
「ええ」
そのような規則に則るのであれば、僕はフランドールにとって必要とされた、ということになる。しかしもちろん、彼女は僕のことなど必要としていない(少なくとも僕はそのように感じる)。つまり、必要とされたのは僕という存在そのものではなくて、僕だけが果たすことのできる役割なのだ。
「おそらく僕は、君をレミリアへと引き合わせるために、この世界へと来たんだ」
──僕がこの世界に必要とされたのは、きっとこのような理由からだった。
フランドールはわずかに表情を動かした。それはともすれば気のせいにも感じてしまうほどの、まったく微細な変化だった。しかし、彼女は間違いなくその表情を(おそらくは驚きに起因して)変えたのだった。
やけに静寂が際立っていた。あまりにも耳に届くものがなく、そのためにかえって頭のなかでだけ鳴っている音が耳障りに感じた。
僕とフランドールは見つめあったままの姿勢を保っていた。しかし、彼女はもはや僕を見てはいなかった。彼女は僕から得た情報を、丁寧な翻訳家がそうするように、詳細に検討し、それが意味するところを完璧に理解しようとしていた。僕はそれを辛抱強く見つめた。
そしてそのうちに、とうとう彼女は堪え切れなくなり、声をあげて笑い出した。
「まさか、私があれを必要としていることが、こうしてわかるなんて!──」
フランドールは笑い続けた。まったく快活な笑い声をしていた。僕もつられて笑みが出そうになった。この世界でもっとも大きな音は、今となってはその笑い声だった──
もはや整備すらされなくなった道を進んでいくと、そのうち遠くに湖が望めるようになった。近づいて確認してみたところ、古びたレンガの道が湖を囲むようにして敷かれており、水辺へと近づけさせないためだろう、簡素な柵がぐるりと立てられていた。
湖はなみなみと水を湛えており、よく照っている月明りをうねる水面に反射させて、あちこちへと複雑な光をばらまいていた。それは自然に特有の美しさというよりもむしろ、芸術品のような、作為めいた美しさを感じさせるものだった。
湖についたあと、僕とフランドールはまずレンガの道を歩いてみることにした。その行為に大した理由はなかった。おそらくは二人とも、美しさをたたえた湖を眺めながら、誰が敷いたともしれない道を歩きたい気分だったのだろう。
地面に埋め込まれたレンガにはときどきひびが入っており、その隙間からは名前もないような雑草が、ぼうぼうと力強く生えのびていた。それらはまさにここで経過した年月を感じさせるものたちであり、とても作り物であるとは思えなかった。
フランドールにとって、この世界はいったいどのようなものだったのだろう、と僕は考えた。彼女は必要なものだけがここにあると言っていたが、そうであるなら、彼女はもっと満足そうにしていてもいいのではないか? ──僕はまだ、フランドールという存在について詳しくないのだった。
それから長い時間をかけて、ようやくレンガの道を一周し終えたとき、僕たちはもう次に取る行動を決めていた。
「フランドール、君も行くんだろう?」
「もちろん」
僕たちは柵を乗り越え、湖の淵に二人で並んで立った。はじめこそ美しく輝いているように見えたそれは、近づくと途端に、ぬめりを帯びたかのような、下品な光沢を浮かべるようになった。湖が一際大きな波を立てて、思わせぶりな水音を辺りへと響かせた。
──不意に、フランドールが僕の手を握った。おそらく、それは僕を勇気づけるためにしてくれたことだった。彼女は僕の心にわずかに湧いた疑念や喪心の気配を敏感に感じ取り、それを取り払うためにそうしたのだった。
「ありがとう」
僕は彼女に心からの感謝を告げた。それから、蓄えられるだけの空気を肺のうちに携えて、わずかな緊張を身体ににじませながら、湖へと向かって身を投げた。
湖の水はまったく浮力を持たないかのように、二人の存在をひたすら底へ、奥へと導いていった。それはまさに一方通行の通路だった。あとから戻ろうとしても、もはやかなわないもの。僕がようやく息苦しさを覚えて目を開いたとき、水面はもう、手をのばしても届かないようなところにあった。
考える力が徐々に薄れていくなかで、僕はぼんやりと、いったいどれがはじめから決められていたことなのだろう、と思った。
僕とレミリアが出会うことだろうか。それとも、それよりもずっと前のことだってあるいは──
そのような思考も、いつしか水のなかに溶けていくようにして僕の頭から出ていき、あとにはただ暗闇にもよく似た静寂と、フランドールが回してくれた腕の感触だけが残った。
目を覚ましたとき、僕はよく見慣れた運転席にいた。そして、フランドールが僕の上に乗るような形で寝息を立てていた。どうやら僕たちは、あの湖を通ることによって、滞りなくもといた世界へと戻ってきたようだった(疲れによるものか息が乱れていたので、さしあたってはそれを整える必要があった)。
僕は眠りこけているフランドールを助手席へと移動させたあと、腕時計で今の時刻を確かめてみた。時計は六時の少し前を指している──僕があの世界で経験したことはすべて、たった一晩のうちに起こったことなのだ。そう思うと妙な気分になった。それからしばらくのあいだ、僕はあの世界でのことがらを──そしてそれらによって引き起こされた僕自身の変化を、何度も思い返していた。
そして時刻が七時を回り、僕がラジオのニュースをつけたころ、レミリアが目を覚ました。しばらくともに過ごしたことの影響で、彼女は僕と同じくらいの時刻に起きるようになっていた。
「おはよう」
「おはよう」
レミリアは助手席にフランドールの姿があることを確認したが、それにとくだん大きな反応を示すことはなかった。彼女はわずかに嬉しそうな表情を浮かべただけだった。このようにしてまた二人が出会えたことを、僕はまるで自分のことであるかのように、嬉しく思った。
ニュースが終わるまでのあいだじゅう、僕たちは何も話さなかった。車の外から聞こえてくる、朝に特有の騒がしさが、僕たちの代わりに話をしているようだった。ニュース・キャスターが堅苦しい口調で番組の終わりを告げたころになりようやく、僕たちは朝食について二、三ばかりの会話をした。
「これから湖に向かおうと思ってる」
目の前でハンバーガーにかぶりつく二人の子どもに対して、僕はそのように言った(レミリアはてりやき、フランドールはチーズバーガーを注文していた)。彼女らは食事を中断しないながらも、聞いているから続けろとばかりに、視線だけをこちらにやっていた。
「よく考えてみると、ひと段落したのは今なんじゃないか、と思ったんだ」
レミリアの妹探しが解決を見たことで、僕が彼女に協力する必要もなくなった。もちろん、彼女たちの抱えている問題がすべて解決したなどということはないだろうが、もっとも解決するべき問題にはひとまず片がついたように思える。僕はコーヒーで口を湿らせながら話を続けた。
「調べてみたんだけど、ここから北のほうに有名な湖があるらしい。まずはそこまで行こうと考えてる」
だからここでお別れしよう、と僕は続けて言おうとした。しかし、不意にレミリアが手をかざし、その言葉を遮った。
──このとき、僕は嫌な予感がしていた。それはいいようもないくらいの嫌な予感だった。何しろ、僕の話を止めてまでレミリアが言いたいことなど、そうはないはずなのだから──
「私、まだ人探し終わってないけど」
彼女のその発言に、僕は声も出ないほどに驚いた。
詳しく話を聞いてみると、どうやらレミリアが探していたのは妹だけではなく、その他にも別たれた家族がいるらしかった。そのなかでもとりわけレミリアが心配していたのはフランドールだった、ということなのだろう。はじめに会ったときにこのことを話さなかったのは、協力を望めないと考えたからだろうか?(おそらくそうなのだろう。そのような話だったら僕も協力しなかったように思う)
「まだ旅を続けるのでしょう? それならちょうどいいじゃない」
レミリアは口の周りについたソースを拭いながら、あくまで傲岸に言った。フランドールもそれに同調した。どうやら彼女たちは僕をとことん使い果たそうとしているようだった。僕はこれ以上妙なことに巻き込まれないために、どうにかこれを断ろうとした。
「僕なんかが役に立つとは思えないけど」
「何言ってるのよ。妹を見つけたでしょう」
毎回そううまくいくわけがない、と僕は反論したが、レミリアは頑として僕の主張を否定した。
「きっとこれからのことがうまくいく、と言ったでしょう」
そしてそのためには僕がいるのだ、と彼女は言った。いつものことではあるが、彼女の言葉には一つたりとも根拠がなかった。そしてそのことはかえって否定する材料に欠けていた。
どちらも単一の主張をし続けるだけの不毛な話し合いの果てに、とうとう僕は目的の湖に到着するまでという条件をつけて(これもあまり守られないような気がしている)、彼女たちを同乗させることになってしまったのだった。
それから僕たちは、たっぷりと時間をかけて食事を続けた。コーヒーを飲み終えたとき、時刻は八時四十分になっていた。前にいた職場なら、とっくに朝礼も終えて、仕事を始めている時間だった──以前までの僕とつなげてしまうこの癖も、そろそろやめるべきだな、と僕は思った。
窓から道路に目をやると、先ほどまでしていた通勤渋滞が解消され、新鮮な街の血液たちが止まることもなく巡っているのが見えた。僕は自身と彼らとを対比させながら、いつかはあそこへ戻っていくことになるのだろうかと、根無し草な思いに身をはせた。
店を出て、僕はステップワゴンの運転席へと座った。それから、後部座席にレミリアとフランドールが並んで座った。僕は二人にシートベルトを着けさせたのち、エンジンを起こし、FMが流す冴えたロックをバック・ミュージックにしながら、ひとまず最寄りのインターチェンジへと向かって車を走らせた。
成り行きに流されるだけの青年かと思っていましたが、きっちり自分の意志をもって行動できる面もあって素敵でした。
カーラジオから流れる番組を聞き流していく描写が何度かありましたが、それが現実と幻想の間にいる青年をつなぎとめているようにも見えました。
彼らの旅はまだまだ続くのでしょう。
とあるお話にもならないような男旅は、小さく素敵なレディに目的を与えられ、意味を得て物語となったのだ。
移動する相が真実を描くと言えば良いだろうか、そのような物語の神髄を表すことに成功しているように思えた。
スタンディング・オベーションを捧げたい所存である。
なぜレミリアらが現実にいるのかは作品の重要なことではないと仮定したとしても、あまりにも何も説明されないため、作品全体がふわふわとしており作者が読み手に何を提示したいのかがよくわかりません。作中で度々「理由は言えない」と提示されますが、これが作品を面白くするための前フリや布石などではなく、単なる中身のなさを表すセリフでしかなくなっているのが象徴的です。
物語が始まった当初はリスクを嫌っていた男が、後半ではガラスを破り逸脱を恐れない性格に変わっていたことを主題のひとつとして描きたかったのかもしれませんが、男の背景もふわふわとしているのでそれらしい匂わせをされても「なんとなくいい感じの空気ですね」止まりになってしまっています。またレミリアを拾ったことは別に犯罪ではないリスクですが、後半の男が起こした行動は明確に犯罪に類するものです。文脈の重ね合わせ・接続としても上手くいってるとは言い難いと思います。レミリアを拾ったリスクそのものも、読者視点では「見ず知らずの女の子のために人探ししてあげるのは、言うて別にそれは良いことでは?」の念がぬぐえず、「リスク」(=本来はしてはいけないことをやってしまっている要素)としての説得力が無いように感じられました。(後半でガラス戸のくだりをやりたかったので、前もって無理にリスク化したのだなと思えてもしまいます)
全体としてレミリアの運命に関する文脈に頼りすぎているふしもあり、ひとつひとつの事に具体的な理由がないため空虚な読書体験を産んでいます。何故レミリアは先のことを予感していたのか? 男はなぜこんな出来事に遭遇したのか? も悪い意味で運命なんですねと消化できてしまい、食べごたえがありません。レミリアが車中に現れたフランの姿を認めた際のリアクションも、そこまでに厚みのある描写が展開されていないため「運命を見てるっぽいそれっぽい反応」でしかなくなってしまっています。
フランが世界を作った、という話も意味がわかりません。もしかすると上手いメタファーを狙ったのかもしれませんが、メタファーとはレトリックであり、レトリックとは読み手に伝えることが本懐です。もう少し何がどうしてそうなったのかを描かなければメタファーも何もないのかなと感じました。
また単純に、理由も解らず迷い込んだ世界でよく知らない男の心理的解決で話が進みフランとレミリアが合流するのは、ストーリーとしての面白さが不足しているのではないでしょうか。
文章が非常に上手く面白いあまり、非常に上手くて面白い文章を書き連ねれば、小説としても面白くなると思ってしまったのが、当作品の読書感を引き起こしている理由のひとつなのかなと思いました。
当感想の最初にレミリアらが現実にいる理由は重要でないと仮定して……と言いましたが、それは単に目をつぶることもできるというだけの話であって、やはりそれらしい匂わせで強引に舞台を作っているに過ぎず、説明や世界観の構築に不足や不備があると言わざるを得ません。作品の主題ではない要素を細かく語る必要がないのは当たり前の話ですが、作品の背景がまるで書き割りのようになってしまっているのは(あるいは、“旅を描く番組・作品”としての意図があったとしても)やりすぎだと感じてしまいました。
文章は本当に面白くて、更に序盤の展開も合わさりワクワク感が膨らみに膨らんだため、大変に惜しい作品だと思います。男とレミリアの交流と打ち解けていく様子自体も素晴らしかったです。
文章だけなら何点あっても足りず、またこれが長編作品の一話であれば(つまり、作中に意味深に散りばめられつつも回収されなかった要素が、いつかはしっかり回収されるのだと読み手が判る作りであれば)、本当に素晴らしい作品だったと思います。
外の世界の現代ものということでこの作品のレミリア(とフラン)は我々が普段慣れ親しんでいる存在とは明らかに違う存在なのですが、それでも読み手がかのレミリアと確信するだけの傲慢さと気品は残しつつ現代風に崩している感じが絶妙でした