1.
幼いこいしとさとりがふかふかのベッドに横たわり手をつないでいる。窓から差す光が心地よい。二人とも第三の目は開かれて見つめ合っている。
『ねえ、お姉ちゃん』
『なぁに?』
『すき、大好き』
『私も好きよこいし』
『……むぅ~』
こいしが拗ねるように頬を膨らませて、ツイと顔を逸らした。しかし、さとり妖怪は心が読める。隠し事は出来ない。”大好き”と伝えたのに、姉が”好き”としか返してくれないから拗ねたのだ。
『アハハ、ごめんごめん、私も大好きよ、こいし』
『うんっ! とってもとってもだ~い好き!』
『ふふふ、私もよ。とってもとっても、だいすき』
さとり妖怪はお互いの心を読み合う。好きと思えば好きが返る。好きと思われれば好きを返す。そうして一日に何度も何度も、好きを伝え合うのがさとり妖怪のコミュニケーションなのだ。
ダイニングに甘い匂いが広がる。さとりはほんの少しだけ緊張してプリンの乗った皿をこいしに差し出した。第三の目は閉ざされ、何を考えているかは分からない。手作りのプリンにカラメルソース、生クリーム、さくらんぼが乗っかっている。
「ん〜おいしい〜」
こいしはほっぺが落ちちゃうとばかりに片手を頬に添えて味わう。さとりはほっとしてプリンを口にした。うん、よくできてるわと安心する。
「あ〜ん」
突然こいしがひな鳥のように口を開けて見せた。
「な、なによ?」
「あ〜ん」
どうやら止める気はないらしい。さとりは戸惑いながらプリンを一口すくってこいしの口に運んであげた。ぱくんと咥えられ、プリンよりスプーンを味わっているのではと言うくらい、しばらく離してくれなかった。
「えへへへ〜」
「どうおいしい?」
「おいしいよぉ~。それに間接キスしちゃったねお姉ちゃん」
「バ、バババ、バカなこと言うんじゃありません!」
さとりは頬を赤らめ、慌ててプリンを食べようとした。だが、そのスプーンを口にしてしまうと、自分もこいしと関節キスをしてしまうと気づき、ためらって手を止めた。
いや、そんな事を意識する方がおかしいと努めて冷静にプリンを口にした。
「お姉ちゃん、あ〜ん」
こいしがお返しとばかりにプリンをすくってさとりに食べさせようとする。
「わ、私はいいわよ」
「いいから、お口開いて?」
「う、うぅ……あ……あ〜ん……」
「えいっ」
控えめに開かれた小さな口にスプーンが乱暴に突っ込まれた。さとりの上唇にクリームがついてしまう。
「んむっ、ちょ、ちょっと――」
「わっおいしそー」
そしてちゅっとそれを吸い取られてしまった。さとりは顔を真っ赤にしてしばし固まった。少し遅れて手で口を隠す。すでに後の祭りなのだが。
「なっ!? ななな、なにをするのこいしっ!?」
「ん~? さくらんぼみたいなお口にクリームついてたから」
「あ、あなたがつけたんでしょ!? それにだからって!」
こいしは話を聞いているのかいないのか、プリンにのったサクランボを口にして「えへへへ〜さくらんぼあま〜い」と味わう。
「……全く、何を考えているんだか……普段は家に帰って来ないのに、いざ帰ってくると子どもの時より甘えるんだから」
「ごめんね? お姉ちゃん」
「その……心が読めないから……少し心配なのよ……避けられてたり、居心地が悪いのかなって……心を閉ざす前は、ずっと一緒にいたから……」
さとりが顔を逸らし、恐る恐る伺うようにこいしを見る。膝に置いた手がスカートを懸命に摘まんでいる。
「ん〜……避けてるのは、もう一人の私のせいなんだけど」
「え? 初耳ね。もう一人のあなた? っていうかホントに避けてたの?」
「あ、でもね。嫌いだからじゃないよ。むしろ好き過ぎて――」
こいしは話しながら最後のプリンを口にした。
「ごめんお姉ちゃん、すぐに出かけるよ」
「ええ!? 話の途中じゃない!? もう一人のあなたは私のこと避けてるのよね!?」
「じゃ、またね〜」
その言葉を最後に、能力を使ったのかこいしを認識出来なくなる。
「はあ……本当に、何を考えてるのよ……」
さとりはお互いに心を通わせていた温かい日々の記憶に思いを馳せた。
さとり妖怪はお互いの心を読み合う。相手のことが分からない不安など無い。好きと思えば、すぐに好きが返ってくる。それはとても幸せなのだ。それに浸っていたのは、もうどれくらい前のことだったか。
ある時からこいしが表層意識を隠すようになった。心の防御としてさとり妖怪はそういった能力にも長けるが、それは相手を信用していない、隠したい事がある証拠でもある。
それが信じられなくて、少し問い詰めてしまったのだ。それ以来、こいしは心を閉ざし、家にも帰らなくなってしまった。
「ホ、ホントに、避けられてたんだ……」
ぐすりと目に涙をため、慌ててそれをぬぐった。
自分のせいで追い詰め傷つけたのだと後悔した。なにか悩みがあっただろうに、それを無理に聞き出そうとして信頼を失った。姉失格だと。
だが、帰ってくると異常なまでに甘えてくるのだ。元々甘えん坊だったが、歳を重ねるにつれて甘えることも減っていった。だが心を閉ざしてからは逆。どんどんとスキンシップが激しくなっていく。
「嫌いじゃなくて好き……それは嘘じゃないわよね……こいし……」
さとりが縋るように呟く。ほんの数時間で去ってしまった妹に思いを馳せた。次に帰ってきてくれるのは、いつだろうかと。
2.
こいしは旧地獄跡の温泉につかりのんびりと体を伸ばしていた。小さめの露天風呂には人がおらず貸切状態で気兼ねもない。だが、脳内には激しい怒声が響いていた。
『こぉんのバカバカ大バカ無意識!』
『ええ〜なによ、もう一人の私? お姉ちゃんだって喜んでたじゃない』
『どこが!? 戸惑ってたわよ! お姉ちゃんに甘えるなって! 何遍言えばわかるのっ!?』
『あなたこそ分からないの? お姉ちゃんに甘えたいのが本心なんだって。私の望みはあなたの望みでもあるのよ』
『バカバカ大バカ! 本能だけのケダモノ! どうぶつっ! 私が心を閉ざした理由くらい知ってるでしょ!』
『うん。お姉ちゃんに恋してるのは私も同じだもん』
脳内でこいしが頭を抱えて崩れ落ちる。もう一人の無意識のこいしはのほほんとしてツンツンつついてくる。
『だったら分かるでしょ! 絶対に知られちゃいけないの! あ、あ、あ、あんな間接キスどころか……ホントにちゅってして……し、しかも私の本心をバラそうとして……なんであんなことするの!』
こいしの詰問にもう一人がうーんと考え込むが。
『知らなーい。わかんなーい』
こいしは膝と肘を地につけてドンと拳を打ち付けた。脳内でだが。
『ううぅ……心を閉ざした私の覚悟が……こいつのせいでオジャン……』
『伝えればいいじゃん。なんで素直にならないで隠そうとするかな~』
『バカ! わ、私とお姉ちゃんは、し、姉妹なのよっ!』
『でも好きなんでしょ? 姉妹以上に。それにホントはちゅーできて嬉しいくせに』
『う、うううううっうるさい!』
こいしが耳まで真っ赤にして首をブンブン振りながら否定する。
『うるさいのはそっちだよ~。私はお姉ちゃんと一緒にいたいのに、あなたがうるさくするから一緒にいられないんだもん』
『あんたが暴走するせいでしょ! 私だってお姉ちゃんと一緒にいたいわ!』
『ほ~ら本心が少しだけ出てきたわ~ 一緒にいたいだけじゃなくて、本当は私みたいに無邪気に甘えまくりたいでしょう?』
『そ、そそそそんなことない!』
無意識が背中を指でなぞると、こいしはビクンと身をよじらせて、どもりながら否定した。
『ねえ、そんなに知られたくないの? なんで?』
しかし無意識にそう指摘されると、こいしの体が微かに震え、それを抑えるように自分の体を抱き締めた。
『何度も言ってるでしょ。お姉ちゃんに恋愛感情抱くなんておかしいの……思いを告げても絶対に叶わない……それどころか、嫌われて、拒否されるかもしれない……絶対に知られちゃいけないのよ』
一つ一つ言葉にする度、こいしの心が冷たくすさんでいく。自分で自分を傷つけるように。だが、この戒めが無いと間違いを犯してしまうかもしれない。
多くは望まない。この心を隠して、仲の良い姉妹として毎日を過ごせればいいだけなのだ。だが、無意識の暴走のせいで、近づくことすら叶わない。
『何度聞いてもよくわかんないけど……そんなに言うなら、あなたが体を操ればいいじゃない?』
『え!? そんなことできんの!?』
『そりゃあ、あなたが主人格じゃない。あなたが心を閉ざしてお家から逃げて、ご飯も食べずに無気力にしてたから、私が動かすことにしただけよ?』
『も、もっと早く言いなさいよ!』
『だって聞かれなかったも~ん』
こいしがぐぬぬと悔しがる。だが、いざ体を動かそうとしても。
『ふんっふぬっ! ねえ、やっぱり動かせないわよ』
『そりゃああなたは逃げようとしてるもの。恐れて、迷って、逃げて私に体を明け渡してる』
こいしはびくりと体を震わせた。はたしてさとりの元に行って、何事もなく過ごせるだろうか。しどろもどろになって怪しまれて、好意がバレてしまうのではないだろうか。そうしたら、きっと気持ち悪がられて。
『お姉ちゃんのこと信じてないの? 好きって伝えても、嫌ったりなんて絶対にしない』
『うぐ……そうかもしれないけど……でも、想いは叶わないもん……』
『確かに脈ナシだけど、こうして離れ離れでいいの? 本当はお姉ちゃんと一緒に居たい。それは私だけじゃなくて、あなたの願いでもあるでしょ?』
『ううう……挙動不審になったり怪しまれたら……』
『ピンチになったら私に任せてよ。その為の私でしょ?』
『あ、あんたは暴走するじゃない!』
『今回ばかりは、あなたの指示を全部聞いてあげるわ。ラジコンみたいになってあげる。ウィーン、ドーン!』
『だからドーンはダメなの!』
『アハハ! で、どうする?』
こいしは拳を握った。無意識の暴走のせいでさとりを避けているなんて、ただの言い訳だった。本当は、自分が恐れているんだ。好意がバレてしまうことを。それでずっと避けてきた。だけど、今のままでいいはずがなかった。一番一緒に過ごしたい姉と離れ離れで、わけのわからないあんぽんたんと毎日を過ごしている。会わないといけない。
最初は、動揺したり、変な態度をとってしまうかもしれないが、きっと段々慣れていく。態度も、想いを隠すことも。会って一緒に過ごさないと、今のままでは慣れる練習にすらなりはしない。
「よし……!」
久しぶりに、口から声を出した。両の手は力強く握られている。それを湯船から出して、ぐっぱと動かしてみた。
『おめでとう。さっそく会いに行きましょう。それから、どうか私を否定しないで。無意識の声に耳を貸せるようになれば、私は自然と一つに戻って消えるわ。無意識は、意識と表裏一体……。理性や理屈だけじゃなくて、直感と感情と本能、そのどちらもが大切なのよ?』
無意識のこいしの声が脳内に響く。
「りょーかい。一応覚えとくよ」
こいしは力強く立ち上がった。湯船で温められたおかげだろうか、どくどくと心臓が鼓動していた。
3.
地霊殿に戻るとどこからかいい匂いが漂い、こいしはそれにつられてキッチンへと向かった。フライパンの中でハンバーグがおいしそうに焼けている。エプロン姿のさとりがくるりと振り返った。
「あらこいし、おかえりなさい。ちょうどお夕飯作ってたのよ?」
さとりが嬉しそうに笑いかける。焼けたハンバーグをお皿に移し、デミグラスソースや野菜の添え物を綺麗に盛り付けていく。
「あ……ご飯、大丈夫かな。私の分はなくてもいいよ」
「なによ、いつもはそんなこと気にしないのに。一人増えても変わらないわよ。食材も明日また買い足しにいけばいいわ。ハンバーグは私のを上げる。私は適当におかずを作るから……」
「あ、それなら私が今から買いにいってこようかな……」
「え? ……でも、もう準備できるわよ?」
さとりが寂しそうにこいしに聞き返す。
『バカ! ビビッて避けようとしてんじゃないわよ!』脳内に無意識の声が響いた。
「あ、いや、明日一緒に買いに行こうよ! ねえ、手伝えることあるかな!」
さとりはびっくりと目を開けて、それから嬉しそうに細めた。
「ふふふ、どうしたのこいし? そうねえ、そしたらスープをよそってちょうだい。それから、お燐とお空を呼んできて。きっと二人ともびっくりするわ」
「う、うん!」
無意識のこいしが脳内でコントローラーを手に『うし!』と呟く。こいしはこれじゃあこっちがラジコンじゃないかと自分に呆れた。
手伝いながら、ちらりと様子を伺う。さとりは鼻歌を奏でてご機嫌だ。歌に合わせてリズミカルに体が揺れて、今にも踊り出しそうだ。こいしはそれに見とれて手が止まってしまった。ふと目が合い、さとりが口に人差し指を当てて不思議そうに小首をかしげた。
「どうしたのこいし? 私を見つめて?」
「あっ、えっ、いや! 何でもないよ! ちょっと見てただけ!」
顔を赤くし、手をわたわたとさせて慌てるこいしにさとりがふふふと笑った。
「変なこいし。ふふ、いつも変だけど、今日は昔に戻ったみたい」
あまりに幸せそうに微笑むものだから、こいしは「お、お燐とお空呼んでくるね!」と逃げるしかなかった。
楽しい食事を終えた後、こいしはさとりの寝室のソファに腰かけていた。ベッドやカーテンといった布物は黄色、緑、薄紫を基調とした色で統一されている。
『ねえこれ、あなたの色なんじゃない?』
『ええ!? そ、そうかなあ?』
そんな訳ないと心の中で否定しつつ、もしそうだったら嬉しいなという期待がじんわりと胸を温める。
『それよりあなた、お姉ちゃんの誘いを断るってどういうこと?』
無意識のこいしが人差し指をビシッと突いて詰問すると、こいしはうっとたじろいだ。
『だ、だって……い、一緒にお風呂だなんてそんな……』
無邪気な誘いを受けたこいしは、生唾をごくりと飲み込み、顔どころか全身を真っ赤にさせて、どもりながら必死に固辞したのであった。お風呂には先に入り、今は体の火照りを冷ましている。
『はあ……ヘタレなんだから。せっかくのチャンスを……』
『チャンス……? あんた、まさかお風呂でも……』
『ええ、イタズラするつもりだったわよ』
『イ、イタズラ……』
無邪気にこいしを誘ったさとりだったが、いざ浴室でまじまじと見つめられると照れ始める。湯船の中に隠れ、腕をバッテンにして体を隠すがすぐにのぼせるように赤くなってしまう。そんな姉に無邪気に抱きついて。
『バ、バカッ! な、ななな、何てこと考えてんのよ!』
『あなたが考えてるのよ!? や~い変態、スケベ~』
『う、ううううるさい!』
『それに、イタズラって言っただけなのに……変な想像したのはあなたじゃない』
『な、なによ! じゃあ、イタズラってなんのことよ!』
問いただすと無意識のこいしが意味ありげに、にま~と笑った。こいしはごくりと唾を飲み込む。
『そりゃあ、背中洗いっこして、髪もお互いに洗って』
『って普通かい!』
こいしは拍子抜けしてソファから滑り落ちた。
『それから、シャンプーで目が見えなくなってる時に……』
『はわわわわ……』
目を開けられない状態でイタズラをされ、びくびくと怯えるさとりを想像して震える。こいしはブンブンと頭を振って、脳内の法廷に立つと、カンカンと木槌を打ち鳴らした。
『有罪有罪! ギルティギルティ!』
『お姉ちゃんとスキンシップとって何が悪いのよ』
『とにかくダメなものはダメーッ!』
『そうだ、それよりソファなんかじゃなくて、お姉ちゃんのベッドに入りましょうよ』
その提案を強く否定することはできなかった。一緒のお風呂は回避したものの、無意識のこいしに見事にラジコン操作されて、一緒に寝る約束をしてしまったのだ。おかしい、こんなはずではと自問自答する。まるで無意識の手のひらの上だ。
そう、今のうちに慣れておかないといけないと自分に言い訳する。おずおずとベッドの中に入ると姉の匂いに全身が包まれた。枕に鼻を埋めてすーはーと息を吸い込む。
「なにしてんの私は……変態か……」
「こいし~? 上がったわよ~」
「んひゃぁうっ!?」
布団をおおげさにひっくり返して振り向く。そこにはパジャマ姿のさとりがいた。第二ボタンまで外して胸がはだけている。
「あら、寝るところだったの?」
さとりが隣に腰かけ、小首をかしげながら上目遣いにこいしをみる。ピンクの髪の毛からシャンプーのいい匂いがする。首や胸が上気し、しっとりと汗ばんでいる。
「お、お姉ちゃん……ボタンちゃんと、し、締めてよね……」
「ええ~? だってまだ暑いんだもの。別に気にすることないでしょ。姉妹なんだから」
さとりがスリッパを脱ごうとかがむと、無防備な胸の先が見えそうになった。こいしはバッと首ごと目線を逸らす。これは平静を装えないと思い、体の主導権を無意識に明け渡した。
「ほ?」
『少しだけ任せるわよ? ああ、こっちは大分落ち着く……くれぐれも暴走はしないでよね』
さとりが体をベッドの中に滑らせる。手と手が触れ合う距離でこいしとしばし見つめ合った。
「お姉ちゃん、ボタン締めて上げる」
「わ、いつものこいしに戻った? い、いいわよ自分でできるから……」
だがこいしはそのままさとりのパジャマに手をかける。
「も、もう、何だか調子が狂うわねえ……」
「もう一人の私と過ごせて、嬉しかった?」
「え、ええ。やっぱりあの子がもう一人のあなたなのね? 昔と変わってなくて、安心したわ……私のことを、嫌ってる訳でもなさそうだったし、なんだか可愛らしいのよね……って」
こいしはさとりのパジャマを閉じるどころか、ボタンを全て開けていた。大事なところは隠れているが、胸元、へそ、お腹があらわになる。それを自覚してさとりの顔と体がゆっくりと赤に染まっていく。
『な、ななな、なにやらかしてんのこぉんのバカ無意識はーっ!?』
「ちょ、ちょっとこいし?」
「えいっ」
こいしがツンとへそをつつくと、さとりの体がびくんと震える。
『い、いい加減にしろ! このバカ無意識ーっ!?』
『もう、うるさいなあ』
『そうだ! 私の指示聞くって言ってた! ステイ! ステイ! 一旦落ち着いて距離を取りなさい!』
無意識のこいしは不服そうに『はぁい』と答えて距離を取った。そのまま何もせずニコニコとさとりを見つめている。待機モードだ。さとりの方は混乱して呆気に取られたままだ。
『せっかくスキンシップのチャンスだったのに』
『なにがチャンスよ! あんたのせいでピンチだっての!』
『なんで怒ってるの~?』
『は、はあ!? 胸に手を当てて考えなさいよ!』
『は~い』
こいしは指示を受け入れると、動揺したままのさとりの胸に手を当てた。それから「う~ん」と唸り「なにもわからないわ」と呟く。
「ちょ、ちょっと!?」
『どわあああああああっ!? 駄目だこいつ早くなんとかしないとっ!?』
こいしが無意識から体の主導権を取り戻す。それと同時に手のひらに小さくも柔らかい感触が伝わる。こいしは手を離そうとしたが、吸い付いたかのように離れてくれない。ついゆっくりと指を温かいそれに沈めてしまった。「んっやっ」と甘い声がさとりから漏れる。気がつくと、そのまま手を胸に押し込んで、さとりをベッドに押し倒した。
さとりは流石に様子がおかしいと感じ、両手で肩を抱き体を守ろうとする。
「こ、こいし……?」
こいしはいつの間にかさとりの手首を掴んでいた。それが弱々しく震えているのが分かる。はっとしてさとりと目を合わせる。その瞳は怯えて揺れていた。
「ご、ごめん……お、お姉ちゃん……」
こいしが涙をこぼし、さとりの胸をぽつりと濡らした。さとりから離れると、背を向けてくるまり、声を押し殺して震えてしまった。
4.
『こ、怖がらせた……嫌われた……ど、どうしよう……』
布団に顔まで隠して真っ暗な世界でこいしはガタガタと震えた。だが、さとりがそっと抱きしめる。安心させるように、ぴたりと体を寄り添って。
「お姉ちゃん……? どうして……?」
こいしの問いにさとりは答えない。背中に柔らかい胸の感触が伝わり、この期に及んでそれを意識してしまう自分に絶望した。
「ダ、ダメ……! は、離れて……! 私、悪い子だから!」
だが、さとりはぎゅっとこいしの体を掴んで離れようとしない。あまりにさとりが必死なので、こいしは目を瞑って諦めた。
『ねえ、無意識の私……なんでもいいから変わってくれない? それで、今日はとにかく離れようよ』
しかし無意識の返事はなかった。いや、声が小さくなっているのだ。耳を澄ませるとようやく聞こえる。
『……あなたに戻りかけてる。とても体を動かすなんてできないわ……』
『な、何よ! どうしたのよ! いつもみたいに体を操ってよ! 好き放題したいんじゃないの!?』
『……ふわあぁ……ごめん、少し眠るわ。もしかしたら、もう二度と起きないかも……それを願うわ……』
『ちょ、ちょっと!?』
『……最後におねがい……お姉ちゃんを……信じて……なにがあろうと……あなたを、嫌ったりなんて、しない……』
それを最後に無意識の気配が消えた。こいしは必死に呼びかけるが、何も返っては来ない。
『な、なによ……肝心なところでいなくなって……私だって、お姉ちゃんに気持ちを伝えたい……愛してるって伝えたい……でも……』
その思いは叶わない。その思いは届かない。嫌われない保証もない。伝えたい。だけど伝えたくない。
最初は怖がらせたことを後悔して泣いてしまった。だけど今は。
「こいし、泣いてるの……?」
さとりが撫でながらこいしをあやす。こいしは何も言葉を返すことが出来なかった。
「ごめんね、こいし」
一瞬、何を言われたか理解ができなかった。なぜ、姉が自分に謝っているのかと。
「昔、こいしが心を隠した時、お姉ちゃん嫌われたんだって思って、理由を無理に聞こうとしちゃった。さとり妖怪でも、隠したいことくらいあるよね。ごめんね。きっと悩みがあったのに、傷つけて……ずっと、ずぅっと、後悔してたの。こいしが家に帰らなくなってから、毎日……」
はっとして息をのむ。自分が傷ついているのは自分のせいだ。姉は何も悪くない。ほんの一度だけ本心を聞かれて逃げたことがあった。さとりはその時のことをずっと気にしているのだ。自分がさとりを避け続けたせいで。
「さっきも怯えてごめんね。ちょっとだけ怖かったの。こいしに仕返しされちゃうんじゃないかって。私は、罰を受けないといけないって分かってるのに」
そんな訳がない。仕返ししようだなんて、罰を受けさせようだなんて、一度も思ったことはない。遠ざけることで、ずっと姉を傷つけていたのだ。距離を置いて、傷ついているのは自分だけではなかった。自分のせいで、大切な姉にまで。
勇気を振り絞った。例え、姉に嫌われてしまうとしても、姉を傷つけるより、ずっと良いと。
「違う、違うの……悪いのは私で、お姉ちゃんに嫌われちゃうのは私の方なの……」
その告白に、さとりはあやすようにこいしの頭を撫でて上げた。少しだけ心が落ち着いて行く。
「嫌わない。何があろうと、絶対にこいしを嫌いになんてならないわ……」
「変で、いけないことで、お姉ちゃんを絶対困らせることなの……」
「大丈夫よ……お姉ちゃん、こいしになら、例え殺されることになっても、受け入れようと思ってたから……」
「心を閉ざしたのは、お姉ちゃんに嫌われたくないから、想いを知られたくないから」
全ては嫌われたくないからだった。お互いに心を読めると、こいしの気持ちが伝わると同時に、さとりの答えも伝わる。“口では嫌いにならない”と言っても、“心の中で実は気持ち悪い”と思われるかもしれない。そんな心の内まで読める。
だが、今なら。こいしは天啓を得た。もし心の内でそう思われてしまうとしても、心が読めない今ならそれを知らずに済む。
思いを伝えれば、姉はそれを優しく受け入れてくれるだろう。嫌いになんてならないと言ってくれるはずだ。
その閃きを得たこいしを止める理由は、もはや存在しなかった。
「好き、お姉ちゃんが好き、大好きなの」
体に回されたさとりの手を握り返す。
「ええ、お姉ちゃんもこいしのことが大好きよ」
「違う、好きなの、どうしようもなく……。お姉ちゃんとしても好きだけど、それ以上に……。その気持ちが隠したかった思いなの」
妹が心を閉ざすほどの好意。それが姉妹愛に収まらない事をさとりはようやく理解した。さとりの腕が緊張で固くなる。それをこいしは敏感に察知した。全身から動揺と緊張がはっきりと伝わる。
やっぱり気持ち悪いよね。妹が姉を好きになるなんて。だが、それでもさとりはこいしを離すまいと強く抱きしめた。
「ごめんね、ちょっとびっくりしちゃっただけ。こいしのこと嫌いになんてならないわ。絶対よ」
「そ、そんなの嘘だよ……絶対、気持ち悪いって、思うもん……」
「ええ!? 気持ち悪い? そんなわけないじゃない。心を読んでもらえたらいいんだけど……」
「それは……怖い……」
「うーん、どうしたら信じてもらえるのかしら」
さとりは困ったように、こいしの頭を撫で回す。こいしがようやく振り返ると、優しい姉の顔が目の前にあった。少し困っているが一遍の嫌悪感もない。頬は紅くほてり、照れているようでも、嬉しそうでもある。初めて見る表情だった。初めての感情に戸惑っているのかもしれない。
こいしが真っ直ぐに見つめると、ますます顔を赤くさせて、恥ずかしそうに目を逸らせた。そんな反応も可愛らしい。こいしは本能のままに言葉を発していた。
「ちゅーして」
「は? はえ!?」
「ちゅーしてくれたら信じる」
「い、いやそれはあのその」
さとりの手が離れ、わたわたと宙を舞う。
「……やっぱり、気持ち悪いんだ」
拗ねたように言うと、さとりは動きを止めて、ゆっくりとこいしの髪を手で梳きながら、しばし返事を考えた。
「ちゅー……したいのね? 私と」
「うん」
「そうしたら、こいしのこと、嫌いじゃないって信じてくれる?」
「うん」
「そっか。それじゃあ、まず、告白の返事を聞いてくれる?」
「……うん」
それを聞くのは怖かったが、聞かないのはもっと怖かった。あんなに恐れていた思いを告げたのだ。まさに返事が、答えが恐ろしいのだ。だが、聞かないでいるとその恐怖に永遠に怯えることになる。
「こいしの事は大好き、ううん愛してるわ。でもそれは姉としての感情なの……」
それを聞いてこいしの目の前が真っ暗になった。絶望し、逃げたくなるが、姉の体があまりに甘く、暖かいので、今は無気力にそれに沈むことにした。
「それ以上と言われると……分からないわ。考えたことも無かったし、突然のことでびっくりしているし」
ただ、さとりがこいしを嫌いにならない。その思いに嘘は無いのが唯一の救いだった。今まで通り、大好きな姉でいてくれる。それは失わずに済む。
「もう、そんなにへこたれないで? それで、嫌いになんてならない、こいしの事は愛してるって信じてくれる?」
姉の声色、優しく包み込んでくれる体、暖かい表情から、それが本心であることが分かる。
「嘘かもしれないもん。信じられないもん」
「……じゃあ、確かめる?」
さとりが人差し指を、綺麗なピンク色の、ぷくりと膨らんだ唇に当てた。こいしは目を見開いてそれを見つめた。
「い、いいの?」
辛うじて本能を抑え込み、そう尋ねる。
「こいしを嫌ってなんかない。それを伝えられるなら、何でもするわ。だって、形は違っても愛しているもの。さっきのは恋心はないって言う返事。こいしがどうしてもしたいなら、キスしても良いけど、勘違いや期待をさせちゃいけないと思って」
「ほ、ほんとにいいの? お姉ちゃんに汚い、汚らわしい感情を抱いてるんだよ?」
「こいしは汚くなんてない。大好きよ……ほら、目を閉じて?」
「う、うん……」
こいしがおずおずと目を閉じる。暗闇の世界で、肩に手をおかれビクッと震える。心臓の音が伝わるくらいに激しい。姉の気配と吐息がゆっくりと近づいてくる。そして。
ちゅ……とおでこにキスをされた。目を開けると、赤くなった頬と口を袖で隠したさとりが顔を逸らせながら目だけでこいしを見つめていた。
「あぅ……その、こ、これが私の気持ち、だから……」
ああ、これでよかったんだと思った。たったこれだけの、おでこにキスをするだけで、精一杯で真剣で顔を真っ赤にして、そんな姉を愛おしいと思った。
「お姉ちゃん」
こいしがさとりの手に手を合わせる。目を開けた赤いサードアイと、目を閉じた青いサードアイが触れ合う。
「な、なーに?」
「久しぶりに心、読みたいかも」
こいしは青い瞳を薄らと開けた。瞬間、二人の脳裏に、お互いの感情が伝わりあう。言葉よりも先に感情が。
姉への好意と信頼、強過ぎる愛情とそれから感謝。
姉の方は、驚きと歓喜、それから別の驚きと戸惑い。それでも妹に負けないほどの好意と慈愛が満ちている。
『お姉ちゃん、とってもとっても大大大好き』
『お、思った以上ねこれは……』
『ホントに嫌悪感とかないんだ……よかった……』
『もちろんよ? こいしを嫌うなんて、世界が滅びてもありえないもの』
『私もだよ、お姉ちゃん……』
さとりの心にこいしの安堵と、それ以上に歓喜が伝染する。
『よ、喜び過ぎじゃない? あなたの喜びが滝みたいに流れてくるんだけど』
『私の愛情、こうやってぶつけ続けたらどうなるかな?』
『こ、こまるわ……』
困惑や動揺は確かにある。だが、嫌悪や拒絶の感情はなかった。
さとりの心にも大きな安堵がある。ずっと怯えていたのだ。こいしに嫌われてしまったのではないかと。ずっと避けられていたから。
『ごめんね、お姉ちゃん……私が臆病なせいで』
『いいのよ。嫌われてないって分かったから。二人とも嫌われることを恐れてたなんて、馬鹿みたいね。こんなに思い合っているのに』
『もう逃げないよ。昔みたいに、毎日一緒にいよ?』
『ええ。それに外のことを色々知れたでしょう? お姉ちゃんに案内して?』
こいしの脳に直接、さとりの穏やかなイメージが流れ込んでくる。二人でお出かけして色々な景色を見て、山や川や湖ではしゃいで遊び回ったり、甘いものを食べて休憩したり、花を愛でたり。
『お姉ちゃんこんなのはどう?』
『わあ……色々なところに行っているのねえ……』
太陽の花畑に咲く一面のヒマワリ、静かな趣のある竹林、霧で覆われた湖、はたまた魔法の森の幻覚キノコでエキセントリックな世界へと。そして博麗神社や妖怪の山から見下ろす自然豊かな幻想郷をイメージする。二人仲良く手を繋いだ姿を横に思い描いて。
5.
野原に穏やかな春風が吹く。白いタンポポの種が青い空に舞い、蝶たちがその隙間を踊る。小鳥たちが歌を奏でる。新緑のブナの木の下、こいしはさとりに膝枕をしてもらいながら、耳かきをされていた。温かく柔らかい感触に沈み込む。耳はくすぐったいけれど気持ちがよい。このまま溶けてしまいそうだ。
こいしの第三の目は閉じられている。さとりに嫌われることはないと分かったものの、恋心を無為に向けても困らせてしまうし、さすがにどちらも気まずい思いをするからだ。
『ちょっと! あなたばっかりずるいわよ! 私にも堪能させなさい!』
脳内で無意識のこいしが叫ぶ。姉への思いを諦めて生活していた時『なに諦めてんねーん!?』と突如復活したのだ。
それ以来、こいしも吹っ切れた。一度振られたからと言って、諦めなくてもいい。例え実らなくてもいい。もっと素直に好意を向けようと。
『まあいいけど、暴走しないでよね?』
文句を言いつつ体の主導権を一時的に渡す。もう、姉に気持ちを隠す必要は無い。好きなだけ、好きを伝えても良い。それに無意識のこいしは意外性のあるスキンシップやアプローチをしてくれる。それで可愛い姉を見ることもできる。
こいしが「くあぁ」とあくびをすると、さとりが「終わったわよ、このまま眠る?」と微笑んでくれる。
「んーん、お返しに、私も耳かきしてあげる」
こいしはがばりと起き上がって正座をすると、自分の膝をぽんぽんと叩いて見せた。
「え、ええ? 私はいいわよ……」
「いーから!」
「もう、どーせイタズラするんでしょ……」
さとりがおずおずと膝に頭をのせる。こいしは器用に耳かきを操ってさとりの耳を掃除した。だが、よく手入れされていて、すぐに終わってしまい棒を取り出す。それから。
「ふー……」
「きゃぅんっ!?」
『か、可愛いっ!』
さとりがビクンと震えて飛び上がる。真っ赤に染まった耳を手で抑えて隠している。その姿が可愛らしくて、こいしはますますさとりの事を好きになった。
「もーお姉ちゃん何してんの? ほら続き!」
「も、もう……耳は敏感だから、息吹きかけないでよね」
「は~い」
さとりがもう片方の耳を向けてこいしの膝に頭をのせるが。
「はむ」
「ひゃぅっ!?」
『さ、さささ流石にそれはやり過ぎよ!』
こいしがさとりの耳たぶを甘噛みすると、さとりは再び跳ね起きて、キッとこいしを睨みつける。
だが、無意識のこいしを抑え込み、再び表にでたこいしが赤くなって縮こまり、顔を逸らして目だけを向けながら上目遣いをする。
「そ、その……ごめんなさいお姉ちゃん……やり過ぎた……」
もじもじと控えめに謝られると、叱ることもできなくなってしまう。
「もう……ずるいんだから、こいしは」
さとりは拗ねて顔を逸らしたが、そのまま頭を膝に預けた。
「え、えっと……?」
「なあに? 耳かきしてくれるんでしょ? 今度はイタズラなしよ?」
「う、うん!」
こいしが緊張しながらそろりそろりと棒を耳に入れる。大切な姉の耳を万が一にも傷つけないようにと。
ずいぶんくすぐったいなとさとりは思った。
幼いこいしとさとりがふかふかのベッドに横たわり手をつないでいる。窓から差す光が心地よい。二人とも第三の目は開かれて見つめ合っている。
『ねえ、お姉ちゃん』
『なぁに?』
『すき、大好き』
『私も好きよこいし』
『……むぅ~』
こいしが拗ねるように頬を膨らませて、ツイと顔を逸らした。しかし、さとり妖怪は心が読める。隠し事は出来ない。”大好き”と伝えたのに、姉が”好き”としか返してくれないから拗ねたのだ。
『アハハ、ごめんごめん、私も大好きよ、こいし』
『うんっ! とってもとってもだ~い好き!』
『ふふふ、私もよ。とってもとっても、だいすき』
さとり妖怪はお互いの心を読み合う。好きと思えば好きが返る。好きと思われれば好きを返す。そうして一日に何度も何度も、好きを伝え合うのがさとり妖怪のコミュニケーションなのだ。
ダイニングに甘い匂いが広がる。さとりはほんの少しだけ緊張してプリンの乗った皿をこいしに差し出した。第三の目は閉ざされ、何を考えているかは分からない。手作りのプリンにカラメルソース、生クリーム、さくらんぼが乗っかっている。
「ん〜おいしい〜」
こいしはほっぺが落ちちゃうとばかりに片手を頬に添えて味わう。さとりはほっとしてプリンを口にした。うん、よくできてるわと安心する。
「あ〜ん」
突然こいしがひな鳥のように口を開けて見せた。
「な、なによ?」
「あ〜ん」
どうやら止める気はないらしい。さとりは戸惑いながらプリンを一口すくってこいしの口に運んであげた。ぱくんと咥えられ、プリンよりスプーンを味わっているのではと言うくらい、しばらく離してくれなかった。
「えへへへ〜」
「どうおいしい?」
「おいしいよぉ~。それに間接キスしちゃったねお姉ちゃん」
「バ、バババ、バカなこと言うんじゃありません!」
さとりは頬を赤らめ、慌ててプリンを食べようとした。だが、そのスプーンを口にしてしまうと、自分もこいしと関節キスをしてしまうと気づき、ためらって手を止めた。
いや、そんな事を意識する方がおかしいと努めて冷静にプリンを口にした。
「お姉ちゃん、あ〜ん」
こいしがお返しとばかりにプリンをすくってさとりに食べさせようとする。
「わ、私はいいわよ」
「いいから、お口開いて?」
「う、うぅ……あ……あ〜ん……」
「えいっ」
控えめに開かれた小さな口にスプーンが乱暴に突っ込まれた。さとりの上唇にクリームがついてしまう。
「んむっ、ちょ、ちょっと――」
「わっおいしそー」
そしてちゅっとそれを吸い取られてしまった。さとりは顔を真っ赤にしてしばし固まった。少し遅れて手で口を隠す。すでに後の祭りなのだが。
「なっ!? ななな、なにをするのこいしっ!?」
「ん~? さくらんぼみたいなお口にクリームついてたから」
「あ、あなたがつけたんでしょ!? それにだからって!」
こいしは話を聞いているのかいないのか、プリンにのったサクランボを口にして「えへへへ〜さくらんぼあま〜い」と味わう。
「……全く、何を考えているんだか……普段は家に帰って来ないのに、いざ帰ってくると子どもの時より甘えるんだから」
「ごめんね? お姉ちゃん」
「その……心が読めないから……少し心配なのよ……避けられてたり、居心地が悪いのかなって……心を閉ざす前は、ずっと一緒にいたから……」
さとりが顔を逸らし、恐る恐る伺うようにこいしを見る。膝に置いた手がスカートを懸命に摘まんでいる。
「ん〜……避けてるのは、もう一人の私のせいなんだけど」
「え? 初耳ね。もう一人のあなた? っていうかホントに避けてたの?」
「あ、でもね。嫌いだからじゃないよ。むしろ好き過ぎて――」
こいしは話しながら最後のプリンを口にした。
「ごめんお姉ちゃん、すぐに出かけるよ」
「ええ!? 話の途中じゃない!? もう一人のあなたは私のこと避けてるのよね!?」
「じゃ、またね〜」
その言葉を最後に、能力を使ったのかこいしを認識出来なくなる。
「はあ……本当に、何を考えてるのよ……」
さとりはお互いに心を通わせていた温かい日々の記憶に思いを馳せた。
さとり妖怪はお互いの心を読み合う。相手のことが分からない不安など無い。好きと思えば、すぐに好きが返ってくる。それはとても幸せなのだ。それに浸っていたのは、もうどれくらい前のことだったか。
ある時からこいしが表層意識を隠すようになった。心の防御としてさとり妖怪はそういった能力にも長けるが、それは相手を信用していない、隠したい事がある証拠でもある。
それが信じられなくて、少し問い詰めてしまったのだ。それ以来、こいしは心を閉ざし、家にも帰らなくなってしまった。
「ホ、ホントに、避けられてたんだ……」
ぐすりと目に涙をため、慌ててそれをぬぐった。
自分のせいで追い詰め傷つけたのだと後悔した。なにか悩みがあっただろうに、それを無理に聞き出そうとして信頼を失った。姉失格だと。
だが、帰ってくると異常なまでに甘えてくるのだ。元々甘えん坊だったが、歳を重ねるにつれて甘えることも減っていった。だが心を閉ざしてからは逆。どんどんとスキンシップが激しくなっていく。
「嫌いじゃなくて好き……それは嘘じゃないわよね……こいし……」
さとりが縋るように呟く。ほんの数時間で去ってしまった妹に思いを馳せた。次に帰ってきてくれるのは、いつだろうかと。
2.
こいしは旧地獄跡の温泉につかりのんびりと体を伸ばしていた。小さめの露天風呂には人がおらず貸切状態で気兼ねもない。だが、脳内には激しい怒声が響いていた。
『こぉんのバカバカ大バカ無意識!』
『ええ〜なによ、もう一人の私? お姉ちゃんだって喜んでたじゃない』
『どこが!? 戸惑ってたわよ! お姉ちゃんに甘えるなって! 何遍言えばわかるのっ!?』
『あなたこそ分からないの? お姉ちゃんに甘えたいのが本心なんだって。私の望みはあなたの望みでもあるのよ』
『バカバカ大バカ! 本能だけのケダモノ! どうぶつっ! 私が心を閉ざした理由くらい知ってるでしょ!』
『うん。お姉ちゃんに恋してるのは私も同じだもん』
脳内でこいしが頭を抱えて崩れ落ちる。もう一人の無意識のこいしはのほほんとしてツンツンつついてくる。
『だったら分かるでしょ! 絶対に知られちゃいけないの! あ、あ、あ、あんな間接キスどころか……ホントにちゅってして……し、しかも私の本心をバラそうとして……なんであんなことするの!』
こいしの詰問にもう一人がうーんと考え込むが。
『知らなーい。わかんなーい』
こいしは膝と肘を地につけてドンと拳を打ち付けた。脳内でだが。
『ううぅ……心を閉ざした私の覚悟が……こいつのせいでオジャン……』
『伝えればいいじゃん。なんで素直にならないで隠そうとするかな~』
『バカ! わ、私とお姉ちゃんは、し、姉妹なのよっ!』
『でも好きなんでしょ? 姉妹以上に。それにホントはちゅーできて嬉しいくせに』
『う、うううううっうるさい!』
こいしが耳まで真っ赤にして首をブンブン振りながら否定する。
『うるさいのはそっちだよ~。私はお姉ちゃんと一緒にいたいのに、あなたがうるさくするから一緒にいられないんだもん』
『あんたが暴走するせいでしょ! 私だってお姉ちゃんと一緒にいたいわ!』
『ほ~ら本心が少しだけ出てきたわ~ 一緒にいたいだけじゃなくて、本当は私みたいに無邪気に甘えまくりたいでしょう?』
『そ、そそそそんなことない!』
無意識が背中を指でなぞると、こいしはビクンと身をよじらせて、どもりながら否定した。
『ねえ、そんなに知られたくないの? なんで?』
しかし無意識にそう指摘されると、こいしの体が微かに震え、それを抑えるように自分の体を抱き締めた。
『何度も言ってるでしょ。お姉ちゃんに恋愛感情抱くなんておかしいの……思いを告げても絶対に叶わない……それどころか、嫌われて、拒否されるかもしれない……絶対に知られちゃいけないのよ』
一つ一つ言葉にする度、こいしの心が冷たくすさんでいく。自分で自分を傷つけるように。だが、この戒めが無いと間違いを犯してしまうかもしれない。
多くは望まない。この心を隠して、仲の良い姉妹として毎日を過ごせればいいだけなのだ。だが、無意識の暴走のせいで、近づくことすら叶わない。
『何度聞いてもよくわかんないけど……そんなに言うなら、あなたが体を操ればいいじゃない?』
『え!? そんなことできんの!?』
『そりゃあ、あなたが主人格じゃない。あなたが心を閉ざしてお家から逃げて、ご飯も食べずに無気力にしてたから、私が動かすことにしただけよ?』
『も、もっと早く言いなさいよ!』
『だって聞かれなかったも~ん』
こいしがぐぬぬと悔しがる。だが、いざ体を動かそうとしても。
『ふんっふぬっ! ねえ、やっぱり動かせないわよ』
『そりゃああなたは逃げようとしてるもの。恐れて、迷って、逃げて私に体を明け渡してる』
こいしはびくりと体を震わせた。はたしてさとりの元に行って、何事もなく過ごせるだろうか。しどろもどろになって怪しまれて、好意がバレてしまうのではないだろうか。そうしたら、きっと気持ち悪がられて。
『お姉ちゃんのこと信じてないの? 好きって伝えても、嫌ったりなんて絶対にしない』
『うぐ……そうかもしれないけど……でも、想いは叶わないもん……』
『確かに脈ナシだけど、こうして離れ離れでいいの? 本当はお姉ちゃんと一緒に居たい。それは私だけじゃなくて、あなたの願いでもあるでしょ?』
『ううう……挙動不審になったり怪しまれたら……』
『ピンチになったら私に任せてよ。その為の私でしょ?』
『あ、あんたは暴走するじゃない!』
『今回ばかりは、あなたの指示を全部聞いてあげるわ。ラジコンみたいになってあげる。ウィーン、ドーン!』
『だからドーンはダメなの!』
『アハハ! で、どうする?』
こいしは拳を握った。無意識の暴走のせいでさとりを避けているなんて、ただの言い訳だった。本当は、自分が恐れているんだ。好意がバレてしまうことを。それでずっと避けてきた。だけど、今のままでいいはずがなかった。一番一緒に過ごしたい姉と離れ離れで、わけのわからないあんぽんたんと毎日を過ごしている。会わないといけない。
最初は、動揺したり、変な態度をとってしまうかもしれないが、きっと段々慣れていく。態度も、想いを隠すことも。会って一緒に過ごさないと、今のままでは慣れる練習にすらなりはしない。
「よし……!」
久しぶりに、口から声を出した。両の手は力強く握られている。それを湯船から出して、ぐっぱと動かしてみた。
『おめでとう。さっそく会いに行きましょう。それから、どうか私を否定しないで。無意識の声に耳を貸せるようになれば、私は自然と一つに戻って消えるわ。無意識は、意識と表裏一体……。理性や理屈だけじゃなくて、直感と感情と本能、そのどちらもが大切なのよ?』
無意識のこいしの声が脳内に響く。
「りょーかい。一応覚えとくよ」
こいしは力強く立ち上がった。湯船で温められたおかげだろうか、どくどくと心臓が鼓動していた。
3.
地霊殿に戻るとどこからかいい匂いが漂い、こいしはそれにつられてキッチンへと向かった。フライパンの中でハンバーグがおいしそうに焼けている。エプロン姿のさとりがくるりと振り返った。
「あらこいし、おかえりなさい。ちょうどお夕飯作ってたのよ?」
さとりが嬉しそうに笑いかける。焼けたハンバーグをお皿に移し、デミグラスソースや野菜の添え物を綺麗に盛り付けていく。
「あ……ご飯、大丈夫かな。私の分はなくてもいいよ」
「なによ、いつもはそんなこと気にしないのに。一人増えても変わらないわよ。食材も明日また買い足しにいけばいいわ。ハンバーグは私のを上げる。私は適当におかずを作るから……」
「あ、それなら私が今から買いにいってこようかな……」
「え? ……でも、もう準備できるわよ?」
さとりが寂しそうにこいしに聞き返す。
『バカ! ビビッて避けようとしてんじゃないわよ!』脳内に無意識の声が響いた。
「あ、いや、明日一緒に買いに行こうよ! ねえ、手伝えることあるかな!」
さとりはびっくりと目を開けて、それから嬉しそうに細めた。
「ふふふ、どうしたのこいし? そうねえ、そしたらスープをよそってちょうだい。それから、お燐とお空を呼んできて。きっと二人ともびっくりするわ」
「う、うん!」
無意識のこいしが脳内でコントローラーを手に『うし!』と呟く。こいしはこれじゃあこっちがラジコンじゃないかと自分に呆れた。
手伝いながら、ちらりと様子を伺う。さとりは鼻歌を奏でてご機嫌だ。歌に合わせてリズミカルに体が揺れて、今にも踊り出しそうだ。こいしはそれに見とれて手が止まってしまった。ふと目が合い、さとりが口に人差し指を当てて不思議そうに小首をかしげた。
「どうしたのこいし? 私を見つめて?」
「あっ、えっ、いや! 何でもないよ! ちょっと見てただけ!」
顔を赤くし、手をわたわたとさせて慌てるこいしにさとりがふふふと笑った。
「変なこいし。ふふ、いつも変だけど、今日は昔に戻ったみたい」
あまりに幸せそうに微笑むものだから、こいしは「お、お燐とお空呼んでくるね!」と逃げるしかなかった。
楽しい食事を終えた後、こいしはさとりの寝室のソファに腰かけていた。ベッドやカーテンといった布物は黄色、緑、薄紫を基調とした色で統一されている。
『ねえこれ、あなたの色なんじゃない?』
『ええ!? そ、そうかなあ?』
そんな訳ないと心の中で否定しつつ、もしそうだったら嬉しいなという期待がじんわりと胸を温める。
『それよりあなた、お姉ちゃんの誘いを断るってどういうこと?』
無意識のこいしが人差し指をビシッと突いて詰問すると、こいしはうっとたじろいだ。
『だ、だって……い、一緒にお風呂だなんてそんな……』
無邪気な誘いを受けたこいしは、生唾をごくりと飲み込み、顔どころか全身を真っ赤にさせて、どもりながら必死に固辞したのであった。お風呂には先に入り、今は体の火照りを冷ましている。
『はあ……ヘタレなんだから。せっかくのチャンスを……』
『チャンス……? あんた、まさかお風呂でも……』
『ええ、イタズラするつもりだったわよ』
『イ、イタズラ……』
無邪気にこいしを誘ったさとりだったが、いざ浴室でまじまじと見つめられると照れ始める。湯船の中に隠れ、腕をバッテンにして体を隠すがすぐにのぼせるように赤くなってしまう。そんな姉に無邪気に抱きついて。
『バ、バカッ! な、ななな、何てこと考えてんのよ!』
『あなたが考えてるのよ!? や~い変態、スケベ~』
『う、ううううるさい!』
『それに、イタズラって言っただけなのに……変な想像したのはあなたじゃない』
『な、なによ! じゃあ、イタズラってなんのことよ!』
問いただすと無意識のこいしが意味ありげに、にま~と笑った。こいしはごくりと唾を飲み込む。
『そりゃあ、背中洗いっこして、髪もお互いに洗って』
『って普通かい!』
こいしは拍子抜けしてソファから滑り落ちた。
『それから、シャンプーで目が見えなくなってる時に……』
『はわわわわ……』
目を開けられない状態でイタズラをされ、びくびくと怯えるさとりを想像して震える。こいしはブンブンと頭を振って、脳内の法廷に立つと、カンカンと木槌を打ち鳴らした。
『有罪有罪! ギルティギルティ!』
『お姉ちゃんとスキンシップとって何が悪いのよ』
『とにかくダメなものはダメーッ!』
『そうだ、それよりソファなんかじゃなくて、お姉ちゃんのベッドに入りましょうよ』
その提案を強く否定することはできなかった。一緒のお風呂は回避したものの、無意識のこいしに見事にラジコン操作されて、一緒に寝る約束をしてしまったのだ。おかしい、こんなはずではと自問自答する。まるで無意識の手のひらの上だ。
そう、今のうちに慣れておかないといけないと自分に言い訳する。おずおずとベッドの中に入ると姉の匂いに全身が包まれた。枕に鼻を埋めてすーはーと息を吸い込む。
「なにしてんの私は……変態か……」
「こいし~? 上がったわよ~」
「んひゃぁうっ!?」
布団をおおげさにひっくり返して振り向く。そこにはパジャマ姿のさとりがいた。第二ボタンまで外して胸がはだけている。
「あら、寝るところだったの?」
さとりが隣に腰かけ、小首をかしげながら上目遣いにこいしをみる。ピンクの髪の毛からシャンプーのいい匂いがする。首や胸が上気し、しっとりと汗ばんでいる。
「お、お姉ちゃん……ボタンちゃんと、し、締めてよね……」
「ええ~? だってまだ暑いんだもの。別に気にすることないでしょ。姉妹なんだから」
さとりがスリッパを脱ごうとかがむと、無防備な胸の先が見えそうになった。こいしはバッと首ごと目線を逸らす。これは平静を装えないと思い、体の主導権を無意識に明け渡した。
「ほ?」
『少しだけ任せるわよ? ああ、こっちは大分落ち着く……くれぐれも暴走はしないでよね』
さとりが体をベッドの中に滑らせる。手と手が触れ合う距離でこいしとしばし見つめ合った。
「お姉ちゃん、ボタン締めて上げる」
「わ、いつものこいしに戻った? い、いいわよ自分でできるから……」
だがこいしはそのままさとりのパジャマに手をかける。
「も、もう、何だか調子が狂うわねえ……」
「もう一人の私と過ごせて、嬉しかった?」
「え、ええ。やっぱりあの子がもう一人のあなたなのね? 昔と変わってなくて、安心したわ……私のことを、嫌ってる訳でもなさそうだったし、なんだか可愛らしいのよね……って」
こいしはさとりのパジャマを閉じるどころか、ボタンを全て開けていた。大事なところは隠れているが、胸元、へそ、お腹があらわになる。それを自覚してさとりの顔と体がゆっくりと赤に染まっていく。
『な、ななな、なにやらかしてんのこぉんのバカ無意識はーっ!?』
「ちょ、ちょっとこいし?」
「えいっ」
こいしがツンとへそをつつくと、さとりの体がびくんと震える。
『い、いい加減にしろ! このバカ無意識ーっ!?』
『もう、うるさいなあ』
『そうだ! 私の指示聞くって言ってた! ステイ! ステイ! 一旦落ち着いて距離を取りなさい!』
無意識のこいしは不服そうに『はぁい』と答えて距離を取った。そのまま何もせずニコニコとさとりを見つめている。待機モードだ。さとりの方は混乱して呆気に取られたままだ。
『せっかくスキンシップのチャンスだったのに』
『なにがチャンスよ! あんたのせいでピンチだっての!』
『なんで怒ってるの~?』
『は、はあ!? 胸に手を当てて考えなさいよ!』
『は~い』
こいしは指示を受け入れると、動揺したままのさとりの胸に手を当てた。それから「う~ん」と唸り「なにもわからないわ」と呟く。
「ちょ、ちょっと!?」
『どわあああああああっ!? 駄目だこいつ早くなんとかしないとっ!?』
こいしが無意識から体の主導権を取り戻す。それと同時に手のひらに小さくも柔らかい感触が伝わる。こいしは手を離そうとしたが、吸い付いたかのように離れてくれない。ついゆっくりと指を温かいそれに沈めてしまった。「んっやっ」と甘い声がさとりから漏れる。気がつくと、そのまま手を胸に押し込んで、さとりをベッドに押し倒した。
さとりは流石に様子がおかしいと感じ、両手で肩を抱き体を守ろうとする。
「こ、こいし……?」
こいしはいつの間にかさとりの手首を掴んでいた。それが弱々しく震えているのが分かる。はっとしてさとりと目を合わせる。その瞳は怯えて揺れていた。
「ご、ごめん……お、お姉ちゃん……」
こいしが涙をこぼし、さとりの胸をぽつりと濡らした。さとりから離れると、背を向けてくるまり、声を押し殺して震えてしまった。
4.
『こ、怖がらせた……嫌われた……ど、どうしよう……』
布団に顔まで隠して真っ暗な世界でこいしはガタガタと震えた。だが、さとりがそっと抱きしめる。安心させるように、ぴたりと体を寄り添って。
「お姉ちゃん……? どうして……?」
こいしの問いにさとりは答えない。背中に柔らかい胸の感触が伝わり、この期に及んでそれを意識してしまう自分に絶望した。
「ダ、ダメ……! は、離れて……! 私、悪い子だから!」
だが、さとりはぎゅっとこいしの体を掴んで離れようとしない。あまりにさとりが必死なので、こいしは目を瞑って諦めた。
『ねえ、無意識の私……なんでもいいから変わってくれない? それで、今日はとにかく離れようよ』
しかし無意識の返事はなかった。いや、声が小さくなっているのだ。耳を澄ませるとようやく聞こえる。
『……あなたに戻りかけてる。とても体を動かすなんてできないわ……』
『な、何よ! どうしたのよ! いつもみたいに体を操ってよ! 好き放題したいんじゃないの!?』
『……ふわあぁ……ごめん、少し眠るわ。もしかしたら、もう二度と起きないかも……それを願うわ……』
『ちょ、ちょっと!?』
『……最後におねがい……お姉ちゃんを……信じて……なにがあろうと……あなたを、嫌ったりなんて、しない……』
それを最後に無意識の気配が消えた。こいしは必死に呼びかけるが、何も返っては来ない。
『な、なによ……肝心なところでいなくなって……私だって、お姉ちゃんに気持ちを伝えたい……愛してるって伝えたい……でも……』
その思いは叶わない。その思いは届かない。嫌われない保証もない。伝えたい。だけど伝えたくない。
最初は怖がらせたことを後悔して泣いてしまった。だけど今は。
「こいし、泣いてるの……?」
さとりが撫でながらこいしをあやす。こいしは何も言葉を返すことが出来なかった。
「ごめんね、こいし」
一瞬、何を言われたか理解ができなかった。なぜ、姉が自分に謝っているのかと。
「昔、こいしが心を隠した時、お姉ちゃん嫌われたんだって思って、理由を無理に聞こうとしちゃった。さとり妖怪でも、隠したいことくらいあるよね。ごめんね。きっと悩みがあったのに、傷つけて……ずっと、ずぅっと、後悔してたの。こいしが家に帰らなくなってから、毎日……」
はっとして息をのむ。自分が傷ついているのは自分のせいだ。姉は何も悪くない。ほんの一度だけ本心を聞かれて逃げたことがあった。さとりはその時のことをずっと気にしているのだ。自分がさとりを避け続けたせいで。
「さっきも怯えてごめんね。ちょっとだけ怖かったの。こいしに仕返しされちゃうんじゃないかって。私は、罰を受けないといけないって分かってるのに」
そんな訳がない。仕返ししようだなんて、罰を受けさせようだなんて、一度も思ったことはない。遠ざけることで、ずっと姉を傷つけていたのだ。距離を置いて、傷ついているのは自分だけではなかった。自分のせいで、大切な姉にまで。
勇気を振り絞った。例え、姉に嫌われてしまうとしても、姉を傷つけるより、ずっと良いと。
「違う、違うの……悪いのは私で、お姉ちゃんに嫌われちゃうのは私の方なの……」
その告白に、さとりはあやすようにこいしの頭を撫でて上げた。少しだけ心が落ち着いて行く。
「嫌わない。何があろうと、絶対にこいしを嫌いになんてならないわ……」
「変で、いけないことで、お姉ちゃんを絶対困らせることなの……」
「大丈夫よ……お姉ちゃん、こいしになら、例え殺されることになっても、受け入れようと思ってたから……」
「心を閉ざしたのは、お姉ちゃんに嫌われたくないから、想いを知られたくないから」
全ては嫌われたくないからだった。お互いに心を読めると、こいしの気持ちが伝わると同時に、さとりの答えも伝わる。“口では嫌いにならない”と言っても、“心の中で実は気持ち悪い”と思われるかもしれない。そんな心の内まで読める。
だが、今なら。こいしは天啓を得た。もし心の内でそう思われてしまうとしても、心が読めない今ならそれを知らずに済む。
思いを伝えれば、姉はそれを優しく受け入れてくれるだろう。嫌いになんてならないと言ってくれるはずだ。
その閃きを得たこいしを止める理由は、もはや存在しなかった。
「好き、お姉ちゃんが好き、大好きなの」
体に回されたさとりの手を握り返す。
「ええ、お姉ちゃんもこいしのことが大好きよ」
「違う、好きなの、どうしようもなく……。お姉ちゃんとしても好きだけど、それ以上に……。その気持ちが隠したかった思いなの」
妹が心を閉ざすほどの好意。それが姉妹愛に収まらない事をさとりはようやく理解した。さとりの腕が緊張で固くなる。それをこいしは敏感に察知した。全身から動揺と緊張がはっきりと伝わる。
やっぱり気持ち悪いよね。妹が姉を好きになるなんて。だが、それでもさとりはこいしを離すまいと強く抱きしめた。
「ごめんね、ちょっとびっくりしちゃっただけ。こいしのこと嫌いになんてならないわ。絶対よ」
「そ、そんなの嘘だよ……絶対、気持ち悪いって、思うもん……」
「ええ!? 気持ち悪い? そんなわけないじゃない。心を読んでもらえたらいいんだけど……」
「それは……怖い……」
「うーん、どうしたら信じてもらえるのかしら」
さとりは困ったように、こいしの頭を撫で回す。こいしがようやく振り返ると、優しい姉の顔が目の前にあった。少し困っているが一遍の嫌悪感もない。頬は紅くほてり、照れているようでも、嬉しそうでもある。初めて見る表情だった。初めての感情に戸惑っているのかもしれない。
こいしが真っ直ぐに見つめると、ますます顔を赤くさせて、恥ずかしそうに目を逸らせた。そんな反応も可愛らしい。こいしは本能のままに言葉を発していた。
「ちゅーして」
「は? はえ!?」
「ちゅーしてくれたら信じる」
「い、いやそれはあのその」
さとりの手が離れ、わたわたと宙を舞う。
「……やっぱり、気持ち悪いんだ」
拗ねたように言うと、さとりは動きを止めて、ゆっくりとこいしの髪を手で梳きながら、しばし返事を考えた。
「ちゅー……したいのね? 私と」
「うん」
「そうしたら、こいしのこと、嫌いじゃないって信じてくれる?」
「うん」
「そっか。それじゃあ、まず、告白の返事を聞いてくれる?」
「……うん」
それを聞くのは怖かったが、聞かないのはもっと怖かった。あんなに恐れていた思いを告げたのだ。まさに返事が、答えが恐ろしいのだ。だが、聞かないでいるとその恐怖に永遠に怯えることになる。
「こいしの事は大好き、ううん愛してるわ。でもそれは姉としての感情なの……」
それを聞いてこいしの目の前が真っ暗になった。絶望し、逃げたくなるが、姉の体があまりに甘く、暖かいので、今は無気力にそれに沈むことにした。
「それ以上と言われると……分からないわ。考えたことも無かったし、突然のことでびっくりしているし」
ただ、さとりがこいしを嫌いにならない。その思いに嘘は無いのが唯一の救いだった。今まで通り、大好きな姉でいてくれる。それは失わずに済む。
「もう、そんなにへこたれないで? それで、嫌いになんてならない、こいしの事は愛してるって信じてくれる?」
姉の声色、優しく包み込んでくれる体、暖かい表情から、それが本心であることが分かる。
「嘘かもしれないもん。信じられないもん」
「……じゃあ、確かめる?」
さとりが人差し指を、綺麗なピンク色の、ぷくりと膨らんだ唇に当てた。こいしは目を見開いてそれを見つめた。
「い、いいの?」
辛うじて本能を抑え込み、そう尋ねる。
「こいしを嫌ってなんかない。それを伝えられるなら、何でもするわ。だって、形は違っても愛しているもの。さっきのは恋心はないって言う返事。こいしがどうしてもしたいなら、キスしても良いけど、勘違いや期待をさせちゃいけないと思って」
「ほ、ほんとにいいの? お姉ちゃんに汚い、汚らわしい感情を抱いてるんだよ?」
「こいしは汚くなんてない。大好きよ……ほら、目を閉じて?」
「う、うん……」
こいしがおずおずと目を閉じる。暗闇の世界で、肩に手をおかれビクッと震える。心臓の音が伝わるくらいに激しい。姉の気配と吐息がゆっくりと近づいてくる。そして。
ちゅ……とおでこにキスをされた。目を開けると、赤くなった頬と口を袖で隠したさとりが顔を逸らせながら目だけでこいしを見つめていた。
「あぅ……その、こ、これが私の気持ち、だから……」
ああ、これでよかったんだと思った。たったこれだけの、おでこにキスをするだけで、精一杯で真剣で顔を真っ赤にして、そんな姉を愛おしいと思った。
「お姉ちゃん」
こいしがさとりの手に手を合わせる。目を開けた赤いサードアイと、目を閉じた青いサードアイが触れ合う。
「な、なーに?」
「久しぶりに心、読みたいかも」
こいしは青い瞳を薄らと開けた。瞬間、二人の脳裏に、お互いの感情が伝わりあう。言葉よりも先に感情が。
姉への好意と信頼、強過ぎる愛情とそれから感謝。
姉の方は、驚きと歓喜、それから別の驚きと戸惑い。それでも妹に負けないほどの好意と慈愛が満ちている。
『お姉ちゃん、とってもとっても大大大好き』
『お、思った以上ねこれは……』
『ホントに嫌悪感とかないんだ……よかった……』
『もちろんよ? こいしを嫌うなんて、世界が滅びてもありえないもの』
『私もだよ、お姉ちゃん……』
さとりの心にこいしの安堵と、それ以上に歓喜が伝染する。
『よ、喜び過ぎじゃない? あなたの喜びが滝みたいに流れてくるんだけど』
『私の愛情、こうやってぶつけ続けたらどうなるかな?』
『こ、こまるわ……』
困惑や動揺は確かにある。だが、嫌悪や拒絶の感情はなかった。
さとりの心にも大きな安堵がある。ずっと怯えていたのだ。こいしに嫌われてしまったのではないかと。ずっと避けられていたから。
『ごめんね、お姉ちゃん……私が臆病なせいで』
『いいのよ。嫌われてないって分かったから。二人とも嫌われることを恐れてたなんて、馬鹿みたいね。こんなに思い合っているのに』
『もう逃げないよ。昔みたいに、毎日一緒にいよ?』
『ええ。それに外のことを色々知れたでしょう? お姉ちゃんに案内して?』
こいしの脳に直接、さとりの穏やかなイメージが流れ込んでくる。二人でお出かけして色々な景色を見て、山や川や湖ではしゃいで遊び回ったり、甘いものを食べて休憩したり、花を愛でたり。
『お姉ちゃんこんなのはどう?』
『わあ……色々なところに行っているのねえ……』
太陽の花畑に咲く一面のヒマワリ、静かな趣のある竹林、霧で覆われた湖、はたまた魔法の森の幻覚キノコでエキセントリックな世界へと。そして博麗神社や妖怪の山から見下ろす自然豊かな幻想郷をイメージする。二人仲良く手を繋いだ姿を横に思い描いて。
5.
野原に穏やかな春風が吹く。白いタンポポの種が青い空に舞い、蝶たちがその隙間を踊る。小鳥たちが歌を奏でる。新緑のブナの木の下、こいしはさとりに膝枕をしてもらいながら、耳かきをされていた。温かく柔らかい感触に沈み込む。耳はくすぐったいけれど気持ちがよい。このまま溶けてしまいそうだ。
こいしの第三の目は閉じられている。さとりに嫌われることはないと分かったものの、恋心を無為に向けても困らせてしまうし、さすがにどちらも気まずい思いをするからだ。
『ちょっと! あなたばっかりずるいわよ! 私にも堪能させなさい!』
脳内で無意識のこいしが叫ぶ。姉への思いを諦めて生活していた時『なに諦めてんねーん!?』と突如復活したのだ。
それ以来、こいしも吹っ切れた。一度振られたからと言って、諦めなくてもいい。例え実らなくてもいい。もっと素直に好意を向けようと。
『まあいいけど、暴走しないでよね?』
文句を言いつつ体の主導権を一時的に渡す。もう、姉に気持ちを隠す必要は無い。好きなだけ、好きを伝えても良い。それに無意識のこいしは意外性のあるスキンシップやアプローチをしてくれる。それで可愛い姉を見ることもできる。
こいしが「くあぁ」とあくびをすると、さとりが「終わったわよ、このまま眠る?」と微笑んでくれる。
「んーん、お返しに、私も耳かきしてあげる」
こいしはがばりと起き上がって正座をすると、自分の膝をぽんぽんと叩いて見せた。
「え、ええ? 私はいいわよ……」
「いーから!」
「もう、どーせイタズラするんでしょ……」
さとりがおずおずと膝に頭をのせる。こいしは器用に耳かきを操ってさとりの耳を掃除した。だが、よく手入れされていて、すぐに終わってしまい棒を取り出す。それから。
「ふー……」
「きゃぅんっ!?」
『か、可愛いっ!』
さとりがビクンと震えて飛び上がる。真っ赤に染まった耳を手で抑えて隠している。その姿が可愛らしくて、こいしはますますさとりの事を好きになった。
「もーお姉ちゃん何してんの? ほら続き!」
「も、もう……耳は敏感だから、息吹きかけないでよね」
「は~い」
さとりがもう片方の耳を向けてこいしの膝に頭をのせるが。
「はむ」
「ひゃぅっ!?」
『さ、さささ流石にそれはやり過ぎよ!』
こいしがさとりの耳たぶを甘噛みすると、さとりは再び跳ね起きて、キッとこいしを睨みつける。
だが、無意識のこいしを抑え込み、再び表にでたこいしが赤くなって縮こまり、顔を逸らして目だけを向けながら上目遣いをする。
「そ、その……ごめんなさいお姉ちゃん……やり過ぎた……」
もじもじと控えめに謝られると、叱ることもできなくなってしまう。
「もう……ずるいんだから、こいしは」
さとりは拗ねて顔を逸らしたが、そのまま頭を膝に預けた。
「え、えっと……?」
「なあに? 耳かきしてくれるんでしょ? 今度はイタズラなしよ?」
「う、うん!」
こいしが緊張しながらそろりそろりと棒を耳に入れる。大切な姉の耳を万が一にも傷つけないようにと。
ずいぶんくすぐったいなとさとりは思った。