星熊勇儀は自宅で一人、盃を傾けていた。
地底の鬼の住処は広く、柱は太く、梁は黒光りしている。だが調度は意外なほど質素だった。壁際の棚に並ぶ酒瓶だけが、この家の主の嗜好を雄弁に語っている。
その中央に、勇儀はどかっと腰を据えていた。
片手に盃。
星熊盃。
自身の名を冠するその盃は、ただの酒器ではない。注がれた酒の格を一段上げるマジックアイテムである。
粗悪な酒を注げば、飲める酒に。
飲める酒を注げば、良い酒に。
良い酒を注げば、極上の酒に。
酒飲みなら誰もが憧れ、羨やみ、こう言った。
「勇儀の姐さんは、粗酒でも飲めちまうから、安上がりで羨ましい」
勇儀もそれを否定はしない。実際、普段はそうしている。地底の宴は量が命だ。高い酒ばかりでは続かない。
だが――
「へへ……」
勇儀は立ち上がり、奥の納戸を開いた。
その棚には、ずらりと酒瓶が並ぶ。この納戸の中は、誰にも見せたことがなかった。
地上から流れてきたもの。
古い地獄の蔵から掘り出したもの。
妖怪の里で物々交換したもの。
鬼の豪胆さに似合わず、こつこつ集めた秘蔵のコレクションだった。
ここまで蒐集した理由は一つ。
周りの言葉を思い出す。
「盃の真価は、そこじゃねぇ」
星熊盃は酒の格を上げる。
良い酒を極上の酒に変えてくれる。
ならば――既に極上の酒を入れたらどうなる?
辿り着くのは、極上の、更にその上。
誰も知らない、誰も味わったことのない領域。
この世で、星熊勇儀だけが味わえる境地。
勇儀は度々、たった一人で酒席を開いては、その至上の幸福を独占していた。
棚から一本を選び、手に取る。
細長い瓶。
透明な液体が静かに揺れる。
蚤の市で偶然見つけたものだった。無縁塚に流れ着いた品らしい。
値段など覚えていない。銘柄にも興味は無い。
ただ、一目見て只者でないことが分かった。
千年以上、この直感を外したことは無い。
栓を抜く。
ふわりと香りが立つ。
勇儀の口元が緩んだ。
予想通り――いや、予想以上だ。
むせ返るほどの芳香が、ぬわりと舌を包む濃厚な味わいを予感させた。
思わず喉が鳴る。
一人きり、酒と向き合うこの時間が、勇儀にとって何より至福だった。
とくとく、と酒を盃に注ぐ。
星熊盃は鈍い黄金色に光り、酒を受け止めた。
やはり良い酒だ。酒面が、月影を映す湖面のように幻想的に揺れる。
勇儀はしばし恍惚の表情でそれを見つめ、やがて盃を持ち上げ――その瞬間。
ずぶり。
横腹に、釘を打ち込まれたような痛みが走った。
「――っ」
胸が圧迫されたように苦しくなり、呼吸が止まる。
盃を落とさなかったのは鬼の矜持か、酒飲みの本能か。
瞬間、勇儀は理解する。
――呪い、か。
ズキンと、鈍い痛みが身体の内側から広がる。臓腑の奥をじわじわと蝕む感触。
初めて味わう感覚ではあるが、これが噂に聞く呪いなのだろう。
人間なら卒倒していただろう。
並の妖怪なら、その場で転げ回っていただろう。
だが星熊勇儀は違う。
「ははっ」
額に冷たい汗を流しながら、それでも笑った。
肩を揺らして、楽しそうに。
「誰だぁ?」
低い声が家の中に響く。
怒りは無い。
あるのは、歓喜。
鬼は喧嘩を好む。
それも命を賭けた大喧嘩を。
ましてや、相手は星熊勇儀に呪いを仕掛けるような命知らず。
そんな輩が、この世にいるなんて。
楽しくて、仕方が無かった。
「いいじゃねぇか」
勇儀の血流と共に、無数の針が身体を駆け巡る。
臓腑が焼けるように痛み、身体中が悲鳴を上げる。膝が折れ、巨躯が揺れた。
「上等だ」
それでもまだ、勇儀は笑う。
「喧嘩売りに来たんだろ?」
姿の見えない喧嘩相手に、盃を掲げる。
「なら――乾杯だ」
そして勇儀は盃を煽った。
その瞬間、世界が回る。
——鋭く、深く、重く、柔らかい。
複雑な味が幾重にも重なり、溶け合っていく。
言葉にならない領域。
勇儀は満足そうに笑った。
「……美味いな」
瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。
ふっと手の力が抜ける。
からん、と乾いた音を立て、盃が床に転がった。
◇
「肝硬変だって」
ぽつりと、霧雨魔理沙が言った。
地底の広場には簡素な祭壇が組まれていた。
いつも怨嗟の声で喧しい怨霊たちも、この日ばかりは誰も騒いではいなかった。
一様にしんとし、神妙に哀悼を捧げている。
祭壇の中央には、星熊勇儀の愛用していた盃が置かれている。
その前で、魔理沙と霊夢は並んで立っていた。
「肝硬変?」
霊夢が眉をひそめる。
「そう。肝臓がやられてたんだと」
魔理沙は肩をすくめた。
——ことの始まりは、三日前に遡る。
魔理沙は勇儀と地底で飲み会をする約束をしていた。
だが、約束の時間を一刻過ぎても、勇儀は姿を現さなかった。
鬼が酒の席をすっぽかすなど、異変と呼んで差し支えない。
仕方なく魔理沙は、勇儀の家へ様子を見に向かった。
そして、見つけた。
床に倒れ伏す、勇儀の姿を。
さすがの魔理沙も大慌てとなり、急いで地上へ飛んで竹林へ向かった。
そうして呼ばれてきたのは、永遠亭の医者だった。
「……結論から言えば、死んではいないわ」
横たわる勇儀の傍らに跪きながら、八意永琳は静かに言った。
死んでいない、という診察を聞いて、魔理沙は取り敢えず胸を撫で下ろした。
「ただし、肉体に深刻なダメージを受けている」
「……どういう事だ?」
「通常なら死に至るほどの損傷を負っているわ。並の妖怪なら、そのまま消滅していたでしょうね」
永琳は勇儀の額に手を当てながら続けた。
「でも、流石は鬼ね。意識すら手放して、妖力のすべてを肉体の修復に回している。そうやって死を免れたのよ」
「一体、何があったんだ?」
「それは、これから調べてみないと分からないわね」
それから勇儀の身体を調べて、永琳が出した結論が——肝硬変だった。
何らかの原因により、肝臓がボロボロになっているらしい。
永琳の見立てでは、修復には数年かかるという。
つまり、それだけの間会えなくなるのだ。
だから葬式という形で、お別れの会を開く事にした。主催は魔理沙である。
敢えて葬式にしたのは、"敵"の目を欺く為でもある。
勇儀を狙った刺客がまた現れないとも限らない。だから、外形的には勇儀の死を偽装する事にしたのだ。
因みに、勇儀の身体は竹林に穴を掘って埋めておく事になった。いつか目覚めたら、勝手に出てくるだろう。
——そして、話は再び現在に戻り……
「肝臓がやられてたって……」
霊夢が腕を組む。
妖怪退治はエキスパートではあるものの、人体構造には明るくは無かった。肝臓と聞いても、座ったり冷やしたりするという程度しか、知識が無い。
「よく分からないけど、誰かにやられたって事?」
「多分な」
「そんな、一体誰が——」
霊夢の顔がさっと青ざめる。
星熊勇儀といえば、鬼の四天王。
幻想郷でも最強クラスの妖怪だ。
それを一方的にやり込める存在など、そうそういるとは思えない。
もしそんなものがいるとしたら——幻想郷の均衡すら崩しかねない。
自分が戦うことになったとして、果たして勝てるかどうか。
想像するだけで、背中に冷たいものが流れた。
「詳しい原因は、永琳が調べてる。とにかく結果を待とう」
魔理沙が言う。確かに、何か分かれば手が打てるかもしれない。
「そ、そうね……。それにしても、一体どんな化け物が——」
「アルコールよ」
後ろから割り込む、女性の声。
振り返ると、そこに件の八意永琳が立っていた。
「ア、アルコール?」
魔理沙が聞き返す。
永琳は淡々と答えた。
「そう。勇儀の身体を壊したのは、長年の飲酒」
しん、と空気が静まる。
「精密検査をしたわ。間違い無い」
永琳は指を一本立てた。
「γ-GTPの数値、いくつだと思う?」
霊夢が首を傾げる。初めて聞いた単語で、見当も付かない。人工知能が何やら狸が語ってた時に、似たような響きの言葉を聞いた気もする。
「それって、普通はいくつくらいなの?」
「正常値は高くても五十程度よ」
「なら百とかか?」
魔理沙が言う。
正常の倍くらいだろうと、多めに見積もったつもりだった。
しかし。
「二千万よ」
「に、二千万っ!?」
詳しいことは分からないが、とんでもない数値だということだけは理解できた。
五十と二千万って、お金に換算したら駄菓子と一軒家くらいの差がある。
「こんな数値は通常なら有り得ないわ。数百年、若しくはそれ以上に及ぶ飲酒による蓄積……それが勇儀を眠らせた"敵"の正体よ」
「……」
「……」
魔理沙と霊夢は、黙って顔を見合わせた。
勇猛無比の鬼を打ち倒した敵の正体が、まさか生活習慣だったとは。
盛大な肩透かしであると同時に、自分も少しは気を付けようと思うのであった。
◇
数時間後。
葬式もたけなわで、参列者はほとんど帰っていた。
残っているのは、数人の地底の民と、魔理沙と霊夢だけだ。
「私は片付けて帰るから、先に帰れよ」
「珍しいわね」
帰宅を促す魔理沙を、霊夢がじっと見る。
「何がだ」
「魔理沙が自分から片付けるなんて」
「ま、主催は私だからな」
魔理沙は肩をすくめてみせた。
「ふーん」
霊夢はしばらく見ていたが、やがて背を向けた。
「じゃあ先に帰るわ」
「ああ」
霊夢の足音が遠ざかる。
その背中が見えなくなるまで、魔理沙はじっと見送っていた。
そして、しばらくして。
魔理沙は立ち上がった。
「さて」
広場のすぐ近く、勇儀の家へ向かう。
訪れるのは、倒れているのを発見して以来だ。
扉を開けて無許可で立ち入り、すたすたと中を突き進む。
そして、納戸に辿り着き、その扉も開いた。
「やっぱりな」
棚いっぱいに並ぶ酒瓶。
見た事無い銘柄ばかりだが、おそらくどれも高級酒だ。瓶の造りが粗酒のそれとは違うし、桐箱に入ったままのものもある。
何より、ガサツな鬼がこれだけ丁寧に保管しているものが、低級であるわけが無かった。
勇儀が倒れていたとき、魔理沙は同時にこれを見つけていた。
「葬式までやったら、もう死人みたいなもんだよなぁ」
魔理沙はにやりと笑う。
「そしたらこれは遺品だが、残念ながら遺族もいない。それなら仕方なく、私が飲んでやるしかないよな」
「それが供養だ」と笑い、瓶を一本手に取る。
葬式をやったから故人、なんてのは詭弁だ。
けれど、勇儀は誇り高く真っ直ぐな性格だ。こんな屁理屈でも、倒れていたところを助けられた以上は、認めざるを得ないだろう。
何気なく手にした酒瓶に目を落とす。
ラベルには『十三代』の文字が踊る。
金色の文字に、魔理沙の心も踊る。
その瞬間。
「へぇ」
背後から声がした。
魔理沙の肩が跳ねる。
慌てて振り返ると、よく見知った顔がそこにあった。
「……霊夢」
「やっぱりね」
霊夢は腕を組み、じっとりとした目で魔理沙を見つめている。
「片付けが苦手なあなたが率先して残るなんて、怪しいと思ったのよ」
「か、帰ったんじゃなかったのか」
「私がそんな単純だと思う?」
思う、という言葉を魔理沙は飲み込んだ。
霊夢は棚を見渡す。
「ふぅん……これは凄いわね」
「だろ?」
「ま、没収ね」
「……は?」
「妖怪の遺品は博麗の巫女が管理する」
「管理って」
魔理沙が目を細める。
霊夢の考えなんて、お見通しだ。
「飲むつもりだろ」
「……飲むのも管理の内よ」
「あ、開き直りやがった」
二人が睨み合う。
「私が先に見つけたんだ」
「巫女の仕事を邪魔するつもり?」
「代わってやるんだから、むしろ感謝しろよ」
「頼んでないわよ」
「ってか、勇儀は別に死んで無いだろ」
「あんたも似たような理屈並べてたでしょうが」
遺品を前に、わあわあ言い合う。
「私のだ」
「私のよ」
弾幕ごっこでも始まりそうな一髪触発の空気。
そんな二人の前に、ぬっと小さな影が伸びた。
「それは違うな」
二人が振り向く。
そこに立っていたのは、小さな少女。
頭から長い角が二本伸びている。
魔理沙がその名を口にする。
「萃香……」
呼ばれた少女、伊吹萃香は、にやりと笑った。
ずかずかと納戸に入り込み、酒瓶を一本手に取った。
「こいつが誰のものかって?」
持ち上げ、照明に透かす。
オレンジの灯りを反射して輝く液体を、萃香は愛おしそうに眺める。
「これだけの物を継ぐ資格があるのは、それだけ酒の価値を分かってる奴だけだ」
霊夢と魔理沙が顔を見合わせる。
「つまり、どういう——」
「勇儀には、ずっと探してた酒がある」
困惑する魔理沙の言葉を、萃香は遮った。
魔理沙は思わずむすっと顔を膨らませるが、萃香は構わず言葉を続けた。
「それは、この世の酒の、頂点に立つ存在」
少しだけ、間を置く。
「そんな至高の酒を、勇儀はずっと追い求めていた」
「……それって、ただ美味しいお酒を欲しがってただけじゃないの?」
「クククッ。ただ美味いだけの酒なんて、あいつはとっくに飲み飽きてるさ」
萃香は、手にした酒瓶を軽く揺らす。ちゃぷんと音が鳴った。
「あいつが求めたのは、そんな鬼すらも唸らせる、幻の一滴。敢えて呼ぶとしたら、そう……」
萃香は瓶を眼前に掲げる。
透き通った液体越しに、魔理沙と霊夢をじっと見据えた。
「"鬼の雫"」
その名が、静かな納戸に落ちた。
「それを持ってきた奴だけが」
萃香は笑う。
「勇儀コレクションを継ぐ資格がある」
◇
「鬼の雫ってもなー……」
魔理沙はぐったりと項垂れていた。
場所は人里の酒場、鯢呑亭。
魔理沙はカウンターに肘をつき、空になったお猪口を指でくるくると回していた。
「いきなり言われてもなぁ……」
鬼の雫。
この世の酒の頂点に立つという、幻の一滴。
そんなものを探してこいと言われたところで、手がかりなど何一つない。
しかも萃香は、その鬼の雫を見つけるだけでなく、実際に飲んで味わいを表現する事まで求めてきた。
適当に持ってきた酒が偶然当たるなんていう幸運は勝ちとは認められないという事だ。
つまり、酒に対する知識と感受性、全ての能力が求められる。
魔理沙は正直、途方に暮れていた。飲酒は嗜むが、特段、酒に詳しいわけでは無い。
期限も、三日間しか与えられなかった。話し合いの結果、三日後に再び地底の広間に集まった際に、自分の思う"鬼の雫"を持参する事になったのだった。
時間も知識も無い以上、誰かの知恵を借りようとしたが、酒に関わる相談が出来る場所も、この鯢呑亭くらいしか思い当たらなかった。
というわけで、地底を後にした魔理沙は、その足で鯢呑亭の暖簾を潜ったのだった。
向かいに立つ店員が、そんな魔理沙に対して小さく首を傾げる。
「鬼の雫、ねぇ」
その店員、鯢呑亭の看板娘である奥野田美宵は、少し考えるように顎に手を当てた。
「鬼に関係するお酒……となると」
棚を振り返り、一本の酒瓶を取り出す。
「とりあえず、これなんてどう?」
とん、とカウンターに置かれた瓶のラベルには、力強い文字が書かれていた。
『鬼ころす』
魔理沙はそれをじっと見つめた。
「……鬼を殺すお酒?」
「ええ。名前としては分かりやすいかと」
美宵はにこりと微笑む。
お猪口に酒を注ぐ。
透明な酒が静かに揺れた。
「どうぞ」
魔理沙はお猪口を持ち上げ、ぐいっと飲み干した。
少し間を置く。
「……どう?」
美宵が期待の眼差しを向ける。
魔理沙は腕を組み、真剣な顔で考え込んだ。
「うーん」
そして言った。
「これで鬼が死ぬビジョンは思い浮かばない」
「本当に死んだらうちは営業停止ですよ」
「しかし、鬼の雫だよ」
魔理沙は真顔になる。
「勇儀すら唸るようなお酒だからな。低級の鬼くらい殺せるインパクトが無きゃ、萃香も眉一つ動かさないぜ」
「ふぅーむ」
美宵は感心したように頷いた。
「確かに、萃香さんや勇儀さん相手では物足りないかもね」
「だろ?」
魔理沙はもう一杯酒を煽った。
「もっとこう……飲んだ瞬間、天地がひっくり返るような」
「随分と物騒なお酒だなぁ」
「鬼のお酒だからな」
結局。
何杯か酒を飲んだものの、それらしい手がかりは何一つ見つからなかった。
やがて夜も更け——
魔理沙はふらふらと帰路についていた。
「うーん……」
足取りはしっかりしているものの、頬はほんのり赤い。
思考も俄かに霞みがかっている。
「鬼の雫って言われてもなぁ……」
鬼の酒。
勇儀がずっと探していた酒。
それだけしか分からない。
「せめて何か、ヒントがあればなぁ」
ぶつぶつ言いながら夜道を歩く。
すると前方から、怒鳴り声が聞こえてきた。
「いいじゃねぇかよぉ!」
「や、やめてください……!」
魔理沙が顔を上げると、路地の脇で酔っ払いが町娘に絡んでいた。
男は酒瓶を片手に、ふらつきながら娘の腕を掴んでいた。
人がこんなに悩んでる時でも、不届きものはいるものだ。
「一杯付き合えって言ってんだよ!」
「困ります……!」
魔理沙は路地の前で立ち止まる。
「はぁ……」
思わずため息が出る。
今日はどうにも気分が晴れない。
勇儀コレクションを手にする計画には邪魔が入るし、鬼の雫の手がかりすら見つからない。
そして目の前で、酔っ払いが喧しく騒いでいる。
「……あー」
魔理沙は頭を掻いた。
「悪いけど」
男に近付き、その肩をぽん、と叩く。
「ちょっと黙れ」
「ぁあ?」
振り向いた瞬間。
ごすっ。
拳がめり込んだ。
酔っ払いはきれいな放物線を描いて吹き飛び、そのまま地面に転がった。
「……」
魔理沙は軽く手を払う。
魔法で強化した、渾身の右ストレート。
「少しは酔い覚ましになっただろ」
町娘はぽかんとしている。
「あ、あの……ありがとうございます」
「気にすんな」
魔理沙は肩をすくめた。
「それじゃ、気を付けて帰れよ」
「あ、あのっ」
手を振り、踵を返す魔理沙の背中に、娘は声を掛ける。
魔理沙は振り向き、少し顔を歪めた。
まだ何か用があるというのか。
礼をしたいという申し出かもしれないが、町娘に出来るお礼なんて、たかが知れている。
「足を挫いてしまったみたいで」
「……あー」
魔理沙は天を仰いだ。
どうも今日は、面倒事が重なる日のようだ。
「もしよろしければ……おぶって頂けませんか?」
「……」
魔理沙はしばらく黙った。
面倒くさい。だが、放っておいて悪漢に襲われるような事があれば、後味が悪い。
「……仕方ないな」
しゃがみ込む。
「ほら」
「ありがとうございます」
娘は背中に身を預けた。
「……ん?」
魔理沙は眉をひそめた。
——軽い。
見た目のわりに、やけに軽い。
体積と質量が、まるで釣り合っていないようだ。
重さを感じる感覚が鈍るほど、酔っているのだろうか。
「おい、お前」
振り向きながら声を掛ける。
しかし返事はなかった。
「……?」
魔理沙は顔を覗き込む。
娘はぐったりと目を閉じていた。
「おい」
軽く背中を揺らす。
反応はない。
「……寝た?」
安心して気が抜けたのだろうか。
完全に意識を失っている。
「おいおい……」
魔理沙はため息をついた。
「家、どこだよ……」
もちろん答えは返ってこない。
夜道は静まり返っている。
今日はトコトン、上手くいかない。
とはいえ、このまま放り出すわけにもいかない。
「……はぁ」
魔理沙は歩き出す。
「とりあえず、うちだな」
渋々ながら、自宅に運び出す事にした。
異様に軽い町娘を背負いながら、帰路を急ぐ。
こんなところを天狗に撮られて、人攫い魔法使いとでも記事にされたら面倒なんてもんじゃない。
◇
「しっしっし」
森の奥、霧雨魔法店。
その主、魔理沙は机に突っ伏して、ぐぅぐぅと寝息を立てていた。
その様子を見下ろして笑うのは、村娘。
先ほどまで魔理沙の背中で寝ていた娘は、今はぴんと背筋を伸ばして立っている。
そして、ぐりぐりとこめかみを手で押し込む。
すると、頭からひょっこりと丸い耳が生えた。同時に、尻からはふさふさの太い尻尾が飛び出す。
その耳と尻尾は、人を化かす事で有名な動物のそれ。
村娘——もとい、化け狸はニタニタと笑みを浮かべ、部屋の中を見渡した。
「汚いなぁ」
床には本の山。棚は崩れかけ、魔術書や薬瓶が無秩序に積み上がっている。衣服もどこから雪崩れてきたのか、椅子や机の脚に絡みつくように散乱している。
「魔法使いの家かぁ。さて、どんなお宝が眠ってるかな」
わざわざ人間に化けて、一芝居打ってまで侵入したのだ。見合うだけの成果を期待したい。
それにしても、まさか魔法使いが釣れるとは思ってもいなかった。
狸は早速、部屋を漁り始めた。
まずは本の山。
「お、これは……」
分厚い魔術書を一冊持ち上げる。
表紙がキラキラ輝いていて、如何にも価値が高そうだった。
ぱらぱらとめくる。
「……」
難解な魔法陣とびっしりの文字。
「……読めない」
ぽいっ。
無造作に放り投げた。
次は服の山。
ごそごそと漁る。
「黒い服ばっかり」
似たようなデザインの服をかき分けていく。
「……む?」
奥から、紫色の服が出てきた。
ひらひらとした布地。
狸は首を傾げる。
「……趣味が変わった?」
ぽいっ。
よく分からないので、これも放り投げた。
次に見つけたのは、机の横に置かれた小さな宝箱。
狸の目が光る。
「ほう……」
そろりと近づく。
「これは期待できそう」
蓋を開けた。
中に入っていたのは、一冊のノートだった。
「……なんだ?」
取り出して、開く。
『交換日記 M/A』
狸は眉をひそめた。
ぺらりとページをめくる。
『今日は上海人形の服を新調した。最近暑いから、清涼感を出したくて薄着にしてみたけど、ちょっと刺激的過ぎたかも』
『人形に欲情する奴がいたら末期だと思う。私は今日はパンを焼いた。侮ってたけど、中々難しいな。発酵が上手くいかない。あれこれ試してみるのは魔法の研究に似てて楽しいけどな』
『上手くいったら、食べさせてね。ところで、最近家の周りに見た事の無いキノコが繁殖してるんだけど、何か心当たりは無いかしら?』
……ぱたん。
狸は日記を閉じた。
「いらない」
ぽいっ。
思いきり放り投げた。
「もっとこう、宝石とか金とか、そういうのは……」
再び部屋を漁る。
棚の下。
机の裏。
積まれた本の奥。
そして——
「……お?」
床に転がっていた、小さな箱。
中を覗く。
そこには、キラキラと光る石が入っていた。
狸の目が輝く。
「おお……!」
指でつまみ上げる。
月明かりを受けて、石はきらきらと光った。
「これならきっと!」
懐にしまおうとした、その時だった。
「いただけないなぁ」
背後から声がした。
狸の体がびくりと跳ねる。
ゆっくりと振り向く。
そこには——部屋の主、魔理沙が立っていた。
腕を組み、にやにや笑っている。
「な、なんで!?」
狸は目を見開いた。
「朝までは起きないはず、だったか?」
魔理沙は肩をすくめる。
「……あの程度のまじない、私には効かないよ」
「じゃあ、ずっと起きて……」
「狸寝入りってやつだな」
狸の顔からさぁっと血の気が引く。
「背負った時からおかしいと思ってたんだよ。人間の重さじゃなかった」
魔理沙は一歩近づく。右手には、八卦炉。
「今日は狸鍋かな」
狸は悲鳴を上げそうになる。
魔理沙はさらに近付く。魔理沙を中心に、魔力が収束していくのを感じる。
「た、狸なんてあんまり美味しくないよ」
「そうか。でもまあ、毛皮を剥げば金にはなるだろ」
空気が震え、前髪が捲れ上がる。逃げようとして、尻餅をついた。
——ダメだ。やられる。
圧倒的な魔力の圧に、狸が死を覚悟した、その時。
「勘弁してくれんかのう」
別の声が割って入った。
気付くと、戸口に少女が立っていた。
大きな傘を肩に担ぎ、煙管をくゆらせている。
幼い見た目とは裏腹な、古老めいた言葉使いと、空気を一変させる程の貫禄。
「……親玉が出たな」
魔理沙は振り返り、苦々しく笑う。
狸の親分——二ッ岩マミゾウが、にかりと笑った。
「儂の配下が世話になったようじゃの」
狸は慌てて頭を下げた。
「親分、すいません!」
マミゾウは肩をすくめる。
「まあそう萎れるな。相手が悪かったな」
そう言って、魔理沙に向き直った。
「こやつは修行中でな。人を化かして宝を盗むのが、一人前になる為の通過儀礼みたいなもんでの」
煙を吐く。
「なんて傍迷惑な」
「詫びるが、それも妖怪の本懐じゃ」
魔理沙はため息を吐いた。
「埋め合わせはするから、そいつを許してやってくれんか」
マミゾウの言葉に、しばし魔理沙は考える。
最初から別に、とって食うつもりは無かった。ちょっと脅かしてやろうと思っただけだ。
マミゾウも、それを理解した上での申し出だとは思うが。
ただ黙って解放してやっても、面白く無い。
逡巡の末、魔理沙は妙案に行き着いた。
「お酒」
「ほう?」
「それなら、お酒をくれ」
魔理沙は、マミゾウに事情を説明した。
勇儀のこと。
鬼の雫のこと。
話を聞き終えたマミゾウは——大きく笑った。
煙管を振り、勢いよく胸を叩く。
「それなら、儂に任せろ」
胸を大きく張り、高らかに宣言した。
「儂がどこから来たと思っとる」
にかりと笑う。
「寡聞にして知らず……」
「佐渡——今の外の言葉で言えば、新潟か。日の本一の、酒処じゃよ」
◇
次の夜。
魔理沙は森のさらに奥、マミゾウの棲み家に招かれていた。
洞の奥に作られた住処は、外見とは裏腹にやたらと居心地が良い。古びた木の卓が据えられ、壁際には酒瓶がずらりと並んでいる。鼻をくすぐるのは、木と酒と煙草の混じった匂いだった。
「さて」
マミゾウが卓の向こうで煙管を置いた。
「酒が欲しいと言うたな」
「言ったな」
魔理沙は腕を組んで頷く。
「鬼の雫ってやつの参考になりそうなお酒があれば、味わいたい」
「ふむ」
マミゾウは棚を物色し、その中から一本の瓶を取り上げた。
「まずはこれじゃ」
とく、とく、と盃に酒が注がれる。
透明な液体が、静かに揺れた。
魔理沙は盃を持ち上げる。
「いただきます、っと」
くい、と口に運ぶ。
すっと喉を通る。
軽い。
水のように軽いのに——ふわりと米の香りが広がった。
舌の奥に、旨味が柔らかく残る。
「……お」
魔理沙は盃を見た。
もう一口。
するりと入る。
後味はきれいに消えるのに、香りだけがふっと鼻に残る。
「これは美味いな」
思わず言った。
マミゾウはにやりと笑う。
「そうじゃろう」
瓶のラベルを指で叩く。
「「〆張亀 吟撰』じゃ」
胸を張る。
もちろんマミゾウが造った酒ではないのだが。
魔理沙はその言葉は飲み込んで、感嘆の声を吐き出した。
「なるほどなぁ」
盃を揺らす。
マミゾウが自信を持つだけの事はある。
これだけの酒は、幻想郷では中々口にする事はできない。外の世界とのパイプを持つマミゾウだからこそ用意出来る一品だ。
「こりゃ確かに上等だ」
「まだまだ序の口じゃよ」
マミゾウは次の瓶を取り出した。
再び盃に注ぐ。
「ほれ」
魔理沙は口に運ぶ。
次の瞬間。
「……甘い」
驚くほど甘い。
だが、べったりした甘さではない。
しっとりとして、それでいてべたつかない、スッキリした甘さだ。
そして、甘さの中から旨味がふわりと広がり、すぐに消える。代わりに、澄んだ香りが鼻を抜けていく。
「なんだこれ」
思わず声が出た。
もう一口。
やはり甘い。
だが重くない。
「酒ってこんな味するのか?」
魔理沙は瓶を覗く。
ラベルには。
『亀齢 純米大吟醸』
マミゾウが頷く。
「良い酒じゃろ」
「……すげぇな」
魔理沙は素直に感心した。
こんな酒は飲んだことがない。
鯢呑亭でも偶に美宵が奮発して良い酒を下ろす事はあったが、これは別格だ。
「じゃが」
マミゾウが煙を吐いた。
「まだ上がある」
ごとり。
卓に、一本の瓶が置かれる。
「最高峰はこれじゃ」
魔理沙は眉を上げた。
「ほう」
盃に注がれる。
香りが、ふわりと立った。
身を包む芳醇な香りに、緊張感すら覚えた。
魔理沙はゆっくりと盃を持ち上げる。
「……」
口に含む。
瞬間。
「——っ!」
魔理沙の目が見開かれた。
香りが、爆発した。
花のような香り。
米の甘み。
澄んだ旨味。
すべてが一度に押し寄せる。
だが、不思議と重くない。
水のようにすっと消えていく。
魔理沙は黙ったまま、しばらく盃を見つめた。
瓶には、こう書かれている。
『大吟醸 秋秀』
マミゾウが得意げに胸を張る。
「どうじゃ」
「……」
魔理沙は盃を置いた。
経験した事の無い、素晴らしい味わいだった。
酒の常識を覆されたと言ってもいい。
だが、それでも。
「駄目だ……」
マミゾウの眉が上がる。
「何?」
「いや」
魔理沙は頭を掻いた。
「途轍もなく美味い」
「じゃろう?」
「でも」
魔理沙は首を振る。
「違うんだ」
マミゾウが不快そうに煙管をくゆらせる。
「何が違う?」
「鬼の雫ってやつは、きっと……ただ美味いだけじゃ駄目なんだ」
盃を指で回す。
「勇儀の奴が、酒を飲んで唸るくらいだ」
「ふむ」
「美味いのは前提」
魔理沙は続ける。
極上に美味い酒を口にして、確信を持った。それだけだと、足りない事を。
「その上で——勇儀という特定個人を揺さぶる何かが無きゃいけない」
マミゾウはしばらく黙っていた。
「ふぅむ……さりながら。霊夢とて、この短時間で鬼の雫に辿り着くとは思えんな」
勇儀が何年探し求めたかは知らないが、そんな物を素人が簡単に見つけられるとは思えない。
お互い鬼の雫に至らなければ、結局はただの酒比べに落ち着く。
この『大吟醸 秋秀』は、充分戦えるレベルにあると思えた。
「……いや」
魔理沙はゆっくりと首を振る。
マミゾウの言いたい事は理解できる。
けれど魔理沙にも、断言できる事があった。
「あいつは辿り着くさ。鬼の雫か、少なくとも、それが見える高みには」
それは霊夢への、信頼といってもいい。
何度も乗り越えようと挑んで、その度に弾き返された。
ずっとその背中を見続けてきた。
だからこそ、誰よりも霊夢を知っている。
霊夢なら、きっと成果をあげるはずだ。
そして、何よりも。
——離されてたまるか。私はずっと、お前の近くにいたいんだ。
だから魔理沙も、全力で挑むのだ。
その背中から離されない為に。
「くっくっく」
マミゾウは肩を震わせた。
やがて、大きく笑う。
「面白いのぅ」
煙管を卓に置く。
にやりと笑う。
「付き合ってやろう」
マミゾウの目が、妖しく光った。
煙を吐く。白い塊がぷかんと浮かび、やがて霧散した。
「鬼の雫——そいつを探す旅に、な」
◇
同刻、神社の夜は静かだった。
参道に灯りはなく、虫の声だけが細く響いている。
だが——本殿の中は、惨状だった。
床には酒瓶が転がっている。
一升瓶、小瓶、徳利、見たこともない形の瓶。
それらがごろごろと散らばり、所々で溢れた酒が畳に染みを作っていた。
その中心に。
「……ふぅ」
博麗霊夢が座っていた。
袖で口元を拭う。
頬は真っ赤に染まり、目元も潤んでいる。
しかし、視線だけは鋭かった。
「次!」
霊夢が叫んだ瞬間。
ぴしり。
空間に細い亀裂が走った。
まるで紙を裂くように、すっと裂け目が開く。
その隙間から——手が伸びてきた。
白く細い手。
そして、その手は一本の酒瓶を霊夢へ差し出した。
霊夢はそれを受け取る。
「ありがと」
瓶を傾け、盃に注ぐ。
透明な酒が、静かに揺れた。
くいっ。
一息で飲み干す。
数秒、目を閉じる。
「……」
やがて、首を横に振った。
「違う」
ごとん。
瓶を床に転がす。
「次!」
裂け目の向こうから、ため息が聞こえた。
「霊夢」
その声は、呆れ返っていた。
「もう無茶よ」
亀裂が少し広がる。
隙間の向こうに、扇子で口元を隠した女の姿が見えた。
八雲紫。幻想郷の賢者の一人。
その紫は呆れつつも、半ば感心したような顔で霊夢を見る。
「もう何本飲んだと思ってるの?」
霊夢は指を折って数えようとして、途中でやめた。
「……分かんない」
「でしょうね」
紫は肩をすくめる。
床に転がる瓶の数を見て、軽く目を細めた。
「ここまでする必要あるの?」
霊夢は次の盃を注いだ。
手が、ほんの少しだけ震えている。
「あるわよ」
ぐい、と飲む。
息を吐く。
ぐわんと体が揺れた。
紫の眉がぴくりと動く。
「ほら」
再び、呆れた声。
「ふらふらじゃない」
「まだ大丈夫」
霊夢は即答する。
痩せ我慢なのは明白だが、その声は揺れない。
しかし、身体は限界を迎えていた。突如、胃の内容物が逆流する。
「うぷっ」
湧き上がった吐瀉物が、勢いよく口から噴き出ようとするが、霊夢はすんでのところで何とか堪えた。
そして、水を湛えていたコップを手探りで取り、その中に吐き出した。
口の中に、嫌な酸っぱさが広がる。
それでも霊夢の目から炎は消えない。
「魔理沙は——あいつは必ず、それなりのものを持ってくる」
紫は少し目を細めた。
「随分な信頼ね」
「当たり前でしょ」
霊夢は鼻で笑う。
魔理沙を決して侮らない。
自分の後ろを追い掛けてくるあの勢いを、誰よりも知っている。
同時に、決して追い抜かれまいと、心に誓っていた。
「張り合う気持ちは分かるけど……良いお酒が飲みたいなら、こうして私が用意してあげるから、もう止めなさいな」
「もう、そういう問題じゃないの——次!」
こうしている今も、きっと魔理沙は、私を越えようと努力しているだろう。
追い縋る魔理沙の、熱量の籠った眼差しが頭に浮かぶ。
——私はずっと、魔理沙の目の前に居続けてやる。
それが、どんな事であろうと。
魔理沙の視界の中は、酷く居心地が良い。
もし魔理沙が私を追い抜いたら——
あいつは今度、誰の背中を追い掛けるのだろうか。
——そんな事……!
考えただけで、吐き気がする。
誰にだって、譲ってやるもんか。
盃を見つめる。
酒が揺れていた。
ぐい、と一息に煽る。
喉を通る際に、少しむせた。
袖で口元を拭う。
「……次!」
また空間が裂ける。
瓶が差し出される。
霊夢はそれを受け取る。
その手は震えていた。
だが、立ち止まる事は無い。
紫は背筋に、冷たいものを感じた。
なんて執念。
もはや、狂気じみている。
人間に恐怖を覚えるなんて——いったい、何年ぶりだろう。
紫は口元を手で覆ったまま、静かに息を呑む。
酒を煽った霊夢がまた首を振る。
これも違うらしい。
そして、水を飲もうとコップに手をかけ、口に含んだ。
「あ、霊夢。そのコップは——」
「おえええっ!!」
己から出た物を口にした霊夢は、今度こそ吐瀉物を机にぶちまけた。
八雲紫は戦慄する。
——この巫女は、狂っている。
◇
やがて時が満ち、決戦の日は、あっけなくやってきた。
旧地獄、つい先日、勇儀の葬儀が執り行われた広間。
祭壇は既に、撤去されている。
その広間の中央に、三人だけが立っていた。
博麗霊夢。
霧雨魔理沙。
そして、伊吹萃香。
萃香は徳利をぶら下げながら、二人を見回した。
「ふむ」
小さく頷く。
「逃げずに来たのは褒めてやる」
にやりと笑う。
「鬼の酒を名乗るなら、それくらいの胆力は必要だからね」
魔理沙は鼻を鳴らした。
「逃げる理由がない」
「強がるねぇ」
萃香は楽しそうに言う。
「ま、いいさ」
地面にどかりと座る。
「さあ」
手をひらひらと振る。
「持ってきた酒を出しな。そして」
にやりと歯を見せる。
「どういう酒か、その表現を聞かせてもらう」
ちらりと二人を見る。
「さぁ、どっちが先にいく?」
少しの沈黙。
魔理沙は横目でじっと霊夢を見つめる。
その静寂を破ったのは、その霊夢だった。
「私からよ」
すっと一歩前に出る。
萃香は面白そうに眉を上げた。
「へぇ。いい度胸だ」
「負けるはず無いもの」
「……言ってろ」
霊夢は懐から一本の酒瓶を取り出した。
瓶の中で、液体がゆっくり揺れる。
琥珀色。
魔理沙の眉がぴくりと動いた。
「……なんだそれ」
首を傾げる。
「洋酒か?」
ウイスキーか、ブランデーか。
或いは、かつて自分も作った事のある蜂蜜酒か。
どちらにしても、日本酒の色ではない。
霊夢は淡々と答えた。
「日本酒よ」
「は?」
魔理沙は目を瞬かせる。
マミゾウの手引きで山ほど呑んできたが、日本酒はどれも澄み切った透明であった。過去に、澱が残って白濁したものは見た事はあるが、上等であればある程、無色に近付くと理解していた。
「日本酒だと?」
「ええ。これは、古酒よ」
霊夢は瓶を掲げた。そして、封を切る。
――その瞬間、香りが弾けた。
「……!」
魔理沙の背筋がぞくりと震える。
甘い。
だが、ただ甘いだけではない。
果実のような香り。
同時に、木のような香り。
溶け合い、深い森林を思わせる。
そして奥底に、深い米の気配。
時間そのものを蒸留したような香りだった。
「な……」
魔理沙の喉が鳴る。
「なんだ……これ」
霊夢は盃に注ぐ。
黄金の酒が、静かに満ちた。
そして、ゆっくりと口に運ぶ。
「お……」
唇が触れる。
「おぉ……おぉ……」
表情が蕩け、感嘆の声をあげる。
そして、霊夢の意識は飛んだ。
— — — —
気が付くと、霊夢は知らない場所に立っていた。
いや。
よく見れば、知っている場所だった。
それどころか、一歩たりとも動いていない。
「ここは……旧地獄?」
だが、今の旧地獄ではない。
人がいて、妖怪もいる。
悲鳴と笑い声が飛び交う。
活気、暴力、そして歓喜。
これはまだ地獄だった頃の、旧地獄。
罪人の苦しみと、獄卒の喜びが混ざり合い、熱気が立ち込める。
その中で、霊夢だけがポツリと浮いていた。古い映像を見るように、現実感が無く、俯瞰して喧騒を眺めていた。
そして、時の流れが加速する。
地獄は整理される。
旧地獄は、切り捨てられる。
人が減り、妖怪も減った。
獄卒相手に開いていた店も、どこかに引き上げていった。
残された建物も次第に朽ちていく。
やがて、廃墟になった。
風だけが吹き抜ける。
寂れた地獄。
この土地はもう、終わったかのように思えた。
その時だった。
どん。
重い足音。
霊夢が振り向くと、そこに立っていたのは鬼だった。
屈強な鬼達。
腕を組み、周囲を見回す。
そして、豪快に声を上げた。
「気に入った!!」
声が響く。
「ここで飲もうぜ!!」
それを合図に、鬼達がぞろぞろと集まってくる。
酒樽が運ばれ、火が焚かれる。
宴が始まる。
笑い声が戻る。
鬼が鬼を呼び、喧騒が妖怪を呼び、旧地獄が息を吹き返す。
鬼達が輪になる。その周りを怨霊が取り囲む。
大笑いする、その中心に。
一際、力強く笑う鬼がいた。
一本角、巨大な盃
よく知った横顔が、そこにはあった。
そいつは、盃になみなみ注がれた酒を、一息に飲み干した。周りから歓声が上がる。
——そんな事、してるからよ。
そこで、霊夢は現実に帰った。
— — — —
広間は静まり返っていた。
誰も喋らない。魔理沙も萃香も、押し黙って霊夢の言葉を待っていた。
霊夢は盃を置く。
そして、ぽつりと語り出した。
「このお酒には」
少し間を置く。
「歴史が詰まっている」
萃香が静かに聞いている。
「けれど」
霊夢は首を振る。
「それはただの過去じゃない」
酒瓶を掲げ、見つめる。
琥珀色の光が乱反射し、黄金のシャワーを浴びているようだ。
「十年以上の歳月を経て成熟したこのお酒は、これからもっと進化する。むしろ」
微かに笑う。
過去を感じた霊夢だが、その胸を満たしたのは懐かしさでは無い。長い時間をかけてその羽を広げたこのお酒は、これから更に羽ばたいていく事を感じさせる。
宴が盛り上がるのはこれからだというような、そんなワクワク感。
「未来への期待に溢れている」
そして——言葉を探す。
「例えるなら……そうね」
一拍。
「――"前日譚"」
魔理沙の目が揺れる。
「いずれ目覚めて、また歴史を作る勇儀にぴったりのお酒。そう、この——」
瓶をそっと置く。地底の薄い光に、そのラベルが照らされる。
「『久遠乃社 2008年』はね」
沈黙。
それから、萃香がふっと笑った。
「……なるほど」
そして、頷いた。
「見事だ」
魔理沙の背中を、冷たい汗が流れる。
やはり霊夢は怪物だ。
まるで酒の中に沈んできたような、没入感のある表現。
——こんなのに、本当に勝てるのだろうか。
◇
魔理沙は、ぎゅっと拳を握る。
——ビビるな。
胸の奥で、もう一人の自分が言う。
ここまで来て、腰が引けてどうする。
ちらりと霊夢を見る。
霊夢は腕を組んで、静かにこちらを見ていた。
挑発も、嘲りもない。
事は全て済んだとでもいうように、澄まし顔で佇んでいる。
それが余計に腹立たしい。
「次は私だ」
一歩前に出る。
懐から、一本の酒瓶を取り出す。
霊夢が少しだけ眉を上げた。
萃香も、興味深そうに身を乗り出す。
魔理沙は瓶を掲げる。
「こいつが私の——鬼の雫だ」
封を切る。
ぽん、と軽い音。
次の瞬間。
すっと香りが広がった。
澄んだ香りだった。
青い果実のような、草のような、風のような。
霊夢のものとは全く違う。軽く、抜けるような爽やかな香り。
萃香が、ぽつりと漏らす。
「……若いな」
盃に酒を注ぐ。
透明な液体が、静かに揺れる。
そして、口に運んだ。
瞬間、視界が切り替わった。
— — — —
魔理沙は深い山の中に佇んでいた。
周りを見渡すが、人の気配はない。
耳に入るのは、風が木々を揺らす音。
そして微かな、水の音。
岩の割れ目から、水が流れている。
ほんの少しずつ。
ぽたり、ぽたりと。
ゆっくりと、しかし確実に湧き出るその水は、小さな湖を作っていた。
更にそこから、水が溢れる。
細い流れ。
小さな川。
魔理沙は導かれるように、その流れに沿って歩き出す。
川は山を下る。
途中で、別の水が合流する。
一つ、また一つ。
幾つもの支流を吸収し、気付けば小川は立派な川になっていた。
川はさらに大きくなり、やがて山を抜ける。
そして。
人里が見えた。
川から水が引かれている。
——田んぼだ。
青々とした稲が、風に揺れていた。
ざあ、と波のように揺れる。
魔理沙は立ち止まり、その光景に視界を捉われる。
急に、時が動き出す。
雨が降る。
日が照る。
風が吹く。
雲が流れる。
季節が、回る。
そして気付けば、稲は黄金色に輝いていた。
ざわり、と揺れる。
魔理沙はとある洋館で見た、上質の絨毯を思い出していた。
その時。
「しょったれしてねんで!」
声が飛んできた。
振り向くと、農夫が立っていた。
「はたらかねーか!」
鎌を突きつけられる。
「……え?」
魔理沙は目を瞬いた。
「ほれ!収穫だ!」
押し付けられるように、鎌を渡される。
何が何やら分からない。
「あ、あぁ」
魔理沙は勢いに負けて、鎌を受け取った。
そして中腰になり、稲を掴む。
鎌を構え、その刃を稲の根元に押し当てる。
ざく、ざく、ざく。
気付けば、夢中で刈っていた。
汗が流れる。
腕が痛い。
何故こんな苦労をしているんだろうと疑問が浮かぶ。
それでも作業を続け、やがて全て刈り終えた。
魔理沙は空を仰ぐ。
「ふぅ……」
額の汗を拭う。
確かな達成感が胸を満たした、その瞬間。
再び景色が変わった。
——今度は、室内だった。
薄暗い。そして、寒い。
真冬の冷気が肌を刺す。
漏れる吐息が白い。
思わず小さくなって震える魔理沙の目の前では、一人の男が米を洗っていた。
大きな桶に手を突っ込んで、黙々と米を研いでいる。
魔理沙は吸い寄せられるように、その横に立つ。
作業を邪魔しないよう注意しながら、その手の動きを見下ろした。
指は真っ赤だった。
冷水で研いでいるのだろう。赤切れて、見ているだけで痛々しい。
「なあ」
声をかけた。
「なんでそんなに頑張るんだ?」
男は手を止めない。
米を洗う。
水を替え、また洗う。
そして、ぽつりと言った。
「俺が死ぬからだ」
魔理沙は目を瞬く。
「……は?」
「人間は死ぬ」
男は淡々と続ける。
水から米をすくい上げる。
濡れたその一粒ずつが、宝石みたいに輝いて見えた。
「死ぬ前に、自分の全部を入れたもんを作りたいだ」
魔理沙は何も言わず、ただ男の言葉に聞き入った。
「親父もそうだった。親父も、その親父も」
男はまた米を洗う。
「みんなそうやって、酒を全てを込めて、死んでいった」
魔理沙は、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
視線を上げる。
脳裏に浮かぶのは、二手に別れた道。
そして、その岐路の前で立ち尽くす自分。
その時。
外で大きな音が弾けた。
そこで、魔理沙の意識は現実に帰った。
— — — —
気付けば、盃は空になっていた。
魔理沙は静かにそれを置く。
そして、口を開いた。
「このお酒には」
丁寧に、言葉を紡ぐ。
「霊夢のお酒みたいな、千尋の谷のような深い過去も、永遠を思わせるような遥かな未来も無い」
正直に言う。
飾り立てる言葉など必要無かった。
「だけど、刹那的に輝く今がある」
湧き出る水。
流れる川。
巡る季節。
何一つ留まり続けるものなんて無い。
それは人の営みも同じだ。
魔理沙はこの酒を通して、酒の一生を見た。
それは、人の一生とも重なる。
人は皆、自分が永遠で無い事を知っている。
だからこそ、その全てを何かに注ぎ込む事ができるのだ。
それは、永遠を持たない者の特権ともいえる。
ふと、酒を遺していった友人が頭に浮かぶ。
そいつは永遠を持つくせに、それを手離すような無茶な生き方をした。
だから、身体を壊したんだ。
気付けば涙が滲んできた。
溢さないように、空を見上げる。
夜空に浮かぶ綺麗な物は、月ばかりではない。
魔理沙の脳裏に浮かぶのは、須臾の間に朽ちる満開の花。
空想の中で聞いた、弾ける音を思い出す。
「このお酒を例えるなら——"打ち上げ花火"だ」
聞いていた萃香と霊夢が息を呑む。
魔理沙は続ける。
「そもそも、お酒なんてものは、飲まれてしまえば何も残らない、一瞬のものなんだ」
魔理沙は瓶を手に取り、二人に掲げる。
その名を、見せ付けるように。
「それでも」
魔理沙は静かに続ける。
「敢えてその一瞬に自分の名前を残すいじらしさを……私はとても、愛おしく思う。この——」
それは、杜氏の名を貰った、極上の一瞬。
「『堂岐の一本 純米大吟醸』のな」
夜空に咲いた花火が煙を残すように、その爽やかな残り香だけが、静かに漂っていた。
◇
静まり返った広間で、萃香はゆっくりと盃を置いた。
右には霊夢の酒。左には魔理沙の酒。
どちらも既に口にしている。
盃の底に残る僅かな雫を、萃香はじっと見つめた。
目を閉じる。
鬼の審判は、簡単には下されない。
沈黙がやけに長く感じられた。
魔理沙は落ち着かない様子で足を鳴らす。
霊夢は腕を組んだまま、微動だにしない。
「……で、どっちなんだよ」
魔理沙が、たまらず口を開いた。
萃香はゆっくりと顔を上げた。
そして、勝負が終わるのを惜しむように、躊躇いがちに口を開く。
「どっちもだ」
魔理沙が固まる。
霊夢の眉もぴくりと上がった。
「どっちも、鬼の雫だ」
魔理沙の肩が跳ね上がる。
「ふざけんな!」
「ま、落ち着きなって」
萃香は楽しそうに笑う。
「霊夢」
指を向ける。
「お前の酒は、良かった」
黙って聞いていた霊夢は、当然だという風に鼻を鳴らした。
「過去があり、未来もあった。立体的な味わいどころか、時空すら超越して俯瞰するような、四次元的な構造」
萃香は盃を指で転がす。
「まさしく、全てから浮いた存在である霊夢に相応しい、見事な一本だ」
ころり、と盃が小さく鳴った。
「けど、なんだ。芸術品としては一級なんだが、鬼の最も欲するところはそれじゃ無い」
萃香は軽く鼻で笑う。
霊夢の表情が不快そうに歪んだ。
「勇儀が満足するだけの美味さかと言われると、僅かに足りない」
霊夢は悔しそうに顔を顰める。
言い返そうと口を開きかけ、しかし閉じた。霊夢自身、思うところはあったのだろう。
そして萃香は、今度は魔理沙の方へ顎をしゃくる。
「そこで、魔理沙の酒だ」
広間に、静かな声が落ちる。
「飲む物としては、これ以上は無いな」
萃香の口元が、満足気に歪んだ。
酒を盃に注ぎ、その水面を愛おしそうに眺める。
「全力でぶつかってくるような、暴力的な旨味。まさにお前の生き様みたいな一本だ」
魔理沙は口を挟む事無く、次の言葉を待つ。
「だけどな」
萃香は指で机を叩いた。
「とにかく美味く、迫力もあるが……鬼を揺るがす壮大さは、あと一歩だな」
魔理沙は歯軋りする。
自覚していた弱点だった。
不足していると分かりつつ、最後まで埋まらなかった一欠片。
「それじゃあ、どっちも鬼の雫とは言えないじゃないか」
魔理沙が口を尖らせる。
萃香はまた、不敵に笑った。
「分からないか?」
少し身を乗り出す。
「……お前達の持ってきた酒は、まるで正反対でいて、互いに補い合っている」
霊夢と魔理沙の視線が、同時に萃香へ向いた。
「霊夢の酒は、過去と未来に想いを馳せる深みはあるが、最も大切である、今の旨味が足りない。魔理沙の酒は、その旨味は暴力的だが、感情を揺さぶる深さは無い」
萃香は、両方の酒瓶を指で軽く叩いた。
「本当なら、両方とも不合格なんだがな」
肩をすくめる。
「持ってきたのは、他でもないお前達だ。二人でワンセットにして、ギリギリ合格だ。だから、これは二つ揃って鬼の雫だ」
そして、付け加えるように言った。
「ま、二人で漸く一人前って事だ」
霊夢が呆れたように息を吐く。
魔理沙も言い返そうとして、結局言葉が見つからず口を閉じた。
やがて霊夢が、肩を竦めながら言った。
「それじゃあ、勇儀のお酒はどうするのよ」
それが事の発端であった。
萃香は一瞬だけ目を細める。
勇儀の遺した納戸には、今も酒瓶が並んでいる。
鬼の四天王の、珠玉のコレクション。
そして次の瞬間、萃香の笑顔がぱぁっと弾けた。
「決まってるさ」
口を開き、牙を見せる。
「誰のものでもないなら——」
腕を大きく広げた。
「皆で飲むしかない!」
その言葉が落ちた瞬間。
張り詰めていた空気が、ぱちんと弾けた。
◇
やんややんや
博麗神社は大賑わい。
人も、人じゃないのも、勢揃い。
酒やら肴やらを持ち寄って、飲めや歌えの大宴会。
わいのわいの
鬼と河童が飲み比べをして、河童が潰れる。
それを見た天狗は腹を抱えて大笑い。
次の相手に指名された妖精は、慌てて首を横に振る。
どんちゃんどんちゃん
幽霊楽団の伴奏で、夜雀が歌い出す。
リズムに合わせて門番が舞い、メイドは呆れ顔。
緑の巫女は手を叩いて、大はしゃぎ。
霊夢と魔理沙と萃香、それから本件の協力者であるマミゾウと美宵だけで飲むつもりが、気付けば幻想郷中の人妖が集まった大宴会になった。
その喧騒の中、発端の中心人物である萃香は、ゆっくりと盃を傾けた。
視線の先には、縁側に座る霊夢と魔理沙。バチバチにやり合った二人が、今は仲良くお喋りに興じている。
「本当に、引き分けだったんですか?」
ふと、後ろから声が掛かる。
振り向くとそこにいたのは、奥野田美宵。鯢呑亭の看板娘にして、萃香の眷属。
眷属だけあって、中々鋭いところに目がいくようだ。
萃香はくいっと酒を飲んだ。
「霊夢の勝ちだ」
美宵が目を瞬く。
「え?」
「と言ったら、魔理沙が認めると思うかい?」
美宵は少し考えた。
そして首を振る。
「……微妙かも」
「その逆も同じだ。ごねるに決まってる」
萃香は肩をすくめた。
萃香は盃を揺らす。
黄金の酒が、灯りを反射する。
「辿る道が違っても、行き着く所は同じさ。結局勝者は有耶無耶になって、宴会で飲み尽くす事になる。最初から決まってたんだよ」
「は、はぁ」
「というかそもそも、鬼の雫なんてでっちあげだ」
「えっと……えぇっ!?」
「勇儀の葬式の日、私が勇儀の家に行ったのも、酒を回収する為だっんだよ」
萃香がポリポリと頬をかく。そして、「あいつがコソコソと酒を集めてるのは気付いてたからな」と付け足した。
「けど、いざ着いたら先客がいた。私はすぐに悟ったね。霊夢は引かない。魔理沙も引かない。当然、私だって引かない」
三者三様に理屈を並べて、醜く言い合う姿が美宵の目に浮かんだ。
「となれば落とし所として、皆で飲む事に落ち着くだろう」
それは理解できる。
しかし、美宵は腑に落ちない。
「じゃあ、どうして鬼の雫探しなんて面倒なことを?」
萃香は盃を掲げた。
中で揺れる黄金の酒は、霊夢が探し当てたものだ。
愉快に笑う。
「簡単さ」
霊夢と魔理沙を見る。
二人はまだ並んで飲んでいる。
おっと、そこに矢田寺成美が乱入した。手招きして、魔理沙を連れ出そうとしている。
萃香はまた、ぐいと酒を煽った。
「上手いこと乗せて競わせれば、美味い酒がもう二本増えるだろ?」
クククッと笑い声が漏れる。
そういう事かと、美宵は呆れたような笑いを浮かべた。
萃香はまた、縁側に目を向ける。丁度、魔理沙が縁側から腰を上げたところだった。
実を言えば、二人を焚き付けた理由は、酒だけが目当てでは無い。
霊夢は気付いているだろうか。魔理沙が、席を離れる自分の身代わり、或いは場所取りのようにわざわざ帽子を脱いで隣に置いた事を。
魔理沙は気付いているだろうか。離れていく背中を、霊夢が不満そう見送っている事を。
この二人は本当に、見ているだけで酒が進む。互いを意識しながら駆け回る様なんて、最高の肴だ。
宴会を彩るのは、酒だけではない。
饗宴に華を添える余興もまた、無くてはならないのだ。
地底の鬼の住処は広く、柱は太く、梁は黒光りしている。だが調度は意外なほど質素だった。壁際の棚に並ぶ酒瓶だけが、この家の主の嗜好を雄弁に語っている。
その中央に、勇儀はどかっと腰を据えていた。
片手に盃。
星熊盃。
自身の名を冠するその盃は、ただの酒器ではない。注がれた酒の格を一段上げるマジックアイテムである。
粗悪な酒を注げば、飲める酒に。
飲める酒を注げば、良い酒に。
良い酒を注げば、極上の酒に。
酒飲みなら誰もが憧れ、羨やみ、こう言った。
「勇儀の姐さんは、粗酒でも飲めちまうから、安上がりで羨ましい」
勇儀もそれを否定はしない。実際、普段はそうしている。地底の宴は量が命だ。高い酒ばかりでは続かない。
だが――
「へへ……」
勇儀は立ち上がり、奥の納戸を開いた。
その棚には、ずらりと酒瓶が並ぶ。この納戸の中は、誰にも見せたことがなかった。
地上から流れてきたもの。
古い地獄の蔵から掘り出したもの。
妖怪の里で物々交換したもの。
鬼の豪胆さに似合わず、こつこつ集めた秘蔵のコレクションだった。
ここまで蒐集した理由は一つ。
周りの言葉を思い出す。
「盃の真価は、そこじゃねぇ」
星熊盃は酒の格を上げる。
良い酒を極上の酒に変えてくれる。
ならば――既に極上の酒を入れたらどうなる?
辿り着くのは、極上の、更にその上。
誰も知らない、誰も味わったことのない領域。
この世で、星熊勇儀だけが味わえる境地。
勇儀は度々、たった一人で酒席を開いては、その至上の幸福を独占していた。
棚から一本を選び、手に取る。
細長い瓶。
透明な液体が静かに揺れる。
蚤の市で偶然見つけたものだった。無縁塚に流れ着いた品らしい。
値段など覚えていない。銘柄にも興味は無い。
ただ、一目見て只者でないことが分かった。
千年以上、この直感を外したことは無い。
栓を抜く。
ふわりと香りが立つ。
勇儀の口元が緩んだ。
予想通り――いや、予想以上だ。
むせ返るほどの芳香が、ぬわりと舌を包む濃厚な味わいを予感させた。
思わず喉が鳴る。
一人きり、酒と向き合うこの時間が、勇儀にとって何より至福だった。
とくとく、と酒を盃に注ぐ。
星熊盃は鈍い黄金色に光り、酒を受け止めた。
やはり良い酒だ。酒面が、月影を映す湖面のように幻想的に揺れる。
勇儀はしばし恍惚の表情でそれを見つめ、やがて盃を持ち上げ――その瞬間。
ずぶり。
横腹に、釘を打ち込まれたような痛みが走った。
「――っ」
胸が圧迫されたように苦しくなり、呼吸が止まる。
盃を落とさなかったのは鬼の矜持か、酒飲みの本能か。
瞬間、勇儀は理解する。
――呪い、か。
ズキンと、鈍い痛みが身体の内側から広がる。臓腑の奥をじわじわと蝕む感触。
初めて味わう感覚ではあるが、これが噂に聞く呪いなのだろう。
人間なら卒倒していただろう。
並の妖怪なら、その場で転げ回っていただろう。
だが星熊勇儀は違う。
「ははっ」
額に冷たい汗を流しながら、それでも笑った。
肩を揺らして、楽しそうに。
「誰だぁ?」
低い声が家の中に響く。
怒りは無い。
あるのは、歓喜。
鬼は喧嘩を好む。
それも命を賭けた大喧嘩を。
ましてや、相手は星熊勇儀に呪いを仕掛けるような命知らず。
そんな輩が、この世にいるなんて。
楽しくて、仕方が無かった。
「いいじゃねぇか」
勇儀の血流と共に、無数の針が身体を駆け巡る。
臓腑が焼けるように痛み、身体中が悲鳴を上げる。膝が折れ、巨躯が揺れた。
「上等だ」
それでもまだ、勇儀は笑う。
「喧嘩売りに来たんだろ?」
姿の見えない喧嘩相手に、盃を掲げる。
「なら――乾杯だ」
そして勇儀は盃を煽った。
その瞬間、世界が回る。
——鋭く、深く、重く、柔らかい。
複雑な味が幾重にも重なり、溶け合っていく。
言葉にならない領域。
勇儀は満足そうに笑った。
「……美味いな」
瞬間、ぐにゃりと視界が歪んだ。
ふっと手の力が抜ける。
からん、と乾いた音を立て、盃が床に転がった。
◇
「肝硬変だって」
ぽつりと、霧雨魔理沙が言った。
地底の広場には簡素な祭壇が組まれていた。
いつも怨嗟の声で喧しい怨霊たちも、この日ばかりは誰も騒いではいなかった。
一様にしんとし、神妙に哀悼を捧げている。
祭壇の中央には、星熊勇儀の愛用していた盃が置かれている。
その前で、魔理沙と霊夢は並んで立っていた。
「肝硬変?」
霊夢が眉をひそめる。
「そう。肝臓がやられてたんだと」
魔理沙は肩をすくめた。
——ことの始まりは、三日前に遡る。
魔理沙は勇儀と地底で飲み会をする約束をしていた。
だが、約束の時間を一刻過ぎても、勇儀は姿を現さなかった。
鬼が酒の席をすっぽかすなど、異変と呼んで差し支えない。
仕方なく魔理沙は、勇儀の家へ様子を見に向かった。
そして、見つけた。
床に倒れ伏す、勇儀の姿を。
さすがの魔理沙も大慌てとなり、急いで地上へ飛んで竹林へ向かった。
そうして呼ばれてきたのは、永遠亭の医者だった。
「……結論から言えば、死んではいないわ」
横たわる勇儀の傍らに跪きながら、八意永琳は静かに言った。
死んでいない、という診察を聞いて、魔理沙は取り敢えず胸を撫で下ろした。
「ただし、肉体に深刻なダメージを受けている」
「……どういう事だ?」
「通常なら死に至るほどの損傷を負っているわ。並の妖怪なら、そのまま消滅していたでしょうね」
永琳は勇儀の額に手を当てながら続けた。
「でも、流石は鬼ね。意識すら手放して、妖力のすべてを肉体の修復に回している。そうやって死を免れたのよ」
「一体、何があったんだ?」
「それは、これから調べてみないと分からないわね」
それから勇儀の身体を調べて、永琳が出した結論が——肝硬変だった。
何らかの原因により、肝臓がボロボロになっているらしい。
永琳の見立てでは、修復には数年かかるという。
つまり、それだけの間会えなくなるのだ。
だから葬式という形で、お別れの会を開く事にした。主催は魔理沙である。
敢えて葬式にしたのは、"敵"の目を欺く為でもある。
勇儀を狙った刺客がまた現れないとも限らない。だから、外形的には勇儀の死を偽装する事にしたのだ。
因みに、勇儀の身体は竹林に穴を掘って埋めておく事になった。いつか目覚めたら、勝手に出てくるだろう。
——そして、話は再び現在に戻り……
「肝臓がやられてたって……」
霊夢が腕を組む。
妖怪退治はエキスパートではあるものの、人体構造には明るくは無かった。肝臓と聞いても、座ったり冷やしたりするという程度しか、知識が無い。
「よく分からないけど、誰かにやられたって事?」
「多分な」
「そんな、一体誰が——」
霊夢の顔がさっと青ざめる。
星熊勇儀といえば、鬼の四天王。
幻想郷でも最強クラスの妖怪だ。
それを一方的にやり込める存在など、そうそういるとは思えない。
もしそんなものがいるとしたら——幻想郷の均衡すら崩しかねない。
自分が戦うことになったとして、果たして勝てるかどうか。
想像するだけで、背中に冷たいものが流れた。
「詳しい原因は、永琳が調べてる。とにかく結果を待とう」
魔理沙が言う。確かに、何か分かれば手が打てるかもしれない。
「そ、そうね……。それにしても、一体どんな化け物が——」
「アルコールよ」
後ろから割り込む、女性の声。
振り返ると、そこに件の八意永琳が立っていた。
「ア、アルコール?」
魔理沙が聞き返す。
永琳は淡々と答えた。
「そう。勇儀の身体を壊したのは、長年の飲酒」
しん、と空気が静まる。
「精密検査をしたわ。間違い無い」
永琳は指を一本立てた。
「γ-GTPの数値、いくつだと思う?」
霊夢が首を傾げる。初めて聞いた単語で、見当も付かない。人工知能が何やら狸が語ってた時に、似たような響きの言葉を聞いた気もする。
「それって、普通はいくつくらいなの?」
「正常値は高くても五十程度よ」
「なら百とかか?」
魔理沙が言う。
正常の倍くらいだろうと、多めに見積もったつもりだった。
しかし。
「二千万よ」
「に、二千万っ!?」
詳しいことは分からないが、とんでもない数値だということだけは理解できた。
五十と二千万って、お金に換算したら駄菓子と一軒家くらいの差がある。
「こんな数値は通常なら有り得ないわ。数百年、若しくはそれ以上に及ぶ飲酒による蓄積……それが勇儀を眠らせた"敵"の正体よ」
「……」
「……」
魔理沙と霊夢は、黙って顔を見合わせた。
勇猛無比の鬼を打ち倒した敵の正体が、まさか生活習慣だったとは。
盛大な肩透かしであると同時に、自分も少しは気を付けようと思うのであった。
◇
数時間後。
葬式もたけなわで、参列者はほとんど帰っていた。
残っているのは、数人の地底の民と、魔理沙と霊夢だけだ。
「私は片付けて帰るから、先に帰れよ」
「珍しいわね」
帰宅を促す魔理沙を、霊夢がじっと見る。
「何がだ」
「魔理沙が自分から片付けるなんて」
「ま、主催は私だからな」
魔理沙は肩をすくめてみせた。
「ふーん」
霊夢はしばらく見ていたが、やがて背を向けた。
「じゃあ先に帰るわ」
「ああ」
霊夢の足音が遠ざかる。
その背中が見えなくなるまで、魔理沙はじっと見送っていた。
そして、しばらくして。
魔理沙は立ち上がった。
「さて」
広場のすぐ近く、勇儀の家へ向かう。
訪れるのは、倒れているのを発見して以来だ。
扉を開けて無許可で立ち入り、すたすたと中を突き進む。
そして、納戸に辿り着き、その扉も開いた。
「やっぱりな」
棚いっぱいに並ぶ酒瓶。
見た事無い銘柄ばかりだが、おそらくどれも高級酒だ。瓶の造りが粗酒のそれとは違うし、桐箱に入ったままのものもある。
何より、ガサツな鬼がこれだけ丁寧に保管しているものが、低級であるわけが無かった。
勇儀が倒れていたとき、魔理沙は同時にこれを見つけていた。
「葬式までやったら、もう死人みたいなもんだよなぁ」
魔理沙はにやりと笑う。
「そしたらこれは遺品だが、残念ながら遺族もいない。それなら仕方なく、私が飲んでやるしかないよな」
「それが供養だ」と笑い、瓶を一本手に取る。
葬式をやったから故人、なんてのは詭弁だ。
けれど、勇儀は誇り高く真っ直ぐな性格だ。こんな屁理屈でも、倒れていたところを助けられた以上は、認めざるを得ないだろう。
何気なく手にした酒瓶に目を落とす。
ラベルには『十三代』の文字が踊る。
金色の文字に、魔理沙の心も踊る。
その瞬間。
「へぇ」
背後から声がした。
魔理沙の肩が跳ねる。
慌てて振り返ると、よく見知った顔がそこにあった。
「……霊夢」
「やっぱりね」
霊夢は腕を組み、じっとりとした目で魔理沙を見つめている。
「片付けが苦手なあなたが率先して残るなんて、怪しいと思ったのよ」
「か、帰ったんじゃなかったのか」
「私がそんな単純だと思う?」
思う、という言葉を魔理沙は飲み込んだ。
霊夢は棚を見渡す。
「ふぅん……これは凄いわね」
「だろ?」
「ま、没収ね」
「……は?」
「妖怪の遺品は博麗の巫女が管理する」
「管理って」
魔理沙が目を細める。
霊夢の考えなんて、お見通しだ。
「飲むつもりだろ」
「……飲むのも管理の内よ」
「あ、開き直りやがった」
二人が睨み合う。
「私が先に見つけたんだ」
「巫女の仕事を邪魔するつもり?」
「代わってやるんだから、むしろ感謝しろよ」
「頼んでないわよ」
「ってか、勇儀は別に死んで無いだろ」
「あんたも似たような理屈並べてたでしょうが」
遺品を前に、わあわあ言い合う。
「私のだ」
「私のよ」
弾幕ごっこでも始まりそうな一髪触発の空気。
そんな二人の前に、ぬっと小さな影が伸びた。
「それは違うな」
二人が振り向く。
そこに立っていたのは、小さな少女。
頭から長い角が二本伸びている。
魔理沙がその名を口にする。
「萃香……」
呼ばれた少女、伊吹萃香は、にやりと笑った。
ずかずかと納戸に入り込み、酒瓶を一本手に取った。
「こいつが誰のものかって?」
持ち上げ、照明に透かす。
オレンジの灯りを反射して輝く液体を、萃香は愛おしそうに眺める。
「これだけの物を継ぐ資格があるのは、それだけ酒の価値を分かってる奴だけだ」
霊夢と魔理沙が顔を見合わせる。
「つまり、どういう——」
「勇儀には、ずっと探してた酒がある」
困惑する魔理沙の言葉を、萃香は遮った。
魔理沙は思わずむすっと顔を膨らませるが、萃香は構わず言葉を続けた。
「それは、この世の酒の、頂点に立つ存在」
少しだけ、間を置く。
「そんな至高の酒を、勇儀はずっと追い求めていた」
「……それって、ただ美味しいお酒を欲しがってただけじゃないの?」
「クククッ。ただ美味いだけの酒なんて、あいつはとっくに飲み飽きてるさ」
萃香は、手にした酒瓶を軽く揺らす。ちゃぷんと音が鳴った。
「あいつが求めたのは、そんな鬼すらも唸らせる、幻の一滴。敢えて呼ぶとしたら、そう……」
萃香は瓶を眼前に掲げる。
透き通った液体越しに、魔理沙と霊夢をじっと見据えた。
「"鬼の雫"」
その名が、静かな納戸に落ちた。
「それを持ってきた奴だけが」
萃香は笑う。
「勇儀コレクションを継ぐ資格がある」
◇
「鬼の雫ってもなー……」
魔理沙はぐったりと項垂れていた。
場所は人里の酒場、鯢呑亭。
魔理沙はカウンターに肘をつき、空になったお猪口を指でくるくると回していた。
「いきなり言われてもなぁ……」
鬼の雫。
この世の酒の頂点に立つという、幻の一滴。
そんなものを探してこいと言われたところで、手がかりなど何一つない。
しかも萃香は、その鬼の雫を見つけるだけでなく、実際に飲んで味わいを表現する事まで求めてきた。
適当に持ってきた酒が偶然当たるなんていう幸運は勝ちとは認められないという事だ。
つまり、酒に対する知識と感受性、全ての能力が求められる。
魔理沙は正直、途方に暮れていた。飲酒は嗜むが、特段、酒に詳しいわけでは無い。
期限も、三日間しか与えられなかった。話し合いの結果、三日後に再び地底の広間に集まった際に、自分の思う"鬼の雫"を持参する事になったのだった。
時間も知識も無い以上、誰かの知恵を借りようとしたが、酒に関わる相談が出来る場所も、この鯢呑亭くらいしか思い当たらなかった。
というわけで、地底を後にした魔理沙は、その足で鯢呑亭の暖簾を潜ったのだった。
向かいに立つ店員が、そんな魔理沙に対して小さく首を傾げる。
「鬼の雫、ねぇ」
その店員、鯢呑亭の看板娘である奥野田美宵は、少し考えるように顎に手を当てた。
「鬼に関係するお酒……となると」
棚を振り返り、一本の酒瓶を取り出す。
「とりあえず、これなんてどう?」
とん、とカウンターに置かれた瓶のラベルには、力強い文字が書かれていた。
『鬼ころす』
魔理沙はそれをじっと見つめた。
「……鬼を殺すお酒?」
「ええ。名前としては分かりやすいかと」
美宵はにこりと微笑む。
お猪口に酒を注ぐ。
透明な酒が静かに揺れた。
「どうぞ」
魔理沙はお猪口を持ち上げ、ぐいっと飲み干した。
少し間を置く。
「……どう?」
美宵が期待の眼差しを向ける。
魔理沙は腕を組み、真剣な顔で考え込んだ。
「うーん」
そして言った。
「これで鬼が死ぬビジョンは思い浮かばない」
「本当に死んだらうちは営業停止ですよ」
「しかし、鬼の雫だよ」
魔理沙は真顔になる。
「勇儀すら唸るようなお酒だからな。低級の鬼くらい殺せるインパクトが無きゃ、萃香も眉一つ動かさないぜ」
「ふぅーむ」
美宵は感心したように頷いた。
「確かに、萃香さんや勇儀さん相手では物足りないかもね」
「だろ?」
魔理沙はもう一杯酒を煽った。
「もっとこう……飲んだ瞬間、天地がひっくり返るような」
「随分と物騒なお酒だなぁ」
「鬼のお酒だからな」
結局。
何杯か酒を飲んだものの、それらしい手がかりは何一つ見つからなかった。
やがて夜も更け——
魔理沙はふらふらと帰路についていた。
「うーん……」
足取りはしっかりしているものの、頬はほんのり赤い。
思考も俄かに霞みがかっている。
「鬼の雫って言われてもなぁ……」
鬼の酒。
勇儀がずっと探していた酒。
それだけしか分からない。
「せめて何か、ヒントがあればなぁ」
ぶつぶつ言いながら夜道を歩く。
すると前方から、怒鳴り声が聞こえてきた。
「いいじゃねぇかよぉ!」
「や、やめてください……!」
魔理沙が顔を上げると、路地の脇で酔っ払いが町娘に絡んでいた。
男は酒瓶を片手に、ふらつきながら娘の腕を掴んでいた。
人がこんなに悩んでる時でも、不届きものはいるものだ。
「一杯付き合えって言ってんだよ!」
「困ります……!」
魔理沙は路地の前で立ち止まる。
「はぁ……」
思わずため息が出る。
今日はどうにも気分が晴れない。
勇儀コレクションを手にする計画には邪魔が入るし、鬼の雫の手がかりすら見つからない。
そして目の前で、酔っ払いが喧しく騒いでいる。
「……あー」
魔理沙は頭を掻いた。
「悪いけど」
男に近付き、その肩をぽん、と叩く。
「ちょっと黙れ」
「ぁあ?」
振り向いた瞬間。
ごすっ。
拳がめり込んだ。
酔っ払いはきれいな放物線を描いて吹き飛び、そのまま地面に転がった。
「……」
魔理沙は軽く手を払う。
魔法で強化した、渾身の右ストレート。
「少しは酔い覚ましになっただろ」
町娘はぽかんとしている。
「あ、あの……ありがとうございます」
「気にすんな」
魔理沙は肩をすくめた。
「それじゃ、気を付けて帰れよ」
「あ、あのっ」
手を振り、踵を返す魔理沙の背中に、娘は声を掛ける。
魔理沙は振り向き、少し顔を歪めた。
まだ何か用があるというのか。
礼をしたいという申し出かもしれないが、町娘に出来るお礼なんて、たかが知れている。
「足を挫いてしまったみたいで」
「……あー」
魔理沙は天を仰いだ。
どうも今日は、面倒事が重なる日のようだ。
「もしよろしければ……おぶって頂けませんか?」
「……」
魔理沙はしばらく黙った。
面倒くさい。だが、放っておいて悪漢に襲われるような事があれば、後味が悪い。
「……仕方ないな」
しゃがみ込む。
「ほら」
「ありがとうございます」
娘は背中に身を預けた。
「……ん?」
魔理沙は眉をひそめた。
——軽い。
見た目のわりに、やけに軽い。
体積と質量が、まるで釣り合っていないようだ。
重さを感じる感覚が鈍るほど、酔っているのだろうか。
「おい、お前」
振り向きながら声を掛ける。
しかし返事はなかった。
「……?」
魔理沙は顔を覗き込む。
娘はぐったりと目を閉じていた。
「おい」
軽く背中を揺らす。
反応はない。
「……寝た?」
安心して気が抜けたのだろうか。
完全に意識を失っている。
「おいおい……」
魔理沙はため息をついた。
「家、どこだよ……」
もちろん答えは返ってこない。
夜道は静まり返っている。
今日はトコトン、上手くいかない。
とはいえ、このまま放り出すわけにもいかない。
「……はぁ」
魔理沙は歩き出す。
「とりあえず、うちだな」
渋々ながら、自宅に運び出す事にした。
異様に軽い町娘を背負いながら、帰路を急ぐ。
こんなところを天狗に撮られて、人攫い魔法使いとでも記事にされたら面倒なんてもんじゃない。
◇
「しっしっし」
森の奥、霧雨魔法店。
その主、魔理沙は机に突っ伏して、ぐぅぐぅと寝息を立てていた。
その様子を見下ろして笑うのは、村娘。
先ほどまで魔理沙の背中で寝ていた娘は、今はぴんと背筋を伸ばして立っている。
そして、ぐりぐりとこめかみを手で押し込む。
すると、頭からひょっこりと丸い耳が生えた。同時に、尻からはふさふさの太い尻尾が飛び出す。
その耳と尻尾は、人を化かす事で有名な動物のそれ。
村娘——もとい、化け狸はニタニタと笑みを浮かべ、部屋の中を見渡した。
「汚いなぁ」
床には本の山。棚は崩れかけ、魔術書や薬瓶が無秩序に積み上がっている。衣服もどこから雪崩れてきたのか、椅子や机の脚に絡みつくように散乱している。
「魔法使いの家かぁ。さて、どんなお宝が眠ってるかな」
わざわざ人間に化けて、一芝居打ってまで侵入したのだ。見合うだけの成果を期待したい。
それにしても、まさか魔法使いが釣れるとは思ってもいなかった。
狸は早速、部屋を漁り始めた。
まずは本の山。
「お、これは……」
分厚い魔術書を一冊持ち上げる。
表紙がキラキラ輝いていて、如何にも価値が高そうだった。
ぱらぱらとめくる。
「……」
難解な魔法陣とびっしりの文字。
「……読めない」
ぽいっ。
無造作に放り投げた。
次は服の山。
ごそごそと漁る。
「黒い服ばっかり」
似たようなデザインの服をかき分けていく。
「……む?」
奥から、紫色の服が出てきた。
ひらひらとした布地。
狸は首を傾げる。
「……趣味が変わった?」
ぽいっ。
よく分からないので、これも放り投げた。
次に見つけたのは、机の横に置かれた小さな宝箱。
狸の目が光る。
「ほう……」
そろりと近づく。
「これは期待できそう」
蓋を開けた。
中に入っていたのは、一冊のノートだった。
「……なんだ?」
取り出して、開く。
『交換日記 M/A』
狸は眉をひそめた。
ぺらりとページをめくる。
『今日は上海人形の服を新調した。最近暑いから、清涼感を出したくて薄着にしてみたけど、ちょっと刺激的過ぎたかも』
『人形に欲情する奴がいたら末期だと思う。私は今日はパンを焼いた。侮ってたけど、中々難しいな。発酵が上手くいかない。あれこれ試してみるのは魔法の研究に似てて楽しいけどな』
『上手くいったら、食べさせてね。ところで、最近家の周りに見た事の無いキノコが繁殖してるんだけど、何か心当たりは無いかしら?』
……ぱたん。
狸は日記を閉じた。
「いらない」
ぽいっ。
思いきり放り投げた。
「もっとこう、宝石とか金とか、そういうのは……」
再び部屋を漁る。
棚の下。
机の裏。
積まれた本の奥。
そして——
「……お?」
床に転がっていた、小さな箱。
中を覗く。
そこには、キラキラと光る石が入っていた。
狸の目が輝く。
「おお……!」
指でつまみ上げる。
月明かりを受けて、石はきらきらと光った。
「これならきっと!」
懐にしまおうとした、その時だった。
「いただけないなぁ」
背後から声がした。
狸の体がびくりと跳ねる。
ゆっくりと振り向く。
そこには——部屋の主、魔理沙が立っていた。
腕を組み、にやにや笑っている。
「な、なんで!?」
狸は目を見開いた。
「朝までは起きないはず、だったか?」
魔理沙は肩をすくめる。
「……あの程度のまじない、私には効かないよ」
「じゃあ、ずっと起きて……」
「狸寝入りってやつだな」
狸の顔からさぁっと血の気が引く。
「背負った時からおかしいと思ってたんだよ。人間の重さじゃなかった」
魔理沙は一歩近づく。右手には、八卦炉。
「今日は狸鍋かな」
狸は悲鳴を上げそうになる。
魔理沙はさらに近付く。魔理沙を中心に、魔力が収束していくのを感じる。
「た、狸なんてあんまり美味しくないよ」
「そうか。でもまあ、毛皮を剥げば金にはなるだろ」
空気が震え、前髪が捲れ上がる。逃げようとして、尻餅をついた。
——ダメだ。やられる。
圧倒的な魔力の圧に、狸が死を覚悟した、その時。
「勘弁してくれんかのう」
別の声が割って入った。
気付くと、戸口に少女が立っていた。
大きな傘を肩に担ぎ、煙管をくゆらせている。
幼い見た目とは裏腹な、古老めいた言葉使いと、空気を一変させる程の貫禄。
「……親玉が出たな」
魔理沙は振り返り、苦々しく笑う。
狸の親分——二ッ岩マミゾウが、にかりと笑った。
「儂の配下が世話になったようじゃの」
狸は慌てて頭を下げた。
「親分、すいません!」
マミゾウは肩をすくめる。
「まあそう萎れるな。相手が悪かったな」
そう言って、魔理沙に向き直った。
「こやつは修行中でな。人を化かして宝を盗むのが、一人前になる為の通過儀礼みたいなもんでの」
煙を吐く。
「なんて傍迷惑な」
「詫びるが、それも妖怪の本懐じゃ」
魔理沙はため息を吐いた。
「埋め合わせはするから、そいつを許してやってくれんか」
マミゾウの言葉に、しばし魔理沙は考える。
最初から別に、とって食うつもりは無かった。ちょっと脅かしてやろうと思っただけだ。
マミゾウも、それを理解した上での申し出だとは思うが。
ただ黙って解放してやっても、面白く無い。
逡巡の末、魔理沙は妙案に行き着いた。
「お酒」
「ほう?」
「それなら、お酒をくれ」
魔理沙は、マミゾウに事情を説明した。
勇儀のこと。
鬼の雫のこと。
話を聞き終えたマミゾウは——大きく笑った。
煙管を振り、勢いよく胸を叩く。
「それなら、儂に任せろ」
胸を大きく張り、高らかに宣言した。
「儂がどこから来たと思っとる」
にかりと笑う。
「寡聞にして知らず……」
「佐渡——今の外の言葉で言えば、新潟か。日の本一の、酒処じゃよ」
◇
次の夜。
魔理沙は森のさらに奥、マミゾウの棲み家に招かれていた。
洞の奥に作られた住処は、外見とは裏腹にやたらと居心地が良い。古びた木の卓が据えられ、壁際には酒瓶がずらりと並んでいる。鼻をくすぐるのは、木と酒と煙草の混じった匂いだった。
「さて」
マミゾウが卓の向こうで煙管を置いた。
「酒が欲しいと言うたな」
「言ったな」
魔理沙は腕を組んで頷く。
「鬼の雫ってやつの参考になりそうなお酒があれば、味わいたい」
「ふむ」
マミゾウは棚を物色し、その中から一本の瓶を取り上げた。
「まずはこれじゃ」
とく、とく、と盃に酒が注がれる。
透明な液体が、静かに揺れた。
魔理沙は盃を持ち上げる。
「いただきます、っと」
くい、と口に運ぶ。
すっと喉を通る。
軽い。
水のように軽いのに——ふわりと米の香りが広がった。
舌の奥に、旨味が柔らかく残る。
「……お」
魔理沙は盃を見た。
もう一口。
するりと入る。
後味はきれいに消えるのに、香りだけがふっと鼻に残る。
「これは美味いな」
思わず言った。
マミゾウはにやりと笑う。
「そうじゃろう」
瓶のラベルを指で叩く。
「「〆張亀 吟撰』じゃ」
胸を張る。
もちろんマミゾウが造った酒ではないのだが。
魔理沙はその言葉は飲み込んで、感嘆の声を吐き出した。
「なるほどなぁ」
盃を揺らす。
マミゾウが自信を持つだけの事はある。
これだけの酒は、幻想郷では中々口にする事はできない。外の世界とのパイプを持つマミゾウだからこそ用意出来る一品だ。
「こりゃ確かに上等だ」
「まだまだ序の口じゃよ」
マミゾウは次の瓶を取り出した。
再び盃に注ぐ。
「ほれ」
魔理沙は口に運ぶ。
次の瞬間。
「……甘い」
驚くほど甘い。
だが、べったりした甘さではない。
しっとりとして、それでいてべたつかない、スッキリした甘さだ。
そして、甘さの中から旨味がふわりと広がり、すぐに消える。代わりに、澄んだ香りが鼻を抜けていく。
「なんだこれ」
思わず声が出た。
もう一口。
やはり甘い。
だが重くない。
「酒ってこんな味するのか?」
魔理沙は瓶を覗く。
ラベルには。
『亀齢 純米大吟醸』
マミゾウが頷く。
「良い酒じゃろ」
「……すげぇな」
魔理沙は素直に感心した。
こんな酒は飲んだことがない。
鯢呑亭でも偶に美宵が奮発して良い酒を下ろす事はあったが、これは別格だ。
「じゃが」
マミゾウが煙を吐いた。
「まだ上がある」
ごとり。
卓に、一本の瓶が置かれる。
「最高峰はこれじゃ」
魔理沙は眉を上げた。
「ほう」
盃に注がれる。
香りが、ふわりと立った。
身を包む芳醇な香りに、緊張感すら覚えた。
魔理沙はゆっくりと盃を持ち上げる。
「……」
口に含む。
瞬間。
「——っ!」
魔理沙の目が見開かれた。
香りが、爆発した。
花のような香り。
米の甘み。
澄んだ旨味。
すべてが一度に押し寄せる。
だが、不思議と重くない。
水のようにすっと消えていく。
魔理沙は黙ったまま、しばらく盃を見つめた。
瓶には、こう書かれている。
『大吟醸 秋秀』
マミゾウが得意げに胸を張る。
「どうじゃ」
「……」
魔理沙は盃を置いた。
経験した事の無い、素晴らしい味わいだった。
酒の常識を覆されたと言ってもいい。
だが、それでも。
「駄目だ……」
マミゾウの眉が上がる。
「何?」
「いや」
魔理沙は頭を掻いた。
「途轍もなく美味い」
「じゃろう?」
「でも」
魔理沙は首を振る。
「違うんだ」
マミゾウが不快そうに煙管をくゆらせる。
「何が違う?」
「鬼の雫ってやつは、きっと……ただ美味いだけじゃ駄目なんだ」
盃を指で回す。
「勇儀の奴が、酒を飲んで唸るくらいだ」
「ふむ」
「美味いのは前提」
魔理沙は続ける。
極上に美味い酒を口にして、確信を持った。それだけだと、足りない事を。
「その上で——勇儀という特定個人を揺さぶる何かが無きゃいけない」
マミゾウはしばらく黙っていた。
「ふぅむ……さりながら。霊夢とて、この短時間で鬼の雫に辿り着くとは思えんな」
勇儀が何年探し求めたかは知らないが、そんな物を素人が簡単に見つけられるとは思えない。
お互い鬼の雫に至らなければ、結局はただの酒比べに落ち着く。
この『大吟醸 秋秀』は、充分戦えるレベルにあると思えた。
「……いや」
魔理沙はゆっくりと首を振る。
マミゾウの言いたい事は理解できる。
けれど魔理沙にも、断言できる事があった。
「あいつは辿り着くさ。鬼の雫か、少なくとも、それが見える高みには」
それは霊夢への、信頼といってもいい。
何度も乗り越えようと挑んで、その度に弾き返された。
ずっとその背中を見続けてきた。
だからこそ、誰よりも霊夢を知っている。
霊夢なら、きっと成果をあげるはずだ。
そして、何よりも。
——離されてたまるか。私はずっと、お前の近くにいたいんだ。
だから魔理沙も、全力で挑むのだ。
その背中から離されない為に。
「くっくっく」
マミゾウは肩を震わせた。
やがて、大きく笑う。
「面白いのぅ」
煙管を卓に置く。
にやりと笑う。
「付き合ってやろう」
マミゾウの目が、妖しく光った。
煙を吐く。白い塊がぷかんと浮かび、やがて霧散した。
「鬼の雫——そいつを探す旅に、な」
◇
同刻、神社の夜は静かだった。
参道に灯りはなく、虫の声だけが細く響いている。
だが——本殿の中は、惨状だった。
床には酒瓶が転がっている。
一升瓶、小瓶、徳利、見たこともない形の瓶。
それらがごろごろと散らばり、所々で溢れた酒が畳に染みを作っていた。
その中心に。
「……ふぅ」
博麗霊夢が座っていた。
袖で口元を拭う。
頬は真っ赤に染まり、目元も潤んでいる。
しかし、視線だけは鋭かった。
「次!」
霊夢が叫んだ瞬間。
ぴしり。
空間に細い亀裂が走った。
まるで紙を裂くように、すっと裂け目が開く。
その隙間から——手が伸びてきた。
白く細い手。
そして、その手は一本の酒瓶を霊夢へ差し出した。
霊夢はそれを受け取る。
「ありがと」
瓶を傾け、盃に注ぐ。
透明な酒が、静かに揺れた。
くいっ。
一息で飲み干す。
数秒、目を閉じる。
「……」
やがて、首を横に振った。
「違う」
ごとん。
瓶を床に転がす。
「次!」
裂け目の向こうから、ため息が聞こえた。
「霊夢」
その声は、呆れ返っていた。
「もう無茶よ」
亀裂が少し広がる。
隙間の向こうに、扇子で口元を隠した女の姿が見えた。
八雲紫。幻想郷の賢者の一人。
その紫は呆れつつも、半ば感心したような顔で霊夢を見る。
「もう何本飲んだと思ってるの?」
霊夢は指を折って数えようとして、途中でやめた。
「……分かんない」
「でしょうね」
紫は肩をすくめる。
床に転がる瓶の数を見て、軽く目を細めた。
「ここまでする必要あるの?」
霊夢は次の盃を注いだ。
手が、ほんの少しだけ震えている。
「あるわよ」
ぐい、と飲む。
息を吐く。
ぐわんと体が揺れた。
紫の眉がぴくりと動く。
「ほら」
再び、呆れた声。
「ふらふらじゃない」
「まだ大丈夫」
霊夢は即答する。
痩せ我慢なのは明白だが、その声は揺れない。
しかし、身体は限界を迎えていた。突如、胃の内容物が逆流する。
「うぷっ」
湧き上がった吐瀉物が、勢いよく口から噴き出ようとするが、霊夢はすんでのところで何とか堪えた。
そして、水を湛えていたコップを手探りで取り、その中に吐き出した。
口の中に、嫌な酸っぱさが広がる。
それでも霊夢の目から炎は消えない。
「魔理沙は——あいつは必ず、それなりのものを持ってくる」
紫は少し目を細めた。
「随分な信頼ね」
「当たり前でしょ」
霊夢は鼻で笑う。
魔理沙を決して侮らない。
自分の後ろを追い掛けてくるあの勢いを、誰よりも知っている。
同時に、決して追い抜かれまいと、心に誓っていた。
「張り合う気持ちは分かるけど……良いお酒が飲みたいなら、こうして私が用意してあげるから、もう止めなさいな」
「もう、そういう問題じゃないの——次!」
こうしている今も、きっと魔理沙は、私を越えようと努力しているだろう。
追い縋る魔理沙の、熱量の籠った眼差しが頭に浮かぶ。
——私はずっと、魔理沙の目の前に居続けてやる。
それが、どんな事であろうと。
魔理沙の視界の中は、酷く居心地が良い。
もし魔理沙が私を追い抜いたら——
あいつは今度、誰の背中を追い掛けるのだろうか。
——そんな事……!
考えただけで、吐き気がする。
誰にだって、譲ってやるもんか。
盃を見つめる。
酒が揺れていた。
ぐい、と一息に煽る。
喉を通る際に、少しむせた。
袖で口元を拭う。
「……次!」
また空間が裂ける。
瓶が差し出される。
霊夢はそれを受け取る。
その手は震えていた。
だが、立ち止まる事は無い。
紫は背筋に、冷たいものを感じた。
なんて執念。
もはや、狂気じみている。
人間に恐怖を覚えるなんて——いったい、何年ぶりだろう。
紫は口元を手で覆ったまま、静かに息を呑む。
酒を煽った霊夢がまた首を振る。
これも違うらしい。
そして、水を飲もうとコップに手をかけ、口に含んだ。
「あ、霊夢。そのコップは——」
「おえええっ!!」
己から出た物を口にした霊夢は、今度こそ吐瀉物を机にぶちまけた。
八雲紫は戦慄する。
——この巫女は、狂っている。
◇
やがて時が満ち、決戦の日は、あっけなくやってきた。
旧地獄、つい先日、勇儀の葬儀が執り行われた広間。
祭壇は既に、撤去されている。
その広間の中央に、三人だけが立っていた。
博麗霊夢。
霧雨魔理沙。
そして、伊吹萃香。
萃香は徳利をぶら下げながら、二人を見回した。
「ふむ」
小さく頷く。
「逃げずに来たのは褒めてやる」
にやりと笑う。
「鬼の酒を名乗るなら、それくらいの胆力は必要だからね」
魔理沙は鼻を鳴らした。
「逃げる理由がない」
「強がるねぇ」
萃香は楽しそうに言う。
「ま、いいさ」
地面にどかりと座る。
「さあ」
手をひらひらと振る。
「持ってきた酒を出しな。そして」
にやりと歯を見せる。
「どういう酒か、その表現を聞かせてもらう」
ちらりと二人を見る。
「さぁ、どっちが先にいく?」
少しの沈黙。
魔理沙は横目でじっと霊夢を見つめる。
その静寂を破ったのは、その霊夢だった。
「私からよ」
すっと一歩前に出る。
萃香は面白そうに眉を上げた。
「へぇ。いい度胸だ」
「負けるはず無いもの」
「……言ってろ」
霊夢は懐から一本の酒瓶を取り出した。
瓶の中で、液体がゆっくり揺れる。
琥珀色。
魔理沙の眉がぴくりと動いた。
「……なんだそれ」
首を傾げる。
「洋酒か?」
ウイスキーか、ブランデーか。
或いは、かつて自分も作った事のある蜂蜜酒か。
どちらにしても、日本酒の色ではない。
霊夢は淡々と答えた。
「日本酒よ」
「は?」
魔理沙は目を瞬かせる。
マミゾウの手引きで山ほど呑んできたが、日本酒はどれも澄み切った透明であった。過去に、澱が残って白濁したものは見た事はあるが、上等であればある程、無色に近付くと理解していた。
「日本酒だと?」
「ええ。これは、古酒よ」
霊夢は瓶を掲げた。そして、封を切る。
――その瞬間、香りが弾けた。
「……!」
魔理沙の背筋がぞくりと震える。
甘い。
だが、ただ甘いだけではない。
果実のような香り。
同時に、木のような香り。
溶け合い、深い森林を思わせる。
そして奥底に、深い米の気配。
時間そのものを蒸留したような香りだった。
「な……」
魔理沙の喉が鳴る。
「なんだ……これ」
霊夢は盃に注ぐ。
黄金の酒が、静かに満ちた。
そして、ゆっくりと口に運ぶ。
「お……」
唇が触れる。
「おぉ……おぉ……」
表情が蕩け、感嘆の声をあげる。
そして、霊夢の意識は飛んだ。
— — — —
気が付くと、霊夢は知らない場所に立っていた。
いや。
よく見れば、知っている場所だった。
それどころか、一歩たりとも動いていない。
「ここは……旧地獄?」
だが、今の旧地獄ではない。
人がいて、妖怪もいる。
悲鳴と笑い声が飛び交う。
活気、暴力、そして歓喜。
これはまだ地獄だった頃の、旧地獄。
罪人の苦しみと、獄卒の喜びが混ざり合い、熱気が立ち込める。
その中で、霊夢だけがポツリと浮いていた。古い映像を見るように、現実感が無く、俯瞰して喧騒を眺めていた。
そして、時の流れが加速する。
地獄は整理される。
旧地獄は、切り捨てられる。
人が減り、妖怪も減った。
獄卒相手に開いていた店も、どこかに引き上げていった。
残された建物も次第に朽ちていく。
やがて、廃墟になった。
風だけが吹き抜ける。
寂れた地獄。
この土地はもう、終わったかのように思えた。
その時だった。
どん。
重い足音。
霊夢が振り向くと、そこに立っていたのは鬼だった。
屈強な鬼達。
腕を組み、周囲を見回す。
そして、豪快に声を上げた。
「気に入った!!」
声が響く。
「ここで飲もうぜ!!」
それを合図に、鬼達がぞろぞろと集まってくる。
酒樽が運ばれ、火が焚かれる。
宴が始まる。
笑い声が戻る。
鬼が鬼を呼び、喧騒が妖怪を呼び、旧地獄が息を吹き返す。
鬼達が輪になる。その周りを怨霊が取り囲む。
大笑いする、その中心に。
一際、力強く笑う鬼がいた。
一本角、巨大な盃
よく知った横顔が、そこにはあった。
そいつは、盃になみなみ注がれた酒を、一息に飲み干した。周りから歓声が上がる。
——そんな事、してるからよ。
そこで、霊夢は現実に帰った。
— — — —
広間は静まり返っていた。
誰も喋らない。魔理沙も萃香も、押し黙って霊夢の言葉を待っていた。
霊夢は盃を置く。
そして、ぽつりと語り出した。
「このお酒には」
少し間を置く。
「歴史が詰まっている」
萃香が静かに聞いている。
「けれど」
霊夢は首を振る。
「それはただの過去じゃない」
酒瓶を掲げ、見つめる。
琥珀色の光が乱反射し、黄金のシャワーを浴びているようだ。
「十年以上の歳月を経て成熟したこのお酒は、これからもっと進化する。むしろ」
微かに笑う。
過去を感じた霊夢だが、その胸を満たしたのは懐かしさでは無い。長い時間をかけてその羽を広げたこのお酒は、これから更に羽ばたいていく事を感じさせる。
宴が盛り上がるのはこれからだというような、そんなワクワク感。
「未来への期待に溢れている」
そして——言葉を探す。
「例えるなら……そうね」
一拍。
「――"前日譚"」
魔理沙の目が揺れる。
「いずれ目覚めて、また歴史を作る勇儀にぴったりのお酒。そう、この——」
瓶をそっと置く。地底の薄い光に、そのラベルが照らされる。
「『久遠乃社 2008年』はね」
沈黙。
それから、萃香がふっと笑った。
「……なるほど」
そして、頷いた。
「見事だ」
魔理沙の背中を、冷たい汗が流れる。
やはり霊夢は怪物だ。
まるで酒の中に沈んできたような、没入感のある表現。
——こんなのに、本当に勝てるのだろうか。
◇
魔理沙は、ぎゅっと拳を握る。
——ビビるな。
胸の奥で、もう一人の自分が言う。
ここまで来て、腰が引けてどうする。
ちらりと霊夢を見る。
霊夢は腕を組んで、静かにこちらを見ていた。
挑発も、嘲りもない。
事は全て済んだとでもいうように、澄まし顔で佇んでいる。
それが余計に腹立たしい。
「次は私だ」
一歩前に出る。
懐から、一本の酒瓶を取り出す。
霊夢が少しだけ眉を上げた。
萃香も、興味深そうに身を乗り出す。
魔理沙は瓶を掲げる。
「こいつが私の——鬼の雫だ」
封を切る。
ぽん、と軽い音。
次の瞬間。
すっと香りが広がった。
澄んだ香りだった。
青い果実のような、草のような、風のような。
霊夢のものとは全く違う。軽く、抜けるような爽やかな香り。
萃香が、ぽつりと漏らす。
「……若いな」
盃に酒を注ぐ。
透明な液体が、静かに揺れる。
そして、口に運んだ。
瞬間、視界が切り替わった。
— — — —
魔理沙は深い山の中に佇んでいた。
周りを見渡すが、人の気配はない。
耳に入るのは、風が木々を揺らす音。
そして微かな、水の音。
岩の割れ目から、水が流れている。
ほんの少しずつ。
ぽたり、ぽたりと。
ゆっくりと、しかし確実に湧き出るその水は、小さな湖を作っていた。
更にそこから、水が溢れる。
細い流れ。
小さな川。
魔理沙は導かれるように、その流れに沿って歩き出す。
川は山を下る。
途中で、別の水が合流する。
一つ、また一つ。
幾つもの支流を吸収し、気付けば小川は立派な川になっていた。
川はさらに大きくなり、やがて山を抜ける。
そして。
人里が見えた。
川から水が引かれている。
——田んぼだ。
青々とした稲が、風に揺れていた。
ざあ、と波のように揺れる。
魔理沙は立ち止まり、その光景に視界を捉われる。
急に、時が動き出す。
雨が降る。
日が照る。
風が吹く。
雲が流れる。
季節が、回る。
そして気付けば、稲は黄金色に輝いていた。
ざわり、と揺れる。
魔理沙はとある洋館で見た、上質の絨毯を思い出していた。
その時。
「しょったれしてねんで!」
声が飛んできた。
振り向くと、農夫が立っていた。
「はたらかねーか!」
鎌を突きつけられる。
「……え?」
魔理沙は目を瞬いた。
「ほれ!収穫だ!」
押し付けられるように、鎌を渡される。
何が何やら分からない。
「あ、あぁ」
魔理沙は勢いに負けて、鎌を受け取った。
そして中腰になり、稲を掴む。
鎌を構え、その刃を稲の根元に押し当てる。
ざく、ざく、ざく。
気付けば、夢中で刈っていた。
汗が流れる。
腕が痛い。
何故こんな苦労をしているんだろうと疑問が浮かぶ。
それでも作業を続け、やがて全て刈り終えた。
魔理沙は空を仰ぐ。
「ふぅ……」
額の汗を拭う。
確かな達成感が胸を満たした、その瞬間。
再び景色が変わった。
——今度は、室内だった。
薄暗い。そして、寒い。
真冬の冷気が肌を刺す。
漏れる吐息が白い。
思わず小さくなって震える魔理沙の目の前では、一人の男が米を洗っていた。
大きな桶に手を突っ込んで、黙々と米を研いでいる。
魔理沙は吸い寄せられるように、その横に立つ。
作業を邪魔しないよう注意しながら、その手の動きを見下ろした。
指は真っ赤だった。
冷水で研いでいるのだろう。赤切れて、見ているだけで痛々しい。
「なあ」
声をかけた。
「なんでそんなに頑張るんだ?」
男は手を止めない。
米を洗う。
水を替え、また洗う。
そして、ぽつりと言った。
「俺が死ぬからだ」
魔理沙は目を瞬く。
「……は?」
「人間は死ぬ」
男は淡々と続ける。
水から米をすくい上げる。
濡れたその一粒ずつが、宝石みたいに輝いて見えた。
「死ぬ前に、自分の全部を入れたもんを作りたいだ」
魔理沙は何も言わず、ただ男の言葉に聞き入った。
「親父もそうだった。親父も、その親父も」
男はまた米を洗う。
「みんなそうやって、酒を全てを込めて、死んでいった」
魔理沙は、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
視線を上げる。
脳裏に浮かぶのは、二手に別れた道。
そして、その岐路の前で立ち尽くす自分。
その時。
外で大きな音が弾けた。
そこで、魔理沙の意識は現実に帰った。
— — — —
気付けば、盃は空になっていた。
魔理沙は静かにそれを置く。
そして、口を開いた。
「このお酒には」
丁寧に、言葉を紡ぐ。
「霊夢のお酒みたいな、千尋の谷のような深い過去も、永遠を思わせるような遥かな未来も無い」
正直に言う。
飾り立てる言葉など必要無かった。
「だけど、刹那的に輝く今がある」
湧き出る水。
流れる川。
巡る季節。
何一つ留まり続けるものなんて無い。
それは人の営みも同じだ。
魔理沙はこの酒を通して、酒の一生を見た。
それは、人の一生とも重なる。
人は皆、自分が永遠で無い事を知っている。
だからこそ、その全てを何かに注ぎ込む事ができるのだ。
それは、永遠を持たない者の特権ともいえる。
ふと、酒を遺していった友人が頭に浮かぶ。
そいつは永遠を持つくせに、それを手離すような無茶な生き方をした。
だから、身体を壊したんだ。
気付けば涙が滲んできた。
溢さないように、空を見上げる。
夜空に浮かぶ綺麗な物は、月ばかりではない。
魔理沙の脳裏に浮かぶのは、須臾の間に朽ちる満開の花。
空想の中で聞いた、弾ける音を思い出す。
「このお酒を例えるなら——"打ち上げ花火"だ」
聞いていた萃香と霊夢が息を呑む。
魔理沙は続ける。
「そもそも、お酒なんてものは、飲まれてしまえば何も残らない、一瞬のものなんだ」
魔理沙は瓶を手に取り、二人に掲げる。
その名を、見せ付けるように。
「それでも」
魔理沙は静かに続ける。
「敢えてその一瞬に自分の名前を残すいじらしさを……私はとても、愛おしく思う。この——」
それは、杜氏の名を貰った、極上の一瞬。
「『堂岐の一本 純米大吟醸』のな」
夜空に咲いた花火が煙を残すように、その爽やかな残り香だけが、静かに漂っていた。
◇
静まり返った広間で、萃香はゆっくりと盃を置いた。
右には霊夢の酒。左には魔理沙の酒。
どちらも既に口にしている。
盃の底に残る僅かな雫を、萃香はじっと見つめた。
目を閉じる。
鬼の審判は、簡単には下されない。
沈黙がやけに長く感じられた。
魔理沙は落ち着かない様子で足を鳴らす。
霊夢は腕を組んだまま、微動だにしない。
「……で、どっちなんだよ」
魔理沙が、たまらず口を開いた。
萃香はゆっくりと顔を上げた。
そして、勝負が終わるのを惜しむように、躊躇いがちに口を開く。
「どっちもだ」
魔理沙が固まる。
霊夢の眉もぴくりと上がった。
「どっちも、鬼の雫だ」
魔理沙の肩が跳ね上がる。
「ふざけんな!」
「ま、落ち着きなって」
萃香は楽しそうに笑う。
「霊夢」
指を向ける。
「お前の酒は、良かった」
黙って聞いていた霊夢は、当然だという風に鼻を鳴らした。
「過去があり、未来もあった。立体的な味わいどころか、時空すら超越して俯瞰するような、四次元的な構造」
萃香は盃を指で転がす。
「まさしく、全てから浮いた存在である霊夢に相応しい、見事な一本だ」
ころり、と盃が小さく鳴った。
「けど、なんだ。芸術品としては一級なんだが、鬼の最も欲するところはそれじゃ無い」
萃香は軽く鼻で笑う。
霊夢の表情が不快そうに歪んだ。
「勇儀が満足するだけの美味さかと言われると、僅かに足りない」
霊夢は悔しそうに顔を顰める。
言い返そうと口を開きかけ、しかし閉じた。霊夢自身、思うところはあったのだろう。
そして萃香は、今度は魔理沙の方へ顎をしゃくる。
「そこで、魔理沙の酒だ」
広間に、静かな声が落ちる。
「飲む物としては、これ以上は無いな」
萃香の口元が、満足気に歪んだ。
酒を盃に注ぎ、その水面を愛おしそうに眺める。
「全力でぶつかってくるような、暴力的な旨味。まさにお前の生き様みたいな一本だ」
魔理沙は口を挟む事無く、次の言葉を待つ。
「だけどな」
萃香は指で机を叩いた。
「とにかく美味く、迫力もあるが……鬼を揺るがす壮大さは、あと一歩だな」
魔理沙は歯軋りする。
自覚していた弱点だった。
不足していると分かりつつ、最後まで埋まらなかった一欠片。
「それじゃあ、どっちも鬼の雫とは言えないじゃないか」
魔理沙が口を尖らせる。
萃香はまた、不敵に笑った。
「分からないか?」
少し身を乗り出す。
「……お前達の持ってきた酒は、まるで正反対でいて、互いに補い合っている」
霊夢と魔理沙の視線が、同時に萃香へ向いた。
「霊夢の酒は、過去と未来に想いを馳せる深みはあるが、最も大切である、今の旨味が足りない。魔理沙の酒は、その旨味は暴力的だが、感情を揺さぶる深さは無い」
萃香は、両方の酒瓶を指で軽く叩いた。
「本当なら、両方とも不合格なんだがな」
肩をすくめる。
「持ってきたのは、他でもないお前達だ。二人でワンセットにして、ギリギリ合格だ。だから、これは二つ揃って鬼の雫だ」
そして、付け加えるように言った。
「ま、二人で漸く一人前って事だ」
霊夢が呆れたように息を吐く。
魔理沙も言い返そうとして、結局言葉が見つからず口を閉じた。
やがて霊夢が、肩を竦めながら言った。
「それじゃあ、勇儀のお酒はどうするのよ」
それが事の発端であった。
萃香は一瞬だけ目を細める。
勇儀の遺した納戸には、今も酒瓶が並んでいる。
鬼の四天王の、珠玉のコレクション。
そして次の瞬間、萃香の笑顔がぱぁっと弾けた。
「決まってるさ」
口を開き、牙を見せる。
「誰のものでもないなら——」
腕を大きく広げた。
「皆で飲むしかない!」
その言葉が落ちた瞬間。
張り詰めていた空気が、ぱちんと弾けた。
◇
やんややんや
博麗神社は大賑わい。
人も、人じゃないのも、勢揃い。
酒やら肴やらを持ち寄って、飲めや歌えの大宴会。
わいのわいの
鬼と河童が飲み比べをして、河童が潰れる。
それを見た天狗は腹を抱えて大笑い。
次の相手に指名された妖精は、慌てて首を横に振る。
どんちゃんどんちゃん
幽霊楽団の伴奏で、夜雀が歌い出す。
リズムに合わせて門番が舞い、メイドは呆れ顔。
緑の巫女は手を叩いて、大はしゃぎ。
霊夢と魔理沙と萃香、それから本件の協力者であるマミゾウと美宵だけで飲むつもりが、気付けば幻想郷中の人妖が集まった大宴会になった。
その喧騒の中、発端の中心人物である萃香は、ゆっくりと盃を傾けた。
視線の先には、縁側に座る霊夢と魔理沙。バチバチにやり合った二人が、今は仲良くお喋りに興じている。
「本当に、引き分けだったんですか?」
ふと、後ろから声が掛かる。
振り向くとそこにいたのは、奥野田美宵。鯢呑亭の看板娘にして、萃香の眷属。
眷属だけあって、中々鋭いところに目がいくようだ。
萃香はくいっと酒を飲んだ。
「霊夢の勝ちだ」
美宵が目を瞬く。
「え?」
「と言ったら、魔理沙が認めると思うかい?」
美宵は少し考えた。
そして首を振る。
「……微妙かも」
「その逆も同じだ。ごねるに決まってる」
萃香は肩をすくめた。
萃香は盃を揺らす。
黄金の酒が、灯りを反射する。
「辿る道が違っても、行き着く所は同じさ。結局勝者は有耶無耶になって、宴会で飲み尽くす事になる。最初から決まってたんだよ」
「は、はぁ」
「というかそもそも、鬼の雫なんてでっちあげだ」
「えっと……えぇっ!?」
「勇儀の葬式の日、私が勇儀の家に行ったのも、酒を回収する為だっんだよ」
萃香がポリポリと頬をかく。そして、「あいつがコソコソと酒を集めてるのは気付いてたからな」と付け足した。
「けど、いざ着いたら先客がいた。私はすぐに悟ったね。霊夢は引かない。魔理沙も引かない。当然、私だって引かない」
三者三様に理屈を並べて、醜く言い合う姿が美宵の目に浮かんだ。
「となれば落とし所として、皆で飲む事に落ち着くだろう」
それは理解できる。
しかし、美宵は腑に落ちない。
「じゃあ、どうして鬼の雫探しなんて面倒なことを?」
萃香は盃を掲げた。
中で揺れる黄金の酒は、霊夢が探し当てたものだ。
愉快に笑う。
「簡単さ」
霊夢と魔理沙を見る。
二人はまだ並んで飲んでいる。
おっと、そこに矢田寺成美が乱入した。手招きして、魔理沙を連れ出そうとしている。
萃香はまた、ぐいと酒を煽った。
「上手いこと乗せて競わせれば、美味い酒がもう二本増えるだろ?」
クククッと笑い声が漏れる。
そういう事かと、美宵は呆れたような笑いを浮かべた。
萃香はまた、縁側に目を向ける。丁度、魔理沙が縁側から腰を上げたところだった。
実を言えば、二人を焚き付けた理由は、酒だけが目当てでは無い。
霊夢は気付いているだろうか。魔理沙が、席を離れる自分の身代わり、或いは場所取りのようにわざわざ帽子を脱いで隣に置いた事を。
魔理沙は気付いているだろうか。離れていく背中を、霊夢が不満そう見送っている事を。
この二人は本当に、見ているだけで酒が進む。互いを意識しながら駆け回る様なんて、最高の肴だ。
宴会を彩るのは、酒だけではない。
饗宴に華を添える余興もまた、無くてはならないのだ。