春先から秋口まではいつだってじめじめとしていたその森も、雪が積もり出すとカラリと冷えて、緑だったり赤だったりした地面は一面真っ白に変色した。所々に飛び出していたキノコはすべて雪に埋もれていて、霜柱ばかりが時折その代わりを務めていた。
中央に向け森深く入り始めたあたりに木々が刈り取られて開けた場所があり、そこに一見して廃屋にしか見えない一軒家が立っていた。
除雪跡のない雪原のあらぬところから、トゲトゲとした木の柵のてっぺんだけが軒並み顔を出している。風除けのない玄関口の外開け扉は、基礎が低いことも相まってその全高5分の1程度を雪の中にうずめていた。
玄関脇の窓ガラスの1枚については大部分が割れ落ちて、そこから誰の侵入も可能な状態になっている。既に誰かがそこから内部を覗き込んだらしく、庭先から突然現れた深い足跡が砕けた窓まで伸びていて、戻った形跡もなくその目の前で消えている。
三角屋根は一面ぶ厚い雪を積み上げていて、その色も材質も分からない。朝日に当たり軒からぽたりぽたりと水が滴って所々にツララを作っている。軒上に掲げられた大きな板看板さえもその前面に雪が張り付き、なにが掲示されているのかは読み取れなかった。
「・・・りささん、魔理沙さん。」
延々と誰かに揺さぶられる。真っ黒な視界がシャットアウトしてぼやけた世界が目に見える。どうやら傍に誰かいてそいつが全身を揺らしているらしい。聞き覚えのある声ではあるが、それが一体誰であるのかは、全世界とピントが合うまで彼女にはまだ検討すら付けられなかった。間もなく射命丸 文はもう一度彼女の名前を呼び直した。
「魔理沙さん、魔理沙さん。」
「ぅあぁああ。」
もたれに背を預けた霧雨 魔理沙は両腕を頭上に向けて伸びをした後、大きくあくびを放出した。真っ白く凍った息がもわりと上がる
次いで右手で両目をこすると彼女はすぐ傍に射命丸 文がいることに気が付いた。
「駄目ですよ魔理沙さん。こんな所で寝てはかぜを引いてしまいます。ただでさえ喉かぜが流行っている上に、ほら窓ガラスだって割れちゃって、隙間から冷たい風が吹き込んでいますよ。あとこれ今月の新聞です。」
「えあ?」
霧雨 魔理沙が全身重そうに身を起こすと、再び椅子にのけぞるように背を持たれ、射命丸 文の背後にある窓ガラスへ首を傾げた。板ガラスが跡形すらなくバラバラに砕けて屋内に散らばり、ダークブルーのコットンカーテンをなびかせて次々に外からの風を送り込んでいた。
「お前、うちの窓割って入ったろ。」
「仕方ないじゃありませんか。」
しくしくと泣きながら射命丸 文がロココ調の三ツ足しかないテーブルを両刃の鋸で切っている。霧雨 魔理沙が起き上がりざま彼女を不意打ちに殴り付け、居間の中から鋸とテーブルを掘り出し、追い打つように投げ付けて間髪入れずに「ふさげ!」と命じたためだった。
頭襟の傍に直径5cm程度のたんこぶが赤々と腫れ上がって明滅している。
「ひどいじゃないですか魔理沙さ~ん。」
「窓割った罰だ。ありがたく思え。」
「だって、知り合いのマッドサイエンティストが閉め切った実験室の中で実験中に死んでたら、誰だって窓割ってでも救出に行きますよ~仕方ないじゃないですかぁしくしく。」
「誰にでも知り合いにマッドサイエンティストなんているもんだろうか。」
作業机上で文文。新聞を開き、中央の1枚をつまみ上げて小脇に挟む。4本の鋲、1枚の巻紙、刻み葉1つまみを取りながら背後の壁へ歩く。突き当たるまでに巻紙に刻み葉を広げ、指先でくるくると円筒に丸める。突き当りには煙管が天井に向けて伸びていて、その脇にブリキ板成形のやかんが置いてあった。
霧雨 魔理沙はやかんのふたをぐりぐり外して側らに置き、その取っ手を右ひじに通してやかん本隊だけ持ち上げて、今度は叩き破られた窓へ向かって歩いた。紙巻の端に舌を走らせ固着したでんぷん糊を唾液で湿らせ、そののりしろを指で押し当てて包み紙を接着させた。
ぽつぽつとしかガラス片の残っていない窓枠から身を乗り出して、外に積もる雪をなるべく窓枠から離れた、きれいそうな所を選んでやかん一杯にすくい上げる。屋内に半身を戻して窓辺に一旦やかんを乗せると、ガラスのない枠の上に左脇に挟んだ新聞紙を広げ、3ヶ所に鋲を、窓枠からやかんを取り上げ、残る1ヶ所にも鋲を打ち込んで、割れた窓が新聞紙に覆われたことを確認してから作業机に戻る。
やかんを肘に、紙巻を指に挟んだまま再び新聞紙を2枚めくり上げ、やかんを持ち出した背後の壁に再び向かって歩き出す。その途中にダイニングテーブルがあり、その上に色々置いてある中に小箱がある、霧雨 魔理沙は通り過ぎざま、その小箱からマッチ棒を1本取り出した。
くしゃくしゃくしゃくしゃと2枚の紙を2本の棒状に丸め、壁の目の前まで付くとやかんを元あったストーブ天板の上に戻し、ふたを被せ、そのすぐ傍でとんとんと糊付けした紙巻を縦持ちにして2回、天板上に軽く打ち叩いて口にくわえると、鋳鉄材の隅でマッチ棒を素早く擦って火を灯した。
かがみ込み、正面のふたを開けて新聞棒の1本に火を移してストーブに入れ、続けざまにもう1本投入した。マッチの火の残りで口にくわえた紙巻きタバコに火を灯し、マッチの残り火は手首のスナップだけで振り消してストーブ内に投げ込んだ。
ストーブ脇に積まれた焚き木からなるべく細い物を選んで2、3本投入し、火種から伝火してごうごうと燃え上るのを見送ると蓋を閉じた。口元の紙巻をつまみ取って大きく煙を吐き、口元につまみ戻すと立ち上がって再び作業机に戻った。
「お前も1本喫むか?新聞代の代わりだ、魔理沙さん特性だぜ?」
机上から摘み上げた刻み葉を手早く紙に丸め、1舐めして包みあげた紙巻を射命丸 文に差し出して霧雨 魔理沙が言った。彼女はそれを見上げると明るく笑い、それを受け取って胸ポケットにしまった。
「ありがとうございます、これは後でおいしくいただきます。」
作業机の上で文文。新聞が1枚だけ見開かれている、椅子に座り、それを1折りして1ページ目に戻し、1面記事に目を通した。
「何だ?今日の新聞はやけに薄っぺらいじゃないか。」
「しくしく、読まれる前に残り1枚まで無駄遣いされるなんて、しくしく。」
ぎこぎこと作業の手を緩めず、目に涙を溜めるでもなく射命丸 文はつぶやいた。
「人類間で謎の喉かぜ蔓延、かぁ。おいおいこの小見出しはでっち上げ過ぎだろ。“博麗の巫女も罹患 宗教関係者の感染相次ぐ”だなんて。」
「え?いいえ、そこだけは嘘偽りありませんよ。」
射命丸 文がきょとんと目を丸め作業の手を止める。
「いいや大ウソだね、永林やヘカーティアならいざ知らず、霊夢が風邪ひくなんて夢のまた夢、絶対にあり得ねぇぜ。」
「信じてくださいよぉ、流石の私だって一面記事の大見出しと全小見出しの半分くらいは嘘なんかつきませんって~。」
鋸を止めて、泣きそうなのか泣かなそうなのかよく分からない顔で否定する射命丸 文に、霧雨 魔理沙は密室殺人の現場でも見るような視線を向けて、指先に挟んだ紙巻きタバコをもう1度ふかした。
「、、、ウソ吐くなよ。」
白い煙を小口で吐き出して霧雨 魔理沙は恐る恐る言った。
射命丸 文は首を振った。
「本当ですよぉ。まぁ確かに、宗教関係者に感染が相次いでいるかどうかなんて知ったこっちゃありませんけど、霊夢さんが喉かぜを患ったことだけは確実ですよ。」
霧雨 魔理沙はゆっくりと額を手で覆って首を振った。
「そ、そんな、あり得ない、この世の終わりだ。明日は幻想郷中を槍が覆うぜ。」
「オーバー過ぎません?」
「おかしい、おかし過ぎる。霊夢とチルノだけは風邪ひかないはずなのに。」
「魔理沙さんもう1回訊きますよ、オーバー過ぎません?」
霧雨 魔理沙は再び深く背を持たれ、文文。新聞一面にもう1度目を通した。半ば放心状態になって紙巻きタバコを一口くわえた。
「まぁ、なっちまったんなら、仕方ねぇよなぁ。でもなぁ、私だっていつ風邪ひいたっておかしくない人生送ってるぜ?ストーブ消えてたし、窓割られたし。私でも引かない風邪を何で霊夢が。」
「霊夢さんのところは暖房につぎ足し忘れるような燃料すらありませんからね。それに今流行っている喉かぜについて言えば、免疫や生活環境と、患うかどうかは直接な関係はありません。重要なのは感染すること、他の感染者と大なり小なり接触することが発症の鍵になります。霊夢さんはじめ宗教関係者は他の業種より幅広い対人交流を要しますから、それだけ感染するリスクに晒されていたというところでしょう。対して魔理沙さんは碌に外にも出ていないはずでしょう?感染者との接触そのものが全くなかったのですから、あなたが喉かぜを罹患する可能性自体が、そもそも無かったんですよ。」
霧雨 魔理沙はそれに答えず、まじまじと新聞紙を見つめながら白い煙を吐き出していた。
やかんの注ぎ口が蒸気を拭き出し音を鳴らす。作業机の片隅に置かれた灰皿を引き寄せて紙巻を掛けると霧雨 魔理沙は炊事場に立ち、戸棚から真っ白なマグカップを取って作業机にある赤茶けたマグカップの隣に移す。白地に花柄があしらわれた所々錆びた琺瑯ポットを取ってアールグレイの茶葉を大さじ2杯入れ、ストーブ脇へ運んでやかんの熱湯をポット内に半分注ぐ。やかんをストーブに戻して作業机にポットを置いた。
机の向こうに外の景色が見える。真っ白な朝を映す窓枠に細長い砂時計が1個置かれている。それを持ちあげ天地を反転し、灰皿と文文。新聞を掴んでストーブへ向かった。ガラス管の中で水色の砂が静かに落ちている。
霧雨 魔理沙は新聞を読みながら歩き、ストーブの上に灰皿を置いて振り返り、耐熱ガラス越しの遠赤外線にふくらはぎを預けて、紙巻をくゆらせながら記事の通読を継続した。
「魔理沙さん切れましたよピッタリです!釘とトンカチはありますか?」
ロココ調の正方形のぶ厚い木板を窓枠に当てて、射命丸 文は身をのけるように振り返りながら淀みない笑顔を霧雨 魔理沙に向けていた。
「おぅ、そこのテーブルに工具箱あるだろ、そん中にどっちも入ってるから勝手に使ってくれよ。目立たないように打てよ?」
「分かってますって任せてください!」
工具箱から金槌を取り出し、続けて4本の5寸釘を口に咥えて窓枠に貼られた新聞紙を剥がすと、射命丸 文はそこに木製の板を押し当てて釘を打ち付けた。
霧雨 魔理沙が正面を見る。今まさしく砂時計上半の最後の1つまみが落ちるところだった。新聞紙を畳み小脇に抱えると根元近くまで短くなった紙巻を灰皿の中央にすり潰して、灰皿の縁を掴んだ。
「あっつ!」
不用意にストーブ天板上に置いた灰皿は高温に加熱されていた。一握りの灰と吸い殻が舞い上がり、平たい帽子型にプレス加工されたトタン板がはじけ飛ぶ。
「あちゃ~、ま、あとで片付けるか。」
霧雨 魔理沙は吸い殻と冷めた灰皿だけ拾い上げ、無垢材のフローリングに散らされたタバコの灰を靴で擦りならして立ち上がった。ティーポットを取って2、3回くゆりと揺らすと、作業机の手前に見開かれた本を閉じて、脇に置いてあった漏斗台を引き寄せ、漏斗の上に濾紙を乗せてその下に内側のひどく赤茶けたマグカップを設置した。
「お前も1杯飲むか?魔理沙さん特性じゃないけどよ。」
霧雨 魔理沙が紅茶を注ぐ漏斗を注視しながら射命丸 文に問いかける。
「お、いいですねぇ。お砂糖はありますか?、、マッドサイエンティスト特性のお茶って怖くないですか?」
「お子ちゃまめ、ちょっと待ってろ、今淹れてやるから。」
3回目の濾液が落ち切るのを待ちながら霧雨 魔理沙は炊事場から砂糖瓶と小さじを取ってダイニングテーブルの隅に押し置いた。濾過が終わったのを見て赤茶けたマグカップを真っ白なマグカップに取り換えてポットの紅茶をもう1杯濾過させた。
射命丸 文は出て行った。砂糖を小さじで山盛り3杯入れた紅茶を飲み干し、文文。新聞をもう1部マグカップの脇に置くと、塞がれているのとは別の窓から許諾を得た上で飛び立って行った。当初は玄関扉から出ようとしたらしいが、2cmほど開けたところで諦めたようだった。
霧雨 魔理沙は1人ダイニングチェアーに腰かけて、今も1面記事を見つめていた。
喉かぜの病原因子は一般に言う「ばい菌」とは別物とされる。その特徴は感染者の体細胞内でのみ増殖する事であり、感染細胞を破壊しながら他の細胞へ病原因子を伝播、増殖させ続けるのだと言う。
喉かぜはまず罹患者の呼吸器に侵入して気管や肺の表面で増殖し、病原因子を放出すると共に呼吸機能を阻害する。
破壊された肺細胞から細胞片や体液が肺の内側に浸出する。罹患者の肺は半ば水に溺れた様な状態になり、重篤な呼吸障害をもたらす。肺機能の低下を補うために過剰に大きな呼吸を継続的に行う必要があり、恒常的な身体疲労を促す。
身体は病原因子の除去のために発熱や血管拡張、免疫の活性といった反応を示す。これらは一方で余剰エネルギーの消耗を促し、血圧低下や血行動態が変化して体組織への酸素供給を更に悪化させる。
病原因子やその駆除のために血管の内部が損傷し、そこを起点に血液凝固が発生して血流を悪化させ、臓器への酸素や栄養の供給を阻害する。
身体機能の低下に伴い免疫応答が乱れ、喉かぜとは無関係な病原体による二次感染が起きやすくなる。
低酸素症や多臓器不全、或いは敗血症の併発により肺機能と全身体機能が回復不能になり、最悪の場合に死に至る。
「霊夢が、なぁ。」
霧雨 魔理沙は一面記事から目を離すと、右手でマグカップを摘み上げて口元で深く傾けた。
ずずずと盛大に音を立てて紅茶を飲み干すと、霧雨 魔理沙は両手のひらを枕に、椅子に深くもたれかかった。前触れもなく「よし!」と声を張り上げ、勢いよく立ち上がり本を集めた。本棚から、床の上から、天井裏から床下から、果ては調理戸棚の裏の壁面に埋め込まれた隠し金庫の片隅まで覗き込んで、これだ!これだ!これにしようと次々につぶやいて本を揃えた。作業机に次々とぶ厚い本、薄い本が集まり、うず高く積み上がる。
霧雨 魔理沙は一通り本を選び終え、それ以上目ぼしいものが見つからなくなるとしょぼんとうつむき、一瞬の後にキリっと目付き鋭く笑い直した。今度はゴミ箱を漁って、くしゃくしゃに丸められた裏の白い紙を1枚掘り出して作業机に敷いた。軽くシワを伸ばしてからその隣で本の1冊をめくり始め、鉛筆を握った。
上から順にパラパラとめくり、前触れもなく止めて3、4ページ戻すとその1ヶ所を指差してからメモ紙に植物やら化学物質やらの名前を手早く書き写す。再び本をめくり直し、見つけた材料を紙に書き写し手を繰り返した。1冊目が終わるとすぐどこかに投げて、次の本を取ってパラパラめくり、また次の本へと繰り返した。
裏紙の上に次々と材料名が並べられる。それらをたまに読み返して、時折りいくつかを横線で塗りつぶす。紙には名前だけを書き連ねて、その効果、効能、作用機序といったものは特段調べているようには見えなかった。積み上がる本には古今東西の医学書、重厚な魔導書、民間療法に関する地方史書、一見医療とは無関係なおとぎ話が軒を連ねる。
最後の1冊の最後の1ページをめくり終えると、その本を再びパタパタ闇雲に開き、至るところに目を配らせるが、新しい材料を書き加えることもなく、ぱたりと閉じてダイニングテーブルに投げ上げた。
くしゃくしゃの裏紙を掴み上げる。窓からの光に掲げ、まじまじと見つめる。霧雨 魔理沙は笑っていたが、間もなくしょぼんとしてすぐにまた笑った。
「ま、こんなものか。当たりやすいとっからやってみよう。」
紙を畳んで立ち上がり、戸棚から無地のハンカチーフを1枚取り出して玄関先まで歩き、ハンガーポールに掛けられた帽子に投げ入れた。続けて帽子の中をガサゴソ搔きまわし、中にミニ八卦炉と玄関の合鍵、ガマ口財布が入っていることを確認すると、霧雨 魔理沙はそれを深くかぶって、マフラーを首に、クラシックブラウンのレザーバックを肩に掛けて、「ま、まずは人からタカるか!」とつぶやいて玄関扉を押し開けた。
しかし10cm程開けたところでその扉は動きを止め、膝下程の高さから玄関マットの中央へと大量の雪が家の中になだれ込んだ。
霧雨 魔理沙はそれ以上玄関扉を開けることを諦めて、窓から家を出て行った。
「邪魔するぜ~。おぉなんだ、生きてたのか。」
ノックもなく扉を開け、手首のスナップと慣性だけに任せてそれを閉める。
霧雨 魔理沙が屋内を見回す。ゆとりのあるダイニングキッチン、側面の壁にはブロックごとに若干の色ムラがあるベージュ色のレンガが飛び出るように積み上げられ、太く重厚な柱を築いている。その根元に角型の錬鉄ストーブが埋め込まれていて、その蓋を開けた2個人形がバケツリレー形式で炎に薪をくべている。
アリス マーガトロイド邸、内部は明るく暖かで整頓が行き届いている。
中央にみかん皿の置かれたテーブルの向こうにアリス マーガトロイドが座っている。不思議の国のアリス風衣装の人形が傍らに座り、それに見守られている。テーブルの隅に両肘を当て、目の高さに掲げた両手のひらを自分の顔に向けている。
手には既に後半まで見開かれた手帳サイズの小説が乗っていて、彼女はそれを読んでいた。
「邪魔するなら帰りなさいよ。」
「そう言うなって、邪魔しないから。」
見上げると霧雨 魔理沙の右斜め上に赤服の人形が浮いている。見下ろすような形で彼女のことをじっと見つめていた。霧雨 魔理沙は右の親指と中指で人形の眉間をデコピンすると、帽子を脱ぎながら誰の断りもなくアリス マーガトロイドの向かいに座り、みかんの皮をむいて一切れずつ口に運んだ。
「喉風邪が流行ってるらしいな。」
白とピンクのギンガムチェックのテーブルクロスに足を広げて座っていた人形が立ち上がり、どこかへ向かって飛んで行く。
1度に2、3切れの果実を次々に頬張り、霧雨 魔理沙はこもった声で話しかける。しかし彼女の眼前に構えるレザーカバーは微動だにせず、待てど暮らせど答えはなかった。
「何だよ、そっけないなぁ、客が来てるのにお茶ひとつ出してくれないのか?」
言うが早いか2個の人形が白いティーカップとソーサー、そして赤く、艶やかな琺瑯ポットを運んで霧雨 魔理沙の目の前で紅茶を注いだ。
「気が利くじゃんか、いただきますだぜ。」
一方の人形がアリスの傍に、緑服の人形がポッドを抱えたままどこかに戻って行く。
ハードブックの先で金色の髪が右脇を見下ろし、本を持つ手の片方が人形の頭を優しく撫でて、本の片側へ戻って行く。
「聞けよ、霊夢も引いちまったみたいなんだ、喉風邪。珍しいこともあるもんだよな。」
少しの間を置いて、ペラリと音が鳴った。
霧雨 魔理沙はカップの胴を持ち1口分ずずずと傾け、みかんの残りを一口に放り込んだ。
しばらくして帽子からハンカチーフを取り出しソーサーに広げ、口の中からみかんの種を2粒つまみ取ってそれに乗せた。
「ゴミならみかんの皮にでも包んでこれに入れて頂戴。」
緑服の人形がテーブルの隅にある柄のないバケツ型の箱を霧雨 魔理沙の傍に運んできた。
「いやぁ、違うんだよ。このタネ集めてんだ、喉風邪に効くんだよ。」
革表紙の上端から両目だけをスッとはみ出させて、アリス マーガトロイドは霧雨 魔理沙をじっと見つめた。力ない半ば閉じたような目立った。。
「どこ情報よ、それ。」
「一休噺。」
「昔話じゃない。」
「馬鹿にしちゃいけねぇぜ、紙に書いてあることは何であれ、信じてからじゃなきゃ非難することだってできねぇんだ、論理的にはな。」
アリス マーガトロイドは彼女に両目を見せたまま活字へと視線を落とし、1ページ前をちらりと戻し見てからまたページを進めた。
「信じる信じないの話か知らないけど、ソースが昔話って分かってんなら諦めなさいよ。」
「良いんだよ元ネタが昔話でも、効きゃいいんだよ効きゃあ。」
「効く訳ないじゃない、ただの民間療法でしょ。」
再び紅茶を傾ける霧雨 魔理沙にアリス マーガトロイドが両肩をすぼめ、若干首を傾げながら言った。
卓上の白いコルク瓶を取り大口の蓋を開け、霧雨 魔理沙は軽く笑ってカップに砂糖を落とした。
「別に1個くらい良いんだよ効かなくても、他にいくらでも当てはある。」
「へぇ、他にはどんなおとぎ話を当てにしているのかしら。」
アリス マーガトロイドは閉じきらない程度に本を畳み、その顔をあご先まですべて見せて、笑いかけながら霧雨 魔理沙に言った。
「どれどれ、ちょっと待てよ、今教えてやるからなぁ。」
両手に包んだカップをソーサーの脇に置いて、霧雨 魔理沙は帽子の中から4つ折りにされたくしゃくしゃの紙を取り出し、彼女の目の前で広げた。
「幻想郷雪まつり?中止になったんじゃなかったっけ?」
霧雨 魔理沙はそれを聞いて紙からひょっこりと顔を出してアリス マーガトロイドを見つめるが、メモ紙の裏へ目を向けると2度3度うなずいてひょっこりと顔を戻した。
「あぁ、これは古い奴だ、気にするな。どれどれ、まずはみかん種だろ。それから漢方だな、麦門冬、玄米、桔梗の根に冬虫夏草。そっからイトスギ、スミレ根、クローブ、ショウブ根、オリーブ種と最低300輪のバラの花。」
「さ、さんびゃくりん?」
アリス マーガトロイドは小説を胸元まで降ろして、中止となった、来る雪まつりのお知らせチラシを見つめた。我が目を疑ったような目をしている。
「赤色酸化汞に白色塩酸に不敵な求婚者。」
「求婚者?」
アリス マーガトロイドがだいぶ苦い声で反復する。
「それからコショウやシナモンみたいなスパイス類、ドクゼリと冶喝、で万能薬だな、水銀とマンドレイク。喉風邪の血清、あとはフェノールかベンゼンどっちかがあったら嬉しいなぁ。」
アリス マーガトロイドはハードカバーを静かに閉じ、優しく手を添えて卓上に寝かせた。左こめかみに滲み出した脂汗がゆっくりと垂れて頬骨上に留まった。霧雨 魔理沙を見つめている。
「なんか、疑似科学と民間伝承とカルト宗教のごった煮みたいな薬作るのね。」
裏紙を1度、2度半分に折りながら上目で笑った。紙を一切目ることなく、霧雨 魔理沙はアリス マーガトロイドだけをまっすぐ見つめていた。
「もちろん、ごちゃ混ぜにする訳じゃないさ、効く薬を何個か作って、1つ1つ試すんだよ。なぁアリス、何個か持ってないか?どこも雪ばっかで草も花も生えてないんだよ。」
「えぇぇ。」
アリス マーガトロイドは手を伸ばし裏紙を受け取り開く。眉をひそめてそれを見つめながら首を傾げる。
「薬の原料なんだから薬屋にでも行ったら?漢方くらい揃うと思うわよ。あと、喉風邪の血清って何よ。」
「それもそうだな、後でうどんげでも探してみっか。」
霧雨 魔理沙は新しいみかんを剥き、何個かカバンに入れながら言った。
「いっそのこと薬屋から効く薬買った方が手っ取り早いんじゃない?」
「ばかやろう。買ったら何にもなんねぇよ。私が自分で作るから意味があるんだ!」
アリス マーガトロイドをまっすぐに見つめ、霧雨 魔理沙は強い語感で言ってみかんを頬張った。怒鳴ったという訳ではなく、言葉の語尾にだけ力が入ったようだった。
アリス マーガトロイドの首の傾きはいっそう大きくなり、目はいっそう細まった。
「...まぁ、勝手になさい。わたし薬なんか作らないから、今はブラックペッパーとシナモンしか無いわよ。あと体温計の水銀くらいかしらね。」
「あるじゃないか!そういうので良いんだよそういうので。全部貸してくれよ。10倍、いや100倍にして返すからさ!」
霧雨 魔理沙はテーブルから前のめりになって彼女に顔を近づけ、力強く目をつぶって両手のひらを合わせて頭を下げた。
「ブラックペッパーとシナモンと体温計を100倍にして返されても困るんだけど。」
残りの紅茶を一息に喉に流し込んで立ち上がり、台所や戸棚から目当ての材料を取りそろえるとバックに、みかん種の入ったハンカチーフを風呂敷状に包んで追ってバックに放り入れ、帽子を勢いよく被るとアリス マーガトロイドへ「じゃあな!」と告げて彼女の家を後にしようとした。しかし玄関扉を勢いよく開けたところで立ち止まり、霧雨 魔理沙はふと振り返って問いかけた。
「そういやアリス、何読んでんの?」
「チャールズ・ディケンズ。」
「おとぎ話じゃねぇか。」
「ええ、都会派のね。」
空切り風切り枝を切り、迫り来る樹木を次々に避け、瞬く速さで森の合間を飛び抜ける。
大きな三角帽の大きなつばを右手で押さえ、めくり上げたフェルト生地から上目に視野を確保して、凍て付く息を時折り吐き出し、霧雨 魔理沙は笑っていた。
森の中央から人里に向かって飛んでいる。雪は積もっているが木の葉や雑草が減り、秋までの蒸すような雰囲気も無くなって、その辺をうろつく野生動物や妖精の姿もまばらなため彼女にとっては比較的飛行しやすい環境だった。
ドンッ
「痛って!!」
突然彼女の左側頭部に衝撃が走り、咄嗟に箒を急停止した。攻撃を受けた方向を気にせずまず自分の患部を見た。側頭部から離した手を見るとそれは真っ白く冷たい雪でぐっしょり濡れていた。笑顔だった顔を怒りに変え、相手を見るよりも先に帽子に手を突っ込み、他に何を言うよりも先に敵方へミニ八卦炉を付き向けて詠唱した。
「恋符「マスタースパーク」!!!」
7色のビームが炸裂した。轟音と衝撃波が響き渡り、響き終わると、向こうには何も残っていなかった。相手はおらず何本かの木が立っているだけで、雪も溶けて土が見えていた。
凍った息をゆっくりと2回吐き出すと、霧雨 魔理沙はミニ八卦炉を帽子に戻して箒を握り直した。
「ま、よくあるこったな。一件落着なのぜ。さぁ、行こ。」
今まで枝よりも低い低空を飛行していた霧雨 魔理沙はその柄の先をぐいんと上空へと振り上げて、トンガリ帽子で絡み合う枝々をかき分けて、木々の上へと飛び上がった。
森のはるか上空から人里へ向かう、今も帽子を押さえながらささやかな風を一身に浴びる。
肩から下げたバックの留め金が外れて被せ蓋が風にはためく。大瓶のコショウ粒、シナモンパウダー、革ケースに収められた水銀体温計とハンカチーフがカバンの中で揺れている。そのことに気付いて霧雨 魔理沙は留め金を掛けた。
彼女の眼下には上に雪を乗せた灰色の木ばかりが広がっていた。
とても静かだった。
そのうち地上に命蓮寺が見えた。門前で幽谷 響子とミスティア・ローレライが雪合戦をしている。はたから見れば殺しあっているようにしか見えない程の凄まじい勢いで2匹とも大量の雪を殴り付けあっていたが、しかし両者とも笑っていた。
「元気だな、動物は。」
もう少し飛ぶと雪原の中心で秋姉妹が除雪を一ヶ所で山盛りに溜めて、その側面から穴を掘っていた。
暫く飛ぶと人里が見えてきた。霧雨 魔理沙は里の上空を旋回し続け、道行く人々を見下ろした。どの道も雪は薄く、家々や店舗の脇に除けられた雪が溜まっている。路上の人並みは夏季に比べれば明らかに少ない。しかしマスクを付けて手をつなぐ親子連れや、万屋の店先に座りキセルをくゆらせながら世間を見渡す老人、千鳥足の中年男性の姿を見るに、誰しもが季節なんかに左右されない、普段通りの日常を敢行しようと試みていることが感じられた。
歩行と首の挙動が連動していない明らかな人外もいるように、その所々には人間ではない妖怪や雑多な妖精も混ざっていた。その中に1羽、紫の綿入れに紺の首巻をまとってつづらを背負った、三度笠を深くかぶった少女が見えた。
「ビンゴ!こんな所でクスリ売ってると思ったぜ。」
つぶやくと霧雨 魔理沙は紫色の行者めがけて一直線に急降下した。
「うーどんげ~!!!!」
行者の背後すんでの所で着地して、自由落下時の加速に任せて霧雨 魔理沙はつづらごと後ろから飛び掛かるように抱き着いた。
「ぅわ!ひゃああ!!」ドスン
勢い余って2名とも路上にすっ転んだ。激突の衝撃で行者の傘がはじけ飛んでその下に収め込まれた長髪と兎耳が圧雪の路上に解放された。「いてて。」と起き上がりざま振り返って、行者は右前頭部を抱えながら自分を押し倒した犯人を狂気の瞳で睨みつけた。
「魔理沙さん、ひどいじゃ、ああ!帽子!!」
睨むのは2秒ももたなかった。叫ぶと鈴仙 優曇華院 イナバは慌てて路上に転がった三度笠を見つけ出し、両手で掴んですかさず自身の脳天に押し付けた。
「一体何するんですか!全く!」
まぶたを力ませて、勢いよく、しかし声を押し殺して言う。
霧雨 魔理沙は足を折り畳んであぐらをかき、首を左右に揺さぶりながら上目でにやりと笑って見せた。
「すまんすまん、ちょっとイチャイチャしたかっただけなんだが、スベッてな。てかお前、口覆いと耳の位置関係おかしいだろ。」
鈴仙 優曇華院 イナバはあご下から鼻先にかけてを複層コットン製の布マスクで覆い、その留め紐を本来人類の耳がある方向へと伸ばしていた。
「後ろで縛ってるだけですよ。そんなことより、何か用事ですか?」
なんてことはない、お団子結びが解けた長髪に隠されているが、留め紐は後頭部でリボン結びにされているだけだった。
「喉風邪、流行ってるらしいじゃん。薬作ってんだよ。治すやつ。材料分けてくんない?」
鈴仙 優曇華院 イナバは2回瞬きをして眉をひそめた。
「残念ですが、今流行している感染症のことでしたら、増殖を抑制したり不活化させたりするような、ウィルスに直接影響を与える抗菌剤は存在しませんよ。消炎鎮痛剤や解熱剤で症状を軽減させ、あとはこまめな水分補給や栄養価の高い食事で体力の損耗を減らし、自己免疫で回復するのを待つしか適切な治療法はありません。消炎鎮痛剤と解熱剤ならお売りできますが。」
「いや、そんなもんいらないんだ、私は私の選んだ材料で私だけの喉風邪の特効薬を作るんだ。何も気にしないでこれに書いてある材料を分けてくれれば私は満足なんだぜ。」
霧雨 魔理沙は帽子の中からだらりと紙切れを取り出して振り払うように4ッ折りを開き、鈴仙 優曇華院 イナバへ差し伸ばした。
彼女はそれを両手に受け取り、眉間に皺を寄せながら目を通し、大げさに首を傾げた。
「冬虫夏草はありませんけど、他の漢方の類はいくつか持っていますよ、それから~。何ですかこの喉風邪の血清って。」
「お、お目が高いじゃないか。血清療法だよ血清療法。蛇の毒も天然痘も血清で治るだろ?喉風邪の患者から血清もらいたって思ってんだけどさ、誰かさ?もらいやすそうな感染者知らない?」
「またおかしなことを。」
鈴仙 優曇華院 イナバはだらりとした声量で言うと紙を霧雨 魔理沙に返し、つづらを開けて紙袋を取って漢方を詰め始めた。
「魔理沙さんと仲が良さそうな患者さんなら、霊夢さんなんかかかっていたはずですよ。」
「霊夢か、霊夢はだめだ。他の奴を教えろ。」
鈴仙 優曇華院 イナバは横目に彼女を見つめ、つぶやくように言った。
「霊夢さんだと何か都合が悪いんですか?」
「薬ができるまで絶対に会わないって決めてるんだよあんな奴。」
つづらに視線を落として薬を詰め続ける。
「喧嘩でもしてるんですか?」
「ただの気まぐれだよ。気にすんな。そんなことより、他に風邪ひいた奴教えてくれよ。1本やるからさぁ。」
霧雨 魔理沙は話しながら、懐から紙と葉を取り出して手早く丸め舌早く舐めて作った紙巻きタバコを彼女に差し出した。しかし鈴仙 優曇華院 イナバは首を振った。
「いりませんよ、喉痛めた患者を後目にたばこなんてふかせません。まあ、他に魔理沙さんと知り合いの人と言えば、守矢神社の早苗さんも罹患していますよ。」
「早苗!早苗だと!?」
霧雨 魔理沙は勢いよく4ツ足で鈴仙 優曇華院 イナバへ顔を寄せ、キラキラと目を輝かせて叫んだ。
「早苗、早苗と言えば現人神、現人神の血清か、現人神の血清じゃないか。効く。それは効くぞ、絶対効く。」
「効く訳ないじゃないですか。はい、一応解熱剤と消炎鎮痛剤も入れておきましたよ。」
霧雨 魔理沙は鈴仙 優曇華院 イナバからパルプ紙で作った紙袋を受け取って、断りなくもう1袋、空の紙袋を持ち去り、ギラギラした眼で「効くぞ、絶対効く、絶対に手に入れてやるぞ。」等とつぶやいて彼女の前を立ち去って行った。
鈴仙 優曇華院 イナバは傘を首に結び直して立ち上がり、つづらを背負い直すと、首を傾げながらその後ろ姿を見届けていた。
霧雨 魔理沙は少し歩き、最寄りの米問屋の店先に入って店頭の量り売りの米桶から玄米を3合枡で山盛りに取り、枡ごと紙袋に入れて折り畳み漢方の紙袋と共にバックに入れると、駆け出してきた店番に追いつかれる前に箒にまたがり瞬く間に飛び去って行った。
途方に暮れた店番の横まで歩み寄り、彼女と共に霧雨 魔理沙と箒の後ろ姿を見つめていた鈴仙 優曇華院 イナバはハッと我に返って咄嗟に叫んだ。
「魔理沙さんお代!」
「早苗、早苗~、起きろ~、おーい。」
「ん~。ゴホッ、ゴホッ、あ、魔理沙さん。いらっしゃい。」
深い眠りから目を覚ますと枕元には霧雨 魔理沙がいた。彼女は両手のひらを畳みに乗せて、覗き込むように彼女の顔を覗き込んでいた。東風谷 早苗は霧雨 魔理沙を見上げると数度せき込み、目を笑わせて挨拶した。口元はマスクに覆われて分からなかったが、その端から覗き込まれる赤い頬は厚く肉を寄らせていた。
「なぁ早苗、お前の血、私に分けてくれよ。」
東風谷 早苗は横たわったまま首を傾げた。
「東風谷家の血って、そんな良いものなんですか?」
「お前の血統には興味ないんだよ。血が欲しいんだよ。今お前の体内を流れ続けている血液を。」
「ハァ、ハァ。。。ジョブチェンジしたんですか?吸血鬼に。ゴホッゴホッ。」
東風谷 早苗は両目を閉じて握り拳をマスクに当てて咳き込んだ。
「飲まねぇよ薬に使うんだ。今流行ってるだろ?喉風邪。治療薬の開発に喉風邪に感染したお前の血清が必要なんだ。」
「ゴホッゴホッ。ゴホゴホッゴホッ。ゴホッ。」
東風谷 早苗は立て続けに咳き込んだ。落ち着くと彼女は片目だけを開けて、呼吸を整えながら笑いかけた。
「ハァ、ハァ。こんな状態の私でも、人の役に立てるんですね。」
「お前なんかおかしいんじゃないの?安静にして早く元気になれよ。」
霧雨 魔理沙はあぐらをかいて頬杖を突きながら彼女のことを見降ろした。
「すみません。」
「謝るんじゃねぇ、感謝しやがれ。」
霧雨 魔理沙はバックから小箱を取り出し、そこから針の付いたガラス注射器と細い麻ひもを取り出した。
「さなえ~、おかゆで、おい魔理沙いま早苗に何注射した。」
ゆったりしたささやき声が一瞬のうちに威嚇に変わった。霧雨 魔理沙の向かいにある襖が開き、小鍋と水の満たされたガラスコップの乗る盆を持った八坂 神奈子が彼女のことを見降ろすような角度から睨みつけてきた。
「勘違いするな、したんじゃない、これから注射するんだよ。言ってやれ早苗、私なんも悪くないって。」
八坂 神奈子は鼻で呼吸を試みながら室内へ歩み入ろうとした。
「あ!魔理沙!早苗にちょっかいかけるな!カゼひいてるんだから!」
しかし洩矢 諏訪子の方が早かった。廊下の向こうからトタトタと足音が駆けてきて彼女が横滑りに飛び出して、霧雨 魔理沙へ指を差し怒鳴りつけた東風谷 早苗のそばまで駆け寄った。
東風谷 早苗が布団から起き上がり、2柱を見上げながら笑って言った。
「神奈子さま、諏訪子さま、魔理沙さんは、正しいですよ。魔理沙さん、採血しようとしてた、だけなんですよ。」
「採血って、医者でもない魔理沙が早苗から血を抜いて何する気なのよ。」
間髪を入れず八坂 神奈子が言った。霧雨 魔理沙は鬼のような形相で東風谷 早苗に顔を近づけ、2柱に指を指しながら命令した。
「ほら、言ってやれ!」
「魔理沙さん、私の血で、お薬を作ろうと、してるんですよ。」
「ダメに決まってるでしょそんなこと!」
洩矢 諏訪子は更に鬼の形相だった。霧雨 魔理沙からは一切目を離さず声の限りに怒鳴り、東風谷 早苗の両肩に腕を回して抱き寄せた。
「いいじゃねぇかちょっとくらい。現人神の血清だぜ?効かねぇはずがねぇだろ。」
「眉唾すぎる、そんなことのために弱ってる早苗を更に弱らせるようなことさせられない。」
洩矢 諏訪子を追うように八坂 神奈子が室内に入り盆をちゃぶ台に置き、布団の脇に置かれた火鉢の木炭を火箸で1度2度動かした。見上げるような角度からは分からなかったが、盆の上には水と青菜入り卵がゆの他に、箸置きに置かれた1さじのレンゲと、五角形に畳まれた薄く小さな紙が置かれていた。
「いいんです神奈子さま、諏訪子さま、ゴホッゴホッ。せっかく魔理沙さんが頼ってくれたんです。めったにないことです。ゴッんん、断る訳にはいきませゴホッゴホッ。」
東風谷 早苗は深くうつむきながら咳き込んだ。洩矢 諏訪子は霧雨 魔理沙から彼女へ視線を移して彼女の背をさすり、八坂 神奈子も彼女に駆け寄った。霧雨 魔理沙に向けていたものとは全く違う視線だった。
霧雨 魔理沙は勢いよく彼女の肩を2回叩き、2柱を見回しながら言った。
「話が分かるじゃねぇか。早苗がこう言ってるんだ、採らせてくれよ。良いだろ?」
洩矢 諏訪子は霧雨 魔理沙の胸元を左で握り凄まじく強く締めた右握り拳を自身の背後で大降りに掲げ、間髪入れずに振りかぶろうとした。しかし八坂 神奈子がその両手を押さえ付けた。両者は睨み合い、見つめ合い、洩矢 諏訪子は腕を振り下げてうつむき、東風谷 早苗を見つめて彼女の肩を掴み語り掛けた。優しい声だった。
「さなえ、そんな無理することないんだよ。」
「そうだよ、しかも相手は信者でも何でもない、魔理沙なんだから。」
東風谷 早苗はそれに答えず、口をつぐんで首を振っていた。その後も洩矢 諏訪子も八坂 神奈子も彼女への説得を試みたが、彼女はいつまでも首を振り続け、目に涙をにじませて、首を振り続けた。
深々と下げた2回目の頭を上げて小銭袋から数枚の硬貨を選び取り、箱の格子蓋の隙間へとつまみ入れ、頭上から垂れた釣り紐を左右に揺らす。じゃらじゃらと大玉の鈴が響き、手を2度打ち鳴らし、しばしの黙祷の後、再び深く一礼する。
そのうちに目の前の格子戸が右だけ開き、誰かが出てくる。目を開けて彼女を見ると、意外にもそれは巫女でも神でもなく、魔女だった。
「どうした、にとりじゃないか。残念だけど今日は参拝も採血もできねぇぜ、早苗が危篤なんだ。」
頭を上げながら眉をひそめて、河城 にとりは霧雨 魔理沙に問いかけた。
「どうしたはこっちだよ魔理沙。神奈子様辺りが出てくると思ったら魔法使いが出て来るなんて。誰が想像できたろうか。」
「ちょっとした野暮用だよ。気にすんな。お前こそ何しに来たんだよ。賽銭に投げるくらいなら失敗が分かってる実験に金掛けるような種族のくせに。」
霧雨 魔理沙が巨大な帽子で両手を隠しながら河城 にとりに歩み寄って面と向かう。
「偏見が過ぎるよ魔理沙。河童にだって信仰心くらいあるさ。必ずしも科学は宗教に反する訳じゃない。信仰を持って馬鹿正直に神話を読み込むからこそ、その中から検証しなければならない疑問、答えを創り出さなければならない矛盾だって見つけられる訳だ。それに宗教側にしたって自分たちの信仰とそれに反する現実をどうにか擦り合わせようと躍起になってる。科学の誕生と発展の根底には宗教があって、宗教もまた科学が導き出してきた答えのうち、自分達に都合が良いものに限って際限なく愛し続けてきた。科学が宗教に反する訳じゃない。科学に自分たちの結論を絶対に譲らない融通の利かなさがあって、宗教に相手が科学か否かに関わらず、都合が良い結論だけ賛美して、都合が悪い結論だけに文句を言って毛嫌いする身勝手さがあるんだって、ただそれだけなんだ。」
「いや何の用で神社に来たのか聞いてるだけなんだよ。」
「そう言うとこやぞ。言ったろ魔理沙、河童にだって信仰心はある。新開発のメカを、しかもそれが人の生き死にに関わるような重大な発明品で、これから人里に納品して試験運用しなければならないとなったら、神頼みくらいしたくもなるさ。」
「新しくなんか作ったのか。面白そうだ、見せてくれよ。」
両者は共に境内を離れ、鳥居の真下、石段の頂上まで歩いた。
「いいよ、デカい機械だから下に置いているんだ。」
石段を降りきってすぐの所に4輪の台車が1台置いてあり、その上に綺麗に収まるような構造物がござの中に覆われて麻のロープで固定されていた。
「だいぶでかいじゃないか。お前たちにしてもこういうの作るのには結構な金が掛かっただろう。」
石段を降りて台車へと近づく。降りると河城 にとりはロープの結び目を開いてござを掴んだ。
「出資してくれる相手がいてね、彼女の要望なんだ。相当の金を積んでくれたし、今はやることのない仲間も結構いるから、依頼からものの1週間程度で出来上がったよ。量産の準備もできている。じゃあ、見てくれ。」
「なんだこれ。」
4輪の車輪に乗った骨組み造りの機械があった。上部に上下稼働の革製蛇腹があり、スチールのクランクシャフトがその下についている。シャフト部分は径の異なる3枚のローラーに繋がりローラーの1つにベルトが張られている。ベルトはその更に下にあるローラーへと伸びていて、それは上ローラーと同じく径の違う3枚が並んでいる。下ローラーは1本の軸を通して、ブリキの箱へと接続されていた。革製蛇腹の上には革のホースが飛び出して、首掛けベルトの付いたじょうご型の構造物が、革ホースの先端に繋がっていた。
「人工呼吸器さ。そこの蛇腹を上下させて外気を取り込み、マスクから患者に送り込む。」
「この管に繋がったへんなののことか。依頼人は医者だな?」
河城 にとりは心なしか冷たく笑って首を振った。
「永琳にも話は付けてるんだろうけど違うよ。うちの出資者はまあ、ただの金持ちみたいなもんだろうね。もちろん人間じゃないが。」
「良いよなぁパトロンがいるって。金も仕事も生活保障も、ぜんぶ養ってくれるんだからよ。私もパトロンが欲しいぜ。」
「ああ、恵まれてる限りだよ。」
1人と1匹は台車の上に乗り機械の細部を覗き込む、車輪のある台座部分は機械を横並びに2台取り付けられる構造になっており、呼吸器は片側に1台のみ据え付いていた。
「回転軸のアームと押し込み棒との接続長を段階ごとに切り替えて蛇腹の伸縮長を切り替える。回転軸の回転速度はベルトに掛かるこの大きさの違う滑車を切り替えて調節する。蛇腹の調節はアームについてるネジを外してネジ穴の位置を変えて締め直す。ベルトはこのレバーを押してテンションローラーを緩めれば張り直せる。動力は下の滑車に繋がっているこのブリキ箱の中だ。この上のスイッチと蛇腹の下に繋がっているレバーを切り替えれば機械は動き出す。この中には箱の幅いっぱいに調節した板バネがロール状にまとめられてぎっしり詰められているんだ。」
機械の所々を指差しながら河城 にとりは揚々とそれについて説明した。
「なんだ、何で動いてるかと思いきやゼンマイかよ、せこいなぁ。」
河城 にとりはむっとして霧雨 魔理沙に向き合い、深くしゃがみ込んで再びブリキのゼンマイ箱を見つめながら話し続けた。
「これが1番マシだったんだよ。呼吸器以外のコストも考えるとね。出資者は最初電動にしたかったようだけど、そのためには呼吸器と一緒に発電機も作る必要があった。うちの里からあの竹林まで電線を引くなんて馬鹿なこと勿論できないし。あの竹林にはちょろちょろと流れる小川みたいなのしか通ってない、水車での発電に耐えうる大規模な水源はあの辺りには存在しないし、ボイラー蒸気で発電するにしても炭素燃料の粉塵や燃焼後の灰は気管支炎の患者にはご法度中のご法度だ。永遠亭からある程度離して建てるにしても、何台かの人工呼吸器のためだけに少なくない金と継続的な燃料供給を掛けてまで発電所を建設するのは現実的じゃない。何よりも非鉄金属は他でもない希少品だ。比較的手に入りやすい銅にしてもね。私たちとしても、量産品のためにとてつもない量の銅を浪費したくはなかったんだ。」
「ま、言い訳はいくらでもある訳だな。」
ぎょっと肩を跳ね上げ、霧雨 魔理沙を見上げて、依頼人について聞かれた時よりも一層露骨に冷たく笑った。
「否定はしないさ。」
ゼンマイ箱へ視線を落とし、その上に人差し指を置いて話し続けた。
「見ての通り相当デカいゼンマイだ。薄い軟鉄箔だから量産にも耐えうる。ゼンマイ箱以外にも機械全体をかなり単純に設計したから、原料さえ揃えば1日か遅くても2日目で1台作れるはずだ。ゼンマイは最大まで巻けば1番強い負荷で動かしても5分は稼働し続けるように作っている。停止する2分前に自動的に中のベルが30秒間鳴り続ける。ゼンマイが止まったらすぐ箱を取り外して予備のゼンマイ箱と取り換えれば継続的に人工呼吸ができる。ゼンマイは河童が全力で回しても5分は要するくらい巻かなきゃならないが、暇な野良妖怪の2、3匹でも2束3文かタダ飯で雇えば対応可能だ。電動でやったら電力不安定やモーターの不具合で機械そのものがいつ止まったって今の技術力じゃおかしくないし、永遠亭に四六時中1皿貼り付いていられる程河童も暇な訳じゃない。出来ない訳じゃないが、多角的に見てゼンマイが一番簡単で安心だったんだ。出資者は不満そうだったけどね。」
しばし談笑して河城 にとりは機械を包み直し下山していった。霧雨 魔理沙はただまじまじとその後ろ姿を見えなくなるまで見届けた。後頭部に組んだ手の片方を目の前に移し、コルク栓の根元を蝋で固めた試験管の中を覗き込んだ。中の血液は既に凝固が始まり出し、その上積みにうっすらと黄色い血清が溜まっていた。
彼女は境内へ戻り格子戸をあける。すぐそこの床板の上にショルダーバックが行儀よく鎮座していた。霧雨 魔理沙はその蓋と本体の隙間に試験管を滑り込ませると。肩掛け帯を掴み持ち上げて格子戸を閉めとした。声が聞こえた。
「本当に、すみません。心配、掛けちゃて。」
東風谷 早苗の声だった。か細く、傍で聞いていた時よりもかすれて聞こえた。
「良いんだよ早苗、あんたは今体を壊しているんだから。」
「本来なら、感染症に苦しむ人々を私が心配して、ゴホッゴホッ。わ、私が助けなくちゃ、いけないのに。グスンッ。私が、神奈子さまや諏訪子さまに心配されて、え゛、助けられるなんて。」
「当たり前じゃん。だってあたしたち家族だもん。」
肩掛け帯を掴んだまま、霧雨 魔理沙は建物の奥を見つめて固まっていた。
「不思議に、思うんです。ゴホゴホゴホッ。なんでみんな、私のこと大切にしてくれるんだろうって。私なんか、私なんか人から愛されるような、資格ないのにゴホッゴホッ」
しばらく咳をする声だけが続いた。八坂 神奈子も洩矢 諏訪子も、咳声の続く間、何も言うことはなかった。
「あ~あ、熱で参って、完全におかしくなってやがる。」
霧雨 魔理沙はショルダーバックを抱え上げ格子戸を閉めると、財布から小銭を1枚取って賽銭箱に投げ、静かに手を合わせると、箒にまたがり帽子を押さえて飛び去った。
山を抜け、湖の上空まで差し掛かった。
あどけない笑い声が聞こえてくる。何か話しているのかもしれない。湖の水面が凍りきっていてチルノや雑多な妖精達が湖面を滑ったり湖畔で雪だるまを作ったりして遊んでいる。冬でなくともできるだろうに、弾幕を撃ち合う妖精たちの姿も見受けられた。
氷面に両膝を突いた今泉 影狼が1抱えの大岩を頭上まで高く掲げて足元へ殴りつけ、再び持ち上げては足元に殴りつけてをいつまでも繰り返していた。
「何やってんだあいつは。」
紅魔館の門前で紅 美鈴が黒い格子門の脇で赤レンガ造りの支柱に背を預け、よだれとはなぷく提灯を垂らしながらすやすやと眠っている。彼女は帽子の上に山盛りの雪を乗せている。四角いレンガ柱には雪が吹き溜まって小高い雪山が築かれており、彼女はその中に胸の高さまで埋まったまま安らかに眠っていた。
「ご冥福をお祈りするぜ。」
門の上空を通り抜け、紅魔館を一旦素通りして、裏庭の片隅に着地した。除雪はされておらず、見渡す限りになだらかな白銀世界が広がっている。ずぽっと深くショートブーツを呑み込んだ積雪はすねの中腹まで至り、ソックスの届かない素肌を冷たく冷やした。
「ひや~、このままじゃ足がびしょびしょになっちゃうぜ。」
霧雨 魔理沙は足元の雪を左右に寄せて地面を露出させる。するとそこからまだ青みの残る葉が顔を出した。
「多分これだな、よし、やってみよう。」
霧雨 魔理沙は帽子からミニ八卦炉を取り出して地面へ突き付けて植物の葉へと白く細いビームを1発撃ち込んだ。泥砂が飛び散り、粉雪が舞い上がった。地面には直径数十cmのクレーターができて、その底には葉の上で2つの星をくるくると回したマンドラゴラが目もくるくる回して横たわっていた。
「へへへ、ビンゴ。しまった。包むものがないや、どうしよう。」
中腰にかがみ獲物を見つめて気が付いた霧雨 魔理沙は衣服の胸元からスカートまで両手で撫でながら周囲を見回し、バックの中を見つめて側頭部を掻き、その手を首元に移しながら再び周囲を見回した、そしてきょとんと眼を丸めて両手を首元のマフラーに当てた。
「仕方ない、マフラーで良いや。」
霧雨 魔理沙は白い息を吐きながらマフラーをほどき、気絶したマンドラゴラの顔を2、3度はたくと、それをマフラーでぐるりぐるりときつく縛ってカバンに入れた。
「よしよし、あとはあん中だな。おっとそれから、」
霧雨魔理沙が箒にまたがり雪原上空を飛ぶ、しかし上昇せずつま先がわずかに雪に接しない程度の低空を維持してカタパルトの滑走のように加速し続ける。霧雨 魔理沙に切り裂かれ、雪面に叩き付けられた空気が一直線を切り開くように粉雪を深くえぐって巻き上げる。
充分な加速を得たところで大きくU字に旋回する。ミステリーサークルあるいは地上絵のように広大な紅魔館裏庭に「し」の大文字が書き込まれる。
霧雨 魔理沙が紅魔館外塀に接近する、いくつものイトスギが塀に沿うように等間隔に並んでいる。霧雨魔理沙は一方の手で箒を掴みながらもう一方の手を伸ばし、次々と通り越していくイトスギの枝から細い物を一本掴んで勢い任せにちぎり取った。
「よっしゃ!」
左右によろめきながら霧雨 魔理沙はイトスギから離れ、箒の先端を上に向けて急上昇した。天上へとまっすぐ垂直に飛び上がり、瞬く間に加速する。顔面に刺さる激しい風圧を帽子で防ぎ、それが吹き飛ばされないように枝を掴んだ右手で覆う。
霧雨 魔理沙は右に体重移動して紅魔館へ足が向くように左右感覚をねじり曲げた。
飛行高度が紅魔館最上階に達したところで霧雨 魔理沙は頭上側へ大きく宙返りして、紅魔館側面を一直線に方向転換した。紅魔館の目ぼしい窓に当たりを付け、その一点めがけて一直線に突進し、緩めることなく加速し続け、激突ざま箒から飛び降り足を突き出して、窓ガラスを蹴破って紅魔館内部に侵入した。全面レッドカーペットの床の上に黒い窓枠材と板ガラスの破片が散乱する。炭も灰も一切ない火の灯っていない暖炉、片付けられ、化粧道具の影が一切ない化粧戸棚と曇りのない姿見、豪華だが決して絢爛とは言えないふかふかのベッド、恐らくそこは紅魔館に数ある客間の一室だった。
「息が凍る、屋内にしては寒いな。風通しが良すぎるぜ。」
霧雨 魔理沙は箒を肩に担いで部屋を後にした。
扉を開けて背後に閉めた直後、霧雨 魔理沙は背後から何者かに足を払われバランスを崩し、戸板に後頭部をぶつけながら後ろのめりに転倒した。
「いてて、はッ!」
後頭部を撫でながら反射的に閉じた目を開くと既に彼女の喉元には銀のダガーが突き付けられていた。霧雨 魔理沙は息を堪える。
十六夜 咲夜は首の根のあたりにナイフを構え、半身を起き上がらせるような体勢の霧雨 魔理沙に対しぴったりと体を組み合わせるように、四つ足立ちでかがむ形で鼻と鼻とが合わさるような距離で彼女に顔を近づけていた。不服そうだがどこか無機質な、しかし頬の赤らんだ表情で霧雨 魔理沙を睨んでいる。ふいに口を開いて言い出した。
「ハァ、」
言葉ではなかった。元々高音なのに更に語尾が上がるような、音階の高い、音か息のどちらかだった。霧雨 魔理沙は首を傾げる。
「はぁ?」
「ハァ、ハァ!」
十六夜 咲夜は更に裏返った高音を2度、3度と繰り返し、開いた口を更に大きく、両目をあくびのように力んで細めた。霧雨 魔理沙は目を驚愕に丸めて叫んだ。
「おい咲夜ちょっと待!」
「ハァックション!!!!!」
ひとまず立ち上がり、2人は壁に体重を預けひと息つきながらハンカチーフを取り出した。十六夜 咲夜は眠そうな細目のままハンカチーフを取り出し鼻の周りを拭き、目の形を><にしてチーンと咬んだ。霧雨 魔理沙は終始細目のまま、中身を包んだままのハンカチーフで顔中を拭った。
「ごめんなさいね、今日ちょっと気だるくて。」
「気だるくてくしゃみが出るかよ。」
一通り顔周りを拭き終えた霧雨 魔理沙は、ずぶ濡れの犬のように首を振りながら言った。
「手っ取り早くつまみ出そうと思って蹴り倒したけど、蹴り倒すのに夢中で時間止めてくしゃみするほど頭が回らなかったわ。」
「言ってること戦闘狂だな、時間止めてくしゃみするのが当たり前だと思い込んでる。」
使用済みのハンカチーフを半分に畳みながら、十六夜 咲夜は首をひねって霧雨 魔理沙へ向いた。
「そういえば魔理沙、霊夢があなたのことを探していたわよ。」
「霊夢?あいつ風邪っぴきだろ。」
霧雨 魔理沙は小首を傾げた。
「風邪ひいたまま来てたわよ、紅白巫女というより紅紅巫女だったわ。」
「いや何で霊夢が風邪っぴきで私探してんだよ。」
十六夜 咲夜は肩と首をクイクイとひねらせ、右手で首裏を揉みながら霧雨 魔理沙に向き直った。
「知らないわよ、感覚でしか動かない巫女の心理なんか。さぁ、手っ取り早く捕まえたんだから、手っ取り早く帰りなさい。」
霧雨 魔理沙は壁に肘を突いた右手で側頭部と全体重を支えると、十六夜 咲夜ににやりと笑みを見せた。
「ヤだね、材料集めに来たんだ、材料集めるまで帰らねぇぞ。」
十六夜 咲夜は右肘を抱えて右の頬を手で覆い眉毛を垂れ下げた。
「うーん。今日はあんたとドンパチするのもおっくうなのに。」
「どうせ私が忍び込むのなんかいつものことだろ。いつも通り取り逃がしたとかでいいじゃないか。」
十六夜 咲夜は目を逸らしてあごに手を当てながら少し考えた。考え終えると目だけで霧雨 魔理沙を見つめて言った。
「今日くらいいいかもね。用事をすぐに済ませてすぐに帰りなさい。誰にもんん!!ふう。」
十六夜 咲夜の体勢が突然変わった。彼女はうつむき気味に直立して胸に片手を当てている。
「済んだか?くしゃみ。」
十六夜 咲夜は呼吸を落ち着かせ、霧雨 魔理沙をチラ見した。
「ええ。済んだわ。誰にも迷惑かけちゃだめよ。」
「心配すんな、いつも通りパチェリーくらいにしかかけないって。」
「パチュリー様にもかけちゃだめなんだけど。」
「よぉパチュリー、頼みがあるんだ。」
「コホン、また本を盗みたいんなら古いの返してから盗みなさい。コホン。」
地下図書館、最下層中央に設けられた巨大な机に何冊も本を重ね、そのうち一冊を卓上にどかっと開いて安楽椅子から前のめりにパチュリー ノーレッジが見降ろしている。
熱源はどこにもないのに図書館はどこも温暖で、湿気は感じない程度だがどこも多湿だった。
霧雨 魔理沙は机の向かいに両肘をついて前のめりになり、彼女の顔を覗き込むようにして話しかけた。パチュリー ノーレッジは軽く丸めた拳の側面を口元に当てて、わざとらしく咳払いしながら受け答えた。
「違うんだよ。今日は材料が欲しいんだ。」
にっこり笑顔の小悪魔が鏡面仕上げされたスチールプレートにカップを乗せたソーサーとポットを持ってやって来る。霧雨 魔理沙の目の前にソーサーを移し、ポットを傾けカップに紅茶を注ぎ入れた。鮮やかに波打つ磁製のティーセットで、キズもカスレもない純金で縁取られていた。
耳心地のいい注入音と共に白い湯気が沸き立つ。霧雨 魔理沙はカップを掴んで1含みし、ソーサーに戻し置いた。その間彼女はパチュリー ノーレッジから一切目を離さなかった。
「魔理沙が来たら頭にかけるように教えとくんだったかしら。コホン。」
パチュリー ノーレッジの傍に置かれたカップに紅茶をつぎ足し、小悪魔はにっこり笑顔のまま立ち去った。
「喉風邪が流行ってるだろ、材料集めてるんだ。喉風邪に効く薬、作ろうと思ってんだ。つーかお前も患ってるんじゃないのか?」
「ええ、軽くね。外に出てないのに、どこから貰ってきたのかしら。コホッコホッ。」
「出来上がったらお前にも飲ませてやるよ。絶対効くからな?」
紙をめくる手を途中で止めて、パチュリー ノーレッジは霧雨 魔理沙を上目で見つめた。彼女と見合うと霧雨 魔理沙はあごを引き下げ上目に笑い、帽子の中からメモ紙を取り出して開き彼女に差し向けた。
「あなた、楽しそうね。」
「やりたいことやってるのに楽しくない奴がいたら、間違いなくそいつには治療が必要だぜ。」
開かれたメモ紙の下に手を添えてその文字列に目を通す。だんだんとそのまぶたがぐにゃりと細まっていく。
「思いついたこと全部並べてるようね。コホン、コホン。漢方に四体液説、この辺は占星術かしら。ホメオパシーまで、一言で言って混沌ね。こんな薬で治すよりも、喉風邪に効果のある肉体強化魔法でも探した方が早いんじゃ、コホッ、ないかしら。」
「なるほど、肉体強化か。薬で行き詰ったらやってみるか。」
パチュリー ノーレッジは霧雨 魔理沙を見てまばたきを3回した。
「薬は作るのね。」
「何だ?悪いのかよ。」
パチュリー ノーレッジは1度ため息をついた。
「理論構築を進め、仮説を練って、アプローチの方法を確立してから実験に取り掛かる。基礎的な手順に乗っ取って、確実に結果の得られる研究法を築かなければ、どんなやり方をしても成果なんて得られないわよ、コホン。」
「ヘッ!」
霧雨 魔理沙は目の色を変えて直立し、パチュリー ノーレッジを睨んだまま両腰に手を当て、大机を回り込むようにのそりと歩いた。
「羨ましいよなぁ、パトロンがいるって!貧乏魔法使いには碌な資材を揃える金も、自由な研究ができる余命もない、落ち着いて研究する心理的余裕なんて無いんだぜ!成功するかどうかは二の次、できる順、やりやすい順からやって、ビギナーズラックが舞い降りるまでお手々のシワとシワあわせ続けなきゃ心が持たねぇ!私だってパトロンが欲しいんだぜ!」
パチュリー ノーレッジは目の動きだけで霧雨 魔理沙を見つめ続けていた。彼女はソーサーをつまみ上げて胸元に運び、カップの持ち手を右手指先で摘み上げ静かに飲んだ。
カップをソーサーに戻し、ソーサーを机に戻すと、椅子に深く持たれかかって霧雨 魔理沙を見上げて行った。
「クリエンスも楽じゃないのよ。パトロンという者がなぜ、私たちにお金を掛けて生活まで養うのか、考えたことある?答えは単純、利益になるから、或いはパトロンがそう期待しているからよ。確かにクリエンスには金も時間も与えられるけれど、それはひとえにパトロンの期待に応えるためのものであり、パトロンに信頼されているからであり、それに見合うだけの実績を絶え間なく出し続けるか、或いはそう思い込ませる必要に、私たちは常に迫られているものなのよ。それが無茶かどうかさておき、毎日のように突き付けられるパトロンからの要求に応え続けるか、あるいはパトロンに抱かれるでもしなければ、たちまち私たちは見捨てられてしまう、彼女らからの支援を打ち切られてしまうのよ。案外どこまでも自由って訳でもないのよ。私たちは彼女たちに従うか、従うふりをし続けなければならないのよ。パトロンかクリエンス、どちらかが枯れ果てる、その時までね。」
パチュリー ノーレッジの傍で、組み手で固めた片肘で大机に体重を預けて、霧雨 魔理沙は彼女の顔を見降ろしていた。彼女の話し終わった頃には、霧雨 魔理沙はどこか冷たくと笑っていた。
「結局羨ましいよ。八方塞がっても抱かれりゃまだ生き永らえられるんだろ?安いもんじゃねぇか。」
パチュリー ノーレッジは寝そべながらうつむき、まだ血色のマシだった肌をあおざめさせた。彼女はしばらく黙りこくり、前触れもなくぼそりと言った。
「あり得ないこととは信じているけど、もしあの子が本気になって私のことを抱いたのなら、きっと私は死んでしまうわ。」
「あいつ吸血鬼だもんな、お前もやしだもんな。まぁ、頑張れよ。」
「何も分けてくれないなら仕方ないから1冊借りて行く。」そう脅迫したところパチュリー ノーレッジは1瓶の酸化水銀(II)、塩酸、フェノールを受け取ることができた。
霧雨 魔理沙はウキウキと笑いながら図書館を出て1階へ登り、2階へ登り、塀や立ち木が比較的遠い窓を探していた。外を見て、時折り近場の部屋を覗いて、右を見て、左を見て、再び通路を見回すと、霧雨 魔理沙は咄嗟に立ち止まり眉をひそめた。
遠くで誰かがが横たわっている。霧雨 魔理沙のてくてくとしていた足取りはだんだんと早くなり、長距離走者を彷彿とさせる速さに至り、通路上に倒れたメイドの傍で立ち止まった。霧雨 魔理沙は再び眉をひそめた。
「どうして、お前が。」
彼女にはまだ意識はあった。息はあったが、吸うも吐くも充分にできず、それを肺活量だけで無理やりに補おうとするような切れ切れとした息づかいをしていた。血色が以上に良く、首元、鼻先、銀髪の隙間に僅かに覗き込める額まで真っ赤に変色していた。
切れ切れとした息の合間に絞り出すような咳が時折飛び出す。あまりに勢いがなく、連発せず、うめき声のような息遣いがそれに続くだけだった。
メイド長、十六夜 咲夜はそこに倒れ、起き上がろうともせず呼吸していた。
「微生物や病原体の概念が発明されたのは、魔法が廃れたずっと後よ。その後になって微生物と、病原微生物という概念が生まれ、寒天培地では分離できないウィルスの発見と共に、病原体の概念がもたらされた。近代科学が病理を解明できたからこそ、公衆衛生は発展できた。それがどんなに恐ろしい病であれ必ず鎮圧できる、全共同体規模に及ぶ巨大な伝染病対策システムが生み出された。予防し、治療し、感染を抑止するという集団的な感染対策の構想が生み出されたのよ。」
暖炉の炎だけがこうこうと照る薄暗い部屋、シングルベッドの赤くぶ厚い掛け布団に包まれた十六夜 咲夜がか細い息でぐっすりと眠っている。
その枕元に小さなテーブルがあり、液体の入った2本のガラス瓶と2本のガラス注射器がある。小悪魔が注射器を白い布にくるんでガラス瓶と共にどこかへ持ち去る。
小悪魔が立ち去ったところにパチュリー ノーレッジが歩み寄り、十六夜 咲夜を穏やかに見降ろしていた。
「まだ魔法が魔法であった頃、人々は病気を患う原因を自分たちか、悪魔のせいか、あるいは全能者に見出していたわ。自分達の体液バランスが悪いせいか、魔女の仕業か、そうでなければ天罰なのだと。もちろんその時代には、免疫という概念だって、影も形もなかったのよ。喉風邪は今分かっている魔法でも直すことは出来ないわ。適切な治療法が確立された頃には、魔法がもう消えてしまったからよ。肉体強化魔法ですら喉風邪の治療法としては見込めない。肉体強化魔法で強化できるのは肉体に限るわ。体を動かすための筋力や、外敵からの刺突を和らげるための防御力といった、肉体そのものとその働きを強化できるだけであって、十中八九、免疫器官なんて強化できないわ。細胞や免疫グロブリンみたいな、その昔にまだ解明されていなかった微細な領域になんて、魔法には関与する発想もなかったのよ。」
暗がりの中で、パチュリー ノーレッジの頭だけが左右にゆっくり動いていることだけが目に見えた。
「案外、私たちの生活に活かそうって時になって、使い処に苦慮する物なのよね、魔法って。」
「何を言ってんだよ。」
パチュリー ノーレッジの背後から誰かが声を出し、近づいて立ち止まる。霧雨 魔理沙だった。
「だったら新しく作りゃ良い。ウィルスと免疫が知れ渡った今の世の中で、ウィルスを弱め、免疫を強める魔法を見つけ出し、創り出せば良い。お前の言うみたいに、分かってることを上手いこと組み合わせて確実な成功を手に入れるのも良いもんだが、全くの0から新しいもんを1個作り出そうってのも、少なくとも楽しいもんなんだぜ。」
パチュリー ノーレッジは半分振り返り横目で彼女を見つめると、口元だけをほころばせ、「ふふふ」と笑った。
「そうね、私も気付かないうちに、誤魔化すことばかりに努力していたのかもしれないわね。」
扉が開き、閉まる音がした。続いて足音が聞こえたが、近づいて来なかった。まるで彼女たちから距離を取るように壁を沿って移動し、彼女らの背後で立ち止まった。薄明るい暖炉の光が、あどけないフリルと赤いリボンの付いた白い靴を、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がらせた。レミリア スカーレットは言った。
「話は聞いたわ。咲夜が伝染病に感染したことを黙って働いていたそうね。」
白い靴がまっすぐに歩き出す。暖炉の目の前を通り過ぎ、ベッドの前までやって来た。
パチュリー ノーレッジは枕元から離れ、レミリア スカーレットがそこへ歩み、立ち止まった。安らかに眠る十六夜 咲夜を見降ろして、彼女はため息をついた。それは疲労や絶望によるものというより、どこかうっとりとした様相だった。
「完璧で瀟洒なる従者、私の大切な玩具よ、満ち満ちた月が望月たり得るのは、それ以上に多い月日を満ち足りずに過ごしているからよ。本来自らに欠けがあることを受け入れ、向き合い、あるいは克服するからこそ、彼女はかけひとつない姿を見せることが出来るのよ。」
十六夜 咲夜は小さく寝返るように天井を見上げる首をレミリア スカーレットに傾ける、何を注射されたのか、その眠りも、息遣いも安らかだった。
「いまは満ち足りぬことを受け入れ、ぐっすりとおやすみなさい。またすぐにでも完璧で瀟洒な従者となれるように。」
「案外落ち込んでもいなさそうだな。」
霧雨 魔理沙は横から挟むように口を出す。レミリア スカーレットは2歩かけて方向転換し、霧雨 魔理沙へ面と向かう。
「魔理沙。咲夜を見つけてくれて、応急の看病をしてくれたこと、感謝するわ。筆舌に尽くし難い程によ。欲しい物を言いなさい。パチェが許して、この館から切り分けることのできるものなら、何でも貴女にプレゼントするわ。」
「紅魔館の半分を私に寄越せと言っても通りそうな物言いだな、じゃあこいつが出し渋った薬の原料全部くれよ。出来るだろ?」
2者の視線がパチュリー ノーレッジに向かう、彼女は軽く丸めた拳の側面を口元に当てて、わざとらしく咳払いしながら受け答えた。
「コホン、仕方ないわね、存分に研究なさい。コホン。」
「うぅ寒い、寒い寒い。もう冬虫夏草見つけたらサッサと帰ろう。見つかんなくても寒いから帰ろう。」
雪がしんしんと降り始めた。バックからは乾燥した紅バラの花びらが半ば溢れ出していて時折こぼれ落ちている。白い息を吐きながら手に持ったメモ紙に視線を落とす。そこに並べられた材料の一覧にはほとんど全てに黒い横線が引かれていて、未だ塗りつぶされていないのは、最低300輪、不敵な求婚者、冬虫夏草の3項目だけだった。
「見つからない材料がある。」と半泣きになった小悪魔に両手を引かれ、パチュリー ノーレッジが自ら材料庫まで赴いて探したが、冬虫夏草は見つからなかった。「誰かが盗んだのだろう。」と彼女は霧雨 魔理沙を睨みながら告げて、冬虫夏草を差し出せないことを続けて詫びた。
紅魔館から天狗の住む山の上空を抜けて、箒で飛んだまま森の中へ入り込んだ。自転車を最も軽いギアでこぐ程度のゆっくりとした速さで森林を進みながらあたりを見回すが、冬虫夏草はおろか、それとは無関係なごく当たり前のキノコすら存在するとは思えない程に、周囲はすべて雪に埋もれていて、霜柱ばかりが時折その代わりを務めていた。
「って流石この森でもこれだけ雪が積もってりゃ、きのこなんて生えないか。」
「キャー!」
森の向こうから少女の叫び声が聞こえた。霧雨 魔理沙は急停止して進路を変え、声の方向に駆け付けた。そこには彼女から背を向けたサニーミルクが仁王立ちしていて、その足元で大穴に落ちたスターサファイアが笑いながら雪面によじ登っていた。
「なんだ、遊んでるだけか。心配させやがって。おい!お前ら。」
2匹の妖精が小口を丸くして彼女を見つめる。
「てか、お前らいつも3匹じゃなかったっけ?1匹どうした?」
「ルナならあっちで休んでるよ!」
スターサファイアが穴から半分身を乗り出してあらぬ方向に指差しながら言った。
「スターが石の入れた雪玉なんかあさっての方向に投げるから。あたしたちだっていつだって3人ってわけじゃない、休むこともあれば、はぐれることもあるよ。だけどそのうちまた一緒になるんだよ。」
サニーミルクが上半身だけを一杯にねじって振り返りながら言う。
「ま、問題ないなら何よりだぜ。ついでにさぁお前ら、ここで暮らしてるんだろ?きのこ生えてるとこ教えてくんない?ほら、みかんやるからさ、みかん。」
「わぁ、みかんだぁ!」
「魔理沙だってここで暮らしてんじゃん。」
2匹の妖精はパタパタと飛び上がり、答えながら霧雨 魔理沙のそばまで着く。霧雨 魔理沙はショルダーバックの底からみかんを3個取り出して2匹の妖精に見せびらかす。
「私は1つ屋根の下に暮らしてんだ、お前らみたいに野宿じゃない。外のことならお前らの方が詳しいはずだ。あったかくて雪のない所が怪しいんだが。」
「あたしらだって1つ木の下に暮らしてるんだよ、野宿じゃない。」
「ん~、あそこはどうかな?きのうサニーが見つけたって言ってた、崖の真ん中にある、あったかくてきのこが生えてる穴」
「おお、あるのか!どこだそこ!今すぐ案内してくれ!」
「外にいると寒いから、あったかいところを探すんだ。」
「あれなんだな、お前らは家に籠るという概念はないんだな。」
先頭をサニーミルクが、その後ろをスターサファイアがパタパタと飛び、更にすぐ後ろを霧雨 魔理沙が箒にまたがりついて行く。3者とも手にヒトデ型に向かれたみかんの皮皿を乗せていて、もう片方の手でその上にあるみかんの実を1切れずつ取って食べていた。
「それで、地面の下にもぐってく穴があるでしょ?」
「知らねぇよ、そんなもん。」
時折りサニーミルクが振り返って話しかける。
「そういう穴ってあったかいのがいくつかあって、きのう見つけた穴は特にあったかかったんだ。」
「しかもきのこが生えてるわけだ。」
霧雨 魔理沙は目をきらびやかせている。
「きのこなんか生えてたっけ?」
サニーミルクが首を傾げた。霧雨 魔理沙の笑顔が突然凍った。
「え?知らないけど、なんか生えてたってルナ言ってたよ?くにくにした棒みたいなやつ」
スターサファイアは霧雨 魔理沙に背を向けたまま言った。彼女の言葉に霧雨 魔理沙はほっと胸をなでおろすが、途中から敏感に反応して、スターサファイアの脇まで飛んで鼻と鼻が近づく程に顔を寄せた。
「おい、もっかい言ってくれ、何か生えてたんだな?棒みたいなやつ、きのこみたいに見えたってことはさほど大きい物じゃない訳だ。」
「う、うん、なんか生えてたらしいよ、ウソじゃない」
「お前が見たんじゃないんだな、まぁいいや。きのこって確証がなかったってことは、そいつの頭に傘はなかった訳だ。」
スターサファイアは唇に人指し指の指先をあてて右斜め上を見ながら答えた。
「なかったんじゃない?ちょこんと棒が土からとびでてるだけだったって」
「掘り返したか?根元に虫はいたか?」
スターサファイアは眉をひそめた。
「え?しらないよ、虫ってどういうこと?」
「私の探してるきのこがそういう特徴なんだ。一刻も早く案内しろ、道に迷ったら承知しねぇからな。」
霧雨 魔理沙がスターサファイアの両肩を堅く握る。サニーミルクは彼女らを見ながら苦笑した。
「そんな焦んなくても穴は逃げないよ。丘の端っこが崩れてできた、崖にあるめずらしい穴だから迷いっこない。きのうもここを通ったんだ、同じように行けばぜったい着くよ。」
サニーミルクに連れられてスターサファイアと霧雨 魔理沙が森の中を進んで行く。途中、少しだけ開けた中にちょこんと低木樹が立っている。その側に突然止まりサニーミルクが振り返った。
スターサファイアがほぼ同時に止まって霧雨 魔理沙は箒の柄を彼女の背中に追突させた。
「見てこれ、きのうはこのツララでスターとルナとチャンバラをしたんだよ!」
見るとその樹から長く伸びたいくつもの枝には所々で雪が解け集まり、複数のツララが垂れている。サニーミルクがその中から長いものを1本、スターサファイアが次に長いものを1本折り取り、揚々とひと振りしてから霧雨 魔理沙を見つめた。霧雨 魔理沙はきょとんとして2匹を見回したが、一呼吸置いて2匹の妖精が表情を曇らせた。
「魔理沙もツララ取れよ、チャンバラするんだぞ。」
霧雨 魔理沙は眉間にシワを寄らせた。
「ええ?なんでだよ、遊んでないでまっすぐ行こうぜ?」
「いいじゃん魔理沙!いっしょに遊ぼうよ!」
「さっき言ったでしょ!同じように行けばぜったい着くって。同じように行かないとぜったい着かないよ!」
霧雨 魔理沙は眉間にシワを寄らせたまま首を傾げた。
「まじかよぉ、じゃあいいから~お前ら2匹でやってろよ。昨日私いなかったんだから。」
「だめだよ!今はルナがいないんだから、魔理沙がルナの代わりになるしかないじゃない!」
霧雨 魔理沙は眉間にシワを寄らせたまま首を傾げ、後頭部を掻き揺らした。
「えぇ。もう、同じように行くって絶対そういうことじゃないじゃん。仕方ねぇなぁ。」
霧雨 魔理沙は身を乗り出しながら手を伸ばしツララを1本掴み取る。折れた瞬間に枝が揺れてそこから落ちた雪が帽子にかかった。
「うわ!あ、あぶね!」
間もなくサニーミルクが霧雨 魔理沙の胸元を1突きし、霧雨 魔理沙がそれをかわしてサニーミルクに突き返した。それを皮切りに1人と2匹はそれぞれ手に持ったツララをサーベルのように突きあった。サニーミルクとスターサファイアの持つツララは同程度の長さだが霧雨 魔理沙のツララは彼女らのより明らかに短く、霧雨 魔理沙はそれを俊敏な箒さばきを活かした間合いの緩急と腕の長さで補いながらツララの突き合いに興じた。
おのずと3者はあらぬ方向に動き出し、元あった低木樹からどんどんと離れて行った。気が付くと穏やかに岩間を流れる小川の上に差し掛かった。川の中央でサニーミルクとスターサファイアが示し合わせたかのように全く同じ動作で霧雨 魔理沙を突いた。2度3度と突いたため、霧雨 魔理沙は咄嗟に大きく間合いを開いた。
「違うだろ魔理沙!川に落ちろよ!」
「そうだよ魔理沙!落ちないと!」
霧雨 魔理沙が目を見開く。
「ぁあ?何でだよ、聞いてねぇよそんなこと!」
「聞いてなくても!きのうはここであたしとスターが同時に突っついたからルナが川にドボンって落ちたんだよ!落ちてくれないと案内できない!」
霧雨 魔理沙の赤みがかった頬が白く変色する。
「だってこんな寒いのに川に落ちるなんて」
「落ちてくれないと案内できない!」
強い発生でそういわれ、正面に突き向けたツララが力なく垂れ落ちる。
「そんな、分かったよ。落ちるから、このカバン持っててくれよ。」
手放したツララが川底に転落して砕け散り、霧雨 魔理沙はショルダーバックを持ち上げてサニーミルクに差し出した。声が震えている。
「うゎ、おもい。」
サニーミルクはショルダーバックに引っ張られその高度をガコンと落としたが、バックが着水する寸でのところで身を持ち直し、それを首にかけてツララを構えた。
「さぁ、準備できたぞ。やれよ、早くやれよ!」
霧雨 魔理沙は両目を全力で閉じて両手をピンと左右に伸ばし、裏返った震え声で絶叫した。
2匹の妖精は息を合わせ、渾身の力を込めて「えいや!」と霧雨 魔理沙を突き飛ばした。霧雨 魔理沙は見るからに盛大に飛び上がり、真っ逆さまに流水の中に転落した。
ドボーン!!!
「わははははは!ルナったら!わははははは!」
「さ、寒い。寒い。おい笑ってんじゃねぇぞ!」
高く跳ねあがあった水しぶきが落ち着いた、その向こうでサニーミルクとスターサファイアが腹部を抱えて爆笑していた。特にスターサファイアはヘビーメタル音楽の振り付けをゆっくりとさせたような盛大な動作で全身をくねらせ。霧雨 魔理沙に指を指しながら目に涙を溜めて笑っている。
震える全身をできる限りに両腕で包んだ霧雨 魔理沙の裏返った叫び声は、あまりの力なさにその笑い声でかき消されてしまった。
「そしたらね魔理沙、ルナはこのあと怒ってスターに石をなげてぶつけたんだ。」
それを聞いた瞬間、霧雨 魔理沙は水底から石を拾いスターサファイアの額めがけてフルスイングで投げつけた。
「わははははは!わはははははあひゃ!!! あは! 。」
右こめかみ付近に小石を受けたスターサファイアは体勢を崩して垂直落下し、川岸に露出した岩肌に後頭部から激突して、両方の瞳孔を一杯に開くと動かなくなり、間もなく半透明になった。
「そしたらね、スターってば頭の打ちどころが悪くて一回休みになっちゃったんだ。きのうはね。」
「お前らの日常って死ぬこともセットなの?」
霧雨 魔理沙は震えた声でか細く言ってサニーミルクを見上げた。知らぬ間に彼女の瞳にハイライトが消えていて、低いトーンで喋っていた。
「仕方ないでしょ、なっちゃったもんは。それでこのあとあっちに行ったんだ。」
「お、おう。あぁカバンもう返せよ。なんかごめんな。」
霧雨 魔理沙は箒にまたがり浮かび上がり、サニーミルクからショルダーバックを取り上げるように受け取った。
「あら魔理沙、材料は揃、て大丈夫?ずぶ濡れよ?」
森の中でアリス マーガトロイドと遭遇した。大きな籠を抱えた2個がかりの人形と共にふわふわと浮いていた。
「大丈夫じゃないのぜ。何か色々怖くなってきたんだぜ。冬虫夏草見つけたらまっすぐ帰るんだぜ。」
霧雨 魔理沙は震えた声で答えた。全身ぐっしょりと濡れていて、スカートの裾からぽたぽたと水を滴らせ、小さなツララを伸ばしていた。今も上半身を腕で包み、震えながらサニーミルクの後を追っている。
「あなた達もいつも3人くらいでいたと思うけれど、他の仲間はどうしたの?」
「スターとルナはいま休んでるよ。魔理沙が石ころとマスパなんか投げるから。」
「何で私が悪いんだよ。私だって被害者なんだぜ。」
「まあ、2人とも、安静にね。」
アリス マーガトロイドは頬の端に脂汗を1滴たらした。
「そういうアリスはどうなんだよ。お前が出かけるだなんて珍しい。」
「あら、失礼しちゃうわね。今日は奮発してクッキーを作れるだけ作ったから、これからお医者さんや感染した人たちに届けに行くのよ。」
籠の上部を覆った白とピンクのギンガムチェックのチーフをめくり上げ、その下からバニラフレーバーのクッキーを2枚取り出した。
「さすがアリス、そういう微妙に役に立つ気の利かせ具合が私の好みなんだぜ。」
「そんな変なおだて方しても出るのはクッキーだけよ。そういえば魔理沙、霊夢があなたを探してたわよ。」
サニーミルクはクッキーをもらうと「わーい」と喜びながら2人の周囲をくるくる回る。1つまみのクッキーをかじりながら霧雨 魔理沙は首を傾げた。
「紅魔館でも聞いたけど、何で霊夢が私のこと探すんだよ。風邪ひいてんのに。」
「あなたが分からないのなら世の誰にも分からないことでしょうよ。たぶん彼女にもね。じゃ、私行くから、冷えるから早く帰るのよ。」
アリス マーガトロイドは人形と共に人里へとふわふわ浮いて行った。それを見届けて、クッキーを頬張るサニーミルクと共に先を急ぐと、突然彼女は立ち止まって、霧雨魔理沙は箒の柄をその背中に追突させた。
「あ、しまった!道分かんない。」
「おい、どうしたんだ。昨日と同じに行けば絶対行けるって言ってたろぉ。」
霧雨 魔理沙はサニーミルクの顔を覗き込みながら問い詰める。
「だって、きのうはアリスなんかと会わなかったんだもん!」
「お前は何でこういう時だけ融通が利かないんだよ!いつも何か、もっとこう適当だったろ!」
「だって、だってぇ!」
サニーミルクは両手で側頭部を押さえて全身をくねらせる。
「どうにか思い出してくれよ、私ずぶ濡れになったんだぞ!」
「あとちょっとなのに。思い出せない!たしかあたしたちはこのあとどっかに行って、そこに丘があって、そこに穴があって。ルナが寒いって言うから穴の中で少し休んで、そのあと上に登って、低い木に生えた赤いちょうちんみたいなのに入った小さな実を一緒に食べて、ルナが眠いって言うからその上の木の枝で一休みして、ルナが一回休みになって、」
「自然の中で生きるのって、結構大変なんだな。」
サニーミルクが胸の前に両手を握り霧雨 魔理沙を見上げ、目に涙を溜めて言う。
「ぜったいこの近くなんだ、木の上から見ればぜったいに見つかるくらい近いんだ。」
頭を抱えてうなだれていたが、霧雨 魔理沙はそれを聞くと目の輝きを取り戻しサニーミルクを見つめた。
「おい、じゃあ木の上まで飛べば見つけられるんじゃないか?」
「へ?どゆこと?」
霧雨 魔理沙はサニーミルクと肩を組んで森の上空に浮かび上がる。枝を抜けてすぐの所で止まり、左を見て、右を見る。山のふもとに土砂崩れの跡がある高地が見えた。
霧雨 魔理沙はそこを指差した。
「あれか?」
サニーミルクの表情が明るく晴れ上がった。
「そうだ!あれだよ!行こう!今すぐ行こう!」
「あの辺だよ、あそこでルナをあっためたんだ。」
「不思議だな、私もう寒くないぜ、死んじまうのかな。」
森と山のつなぎ目にあるような、地面から換算して20m弱程度の小高い丘、なだらかな山側の斜面とは違い比較的急な森側の斜面は一部なだれ落ちて土が露出している。頂上には葉のない木が1本立っていて、その根元に葉のない低木が生っている。サニーミルクは丘の全高から3分の2程度の高さにある地すべり面に接近して、そこに空いた穴へ指を差した。
「この穴だよ、ここがなんだかあったかいんだ。」
霧雨 魔理沙がサニーミルクのすぐ脇まで飛んで彼女の指し示す方向を覗き込む。すべり面の端に、四つん這いになれば楽々入り込めるような横穴が開いている。頂上の樹木から伸びたのだろう細い木の根が穴の内外に飛び出している。覗き込むと確かに微かな暖気が流れ出ている。帽子の中からミニ八卦炉を取り出して小さな火を灯しその光を穴の中に指し向ける。横穴の入り口から40cm程度のところ、木の根が保ってくれている柔らかな土の上に、白い、一見脆そうな10cm程度の棒状の個体が飛び出していた。ミニ八卦炉の炎に照らされて、霧雨 魔理沙の瞳はきらきらと黄色く輝いていた。
「あった。きっとあれだ。掘ってみよう。」
「魔理沙、あたし上で木の実食べてていい?」
振り返るとサニーミルクが丘の上を見上げて目を輝かせていた。霧雨 魔理沙にはほがらかな笑みが浮かび、うなづきながら答えた。
「あ、ああ。色々理不尽な苦難はあったが、ここまで連れて来てくれて助かったぜ。こういう穴にきのこがあると分かりゃ私も1人で探せるはずだ。あとはもう好きにしてくれ。」
「やった、じゃああたし上にいるから、なんかあったら呼んでね。」
ミニ八卦炉を帽子に戻し、霧雨 魔理沙はその横穴まで50cm強まで接近する。それ以上は近づくことは出来なかった。横穴は垂直に近いすべり面の余りにも端に位置していて、箒の中腹から後ろ寄りに座っている霧雨 魔理沙自身が近づくためには箒の後端を丘の崩れていない面に乗り上げさせる必要があり、霧雨 魔理沙の箒を近づけるためには霧雨 魔理沙本人が穴の正面より40cm程度すべり面中央側へずれなければならなかった。
前者を取る場合、霧雨 魔理沙本人とキノコまでの距離が大きく開き、箒上で身を乗り出し、バランスを取りながらキノコを採取することになる。
後者を取る場合、斜面に体重を寄せながら作業できるため、ある程度採取時の体重移動を機にかける必要はなくなるが、体勢の関係から穴の中を見ながらキノコを採取することがほぼ不可能であり、脳内でのイメージと指先の感覚だけでキノコを掘り起こすことが必要となる。
箒と自身の位置関係を最良にするための試行錯誤の末、霧雨 魔理沙が選んだのは前者だった。横穴を自身の肩の高さに、箒を入口面に対して斜めに立てかけて、片手を3、4本の細い木の根に、片足を斜面に預け、もう片足と肩から吊り下げたバック本体を箒に預けたまま、一杯に手を伸ばして繊細な力でキノコの根元を掘り返した。
1かき、2かきするがキノコはまだ掘りきれない。霧雨 魔理沙は更に身を乗り出し、土をかく力を強めた。3かき、4かきする。子実体とは違う何かが見えてきた。霧雨 魔理沙は笑みを浮かべる。
更に強い力でもう1度土をかいた。キノコがひとりでに倒れた。その根元からキノコとは違う、未成熟のうちに息を引き取りミイラと化した、カブトムシか何かの幼虫が現れた。霧雨 魔理沙は笑ってつぶやく。
「ビンゴ!」
しかしその時、あまりにも身を乗り出し過ぎたためショルダーバック本体が箒の上から離れて土手の斜面を叩き付けた。溢れんばかりの乾いた花びらが辺り一帯に舞い上がった。均衡を保っていた身体バランスが一斉に崩れて霧雨 魔理沙の全体重が丘の斜面に移動した。片方の足が箒から離れ、この斜面で彼女の位置を保つものは、彼女が片手で握った数本の細い根の束だけとなった。
霧雨 魔理沙は地滑り跡の斜面から滑り落ちるところを寸でのところで踏みとどまった。
標高十数mの位置で彼女は木の根に吊り下がっている。
主を離れた箒は途端に浮力を失い垂直方向へ落下した。直下にある急斜面の土砂に衝突して土手の上を転げ落ち、乱発する凹凸に勢い任せに打ち付けられ、1バウンド、2バウンドして、3バウンド目で地表の粉雪に沈没した。
彼女の箒は雪の下に深く沈み、もうそれ以上動かなくなった。
「この手を離したら、私もああなるんだな。」
白い息を大きく出し入れして、少しでも呼吸を整える。頼みの綱である木の根を再び強く握り直す。積雪がだんだんと顕著になってきた。袖や帽子のつばに湿った雪が溜まる。
ずぶずぶに濡れていた衣服はもう既に湿っていない。氷点下の冷気に晒されてシャーベッドのように硬く凍り付いていた。彼女の手はかじかみ、わずかに開いた顎関節から両脚の指先まで小刻みに震えていた。
しかし霧雨 魔理沙は笑っていた。
「まあ良い、サニーを呼べば助かるさ。その前に。」
彼女の瞳はまだぎらぎらと輝いていた。再び横穴の中を覗き込み、数十cm先に横たわる冬虫夏草へなりふり構わず腕を伸ばし、そして掴んだ。
霧雨 魔理沙の蒼白い肌は再び赤らんだ。
ブチッ、ブチッ、
「え?」
また顔色が蒼ざめ、霧雨 魔理沙は頭上を見上げる。握りしめる木の根の束が2本その手の中でちぎれて、次の瞬間残りの根が全てちぎり取れた。
ブチ!!!
「あ!」
咄嗟に目をつむった。霧雨 魔理沙は最後の命綱からも突き放され、3階建てほどもある高地の中腹部からほぼ垂直の土手を滑り、転げ落ちた。彼女は声を上げる間もなく、今しがた落ちた愛箒の後を追うように、崩れ落ちた地滑り跡の上部から地面まで、またたく速さで真っ逆さまに、転落しなかった。
もう間もなく粉雪に叩き付けられてもいい頃に、霧雨 魔理沙はまだ宙にいた。それに気付いてか彼女は恐る恐るとその目を開いてはすぐ閉じて、また慎重に開いて天下を見つめた。
彼女は空にいた。落下はしておらず、浮いていた。箒のない彼女が自力で浮いているのではなく、万有引力によって垂直方向に引き下ろされ続ける彼女を、彼女とは違う何者かが垂直方向に引き上げていたのだった。
霧雨 魔理沙はぽかんと首を傾げ、知らぬ間に抑えていた帽子をずらして自身の頭上を見上げる。そこには彼女の上着の布を両手で掴んだ博麗 霊夢が、息切れ切れにぐったりとしながら空中に浮かんでいた。唖然としながら彼女のことを数秒見つめた後、霧雨 魔理沙は怒鳴りつけた。
「おい霊夢!掴むんなら脇の下とか腕とか掴んでくれ。服が破れたら今度こそ魔理沙さん死んじまうぜ。」
「ごめん、今あたま回んない。まっすぐ飛ぶだけで精いっぱい。このまま、あんたの家まで行くから。ハァ、ハァ、降ろしたらわたしすぐ帰るわね。」
博麗 霊夢は顔を真っ赤にして明らかに困憊した表情をしていた。霧雨 魔理沙が何か叫ぶたびに振動でバランスを崩しそうになっていた。
「じゃあ一回降ろせ!箒取ってきてお前乗せるから。」
「ゆ、揺らさないで!たぶん無理、降りたらもう立てない。」
「そもそも何で出歩いた!そんな衰弱してるのに。」
博麗 霊夢は少しの間答えず呼吸を整えた。
「なんか、お昼くらいから胸騒ぎがして、あんたのこと探そうと思ってうゲホッ、ゲホッ、ゲホッ。」
「それ胸騒ぎって言わねぇんだよ。動悸って言うんだよ。そういう時は安静にしないといけないじゃねぇか。」
「だって、あんたきっと。無茶するから。」
霧雨 魔理沙はまた唖然として不作為に握った拳を軟らかくほどいた。張り上げた声は力を失くし、優し気に言った。
「あぁ。ありがとうな。おかげで助かったぜ。本当は、私がお前のこと、助けたかったんだけどな。」
「え、声小さい。もっかい言って。」
霧雨 魔理沙は反発するようにまた声を張り上げた。
「なんでもねぇよ。あれだ!引き返してくれって言ったんだ。私の箒取りに行かせてくれって。」
「だから、むりだってゲホ、ゲホゲホゲホッ、うぅ、あ、ゲホッ、ゲホッ」
「お、おい霊夢!気を保て!あるいは今すぐ降りろ!ここで落ちられたら魔理沙さん死んじまうぜ!」
彼女の家に着くまで、霧雨 魔理沙は怒鳴り、博麗 霊夢に振り子のように揺さぶられながら空を飛び続けることとなった。
今しがた雪が止んだ。
真っ白な大地と青い空の間を、赤い点と黒い点がわちゃわちゃと揺れて飛んでいた。森は、そんなわちゃわちゃのことなど無関係のようにすっきりと乾いていて明るく、そして涼しかった。
霧雨 魔理沙は結局その日のうちに箒を取り戻すことはできなかった。その念願が叶うのは春を迎えてから、三妖精が雪解けの下に残存した落ち葉を掃き集めるためにそれを使用しているところに遭遇し、彼女らと弾幕ごっこを経た後となった。
博麗 霊夢は「すぐ帰る。」と言っていたが、彼女はその日の内には帰らなかった。霧雨 魔理沙の家に着き、彼女を追って力任せに玄関を開け屋内に入ると、博麗 霊夢はすぐに彼女のベッドに潜り込んで一晩中熟睡した。
霧雨 魔理沙はそれから2日2晩、症状を悪化させた博麗 霊夢を看病し続けた。
2日目からアリス マーガトロイドが訪れたため、彼女もそれを手伝った。
博麗 霊夢は症状の回復から4日後、喉風邪を患った霧雨 魔理沙が完治したことを確認してから、アリス マーガトロイドと共にその家を後にして、博麗神社へと帰って行った。
おわり
中央に向け森深く入り始めたあたりに木々が刈り取られて開けた場所があり、そこに一見して廃屋にしか見えない一軒家が立っていた。
除雪跡のない雪原のあらぬところから、トゲトゲとした木の柵のてっぺんだけが軒並み顔を出している。風除けのない玄関口の外開け扉は、基礎が低いことも相まってその全高5分の1程度を雪の中にうずめていた。
玄関脇の窓ガラスの1枚については大部分が割れ落ちて、そこから誰の侵入も可能な状態になっている。既に誰かがそこから内部を覗き込んだらしく、庭先から突然現れた深い足跡が砕けた窓まで伸びていて、戻った形跡もなくその目の前で消えている。
三角屋根は一面ぶ厚い雪を積み上げていて、その色も材質も分からない。朝日に当たり軒からぽたりぽたりと水が滴って所々にツララを作っている。軒上に掲げられた大きな板看板さえもその前面に雪が張り付き、なにが掲示されているのかは読み取れなかった。
「・・・りささん、魔理沙さん。」
延々と誰かに揺さぶられる。真っ黒な視界がシャットアウトしてぼやけた世界が目に見える。どうやら傍に誰かいてそいつが全身を揺らしているらしい。聞き覚えのある声ではあるが、それが一体誰であるのかは、全世界とピントが合うまで彼女にはまだ検討すら付けられなかった。間もなく射命丸 文はもう一度彼女の名前を呼び直した。
「魔理沙さん、魔理沙さん。」
「ぅあぁああ。」
もたれに背を預けた霧雨 魔理沙は両腕を頭上に向けて伸びをした後、大きくあくびを放出した。真っ白く凍った息がもわりと上がる
次いで右手で両目をこすると彼女はすぐ傍に射命丸 文がいることに気が付いた。
「駄目ですよ魔理沙さん。こんな所で寝てはかぜを引いてしまいます。ただでさえ喉かぜが流行っている上に、ほら窓ガラスだって割れちゃって、隙間から冷たい風が吹き込んでいますよ。あとこれ今月の新聞です。」
「えあ?」
霧雨 魔理沙が全身重そうに身を起こすと、再び椅子にのけぞるように背を持たれ、射命丸 文の背後にある窓ガラスへ首を傾げた。板ガラスが跡形すらなくバラバラに砕けて屋内に散らばり、ダークブルーのコットンカーテンをなびかせて次々に外からの風を送り込んでいた。
「お前、うちの窓割って入ったろ。」
「仕方ないじゃありませんか。」
しくしくと泣きながら射命丸 文がロココ調の三ツ足しかないテーブルを両刃の鋸で切っている。霧雨 魔理沙が起き上がりざま彼女を不意打ちに殴り付け、居間の中から鋸とテーブルを掘り出し、追い打つように投げ付けて間髪入れずに「ふさげ!」と命じたためだった。
頭襟の傍に直径5cm程度のたんこぶが赤々と腫れ上がって明滅している。
「ひどいじゃないですか魔理沙さ~ん。」
「窓割った罰だ。ありがたく思え。」
「だって、知り合いのマッドサイエンティストが閉め切った実験室の中で実験中に死んでたら、誰だって窓割ってでも救出に行きますよ~仕方ないじゃないですかぁしくしく。」
「誰にでも知り合いにマッドサイエンティストなんているもんだろうか。」
作業机上で文文。新聞を開き、中央の1枚をつまみ上げて小脇に挟む。4本の鋲、1枚の巻紙、刻み葉1つまみを取りながら背後の壁へ歩く。突き当たるまでに巻紙に刻み葉を広げ、指先でくるくると円筒に丸める。突き当りには煙管が天井に向けて伸びていて、その脇にブリキ板成形のやかんが置いてあった。
霧雨 魔理沙はやかんのふたをぐりぐり外して側らに置き、その取っ手を右ひじに通してやかん本隊だけ持ち上げて、今度は叩き破られた窓へ向かって歩いた。紙巻の端に舌を走らせ固着したでんぷん糊を唾液で湿らせ、そののりしろを指で押し当てて包み紙を接着させた。
ぽつぽつとしかガラス片の残っていない窓枠から身を乗り出して、外に積もる雪をなるべく窓枠から離れた、きれいそうな所を選んでやかん一杯にすくい上げる。屋内に半身を戻して窓辺に一旦やかんを乗せると、ガラスのない枠の上に左脇に挟んだ新聞紙を広げ、3ヶ所に鋲を、窓枠からやかんを取り上げ、残る1ヶ所にも鋲を打ち込んで、割れた窓が新聞紙に覆われたことを確認してから作業机に戻る。
やかんを肘に、紙巻を指に挟んだまま再び新聞紙を2枚めくり上げ、やかんを持ち出した背後の壁に再び向かって歩き出す。その途中にダイニングテーブルがあり、その上に色々置いてある中に小箱がある、霧雨 魔理沙は通り過ぎざま、その小箱からマッチ棒を1本取り出した。
くしゃくしゃくしゃくしゃと2枚の紙を2本の棒状に丸め、壁の目の前まで付くとやかんを元あったストーブ天板の上に戻し、ふたを被せ、そのすぐ傍でとんとんと糊付けした紙巻を縦持ちにして2回、天板上に軽く打ち叩いて口にくわえると、鋳鉄材の隅でマッチ棒を素早く擦って火を灯した。
かがみ込み、正面のふたを開けて新聞棒の1本に火を移してストーブに入れ、続けざまにもう1本投入した。マッチの火の残りで口にくわえた紙巻きタバコに火を灯し、マッチの残り火は手首のスナップだけで振り消してストーブ内に投げ込んだ。
ストーブ脇に積まれた焚き木からなるべく細い物を選んで2、3本投入し、火種から伝火してごうごうと燃え上るのを見送ると蓋を閉じた。口元の紙巻をつまみ取って大きく煙を吐き、口元につまみ戻すと立ち上がって再び作業机に戻った。
「お前も1本喫むか?新聞代の代わりだ、魔理沙さん特性だぜ?」
机上から摘み上げた刻み葉を手早く紙に丸め、1舐めして包みあげた紙巻を射命丸 文に差し出して霧雨 魔理沙が言った。彼女はそれを見上げると明るく笑い、それを受け取って胸ポケットにしまった。
「ありがとうございます、これは後でおいしくいただきます。」
作業机の上で文文。新聞が1枚だけ見開かれている、椅子に座り、それを1折りして1ページ目に戻し、1面記事に目を通した。
「何だ?今日の新聞はやけに薄っぺらいじゃないか。」
「しくしく、読まれる前に残り1枚まで無駄遣いされるなんて、しくしく。」
ぎこぎこと作業の手を緩めず、目に涙を溜めるでもなく射命丸 文はつぶやいた。
「人類間で謎の喉かぜ蔓延、かぁ。おいおいこの小見出しはでっち上げ過ぎだろ。“博麗の巫女も罹患 宗教関係者の感染相次ぐ”だなんて。」
「え?いいえ、そこだけは嘘偽りありませんよ。」
射命丸 文がきょとんと目を丸め作業の手を止める。
「いいや大ウソだね、永林やヘカーティアならいざ知らず、霊夢が風邪ひくなんて夢のまた夢、絶対にあり得ねぇぜ。」
「信じてくださいよぉ、流石の私だって一面記事の大見出しと全小見出しの半分くらいは嘘なんかつきませんって~。」
鋸を止めて、泣きそうなのか泣かなそうなのかよく分からない顔で否定する射命丸 文に、霧雨 魔理沙は密室殺人の現場でも見るような視線を向けて、指先に挟んだ紙巻きタバコをもう1度ふかした。
「、、、ウソ吐くなよ。」
白い煙を小口で吐き出して霧雨 魔理沙は恐る恐る言った。
射命丸 文は首を振った。
「本当ですよぉ。まぁ確かに、宗教関係者に感染が相次いでいるかどうかなんて知ったこっちゃありませんけど、霊夢さんが喉かぜを患ったことだけは確実ですよ。」
霧雨 魔理沙はゆっくりと額を手で覆って首を振った。
「そ、そんな、あり得ない、この世の終わりだ。明日は幻想郷中を槍が覆うぜ。」
「オーバー過ぎません?」
「おかしい、おかし過ぎる。霊夢とチルノだけは風邪ひかないはずなのに。」
「魔理沙さんもう1回訊きますよ、オーバー過ぎません?」
霧雨 魔理沙は再び深く背を持たれ、文文。新聞一面にもう1度目を通した。半ば放心状態になって紙巻きタバコを一口くわえた。
「まぁ、なっちまったんなら、仕方ねぇよなぁ。でもなぁ、私だっていつ風邪ひいたっておかしくない人生送ってるぜ?ストーブ消えてたし、窓割られたし。私でも引かない風邪を何で霊夢が。」
「霊夢さんのところは暖房につぎ足し忘れるような燃料すらありませんからね。それに今流行っている喉かぜについて言えば、免疫や生活環境と、患うかどうかは直接な関係はありません。重要なのは感染すること、他の感染者と大なり小なり接触することが発症の鍵になります。霊夢さんはじめ宗教関係者は他の業種より幅広い対人交流を要しますから、それだけ感染するリスクに晒されていたというところでしょう。対して魔理沙さんは碌に外にも出ていないはずでしょう?感染者との接触そのものが全くなかったのですから、あなたが喉かぜを罹患する可能性自体が、そもそも無かったんですよ。」
霧雨 魔理沙はそれに答えず、まじまじと新聞紙を見つめながら白い煙を吐き出していた。
やかんの注ぎ口が蒸気を拭き出し音を鳴らす。作業机の片隅に置かれた灰皿を引き寄せて紙巻を掛けると霧雨 魔理沙は炊事場に立ち、戸棚から真っ白なマグカップを取って作業机にある赤茶けたマグカップの隣に移す。白地に花柄があしらわれた所々錆びた琺瑯ポットを取ってアールグレイの茶葉を大さじ2杯入れ、ストーブ脇へ運んでやかんの熱湯をポット内に半分注ぐ。やかんをストーブに戻して作業机にポットを置いた。
机の向こうに外の景色が見える。真っ白な朝を映す窓枠に細長い砂時計が1個置かれている。それを持ちあげ天地を反転し、灰皿と文文。新聞を掴んでストーブへ向かった。ガラス管の中で水色の砂が静かに落ちている。
霧雨 魔理沙は新聞を読みながら歩き、ストーブの上に灰皿を置いて振り返り、耐熱ガラス越しの遠赤外線にふくらはぎを預けて、紙巻をくゆらせながら記事の通読を継続した。
「魔理沙さん切れましたよピッタリです!釘とトンカチはありますか?」
ロココ調の正方形のぶ厚い木板を窓枠に当てて、射命丸 文は身をのけるように振り返りながら淀みない笑顔を霧雨 魔理沙に向けていた。
「おぅ、そこのテーブルに工具箱あるだろ、そん中にどっちも入ってるから勝手に使ってくれよ。目立たないように打てよ?」
「分かってますって任せてください!」
工具箱から金槌を取り出し、続けて4本の5寸釘を口に咥えて窓枠に貼られた新聞紙を剥がすと、射命丸 文はそこに木製の板を押し当てて釘を打ち付けた。
霧雨 魔理沙が正面を見る。今まさしく砂時計上半の最後の1つまみが落ちるところだった。新聞紙を畳み小脇に抱えると根元近くまで短くなった紙巻を灰皿の中央にすり潰して、灰皿の縁を掴んだ。
「あっつ!」
不用意にストーブ天板上に置いた灰皿は高温に加熱されていた。一握りの灰と吸い殻が舞い上がり、平たい帽子型にプレス加工されたトタン板がはじけ飛ぶ。
「あちゃ~、ま、あとで片付けるか。」
霧雨 魔理沙は吸い殻と冷めた灰皿だけ拾い上げ、無垢材のフローリングに散らされたタバコの灰を靴で擦りならして立ち上がった。ティーポットを取って2、3回くゆりと揺らすと、作業机の手前に見開かれた本を閉じて、脇に置いてあった漏斗台を引き寄せ、漏斗の上に濾紙を乗せてその下に内側のひどく赤茶けたマグカップを設置した。
「お前も1杯飲むか?魔理沙さん特性じゃないけどよ。」
霧雨 魔理沙が紅茶を注ぐ漏斗を注視しながら射命丸 文に問いかける。
「お、いいですねぇ。お砂糖はありますか?、、マッドサイエンティスト特性のお茶って怖くないですか?」
「お子ちゃまめ、ちょっと待ってろ、今淹れてやるから。」
3回目の濾液が落ち切るのを待ちながら霧雨 魔理沙は炊事場から砂糖瓶と小さじを取ってダイニングテーブルの隅に押し置いた。濾過が終わったのを見て赤茶けたマグカップを真っ白なマグカップに取り換えてポットの紅茶をもう1杯濾過させた。
射命丸 文は出て行った。砂糖を小さじで山盛り3杯入れた紅茶を飲み干し、文文。新聞をもう1部マグカップの脇に置くと、塞がれているのとは別の窓から許諾を得た上で飛び立って行った。当初は玄関扉から出ようとしたらしいが、2cmほど開けたところで諦めたようだった。
霧雨 魔理沙は1人ダイニングチェアーに腰かけて、今も1面記事を見つめていた。
喉かぜの病原因子は一般に言う「ばい菌」とは別物とされる。その特徴は感染者の体細胞内でのみ増殖する事であり、感染細胞を破壊しながら他の細胞へ病原因子を伝播、増殖させ続けるのだと言う。
喉かぜはまず罹患者の呼吸器に侵入して気管や肺の表面で増殖し、病原因子を放出すると共に呼吸機能を阻害する。
破壊された肺細胞から細胞片や体液が肺の内側に浸出する。罹患者の肺は半ば水に溺れた様な状態になり、重篤な呼吸障害をもたらす。肺機能の低下を補うために過剰に大きな呼吸を継続的に行う必要があり、恒常的な身体疲労を促す。
身体は病原因子の除去のために発熱や血管拡張、免疫の活性といった反応を示す。これらは一方で余剰エネルギーの消耗を促し、血圧低下や血行動態が変化して体組織への酸素供給を更に悪化させる。
病原因子やその駆除のために血管の内部が損傷し、そこを起点に血液凝固が発生して血流を悪化させ、臓器への酸素や栄養の供給を阻害する。
身体機能の低下に伴い免疫応答が乱れ、喉かぜとは無関係な病原体による二次感染が起きやすくなる。
低酸素症や多臓器不全、或いは敗血症の併発により肺機能と全身体機能が回復不能になり、最悪の場合に死に至る。
「霊夢が、なぁ。」
霧雨 魔理沙は一面記事から目を離すと、右手でマグカップを摘み上げて口元で深く傾けた。
ずずずと盛大に音を立てて紅茶を飲み干すと、霧雨 魔理沙は両手のひらを枕に、椅子に深くもたれかかった。前触れもなく「よし!」と声を張り上げ、勢いよく立ち上がり本を集めた。本棚から、床の上から、天井裏から床下から、果ては調理戸棚の裏の壁面に埋め込まれた隠し金庫の片隅まで覗き込んで、これだ!これだ!これにしようと次々につぶやいて本を揃えた。作業机に次々とぶ厚い本、薄い本が集まり、うず高く積み上がる。
霧雨 魔理沙は一通り本を選び終え、それ以上目ぼしいものが見つからなくなるとしょぼんとうつむき、一瞬の後にキリっと目付き鋭く笑い直した。今度はゴミ箱を漁って、くしゃくしゃに丸められた裏の白い紙を1枚掘り出して作業机に敷いた。軽くシワを伸ばしてからその隣で本の1冊をめくり始め、鉛筆を握った。
上から順にパラパラとめくり、前触れもなく止めて3、4ページ戻すとその1ヶ所を指差してからメモ紙に植物やら化学物質やらの名前を手早く書き写す。再び本をめくり直し、見つけた材料を紙に書き写し手を繰り返した。1冊目が終わるとすぐどこかに投げて、次の本を取ってパラパラめくり、また次の本へと繰り返した。
裏紙の上に次々と材料名が並べられる。それらをたまに読み返して、時折りいくつかを横線で塗りつぶす。紙には名前だけを書き連ねて、その効果、効能、作用機序といったものは特段調べているようには見えなかった。積み上がる本には古今東西の医学書、重厚な魔導書、民間療法に関する地方史書、一見医療とは無関係なおとぎ話が軒を連ねる。
最後の1冊の最後の1ページをめくり終えると、その本を再びパタパタ闇雲に開き、至るところに目を配らせるが、新しい材料を書き加えることもなく、ぱたりと閉じてダイニングテーブルに投げ上げた。
くしゃくしゃの裏紙を掴み上げる。窓からの光に掲げ、まじまじと見つめる。霧雨 魔理沙は笑っていたが、間もなくしょぼんとしてすぐにまた笑った。
「ま、こんなものか。当たりやすいとっからやってみよう。」
紙を畳んで立ち上がり、戸棚から無地のハンカチーフを1枚取り出して玄関先まで歩き、ハンガーポールに掛けられた帽子に投げ入れた。続けて帽子の中をガサゴソ搔きまわし、中にミニ八卦炉と玄関の合鍵、ガマ口財布が入っていることを確認すると、霧雨 魔理沙はそれを深くかぶって、マフラーを首に、クラシックブラウンのレザーバックを肩に掛けて、「ま、まずは人からタカるか!」とつぶやいて玄関扉を押し開けた。
しかし10cm程開けたところでその扉は動きを止め、膝下程の高さから玄関マットの中央へと大量の雪が家の中になだれ込んだ。
霧雨 魔理沙はそれ以上玄関扉を開けることを諦めて、窓から家を出て行った。
「邪魔するぜ~。おぉなんだ、生きてたのか。」
ノックもなく扉を開け、手首のスナップと慣性だけに任せてそれを閉める。
霧雨 魔理沙が屋内を見回す。ゆとりのあるダイニングキッチン、側面の壁にはブロックごとに若干の色ムラがあるベージュ色のレンガが飛び出るように積み上げられ、太く重厚な柱を築いている。その根元に角型の錬鉄ストーブが埋め込まれていて、その蓋を開けた2個人形がバケツリレー形式で炎に薪をくべている。
アリス マーガトロイド邸、内部は明るく暖かで整頓が行き届いている。
中央にみかん皿の置かれたテーブルの向こうにアリス マーガトロイドが座っている。不思議の国のアリス風衣装の人形が傍らに座り、それに見守られている。テーブルの隅に両肘を当て、目の高さに掲げた両手のひらを自分の顔に向けている。
手には既に後半まで見開かれた手帳サイズの小説が乗っていて、彼女はそれを読んでいた。
「邪魔するなら帰りなさいよ。」
「そう言うなって、邪魔しないから。」
見上げると霧雨 魔理沙の右斜め上に赤服の人形が浮いている。見下ろすような形で彼女のことをじっと見つめていた。霧雨 魔理沙は右の親指と中指で人形の眉間をデコピンすると、帽子を脱ぎながら誰の断りもなくアリス マーガトロイドの向かいに座り、みかんの皮をむいて一切れずつ口に運んだ。
「喉風邪が流行ってるらしいな。」
白とピンクのギンガムチェックのテーブルクロスに足を広げて座っていた人形が立ち上がり、どこかへ向かって飛んで行く。
1度に2、3切れの果実を次々に頬張り、霧雨 魔理沙はこもった声で話しかける。しかし彼女の眼前に構えるレザーカバーは微動だにせず、待てど暮らせど答えはなかった。
「何だよ、そっけないなぁ、客が来てるのにお茶ひとつ出してくれないのか?」
言うが早いか2個の人形が白いティーカップとソーサー、そして赤く、艶やかな琺瑯ポットを運んで霧雨 魔理沙の目の前で紅茶を注いだ。
「気が利くじゃんか、いただきますだぜ。」
一方の人形がアリスの傍に、緑服の人形がポッドを抱えたままどこかに戻って行く。
ハードブックの先で金色の髪が右脇を見下ろし、本を持つ手の片方が人形の頭を優しく撫でて、本の片側へ戻って行く。
「聞けよ、霊夢も引いちまったみたいなんだ、喉風邪。珍しいこともあるもんだよな。」
少しの間を置いて、ペラリと音が鳴った。
霧雨 魔理沙はカップの胴を持ち1口分ずずずと傾け、みかんの残りを一口に放り込んだ。
しばらくして帽子からハンカチーフを取り出しソーサーに広げ、口の中からみかんの種を2粒つまみ取ってそれに乗せた。
「ゴミならみかんの皮にでも包んでこれに入れて頂戴。」
緑服の人形がテーブルの隅にある柄のないバケツ型の箱を霧雨 魔理沙の傍に運んできた。
「いやぁ、違うんだよ。このタネ集めてんだ、喉風邪に効くんだよ。」
革表紙の上端から両目だけをスッとはみ出させて、アリス マーガトロイドは霧雨 魔理沙をじっと見つめた。力ない半ば閉じたような目立った。。
「どこ情報よ、それ。」
「一休噺。」
「昔話じゃない。」
「馬鹿にしちゃいけねぇぜ、紙に書いてあることは何であれ、信じてからじゃなきゃ非難することだってできねぇんだ、論理的にはな。」
アリス マーガトロイドは彼女に両目を見せたまま活字へと視線を落とし、1ページ前をちらりと戻し見てからまたページを進めた。
「信じる信じないの話か知らないけど、ソースが昔話って分かってんなら諦めなさいよ。」
「良いんだよ元ネタが昔話でも、効きゃいいんだよ効きゃあ。」
「効く訳ないじゃない、ただの民間療法でしょ。」
再び紅茶を傾ける霧雨 魔理沙にアリス マーガトロイドが両肩をすぼめ、若干首を傾げながら言った。
卓上の白いコルク瓶を取り大口の蓋を開け、霧雨 魔理沙は軽く笑ってカップに砂糖を落とした。
「別に1個くらい良いんだよ効かなくても、他にいくらでも当てはある。」
「へぇ、他にはどんなおとぎ話を当てにしているのかしら。」
アリス マーガトロイドは閉じきらない程度に本を畳み、その顔をあご先まですべて見せて、笑いかけながら霧雨 魔理沙に言った。
「どれどれ、ちょっと待てよ、今教えてやるからなぁ。」
両手に包んだカップをソーサーの脇に置いて、霧雨 魔理沙は帽子の中から4つ折りにされたくしゃくしゃの紙を取り出し、彼女の目の前で広げた。
「幻想郷雪まつり?中止になったんじゃなかったっけ?」
霧雨 魔理沙はそれを聞いて紙からひょっこりと顔を出してアリス マーガトロイドを見つめるが、メモ紙の裏へ目を向けると2度3度うなずいてひょっこりと顔を戻した。
「あぁ、これは古い奴だ、気にするな。どれどれ、まずはみかん種だろ。それから漢方だな、麦門冬、玄米、桔梗の根に冬虫夏草。そっからイトスギ、スミレ根、クローブ、ショウブ根、オリーブ種と最低300輪のバラの花。」
「さ、さんびゃくりん?」
アリス マーガトロイドは小説を胸元まで降ろして、中止となった、来る雪まつりのお知らせチラシを見つめた。我が目を疑ったような目をしている。
「赤色酸化汞に白色塩酸に不敵な求婚者。」
「求婚者?」
アリス マーガトロイドがだいぶ苦い声で反復する。
「それからコショウやシナモンみたいなスパイス類、ドクゼリと冶喝、で万能薬だな、水銀とマンドレイク。喉風邪の血清、あとはフェノールかベンゼンどっちかがあったら嬉しいなぁ。」
アリス マーガトロイドはハードカバーを静かに閉じ、優しく手を添えて卓上に寝かせた。左こめかみに滲み出した脂汗がゆっくりと垂れて頬骨上に留まった。霧雨 魔理沙を見つめている。
「なんか、疑似科学と民間伝承とカルト宗教のごった煮みたいな薬作るのね。」
裏紙を1度、2度半分に折りながら上目で笑った。紙を一切目ることなく、霧雨 魔理沙はアリス マーガトロイドだけをまっすぐ見つめていた。
「もちろん、ごちゃ混ぜにする訳じゃないさ、効く薬を何個か作って、1つ1つ試すんだよ。なぁアリス、何個か持ってないか?どこも雪ばっかで草も花も生えてないんだよ。」
「えぇぇ。」
アリス マーガトロイドは手を伸ばし裏紙を受け取り開く。眉をひそめてそれを見つめながら首を傾げる。
「薬の原料なんだから薬屋にでも行ったら?漢方くらい揃うと思うわよ。あと、喉風邪の血清って何よ。」
「それもそうだな、後でうどんげでも探してみっか。」
霧雨 魔理沙は新しいみかんを剥き、何個かカバンに入れながら言った。
「いっそのこと薬屋から効く薬買った方が手っ取り早いんじゃない?」
「ばかやろう。買ったら何にもなんねぇよ。私が自分で作るから意味があるんだ!」
アリス マーガトロイドをまっすぐに見つめ、霧雨 魔理沙は強い語感で言ってみかんを頬張った。怒鳴ったという訳ではなく、言葉の語尾にだけ力が入ったようだった。
アリス マーガトロイドの首の傾きはいっそう大きくなり、目はいっそう細まった。
「...まぁ、勝手になさい。わたし薬なんか作らないから、今はブラックペッパーとシナモンしか無いわよ。あと体温計の水銀くらいかしらね。」
「あるじゃないか!そういうので良いんだよそういうので。全部貸してくれよ。10倍、いや100倍にして返すからさ!」
霧雨 魔理沙はテーブルから前のめりになって彼女に顔を近づけ、力強く目をつぶって両手のひらを合わせて頭を下げた。
「ブラックペッパーとシナモンと体温計を100倍にして返されても困るんだけど。」
残りの紅茶を一息に喉に流し込んで立ち上がり、台所や戸棚から目当ての材料を取りそろえるとバックに、みかん種の入ったハンカチーフを風呂敷状に包んで追ってバックに放り入れ、帽子を勢いよく被るとアリス マーガトロイドへ「じゃあな!」と告げて彼女の家を後にしようとした。しかし玄関扉を勢いよく開けたところで立ち止まり、霧雨 魔理沙はふと振り返って問いかけた。
「そういやアリス、何読んでんの?」
「チャールズ・ディケンズ。」
「おとぎ話じゃねぇか。」
「ええ、都会派のね。」
空切り風切り枝を切り、迫り来る樹木を次々に避け、瞬く速さで森の合間を飛び抜ける。
大きな三角帽の大きなつばを右手で押さえ、めくり上げたフェルト生地から上目に視野を確保して、凍て付く息を時折り吐き出し、霧雨 魔理沙は笑っていた。
森の中央から人里に向かって飛んでいる。雪は積もっているが木の葉や雑草が減り、秋までの蒸すような雰囲気も無くなって、その辺をうろつく野生動物や妖精の姿もまばらなため彼女にとっては比較的飛行しやすい環境だった。
ドンッ
「痛って!!」
突然彼女の左側頭部に衝撃が走り、咄嗟に箒を急停止した。攻撃を受けた方向を気にせずまず自分の患部を見た。側頭部から離した手を見るとそれは真っ白く冷たい雪でぐっしょり濡れていた。笑顔だった顔を怒りに変え、相手を見るよりも先に帽子に手を突っ込み、他に何を言うよりも先に敵方へミニ八卦炉を付き向けて詠唱した。
「恋符「マスタースパーク」!!!」
7色のビームが炸裂した。轟音と衝撃波が響き渡り、響き終わると、向こうには何も残っていなかった。相手はおらず何本かの木が立っているだけで、雪も溶けて土が見えていた。
凍った息をゆっくりと2回吐き出すと、霧雨 魔理沙はミニ八卦炉を帽子に戻して箒を握り直した。
「ま、よくあるこったな。一件落着なのぜ。さぁ、行こ。」
今まで枝よりも低い低空を飛行していた霧雨 魔理沙はその柄の先をぐいんと上空へと振り上げて、トンガリ帽子で絡み合う枝々をかき分けて、木々の上へと飛び上がった。
森のはるか上空から人里へ向かう、今も帽子を押さえながらささやかな風を一身に浴びる。
肩から下げたバックの留め金が外れて被せ蓋が風にはためく。大瓶のコショウ粒、シナモンパウダー、革ケースに収められた水銀体温計とハンカチーフがカバンの中で揺れている。そのことに気付いて霧雨 魔理沙は留め金を掛けた。
彼女の眼下には上に雪を乗せた灰色の木ばかりが広がっていた。
とても静かだった。
そのうち地上に命蓮寺が見えた。門前で幽谷 響子とミスティア・ローレライが雪合戦をしている。はたから見れば殺しあっているようにしか見えない程の凄まじい勢いで2匹とも大量の雪を殴り付けあっていたが、しかし両者とも笑っていた。
「元気だな、動物は。」
もう少し飛ぶと雪原の中心で秋姉妹が除雪を一ヶ所で山盛りに溜めて、その側面から穴を掘っていた。
暫く飛ぶと人里が見えてきた。霧雨 魔理沙は里の上空を旋回し続け、道行く人々を見下ろした。どの道も雪は薄く、家々や店舗の脇に除けられた雪が溜まっている。路上の人並みは夏季に比べれば明らかに少ない。しかしマスクを付けて手をつなぐ親子連れや、万屋の店先に座りキセルをくゆらせながら世間を見渡す老人、千鳥足の中年男性の姿を見るに、誰しもが季節なんかに左右されない、普段通りの日常を敢行しようと試みていることが感じられた。
歩行と首の挙動が連動していない明らかな人外もいるように、その所々には人間ではない妖怪や雑多な妖精も混ざっていた。その中に1羽、紫の綿入れに紺の首巻をまとってつづらを背負った、三度笠を深くかぶった少女が見えた。
「ビンゴ!こんな所でクスリ売ってると思ったぜ。」
つぶやくと霧雨 魔理沙は紫色の行者めがけて一直線に急降下した。
「うーどんげ~!!!!」
行者の背後すんでの所で着地して、自由落下時の加速に任せて霧雨 魔理沙はつづらごと後ろから飛び掛かるように抱き着いた。
「ぅわ!ひゃああ!!」ドスン
勢い余って2名とも路上にすっ転んだ。激突の衝撃で行者の傘がはじけ飛んでその下に収め込まれた長髪と兎耳が圧雪の路上に解放された。「いてて。」と起き上がりざま振り返って、行者は右前頭部を抱えながら自分を押し倒した犯人を狂気の瞳で睨みつけた。
「魔理沙さん、ひどいじゃ、ああ!帽子!!」
睨むのは2秒ももたなかった。叫ぶと鈴仙 優曇華院 イナバは慌てて路上に転がった三度笠を見つけ出し、両手で掴んですかさず自身の脳天に押し付けた。
「一体何するんですか!全く!」
まぶたを力ませて、勢いよく、しかし声を押し殺して言う。
霧雨 魔理沙は足を折り畳んであぐらをかき、首を左右に揺さぶりながら上目でにやりと笑って見せた。
「すまんすまん、ちょっとイチャイチャしたかっただけなんだが、スベッてな。てかお前、口覆いと耳の位置関係おかしいだろ。」
鈴仙 優曇華院 イナバはあご下から鼻先にかけてを複層コットン製の布マスクで覆い、その留め紐を本来人類の耳がある方向へと伸ばしていた。
「後ろで縛ってるだけですよ。そんなことより、何か用事ですか?」
なんてことはない、お団子結びが解けた長髪に隠されているが、留め紐は後頭部でリボン結びにされているだけだった。
「喉風邪、流行ってるらしいじゃん。薬作ってんだよ。治すやつ。材料分けてくんない?」
鈴仙 優曇華院 イナバは2回瞬きをして眉をひそめた。
「残念ですが、今流行している感染症のことでしたら、増殖を抑制したり不活化させたりするような、ウィルスに直接影響を与える抗菌剤は存在しませんよ。消炎鎮痛剤や解熱剤で症状を軽減させ、あとはこまめな水分補給や栄養価の高い食事で体力の損耗を減らし、自己免疫で回復するのを待つしか適切な治療法はありません。消炎鎮痛剤と解熱剤ならお売りできますが。」
「いや、そんなもんいらないんだ、私は私の選んだ材料で私だけの喉風邪の特効薬を作るんだ。何も気にしないでこれに書いてある材料を分けてくれれば私は満足なんだぜ。」
霧雨 魔理沙は帽子の中からだらりと紙切れを取り出して振り払うように4ッ折りを開き、鈴仙 優曇華院 イナバへ差し伸ばした。
彼女はそれを両手に受け取り、眉間に皺を寄せながら目を通し、大げさに首を傾げた。
「冬虫夏草はありませんけど、他の漢方の類はいくつか持っていますよ、それから~。何ですかこの喉風邪の血清って。」
「お、お目が高いじゃないか。血清療法だよ血清療法。蛇の毒も天然痘も血清で治るだろ?喉風邪の患者から血清もらいたって思ってんだけどさ、誰かさ?もらいやすそうな感染者知らない?」
「またおかしなことを。」
鈴仙 優曇華院 イナバはだらりとした声量で言うと紙を霧雨 魔理沙に返し、つづらを開けて紙袋を取って漢方を詰め始めた。
「魔理沙さんと仲が良さそうな患者さんなら、霊夢さんなんかかかっていたはずですよ。」
「霊夢か、霊夢はだめだ。他の奴を教えろ。」
鈴仙 優曇華院 イナバは横目に彼女を見つめ、つぶやくように言った。
「霊夢さんだと何か都合が悪いんですか?」
「薬ができるまで絶対に会わないって決めてるんだよあんな奴。」
つづらに視線を落として薬を詰め続ける。
「喧嘩でもしてるんですか?」
「ただの気まぐれだよ。気にすんな。そんなことより、他に風邪ひいた奴教えてくれよ。1本やるからさぁ。」
霧雨 魔理沙は話しながら、懐から紙と葉を取り出して手早く丸め舌早く舐めて作った紙巻きタバコを彼女に差し出した。しかし鈴仙 優曇華院 イナバは首を振った。
「いりませんよ、喉痛めた患者を後目にたばこなんてふかせません。まあ、他に魔理沙さんと知り合いの人と言えば、守矢神社の早苗さんも罹患していますよ。」
「早苗!早苗だと!?」
霧雨 魔理沙は勢いよく4ツ足で鈴仙 優曇華院 イナバへ顔を寄せ、キラキラと目を輝かせて叫んだ。
「早苗、早苗と言えば現人神、現人神の血清か、現人神の血清じゃないか。効く。それは効くぞ、絶対効く。」
「効く訳ないじゃないですか。はい、一応解熱剤と消炎鎮痛剤も入れておきましたよ。」
霧雨 魔理沙は鈴仙 優曇華院 イナバからパルプ紙で作った紙袋を受け取って、断りなくもう1袋、空の紙袋を持ち去り、ギラギラした眼で「効くぞ、絶対効く、絶対に手に入れてやるぞ。」等とつぶやいて彼女の前を立ち去って行った。
鈴仙 優曇華院 イナバは傘を首に結び直して立ち上がり、つづらを背負い直すと、首を傾げながらその後ろ姿を見届けていた。
霧雨 魔理沙は少し歩き、最寄りの米問屋の店先に入って店頭の量り売りの米桶から玄米を3合枡で山盛りに取り、枡ごと紙袋に入れて折り畳み漢方の紙袋と共にバックに入れると、駆け出してきた店番に追いつかれる前に箒にまたがり瞬く間に飛び去って行った。
途方に暮れた店番の横まで歩み寄り、彼女と共に霧雨 魔理沙と箒の後ろ姿を見つめていた鈴仙 優曇華院 イナバはハッと我に返って咄嗟に叫んだ。
「魔理沙さんお代!」
「早苗、早苗~、起きろ~、おーい。」
「ん~。ゴホッ、ゴホッ、あ、魔理沙さん。いらっしゃい。」
深い眠りから目を覚ますと枕元には霧雨 魔理沙がいた。彼女は両手のひらを畳みに乗せて、覗き込むように彼女の顔を覗き込んでいた。東風谷 早苗は霧雨 魔理沙を見上げると数度せき込み、目を笑わせて挨拶した。口元はマスクに覆われて分からなかったが、その端から覗き込まれる赤い頬は厚く肉を寄らせていた。
「なぁ早苗、お前の血、私に分けてくれよ。」
東風谷 早苗は横たわったまま首を傾げた。
「東風谷家の血って、そんな良いものなんですか?」
「お前の血統には興味ないんだよ。血が欲しいんだよ。今お前の体内を流れ続けている血液を。」
「ハァ、ハァ。。。ジョブチェンジしたんですか?吸血鬼に。ゴホッゴホッ。」
東風谷 早苗は両目を閉じて握り拳をマスクに当てて咳き込んだ。
「飲まねぇよ薬に使うんだ。今流行ってるだろ?喉風邪。治療薬の開発に喉風邪に感染したお前の血清が必要なんだ。」
「ゴホッゴホッ。ゴホゴホッゴホッ。ゴホッ。」
東風谷 早苗は立て続けに咳き込んだ。落ち着くと彼女は片目だけを開けて、呼吸を整えながら笑いかけた。
「ハァ、ハァ。こんな状態の私でも、人の役に立てるんですね。」
「お前なんかおかしいんじゃないの?安静にして早く元気になれよ。」
霧雨 魔理沙はあぐらをかいて頬杖を突きながら彼女のことを見降ろした。
「すみません。」
「謝るんじゃねぇ、感謝しやがれ。」
霧雨 魔理沙はバックから小箱を取り出し、そこから針の付いたガラス注射器と細い麻ひもを取り出した。
「さなえ~、おかゆで、おい魔理沙いま早苗に何注射した。」
ゆったりしたささやき声が一瞬のうちに威嚇に変わった。霧雨 魔理沙の向かいにある襖が開き、小鍋と水の満たされたガラスコップの乗る盆を持った八坂 神奈子が彼女のことを見降ろすような角度から睨みつけてきた。
「勘違いするな、したんじゃない、これから注射するんだよ。言ってやれ早苗、私なんも悪くないって。」
八坂 神奈子は鼻で呼吸を試みながら室内へ歩み入ろうとした。
「あ!魔理沙!早苗にちょっかいかけるな!カゼひいてるんだから!」
しかし洩矢 諏訪子の方が早かった。廊下の向こうからトタトタと足音が駆けてきて彼女が横滑りに飛び出して、霧雨 魔理沙へ指を差し怒鳴りつけた東風谷 早苗のそばまで駆け寄った。
東風谷 早苗が布団から起き上がり、2柱を見上げながら笑って言った。
「神奈子さま、諏訪子さま、魔理沙さんは、正しいですよ。魔理沙さん、採血しようとしてた、だけなんですよ。」
「採血って、医者でもない魔理沙が早苗から血を抜いて何する気なのよ。」
間髪を入れず八坂 神奈子が言った。霧雨 魔理沙は鬼のような形相で東風谷 早苗に顔を近づけ、2柱に指を指しながら命令した。
「ほら、言ってやれ!」
「魔理沙さん、私の血で、お薬を作ろうと、してるんですよ。」
「ダメに決まってるでしょそんなこと!」
洩矢 諏訪子は更に鬼の形相だった。霧雨 魔理沙からは一切目を離さず声の限りに怒鳴り、東風谷 早苗の両肩に腕を回して抱き寄せた。
「いいじゃねぇかちょっとくらい。現人神の血清だぜ?効かねぇはずがねぇだろ。」
「眉唾すぎる、そんなことのために弱ってる早苗を更に弱らせるようなことさせられない。」
洩矢 諏訪子を追うように八坂 神奈子が室内に入り盆をちゃぶ台に置き、布団の脇に置かれた火鉢の木炭を火箸で1度2度動かした。見上げるような角度からは分からなかったが、盆の上には水と青菜入り卵がゆの他に、箸置きに置かれた1さじのレンゲと、五角形に畳まれた薄く小さな紙が置かれていた。
「いいんです神奈子さま、諏訪子さま、ゴホッゴホッ。せっかく魔理沙さんが頼ってくれたんです。めったにないことです。ゴッんん、断る訳にはいきませゴホッゴホッ。」
東風谷 早苗は深くうつむきながら咳き込んだ。洩矢 諏訪子は霧雨 魔理沙から彼女へ視線を移して彼女の背をさすり、八坂 神奈子も彼女に駆け寄った。霧雨 魔理沙に向けていたものとは全く違う視線だった。
霧雨 魔理沙は勢いよく彼女の肩を2回叩き、2柱を見回しながら言った。
「話が分かるじゃねぇか。早苗がこう言ってるんだ、採らせてくれよ。良いだろ?」
洩矢 諏訪子は霧雨 魔理沙の胸元を左で握り凄まじく強く締めた右握り拳を自身の背後で大降りに掲げ、間髪入れずに振りかぶろうとした。しかし八坂 神奈子がその両手を押さえ付けた。両者は睨み合い、見つめ合い、洩矢 諏訪子は腕を振り下げてうつむき、東風谷 早苗を見つめて彼女の肩を掴み語り掛けた。優しい声だった。
「さなえ、そんな無理することないんだよ。」
「そうだよ、しかも相手は信者でも何でもない、魔理沙なんだから。」
東風谷 早苗はそれに答えず、口をつぐんで首を振っていた。その後も洩矢 諏訪子も八坂 神奈子も彼女への説得を試みたが、彼女はいつまでも首を振り続け、目に涙をにじませて、首を振り続けた。
深々と下げた2回目の頭を上げて小銭袋から数枚の硬貨を選び取り、箱の格子蓋の隙間へとつまみ入れ、頭上から垂れた釣り紐を左右に揺らす。じゃらじゃらと大玉の鈴が響き、手を2度打ち鳴らし、しばしの黙祷の後、再び深く一礼する。
そのうちに目の前の格子戸が右だけ開き、誰かが出てくる。目を開けて彼女を見ると、意外にもそれは巫女でも神でもなく、魔女だった。
「どうした、にとりじゃないか。残念だけど今日は参拝も採血もできねぇぜ、早苗が危篤なんだ。」
頭を上げながら眉をひそめて、河城 にとりは霧雨 魔理沙に問いかけた。
「どうしたはこっちだよ魔理沙。神奈子様辺りが出てくると思ったら魔法使いが出て来るなんて。誰が想像できたろうか。」
「ちょっとした野暮用だよ。気にすんな。お前こそ何しに来たんだよ。賽銭に投げるくらいなら失敗が分かってる実験に金掛けるような種族のくせに。」
霧雨 魔理沙が巨大な帽子で両手を隠しながら河城 にとりに歩み寄って面と向かう。
「偏見が過ぎるよ魔理沙。河童にだって信仰心くらいあるさ。必ずしも科学は宗教に反する訳じゃない。信仰を持って馬鹿正直に神話を読み込むからこそ、その中から検証しなければならない疑問、答えを創り出さなければならない矛盾だって見つけられる訳だ。それに宗教側にしたって自分たちの信仰とそれに反する現実をどうにか擦り合わせようと躍起になってる。科学の誕生と発展の根底には宗教があって、宗教もまた科学が導き出してきた答えのうち、自分達に都合が良いものに限って際限なく愛し続けてきた。科学が宗教に反する訳じゃない。科学に自分たちの結論を絶対に譲らない融通の利かなさがあって、宗教に相手が科学か否かに関わらず、都合が良い結論だけ賛美して、都合が悪い結論だけに文句を言って毛嫌いする身勝手さがあるんだって、ただそれだけなんだ。」
「いや何の用で神社に来たのか聞いてるだけなんだよ。」
「そう言うとこやぞ。言ったろ魔理沙、河童にだって信仰心はある。新開発のメカを、しかもそれが人の生き死にに関わるような重大な発明品で、これから人里に納品して試験運用しなければならないとなったら、神頼みくらいしたくもなるさ。」
「新しくなんか作ったのか。面白そうだ、見せてくれよ。」
両者は共に境内を離れ、鳥居の真下、石段の頂上まで歩いた。
「いいよ、デカい機械だから下に置いているんだ。」
石段を降りきってすぐの所に4輪の台車が1台置いてあり、その上に綺麗に収まるような構造物がござの中に覆われて麻のロープで固定されていた。
「だいぶでかいじゃないか。お前たちにしてもこういうの作るのには結構な金が掛かっただろう。」
石段を降りて台車へと近づく。降りると河城 にとりはロープの結び目を開いてござを掴んだ。
「出資してくれる相手がいてね、彼女の要望なんだ。相当の金を積んでくれたし、今はやることのない仲間も結構いるから、依頼からものの1週間程度で出来上がったよ。量産の準備もできている。じゃあ、見てくれ。」
「なんだこれ。」
4輪の車輪に乗った骨組み造りの機械があった。上部に上下稼働の革製蛇腹があり、スチールのクランクシャフトがその下についている。シャフト部分は径の異なる3枚のローラーに繋がりローラーの1つにベルトが張られている。ベルトはその更に下にあるローラーへと伸びていて、それは上ローラーと同じく径の違う3枚が並んでいる。下ローラーは1本の軸を通して、ブリキの箱へと接続されていた。革製蛇腹の上には革のホースが飛び出して、首掛けベルトの付いたじょうご型の構造物が、革ホースの先端に繋がっていた。
「人工呼吸器さ。そこの蛇腹を上下させて外気を取り込み、マスクから患者に送り込む。」
「この管に繋がったへんなののことか。依頼人は医者だな?」
河城 にとりは心なしか冷たく笑って首を振った。
「永琳にも話は付けてるんだろうけど違うよ。うちの出資者はまあ、ただの金持ちみたいなもんだろうね。もちろん人間じゃないが。」
「良いよなぁパトロンがいるって。金も仕事も生活保障も、ぜんぶ養ってくれるんだからよ。私もパトロンが欲しいぜ。」
「ああ、恵まれてる限りだよ。」
1人と1匹は台車の上に乗り機械の細部を覗き込む、車輪のある台座部分は機械を横並びに2台取り付けられる構造になっており、呼吸器は片側に1台のみ据え付いていた。
「回転軸のアームと押し込み棒との接続長を段階ごとに切り替えて蛇腹の伸縮長を切り替える。回転軸の回転速度はベルトに掛かるこの大きさの違う滑車を切り替えて調節する。蛇腹の調節はアームについてるネジを外してネジ穴の位置を変えて締め直す。ベルトはこのレバーを押してテンションローラーを緩めれば張り直せる。動力は下の滑車に繋がっているこのブリキ箱の中だ。この上のスイッチと蛇腹の下に繋がっているレバーを切り替えれば機械は動き出す。この中には箱の幅いっぱいに調節した板バネがロール状にまとめられてぎっしり詰められているんだ。」
機械の所々を指差しながら河城 にとりは揚々とそれについて説明した。
「なんだ、何で動いてるかと思いきやゼンマイかよ、せこいなぁ。」
河城 にとりはむっとして霧雨 魔理沙に向き合い、深くしゃがみ込んで再びブリキのゼンマイ箱を見つめながら話し続けた。
「これが1番マシだったんだよ。呼吸器以外のコストも考えるとね。出資者は最初電動にしたかったようだけど、そのためには呼吸器と一緒に発電機も作る必要があった。うちの里からあの竹林まで電線を引くなんて馬鹿なこと勿論できないし。あの竹林にはちょろちょろと流れる小川みたいなのしか通ってない、水車での発電に耐えうる大規模な水源はあの辺りには存在しないし、ボイラー蒸気で発電するにしても炭素燃料の粉塵や燃焼後の灰は気管支炎の患者にはご法度中のご法度だ。永遠亭からある程度離して建てるにしても、何台かの人工呼吸器のためだけに少なくない金と継続的な燃料供給を掛けてまで発電所を建設するのは現実的じゃない。何よりも非鉄金属は他でもない希少品だ。比較的手に入りやすい銅にしてもね。私たちとしても、量産品のためにとてつもない量の銅を浪費したくはなかったんだ。」
「ま、言い訳はいくらでもある訳だな。」
ぎょっと肩を跳ね上げ、霧雨 魔理沙を見上げて、依頼人について聞かれた時よりも一層露骨に冷たく笑った。
「否定はしないさ。」
ゼンマイ箱へ視線を落とし、その上に人差し指を置いて話し続けた。
「見ての通り相当デカいゼンマイだ。薄い軟鉄箔だから量産にも耐えうる。ゼンマイ箱以外にも機械全体をかなり単純に設計したから、原料さえ揃えば1日か遅くても2日目で1台作れるはずだ。ゼンマイは最大まで巻けば1番強い負荷で動かしても5分は稼働し続けるように作っている。停止する2分前に自動的に中のベルが30秒間鳴り続ける。ゼンマイが止まったらすぐ箱を取り外して予備のゼンマイ箱と取り換えれば継続的に人工呼吸ができる。ゼンマイは河童が全力で回しても5分は要するくらい巻かなきゃならないが、暇な野良妖怪の2、3匹でも2束3文かタダ飯で雇えば対応可能だ。電動でやったら電力不安定やモーターの不具合で機械そのものがいつ止まったって今の技術力じゃおかしくないし、永遠亭に四六時中1皿貼り付いていられる程河童も暇な訳じゃない。出来ない訳じゃないが、多角的に見てゼンマイが一番簡単で安心だったんだ。出資者は不満そうだったけどね。」
しばし談笑して河城 にとりは機械を包み直し下山していった。霧雨 魔理沙はただまじまじとその後ろ姿を見えなくなるまで見届けた。後頭部に組んだ手の片方を目の前に移し、コルク栓の根元を蝋で固めた試験管の中を覗き込んだ。中の血液は既に凝固が始まり出し、その上積みにうっすらと黄色い血清が溜まっていた。
彼女は境内へ戻り格子戸をあける。すぐそこの床板の上にショルダーバックが行儀よく鎮座していた。霧雨 魔理沙はその蓋と本体の隙間に試験管を滑り込ませると。肩掛け帯を掴み持ち上げて格子戸を閉めとした。声が聞こえた。
「本当に、すみません。心配、掛けちゃて。」
東風谷 早苗の声だった。か細く、傍で聞いていた時よりもかすれて聞こえた。
「良いんだよ早苗、あんたは今体を壊しているんだから。」
「本来なら、感染症に苦しむ人々を私が心配して、ゴホッゴホッ。わ、私が助けなくちゃ、いけないのに。グスンッ。私が、神奈子さまや諏訪子さまに心配されて、え゛、助けられるなんて。」
「当たり前じゃん。だってあたしたち家族だもん。」
肩掛け帯を掴んだまま、霧雨 魔理沙は建物の奥を見つめて固まっていた。
「不思議に、思うんです。ゴホゴホゴホッ。なんでみんな、私のこと大切にしてくれるんだろうって。私なんか、私なんか人から愛されるような、資格ないのにゴホッゴホッ」
しばらく咳をする声だけが続いた。八坂 神奈子も洩矢 諏訪子も、咳声の続く間、何も言うことはなかった。
「あ~あ、熱で参って、完全におかしくなってやがる。」
霧雨 魔理沙はショルダーバックを抱え上げ格子戸を閉めると、財布から小銭を1枚取って賽銭箱に投げ、静かに手を合わせると、箒にまたがり帽子を押さえて飛び去った。
山を抜け、湖の上空まで差し掛かった。
あどけない笑い声が聞こえてくる。何か話しているのかもしれない。湖の水面が凍りきっていてチルノや雑多な妖精達が湖面を滑ったり湖畔で雪だるまを作ったりして遊んでいる。冬でなくともできるだろうに、弾幕を撃ち合う妖精たちの姿も見受けられた。
氷面に両膝を突いた今泉 影狼が1抱えの大岩を頭上まで高く掲げて足元へ殴りつけ、再び持ち上げては足元に殴りつけてをいつまでも繰り返していた。
「何やってんだあいつは。」
紅魔館の門前で紅 美鈴が黒い格子門の脇で赤レンガ造りの支柱に背を預け、よだれとはなぷく提灯を垂らしながらすやすやと眠っている。彼女は帽子の上に山盛りの雪を乗せている。四角いレンガ柱には雪が吹き溜まって小高い雪山が築かれており、彼女はその中に胸の高さまで埋まったまま安らかに眠っていた。
「ご冥福をお祈りするぜ。」
門の上空を通り抜け、紅魔館を一旦素通りして、裏庭の片隅に着地した。除雪はされておらず、見渡す限りになだらかな白銀世界が広がっている。ずぽっと深くショートブーツを呑み込んだ積雪はすねの中腹まで至り、ソックスの届かない素肌を冷たく冷やした。
「ひや~、このままじゃ足がびしょびしょになっちゃうぜ。」
霧雨 魔理沙は足元の雪を左右に寄せて地面を露出させる。するとそこからまだ青みの残る葉が顔を出した。
「多分これだな、よし、やってみよう。」
霧雨 魔理沙は帽子からミニ八卦炉を取り出して地面へ突き付けて植物の葉へと白く細いビームを1発撃ち込んだ。泥砂が飛び散り、粉雪が舞い上がった。地面には直径数十cmのクレーターができて、その底には葉の上で2つの星をくるくると回したマンドラゴラが目もくるくる回して横たわっていた。
「へへへ、ビンゴ。しまった。包むものがないや、どうしよう。」
中腰にかがみ獲物を見つめて気が付いた霧雨 魔理沙は衣服の胸元からスカートまで両手で撫でながら周囲を見回し、バックの中を見つめて側頭部を掻き、その手を首元に移しながら再び周囲を見回した、そしてきょとんと眼を丸めて両手を首元のマフラーに当てた。
「仕方ない、マフラーで良いや。」
霧雨 魔理沙は白い息を吐きながらマフラーをほどき、気絶したマンドラゴラの顔を2、3度はたくと、それをマフラーでぐるりぐるりときつく縛ってカバンに入れた。
「よしよし、あとはあん中だな。おっとそれから、」
霧雨魔理沙が箒にまたがり雪原上空を飛ぶ、しかし上昇せずつま先がわずかに雪に接しない程度の低空を維持してカタパルトの滑走のように加速し続ける。霧雨 魔理沙に切り裂かれ、雪面に叩き付けられた空気が一直線を切り開くように粉雪を深くえぐって巻き上げる。
充分な加速を得たところで大きくU字に旋回する。ミステリーサークルあるいは地上絵のように広大な紅魔館裏庭に「し」の大文字が書き込まれる。
霧雨 魔理沙が紅魔館外塀に接近する、いくつものイトスギが塀に沿うように等間隔に並んでいる。霧雨魔理沙は一方の手で箒を掴みながらもう一方の手を伸ばし、次々と通り越していくイトスギの枝から細い物を一本掴んで勢い任せにちぎり取った。
「よっしゃ!」
左右によろめきながら霧雨 魔理沙はイトスギから離れ、箒の先端を上に向けて急上昇した。天上へとまっすぐ垂直に飛び上がり、瞬く間に加速する。顔面に刺さる激しい風圧を帽子で防ぎ、それが吹き飛ばされないように枝を掴んだ右手で覆う。
霧雨 魔理沙は右に体重移動して紅魔館へ足が向くように左右感覚をねじり曲げた。
飛行高度が紅魔館最上階に達したところで霧雨 魔理沙は頭上側へ大きく宙返りして、紅魔館側面を一直線に方向転換した。紅魔館の目ぼしい窓に当たりを付け、その一点めがけて一直線に突進し、緩めることなく加速し続け、激突ざま箒から飛び降り足を突き出して、窓ガラスを蹴破って紅魔館内部に侵入した。全面レッドカーペットの床の上に黒い窓枠材と板ガラスの破片が散乱する。炭も灰も一切ない火の灯っていない暖炉、片付けられ、化粧道具の影が一切ない化粧戸棚と曇りのない姿見、豪華だが決して絢爛とは言えないふかふかのベッド、恐らくそこは紅魔館に数ある客間の一室だった。
「息が凍る、屋内にしては寒いな。風通しが良すぎるぜ。」
霧雨 魔理沙は箒を肩に担いで部屋を後にした。
扉を開けて背後に閉めた直後、霧雨 魔理沙は背後から何者かに足を払われバランスを崩し、戸板に後頭部をぶつけながら後ろのめりに転倒した。
「いてて、はッ!」
後頭部を撫でながら反射的に閉じた目を開くと既に彼女の喉元には銀のダガーが突き付けられていた。霧雨 魔理沙は息を堪える。
十六夜 咲夜は首の根のあたりにナイフを構え、半身を起き上がらせるような体勢の霧雨 魔理沙に対しぴったりと体を組み合わせるように、四つ足立ちでかがむ形で鼻と鼻とが合わさるような距離で彼女に顔を近づけていた。不服そうだがどこか無機質な、しかし頬の赤らんだ表情で霧雨 魔理沙を睨んでいる。ふいに口を開いて言い出した。
「ハァ、」
言葉ではなかった。元々高音なのに更に語尾が上がるような、音階の高い、音か息のどちらかだった。霧雨 魔理沙は首を傾げる。
「はぁ?」
「ハァ、ハァ!」
十六夜 咲夜は更に裏返った高音を2度、3度と繰り返し、開いた口を更に大きく、両目をあくびのように力んで細めた。霧雨 魔理沙は目を驚愕に丸めて叫んだ。
「おい咲夜ちょっと待!」
「ハァックション!!!!!」
ひとまず立ち上がり、2人は壁に体重を預けひと息つきながらハンカチーフを取り出した。十六夜 咲夜は眠そうな細目のままハンカチーフを取り出し鼻の周りを拭き、目の形を><にしてチーンと咬んだ。霧雨 魔理沙は終始細目のまま、中身を包んだままのハンカチーフで顔中を拭った。
「ごめんなさいね、今日ちょっと気だるくて。」
「気だるくてくしゃみが出るかよ。」
一通り顔周りを拭き終えた霧雨 魔理沙は、ずぶ濡れの犬のように首を振りながら言った。
「手っ取り早くつまみ出そうと思って蹴り倒したけど、蹴り倒すのに夢中で時間止めてくしゃみするほど頭が回らなかったわ。」
「言ってること戦闘狂だな、時間止めてくしゃみするのが当たり前だと思い込んでる。」
使用済みのハンカチーフを半分に畳みながら、十六夜 咲夜は首をひねって霧雨 魔理沙へ向いた。
「そういえば魔理沙、霊夢があなたのことを探していたわよ。」
「霊夢?あいつ風邪っぴきだろ。」
霧雨 魔理沙は小首を傾げた。
「風邪ひいたまま来てたわよ、紅白巫女というより紅紅巫女だったわ。」
「いや何で霊夢が風邪っぴきで私探してんだよ。」
十六夜 咲夜は肩と首をクイクイとひねらせ、右手で首裏を揉みながら霧雨 魔理沙に向き直った。
「知らないわよ、感覚でしか動かない巫女の心理なんか。さぁ、手っ取り早く捕まえたんだから、手っ取り早く帰りなさい。」
霧雨 魔理沙は壁に肘を突いた右手で側頭部と全体重を支えると、十六夜 咲夜ににやりと笑みを見せた。
「ヤだね、材料集めに来たんだ、材料集めるまで帰らねぇぞ。」
十六夜 咲夜は右肘を抱えて右の頬を手で覆い眉毛を垂れ下げた。
「うーん。今日はあんたとドンパチするのもおっくうなのに。」
「どうせ私が忍び込むのなんかいつものことだろ。いつも通り取り逃がしたとかでいいじゃないか。」
十六夜 咲夜は目を逸らしてあごに手を当てながら少し考えた。考え終えると目だけで霧雨 魔理沙を見つめて言った。
「今日くらいいいかもね。用事をすぐに済ませてすぐに帰りなさい。誰にもんん!!ふう。」
十六夜 咲夜の体勢が突然変わった。彼女はうつむき気味に直立して胸に片手を当てている。
「済んだか?くしゃみ。」
十六夜 咲夜は呼吸を落ち着かせ、霧雨 魔理沙をチラ見した。
「ええ。済んだわ。誰にも迷惑かけちゃだめよ。」
「心配すんな、いつも通りパチェリーくらいにしかかけないって。」
「パチュリー様にもかけちゃだめなんだけど。」
「よぉパチュリー、頼みがあるんだ。」
「コホン、また本を盗みたいんなら古いの返してから盗みなさい。コホン。」
地下図書館、最下層中央に設けられた巨大な机に何冊も本を重ね、そのうち一冊を卓上にどかっと開いて安楽椅子から前のめりにパチュリー ノーレッジが見降ろしている。
熱源はどこにもないのに図書館はどこも温暖で、湿気は感じない程度だがどこも多湿だった。
霧雨 魔理沙は机の向かいに両肘をついて前のめりになり、彼女の顔を覗き込むようにして話しかけた。パチュリー ノーレッジは軽く丸めた拳の側面を口元に当てて、わざとらしく咳払いしながら受け答えた。
「違うんだよ。今日は材料が欲しいんだ。」
にっこり笑顔の小悪魔が鏡面仕上げされたスチールプレートにカップを乗せたソーサーとポットを持ってやって来る。霧雨 魔理沙の目の前にソーサーを移し、ポットを傾けカップに紅茶を注ぎ入れた。鮮やかに波打つ磁製のティーセットで、キズもカスレもない純金で縁取られていた。
耳心地のいい注入音と共に白い湯気が沸き立つ。霧雨 魔理沙はカップを掴んで1含みし、ソーサーに戻し置いた。その間彼女はパチュリー ノーレッジから一切目を離さなかった。
「魔理沙が来たら頭にかけるように教えとくんだったかしら。コホン。」
パチュリー ノーレッジの傍に置かれたカップに紅茶をつぎ足し、小悪魔はにっこり笑顔のまま立ち去った。
「喉風邪が流行ってるだろ、材料集めてるんだ。喉風邪に効く薬、作ろうと思ってんだ。つーかお前も患ってるんじゃないのか?」
「ええ、軽くね。外に出てないのに、どこから貰ってきたのかしら。コホッコホッ。」
「出来上がったらお前にも飲ませてやるよ。絶対効くからな?」
紙をめくる手を途中で止めて、パチュリー ノーレッジは霧雨 魔理沙を上目で見つめた。彼女と見合うと霧雨 魔理沙はあごを引き下げ上目に笑い、帽子の中からメモ紙を取り出して開き彼女に差し向けた。
「あなた、楽しそうね。」
「やりたいことやってるのに楽しくない奴がいたら、間違いなくそいつには治療が必要だぜ。」
開かれたメモ紙の下に手を添えてその文字列に目を通す。だんだんとそのまぶたがぐにゃりと細まっていく。
「思いついたこと全部並べてるようね。コホン、コホン。漢方に四体液説、この辺は占星術かしら。ホメオパシーまで、一言で言って混沌ね。こんな薬で治すよりも、喉風邪に効果のある肉体強化魔法でも探した方が早いんじゃ、コホッ、ないかしら。」
「なるほど、肉体強化か。薬で行き詰ったらやってみるか。」
パチュリー ノーレッジは霧雨 魔理沙を見てまばたきを3回した。
「薬は作るのね。」
「何だ?悪いのかよ。」
パチュリー ノーレッジは1度ため息をついた。
「理論構築を進め、仮説を練って、アプローチの方法を確立してから実験に取り掛かる。基礎的な手順に乗っ取って、確実に結果の得られる研究法を築かなければ、どんなやり方をしても成果なんて得られないわよ、コホン。」
「ヘッ!」
霧雨 魔理沙は目の色を変えて直立し、パチュリー ノーレッジを睨んだまま両腰に手を当て、大机を回り込むようにのそりと歩いた。
「羨ましいよなぁ、パトロンがいるって!貧乏魔法使いには碌な資材を揃える金も、自由な研究ができる余命もない、落ち着いて研究する心理的余裕なんて無いんだぜ!成功するかどうかは二の次、できる順、やりやすい順からやって、ビギナーズラックが舞い降りるまでお手々のシワとシワあわせ続けなきゃ心が持たねぇ!私だってパトロンが欲しいんだぜ!」
パチュリー ノーレッジは目の動きだけで霧雨 魔理沙を見つめ続けていた。彼女はソーサーをつまみ上げて胸元に運び、カップの持ち手を右手指先で摘み上げ静かに飲んだ。
カップをソーサーに戻し、ソーサーを机に戻すと、椅子に深く持たれかかって霧雨 魔理沙を見上げて行った。
「クリエンスも楽じゃないのよ。パトロンという者がなぜ、私たちにお金を掛けて生活まで養うのか、考えたことある?答えは単純、利益になるから、或いはパトロンがそう期待しているからよ。確かにクリエンスには金も時間も与えられるけれど、それはひとえにパトロンの期待に応えるためのものであり、パトロンに信頼されているからであり、それに見合うだけの実績を絶え間なく出し続けるか、或いはそう思い込ませる必要に、私たちは常に迫られているものなのよ。それが無茶かどうかさておき、毎日のように突き付けられるパトロンからの要求に応え続けるか、あるいはパトロンに抱かれるでもしなければ、たちまち私たちは見捨てられてしまう、彼女らからの支援を打ち切られてしまうのよ。案外どこまでも自由って訳でもないのよ。私たちは彼女たちに従うか、従うふりをし続けなければならないのよ。パトロンかクリエンス、どちらかが枯れ果てる、その時までね。」
パチュリー ノーレッジの傍で、組み手で固めた片肘で大机に体重を預けて、霧雨 魔理沙は彼女の顔を見降ろしていた。彼女の話し終わった頃には、霧雨 魔理沙はどこか冷たくと笑っていた。
「結局羨ましいよ。八方塞がっても抱かれりゃまだ生き永らえられるんだろ?安いもんじゃねぇか。」
パチュリー ノーレッジは寝そべながらうつむき、まだ血色のマシだった肌をあおざめさせた。彼女はしばらく黙りこくり、前触れもなくぼそりと言った。
「あり得ないこととは信じているけど、もしあの子が本気になって私のことを抱いたのなら、きっと私は死んでしまうわ。」
「あいつ吸血鬼だもんな、お前もやしだもんな。まぁ、頑張れよ。」
「何も分けてくれないなら仕方ないから1冊借りて行く。」そう脅迫したところパチュリー ノーレッジは1瓶の酸化水銀(II)、塩酸、フェノールを受け取ることができた。
霧雨 魔理沙はウキウキと笑いながら図書館を出て1階へ登り、2階へ登り、塀や立ち木が比較的遠い窓を探していた。外を見て、時折り近場の部屋を覗いて、右を見て、左を見て、再び通路を見回すと、霧雨 魔理沙は咄嗟に立ち止まり眉をひそめた。
遠くで誰かがが横たわっている。霧雨 魔理沙のてくてくとしていた足取りはだんだんと早くなり、長距離走者を彷彿とさせる速さに至り、通路上に倒れたメイドの傍で立ち止まった。霧雨 魔理沙は再び眉をひそめた。
「どうして、お前が。」
彼女にはまだ意識はあった。息はあったが、吸うも吐くも充分にできず、それを肺活量だけで無理やりに補おうとするような切れ切れとした息づかいをしていた。血色が以上に良く、首元、鼻先、銀髪の隙間に僅かに覗き込める額まで真っ赤に変色していた。
切れ切れとした息の合間に絞り出すような咳が時折飛び出す。あまりに勢いがなく、連発せず、うめき声のような息遣いがそれに続くだけだった。
メイド長、十六夜 咲夜はそこに倒れ、起き上がろうともせず呼吸していた。
「微生物や病原体の概念が発明されたのは、魔法が廃れたずっと後よ。その後になって微生物と、病原微生物という概念が生まれ、寒天培地では分離できないウィルスの発見と共に、病原体の概念がもたらされた。近代科学が病理を解明できたからこそ、公衆衛生は発展できた。それがどんなに恐ろしい病であれ必ず鎮圧できる、全共同体規模に及ぶ巨大な伝染病対策システムが生み出された。予防し、治療し、感染を抑止するという集団的な感染対策の構想が生み出されたのよ。」
暖炉の炎だけがこうこうと照る薄暗い部屋、シングルベッドの赤くぶ厚い掛け布団に包まれた十六夜 咲夜がか細い息でぐっすりと眠っている。
その枕元に小さなテーブルがあり、液体の入った2本のガラス瓶と2本のガラス注射器がある。小悪魔が注射器を白い布にくるんでガラス瓶と共にどこかへ持ち去る。
小悪魔が立ち去ったところにパチュリー ノーレッジが歩み寄り、十六夜 咲夜を穏やかに見降ろしていた。
「まだ魔法が魔法であった頃、人々は病気を患う原因を自分たちか、悪魔のせいか、あるいは全能者に見出していたわ。自分達の体液バランスが悪いせいか、魔女の仕業か、そうでなければ天罰なのだと。もちろんその時代には、免疫という概念だって、影も形もなかったのよ。喉風邪は今分かっている魔法でも直すことは出来ないわ。適切な治療法が確立された頃には、魔法がもう消えてしまったからよ。肉体強化魔法ですら喉風邪の治療法としては見込めない。肉体強化魔法で強化できるのは肉体に限るわ。体を動かすための筋力や、外敵からの刺突を和らげるための防御力といった、肉体そのものとその働きを強化できるだけであって、十中八九、免疫器官なんて強化できないわ。細胞や免疫グロブリンみたいな、その昔にまだ解明されていなかった微細な領域になんて、魔法には関与する発想もなかったのよ。」
暗がりの中で、パチュリー ノーレッジの頭だけが左右にゆっくり動いていることだけが目に見えた。
「案外、私たちの生活に活かそうって時になって、使い処に苦慮する物なのよね、魔法って。」
「何を言ってんだよ。」
パチュリー ノーレッジの背後から誰かが声を出し、近づいて立ち止まる。霧雨 魔理沙だった。
「だったら新しく作りゃ良い。ウィルスと免疫が知れ渡った今の世の中で、ウィルスを弱め、免疫を強める魔法を見つけ出し、創り出せば良い。お前の言うみたいに、分かってることを上手いこと組み合わせて確実な成功を手に入れるのも良いもんだが、全くの0から新しいもんを1個作り出そうってのも、少なくとも楽しいもんなんだぜ。」
パチュリー ノーレッジは半分振り返り横目で彼女を見つめると、口元だけをほころばせ、「ふふふ」と笑った。
「そうね、私も気付かないうちに、誤魔化すことばかりに努力していたのかもしれないわね。」
扉が開き、閉まる音がした。続いて足音が聞こえたが、近づいて来なかった。まるで彼女たちから距離を取るように壁を沿って移動し、彼女らの背後で立ち止まった。薄明るい暖炉の光が、あどけないフリルと赤いリボンの付いた白い靴を、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がらせた。レミリア スカーレットは言った。
「話は聞いたわ。咲夜が伝染病に感染したことを黙って働いていたそうね。」
白い靴がまっすぐに歩き出す。暖炉の目の前を通り過ぎ、ベッドの前までやって来た。
パチュリー ノーレッジは枕元から離れ、レミリア スカーレットがそこへ歩み、立ち止まった。安らかに眠る十六夜 咲夜を見降ろして、彼女はため息をついた。それは疲労や絶望によるものというより、どこかうっとりとした様相だった。
「完璧で瀟洒なる従者、私の大切な玩具よ、満ち満ちた月が望月たり得るのは、それ以上に多い月日を満ち足りずに過ごしているからよ。本来自らに欠けがあることを受け入れ、向き合い、あるいは克服するからこそ、彼女はかけひとつない姿を見せることが出来るのよ。」
十六夜 咲夜は小さく寝返るように天井を見上げる首をレミリア スカーレットに傾ける、何を注射されたのか、その眠りも、息遣いも安らかだった。
「いまは満ち足りぬことを受け入れ、ぐっすりとおやすみなさい。またすぐにでも完璧で瀟洒な従者となれるように。」
「案外落ち込んでもいなさそうだな。」
霧雨 魔理沙は横から挟むように口を出す。レミリア スカーレットは2歩かけて方向転換し、霧雨 魔理沙へ面と向かう。
「魔理沙。咲夜を見つけてくれて、応急の看病をしてくれたこと、感謝するわ。筆舌に尽くし難い程によ。欲しい物を言いなさい。パチェが許して、この館から切り分けることのできるものなら、何でも貴女にプレゼントするわ。」
「紅魔館の半分を私に寄越せと言っても通りそうな物言いだな、じゃあこいつが出し渋った薬の原料全部くれよ。出来るだろ?」
2者の視線がパチュリー ノーレッジに向かう、彼女は軽く丸めた拳の側面を口元に当てて、わざとらしく咳払いしながら受け答えた。
「コホン、仕方ないわね、存分に研究なさい。コホン。」
「うぅ寒い、寒い寒い。もう冬虫夏草見つけたらサッサと帰ろう。見つかんなくても寒いから帰ろう。」
雪がしんしんと降り始めた。バックからは乾燥した紅バラの花びらが半ば溢れ出していて時折こぼれ落ちている。白い息を吐きながら手に持ったメモ紙に視線を落とす。そこに並べられた材料の一覧にはほとんど全てに黒い横線が引かれていて、未だ塗りつぶされていないのは、最低300輪、不敵な求婚者、冬虫夏草の3項目だけだった。
「見つからない材料がある。」と半泣きになった小悪魔に両手を引かれ、パチュリー ノーレッジが自ら材料庫まで赴いて探したが、冬虫夏草は見つからなかった。「誰かが盗んだのだろう。」と彼女は霧雨 魔理沙を睨みながら告げて、冬虫夏草を差し出せないことを続けて詫びた。
紅魔館から天狗の住む山の上空を抜けて、箒で飛んだまま森の中へ入り込んだ。自転車を最も軽いギアでこぐ程度のゆっくりとした速さで森林を進みながらあたりを見回すが、冬虫夏草はおろか、それとは無関係なごく当たり前のキノコすら存在するとは思えない程に、周囲はすべて雪に埋もれていて、霜柱ばかりが時折その代わりを務めていた。
「って流石この森でもこれだけ雪が積もってりゃ、きのこなんて生えないか。」
「キャー!」
森の向こうから少女の叫び声が聞こえた。霧雨 魔理沙は急停止して進路を変え、声の方向に駆け付けた。そこには彼女から背を向けたサニーミルクが仁王立ちしていて、その足元で大穴に落ちたスターサファイアが笑いながら雪面によじ登っていた。
「なんだ、遊んでるだけか。心配させやがって。おい!お前ら。」
2匹の妖精が小口を丸くして彼女を見つめる。
「てか、お前らいつも3匹じゃなかったっけ?1匹どうした?」
「ルナならあっちで休んでるよ!」
スターサファイアが穴から半分身を乗り出してあらぬ方向に指差しながら言った。
「スターが石の入れた雪玉なんかあさっての方向に投げるから。あたしたちだっていつだって3人ってわけじゃない、休むこともあれば、はぐれることもあるよ。だけどそのうちまた一緒になるんだよ。」
サニーミルクが上半身だけを一杯にねじって振り返りながら言う。
「ま、問題ないなら何よりだぜ。ついでにさぁお前ら、ここで暮らしてるんだろ?きのこ生えてるとこ教えてくんない?ほら、みかんやるからさ、みかん。」
「わぁ、みかんだぁ!」
「魔理沙だってここで暮らしてんじゃん。」
2匹の妖精はパタパタと飛び上がり、答えながら霧雨 魔理沙のそばまで着く。霧雨 魔理沙はショルダーバックの底からみかんを3個取り出して2匹の妖精に見せびらかす。
「私は1つ屋根の下に暮らしてんだ、お前らみたいに野宿じゃない。外のことならお前らの方が詳しいはずだ。あったかくて雪のない所が怪しいんだが。」
「あたしらだって1つ木の下に暮らしてるんだよ、野宿じゃない。」
「ん~、あそこはどうかな?きのうサニーが見つけたって言ってた、崖の真ん中にある、あったかくてきのこが生えてる穴」
「おお、あるのか!どこだそこ!今すぐ案内してくれ!」
「外にいると寒いから、あったかいところを探すんだ。」
「あれなんだな、お前らは家に籠るという概念はないんだな。」
先頭をサニーミルクが、その後ろをスターサファイアがパタパタと飛び、更にすぐ後ろを霧雨 魔理沙が箒にまたがりついて行く。3者とも手にヒトデ型に向かれたみかんの皮皿を乗せていて、もう片方の手でその上にあるみかんの実を1切れずつ取って食べていた。
「それで、地面の下にもぐってく穴があるでしょ?」
「知らねぇよ、そんなもん。」
時折りサニーミルクが振り返って話しかける。
「そういう穴ってあったかいのがいくつかあって、きのう見つけた穴は特にあったかかったんだ。」
「しかもきのこが生えてるわけだ。」
霧雨 魔理沙は目をきらびやかせている。
「きのこなんか生えてたっけ?」
サニーミルクが首を傾げた。霧雨 魔理沙の笑顔が突然凍った。
「え?知らないけど、なんか生えてたってルナ言ってたよ?くにくにした棒みたいなやつ」
スターサファイアは霧雨 魔理沙に背を向けたまま言った。彼女の言葉に霧雨 魔理沙はほっと胸をなでおろすが、途中から敏感に反応して、スターサファイアの脇まで飛んで鼻と鼻が近づく程に顔を寄せた。
「おい、もっかい言ってくれ、何か生えてたんだな?棒みたいなやつ、きのこみたいに見えたってことはさほど大きい物じゃない訳だ。」
「う、うん、なんか生えてたらしいよ、ウソじゃない」
「お前が見たんじゃないんだな、まぁいいや。きのこって確証がなかったってことは、そいつの頭に傘はなかった訳だ。」
スターサファイアは唇に人指し指の指先をあてて右斜め上を見ながら答えた。
「なかったんじゃない?ちょこんと棒が土からとびでてるだけだったって」
「掘り返したか?根元に虫はいたか?」
スターサファイアは眉をひそめた。
「え?しらないよ、虫ってどういうこと?」
「私の探してるきのこがそういう特徴なんだ。一刻も早く案内しろ、道に迷ったら承知しねぇからな。」
霧雨 魔理沙がスターサファイアの両肩を堅く握る。サニーミルクは彼女らを見ながら苦笑した。
「そんな焦んなくても穴は逃げないよ。丘の端っこが崩れてできた、崖にあるめずらしい穴だから迷いっこない。きのうもここを通ったんだ、同じように行けばぜったい着くよ。」
サニーミルクに連れられてスターサファイアと霧雨 魔理沙が森の中を進んで行く。途中、少しだけ開けた中にちょこんと低木樹が立っている。その側に突然止まりサニーミルクが振り返った。
スターサファイアがほぼ同時に止まって霧雨 魔理沙は箒の柄を彼女の背中に追突させた。
「見てこれ、きのうはこのツララでスターとルナとチャンバラをしたんだよ!」
見るとその樹から長く伸びたいくつもの枝には所々で雪が解け集まり、複数のツララが垂れている。サニーミルクがその中から長いものを1本、スターサファイアが次に長いものを1本折り取り、揚々とひと振りしてから霧雨 魔理沙を見つめた。霧雨 魔理沙はきょとんとして2匹を見回したが、一呼吸置いて2匹の妖精が表情を曇らせた。
「魔理沙もツララ取れよ、チャンバラするんだぞ。」
霧雨 魔理沙は眉間にシワを寄らせた。
「ええ?なんでだよ、遊んでないでまっすぐ行こうぜ?」
「いいじゃん魔理沙!いっしょに遊ぼうよ!」
「さっき言ったでしょ!同じように行けばぜったい着くって。同じように行かないとぜったい着かないよ!」
霧雨 魔理沙は眉間にシワを寄らせたまま首を傾げた。
「まじかよぉ、じゃあいいから~お前ら2匹でやってろよ。昨日私いなかったんだから。」
「だめだよ!今はルナがいないんだから、魔理沙がルナの代わりになるしかないじゃない!」
霧雨 魔理沙は眉間にシワを寄らせたまま首を傾げ、後頭部を掻き揺らした。
「えぇ。もう、同じように行くって絶対そういうことじゃないじゃん。仕方ねぇなぁ。」
霧雨 魔理沙は身を乗り出しながら手を伸ばしツララを1本掴み取る。折れた瞬間に枝が揺れてそこから落ちた雪が帽子にかかった。
「うわ!あ、あぶね!」
間もなくサニーミルクが霧雨 魔理沙の胸元を1突きし、霧雨 魔理沙がそれをかわしてサニーミルクに突き返した。それを皮切りに1人と2匹はそれぞれ手に持ったツララをサーベルのように突きあった。サニーミルクとスターサファイアの持つツララは同程度の長さだが霧雨 魔理沙のツララは彼女らのより明らかに短く、霧雨 魔理沙はそれを俊敏な箒さばきを活かした間合いの緩急と腕の長さで補いながらツララの突き合いに興じた。
おのずと3者はあらぬ方向に動き出し、元あった低木樹からどんどんと離れて行った。気が付くと穏やかに岩間を流れる小川の上に差し掛かった。川の中央でサニーミルクとスターサファイアが示し合わせたかのように全く同じ動作で霧雨 魔理沙を突いた。2度3度と突いたため、霧雨 魔理沙は咄嗟に大きく間合いを開いた。
「違うだろ魔理沙!川に落ちろよ!」
「そうだよ魔理沙!落ちないと!」
霧雨 魔理沙が目を見開く。
「ぁあ?何でだよ、聞いてねぇよそんなこと!」
「聞いてなくても!きのうはここであたしとスターが同時に突っついたからルナが川にドボンって落ちたんだよ!落ちてくれないと案内できない!」
霧雨 魔理沙の赤みがかった頬が白く変色する。
「だってこんな寒いのに川に落ちるなんて」
「落ちてくれないと案内できない!」
強い発生でそういわれ、正面に突き向けたツララが力なく垂れ落ちる。
「そんな、分かったよ。落ちるから、このカバン持っててくれよ。」
手放したツララが川底に転落して砕け散り、霧雨 魔理沙はショルダーバックを持ち上げてサニーミルクに差し出した。声が震えている。
「うゎ、おもい。」
サニーミルクはショルダーバックに引っ張られその高度をガコンと落としたが、バックが着水する寸でのところで身を持ち直し、それを首にかけてツララを構えた。
「さぁ、準備できたぞ。やれよ、早くやれよ!」
霧雨 魔理沙は両目を全力で閉じて両手をピンと左右に伸ばし、裏返った震え声で絶叫した。
2匹の妖精は息を合わせ、渾身の力を込めて「えいや!」と霧雨 魔理沙を突き飛ばした。霧雨 魔理沙は見るからに盛大に飛び上がり、真っ逆さまに流水の中に転落した。
ドボーン!!!
「わははははは!ルナったら!わははははは!」
「さ、寒い。寒い。おい笑ってんじゃねぇぞ!」
高く跳ねあがあった水しぶきが落ち着いた、その向こうでサニーミルクとスターサファイアが腹部を抱えて爆笑していた。特にスターサファイアはヘビーメタル音楽の振り付けをゆっくりとさせたような盛大な動作で全身をくねらせ。霧雨 魔理沙に指を指しながら目に涙を溜めて笑っている。
震える全身をできる限りに両腕で包んだ霧雨 魔理沙の裏返った叫び声は、あまりの力なさにその笑い声でかき消されてしまった。
「そしたらね魔理沙、ルナはこのあと怒ってスターに石をなげてぶつけたんだ。」
それを聞いた瞬間、霧雨 魔理沙は水底から石を拾いスターサファイアの額めがけてフルスイングで投げつけた。
「わははははは!わはははははあひゃ!!! あは! 。」
右こめかみ付近に小石を受けたスターサファイアは体勢を崩して垂直落下し、川岸に露出した岩肌に後頭部から激突して、両方の瞳孔を一杯に開くと動かなくなり、間もなく半透明になった。
「そしたらね、スターってば頭の打ちどころが悪くて一回休みになっちゃったんだ。きのうはね。」
「お前らの日常って死ぬこともセットなの?」
霧雨 魔理沙は震えた声でか細く言ってサニーミルクを見上げた。知らぬ間に彼女の瞳にハイライトが消えていて、低いトーンで喋っていた。
「仕方ないでしょ、なっちゃったもんは。それでこのあとあっちに行ったんだ。」
「お、おう。あぁカバンもう返せよ。なんかごめんな。」
霧雨 魔理沙は箒にまたがり浮かび上がり、サニーミルクからショルダーバックを取り上げるように受け取った。
「あら魔理沙、材料は揃、て大丈夫?ずぶ濡れよ?」
森の中でアリス マーガトロイドと遭遇した。大きな籠を抱えた2個がかりの人形と共にふわふわと浮いていた。
「大丈夫じゃないのぜ。何か色々怖くなってきたんだぜ。冬虫夏草見つけたらまっすぐ帰るんだぜ。」
霧雨 魔理沙は震えた声で答えた。全身ぐっしょりと濡れていて、スカートの裾からぽたぽたと水を滴らせ、小さなツララを伸ばしていた。今も上半身を腕で包み、震えながらサニーミルクの後を追っている。
「あなた達もいつも3人くらいでいたと思うけれど、他の仲間はどうしたの?」
「スターとルナはいま休んでるよ。魔理沙が石ころとマスパなんか投げるから。」
「何で私が悪いんだよ。私だって被害者なんだぜ。」
「まあ、2人とも、安静にね。」
アリス マーガトロイドは頬の端に脂汗を1滴たらした。
「そういうアリスはどうなんだよ。お前が出かけるだなんて珍しい。」
「あら、失礼しちゃうわね。今日は奮発してクッキーを作れるだけ作ったから、これからお医者さんや感染した人たちに届けに行くのよ。」
籠の上部を覆った白とピンクのギンガムチェックのチーフをめくり上げ、その下からバニラフレーバーのクッキーを2枚取り出した。
「さすがアリス、そういう微妙に役に立つ気の利かせ具合が私の好みなんだぜ。」
「そんな変なおだて方しても出るのはクッキーだけよ。そういえば魔理沙、霊夢があなたを探してたわよ。」
サニーミルクはクッキーをもらうと「わーい」と喜びながら2人の周囲をくるくる回る。1つまみのクッキーをかじりながら霧雨 魔理沙は首を傾げた。
「紅魔館でも聞いたけど、何で霊夢が私のこと探すんだよ。風邪ひいてんのに。」
「あなたが分からないのなら世の誰にも分からないことでしょうよ。たぶん彼女にもね。じゃ、私行くから、冷えるから早く帰るのよ。」
アリス マーガトロイドは人形と共に人里へとふわふわ浮いて行った。それを見届けて、クッキーを頬張るサニーミルクと共に先を急ぐと、突然彼女は立ち止まって、霧雨魔理沙は箒の柄をその背中に追突させた。
「あ、しまった!道分かんない。」
「おい、どうしたんだ。昨日と同じに行けば絶対行けるって言ってたろぉ。」
霧雨 魔理沙はサニーミルクの顔を覗き込みながら問い詰める。
「だって、きのうはアリスなんかと会わなかったんだもん!」
「お前は何でこういう時だけ融通が利かないんだよ!いつも何か、もっとこう適当だったろ!」
「だって、だってぇ!」
サニーミルクは両手で側頭部を押さえて全身をくねらせる。
「どうにか思い出してくれよ、私ずぶ濡れになったんだぞ!」
「あとちょっとなのに。思い出せない!たしかあたしたちはこのあとどっかに行って、そこに丘があって、そこに穴があって。ルナが寒いって言うから穴の中で少し休んで、そのあと上に登って、低い木に生えた赤いちょうちんみたいなのに入った小さな実を一緒に食べて、ルナが眠いって言うからその上の木の枝で一休みして、ルナが一回休みになって、」
「自然の中で生きるのって、結構大変なんだな。」
サニーミルクが胸の前に両手を握り霧雨 魔理沙を見上げ、目に涙を溜めて言う。
「ぜったいこの近くなんだ、木の上から見ればぜったいに見つかるくらい近いんだ。」
頭を抱えてうなだれていたが、霧雨 魔理沙はそれを聞くと目の輝きを取り戻しサニーミルクを見つめた。
「おい、じゃあ木の上まで飛べば見つけられるんじゃないか?」
「へ?どゆこと?」
霧雨 魔理沙はサニーミルクと肩を組んで森の上空に浮かび上がる。枝を抜けてすぐの所で止まり、左を見て、右を見る。山のふもとに土砂崩れの跡がある高地が見えた。
霧雨 魔理沙はそこを指差した。
「あれか?」
サニーミルクの表情が明るく晴れ上がった。
「そうだ!あれだよ!行こう!今すぐ行こう!」
「あの辺だよ、あそこでルナをあっためたんだ。」
「不思議だな、私もう寒くないぜ、死んじまうのかな。」
森と山のつなぎ目にあるような、地面から換算して20m弱程度の小高い丘、なだらかな山側の斜面とは違い比較的急な森側の斜面は一部なだれ落ちて土が露出している。頂上には葉のない木が1本立っていて、その根元に葉のない低木が生っている。サニーミルクは丘の全高から3分の2程度の高さにある地すべり面に接近して、そこに空いた穴へ指を差した。
「この穴だよ、ここがなんだかあったかいんだ。」
霧雨 魔理沙がサニーミルクのすぐ脇まで飛んで彼女の指し示す方向を覗き込む。すべり面の端に、四つん這いになれば楽々入り込めるような横穴が開いている。頂上の樹木から伸びたのだろう細い木の根が穴の内外に飛び出している。覗き込むと確かに微かな暖気が流れ出ている。帽子の中からミニ八卦炉を取り出して小さな火を灯しその光を穴の中に指し向ける。横穴の入り口から40cm程度のところ、木の根が保ってくれている柔らかな土の上に、白い、一見脆そうな10cm程度の棒状の個体が飛び出していた。ミニ八卦炉の炎に照らされて、霧雨 魔理沙の瞳はきらきらと黄色く輝いていた。
「あった。きっとあれだ。掘ってみよう。」
「魔理沙、あたし上で木の実食べてていい?」
振り返るとサニーミルクが丘の上を見上げて目を輝かせていた。霧雨 魔理沙にはほがらかな笑みが浮かび、うなづきながら答えた。
「あ、ああ。色々理不尽な苦難はあったが、ここまで連れて来てくれて助かったぜ。こういう穴にきのこがあると分かりゃ私も1人で探せるはずだ。あとはもう好きにしてくれ。」
「やった、じゃああたし上にいるから、なんかあったら呼んでね。」
ミニ八卦炉を帽子に戻し、霧雨 魔理沙はその横穴まで50cm強まで接近する。それ以上は近づくことは出来なかった。横穴は垂直に近いすべり面の余りにも端に位置していて、箒の中腹から後ろ寄りに座っている霧雨 魔理沙自身が近づくためには箒の後端を丘の崩れていない面に乗り上げさせる必要があり、霧雨 魔理沙の箒を近づけるためには霧雨 魔理沙本人が穴の正面より40cm程度すべり面中央側へずれなければならなかった。
前者を取る場合、霧雨 魔理沙本人とキノコまでの距離が大きく開き、箒上で身を乗り出し、バランスを取りながらキノコを採取することになる。
後者を取る場合、斜面に体重を寄せながら作業できるため、ある程度採取時の体重移動を機にかける必要はなくなるが、体勢の関係から穴の中を見ながらキノコを採取することがほぼ不可能であり、脳内でのイメージと指先の感覚だけでキノコを掘り起こすことが必要となる。
箒と自身の位置関係を最良にするための試行錯誤の末、霧雨 魔理沙が選んだのは前者だった。横穴を自身の肩の高さに、箒を入口面に対して斜めに立てかけて、片手を3、4本の細い木の根に、片足を斜面に預け、もう片足と肩から吊り下げたバック本体を箒に預けたまま、一杯に手を伸ばして繊細な力でキノコの根元を掘り返した。
1かき、2かきするがキノコはまだ掘りきれない。霧雨 魔理沙は更に身を乗り出し、土をかく力を強めた。3かき、4かきする。子実体とは違う何かが見えてきた。霧雨 魔理沙は笑みを浮かべる。
更に強い力でもう1度土をかいた。キノコがひとりでに倒れた。その根元からキノコとは違う、未成熟のうちに息を引き取りミイラと化した、カブトムシか何かの幼虫が現れた。霧雨 魔理沙は笑ってつぶやく。
「ビンゴ!」
しかしその時、あまりにも身を乗り出し過ぎたためショルダーバック本体が箒の上から離れて土手の斜面を叩き付けた。溢れんばかりの乾いた花びらが辺り一帯に舞い上がった。均衡を保っていた身体バランスが一斉に崩れて霧雨 魔理沙の全体重が丘の斜面に移動した。片方の足が箒から離れ、この斜面で彼女の位置を保つものは、彼女が片手で握った数本の細い根の束だけとなった。
霧雨 魔理沙は地滑り跡の斜面から滑り落ちるところを寸でのところで踏みとどまった。
標高十数mの位置で彼女は木の根に吊り下がっている。
主を離れた箒は途端に浮力を失い垂直方向へ落下した。直下にある急斜面の土砂に衝突して土手の上を転げ落ち、乱発する凹凸に勢い任せに打ち付けられ、1バウンド、2バウンドして、3バウンド目で地表の粉雪に沈没した。
彼女の箒は雪の下に深く沈み、もうそれ以上動かなくなった。
「この手を離したら、私もああなるんだな。」
白い息を大きく出し入れして、少しでも呼吸を整える。頼みの綱である木の根を再び強く握り直す。積雪がだんだんと顕著になってきた。袖や帽子のつばに湿った雪が溜まる。
ずぶずぶに濡れていた衣服はもう既に湿っていない。氷点下の冷気に晒されてシャーベッドのように硬く凍り付いていた。彼女の手はかじかみ、わずかに開いた顎関節から両脚の指先まで小刻みに震えていた。
しかし霧雨 魔理沙は笑っていた。
「まあ良い、サニーを呼べば助かるさ。その前に。」
彼女の瞳はまだぎらぎらと輝いていた。再び横穴の中を覗き込み、数十cm先に横たわる冬虫夏草へなりふり構わず腕を伸ばし、そして掴んだ。
霧雨 魔理沙の蒼白い肌は再び赤らんだ。
ブチッ、ブチッ、
「え?」
また顔色が蒼ざめ、霧雨 魔理沙は頭上を見上げる。握りしめる木の根の束が2本その手の中でちぎれて、次の瞬間残りの根が全てちぎり取れた。
ブチ!!!
「あ!」
咄嗟に目をつむった。霧雨 魔理沙は最後の命綱からも突き放され、3階建てほどもある高地の中腹部からほぼ垂直の土手を滑り、転げ落ちた。彼女は声を上げる間もなく、今しがた落ちた愛箒の後を追うように、崩れ落ちた地滑り跡の上部から地面まで、またたく速さで真っ逆さまに、転落しなかった。
もう間もなく粉雪に叩き付けられてもいい頃に、霧雨 魔理沙はまだ宙にいた。それに気付いてか彼女は恐る恐るとその目を開いてはすぐ閉じて、また慎重に開いて天下を見つめた。
彼女は空にいた。落下はしておらず、浮いていた。箒のない彼女が自力で浮いているのではなく、万有引力によって垂直方向に引き下ろされ続ける彼女を、彼女とは違う何者かが垂直方向に引き上げていたのだった。
霧雨 魔理沙はぽかんと首を傾げ、知らぬ間に抑えていた帽子をずらして自身の頭上を見上げる。そこには彼女の上着の布を両手で掴んだ博麗 霊夢が、息切れ切れにぐったりとしながら空中に浮かんでいた。唖然としながら彼女のことを数秒見つめた後、霧雨 魔理沙は怒鳴りつけた。
「おい霊夢!掴むんなら脇の下とか腕とか掴んでくれ。服が破れたら今度こそ魔理沙さん死んじまうぜ。」
「ごめん、今あたま回んない。まっすぐ飛ぶだけで精いっぱい。このまま、あんたの家まで行くから。ハァ、ハァ、降ろしたらわたしすぐ帰るわね。」
博麗 霊夢は顔を真っ赤にして明らかに困憊した表情をしていた。霧雨 魔理沙が何か叫ぶたびに振動でバランスを崩しそうになっていた。
「じゃあ一回降ろせ!箒取ってきてお前乗せるから。」
「ゆ、揺らさないで!たぶん無理、降りたらもう立てない。」
「そもそも何で出歩いた!そんな衰弱してるのに。」
博麗 霊夢は少しの間答えず呼吸を整えた。
「なんか、お昼くらいから胸騒ぎがして、あんたのこと探そうと思ってうゲホッ、ゲホッ、ゲホッ。」
「それ胸騒ぎって言わねぇんだよ。動悸って言うんだよ。そういう時は安静にしないといけないじゃねぇか。」
「だって、あんたきっと。無茶するから。」
霧雨 魔理沙はまた唖然として不作為に握った拳を軟らかくほどいた。張り上げた声は力を失くし、優し気に言った。
「あぁ。ありがとうな。おかげで助かったぜ。本当は、私がお前のこと、助けたかったんだけどな。」
「え、声小さい。もっかい言って。」
霧雨 魔理沙は反発するようにまた声を張り上げた。
「なんでもねぇよ。あれだ!引き返してくれって言ったんだ。私の箒取りに行かせてくれって。」
「だから、むりだってゲホ、ゲホゲホゲホッ、うぅ、あ、ゲホッ、ゲホッ」
「お、おい霊夢!気を保て!あるいは今すぐ降りろ!ここで落ちられたら魔理沙さん死んじまうぜ!」
彼女の家に着くまで、霧雨 魔理沙は怒鳴り、博麗 霊夢に振り子のように揺さぶられながら空を飛び続けることとなった。
今しがた雪が止んだ。
真っ白な大地と青い空の間を、赤い点と黒い点がわちゃわちゃと揺れて飛んでいた。森は、そんなわちゃわちゃのことなど無関係のようにすっきりと乾いていて明るく、そして涼しかった。
霧雨 魔理沙は結局その日のうちに箒を取り戻すことはできなかった。その念願が叶うのは春を迎えてから、三妖精が雪解けの下に残存した落ち葉を掃き集めるためにそれを使用しているところに遭遇し、彼女らと弾幕ごっこを経た後となった。
博麗 霊夢は「すぐ帰る。」と言っていたが、彼女はその日の内には帰らなかった。霧雨 魔理沙の家に着き、彼女を追って力任せに玄関を開け屋内に入ると、博麗 霊夢はすぐに彼女のベッドに潜り込んで一晩中熟睡した。
霧雨 魔理沙はそれから2日2晩、症状を悪化させた博麗 霊夢を看病し続けた。
2日目からアリス マーガトロイドが訪れたため、彼女もそれを手伝った。
博麗 霊夢は症状の回復から4日後、喉風邪を患った霧雨 魔理沙が完治したことを確認してから、アリス マーガトロイドと共にその家を後にして、博麗神社へと帰って行った。
おわり
思い付きを思い付きのままやりたい放題やっている魔理沙があまりにも魔理沙でした
語り始めると急に饒舌になるパチュリーもあまりにパチュリーでしたし
河童もあまりにも河童でした