銀三郎は荒い息をあげながら、山道を駆け下りる。心臓が破裂しそうな程に脈打つが、痛みを感じる余裕さえも無い。重力に引かれて加速していくのに身を任せ、ただ足を前へ前へと投げ出していく。不恰好で、走っているというより下手な舞踊を披露しているみたいだった。転ばずにいられたのは、殆ど奇跡に近かった。
——すまない、鉄平……。どうか、生きていてくれ。
止まらない足を転がしながら、はぐれた息子の事を思う。
銀三郎は、人里で草鞋屋を営んでいる男だ。決して裕福な暮らしでは無いが、息子と娘、三人で幸せに暮らしていた。
それがこの度、娘のすずが畳屋の息子と結ばれ、祝言をあげる事になった。親としては世間並みの立派な式にしてやりたいが、いかんせんその日暮らしに近いような生活で、先立つ物が無かった。
そこで銀三郎は、危険を承知で妖怪の棲む山に野草を取りに入った。ここにしか自生しない草が、干して煎ると薬になるだかで、斜向かいの道具屋が高く買い取ってくれるのだった。
一人きりで山に入るつもりであったが、息子の鉄平が共に行くと言って聞かなかったので、二人で山に足を踏み入れた。目当ての草や、自分たちで食べる為のきのこ等で背中の籠をいっぱいにしたところで、異変は起こった。
日も沈み始め、そろそろ帰ろうかと話していたところだった。妖怪の時間となる夜になる前に、山を出る必要があった。
茂みから突如、巨大な塊が二人の前に飛び出した。太陽が遮られ、急に目の前が暗くなった。まるで山が動いたかのように思えた。
突然の出来事に、銀三郎達は何が起こったか分からず、ただ呆然とそれを見上げた。
ごぅ、という息遣いが聞こえた。
それは、巨大な熊であった。
肩は異様なほど発達し、盛り上がった筋肉が毛皮を押し上げて波を打っていた。毛並みは泥と枯れ葉にまみれ、栗色がかった長毛が風に揺れるたび、獣臭がむんと立ち上る。
琥珀色の目は片方が潰れていて、もう片方は鈍く濁り、光を吸い込んだように暗い。
その目が銀三郎達を捉えた瞬間、熊の鼻先がふくらみ、ぶふぅ、と重い湿った息が吐き出された。その音で、銀三郎ははたと我に返った。
熊はゆっくりと、鉄平の方へ踏み出した。足は丸太のように太く、地を踏むたびに、落ち葉と土が押し潰されて沈む。
身体全体が、緊張をまとっていた。
足が竦む前に行動に移れたのは、僥倖だった。
銀三郎は「逃げろ!」と叫び声を上げ、呆然として口を開けたまま固まる鉄平の手を引いた。
腕を引っ張られた鉄平も漸く我に帰り、二人は熊に背中を向け、一目散に走り出した。
そして、途中の別れ道で意図せずに別方向へ散り、離れ離れになってしまった。
そこから先は、無我夢中だった。
振り返る余裕も無く、ただただ前へ前へと、一刻も早く山から逃げ出そうと必死だった。
鉄平の身を案じる気持ちと、軽率に山に入った判断を呪う気持ちに駆られながら、全力で山を駆け抜けた。
後ろから追う音は無く、静寂だけが続く。
そして今、漸く麓の民家の灯りが遠くにぼんやりと浮かびだした。
その灯りに、ほんのりと安心感を覚える。
「……鉄平……お前もどこかで……」
かすれた声をこぼした、その折。
前の藪が、はらり、と僅かに揺れた。
山風ではない。
草が押しのけられる音――重い何かが潜む気配がした。
銀三郎がそちらに顔を向けた瞬間だった。
藪が大きく弾け飛ぶようにして、目の前に黒い塊が横合いから躍り出た。
銀三郎は立ち止まろうして、尻餅をついてしまう。その体勢のまま、その塊を見上げる。
——熊だった。
先ほどよりも近く、恐ろしく細部までその姿が視界に入る。
肩の筋肉が盛り上がり、毛皮の下でぬらりと動く。
腹は厚く、呼吸のたびに上下し、湿り気を帯びた獣臭がまるで霧のように漂う。
爪は手斧の刃のように反り、泥にまみれながら鈍い光を放っていた。
そして――
右前肢の爪の間から、どろりと赤いものが滴り落ちている。
血だ。
栗色の毛に広く染み、まるで生肉を握ったまま歩いてきたような有様であった。
銀三郎の喉が、音もなく震えた。
……鉄平。
呼びかけることすら、もうできなかった。
熊は喉の奥で低く唸り、ゆっくりと、しかし確実に銀三郎に歩み寄る。
その一歩ごとに、地面が揺れる。
銀三郎は尻餅をついたまま後退るが、大木にぶつかり、逃げ場を失った。
「や……やめ……!」
涙とも汗ともつかぬものが頬を伝う。
その声は震え、山風に掻き消されてゆく。
熊の影が、銀三郎を覆い尽くす。
その眼が、至近でぎらりと光った。
銀三郎の絶叫が深山の静寂を切り裂いた。
◇
「…………おはよう」
扉を叩く音に起こされた霧雨魔理沙は、寝ぼけ眼を擦りながら、玄関先に立つアリス・マーガトロイドに朝の挨拶をした。
まだ半分夢の中で、扉を開けたら目の前にアリスがいるという事以外、あまり認識できていない。
「おはよう……って、もう昼よ?」
アリスは挨拶を返しながら、呆れたように笑う。その言葉の通り、太陽はとっくに昇りきっていた。
幾ら陽の光が余り届かない魔法の森に住んでいるとはいえ、今日の魔理沙はあまりにも寝ぼすけだった。
「いやぁ……昨日の夜、つい本に夢中になっちゃってさ」
段々と意識がはっきりしてきた魔理沙は苦笑し、アリスを中に招き入れた。何の用だと訊かないのは、何の用も無くても訪ね合う間柄だからだ。
アリスの為に机の上を簡単に片付けながら、魔理沙の頭の中には、つい先程まで見ていた夢の断片が浮かんでいた。
夢の中の魔理沙は幼く、母親を求めて泣いていた。そんな魔理沙を、女の人が優しく抱いてくれた。暖かな体温を感じて、魔理沙は安心感に包まれながら眠りにつく。そんな夢だった。
それは、魔理沙にとって最も古い記憶だった。女の人の顔は朧気だが、金色の髪が揺れていたのをぼんやりと覚えているから、きっと母親なんだと思う。その優しいゆりかごみたいな抱っこは、ふかふかの布団に沈み込むみたいな気持ち良さで、幼い魔理沙を満たしていた。
魔理沙はその夢を、年に数回は見ていた。その度に、何ともいえない寂しさに苛まれて人恋しくなっていた。
だから、そんな夢を見た昼にアリスが訪ねてきたのは幸運だった。
魔理沙はアリスを椅子に座らせて、やかんに火をかけて湯を沸かす。そして、アリスと飲む専用の紅茶を取る為、棚に手を伸ばした。
その際に、チラリとアリスの横顔が見える。揺れる金糸のような髪が、夢の中の母親と重なった。
「なぁ、何で私って金髪なんだろうな」
昔から気になっていた疑問をぶつけてみる。当然、答えを知ってると思ってはいない。
「親からの遺伝じゃないの?」
「そりゃ、そうなんだけどさ」
ある意味、期待通りの回答に小さな笑いが漏れる。
人里狭しの中で、金色の髪をしているのは、魔理沙と母親だけだった。目立つのが嫌いでは無いから、魔理沙はそれを不満に思った事は無いが、ずっと不思議には思っていた。
母親自身に訊いてみても、「ビール党だから」と適当にあしらわれるだけだった。因みに母親が酒を一滴でも飲んでいるのを見た事が無い。
そんな事を思い出している内に湯が沸いたので、急須に注ぐ。アリスからは紅茶を急須で淹れる事に不平を言われるが、魔理沙としては急須とポットを使い分ける方が馬鹿馬鹿しく感じられる。
急須と湯呑み(これまた、アリスには文句を言われる)を盆に乗せて、アリスの待つ机まで運ぶ。以前に道中で転んで手を火傷した事があるから、慎重に歩く。
「ほら、茶だぜ」
「ありがとう」
机の上に置いて、紅茶を急須から湯呑みに注ぐ。爽やかな香りがふわっと広がる。
「これ、匂い良いよな。えっと、なんだっけ……確かぬらりひょんみたいな名前」
「ヌワラエリヤ、よ」
馴染み無い発音で、どうしても覚えにくい。
魔理沙は多分また忘れるなと思いつつも、「そうそう、そうだった」と適当に笑う。
そして、紅茶の香りを嗅いでいたらお腹が空いてきたので、朝食兼昼食代わりに丁度良い物をアリスにおねだりする。
「いつものあれ、無い?」
「ブラウニーね。持ってきたわよ」
アリスは鞄を開き、白い包みを取り出した。待ってましたと、魔理沙に笑顔が溢れる。
その時だった。
ドンドンと、扉を荒々しく叩く音が響いた。
「すみません!いらっしゃいますか!」
同時に、若い男の切羽詰まったような声。
鬼気迫る様子に、魔理沙は呆気に取られる。外の男は構わず、乱暴に扉を叩き続ける。
食事の邪魔をされたくは無かったが、扉を壊されても敵わないので、魔理沙は渋々玄関に向かう。
扉を開けると、ひょろりと背の高い、若い男が立っていた。息を切らしながら、魔理沙を見下ろしている。ここまで走ってきたらしい。
「どちら様?」
ブラウニーがお預けになって、つい刺々しい言い方になってしまう。
つまらない用なら承知しないぞと、睨み付ける魔理沙に、若い男は突然、地面に膝を付いて頭を下げた。
そして、叫びのような声をあげる。
「助けてください!」
予想もしない展開と大声に魔理沙は面食らい、苛立ちも迷子になって、ただただ戸惑う。
「一体、どうしたんだよ?」
魔理沙の言葉に男は顔を上げる。
そして、縋る様な目をして、悲痛に滲んだ言葉を紡いだ。
「婚約者の父と兄が、山で行方不明になったのです。どうか……どうか探して出してくれませんか?」
そう言ってまた、地面に頭を擦り付けた。
魔理沙はすぐに男の焦燥を理解した。
幻想郷で山といえば、妖怪の山を指す。多くの食人鬼の巣食う魔境。そこで行方不明になったといえば、つまりそういう事だ。
生存を絶望視しながら、一縷の望みを信じ、かといって自身で山に入る事も出来ずに、何でも屋に頼ってきたのだろう。
はぁ。ため息が出る。
「……分かった」
魔理沙は地面に頭を付ける男を見下ろしながら、依頼を承諾する。頭を上げて「ありがとうございます!」と感謝を述べる男に、「お金は貰うからな」と念押しする。
といっても、婚約者の父と兄とやらは、おそらくもうこの世にいないだろう。
正直、乗り気はしない。妖怪に食べられたなら、どうせ見つからない。運良く見つかったとしても既に死体になっているだろう。身体の半分もあれば幸運な方だ。
目の前の男の身なりを見る限り、依頼料を払えるのかも疑義がある。
それでも引き受けるのは、万が一の生存を信じたくなる気持ちは、まぁ理解できるからだ。少なくとも遺体を見るまでは、生きている可能性を捨てられないのだろう。
そして何より、妖怪の山よりは安全とはいえ、ただの人間が危険を冒して魔法の森まで助けを求めに来た。その気持ちに応えたいと思った。
善は急げというが、面倒臭い事も早く片付けてしまった方が良い。
魔理沙は、家の奥にいるアリスに向かって声を上げた。
「アリス、悪いな。霧雨魔法店の仕事だ」
ブラウニーを食べるのは、事が済んだ後にする。
◇
「こりゃ、酷いな」
顔の無い死体を見下ろしながら、魔理沙は呟いた。
肩から腰にかけても抉られており、骨や腸が露出していて、虫が集っている。
魔理沙は死体のそばにしゃがみ込み、手を合わせて短い念仏を唱える。まだ乾き切っていない血の臭いが、鼻をついた。
死体の傷口を観察すると、鍬で引き裂いたようにズタズタだった。
一体誰の仕業か、魔理沙は首を傾げる。
通常、妖怪にやられた傷跡は、もっとスパッと鮮やかなものだ。また、食害された形跡もあるが、食べ方も汚過ぎる。妖怪の場合、基本的には丸呑みだから死体は残らない。残す場合も上半身だけ、下半身だけというのが一般的だ。齧るような食べ跡になる事は少ない。
そうすると、野生動物による仕業の様に見えるが、腑に落ちない点もある。
野生動物によるものだと仮定すると、そいつはあまりにも——大き過ぎる。
派手な傷跡からして、爪だけで10センチは無いと説明が付かない。魔理沙はそんな生き物をこれまで見た事も聞いた事も無かった。
未知の化け物を想像して、うっすらと背筋に冷たいものを感じながらも、魔理沙は死体の服を剥がす。二人分の死体を持ち帰る事は容易では無いが、手ぶらで「死体があった」と言うだけでは依頼人は納得しないだろうから、証拠品を持ち帰る必要があった。
死人から追い剥ぎするみたいで気分の良いものでは無いが、念仏を唱えながら作業を進める。遺族が死亡を認めれば、葬儀も行われるだろう。それで成仏してくれと祈りを込める。
やがて、血のベッタリ付いた分厚い木綿の着物を剥ぎ終え、その場を離れる前にもう一度手を合わせた。
それから、箒に跨って空からもう一人の男を探すと、すぐに見つかった。最初の男より大分上の方、山の中腹あたりで項垂れるように座り込んでいた。
背中しか見えないが、外傷は無さそうだ。まだ生きているかもしれない。
魔理沙は高度を下げて箒から降りる。やはり、目立った傷は無い。恐怖で動けなくなったのだろうか。ともかく、こいつに話を聞く必要がある。
背中から、声を掛ける。
「おい」
しかし返事は無い。相変わらず俯いたまま、微動だにしない。
魔理沙はため息を吐いて近付き、その肩に手を乗せる。
「おい、大丈夫か——」
男の身体が、ゆっくりと倒れた。
仰向けに地面に倒れこんだ姿を見て、魔理沙は思わず息を呑む。
腹が抉られ、中身が無くなっていた。
男から山の奥に向かって、血の跡が続いている事に気付く。おそらくこの男は、致命傷を負いながら、ここまで逃げてきて、力尽きたのだ。
しかし、魔理沙を驚愕させたのは、別の事実だった。
「嘘だろ……?」
一人目の遺体は首から上が無くて、気が付かなかった。
まさか、まさかと思う。
遠くにあったはずの悲劇に、急速に引き寄せられるように感じた。
古い記憶が想起される。
座り込んだまま絶命していたその遺体は、実家の道具屋の斜向かいに住む草履屋の息子のものだった。
◇
魔理沙はベッドに横たわりながら、魚の形をした根付(注:江戸時代のアクセサリー)を眺めていた。
山から帰った魔理沙は、何もする気が起きず、依頼主への報告も翌日に回した。アリスは既に帰宅していて、一人でぼんやりと考え事をしている内に、夜になっていた。
外で鳥の鳴き声が聞こえる、やけに騒がしい夜だった。
魔理沙が眺めているそれは、昼に死体の服から取ったもので、幼い頃に見慣れていたものだった。
斜向かいの草履屋は、昔から家族ぐるみで魔理沙によくしてくれた。特に息子の鉄平と娘のすずは魔理沙より少し年上で、遊び相手になってくれた。
鉄平は昔からこの根付を付けていて、魔理沙は親しみを込めて「魚のお兄ちゃん」と呼んでいた。
——その魚のお兄ちゃんが、草履屋のおじさんが、死んだ。
実家を飛び出した時から、人里の知ってる顔が知らない内に死んでいく事は覚悟していた。けれど、こんな風に死に別れに直面するとは、思ってもいなかった。
魔理沙は深くため息を吐く。
朝になったら人里に二人の死の報告をしに行かなければならない。すぐに、すずにも伝わるだろう。彼女は身内の死をどんな表情で受け止めるのだろうか。
そういえば、依頼主の男は婚約者と言っていた。死んだ二人はすずの花嫁姿を見る事は叶わず、すずもまた見せる事は叶わなかった。
なんで妖怪の山に入るなんて、馬鹿な事をしたのだろうか。悲しみの中に、行き場の無い怒りが混ざる。
魔理沙の憂鬱に合わせて、天井から吊るしたランプも揺れた気がした。
机の上には、死体から剥がした着物だけが置いてある。べっとりと付いた血の鉄の匂いが、ベッドまで漂ってくる。
知り合いだと分かった今となっては、これだけしか持ち帰れない事が申し訳無い。
死体の無い葬式と、食われかけの死体の有る葬式。どちらの方が辛いのだろうか。考えても仕方の無い事が頭を巡る。
どうどうと風が吹き、窓がカタカタと揺れた。
魔理沙は目を瞑り、もう眠ってしまおうとする。昼過ぎまで起きていた所為であまり眠くは無いが、頭を働かせたくも無かった。
布団を被り、暗闇に入り込む。望んでも無いのに懐かしい記憶が蘇る。目の縁にじわりと涙が滲む。視界を閉じたせいで感覚が鋭敏になり、鼻の奥のツンとした痛みが、弱った心を自覚をさせる。
窓がガタガタと音を立てる。風が強過ぎる気がする。
魔理沙はどうしようも無いやるせなさに、何度も寝返りを繰り返す。人肌が恋しくなり、アリスに貰った人形をぎゅっと抱きしめる。明日、人里での報告が終わったら、アリスに会いに行こうと思う。
アリスの事を想うと、少しだけ救われた気持ちになる。人形に痛覚があったら文句を言われそうなくらい、強く抱きしめる。
そうしている内に、じんわりと眠気が広がっていく。それは身体に染み入っていくように、魔理沙を眠りに落としていく。柔らかい布団の中に、思考が溶けていく——その時。
音を立てて、窓が割れた。
意識を手放しかけていた魔理沙は驚いて飛び上がり、割れた窓の方に顔を向ける。目を細めて、何が起きたか捉えようとする。
机を挟んで向こう側。視界の中で、何かが動いた。
ひんやりと、冷たい夜気が流れ込む。
——黒い塊が、そこにいた。
天井から吊るしたランプが照らす薄明かりの中、桁外れの巨躯が揺れていた。高さは天井に着きそうで、同じだけの横幅がある。窮屈そうに揺れる影は、強い圧迫感があった。
魔理沙は反射的に、枕元に置いてある八卦炉に手を伸ばす。
ランプに照らされたその塊は、よく見ると薄らと栗色をしていた。肩の瘤のような筋肉が盛り上がり、濁った琥珀の眼がぎらぎらと光る。その眼は、片方が潰れている。
熊だった。
右の爪の先には、乾きかけた血が固まり、黒くこびりついていた。
生臭い、鉄の混じった匂いが家の中に充満する。
魔理沙の背筋に冷たいものが流れる。
鎌のような爪と、昼間見た遺体の傷跡が結び付く。同時に、こいつが魚のお兄ちゃんとおじさんを殺した存在である事を理解する。
「お、おい……冗談だろ……?」
熊は物に執着する。どこかで聞いた事のある知識が頭をよぎるが、妖怪の山からここまでは、十キロ以上離れている。俄かには信じられ無かった。
熊は返事をする代わりに、吼えた。
グオオオォォオオッ!!
家中の空気が震え、棚の道具が落ちる。
その音圧に魔理沙の心臓が跳ね、全身が粟立った。
熊は雄叫びを上げながら、魔理沙との間にある机に前肢を振り下ろす。爪は手斧より鋭く、触れた瞬間に机は砕け散り、木片が飛び散った。
熊は、じわりと魔理沙ににじり寄る。先程まで机だった木片が踏み躙られ、ぱきりと音を立てた。
魔理沙は咄嗟に箒を引き寄せる。しかし、こんな狭い空間では飛ぶ事は叶わない。
出口は熊に塞がれ、逃げ場が無い。
そうしている内にも熊はじりじりと距離を詰める。
熊は鼻孔を広げ、湿った息をぶふうと吐く。その息の熱が、数歩離れた魔理沙の頬にかかった。
「ちぃっ……!」
魔理沙は片手で八卦炉を構える。
一緒の油断が命取りになる事を魔理沙は知っていた。だから、躊躇する事なく放つ。
——マスタースパーク。
轟音と共に、空気が軋むような光の閃光が放たれる。
光は熊を覆い尽くす。一切の手加減無しに放たれたそれは、妖怪すらも恐れる、暴力的な魔力の奔流。
そのはずだった。
光の中に、影が動いた。
「…………マジかよ」
まるで分厚い毛皮と肉が光を吸い込み、押し返すように。
熊は後退るどころか、一歩、前へその足を押し出してきた。
眩い光の奔流を正面から受けながら、低い唸り声をあげる。
爪が床を削り、その体躯は揺るがない。
魔理沙は恐怖を覚え、思わず後ずさる。
「なんでっ……!?」
光が弱まり、マスタースパークが霧散する。
目の前に立つのは、焦げ跡ひとつ無い巨体。それはまるで、栗色の悪魔だった。
悪魔は、魔理沙に向かって飛びかかった。
魔理沙は反射的に、横に飛ぶ。
右に飛んだのは、偶然だった。
もし左に飛んでいたら——死んでいた。
魔理沙がいた場所から左側にかけて、床が大きく抉られていた。
魔理沙は身体中から力が抜け、床にへたり込む。死体の傷口を思い出し、吐き気を覚える。危うく、後を追うところだった。
一撃を外した熊は、魔理沙に向き直る。
ゆっくりと前脚を踏み込んだ。
床がひび割れ、家全体が軋む。その重さの一歩ごとに、魔理沙の体が細い糸で締め上げられるように凍りついた。
逃げねば、と頭では分かっている。
だが足が動かない。
腹の奥底から、ずるりと冷たいものが這い上がり、心臓を握りつぶそうとしている。
——死ぬ。このままでは、確実に。
喉が乾き、呼吸が上手くできない。
箒を握る手は、汗でびっしょりと濡れ、震えが止まらなかった。
マスタースパークの効かない化け物。
話し合いの余地も無く、有るのは明確な殺意。
昼間の遺体の映像が、頭にこびり付いて離れない。
「や……だ……。まだ、死にたくない……!」
叫んだつもりが、声は掠れ、子供の泣き声のように弱々しかった。
熊の影が覆いかぶさる。
獣の息が、頬に当たる。
その生温さだけで、脳が悲鳴を上げた。
極限の恐怖の中、後ずさる魔理沙の手が、コツンと硬い物にぶつかった。
見下ろすと、魔法火を閉じ込めた小瓶だった。魔理沙の震える手が、縋るように伸びる。
「このっ……燃えろ……!」
乱暴に熊の足元に投げる。
小瓶が割れ、魔力の込められた火は瞬く間に木材へ移り、家中へ赤い舌を伸ばす。
炎は風に煽られ、轟々と燃え上がり、熊の視界と嗅覚を奪う。
グオオオォォオオッ!!
炎の中、熊の雄叫びが聞こえる。
魔理沙は箒を抱えて、熊が割った窓へと走った。無我夢中だった。酷くひしゃげた窓枠が、熊の巨躯を物語っていた。
背後で熊が狂ったように床を踏み鳴らす音が響く。
肺が焼けるほど空気を吸い込みながら、魔理沙は外へ飛び出し、夜空へと逃げ上がった。
振り向くと、家は炎の柱となって沈黙の森に赤々と照り映えていた。
燃え盛る我が家の奥から、人の声にも似たおぞましい咆哮が、なお響いていた。
バクバクと弾む心臓に、生きている安堵感を覚えると同時に、これまで築き上げてきたものが崩れ去る感覚に陥る。
自分の居場所が、炎に包まれ、消えていく。
魔理沙は忌々しく炎の柱を見下ろしながら、奥歯を噛んだ。
◇
「それで、ここに逃げてきたわけ?」
博麗霊夢は、呆れたように言いながらも、熱い緑茶を淹れてくれた。深夜に叩き起こされたせいで、若干の不機嫌さが言葉に滲んでいる。
ちゃぶ台を挟んで正面には、魔理沙とアリス、そして矢田寺成美が座っている。
熊に襲撃された魔理沙は、博麗神社に逃げ込んでいた。家が近いアリスも危ないと判断し、半ば無理矢理連れてきていた。騒ぎを感じ取って魔理沙の家の様子を見に来ていた成美も同様に、博麗神社に連行した。
「あいつ、普通じゃ無いんだ」
青ざめた顔のまま、魔理沙は訴える。思い出すと今でも身体の震えが止まらない。
野生動物から逃げ出したなんて魔法使いの名折れだが、そんな体裁を気にする余裕も無かった。
「言っても、熊でしょ?」
普段相手にしている鬼やら神やらの方がよっぽど凶悪だと言いたげに、霊夢は肩をすくめる。
「寝起きで調子悪かったんじゃないの?」
霊夢からしても、マスタースパークが効かない動物がいるなんて、信じがたい様子だった。
最近の魔理沙は派手さにかまけて、マスタースパークの密度が薄くなっている。そんな批判は度々起こっていたから、原因は寧ろそっちにあると思っているようだ。
「私もそう思うけど……さっきからずっとこの調子なのよ」
アリスが横から支えるように腕を伸ばすと、魔理沙の肩がぴくりと震えた。
成美は心配げに魔理沙の様子を窺っている。
それでも霊夢は、深刻さをあまり理解していないようだった。
「まあ……今日は泊まっていきなさい。森に帰すのも心配だし」
その言葉で、魔理沙の緊張が少しだけ解けた。
だが、胸の奥の震えはなお収まらず、寒気のように絶えず背をなでてくる。
そして、部屋に四人分の布団が並べて敷かれた。魔理沙はアリスの隣に、ほとんど吸い寄せられるように位置を取った。
蝋燭の揺れる火が、柱や天井の影を不規則に揺らす。その度に、魔理沙は天井近くの闇を一瞬見上げた。
闇の端から、またあの影が現れるのではないか——
そんな妄念が、魔理沙を眠りから遠ざけていた。アリスは唇を青くする魔理沙を一瞥し、小さくため息を洩らした。
「……ねえ、魔理沙。今夜はもう大丈夫。森からは大分距離あるし、私や霊夢もいる」
「分かってる、けど……」
魔理沙は、布団の端をぎゅっと握り締めたまま、声を絞るように言った。
昔の知り合いが死んだ悲しみが処理できないまま恐怖がやってきて、魔法が効かない絶望に打ちのめされた。おまけに家まで燃えてしまった。
何もかも整理出来ず、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
蝋燭の火が小さく揺れた瞬間、魔理沙は心の堰を切ったように呟いた。
「アリス……そっち入ってもいい?」
アリスは目を丸くし、視線を右にやった。
そこでは霊夢がすでに横になり、成美もその横で寝息を立てている。
「ちょ、ちょっと……霊夢も成美もいるのよ?こんなところで——」
諫めようとしたアリスだったが、魔理沙の顔を見て、言葉が途切れた。
魔理沙は今にも泣き出しそうな表情をしていて、瞳には恐怖の余燼がまだ濃く残っていた。
普段なら決して見せぬ、子どものような弱さ。
震えはさっきよりも細かく、頼りなさげに続いている。
アリスはしばし唇を噛み、それからそっと布団をめくった。
「……少しだけよ。誰かが起きてたら怒るからね」
「……ありがと」
魔理沙は遠慮がちにアリスの布団へ滑り込み、アリスの胸元へ小さく身を寄せた。
アリスは驚きつつも、そっと腕を回して魔理沙の背を包む。
その瞬間、魔理沙の呼吸がふっとほどけた。
胸の奥で固く丸まっていた恐怖が、溶けてゆくようだった。
アリスの腕は細いが、不思議なほど温かい。
その温もりが、遠い昔の記憶を引き寄せる。
涙が溢れ、嗚咽が漏れる。
——幼いころ、母に抱き上げられたときの体温。
眠りにつく直前の、あの柔らかな揺れ。
暗闇が怖くて泣きついた夜の、温もり越しの安心。
忘れたと思っていたものが、一気に胸の底から蘇った。
「あったかい」
魔理沙はアリスの胸元に額を押しつけるようにして呟いた。
アリスは優しく微笑み、魔理沙の頭を撫でる。
「大丈夫よ、魔理沙。もう、怖いものは来ないわ」
魔理沙の瞳が閉じていく。
まぶたの裏に残っていた黒い影も、獣の息も、静かに遠のいていく。
夜風が外でざわめいても、魔理沙の呼吸はすでに穏やかだった。
安らぎに身を委ね、アリスの腕の中で、ゆるやかに眠りへ落ちていった。
◇
翌朝、魔理沙はアリスと連れ立って人里を訪れていた。気は進まないが、草履屋の主人と息子の死を報告しなければならない。
二人は、依頼主である男の畳屋に向かった。留守であってくれという魔理沙の願いは、最悪の形で裏切られた。
「あ、理沙ちゃん」
畳屋には依頼人の男と共に、その婚約者がいた。草履屋の娘であり、魔理沙の昔馴染みの少女。これから家族の死を伝えなければならないと思うと、胃に鉛が落ちたように気が重くなった。
「理沙?」
隣のアリスが怪訝な顔をして魔理沙を覗き込む。この昔馴染み、すずに会いたく無かった理由のもう一つがこれだ。特にアリスといる時には、邂逅は避けたかった。
「魔は、自分で付けたんだよ」
極力、何でも無い事の様に言う。
アリスはキョトンとしている。
それもそのはずだ。親から貰った名前に一字足して名乗ってるなんて、普通では無い。
「えっと、それはどういう?」
不思議そうな顔をするアリスに、バツが悪くなる。
『実は私は理沙だったけど、家出した際に魔の字を足しました。魔法の魔で、魅魔様の魔です。実家への当てつけと、"私は悪い子"という意味も込めています』なんて説明するのは、あまりにも恥ずかしくてムズムズする。
「い、今はそれどころじゃないだろ」
無理矢理、軌道修正する。
魔理沙はすずに向き直り、真っ直ぐ目を見つめる。逃げ出したい気持ちになる。どんな反応をするだろうか。泣くだろうか。怒るだろうか。取り乱すだろうか。
それでも、唾を飲み込んで勇気を振り絞る。
そして、起こった全てを話した。
妖怪の山で二人の死体を見つけた事、その後熊に襲われた事、その所為で遺品を持ち帰れなかった事。
すずは手ぶらで来た事を責め立てる事は無く、魔理沙の話を黙って聞いてくれた。頷きながら話を聞く様子を見るに、ある程度は覚悟は出来ていたのだろう。
話終えた魔理沙が、家ごと遺品を燃やしてしまった事を謝ったら、すずは反対に「ごめんね」と何度も繰り返した。
それから「ありがとう」と言って、目に涙を湛えていた。魔理沙はその目を直視に出来ずに、帽子の鍔で顔を隠した。
居た堪れなくなり、「それじゃあ」と挨拶をして、魔理沙とアリスが畳屋を後にすると、後ろから堰を切ったように、悲痛な叫び声が聞こえてきた。
それを背中に浴びながら、二人は真っ直ぐ博麗神社に帰る気にもなれず、お互い無言のまま人里を歩いた。
魔理沙の胸中には、自責の念が浮かぶ。
もし自分があの熊を討ち取る事が出来ていたら。その首を遺品と並べてすずの前に置けていたなら。
すずは少しでも救われただろうか。
不甲斐なさに奥歯を噛む。
悶々としながら歩いていると、足は自然と魔法の森の方へと向かっていた。習慣とは恐ろしいものだと思う。気付くと、人里の端、魔法の森へと続く道の前まで来ていた。
香霖堂があるのとはまた別の、細い道。
その細い道の先で、光を吸い込むような暗い森が入口を広げていた。いつもの森が不気味に思えて、身震いがした。
魔理沙が「引き返そう」と言おうとした瞬間だった。アリスが先に口を開いた。
「何、あの人」
アリスの視線が捉える先に目を向けた魔理沙は、嫌な顔をした。
そこには、人里の外れにポツンと立つ一軒の民家。外観はごく普通ながら、他の民家から孤立するように建てられたそれは、周りの景色から浮いており、不自然さを纏っている。
そして、アリスの言う「あの人」は、その民家の中にいた。べったりした栗色の髪をした老婆が、窓から身を乗り出すようにして、魔理沙達を凝視していた。
その血走った目は精神に異常をきたした者のそれで、一見してまともで無い事が分かる。
アリスは人里に住んだ事が無いから知らないのだろう。魔理沙も普段は里の中心部まで飛んでいくから、それを見たのは久しぶりだった。
「あれは、なんていうか。キチ……ちょっとした里の有名人だ。あんまり見るもんじゃない」
魔理沙の言葉の通り、その老婆は人里では有名人だった。但し、悪い意味で。
昔から子供が遊んでいると無言でじっと見てくるものだから、気味悪がられていた。何をしてくるわけでは無いが、子を持つ大人達は警戒し、彼女を迫害した。
彼女は次第に隅に追いやられていき、遂には人里と魔法の森の境でひっそりと暮らすに至っていた。
魔理沙も幼い頃、遊んでいるところをジロリと見られて怖い思いをした。その時は魚のお兄ちゃんが石を投げて追い払ってくれたけど、今にして思うとそれが正しい行いかは分からない。
「戻ろうぜ」
魔理沙は早くその場を離れたかった。魔法の森も、老婆も、何もかもが不気味だった。
アリスも同意して、二人は博麗神社に帰る事にした。
◇
それから博麗神社に戻った魔理沙とアリスは軽い言い争いをした。
アリスが、魔法の森に帰ると言い出したのだ。
「アリス、本当に帰る気か?」
「ええ。残してきた上海達が心配だもの。あの子達だけで長く留守番させるわけにもいかないわ」
「上海達連れて、すぐ戻ってこいよ」
「……私の家は、ここじゃないわ」
「け、けど。魔法の森だぞ。魔法の森には、あいつがっ……!」
魔理沙の声は、抑えているつもりでも震えていた。アリスはその震えを見て、一瞬言葉を探すように沈黙した。
「ねえ、魔理沙。昨日のそれは……あなたが疲れていたせいもあると思うのよ。妖怪ってわけじゃないんでしょう?本当にそこまで恐ろしい熊なんて——」
「いるんだよッ!!」
魔理沙は思わず声を張り上げ、端で見ていた霊夢が顔をしかめた。
それは、恐怖に取りつかれた人間の叫びだった。
「……もし、あいつに襲われたら……」
魔理沙は拳を強く握りしめ、爪が掌に食い込む程に力を込めた。だが言葉の続きを押し出せず、唇を震わせた。
アリスは魔理沙の肩にそっと手を置いた。
「心配してくれるのは、嬉しい。でも、大丈夫。ちゃんと防御魔法もあるし、周りの子たちもいる。それに——」
アリスは軽く笑って、冗談めかしてみせる。
「いざとなったら、飛べるもの。あなたもそうやって逃げ仰せたでしょう?」
「アリス……」
魔理沙は絞り出すように名前を呼んだ。
「頼む。今日は……いや、数日だけ、ここにいてくれ。アリスに何かあったら、私は……」
その先を言う前に、アリスがそっと魔理沙の手を握った。
「魔理沙。あなたの恐怖は、私も分かってる。でも、私は妖怪よ。神社に匿われて生きるなんて、妖怪らしいと思う?」
「…………」
生き方の話をされたら、魔理沙は言い返せなかった。一般的な人の道を外れながら好きに生きる自分に、他社の生き方を否定する権利なんて無い事は分かっている。
魔理沙は悔しさに歯を噛み、視線を地へ落とした。
「じゃあ、行ってくるわ。……本当に大丈夫よ。何かあったら、すぐに戻ってくるから」
アリスはそう言い、軽く手を振った。
その笑顔が、魔理沙にはひどく遠く見えた。
「アリス……待って……」
伸ばしかけた手は、ほんの数寸届かず、空を掴んで止まった。
アリスは振り返らなかった。
霊夢は境内からそれを見送っていたが、魔理沙には慰めの言葉をかけず、ただ静かに見守っているだけだった。
夕焼けが木々を照らし、アリスの姿が遠い空に消えてゆく。
魔理沙はしばらく縁側に立ち尽くした。
アリスの言う事は、正しいのだろう。
魔法の森に棲むという事は、元より命の危険と共に生きるという事だ。
何を今更、我が身可愛さに身体を震わせてるんだろうか。
本当は、アリスと共に魔法の森に帰りたい。
けれど、どうしても足がすくんでしまう。
あの黒い影が、まざまざと瞼の裏に蘇る。
あの爪。
あの息。
あの咆哮。
体が震え出し、魔理沙は膝を抱えて座り込んだ。
アリスの無事を願いながらも、自分が追いかけられない現実が、胸に深く突き刺さった。
◆
アリスが森に帰ってから、魔理沙は霊夢に引っ付いて回るようになった。境内の掃除をするにも、台所で夕食の用意をするにも、縁側で休憩するにも、常に行動を共にした。果ては厠にまで付いてきて扉の前でじっと待っているのだから、霊夢はいよいよ辟易していた。
「あんた、ずっと私の後をついてくるつもり?カルガモじゃあるまいし」
皮肉交じりに霊夢が言うと、魔理沙は気まずそうに目を逸らしてから、また顔を上げた。
「それなら私、カルガモになる」
想定外の宣言にポカンとする霊夢。魔理沙が続ける。
「立派なカルガモになるから、一人にしないでくれ」
「ま、ならいいけど」
縋るような目で馬鹿みたいな宣言をする魔理沙に、霊夢はつい頷いてしまう。人間は追い込まれると、人間以外の何かになろうとするらしい。新しい発見だ。それにしても、立派なカルガモってなんだろう。
入り浸る鬼に、地獄の妖精に、狛犬。色んなものがこの神社に棲みついているが、まさかカルガモまで追加されるとは。最近姿を見ないけど、老いた亀や悪霊もいた気がする。
霊夢はため息を吐いて、空を見上げた。
カルガモって、どれくらいで独り立ちするんだろうか。
◆
深い魔法の森の奥。
アリスは、椅子に座って読書を楽しんでいた。光は月明かりだけだけど、人の理を外れた彼女にはそれで充分だった。本の余白が月明かりを反射して薄く輝き、黒いインクで描かれた文字は淡い光の海を泳ぐ魚のようだった。
本の内容は、外国の児童文学だった。洋服ダンスの中が別の世界と繋がっていて、子供達がその世界を救う事になるというストーリー。子供向けながら、世界観が作り込まれており、今さら読んでも引き込まれる。
本の中で、子供達は戸惑いながら、時に喧嘩しながら、女王を名乗る悪い魔女へと立ち向かってちく。魔女が悪者にされがちな事には思うところはあるが、子供達が健気に頑張る姿は応援したくなる。流石に自己を投影するような幼さは持ち合わせておらず、保護者のような心境だ。
といっても、子供はいないし、出来る予定も無いのだが。
ふと、私では無い別の魔女ならどうかと考える。過分な幼さを残した彼女なら、主人公達に自分を重ねるのだろうか。
それならば、文字を通して見る景色もきっと違うのだろう。彼女にも読ませて、感想をぶつけ合ってみたくなる。
そんな風に考えながら読み進めていくと、少年達は魔女に対面した。意外と早かったが、これから戦闘になるのだろう。児童文学なので死ぬ事は無いだろうと安心感はある。何よりも頼もしいライオンが味方に付いている。ただ、願わくば大きな怪我などもしないで欲しい。
さぁ、ライオンが雄叫びを上げて、いざ戦いが——
そこでアリスは、パタリと本を閉じた。
来客だ。
ようやく来たかと、アリスは本を脇に置く。立ち上がると、焼け残った鉄製の椅子が、ギィと鈍い音を立てた。
焼け崩れて見晴らしの良くなった家の外で、来訪者が低い唸り声を上げる。来訪者はアリスに一歩にじり寄る。その際に、倒れていた『霧雨魔法店』の表札が踏まれ、割られた。
アリスは、己の尊厳まで踏み躙られたように、腸が煮え繰り返るのを感じた。
魔理沙の話を信じるなら、この獣は獲物の服の匂いを辿って、妖怪の山から十キロ以上離れた魔法の森にやってきた。それならば、新しい獲物である魔理沙の匂いが染み付いた自分がここにいれば、必ず現れると思っていた。
「あなたに恨みがあるわけじゃないけど」
その獣——熊は、返答する代わりに咆哮をあげた。空気が震え、周りの木々から鳥達が一斉に飛び立つ。
アリスが構え、人形達がその周りを浮遊する。
「ここは、あなたの居場所じゃないの」
熊はグルルルルと、喉を鳴らす。言葉の意味なんて分かっていないだろう。口から垂れる涎に、アリスは品が無いと思った。
この場所は、そんな獣の居場所じゃない。
ここは、魔理沙の居場所だ。
そしてそれは、自分の居場所でもある。
——私が守ってみせる。
熊が唸り声と共にアリスに飛び掛かり、上海人形が宙を舞った。
◆
魔理沙が目を覚ますと、既に日は昇り切っていて、部屋は初冬とは思えない程にぽかぽかと暖かく、じんわりと寝汗までかいていた。
昨晩はどうやら、気付かない内に眠っていたらしい。昨晩といっても、気の早い鳥が囀り始めるくらいまでは、うだうだと思い悩んでいた記憶がある。眠りについたのは、正確には明け方頃だろう。
それにしても、周りが眩しいくらいに明るくなっても目を覚まさなかったのは、それだけ憔悴していた証拠だろう。肉体的にも精神的にもかなり消耗した自覚はあった。あまりにも色々な事が起こり過ぎた。
しかしながら、たっぷりと睡眠を取ったおかげで、幾分か身体も気分も軽くなった。
事態は何一つ改善していないが、思い悩んでいても仕方ないと思えるようになったのは、ちょっとした進展と言える。
立ち上がって襖を開けると、この陽気にも合点がいくような快晴で、雲一つ無い青空がどこまでも広がっていた。
つられて気分が良くなる自分の呑気さに、まるで霊夢だと呆れた笑いが漏れる。
その霊夢を求めて、勝手知ったる神社内をウロウロするが、どこにも見当たらない。どうやら留守のようだった。
成美だけが庭で呑気に手を合わせながら眠っていた。
一人にしないという約束は見事に反故にされたわけだが、怒る気はしない。むしろ、昨日の自分の方がどうかしていた。何がカルガモだ。
さて、天気も良い事だし、霊夢もいない。何処かに出掛ける事にした。
ふらっと訪れる場所でまず頭に浮かんだのはアリスの家だったが、魔法の森の事を考えると途端に気分が悪くなった。細かい棘が無数に刺さっているようで、そこに触れるとチクチクと痛みが走る。
とはいえアリスの事はやはり心配で、思うと心が居場所を無くしたようにざわざわする。
本当はすぐにでも顔を見たいが、考えてみればアリスは自分よりもずっと経験豊富な魔法使いだ。それに、昨日言っていたようにいざとなれば飛んで逃げる事もできる。
流石にあの化け物も、空は飛べまい。
そうやって自分に言い聞かせて、結局行先として選んだのは人里だった。
◇
「………………」
「………………」
魔理沙は押し黙り、目の前の女から目を逸らした。その女もまた、何も言わず、同じように視線を外す。
話は半刻前に遡る。
博麗神社を後にした魔理沙は、当てもなく人里をぶらぶらと歩いていた。昨日の反省を活かし、魔法の森の方へは近付かないよう意識していた。
考え事をしながら彷徨っているうちに、歩いている道が実家の道具屋へ続いている事に気付く。
また、油断した。
両親に出会した時の表情を、未だに用意できていない。だから普段は、この近くには寄らないようにしていたのに。
しかし今さら引き返すのも癪だ。さっさと通り過ぎてしまおうと足を早めた、その時だった。
目の前の草履屋から、人が出てきた。
暗い服を着た女が、暗い顔をしていた。
どれほど泣いたのだろうか。瞼はぱんぱんに腫れている。昨日、確かに見たばかりの顔だった。
「……理沙ちゃん」
「……すずちゃん」
名を呼び合い、沈黙が落ちる。
用もなく歩いていたくせに、用もなく立ち去る事も出来ない。かといって、何を話せばいいのかも分からなかった。
「災難だったね」
何を言っているんだ。
自分でもそう思う。気の利いた言葉が、まるで出てこない。
神妙な空気はどうにも苦手だった。それに、すずを前にすると、昔馴染みが死んだ事よりも、自分の抱える恐怖を優先している人でなしのように思えて、居心地が悪い。
すずは何も言わない。
それでも、勝手に責められている気分になる。
「ねぇ、理沙ちゃん」
不意に名を呼ばれ、胸が跳ねた。罪悪感がじわりと広がる。
「人里に、戻っておいでよ」
想定外の言葉に、魔理沙は目を丸くした。
「理沙ちゃんも、襲われたんでしょ。私……理沙ちゃんまで死んじゃったら……」
すずの声は、ひどく優しかった。
その優しさが、一層魔理沙の胸を締め付ける。
同時に、ほっとしている自分がいる事に気付いて、魔理沙は愕然とした。
——私は今、人里に戻りたいと思った……?
雷に打たれたような衝撃だった。
魔法の森での生活から、逃げ出したがっている自分を、まざまざと突き付けられた気がした。
自分の居場所は、最初からあそこには無かったのだと、告げられているようだった。
強く否定しようとしたが、言葉が出ない。
勝手に居た堪れなくなり、予定など無いくせに、「そろそろ行くから」と曖昧にお茶を濁して、逃げ出す事にした。
すずを視界から消した、その瞬間だった。
目の前に、また別の懐かしい姿が飛び込んできた。
魔理沙は、一目で分かった。
母親だった。
昔と変わらぬ背丈。
変わらぬ体つき。
けれど、決定的に違う。
黒髪だった。
かつて、魔理沙と同じ金色をしていたはずの髪が、艶のある黒に変わっている。
母親は、魔理沙を見る。
魔理沙も、母親を見る。
言葉は無かった。
驚きも、怒りも、懐かしさも、互いの顔には浮かばない。
ただ、事実だけが、そこにあった。
——あなたとは、もう繋がっていない。
わざわざ黒く染められた髪が、そう告げているように思えた。
自分と同じ色を捨てるという、明確な拒絶。
魔理沙は、何も言わなかった。
母親も、何も言わなかった。
お互いに無言で見合った後、視線を逸らす。
母親は黙ったまま魔理沙の横を通り過ぎ、すずに声をかける。
慈愛に満ちた慰めの言葉だったのだろうが、魔理沙の耳には入らなかった。
一瞬でも、人里に居場所があると思った自分が、ひどく愚かに思えた。
自分で魔法の森という居場所を否定した事実だけが、ただ残った。
◇
「アンタ、どこで何してたのよ!?」
博麗神社に戻った魔理沙の姿を認めるなり、霊夢は怒号を上げた。
魔理沙はもやもやを誤魔化すために鯢呑亭で引っかけて、帰りは未明になっていた。流石に遅くなり過ぎたかと焦りつつ、霊夢の剣幕に思わず目を白黒させる。霊夢がここまで取り乱す姿は、これまで一度も見た事がなかった。
「ど、どうしたんだよ。そんなに慌てて」
冷や汗をかく魔理沙に、霊夢はさらに目を吊り上げる。
いつも纏っている余裕は、跡形もなく消え失せていた。
そして霊夢が告げた言葉は、魔理沙を内側から震わせるには十分だった。
「アリスが……行方不明になったのよ!」
魔理沙の中で、何かが音を立てて崩れた。
胸に大きな空洞が穿たれ、大切なものがそこへ吸い込まれていくような感覚。現実味が無いのに、喪失感だけが重くのしかかる。
「それは、どういう……?」
辛うじて絞り出した声に、霊夢は二つの事実を突き付けた。
一つは、アリスとの連絡が完全に途絶えた事。
魔法の森に戻ったアリスと、同じく森に住む三頭慧ノ子には、霊夢が定期的な連絡を命じていた。それが、アリスからだけ途絶えた。
不審に思った霊夢が様子を見に行ったが、自宅には姿がなかったという。
もう一つは、熊による被害が、ついに人里に及んだ事。
魔法の森近くに住む老婆の家から悲鳴が聞こえたという通報を受け、霊夢が駆け付けた先にあったのは、無惨に殺された遺体だった。傷口の様子から、熊の仕業である可能性が極めて高い。
人里にまで危害が及んだ以上、八雲紫らと対応を協議する必要がある、と。
老婆には悪いが、魔理沙は二つ目の話にまるで興味が持てなかった。
頭の中は、ただアリスの事でいっぱいだった。
もし、アリスがあいつに襲われたのだとしたら。
ぞっとするほどの寒気が背中を走る。
アリスは強い。
弾幕ごっこという枷が無ければ、きっと自分よりも余程。
だから、心配はしながらも、アリスなら大丈夫だと高を括っていた。
自分が逃げられたのだから、アリスが手に掛かるはずは無いと思っていた。
視界がぐるりと揺れる。
吐き気が込み上げた。
——私の所為だ。
自分が、もっと本気で引き留めていれば。
それが叶わなくても、せめて一緒に魔法の森へ戻っていれば。
二人なら、或いは——。
いや、まだ最悪と決まったわけじゃない。
今からでも——。
踵を返した瞬間、魔理沙の腕を霊夢が掴んだ。
「待ちなさい」
「……なんだよ」
魔理沙は、自分を引き留めるその手を睨み付ける。
どうして、こいつは冷静でいられるのか。怒りさえ込み上げた。
「一応訊くけど、どこに行くつもり?」
「決まってるだろ。アリスを探しに行くんだよ」
「一人で行くなんて、危険過ぎるわ」
「それなら、お前も一緒に来いよ」
魔理沙は歯噛みした。
消極的な態度が、いつもの霊夢らしくない。
「私は……動けない」
「はぁ?」
信じられない、という声が出た。
「事は、そんな単純じゃないの」
「どういう意味だよ」
「魔理沙を退けて、アリスすら手にかけた可能性のある熊よ。紫は、妖怪との狭間にいる存在だと判断した」
魔理沙は思わず舌打ちする。
マスタースパークが効かず、アリスに危害を加えたのなら、ただの獣では無いのは当たり前だ。
むしろ、だから昨晩あれ程危険を説いたのだと苛々した。
「だから、なんだよ」
「場合によっては……保護する必要があるのよ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
人里を襲い、妖怪をも殺した可能性のある獣を——保護?
魔理沙は黙って、霊夢の続きを待つ。
「妖怪になる獣は、まず力を得て、それから知能を得る。あの熊がその途中にいるなら、完全に妖怪化するまで隔離・保護する事も、選択肢に入るの」
「……分別が付かなかったから、罪には問いませんって言うのかよ」
「だから、それをこれから協議するのよ」
霊夢の瞳に、はっきりとした悲痛が滲んだ。
助けに行きたい気持ちと、博麗の巫女としての責務。その狭間で、必死に立っている目だった。
——でも。
こいつは、巫女の責務を選んだ。
魔理沙は霊夢の腕を振り払った。
「お願い、行かないで」
「心配なら、お前も来い」
「…………」
縋るような霊夢の視線に、胸がちくりと痛んだ。だが、それよりも優先すべきものが、魔理沙にはあった。
——私は身の危険より、アリスを選ぶ。
箒に跨り、地面を強く蹴る。
「待って——!」
背後から、か細い声が追い縋る。
それでも魔理沙は振り返らない。
ただ前だけを見つめ、夜の闇の中へと、一直線に駆けて行った。
◇
博麗神社を飛び出した魔理沙は、まず老婆の家へ向かった。
森と人里の境目にある一軒家。
その戸口は無惨にも壊され、内側から暗闇が滲み出している。じっと中の様子を窺うが、生き物の気配は無い。ばったり熊と出会す心配は、今のところ無さそうだった。
魔理沙は箒から降り、帽子を目深に被り直す。
熊がただの獣なら、爪痕と血の匂いが残るだけだ。
だが、もし妖怪になりかけているのなら——そこには魔力の残滓がある。
それが確認できれば、やりようはある。
魔力には属性があり、属性には相性がある。
敵を知り、己を知れば——という言葉もある。
魔理沙は息を整え、戸口をくぐった。
——臭い。
獣臭と血臭が混じり合い、喉の奥にまとわりつく。
床には、ずたずたにされた老婆の遺体が転がったままだった。
床板には引きずられた跡。
壁には、爪で抉ったような深い傷。
天井近くには、何かが叩きつけられた痕が、生々しく残っている。
熊だ。
間違いない。
魔理沙はしゃがみ込み、床に手を翳した。
意識を研ぎ澄まし、魔力の流れを探る。
「……っ」
ある。
微かだが、確かに残っている。
魔理沙は、そのかすかな魔力の残り香に、神経を集中させた。
そして——思わず、失笑が漏れた。
熊の持つ魔力の属性は、水だった。
奇しくも、自分と同じ。
どうりで、光と熱の魔法であるマスタースパークの効きが弱いはずだ。
必要な情報を得て、魔理沙は立ち上がる。
その時、ふと視界の端にあり得ないものが映った。
壁。
土壁の一角。
ある一箇所だけが、不自然なほど綺麗で、飾り気がある。
紙が、貼られている。
古い新聞の切り抜き。
黄ばみ、端は擦り切れているが——写っている人物には、はっきりと見覚えがあった。
「……は?」
声にならない声が、喉から零れる。
それは、霧雨魔理沙の写真だった。
箒に跨り、にっこりと笑っている自分。
天狗の新聞で、何度も使い回された写真。
我ながら可愛く映っているお気に入りの一枚であるが、どこで手に入れたのか。
いや、それよりも。
なぜ、ここにある。
魔理沙は、一歩後ずさった。
熊の痕跡よりも、この写真の方が、背筋を冷やした。
——どうして、私の写真を。
壁に貼られた切り抜きは、単なる装飾には見えなかった。
大切に扱われていた事が、一目で分かった。
魔理沙は視線を逸らすようにして、部屋を見回す。
ほとんど物の無い、無機質な室内。
その中で、机の上に置かれた一冊の帳面が目に入った。
布表紙。
角は擦り切れ、何度も開かれた痕がある。
魔理沙は、無意識のうちに、それへ手を伸ばしていた。
——老婆の、手記だ。
ずしりと、重い。
紙の重さだけではない。書かれた年月と、積み重ねられた感情の重さ。
魔理沙は喉を鳴らした。
嫌な予感が、はっきりと形を持って胸に広がる。
それでも、ページを開かずにはいられなかった。
そこには、懺悔のような言葉が、びっしりと並べられていた。
◇
魔理沙は茂みの中にじっと身を潜め、周囲を窺った。何もいないことを確認すると、数メートルほど前進し、再び同じように警戒する。
右手には銃を持ち、いつでも発砲できる態勢を崩さない。この村田銃と呼ばれる代物は、熊退治の話を聞きつけた人里の男が貸してくれたものだ。以前、イタチを狩った際に使った銃に似ていて、扱いにくさはない。
風の流れを常に意識し、風下へと進む。野生動物は総じて鼻が利く。相手に気取られず接近するには、常に相手より風上に身を置くことが肝要だった。
そういう意味で、山に入ってから風向きが一定なのは僥倖と言えた。
草木を揺らす風の音にも神経を尖らせながら、意識の片隅では、老婆の遺した手記の一節が、執拗に反芻されていた。
″駆け落ち同然に人里を飛び出した私達は、山に逃げ込んだ。今思えば、なんと迂愚であった事だろうか″
目を凝らし、獲物の気配がないか周囲を探る。魔法の森は広大で、相手は生き物だ。一日探し回っても見つからない可能性は十分にある。それどころか、知らぬ間に風上を取られ、背後から不意打ちを食らうことすら考えられた。
そう思った瞬間、背筋を冷たいものが走る。恐怖に突き動かされて振り返るが、そこにあるのは薄暗い森の静けさだけだった。
魔理沙は自分の膝を叩き、弱気になりかけた心を叱咤する。
″金色の化け物だった。そいつは突如現れ、伴侶は目の前で惨殺された。私に背中を向けたままの伴侶の顔が、ぐるんと此方を向いたのを見て、次は私かと死を覚悟した″
じりじりと前進していると、遠くで鳥の大きな鳴き声が響いた。
心臓が跳ね上がり、思わず息が詰まる。
身体が反射的に動き、大きな音を立てそうになるのを必死で堪え、茂みに身を伏せたまま周囲を見回す。すると——
視界の先に、大きな黒い塊があった。
一気に汗が噴き出す。
身体が硬直し、このまま動けなくなりそうになるのを、小さく息を吐いて抑え込む。
冷静になれ。
銃を構え、慎重に様子を窺う。黒い塊は、動く気配すら見せず、ただそこにあるだけだった。
銃口を向けたまま、音を立てないよう、魔理沙は静かに近づく。
″しかし、その化け物は私を殺さなかった。それどころか、何の気まぐれか——私を犯した″
ゆっくり、ゆっくりと距離を詰める。
枝を踏む音ひとつ立てぬよう、神経を研ぎ澄ませる。
やがて目視できる距離まで来て、魔理沙は大きく息を吐いた。
熊だと身構えていたそれは、ただの巨大な岩だった。
どっと疲労が押し寄せる。朝から山に入り、気づけば日が傾き始めていた。
赤みを帯びた空が、魔理沙の焦燥を煽る。夜になれば視界は悪くなり、危険は跳ね上がる。それに、時間が経つほどアリスの生存率も下がっていく。
額の汗を腕で拭い、深呼吸する。気持ちを切り替えなければならない。
″私は化け物の子を孕んだ。生きる気力も、死ぬ気力も湧かなかった。ただ、化け物の子を産むことが、私達の結婚を認めなかった両親への復讐になるかと考えた″
改めて風向きを確認し、慎重に歩を進める。本当なら空から探したいところだが、生い茂る木々が視界を遮り、何より目立ちすぎる。不意打ちを狙うなら愚策だ。
舌打ちしそうになるのを飲み込み、歩調を保つ。
猶予は、あと一時間ほど。それまでに熊かアリスか、せめてどちらかを見つけなければならない。
ねっとりとした汗が気持ち悪く感じられた。
″腹の中で蠢き、日増しに大きくなる存在が、ただ気持ち悪かった。この子もきっと化け物で、それを産む私も化け物なのだろう″
寝不足で重くなる瞼を、腿をつねって誤魔化す。疲労で重力が増したかのように身体が重く、まとわりつく汗がさらに動きを鈍らせた。
焦る心を必死で宥め、眠気と戦いながら、じりじりと前へ進む。
そもそも熊の根城は元々、妖怪の山だ。魔法の森には居ない可能性もある。
弱気になりかけた心を、奥歯を噛みしめて押し殺す。
万が一、紫たちが熊の保護を決定したら、手を出せなくなる。そうなる前に、決着をつけなければならない。
″十月十日を待たずに、化け物は腹を引き裂くように飛び出してきた。痛みに視界が霞む中でも、一目で分かった。予想通り、化け物の子は化け物だった″
——それは、小川の近くだった。
魔理沙の目が大きく見開かれる。
大木の根元に、大きな黒い塊が転がっていた。
夕日に照らされ、風がそれを撫でる。
表面に、うっすらと栗色を帯びた波が立った。
今度こそ、見間違いではない。
心臓が煩いくらいに強く脈打った。
魔理沙は一度だけ唾を飲み込み、殊更慎重に、ゆっくりと距離を詰める。
額から流れ落ちた汗が目に沁みる。それでも瞬きひとつせず、視線を外さない。
″私の腹を裂いて出てきたのは、化け物と同じ、金髪が既に生え揃った赤子。そして——″
距離は、およそ二十メートル。
イタチを狩った経験から、この距離なら外すことはない。
静かに手の汗を服で拭い、ゆっくりと村田銃を構える。
熊は、まだこちらに気づいていない。
その頭に、狙いを定める。
″私の髪と同じ栗色をした、醜い獣。私は、半狂乱になり、その獣の片目を潰した。獣は闇に消え去り、金髪の赤子は妖怪の賢者に引き取られ、道具屋の元に渡った″
——あばよ、兄弟。
魔理沙は、引き金を思い切り引いた。
◇
乾いた破裂音が、森の静寂を引き裂いた。
村田銃が跳ね、反動が肩を打つ。
硝煙の匂いが、一瞬遅れて鼻を刺した。
熊の頭から、赤い血が噴き出す。
命中した。だが——
熊は、倒れない。
黒い巨体が大きく揺れただけで、地面に伏すことはなかった。弾丸は確かに毛皮を貫き、肉を裂いた。しかし、頭蓋骨を砕くには至らなかったのだろう。
簡単にケリが着くとは思っていなかったが、その異様な頑丈さに、冷や汗が背を伝う。
熊が、のっしりと立ち上がる。
そして、ゆっくりとこちらを向いた。
隻眼が、魔理沙を捉えた。
魔理沙は、恐怖に震える足を、手で思い切り叩いた。
「……っ」
次弾を込めようと、村田銃を傾ける。幻想郷に流通している銃が単式ばかりなのが、この状況では恨めしかった。
銃を操作しながらも、視線だけは熊から外さない。
その視界に、ある物が飛び込んでくる。
熊の胸元。
肋骨の隙間に、深々と突き立てられた一本の槍。
細く、鋭く、決して折れぬ意思を宿した——
上海人形の、ランス。
「……アリ、ス……?」
喉の奥から、掠れた声が零れ落ちた。
そんな馬鹿な、と頭では思う。だが、魔理沙がそれを見間違えるはずもない。
杞憂であればいいと、どこかで願っていた。
だが、それは希望を完全に打ち砕く、あまりにも明確な、邂逅の証だった。
それはアリスの失踪と、無慈悲に結び付く。
怒りが込み上げる。溶かした鉄を飲み込んだように、腹の底が煮えたぎるように熱くなる。
同時に、それを上回る絶望が、胸を締めつけた。
熊が咆哮した。
空気を叩き上げるような、獣の叫び。
それは痛みへの反応ではない。敵を認識した捕食者の、宣告だった。
次の瞬間、熊が動く。
速い。
あまりにも速い。
地を蹴る音が、ひとつ。
それだけで、距離が詰まった。
——撃てない。
魔理沙は次弾を諦め、反射的に空へ跳んだ。
箒に足を掛ける暇すらない、魔力による跳躍。
だが——
ずしり、と。
見えない手に全身を掴まれたような感覚。
空中で、身体が押し潰される。
「——ぐっ!?」
次の瞬間、視界が反転し、地面が迫る。
逃げ場はない。
叩きつけられた。
肺から空気が絞り出され、視界が白く弾ける。
土と落ち葉が舞い、背中に鈍い衝撃が走った。
——重い。
身体が、地面に縫い止められている。
立ち上がろうとしても、指先一つ動かせない。
魔理沙は悟る。
——重力、だ。
魔理沙の家で相対したときには、存在しなかった感覚。
ただの怪力でも、威圧でもない。
空間そのものが、押し潰されている。
獣と妖怪の狭間にいる——霊夢の言葉が、脳裏をよぎる。
実際は、それどころでは無かった。老婆の手記で知った、驚愕の事実。
人間と化物のハーフ。おそらく人間を食った事で、化物として覚醒したのだろう。しかも、その変質は、この短時間で加速している。
アリスが逃げられなかった理由を、身をもって思い知らされた。
熊の影が、覆い被さる。
濁った眼が、真っ直ぐに魔理沙を捉えていた。
爪が、振り上げられる。
死が、落ちてくる。
——その瞬間。
魔理沙の身体が、紙一重で滑った。
重力を打ち消したわけではない。
筋肉と骨、その限界まで研ぎ澄まされた、一瞬の動き。
爪が、頬を掠める。
風圧が、皮膚を裂く。
魔理沙は転がるように距離を取り、荒く息を吐いた。
「……っ、は……は……」
頬から血を滴らせながら、頭の奥にある大魔法使いの姿が浮かぶ。
——聖白蓮。
かつて教わった、魔力による身体強化。
聖人の修練が結実した、己の肉体そのものを術式とする魔法。
彼女には遠く及ばぬが、それでも高重力下での行動を可能にするものだった。
恐怖で震える足で、それでも立ち上がる。
熊が、再び身を低くした。
次は、躱せないかもしれない。
それでも、魔理沙は前を見据えた。
胸に突き刺さったランスから、決して目を逸らさずに。
◇
荒い呼吸が、喉を焼く。
肺が悲鳴を上げ、視界の端が白く滲んだ。
魔理沙は、ひたすら熊の攻撃を避け続けている。
重力が、歪む。
一歩踏み出すたび、地面が引き延ばされ、跳ねようとすれば見えない鎖に足首を掴まれる。
熊の爪が地面を抉り、風圧が背を掠めるたび、心臓が喉元までせり上がった。
「……っ、は……は……」
極限の中で、口元が自嘲気味に歪む。
「……水属性の癖に、なんで重力なんか使ってんだよ」
吐き捨てるように言う。
熊は理解しない。ただ濁った眼で魔理沙を追い、地を踏み鳴らす。
「……ま、私も人のこと言えないけどな」
くつり、と乾いた笑いが零れた。
老婆の手記の内容が、脳裏をよぎる。
この不器用な生き方は、両親のどちら譲りなのだろうか。
「……やっぱ、兄弟か。嫌になるぜ」
逃げながら、魔理沙は右手を走らせていた。
指先が空をなぞる。
足運びと同時に詠唱を分割する。呼吸と回避と構築を並行させる――無茶にも程がある芸当だ。
まだ命を繋げられていること自体が、奇跡に思えた。
熊の爪が迫り、間一髪で身を躱す。
横髪が切られ、ぱらりと宙に舞った。
今のは、かなり危なかった。
だが――
漸く、準備が整う。
逃走経路の先、空中に。
淡い光が、ひとつ、またひとつと灯る。
そして五つの光が結ばれ、巨大な星を描いた。
幾何学的に組み上げられた、星型の魔法陣。
追われながら、魔理沙はそれを完成させていた。
それは最初から用意していた魔法だった。
熊が水属性だと知った、その瞬間から。
だからこそ。
「……ほんっと、嫌になる」
重力を強化する熊の能力を目にしたとき、心底辟易した。
熊が吠える。
空気を震わせる、苛立ちと殺意の咆哮。
しかし次の瞬間、魔法陣が光を纏い、熊の巨躯が地面に沈んだ。
重力で相手の動きを縫い止める、魔理沙の魔法。逃げながらも構築した魔法が、遂に熊を捉えた。
熊は見えない鎖に繋がれたみたいに、起き上がる事すら叶わなくなる。
「やっぱ私達、兄弟なんだな」
自嘲を込めて笑う。
まさか同じ魔法を用意していたなんて、歪んだ運命を感じた。
獣は意味を理解しないまま、再び咆哮を上げた。
「――うるせぇよ」
魔理沙は踏み込んだ。
そして、大きく開いた熊の口――噛み砕くためだけに存在する暴力の器官へ、手を突っ込む。
ばき、と嫌な音がした。
だが魔理沙の腕は折れない。
どころか、熊の口は開いたままだった。
身体強化魔法――その応用。
魔理沙が口内に突っ込んだ太い木の枝は、魔法によって一時的に鉄の強度を得ている。
熊の咬合力を受けても、容易には砕けない。
熊が呻いた。
「外から撃っても効かねぇならさ」
枝を支点に、魔理沙は身体を引き寄せる。
開いた口内へ八卦炉を向け、魔力を集中させる。
「――内側から、撃ってやるしかないだろ」
眩い光が、右手を中心に集束する。
魔力が圧縮され、臨界に達する。
熊の口内。
逃げ場のない、内臓へ直結する空間。
「ファイナル――」
息を、吸い切る。
「――マスタァァァァァァスパァァァァァク!!」
白光が、爆発した。
内側から解き放たれた奔流が、喉を、顎を、頭蓋をまとめて貫く。
夜の森が、一瞬、昼に変わった。
光は、熊の内側から噴き上がっていた。
◇
白光が、収束する。
爆音の余韻が森を震わせ、焼けた土と肉の匂いが漂った。
魔理沙は、息をすることすら忘れていた。
全身から魔力が抜け落ち、視界の縁が暗く滲んでいく。
——終わった。
そう、思った。
だが。
煙の向こうで、何かが、動いた。
重い。
鈍い。
確かな足音。
「……流石に、冗談だろ?」
喉から、意味を成さない声が漏れた。
熊が——
立ち上がっていた。
頭部は焼け爛れ、口元から赤い血が滴っている。
それでも、巨体は崩れない。
獣は、まだ、生きていた。
同時に、身体を縫い止めていた圧が消える。
重力魔法の効果が、完全に切れたのだ。
魔理沙は悟る。
ファイナルマスタースパークに、力を注ぎすぎた。
それでも——熊を、仕留めきれなかった。
熊が、のっしりと近付いてくる。
「……っ、動け……!」
足に力が入らない。
全身が、鉛のように重い。
熊が、吠えた。
それは執念の咆哮だった。
次の瞬間、視界が揺れた。
「——っっ!!」
左足に、凄まじい衝撃。
踏み潰される感覚。
ゴリゴリと、身体の内側から音が響いた。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴が、森を切り裂いた。
激痛が、思考を塗り潰す。
足が——身体強化魔法のおかげで何とか形を保っているものの、内部の骨が粉々に砕かれていく。
涙と涎と血が、無様に溢れる。
熊は足をどけず、魔理沙を見下ろしていた。
逃げ場は、もう無い。
その視界の端で。
魔理沙は、熊の胸を見た。
肋骨の隙間に、深々と突き立ったままの槍。
上海人形のランス。
——アリス。
ふっと、力が抜けた。
「……そっか」
声は、驚くほど穏やかだった。
「……同じ場所に、行けるなら」
それでも、いいか。
魔理沙は、空を見た。
魔法の森の、暗い夜空。
——居場所は、すべて失った。
魔法の森は、自分を拒んだ。
人里にも、帰る場所は無い。
どういう経緯で道具屋に預けられたかは分からない。
けれど、育ての母はきっと、血の繋がりが無いことを悟らせないよう、髪を金色に染めてくれていた。
世界はそれを、愛と呼ぶのだろう。
でも、それももう、終わっている。
黒い髪は、その証明だった。
未練を抱いていたらしい産みの母も、もうこの世にいない。
そして、アリスも——。
「……全部、なくなったな」
声が、掠れる。
生きる理由も。
立つ理由も。
死を、受け入れかけた、その瞬間。
——ぱん、と。
熊の頭部の近くで、光が弾けた。
乾いた破裂音。
それは、熊の後ろから飛んできた光線だった。
「ま、ままま魔理沙から、離れろぉお!!」
張り詰めた声が、森に響いた。
熊が、反応する。
魔理沙から視線を外し、唸り声を上げる。
その先に、少女が立っていた。
矢田寺成美。
小さな身体で両足を踏みしめ、熊を睨み据えている。
「ばっ……成美っ!逃げろ!」
叫んだつもりだったが、喉から漏れたのは、か細い声だけだった。
熊は、瀕死の魔理沙を後回しにし、ゆっくりと成美の方へ向き直る。
魔理沙の胸が、強く、軋んだ。
「……なんなんだよ、私は!」
声にならない呟き。
死んでもいい、なんて。
一緒に行けるなら、なんて。
震える成美を見て、思い知らされる。
——私はどうも、大事なものに気付くのが、遅すぎる。
魔理沙は、歯を食いしばった。
砕けた左足から、激痛が走った。
◇
熊は、成美に向かって走り出した。
地面が沈み、空気が悲鳴を上げる。
「——っ」
成美は、ぎゅっと目を閉じた。
逃げる暇も、構える暇もない。
ただ、死を受け入れるしかなかった。
その瞬間——
——ばぁん!
乾いた破裂音が、夜を撃ち抜いた。
熊の頭部から、血が噴き上がる。
「……え?」
成美が目を開く。
その視線の先にいたのは——猟銃を構えた、霧雨魔理沙だった。
満身創痍。
左足は砕け、身体は血と泥にまみれている。
それでも、魔理沙は立っていた。
否。
立たされていた。
魔理沙の手から、淡い光を帯びた魔法の糸が何本も伸び、その身体に絡みついている。
無理矢理、関節を引き上げ、骨を繋ぎ、足を“立たせて”いた。
それは、人形使いの魔法。
アリスの、魔法。
アリスの残した想いが、魔理沙の身体を支えていた。
——私は、馬鹿だ。何もかも失くした気がして、勝手に諦めて。
これ以上……奪われてたまるか。
アリスの想いだって、この通り、私の中で生きている。
「……私はまだ、死んじゃいないぜ」
掠れ切った声で、魔理沙は笑った。
無理矢理動かされた身体が、悲鳴を上げる。
魔理沙は、それでも自分の身体を操り、箒へ跨る。
同時に、ある確信が胸に落ちた。
——魔法は、効きが悪い。だが、銃弾は確かに通った。
魔法より物理。
幻想郷では異端の結論。
だが今は、それに縋るしかない。
魔理沙は魔力を込め、浮かび上がろうとする。
だが、熊の重力が空間ごと押し潰す。
「……っ、重てぇな……!」
歯を食いしばる。
魔法の糸が腕を引き上げ、箒が軋み——
ようやく、地面から一メートル。
たったそれだけ。
だが、十分だった。
魔理沙は、残りの魔力を計算する。
——マスタースパーク、二発分か。
身体強化魔法を、解除する。
それは鎧を脱ぎ捨てる行為だった。
痛覚を鈍らせていた魔法が剥がれ落ち、激痛が全身を殴る。
砕けた足が、これでもかと悲鳴を上げる。
しかし、魔力が戻る。
——これで、三発分。
熊が、再び魔理沙へ向き直った。
いい加減、止めを刺そうというのか、隻眼が鈍く光る。
魔理沙は、静かに口を開いた。
「……アリス」
死ぬかもしれない。
それなら、最後に口にする言葉《ラストワード》は、愛しい名前が良かった。
箒にセットした八卦炉が唸りを上げる。
光の奔流が解き放たれ、箒ごと、流星のように突撃する。
ブレイジングスター。
「うおおおおおおおおっ!!」
「グオオオオオオオオッ!!」
魔理沙は叫び、
熊もまた咆哮で応えた。
熊の巨大な腕が、振り上げられる。
衝突の刹那、二発目のマスタースパーク。
更なる、加速。
狙いは一つ。
——上海人形のランス。
熊の胸。
アリスが、命を賭して突き立てた場所。
その場所目掛けて、全力で突進する。
あのランスを、箒で押し込み、心臓を貫く為に。
アリスの想いを、魔理沙が繋ぐ。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
熊の腕が振り下ろされる前に、箒の柄がランスを捉えた。
「いっけぇえええええええええ——っ!!」
押し込む。押し込む。押し込む。
だが、硬いゴムの塊のような筋肉に押し返され、心臓に届かない。
まだ足りないのか。奥歯を強く噛み締める。
熊の腕が、振り下ろされる。
魔理沙の顔へ、死が迫る。
——終わりかよ、ちくしょう。
死を覚悟した、その刹那——
熊の腕が、ピタリと止まった。
「……え?」
視界の奥。
熊の、その向こう。
魔理沙は、奇跡を見た。
泥だらけで、息を切らしながら——
そいつは、確かに立っていた。
魔理沙の胸に炎が宿る。
「……アリ、ス……?」
アリス・マーガトロイド。
彼女は、ボロボロになりながらも、熊の腕を魔法の糸で絡め取っていた。
魔理沙の中で、何かが弾けた。
空っぽになったはずの器に、感情が、想いが、一気に流れ込む。
何がどうなったか、理由は分からない。ただ、その存在が、希望を、力をくれた。
ただそこにいる。それだけで、気力が、魔力が、湧き上がってくるみたいだ。
その有りったけを、叩き込む。
——三発目!
魔理沙は吼える。
残ったすべてを込めたマスタースパークが、箒の柄を押し込む。
熊もまた、負けじと咆哮を上げる。
「うおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
「グオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
箒の柄はランスを押し込み、熊の腕はアリスの糸をぶちぶちと破る。
互いに命に手をかけ、奪い合う。
そして——
熊の腕が全ての糸を引き千切り、その爪が魔理沙を捉えようという、その刹那だった。
ランスが遂に、押し込まれた。
ランスは筋肉を裂き、骨を砕き、熊の心臓を——貫いた。
一瞬、時が止まったように感じられた。熊の爪も、魔理沙の頬に僅かに触れただけで、ピタリと静止した。
やがてマスタースパークが途切れ、魔理沙は勢いのまま地面へ叩き落とされる。
転がり、跳ね、ようやく止まる。
その先で、魔理沙は顔を上げた。
熊は——
箒を胸に刺したまま、ふらりと一歩、歩いた。
地面が大きく揺れた。
そして。
そのまま、崩れ落ちた。
ずしんと、重い音が森に響いた。
◇
それから、少しの時間が流れた。
熊を倒した魔理沙は、アリスの家に身を寄せていた。霧雨邸は焼失してしまい、建て直しが完了するまで、帰る場所が無かったのだ。
「全治一ヶ月だってさ」
ベッドに腰掛け、魔理沙は軽く肩をすくめる。
永遠亭の医者が、そう告げた。
粉々に砕けた左足は、永琳の薬をもってしても、それだけの時間を必要とするらしい。
兎には、「全快するだけ泣いて感謝しろ」と言われた。
アリスは、机の上で湯を沸かしながら、ちらりと魔理沙を見る。
その視線は、静かで、柔らかかった。
アリス自身は、幸いにも軽傷で済んでいた。
熊に追われ、空を飛ぶ事は出来なかったが、必死に逃げ走り、最後は川へと身を投げた。
流された先で気を失ったが、水が体の匂いを洗い流したことで、追撃を免れた。
目を覚ましたとき、森の奥で魔理沙の魔法の光が見えた。
それを目印に、身体を引きずるようにして駆けつけたのだ。
「本当に……成美も含めて、よく三人とも生き残ったわね」
「それなぁ」
魔理沙は笑みを浮かべる。
だが、その笑顔には、どこか力が足りなかった。
熊の一件以降、魔理沙は明らかに元気を失っていた。
その理由を、アリスは知っている。
熊との因縁。自分の出生。
魔理沙は、アリスにだけは打ち明けていた。
それは、魔理沙が滅多に見せない、明確な弱みだった。
「ねぇ、魔理沙」
アリスは、静かに魔理沙の前へ立つ。
そして、何の前触れもなく、その身体を抱きしめた。
ぎゅう、と。
逃げ場を塞ぐような、少し強すぎるほどの力で。
胸元に、魔理沙の頭を引き寄せる。
強がりが剥がれ落ちかけているその姿が、愛おしくて堪らなかった。
その欠けている何かに、自分がなりたいと思った。
「私が、家族になってあげようか?」
魔理沙の肩が、ぴくりと跳ねる。
そして、がばっと顔を上げた。
驚いた表情のまま、数瞬。
次の瞬間、顔がみるみる赤く染まっていく。
「そそそ、それって、け、結婚っ???」
——あぁ、そうなるのか。
少し遅れて、アリスも理解する。
つい軽いつもりで言ったのだが、人間の文化では、それは「籍を入れる」とも言う、名前が変わる程に重大な意味を持つのだった。
——まぁ、それも悪くないかも。
小さく頷き、アリスは付け加える。
「いつか、ね」
「……なんだよ、それ」
文句を言いながらも、魔理沙は笑った。
泣きそうで、嬉しそうな顔だった。
———
その夜。
二人は並んで腰掛け、焼き上がったブラウニーを分け合った。
熊が出た日にお預けになっていた、念願のご馳走だった。
魔理沙はそれを、思い切り頬張る。
「どう、美味しい?」
「うん。しっとりとしていて、それでいてベタつかない」
魔理沙はそう言って、もう一口かじり、紅茶を啜る。
「ほら、マグカップで飲んだ方が美味しいでしょ?」
「……いつもより、甘く感じる」
得意げに胸を張るアリスを見て、魔理沙は昼間のやり取りを思い出し、やや照れ臭くなる。
熊との戦いの中で、自分は色んな事を知り、失った。
育ての母親の事、産みの母親の事、昔馴染みの家族の事。
整理がまるで付いていなくて、いつまでもぐるぐると考えが巡ってしまう。
自分がどうして生まれたかなんて分からない。
望まれた生では無かったのかもしれない。
それでも確かな事は、アリスと巡り合い、きっと望まれて共にいる事だ。一時は死に別れたものかと思ったが、大事な場面では、結局また巡り合えた。
これを、運命と呼ぶのだろう。
目の前で、自分と同じ色の髪が揺れるのを見て、以前話したことを思い出した。
「なぁ、私が金髪の理由だけどさ」
「うん」
「きっと、アリスとお互いを見付け合う為の、目印なんだよ」
そう言って笑うと、アリスも「そうね」と笑い返してくれた。
——私の居場所はきっと、ここなのだろう。
——すまない、鉄平……。どうか、生きていてくれ。
止まらない足を転がしながら、はぐれた息子の事を思う。
銀三郎は、人里で草鞋屋を営んでいる男だ。決して裕福な暮らしでは無いが、息子と娘、三人で幸せに暮らしていた。
それがこの度、娘のすずが畳屋の息子と結ばれ、祝言をあげる事になった。親としては世間並みの立派な式にしてやりたいが、いかんせんその日暮らしに近いような生活で、先立つ物が無かった。
そこで銀三郎は、危険を承知で妖怪の棲む山に野草を取りに入った。ここにしか自生しない草が、干して煎ると薬になるだかで、斜向かいの道具屋が高く買い取ってくれるのだった。
一人きりで山に入るつもりであったが、息子の鉄平が共に行くと言って聞かなかったので、二人で山に足を踏み入れた。目当ての草や、自分たちで食べる為のきのこ等で背中の籠をいっぱいにしたところで、異変は起こった。
日も沈み始め、そろそろ帰ろうかと話していたところだった。妖怪の時間となる夜になる前に、山を出る必要があった。
茂みから突如、巨大な塊が二人の前に飛び出した。太陽が遮られ、急に目の前が暗くなった。まるで山が動いたかのように思えた。
突然の出来事に、銀三郎達は何が起こったか分からず、ただ呆然とそれを見上げた。
ごぅ、という息遣いが聞こえた。
それは、巨大な熊であった。
肩は異様なほど発達し、盛り上がった筋肉が毛皮を押し上げて波を打っていた。毛並みは泥と枯れ葉にまみれ、栗色がかった長毛が風に揺れるたび、獣臭がむんと立ち上る。
琥珀色の目は片方が潰れていて、もう片方は鈍く濁り、光を吸い込んだように暗い。
その目が銀三郎達を捉えた瞬間、熊の鼻先がふくらみ、ぶふぅ、と重い湿った息が吐き出された。その音で、銀三郎ははたと我に返った。
熊はゆっくりと、鉄平の方へ踏み出した。足は丸太のように太く、地を踏むたびに、落ち葉と土が押し潰されて沈む。
身体全体が、緊張をまとっていた。
足が竦む前に行動に移れたのは、僥倖だった。
銀三郎は「逃げろ!」と叫び声を上げ、呆然として口を開けたまま固まる鉄平の手を引いた。
腕を引っ張られた鉄平も漸く我に帰り、二人は熊に背中を向け、一目散に走り出した。
そして、途中の別れ道で意図せずに別方向へ散り、離れ離れになってしまった。
そこから先は、無我夢中だった。
振り返る余裕も無く、ただただ前へ前へと、一刻も早く山から逃げ出そうと必死だった。
鉄平の身を案じる気持ちと、軽率に山に入った判断を呪う気持ちに駆られながら、全力で山を駆け抜けた。
後ろから追う音は無く、静寂だけが続く。
そして今、漸く麓の民家の灯りが遠くにぼんやりと浮かびだした。
その灯りに、ほんのりと安心感を覚える。
「……鉄平……お前もどこかで……」
かすれた声をこぼした、その折。
前の藪が、はらり、と僅かに揺れた。
山風ではない。
草が押しのけられる音――重い何かが潜む気配がした。
銀三郎がそちらに顔を向けた瞬間だった。
藪が大きく弾け飛ぶようにして、目の前に黒い塊が横合いから躍り出た。
銀三郎は立ち止まろうして、尻餅をついてしまう。その体勢のまま、その塊を見上げる。
——熊だった。
先ほどよりも近く、恐ろしく細部までその姿が視界に入る。
肩の筋肉が盛り上がり、毛皮の下でぬらりと動く。
腹は厚く、呼吸のたびに上下し、湿り気を帯びた獣臭がまるで霧のように漂う。
爪は手斧の刃のように反り、泥にまみれながら鈍い光を放っていた。
そして――
右前肢の爪の間から、どろりと赤いものが滴り落ちている。
血だ。
栗色の毛に広く染み、まるで生肉を握ったまま歩いてきたような有様であった。
銀三郎の喉が、音もなく震えた。
……鉄平。
呼びかけることすら、もうできなかった。
熊は喉の奥で低く唸り、ゆっくりと、しかし確実に銀三郎に歩み寄る。
その一歩ごとに、地面が揺れる。
銀三郎は尻餅をついたまま後退るが、大木にぶつかり、逃げ場を失った。
「や……やめ……!」
涙とも汗ともつかぬものが頬を伝う。
その声は震え、山風に掻き消されてゆく。
熊の影が、銀三郎を覆い尽くす。
その眼が、至近でぎらりと光った。
銀三郎の絶叫が深山の静寂を切り裂いた。
◇
「…………おはよう」
扉を叩く音に起こされた霧雨魔理沙は、寝ぼけ眼を擦りながら、玄関先に立つアリス・マーガトロイドに朝の挨拶をした。
まだ半分夢の中で、扉を開けたら目の前にアリスがいるという事以外、あまり認識できていない。
「おはよう……って、もう昼よ?」
アリスは挨拶を返しながら、呆れたように笑う。その言葉の通り、太陽はとっくに昇りきっていた。
幾ら陽の光が余り届かない魔法の森に住んでいるとはいえ、今日の魔理沙はあまりにも寝ぼすけだった。
「いやぁ……昨日の夜、つい本に夢中になっちゃってさ」
段々と意識がはっきりしてきた魔理沙は苦笑し、アリスを中に招き入れた。何の用だと訊かないのは、何の用も無くても訪ね合う間柄だからだ。
アリスの為に机の上を簡単に片付けながら、魔理沙の頭の中には、つい先程まで見ていた夢の断片が浮かんでいた。
夢の中の魔理沙は幼く、母親を求めて泣いていた。そんな魔理沙を、女の人が優しく抱いてくれた。暖かな体温を感じて、魔理沙は安心感に包まれながら眠りにつく。そんな夢だった。
それは、魔理沙にとって最も古い記憶だった。女の人の顔は朧気だが、金色の髪が揺れていたのをぼんやりと覚えているから、きっと母親なんだと思う。その優しいゆりかごみたいな抱っこは、ふかふかの布団に沈み込むみたいな気持ち良さで、幼い魔理沙を満たしていた。
魔理沙はその夢を、年に数回は見ていた。その度に、何ともいえない寂しさに苛まれて人恋しくなっていた。
だから、そんな夢を見た昼にアリスが訪ねてきたのは幸運だった。
魔理沙はアリスを椅子に座らせて、やかんに火をかけて湯を沸かす。そして、アリスと飲む専用の紅茶を取る為、棚に手を伸ばした。
その際に、チラリとアリスの横顔が見える。揺れる金糸のような髪が、夢の中の母親と重なった。
「なぁ、何で私って金髪なんだろうな」
昔から気になっていた疑問をぶつけてみる。当然、答えを知ってると思ってはいない。
「親からの遺伝じゃないの?」
「そりゃ、そうなんだけどさ」
ある意味、期待通りの回答に小さな笑いが漏れる。
人里狭しの中で、金色の髪をしているのは、魔理沙と母親だけだった。目立つのが嫌いでは無いから、魔理沙はそれを不満に思った事は無いが、ずっと不思議には思っていた。
母親自身に訊いてみても、「ビール党だから」と適当にあしらわれるだけだった。因みに母親が酒を一滴でも飲んでいるのを見た事が無い。
そんな事を思い出している内に湯が沸いたので、急須に注ぐ。アリスからは紅茶を急須で淹れる事に不平を言われるが、魔理沙としては急須とポットを使い分ける方が馬鹿馬鹿しく感じられる。
急須と湯呑み(これまた、アリスには文句を言われる)を盆に乗せて、アリスの待つ机まで運ぶ。以前に道中で転んで手を火傷した事があるから、慎重に歩く。
「ほら、茶だぜ」
「ありがとう」
机の上に置いて、紅茶を急須から湯呑みに注ぐ。爽やかな香りがふわっと広がる。
「これ、匂い良いよな。えっと、なんだっけ……確かぬらりひょんみたいな名前」
「ヌワラエリヤ、よ」
馴染み無い発音で、どうしても覚えにくい。
魔理沙は多分また忘れるなと思いつつも、「そうそう、そうだった」と適当に笑う。
そして、紅茶の香りを嗅いでいたらお腹が空いてきたので、朝食兼昼食代わりに丁度良い物をアリスにおねだりする。
「いつものあれ、無い?」
「ブラウニーね。持ってきたわよ」
アリスは鞄を開き、白い包みを取り出した。待ってましたと、魔理沙に笑顔が溢れる。
その時だった。
ドンドンと、扉を荒々しく叩く音が響いた。
「すみません!いらっしゃいますか!」
同時に、若い男の切羽詰まったような声。
鬼気迫る様子に、魔理沙は呆気に取られる。外の男は構わず、乱暴に扉を叩き続ける。
食事の邪魔をされたくは無かったが、扉を壊されても敵わないので、魔理沙は渋々玄関に向かう。
扉を開けると、ひょろりと背の高い、若い男が立っていた。息を切らしながら、魔理沙を見下ろしている。ここまで走ってきたらしい。
「どちら様?」
ブラウニーがお預けになって、つい刺々しい言い方になってしまう。
つまらない用なら承知しないぞと、睨み付ける魔理沙に、若い男は突然、地面に膝を付いて頭を下げた。
そして、叫びのような声をあげる。
「助けてください!」
予想もしない展開と大声に魔理沙は面食らい、苛立ちも迷子になって、ただただ戸惑う。
「一体、どうしたんだよ?」
魔理沙の言葉に男は顔を上げる。
そして、縋る様な目をして、悲痛に滲んだ言葉を紡いだ。
「婚約者の父と兄が、山で行方不明になったのです。どうか……どうか探して出してくれませんか?」
そう言ってまた、地面に頭を擦り付けた。
魔理沙はすぐに男の焦燥を理解した。
幻想郷で山といえば、妖怪の山を指す。多くの食人鬼の巣食う魔境。そこで行方不明になったといえば、つまりそういう事だ。
生存を絶望視しながら、一縷の望みを信じ、かといって自身で山に入る事も出来ずに、何でも屋に頼ってきたのだろう。
はぁ。ため息が出る。
「……分かった」
魔理沙は地面に頭を付ける男を見下ろしながら、依頼を承諾する。頭を上げて「ありがとうございます!」と感謝を述べる男に、「お金は貰うからな」と念押しする。
といっても、婚約者の父と兄とやらは、おそらくもうこの世にいないだろう。
正直、乗り気はしない。妖怪に食べられたなら、どうせ見つからない。運良く見つかったとしても既に死体になっているだろう。身体の半分もあれば幸運な方だ。
目の前の男の身なりを見る限り、依頼料を払えるのかも疑義がある。
それでも引き受けるのは、万が一の生存を信じたくなる気持ちは、まぁ理解できるからだ。少なくとも遺体を見るまでは、生きている可能性を捨てられないのだろう。
そして何より、妖怪の山よりは安全とはいえ、ただの人間が危険を冒して魔法の森まで助けを求めに来た。その気持ちに応えたいと思った。
善は急げというが、面倒臭い事も早く片付けてしまった方が良い。
魔理沙は、家の奥にいるアリスに向かって声を上げた。
「アリス、悪いな。霧雨魔法店の仕事だ」
ブラウニーを食べるのは、事が済んだ後にする。
◇
「こりゃ、酷いな」
顔の無い死体を見下ろしながら、魔理沙は呟いた。
肩から腰にかけても抉られており、骨や腸が露出していて、虫が集っている。
魔理沙は死体のそばにしゃがみ込み、手を合わせて短い念仏を唱える。まだ乾き切っていない血の臭いが、鼻をついた。
死体の傷口を観察すると、鍬で引き裂いたようにズタズタだった。
一体誰の仕業か、魔理沙は首を傾げる。
通常、妖怪にやられた傷跡は、もっとスパッと鮮やかなものだ。また、食害された形跡もあるが、食べ方も汚過ぎる。妖怪の場合、基本的には丸呑みだから死体は残らない。残す場合も上半身だけ、下半身だけというのが一般的だ。齧るような食べ跡になる事は少ない。
そうすると、野生動物による仕業の様に見えるが、腑に落ちない点もある。
野生動物によるものだと仮定すると、そいつはあまりにも——大き過ぎる。
派手な傷跡からして、爪だけで10センチは無いと説明が付かない。魔理沙はそんな生き物をこれまで見た事も聞いた事も無かった。
未知の化け物を想像して、うっすらと背筋に冷たいものを感じながらも、魔理沙は死体の服を剥がす。二人分の死体を持ち帰る事は容易では無いが、手ぶらで「死体があった」と言うだけでは依頼人は納得しないだろうから、証拠品を持ち帰る必要があった。
死人から追い剥ぎするみたいで気分の良いものでは無いが、念仏を唱えながら作業を進める。遺族が死亡を認めれば、葬儀も行われるだろう。それで成仏してくれと祈りを込める。
やがて、血のベッタリ付いた分厚い木綿の着物を剥ぎ終え、その場を離れる前にもう一度手を合わせた。
それから、箒に跨って空からもう一人の男を探すと、すぐに見つかった。最初の男より大分上の方、山の中腹あたりで項垂れるように座り込んでいた。
背中しか見えないが、外傷は無さそうだ。まだ生きているかもしれない。
魔理沙は高度を下げて箒から降りる。やはり、目立った傷は無い。恐怖で動けなくなったのだろうか。ともかく、こいつに話を聞く必要がある。
背中から、声を掛ける。
「おい」
しかし返事は無い。相変わらず俯いたまま、微動だにしない。
魔理沙はため息を吐いて近付き、その肩に手を乗せる。
「おい、大丈夫か——」
男の身体が、ゆっくりと倒れた。
仰向けに地面に倒れこんだ姿を見て、魔理沙は思わず息を呑む。
腹が抉られ、中身が無くなっていた。
男から山の奥に向かって、血の跡が続いている事に気付く。おそらくこの男は、致命傷を負いながら、ここまで逃げてきて、力尽きたのだ。
しかし、魔理沙を驚愕させたのは、別の事実だった。
「嘘だろ……?」
一人目の遺体は首から上が無くて、気が付かなかった。
まさか、まさかと思う。
遠くにあったはずの悲劇に、急速に引き寄せられるように感じた。
古い記憶が想起される。
座り込んだまま絶命していたその遺体は、実家の道具屋の斜向かいに住む草履屋の息子のものだった。
◇
魔理沙はベッドに横たわりながら、魚の形をした根付(注:江戸時代のアクセサリー)を眺めていた。
山から帰った魔理沙は、何もする気が起きず、依頼主への報告も翌日に回した。アリスは既に帰宅していて、一人でぼんやりと考え事をしている内に、夜になっていた。
外で鳥の鳴き声が聞こえる、やけに騒がしい夜だった。
魔理沙が眺めているそれは、昼に死体の服から取ったもので、幼い頃に見慣れていたものだった。
斜向かいの草履屋は、昔から家族ぐるみで魔理沙によくしてくれた。特に息子の鉄平と娘のすずは魔理沙より少し年上で、遊び相手になってくれた。
鉄平は昔からこの根付を付けていて、魔理沙は親しみを込めて「魚のお兄ちゃん」と呼んでいた。
——その魚のお兄ちゃんが、草履屋のおじさんが、死んだ。
実家を飛び出した時から、人里の知ってる顔が知らない内に死んでいく事は覚悟していた。けれど、こんな風に死に別れに直面するとは、思ってもいなかった。
魔理沙は深くため息を吐く。
朝になったら人里に二人の死の報告をしに行かなければならない。すぐに、すずにも伝わるだろう。彼女は身内の死をどんな表情で受け止めるのだろうか。
そういえば、依頼主の男は婚約者と言っていた。死んだ二人はすずの花嫁姿を見る事は叶わず、すずもまた見せる事は叶わなかった。
なんで妖怪の山に入るなんて、馬鹿な事をしたのだろうか。悲しみの中に、行き場の無い怒りが混ざる。
魔理沙の憂鬱に合わせて、天井から吊るしたランプも揺れた気がした。
机の上には、死体から剥がした着物だけが置いてある。べっとりと付いた血の鉄の匂いが、ベッドまで漂ってくる。
知り合いだと分かった今となっては、これだけしか持ち帰れない事が申し訳無い。
死体の無い葬式と、食われかけの死体の有る葬式。どちらの方が辛いのだろうか。考えても仕方の無い事が頭を巡る。
どうどうと風が吹き、窓がカタカタと揺れた。
魔理沙は目を瞑り、もう眠ってしまおうとする。昼過ぎまで起きていた所為であまり眠くは無いが、頭を働かせたくも無かった。
布団を被り、暗闇に入り込む。望んでも無いのに懐かしい記憶が蘇る。目の縁にじわりと涙が滲む。視界を閉じたせいで感覚が鋭敏になり、鼻の奥のツンとした痛みが、弱った心を自覚をさせる。
窓がガタガタと音を立てる。風が強過ぎる気がする。
魔理沙はどうしようも無いやるせなさに、何度も寝返りを繰り返す。人肌が恋しくなり、アリスに貰った人形をぎゅっと抱きしめる。明日、人里での報告が終わったら、アリスに会いに行こうと思う。
アリスの事を想うと、少しだけ救われた気持ちになる。人形に痛覚があったら文句を言われそうなくらい、強く抱きしめる。
そうしている内に、じんわりと眠気が広がっていく。それは身体に染み入っていくように、魔理沙を眠りに落としていく。柔らかい布団の中に、思考が溶けていく——その時。
音を立てて、窓が割れた。
意識を手放しかけていた魔理沙は驚いて飛び上がり、割れた窓の方に顔を向ける。目を細めて、何が起きたか捉えようとする。
机を挟んで向こう側。視界の中で、何かが動いた。
ひんやりと、冷たい夜気が流れ込む。
——黒い塊が、そこにいた。
天井から吊るしたランプが照らす薄明かりの中、桁外れの巨躯が揺れていた。高さは天井に着きそうで、同じだけの横幅がある。窮屈そうに揺れる影は、強い圧迫感があった。
魔理沙は反射的に、枕元に置いてある八卦炉に手を伸ばす。
ランプに照らされたその塊は、よく見ると薄らと栗色をしていた。肩の瘤のような筋肉が盛り上がり、濁った琥珀の眼がぎらぎらと光る。その眼は、片方が潰れている。
熊だった。
右の爪の先には、乾きかけた血が固まり、黒くこびりついていた。
生臭い、鉄の混じった匂いが家の中に充満する。
魔理沙の背筋に冷たいものが流れる。
鎌のような爪と、昼間見た遺体の傷跡が結び付く。同時に、こいつが魚のお兄ちゃんとおじさんを殺した存在である事を理解する。
「お、おい……冗談だろ……?」
熊は物に執着する。どこかで聞いた事のある知識が頭をよぎるが、妖怪の山からここまでは、十キロ以上離れている。俄かには信じられ無かった。
熊は返事をする代わりに、吼えた。
グオオオォォオオッ!!
家中の空気が震え、棚の道具が落ちる。
その音圧に魔理沙の心臓が跳ね、全身が粟立った。
熊は雄叫びを上げながら、魔理沙との間にある机に前肢を振り下ろす。爪は手斧より鋭く、触れた瞬間に机は砕け散り、木片が飛び散った。
熊は、じわりと魔理沙ににじり寄る。先程まで机だった木片が踏み躙られ、ぱきりと音を立てた。
魔理沙は咄嗟に箒を引き寄せる。しかし、こんな狭い空間では飛ぶ事は叶わない。
出口は熊に塞がれ、逃げ場が無い。
そうしている内にも熊はじりじりと距離を詰める。
熊は鼻孔を広げ、湿った息をぶふうと吐く。その息の熱が、数歩離れた魔理沙の頬にかかった。
「ちぃっ……!」
魔理沙は片手で八卦炉を構える。
一緒の油断が命取りになる事を魔理沙は知っていた。だから、躊躇する事なく放つ。
——マスタースパーク。
轟音と共に、空気が軋むような光の閃光が放たれる。
光は熊を覆い尽くす。一切の手加減無しに放たれたそれは、妖怪すらも恐れる、暴力的な魔力の奔流。
そのはずだった。
光の中に、影が動いた。
「…………マジかよ」
まるで分厚い毛皮と肉が光を吸い込み、押し返すように。
熊は後退るどころか、一歩、前へその足を押し出してきた。
眩い光の奔流を正面から受けながら、低い唸り声をあげる。
爪が床を削り、その体躯は揺るがない。
魔理沙は恐怖を覚え、思わず後ずさる。
「なんでっ……!?」
光が弱まり、マスタースパークが霧散する。
目の前に立つのは、焦げ跡ひとつ無い巨体。それはまるで、栗色の悪魔だった。
悪魔は、魔理沙に向かって飛びかかった。
魔理沙は反射的に、横に飛ぶ。
右に飛んだのは、偶然だった。
もし左に飛んでいたら——死んでいた。
魔理沙がいた場所から左側にかけて、床が大きく抉られていた。
魔理沙は身体中から力が抜け、床にへたり込む。死体の傷口を思い出し、吐き気を覚える。危うく、後を追うところだった。
一撃を外した熊は、魔理沙に向き直る。
ゆっくりと前脚を踏み込んだ。
床がひび割れ、家全体が軋む。その重さの一歩ごとに、魔理沙の体が細い糸で締め上げられるように凍りついた。
逃げねば、と頭では分かっている。
だが足が動かない。
腹の奥底から、ずるりと冷たいものが這い上がり、心臓を握りつぶそうとしている。
——死ぬ。このままでは、確実に。
喉が乾き、呼吸が上手くできない。
箒を握る手は、汗でびっしょりと濡れ、震えが止まらなかった。
マスタースパークの効かない化け物。
話し合いの余地も無く、有るのは明確な殺意。
昼間の遺体の映像が、頭にこびり付いて離れない。
「や……だ……。まだ、死にたくない……!」
叫んだつもりが、声は掠れ、子供の泣き声のように弱々しかった。
熊の影が覆いかぶさる。
獣の息が、頬に当たる。
その生温さだけで、脳が悲鳴を上げた。
極限の恐怖の中、後ずさる魔理沙の手が、コツンと硬い物にぶつかった。
見下ろすと、魔法火を閉じ込めた小瓶だった。魔理沙の震える手が、縋るように伸びる。
「このっ……燃えろ……!」
乱暴に熊の足元に投げる。
小瓶が割れ、魔力の込められた火は瞬く間に木材へ移り、家中へ赤い舌を伸ばす。
炎は風に煽られ、轟々と燃え上がり、熊の視界と嗅覚を奪う。
グオオオォォオオッ!!
炎の中、熊の雄叫びが聞こえる。
魔理沙は箒を抱えて、熊が割った窓へと走った。無我夢中だった。酷くひしゃげた窓枠が、熊の巨躯を物語っていた。
背後で熊が狂ったように床を踏み鳴らす音が響く。
肺が焼けるほど空気を吸い込みながら、魔理沙は外へ飛び出し、夜空へと逃げ上がった。
振り向くと、家は炎の柱となって沈黙の森に赤々と照り映えていた。
燃え盛る我が家の奥から、人の声にも似たおぞましい咆哮が、なお響いていた。
バクバクと弾む心臓に、生きている安堵感を覚えると同時に、これまで築き上げてきたものが崩れ去る感覚に陥る。
自分の居場所が、炎に包まれ、消えていく。
魔理沙は忌々しく炎の柱を見下ろしながら、奥歯を噛んだ。
◇
「それで、ここに逃げてきたわけ?」
博麗霊夢は、呆れたように言いながらも、熱い緑茶を淹れてくれた。深夜に叩き起こされたせいで、若干の不機嫌さが言葉に滲んでいる。
ちゃぶ台を挟んで正面には、魔理沙とアリス、そして矢田寺成美が座っている。
熊に襲撃された魔理沙は、博麗神社に逃げ込んでいた。家が近いアリスも危ないと判断し、半ば無理矢理連れてきていた。騒ぎを感じ取って魔理沙の家の様子を見に来ていた成美も同様に、博麗神社に連行した。
「あいつ、普通じゃ無いんだ」
青ざめた顔のまま、魔理沙は訴える。思い出すと今でも身体の震えが止まらない。
野生動物から逃げ出したなんて魔法使いの名折れだが、そんな体裁を気にする余裕も無かった。
「言っても、熊でしょ?」
普段相手にしている鬼やら神やらの方がよっぽど凶悪だと言いたげに、霊夢は肩をすくめる。
「寝起きで調子悪かったんじゃないの?」
霊夢からしても、マスタースパークが効かない動物がいるなんて、信じがたい様子だった。
最近の魔理沙は派手さにかまけて、マスタースパークの密度が薄くなっている。そんな批判は度々起こっていたから、原因は寧ろそっちにあると思っているようだ。
「私もそう思うけど……さっきからずっとこの調子なのよ」
アリスが横から支えるように腕を伸ばすと、魔理沙の肩がぴくりと震えた。
成美は心配げに魔理沙の様子を窺っている。
それでも霊夢は、深刻さをあまり理解していないようだった。
「まあ……今日は泊まっていきなさい。森に帰すのも心配だし」
その言葉で、魔理沙の緊張が少しだけ解けた。
だが、胸の奥の震えはなお収まらず、寒気のように絶えず背をなでてくる。
そして、部屋に四人分の布団が並べて敷かれた。魔理沙はアリスの隣に、ほとんど吸い寄せられるように位置を取った。
蝋燭の揺れる火が、柱や天井の影を不規則に揺らす。その度に、魔理沙は天井近くの闇を一瞬見上げた。
闇の端から、またあの影が現れるのではないか——
そんな妄念が、魔理沙を眠りから遠ざけていた。アリスは唇を青くする魔理沙を一瞥し、小さくため息を洩らした。
「……ねえ、魔理沙。今夜はもう大丈夫。森からは大分距離あるし、私や霊夢もいる」
「分かってる、けど……」
魔理沙は、布団の端をぎゅっと握り締めたまま、声を絞るように言った。
昔の知り合いが死んだ悲しみが処理できないまま恐怖がやってきて、魔法が効かない絶望に打ちのめされた。おまけに家まで燃えてしまった。
何もかも整理出来ず、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
蝋燭の火が小さく揺れた瞬間、魔理沙は心の堰を切ったように呟いた。
「アリス……そっち入ってもいい?」
アリスは目を丸くし、視線を右にやった。
そこでは霊夢がすでに横になり、成美もその横で寝息を立てている。
「ちょ、ちょっと……霊夢も成美もいるのよ?こんなところで——」
諫めようとしたアリスだったが、魔理沙の顔を見て、言葉が途切れた。
魔理沙は今にも泣き出しそうな表情をしていて、瞳には恐怖の余燼がまだ濃く残っていた。
普段なら決して見せぬ、子どものような弱さ。
震えはさっきよりも細かく、頼りなさげに続いている。
アリスはしばし唇を噛み、それからそっと布団をめくった。
「……少しだけよ。誰かが起きてたら怒るからね」
「……ありがと」
魔理沙は遠慮がちにアリスの布団へ滑り込み、アリスの胸元へ小さく身を寄せた。
アリスは驚きつつも、そっと腕を回して魔理沙の背を包む。
その瞬間、魔理沙の呼吸がふっとほどけた。
胸の奥で固く丸まっていた恐怖が、溶けてゆくようだった。
アリスの腕は細いが、不思議なほど温かい。
その温もりが、遠い昔の記憶を引き寄せる。
涙が溢れ、嗚咽が漏れる。
——幼いころ、母に抱き上げられたときの体温。
眠りにつく直前の、あの柔らかな揺れ。
暗闇が怖くて泣きついた夜の、温もり越しの安心。
忘れたと思っていたものが、一気に胸の底から蘇った。
「あったかい」
魔理沙はアリスの胸元に額を押しつけるようにして呟いた。
アリスは優しく微笑み、魔理沙の頭を撫でる。
「大丈夫よ、魔理沙。もう、怖いものは来ないわ」
魔理沙の瞳が閉じていく。
まぶたの裏に残っていた黒い影も、獣の息も、静かに遠のいていく。
夜風が外でざわめいても、魔理沙の呼吸はすでに穏やかだった。
安らぎに身を委ね、アリスの腕の中で、ゆるやかに眠りへ落ちていった。
◇
翌朝、魔理沙はアリスと連れ立って人里を訪れていた。気は進まないが、草履屋の主人と息子の死を報告しなければならない。
二人は、依頼主である男の畳屋に向かった。留守であってくれという魔理沙の願いは、最悪の形で裏切られた。
「あ、理沙ちゃん」
畳屋には依頼人の男と共に、その婚約者がいた。草履屋の娘であり、魔理沙の昔馴染みの少女。これから家族の死を伝えなければならないと思うと、胃に鉛が落ちたように気が重くなった。
「理沙?」
隣のアリスが怪訝な顔をして魔理沙を覗き込む。この昔馴染み、すずに会いたく無かった理由のもう一つがこれだ。特にアリスといる時には、邂逅は避けたかった。
「魔は、自分で付けたんだよ」
極力、何でも無い事の様に言う。
アリスはキョトンとしている。
それもそのはずだ。親から貰った名前に一字足して名乗ってるなんて、普通では無い。
「えっと、それはどういう?」
不思議そうな顔をするアリスに、バツが悪くなる。
『実は私は理沙だったけど、家出した際に魔の字を足しました。魔法の魔で、魅魔様の魔です。実家への当てつけと、"私は悪い子"という意味も込めています』なんて説明するのは、あまりにも恥ずかしくてムズムズする。
「い、今はそれどころじゃないだろ」
無理矢理、軌道修正する。
魔理沙はすずに向き直り、真っ直ぐ目を見つめる。逃げ出したい気持ちになる。どんな反応をするだろうか。泣くだろうか。怒るだろうか。取り乱すだろうか。
それでも、唾を飲み込んで勇気を振り絞る。
そして、起こった全てを話した。
妖怪の山で二人の死体を見つけた事、その後熊に襲われた事、その所為で遺品を持ち帰れなかった事。
すずは手ぶらで来た事を責め立てる事は無く、魔理沙の話を黙って聞いてくれた。頷きながら話を聞く様子を見るに、ある程度は覚悟は出来ていたのだろう。
話終えた魔理沙が、家ごと遺品を燃やしてしまった事を謝ったら、すずは反対に「ごめんね」と何度も繰り返した。
それから「ありがとう」と言って、目に涙を湛えていた。魔理沙はその目を直視に出来ずに、帽子の鍔で顔を隠した。
居た堪れなくなり、「それじゃあ」と挨拶をして、魔理沙とアリスが畳屋を後にすると、後ろから堰を切ったように、悲痛な叫び声が聞こえてきた。
それを背中に浴びながら、二人は真っ直ぐ博麗神社に帰る気にもなれず、お互い無言のまま人里を歩いた。
魔理沙の胸中には、自責の念が浮かぶ。
もし自分があの熊を討ち取る事が出来ていたら。その首を遺品と並べてすずの前に置けていたなら。
すずは少しでも救われただろうか。
不甲斐なさに奥歯を噛む。
悶々としながら歩いていると、足は自然と魔法の森の方へと向かっていた。習慣とは恐ろしいものだと思う。気付くと、人里の端、魔法の森へと続く道の前まで来ていた。
香霖堂があるのとはまた別の、細い道。
その細い道の先で、光を吸い込むような暗い森が入口を広げていた。いつもの森が不気味に思えて、身震いがした。
魔理沙が「引き返そう」と言おうとした瞬間だった。アリスが先に口を開いた。
「何、あの人」
アリスの視線が捉える先に目を向けた魔理沙は、嫌な顔をした。
そこには、人里の外れにポツンと立つ一軒の民家。外観はごく普通ながら、他の民家から孤立するように建てられたそれは、周りの景色から浮いており、不自然さを纏っている。
そして、アリスの言う「あの人」は、その民家の中にいた。べったりした栗色の髪をした老婆が、窓から身を乗り出すようにして、魔理沙達を凝視していた。
その血走った目は精神に異常をきたした者のそれで、一見してまともで無い事が分かる。
アリスは人里に住んだ事が無いから知らないのだろう。魔理沙も普段は里の中心部まで飛んでいくから、それを見たのは久しぶりだった。
「あれは、なんていうか。キチ……ちょっとした里の有名人だ。あんまり見るもんじゃない」
魔理沙の言葉の通り、その老婆は人里では有名人だった。但し、悪い意味で。
昔から子供が遊んでいると無言でじっと見てくるものだから、気味悪がられていた。何をしてくるわけでは無いが、子を持つ大人達は警戒し、彼女を迫害した。
彼女は次第に隅に追いやられていき、遂には人里と魔法の森の境でひっそりと暮らすに至っていた。
魔理沙も幼い頃、遊んでいるところをジロリと見られて怖い思いをした。その時は魚のお兄ちゃんが石を投げて追い払ってくれたけど、今にして思うとそれが正しい行いかは分からない。
「戻ろうぜ」
魔理沙は早くその場を離れたかった。魔法の森も、老婆も、何もかもが不気味だった。
アリスも同意して、二人は博麗神社に帰る事にした。
◇
それから博麗神社に戻った魔理沙とアリスは軽い言い争いをした。
アリスが、魔法の森に帰ると言い出したのだ。
「アリス、本当に帰る気か?」
「ええ。残してきた上海達が心配だもの。あの子達だけで長く留守番させるわけにもいかないわ」
「上海達連れて、すぐ戻ってこいよ」
「……私の家は、ここじゃないわ」
「け、けど。魔法の森だぞ。魔法の森には、あいつがっ……!」
魔理沙の声は、抑えているつもりでも震えていた。アリスはその震えを見て、一瞬言葉を探すように沈黙した。
「ねえ、魔理沙。昨日のそれは……あなたが疲れていたせいもあると思うのよ。妖怪ってわけじゃないんでしょう?本当にそこまで恐ろしい熊なんて——」
「いるんだよッ!!」
魔理沙は思わず声を張り上げ、端で見ていた霊夢が顔をしかめた。
それは、恐怖に取りつかれた人間の叫びだった。
「……もし、あいつに襲われたら……」
魔理沙は拳を強く握りしめ、爪が掌に食い込む程に力を込めた。だが言葉の続きを押し出せず、唇を震わせた。
アリスは魔理沙の肩にそっと手を置いた。
「心配してくれるのは、嬉しい。でも、大丈夫。ちゃんと防御魔法もあるし、周りの子たちもいる。それに——」
アリスは軽く笑って、冗談めかしてみせる。
「いざとなったら、飛べるもの。あなたもそうやって逃げ仰せたでしょう?」
「アリス……」
魔理沙は絞り出すように名前を呼んだ。
「頼む。今日は……いや、数日だけ、ここにいてくれ。アリスに何かあったら、私は……」
その先を言う前に、アリスがそっと魔理沙の手を握った。
「魔理沙。あなたの恐怖は、私も分かってる。でも、私は妖怪よ。神社に匿われて生きるなんて、妖怪らしいと思う?」
「…………」
生き方の話をされたら、魔理沙は言い返せなかった。一般的な人の道を外れながら好きに生きる自分に、他社の生き方を否定する権利なんて無い事は分かっている。
魔理沙は悔しさに歯を噛み、視線を地へ落とした。
「じゃあ、行ってくるわ。……本当に大丈夫よ。何かあったら、すぐに戻ってくるから」
アリスはそう言い、軽く手を振った。
その笑顔が、魔理沙にはひどく遠く見えた。
「アリス……待って……」
伸ばしかけた手は、ほんの数寸届かず、空を掴んで止まった。
アリスは振り返らなかった。
霊夢は境内からそれを見送っていたが、魔理沙には慰めの言葉をかけず、ただ静かに見守っているだけだった。
夕焼けが木々を照らし、アリスの姿が遠い空に消えてゆく。
魔理沙はしばらく縁側に立ち尽くした。
アリスの言う事は、正しいのだろう。
魔法の森に棲むという事は、元より命の危険と共に生きるという事だ。
何を今更、我が身可愛さに身体を震わせてるんだろうか。
本当は、アリスと共に魔法の森に帰りたい。
けれど、どうしても足がすくんでしまう。
あの黒い影が、まざまざと瞼の裏に蘇る。
あの爪。
あの息。
あの咆哮。
体が震え出し、魔理沙は膝を抱えて座り込んだ。
アリスの無事を願いながらも、自分が追いかけられない現実が、胸に深く突き刺さった。
◆
アリスが森に帰ってから、魔理沙は霊夢に引っ付いて回るようになった。境内の掃除をするにも、台所で夕食の用意をするにも、縁側で休憩するにも、常に行動を共にした。果ては厠にまで付いてきて扉の前でじっと待っているのだから、霊夢はいよいよ辟易していた。
「あんた、ずっと私の後をついてくるつもり?カルガモじゃあるまいし」
皮肉交じりに霊夢が言うと、魔理沙は気まずそうに目を逸らしてから、また顔を上げた。
「それなら私、カルガモになる」
想定外の宣言にポカンとする霊夢。魔理沙が続ける。
「立派なカルガモになるから、一人にしないでくれ」
「ま、ならいいけど」
縋るような目で馬鹿みたいな宣言をする魔理沙に、霊夢はつい頷いてしまう。人間は追い込まれると、人間以外の何かになろうとするらしい。新しい発見だ。それにしても、立派なカルガモってなんだろう。
入り浸る鬼に、地獄の妖精に、狛犬。色んなものがこの神社に棲みついているが、まさかカルガモまで追加されるとは。最近姿を見ないけど、老いた亀や悪霊もいた気がする。
霊夢はため息を吐いて、空を見上げた。
カルガモって、どれくらいで独り立ちするんだろうか。
◆
深い魔法の森の奥。
アリスは、椅子に座って読書を楽しんでいた。光は月明かりだけだけど、人の理を外れた彼女にはそれで充分だった。本の余白が月明かりを反射して薄く輝き、黒いインクで描かれた文字は淡い光の海を泳ぐ魚のようだった。
本の内容は、外国の児童文学だった。洋服ダンスの中が別の世界と繋がっていて、子供達がその世界を救う事になるというストーリー。子供向けながら、世界観が作り込まれており、今さら読んでも引き込まれる。
本の中で、子供達は戸惑いながら、時に喧嘩しながら、女王を名乗る悪い魔女へと立ち向かってちく。魔女が悪者にされがちな事には思うところはあるが、子供達が健気に頑張る姿は応援したくなる。流石に自己を投影するような幼さは持ち合わせておらず、保護者のような心境だ。
といっても、子供はいないし、出来る予定も無いのだが。
ふと、私では無い別の魔女ならどうかと考える。過分な幼さを残した彼女なら、主人公達に自分を重ねるのだろうか。
それならば、文字を通して見る景色もきっと違うのだろう。彼女にも読ませて、感想をぶつけ合ってみたくなる。
そんな風に考えながら読み進めていくと、少年達は魔女に対面した。意外と早かったが、これから戦闘になるのだろう。児童文学なので死ぬ事は無いだろうと安心感はある。何よりも頼もしいライオンが味方に付いている。ただ、願わくば大きな怪我などもしないで欲しい。
さぁ、ライオンが雄叫びを上げて、いざ戦いが——
そこでアリスは、パタリと本を閉じた。
来客だ。
ようやく来たかと、アリスは本を脇に置く。立ち上がると、焼け残った鉄製の椅子が、ギィと鈍い音を立てた。
焼け崩れて見晴らしの良くなった家の外で、来訪者が低い唸り声を上げる。来訪者はアリスに一歩にじり寄る。その際に、倒れていた『霧雨魔法店』の表札が踏まれ、割られた。
アリスは、己の尊厳まで踏み躙られたように、腸が煮え繰り返るのを感じた。
魔理沙の話を信じるなら、この獣は獲物の服の匂いを辿って、妖怪の山から十キロ以上離れた魔法の森にやってきた。それならば、新しい獲物である魔理沙の匂いが染み付いた自分がここにいれば、必ず現れると思っていた。
「あなたに恨みがあるわけじゃないけど」
その獣——熊は、返答する代わりに咆哮をあげた。空気が震え、周りの木々から鳥達が一斉に飛び立つ。
アリスが構え、人形達がその周りを浮遊する。
「ここは、あなたの居場所じゃないの」
熊はグルルルルと、喉を鳴らす。言葉の意味なんて分かっていないだろう。口から垂れる涎に、アリスは品が無いと思った。
この場所は、そんな獣の居場所じゃない。
ここは、魔理沙の居場所だ。
そしてそれは、自分の居場所でもある。
——私が守ってみせる。
熊が唸り声と共にアリスに飛び掛かり、上海人形が宙を舞った。
◆
魔理沙が目を覚ますと、既に日は昇り切っていて、部屋は初冬とは思えない程にぽかぽかと暖かく、じんわりと寝汗までかいていた。
昨晩はどうやら、気付かない内に眠っていたらしい。昨晩といっても、気の早い鳥が囀り始めるくらいまでは、うだうだと思い悩んでいた記憶がある。眠りについたのは、正確には明け方頃だろう。
それにしても、周りが眩しいくらいに明るくなっても目を覚まさなかったのは、それだけ憔悴していた証拠だろう。肉体的にも精神的にもかなり消耗した自覚はあった。あまりにも色々な事が起こり過ぎた。
しかしながら、たっぷりと睡眠を取ったおかげで、幾分か身体も気分も軽くなった。
事態は何一つ改善していないが、思い悩んでいても仕方ないと思えるようになったのは、ちょっとした進展と言える。
立ち上がって襖を開けると、この陽気にも合点がいくような快晴で、雲一つ無い青空がどこまでも広がっていた。
つられて気分が良くなる自分の呑気さに、まるで霊夢だと呆れた笑いが漏れる。
その霊夢を求めて、勝手知ったる神社内をウロウロするが、どこにも見当たらない。どうやら留守のようだった。
成美だけが庭で呑気に手を合わせながら眠っていた。
一人にしないという約束は見事に反故にされたわけだが、怒る気はしない。むしろ、昨日の自分の方がどうかしていた。何がカルガモだ。
さて、天気も良い事だし、霊夢もいない。何処かに出掛ける事にした。
ふらっと訪れる場所でまず頭に浮かんだのはアリスの家だったが、魔法の森の事を考えると途端に気分が悪くなった。細かい棘が無数に刺さっているようで、そこに触れるとチクチクと痛みが走る。
とはいえアリスの事はやはり心配で、思うと心が居場所を無くしたようにざわざわする。
本当はすぐにでも顔を見たいが、考えてみればアリスは自分よりもずっと経験豊富な魔法使いだ。それに、昨日言っていたようにいざとなれば飛んで逃げる事もできる。
流石にあの化け物も、空は飛べまい。
そうやって自分に言い聞かせて、結局行先として選んだのは人里だった。
◇
「………………」
「………………」
魔理沙は押し黙り、目の前の女から目を逸らした。その女もまた、何も言わず、同じように視線を外す。
話は半刻前に遡る。
博麗神社を後にした魔理沙は、当てもなく人里をぶらぶらと歩いていた。昨日の反省を活かし、魔法の森の方へは近付かないよう意識していた。
考え事をしながら彷徨っているうちに、歩いている道が実家の道具屋へ続いている事に気付く。
また、油断した。
両親に出会した時の表情を、未だに用意できていない。だから普段は、この近くには寄らないようにしていたのに。
しかし今さら引き返すのも癪だ。さっさと通り過ぎてしまおうと足を早めた、その時だった。
目の前の草履屋から、人が出てきた。
暗い服を着た女が、暗い顔をしていた。
どれほど泣いたのだろうか。瞼はぱんぱんに腫れている。昨日、確かに見たばかりの顔だった。
「……理沙ちゃん」
「……すずちゃん」
名を呼び合い、沈黙が落ちる。
用もなく歩いていたくせに、用もなく立ち去る事も出来ない。かといって、何を話せばいいのかも分からなかった。
「災難だったね」
何を言っているんだ。
自分でもそう思う。気の利いた言葉が、まるで出てこない。
神妙な空気はどうにも苦手だった。それに、すずを前にすると、昔馴染みが死んだ事よりも、自分の抱える恐怖を優先している人でなしのように思えて、居心地が悪い。
すずは何も言わない。
それでも、勝手に責められている気分になる。
「ねぇ、理沙ちゃん」
不意に名を呼ばれ、胸が跳ねた。罪悪感がじわりと広がる。
「人里に、戻っておいでよ」
想定外の言葉に、魔理沙は目を丸くした。
「理沙ちゃんも、襲われたんでしょ。私……理沙ちゃんまで死んじゃったら……」
すずの声は、ひどく優しかった。
その優しさが、一層魔理沙の胸を締め付ける。
同時に、ほっとしている自分がいる事に気付いて、魔理沙は愕然とした。
——私は今、人里に戻りたいと思った……?
雷に打たれたような衝撃だった。
魔法の森での生活から、逃げ出したがっている自分を、まざまざと突き付けられた気がした。
自分の居場所は、最初からあそこには無かったのだと、告げられているようだった。
強く否定しようとしたが、言葉が出ない。
勝手に居た堪れなくなり、予定など無いくせに、「そろそろ行くから」と曖昧にお茶を濁して、逃げ出す事にした。
すずを視界から消した、その瞬間だった。
目の前に、また別の懐かしい姿が飛び込んできた。
魔理沙は、一目で分かった。
母親だった。
昔と変わらぬ背丈。
変わらぬ体つき。
けれど、決定的に違う。
黒髪だった。
かつて、魔理沙と同じ金色をしていたはずの髪が、艶のある黒に変わっている。
母親は、魔理沙を見る。
魔理沙も、母親を見る。
言葉は無かった。
驚きも、怒りも、懐かしさも、互いの顔には浮かばない。
ただ、事実だけが、そこにあった。
——あなたとは、もう繋がっていない。
わざわざ黒く染められた髪が、そう告げているように思えた。
自分と同じ色を捨てるという、明確な拒絶。
魔理沙は、何も言わなかった。
母親も、何も言わなかった。
お互いに無言で見合った後、視線を逸らす。
母親は黙ったまま魔理沙の横を通り過ぎ、すずに声をかける。
慈愛に満ちた慰めの言葉だったのだろうが、魔理沙の耳には入らなかった。
一瞬でも、人里に居場所があると思った自分が、ひどく愚かに思えた。
自分で魔法の森という居場所を否定した事実だけが、ただ残った。
◇
「アンタ、どこで何してたのよ!?」
博麗神社に戻った魔理沙の姿を認めるなり、霊夢は怒号を上げた。
魔理沙はもやもやを誤魔化すために鯢呑亭で引っかけて、帰りは未明になっていた。流石に遅くなり過ぎたかと焦りつつ、霊夢の剣幕に思わず目を白黒させる。霊夢がここまで取り乱す姿は、これまで一度も見た事がなかった。
「ど、どうしたんだよ。そんなに慌てて」
冷や汗をかく魔理沙に、霊夢はさらに目を吊り上げる。
いつも纏っている余裕は、跡形もなく消え失せていた。
そして霊夢が告げた言葉は、魔理沙を内側から震わせるには十分だった。
「アリスが……行方不明になったのよ!」
魔理沙の中で、何かが音を立てて崩れた。
胸に大きな空洞が穿たれ、大切なものがそこへ吸い込まれていくような感覚。現実味が無いのに、喪失感だけが重くのしかかる。
「それは、どういう……?」
辛うじて絞り出した声に、霊夢は二つの事実を突き付けた。
一つは、アリスとの連絡が完全に途絶えた事。
魔法の森に戻ったアリスと、同じく森に住む三頭慧ノ子には、霊夢が定期的な連絡を命じていた。それが、アリスからだけ途絶えた。
不審に思った霊夢が様子を見に行ったが、自宅には姿がなかったという。
もう一つは、熊による被害が、ついに人里に及んだ事。
魔法の森近くに住む老婆の家から悲鳴が聞こえたという通報を受け、霊夢が駆け付けた先にあったのは、無惨に殺された遺体だった。傷口の様子から、熊の仕業である可能性が極めて高い。
人里にまで危害が及んだ以上、八雲紫らと対応を協議する必要がある、と。
老婆には悪いが、魔理沙は二つ目の話にまるで興味が持てなかった。
頭の中は、ただアリスの事でいっぱいだった。
もし、アリスがあいつに襲われたのだとしたら。
ぞっとするほどの寒気が背中を走る。
アリスは強い。
弾幕ごっこという枷が無ければ、きっと自分よりも余程。
だから、心配はしながらも、アリスなら大丈夫だと高を括っていた。
自分が逃げられたのだから、アリスが手に掛かるはずは無いと思っていた。
視界がぐるりと揺れる。
吐き気が込み上げた。
——私の所為だ。
自分が、もっと本気で引き留めていれば。
それが叶わなくても、せめて一緒に魔法の森へ戻っていれば。
二人なら、或いは——。
いや、まだ最悪と決まったわけじゃない。
今からでも——。
踵を返した瞬間、魔理沙の腕を霊夢が掴んだ。
「待ちなさい」
「……なんだよ」
魔理沙は、自分を引き留めるその手を睨み付ける。
どうして、こいつは冷静でいられるのか。怒りさえ込み上げた。
「一応訊くけど、どこに行くつもり?」
「決まってるだろ。アリスを探しに行くんだよ」
「一人で行くなんて、危険過ぎるわ」
「それなら、お前も一緒に来いよ」
魔理沙は歯噛みした。
消極的な態度が、いつもの霊夢らしくない。
「私は……動けない」
「はぁ?」
信じられない、という声が出た。
「事は、そんな単純じゃないの」
「どういう意味だよ」
「魔理沙を退けて、アリスすら手にかけた可能性のある熊よ。紫は、妖怪との狭間にいる存在だと判断した」
魔理沙は思わず舌打ちする。
マスタースパークが効かず、アリスに危害を加えたのなら、ただの獣では無いのは当たり前だ。
むしろ、だから昨晩あれ程危険を説いたのだと苛々した。
「だから、なんだよ」
「場合によっては……保護する必要があるのよ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
人里を襲い、妖怪をも殺した可能性のある獣を——保護?
魔理沙は黙って、霊夢の続きを待つ。
「妖怪になる獣は、まず力を得て、それから知能を得る。あの熊がその途中にいるなら、完全に妖怪化するまで隔離・保護する事も、選択肢に入るの」
「……分別が付かなかったから、罪には問いませんって言うのかよ」
「だから、それをこれから協議するのよ」
霊夢の瞳に、はっきりとした悲痛が滲んだ。
助けに行きたい気持ちと、博麗の巫女としての責務。その狭間で、必死に立っている目だった。
——でも。
こいつは、巫女の責務を選んだ。
魔理沙は霊夢の腕を振り払った。
「お願い、行かないで」
「心配なら、お前も来い」
「…………」
縋るような霊夢の視線に、胸がちくりと痛んだ。だが、それよりも優先すべきものが、魔理沙にはあった。
——私は身の危険より、アリスを選ぶ。
箒に跨り、地面を強く蹴る。
「待って——!」
背後から、か細い声が追い縋る。
それでも魔理沙は振り返らない。
ただ前だけを見つめ、夜の闇の中へと、一直線に駆けて行った。
◇
博麗神社を飛び出した魔理沙は、まず老婆の家へ向かった。
森と人里の境目にある一軒家。
その戸口は無惨にも壊され、内側から暗闇が滲み出している。じっと中の様子を窺うが、生き物の気配は無い。ばったり熊と出会す心配は、今のところ無さそうだった。
魔理沙は箒から降り、帽子を目深に被り直す。
熊がただの獣なら、爪痕と血の匂いが残るだけだ。
だが、もし妖怪になりかけているのなら——そこには魔力の残滓がある。
それが確認できれば、やりようはある。
魔力には属性があり、属性には相性がある。
敵を知り、己を知れば——という言葉もある。
魔理沙は息を整え、戸口をくぐった。
——臭い。
獣臭と血臭が混じり合い、喉の奥にまとわりつく。
床には、ずたずたにされた老婆の遺体が転がったままだった。
床板には引きずられた跡。
壁には、爪で抉ったような深い傷。
天井近くには、何かが叩きつけられた痕が、生々しく残っている。
熊だ。
間違いない。
魔理沙はしゃがみ込み、床に手を翳した。
意識を研ぎ澄まし、魔力の流れを探る。
「……っ」
ある。
微かだが、確かに残っている。
魔理沙は、そのかすかな魔力の残り香に、神経を集中させた。
そして——思わず、失笑が漏れた。
熊の持つ魔力の属性は、水だった。
奇しくも、自分と同じ。
どうりで、光と熱の魔法であるマスタースパークの効きが弱いはずだ。
必要な情報を得て、魔理沙は立ち上がる。
その時、ふと視界の端にあり得ないものが映った。
壁。
土壁の一角。
ある一箇所だけが、不自然なほど綺麗で、飾り気がある。
紙が、貼られている。
古い新聞の切り抜き。
黄ばみ、端は擦り切れているが——写っている人物には、はっきりと見覚えがあった。
「……は?」
声にならない声が、喉から零れる。
それは、霧雨魔理沙の写真だった。
箒に跨り、にっこりと笑っている自分。
天狗の新聞で、何度も使い回された写真。
我ながら可愛く映っているお気に入りの一枚であるが、どこで手に入れたのか。
いや、それよりも。
なぜ、ここにある。
魔理沙は、一歩後ずさった。
熊の痕跡よりも、この写真の方が、背筋を冷やした。
——どうして、私の写真を。
壁に貼られた切り抜きは、単なる装飾には見えなかった。
大切に扱われていた事が、一目で分かった。
魔理沙は視線を逸らすようにして、部屋を見回す。
ほとんど物の無い、無機質な室内。
その中で、机の上に置かれた一冊の帳面が目に入った。
布表紙。
角は擦り切れ、何度も開かれた痕がある。
魔理沙は、無意識のうちに、それへ手を伸ばしていた。
——老婆の、手記だ。
ずしりと、重い。
紙の重さだけではない。書かれた年月と、積み重ねられた感情の重さ。
魔理沙は喉を鳴らした。
嫌な予感が、はっきりと形を持って胸に広がる。
それでも、ページを開かずにはいられなかった。
そこには、懺悔のような言葉が、びっしりと並べられていた。
◇
魔理沙は茂みの中にじっと身を潜め、周囲を窺った。何もいないことを確認すると、数メートルほど前進し、再び同じように警戒する。
右手には銃を持ち、いつでも発砲できる態勢を崩さない。この村田銃と呼ばれる代物は、熊退治の話を聞きつけた人里の男が貸してくれたものだ。以前、イタチを狩った際に使った銃に似ていて、扱いにくさはない。
風の流れを常に意識し、風下へと進む。野生動物は総じて鼻が利く。相手に気取られず接近するには、常に相手より風上に身を置くことが肝要だった。
そういう意味で、山に入ってから風向きが一定なのは僥倖と言えた。
草木を揺らす風の音にも神経を尖らせながら、意識の片隅では、老婆の遺した手記の一節が、執拗に反芻されていた。
″駆け落ち同然に人里を飛び出した私達は、山に逃げ込んだ。今思えば、なんと迂愚であった事だろうか″
目を凝らし、獲物の気配がないか周囲を探る。魔法の森は広大で、相手は生き物だ。一日探し回っても見つからない可能性は十分にある。それどころか、知らぬ間に風上を取られ、背後から不意打ちを食らうことすら考えられた。
そう思った瞬間、背筋を冷たいものが走る。恐怖に突き動かされて振り返るが、そこにあるのは薄暗い森の静けさだけだった。
魔理沙は自分の膝を叩き、弱気になりかけた心を叱咤する。
″金色の化け物だった。そいつは突如現れ、伴侶は目の前で惨殺された。私に背中を向けたままの伴侶の顔が、ぐるんと此方を向いたのを見て、次は私かと死を覚悟した″
じりじりと前進していると、遠くで鳥の大きな鳴き声が響いた。
心臓が跳ね上がり、思わず息が詰まる。
身体が反射的に動き、大きな音を立てそうになるのを必死で堪え、茂みに身を伏せたまま周囲を見回す。すると——
視界の先に、大きな黒い塊があった。
一気に汗が噴き出す。
身体が硬直し、このまま動けなくなりそうになるのを、小さく息を吐いて抑え込む。
冷静になれ。
銃を構え、慎重に様子を窺う。黒い塊は、動く気配すら見せず、ただそこにあるだけだった。
銃口を向けたまま、音を立てないよう、魔理沙は静かに近づく。
″しかし、その化け物は私を殺さなかった。それどころか、何の気まぐれか——私を犯した″
ゆっくり、ゆっくりと距離を詰める。
枝を踏む音ひとつ立てぬよう、神経を研ぎ澄ませる。
やがて目視できる距離まで来て、魔理沙は大きく息を吐いた。
熊だと身構えていたそれは、ただの巨大な岩だった。
どっと疲労が押し寄せる。朝から山に入り、気づけば日が傾き始めていた。
赤みを帯びた空が、魔理沙の焦燥を煽る。夜になれば視界は悪くなり、危険は跳ね上がる。それに、時間が経つほどアリスの生存率も下がっていく。
額の汗を腕で拭い、深呼吸する。気持ちを切り替えなければならない。
″私は化け物の子を孕んだ。生きる気力も、死ぬ気力も湧かなかった。ただ、化け物の子を産むことが、私達の結婚を認めなかった両親への復讐になるかと考えた″
改めて風向きを確認し、慎重に歩を進める。本当なら空から探したいところだが、生い茂る木々が視界を遮り、何より目立ちすぎる。不意打ちを狙うなら愚策だ。
舌打ちしそうになるのを飲み込み、歩調を保つ。
猶予は、あと一時間ほど。それまでに熊かアリスか、せめてどちらかを見つけなければならない。
ねっとりとした汗が気持ち悪く感じられた。
″腹の中で蠢き、日増しに大きくなる存在が、ただ気持ち悪かった。この子もきっと化け物で、それを産む私も化け物なのだろう″
寝不足で重くなる瞼を、腿をつねって誤魔化す。疲労で重力が増したかのように身体が重く、まとわりつく汗がさらに動きを鈍らせた。
焦る心を必死で宥め、眠気と戦いながら、じりじりと前へ進む。
そもそも熊の根城は元々、妖怪の山だ。魔法の森には居ない可能性もある。
弱気になりかけた心を、奥歯を噛みしめて押し殺す。
万が一、紫たちが熊の保護を決定したら、手を出せなくなる。そうなる前に、決着をつけなければならない。
″十月十日を待たずに、化け物は腹を引き裂くように飛び出してきた。痛みに視界が霞む中でも、一目で分かった。予想通り、化け物の子は化け物だった″
——それは、小川の近くだった。
魔理沙の目が大きく見開かれる。
大木の根元に、大きな黒い塊が転がっていた。
夕日に照らされ、風がそれを撫でる。
表面に、うっすらと栗色を帯びた波が立った。
今度こそ、見間違いではない。
心臓が煩いくらいに強く脈打った。
魔理沙は一度だけ唾を飲み込み、殊更慎重に、ゆっくりと距離を詰める。
額から流れ落ちた汗が目に沁みる。それでも瞬きひとつせず、視線を外さない。
″私の腹を裂いて出てきたのは、化け物と同じ、金髪が既に生え揃った赤子。そして——″
距離は、およそ二十メートル。
イタチを狩った経験から、この距離なら外すことはない。
静かに手の汗を服で拭い、ゆっくりと村田銃を構える。
熊は、まだこちらに気づいていない。
その頭に、狙いを定める。
″私の髪と同じ栗色をした、醜い獣。私は、半狂乱になり、その獣の片目を潰した。獣は闇に消え去り、金髪の赤子は妖怪の賢者に引き取られ、道具屋の元に渡った″
——あばよ、兄弟。
魔理沙は、引き金を思い切り引いた。
◇
乾いた破裂音が、森の静寂を引き裂いた。
村田銃が跳ね、反動が肩を打つ。
硝煙の匂いが、一瞬遅れて鼻を刺した。
熊の頭から、赤い血が噴き出す。
命中した。だが——
熊は、倒れない。
黒い巨体が大きく揺れただけで、地面に伏すことはなかった。弾丸は確かに毛皮を貫き、肉を裂いた。しかし、頭蓋骨を砕くには至らなかったのだろう。
簡単にケリが着くとは思っていなかったが、その異様な頑丈さに、冷や汗が背を伝う。
熊が、のっしりと立ち上がる。
そして、ゆっくりとこちらを向いた。
隻眼が、魔理沙を捉えた。
魔理沙は、恐怖に震える足を、手で思い切り叩いた。
「……っ」
次弾を込めようと、村田銃を傾ける。幻想郷に流通している銃が単式ばかりなのが、この状況では恨めしかった。
銃を操作しながらも、視線だけは熊から外さない。
その視界に、ある物が飛び込んでくる。
熊の胸元。
肋骨の隙間に、深々と突き立てられた一本の槍。
細く、鋭く、決して折れぬ意思を宿した——
上海人形の、ランス。
「……アリ、ス……?」
喉の奥から、掠れた声が零れ落ちた。
そんな馬鹿な、と頭では思う。だが、魔理沙がそれを見間違えるはずもない。
杞憂であればいいと、どこかで願っていた。
だが、それは希望を完全に打ち砕く、あまりにも明確な、邂逅の証だった。
それはアリスの失踪と、無慈悲に結び付く。
怒りが込み上げる。溶かした鉄を飲み込んだように、腹の底が煮えたぎるように熱くなる。
同時に、それを上回る絶望が、胸を締めつけた。
熊が咆哮した。
空気を叩き上げるような、獣の叫び。
それは痛みへの反応ではない。敵を認識した捕食者の、宣告だった。
次の瞬間、熊が動く。
速い。
あまりにも速い。
地を蹴る音が、ひとつ。
それだけで、距離が詰まった。
——撃てない。
魔理沙は次弾を諦め、反射的に空へ跳んだ。
箒に足を掛ける暇すらない、魔力による跳躍。
だが——
ずしり、と。
見えない手に全身を掴まれたような感覚。
空中で、身体が押し潰される。
「——ぐっ!?」
次の瞬間、視界が反転し、地面が迫る。
逃げ場はない。
叩きつけられた。
肺から空気が絞り出され、視界が白く弾ける。
土と落ち葉が舞い、背中に鈍い衝撃が走った。
——重い。
身体が、地面に縫い止められている。
立ち上がろうとしても、指先一つ動かせない。
魔理沙は悟る。
——重力、だ。
魔理沙の家で相対したときには、存在しなかった感覚。
ただの怪力でも、威圧でもない。
空間そのものが、押し潰されている。
獣と妖怪の狭間にいる——霊夢の言葉が、脳裏をよぎる。
実際は、それどころでは無かった。老婆の手記で知った、驚愕の事実。
人間と化物のハーフ。おそらく人間を食った事で、化物として覚醒したのだろう。しかも、その変質は、この短時間で加速している。
アリスが逃げられなかった理由を、身をもって思い知らされた。
熊の影が、覆い被さる。
濁った眼が、真っ直ぐに魔理沙を捉えていた。
爪が、振り上げられる。
死が、落ちてくる。
——その瞬間。
魔理沙の身体が、紙一重で滑った。
重力を打ち消したわけではない。
筋肉と骨、その限界まで研ぎ澄まされた、一瞬の動き。
爪が、頬を掠める。
風圧が、皮膚を裂く。
魔理沙は転がるように距離を取り、荒く息を吐いた。
「……っ、は……は……」
頬から血を滴らせながら、頭の奥にある大魔法使いの姿が浮かぶ。
——聖白蓮。
かつて教わった、魔力による身体強化。
聖人の修練が結実した、己の肉体そのものを術式とする魔法。
彼女には遠く及ばぬが、それでも高重力下での行動を可能にするものだった。
恐怖で震える足で、それでも立ち上がる。
熊が、再び身を低くした。
次は、躱せないかもしれない。
それでも、魔理沙は前を見据えた。
胸に突き刺さったランスから、決して目を逸らさずに。
◇
荒い呼吸が、喉を焼く。
肺が悲鳴を上げ、視界の端が白く滲んだ。
魔理沙は、ひたすら熊の攻撃を避け続けている。
重力が、歪む。
一歩踏み出すたび、地面が引き延ばされ、跳ねようとすれば見えない鎖に足首を掴まれる。
熊の爪が地面を抉り、風圧が背を掠めるたび、心臓が喉元までせり上がった。
「……っ、は……は……」
極限の中で、口元が自嘲気味に歪む。
「……水属性の癖に、なんで重力なんか使ってんだよ」
吐き捨てるように言う。
熊は理解しない。ただ濁った眼で魔理沙を追い、地を踏み鳴らす。
「……ま、私も人のこと言えないけどな」
くつり、と乾いた笑いが零れた。
老婆の手記の内容が、脳裏をよぎる。
この不器用な生き方は、両親のどちら譲りなのだろうか。
「……やっぱ、兄弟か。嫌になるぜ」
逃げながら、魔理沙は右手を走らせていた。
指先が空をなぞる。
足運びと同時に詠唱を分割する。呼吸と回避と構築を並行させる――無茶にも程がある芸当だ。
まだ命を繋げられていること自体が、奇跡に思えた。
熊の爪が迫り、間一髪で身を躱す。
横髪が切られ、ぱらりと宙に舞った。
今のは、かなり危なかった。
だが――
漸く、準備が整う。
逃走経路の先、空中に。
淡い光が、ひとつ、またひとつと灯る。
そして五つの光が結ばれ、巨大な星を描いた。
幾何学的に組み上げられた、星型の魔法陣。
追われながら、魔理沙はそれを完成させていた。
それは最初から用意していた魔法だった。
熊が水属性だと知った、その瞬間から。
だからこそ。
「……ほんっと、嫌になる」
重力を強化する熊の能力を目にしたとき、心底辟易した。
熊が吠える。
空気を震わせる、苛立ちと殺意の咆哮。
しかし次の瞬間、魔法陣が光を纏い、熊の巨躯が地面に沈んだ。
重力で相手の動きを縫い止める、魔理沙の魔法。逃げながらも構築した魔法が、遂に熊を捉えた。
熊は見えない鎖に繋がれたみたいに、起き上がる事すら叶わなくなる。
「やっぱ私達、兄弟なんだな」
自嘲を込めて笑う。
まさか同じ魔法を用意していたなんて、歪んだ運命を感じた。
獣は意味を理解しないまま、再び咆哮を上げた。
「――うるせぇよ」
魔理沙は踏み込んだ。
そして、大きく開いた熊の口――噛み砕くためだけに存在する暴力の器官へ、手を突っ込む。
ばき、と嫌な音がした。
だが魔理沙の腕は折れない。
どころか、熊の口は開いたままだった。
身体強化魔法――その応用。
魔理沙が口内に突っ込んだ太い木の枝は、魔法によって一時的に鉄の強度を得ている。
熊の咬合力を受けても、容易には砕けない。
熊が呻いた。
「外から撃っても効かねぇならさ」
枝を支点に、魔理沙は身体を引き寄せる。
開いた口内へ八卦炉を向け、魔力を集中させる。
「――内側から、撃ってやるしかないだろ」
眩い光が、右手を中心に集束する。
魔力が圧縮され、臨界に達する。
熊の口内。
逃げ場のない、内臓へ直結する空間。
「ファイナル――」
息を、吸い切る。
「――マスタァァァァァァスパァァァァァク!!」
白光が、爆発した。
内側から解き放たれた奔流が、喉を、顎を、頭蓋をまとめて貫く。
夜の森が、一瞬、昼に変わった。
光は、熊の内側から噴き上がっていた。
◇
白光が、収束する。
爆音の余韻が森を震わせ、焼けた土と肉の匂いが漂った。
魔理沙は、息をすることすら忘れていた。
全身から魔力が抜け落ち、視界の縁が暗く滲んでいく。
——終わった。
そう、思った。
だが。
煙の向こうで、何かが、動いた。
重い。
鈍い。
確かな足音。
「……流石に、冗談だろ?」
喉から、意味を成さない声が漏れた。
熊が——
立ち上がっていた。
頭部は焼け爛れ、口元から赤い血が滴っている。
それでも、巨体は崩れない。
獣は、まだ、生きていた。
同時に、身体を縫い止めていた圧が消える。
重力魔法の効果が、完全に切れたのだ。
魔理沙は悟る。
ファイナルマスタースパークに、力を注ぎすぎた。
それでも——熊を、仕留めきれなかった。
熊が、のっしりと近付いてくる。
「……っ、動け……!」
足に力が入らない。
全身が、鉛のように重い。
熊が、吠えた。
それは執念の咆哮だった。
次の瞬間、視界が揺れた。
「——っっ!!」
左足に、凄まじい衝撃。
踏み潰される感覚。
ゴリゴリと、身体の内側から音が響いた。
「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
悲鳴が、森を切り裂いた。
激痛が、思考を塗り潰す。
足が——身体強化魔法のおかげで何とか形を保っているものの、内部の骨が粉々に砕かれていく。
涙と涎と血が、無様に溢れる。
熊は足をどけず、魔理沙を見下ろしていた。
逃げ場は、もう無い。
その視界の端で。
魔理沙は、熊の胸を見た。
肋骨の隙間に、深々と突き立ったままの槍。
上海人形のランス。
——アリス。
ふっと、力が抜けた。
「……そっか」
声は、驚くほど穏やかだった。
「……同じ場所に、行けるなら」
それでも、いいか。
魔理沙は、空を見た。
魔法の森の、暗い夜空。
——居場所は、すべて失った。
魔法の森は、自分を拒んだ。
人里にも、帰る場所は無い。
どういう経緯で道具屋に預けられたかは分からない。
けれど、育ての母はきっと、血の繋がりが無いことを悟らせないよう、髪を金色に染めてくれていた。
世界はそれを、愛と呼ぶのだろう。
でも、それももう、終わっている。
黒い髪は、その証明だった。
未練を抱いていたらしい産みの母も、もうこの世にいない。
そして、アリスも——。
「……全部、なくなったな」
声が、掠れる。
生きる理由も。
立つ理由も。
死を、受け入れかけた、その瞬間。
——ぱん、と。
熊の頭部の近くで、光が弾けた。
乾いた破裂音。
それは、熊の後ろから飛んできた光線だった。
「ま、ままま魔理沙から、離れろぉお!!」
張り詰めた声が、森に響いた。
熊が、反応する。
魔理沙から視線を外し、唸り声を上げる。
その先に、少女が立っていた。
矢田寺成美。
小さな身体で両足を踏みしめ、熊を睨み据えている。
「ばっ……成美っ!逃げろ!」
叫んだつもりだったが、喉から漏れたのは、か細い声だけだった。
熊は、瀕死の魔理沙を後回しにし、ゆっくりと成美の方へ向き直る。
魔理沙の胸が、強く、軋んだ。
「……なんなんだよ、私は!」
声にならない呟き。
死んでもいい、なんて。
一緒に行けるなら、なんて。
震える成美を見て、思い知らされる。
——私はどうも、大事なものに気付くのが、遅すぎる。
魔理沙は、歯を食いしばった。
砕けた左足から、激痛が走った。
◇
熊は、成美に向かって走り出した。
地面が沈み、空気が悲鳴を上げる。
「——っ」
成美は、ぎゅっと目を閉じた。
逃げる暇も、構える暇もない。
ただ、死を受け入れるしかなかった。
その瞬間——
——ばぁん!
乾いた破裂音が、夜を撃ち抜いた。
熊の頭部から、血が噴き上がる。
「……え?」
成美が目を開く。
その視線の先にいたのは——猟銃を構えた、霧雨魔理沙だった。
満身創痍。
左足は砕け、身体は血と泥にまみれている。
それでも、魔理沙は立っていた。
否。
立たされていた。
魔理沙の手から、淡い光を帯びた魔法の糸が何本も伸び、その身体に絡みついている。
無理矢理、関節を引き上げ、骨を繋ぎ、足を“立たせて”いた。
それは、人形使いの魔法。
アリスの、魔法。
アリスの残した想いが、魔理沙の身体を支えていた。
——私は、馬鹿だ。何もかも失くした気がして、勝手に諦めて。
これ以上……奪われてたまるか。
アリスの想いだって、この通り、私の中で生きている。
「……私はまだ、死んじゃいないぜ」
掠れ切った声で、魔理沙は笑った。
無理矢理動かされた身体が、悲鳴を上げる。
魔理沙は、それでも自分の身体を操り、箒へ跨る。
同時に、ある確信が胸に落ちた。
——魔法は、効きが悪い。だが、銃弾は確かに通った。
魔法より物理。
幻想郷では異端の結論。
だが今は、それに縋るしかない。
魔理沙は魔力を込め、浮かび上がろうとする。
だが、熊の重力が空間ごと押し潰す。
「……っ、重てぇな……!」
歯を食いしばる。
魔法の糸が腕を引き上げ、箒が軋み——
ようやく、地面から一メートル。
たったそれだけ。
だが、十分だった。
魔理沙は、残りの魔力を計算する。
——マスタースパーク、二発分か。
身体強化魔法を、解除する。
それは鎧を脱ぎ捨てる行為だった。
痛覚を鈍らせていた魔法が剥がれ落ち、激痛が全身を殴る。
砕けた足が、これでもかと悲鳴を上げる。
しかし、魔力が戻る。
——これで、三発分。
熊が、再び魔理沙へ向き直った。
いい加減、止めを刺そうというのか、隻眼が鈍く光る。
魔理沙は、静かに口を開いた。
「……アリス」
死ぬかもしれない。
それなら、最後に口にする言葉《ラストワード》は、愛しい名前が良かった。
箒にセットした八卦炉が唸りを上げる。
光の奔流が解き放たれ、箒ごと、流星のように突撃する。
ブレイジングスター。
「うおおおおおおおおっ!!」
「グオオオオオオオオッ!!」
魔理沙は叫び、
熊もまた咆哮で応えた。
熊の巨大な腕が、振り上げられる。
衝突の刹那、二発目のマスタースパーク。
更なる、加速。
狙いは一つ。
——上海人形のランス。
熊の胸。
アリスが、命を賭して突き立てた場所。
その場所目掛けて、全力で突進する。
あのランスを、箒で押し込み、心臓を貫く為に。
アリスの想いを、魔理沙が繋ぐ。
「うおおおおおおおおおおおっ!!」
熊の腕が振り下ろされる前に、箒の柄がランスを捉えた。
「いっけぇえええええええええ——っ!!」
押し込む。押し込む。押し込む。
だが、硬いゴムの塊のような筋肉に押し返され、心臓に届かない。
まだ足りないのか。奥歯を強く噛み締める。
熊の腕が、振り下ろされる。
魔理沙の顔へ、死が迫る。
——終わりかよ、ちくしょう。
死を覚悟した、その刹那——
熊の腕が、ピタリと止まった。
「……え?」
視界の奥。
熊の、その向こう。
魔理沙は、奇跡を見た。
泥だらけで、息を切らしながら——
そいつは、確かに立っていた。
魔理沙の胸に炎が宿る。
「……アリ、ス……?」
アリス・マーガトロイド。
彼女は、ボロボロになりながらも、熊の腕を魔法の糸で絡め取っていた。
魔理沙の中で、何かが弾けた。
空っぽになったはずの器に、感情が、想いが、一気に流れ込む。
何がどうなったか、理由は分からない。ただ、その存在が、希望を、力をくれた。
ただそこにいる。それだけで、気力が、魔力が、湧き上がってくるみたいだ。
その有りったけを、叩き込む。
——三発目!
魔理沙は吼える。
残ったすべてを込めたマスタースパークが、箒の柄を押し込む。
熊もまた、負けじと咆哮を上げる。
「うおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
「グオオオオオオオオオオオオオッ!!!」
箒の柄はランスを押し込み、熊の腕はアリスの糸をぶちぶちと破る。
互いに命に手をかけ、奪い合う。
そして——
熊の腕が全ての糸を引き千切り、その爪が魔理沙を捉えようという、その刹那だった。
ランスが遂に、押し込まれた。
ランスは筋肉を裂き、骨を砕き、熊の心臓を——貫いた。
一瞬、時が止まったように感じられた。熊の爪も、魔理沙の頬に僅かに触れただけで、ピタリと静止した。
やがてマスタースパークが途切れ、魔理沙は勢いのまま地面へ叩き落とされる。
転がり、跳ね、ようやく止まる。
その先で、魔理沙は顔を上げた。
熊は——
箒を胸に刺したまま、ふらりと一歩、歩いた。
地面が大きく揺れた。
そして。
そのまま、崩れ落ちた。
ずしんと、重い音が森に響いた。
◇
それから、少しの時間が流れた。
熊を倒した魔理沙は、アリスの家に身を寄せていた。霧雨邸は焼失してしまい、建て直しが完了するまで、帰る場所が無かったのだ。
「全治一ヶ月だってさ」
ベッドに腰掛け、魔理沙は軽く肩をすくめる。
永遠亭の医者が、そう告げた。
粉々に砕けた左足は、永琳の薬をもってしても、それだけの時間を必要とするらしい。
兎には、「全快するだけ泣いて感謝しろ」と言われた。
アリスは、机の上で湯を沸かしながら、ちらりと魔理沙を見る。
その視線は、静かで、柔らかかった。
アリス自身は、幸いにも軽傷で済んでいた。
熊に追われ、空を飛ぶ事は出来なかったが、必死に逃げ走り、最後は川へと身を投げた。
流された先で気を失ったが、水が体の匂いを洗い流したことで、追撃を免れた。
目を覚ましたとき、森の奥で魔理沙の魔法の光が見えた。
それを目印に、身体を引きずるようにして駆けつけたのだ。
「本当に……成美も含めて、よく三人とも生き残ったわね」
「それなぁ」
魔理沙は笑みを浮かべる。
だが、その笑顔には、どこか力が足りなかった。
熊の一件以降、魔理沙は明らかに元気を失っていた。
その理由を、アリスは知っている。
熊との因縁。自分の出生。
魔理沙は、アリスにだけは打ち明けていた。
それは、魔理沙が滅多に見せない、明確な弱みだった。
「ねぇ、魔理沙」
アリスは、静かに魔理沙の前へ立つ。
そして、何の前触れもなく、その身体を抱きしめた。
ぎゅう、と。
逃げ場を塞ぐような、少し強すぎるほどの力で。
胸元に、魔理沙の頭を引き寄せる。
強がりが剥がれ落ちかけているその姿が、愛おしくて堪らなかった。
その欠けている何かに、自分がなりたいと思った。
「私が、家族になってあげようか?」
魔理沙の肩が、ぴくりと跳ねる。
そして、がばっと顔を上げた。
驚いた表情のまま、数瞬。
次の瞬間、顔がみるみる赤く染まっていく。
「そそそ、それって、け、結婚っ???」
——あぁ、そうなるのか。
少し遅れて、アリスも理解する。
つい軽いつもりで言ったのだが、人間の文化では、それは「籍を入れる」とも言う、名前が変わる程に重大な意味を持つのだった。
——まぁ、それも悪くないかも。
小さく頷き、アリスは付け加える。
「いつか、ね」
「……なんだよ、それ」
文句を言いながらも、魔理沙は笑った。
泣きそうで、嬉しそうな顔だった。
———
その夜。
二人は並んで腰掛け、焼き上がったブラウニーを分け合った。
熊が出た日にお預けになっていた、念願のご馳走だった。
魔理沙はそれを、思い切り頬張る。
「どう、美味しい?」
「うん。しっとりとしていて、それでいてベタつかない」
魔理沙はそう言って、もう一口かじり、紅茶を啜る。
「ほら、マグカップで飲んだ方が美味しいでしょ?」
「……いつもより、甘く感じる」
得意げに胸を張るアリスを見て、魔理沙は昼間のやり取りを思い出し、やや照れ臭くなる。
熊との戦いの中で、自分は色んな事を知り、失った。
育ての母親の事、産みの母親の事、昔馴染みの家族の事。
整理がまるで付いていなくて、いつまでもぐるぐると考えが巡ってしまう。
自分がどうして生まれたかなんて分からない。
望まれた生では無かったのかもしれない。
それでも確かな事は、アリスと巡り合い、きっと望まれて共にいる事だ。一時は死に別れたものかと思ったが、大事な場面では、結局また巡り合えた。
これを、運命と呼ぶのだろう。
目の前で、自分と同じ色の髪が揺れるのを見て、以前話したことを思い出した。
「なぁ、私が金髪の理由だけどさ」
「うん」
「きっと、アリスとお互いを見付け合う為の、目印なんだよ」
そう言って笑うと、アリスも「そうね」と笑い返してくれた。
——私の居場所はきっと、ここなのだろう。
魔理沙の恐怖やアリスの反応がリアルで良かったです。
確かに、なんで金髪なのかな~と思ったことはあったので、納得。
今作も素晴らしかったです。