白玉楼の庭には、いつもと変わらぬ風が吹いていた。
冥界の空気は澄み、死者の国であるにもかかわらず、そこには生と死の境を思わせる曖昧な静けさが満ちている。
魂魄妖夢は、その庭の中央で剣を振っていた。
踏み込み、斬り下ろし、返す刃。 型通りの動作を繰り返しながら、呼吸を乱さぬよう意識を集中させる。
剣筋はまだ甘い。
本人もそれは分かっている。
だからこそ、止めない。
妖夢は半人半霊であり、剣士であり、そして――半人前だった。
それは他人から言われた言葉ではない。 自分自身が、誰よりも強くそう思っている。
剣を振るう理由は単純だった。 この身が白玉楼に仕える庭師であり、主の剣であると決めたのは、自分自身だからだ。
誰かに命じられたわけではない。
望んで選び、望んで剣を取った。
だからこそ、未熟であることを認めている。
半人前という言葉は、妖夢にとって呪いではなかった。 むしろ戒めに近い。
今の自分はまだ至っていない。
だから振るう。
だから磨く。
それだけの話だ。
半霊が、妖夢の背後を静かに漂っている。 彼女の動きに合わせるように、揺れ、留まり、また動く。
それはもう一つの身体であり、もう一つの感覚のようでもあった。
剣を振るうたび、妖夢は自分の心を確かめる。 今、自分は剣士として立っているか。 迷いはないか。
躊躇はないか。
答えは、常に「はい」だった。
少なくとも、この時までは。
一通りの稽古を終え、妖夢は剣を納める。 額に浮かんだ汗を拭い、深く息を吐いた。
冥界の時間は、急ぐことがない。 だからといって、立ち止まる理由にもならない。
妖夢は剣を置かない。 置くつもりもない。
剣を置くという選択が、何を意味するのか。 それを考えたことがないわけではなかった。
だが、それは「今」ではない。 今の自分は剣士であり、剣士として生きると決めている。
だから、剣を振るう。
それが、魂魄妖夢の選んだ人生だった。
白玉楼の庭に、再び風が通り抜ける。 桜の花びらが、ひとひら、剣先の前を横切って落ちた。
妖夢はそれを目で追わず、ただ静かに、次の稽古の構えに入った。
まだ、迷いはない。 少なくとも――剣を振るうこの瞬間には。
その日は、剣を振らなかった。
理由があったわけではない。 稽古の時間が取れなかったわけでも、体調が悪かったわけでもない。
ただ、妖夢は剣に手を伸ばさずに一日を始めてしまった。
白玉楼の朝は、冥界であることを忘れさせるほど穏やかだ。 庭に射す光は柔らかく、風は冷たすぎず、花の香りがどこか曖昧に漂っている。
妖夢は庭を歩きながら、自分の足音がやけに軽いことに気づいた。 剣の重さがない。それだけのことなのに、身体の感覚が少し違う。
――変ですね。
胸の内でそう呟きながらも、妖夢は立ち止まらなかった。 いつもなら、剣を腰に帯びている時間だ。
帯刀していない自分は、どこか役目を外れてしまったような気分になるはずだった。
だが、そうはならなかった。
代わりに訪れたのは、奇妙な静けさだった。 何かを警戒する必要も、構える必要もない時間。 呼吸が自然に深くなり、周囲の音がそのまま耳に届く。
風の音。 葉擦れ。 遠くで誰かが歩く気配。
妖夢は、自分が今までどれほど「剣を振るう前提」で世界を見ていたのかを、初めて知った。
庭の一角で足を止める。 そこはいつも通りの場所で、特別な意味はない。 それなのに、なぜか今日は、長く立ち尽くしてしまった。
「.....」
半霊が、いつもより静かに、妖夢の背後に留まっている。 普段なら、彼女の動きに合わせて漂うそれが、今日はほとんど揺れない。
妖夢はふと、剣を持たない自分の姿を想像した。
白玉楼に仕える剣士ではなく、斬る役目を持たず、ただこの場所で、時間を過ごす自分。
その想像は、思いのほか自然だった。
胸の奥が、わずかに温かくなる。 それは安堵に近い感覚で、同時に、どこか怖さも含んでいた。
「.....?」
気配があった。
振り向くと、そこに、もう一人の妖夢が立っていた。
驚くべきことに、その姿を見た瞬間、強い動揺はなかった。 まるで、以前からそこにいると知っていたかのように、妖夢はその存在を受け入れてしまった。
彼女は、剣を持っていない。 立ち姿は静かで、視線は柔らかく、妖夢を見つめている。
「こんにちは」
声は穏やかで、どこか余裕があった。 急ぐ必要のない人間の話し方だった。
妖夢は返事を忘れたまま、その姿を見つめる。 自分と同じ顔をしているのに、決定的に違う。 そこには、常に張りつめていたはずの緊張がない。
「....あなたは」
言葉にしなくても、分かっていた。 この存在が何なのか。
剣を取らなかった自分。 選ばなかった未来。 もしも、あの時、違う道を選んでいたなら――
「そんなに難しい顔をしなくても大丈夫ですわ」
その妖夢は、少し首を傾げて微笑んだ。 責めるでも、誘うでもない。ただ、そこにいる。
「今日は、剣を持っていらっしゃらないのですね」
それは事実を述べただけの言葉だった。 しかし妖夢の胸に、わずかな波紋を残す。
「.....はい」
短く答えると、相手は満足そうに頷いた。
「それなら、少しだけ」 「このままでいましょう」
時間が、ゆっくりと流れていく。
妖夢は気づく。 剣を持たない時間が、これほど穏やかだったことを。 そして同時に――この感覚を、知ってしまったことの重さを。
遠くから、柔らかな声が聞こえた。
「今日は、随分静かね」
いつの間にか、西行寺幽々子がそこにいた。 妖夢は慌てて背筋を伸ばそうとして、剣がないことを思い出し、動きを止める。
「....はい」
幽々子はふわりと微笑み、二人の妖夢を見比べるでもなく、庭を眺めた。
「剣の音がしないと、風の音がよく聞こえるわ」
それだけ言って、特に意味を足さない。 問いも、評価もない。
幽々子はそのまま歩き去っていった。
残されたのは、二人の妖夢と、静かな時間。
剣を持たない幸福は、確かにここにあった。 そして妖夢は、それを否定することができなかった。
――知ってしまった。
それが、取り返しのつかない一歩であることを、 この時の妖夢は、まだはっきりとは理解していなかった。
二人は並んで歩いていた。
白玉楼の庭を、同じ速度で。 足並みは自然に揃い、どちらが合わせたのかも分からない。
妖夢は、自分の隣を歩く存在を横目で見た。 同じ顔、同じ背丈。けれど、そこには剣士としての緊張がない。
呼吸は浅くも深くもなく、ただ穏やかに続いている。
「.....不思議ですね」
妖夢が先に口を開いた。
「あなたを見ていると、嫌な感じがしません」
それは正直な言葉だった。 混乱も、恐怖もあるはずなのに、それ以上に感じているのは落ち着きだった。
「そうでしょうね」
隣の妖夢は、静かに頷く。
「私は、あなたですもの。剣を取らなかっただけの」
その言い方には、誇りも後悔もなかった。 ただ、事実を述べているだけだった。
妖夢は歩みを止める。 隣の妖夢も、同時に足を止めた。
「.....私は、剣士です」
それは確認だった。 相手に向けた言葉でありながら、自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
「はい」
返事は即座だった。
「知っていますわ。あなたは、そうなることを選びましたもの」
「選ばなかった、あなたは.....」
言葉が、そこで途切れる。
妖夢は、自分でも気づかぬうちに拳を握っていた。 剣を持っていないはずの手が、何かを掴もうとする。
「私は、選ばれなかった未来です」
相手は穏やかに続けた。
「だからといって、間違いではありません。 あなたが剣を取ったことも、私が剣を取らなかったことも」
妖夢は、その言葉を否定できなかった。
剣士として生きる道を選んだことに、後悔はない。 守るために斬る覚悟を、何度も確かめてきた。 未熟であっても、その覚悟だけは嘘ではなかった。
けれど。
「.....あなたは、幸せですか」
思わず、そう尋ねていた。
隣の妖夢は、少しだけ考えるように視線を落とし、それから微笑んだ。
「ええ。穏やかですわ」
即答ではなかったことが、かえって重い。
「毎日が特別というわけではありませんけれど、 何かを斬る必要も、急ぐ必要もありません」
その言葉は、妖夢の胸に静かに沈んでいく。
――それは、否定できない幸福だった。
「.....私は」
妖夢は言いかけて、言葉を探した。
「剣を振るう時、迷ってはいませんでした。 それは、今も同じです」
「今は、ですね」
相手は否定せず、補足する。
「けれど、こうして私を見ている今も、剣士でいられますか?」
妖夢は、答えられなかった。
剣を抜いていない。 剣を振るってもいない。 それでも、胸の奥で何かが揺れている。
剣士としての自分と、剣を持たない自分。
どちらかが偽物だとは、思えなかった。
「私は、あなたを羨ましいと思っています」
妖夢は、絞り出すように言った。
「剣を取らずに済んだことを。迷わずに、穏やかでいられることを」
隣の妖夢は、驚いた様子もなく、静かに首を振る。
「私も、あなたを羨ましく思いますわ」
「.....え?」
「選んだ道を、ここまで歩いてきたこと。覚悟を持って、剣を握り続けていること」
視線が重なる。
そこに敵意はない。 優劣もない。
あるのは、理解だけだった。
「だからこそ」
彼女は、静かに続ける。
「このままでは、いけませんのね」
妖夢は息を呑む。
「どちらも正しいまま、同時には、いられない」
それは宣告ではなく、確認だった。
妖夢は、ようやく理解し始めていた。 この存在は、選択を迫るために現れたのではない。
選択の重さを、見せるために現れたのだ。
剣を取るということは、 この穏やかな未来を、自分の手で閉じること。
剣を置くということは、 今まで積み上げてきた剣士としての人生を、終わらせること。
「.....まだ、決められません」
妖夢は、正直に言った。
隣の妖夢は、それを咎めなかった。
「ええ。決めるのは、剣を取るその瞬間ですもの」
二人は、再び歩き出す。
同じ道を、同じ速度で。 けれど、その歩みが、永遠に続かないことを、 どちらも分かっていた。
白玉楼の庭に、風が吹く。 桜の花びらが、二人の間を静かに通り過ぎていった。
心は、まだ二つあった。
気配は、唐突に現れた。
冥界の空気が、わずかに歪む。 庭の奥、桜の木々の影に、異物のような静けさが生まれた。
妖夢は反射的に足を止める。 次の瞬間には、腰の剣に手が伸びていた。
――斬るべき存在。
そう理解するより早く、身体が動く。 それが、剣士として積み重ねてきた時間の証だった。
だが。
指先が、鞘に触れたところで止まった。
理由は、分かっている。
ほんの少し前まで、妖夢の隣にいた存在。 剣を持たず、穏やかに歩いていた、もう一人の自分。
その姿が、脳裏をよぎった。
――この手で、剣を振るうのか。
その問いに、即座に答えられなかった。
妖夢は息を呑む。 半霊が、いつになく大きく揺れている。 普段なら、剣を抜く気配に合わせて、静かに整うはずのそれが、定まらない。
剣は、まだ抜かれていない。
「.....」
妖夢は、自分の心臓の音を聞いていた。 速いわけではない。 だが、確かに乱れている。
これでは、いけない。
剣を振るうということは、迷いを許されない行為だ。
守るために斬る。 その覚悟が揺らいだ瞬間、剣はただの凶器になる。
妖夢は、それを知っている。
「.....今の私は」
剣士として、ここに立っていいのか。
答えが出ないまま、気配が近づく。 形の定まらない影が、桜の間から滲み出るように現れる。
斬るべきもの。 斬らなければならない存在。
妖夢は、深く息を吸った。
剣を抜けば、斬れる。 技量の問題ではない。
だが、その一歩手前で、足が動かなかった。
「――それで斬ったとして」
背後から、柔らかな声がした。
振り向かなくても、誰だか分かる。
「あなたは、剣を嫌いにならない?」
幽々子だった。
いつもと変わらない、のんびりとした口調。 まるで散歩の途中で、何気なく話しかけてきたかのようだ。
けれど、その言葉は、鋭く妖夢の胸を突いた。
剣を嫌いになる。
その可能性を、妖夢は考えたことがなかった。
剣は、選んだ道だった。 未熟であっても、誇りだった。
だが、今この感情を抱えたまま剣を振るえば――
きっと、違う。
斬ったあと、剣を見るたびに、今日の迷いを思い出す。
それは、剣士として致命的だった。
「.....私は」
妖夢は、ようやく理解する。
迷いを持つこと自体は、悪くない。 だが、迷いを抱えたまま剣を振るうことは、 剣士として許されない。
それは逃げでも、弱さでもない。 剣を選んだ者としての、最低限の矜持だった。
幽々子は、それ以上何も言わなかった。 答えを促すことも、評価することもない。
ただ、その場に立っている。
妖夢は、剣から手を離した。
完全に置いたわけではない。 だが、今は抜けない。
それだけは、はっきりしていた。
影は、やがて霧のように薄れ、何事もなかったかのように消えていく。
危機が去ったわけではない。 ただ、今は、斬るべき時ではなかった。
妖夢は、静かに剣を見下ろした。
――このままでは、剣士ではいられない。
剣を取るか。 剣を置くか。
その選択を、先送りにすることはできない。
白玉楼の庭に、再び風が吹く。 花びらが舞い、何事もなかったかのように景色は穏やかだった。
だが、妖夢の中で、何かが決定的に変わり始めていた。
剣を抜かなかった手が、まだ熱を持っていた。
妖夢は白玉楼の庭を歩きながら、その感覚を確かめるように指を開き、閉じた。 斬るべきものを前にして、剣を振るえなかった。その事実は、失敗とも敗北とも違う重さで、胸の奥に沈んでいる。
剣士として未熟だったのではない。 むしろ、はっきりしてしまったのだ。
――このままでは、剣士ではいられない。
歩みを止めると、そこに、彼女はいた。
いつからいたのかは分からない。 だが、今はそれが自然だった。
「....来てしまいました」
妖夢が言うと、もう一人の妖夢は静かに微笑んだ。
「ええ。でも、迷って来たわけではありませんでしょう?」
その言葉は、責める響きを持たない。 事実を、穏やかにすくい上げるだけだった。
妖夢は、答えない。 否定も肯定もできなかった。
二人は、向かい合って立つ。 同じ顔をしていながら、立ち方が違う。 一方は、無意識に重心を低く保ち、もう一方は、ただ自然にそこにいる。
「私は.....」
妖夢は、言葉を選んだ。
「あなたの存在を、間違いだとは思っていません」
「知っていますわ」
即答だった。
「私も、あなたが剣を取ったことを、誤りだとは思っていませんもの」
それが、この対話の残酷さだった。 どちらも、否定できない。
「剣を置くということが、どういう意味かは.....分かっています」
妖夢は、ゆっくりと言った。
「もう、二度と戻れない。剣士としての人生に、幕を下ろすということ」
その言葉を口にした瞬間、はっきりと理解してしまう。
それは「休む」ことではない。 「別の道を試す」ことでもない。
終わらせるということだ。
「ええ」
もう一人の妖夢は、頷く。
「だから、簡単な選択ではありませんわ」
妖夢は、視線を落とした。
剣を置けば、ここにいるこの妖夢のように生きるのだろう。 斬らず、急がず、役割に縛られない人生。
それは、確かに幸せだった。
「.....一度でも、その幸せを選んでしまったら」
妖夢は、続けた。
「私は、もう剣を振るえなくなる」
それは、恐れではない。 覚悟の確認だった。
「幸せの味を知ってしまった刀では、もう、人は斬れません」
その言葉を聞いた時、 もう一人の妖夢は、少しだけ目を伏せた。
「それでも」
彼女は、静かに言う。
「それを選ぶことは、逃げではありません」
妖夢は、首を振った。
「分かっています。だからこそ.....迷ってしまった」
剣を取ることは、この穏やかな未来を、自分の手で断つこと。
剣を置くことは、今まで積み上げてきた剣士としての自分を、終わらせること。
どちらも、等しく重い。
「あなたは」
もう一人の妖夢が、問いかける。
「剣を振るう時、私のことを思い出すでしょう?」
妖夢は、少しだけ間を置いて、答えた。
「.....ええ。きっと、思い出します」
「それでも?」
「それでも、剣を取るなら」
妖夢は、ゆっくりと顔を上げた。
「その時は、迷いません」
その言葉に、嘘はなかった。
もう一人の妖夢は、何も言わない。 ただ、穏やかに微笑んでいる。
それが、了承なのか、 それとも、別れなのか。
区別する必要はなかった。
「私は」
妖夢は、静かに言った。
「まだ、剣を置くことはできません」
それは、選択だった。 誰に命じられたわけでもない。
「.....そう」
彼女は、短く答えた。
「では、私は、ここまでですわ」
その声に、悲しみはない。 未練も、恨みもない。
ただ、確定があった。
風が吹く。 桜の花びらが、一枚、二人の間を通り過ぎる。
妖夢が瞬きをした、その一瞬で、もう一人の妖夢は、そこにはいなかった。
斬ったわけではない。 追い払ったわけでもない。
選ばれなかった。 それだけだった。
妖夢は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
胸の奥に、静かな痛みが残っている。 だが、それは後悔ではない。
――選んだのだ。
剣を取る人生を。 そして、取らなかった未来を。
残るのは、最後の一歩だけだった。
朝の白玉楼は、ひどく穏やかだった。
冥界の朝に特別な意味はない。 夜と地続きで、ただ光の向きが変わるだけだ。
それでも妖夢は、この時間が好きだった。 剣を振るう前、世界がまだ何も求めてこない時間。
庭に立ち、妖夢は剣を見下ろす。 昨日と同じ剣。 何も変わっていない。
変わったのは、自分だ。
剣を抜かなかった手。 選ばなかった未来。 それらが、確かに胸の奥に残っている。
だが、迷いではない。
妖夢は、剣を取った。
鞘から抜く音は、驚くほど静かだった。 刃は澄み、曇りはない。
――振るえる。
それを、身体が理解していた。
半霊が、妖夢の背後で静かに整う。 昨日までの揺らぎは、もうない。
妖夢は構えた。
力を込めすぎない。 速さを求めすぎない。
ただ、斬る。
踏み込み、斬り下ろす。 空を裂く感触が、確かに腕に返ってくる。
妖夢は、剣を振るいながら思う。
選ばなかった人生は、確かに幸せだった。 だからこそ、それを抱えたまま剣を振るわないと決めた。
剣士として生きるなら、斬る覚悟と同じだけ、斬らない未来を知っていなければならない。
その両方を受け入れて、それでも剣を取る。
それが、魂魄妖夢の選んだ道だった。
「.....いい顔になったわね」
背後から、のんびりとした声がする。
振り向かなくても分かる。
「おはようございます、幽々子様」
妖夢は、剣を納めて答えた。
「今日は、迷っていない?」
幽々子の問いは、軽い。 だが、その目は、すべてを見抜いている。
妖夢は、少しだけ考えてから答えた。
「迷いは、あります」
「そう」
幽々子は、楽しそうに微笑んだ。
「でも」
「剣を振るう時に、迷いを連れていくことはありません」
幽々子は、それ以上何も言わなかった。 それで十分だったのだろう。
妖夢は、再び庭を見渡す。
桜は散り、また咲く。 季節は巡る。
剣士として生きる限り、妖夢は何度も迷うだろう。
それでも、そのたびに選ぶ。
剣を取るか。 剣を置くか。
今日の妖夢は、確かに剣を取っていた。
白玉楼の庭に、剣が風を切る音が、静かに響く。
それは、誰かを斬るための音ではない。 自分の選択を、確かめる音だった。
――魂魄妖夢は、それでも剣を取る。
魂魄妖夢は、その庭の中央で剣を振っていた。
踏み込み、斬り下ろし、返す刃。 型通りの動作を繰り返しながら、呼吸を乱さぬよう意識を集中させる。
剣筋はまだ甘い。
本人もそれは分かっている。
だからこそ、止めない。
妖夢は半人半霊であり、剣士であり、そして――半人前だった。
それは他人から言われた言葉ではない。 自分自身が、誰よりも強くそう思っている。
剣を振るう理由は単純だった。 この身が白玉楼に仕える庭師であり、主の剣であると決めたのは、自分自身だからだ。
誰かに命じられたわけではない。
望んで選び、望んで剣を取った。
だからこそ、未熟であることを認めている。
半人前という言葉は、妖夢にとって呪いではなかった。 むしろ戒めに近い。
今の自分はまだ至っていない。
だから振るう。
だから磨く。
それだけの話だ。
半霊が、妖夢の背後を静かに漂っている。 彼女の動きに合わせるように、揺れ、留まり、また動く。
それはもう一つの身体であり、もう一つの感覚のようでもあった。
剣を振るうたび、妖夢は自分の心を確かめる。 今、自分は剣士として立っているか。 迷いはないか。
躊躇はないか。
答えは、常に「はい」だった。
少なくとも、この時までは。
一通りの稽古を終え、妖夢は剣を納める。 額に浮かんだ汗を拭い、深く息を吐いた。
冥界の時間は、急ぐことがない。 だからといって、立ち止まる理由にもならない。
妖夢は剣を置かない。 置くつもりもない。
剣を置くという選択が、何を意味するのか。 それを考えたことがないわけではなかった。
だが、それは「今」ではない。 今の自分は剣士であり、剣士として生きると決めている。
だから、剣を振るう。
それが、魂魄妖夢の選んだ人生だった。
白玉楼の庭に、再び風が通り抜ける。 桜の花びらが、ひとひら、剣先の前を横切って落ちた。
妖夢はそれを目で追わず、ただ静かに、次の稽古の構えに入った。
まだ、迷いはない。 少なくとも――剣を振るうこの瞬間には。
その日は、剣を振らなかった。
理由があったわけではない。 稽古の時間が取れなかったわけでも、体調が悪かったわけでもない。
ただ、妖夢は剣に手を伸ばさずに一日を始めてしまった。
白玉楼の朝は、冥界であることを忘れさせるほど穏やかだ。 庭に射す光は柔らかく、風は冷たすぎず、花の香りがどこか曖昧に漂っている。
妖夢は庭を歩きながら、自分の足音がやけに軽いことに気づいた。 剣の重さがない。それだけのことなのに、身体の感覚が少し違う。
――変ですね。
胸の内でそう呟きながらも、妖夢は立ち止まらなかった。 いつもなら、剣を腰に帯びている時間だ。
帯刀していない自分は、どこか役目を外れてしまったような気分になるはずだった。
だが、そうはならなかった。
代わりに訪れたのは、奇妙な静けさだった。 何かを警戒する必要も、構える必要もない時間。 呼吸が自然に深くなり、周囲の音がそのまま耳に届く。
風の音。 葉擦れ。 遠くで誰かが歩く気配。
妖夢は、自分が今までどれほど「剣を振るう前提」で世界を見ていたのかを、初めて知った。
庭の一角で足を止める。 そこはいつも通りの場所で、特別な意味はない。 それなのに、なぜか今日は、長く立ち尽くしてしまった。
「.....」
半霊が、いつもより静かに、妖夢の背後に留まっている。 普段なら、彼女の動きに合わせて漂うそれが、今日はほとんど揺れない。
妖夢はふと、剣を持たない自分の姿を想像した。
白玉楼に仕える剣士ではなく、斬る役目を持たず、ただこの場所で、時間を過ごす自分。
その想像は、思いのほか自然だった。
胸の奥が、わずかに温かくなる。 それは安堵に近い感覚で、同時に、どこか怖さも含んでいた。
「.....?」
気配があった。
振り向くと、そこに、もう一人の妖夢が立っていた。
驚くべきことに、その姿を見た瞬間、強い動揺はなかった。 まるで、以前からそこにいると知っていたかのように、妖夢はその存在を受け入れてしまった。
彼女は、剣を持っていない。 立ち姿は静かで、視線は柔らかく、妖夢を見つめている。
「こんにちは」
声は穏やかで、どこか余裕があった。 急ぐ必要のない人間の話し方だった。
妖夢は返事を忘れたまま、その姿を見つめる。 自分と同じ顔をしているのに、決定的に違う。 そこには、常に張りつめていたはずの緊張がない。
「....あなたは」
言葉にしなくても、分かっていた。 この存在が何なのか。
剣を取らなかった自分。 選ばなかった未来。 もしも、あの時、違う道を選んでいたなら――
「そんなに難しい顔をしなくても大丈夫ですわ」
その妖夢は、少し首を傾げて微笑んだ。 責めるでも、誘うでもない。ただ、そこにいる。
「今日は、剣を持っていらっしゃらないのですね」
それは事実を述べただけの言葉だった。 しかし妖夢の胸に、わずかな波紋を残す。
「.....はい」
短く答えると、相手は満足そうに頷いた。
「それなら、少しだけ」 「このままでいましょう」
時間が、ゆっくりと流れていく。
妖夢は気づく。 剣を持たない時間が、これほど穏やかだったことを。 そして同時に――この感覚を、知ってしまったことの重さを。
遠くから、柔らかな声が聞こえた。
「今日は、随分静かね」
いつの間にか、西行寺幽々子がそこにいた。 妖夢は慌てて背筋を伸ばそうとして、剣がないことを思い出し、動きを止める。
「....はい」
幽々子はふわりと微笑み、二人の妖夢を見比べるでもなく、庭を眺めた。
「剣の音がしないと、風の音がよく聞こえるわ」
それだけ言って、特に意味を足さない。 問いも、評価もない。
幽々子はそのまま歩き去っていった。
残されたのは、二人の妖夢と、静かな時間。
剣を持たない幸福は、確かにここにあった。 そして妖夢は、それを否定することができなかった。
――知ってしまった。
それが、取り返しのつかない一歩であることを、 この時の妖夢は、まだはっきりとは理解していなかった。
二人は並んで歩いていた。
白玉楼の庭を、同じ速度で。 足並みは自然に揃い、どちらが合わせたのかも分からない。
妖夢は、自分の隣を歩く存在を横目で見た。 同じ顔、同じ背丈。けれど、そこには剣士としての緊張がない。
呼吸は浅くも深くもなく、ただ穏やかに続いている。
「.....不思議ですね」
妖夢が先に口を開いた。
「あなたを見ていると、嫌な感じがしません」
それは正直な言葉だった。 混乱も、恐怖もあるはずなのに、それ以上に感じているのは落ち着きだった。
「そうでしょうね」
隣の妖夢は、静かに頷く。
「私は、あなたですもの。剣を取らなかっただけの」
その言い方には、誇りも後悔もなかった。 ただ、事実を述べているだけだった。
妖夢は歩みを止める。 隣の妖夢も、同時に足を止めた。
「.....私は、剣士です」
それは確認だった。 相手に向けた言葉でありながら、自分自身に言い聞かせるような響きがあった。
「はい」
返事は即座だった。
「知っていますわ。あなたは、そうなることを選びましたもの」
「選ばなかった、あなたは.....」
言葉が、そこで途切れる。
妖夢は、自分でも気づかぬうちに拳を握っていた。 剣を持っていないはずの手が、何かを掴もうとする。
「私は、選ばれなかった未来です」
相手は穏やかに続けた。
「だからといって、間違いではありません。 あなたが剣を取ったことも、私が剣を取らなかったことも」
妖夢は、その言葉を否定できなかった。
剣士として生きる道を選んだことに、後悔はない。 守るために斬る覚悟を、何度も確かめてきた。 未熟であっても、その覚悟だけは嘘ではなかった。
けれど。
「.....あなたは、幸せですか」
思わず、そう尋ねていた。
隣の妖夢は、少しだけ考えるように視線を落とし、それから微笑んだ。
「ええ。穏やかですわ」
即答ではなかったことが、かえって重い。
「毎日が特別というわけではありませんけれど、 何かを斬る必要も、急ぐ必要もありません」
その言葉は、妖夢の胸に静かに沈んでいく。
――それは、否定できない幸福だった。
「.....私は」
妖夢は言いかけて、言葉を探した。
「剣を振るう時、迷ってはいませんでした。 それは、今も同じです」
「今は、ですね」
相手は否定せず、補足する。
「けれど、こうして私を見ている今も、剣士でいられますか?」
妖夢は、答えられなかった。
剣を抜いていない。 剣を振るってもいない。 それでも、胸の奥で何かが揺れている。
剣士としての自分と、剣を持たない自分。
どちらかが偽物だとは、思えなかった。
「私は、あなたを羨ましいと思っています」
妖夢は、絞り出すように言った。
「剣を取らずに済んだことを。迷わずに、穏やかでいられることを」
隣の妖夢は、驚いた様子もなく、静かに首を振る。
「私も、あなたを羨ましく思いますわ」
「.....え?」
「選んだ道を、ここまで歩いてきたこと。覚悟を持って、剣を握り続けていること」
視線が重なる。
そこに敵意はない。 優劣もない。
あるのは、理解だけだった。
「だからこそ」
彼女は、静かに続ける。
「このままでは、いけませんのね」
妖夢は息を呑む。
「どちらも正しいまま、同時には、いられない」
それは宣告ではなく、確認だった。
妖夢は、ようやく理解し始めていた。 この存在は、選択を迫るために現れたのではない。
選択の重さを、見せるために現れたのだ。
剣を取るということは、 この穏やかな未来を、自分の手で閉じること。
剣を置くということは、 今まで積み上げてきた剣士としての人生を、終わらせること。
「.....まだ、決められません」
妖夢は、正直に言った。
隣の妖夢は、それを咎めなかった。
「ええ。決めるのは、剣を取るその瞬間ですもの」
二人は、再び歩き出す。
同じ道を、同じ速度で。 けれど、その歩みが、永遠に続かないことを、 どちらも分かっていた。
白玉楼の庭に、風が吹く。 桜の花びらが、二人の間を静かに通り過ぎていった。
心は、まだ二つあった。
気配は、唐突に現れた。
冥界の空気が、わずかに歪む。 庭の奥、桜の木々の影に、異物のような静けさが生まれた。
妖夢は反射的に足を止める。 次の瞬間には、腰の剣に手が伸びていた。
――斬るべき存在。
そう理解するより早く、身体が動く。 それが、剣士として積み重ねてきた時間の証だった。
だが。
指先が、鞘に触れたところで止まった。
理由は、分かっている。
ほんの少し前まで、妖夢の隣にいた存在。 剣を持たず、穏やかに歩いていた、もう一人の自分。
その姿が、脳裏をよぎった。
――この手で、剣を振るうのか。
その問いに、即座に答えられなかった。
妖夢は息を呑む。 半霊が、いつになく大きく揺れている。 普段なら、剣を抜く気配に合わせて、静かに整うはずのそれが、定まらない。
剣は、まだ抜かれていない。
「.....」
妖夢は、自分の心臓の音を聞いていた。 速いわけではない。 だが、確かに乱れている。
これでは、いけない。
剣を振るうということは、迷いを許されない行為だ。
守るために斬る。 その覚悟が揺らいだ瞬間、剣はただの凶器になる。
妖夢は、それを知っている。
「.....今の私は」
剣士として、ここに立っていいのか。
答えが出ないまま、気配が近づく。 形の定まらない影が、桜の間から滲み出るように現れる。
斬るべきもの。 斬らなければならない存在。
妖夢は、深く息を吸った。
剣を抜けば、斬れる。 技量の問題ではない。
だが、その一歩手前で、足が動かなかった。
「――それで斬ったとして」
背後から、柔らかな声がした。
振り向かなくても、誰だか分かる。
「あなたは、剣を嫌いにならない?」
幽々子だった。
いつもと変わらない、のんびりとした口調。 まるで散歩の途中で、何気なく話しかけてきたかのようだ。
けれど、その言葉は、鋭く妖夢の胸を突いた。
剣を嫌いになる。
その可能性を、妖夢は考えたことがなかった。
剣は、選んだ道だった。 未熟であっても、誇りだった。
だが、今この感情を抱えたまま剣を振るえば――
きっと、違う。
斬ったあと、剣を見るたびに、今日の迷いを思い出す。
それは、剣士として致命的だった。
「.....私は」
妖夢は、ようやく理解する。
迷いを持つこと自体は、悪くない。 だが、迷いを抱えたまま剣を振るうことは、 剣士として許されない。
それは逃げでも、弱さでもない。 剣を選んだ者としての、最低限の矜持だった。
幽々子は、それ以上何も言わなかった。 答えを促すことも、評価することもない。
ただ、その場に立っている。
妖夢は、剣から手を離した。
完全に置いたわけではない。 だが、今は抜けない。
それだけは、はっきりしていた。
影は、やがて霧のように薄れ、何事もなかったかのように消えていく。
危機が去ったわけではない。 ただ、今は、斬るべき時ではなかった。
妖夢は、静かに剣を見下ろした。
――このままでは、剣士ではいられない。
剣を取るか。 剣を置くか。
その選択を、先送りにすることはできない。
白玉楼の庭に、再び風が吹く。 花びらが舞い、何事もなかったかのように景色は穏やかだった。
だが、妖夢の中で、何かが決定的に変わり始めていた。
剣を抜かなかった手が、まだ熱を持っていた。
妖夢は白玉楼の庭を歩きながら、その感覚を確かめるように指を開き、閉じた。 斬るべきものを前にして、剣を振るえなかった。その事実は、失敗とも敗北とも違う重さで、胸の奥に沈んでいる。
剣士として未熟だったのではない。 むしろ、はっきりしてしまったのだ。
――このままでは、剣士ではいられない。
歩みを止めると、そこに、彼女はいた。
いつからいたのかは分からない。 だが、今はそれが自然だった。
「....来てしまいました」
妖夢が言うと、もう一人の妖夢は静かに微笑んだ。
「ええ。でも、迷って来たわけではありませんでしょう?」
その言葉は、責める響きを持たない。 事実を、穏やかにすくい上げるだけだった。
妖夢は、答えない。 否定も肯定もできなかった。
二人は、向かい合って立つ。 同じ顔をしていながら、立ち方が違う。 一方は、無意識に重心を低く保ち、もう一方は、ただ自然にそこにいる。
「私は.....」
妖夢は、言葉を選んだ。
「あなたの存在を、間違いだとは思っていません」
「知っていますわ」
即答だった。
「私も、あなたが剣を取ったことを、誤りだとは思っていませんもの」
それが、この対話の残酷さだった。 どちらも、否定できない。
「剣を置くということが、どういう意味かは.....分かっています」
妖夢は、ゆっくりと言った。
「もう、二度と戻れない。剣士としての人生に、幕を下ろすということ」
その言葉を口にした瞬間、はっきりと理解してしまう。
それは「休む」ことではない。 「別の道を試す」ことでもない。
終わらせるということだ。
「ええ」
もう一人の妖夢は、頷く。
「だから、簡単な選択ではありませんわ」
妖夢は、視線を落とした。
剣を置けば、ここにいるこの妖夢のように生きるのだろう。 斬らず、急がず、役割に縛られない人生。
それは、確かに幸せだった。
「.....一度でも、その幸せを選んでしまったら」
妖夢は、続けた。
「私は、もう剣を振るえなくなる」
それは、恐れではない。 覚悟の確認だった。
「幸せの味を知ってしまった刀では、もう、人は斬れません」
その言葉を聞いた時、 もう一人の妖夢は、少しだけ目を伏せた。
「それでも」
彼女は、静かに言う。
「それを選ぶことは、逃げではありません」
妖夢は、首を振った。
「分かっています。だからこそ.....迷ってしまった」
剣を取ることは、この穏やかな未来を、自分の手で断つこと。
剣を置くことは、今まで積み上げてきた剣士としての自分を、終わらせること。
どちらも、等しく重い。
「あなたは」
もう一人の妖夢が、問いかける。
「剣を振るう時、私のことを思い出すでしょう?」
妖夢は、少しだけ間を置いて、答えた。
「.....ええ。きっと、思い出します」
「それでも?」
「それでも、剣を取るなら」
妖夢は、ゆっくりと顔を上げた。
「その時は、迷いません」
その言葉に、嘘はなかった。
もう一人の妖夢は、何も言わない。 ただ、穏やかに微笑んでいる。
それが、了承なのか、 それとも、別れなのか。
区別する必要はなかった。
「私は」
妖夢は、静かに言った。
「まだ、剣を置くことはできません」
それは、選択だった。 誰に命じられたわけでもない。
「.....そう」
彼女は、短く答えた。
「では、私は、ここまでですわ」
その声に、悲しみはない。 未練も、恨みもない。
ただ、確定があった。
風が吹く。 桜の花びらが、一枚、二人の間を通り過ぎる。
妖夢が瞬きをした、その一瞬で、もう一人の妖夢は、そこにはいなかった。
斬ったわけではない。 追い払ったわけでもない。
選ばれなかった。 それだけだった。
妖夢は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
胸の奥に、静かな痛みが残っている。 だが、それは後悔ではない。
――選んだのだ。
剣を取る人生を。 そして、取らなかった未来を。
残るのは、最後の一歩だけだった。
朝の白玉楼は、ひどく穏やかだった。
冥界の朝に特別な意味はない。 夜と地続きで、ただ光の向きが変わるだけだ。
それでも妖夢は、この時間が好きだった。 剣を振るう前、世界がまだ何も求めてこない時間。
庭に立ち、妖夢は剣を見下ろす。 昨日と同じ剣。 何も変わっていない。
変わったのは、自分だ。
剣を抜かなかった手。 選ばなかった未来。 それらが、確かに胸の奥に残っている。
だが、迷いではない。
妖夢は、剣を取った。
鞘から抜く音は、驚くほど静かだった。 刃は澄み、曇りはない。
――振るえる。
それを、身体が理解していた。
半霊が、妖夢の背後で静かに整う。 昨日までの揺らぎは、もうない。
妖夢は構えた。
力を込めすぎない。 速さを求めすぎない。
ただ、斬る。
踏み込み、斬り下ろす。 空を裂く感触が、確かに腕に返ってくる。
妖夢は、剣を振るいながら思う。
選ばなかった人生は、確かに幸せだった。 だからこそ、それを抱えたまま剣を振るわないと決めた。
剣士として生きるなら、斬る覚悟と同じだけ、斬らない未来を知っていなければならない。
その両方を受け入れて、それでも剣を取る。
それが、魂魄妖夢の選んだ道だった。
「.....いい顔になったわね」
背後から、のんびりとした声がする。
振り向かなくても分かる。
「おはようございます、幽々子様」
妖夢は、剣を納めて答えた。
「今日は、迷っていない?」
幽々子の問いは、軽い。 だが、その目は、すべてを見抜いている。
妖夢は、少しだけ考えてから答えた。
「迷いは、あります」
「そう」
幽々子は、楽しそうに微笑んだ。
「でも」
「剣を振るう時に、迷いを連れていくことはありません」
幽々子は、それ以上何も言わなかった。 それで十分だったのだろう。
妖夢は、再び庭を見渡す。
桜は散り、また咲く。 季節は巡る。
剣士として生きる限り、妖夢は何度も迷うだろう。
それでも、そのたびに選ぶ。
剣を取るか。 剣を置くか。
今日の妖夢は、確かに剣を取っていた。
白玉楼の庭に、剣が風を切る音が、静かに響く。
それは、誰かを斬るための音ではない。 自分の選択を、確かめる音だった。
――魂魄妖夢は、それでも剣を取る。
面白かったです。
彼女のそば、常浮かぶ半霊。何を思っての存在か。それがうかがえたような。
もしかして過去にはこれで剣を置いた魂魄もいたかも知れない、などと思ったり
迷いながらも選び取り、そして連れて行かないと結論づけた妖夢がカッコよかったです