ふと、シトシトという雨音が聞こえはじめた。
はるか空の上には灰色の雲が鎮座している。
だから何というわけでもないので、どこの店のものかもわからない、庇の下に出ている椅子の横に立ち続ける。
分厚い雲のせいでよくわからないが、おそらく深夜なのだろう。人の気配や何かが動く音も聞こえない。
ただあるのはシトシトからザーザーに変わった雨音と、静かでどこか哀愁を感じさせる雨と鉄の匂いだけだった。
「……君も、雨が好きなんだ」
撫でる風のような優しい声。
いつしか、目の前には紅と碧の宝石のような目に、深い紫色の傘を携えた美しい女性がこちらをのぞき込むように立っていた。
幼い顔つきと少しだけ上げられた口角は十代前半の少女のようだが、そのどこか浮世離れした雰囲気と落ち着いた光を宿す瞳は大きすぎる上に渋すぎる傘と同じように、その華奢な体にふさわしくない程に大人びていた。
「どうして、突然、って思ってるでしょ」
ふふ、と彼女は笑う。
相手の思考を読み取ることなど容易、とでもいうような妖しげな笑みは、道端に凛と咲く花のようだった。
「…私と君は似ていると思ったから、わかったの」
自分の返事の代わり、というように身体をまとう布がパタパタと揺れる音がした。
「…隣、座っていい?」
問いの形をとってはいたが、まるで独り言だったように彼女は椅子に座る。
紫の傘をさしたまま。
お互い横を見ることもしない静かな間は気まずいなんてことはかけらもなく、逆に彼女が来るまでよりも心地良いものだった。
ふと、思う。
彼女の言ったとおり、彼女は良い意味でも悪い意味でも異質なのに、「同志」「同族」という言葉がしっくりときたのだ。
「私、さ」
ぽつり、彼女は話しだす。
返事なんて返されない…いや、返せないに決まっているのに。
「家族に捨てられたの。私を置いていったきり、帰ってこなかった」
辛く、痛々しい話のはずなのに、彼女の声は明るくて、幸せに満ちていた。
「…ねぇ、君も……捨てられちゃったんでしょう?」
……やめてくれ。そんなこと…ない。捨てられて、なんて…
「なら、私のとこに来る?」
彼女はそう言ってすぐ、「あ、嫌ならそれで良いんだけど」と付け足した。
「私を拾ってくれた人はいなかったけど…あの頃は、誰かに拾ってほしかったなって。だから…あなたも、来る?」
やめてくれ…そんな優しい言葉を…かけないで、くれ……
「…ごめんね、急だったし、強引だったかな」
彼女は、少し弱くなった雨を見上げて言った。
「でも、ね。君のこと、最初に見たときから…なんだか放っておけなかったの。家族がまた帰ってくると信じてやまずに、朝も夜も立ち続けている姿が、まるで昔の自分を見ているようで」
その声は、先ほどよりもずっと静かで、けれど、どこか寄り添うような温かさを持っていた。
「…うん。やっぱり、似てるよ。君も私も。置いていかれちゃった、小さな忘れもの」
身体の奥が、きゅっときしんだような音を立てる。
それが、悲しみからなのか、嬉しさからなのか、はたまた、他の感情から来たものなのか、わからない。
「ねぇ、もし、よかったらでいいの」
彼女は立ち上がり、少しだけ身をかがめた。
そっと、彼女の指先が、自分の大切な“どこか”に触れた気がした。
触れられるはずのない場所なのに、不思議と拒む気持ちは生まれない。
「――一緒に、来る?」
風が吹き、ふるりと布が震えた。
それが返事だと、彼女はあっさり理解したらしい。
「…ふふ。ありがとう」
身体が雨粒を受けてしなやかに広がった。
空の灰色は、先程までよりも少し薄く見える。
彼女の足元の、雨に濡れた道端に、いつの間にか朝顔が一輪、開いていた。
はるか空の上には灰色の雲が鎮座している。
だから何というわけでもないので、どこの店のものかもわからない、庇の下に出ている椅子の横に立ち続ける。
分厚い雲のせいでよくわからないが、おそらく深夜なのだろう。人の気配や何かが動く音も聞こえない。
ただあるのはシトシトからザーザーに変わった雨音と、静かでどこか哀愁を感じさせる雨と鉄の匂いだけだった。
「……君も、雨が好きなんだ」
撫でる風のような優しい声。
いつしか、目の前には紅と碧の宝石のような目に、深い紫色の傘を携えた美しい女性がこちらをのぞき込むように立っていた。
幼い顔つきと少しだけ上げられた口角は十代前半の少女のようだが、そのどこか浮世離れした雰囲気と落ち着いた光を宿す瞳は大きすぎる上に渋すぎる傘と同じように、その華奢な体にふさわしくない程に大人びていた。
「どうして、突然、って思ってるでしょ」
ふふ、と彼女は笑う。
相手の思考を読み取ることなど容易、とでもいうような妖しげな笑みは、道端に凛と咲く花のようだった。
「…私と君は似ていると思ったから、わかったの」
自分の返事の代わり、というように身体をまとう布がパタパタと揺れる音がした。
「…隣、座っていい?」
問いの形をとってはいたが、まるで独り言だったように彼女は椅子に座る。
紫の傘をさしたまま。
お互い横を見ることもしない静かな間は気まずいなんてことはかけらもなく、逆に彼女が来るまでよりも心地良いものだった。
ふと、思う。
彼女の言ったとおり、彼女は良い意味でも悪い意味でも異質なのに、「同志」「同族」という言葉がしっくりときたのだ。
「私、さ」
ぽつり、彼女は話しだす。
返事なんて返されない…いや、返せないに決まっているのに。
「家族に捨てられたの。私を置いていったきり、帰ってこなかった」
辛く、痛々しい話のはずなのに、彼女の声は明るくて、幸せに満ちていた。
「…ねぇ、君も……捨てられちゃったんでしょう?」
……やめてくれ。そんなこと…ない。捨てられて、なんて…
「なら、私のとこに来る?」
彼女はそう言ってすぐ、「あ、嫌ならそれで良いんだけど」と付け足した。
「私を拾ってくれた人はいなかったけど…あの頃は、誰かに拾ってほしかったなって。だから…あなたも、来る?」
やめてくれ…そんな優しい言葉を…かけないで、くれ……
「…ごめんね、急だったし、強引だったかな」
彼女は、少し弱くなった雨を見上げて言った。
「でも、ね。君のこと、最初に見たときから…なんだか放っておけなかったの。家族がまた帰ってくると信じてやまずに、朝も夜も立ち続けている姿が、まるで昔の自分を見ているようで」
その声は、先ほどよりもずっと静かで、けれど、どこか寄り添うような温かさを持っていた。
「…うん。やっぱり、似てるよ。君も私も。置いていかれちゃった、小さな忘れもの」
身体の奥が、きゅっときしんだような音を立てる。
それが、悲しみからなのか、嬉しさからなのか、はたまた、他の感情から来たものなのか、わからない。
「ねぇ、もし、よかったらでいいの」
彼女は立ち上がり、少しだけ身をかがめた。
そっと、彼女の指先が、自分の大切な“どこか”に触れた気がした。
触れられるはずのない場所なのに、不思議と拒む気持ちは生まれない。
「――一緒に、来る?」
風が吹き、ふるりと布が震えた。
それが返事だと、彼女はあっさり理解したらしい。
「…ふふ。ありがとう」
身体が雨粒を受けてしなやかに広がった。
空の灰色は、先程までよりも少し薄く見える。
彼女の足元の、雨に濡れた道端に、いつの間にか朝顔が一輪、開いていた。