Coolier - 新生・東方創想話

僕らの世界

2025/10/26 11:24:15
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 チャイムが鳴る。
 いつの間にか本日最後の授業は終わっていたらしい。眠っていたわけではないけれど、教師の口にする内容に意識を向けていたわけでもなく、ただ明確な意思もなく目を開いていただけ、というのが数秒前までの私に対する正しい表現だろう。習慣化された行動は、繰り返している内に自分ではそれを認識できないようになる。今椅子から立ち上がり、号令に合わせて頭を下げているのも同じことだ。気付いた時には終わっていて、まるでその時間が存在していなかったかのように、現在の私には記憶として残らないのである。
 教室の時間は、決められた通りにホームルームへと進み出す。生徒達は皆、帰宅あるいは部活動への準備に手を付けつつ、担任が訪れるまでの僅かな時間を使って友人と言葉を交わし合う。取り立てて表現することは何もない。極めて現実的な、何てことない日常の光景だ。
 机の上の教材を片しながら、改めて席を立つ。クラスメイトの歓談の声に紛れて、髪飾りの鈴が、リンと鳴った。
 さっき立ち上がった時、この鈴は音を鳴らしただろうか。

 幾人かの生徒とすれ違いながら、私はいつもの場所へと足を進める。真新しくもない上履きは、トテ、トテと誰にも聞こえない音を廊下との間に生み出す。急ぎ足でも、重い足取りでもない、いつもと変わらない足音。廊下はそれを、四角く切り取られた陽光と共に受け入れている。
 光。そしてそれをもたらしている夕暮れの空。その先には本当は闇を下地とした黒い宇宙が広がっているはずなのだが、地球を覆う幕に映るのはこの色鮮やかな空だ。時に青く、時に赤く、無限のグラデーションを見せる絵画のような空。それは幻のようでありながらも、私達はそれを現実のものとして受け入れている。どうしてだろう。手の届かないものだからだろうか。
 この空が作り物であったとしても、私にそれを確かめる術はない。そして、現実であっても作り物であっても、恐らく変わりはないのである。それを確かめるだけで世界が変わってしまうのなら、私という存在など無いに等しいほど儚いということになる。しかし、私は私の実在を否定できるほど、世界から受け取る音や光の感覚を自己から切り離せてはいない。その実感がある以上、あの空がどのようなものであっても、私が大きく変わることはないのだろう。それでも、あの空を現実だと信じるのは――
 ——なんでだっけ。
 そこから先の思考が続かなかった。しかしまあ、もう充分だろう。所詮退屈が生み出した子供じみた問い掛けだ。続かないのなら無理に続ける必要もないのである。目的地までもそう遠くない。さっさとたどり着いてしまおう。そう考え、私は少しだけ歩みを早めた。
 もう一度だけ、ちらりと窓の外を見る。紅く染まった空が、一瞬、揺らめいて見えた。

 教室よりも重い扉を開く。廊下とはまるで別世界のように、そこの空気は古めかしく、それでいて整然としている。それはきっと、ここにあるものがそう形作っているのだろう。たった数センチの幅に己を狭め、棚を埋める塊の一つとしてただじっとそこに在り続ける、本。彼らは集まり、一つの壁を形成するだけで、その場所の在り方を定義する。用意された席に点々と座る生徒たちも、そのルールに従ってここでは存在している。
 私は窓際の一番奥の席に着いた。いつもなんとなく座っている、これもルールの一つと言えるのかもしれない。私にとって放課後とは、図書室のこの席で本を読むことであった。
 しかし、今読もうとしているのは背後にある本棚の中に並んでいたものではない。私は鞄に手を入れ、取り出したそれを一旦机の上へと置いた。小説にしては珍しいハードカバーの装丁が、机に触れたことで硬い感触を私の手に伝える。ふと、改めてその表紙が目に映った。洋本のような、色褪せた紅の地色と金の枠線。その中に添えられた、余りにも不釣り合いで素っ気ない、たった三文字の漢字のタイトル。

『鈴奈庵』

 私はついこの間まで、この作品の登場人物だった。

 暖簾の隙間から差し込む陽の光。虫除けのお香の香り。たまに鳴らしていたお気に入りのレコード。頁をめくるたびに、自らの過去が白紙に印刷された文字列と重なっていく。ただそのことに、不思議と驚きは無い。馴れた、というのもあるのかもしれないが、しかし初めからそれほどの衝撃はなかったような気もする。数日前、私はベッドの上で目が覚めた。どうにも記憶がはっきりとせず、見慣れないようなそうでもないような部屋を見回し、その結果として、枕のすぐ側にこの本があるのを見つけた。そして、その中身に目を通した瞬間、今までの記憶を取り戻した。……いや、取り戻したどころか、奪われたのだ。今までの私の人生は全て、誰かに作られた物語だったのだと。
 とはいえ、本当にそうなのかというと、疑問の残る部分もある。例えば、この場合私がその本の内容を自分の過去だと思い込んでいるだけの可能性もあるのだ。虚構の人物はどこまでいっても虚構の中の存在で、現実に本体があるわけではない。それにも関わらず、今の私は物語の世界から抜け出してここにいる、ということになる。であれば、私のこの記憶は体感時間の長い夢のようなものであったとみる方が、説明はついている。その場合、夢を見る前の記憶をごっそり消失していることにもなるのだが……。
 ただそれがどちらであるにせよ、現状の認識として、今の世界での暮らし方は妙に私の頭に馴染んでいた。記憶の中の姿とは違っても、家に居る両親は親として感じることができたし、今通っている学校での生活も、体が覚えているかのようにこなせていた。この世界の常識に則って、今の私の体と頭は動いているのだ。
 常識。それこそ私の過去を物語と断じる一番大きな理由でもある。今の私には、過去の記憶が非常識なものに感じられるのだから。貸本屋の娘としての日々。そこには、連日のように訪れる怪事と、人ならざるお客の存在があった。いや、それ以上に人間の客の方が非常識だったかもしれない。人間は空を飛ばないし、魔法を使えない。いくら記憶力が高くても限度はあるし、ましてや生まれ変わりなんてあるはずがない。それが今の私の中にある常識だ。だから今の私には、今の私がどういう存在なのかは置いといて、その過去に関しては作り物だと感じられる。それが唯一の結論だった。
 最後の頁をめくる。何度目かの結末へ辿り着いた。ここから先のことについては、覚えが有るような無いような、曖昧な状態である。覚えが全く無いのなら確実にその過去は捏造だと言い切ることができたのだが、現実は微妙にその辺りをはっきりとさせてくれなかった。もし本当に私を生み出した作者がいたのなら、一体私をどうしたいのだろう。
 窓の外は、既に明るみを失い夜へと向かっていた。そろそろ下校の時間である。本を閉じ、鞄にしまって立ち上がる。もう一度窓を見ると、自分の姿が映っていた。アクセサリーの小さな鈴は、今は音を発さない。

 風が服の隙間を通り抜ける。秋風というにはまだ早いかもしれないが、昼間と比べるとこの時間は一段と涼しくなっている。何の変哲も無い夜の住宅街。電灯が控えめな主張で私を照らしている。家々から洩れる灯りが揺蕩う道の中では、その光は大して闇を照らすほどのものでもない。この世界では、ちょっとした闇は急進する文明の光に呆気なく飲み込まれた。光と闇の境界は、今や途方もなく奥へと押し込められている。
 本の内容——私の過去を思い出す。私は間違いなく、今でもあの世界に心を躍らせている。記憶の中の私は、いつも世界に好奇の眼を向けていた。あの世界は、正に今の私にとって夢のような世界である。しかし、夢は弾けてしまった。あの時感じていた楽しさは、憧憬の対象となり、私から遠く離れていった。
 境界とは、私の過去だったのかもしれない。私が暮らしていた影の中は、突然光によって照らされてしまった。光を知った今の私に、暗闇の中はもう見えない。ならばもう、光の中で生きるしかない。幸い、この世界で不都合なことは何も無い。何を為せばいいのかは判らないけど、それは元居た世界でだって同じだっただろう。所詮まだ年端もいかぬ小娘だ。選択はこれから手を付けていけばいい。私は私のまま、これからも生きていけるはずだ。

……本当に?

 ふと足が止まる。視界の端に何かが映ったような気がして、顔を横に向けた。そこには、明確な光と闇の境界があった。一軒家とアパートの前に挟まれた、少し大きな公園。その中心に、その広さに似合わず自身の足元だけを照らす一本の電灯が立っていた。
 これは非現実的な風景の一種だ。日常に潜む、小さな違和感を抱えた空間。人はそれを見つけ、時に応じて感傷に浸る。日常をちょっとだけ楽しくしてくれるものが、この世界にだって時々姿を現す。ただ、それは決して現実を押し退けることは無い。いつだって現実の陰にひっそりと隠れてるだけである。手の届く距離にあるはずなのに、その感触が人に伝わることは殆ど無いもの。余りに儚い幻影だ。
 私の過去も、そういうものだったのだろうか。
 過去の私も、そういうものだったのだろうか。
 ゆめ。うつつ。
 まぼろシ。ほんモノ。
 ウソ。マコト。
 ゲンソウ。シンジツ。
 私にとってのこのキオクは。
 私にとっての、ゲンジツは……



 サッ
 今のは。
 足元を何かが通り過ぎたような。

 ササッ
 見間違いではない。
 白い何者かが足元を走っている。
 目線を下に向ける。焦点を合わせると、それは、小鉢だった。
 足の生えた小鉢が走っている。いや、小鉢だけではない。湯呑や茶瓶、色んな器具が私の後ろへと駆けていく。
 前方を見直す。電灯の奥、闇の中からその大群は現れていた。驚いてなのか、それとも呆けてなのか、私の眼はそこから動かなくなった。油断の隙を突くかのように、続けて空中からも何かが飛び出す。
「わっ」
 思わず声が出た。煙のようなもやが、素早く私の横を通り抜ける。反射的に閉ざした瞼を上げると、その跡にはちらちらと火の粉が舞っていた。
 それは始まりだった。そこから私の前に現れたのは、あり得ざる妖怪変化の行進だったのだ。翼を羽ばたかせる黒き蛇。文を手にした幽霊。首を失った馬。それらに纏わりつく、姿を持たぬ魑魅魍魎。彼らが起こす恐ろしい速度の気の流れは、なす術もなく私を飲み込む。その中で段々と、自分の輪郭もはっきりしなくなっていった。

 これは幻想だ。私は今、幻を見ている。曖昧で不安定で、不確実な幻の百鬼夜行。それらは全て、私の体験そのもの。私が聞いて、見て、遭遇してきた不思議なものたち。つまり、やはり、私の過去は……。

 行列が途切れた。不意に訪れた静寂。闇が一層濃くなっている。
 判る。この後に訪れるのは何者か。
 冷汗が頬を伝う。心臓の鼓動が体に響く。
 最後の影が、顕れる。

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