Coolier - 新生・東方創想話

霊夢クラスタ

2025/10/24 21:05:03
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 !当SSには一部グロテスクな表現と、オリキャラが含まれています!

 『霊夢クラスタ①』

 外は雨が降っていて、お客さんはまばらだった。こんな日は、夏が近づいているということもあって、変な客が多い。変な、とは極めて分厚いオブラートに包まれた表現で、有り体に言えばキ……まあ、いいや。
 お父さんは組合の会合だかなんだかでいなくて、お母さんは買い物の途中。どこかで雨足が弱まるのを期待してるんだろう、店にはわたし一人だ。窓を叩く雨音が、店番の緊張感に趣を添えていた。
 一人目の客は……女の子。どこか良いところの子だろうか、文字を読めるなんていうのは、幻想郷においてはちょっとただ事ではない。棚の高い位置に置いてある本を背伸びして取ろうとする姿を見るにつけても、どうだ、いじらしくて勝手に体が動いてしまうではないか(本を代わりに取ってあげた)。

 店の空いたスペースはお客さんが本を読むのに使ってもいいことになってるから、天気が回復するまでその子に使わせてあげることにした。真剣な表情で活字を目で追う彼女を見るにつけても、どうだ、幻想郷の未来は明るいと思わせてくれるではないか。
 雨音をBGMに、わたしはわたしの読書を、女の子は女の子の読書を楽しんでいると、店の戸ががらりと開いた。二人目のお客さんだ。
 どこを取っても不潔な見た目をしている男だった。幻想郷の未来の暗い方、と言った風体だ。あまり容姿のことは言いたくないけど、顔中がイボだらけで、むしろイボの中に顔があるみたい。髪の毛はボサボサで、体臭はこの世の悪意がすべて融合したような、蝿が何匹も纏わりついていて、この男に着いていけば一生おまんまに困らないぞ、と歓喜の舞をしていた。
 入店するなり、その男はこちらをじろりと睨め付け、やたらと縦に長い暖簾で仕切られたコーナー(わたしが立ち入ろうとすると、お父さんは目くじらを立てて怒る)へ参じようとする。
 「あ、お客さん。申し訳ないんですけど、入店はご遠慮いただけますか〜……」
 物腰柔らかにそう言うと、男はやはりこちらを睨み付け、とっとと暖簾の奥へ消えてしまった。わたしはため息をつき、これも人生と諦め、お父さんが帰ってくるのを心待ちにすることに決めた。
 ふと、女の子を見やると、こっちを見上げつつびくびく震えていた。お客さんにこわい思いをさせたことを恥じつつ、あの男の人がこわいのはわたしのせいじゃないんだぞ、と目先で伝える。文章を嗜むような女の子だから、行間を読むのにも長けていたんだろう。彼女は、それも人生ですよね、と言ったふうに頷き、またぞろ本の虫に戻るのだった。
 触らぬ神に祟りなし。わたしも定位置に戻り、あの男の人のことなど一切合切忘れることにして、読書に勤しむことにした。

 どれくらいそうしていたのかわからないけど、愚かにもわたしは眠ってしまっていた。、女の子の啜り泣く声が聞こえた。寝ぼけ眼を擦りつつ、声のする方を見やると、女の子があの男に乱暴されそうになっているのが目に入った。
 なんてこった……自分の愚鈍さを恥じると同時に、わたしは座っていた木製の丸椅子を手に取った。ガラスの灰皿でもあればいちばん良かったんだろうけど、そんな気の利いたものは倉庫をひっくり返したって出てきやしないだろう。分厚い本の角で、という選択肢も一瞬だけ脳裏をよぎったけど、貸本屋の娘としてのプライドが、あの小さな女の子の貞操の危機を上回った。
 要はあまりの出来事に気が動転していたのだが、このときのわたしは自分のことを冷静だと信じて疑わなかったのだ。わたしの目にはあの男が一国の姫を攫う魔王に見えたし(それ以上に低劣だけれど)、わたしは自分のことを勇者かなんかだと思ってたし、木製の丸椅子をアダマントで出来た伝説の剣かなんかだと思い込んでいた。

 幸いなことに、男はわたしが起き出したことに気付いていない。さらに幸いなことに、男までの道のりには本棚が所狭しと並んでいて、死角をたくさん作ってくれている。忍者のように影から影へ移動し、とうとう男の背後まで辿り着く。
 女の子は絶望の表情を浮かべながら、わたしに助けを求めるように口をぱくぱくさせた。男は夢中になって女の子に……その……恋人同士がするようなことを女の子に求めていた。女の子は必死に抵抗していたからまだ操は守られていたけど、それすら男は楽しんでいる様子だった。
 さて、椅子を持って射程距離にまで来たわけだけれど、いきなりどうしたらいいかわからなくなってしまった。この椅子でどうするつもりだったんだ、まさか、この男の後頭部を殴りつけるつもりだったのか?貸本屋の娘でしかない、しがない女の子風情であるわたしが?
 そんな恐ろしいこと、出来るわけがない!
 女の子に向けて、わたしは出来る限り申し訳なさそうな表情を浮かべたが、女の子は、こんなのは人生じゃない、とばかりに首を振った。しかし、わたしは霊夢さんじゃないし、魔理沙さんでもない。あのお二人のような活躍は、どう頑張っても見込めないような気がした。
 おろおろしているうちに、女の子の抵抗が弱まっていく。男はここぞとばかりに唇を突き出して──
 「お、おねえちゃ……」と、女の子の絞り出すような声。「たすけ……」
 瞬間、男がこちらを振り返る。が、女の子の助けを求める声を聞いた時点で、わたしは椅子を振りかぶっていた。
 「うわあああああっ!」
 目を閉じたまま、わたしは体ごと振り下ろす勢いで椅子を叩きつけた。
 感じたことのない手応えだった。当たり前だ。生まれてこの方、人を殴ったことなんかない。ましてや椅子でぶっ叩くなんて。
 おそるおそる目を開ける。男は頭から血を流していた。こんな男に流れてるだなんて信じられないような、真っ赤な血だった。
 一歩、二歩、と後ずさったのは、男の方だった。女の子はとっくにいなくなっているが、後ろの方で気配を感じた。
 「───!」
 男が声にならない声をあげて、獣のように突進してくる。もしも感情というものが言葉から意味を差っ引いたものだとしたら、その音は男の苦悶、怒り、屈辱と言った原始の感情を表していた。
 「ひいっ!」
 わたしは椅子をもう一度振り下ろしたが、先ほどのような手応えはなかった。地面に激突した椅子は、その衝撃で痺れを来した手から離れ、地面に転がった。しかし、それが男の馬力を殺すことになった。椅子に蹴躓いた男はバランスを崩し、あらぬ方向へ頭から突っ込む。そこは辞書や歴史書やセカジーの攻略本など、分厚くて重たい鈍器のような本を収納してある棚だった──どさどさっ!衝撃を受けて棚から落下する本は、まるで大瀑布のような破壊力で以て男の上に降り注いだ。男は避ける間も無く、読書家としてはこの上ない幸福だけど、たくさんの本に埋もれてしまった。
 ぴくりとも動かなくなった男を見て、安心していいのか警戒を続けた方がいいのかわからなくなる。とりあえず、武器──椅子を確保しておくことにした。
 と、腰の辺りに宇宙の果てまで吹っ飛びそうなほどの衝撃を受ける。すわ、男が復活したのか⁉︎と椅子を構えたが、女の子が抱きついているだけだった。
 「お、おねえちゃん……ぐすっ……怖かったよぉ……」
 わたしは椅子をそっと地面に置き、身を屈めて女の子に視線を合わせた。
 「大丈夫……もう、大丈夫だから……」
 そして、優しく抱きしめてあげた。
 ああ、霊夢さんや魔理沙さんほどじゃないにしても、今日はわたしも立派にやり遂げたんだ。

 
 人間の犯罪者なんか滅多に現れないので、どこに連絡してどういう処遇を受けさせればいいのかさっぱりわかんなかったんだけど、なんか警察を自称する旧めかしい感じの人がいきなりやってきて、勝手に痴漢をどこかへ連れて行き、わたしの人生から金輪際退場してしまった。
 ほとんどそれと入れ違いにお母さんとお父さんが帰ってきた。まるで打ち合わせでもしていたのかってくらい、ぴったりなタイミングだった。散乱した本や椅子を見るや、二人はぎょっとしてわたしを睨んだけど、娘の腰に顔を埋めて泣きじゃくる女の子や、地面の血のシミを発見すると、閉口するばかりだった。
 ただし、閉口したのはお父さんだけだった。
 「小鈴!」と、お母さんが駆け寄り、わたしをひしと抱きしめ、それから肩を掴んでわたしの目をしっかりと見つめた。「大丈夫?床に、血が……どこも痛くない?」
 思わず涙が滲んでしまい、声が震えた。大丈夫、どこも痛くないよ、それより──それより⁉︎と、母は声を荒げた。小鈴の血じゃないのね⁉︎
 「この子が怪我してるわけでもないみたいだ」と、お父さんが女の子の前にしゃがみ込んでいた。「小鈴……危ない目に遭ったのか?」
 わたしはパニックになるお母さんを諌め、先ほど起こった出来事について話した。蝿の王のような男が店を訪れ、幼子を手籠にしようとし、獅子奮迅の活躍でそれを阻止したわたしの話を。母は危険に身を晒して挑んだ娘の勇気を誉め、それから戒め、さらに父を叱った。あんなコーナーがあるから、そんな男が来るんだわ!父は、くそ、いつだってそんな犬畜生にも劣る下衆野郎が男の品位を下げるんだ、と切歯扼腕し、母のこの世のすべての男に対する罵詈雑言を一身に受けていた。
 わたしが立ち入ることを許されないあのコーナーの存続を巡って議論を交わす二人を後目に、気まずそうに立ちすくむ女の子の手を取った。ごめんね、ちょっとだけ待っててね。あとでうちのお父さん……あ、お母さんがお家まで送ってくれると思うから……。
 ふと、その子の顔を見ていると、わたしは
 「ねえ、わたし達、どこかで会ってないかな」
 女の子の体がびくっと震える。けれど、その震えがなにから来てるのか、わたしにはピンと来なかった。怯え?不安?
 「……前にもお店、来たことあるのかな?ごめんね、覚えてなくて」
 「う、ううん……いいよ」彼女は目尻を指で拭った。「うん……前にも来たこと、ある……」
 「そっか……よかったら、お名前を教えてくれるかな。わたしは小鈴。えへへ、このお店にも鈴って字が入ってるんだよ」
 場を盛り上げるトーク、とまではいかないけど、雰囲気を和ませるように喋ったつもりが、女の子は口を固く閉ざしてしまった。名前を言いたくないのか、忘れてしまったのか、はたまた人間の口には発音ができないとか……わたしの妄想と違って、その理由はとても可愛らしいものだった。
 「す、鈴音……」彼女はもじもじと体を揺らしながら名乗った。「鈴の音……」
 酷く恥じらいながらの名乗りを聞いたとき、わたしは胸の中が暖かくなっていくのを感じた。鈴音……すずね、か。そうか!
 思わず彼女を抱きしめたくなったが、先ほどの事件のことを鑑みて、どうにか踏みとどまる。その代わり、とびっきりの笑顔で以て、顔を真っ赤にする女の子の顔を覗き込んだ。
 「鈴音ちゃんか〜、名前、似てるからなんだか気恥ずかしくなっちゃったの?」
 俯く鈴音ちゃん。表情は伺えないけど、わたしにはなんとなく想像できた。
 わたしは彼女を抱きしめるのではなく、受け入れる準備をした。背中を軽く押してやると、驚くほど素直に倒れかかってくる。
 「…よかったよ、鈴音ちゃんを守れて」わたしは鈴音ちゃんの背中を撫でながら言った。「もし、なにかあったあとで、あなたの名前を知ったら、きっと、自分を許せなかったと思う」
 返事はない。ただ、尊い温もりがあった。その温もりの正体は、さっきわたしがお母さんから受け取ったものと同じだった。
 だれかを愛しいと思う気持ち。もしも言葉というものが感情から意味を差っ引いたものだとしたら、もうそんなものは必要なかった。この気持ちさえあれば、それでよかった。
 「……お姉ちゃん……」
 わたしとしては、彼女の温もりを感じられればそれでいいと思っていたのだが、鈴音ちゃんからも抱きしめ返してくれたとなると、欲望は際限を失うのだった。
 わたしは彼女の名を呼んだ。鈴音ちゃん、鈴音ちゃん……まるで、生き別れの妹と何年ぶりかに再会したかのように。鈴音ちゃんは、わたしの呼びかけに呼応するように、腕に力を込める。だけど、どれだけ力を込めても、心地よさにしか変わらなくて。
 わたしは、お母さんに言われるまで、鈴音ちゃんのことを抱きしめていた。
 「小鈴ったら、まるで本当のお姉ちゃんだったわよ」
 それから、お母さんは鈴音ちゃんの手を引いて、彼女を家まで送って行った(お父さんはわたしといっしょにお留守番)。
 こんなことを考えるのは失礼だけど、お父さんもお母さんもいないと言う鈴音ちゃんに、家はあるのだろうか。鈴音ちゃんは、どこへ帰るのだろうか……そんなことを想っていると、わたしは彼女のことが可哀想になった……
 鈴音ちゃん……。

 ※

 「それで、それでですよ、わたしがあの痴漢の後頭部を椅子で……ぱっかーん、って!」
 「「ふーん」」
 わたしの長広舌を、霊夢さんと魔理沙さんは右から左へ馬耳東風し、晩ごはんのこととか、明日の天気のこととかを考えていた。
 「そしたら……まあ、その人、頭から血が出ちゃったんですけど、猛然と突進してきて、わたしは華麗に回避!痴漢はきりきりまいをして本棚にぶつかって──」
 「ねえ、鈴音ちゃんて、どこに住んでるの?」
 「──え?ああ……」霊夢さんに横槍を挟まれたわあしは、一瞬放心してしまった。「えーと、それが……」
 と、遠くで犬の鳴き声がいくつも聞こえて、博麗神社がいっぺんに騒がしくなる。縁側に座り込んでいたわたしは驚いてお茶を取り落とし、隣に座っていた魔理沙さんが危なげなくそれをキャッチした。
 「こら、あうん!」霊夢さんが立ち上がる。静かにしなさい!」
 生ぬるい風と共に、またぞろ犬の声が返ってくる。霊夢さんはため息を吐き、あんたなんか相手にしてる暇はないんだぞ、という風にわたしに視線をやった。
 「それで?」
 「えーと……お母さんに聞いてみたんですけど、教えてくれなくて……」
 「住んでる場所をか?」
 顎に手を置いて考え込む霊夢さんに代わって、魔理沙さんが尋ねる。わたしは頷いた。
 「理由を訊いても教えてくれなくて……それに、もう関わるな、とも言われました」
 霊夢さんと魔理沙さんは顔を見合わせた。
 「そりゃあ……親の言うことは聞くべきだぜ」魔理沙さんが腕を組んでうんうん頷く。
 「あんたが言うの、それ」と、霊夢さんが水を差す。
 「喧嘩売ってんのか、コラ!」
 取っ組み合いを始める二人を眺めつつ、わたしが見ていたのは、鈴音ちゃんを家まで送って帰ってきたときのお母さんの顔だった。

 あの子ともう関わってはだめ

 見たこともない表情だった。二人きりでいるときに、鈴音ちゃんに失礼な態度をとられたとか、そういう感じでもなかった。お母さんが強調した「だめ」という言葉は、叱るような声音ではなく、まるで警告するかのような感触があった。ひょっとしたら、大層身分の高いお家柄の子だったとか……?そういえば、彼女は読書をするためにうちのお店に来たのだ。寺子屋に通わせて貰えるなんて、そんじょそこらのお家の子ではない。
 しかし、そんじょそこらのお家の子ならば、わざわざ貸本屋に一人で本など読みにくるだろうか。家に本などありそうなものだし……いや、家にない本は読めないか。
 いろいろ考えてみるけど、けっきょくのところ、わたしはまたあの子に会いたいというだけなのかもしれない。わたしがあの子と出会ったのは偶然だし、助けられたのも運が良かっただけだ。それでも、彼女とは縁を感じずにはいられない。鈴音、という名前なんか、もはや運命的じゃないか。わたしに妹はいないけど、もしもいたら、あんな子が良い。
 それに。
 「お母さんはああ言ったけど、鈴音ちゃんの方からまた訪ねてくれるかも、だし……」
 「まあ、そうだな」いつの間にか決着をつけていた魔理沙さんが言う。「小鈴ちゃんに恩を感じてるなら、そのうちひょっこり顔を出すさ」
 「あんたもたまには親に顔を見せてやりなさいよ」と、霊夢さんがまた余計なことを言う。
 「ぶっ飛ばすぞ、コラ!」
 二人がまた掴み合い、地面の上で土煙をあげるほど転がり回る。わたしは一応、二人に別れを告げ、神社を離れた。
 
 その日はまたも雨で、しかもお父さんもお母さんも出かけてて、わたしは昨夜の読書で寝不足気味だった。ほとんど船を漕いでいたわたしが、鈴音ちゃんの来ていたことに気がついたのは彼女の使っている机に本が山々と積まれたあとだった。
 「……鈴音ちゃん⁉︎」口の端にこびりついた涎の跡を袖で拭う。「い、いつの間に来てたの?やだ、寝てた……」
 大慌てで彼女の側に近寄る。鈴音ちゃんは目をまんまるにしてわたしを見上げた。
 「ごめんなさい……勝手に入っちゃった……」
 「いいの、いいの!」わたしは身塗り手振りで彼女の潔白を証明しようとした。「わたしこそ、ごめんね。せっかく来てくれたのに、寝ちゃってた」
 鈴音ちゃんは首を振ったが、それが気にしてないという意図なのか、あんたが起きてようが寝てようが興味ない、という意図なのかはわからなかった。
 「あー、そうそう」と、わたしは母が鈴音ちゃんに対して働いたであろう非礼のことを思い出した。「わたしのお母さん、なんか失礼なことを言わなかったかな。なんかー……わたしと関わらないで、とか」
 鈴音ちゃんはなにも言わず、満月のようなまんまるな目でわたしを見上げるばかりだった。
 「ごめんね。お母さんはそう言ったかもしれないけど……わたしは鈴音ちゃんと友達になれたら嬉しいな。ね、お母さんのことはわたしが説得するから、これからも遊びに来てよ」
 鈴音ちゃんは、やはりなにも答えない。なんとも居た堪れなくなったわたしは、なんとなしに彼女が積んだであろう、机の上の本を見やった。
 その中には洋書も含まれていた。あるふぁべっと、という異国の言語で記された本だ。わたしはその本を手に取った。
 「鈴音ちゃん、これ、読めるの?」長い沈黙のあとに、鈴音ちゃんは頷いた。「へえ、すごい!」
 こんなのはいまどきの子供ならだれでも読めて当然とばかりに、鈴音ちゃんは本へ目を据えるのだった。わたしは彼女の読書を邪魔しないよう、受付の奥に引っ込んだ。
 まるで、新しい家族が増えたような気分だった。
 鈴音ちゃん。
 彼女の瞳は名前が表すように鈴のようにまん丸で。寡黙だけどたまに発する声は名前が表すよう鈴の音みたいに凛としてて。まるで本当の妹みたいで。朝起きたら彼女があの声で起こしてくれてお姉ちゃんと呼んでくれて二人で本の話をしながらごはんを食べてお客さんが来るまで二人で読書をしてときどきくすくす笑ったりぐすぐす泣いたりしながらお客さんが来て二人の時間に水を差されたと思ってムッとしてそれからまた笑って……

 またも眠ってしまっていたということに気がついたのは、お母さんの声が耳朶を打ったからだ。反射的に声の方を寝ぼけ眼を向けると、お母さんが鈴音ちゃんの目線と合うように腰を屈めて、彼女になにか喋っていた。
 「お母さん……?」
 母がはっと顔をこちらに向け、自分の愚かさを呪うかのように顔を歪めた。
 「小鈴──」
 お母さんがなにか言い差す前に、鈴音ちゃんがこっちに突進してくる。と言ってもその馬力は可愛いもので、わたしは容易に彼女の体を受け止めることができた。
 「お姉ちゃん……」
 わたしを見上げる鈴音ちゃんの目には涙が溜まっていた。腰をぎゅーっと掴まれ、身動きが取れない。
 困ったわたしは、お母さんに視線で助けを求めた。お母さんはどうしたらいいのかわからないみたいで、まるで爆弾でも目の当たりにしたみたいに右往左往している。
 「す、鈴音ちゃん?なにかあったの……?」
 「違うの!」と叫んだのは、お母さんだった。「小鈴は悪くないから、お願いだから、うちの娘とは関わらないで!」
 お母さんの剣幕に、わたしはたじろいでしまった。鈴音ちゃんも驚いたのか、わたしを掴む手に力が籠る。わたしとしては、途方に暮れていた。わたしも渦中の人物であることには間違いないのだが、大切なことをなにも知らされないでいる。
 お母さんに話を聞こうと視線を向けた途端、鈴音ちゃんに手を引かれる。自分よりも子供とは思えないほどの力だった。わたしは成すがまま、鈴音ちゃんの後に着いていく。
 「小鈴!」
 と、お母さんがわたしに向けて手を伸ばす。わたしはそれに応じたが、僅かのところで届かない。鈴音ちゃんはわたしの手を恐ろしいほどの力で掴んだまま、店の戸に手をかけ、引き剥がさんばかりの勢いで開ける。
 わたしは鈴音ちゃんの手を振り払おうとするが、敵わない。思わず反対側の手が出そうになるが、まるで走る馬に引っ張られてるようで、
 雨の中、わたしは鈴音ちゃんに無理やり手を引かれて走る。雨は、いつの間にかすごいことになっていた。まるで大瀑布のように打ち付ける雨のせいで、背後から聞こえるお母さんの声も、やがて聞こえなくなった。
 「鈴音ちゃんっ、ちょっと、止まって……!」
 わたしの声も、鈴音ちゃんには届いていないようだった。一心不乱に前を向いたまた走り続けている。無理にでも立ち止まろうとすると、手首が引っこ抜けそうだ。
 鈴音ちゃん……!声を出そうとするも、もつれた息で空中分解する。途端に鈴音ちゃんが立ち止まり、腕を体が浮くほど引っ張られる。実際、そのまま壁に叩きつけられるまで、わたしは浮遊感を覚えていた。
 
 激痛と共に地面に突っ伏すわたしは、なんとか声を絞り出そうとした。雨が全身を濡らしているけれど、体が震えるのや、頭を覆うぬめりとした感触は、雨のせいばかりではなかった。息が苦しい。どうにか顔をあげ、呼吸を確保しようとする。
 這ってでもその場を離れようとするが、それも敵わなかった。鈴音ちゃんに足を掴まれ、地面の上を引きずられている。わたしは助けを呼ぼうとした。声にならない音が出るだけだった。もしも感情というものが言葉から意味を差っ引いたものだとしたら、わたしは恐怖を訴えかけていた。
 しかし、その言葉はだれにも届かなかった。
 血を失い、それに伴って、わたしは意識を失ったのだった。

 ※

 真っ暗闇の中で目を覚ました。前後もわからない状態でも、立ち上がらずにはいられない。埃くさい空気に思わず鼻と口を手で押さえ込む。頭を振って、どうにか身の回りの空気を綺麗にしようと試みた。
 手を伸ばし、どこかに壁がないかを確かめる。足元さえ覚束ないから、すり足で身長に移動する。やがて、お目当てのものと接触した。埃がぶわっと舞ったけど、一先ず安堵せずにはいられなかった。壁に背を預け、呼吸を整える。
 自分がどこにいるのか、暗闇の中ということを差し引いてもさっぱりわからない。記憶は鮮明だ。雨の中を引き摺り回されて……それでいて体が濡れていないのは、服も着替えさせてもらったということだろう。
 「……鈴音ちゃん?」
 わたしは声を出した。自分のものとは思えないほど震えている。その事実が恐怖心を煽った。
 「鈴音ちゃん、鈴音ちゃん!」わたしは壁にしっかりと背を預け、首を振り振り叫んだ。「いるんでしょ、出てきてよ!」
 彼女に掴まれていた手首がギュッと痛んだ。わたしは彼女にボロ雑巾みたいに投げられ、気を失ったのだ。手首の痛みは連鎖して、頭の傷の痛みも思い出させた。痛まない方の手で頭に触れると、包帯のようなものが巻かれていることがわかった。
 その想像にまたも恐怖し、それから一安心する。どうやら、傷つけるのは厭わないけれど、殺すつもりではないらしい……。
 と、ごとん、と背後から音がして、わたしは息を呑んだ。なにかが外されるような音だった。
 だれかが来る……背中を壁から離し、音の方に向き直りながら後ずさる。息を殺し、身構える。
 雨音が壁の方から聞こえる。それから、野分のような風の音だ。そこでようやく、背を預けていた壁が扉だったということに気がつく。
 「だれか……いるの?」
 返事はない。それを喜ぶべきか、警戒すべきなのか、一生かかっても判断できそうにない。わたしはまた、外に向かって手を伸ばし、なるべく足音を立てないようにしながら、そこに歩き出した。
 一歩進むごとに心臓が跳ね上がるのを感じる。息を殺すことなど忘れ、深呼吸をする。大丈夫、わたしを殺すつもりはない。わたしを殺すつもりは……ない……。
 戸を手で押す。ぎし、ぎし、と、思った通り素直には開いてくれない。頭の痛みを我慢しながら、肩で戸を押す。埃を巻き上げながら、わたしは外へ少しずつ体を出す。雨が冷えた体をさらに濡らした。
 暗闇から抜け出したものの、開放感はなかった。わたしを閉じ込めていた空間は、どうやら物置だったらしい。普段は使わないような家具をしまったり、子供を折檻するにはちょうど良さそうな、こじんまりとした倉だった。
 わたしは周囲を睥睨した。言うまでもなく月は出てなくて、多少、目は闇に慣れてきたものの視界にはほとんどなにも映らない。ここから動くべきか、じっとしているべきか……と、悩んでいると、空がまるで腹でも下したようにゴロゴロと鳴り出す。見上げるや否や、視界が光塗れになり、次いで轟音。わたしは思わず顔を背けたが、その寸前に光で晒された建物の姿を見た。
 こじんまりとした一軒家だった。お屋敷と呼べるほど大きくはないが、それなりの地位や権威がないと住めなさそうな家……という感じの大きさではあったと思う。その証拠に、周囲は背の高い塀で囲まれていた。本当に頑張れば乗り越えられなくもなさそうだけど、それは雨が降っていない場合の話だ。現に、何度か挑んでみたのだけれど、濡れているせいでまるで上手くいかなかった。
 
 「……っ」
 そうこうしているうちに、頭が傷み出す。変に激しく動いて傷口が開こうものなら、いざというときに動けなくなってしまう可能性もある。それに、わたしの体は雨で散々濡れてしまっている。あの倉の中に戻るのもありかもしれないが、それならば家の中に入ったって同じことじゃないか。
 わたしは玄関に周り、戸を叩いた。開く気配はない。耳を押し当てても、生活音なんかは聞こえない。仮にだれかがなにかしていたとしても、この凄まじい風の音では聞こえなかったかもしれない。
 空がビカビカッと光り、わたしは慌てて中へ入った。戸をゆっくりと閉め、果てしなく長く、暗い廊下を真っ直ぐ見つめる。
 「だれか……だれかいませんか?」
 だれかにわたしの声が届いてほしいという気持ちと、だれにも届いてほしくないと言う気持ちがせめぎ合っていた。そもそも、この家は鈴音ちゃんの家ではないのか?わたしに危害を加えた彼女が、わたしをここへ連れてきたのだとしたら……目的はなんだろう。
 土足のまま床にあがると、なにかを蹴飛ばしてしまう。そのなにかは床の上に倒れ、暗闇の方へと転がっていく。罠ではないかと訝しながらも、わたしはそれを追いかけ、拾った。
 ランプだった。それがあった場所に戻り、ちょっと探してみると、マッチまであった。なんて都合がいいんだろうと思いつつ、元々ここに住んでる人が常にあそこに置いていたのではないか、と結論づける。油壺の部分には灯油がちゃんと入っているし、芯もちゃんと伸びていた。ホヤを外し、マッチを擦り、芯の先に灯す。暖かく、優しげな光が暗闇を照らしてくれる。なんて万能感なんだろう。みるみる勇気が湧いてくる感じだ。
 
 ランプを前にかざす。部屋がいくつかと、二階へ続く階段があった。少なくとも、この階に人の気配はない。息を潜めてわたしを狙っているのでなければ、だが。
 念のために、部屋を一つ一つ確認していく。不気味なお家、という印象とは裏腹に、部屋は概ね片付いていた。生活感さえ感じないほどに。障子を開け、開けては閉めていく。
 残すは階段の脇にある部屋のみとなった。その頃にはわたしも慣れたもので、恐怖心も誤魔化せるほどになっていた。
 例によってそーっと障子を開く。布団が敷かれていた。
 だれかが眠っているようで、敷布団が微かに膨らんだり萎んだりしている。生きた人間がいることに、わたしは一先ず安心感を覚えた。
 わたしはランプをかざしたまま、布団の足先からぐるりと頭の方へ回った。頭の禿げ上がった老人が眠っている。
 一つの布団を、二人が使っていた。掛け布団から頭が二つでているのだ。それ自体は変じゃないかもしれない。が、布団の膨らみはどう見ても一人分しかない。
 それに、片方は静かに寝息を立てているのに、もう片方は呼吸すらしてないように見えた。
 ずりずり、と布と肌が擦れる音が、布団の足先から鳴った。その方向にランプをかざす。足を伸ばしたらしく、しわしわの右足が露出されていた。
 ずりずりずりずり。さらに音が鳴った。足が一本、二本、三本と露出する。ずりずりずりずり。四本、五本。わたしは言葉を失い、後ずさった。
 ずりずりずりずりずり。足だけではない。腕も、頭もずりずりずり……この布団がどこか異空間に繋がっているのでなければ、わたしが見ているのは何人もの人間が融合した化け物の姿だった。
 「な、なんなの……⁉︎」
 思わず発してしまった声に、いくつもの頭がこちらを向く。布団のいくつかが布団を跳ね除け、怪物の全貌が明らかになる。車輪にいくつもの四肢がくっついてるようだ。丸く変形した胴体から、夥しい数の腕や足が髪の毛のように伸びている。そのどれもが意思を持つように蠢いている……!
 背後は壁。逃げるには、あの怪物の横を通り抜けるしかない──覚悟を決めたときだった。
 『貴様が博麗霊夢か』
 脳みそに直接語りかけるように、怪物の双頭のひとつが言った。
 『そんなはずはない。彼女は紅白ではない』
 もう一つの頭が言う。
 呆気に取られているうちに、怪物が何十もの腕を絡めて出口を塞いでしまう。
 『ただの人間が、この空間に迷い込んだというのか?』
 『だとしたら、殺せばいいだけのこと』
 『その通りだ。どのみち、この幼子の死が、新たな憎しみを呼ぶことになる。ここに集まる者は皆、そういうふうになっているのだ』
 いくつもある足は使わず、腕だけを使って怪物が飛びかかってくる。わたしは死を覚悟した。お母さんやお父さんとの思い出、霊夢さんや魔理沙さんとの思い出、阿求との思い出がスローモーションになって眼間で揺れる。わたしは死ぬまでの間、しばしその瞬間を楽しむ。ああ、幻想郷において死というものは、道端に転がる小石のようなものなのだ。
 ……と、見知らぬ記憶が頭をよぎった。まったく覚えのない光景だった。本当にわたしの記憶かも怪しかった。
 わたしとよく似た格好をした女の子が、魔理沙さんと対峙している光景だった。これがわたしだとしたら、そのときの記憶はどこへ抜け落ちてしまったのだろう?
 考える暇はなかった。突如として、わたしは背中が寒気立つのを感じた。恐怖からではない。わたしが預けていた壁が砕け、そこから寒風が部屋を満たしているのだ。
 『なんだ⁉︎』と、怪物の慌てる声。『なにかが突っ込んできたぞ!』
 わたしは床の上を睥睨した。怪物を怯ませたなにかは、わたしのすぐ足下に転がっていた。
 「……これは?」
 表題は『百鬼夜行絵巻最終章補遺編』となっている。頭がズキンと痛み、先ほど見た、覚えのない記憶がフラッシュバックする。
 わたしは本能的にそれを開いた──

 
されど百鬼の列未だ尽きず黄泉の風なお吹き荒れ影は影を呼びて彷徨ういずこより来たりいずこへ帰すべきや名も無き妖は筆にも記されず絵巻の余白にすらその姿を許されぬこれはその者たちの物語絵師すら描くを拒んだ終わりなき夜の残火なり

 わたしはその場で意識を失う。

 「霊夢クラスタ②」

 すっかりやつれてしまった小鈴ちゃんのお母さんといっしょにいるのは疲れるから、適当に本棚を物色していた。霊夢は冷酷なまでに事情聴取をしているが……
 「あの血痕は?」
 霊夢が尋ねると、嗚咽混じりにお母さんが答える。
 「あれは、小鈴が店に押し入った痴漢を退治したときに流れた血です……小鈴の血ではありませんが」
 何気に見やると、たしかに床の上には黒ずんだ血がべっとりとついていた。霊夢がそこまで近づき、しゃがみ、手で触ったり、においを嗅いだり……おいおい、舐めようとしてるぞ⁉︎
 「イカれてんのか⁉︎」わたしは思わず霊夢に駆け寄り床から引き剥がした。「それとも、そーゆー趣味でもあったのか?そりゃそうか、弾幕ごっこじゃ血が流れるなんて滅多なことだもんな、くそ!親友のそんな姿は見たくなかったぜ!」
 「これ、人間の血じゃないわね」
 「へー、舐めたらそんなこともわかんのかよ?カブトムシの血は青色らしいぜ、知ってっか?」
 「舐めてないし」
 「じゃあ、なんで這いつくばって舌を出したんだよ?」
 「探偵小説で、毒物を舌で舐め取って判別する主人公がいたのよ」
 「そいつはどうなったんだ?」
 霊夢は肩を竦めた。わたしはため息を吐き、地面にこびりついた血痕をまじまじと観察した。見れば見るほどドス黒いが、空気に触れた血はそうなるものと相場が決まっている。
 「これ……掃除しようとは思わなかったんですか?」
 意地悪な姑みたいなことを言う霊夢だったが、内心、わたしもそう思っていた。一応は客商売なんだから、汚れなんか拭き取っておくに越したことはない。
 「その……拭き取ろうとはしたのですが、どうしても落ちなくて……」姑にいびられる嫁さんみたいにお母さんが供述する。「だから、普段は絨毯で隠しているんです」
 「人間の血じゃないって言ってたな。なんの血なんだ?」
 「いま推理するから」
 「はいはい、推理ね……」
 ふむ、と霊夢は顎に手を置く。お母さんからなにかを聞いては考え込む、というような繰り返しが百回くらい続いていた。そして、最後にはこう言うのだ。
 「わからん!」
 
 小鈴ちゃんがいなくなって、まだ一日しか経ってない。しかも、彼女には前科がある。ふらりと姿を消し、とんでもない格好になって帰ってきたという前科が。あのとき、消えた小鈴ちゃんを天狗も探していたと言うが、彼奴らの包囲網にすら引っ掛からなかったというほどのプロ隠れん坊だ。今回だって、そう簡単には見つかるまい。
 小鈴ちゃんが行きそうな場所の心当たりで連想ゲームをしていると、店の一角に、やけに長い暖簾で仕切られている場所があることに気がついた。
 「あそこは?」
 わたしが件の場所を指さすと、お母さんが首を伸ばして確認し、なぜか動揺する。
 「そこは……その、あの……」
 「?」
 「わたし、見てくる」
 と、霊夢がツカツカ暖簾を掻き分けて入ってしまった。凡そ、小鈴ちゃんのお母さんがなにか隠してるのでは、と勘繰ったのだろう。
 「ああ……!」
 お母さんはまるでもう一人の娘まで行方不明になってしまったかのように頭を抱えた。フムー、これは本当になにかあるかもしれないぞ。
 「……そういえば、最近、鈴音って子と知り合ったとか言ってたな。お母さん、なにか知らない?」
 「知りません」
 「……」
 いやにキッパリとした態度に、わたしは違和感を覚えた。動揺を悟られないように冷静を気取っている。そんな印象を受けた。
 「いや、でも、その子が関わってるかもしれないし……」
 「だめなんです……いや、でも、ああ……小鈴……」
 ……その場で泣き崩れてしまった。どうやら、小鈴ちゃんの失踪に鈴音とやらが関わっているのは明白だ。そういえば、小鈴ちゃんはこの人に「あの子と関わってはだめ」と言われたんだっけ。
 と、霊夢が例のコーナーから戻ってくる。
 「おお、そっちはなにかわかっ……霊夢?顔が真っ青だぞ」
 「知らない」
 「……」
 「わたしはなにも見てないから」
 それから、お父さんが小鈴ちゃんの捜索から帰ってくるまでお母さんを宥め、放心状態の霊夢を神社まで送り、その日はわたしも泊まっていくことにしたのだが、隣でずっと「マジ最悪」とか抜かしてて煩かった。ちくしょう、小鈴ちゃんはまたいなくなっちゃうし、霊夢もこんなふうになるしで、いったいどうなっちゃったんだ。

 翌朝、わたし達はまた鈴奈庵に来ていた。霊夢は地面にこびりついた血痕を、わたしは鈴音のことを尋ねに。お母さんは強情だった。あの手この手で頼み込んでも教えてくれず、頭を低くしたり地面に手をついても「関わってはいけない」の一点張りで、わたしとしてもこの女にどうしても白状させてやると意地になってきて、鈴音と関わることへのリスクと小鈴ちゃんの命を引き合いにして出し、ようやく観念したころにはお母さんの顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。小鈴ちゃんのためとは言え、わたしの方が居た堪れなくなってきた。
 「……では、店の奥まで来ていただけますか」
 と、お母さんが妙なことを言う。
 「ここじゃダメなのか?」
 わたしが尋ねると、お母さんは地面を這いつくばって血の跡を懸命に調べる霊夢にチラチラと視線を送った。
 わたしはお母さんの言うとおりにした。彼女の後ろに着いて、受付を通り仕切りから奥へ進む。

 「……この話は、霊夢さんには秘密にしておくようにお願いします」
 お母さんは決然とそう言った。霊夢に秘密にするかは話の内容によるが、ひとまず頷いておく。わたしの了解を得たお母さんは、何度も仕切りの向こう側で霊夢が聞き耳を立てていないか確認し、それから訥々と喋り出した。
 
 小鈴を拐かしたのは、鈴音という少女で間違いないということ。
 小鈴よりも歳下とはとても思えないほどの力で、店の外へ連れ出されてしまったということ。
 「……はじめて鈴音がここに来たとき、わたしがあの子を家まで送ってあげたんです。けれど、その場所は、人智の及ばぬ魔境でした」
 どこをどう歩いたのかは、さっぱり覚えてないんです。獣道を歩いたような気もするし、人が歩くために完全に整地された道を歩いたような気もします。彼女の家にたどり着くまでで覚えていることと言えば、どこを歩いていても人間の気配を感じたことです。わたしにはそれが人間の気配と断言できます。彼らは……彼らは、一様にして悍ましいほどの憎悪を湛えてました。
 人殺し。
 悪魔の子。
 彼奴に呪いを、一生消えぬ呪いを。
 「その声を聞いていると、わたしまで憎しみを覚えるようになりました」
 呪われよ。
 呪われよ。
 博麗霊夢。
 彼奴に呪いを──
 「歩いているうちに、家へ辿り着きました」
 二階建ての一軒家でした。新しくはありませんが、立派なお家でした。わたしは鈴音に手を引っ張られ、玄関を通ります。家の中は真っ暗でしたので、鈴音が足元にあったランプに火を灯しました。
 「そこで……灯りの中に、化物を見たのです。幾つもの人間が折り重なったような、人の手や足で作った車輪のような化物を!」
 わたしが聞いていた怨嗟の声の主は、その化物だったのです。わたしは驚き、尻餅をつき、逃げようとしました。
 鈴音がわたしに近づいて、こう言いました。
 
 おまえの子供も、霊夢を恨むようになる
 それだけじゃない
 おまえも霊夢への憎しみに囚われる
 我々と同じように

 
 「……霊夢に恨みを持ってる化け物が黒幕か」
 人が重なった車輪の姿の化物を想像するも、いまいちピンと来ない。恨みを持つと言えば、最近、そんなやつとも戦ったから、大した驚きもない。鈴音ってやつも、人間に化けた妖怪かなんかだったってところだ。お母さんが言われたらしい言葉は気になるが……。
 大した事件ではなさそうだな、つまり鈴音の居所さえ割れれば簡単に解決できそうだな、と一安心する。お母さんは、小鈴ちゃんのことを思ってか、蹲って体を震わせている。
 「大丈夫だよ、お母さん」わたしは膝を曲げた。「小鈴ちゃんは大丈夫だし、霊夢だって平気だよ。ありがとな、気にしてくれてたんでしょ?」
 お母さんは体を震わすばかりで、答えない。
 「さっきの話、霊夢にもするけど、安心してくれ……あいつは化け物に恨まれたって気にしないさ」
 「違うんです……彼らは、彼らは……」
 と、仕切りの方に気配を感じ、慌ててそっちを向くと、霊夢が立っていた。
 「血の出所がわかったわ」にべもなく霊夢は言った。「ごめん。あれ、やっぱり人間の血だった」

 我々は鈴奈庵を出、空を通って神社へ向かっていた。
 じっとりとした空気が体に張り付いていた。
 道なき道も半ばを過ぎるまでの間に、霊夢からあの血痕について、あらかた聞かされていた。
 あれが人間の血だって?前は違うって言ってたじゃないか。
 ……実は、わたしが探してたのは、人間の血じゃない証拠。だけど、あれからはけっきょく、妖怪の気配は感じなかった。
 妖怪じゃなくても、別のものかもしれないだろ?
 霊夢は頑として答えた。
 わたし、知ってるから。あれはね、人間の血だった。

 
 嫌な汗をびっしりかいている。霊夢には、小鈴ちゃんを連れて行ったのが、霊夢に恨みのある化け物の仕業だっていうことを伝えなきゃいけないはずだった。
 だけと、そうじゃないかもしれない。霊夢に恨みを持ってるのが、妖の類ではなく、人間だったら──
 
 呪われよ。
 彼奴に呪いを。
 
 「──霊夢」
 彼奴はその場で静止し、こちらを振り返った。西陽の作り出す影が、わたしの後ろめたさを表しているみたいだった。
 「その……おまえのことだから、なんとなく気がついてんだろ?」
 「なにが?」
 「……」
 一陣の風だとか、ヒグラシのなき声だとか、そういったものはなんのきっかけも齎さなかった。言葉は喉でつっかえる。くそ。親友に気を遣う必要がどこにある?
 おまえを恨んでるやつがいるって話だぜ──そう言い差したところだった。
 「わかってるわよ。わたしに恨みがあるんでしょ、犯人は」
 なにも言えなくなってしまった。
 「で、あんたは化け物が犯人だと思ってたけど、実は人間が犯人って可能性が浮かんで滅入ってる。でしょ?」
 なにも言うことがない。
 「化け物ならいざ知らず、人間に怨まれるなんて、ねえ……」
 「心当たりがあるのか?」
 「だれにでもあるもんでしょ」
 「いや、まあ……」
 わたしは霊夢の表情を伺った。なにも考えてないような、感覚だけですべてを捉えているような、如何様にも解釈のできる表情だった。
 もしも、霊夢が今回の事件に対してもいつも通りの態度で挑んでいるとしたら、なにも心配するこもはないのかもしれない。今回のは、そう、あくまで自分が巻き込まれ、自分で解決するのが他の方法よりも手っ取り早いからそうする、みたいな。博麗の巫女だから、とかじゃなくて。巻き込まれたのは博麗の巫女じゃなくて、博麗霊夢だから。
 「平気、なのか……?」
 霊夢の目は、わたしを見ていなかった。かと言って、ほかのなにも見ていなかった。
 「なにが?」
 わかっているんだろ。言えなかった。霊夢のその「なにが」の意図は明白なのに、それを指摘することができなかった。つまり、人から怨まれて平気でいられるのか、わたしはそう尋ねたかったのに。これは好奇心とか、興味本位とか、そういうんじゃない。
 心配なんだ。大丈夫なのか。そう尋ねたかった。だけど、過度な気遣いがこれまでの関係を崩してしまうんじゃないかという心配があった。
 霊夢の目がしっかりとなにかを見据えた。わたしは永遠に機会を失ったのだと、心が痛んだ。
 「敵の居場所については心当たりがある」
 敵、と霊夢ははっきりと口にした。
 「いまから向かうけど、あんたも来る?」
 「……おまえ一人の手柄にはさせないぜ」
 霊夢は曖昧に笑い、なにも言わずに敵とやらの方向へ飛んでいく。
 「心当たりがあるって言うけど」わたしは後ろから声をかけた。「どうしてわかったんだ?」
 「勘!」と、前から風を切る音に負けない声で返ってくる。
 「そりゃ、簡単でいいな!」
 
 果たして霊夢の言う通りになった。
 空を行ったり、地上を行ったりしているうちに、空模様が怪しくなってきた。生温い風が吹き荒んだかと思えば、すぐに横殴りの雨にぶつかった。まるで野分の渦中を進んでいるかのような、熾烈な行軍となったが、霊夢の足取りははっきりとしていた。目も開けられないほどの豪雨だったが、わたしは彼奴の背中をしっかりと追えていた。
 とはいえ、野分の中を歩き続けるのは身も心もしんどくなってくる。体力を奪われるにつれ、悪態が口から漏れ出てくる。くそ、どうしてこんな目に……

 ふと、心にポッとなにかが灯った。
 こんな目に遭っているのは、だれかのせいだというのか?
 それはだれなんだ?
 目の前に霊夢の背中が急接近する。そう感じた。そんなわけない。霊夢のせいなわけがない。わたしは自分の意思でここにいるのだ。
 しかし、あいつはここに来る前にこう言った。「あんたも来る?」それも、挑発的な笑みを浮かべながら。訊けば来ると答えると分かっていたのに。そもそも、最初から教えてくれればよかったじゃないか。こんな場所に来るとわかっていたんなら、ちゃんと装備を整えてきたのに。
 おまえが悪いのか、霊夢。
 おまえが悪いんだ。
 くそったれ、なんなんだ……ちくしょう。

 胸が激しく動悸を起こす。まるで感情を奮い立たせる原始的なビートのように。
 無意識のうちに、霊夢の背中に手が伸びる。胸筋が、その腕が軋んでいる。
 わたしがわたしでないみたいだった。なにか、大きなものと一つになろうとしている。それはとてつもなく胸糞悪いなにかで、しかし、この場所で生きるにはそいつと一体化しなくてはならないのだという気分にさせられる。そして、その融合の条件とは。
 彼奴を、霊夢を、呪うこと。理由はなんだっていい──
 「──魔理沙!」
 目の前に閃光が弾け、一瞬だけ視界が真っ暗になる。思わず転びそうになったが、支えになるものはなかった。わたしは素直に尻餅を付き、気持ちや体勢を立て直す時間を、状況の判断に費やした。
 お祓い棒を担いだ霊夢がわたしを見下ろしている。尻が雨のせいでびしょ濡れになっていたけど、しばらくそのままでいた。
 「あんた、急に立ち止まって……なんかぶつくさ言ってたわよ」
 「おまえは……なんともないのか?」
 「なにが」
 「この場所は、おまえへの憎悪で満ちてる。わたしはおまえに怨みなんかない。でも、わけのわからんこじ付けででもおまえを呪おうとしちまった!」
 「で?」と、霊夢は小馬鹿にしたように首を傾げた。「わたしは呪われたの?」
 別になんともなさそうな様子の霊夢を見て、返事に窮してしまう。だが、恨みを持たないわたしや、小鈴のお母さんまでをも憎悪で飲み込もうとしたほどだ。霊夢への呪いも、在るように思えて仕方がない。
 置いてくよ、と言って背を向ける霊夢に縋るように立ち上がって、我々は再び行軍を始めた。そうしているうちにまた憎悪に飲み込まれそうになり、霊夢に正気を取り戻してもらうと言うことが続いた。

 不意に霊夢が足を止める。正気と狂気を行ったり来たりしていたわたしはすっかり疲弊していて、立ち止まった霊夢に寄りかかるようにして倒れてしまった。無論、この疲弊も霊夢を呪う理由になっていた。
 「着いたわ」
 霊夢がそう言うので、わたしも顔を上げた。先ほどまでなにもなかったはずの空間に、瓦礫の山が出来上がっていた。
 「ここは……うわっ!」
 霊夢に手で押され、わたしは水溜りの上にぶっ倒れる。文句を言う気力もないが、どうにかして顔を上げることは出来た。
 霊夢がなにかと対峙していた。そいつは、小鈴のお母さんが話してくれた化け物そのものだった。幾つもの人間が折り重なったような、融合したような、胴体を起点に腕足が幾つも生え、まるで車輪のような姿をしている。有り体に言えばキモく、こんな体調のときに見るべき光景ではない。
 あれは……なんだ?
 『間違いない、あれが博麗霊夢だ』
 と、化け物の胴体から蒼白い頭が伸びてくる。まるで雨後の筍のように。押し合い圧し合いしながら、狭い胴体からいくつも現れ、無数の眼で霊夢のことを凝視する。
 そうして、頭同士で会話をする。
 『見たことがある。彼奴が儀式を行なっているところを』
 『わたしも見た。彼奴に殺された』
 それぞれの面相は違ったが、皆一様にして霊夢への憎しみを露わにしていた。
 「霊夢……おい、霊夢?知り合いなのか、こいつらは?」
 「……知ってるわけないでしょ」
 霊夢は振り向かずに答えた。その背中が、微かに震えているように見える。
 「あんた……達が小鈴ちゃんを攫ったのね!」虚勢を張るように霊夢は声をあげた。「覚悟は出来てるのよねー!」
 『わたしのことを覚えているか?』
 化け物の質問に、霊夢は足を踏みとどめた。芋洗い状態だった胴体に、一つの顔が浮かび上がる。
 霊夢はなにも答えなかった。
 浮かび上がった顔は満足そうに微笑み、胴体の中へ沈んで行く。入れ替わるように別の顔が浮かび上がる。
 『おれのことを知っているか?』
 そうしてまた、同じ質問をする。わたしは?おれは?ぼくは?わしは?
 霊夢の表情は窺い知れないが、霊夢の体の震えは確実なものになっていた。
 「霊夢、おいっ、知り合いなんじゃないのかよっ!」
 「……知らないってば!」
 牽制のつもりなのか、霊夢はお札を一枚、無数の腕足を蠢かせる化け物に向けて投げ放った。化け物は避ける素振りすら見せず──むしろ、恍惚とした表情をいくつも表面化させ、それを受け入れた。
 お札に触れた顔の部分が、地面に叩きつけられた水風船のように弾ける。蒼白い体からは想像も出来ないような真っ赤な血が、まるで閃光花火みたいに頭のあった部分から伸び、重力に従ってしなり、やがて地面ぶつかると、そこに大きな作品を拵える。頭蓋と、ぷるぷるした黄色じみた脳髄が丁寧に添えられていた。
 それが開戦の火蓋を切った。化け物から無数の手が霊夢へ向けて伸びる。しかし、霊夢の俊敏な動きを捉えるには至らない。
 霊夢がお祓い棒で伸びてきた腕をいなすと、そこがみりみりと音を立て、ゆっくりと時間をかけて捻れ、まるで二人がかりで逆方向に引っ張られたかのように裂ける。夥しい量の血煙が立ち上り、動き回っている霊夢の顔を半分ほど赤く染め上げる。
 胃の中のものを吐き出しそうになる。
 この光景はなんだ?
 腕はさらに伸びてくる。それと同じように、頭が一つ、霊夢に急接近する。霊夢は反射的に身を翻し、その勢いで足先を使って鋭い蹴りを突き刺した。やはりその頭、顔は恍惚の表情を浮かべたまま、爆発四散する。新鮮な脳みそや、たったいま持ち主を失った目玉、脂肪の黄色いぷるぷるなどが撒き散らされ、いくつかが霊夢の脚にくっつく。その一部分、肉塊のほんの一欠片がわたしの目の前にも落ちてきて、思わず立ち上がる元気を取り戻してしまった。
 化け物の攻撃をやり過ごし、着地した霊夢の隣に立つ。彼奴の顔は嫌悪に満ちていた。体中にこびりついているのは、すべてあの化け物の血や肉だ。
 「お、おい……大丈夫かよ」
 が、わたしの言葉などどこ吹く風で、霊夢はわたしを押し除け、前に出る。見やると、次の攻撃──そう呼ぶのが正しければ──が迫っていた。わたしはおろか、霊夢さえ避ける素振りも見せない。伸び切った化け物の拳が、霊夢の顔を軽く撫でる。まるで赤ん坊が戯れてるかのような、緊張感のなさだ。
 霊夢は化け物のその腕を手に取り、ギュッと力を込める。粘っこい音がして、霊夢の手の中が血でいっぱいになる。分離した腕は断面から血を迸らせながら地面に落下し、その役目を終えた。
 霊夢は攻撃をいなしながら、化け物に接近する。異常な光景だった。攻撃はほとんど当たらず、当たったとしてもまるでダメージがない。あれじゃあ、あの化け物はむざむざ死にに行っているようなものだ。血と肉を撒き散らしながら……
 「霊夢、やめろ」わたしは声を張った。「よせ!」
 が、決して彼奴のもとには近づかなかった。いや、近づけなかった。霊夢がまた攻撃をいなすと、攻撃に使われた部位が弾け、内容物をぶち撒けながら辺りを血の海にする。それを見るにつけ、わたしは吐きそうになる。吐かないのは、ほとんど意地だった。
 
 吐く代わりに、思考を巡らせる。わたしには、あの化け物がただ単に弱いだけ、とは思えなかった。
 一つの推理が浮かぶ。ひょっとしたら、化け物はダメージを受けることを目的としているのではないか。霊夢に攻撃、反撃をされるたびに過剰なまでに血肉を撒き散らすのは、つまり、攻撃を受けることで発動する能力でもあるのではないか。
 「霊夢!やめろ、攻撃するな、反撃もよせ!」
 「こんな化け物に遠慮なんて必要ないわよ!」
 霊夢は攻撃の手を緩めなかった。あの化け物が頭を失うたびに、新しい頭が生えてくる。まるで親鳥から餌をせびる雛鳥のように、次々と頭が生えてくる。

 『化け物、化け物と、いったいどちらがそうなのか?貴様は平然と、まるで化け物のように人間を殺してきたというに』
 おもむろに喋り出した化け物の顔を、霊夢は一目散に潰した。返り血をたっぷり浴びた霊夢は、もはや紅白の巫女などとめでたい肩書きを名乗れそうにない。
 『わたしは』霊夢に潰される。『おれたちは』潰される。『ぼくらの』潰す。
 潰す。潰す。潰す。潰す。
 『人のまま、この姿を得たんだよ』
 『人だ』
 『我らは人なのだ』
 『おまえのせいだ』
 『我らがこのような姿になったのも』
 『殺し続けてきたおまえのせい』
 『すべて、おまえのせい』
 ──呪われよ。
 
 『人殺し』

 気がつけば、八卦路が火を噴いていた。
 閃光は化け物たちの眼前を掠め、遥か彼方へ消えて行った。 
 「いい加減にしろよ、キサマら、勝手なこと抜かしやがって……!」
 霊夢と化け物が一斉にこっちを向く。
 嗚咽を噛み殺し、わたしは叫んだ。
 「霊夢が人を殺すわけないだろうがぁっ!」
 箒に跨り、化け物へ向けて突進する。なにも策はない。ただ頭に血が昇って……とにかくあいつを黙らせてやる。
 が、わたしが化け物にたどり着く前に、行く手を霊夢に阻まれる。
 「なんだよ⁉︎」
 「……あいつは、あんたとまったく関係ないから」
 「ないことあるか、親友を侮辱されてんだぞ⁉︎」
 魔理沙、と重く低い声で名前を呼ばれる。その目で言われる。
 あんたは関係ない。
 化け物は手を出してくる様子を見せない。むしろ、わたしと霊夢のやり取りを楽しんでいるかのようだった。
 「野郎……!」
 「聞いて。あいつの言っていることは……正しいの」
 霊夢の言葉が、わたしの頭に混乱を来たす。
 「どこかだよ?」ぜんぶ、と霊夢は即答した。「……おまえが人殺しってとこもか?」
 「……それでも、わたしはあいつを退治しなきゃならない」
 「なに言ってんだよ、それが正しいんだ、あいつらは人間なんかじゃ──」
 違う。きっとあの怪物は人間なのだ。我々の預かり知らぬ力で、霊夢に対する憎しみを基に融合を果たし、異形となったのだ。姿は人とかけ離れていても、牛鬼蛇神を相手にするときの力加減で攻撃されれば、ただの人間ならああも負傷するだろう。
 すべては霊夢のせいだと、あの化け物の姿をした人々は宣う。違う。そんなわけない。発端が霊夢だったとしても、あんな姿になることを選んだのは、怨みに取り憑かれたあいつらじゃないか。
 怨み──それがいまのわたしを動かすすべてだった。あの、自らを人と騙る化け物への怨み。人殺し、などと霊夢を貶めるあの化け物こそ、化け物ではないか。人の心を殺す言葉を使う彼奴らこそ、化け物じゃないか!
 「退治することと、人を殺すことは違うだろ!」
 わたしは、泣きながらそう言っていた。霊夢のためだと思っていた。霊夢の理解者は、自分しかいないと思っていた。仮に霊夢が人を殺すことがあっても、それは正義のためなのだ。わたしはほとんど狂っていた。憎しみを増長するこの空間のせいかもしれない。
 と、胸に衝撃が走って、わたしは後ろに思い切り吹き飛んだ。水切りの石みたいに何度か濡れた地面を跳ねる。胸が激しく痛んだけど、霊夢に手で押されたのだと気がついたときは、体よりも心が痛んだ。
 「いいから」
 霊夢はそう言うと、化け物のザクロみたいに開けた胴の断面部分にお祓い棒を突っ込み、鍋でもかき混ぜるようにぐりぐりと押し付ける。化け物の絶叫が耳朶を打った。男の声、女の声、老人の声、子供の声、それらすべてが撹拌された、悍ましい叫び声だった。
 しかし、化け物は笑っていた。
 そういうことか。
 霊夢からのダメージが、化け物にとっては攻撃なのだ。あれこそが連中の言う呪い。霊夢に、人間を殺したという記憶を植え付けるための呪い──胃の中のものが込み上げてくる。
 
 「わからないよ、霊夢……」わたしは吐瀉物を蹴り退けた。「おまえに、なんの罪があるって言うんだ……」
 もう、泣くのも我慢できなかった。あの化け物は人間で、霊夢はあいつを退治する以前にも人を殺していた?わけがわからなかった。わかるのは、あいつも苦しんでいるということ。
 あの化け物の中にある命を一つ潰すたびに、血が飛び散り、肉が飛び交い、呪いのように霊夢へ降りかかる。彼奴は一切、気にした様子を見せない。それが強がりなのか、慣れてしまっているせいなのか、わたしにはわからなかった。いずれにせよ、霊夢はいま、自分を殺している。
 贖罪のためにあの化け物を「殺している」。そんなふうに見えた。

 「……なんなの、あれ」
 ふと、隣に気配を感じ、わたしは飛び退いた。そこにいたのは、小さな女の子だった。わたしは瞬時に、その子が鈴音だという確信を得た。
 「どうして、負けているの……?」
 鈴音がつぶやく。まるで、あの化け物に勝算があったとでも言うような口ぶりだった。
 「おいっ!」わたしは、鈴音の肩を掴んだ。「小鈴ちゃんはどうした、おいっ!」
 鈴音はかぶりを振った。わたしは思わず、彼女の頬を張った。鈴音はもんどり打って地面に倒れ、怨みがましくわたしを見上げた。
 「答えろ!」わたしは八卦路を鈴音に向ける。「でなきゃ、ひどいぞ!」
 「……誤算だった。お姉ちゃんは人質にするつもりだったのだけれど、まさか、あんな力を持っているとはね」
 あんな力、と言うのがなんなのか、わたしには見当がついていたが、この際無視した。
 「この世界はどこまでも、あの巫女を可愛がるように出来ているらしい」よく見ると、鈴音の体はだれかに痛めつけられたようにボロボロだった。「どうして、こんな世界に生まれてしまったんだろう」

 と、叫び声があがった。霊夢の声だった。やられたのか、と思って見やると、彼奴は化け物の上に乗っかって、地団駄を踏むみたいに何度も踏みつけにしていた。化け物の胴体からは手が伸び、足が伸びる。まるで救いでも求めるかのように。霊夢はそれらを丹念に踏みつけていた。まるで地面を慣らそうとしているみたいに。
 「おい、小鈴ちゃんはどこにいるんだよ!」
 わたしはわたしに出来ることをすることにした。鈴音の肩を掴む。
 「わからない」鈴音はかぶりを振った。「わからない……わたしの復讐は、こんなはずじゃなかったのに……」
 鈴音は顔を手で覆い、しゃくりあげながら地面に膝をつく。その様子は、まるで純粋な、ただの女の子のようだった。無関係な女の子を拐かし、人質にし、復讐を企てるようには、とてもじゃないが見えなかった。
 妖怪の中には、親しみのある姿をして、その実人間を取って食うようなやつもいる。ていうか、そういうのがほとんどで、見た目で怖がらせてくるようなやつっていうのはほとんど見かけない。それ故に、あの化け物の姿は異端だった。あんな化け物然とした化け物は、幻想郷でもなかなか見たことがない。そもそも、あれは「人間」らしいが。
 わたしとしては、自分のやるべきことを見失っていた。小鈴ちゃんを探しに行く?霊夢を手伝う?化け物に和解を申し入れる?鈴音を慰めてやる?途方に暮れるとはこのことだ。
 まるで新人のアルバイトにでもなったような気分で、自分のやるべきことを見つけられないまま、霊夢が化け物と決着を着けた。辺り一面は血と肉の海になっていた。霊夢がスカートの裾を手で絞ると、薄赤い汁がボタボタと地面に滴り落ちた。頭をぶんぶん振ると、細かい薄紅梅の断面が地面に落っこちた。雨が彼奴の体に付着した血を洗い流すけど、慰めにすらならなかった。
  
 「……馬鹿みたい」地面に虫の息で倒れ伏す化け物を見下しながら、「こんなので呪われるなんて、絶対ないから。あんたは無駄に化け物になって、無駄に死ぬだけ」
 荒い呼吸に言葉をもつれさせながら、霊夢は吐き捨てた。
 『良い、良い。これで良い』残った一つの頭で、化け物が喋る。『戦っているうちにわかったことだ。おまえは確実に、我々の呪いを受け取った。しかし、それはおまえから貰ったものを返したに過ぎない』
 「あんたねえ……」
 化け物は咳き込むと同時に血を吐いた。
 それっきり、化け物はなにも言わなくなった。
 霊夢はなにも答えなかった。
 ぽつりとなにか呟いたような気もしたが、なにも聞こえなかったし、聞きたくなかった。
 わたしは霊夢に駆け寄り、飛びついた。
 これで終わりだ。あとは小鈴ちゃんを見つけるだけで良い。もう終わったんだ。
 「バカヤロー……」わたしは彼奴の背中を手で撫でてやった。「一人で抱え込むなよ!」
 このまま濃厚なロマンシスにでも発展するのかと思ったら、霊夢はわたしの体を豪快に投げ捨てるのだった。
 「なにしやがる!」
 「まだ終わりじゃない」と、霊夢が血で濡れたお祓い棒で鈴音を差した。「あいつが残ってる」
 「待てって!」わたしは縋るように霊夢の足を掴んだ。「あいつはもうなにも出来ないって、もういいだろ!」
 「あー?」と、霊夢はまるでいつもみたいに訝しげにわたしを見下ろす。「なにのんきなこと言ってんの?あいつが黒幕じゃん!」
 「こ……」どうにかして言葉を継ぐ。「殺す、のか……?」
 霊夢は答えなかった。わたしを振り払い、いまだ蹲ったままの鈴音へ向かって歩を進める。彼奴の前まで行くと、霊夢はお祓い棒を振り被った。
 なんなんだ、あの頓着の無さは。まるで何度もそうしてきたみたいじゃないか。
 ずっと……あんなことをしていたのか?殺さざるを得ない人間を、殺してきていたのか?
 この際、弾幕でも撃って止めようとしたのだが、どうやら間に合いそうもなかった。
 視界が歪む。
 ちくしょう、親友のそんな姿は見たくなかったよ──

 「霊夢さん」
 と、声。
 わたしのでもなければ、鈴音の声でもない。
 勇気を振り絞って、目の前の光景を凝視する。
 霊夢の前に、妖魔本を携えた小鈴ちゃんが立ち塞がっていて、片手でお祓い棒を受け止めていた。
 「この子をいじめたら、霊夢さんだって辛い目に遭いますよ!」
 「小鈴ちゃん?」
 「わかってますよ、霊夢さんも辛かったんですよね」小鈴ちゃんは、心底からそう言ってるみたいだった。「ずっと、博麗の巫女として、幻想郷を、人間を守るためにそうせざるを得なかった、その気持ちは察するに余りあります!」
 「……」
 霊夢の表情は伺えなかったが、お祓い棒を収めようとしない辺り、自分の信念を曲げるつもりはないらしかった。
 「これからは、霊夢さんがそうせざるを得ないときは、わたしが止めます!霊夢さんが諦めざるを得ないようにするんですっ!」
 「……止める?あなたがわたしを?」霊夢の声に怒気がこもる。「そんなの、不可能──」
 と、小鈴ちゃんが持っていた巻物を開いた──
 
 されど百鬼の列未だ尽きず
 黄泉の風なお吹き荒れ
 影は影を呼びて彷徨う
 いずこより来たりいずこへ帰すべきや
 名も無き妖は筆にも記されず
 絵巻の余白にすらその姿を許されぬ
 これはその者たちの物語
 絵師すら描くを拒んだ、終わりなき夜の残火なり

 
 「──変身!」
 眩い閃光と同時に、禍々しい風が小鈴ちゃんを中心に吹き荒れる。鈴音は吹き飛ばされ、霊夢は凛として小鈴ちゃんの前に立ち、わたしは帽子を手で押さえながら身をかがめた。
 立ち上る土埃がすべてを模糊にし、雨がまた鮮明にした。
 霊夢の前にいたのは、わたしがかつて対峙した、妖魔本に支配された小鈴ちゃんだった──

 『霊夢クラスタ③』

 わたしが暖簾の奥で発見したのは、一冊の記録だった。エッチな本や、エッチな店の情報を載せた本などに紛れて、それはあった。だれがなんのために、そんなものを置いたのかはわからない。少なくとも、小鈴ちゃんのお父さんやお母さんは無関係だろう。そして、その記録を猥褻書籍の中に隠したのは、小鈴ちゃんの性格を考えても正しい選択だ。小鈴ちゃんが卑猥な文章や絵に対してどんな感想を抱くか、なんて想像は彼女の誇りにかけてしないけど、少なくとも鍵付きの箱にしまっておくよりかは興味を抱かないと思う。小鈴ちゃんは、そういう娘だ。
 それは報告書のような形で纏められている、わたしがいままで引導を渡してきた人間たちの記録だった。
 わたしの、仕事の記録だった。
 直近の「塩屋敷の旦那」の件についての記録を眺めているうちに、目眩がした。わたしは正しいことをしている。その認識は、いまでも間違いない。わたしは人を、人の尊厳を、人の住む幻想郷を守り続けてきた。
 悪し様に書かれているその報告書には、わたしに殺された人たちの、遺族についても書かれていた。直感で理解した。小鈴ちゃんを拐かしたのは、彼らだと。わたしが暖簾の奥でこの記録を発見したのも、きっと偶然じゃない。わたしがこれを発見することを見越して、だれかがここに置いたのだ。
 ……鈴音とかいう娘だろうか。まあ、だれでもいい。時系列を鑑みても、小鈴ちゃんを拐った鈴音は、塩屋敷の旦那に関わりのある人物である可能性が高い。あそこの旦那は、よく鈴奈庵から本を借りていた。
 そこまでわかっても、すぐに調査に乗り出せなかったのは、柄にもなく落ち込んでしまったからだ。わたしの仕事を記録しているだれかがいる。小鈴ちゃんと関わっているうちに、あの娘はどこか抜けているところがあるから、自分を頼れる大人かなんかだと思っていたのかもしれない。
 そんなことはなかった。わたしはまだ子供で、大人──わたしの及ばぬ力を持つ者たちに良いように使われるだけの存在。でも、それが博麗霊夢の使命だと言うなら、いつも通りにやるしかない。
 魔理沙に慰められながら、その日は神社へ帰った。
 魔理沙がいなかったら、泣いていたかもしれない。
 あの記録のことが、ずっと胸に痞えている。まるで呪いみたいに。
 
 次の日、わたしは床にこびりついた血を調査すると言った。あれはたしかに人間の血だった。初めて見たときからわかっていた。ただし、人でありながら、人でなくなった者の血だった。あの血の持ち主は、きっと既に死んでいたのだろう。腐ったにおいがした。
 魔理沙が部屋の奥で、小鈴ちゃんのお母さんとなにか話していた。お母さんは鈴音を家に送るために、この空間までやって来たんだろう。そこで、小鈴ちゃんを拐った黒幕について知った。
 わたしに恨みを持つ人たち。既に人の姿をしてないが、人であり続ける人たち。お母さんは、わたしを傷つけまいとして、娘の安否を差し置いて口を噤んでいた。
 お母さんの好意に、わたしは甘えそうになっていた……いや、あれは本当に好意だったんだろうか。
 わたしという存在が幻想郷にとって必要で、そう知っていたから、危険な目に合わすまいと喋らなかったのではないか。
 自分の子供の命を無下にしてまでわたしを守ろうとしたのは、幻想郷の存続のためだったのではないか。
 考えても仕方のないこと、そして、本人には絶対に訊けない質問が頭の中を巡る。
 やがて、二人が奥から出てくる。
 わたしは意を決して言った。
 あの血は人のものだと。

 そうして、わたしは魔理沙を連れて、黒幕のいるであろう場所へ向かった。どうしてその場所がわかったのかは、わたしにもわからない。勘が冴えてたとか、あるいは、導かれていたのかも。連中の目的は、わたしへの復讐だから、辿り着けなければ意味がないし。
 魔理沙を連れて行ったのも……よくわからない。絶対に良くない方向へ行くはずなのに。いや、ひょっとしたら、彼奴にとってはまともな道へ進む転換点になったかもしれない。
 魔理沙はただの人間だ。
 道中、魔理沙の様子が何度もおかしくなった。襲われかけることもあった。あの常世に漂う瘴気が、魔理沙をおかしくしたのだ。魔理沙は呑気なものだったけど、それがわたしの気分を幾らか紛らわせた。この道を抜けた先にいる黒幕を相手に、どうすればいいか目標の定まっていないわたしに、少なくとも「魔理沙を守る」という指標をくれた。安心と同時に、苛立ちを覚える。こんな弱気なわたしが、わたしの中にいるだなんて。
 
 やがてたどり着いた場所には、化け物がいた。……いや、人間か。わたしに殺された人たちの遺族、大切な人……それらが融合した姿だ。その悍ましい姿は「おまえのせいでこうなったのだ」と主張するようだった。
 そんなわけないのに。わたしのせいだなんて、思い違いも甚だしい。わたしはただ、ルールに則っているだけ。死すべき者たちが死んだだけ。
 わたしは彼奴らを徹底的に叩きのめした。
 わたしは正しいことをしている。
 
 
 どれほどそうしていたかはわからない。気がつけば彼らは地面に倒れ伏していた。
 わたしはいつも通りに振る舞おうとしていた。
 いままで、わたしがそうしてきたことで、だれかに責められたことなどなかった。そもそも、わたしが悪いんじゃない。だれかが悪いんじゃない。
 そういうルールなのだ。
 魔理沙が怯えた表情で、わたしに飛びつく。
 彼奴を払いのけ、わたしは鈴音を標的に定める。
 一秒でもはやく、この時間を終わらせたかった。
 魔理沙がなにか言う。
 気がつけばお祓い棒を振り被っている。
 小鈴ちゃんが目の前にいて、わたしについてわかったようなことを言う。
 視界が光に満ち、次いで煙で満ち、現れたのは、妖魔本の力に取り憑かれた小鈴ちゃんだった。
 わたしは天を仰いだ。
 雨をより一層、強く感じる。まるで、礫の瀑布でも浴びているような気分だった。
 小鈴ちゃんが魔理沙の目の前でそんなことをしてしまったら、ああ──ここにはもう、救うべき人間などいない。
 
 
 無意識のうちに針を構えている。
 妖魔本に取り憑かれている小鈴ちゃんの背後から、夥しいほどの瘴気が溢れ、それが実態を伴って恐ろしい馬力でわたしに迫ってくる。
 霊夢、と、魔理沙がいつの間にか隣に立っている。加勢するぜ、とりあえずこいつらをなんとかしよう!
 曖昧に頷き、妖怪の群れの中に飛び込む。わたしは視界に入ったやつから適当に針を打ち込み、お札をぶつけ、必要とあらば蹴りを入れてやったりする。一匹一匹なら問題にならないけど、数が数だ。わたしの取り逃がした妖怪は、後ろから魔理沙が屠ってくれる。
 そうして道を切り開いて、小鈴ちゃんの前に立つ。彼女はまるで指揮者のように指を振り振りし、妖怪たちをけしかけて自分の身を守ろうとする。わたしは、やはり近づいてきたやつから叩きのめしてやる。
 何度も引き剥がされる。
 それでも前へ出る。
 小鈴ちゃんを殺すために。
 無尽蔵に顕れる妖怪たちの数も、疎らになってくる。
 あとは任せろ、と後ろから聞こえた。魔理沙が相手をしてくれているらしい。
 わたしは小鈴ちゃんの前に立った。
 「……そんな力を使ってまで、あの娘を守るの?」
 小鈴ちゃんはなにも言わなかった。妖魔本に侵された瞳が、わたしを優しく拒絶していた。
 お祓い棒を振りかざす。
 これで頭を叩き割る。
 そのはずだった。
 小鈴ちゃんのお母さんの顔が頭に思い浮かび、ほんの数秒、逡巡する。
 魔理沙の顔が思い浮かび、やっぱりやめようかな、などと躊躇う。わかっている。どうせ同じ轍を踏むことになる。
 どうしてこんなことをしているんだろうと、勝利は目前のはずなのに、なぜか走馬灯みたいに過去を振り返る。
 考えないようにしていたのに、いままでわたしがしてきた仕事のせいで遺された人たちの顔が浮かぶ。仕事を終えてからは、会ってすらない人たちの顔が。
 この先になにがある?小鈴ちゃんを殺したあとに……残るものってなに?小鈴ちゃんの両親はどう思う?
 いや、だれにどう思われるかは重要じゃない。重要なのは、ルールから逸脱した者を排除すること。
 視界がぼやけているけど、像ははっきりと結ばれている。小鈴ちゃんの無防備な頭は、まだそこにあるとわかる。
 振り被った腕も、もう疲れてきた。あとは振り下ろすだけだ。
 だから、そうした。
 お祓い棒が空を切る。いつもの手応えがない。袖で目の周りを拭い、しっかりと前を見た。
 「あっ、危ねーっ!」
 魔理沙が小鈴ちゃんを背中に抱えていた。どうやら、小鈴ちゃんは気絶しているらしい。
 「ちょっと……」言葉が続かない。口の端が上下を行ったり来たりし、なんとか出てきた言葉が、「なにしてるの、あんた……そんな目で見ないでよ」
 魔理沙もまた、自分の気持ちを上手く伝えられる言葉を探すみたいに中空を眺めたり、目をぱちぱちさせる。
 いつも、あんなにお喋りしてるのに。
 そうでもないか。たまに、お茶だけ飲んでさっさと帰るときもあるし、お茶ばっか飲んでずっと空でも眺めてるときもあるか。
 とにかく、魔理沙がそんなだと、わたしが悪いことをしている気分になる。
 でも、絶対に謝りたくない。だって、わたしは悪いことなんかしてないし。
 いつも通りを、こなしているだけだし。
 「おまえ」と、決然とした態度で魔理沙。「ずっと……ずっと、こんなことしてたのかよ?」
 わたしはわざとらしく首を傾げた。声を出すと、余計なところまで勘繰られそうだったから。
 「つまり、ずっと……人間が妖怪になったとき、こういうことをしてきたのかよ?」
 魔理沙の方は、勘繰られるのを気にしていない様子だった。
 わたしは、こんなことはずっとむかしから当たり前のようにやっている、という風に頷く。実際、当たり前のことだ。わたしにとっては。
 「例外は……ちくしょう、例外はないのかよ。おまえは、おまえは……だれも許さなかったのか?」
 「例外を認めたら、ルールは意味を為さなくなる」わたしは言った。「でも、でも……あ、いや、例外はないわ。だれだって殺す」
 そう、誰だって、ね。
 「くそ」魔理沙は吐き捨てるように言った。「おまえが殺してるのは、他のだれでもないよ。自分自身だ。おまえがおまえをいちばん殺してる」
 「……いつもやってきたことだし」
 「おまえの言う、いつも通りを繰り返した先に、いつもの景色はあるのかよ?」魔理沙の声に涙が混じる。「当たり前に繰り返してきた日々の先に、いつもみたいに平穏な景色が広がってんのか?」
 言葉に詰まる。
 いつもあんなにお喋りしてるのに。
 ここにはお茶もなければ、気の利いたお茶菓子もない。
 言葉の代わりなんか、なにもないのに。
 「霊夢……一人ぼっちで死ぬな」魔理沙の体が、わたしの体とぶつかる。小鈴ちゃんを背負っているから腕は使えないけど、抱きしめられているような気分になった。「人は簡単に死んじゃうんだぞ、体の話じゃなくて、心の話をしてるんだ!」
 まるで甘える猫のように、魔理沙が顎をわたしの肩に乗っける。
 救われたような気持ちで全身が満たされる。
 だから、わたしは言った。
 「ありがとう」
 こんなにも素直に感謝の気持ちを伝えられたのは、初めてだった。
 「ごめん」
 謝罪の意を伝えられたのも。
 「やっぱり、小鈴ちゃんは殺す」魔理沙を拒絶する。「邪魔するなら、あんたも殺す」
 魔理沙の表情が、数秒のうちに何度も入れ替わる。笑顔から怒り。怒りから悲しみへ。
 
 「要は、わたしにこれ以上、こんなことをして欲しくないってことでしょ。あんたは……なんか、恥ずかしいこと言って、いや、まあ、その、そういうことっていうのはわかるんだけどさ、ほら、それはあんたにとって都合のいいことであって……」
 「いいだろ!」青筋を立てながら魔理沙は叫んだ。「都合のいいこと言ってなにが悪いんだ、それが人間味ってもんだ!」
 「わたしに人間味がないって言いたいの?」
 「そりゃそうだ、意味わかんねーし!おめーは、殺さなきゃ、殺さなきゃって、なんでやりたくもねえことを自ら進んでやってんだよ?それが人間味なのかよ、お⁉︎」
 わたしは泡でも食ったようにあっちこっち向く。
 「都合の悪いことから逃げるのが人間だろーが!」魔理沙がとんでもないことを嘯く。「責任なんか犬にでも食わせろ、守るべきルールなんか砂をかけられちまえ、おまえが負ってる業なんか三歩下がって付いてきやがれ!それでだれかから責められても……ちくしょう、おまえは一人じゃないんだよ……」
 縺れた言葉の先に、魔理沙の感情が見える。
 「おまえを憎む連中がいるなら、慕う連中だっているぜ、だから……くそ、一人ぼっちで死ぬな……」
 魔理沙の声がひどく遠く聞こえる。
 けれど、それは価値観の相違のせいじゃない。確証はないけど、そう思う。
 いまはただ、遠いだけなのだ。あいつの言葉や心は、次第に近づいてくる。そうでなくても、待っててくれる。わたしの方から近づくのを。
 それがなんだか悲しく、嬉しかった。こんなに遠い場所にいたんだ。でも、これから近づけるものね。
 感情が言葉から意味を差っ引いたものだとしたら、魔理沙の声はわたしを繋ぎ止める鎖のようなものだった。

 
 「さっきから、くだらないロマンシスを披露しやがって……」
 と、別の方向から声が聞こえる。
 わたし達は同時に声の方を向いた。
 鈴音が指の隙間から酷く歪んだ眼を覗かせていた。
 「都合の悪いことから眼を背けた結果が、旦那さまの死じゃないのか?」鈴音が、わたしの斃した化け物の死骸を指差す。「都合の悪いことから逃げ続けたから、あの人たちを生み出したんじゃないのか?あの人たちでさえ、遺された人たちさえ死ななきゃならなかったんじゃないの⁉︎」
 「霊夢は進んでこんなことやってたわけじゃない」
 いや、と前に出る一触即発の魔理沙を手で制した。
 「まあ、進んでやったわけじゃないけど、躊躇いがなかったのも事実だわ」
 わたしの言葉を聞いて、鈴音よりも魔理沙が激昂する。わたしの襟を掴むけど、しかし、言葉が続かない。
 「わたしは里の人間が妖怪になることをいちばんの罪として裁いてきた」魔理沙の手を払う。「けど、人間が妖怪になるのが罪というわけじゃない」
 魔理沙がなにか言いたいことを思いついた様子だったけど、わたしは言葉を続けた。
 「わたしはこう解釈している」息を継ぐ。「罪とは妖怪になった人間を退治しないこと。その罰は……わからないけど、なんらかの形でわたしに降り掛かることになっている」
 なんだそりゃ、魔理沙は首を傾げた。が、口を開きかけたわたしを見て、自重する。
 「思えば、小鈴ちゃんが妖魔本の力を使ったのは今回が初めてじゃなかった」魔理沙が身を強張らせる。「あの子がその力を使い、飲み込まれたとき、わたしは小鈴ちゃんをしっかり退治すべきだった」
 わたしは鈴音をじっと睨みつけた。彼女には、話の行き着く先が見えているようだった。
 「でも……そうはしなかった。なにかと理由をつけてね。まだ完全に妖怪化していなかったとか、裏でだれかが手を引いていたとか、都合のいい理由を探して……きっと、そのときの罰を、わたしはいま、受けているんだわ」
 「罰?」ハッ、と鈴音は吐き捨てた。「その罰で、また人が殺された。キサマが受ける罰のせいで、罪のない人が死んだ!それのどこが、キサマの受ける罰なんだ!」
 「そもそも、人じゃねーだろ、あんなの!どこが人なんだよ⁉︎」わたしを擁護したいだけの魔理沙が叫ぶ。「……あっ⁉︎てか、霊夢は妖怪になった人間を殺してきたんだろ、そもそも人殺しなんかしてないじゃん!」
 「……人殺しだ、その巫女は!人間味を損なわせることが殺人の定義なら、あの人たちはあの姿になった時点で霊夢に殺されている!」
 「霊夢が人間を妖怪にしてるわけじゃねーだろ、このタコ!」
 「親しい人が妖怪になるのを、そう簡単に割り切れるわけないだろ。わたしにとっては、我々にとっては、あの巫女に殺された妖怪は人間だったんだーっ!」
 魔理沙が目を逸らす。彼奴はわたしを救いたいだけなのだ。
 「もういいから」わたしは魔理沙に言った。「あんたがあいつの言ってることを認めなければ、やっぱり、わたしはただの冷酷な殺人鬼ということになる」
 「お、おい……どういうことだよ、それは……」
 「……気にしないようにしていただけだった。妖怪を退治する。いつもやっていることと、考えないようにしていただけだった」
 わたしは息を継いだ。
 「わたしがしてきた仕事で死んだのは、間違いなく人間だった」
 違う、違う、違う──魔理沙の声が、またも遠くに聞こえる。
 罪、呪い、罰、ルール。
 世界は単純なようでいて、雁字搦めになっている。
 わたしのやらなきゃならないことは……たぶん、少しでも世界を単純にすること。いや、単純に見せかけること。
 世界の秩序を乱すやつはぶちのめす。
 人ならざるものはぶちのめす。
 博麗霊夢の人生に物語は必要ない。
 わたしのするべきことは、他者の紡ぐ物語を剪定すること。
 でも、もしも。わたしは震える口でどうにか言葉を紡ぐ。わたしが自分のするべきことに罪悪感を覚えたら。
 「あんたは……わたしを許してくれるの?」
 鈴音と視線が交わる。
 憎しみの炎の宿った双眸は、まるでわたしを品定めでもしているかのよう。
 「それは……」鈴音の声が、怒りか悲しみかで震えている。「……けっきょく、わたしのことも殺すけど、許してねってことか……?」
 鈴音は得心したようにため息を吐いた。自分の抱えてきた不安とか、悩みとか、そういうのごと外に追い出すようなため息だった。そして、彼奴にしか理解できない大切なものも吐き出していた。
 鈴音の口元が三日月のように歪む。顔を両手で多い、我々を濡らす雨を降らす天に向かって純然たる叫びをあげ、げらげら笑い、しくしく泣く。
 その瞬間、わたしには、鈴音がなにをするかわかってしまった。
 彼女の手が髪を結っているかんざしに伸びる。それを見た魔理沙が、一歩踏み締め、固まる。
 結われていた髪が宙を舞い、広がり、鈴音の体に降り注ぎ、彼奴の顔を覆った。それでも、鈴音の目はわたしを見つめていた。憎悪に燃える双眸でわたしを見つめていた。

 「人殺し!」

 叫ぶと同時に、鈴音はかんざしを自分の喉元に当てがい、深く突き立てた。悲鳴もあがらなかった。いや、あげられなかったのかもしれない。破れた喉の皮膚から血が滲み、胸元を伝い、着物をみるみる赤く染める。
 まるで歯車の狂ったからくり人形みたいなぎこちなさで、鈴音は天を見上げた。
 雨が引いていく。雲間から青空が覗き、光が差した。
 鈴音がかんざしを喉から引き抜くと、広がる空の青に対抗するように、彼女から赤が噴出する。
 紛れもない人間の証が、鈴音から抜け落ちていく。
 わたしは矢も盾もたまらず、腰を抜かした魔理沙を横切って鈴音に駆け寄っていた。
 彼女の頭を持ち上げ、背中を支える。鈴音はもう、どこも見ていなかった。
 鈴音はなにか言おうとしたが、血と咳に阻まれて終わる。手を伸ばそうとしたが、やはりどこにも届かなかった。

 優しかった旦那さま。
 怖くなってしまった旦那さま。
 粗相をしたわたしに仕置きをくれた。一晩中、朝まで。
 親のないわたしには、それがなによりも嬉しかったのです。
 旦那さま。
 いま一度、あなたから頂いたお名前に戻って、また会いに行きます。

 鈴音は、その酸鼻な光景とは裏腹に、穏やかに息を引き取った。
 「人間……だったのか?」
 いつの間にか隣に立っていた魔理沙が尋ねる。
 「だとしたら」ほとんど反射的にわたしは訊き返していた。「だとしたら、どうなるの」
 魔理沙は口を噤み、背中の小鈴ちゃんを背負い直す。
 もしも、とわたしは頭の中で思う。もしも鈴音が自分のことを人間だと思っていたなら、自ら命を絶ったりしなかっただろう。鈴音は、わたしを更なる呪いの深みへと堕とすために自殺したのだ。
 妖怪になった人間を見逃すことが、最大の罪。そして、その罪の罰を受けるのはわたし。
 鈴音はわたしに、自分を退治させないために自ら死を選んだのだ。『わたしが妖怪になった人間を退治しない限り、わたしが罰を受ける』
 鈴音はそう解釈した。
 魔理沙の中でも揺れているはず。鈴音が妖怪だったならば、それほど都合のいいこともない。親友のわたしが直接、手を下すことなく犯人が死滅し、呪いの連鎖が断ち切られたのだから。
 しかし。わたしは鈴音を地面に降ろした。鈴音は人間だった。紛れもなく、人間だった。
 人間としてわたしを憎み、人間のまま死んだ。それは最早、肉体の話ではない。魂の話だ。
 わたしが退治してきた妖怪にも、人間の魂を持ったまま妖怪になった者がいたかもしれない。そういう意味では、わたしは殺人鬼だ。
 込み上げてくるものを、どうにかして飲み込む。
 しかし、問題はまだ解決していない。
 
 頭の中ではずっと、どう魔理沙を言いくるめるか考えていた。
 わたしは、魔理沙に背負われている、気絶した小鈴ちゃんを見やった。
 「小鈴ちゃんは気絶してるの?」
 「おまえが逡巡している間にぶん殴ったんだよ」
 「どこを?」
 魔理沙は指で自分の頭をちょん、と指した。
 「記憶とか、都合よく失くしてないかしらね」
 「試す価値はあるな」
 「冗談よ」
 「小鈴ちゃんを殺すつもりはないってことか?」
 「……」
 「小鈴ちゃんが記憶を失くしていれば、殺す必要はないんだな?」
 魔理沙はおもむろに背負っていた小鈴ちゃんを地面に放った。
 「いや……その……」
 魔理沙が握りしめた拳を振り上げたので、わたしは思わず有段者の突きのような鋭さのタックルで彼奴を制した。わたし達は地面に伏し、派手に泥飛沫をあげた。
 「なにしてんの⁉︎」
 魔理沙の目は明らかに尋常じゃなかった。少なくとも、正常な人間のそれには見えなかった。
 ひょっとして、さっきまでわたしもこんな目をしてた?
 「おまえが、おまえがそんな目に遭うくらいなら、たんこぶの一つや二つ、安いもんだろ?」
 わたしに話しかけているようでもあったし、気絶している小鈴ちゃんに話しかけているようでもあった。
 違う。
 当たりどころが良ければ記憶喪失で済む、なんて都合のいい話を、魔理沙は本気で信じているわけじゃない。
 魔理沙はわたしの代わりに業を背負おうとしている。
 おまえに殺させるくらいなら、と魔理沙は目先で言う。
 魔理沙はわたしを押し除け、小鈴ちゃんに向かって拳を振り上げる。その手は、遠目に見ても震えていた。
 やめて、声に出そうとした。出なかった。
 止めようとした。体が動かなかった。
 「……魔理沙さん?」
 魔理沙の拳が空中で静止する。
 小鈴ちゃんが目を覚ましたからだ。

『霊夢クラスタ④』

 背後の壁を突き破って現れた妖魔本を手に取ったとき、わたしの頭に走馬灯のように記憶が蘇る。わたしはこの本を読んだことがある。
 眩いばかりの光が、わたしやあの化け物──それは大きな誤解だったんだけど──を包み込んだ。そこから先のことは、やっぱり覚えてない。
 気が付いたら、あの不気味な家が瓦礫の山に変わっていて、わたし、鈴音ちゃん、そしてあの化け物が風雨に晒されていた。
 「……いや、どういう状況っ⁉︎」
 思わずツッコんでしまったけど、膝を抱えていた鈴音ちゃんはそっぽを向いてしまった。化け物の方は無数の腕や足をイソギンチャクみたいに(本で読んで知った、海の生き物)くねくね動かし、なんだか楽しそうにしている。
 『君は霊夢と友達なんだ?』
 気さくに話しかけてくる化け物……化け物、化け物と呼び続けるのはなんだか申し訳ないから、ひと足先に、彼らからこのあと教えてもらった名前で呼ばせて貰おう。
 滅殺怨念呪縛さんが気さくに話しかけてくるから、わたしは思わず「はいっ!」と良い返事をしてしまった。
 『ふうん。まあ、そうだろうな』
 胴体から生えてる呪縛さんの顔の一つが、鈴音ちゃんの方を向く。鈴音ちゃんはそれを無視して、地面をじっと見つめていた。
 「あの!」わたしは声を張った。「ここはどこなんですか、あなた達はだれなんですか、わたしはどうなるんですか──」
 鈴音ちゃんが、呪縛さんに目配せをする。呪縛さんがいくつもの視線でそれに応じる。鈴音ちゃんは観念したようにため息を吐いた。
 「……わたし達は、霊夢に恨みを持つ者。彼奴によって家族を奪われた遺族、言わば、被害者の会みたいなもの」
 言葉の意味はわかるのに、言っていることがよくわからなかった。
 「霊夢さんが、あなた達の家族を……?」
 そんな馬鹿な、と言う前に、滅殺さんの胴体から頭がニョキニョキ生えてくる。
 
 わたしは息子を殺されました。
 ぼくはお母さんを。
 儂は大切な孫を。
 弟を。
 兄を。
 姉を。
 妹を。
 儀式と称し、彼奴はわたし達の宝物を奪い去ったのです。

 「……わたしは、旦那さまを」
 鈴音ちゃんがぽつりと呟き、記憶が蘇る。
 この子は、鈴音ちゃんは、亡くなった潮屋敷の旦那さまのところで働いていた小間使いの娘だ。
 「お姉ちゃんを攫ったのは、霊夢の知り合いだったから。それでいて、なんの力も持っていなかったから。あの白黒の魔法使いは強そうだったし」
 と、鈴音ちゃんは周囲を見渡した。
 「でも、それも違ったね。お姉ちゃんはわたし達の家を更地にするほどの力を持っていた」
 「え、えーと、それは」わたしは頭を下げた。「ご、ごめんなさい……ていうか、わたしがそんなことしたの?」
 鈴音ちゃん、そして滅殺さんの幾つもの顔が頷き、わたしは無数の肯定を一斉に浴びる。
 ふと、わたしが座っている場所の傍に、一つの巻物が置いてあることに気がついた。わたしはそれを手に持ち、題名を読み上げる。
 私家版百鬼夜行絵巻……
 『それを開いた瞬間に、君はまるで妖怪にでもなったみたいに、我々に襲いかかった。なんとか逃げ出したが』
 「わたしは、どうして正気に……?」
 「わたしの顔を見たら、眠ったの」と、鈴音ちゃん。「すっごく安心した表情でね」
 わたしは絵巻を見やった。
 この中には、わたしをわたしで無くす力が眠っている。わたしの意識をいっぺんに奪ってしまうほどのなにかが、この中に眠っている。
 と、先ほどの鈴音ちゃんたちの言葉が蘇る。
 霊夢さんは儀式と称して、妖怪になった人間を殺している。
 「……さっきまでのお姉ちゃん、まるで妖怪みたいだったよ」鈴音ちゃんが立ち上がり、わたしの方へ近づく。「いや、妖怪そのものだった」
 わたしは俯き、溢れ出る思考を否定する材料を探す。
 「お姉ちゃんは、最初から妖怪だったわけじゃないよね」 
 いつの間にか、目の前に鈴音ちゃんがいる。
 「お姉ちゃんが妖怪だとしたら……どうして霊夢に殺されずにいるの?」
 体がガクガク震えてるのは、なにも風雨の冷たさのせいだけではなかった。
 わたしが彼女たちの大切な人たちのように殺されなかったのは、きっと見逃されたからだ。鈴音ちゃん達の言ってることが本当だとしたら、わたしだけが生き残っているのはそういうことでしかない。それが現実。
 しかし、その現実を受け入れるには、状況が悪すぎる。
 霊夢さんに見逃されなかった人たちの遺族が目の前にいる。
 『霊夢にも人の心があったということだろう』滅殺さんが言った。『君は霊夢と親しかったんだろう。だからこそ、人質に選ばれたのだから』
 「霊夢さんは……わたしと親しいから、わたしを生かした?」
 そんな単純な理由で?
 失礼かも知らないけれど、霊夢さんがそんな理由でわたしを生かしたとは思えない。
 「言っちゃえば、わたしはこの妖魔本の力で幻想郷のパワーバランスに干渉しようとしたんです」わたしは立ち上がり、本の表紙を掌でパンっと叩いた。「霊夢さんと魔理沙さんみたいな、妖怪に対して一部の人間が突出した能力を持つことに疑問を抱いて……まあ、けっきょく有耶無耶になっちゃいましたけど、けっこう大それたことをやろうとしてたんですよ。そんなことする人間を、霊夢さんが……その、霊夢さんがあなた達の言うような人だとしたら、放っておかないと思うんです。つまり、退治されてると思うんですよ」
 『だから』と滅殺さん。『霊夢には人の心があったんだよ』
 「親しい人の咎は見逃し、我々のような関わりの薄い人間には思慮を欠く、そんな人の心がね」と、今度は鈴音ちゃん。
 『人間味というのはそういうものだ』
 「……やっぱり違いますよ」と、わたしは頑なに否定した。「いや、霊夢さんに人の心がないとか言うわけじゃないですよ。心があるからこそ、わたし達を公平に裁くべきじゃないですか」
 なにが裁きだ、と悪態を吐く鈴音ちゃんはこの際無視する。
 「つまり、霊夢さんがわたしを退治しなかったのは、他に理由があるはずですよ。例えば……」
 「それを知ってどうなるの?」
 鈴音ちゃんは射るような目つきでわたしを睨みつけた。
 「いや、その……裁かれる人とそうでない人たちを決めてるのは、本当に霊夢さんなのかなって」
 『おまえは霊夢を庇おうとしているな』
 滅殺さんに指摘され、そりゃそうじゃん、と思いつつも顔には出さないように努める。
 「つまり……霊夢を恨むのはお門違いだって言いたいの?」
 そうに決まっている、わたしは深く頷いた。
 「霊夢さんは操られてるんですよ、幻想郷のルールに、それを作った人たちに!」二人が顔を見合わせる。「霊夢さんは従わざるを得ないだけなんです!」
 『真の黒幕が別にいて、霊夢は実行役に過ぎないってことか?』
 そうに違いない!わたしは頭をぶんぶん振った。
 「だとしたら、尚のこと許し難い」
 鈴音ちゃんの応えに、わたしは言葉を失った。
 「お姉ちゃんのお母さんもね、同じようなことを言っていたよ……霊夢を恨むなって」
 鈴音ちゃんの声を通して、お母さんの言葉がわたしの胸を打つ。

 霊夢さんがあなた達の大事な人を殺したことと、霊夢さんがあなた達に復讐されることは正しい道理ではありません。
 わかりませんか、妖怪になった人は、既に人ではない。霊夢さんが殺したのは妖怪であって人間ではない。その事実を無視して尚、だれかを恨むと言うのであれば、対象は霊夢さんではなく、人を妖怪にした者であるべきです。
 あなた達は安易に憎しみを晴らすために、安易な敵を作り上げている。恨むならば、復讐するならば、人の敵たる妖怪を恨み、復讐なさい。
 けっきょく、あなた達には思慮が足らなかったから、歪な手段で溜飲を下げようとした。正しい考えを持っているのに、歪な手段に手を染めてしまったのです。
 霊夢さんは間違ってない。ましてや、小鈴があなた達の復讐に巻き込まれる道理などありません。
 
 「ほんとはね、お姉ちゃんのお母さんも、こっち側に取り込もうとしてたんだよ」一転して、鈴音ちゃんは落ち着いた様子になった。「小鈴お姉ちゃんが危険な目に遭えば、その元凶は霊夢にあるとお母さんは考える。霊夢に恨みを持つ者は、滅殺怨念呪縛と融合できる」
 『しかし』と滅殺さんが言葉を継いだ。『君のお母さんは聡明だった。子供に危険が迫ったら、盲目的に子供の身を案じると考えたわたしの考えが浅はかだと知った。君のお母さんは、君だけでなく、霊夢さえ守ろうとしたんだ』
 わたしは、わたしに「鈴音と関わるな」と言ったときのお母さんの心境を想い、胸を押さえた。
 「──ふざけやがって!」と、鈴音ちゃんはおもむろに地面を殴った。「あんなやつを守る必要なんてないっ!自分の娘が危険な目に遭っても同じことが言えるのかよ⁉︎」
 「……それが、わたしを攫った理由?」
 「そうさ、無関係な娘が危険な目に晒されれば、あの女も自分の言った言葉の無神経さに気付くだろうと思ったんだ!」鈴音ちゃんが腕を振り払うと、水飛沫が舞った。「言えたんだ、同じことが!霊夢に頼れば一日もかからずわたし達に辿り着いたはずなのに、お姉ちゃんを攫ってもう日付が変わったのに、まだ助けが来ない!」
 その事実が意味するところは、娘のわたしからしたら残酷なものだったけど、幻想郷に住む者としては納得の行くものだった。いや、納得せざるを得ない事実だった。
 わたしのお母さんは、わたしの身より幻想郷のことを憂いたのだ。霊夢さんのことを案じたのだ。
 わたしは──わたしの目から涙が零れ落ちる。その選択をするのに、どれほどの決心が要っただろう。わたしは、自分の命が親から軽視されているなどとは少しも思わなかった。お母さんは、正しいことをした。
 『君のお母さんは、幻想郷においてはただの一般人だ』と、滅殺さん。『そのお母さんが霊夢を守ったと鈴音から聞いて、わたしは思った。この世界は、どこまでも霊夢にとって都合のいい世界になっている。ある意味で、霊夢が実行役という考え方は正しいだろう。霊夢は、この世界の裏側で暗躍する存在にとって都合のいい役割を持つのだから』
 その存在の考えは、間接的にわたしを生かすことにもなった。つまり、わたしを生かすことが霊夢さんを生かすこと、延いては幻想郷を守ることになると考えたのだ。
 幻想郷は死ぬべきではない。
 「……そんな存在がいるっていうなら、霊夢さんに復讐をするのも間違いだってわかるはずじゃないですか!」
 『その存在は、間違いなく人間ではないだろう』と、わたしの訴えに答えたのは滅殺さんだった。『しかし、わたしと鈴音はただの人間だ。普通の人間が、霊夢のような力を持つ人間の裏で働く存在になにが出来る?』
 「……」
 わたしは、人間ならざる力を持って幻想郷を変えようとした『人間』だ。
 人間ならざる姿をしながら、人間以上の力を持たない彼らに出来ることをわたしは考えてみたが、碌な答えを出せなかった。それは、わたしが霊夢さんに退治されるべき存在になったことを意味しているのかもしれない。
 「ちょっと待って?」と、鈴音ちゃん。「滅殺怨念呪縛は霊夢を殺せるほどの力を持ってるんじゃないの?だって、どう見ても人間の格好じゃないし──」
 と、滅殺さんの腕がおもむろに伸び、鈴音ちゃんの腹に埋まった。鈴音ちゃんは肺に残っていた息をすべて吐き出し、その場にくず折れ、動かなくなった。
 『我々は人間の姿をしていないが、能力はほとんどただの人間だ』驚くわたしを尻目に、滅殺さんは喋る。『このように腕や顔を伸ばしたりする程度のことしかできない。風呂にも入らなければ我慢ならないし、食事を摂らなければ死ぬし、睡眠も必要だし、まあ、その……そういう行為だってしたいと感じる者もいるようだ』
 しかし、と滅殺さんは言葉を継いだ。
 『この姿は武器になる。霊夢によってこの姿にされ、霊夢によって凄惨に殺される。我々の肉体の強度は人間のそれと変わらない。いろいろ試してみたが、箪笥の角に小指をぶつければちゃんと痛いし、頬を抓れば夢と現の区別がちゃんとつく。霊夢に攻撃されれば、相応の傷を負い、血を流すだろう』
 その光景を想像して、涙が込み上げてくる。
 それこそが、復讐の手段なのだ。力を持たぬ人間にできる、力を持つ人間への復讐の手段。
 「鈴音は、わたし達の姿を見て、霊夢を殺せるほどの力を持っていると考えたのだろう』
 「……死ななくていいじゃないですか」わたしは言った。「霊夢さんは……たしかにだれかの言いなりかもしれないけど、あなた達を妖怪になった人の手から守ったんですよ。そこに感謝とか、ないんですか!」
 ない、と滅殺さんはにべもなく答えた。表面に出ているすべての頭が、一斉に首を横に振った。
 『むかし、疫病が人の里で流行った』幾つかの頭が胴体に引っ込み、老齢の顔が空を見上げた。『被害はそれほどじゃあなかったが、やっぱり大切な人を失った人がたくさんいた。疫病による死者もさることながら、後を追う者も多かった』
 なにも言うべきことがない。
 『死は死でしかない。疫病だろうが人の手だろうが、なにが死を齎したかは、遺された人たちに関係ない』
 しかし、と別の頭が胴体から生える。
 『安心して。霊夢が死ぬことはない。我々は霊夢には勝てないから』
 『ただ、霊夢には覚えてもらうだけ』別の頭が言う。『わたし達のような存在がいたということを』
 『おまえが我々を止めるというのなら、それも仕方がない』
 『わたし達は所詮、だれかが〇秒で考え、雑に生み出されたポッと出の存在』
 『ぼく達を殺そうと思えば、その本の力で出来るはず』
 出来るはずがなかった。
 この本の力を使うということは、わたしがさらに妖怪に近付くということ。いや、既に肩までどっぷり浸かってるのかもしれない。そうしたら、霊夢さんは今度こそわたしを殺さなきゃならないだろう。霊夢さんにそんなことをやらせたくない。
 滅殺さんを殺すというのは論外として、彼らの復讐を止めるという選択肢も、わたしには選びかねた。わたしが彼らの復讐を肯定したり否定したりするのは、同情とか善悪を冒涜しているのと同じことだ。
 わたしはけっきょく、第三者でしかない。
 幻想郷を取り巻くあらゆる事情に置いて行かれて、後から脚色された真実を知るだけの一般人。
 そんなふうに自分を評価する時間ではないのに、頭の中を支配しているのは場違いな劣等感だった。
 わたしは、幻想郷やそこに住む人たちのためになにも出来ないのか。
 わたしと霊夢さんたちの間には、まだ境界線が引かれているのか。
 そんなわけない。わたしはあの夜のことを思い出していた。神社で開かれた、人妖入り混じった賑やかな宴会のことを。
 あの時間には、人も妖怪もなかった。人と妖怪の間に隔てりはなかってし、妖怪と妖怪、人間と人間の間にもそんなものはなかったじゃないか。
 それまで遠かった霊夢さんや魔理沙さんの背中が近づいて見えたのは、あの夜からだったじゃないか。
 「……決闘」手繰り寄せた記憶から、わたしは突破口を見出そうとしていた。「弾幕での決闘はどうです。あれなら、傷つくことはあっても死ぬことはないですよ!」
 だんまく、と滅殺さん達は口にした。弾幕?だれか知ってる?
 『ああ、あれか。前に鈴音が話してくれたことがある』
 「そう、きっとそれです!決闘には実力もクソも……いや、実力差はあるかもだけど、次がありますから!それに、例え負けてもあなた達の想いは伝わるんじゃないかな!」
 『却下』
 「どうして!」
 『きみはその、弾幕とやらの出し方を知っているのか』
 「……」
 『我々も知らない。それに、我々は霊夢に負けるのではない。霊夢にただ一方的に殺される。勝敗は重要じゃない』
 「じゃ、じゃあ……」
 わたしは矢継ぎ早に代替案をあげていった。霊夢さんがだれも殺さなくていい方法。滅殺さんが死ななくて済む方法を。どれだけ稚拙でも、例え自分の中にその方法が誤りだと指摘できる材料があったとしても、声を大にして伝えた。
 滅殺さんはそのすべてに首を振った。ひょっとしたら、わたしの唱えたやり方にすべての問題を解決する方法があったかもしれない。しかし、滅殺さんはすでに腹を括っているのだ。
 霊夢さんに呪いを。
 一生消えないトラウマという名の呪いを残すということは、彼らの中で確定事項なのだ。
 わたしは、またあの夜のことを思い出した。人間が妖怪といっしょに酒を酌み交わすなんて、よくよく考えてみれば異常事態だ。わたしはその状況を、自分が認められたと喜んだ。
 わたしの価値観も狂っていたということなのだろうか。人間が妖怪と酒を飲む。霊夢さんにとって……いや、ひょっとしたら、あの場にいた人たちにとって、妖怪になった人間はすべからく殺されるべしという考えを持っているのかもしれない。あの宴会に参加したということは、それを看過する側に立ったということなのではないか。
 だから、滅殺さんを止められる方法を思いつかないのではないか。
 悔しさで涙が溢れた。かと言って、だれかを恨む気にはならない。だれが悪いのか、検討もつかないからだ。
 『もういいよ』滅殺さんはおもむろに口走った。『この先、我々がどうなっても、きみのせいじゃない。それに……もういいんだ』
 滅殺さんは顔を一つだけ浮かべていたが、まるですべての滅殺さんの総意であるかのような、諦めの表情を浮かべていた。
 ひょっとして、とわたしは思った。霊夢さんも、こんな気持ちなのかもしれない。幻想郷という世界の振る舞いに右往左往させられて、悩みに悩んだ挙句、諦めてしまったのかもしれない。どうしようもないから、最後の手段として、妖怪になった人たちを退治しているのかもしれない。
 滅殺さんにしても、きっと同じことなのだ。最初は霊夢さんを恨んでなんかいなかった。しかし、やり場のない怒りのぶつける場所を探しているうちに、どうしようもないことがわかった。わかるのはただ一つだけ。霊夢さんが大切な人の命を奪ったということ。
 「ごめんなさい」
 わたしは頭を下げた。それは滅殺さん達の優しさを傷つける行為だったかもしれないけど、そうせずにはいられなかった。
 『謝らないでくれ』と、滅殺さんは冬の陽だまりのように暖かい声で言ってくれた。『わたしのようなポッと出の、だれかの邪な感情によって生み出された、この世界に相応しくない歪な存在が、真っ当に生きてきたきみを勝手に巻き込んだんだ。きみはなにも悪くない』
 我々に出来るのは、滅殺さんは目を伏せた。幻想郷から潔く消えることだけなのだ。
 幻想郷という世界における、正しい方法で。
 『だから、邪魔しないで欲しいんだ』滅殺さんは決然として言った。『わたしや、鈴音のやることを』
 頷く以外、なにが出来ただろう。いや、頷く以外に出来たこともあったのかもしれない。
 しかし、すべての問題を解決できるどんな完璧な方法があっても、彼らの気持ちを変えることは出来なかっただろう。
 だから、見守ることにした。彼らと霊夢さんの戦いを。
 滅殺さんの顔が一つ一つ破壊されるのを遠目に見る。まるで爆発でも起こったかのように、霊夢さんと滅殺さんの間で血煙があがる。
 さっきまで言葉を交わしていた人たちの、明確な死。
 吐き気が込み上げそうになる。
 滅殺さんたちが「呪い」と自称するこの自傷行為は、しかし、霊夢さんへの効果は薄いみたいだった。霊夢さんは淡々と、まるでいつもやってきたこととばかりに、滅殺さんへ攻撃を加える。血煙があがり、細い糸のような赤黒いなにかが飛散する。霊夢さんはそれをもろともしない。
 永遠に終わらない、真っ暗闇に続く螺旋階段を降りているような気分だった。霊夢さんだけが、いつもいる場所に留まっているように見えた。
 「ん、ん……」と、気絶していた鈴音ちゃんが、わたしの肩の上で目を覚ました。「お、お姉ちゃん……?」
 わたしは咄嗟に彼女の前に立ち塞がり、あっちで繰り広げられる酸鼻な光景から遠ざけようとした。が、鈴音ちゃんはその幼い体からは想像も出来ないほどの力で、わたしの体を退けた。
 「なに、あれ……」いま尚、ボロボロにされる滅殺さんを見て鈴音ちゃんが嘆く。「一方的じゃない……」
 「待って!」
 駆け出そうとする鈴音ちゃんの手を掴む。鈴音ちゃんが恐ろしいほどの憎悪に満ちた表情で振り返り、わたしは思わずその手を取りこぼしそうになる。
 「聞いてた話と違う!あいつらは、霊夢を殺せるって言うから……!」
 滅殺さんの動きが鈍くなってゆく。
 視界のすべてを覆うほどの血飛沫が舞うと、思わず全身の力が弛緩してしまい、鈴音ちゃんの脱出を許してしまう。
 わたしはまた手を伸ばしたが、彼女はすでに手に負えない距離にいた。
 鈴音ちゃんは振り返らずに、あっちの方へ行ってしまった。
 わたしが決して介入できない世界へ。
 霊夢さんだけが囚われている因果の中へ。
 わたしは見送ることしか出来なかった。体を動かせなかった。滅殺さんの意思を尊重したかったわけじゃない。それよりも、恐怖や嫌悪感が勝ったのだ。
 
 滅殺さんが地面に突っ伏し、それを見下ろす霊夢さんと言う構図がしばらく続いた。その光景は紛れもなく、事件の終結を意味していた。
 霊夢さんはしばらく放心したあと、鈴音ちゃんの方を見やった。
 反射的に体が動く。
 どう走ったのか自分でもさっぱりわからないけど、わたしは鈴音ちゃんの前に立ち、霊夢さんの攻撃を代わりに受け止めていた。
 わたしが喋るほどに、霊夢さんの表情が険しくなっていく。怒りや悲しみで攪拌された感情がこっちにも伝わってくるようだった。
 わたしが霊夢さんを止めた理由。もちろん、口走った通りでもあるのだけれど、それだけではなかった。

 霊夢さん。
 鈴音ちゃんは、わたしにとって初めて、自分の力だけで守れた人なんです。鈴音ちゃんを襲ってたところを、痴漢の頭を椅子でぶん殴って。
 無論、あれが鈴音ちゃんの作戦だったのは承知してます。
 でも、あのとき、鈴音ちゃんは本当に困ってるように見えたんです。だから、助けなきゃって思って、無我夢中だったんです。
 今度もそうなんです。
 霊夢さんと、鈴音ちゃんを守りたい。
 そのためなら、この本を使うことも躊躇いません。
 だから、見ててください。わたしの──
 
 「──変身!」
 わたしは妖魔本を開いた。
 


 振り被った魔理沙さんの拳は、わたしの敗北を表していた。拳の中にはあの……八卦炉が握り締められている。どうやら、わたしはあれで殺されるらしかった……って、なにっ⁉︎
 「わ、わたし、負けちゃったんですか⁉︎」
 目を剥く魔理沙さんを下から水溜まりの中に突き落とす。周囲をキョロキョロ見渡すと、地面に顔を突っ伏す鈴音ちゃんを見つけた。
 「ああ、鈴音ちゃん!」
 体を起こし、彼女へ駆け寄った。丸まった背中に手で触れるけど、反応はない。鈴音ちゃんの頭を手で持ち上げる。
 絶句した。喉元から胸へ、胸からお腹へ、鈴音ちゃんは乾いた血の衣を纏っている。祈るように握りしめられた手からは、かんざしの先っぽが覗いていた。
 鈴音ちゃんは、自ら死ぬことを選んだのだ。それがどういう経緯かはわからないし、わからないといけないことだとしても、わかりたくなかった。知ったら、だれかを恨まなければいけなくなる。そんな気がした。
 
 守れなかったんだ。鈴音ちゃんを、それから、霊夢さんを。
 事態は感傷に浸ることを許してはくれなかった。背中を向けていてもわかるほどの光が、わたしの視界を半分ほど照らした。
 振り返ると、わたしの前に霊夢さんが立っていた。霊夢さんの背中から覗き込むと、魔理沙さんがミニ八卦路をこちらに向けているのがわかった。
 「どけよ」怒気を孕んだ魔理沙さんの声は、霊夢さんに向けられていた。「なんなんだよ、おまえは」
 「あ、あの、わたし……」
 「そこにいて」霊夢さんは背中越しに言った。
 「あ?」返事をしたのは魔理沙さんだった。声は不気味に笑いを含んでいた。「いいからさ……どけって、わたしがやるって」
 「れ、霊夢さんっ!」
 一瞬、視界が光で満たされたかと思うと、わたしは反射的に瞼を降ろし、身を捩った。体のどこも痛くなかった。薄目を開け、なにが起こったのか確かめる。魔理沙さんの構えた八卦路が煙を噴いていること以外、なにも変わったことは起きていなかった。
 「おまえがやるくらいなら、わたしがやるって言ってるんだ」
 霊夢さんの表情は相変わらず伺えない。魔理沙さんは、平静を装おうとして、大失敗していた。
 わたしを殺そうとしている。それはもう、疑いの余地もないほどに。
 対して霊夢さんの背中からは、とても優しい温もりを感じていた。だけど……だけどその温もりは、霊夢さんが自分の大切なものを犠牲にして発しているような、そんな温もりだった。
 二人のうち、どちらかが悪いわけじゃない。そんなのは、わたしに決められることじゃない。わたしが言うのも烏滸がましいことだと思うけど、二人にこんな想いをさせている、もっと悪いなにかがいるのだと確信させられる。
 二人は、その存在に気がついている。
 だけど、二人は自分でもどうしようもないと言うことがわかっているから、自分たちの間で出来ることをやろうとしている。
 そして……それがきっと、わたしを殺すということなのだ。ひょっとしたら、わたしはわたしの死を受け入れるべきなのかもしれない。
 だけど、霊夢さんの背中も、魔理沙さんの眼差しも、そんなことを許してくれそうにはなくて。きっと、わたしが自分で死ぬことを選んだら、二人は必死なって止めてくれる。そんな気がした。
 わたしが死ねば、二人はもういつも通りじゃいられなくなる。それは、わたしが死ぬよりもよっぽど悲しいことなんじゃないか。
 魔理沙さんはこの世界における過ちを正そうとして、自らそれよりも大きな過ちを犯そうとしている。霊夢さんはそれを止めようとしている。
 
 「……なんで、あんたが小鈴ちゃんを殺すの」
 霊夢さんは魔理沙さんから目を逸らさずに尋ねた。
 「おまえが言ったんだぜ。小鈴ちゃんを生かしたことで、今回みたいなことが起きたんだって。これは、小鈴ちゃんを生かしたことへの罰なんだろ?」霊夢さんは返事もせず、頷くことさえしなかった。「小鈴ちゃんが生きてるせいでまたこんなことが起こるってんなら、やっちまうしかないだろ!」
 「だから、なんであんたがやるのよ」魔理沙さんが口ごもる。「え、なに?」
 「おまえがだれかを殺してるところなんか見たくないからだよ!」
 「そんなの、わたしだって嫌に決まってるでしょ⁉︎」
 霊夢さんが言うと、静寂が場を支配した。あまりにも居た堪れない、気まずい沈黙だった。思わず声をかけてしまおうかと考えたほどだった。
 「なんでわたしがダメで、あんたがいいのよ⁉︎あんたが小鈴ちゃんを……その……」
 霊夢さんはわたしを気まずそうに振り返った。わたしとしては、確信めいた表情で頷いてあげるほかない。そうすると霊夢さんは魔理沙さんに向き直った。
 「えっと……あんたが小鈴ちゃんを殺そうとしてるのを見て、わかったから。わたしが異常だったんだって!」
 魔理沙さんはなにも言えなかった。
 「あんただって、自分を殺そうとしてる。それも、わたしのためにね。そんな姿、わたしだって見たかないわよ!」
 魔理沙さんにとって重要なのは、霊夢さんにその自覚がなかったことだ。自分の心を殺している。霊夢さんはそのことに気づかないまま、この世界を救っていた。
 わたしは霊夢さんに気がついてもらうためにここに連れてこられたのではないか、そんなふうに思った。ふと、鈴音ちゃんや滅殺さんの亡骸を見やる。彼らが想定していたやり方とは違えど、霊夢さんはトラウマを負った。それはきっと呪いに近しいもの。いや、そんなふうに呼ぶのは、命を賭した彼らに失礼だ。
 彼らの死は呪いなどではなく、きっと、霊夢さんにとって救済になったのではないか。自分の心を取り戻すという救済、その一歩を踏み出すきっかけになったはずだ。そして、その一歩はいずれ、死んでしまった滅殺さんや鈴音ちゃんを救う一歩にもなる。
 でなければ、霊夢さんと魔理沙さんが抱き合いながら流す涙を見て、これほど安心するはずがない。

 「ちくしょう……ちくしょう、おまえだって、初めからそんなじゃなかったはずだ。そんなことを続けてて、心が無事であるはずがないんだ」魔理沙さんは霊夢さんの背中を何度も撫でた。「悲しいことは悲しいままで良いんだよ。慣れるべきじゃないんだ」
 霊夢さんはなにも言わず、魔理沙さんの胸の中で声を押し殺していた。
 わたしに出来ることはなかった。いまなら、どんな結果でも受け入れられる気がする。
 「小鈴ちゃん」
 そんなことを考えていたら、まるで思考を読まれたみたいに魔理沙さんに呼ばれてしまった。
 「すまなかった」
 その言葉を聞いた瞬間、わたしは二人のハグを突き破る勢いで突進した。わたし達はもんどり打って泥の上に倒れ込み、もみくちゃになった。
 いったい、わたしにだれを許せると言うのだろう?
 わたしは許されなくたっていい。やっぱり殺してしまおうと心変わりされたって、文句の一つも出やしない。
 だって、きっと、二人の苦悩はわたしが元凶だから。思うがままにそう伝えた。わたしを許さなくても構わない、と。
 二人は顔を見合わせ、それからそれぞれわたしの顔を手のひらで張り、脳天に拳骨を振り下ろした。
 「もういいんだよ」拳骨の威力と反対に、魔理沙さんの声は優しかった。「だれもおまえを殺さない」
 「納得がいかないようなら説明してあげるけど」と、頬に残る熱とは裏腹に霊夢さんの声は冷たかった。「あなたを許すわけじゃない」
 頬の熱がスーッと引いていくようだった。
 「わたしも」それから、と霊夢さんは魔理沙さんを顎でしゃくった。「こいつも、あなたを殺したくないだけ。これ以上に説明が必要?」
 魔理沙さんはバツが悪そうに帽子を目深く被った。
 そんな言葉だけで済ませられるほど単純な話じゃないのはわかっている。なぜなら、滅殺さんたちは死んで、わたしは生きている。不平等とか、不公平とか、そんな言葉が頭の中をぐるぐる回っている。
 けれど、口にするのは憚られた。不公平で不平等なのは、この二人が何よりも理解しているはずなのだ。
 わたしを生かすこと。わたしはやっと、死んで行った彼らの言う、呪いの本質を理解したような気がした。わたしが生きていることそのものが、この世界の歪みなのだ。霊夢さんや魔理沙さんは、自分の都合のいい人たちを生かす。それは、歪みを見逃すと言うこと。
 二人はそうやって『異変』を解決してきた。幻想郷に多大なる影響を与える事象だけを排除して、軽微なものは見逃してきた。独善的と言えばそうだ。
 わたしこそが『呪い』。そして、自分で言うのはやはり烏滸がましいことだけど『救済』でもあるんじゃないか。わたしが生きていることは幻想郷にとって歪みだけど、霊夢さんや魔理沙さんにとっては……。
 けっきょくのところ、正しいのか正しくないのかは、わからない。わからないままで良いとは思わないけど、口を出すべきとも思えなかった。わたしとしては、これ以上、霊夢さんや魔理沙さんに辛い想いをしてほしくなかった。それこそ独善的だけど、いま生きている人たちに嫌な想いをさせたくなかった。

 だから、わたしは頷くしかなかった。
 「それにね、小鈴ちゃんには貸しがあるから」
 わたしは魔理沙さんに視線を向けたが、彼女も霊夢さんがなにを言っているのかわからないみたいだった。
 「鈴奈庵で借りた本、一冊だけ見当たらなくて、まだ返せてないのよ」
 記憶力には自信がある。霊夢さんに貸し出した本は、ぜんぶ返してもらっているはずだ。霊夢さんに貸しなどない。
 「それを返すまでは……だから、小鈴ちゃんを退治しない。借りたものを返さないのは……人として、どうかと思うから」
 魔理沙さんは、なにも言うな、とわたしに視線だけで伝えた。
 なにか言えるはずがない。これほど暖かい言葉を、わたしは霊夢さんから聞いたことがなかった。
 その本は、ひょっとしたら永遠に帰って来ないかもしれない。貸本屋の娘として、それは看過し難いことだった。
 だから、わたしはこう答えた。
 「待ってます、その本が返ってくるのを」
 
 『霊夢クラスタ⑤』

 「小鈴⁉︎」お母さんは小鈴ちゃんを抱きしめ、何度も、よかった、と耳元でひとりごち、それから小鈴ちゃんの頬を何度も平手で打った。「霊夢さんや魔理沙さんの手を煩わせて……お二人に謝りなさいっ!」
 「いや、その、いいんで」わたしは霊夢に目配せをした。「いいよな、別に気にしてないよな?」
 「これが仕事ですから」と、霊夢はにべもなく言った。「どうか、お気になさらず」
 なんだか出し抜かれたような気分になったが、お母さんが泣きながら小鈴ちゃんを抱きしめるのを見るにつけても、ようやく解放されたのだと言う安心感に全身を包まれる。我々は小鈴ちゃんのお母さんに別れを告げ、鈴奈庵から離れた。

 帰り道、わたしと霊夢は少しも口を聞かなかった。喋り続けてたのは小鈴ちゃんだけだ。
 結果的にそうならなかっただけで、自分が殺さずに済んだ人間相手になにを話せばいいのかわからなかった。霊夢もそんな心境だったのかもしれないし、小鈴ちゃんはそんな我々の気持ちを汲んでくれていたのかもしれない。小鈴ちゃんは三日前に食った晩飯のこととか、河原石を持ち上げたら多種多様な虫がいたとか、阿求が二週間ぶりに宿便の苦しみから解放されたとか、毒にも薬にもならない話を喋り続けた。
 行きの道のりで感じた、霊夢に対する憎しみだとか、八つ当たりのような感情はどこにもなかった。わたし達は粛々と、日常とそれを隔てる壁を超えた。
 気がつけば、人里に戻っていた。
 そこからは、だれも喋らなくなった。小鈴ちゃんの、阿求がゴキブリに這われて早朝に目を覚ました話は気になったけど、だれも続きを促したりはしなかった。
 黙々と、鈴奈庵まで歩いた。ぜんぜん気まずくなかった。日常の延長のような時間だった。
 我々を現実に引き戻したのは、小鈴ちゃんのお母さんだった。彼女を抱きしめ、頬を張る音で目が覚めた。そうか、わたしはさっきまで非日常の中にいたんだ。
 霊夢は──慣れてそうだった。それこそ、日常の延長でしかないみたいに、一仕事を終えて一杯やってくか、程度の感慨しかないみたいだった。
 鈴奈庵から離れるとの、わたしはふと足を止めた。それに気がつくと、霊夢も立ち止まって振り返った。
 「魔理沙?」
 わたしは鈴奈庵の方を見ていた。店先で、お母さんが小鈴ちゃんを抱きしめている。
 「なあ、霊夢」返事はない。「この件、なんにも解決はしちゃいない」 
 永遠とも思えるほどの間のあと、霊夢は、そうね、と答えた。
 「でも、わたし達にはどうしようもない」わたしは言った。「なにか……なにか変わったのか。おまえはきっと、これからも……同じことを繰り返すんだろ」
 霊夢にとって聞かれたくないことだったかもしれない。それでも、彼奴と関わり続けるなら避けては通れない質問だった。
 「小鈴ちゃんを殺さなかったのは、予防策でしかない」霊夢は事務的に答えた。無理してそうしているようにも思えたが。「あの怪物や、鈴音が死んだのを良しとするのは、彼奴らの死を悲しむ人たちがもういなさそうだったから。もしも小鈴ちゃんを殺したら、あの子の両親を発端に、今回みたいなことが起こる可能性があった」
 「小鈴ちゃんを退治しなかった理由は、それだけじゃないだろ?」
 期待を込めてそう言ったが、わたしにとって重要なのは、ひょっとしたらそれだけだったのかもしれない。
 「魔理沙、あんたがけっきょく小鈴ちゃんを殺せなかったのも、同じ理由なんじゃないの?」
 わたしはこの世のすべてから目を逸らした。そのつもりだったのに、視界の端に小鈴ちゃんのお父さんが映り込む。
 小鈴ちゃんのお父さんはなにも知らずに、ずっと小鈴ちゃんのことを探し続けていたのだ。
 お父さんは小鈴ちゃんの姿を認めると、小鈴ちゃんをひしと抱きしめ、静止画のように動かなくなった。
 わたしはその光景を、まるで魂が抜け落ちたみたいに眺めていた。
 「あの子は相変わらず危険人物。あの本が、どうしてあの子の手に渡ったかも、けっきょくわかってないしね」
 わたしは返事をしない。
 お父さんは小鈴ちゃんを抱きしめている。
 「……ま、あれだけ心配してくれる人が身近にいたら、そうそう最悪な展開は起こらないでしょうけど」
 霊夢の方をちらりと見る。彼奴は、お父さんやお母さんに抱きしめられる小鈴ちゃんの様子を、どこか寂しげに眺めていた。
 「おまえは……」
 言葉が喉元まで出なかったが、飲み込むことにした。その代わり、別の言葉を探した。
 「霊夢、おまえにもいるだろ」
 霊夢は本居一家を真っ直ぐに見つめていた。
 「おまえはたくさんの人に慕われてるだろ」
 「どうかしら」霊夢は小さく口を動かした。「必要だから守られてるだけじゃない」
 こいつの口からこんなに寂しい言葉を聞くとは思っていなかったので、つい身構えてしまった。
 「今回の事件の黒幕……つまり、あの人たちをあんなふうに変えてしまったやつのこと、けっきょくわかんなかったけど、悪意を感じなかった」
 「それは……」口の中で言葉を取っ替え引っ替えする。「勘か?」
 「わたしにとって必要なことだから、お膳立てしてくれた」霊夢は返事をせずに続けた。「そういうのって、今回が初めてじゃないし」
 「お膳立てで、どうしてああ言うことになるんだよ?」
 「さあ」霊夢は声から感情を殺した。「わたしに怨みを持つ人がたくさんいて、一人ずつ対処させてたらたいへんだから、一纏めにしてくれたとか」
 「……」
 思い返してみると、わたしもやつらに取り込まれかけた瞬間があった。あの常世へ至る道のりで、わたしはほんの些細なことから霊夢のことを怨みそうになった。あれは、霊夢の言う黒幕が、あの人間の集合体にわたしを取り込もうとしたのでは……?
 いや、それでは霊夢の言うことと矛盾する。霊夢は、黒幕に悪意などないと言っていた。怨みを持たないわたしを霊夢に殺させる。それは紛れもない悪意だ。霊夢がわたしを殺す道理など──
 全身を悪寒に覆われた。
 小鈴ちゃんに謝りたくて仕方がない、そんな衝動に駆られた。
 わたしが霊夢に殺される道理はある。
 わたしは、霧雨魔理沙は本物の魔法使いになりたい。
 人智を超えた力を身に付けたい。
 霊夢は……おそらく、この事件が起こる以前から、わたしのこともマークしていたはずだ。
 黒幕も当然、そのことを知っていた。
 霧雨魔理沙はこの世界のルールに反している。
 そもそも、霊夢の言う黒幕の本命は、そっちにあったんじゃないか。
 小鈴ちゃんと、わたし。いずれ人智を超えた力を身につけるから、霊夢に殺されるべき存在としてあの空間へ招かれた。思えば、小鈴ちゃんが事件に巻き込まれたのも、そのせいなんではないか。
 黒幕は霊夢を慮り、彼奴の人生の弊害を一纏めにしようとした。
 しかし、霊夢はわたしや小鈴ちゃんを殺さなかった。
 それは、霊夢の苦悩が続くことを意味している。
 「霊夢……!」
 わたしの声に、彼奴は反応しなかった。聞こえなかったのか、それとも、彼奴もわたしが察したことを察して、言葉を探している最中なのか。
 おまえは……またそうやって、孤独でいるつもりなのか?本当は、本当は、わたしに知ってもらいたくて、あの空間にいっしょに行ったんじゃないのか?
 なあ、わたしは言いたかった。これからも、わたしはおまえのそばにいていいのか。わたしは、わたしの選んだ道の先に理不尽な死があっても構いやしない。でも、おまえに殺されるのは、おまえに殺させるのだけは……!

 「魔理沙」
 霊夢がおもむろに口を開いた。その声はまるで冬の陽だまりみたいに優しかったが、それはわたしの願望かもしれなかった。
 「……あんたも、たまには親に顔でも見せてやりなさいよ」
 なにを言えばいいのか、皆目わからない。打算込みでなにかを言おうとしている自分が犬畜生に思えた。
 風が吹いた。春の生き別れの兄弟のような、温かくもあり、冷たくもある風だった。
 わたしもまた、呪われる。
 わたしもまた、苦しみを選ぶ。
 風がわたし達の間にある余分なものをすべて運んでしまったあとに、
 「うるせェよ……」




 
小鈴ちゃんが痴漢を退治する話を書こー^_−☆と書き出したらなんだかとっ散らかってしまい、なんですか、これは。
evil_De_Lorean
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罪や呪いの解釈がえげつなくくて面白かったです。
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まず、鈴奈庵という作品に現代になって正面から取り組んでいること自体をとても嬉しく感じました。なるほどこういう解釈を取っているのかと端々に感じられ、作者様の考えがどんどん伝わってくるようで、面白く読むことができました。
次に、作中に起こった出来事に対して説明がしっかりとなされていたのが良かったと思います。少し冗長かなと思わないでもないですが、突飛な出来事に対して責任を負っている書き方に大変好感を覚えました。良かったと思います。
グロテクスさにしろ、オリキャラにしろ、そこまで気にすることは無かった内容と思いましたので、逆にそこにしっかり注意書きをするのも真摯で大変良く思えました。

本作の肝となる霊夢の立場と、霊夢の都合が良いように殺す相手を選んでいるという点については個人的にはあまり腑に落ちませんでした。しかしながらこのような捉え方はある種自然ではあるし、当作品では分量を使って説得力を持って書かれているとも感じましたので、全体としては良かったと思います。
一方、あくまで個人的にではあるのですが、惜しいと思った点があります。作中では「ルールや都合で霊夢に殺された人間」として敵が設定されていたのですが、原作中における「それら」は「あくまで妖怪」だと思いますので、その点に触れず霊夢が人間を滅して~という文脈が主軸となって語られていたのに違和感を覚えました(とはいえ、じゃあ別の文脈を入れるとなると話の軸がぶれてしまうので、これは本当に単なる感想でしかないのですが……)

また、霊夢にしろ小鈴にしろ原作の延長線上(の、作者様の解釈)で描かれていて違和感はなかったのですが、魔理沙だけ口調といい動きといい独自味が強くそこも違和感を覚えました。もちろんこれもあくまで個人的にではあるのですが……特に終盤などは突然原作にないような魔理沙の妖怪化を霊夢がマークしている・霊夢に殺される殺されない/親がどうのという話が出てきて、急に独自の味が染み出てきてかみ合わせが悪い読み味だなと感じました(しかしやはり、作者様の書きたい文脈や、原作に正面から向き合った結果だとも感じましたので、全体としては“良かった”と思いました)

令和のこの時代に鈴奈庵の延長線の話を長い文量で読めてよかったです。原作に真摯に向き合っているところが大変好きでした。
有難う御座いました。
4.90東ノ目削除
鈴奈庵を元祖として智霊奇伝でも触れられている「霊夢という少女に妖怪退治というともすれば殺人になりかねない責務を負わせていることへの是非」という問いは二次創作の題材として人気な一方で、正直なところ名作を作りづらい題材と考えていました(口の悪い言い方をすれば、中二病を拗らせたような書き手が実力不相応に挑んでは玉砕しがちな題材でもあるのです)。
が、そんな中で本作はその題材に100kb越えという長尺で向き合い、一つの完成にまで到達しており、流石の書き手の手腕を感じました