これは、永夜異変の少し前のお話。
霧雨魔理沙は――空を飛べなくなっていた。
「……あれ?おかしいな、浮遊魔法の調整は完璧なはずだ」
箒に跨って地面を蹴る。だが、体はふわりと少し浮くだけで、すぐにどしんと地面に足が着いてしまう。
確かに最近、飛ぶスピードが落ちている気はしていたが、まさか飛べなくなるとは思わなかった。
「……箒が壊れたのか?」
箒を点検する。折れていない。魔力も正常に流れている。
となると、原因は――。
「いやいや、まさかな」
その可能性を考えた途端、胸の奥がずしりと重くなった。
最近の生活が思い浮かび、首をぶんぶん振る。
そんなはずはない。ただの不調だ。
こういう時は、先輩魔法使いを頼るに限る。
「アリスゥー!助けてくれぇぇー!」
魔理沙は森を駆け出した。
◇
魔理沙の家から二百メートルほど離れた場所。
そこで魔理沙は息を切らしてへたり込んでいた。
「ハァ……ハァ……はぁぁぁ……もう無理……」
額には玉のような汗が浮かび、身体中が熱い。
少し休憩することにして、ポケットから小さな包みを取り出す。
アリスが作ってくれたブラウニーだ。
「……運命ってやつだな」
躊躇いもなく、それを頬張った。
濃厚なチョコの甘みが舌を包み、疲労が遠のいていく。
「やっぱりココアが違うよな」
うんうんと頷きながら、口に放り込んでいく。一個、二個、三個――。
気付けば、持っていた分をすべて平らげていた。
◇
休みながら歩いて、アリスの家に到着したのは、すっかり日が沈んでからだった。
窓の灯りを見て、魔理沙はほっと胸を撫で下ろす。
玄関を拳で勢いよく叩く。
「アリスゥ!開けてくれぇ!」
すぐに、寝巻きを着たアリスが出てきた。ちょうど寝るところだったのだろう。
魔理沙の必死な様子に、アリスは目を丸くした。
「こんな時間に、どうしたの?」
「取りあえず飯を……飯をくれぇ!」
空腹のあまり玄関に倒れ込む魔理沙に、アリスは慌てて肩を貸す。
アリスは想定以上の重さに、思わずよろめきかけた。
それでも何とか魔理沙を椅子に座らせ、急いで食事の用意をする。
アリスお手製の料理の数々がテーブルに並ぶと、魔理沙は湯気の立つスープに顔を突っ込む勢いで食べ始めた。
「そんなに慌てなくても、逃げないわよ」
「ハフッ、ウマッ……!アリス、お前やっぱ天才だな。おかわり!」
美味しそうに食べる魔理沙に、アリスは目を細める。
魔理沙がよく食べてくれるものだから、作り甲斐があるというものだ。
料理の腕も上達していくのを感じていた。
魔理沙はガツガツと音を立てて食べ続け、皿をぴかぴかに磨き上げるように平らげる。
そしてひと息ついた後、頭を掻いた。
「実はな、飛べなくなっちまったんだ」
「え?魔法の不調?」
「多分な」
魔理沙は深刻な顔をして押し黙る。その表情に、アリスも心配になる。
もしこのまま魔理沙が力を失ったら――嫌な考えが頭をよぎる。
「ちょっと、見せてみなさい」
アリスは魔理沙を外に連れ出した。
冷たい風が頬を撫で、嫌な予感が膨らんでいく。
家にあった箒を渡し、試してみるよう促す。
魔理沙は箒に跨り、勢いよく地面を蹴る。
しかし体は一瞬浮かんだだけで、すぐに地面に吸い寄せられるように着地してしまう。
アリスはその動きを見ながら魔力の流れを確認した。
問題はない。魔法は正常に働いている。
――つまり、これは。
「魔理沙、あなた……」
沈痛な面持ちの魔理沙は、まるで空という恋人に振られた乙女のようだった。
それでもアリスは言わなければならない。
魔理沙のために。そして責任の一端はおそらく自分にもある。
思い切って、言葉の刃を突きつけた。
「太ったわね?」
「言うなあああ!」
◇
翌日から、アリス監修による魔理沙のダイエットが始まった。
「朝食はキノコスープとパン一枚」
「少なすぎだろ!」
「おやつ禁止」
「死ぬ!」
「ほら、走りなさい!」
森の中でアリスの厳しい声が飛び、魔理沙は嫌々ながら足を動かす。
二百メートルも保たずに息切れするが、止まろうものなら背後から上海人形が槍で突いてくる。
「痛い!走る!走るからぁ!」
魔理沙の悲鳴が森にこだました。
◇
しかし一週間後。
アリスは頭を抱えていた。
食事制限をしている。運動もさせている。それなのに、魔理沙の体重がまるで減らない。
あり得ない。
原因を突き止めるべく、アリスは魔理沙の生活を観察する事にした。
今も魔理沙は、ひいこらと森を走っている。
汗をかき、カロリーを発散している。
――なのに、何故?
アリスがじっと見つめていると、魔理沙は力尽きて座り込み、上海に突かれてまた立ち上がって走る。
その繰り返し。これで痩せないはずがない。
だが、何かがおかしい。
ほんの僅かな違和感。細い棘が刺さるような感覚。難しい間違い探しをするように、アリスは目を凝らす。
そして――気づいた。
「……あっ」
座り込む前と立ち上がった後で、森の景色が微妙に違う。
キノコが、消えている。
魔理沙が息を整えるたびに、周囲のキノコがなくなっているのだ。
つまり魔理沙は。
「キノコを拾って食べてる……」
アリスは呆れ、そして怒りがこみ上げてきた。
「……分かったわ、魔理沙。それなら私にも考えがある」
意地汚い魔法使いに侮蔑の視線を向け、アリスは静かに呟いた。
◇
さらに数日後。
魔理沙の体は僅かではあるが軽くなっていた。
その代償の筋肉痛で顔をしかめる魔理沙の背中を、アリスは優しく撫でる。
「無理しないでいいわ。あなたが空を取り戻すまで、私が支えてあげる」
「アリス……ありがとう」
「今日は運動、休んだら?」
「いいのか?」
「たまには休息も必要よ。お菓子は出せないけど、お茶にしましょう」
アリスはにっこり笑い、魔理沙も嬉しそうに頷く。
台所へ紅茶を淹れに向かうアリスの後ろ姿を見て、魔理沙は胸が満たされていくのを感じた。
こんなにも優しいアリスに対する愛おしさが、溢れ出してくる。
――アリスのためにも、もう一度空を飛ばなくては。
やがて、アリスは湯気の立つカップを二つ携えて戻ってきた。
二人は机を囲み、談笑する。
話題は文々。新聞に書かれていた記事のこと。
最近、夜になると幻想郷を徘徊する化け物が出るそうだ。大きな足音がして、里の人間が怖がっているらしい。
「異変か? 異変だよな?」と鼻息を荒くする魔理沙に、アリスは「まずは飛べるようになってからね」と柔らかく嗜める。
ダイエット生活が始まってからのアリスはずっと怖かった。
だからこそ、久しぶりに過ごす穏やかな時間は、優しく魔理沙の胸を打った。
◇
その夜は、やけに静かだった。
風の音も、虫の声も、どこか遠慮がちだ。
博麗霊夢は、ため息をつきながら空を見上げた。
「……面倒くさいわねぇ」
最近、里の方で妙な噂が立っていた。
夜になると、森の奥から巨大な影が現れ、地面を揺らしながら徘徊しているらしい。
被害は特にないが、子どもが泣くには十分なインパクトだ。
――異変、とまではいかなくても、調べるのが巫女の仕事。
仕方なく、里と森の境界あたりを巡回していた。
とはいえ。
この時間に飛び回るのも寒いし、眠いし、お腹も空いてきた。
霊夢は袖の中から、干し芋を取り出した。
お気に入りの蜜芋を干したやつ。夜のお供にはぴったりだ。
「はぁ〜……しあわせ……」
一口かじると、ほんのりとした甘みが広がる。
舌の上で、ゆっくりと溶けていく優しい味。
なんだかもう、異変なんてどうでもよくなる。
「まぁ、どうせ狸か何かでしょ」
独り言を呟いた、その時だった。
――ドシン。ドシン。
地面が揺れた。
まるで山が歩いてくるような、重い振動。
霊夢は干し芋を咥えたまま、きょろりと辺りを見渡す。
「出たわね」
木々の間から、黒い影が現れた。
一見、人の形をしているが、異様に丸い。
霊夢は思わず息を呑む。
そして、その巨体が月光に照らされた瞬間、霊夢は思わず目を疑った。
「……魔理沙?」
月明かりに照らされた、鮮やかな金髪。
トレードマークの白黒の服。間違いない。
でも――太い。
いや、太いどころか、もはや貫禄すら漂っている。
「な、なにそれ……!?どうしたのよあんた!」
しかし返事はない。
魔理沙は目を閉じたまま、夢遊病者のように歩いている。
その全身には、光る糸がびっしりと絡みついていた。
その糸には、見覚えがあった。
――アリスのだ。
眉間に皺を寄せながら、札を構えると、魔理沙の後ろから、やはりアリスが姿を現した。
ものすごく気まずそうな顔をしている。
「え、えっと……霊夢……」
「説明してもらえるかしら?」
干し芋を手に、霊夢がじろりと睨む。
アリスは乾いた笑みを浮かべ、言い訳を始めた。
「ちょっと……寝ながら運動させようと思って……」
「……寝ながら?」
「だって、起きてる時に走ると、すぐキノコ食べちゃうのよ!」
「ああ、そう……」
霊夢は頭を押さえた。
つまり――寝ている魔理沙を糸で操り、無理やり運動させていたというわけか。
いや、発想が狂っている。
けれど、アリスがあの真面目な顔でやっているのを見ると、ツッコむ気力も削がれる。
「ま、まぁ……誰も怪我してないなら別に――」
――その時だった。
風に乗って、ほのかに甘い香りが流れた。
霊夢の手にある、干し芋の香り。
魔理沙の鼻が、ぴくりと動く。
次の瞬間――
「イモォォォ!!!」
「ちょっ!?はぁっ!?」
魔理沙が雄叫びを上げ、森が揺れる。
そして、全力疾走で突っ込んできた。
「ま、待って魔理沙!?寝てるのよね!?」
アリスが糸を操って制御しようとするが、勢いが強すぎる。
糸がビシビシと音を立て――ついに、切れた。
「嘘でしょ!?」
「イモォォォ!!!」
霊夢は慌てて札を放ち、結界を張った。
が。
――ズガァンッ!!!
魔理沙が思い切り突進し、結界が、割れた。
正面からぶち抜かれた。
霊夢は思わず目を見開く。
まさか、博麗の結界が破られるなんて——。
「イモォォォ!!!」
叫びながら、魔理沙は霊夢の手元の干し芋に飛びつく。
霊夢はとっさに後ろへ跳ぶが、間に合わない。
干し芋は――無慈悲に奪われた。
「と、取られた……」
放心する霊夢の横で、魔理沙は眠ったまま幸せそうな笑みを浮かべて、もぐもぐと咀嚼していた。
その姿を見て、アリスが涙ぐむ。
アリスの脳内では、これまでの魔理沙の努力が走馬灯のように駆け巡っていた。
「魔理沙……ついに……ついに霊夢に勝ったのね……!」
「イモォォォ!!!」
魔理沙の勝利の咆哮が、幻想郷中に響き渡った。
◇
それからしばらくして。
魔理沙はすっかり元の体型を取り戻していた。
「なぁ、アリス。ダイエットって案外簡単だな」
「ふふ、それはよかったわ。次は維持よ」
「おう……でも、少しくらいご褒美に――」
「ブラウニーは、なし」
「ぐはっ!」
笑い合う二人の上空を、澄んだ夜風が流れる。
魔理沙は箒にまたがり、軽やかに宙へと舞い上がる。
空に戻った彼女の背中を、アリスは小さく見送りながら呟いた。
「……本当に、飛んでいっちゃうんだから」
それでも、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
魔理沙には、霊夢に勝った夜の記憶はない。
けれど、身体だけは確かにその感触を覚えていた。
――後に、あの日の夜の寝ぼけ突進から「ブレイジングスター」は生まれたという。
霧雨魔理沙は――空を飛べなくなっていた。
「……あれ?おかしいな、浮遊魔法の調整は完璧なはずだ」
箒に跨って地面を蹴る。だが、体はふわりと少し浮くだけで、すぐにどしんと地面に足が着いてしまう。
確かに最近、飛ぶスピードが落ちている気はしていたが、まさか飛べなくなるとは思わなかった。
「……箒が壊れたのか?」
箒を点検する。折れていない。魔力も正常に流れている。
となると、原因は――。
「いやいや、まさかな」
その可能性を考えた途端、胸の奥がずしりと重くなった。
最近の生活が思い浮かび、首をぶんぶん振る。
そんなはずはない。ただの不調だ。
こういう時は、先輩魔法使いを頼るに限る。
「アリスゥー!助けてくれぇぇー!」
魔理沙は森を駆け出した。
◇
魔理沙の家から二百メートルほど離れた場所。
そこで魔理沙は息を切らしてへたり込んでいた。
「ハァ……ハァ……はぁぁぁ……もう無理……」
額には玉のような汗が浮かび、身体中が熱い。
少し休憩することにして、ポケットから小さな包みを取り出す。
アリスが作ってくれたブラウニーだ。
「……運命ってやつだな」
躊躇いもなく、それを頬張った。
濃厚なチョコの甘みが舌を包み、疲労が遠のいていく。
「やっぱりココアが違うよな」
うんうんと頷きながら、口に放り込んでいく。一個、二個、三個――。
気付けば、持っていた分をすべて平らげていた。
◇
休みながら歩いて、アリスの家に到着したのは、すっかり日が沈んでからだった。
窓の灯りを見て、魔理沙はほっと胸を撫で下ろす。
玄関を拳で勢いよく叩く。
「アリスゥ!開けてくれぇ!」
すぐに、寝巻きを着たアリスが出てきた。ちょうど寝るところだったのだろう。
魔理沙の必死な様子に、アリスは目を丸くした。
「こんな時間に、どうしたの?」
「取りあえず飯を……飯をくれぇ!」
空腹のあまり玄関に倒れ込む魔理沙に、アリスは慌てて肩を貸す。
アリスは想定以上の重さに、思わずよろめきかけた。
それでも何とか魔理沙を椅子に座らせ、急いで食事の用意をする。
アリスお手製の料理の数々がテーブルに並ぶと、魔理沙は湯気の立つスープに顔を突っ込む勢いで食べ始めた。
「そんなに慌てなくても、逃げないわよ」
「ハフッ、ウマッ……!アリス、お前やっぱ天才だな。おかわり!」
美味しそうに食べる魔理沙に、アリスは目を細める。
魔理沙がよく食べてくれるものだから、作り甲斐があるというものだ。
料理の腕も上達していくのを感じていた。
魔理沙はガツガツと音を立てて食べ続け、皿をぴかぴかに磨き上げるように平らげる。
そしてひと息ついた後、頭を掻いた。
「実はな、飛べなくなっちまったんだ」
「え?魔法の不調?」
「多分な」
魔理沙は深刻な顔をして押し黙る。その表情に、アリスも心配になる。
もしこのまま魔理沙が力を失ったら――嫌な考えが頭をよぎる。
「ちょっと、見せてみなさい」
アリスは魔理沙を外に連れ出した。
冷たい風が頬を撫で、嫌な予感が膨らんでいく。
家にあった箒を渡し、試してみるよう促す。
魔理沙は箒に跨り、勢いよく地面を蹴る。
しかし体は一瞬浮かんだだけで、すぐに地面に吸い寄せられるように着地してしまう。
アリスはその動きを見ながら魔力の流れを確認した。
問題はない。魔法は正常に働いている。
――つまり、これは。
「魔理沙、あなた……」
沈痛な面持ちの魔理沙は、まるで空という恋人に振られた乙女のようだった。
それでもアリスは言わなければならない。
魔理沙のために。そして責任の一端はおそらく自分にもある。
思い切って、言葉の刃を突きつけた。
「太ったわね?」
「言うなあああ!」
◇
翌日から、アリス監修による魔理沙のダイエットが始まった。
「朝食はキノコスープとパン一枚」
「少なすぎだろ!」
「おやつ禁止」
「死ぬ!」
「ほら、走りなさい!」
森の中でアリスの厳しい声が飛び、魔理沙は嫌々ながら足を動かす。
二百メートルも保たずに息切れするが、止まろうものなら背後から上海人形が槍で突いてくる。
「痛い!走る!走るからぁ!」
魔理沙の悲鳴が森にこだました。
◇
しかし一週間後。
アリスは頭を抱えていた。
食事制限をしている。運動もさせている。それなのに、魔理沙の体重がまるで減らない。
あり得ない。
原因を突き止めるべく、アリスは魔理沙の生活を観察する事にした。
今も魔理沙は、ひいこらと森を走っている。
汗をかき、カロリーを発散している。
――なのに、何故?
アリスがじっと見つめていると、魔理沙は力尽きて座り込み、上海に突かれてまた立ち上がって走る。
その繰り返し。これで痩せないはずがない。
だが、何かがおかしい。
ほんの僅かな違和感。細い棘が刺さるような感覚。難しい間違い探しをするように、アリスは目を凝らす。
そして――気づいた。
「……あっ」
座り込む前と立ち上がった後で、森の景色が微妙に違う。
キノコが、消えている。
魔理沙が息を整えるたびに、周囲のキノコがなくなっているのだ。
つまり魔理沙は。
「キノコを拾って食べてる……」
アリスは呆れ、そして怒りがこみ上げてきた。
「……分かったわ、魔理沙。それなら私にも考えがある」
意地汚い魔法使いに侮蔑の視線を向け、アリスは静かに呟いた。
◇
さらに数日後。
魔理沙の体は僅かではあるが軽くなっていた。
その代償の筋肉痛で顔をしかめる魔理沙の背中を、アリスは優しく撫でる。
「無理しないでいいわ。あなたが空を取り戻すまで、私が支えてあげる」
「アリス……ありがとう」
「今日は運動、休んだら?」
「いいのか?」
「たまには休息も必要よ。お菓子は出せないけど、お茶にしましょう」
アリスはにっこり笑い、魔理沙も嬉しそうに頷く。
台所へ紅茶を淹れに向かうアリスの後ろ姿を見て、魔理沙は胸が満たされていくのを感じた。
こんなにも優しいアリスに対する愛おしさが、溢れ出してくる。
――アリスのためにも、もう一度空を飛ばなくては。
やがて、アリスは湯気の立つカップを二つ携えて戻ってきた。
二人は机を囲み、談笑する。
話題は文々。新聞に書かれていた記事のこと。
最近、夜になると幻想郷を徘徊する化け物が出るそうだ。大きな足音がして、里の人間が怖がっているらしい。
「異変か? 異変だよな?」と鼻息を荒くする魔理沙に、アリスは「まずは飛べるようになってからね」と柔らかく嗜める。
ダイエット生活が始まってからのアリスはずっと怖かった。
だからこそ、久しぶりに過ごす穏やかな時間は、優しく魔理沙の胸を打った。
◇
その夜は、やけに静かだった。
風の音も、虫の声も、どこか遠慮がちだ。
博麗霊夢は、ため息をつきながら空を見上げた。
「……面倒くさいわねぇ」
最近、里の方で妙な噂が立っていた。
夜になると、森の奥から巨大な影が現れ、地面を揺らしながら徘徊しているらしい。
被害は特にないが、子どもが泣くには十分なインパクトだ。
――異変、とまではいかなくても、調べるのが巫女の仕事。
仕方なく、里と森の境界あたりを巡回していた。
とはいえ。
この時間に飛び回るのも寒いし、眠いし、お腹も空いてきた。
霊夢は袖の中から、干し芋を取り出した。
お気に入りの蜜芋を干したやつ。夜のお供にはぴったりだ。
「はぁ〜……しあわせ……」
一口かじると、ほんのりとした甘みが広がる。
舌の上で、ゆっくりと溶けていく優しい味。
なんだかもう、異変なんてどうでもよくなる。
「まぁ、どうせ狸か何かでしょ」
独り言を呟いた、その時だった。
――ドシン。ドシン。
地面が揺れた。
まるで山が歩いてくるような、重い振動。
霊夢は干し芋を咥えたまま、きょろりと辺りを見渡す。
「出たわね」
木々の間から、黒い影が現れた。
一見、人の形をしているが、異様に丸い。
霊夢は思わず息を呑む。
そして、その巨体が月光に照らされた瞬間、霊夢は思わず目を疑った。
「……魔理沙?」
月明かりに照らされた、鮮やかな金髪。
トレードマークの白黒の服。間違いない。
でも――太い。
いや、太いどころか、もはや貫禄すら漂っている。
「な、なにそれ……!?どうしたのよあんた!」
しかし返事はない。
魔理沙は目を閉じたまま、夢遊病者のように歩いている。
その全身には、光る糸がびっしりと絡みついていた。
その糸には、見覚えがあった。
――アリスのだ。
眉間に皺を寄せながら、札を構えると、魔理沙の後ろから、やはりアリスが姿を現した。
ものすごく気まずそうな顔をしている。
「え、えっと……霊夢……」
「説明してもらえるかしら?」
干し芋を手に、霊夢がじろりと睨む。
アリスは乾いた笑みを浮かべ、言い訳を始めた。
「ちょっと……寝ながら運動させようと思って……」
「……寝ながら?」
「だって、起きてる時に走ると、すぐキノコ食べちゃうのよ!」
「ああ、そう……」
霊夢は頭を押さえた。
つまり――寝ている魔理沙を糸で操り、無理やり運動させていたというわけか。
いや、発想が狂っている。
けれど、アリスがあの真面目な顔でやっているのを見ると、ツッコむ気力も削がれる。
「ま、まぁ……誰も怪我してないなら別に――」
――その時だった。
風に乗って、ほのかに甘い香りが流れた。
霊夢の手にある、干し芋の香り。
魔理沙の鼻が、ぴくりと動く。
次の瞬間――
「イモォォォ!!!」
「ちょっ!?はぁっ!?」
魔理沙が雄叫びを上げ、森が揺れる。
そして、全力疾走で突っ込んできた。
「ま、待って魔理沙!?寝てるのよね!?」
アリスが糸を操って制御しようとするが、勢いが強すぎる。
糸がビシビシと音を立て――ついに、切れた。
「嘘でしょ!?」
「イモォォォ!!!」
霊夢は慌てて札を放ち、結界を張った。
が。
――ズガァンッ!!!
魔理沙が思い切り突進し、結界が、割れた。
正面からぶち抜かれた。
霊夢は思わず目を見開く。
まさか、博麗の結界が破られるなんて——。
「イモォォォ!!!」
叫びながら、魔理沙は霊夢の手元の干し芋に飛びつく。
霊夢はとっさに後ろへ跳ぶが、間に合わない。
干し芋は――無慈悲に奪われた。
「と、取られた……」
放心する霊夢の横で、魔理沙は眠ったまま幸せそうな笑みを浮かべて、もぐもぐと咀嚼していた。
その姿を見て、アリスが涙ぐむ。
アリスの脳内では、これまでの魔理沙の努力が走馬灯のように駆け巡っていた。
「魔理沙……ついに……ついに霊夢に勝ったのね……!」
「イモォォォ!!!」
魔理沙の勝利の咆哮が、幻想郷中に響き渡った。
◇
それからしばらくして。
魔理沙はすっかり元の体型を取り戻していた。
「なぁ、アリス。ダイエットって案外簡単だな」
「ふふ、それはよかったわ。次は維持よ」
「おう……でも、少しくらいご褒美に――」
「ブラウニーは、なし」
「ぐはっ!」
笑い合う二人の上空を、澄んだ夜風が流れる。
魔理沙は箒にまたがり、軽やかに宙へと舞い上がる。
空に戻った彼女の背中を、アリスは小さく見送りながら呟いた。
「……本当に、飛んでいっちゃうんだから」
それでも、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
魔理沙には、霊夢に勝った夜の記憶はない。
けれど、身体だけは確かにその感触を覚えていた。
――後に、あの日の夜の寝ぼけ突進から「ブレイジングスター」は生まれたという。
面白いコメディでした
ブラウニーを持ち歩いている魔理沙に笑いました
よくポケットに入れる前に食べちゃいませんでしたね