紅魔館の地下、永遠の湿りを帯びた空気の中。
書架の影を渡る埃の粒子は、まるで時の欠片のように静かに漂っていた。
「お邪魔しますわ……って誰もいないな」
折角そろりと忍び込んだ霧雨魔理沙は拍子抜けして肩を落とす。
屋敷の外観より巨大な図書館は、珍しく住民を不在としていた。
魔理沙は仕方なく、その住民——パチュリー・ノーレッジの机へと向かう。パチュリーの椅子に座って待ったらどんな反応をするのだろうという、ささやかな遊び心からだった。
パチュリーの机に近付くと、見慣れない一冊の本が置かれている事に気付いた。
「パチュリー・ノーレッジ 作・パチュリー・ノーレッジ……?なんだこれ」
表紙には金文字でタイトルと著者名が書かれていた。それはどちらもパチュリーの名前。
魔理沙は胸の奥から好奇心が湧き出てくるのを感じた。抗えず、その本に手を伸ばす。
指でページを捲る。
その瞬間、本の上に映像が現れた。
……図書館。
いつもの、ここにあるはずの光景。だが、視点が高い。まるで鳥になって俯瞰しているみたいだ。
そこにはパチュリーが座っている。静かに本のページを捲るその手、淡い唇の動きまで、まるで現実のようにくっきりと見える。
「……なんだ、これ……?」
「——ああ、それに触ったのね」
後ろから、実物のパチュリーの声。
振り向けば、同じ姿の彼女が現実に立っていた。
「それ、私に起こった出来事を本にしたものよ。読もうと思えば、映像のように再生される」
「へぇ……自分の記憶を本に、か。便利なもんだな」
「日記代わりよ。文章にするより早いし、抜け落ちがないから。寝てる最中の事も記録できる優れもの」
パチュリーはつまらなそうに言う。魔理沙には驚きの魔法だったが、パチュリーには当たり前のようだ。改めて、先輩魔法使いの知識と実力を思い知らされる。
魔理沙は再び記憶の映像を見つめる。
そこではパチュリーが本を読み、メモを取り、時折くしゃみをする。ページを捲っても捲っても、その繰り返し。まるで止まった時計の針のように、変化のない日々。
「……つまんねぇな」
「あなたの趣味には合わないでしょうね」
パチュリーは、変わらず静かな眼差しで言う。
魔理沙は本を閉じ、他に面白そうなものでも無いかと周りを見渡す。
が、すぐにまた視線を本に戻した。面白い事を、思い付いてしまった。
「なぁ、その魔法、教えてくれよ」
「……痴呆が始まるのが早いのね」
「老後の備えをするのは早い方がいいだろ?」
パチュリーはため息をついた。そこには、呆れと僅かな嘲笑が含まれていた。
幼い魔法使いの真意など、お見通しという様に。
「……いいわ。但し、責任は自分で取りなさい」
◇
「なぁアリス、今日泊まっていってもいいか?」
アリスの家で夕食を共にしながら、魔理沙はアリスに窺いを立てる。努めて自然に振る舞う。決して真意が悟られぬように。
「まぁ、別にいいけど」
アリスの返答を得て、魔理沙は心が躍る。内心ではガッツポーズを決めるが、表面上は平静を装う。作戦は順調だ。
——そこへ。
「口の周り、ケチャップ付いてる」
アリスが身を乗り出し、ナプキンで魔理沙の口を拭う。
アリスの顔が至近になって、魔理沙は思わずカッと顔が赤くなるのを感じる。
「わ、私は子供じゃないぜ……」
アリスを直視出来ずに、視線を逸らした。そして、その先にある鏡を見て、ギョッとした。
——私、こんなうっとりした目してるのか!?
そこには、恋する少女そのものの、破顔した姿が映っていた。
砂糖細工のように甘く可愛らしい自分の姿も直視出来ず、魔理沙はぐるぐると目を回した。
◇
やがて時が満ち、月明かりが白い花のように、アリスの部屋を照らしていた。
アリスは寝台に静かに横たわり、薄いシーツ越しに肩がかすかに上下している。
その傍ら、魔理沙はアリスを見下ろすように立っていた。魔理沙がアリスの家に押しかけ、そのまま泊まり込んでいたのには理由があった。
アリスの静かな寝息を確認して、魔理沙は覚えたばかりの魔法を発動させる。
その目には、幼い好奇心と悪戯心。
アリスは過去を語ろうとしない。訊いてもいつも、適当にはぐらかされてしまう。
だから、ちょっとくらい、覗いてやろうと思った。
「こうやって、と」
眠るアリスの上で、魔法陣が展開される。
黄色く輝くその魔法陣から、分厚い本がすぅっと出現し、宙に浮かぶ。
直後、白紙のページが開かれ、細い光が紙を走る。見えないペンに自動で記されていくように、淡い文字が紙に浮かび上がっていく。紙が文字で満たされると、次のページが捲られ、また光が走る。
やがて、一冊の本が完成し、魔理沙の手に収まった。
《アリス・マーガトロイド 作・アリス・マーガトロイド》
手の中の本の重みに、魔理沙は思わず息を呑む。
ほんの悪戯のつもりだったが、本当に見てしまって良いのかという疑念が一瞬、頭を掠める。
しかし、押し寄せる好奇心には勝てなかった。
適当にページを開く。
——そこは陽の差す草原。
遠い過去か、幻想郷では無い何処か。いずれにせよ、見慣れない場所だった。
アリスは今より少しだけ幼なく見え、にこやかに笑っている。
幸せに満ちた、柔らかな表情。魔理沙もたまにしか見る事の叶わない笑顔が、満面に咲き誇っていた。
その向かいには、別の少女。
背中まで伸びた、透けるような金髪。頭には大きな赤いリボンを付けて、深い海のような碧い瞳が輝いている。
初めて見たはずの少女は……どこか見覚えがあった。
そう、それはまるで——上海人形。
魔理沙は、鉛が押し込まれたように、胃が重くなるのを感じた。
「何、してるの?」
突如、背後から声が響き、魔理沙は現実に引き戻される。
振り向くと、ベッドの上でアリスが目を擦りながら、こちらを覗いていた。
背中に冷たいものが流れるのを感じる。
「何か見てるの?」
「いや、これは、その」
ベッドから降りて向かってくるアリス。
魔理沙は本を後ろに隠して何とか誤魔化そうとするが、アリスはその魔理沙の肩越しに、本を覗き込む。
そして、覗き込んだまま、静止する。
すぐに魔理沙の行いを理解したようで、表情が強張る。
「アリス、これは——」
「……どういう事?」
「ち、違——」
「違わない!」
アリスの鋭い叫びが、部屋中に響いた。魔理沙がこれまで聞いた事も無いような、心の底からの怒りを孕んだ声だった。
普段あまり感情を表に出さないアリスが、頬を紅潮させ、肩を振るわせている。
「出ていって」
重く、冷たく、言い放つ。
「アリス、これは——」
「出ていって!」
アリスは激昂する。アリスの周りにはランスを手にした上海人形が浮遊し、魔理沙を睨み付けている。
——本気だ。
魔理沙は戦慄し、後退りしながら、恐る恐る手探りで扉を開き、外に出る。そしてそっと、扉を閉じた。
外の空気を感じた魔理沙は扉の前にへたり込み、空を見上げた。手のひらは冷や汗でびっしょりだった。
冷たい夜風が頬を刺し、胸の奥が焼けるように痛い。
「……私が悪い。分かってるさ」
記憶を勝手に覗いたのだから、言い訳の余地は無い。しかもそれは、おそらく最も見られたくない類のものだったはず。
本当は、すぐに手を付き、床に額を擦り付け、アリスの気持ちが収まるまで謝り続けるべきだったのかもしれない。
しかし、魔理沙にはそれが出来なかった。
つい先程、魔理沙にランスを突き付けた、上海人形。その姿が、記憶の中でアリスと微笑み合う少女と重なる。
アリスと少女は恐らく、恋人同士だった。
しかし、その少女はもういない。
そして、その少女を模したような人形。
アリスがかつて語った夢が、頭に響く。
「……自立人形を作るって、そういう事かよ」
燃えるような嫉妬心が、罪悪感すら焼き尽くす。
理不尽な事は、自分でも分かっている。
それでも、どうしようも無かった。
怒りと惨めさが魔理沙の胸深くに渦巻いていて、ズキズキと痛んだ。
◇
それから数日、魔理沙はアリスに会わないまま、無為に時を過ごしていた。
何の気力も湧かず、ただ命を浪費するだけの日々。何を考えてもアリスとの事に行きつき、その度に醜い嫉妬心を自覚させられる。
側から見たら平穏ながら、魔理沙に取っては拷問の様な日々だった。他責と自己嫌悪を繰り返し、深い沼にハマっていく。完全に身動きが取れなくなっていた。
しかしそれでも、幻想郷の時は流れていく。
証拠に、全ての水が血のように赤く染まっていた。
「異変……か」
魔理沙は掬い取った井戸の水を眺めて呟く。
空から見渡してみたら、湖も川も等しく赤く染まり、さながら地獄のような情景を成していた。
霊夢はもう、動いているだろうか。親友の事を思い浮かべる。ほんの少しだけ、救われたような気分になった。
けれど、またすぐにアリスの顔が浮かんでくる。
「誘って、一緒に行けば……なんてな」
協力して異変を解決して大団円、なんて都合の良い夢物語だ。
現実は、その遥か手前に障害がある。協力して異変に立ち向かえるなら、その時点で問題は概ね解消されているようなものだ。
どうするべきか逡巡している最中、遠い空で火花が散った。その鮮やかな紅い光には、よく見覚えがあった。
「霊夢、か」
魔理沙は呟いて、箒を取りに自室に戻った。
◇
湖の上。
紅い空気が風に舞い、紙垂が小さく鳴る。
「やあ、霊夢」
「あんたも来たのね」
魔理沙が声を掛けると、霊夢は振り返り、のんびりとした返事をした。今日はよく冷えるから、赤いマフラーを首に巻いている。
安心感のある呑気な口調。けれど、今の魔理沙が求めているものはそれじゃない。
「これ、お前の仕業だろ」
「はぁ?何言って——」
呆れた顔の霊夢が言い終える前に、魔理沙は八卦炉を構え、閃光を放つ。
無論、異変の首謀者が霊夢で無い事など分かっている。
ただ無性に、叩きのめされたかった。
ボロボロにされれば、負の感情も一緒に吹き飛んで、スッキリ出来るような気がしていた。
都合の良い罰を、霊夢に求めていた。
霊夢は閃光をひらりと躱し、ため息を吐く。そっと札を構える。
空気が揺れる。光弾が咲き、風が泣く。
霊夢の美麗な弾幕が展開される。
それを躱しながら放つ魔理沙の弾幕は、滅茶苦茶だった。
元より勝つ気もない。半ば自棄の弾幕。駄々っ子のように喚き、ただ力任せに闇雲に撃ちまくる。
「私は負けない……誰にも……!」
幼子の落書きのようなアンバランスな弾幕は霊夢には届かない。
対する霊夢の弾幕は、美しく、優しかった。
魔理沙を包み込むように展開され、行動の自由を奪っていく。
気づけば魔理沙は弾幕に囲まれ、身動きが取れなくなっていた。
やがて紅い札が、ぴとりと優しく魔理沙に触れた。
——完敗だった。
その気になれば、撃ち落とす事も容易だっただろう。
しかし霊夢はそれをせず、敢えて魔理沙を傷付けない勝ち方をした。
叩きのめされる為に遮二無二挑んだ魔理沙に対し、霊夢は宥めるように戦った。
本気では無かったとはいえ、軽くあしらわれたのだ。
——いったい、どれだけの実力差があるのだろか。
膝が折れ、湖の畔に手をつく。
打ちのめされて霧散するはずだった感情は、今も胸の中でぐるぐると渦巻いてる。
そんな魔理沙に霊夢が近付く。魔理沙が見上げると、霊夢は自分のマフラーを外し、そっと魔理沙の首に巻いた。
「風邪、引かないようにね」
それだけ言って、霊夢は飛び去っていった。
魔理沙は霊夢の姿が見えなくなるまで、その空を見上げていた。
霊夢の姿が消えて暫くして、魔理沙はマフラーの端をぎゅっと掴む。
マフラーを借りたという事は、返す必要がある。つまりこれは、「また遊びに来なさい」という霊夢からのメッセージ。
魔理沙は唇を強く噛んだ。
——霊夢は。
私の身勝手な我儘を受け入れてくれて。
私の力尽くの弾幕は全て受け流して。
私に怪我させないように手加減して。
私がまた会いにいけるように配慮して。
あまりに、優し過ぎる。
そして同時に沸々と湧き上がってくる、あの感情。
「またお前か」
魔理沙は苦笑する。
霊夢に対する嫉妬心が、素直な感謝の気持ちすら焼き尽くす。
ありがとう、なんて到底思えなかった。嫉妬に塗れた悪態だけが、胸に溢れる。
——私は、与えられた優しさを受け入れる事すらもできない。
なんて、浅ましい事だろうか。
「ちくしょうぅ……ちくしょうぅぅ……!」
地面に膝を付いたまま、魔理沙は大声を上げて泣き崩れた。
◇
魔理沙が泣き止んでから、夜の湖は沈黙を保っていた。
風が梢を渡り、濁った水面をかすかに揺らす。
その血のような赤が、今の魔理沙には妙に馴染んだ。
魔理沙は地に伏し、頬を湿らせたまま動けずにいた。
燃えるような嫉妬心は漸く落ち着いてきたが、胸の奥は焼けるように熱い。それは火傷のようにじんじんと、胸を痛め付けた。
堪らずに目を閉じると、色々な情景が浮かんでくる。
実家の道具屋、香霖、霊夢、そしてアリス。
思ってみれば、私はなんと恵まれている事だろうか。
裕福な家庭に生まれ、世話を焼いてくれる恩人、優しい親友、愛しい相手に恵まれた。
常に幸福が与えられてきた。
それなのに、足りない物を求め、嫉妬ばかりしている。
嫉妬心が燃やした焼け野原には、自己嫌悪だけが残った。
「私は幸せ……だよな?」
——なのにどうして、私はこんなにも惨めなのだろう。
実家は捨てた。
アリスは傷つけた。
霊夢にも八つ当たりをした。
それでも、私は無傷でここにいる。
まるで、幸せという檻に閉じ込められた獣のようだ。与えられた幸福に、飼い殺される。
罪を犯しても犯しても、罰して貰えない。
許されるという事が、ただ恐ろしかった。
罰を受けたい。
そう願う自分が、可笑しくて笑ってしまう。
いっその事、この身を赤い湖に投げ打ってしまおうかとも思った。
けれど、それもできない。
自分に向けられた優しさが、それを許さない。
魔理沙はどこまでも幸せで、不自由だった。
◇
やがて、夜が明けた。
湿った空気の中、魔理沙は白い息を吐きながら歩いていた。
一晩突っ伏して思い悩んだ魔理沙が出した結論は、アリスに謝って、罰を受け入れる事だった。
喧嘩の落とし所としては当然の帰着といえるが、魔理沙がそこに行き着くのには相応の時間が必要だった。
それでも、まだ綺麗に割り切れてはいない。
この期に及んで、上海人形と同じ顔をした少女がチラつき、そんな自分が心底嫌になっていた。
霊夢に巻かれたマフラーの端が風に揺られて、頬に触れる。湿気を含んだそれはぴたりと貼り付いて、少し気持ちが悪かった。
森の中を進み、開けた場所に出る。そこには見慣れた白い屋根。
アリスの家。
窓に灯りがともっている。もう起きているのかもしれない。
胸の奥で、焦げるような感情が渦を巻く。
胸に手を当て、呼吸を整えながら、扉の前に立つ。
手がぶるぶると震える。
ノックをしようとして、やめた。
今の自分は、掛ける言葉を持ち合わせていない。
踵を返して立ち去ろうとすると、後ろからよく知った声がした。
「魔理沙……?」
一瞬、時間が止まった。
胸の奥で、心臓が小さく跳ねる。
アリスがそこにいる。
ただ、それだけの事実が、全てを揺らがせた。
恐る恐る振り返ると、いつも通りのアリスの姿があった。
その表情からは、強い怒りも、優しさも感じる事が出来ない。
「アリス」
魔理沙は何を言おうか迷って、金魚みたいに口をパクパクさせた挙句、ただただ名前を呼んだ。
「ごめん」では足らな過ぎるし、数多の言葉を並べたら、その内に嫉妬心が再発してしまいそうだった。
「酷い顔ね」
ふと、アリスが笑った。
魔理沙も釣られて笑う。結果的に、一晩中寝れずに思い悩んだ甲斐があった気になる。
「アリス。私——」
「弾幕ごっこしましょう」
魔理沙の言葉を遮ったそれは、短い宣戦布告だった。
背後で人形たちが音もなく浮か上がる。
森の空気が、ビリビリと震えた。
アリスの目に、静かな怒りが宿った事を見て、魔理沙は息を呑む。そして、同時に。
——良かった。私はまだ、許されていない。
静かに、安堵した。
夜明けの薄明。
白んだ霧の中で、弾幕が咲く。
魔理沙も今回は本気だ。対霊夢のような生半可では、アリスは許してくれないだろう。
二人の戦いは、花火のように鮮やかに燃え盛った。
魔理沙とアリスは、まるで踊るように舞う。
互いの癖も、間合いも、すべてを知っている。
弾幕が軌跡を描き、人形が宙を舞う。
攻撃と防御の境界は曖昧で、心と心が擦れ合うようだった。
やがて形勢は、徐々に傾いていく。
罰せられたい想いとは裏腹に、魔理沙は優位を広げていた。
弾幕を躱す事で手一杯になるアリスの背後を、魔理沙が捉える。
「アリス!」
叫びながら、魔理沙は八卦炉を構える。
光が迸り、魔力が指先を焼く。
——マスタースパーク。
放とうとした、その瞬間。
視界の端を、ひとつの影が掠めた。
碧い瞳。金の髪。
突撃してきたのは、上海人形。
時間が凍る。
アリスの記憶の中で微笑んでいた少女。
その瞳が、上海人形と重なった。
そしてそれは、魔理沙自身がよく知っている瞳でもあった。
「……っ」
手が震え、光が霧散する。
弾幕がほどけ、静寂が戻る。
魔理沙は、地に落ちた。
◇
「魔理沙!」
駆け寄る足音。
その声が、遠くで揺れている。
最後の瞬間、魔理沙はマスタースパークを放つ事が出来なかった。
突撃してくる上海人形が記憶の中の少女と重なった。そしてその少女の瞳は、アリスの家で見た、鏡の中の自分の瞳ともぴったり重なって見えた。
——恋する少女の瞳。
どうしても、撃ち抜く事が出来なかった。
魔理沙は微かに笑う。
「……ごめん」
結局、それしか言葉が見つからなかった。
不器用な思いを、その一言に詰め込むしかなかった。
アリスは唇を噛み、視線を落とす。
そして小さく、溜息を吐いた。
「……いいわ」
横たわる魔理沙にアリスは手を貸し、二人は寄り添うように歩き出す。
◇
部屋に戻ると、机の上に作りかけの人形があった。
黒い帽子。星の刺繍。
霧雨魔理沙の人形。
魔理沙は、その人形に目を落とす。
もし自分がいなくなれば、この小さな人形がアリスの隣に残るのだろう。
そう思うと、心が穏やかになった。
私はどうしようも無く、不完全だ。
醜い嫉妬心に焼かれ、幸せを受け入れられず、罰ばかり欲する。
アリスの中で永遠になる為には、私は人間のまま死んで、人形になった方が良い。
アリスと一緒に永遠を生きられないのも、私には丁度良い罰だろう。
後は人形が引き継いでくれるのなら、せめて人間の一生分くらいは、この嫉妬心とも付き合って生きていこうとも思えた。
◇
そしてまた夜が来て、アリスはそっと灯りを落とした。
隣の魔理沙は既に寝入っていて、静かに寝息を立てている。
互いの呼吸だけが、確かにそこにあった。
アリスは、無防備な姿を見せる愛しい存在を見下ろす。
私はやはり、魔理沙を許せない。
けれど、失いたくもない。
嫌われたく無い。
同時に、嫌いにもなりたく無い。
「ねぇ、魔理沙」
静かに眠る魔理沙の髪をそっと撫でる。
金色の髪が、月光に照らされて輝く。
かつての恋人と同じ、美しい色。
願わくば、この子にもその恋人と同じ道を辿って欲しい。
「人間のまま、死んで?」
そうすれば、永遠だから。
嫌なところがあっても、人間の一生分くらいなら、目を瞑っていられるから。
月明かりに包まれながら、二人の願いはようやくぴたりと重なった。
◆
パタン、と本を閉じ、パチュリー・ノーレッジは懐かしさに胸がじんわりと暖かくなるのを感じた。
やはり、本は良い。自分のものでは無い経験を味わう事が出来る。
パチュリーは指先に魔力を込める。読んでいた本が、ふわりと浮かび、本棚の収まるべき場所へ戻っていく。
作者欄《き》の欄に、すっと収納されたその背表紙には、金色の文字が躍る。
《霧雨魔理沙 作・霧雨魔理沙》
書架の影を渡る埃の粒子は、まるで時の欠片のように静かに漂っていた。
「お邪魔しますわ……って誰もいないな」
折角そろりと忍び込んだ霧雨魔理沙は拍子抜けして肩を落とす。
屋敷の外観より巨大な図書館は、珍しく住民を不在としていた。
魔理沙は仕方なく、その住民——パチュリー・ノーレッジの机へと向かう。パチュリーの椅子に座って待ったらどんな反応をするのだろうという、ささやかな遊び心からだった。
パチュリーの机に近付くと、見慣れない一冊の本が置かれている事に気付いた。
「パチュリー・ノーレッジ 作・パチュリー・ノーレッジ……?なんだこれ」
表紙には金文字でタイトルと著者名が書かれていた。それはどちらもパチュリーの名前。
魔理沙は胸の奥から好奇心が湧き出てくるのを感じた。抗えず、その本に手を伸ばす。
指でページを捲る。
その瞬間、本の上に映像が現れた。
……図書館。
いつもの、ここにあるはずの光景。だが、視点が高い。まるで鳥になって俯瞰しているみたいだ。
そこにはパチュリーが座っている。静かに本のページを捲るその手、淡い唇の動きまで、まるで現実のようにくっきりと見える。
「……なんだ、これ……?」
「——ああ、それに触ったのね」
後ろから、実物のパチュリーの声。
振り向けば、同じ姿の彼女が現実に立っていた。
「それ、私に起こった出来事を本にしたものよ。読もうと思えば、映像のように再生される」
「へぇ……自分の記憶を本に、か。便利なもんだな」
「日記代わりよ。文章にするより早いし、抜け落ちがないから。寝てる最中の事も記録できる優れもの」
パチュリーはつまらなそうに言う。魔理沙には驚きの魔法だったが、パチュリーには当たり前のようだ。改めて、先輩魔法使いの知識と実力を思い知らされる。
魔理沙は再び記憶の映像を見つめる。
そこではパチュリーが本を読み、メモを取り、時折くしゃみをする。ページを捲っても捲っても、その繰り返し。まるで止まった時計の針のように、変化のない日々。
「……つまんねぇな」
「あなたの趣味には合わないでしょうね」
パチュリーは、変わらず静かな眼差しで言う。
魔理沙は本を閉じ、他に面白そうなものでも無いかと周りを見渡す。
が、すぐにまた視線を本に戻した。面白い事を、思い付いてしまった。
「なぁ、その魔法、教えてくれよ」
「……痴呆が始まるのが早いのね」
「老後の備えをするのは早い方がいいだろ?」
パチュリーはため息をついた。そこには、呆れと僅かな嘲笑が含まれていた。
幼い魔法使いの真意など、お見通しという様に。
「……いいわ。但し、責任は自分で取りなさい」
◇
「なぁアリス、今日泊まっていってもいいか?」
アリスの家で夕食を共にしながら、魔理沙はアリスに窺いを立てる。努めて自然に振る舞う。決して真意が悟られぬように。
「まぁ、別にいいけど」
アリスの返答を得て、魔理沙は心が躍る。内心ではガッツポーズを決めるが、表面上は平静を装う。作戦は順調だ。
——そこへ。
「口の周り、ケチャップ付いてる」
アリスが身を乗り出し、ナプキンで魔理沙の口を拭う。
アリスの顔が至近になって、魔理沙は思わずカッと顔が赤くなるのを感じる。
「わ、私は子供じゃないぜ……」
アリスを直視出来ずに、視線を逸らした。そして、その先にある鏡を見て、ギョッとした。
——私、こんなうっとりした目してるのか!?
そこには、恋する少女そのものの、破顔した姿が映っていた。
砂糖細工のように甘く可愛らしい自分の姿も直視出来ず、魔理沙はぐるぐると目を回した。
◇
やがて時が満ち、月明かりが白い花のように、アリスの部屋を照らしていた。
アリスは寝台に静かに横たわり、薄いシーツ越しに肩がかすかに上下している。
その傍ら、魔理沙はアリスを見下ろすように立っていた。魔理沙がアリスの家に押しかけ、そのまま泊まり込んでいたのには理由があった。
アリスの静かな寝息を確認して、魔理沙は覚えたばかりの魔法を発動させる。
その目には、幼い好奇心と悪戯心。
アリスは過去を語ろうとしない。訊いてもいつも、適当にはぐらかされてしまう。
だから、ちょっとくらい、覗いてやろうと思った。
「こうやって、と」
眠るアリスの上で、魔法陣が展開される。
黄色く輝くその魔法陣から、分厚い本がすぅっと出現し、宙に浮かぶ。
直後、白紙のページが開かれ、細い光が紙を走る。見えないペンに自動で記されていくように、淡い文字が紙に浮かび上がっていく。紙が文字で満たされると、次のページが捲られ、また光が走る。
やがて、一冊の本が完成し、魔理沙の手に収まった。
《アリス・マーガトロイド 作・アリス・マーガトロイド》
手の中の本の重みに、魔理沙は思わず息を呑む。
ほんの悪戯のつもりだったが、本当に見てしまって良いのかという疑念が一瞬、頭を掠める。
しかし、押し寄せる好奇心には勝てなかった。
適当にページを開く。
——そこは陽の差す草原。
遠い過去か、幻想郷では無い何処か。いずれにせよ、見慣れない場所だった。
アリスは今より少しだけ幼なく見え、にこやかに笑っている。
幸せに満ちた、柔らかな表情。魔理沙もたまにしか見る事の叶わない笑顔が、満面に咲き誇っていた。
その向かいには、別の少女。
背中まで伸びた、透けるような金髪。頭には大きな赤いリボンを付けて、深い海のような碧い瞳が輝いている。
初めて見たはずの少女は……どこか見覚えがあった。
そう、それはまるで——上海人形。
魔理沙は、鉛が押し込まれたように、胃が重くなるのを感じた。
「何、してるの?」
突如、背後から声が響き、魔理沙は現実に引き戻される。
振り向くと、ベッドの上でアリスが目を擦りながら、こちらを覗いていた。
背中に冷たいものが流れるのを感じる。
「何か見てるの?」
「いや、これは、その」
ベッドから降りて向かってくるアリス。
魔理沙は本を後ろに隠して何とか誤魔化そうとするが、アリスはその魔理沙の肩越しに、本を覗き込む。
そして、覗き込んだまま、静止する。
すぐに魔理沙の行いを理解したようで、表情が強張る。
「アリス、これは——」
「……どういう事?」
「ち、違——」
「違わない!」
アリスの鋭い叫びが、部屋中に響いた。魔理沙がこれまで聞いた事も無いような、心の底からの怒りを孕んだ声だった。
普段あまり感情を表に出さないアリスが、頬を紅潮させ、肩を振るわせている。
「出ていって」
重く、冷たく、言い放つ。
「アリス、これは——」
「出ていって!」
アリスは激昂する。アリスの周りにはランスを手にした上海人形が浮遊し、魔理沙を睨み付けている。
——本気だ。
魔理沙は戦慄し、後退りしながら、恐る恐る手探りで扉を開き、外に出る。そしてそっと、扉を閉じた。
外の空気を感じた魔理沙は扉の前にへたり込み、空を見上げた。手のひらは冷や汗でびっしょりだった。
冷たい夜風が頬を刺し、胸の奥が焼けるように痛い。
「……私が悪い。分かってるさ」
記憶を勝手に覗いたのだから、言い訳の余地は無い。しかもそれは、おそらく最も見られたくない類のものだったはず。
本当は、すぐに手を付き、床に額を擦り付け、アリスの気持ちが収まるまで謝り続けるべきだったのかもしれない。
しかし、魔理沙にはそれが出来なかった。
つい先程、魔理沙にランスを突き付けた、上海人形。その姿が、記憶の中でアリスと微笑み合う少女と重なる。
アリスと少女は恐らく、恋人同士だった。
しかし、その少女はもういない。
そして、その少女を模したような人形。
アリスがかつて語った夢が、頭に響く。
「……自立人形を作るって、そういう事かよ」
燃えるような嫉妬心が、罪悪感すら焼き尽くす。
理不尽な事は、自分でも分かっている。
それでも、どうしようも無かった。
怒りと惨めさが魔理沙の胸深くに渦巻いていて、ズキズキと痛んだ。
◇
それから数日、魔理沙はアリスに会わないまま、無為に時を過ごしていた。
何の気力も湧かず、ただ命を浪費するだけの日々。何を考えてもアリスとの事に行きつき、その度に醜い嫉妬心を自覚させられる。
側から見たら平穏ながら、魔理沙に取っては拷問の様な日々だった。他責と自己嫌悪を繰り返し、深い沼にハマっていく。完全に身動きが取れなくなっていた。
しかしそれでも、幻想郷の時は流れていく。
証拠に、全ての水が血のように赤く染まっていた。
「異変……か」
魔理沙は掬い取った井戸の水を眺めて呟く。
空から見渡してみたら、湖も川も等しく赤く染まり、さながら地獄のような情景を成していた。
霊夢はもう、動いているだろうか。親友の事を思い浮かべる。ほんの少しだけ、救われたような気分になった。
けれど、またすぐにアリスの顔が浮かんでくる。
「誘って、一緒に行けば……なんてな」
協力して異変を解決して大団円、なんて都合の良い夢物語だ。
現実は、その遥か手前に障害がある。協力して異変に立ち向かえるなら、その時点で問題は概ね解消されているようなものだ。
どうするべきか逡巡している最中、遠い空で火花が散った。その鮮やかな紅い光には、よく見覚えがあった。
「霊夢、か」
魔理沙は呟いて、箒を取りに自室に戻った。
◇
湖の上。
紅い空気が風に舞い、紙垂が小さく鳴る。
「やあ、霊夢」
「あんたも来たのね」
魔理沙が声を掛けると、霊夢は振り返り、のんびりとした返事をした。今日はよく冷えるから、赤いマフラーを首に巻いている。
安心感のある呑気な口調。けれど、今の魔理沙が求めているものはそれじゃない。
「これ、お前の仕業だろ」
「はぁ?何言って——」
呆れた顔の霊夢が言い終える前に、魔理沙は八卦炉を構え、閃光を放つ。
無論、異変の首謀者が霊夢で無い事など分かっている。
ただ無性に、叩きのめされたかった。
ボロボロにされれば、負の感情も一緒に吹き飛んで、スッキリ出来るような気がしていた。
都合の良い罰を、霊夢に求めていた。
霊夢は閃光をひらりと躱し、ため息を吐く。そっと札を構える。
空気が揺れる。光弾が咲き、風が泣く。
霊夢の美麗な弾幕が展開される。
それを躱しながら放つ魔理沙の弾幕は、滅茶苦茶だった。
元より勝つ気もない。半ば自棄の弾幕。駄々っ子のように喚き、ただ力任せに闇雲に撃ちまくる。
「私は負けない……誰にも……!」
幼子の落書きのようなアンバランスな弾幕は霊夢には届かない。
対する霊夢の弾幕は、美しく、優しかった。
魔理沙を包み込むように展開され、行動の自由を奪っていく。
気づけば魔理沙は弾幕に囲まれ、身動きが取れなくなっていた。
やがて紅い札が、ぴとりと優しく魔理沙に触れた。
——完敗だった。
その気になれば、撃ち落とす事も容易だっただろう。
しかし霊夢はそれをせず、敢えて魔理沙を傷付けない勝ち方をした。
叩きのめされる為に遮二無二挑んだ魔理沙に対し、霊夢は宥めるように戦った。
本気では無かったとはいえ、軽くあしらわれたのだ。
——いったい、どれだけの実力差があるのだろか。
膝が折れ、湖の畔に手をつく。
打ちのめされて霧散するはずだった感情は、今も胸の中でぐるぐると渦巻いてる。
そんな魔理沙に霊夢が近付く。魔理沙が見上げると、霊夢は自分のマフラーを外し、そっと魔理沙の首に巻いた。
「風邪、引かないようにね」
それだけ言って、霊夢は飛び去っていった。
魔理沙は霊夢の姿が見えなくなるまで、その空を見上げていた。
霊夢の姿が消えて暫くして、魔理沙はマフラーの端をぎゅっと掴む。
マフラーを借りたという事は、返す必要がある。つまりこれは、「また遊びに来なさい」という霊夢からのメッセージ。
魔理沙は唇を強く噛んだ。
——霊夢は。
私の身勝手な我儘を受け入れてくれて。
私の力尽くの弾幕は全て受け流して。
私に怪我させないように手加減して。
私がまた会いにいけるように配慮して。
あまりに、優し過ぎる。
そして同時に沸々と湧き上がってくる、あの感情。
「またお前か」
魔理沙は苦笑する。
霊夢に対する嫉妬心が、素直な感謝の気持ちすら焼き尽くす。
ありがとう、なんて到底思えなかった。嫉妬に塗れた悪態だけが、胸に溢れる。
——私は、与えられた優しさを受け入れる事すらもできない。
なんて、浅ましい事だろうか。
「ちくしょうぅ……ちくしょうぅぅ……!」
地面に膝を付いたまま、魔理沙は大声を上げて泣き崩れた。
◇
魔理沙が泣き止んでから、夜の湖は沈黙を保っていた。
風が梢を渡り、濁った水面をかすかに揺らす。
その血のような赤が、今の魔理沙には妙に馴染んだ。
魔理沙は地に伏し、頬を湿らせたまま動けずにいた。
燃えるような嫉妬心は漸く落ち着いてきたが、胸の奥は焼けるように熱い。それは火傷のようにじんじんと、胸を痛め付けた。
堪らずに目を閉じると、色々な情景が浮かんでくる。
実家の道具屋、香霖、霊夢、そしてアリス。
思ってみれば、私はなんと恵まれている事だろうか。
裕福な家庭に生まれ、世話を焼いてくれる恩人、優しい親友、愛しい相手に恵まれた。
常に幸福が与えられてきた。
それなのに、足りない物を求め、嫉妬ばかりしている。
嫉妬心が燃やした焼け野原には、自己嫌悪だけが残った。
「私は幸せ……だよな?」
——なのにどうして、私はこんなにも惨めなのだろう。
実家は捨てた。
アリスは傷つけた。
霊夢にも八つ当たりをした。
それでも、私は無傷でここにいる。
まるで、幸せという檻に閉じ込められた獣のようだ。与えられた幸福に、飼い殺される。
罪を犯しても犯しても、罰して貰えない。
許されるという事が、ただ恐ろしかった。
罰を受けたい。
そう願う自分が、可笑しくて笑ってしまう。
いっその事、この身を赤い湖に投げ打ってしまおうかとも思った。
けれど、それもできない。
自分に向けられた優しさが、それを許さない。
魔理沙はどこまでも幸せで、不自由だった。
◇
やがて、夜が明けた。
湿った空気の中、魔理沙は白い息を吐きながら歩いていた。
一晩突っ伏して思い悩んだ魔理沙が出した結論は、アリスに謝って、罰を受け入れる事だった。
喧嘩の落とし所としては当然の帰着といえるが、魔理沙がそこに行き着くのには相応の時間が必要だった。
それでも、まだ綺麗に割り切れてはいない。
この期に及んで、上海人形と同じ顔をした少女がチラつき、そんな自分が心底嫌になっていた。
霊夢に巻かれたマフラーの端が風に揺られて、頬に触れる。湿気を含んだそれはぴたりと貼り付いて、少し気持ちが悪かった。
森の中を進み、開けた場所に出る。そこには見慣れた白い屋根。
アリスの家。
窓に灯りがともっている。もう起きているのかもしれない。
胸の奥で、焦げるような感情が渦を巻く。
胸に手を当て、呼吸を整えながら、扉の前に立つ。
手がぶるぶると震える。
ノックをしようとして、やめた。
今の自分は、掛ける言葉を持ち合わせていない。
踵を返して立ち去ろうとすると、後ろからよく知った声がした。
「魔理沙……?」
一瞬、時間が止まった。
胸の奥で、心臓が小さく跳ねる。
アリスがそこにいる。
ただ、それだけの事実が、全てを揺らがせた。
恐る恐る振り返ると、いつも通りのアリスの姿があった。
その表情からは、強い怒りも、優しさも感じる事が出来ない。
「アリス」
魔理沙は何を言おうか迷って、金魚みたいに口をパクパクさせた挙句、ただただ名前を呼んだ。
「ごめん」では足らな過ぎるし、数多の言葉を並べたら、その内に嫉妬心が再発してしまいそうだった。
「酷い顔ね」
ふと、アリスが笑った。
魔理沙も釣られて笑う。結果的に、一晩中寝れずに思い悩んだ甲斐があった気になる。
「アリス。私——」
「弾幕ごっこしましょう」
魔理沙の言葉を遮ったそれは、短い宣戦布告だった。
背後で人形たちが音もなく浮か上がる。
森の空気が、ビリビリと震えた。
アリスの目に、静かな怒りが宿った事を見て、魔理沙は息を呑む。そして、同時に。
——良かった。私はまだ、許されていない。
静かに、安堵した。
夜明けの薄明。
白んだ霧の中で、弾幕が咲く。
魔理沙も今回は本気だ。対霊夢のような生半可では、アリスは許してくれないだろう。
二人の戦いは、花火のように鮮やかに燃え盛った。
魔理沙とアリスは、まるで踊るように舞う。
互いの癖も、間合いも、すべてを知っている。
弾幕が軌跡を描き、人形が宙を舞う。
攻撃と防御の境界は曖昧で、心と心が擦れ合うようだった。
やがて形勢は、徐々に傾いていく。
罰せられたい想いとは裏腹に、魔理沙は優位を広げていた。
弾幕を躱す事で手一杯になるアリスの背後を、魔理沙が捉える。
「アリス!」
叫びながら、魔理沙は八卦炉を構える。
光が迸り、魔力が指先を焼く。
——マスタースパーク。
放とうとした、その瞬間。
視界の端を、ひとつの影が掠めた。
碧い瞳。金の髪。
突撃してきたのは、上海人形。
時間が凍る。
アリスの記憶の中で微笑んでいた少女。
その瞳が、上海人形と重なった。
そしてそれは、魔理沙自身がよく知っている瞳でもあった。
「……っ」
手が震え、光が霧散する。
弾幕がほどけ、静寂が戻る。
魔理沙は、地に落ちた。
◇
「魔理沙!」
駆け寄る足音。
その声が、遠くで揺れている。
最後の瞬間、魔理沙はマスタースパークを放つ事が出来なかった。
突撃してくる上海人形が記憶の中の少女と重なった。そしてその少女の瞳は、アリスの家で見た、鏡の中の自分の瞳ともぴったり重なって見えた。
——恋する少女の瞳。
どうしても、撃ち抜く事が出来なかった。
魔理沙は微かに笑う。
「……ごめん」
結局、それしか言葉が見つからなかった。
不器用な思いを、その一言に詰め込むしかなかった。
アリスは唇を噛み、視線を落とす。
そして小さく、溜息を吐いた。
「……いいわ」
横たわる魔理沙にアリスは手を貸し、二人は寄り添うように歩き出す。
◇
部屋に戻ると、机の上に作りかけの人形があった。
黒い帽子。星の刺繍。
霧雨魔理沙の人形。
魔理沙は、その人形に目を落とす。
もし自分がいなくなれば、この小さな人形がアリスの隣に残るのだろう。
そう思うと、心が穏やかになった。
私はどうしようも無く、不完全だ。
醜い嫉妬心に焼かれ、幸せを受け入れられず、罰ばかり欲する。
アリスの中で永遠になる為には、私は人間のまま死んで、人形になった方が良い。
アリスと一緒に永遠を生きられないのも、私には丁度良い罰だろう。
後は人形が引き継いでくれるのなら、せめて人間の一生分くらいは、この嫉妬心とも付き合って生きていこうとも思えた。
◇
そしてまた夜が来て、アリスはそっと灯りを落とした。
隣の魔理沙は既に寝入っていて、静かに寝息を立てている。
互いの呼吸だけが、確かにそこにあった。
アリスは、無防備な姿を見せる愛しい存在を見下ろす。
私はやはり、魔理沙を許せない。
けれど、失いたくもない。
嫌われたく無い。
同時に、嫌いにもなりたく無い。
「ねぇ、魔理沙」
静かに眠る魔理沙の髪をそっと撫でる。
金色の髪が、月光に照らされて輝く。
かつての恋人と同じ、美しい色。
願わくば、この子にもその恋人と同じ道を辿って欲しい。
「人間のまま、死んで?」
そうすれば、永遠だから。
嫌なところがあっても、人間の一生分くらいなら、目を瞑っていられるから。
月明かりに包まれながら、二人の願いはようやくぴたりと重なった。
◆
パタン、と本を閉じ、パチュリー・ノーレッジは懐かしさに胸がじんわりと暖かくなるのを感じた。
やはり、本は良い。自分のものでは無い経験を味わう事が出来る。
パチュリーは指先に魔力を込める。読んでいた本が、ふわりと浮かび、本棚の収まるべき場所へ戻っていく。
作者欄《き》の欄に、すっと収納されたその背表紙には、金色の文字が躍る。
《霧雨魔理沙 作・霧雨魔理沙》
このお話の落としどころとして、あくまでアリスが「許す」とは言わないのが
いい締め方だったように思います。
好奇心でついやっちゃった魔理沙とそれを取り巻く人たちの大人な対応が素晴らしかったです
そしてパチュリーはどうしようもなくパチュリーでした
読み誤っていたらゴメンナサイ